日本人の政治的幼稚さが国を亡ぼす。



現在の日本は、民族の二つの政治的幼稚さで苦境に陥っている。その二つの政治的幼稚さとは、
1.戦後の原水爆実験禁止運動。
私は原水爆禁止運動に条件付きで賛成でした。その条件つきとは日本人各家庭に核シェルターを備えるよう政府に要求することでした。日本が核兵器を持たないのなら、二度と日本人が原水爆の被害を会わないように核シェルターを備えるのが当然だからです。ところが原水爆実験禁止運動に積極的な参加者も一般国民も、各家庭や団体向けの核シェルターにも関心を示さなかった。現在北朝鮮が大陸弾道弾テストや核実験テストをやると、万一日本列島を飛び越える時、事故でもあったらと子供たちは防空ズキンをかぶらせて避難しているのだ。まるで空襲警報の練習だ。現在世界で国民の100パーセントを核シェルターに収容できる国が二つあります。スイスとイスラエルです。両国とも原爆を投下された経験はありません。経験のある日本の核シェルター普及率0,02%に過ぎない。核シェルターなどなにもないのも同然。あまりにも幼稚な民族の姿ではないでしょうか?

2.独立回復後70年以上続くアメリカへの徹底した依存度。
独立回復後、GHQ憲法を廃棄し、新憲法制定して独立回復国として日米同盟堅持しながら正真正銘の独立国としての道を歩めばいいものを、GHQ憲法をそのまま維持し続け、なにもかもアメリカに依存し続け、戦後ほぼ70年アメリカが助けてくれるだろうの意識ばかりが日本の政治家も国民にも浸透し、危機意識などなにもないも同然。日本民族は独立国家としての気概もなければ、国防を充実して備えようともしない、ただ8月15日になるとやたらと「戦争はしてはいけない」と繰り返すだけ、国の備えなどもっと強力にしなければならないなどと考えもしないのだ。世界の独立国はどこでも、自分の国土が一部でも失うものなら、又自分の国の国民が強制拉致され強制労働させられたら、物凄く敏感に反応するのが普通です。ところが日本では戦後70年間アメリカに守られていたせいか、全く鈍感で愛国心もないのだ。日本の愛国心とは国際スポーツで本国日本を応援するのが愛国心だと思っているのがほとんどです。日本が戦争になったら国のために戦う若者の率は、外国に比べて極端に低い。それどころか日本をどうしようもない悪い国にしたり、外国に占領された方が日本は良い国なると思っている気の狂った日本人が多すぎます。領土という外交問題についていかに日本が何も具体策をとってこなかったかを列挙します。

(1).竹島問題
1952年韓国は李承晩ラインを設定し、その内側にある竹島を韓国固有の領土とし、1954年から韓国の警備隊が常駐し、いまだに実行支配している。日本政府は自国の領土と主張しているが何もしない。島根県は「竹島の日」を設けて行事化しているだけ。安倍総理は「竹島の日」は政府の主催にすると言ったがなにもしていない。国際司法裁判所で戦おうともしないのだ。もう63年間も韓国に実効支配されたまま、日本は竹島を失ったも同然。国民はただ茫然とし眺めているだけ。韓国旅行には平然と大挙して出かけるのだ。
2、北朝鮮の拉致問題
1970年頃から1980年頃にかけて日本人拉致が多発。現在日本政府公認の拉致被害者は17名。2002年9月北朝鮮は日本人の強制拉致を認めた。その後何も進展なし。
3.北朝鮮の核実験と長距離弾道弾ミサイルの連続発射の強行。
日米軍事同盟は、アメリカが主、日本が従の主従同盟だから、日本は何もできない、またその軍事力もない。いま日本が一番しなければならないことは、日米軍事同盟を対等同盟にすることと日本の軍事力強化です。これによって初めて拉致被害者の救出作戦。核実験基地、弾道弾発射基地を空爆できるのです。日本は独立国だがもう怖がって、またアメリカにも気を使って、本格的な軍事力増強(核兵器も含む)ができないのではないか。上記救出作戦、実験基地空爆はいつまで手付かずのまま続くのだろうか。
4.北方四島
日本は北方四島の返還をロシアと交渉したことがない。プーチンは北方四島を返すとも一度も言ったことはありません。それどころ北方四島の軍事基地化を進めています。それに今度は対北朝鮮への国際的制裁に積極的に協力しようともしないなだ。それなのに何故日ロ経済協力協定をことさら進めようとするのかわかりません。安倍総理は、お坊ちゃま育ちだからプーチンと何十回も合って自分の誠心誠意を示せば、プーチンは分かってくれると思っているのだ。政治がからむと日本人の誠心誠意など外国人には通じないのもわからないのだ。安倍総理はプーチンと会談したのが19回目、それなのにロシア強行姿勢が目立つばかり。日ロ経済協力協定の突然の日本側キャンセルは、外交的波紋をよぶから、のらりくらり交渉を続け立ち消えにしてしまうのが一番良い。
5.尖閣諸島
日本の領土なのに1970年代からシナと台湾が領有権主張。それまで尖閣諸島は、日本人個人の所有領土だったが、5年前意に日本政府が買い上げて国有化した。以後シナ船の領海侵犯が絶えず続いている。なぜ日本政府は、尖閣諸島に自衛隊の基地を設けないのか。軍事力強化は、お金の問題だが、尖閣諸島に自衛隊の基地をつくるは、「やる」か「やらないか」の意志の問題でしょう。安倍総理はシナとの衝突をこわがっているのだ。いま何もしなければ、尖閣諸島は竹島の二の舞になります。
6.北海道、佐渡島、新潟市、対馬、五島列島等の危機。
現在私は、日本国民が絶対に読まなければない必読の書は、今年7月10日kadokawaから出版された宮本雅史著「爆買いされる日本の領土」。特に北海道はシナの32番目の省になるといわれるほどの危機感なのだ。なぜ日本の領土は爆買いされるのか。理由は簡単。諸外国では当たり前のごとくある外国人の土地買い規制が日本にはないのだ。日本人はシナの土地を買えないが、シナ人は自由に買えて犯罪にもならない。メディアは、加計や籠池には膨大な時間をかけて報道するが、日本領土の爆買いには一切関心をしめさない。
7.いつになったら日本にスパイ防止法が施行されるのか?
この重要な問題であるスパイ防止法がいつ制定されるのかもわからない。政治もメディアもこれをわざと触れないようにしていると私は判断しています。何か得体の知れないものが国会内とメディア界に浸透しているのでしょう。

上記の難しい外交問題を解決するには、日米軍事同盟を堅守だが日米を対等な関係にすること、日本の軍事力を強化することです。私は安倍さんならこれができると思った。なにしろ当時の安倍さんはかっこよかった。一自民党議員時代は、「つくる会」が四面楚歌のような状態の時、安倍さんは積極的に「つくる会」を支持してくれたのだ。総理になった時もかっこいいことを言ってくれた。「戦後レジームからの脱却」、「河野、村山談話を見直す」、「竹島の日は国が主催する」、「憲法改正」、等々、立派なことを言ってくれたのだ。私が安陪さんから目をさまされたのは「70年談話」です。もう安倍さんではダメだと思った。しかし安倍さんの後に継ぐ人がいないから、安倍さんを信じてついていくほかはないのではないかと一時的に思ったこともあった。しかし現在では私は反安倍派です。8月18日付けの産経新聞の西尾幹二氏の記事、週刊ポストの9月8日号の西尾氏との談話記事、私はこの両記事の内容には同意同感です。
私はなぜ西尾幹二氏の意見を尊重するか。皆さん、戦前戦後を通じて、日本の保守知識人の特徴は何だと思いますか。それは日本では権力から独立した知識人は、極端に少ないことです。これは日本の悲劇です。むしろ、権力によって認められてこそ知識人というか、そのことを望み喜ぶ知識人が昔からの主流なのです。それだけに権力から独立した知識人は、自分のことより国家にとって大事かどうかを優先します。それだけに権力から独立した保守知識人、西尾幹二氏の意見は貴重なのです。

そこで両記事(産経新聞、週刊ポスト)では西尾氏が書いてもいなければ、話してもいないことをここに書きます。安倍さんの後釜がいないそうだが、ではどうすればよいか?
アメリカ大統領選挙のとき、私のブログでアメリカ国民にトランプを大統領に当選させるな、クリントンを当選させろと書いた。クリントンが素晴らしい政治家だからではない。クリントンなら今後4年間の政治姿勢が大体予想できるし、少なくとも4年間は可もなし、不可もなしの業績で次期大統領に引き継ぎができる。しかしトランプ大統領では何をするか、突拍子もないことしでかすか世界でもアメリカ国内でも不安だ。クリントン大統領の4年の間に共和党に素晴らしい候補を誕生させたらどうかというようなおこがましいブログを書いたことがある。
安倍さんの後釜いなくても、自民党の議員だったら可も無し不可もなしの者を首相を選び、その間に保守言論界がそれこそ西尾幹二氏が産経新聞に書いてあるように「民族の生存賭けた政治論議を」して、それこそアメリカのポチと言われるようなアメリカに盲従する日本から脱却して真の独立国として行動できるような政治家を育てようではないですか。
ここで注意しなければならないのは、私たちは集団主義社会だからすぐ「仲良しクラブ」を作ってしまうことです。すなわち同じ意見同志の者が集まり違う意見を排除してしまうことです。育鵬社設立された頃、私は反育鵬社のブログを幾つか書いて、いつも当然の如く転送していた「南木クラブ」や「百人の会」から「えんだんじのブログ」は送ってくれるなの指示がきた。私は自分のブログを頭さげて読んでくださいなどの気はもうとうないので、それ以来「えんだんじのブログ」は転送していません。こういう「仲良しクラブ」に陥っちゃだめです。私が「つくる会」がいいと思うのは、「つくる会」には色々な思想信条の人がいます。いっけん左翼じゃないかと思う人もいます。それでも「つくる会」の教科書を国内に浸透させようと皆一致しているのです。
安倍さんの後釜いないと言うことは、私がこのブログのタイトルに書いた日本民族の幼稚化が極度に達したせいと考えています。日米軍事同盟は大事です。しかしアメリカのポチとして盲従70年はもうやめましょう。奴隷的独立国家ではなく、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」とはっきり言えるような対等な独立国家を求める政治家を保守言論界一致して育て上げようではありませんか。難しいかもしれません。しかしそうでもしないと日本の明日はありません。


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文庫本売り出し、幸先良いスタート



私の最新の新著、文庫本「戦後昭和の女性たち」が9月1日から売り出されました。出版社、文芸社は、広告として「戦後昭和の女性たち」含む文芸社作品14冊を日本最大級の書籍情報サイト、ブック・アサヒ・コムを利用しています。
まずブック・アサヒ・コムをクリックしてください。次に(文芸社おすすめの一冊)をクリックしてください。14冊の本の表紙カバーが現れます。その表紙カバー「戦後昭和の女性たち」からアマゾンに発注できます。表紙カバーそのものをクリックすると、著者プロフィール、著作集がならび、その後が「えんだんじのブログ」です。そこをクリックするとブログに直結できます。この広告は9月1日から30日までの一か月間です。
文芸社からの報告によりますと、発売日の9月1日には、都内、千葉、神奈川のネット店、本屋さん、合計5店から計30冊の注文があったとのことです。ほかの著者にとっては当たり前のようなことかもしれませんが、今度の本は私の9冊目の本です。これまでこういう経験したことありません。特に前回の作品、「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」も文芸社作品ですが、売り出し日に注文があったなど聞いていません。それだけに今回のニュースは、「売り出し日に幸先良いスタート」して心中密かに期待しております。

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「戦後昭和の女性たち」、9月1日発売開始



「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版「The USA is responsible for The Pacific War」
を世界中に、いや少なくともアメリカ中に売り込みたい。そのために英文版を大量発注する資金を稼ぐためのベストセラー作品を作り出そうと売りだしたのがちょうど2年前、2015年の9月に文芸社から出版したのが「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」。
この本は私の波乱万丈の一生を描いた自伝的小説だが、私によれば本が立派過ぎたのだ。B6版のハードカバー、ページ数363頁、値段1,600円+税。私あてに個人的に書評を書いてくれた人たちは皆絶賛してくれたが、やはり何といっても私は無名人。もっと簡単に手に入りやすい本にしなければ思い、新しい本を文芸社から文庫本を出すことにしました。本の題材ももっと受け入れやすい物にしなければと思い書いた本のタイトルは、「戦後昭和の女性たち」、八つの女性短編小説をまとめたもので、ページ数243頁、値段700円+税。これなら持ち運びに便利で、しかも本の内容が思想信条に関係ないから読みやすいのが特徴です。

これまで私の著作は、男性読者中心だった。ぜひ今度は女性読者層を引き込みたい。それによって売り上げ部数を伸ばしたい意向もあった。ある時ある人から言われました。「戦後昭和の女性たち」ではまるで論文のタイトルみたいで、女性短編小説集ならもっとセンスの良いタイトルがあるのではないかと忠告された。「戦後昭和の女性たち」以外のタイトルを考え出せなかった理由を示すには、この本の目次を見てもらわなければなりません。目次は、
一。綾子の無念さ
二。幸子の試練
三。つばめとお松
四。愛人関係契約書
五。春江とさやかの生き様
六。栄子の帰郷
七。佳代子の心変わり
八。天国での女性体験
この本はこの八つの短編小説で10人の女性の生き様を描いております。一人か二人の女性の生き様を描いた小説なら、一人か二人に凝縮した素敵なタイトルが浮かぶかもしれませんが、10人の女性を平等に扱わねばなりません。その10人を凝縮した素敵なタイトルを決めるのはむずかしかったので「戦後昭和の女性たち」に決めました。10人の女性たちと同時に10人の男性たちも登場します。この10人たちの男性のなかに私も登場しますが、私が他の男性を描く場合、どうしても自分に似てくるのです。私の筆力不足もあるのでしょう。それでも一つ、一つの短編小説が生き生きと描かれていれば問題ないのですが、皆さんが読んでいてどう思うかどうか不安なところもあります。

私は「つくる会」初めいくつかの保守の会に所属していますが、皆さん、非常にまじめな方が多い。政治、歴史、経済、教科書問題等々、難しい話を一年365日話続けてもあきることがないようです。私はその奥様方に同情いたします。「戦後昭和の女性たち」を読んで、たまには若いころ、二人でデイトしたころを思い出して話合うのもいいのではないでしょうか。
本の内容もさることながら、私にはもう一つ心配な点があった。本のカバーデザインをどう思ってもらえるかです。私は文芸社に昭和の娯楽の殿堂と言えば日劇だから、夜の日劇を明るく照らし、その前を二、三人ぐらいの若い女性たちが歩いているような写真風景を求めた。文芸社は早速探したが、見つからず、夜の日劇から銀座方面を映した写真、とそのほかの写真を見せてくれた。その中から私が選んだカバーデザインが現在使用しているものです。私はこのカバーデザインをすごく気に入っています。しかし老人の少女趣味だと言う人もいれば、私の精神的若々しさ出ていていいという人もいれば、私の女房みたいにこれだと女性読者層だけしか読まないのではと心配という人もいます。皆さんはこの本のカバーデザインどう思われますか。

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79歳の誕生日を迎えて



この8月1日で私は満79歳の誕生日を迎えた。私の波乱万丈な人生を振り返ると三つの特徴がある。両親の病気、外資系、一匹狼。この三つのうち今回は、両親の病気について語ります。敗戦になって多くの軍人たちが自宅に帰ってきてからが本格的な生活苦が始まった。我が家はもっとひどく最悪な生活だった。父は戦争直前に結核になった。結核が初期だったため満足な治療もせず病状悪化、お蔭で軍人に取られることはなかったが戦後即入院だった。私が小学2年のころです。他の家庭では戦地から帰国した父親は、働きにでるが、いくら賃金がやすくてもお金は入る。ところが我が家は、父親は働けないからお金が全くはいらない、その上病気の治療費を払わなければならない。お金の工面はどうしたか。父親の実家です。実家は富山県の地主だった。しかし戦後すぐ農地改革があって、大地主は小作農より多少裕福だったが、以前より金銭的余裕がなくなっていた。そこえ父が頼み込んでなんとか助けてもらった。父の実家の援助がなかったら母は三人の子供を育てるためにパンスケになっていただろう。その頃住んでいた横須賀は、パンスケの街だった。
父は右肺だか左肺を切除して治癒。日本鋼管に復帰した。首にならなかったのは、日本鋼管が大会社だったからだろう。
父が仕事に復帰して10年ぐらいたっただろうか、私が高校に入学するころ、父は、今度は腎臓結核を患ってしまった。この時きちんとした治療しておけば完治していたでしょう。しかし治療にはお金がかかる、それではいつまでも生活が向上しない。父は現代医学を拒否する新興信仰、メシア教に走った。一旦決めたら梃子でも動かぬ信念を持つ父親は、母の忠告も全く聞かずメシア教を祈りつづけた。結局二つ腎臓のうち、片方は腐ってしまい、残り腎臓の三分の一全く機能せず、このままでは父は死んでしまうと思い、母は父を騙すようにして病院に担ぎこんだ。5年間ぐらい入院しただろうか。結局三分の一が完全に機能しなくなった腎臓をだまし、だまし使い続けて、出張の時には鞄のなかに尿瓶をいれていた。そんな状態のまま定年まで働き78歳で死んだ。
父親がこんな状態だから我が家は、いつも貧乏で私は大学にも行けず、頭は優秀でなく普通のでき、体は頑丈でなく、普通の体。しかししぶとく努力することは得意であったから、自分の人生は長期で勝負、人が5年かかってできることは、俺は10年かけてでもやる。そのためには元気で長生きしてやるしかないと心に決めていた。
ところが私が30代にはいったころ、母親が五十代半ばで胃癌になり、胃の三分の一を切除して退院した。手術後5年間は元気いっぱいで完全治癒したと誰もが思った。だが6,7年後に咽頭癌になった。医者は胃癌の転移でなく新しい癌だと言った。人間は二つ声帯をもっているが、母は癌の為一つの声帯が麻痺してしまい、声量が半減してしまった。治癒しても声帯は元に戻らなかった。その後すぐに今度は大腸癌になった。手術後人口肛門をつけるようになった。その後すぐ小腸癌になった。通常一人の患者が一人で二つも三つもがんを患うのを多重癌と呼んでいた。母は結局四つの癌をわずらい多重癌で、それぞれ大手術をし、71歳の若さで死んだ。これまで私は、人生を長期戦で戦おうときめて実行していた。人が五年かかるところ10年かけてやる。そのための努力は、大いにやってやる気でいた。しかし私も私の二人の妹も父も、また医者も我が家は癌家系と思った。私は常日頃神や仏、いわゆる宗教に関心がない、それどころか時には、神や仏に怒りさえ感じる時がある。それはある特定の人物にこれでもか、これでもかというように苦労を与えるからです。私の母親は戦後三人の子供を育て上げるのにどれだけ苦労したか、長男である私は、その苦労を一番知っている。私は子供の時お正月にお年玉をもらわずに、大人になってしまった。家族でどこかに遊びに行くどころか、どこかに家族で一緒に食べに行くこともなかった。あの苦労に苦労を重ねた母親が中年なったら、次から次への癌に犯された。胃癌治癒後60歳から死ぬ71歳の11年間に三つの癌におかされたのだ。しかも当時は末期癌でも副作用が大きいからと言っていまほどモルヒネを多用に使用しなかったのだ。母がベッドの中で痛い、痛いと嘆くのだ。病院見舞いの帰り、私は悔し涙が出てどうしようもなかた。お袋は何も悪いことはしていない、何故癌に襲われ続けねばならないのか。神や仏を恨んだ。37,8歳のとき、私は自分がいずれ癌に襲われるかもしれないと思い癌と戦うことを決心した。癌の早期発見でやっつける対策だ。生命保険にも入らない私が癌保険に入った。毎年人間ドックに入ることを決め、以来40年間毎年人間ドックに必ず入った。母の病歴を知った医者は、私のドッグ結果を詳細にチェックするせいか、これまでに何度も胃癌、大腸癌、肺癌など再検査をさせられた。
またできるだけ健康な体で癌を早期発見して治そうと考えていたから日頃運動不足にならないよう気をつけてきた。ところが三年半まえ軽い脳梗塞を患い、幸い一週間の入院ですんだ。毎年人間ドックに入っているから脳梗塞の注意など受けたことなかった。私が大病するとしたら胃癌か大腸癌、いわゆる内臓の癌だろうと自分で決めていた。脳梗塞になる注意など受けていなかったせいか脳梗塞は実に軽症だった。わずかに右足をひきずる程度ですんでいる。そして現在79歳の誕生日がきた。
ここで私は初めて癌家系からの解放を宣言した。母には二人に妹がいた。すでに死んでいるが癌では死んではいない。私には二人の妹がいる、二人とも現在70歳以上だ。しかし癌を患ったこともない。私は79歳、癌にわずらったことがない。母親の四つの癌は彼女独自のもので、家系によるものではない。私や妹がいずれ癌になったとしても、それは家系によるものでなく加齢による癌と結論づけたのです。これによって私の終末期の人生が洋々と広がる明るい人生になったのだ。日頃の運動不足を注意していたから私には体力に自信があるのだ。懇親会というパーティーでは最初から終わりまで立ち続けでいられるのだ。自分で講演した時も立ち続けできる。今年と昨年の人間ドックの結果は再検査の必要なしだった。私の癌保険の満期は82歳です。もうこれ以上癌保険かける必要なしと決めた

これからの私の人生の終末期に何をするか。人は大体一つの人生で終わりです。私は欲を出して二つの人生を送ろうと思っています。サラリーマン人生実働40年、61歳で定年退職。以後執筆活動。これまでの18年間の執筆実績は、来月に女性短編小説集を出版します。それを入れて9冊目の出版です。2年ごとに1冊出版したことになります。それに「えんだんじのブログ」が今年11月で10年目を迎えます。この執筆実績は、ちょっとした人気作家なみです。こうなると自慢したくなって、「俺は若い頃から執筆活動していたら、今頃偉大な作家なっていたのではないか?」という気分です。あと20年執筆活動すると99歳になる。100歳まで書き続ければ、サラリーマン人生40年、執筆活動40年の二つの人生をおくったことになる。現在は人生100歳の時代です。途方もない夢ではない。どん底から這い上がってきた男のすごさを見せつけてやると闘志満々の日々を過ごしております。

「おふくろよ、俺が執筆活動をしているとは、全く予想外のことでしょう。俺の人生このままでは終わらないぜ、いずれお袋を主人公にした小説を書きたいと思っている。俺はお袋の分も長生きするからな。よく見ていてくれよ!」



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ガキ大統領トランプ(その2)



トランプ大統領は、またガキ大統領と呼ばれるにふさわしい事をやった。平成29年7月4日付けの産経新聞にこう書いてある。
引用開始
「トランプ大統領は2日、過去にプロレス大会に出場した際の映像を編集し、自身が殴りつけている敵役の頭部に米CNNテレビのロゴを重ねる加工を施した上でツイッターに投稿した。映像はトランプ氏が暴力による言論弾圧を奨励しているようにも受け取れるため、米メディアや野党から『とても大統領のやることとは思えない』と批判の声が噴出している。
28秒間にわたる問題の動画は、世界最大のレスリング団体WWEによる2007年の興行『レッスルマニア23』の映像を使用、リングサイドにトランプ氏が、CNNのロゴで顔が見えないスーツ姿の男性を押し倒して何度も拳で殴り、立ち去る様子が数回にわたり繰り返される。
映像の最後にはCNNならぬ(FNN(詐欺ニュース・ネットワーク)の文字が映し出され、日頃トランプ氏に批判的な報道を展開しているCNNへの意趣返しなのは明らかだ。
CNNは同日、声明を発表し、『本日は、合衆国大統領が記者に対する暴力をけしかけるという悲しむべき日となった』と述べた上で、ロシアのプーチン大統領との初会談や北朝鮮情勢などの懸案をよそに、トランプ氏は『極めて低次元で幼稚な行為に没頭している』と非難した。トランプ氏は6月29日のツイッターでも、MSNBCテレビの朝の報道番組「モーニングーショー」の女性記者(ミカ・ブレジンスキー、筆者挿入)について『知能指数が低く頭がおかしい』『(前に会ったときに)顔のしわ取りの整形手術でひどくて出血していた』。などと罵倒する発言を書きこみ、波紋を広げていた。
トランプ氏は一日に何時間もテレビの視聴に費やし、自身に関する報道を詳しくチェックしているとされ、一連のツイッターでの発言は、メディアの政権批判に対する同氏の苛立ちが異様な形で暴発した結果と言えそうだ。」
引用終了。

私はトランプ大統領がプロレス姿でCNNをこてんぱんに殴りつけるテレビ映像を夕方7時のNHKテレビニュースを見た。翌日この産経新聞を読んだ。このときふと思った、今時アメリカの子供たちにとって、アメリカ大統領は、将来なってみたい人気職業なのだろうか?実は私は外資系5社渡り歩いて40年。そのうちアメリカ系外資で働いたのが28年。だから米国本土からやってくるアメリカ人社員と雑談する機会は非常に多い。その中で今でも記憶に残るのは、あるアメリカ人が「私は、子供のときアメリカの大統領になりたいと思った」と言ったことだ。以来その事が気になって何人かのアメリカ人に雑談の機会にアメリカの子供たちにとってアメリカ大統領は将来なってみたい職業なのか聞いてみた。なにしろ私の世代の子供時代は、日本の総理になるとか、なってみたいと思うのはほとんど皆無だからです。私が驚いたのはアメリカでは、子供たちが大きくなったら大統領なるとか、大統領になりたいと思うひとが多いのだなと言うことでした。それだけ当時はアメリカの子供たちは大統領に対する尊敬の念が強かったのだなとの思いです。これは私が4,50代の頃の話です。
現在のアメリカでは、子供達は、アメリカの大統領になるとか、なりたいと思う子は多いのだろうかとふと疑問に思ったのです。少なくともトランプ大統領では、大統領としてアメリカの子供たちに尊敬の念をアピールさせるものは何もないということ、それどころか子供心にも幻滅を感じさせる点が多いと思います。

ニューズウイーク誌(2017/07/11)では女性報道記者ミカ・ブレジンスキーへの批判は、あまりにもひどい女性差別的発言だとメディアがこの話題で一色になり、その結果トランプにとって不利なほかのニュースがかき消された。その例;
1.オバマケア(オバマ前大統領の医療保険制度改革)代替法案の下院採決が先送りになったと言うニュース。
2.トランプがロシアのプーチン大統領と初会談するニュース。
3.ロシア疑惑関連で辞任したフリン前大統領補佐官(国家安全保障担当)めぐる疑惑。
ニューズウイーク誌は、トランプは、過去の自分の暴言ニュースが自分にとって不都合な報道を書き消しに成功したことを知っている。彼のこれからも暴言戦略が続くだろうとみています。
上記の産経新聞の10日後の7月14日、同じ産経新聞ではトランプ大統領の長男、ドナルド・トランプ・ジュニアがアメリカ映画「トップガン」の一場面を基にしてトランプ大統領が操縦する戦闘機から発射されたミサイルがCNNのロゴが付いた戦闘機に命中し爆発するよう加工された動画を共有アプリの「インスタグラム」に投稿したと報じています。
「この親にしてこの子あり」とはよくいったものだ。これでは、大統領就任6カ月の支持率が36パーセントと戦後70年間の歴代大統領の中で最低なのも当然でしょう。
今後の世界のためにも、日本のためにも、私のブログ「ガキ大統領トランプ」が長いシリーズにならないことを願うばかりです。

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日米の歴史と文化を語る(7)



「日本人とヨーロッパ人の最初の出会い」
鹿児島県の大隅半島の南に種子島があります。現在、種子島と言えば、種子島宇宙センターと言って日本の人工衛星打ち上げの基地と現在の日本人なら誰でも知っています。その種子島に1543年、一艘のポルトガル船が漂着した。その時種子島領主、種子島時尭(ときたか)の配下の武士がポルトガル船員と出会った。出会ったのはいいのですが、双方全く言葉が通じません。ところが幸いにもポルトガル船にシナ人が乗っていた。二人は砂浜に漢字を書いて筆談をはじめた。それで彼らがポルトガル人であることがわかりました。ポルトガル人を観察してびっくりしているものの一つに、彼らが箸を使わずに手で食事をしていることでした。ということはその頃日本の一般家庭では箸を使って食べていたのです。ポルトガルの船員が手で食べていたというのは、船が島に漂着したせいではないかと思ったのですが、なんとヨーロッパの一般庶民は、19世紀に入っても、ほとんどの地域の民衆は日常、手づかみで食べていたのです。木製のスプーンはありましたが、だいたいパンですくって食べ、骨や皮や食べかすは、どんどん床に投げ、そこに犬猫が待ち受けて平らげていたのだ。
ただ各地の王族や貴族の食卓では18世紀中ごろからナイフとフォークを使うテーブルマナーを発達させていった。
ポルトガルの船員が手づかみで食べていたのは、特別の事情ではなくあたりまえのことだったのです。ポルトガル船の種子島漂着6年後の1549年に、最初のキリスト教宣教師が布教のため日本にやってきました。この16世紀後半から17世紀にはヨーロッパ諸国の宣教師たち、貿易商、船員たちが日本にやってくるようになりました。その頃の日本文化について、アメリカ人作家(現在は日本に帰化)で日本文化に造詣の深いドナルド・キーン氏はこう語っています。
「ヨーロッパの人達は、日本を見て、日本の文化はだいたいヨーロッパの文化と同じ水準に達していると言っていました。もっと客観的に考えますと、当時の日本の文化の水準は、あらゆる点でヨーロッパよりはるかに上だったと私は思っています。日本人の生活が、まず清潔であることに、ヨーロッパ人は驚きました。ある宣教師が手紙の中で、日本の家の中が清潔でありすぎるから、どこでつばを吐いたらいいかわからないと書いてあります。ヨーロッパでは、きっと家の中で平気でつばを吐いていたにちがいないと思います。また当時のヨーロッパの食堂では、床の上に葦などが敷いてありました。食べながら残り物を捨てるのですが、葦があるとみえなくなるのです。あるいは、犬を呼んでたべさせました。当時のヨーロッパ人は日本の家のなかを見てどんなに驚いたでしょう。どんなに文明的だと思ったでしょう。」
私が力説したいのは、このドナルド・キーン氏のように日本の歴史や文化を熟知している欧米人がいることはいるのです。ところが一般の欧米人は日本の歴史にはほとんど無知と言っても言い過ぎではありません。このため日本は、欧米人に接するまでは、文化的にも文明
的にも、また科学技術の面でも何一つみるべきものがなく、未開の国同然であった。
現在の日本の発展のもとはといえばすべて欧米人の指導によるものと考えている人が多いのです。これは歴史の無知による傲慢さです。ドナルド・キーン氏が日本の文化水準はあらゆる点でヨーロッパよりはるか上といったこの時期、日本は、当時なかった言葉で、現在使われている言葉でいえば、強力な軍事大国でもあったのです。軍事大国になるきっかけは、ポルトガル船の種子島漂着です。この時ポルトガル人は、種子島領主に鉄砲の使い方を教え、島を離れる時二挺の鉄砲を置き土産として領主に献上した。鉄砲という名前の武器は1510年にシナから堺に渡来したと言われています。その時は銅銃でした。その後銅銃は堺で作られたと言われています。
堺といえばポルトガル宣教師、ガシパール・ビレラが「堺はベニスのように執政官によって治められている」といった自治都市のことです。銅銃よりポルトガル人がもたらした鉄砲の方が性能が圧倒的に良かったのでしょう、たちまちのうちに鉄砲は全国にひろまったのです。このため鉄砲の伝来と言えば、ポルトガル人が置き土産に残していった鉄砲をさすようになった。この鉄砲が種子島に伝えられた頃の日本は、戦国時代といって全国の大名が日本 全国の統一をめざして戦いにあけくれていた時代でした。そのため鉄砲がまたたくまに全国に使われるようになった主な原因になった。日本全国統一を目指す大名の中でもナンバーワン候補になったのが織田信長でした。この織田信長が戦場で鉄砲を使用する全く新しい戦法をあみだし、そして大成功したのが1575年の長篠の戦いでした。彼の戦法は三千丁の鉄砲隊を参列に並べたのです。当時の鉄砲は、先込め銃といって、一発撃つたびに銃口に火薬や弾を込めなおさなければならないから連続使用は不可能だった。そこで千丁の鉄砲隊を参列に並べ、最初の一列が撃つとすぐひきさがって二列目が撃つ、二列目が引き下がると三列目が撃つ、三列目が撃つと最初の一列目が撃つといった具合に連続して鉄砲が使えるようにしたのです。長篠の戦いの時の敵は、当時日本最強を誇ると言われた武田の騎馬隊です。そこで信長は木で作った柵をもうけたのだ。武田の騎馬隊が柵を乗り越えようと、もたもたしている時に、一千丁の銃がいっせいに火を吹き、それが連続して行われたと言われています。これにより武田の騎馬隊は壊滅した。黒沢明監督の映画「影武者」を見た人は戦闘場面を思いだしてください。あの戦闘場面が長篠の戦いなのです。信長が採用したこの戦法で戦闘形態が変わったのです。鎧(よろい)と兜(かぶと)をつけ、長やりを持つ重装備の騎馬隊の戦いから身軽に動ける歩兵隊の戦いに変わったのだ。この意味では、長篠の戦いは世界の戦史に残る戦いではないでしょうか。信長のこの戦法について、最近亡くなられた上智大学教授、渡部昇一氏はこう語っています。
「これを別の言葉で言えば、一定の戦場に一定の時間、一定の量の弾を流し続けるという発想である。そしてこれは鉄砲の使い方としては、まさに最先端の使い方であった。西洋でこの戦法が意識的に採用されるには、実に第一次大戦の末期に、実質上のドイツ参謀総長であったルーデンドルフが西部戦線で実行するまで約350年待たなければならなかった。もちろん、第一次大戦のドイツ軍の鉄砲・機関銃の数と長篠の戦における鉄砲の数は比べくもない。だが意識的に一定戦場に一定の時間一定の量の弾を流し続けるという発想法は世界史的にみても信長によって始められたと言ってよい」。
さらに軍事史研究の世界的権威でイエール大学教授、J・パーカーは、彼の著書「長篠合戦の世界史」の中でヨーロッパ人が銃の装填のし直し時間を短縮するのに努力を重ねたのに対し、日本人は命中度を上げることに専心したと述べています。信長のこの戦法も三千丁の鉄砲が自分の手に入っていたからこそ可能になった戦法です。当時ヨーロッパでも、一つの戦場で三千丁も鉄砲がつかわれた例はないと思います。信長方だけで三千丁で、敵の武田方でも当然鉄砲を使っていました。しかし武田方は自慢の騎馬隊を頼りにしすぎたため、使用した鉄砲の数は少なかったと言われています。それでも両軍あわせて三千丁以上の鉄砲が一つの戦場で使用されたのです。鉄砲といえば当時は世界の最新兵器です。鉄砲が種子島に
伝わってからわずか30年後には、日本はその最新兵器の大変な量産国になっていたのです。鉄砲を使用するには、弾がなければなりません。弾の原材料は鉛です。ところが鉛は日本では産出しません。そのため各大名は、鉛の購入に必死でした。その鉄砲の弾が、1619年オランダ人の日本からの買い付け品目の報告書には、鉄砲の弾、11,696発の記載されているのです。早くも鉛の原料輸入から製品として輸出にむけられているのです。
長篠の戦いに勝った信長は、1578年には、自分が作らせた七艘の鉄船を使用して、瀬戸内海の制海権を握る敵を海戦で勝ちをおさめているのです。
戦いが終わって堺港に入港すると、鉄船の噂を聞いて見物人がわんさとおしかけて、皆びっくりしたと言われています。その見物人の一人の日記には、
「堺の浦へ近日伊勢から大船が調達されてきた。人数総勢三千人ほど乗船していた。船は横7間(一間は約1.8メートル)、縦は十二、三間もあって。鉄の船である。これは鉄砲が貫通せぬ用意である。まことに仰々しいことであった。大阪へ廻航して敵の通路を妨害するためのことである」と書かれている。
鉄戦がヨーロッパで採用されていたのは18世紀にはいってからです。ポルトガル人でカトリック・イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは、織田信長に会い、1569年6月1日付けで信長の印象をローマに報告しています。
「この尾張の王は、年齢は37歳なるべく、長身痩躯、髯(ひげ)すくなし、声ははなはだしく高く、非常に武技を好み、粗野なり。正義および慈悲の業をたのしみ、傲慢にして名誉を重んず。決断を秘し、戦術に巧にしてほとんど規律に服せず、部下の進言に従う事稀なり。彼は諸人より異常なる畏敬を受け、酒は飲まず、みずから奉ずること極めて薄く、日本の王侯をことごとく軽蔑し、異教いっさいの占いを信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後なにごとも存せざることを明らかに説けり。その事業は完全にして巧妙をきわめ、人と語るにあたり、紆余曲折をにくめり。」
なかなか的をいた人物評です。神仏その他の偶像を軽視し、占いも信用せず、魂や霊もなく死んだらそれで終わりという考え方は、当時として全く常識では考えられなかったのではないでしょうか。信長のこの考え方にうそ、いつわりがない証拠を見せたのが、フロイスのこの報告書の二年後、1571年に敵対する比叡山の延暦寺を焼き討ちにしたことです。僧侶、信徒など多数殺し、800年の伝統を持つお寺をことごとく焼き尽くし、お寺のひとかけらも残さないほど徹底したものでした。これを知った当時の人たちが仰天したのも当然です。しかし考えてみれば第二次大戦の時は、お寺も教会も聖域ではありませんでした。信長が生きていた時代の彼の無神論と比叡山焼き討ちの行為は、原題でも通用しますが、当時の常識を超越したものであったことは間違いないでしょう。この天才肌の信長は、自分の腹心の武将の裏切りにあい、満48歳で死んでしまいます。その後の日本の歴史にとっては全く惜しまれる早死にでした。

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知識人・リテラシー(メディア・リテラシー)



皆さんは、とっくの間にメディア・リテラシー(literacy)という言葉をご存知でしょう。メディア・リテラシーとは、情報を評価・識別する能力とか情報をクリティカルに読みとれる能力の意味です。現在では嘘の情報(フェイクニュース)が溢れています。それだけにメディア・リテラシーが必要です。ニューズウイーク日本版では、日本人のマスコミ信頼度が欧米に比べて著しく高く、世論誘導されやすいと書いています。この言葉を利用して、私は、「知識人・リテラシー」という言葉、今回私が初めて使ったと自分で思っています。誰か私以外にこの言葉を使った人を知っていたら、一体、誰がどんな時に使ったが教えていただければありがたい。私が使う「知識人・リテラシー」とは、私たちは、その知識人がどの程度の人物なのか見極めているかを知るべきだと言う意味です。私は若い40代のころから日本の保守系知識人は、どうも権力者好みが多いと思っていた。そこで私のような無学で知名度が低い者が、日本の知識人は権力者好みと言うより、他の有名人、例えば外国人が私と同じことを主張している方を紹介した方がその影響力が大きいと思い紹介します。
その名は、オランダ人ジャーナリスト、作家のカレル・ヴァン・ウォルフレン。彼は1941年生まれだから、私より3歳若い。若い人は彼の名前を知らない人が多いかもしれません。彼が1989年に出版した「日本/権力構造の謎」(早川書房)は、英米で発売と同時に大きな話題を呼び、世界10か国に翻訳され、世界的ベストセラーになっています。
私は彼が大嫌いです。大東亜戦争日本悪者論に便乗し、オランダのインドネシア支配を肯定化し、丸山真男、小沢一郎、菅直人らを称賛しているのだ。私と彼と、その見解が一致するのは日本人知識人に対する見解だけです。ウォルフレン氏は、1995年窓社から「日本の知識人へ」という本を出版しています。まず一頁目から日本の知識人に対する見解が表明され、彼の見解と私とは全く同じなので思わず本屋で買ってみた。
彼の論文の一頁目のタイトルが、「なぜ日本の知識人はひたすら権力に追随するのか」
このタイトルは私の見解と同じです。私は40代ごろからこのような感覚を持っていました。このタイトルの後に、彼の次の文章が続きます。
引用開始
「日本では、知識人が一番必要とされるときに、知識人らしく振る舞う知識人が誠にすくないようである。これは痛ましいし、危険な事である。さらに、日本の国民一般にとって悲しむべき事柄である。なぜなら、知識人の機能の一つは、彼ら庶民の権益を守ることにあるからだ。」
引用終了
この文章の数行あとには、次のような文章が書かれています。
引用開始
「知識人として当然果たすべき役割を果たす知識人がいないかわりに、日本には沢山の学者、ジャーナリスト、ブンカジン(文化人)がいて――それと知ってしらずか――意図的な情報(プロパガンダ)をまき散らしている。この情報が日本人と外国人を共にまどわせ、世界における日本の立場と日本が直面する問題全般について、冷静にして客観的な見方が形成されるのを、ますます困難にしている。」
引用終了
これは彼の名言だと思っています。日本では最近あまり使われない言葉だが「御用学者」という言葉があります。辞書では時の政府や権力者に迎合して、その利益となる説を述べる学者と書いてあります。いくら有名な保守系学者だからといって「御用学者」ではないかどうか認識できるほどの知識人リテラシーを持たなければいけないと言うのが私の主張です。
知識人とは、我が身にどんな結果が振りかかろうとも、あくまでも“筋を通して”考えること自らの責務とする人たちのことです。

私は、通称「つくる会」神奈川支部の会員です。教科書行界だけでも「御用学者」と思われる学者、ジャーナリスト、文化人らによる一致した権力者志向によって、「つくる会」が長年試練を強いられてきた実情を書きます。
平成19年、「つくる会」の競争会社、保守系の歴史、公民教科書を出版する育鵬社が設立された。育鵬社を設立したのは、フジ・サンケイグループのフジテレビです。フジテレビの日枝社長は、育鵬社の歴史教科書の顧問に八木秀次氏を指名した。八木秀次氏は、前「つくる会」の会長です。八木氏は、「つくる会」の会長の時、「つくる会」事務局長宮崎正治氏(日本会議)と一緒に「つくる会」幹部に極秘でシナを訪問、なんと「中国社会科学院日本研究所」を訪れ、また彼らを日本に招き新しい歴史教科書をめぐって意見交換したというのだ。その後フジ・サンケイグループの「つくる会」乗っ取り、「つくる会」つぶしがあった。その時の「つくる会」とフジ・サンケイの確執は、拙著「保守知識人を断罪す」(つくる会)苦闘の歴史)平成25年、1500円、総和社)を参照ください。私が赤裸々に書いています。この時の産経新聞の報道は実に見苦しかった。

育鵬社が設立されて間もない平成23年7月20日、河村たかし名古屋市長の肝いりで名古屋で中学校歴史、公民教科書討論会が開催された。育鵬社と「つくる会、」の自由社だけが出席し、ほかの教科書会社は出席しなかった。その席で育鵬社の歴史教科書監修者の一人である石井昌浩氏(元拓殖大学客員教授)は、「南京事件は確かにあった。これは事実です。犠牲者の数などの実態についてはまだ論争が続いてる」と発言しているのです。私は驚きました。育鵬社は保守系の歴史教科書だから「南京虐殺事件は否定する」と思っていたからです。渡部昇一氏は、長年南京事件否定論者で有名ですが、彼も育鵬社の歴史教科書の監修者ですが、石井氏の発言に肯定もしなければ、否定もせず、無言を押し通した。
文科省は、南京事件「あった派」で犠牲者の数は未定と主張しています。南京事件を否定すると歴史教科書としての検定を与えません。何故か?文科省は、民間の南京事件研究者、例えば東中野修道の命を懸けた研究成果や南京事件に疑問符を投げかけた田中正明、鈴木明、冨澤繫信、阿羅健一、北村稔等の諸氏らの論文に一切目もくれず、「日中歴史共同研究」の日本側出席者の北岡伸一、笠原十九司、斎藤一晴、庄司潤一郎らの主張をそのまま受け継いでいるからです。それでも「つくる会」は、四年毎の検定の年には、毎回文科省と論戦を繰り返してきました。育鵬社は日本の権力に簡単に追従したのだ。追随したのは日本の権力ばかりでなく、シナ、韓国の権力に追随したのだ。なぜなら歴史教科書にシナ語や韓国語の名前や地名などがあるとわざわざシナ語や韓国語のルビをふっているのです。こういう情勢にもかかわらず、日本会議を初め、非常に多くの無数の知識人が圧倒的に育鵬社を支持した。どうしてこんな現象が起きたか。日本の知識人の多くが権力者に追随することが好きな「御用学者」だからです。権力者とは安倍政権とフジテレビです。フジ・サンケイグループは、保守言論出版機関に大きな影響力を持っているからです。

平成27年ユネスコ遺産にシナが申請した「南京大虐殺文書」が登録されたことを受けて、有識者によって結成された団体が平成27年11月28日に都内で「南京大虐殺」の歴史捏造を正す国民会議」の集会を開き南京大虐殺の証拠が存在しないことを政府が対外発信するよう求めた。この会議の参加者920名、左翼の発表なら参加者二千名ぐらいになったでしょう。私はこのような集会は当然だが、私が驚いたのかこの国民会議の議長に渡部昇一氏がなっていることです。渡部昇一氏は、確かに超有名な保守知識人の重鎮と言われているくらいですが、しかし彼は南京事件否定派だが、実際には南京否定のため行動をしているどころか、育鵬社の歴史教科書の監修者です。同じ監修者の石井昌弘氏は。「南京事件はあった」と公言した通り歴史教科書を作ってきた。その教科書に渡部氏は同調したということです。そのような教科書にそれこそ数えきれない沢山の知識人が支持したのです。
「南京大虐殺」の歴史捏造を正す国民会議」への「呼びかけ人」のリストに大勢の知識人の名前が記載されています。その中に伊藤哲夫、小田村四郎、田久保忠衛、松浦光修、椛島有三などの諸氏がいます。彼らはみな日本会議の幹部です。彼らは南京大虐殺を公認する育鵬社の歴史教科書を支持するだけで、南京大虐殺事件否定に何ら役立っていません。特に伊藤哲夫氏は、日本政策センターで月刊誌、「明日への選択」を発行し、育鵬社の教科書宣伝記事を書きまくり、「つくる会」の記事など一切書きません。私は数年間「明日への選択」の購読者だったから知っているのだ。購読を辞退した理由は、彼は一度も「つくる会」の記事を載せなかったからです。その彼が安倍総理のブレーンの一人で、安倍氏の憲法改正論の提案者と言われています。昔から日本には、こういう典型的な御用学者が多いのだ。一方「呼びかけ人」リストには杉原誠四郎、西尾幹二、藤岡信勝、諸氏の名前も記載されています。この三人は、「つくる会」の会長、副会長経験者です。彼らは南京事件否定しても文科省の検定を取ろうと一生懸命努力した。しかし平成27年の検定のときは、検定をとるために南京事件を肯定までして生徒にうそを教えるより、南京事件を一切触れず、かわりに昭和12年7月にシナ通州で起きた日本人虐殺事件である「通州事件」に触れて検定を取ることができた。特に通州事件は、これまでどの教科書も全く触れず、今回「つくる会」が戦後初めて歴史教科書で触れたのです。若い人たちはほとんどこの事件を知りません。ぜひ「つくる会」の副会長、藤岡信勝氏が著した自由社ブックレット5「通州事件、目撃者の証言」(頁数111、500円)をお読みください。平成28年1月ユネスコが「南京大虐殺」を記憶遺産に登録すると「つくる会」はそれに対抗する意味で設立した「通州事件アーカイブズ設立基金」は、平成28年5月「南京大虐殺」のユネスコ記憶遺産登録に対抗して「通州事件」をユネスコ記憶遺産に登録申請した。「歴史戦」はいまはやりの戦争です。育鵬社の代表格、八木秀次氏は、「つくる会」の会長時代、極秘にシナ訪問し「中国社会科学院日本研究所」の学者たちと会談しているのだ。育鵬社が歴史戦で戦えるわけがない。このことだけでも育鵬社支持の多くの無数の知識人は無視しているのです。

平成29年2月14日に文科省が発表した小中学校の学習指導要領改訂案の中に、聖徳太子の呼称を否定し、「うまやどのおう」《漢字変換できず》と呼ばせるという歴史教育の新方針が打ち出された。これに対し「つくる会」は「聖徳太子を守れ」と立ち上がり、国民からも多くの反対声が寄せられ、文科省は方針を転換し、3月31日に告示された最終確定版では、「聖徳太子」は小中とも復活。その他「歴史用語革命」とでも言うべき言葉狩りでギロチンにかけられそうになった「大和朝廷」、「元寇」、「鎖国」の用語も生き返ったのだ。つい最近の6月27日の朝日新聞29面では、「聖徳太子が復活したのは、『つくる会』がホームペーなどを利用してコメントを送るよう指示したため」と書いています。読者の皆さん、教科書改善に全力を尽くして、日本の為に「歴史戦」を戦っているのは「つくる会」だけなのです。育鵬社は教科書ビジネスを展開するだけで、「歴史戦」どころか教科書改善運動など何も役立っていません。
読者の皆さん、メディア・リテラシーならぬ知識人・リテラシーの力を発揮して、育鵬社、日本会議を支持する無数の知識人たちの発言、行動を無視してください。

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保守の皆さん、憲法改正はいけません。(2)



        このブログの転載、拡散よろしくお願いいたします。
三。アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治
昭和20年(1945)8月15日、日本は降伏した。8月28日アメリカ占領軍の先遣隊が厚木飛行場に到着、8月30日アメリカ占領軍最高司令官、マッカーサー元帥が厚木に到着した。ところがなんと驚いたことに、日本敗戦から1か月後、マッカーサーが到着してから二週間後の9月15日に小川菊松という出版人が「日米会話手帳」、サブタイトルに英語で「Anglo・・Japanese Conversation Manual」と書かれた本を出版した。この本は32頁の小冊子で、日常の挨拶から始まって、道を聞かれた際の教え方、数の数え方など極めて簡単な会話79例を載せていた。敗戦後わずか1か月でこういう本が売り出されたこと自体が驚きなのに、なんとその年の年末までの3カ月半の間に360万部も売れるという大ベストセラーになったのです。終戦時(昭和20)日本の人口は約7千2百万、まだ海外派遣されていた兵士や民間人全員日本本土に戻っていません。実際の人口は7千万ぐらいでしょう。それに子供、老人は読みませんから、まさに空前のベストセラーでしょう。短期間にこれだけの部数が売れた本が、その後出版されたのでしょうか。終戦直前までは、アメリカ軍の本土上陸に備えて竹やりの訓練さえしていたのです。それが竹槍を投げ捨て本屋さんに殺到したのだ。
この本が売り出される前のわずか半年間の間に三月の東京大空襲、前後して大都市空襲、4月からおよそ一か月にわたる沖縄戦の熾烈な戦い、8月に広島、9月長崎の原爆で、犠牲者を合計すれば少なくとも死者50万人以上を出しているのです。それにもかかわらずこういう本が空前のベストセラーになったということは、マッカーサーの日本到着時点で、すでに日本人のほとんどが今後の生活の心配が先立ちアメリカ軍に対する敵意や憎悪をなくしてしまっている証拠です。
マッカーサーは日本到着後すぐに日本統治を始めますが、最初の五年間にどのくらいの手紙がマッカーサーに寄せられたか記録があります。昭和21年9月から昭和26年5月まで約5年間にアメリカ占領軍(GHQ)翻訳通訳班が44万1千161通の手紙と葉書を読み、処理した公式に記録されています。アメリカのマサチューセッツ工科大学教授、ジョン・ダワーは1999年に「敗北を抱きしめて」(原題、Embracing Defeat, Japan in the wake of World WarⅡ)を著し、ピューリッツアー賞を受賞した。その本の中でマッカーサーに送られた手紙や贈り物の内容について書いています。しばらくその文章を引用します。
引用開始
「これらの手紙は最高司令官に向けられ検閲されていたこともあって、マッカーサーの虚栄心を満たしたことは間違いない。そこには、マッカーサーに対する尊敬の念や、彼の限りない寛大さにたいする惜しみない感謝の言葉が述べられていたからである。手紙を書いた人々は、マッカーサーの「神の如き尊き御慈悲」を讃え、彼を「生きたる救い主の神」と呼んだ。ある青森県の老人は「昔は朝な夕なに天皇陛下の御真影を神様のようにあがめ奉ったものですが、いまはマッカーサー元帥のお姿に向かってそういたしております」と書いている。神戸のある団体は、基督山上垂訓図を日本画風に描かせ、マッカーサーに贈呈し、元帥のご指導は、まさにこの絵に描かれ崇に高さを思わしめるものがありますと賛美の手紙を添えている。マッカーサーは釈迦のような慈悲の持ち主と讃えられ、孔子の「論語」に登場する「遠来の友」にも例えられた。また、日本の悪夢の如き戦争から救ったとして崇められ、外国人による占領という未知の状態におびえていた日本人に、希望と幸福をあたえたと感謝された。市井の男女が、自分たちがかって軍国主義者であったと言う罪をまるで聖職者にたいするようにマッカーサーに告白し、精神科医に対するかのように心の奥底の恐怖や希望を打ち明けたのである。こうした人々にとってマッカーサーは、この時代の偉大な愛の化身であった。彼らは手紙のなかで、まるでお守りのように平和と民主主義という言葉を繰り返し語っていた。マッカーサー最高司令官は、その犯しがたい権力のゆえ天皇のような存在であったが、彼の方が天皇より近づきやすく、より直接的に関係を持つことが出来る存在と思われていたことも明らかであった。民主主義を約束する権威主義な支配という逆説に満ちた試みが、ここに始ったのである。
マッカーサーには沢山の贈り物が届いたが、ほとんどの場合、彼はそれを受け取った。日本では自分より上位の者や恩人に贈り物をすることは伝統的習慣であったが、この外国の大君主への貢ぎ物の数は、過去の日本の軍高官に対する贈り物をはるかに超えていた。(中略)
このうえないほど格式が高く、手のこんだ贈り物は手織りの着物と帯であった。これを織り上げた人物は、1946年11月から京都の下賀茂神社にこもり、丸3年かけて作り上げたのである。彼は毎日お祈りをし、ついには7千万刺しを持って自らの最高傑作を織り上げ、神道の祈祷文とともに「わが国民7千万人の清き心のしるしとして」マッカーサー元帥に献上した。明らかにこの織物の一刺し一刺しが日本人一人一人を意味していたのである。
つつましやかな躍る鮎と豪奢な錦織の間を驚くべき数の贈り物や招待状が最高司令官に向けて滝のように降り注いできた。人形、ランプ、陶器、漆器、竹細工、封建時代の書、書籍、盆栽、盆景、動物の毛皮、鎧、刀、絵画、彫刻にいたるまで、さまざまな物をマッカーサーは受け取った。それらの中にはマッカーサー自身が描いたものもあった。(中略)
引用終了
贈り物に関するページはまだ続きますが、この辺で終わりにして、一般市民からの手紙に関して、さらにこう書いています。

引用開始
「GHQの直接送られた手紙のなかでそれほど多くは占めてはいなかったものの、注目すべきものとしては、特定の個人を戦争犯罪人として逮捕・追放し、裁判にかけるべきだとして、名指しで告発するものもあった。また戦争中に権力を笠にきて威圧的な言動をしていた役人を、地域の住人が告発する手紙もあった。高校生や大学生たちは、軍国主義に加担した教員を指摘した。旧帝国軍人のなかには、戦争中に連合軍の捕虜に虐待をおこなった日本人兵士の名前を告発する者もいた。(中略)
又「反アメリカ的」の感情をもったり、「反民主主義的」な考えをいだいていた人々も告発された。このような情け容赦ない告発文書がマッカーサーやGHQのもとに送られてきたのである。こうした事実だけを見るかぎり、きのうまで愛国主義者だった日本人は、一夜にして占領軍への密告者、或は情報提供者に変貌してしまったようにみえる。その他にも、日本はアメリカの属国になるか、あるいは永久にアメリカの植民地になるべきだと主張するような、驚くべき手紙も存在した。その一方で男女を問わず、占領政策への批判やアドバイスをすることもためらわなかった。」
引用終了

占領軍で手紙の翻訳にかかわった沖縄出身の日系アメリカ人は、このような告発の手紙を読んでいるうちに、自分は日本人を軽蔑するようになってしまったと言っていますが当然でしょう。占領軍や占領軍司令官にたいするまさに度を越した媚態です。長崎では、原爆による放射能の影響調査にやってきたアメリカの科学者チームの責任者に、ガラスケース入りの人形が贈呈されているのです。またその後すぐに住民たちは、駐留する占領軍軍人とともに「ミス原爆美人コンテスト」開催したというのです。敗戦寸前まで激しくたたかった国民が、敗戦直後に見せた豹変ぶりがまったく信じられないくらいで、この豹変ぶりはある種の脅威とか異常とか呼べるような気がします。まさに私が主張する異常なまでの変わり身の早さではありませんか。決してほめられる民族の態度ではないことは確かです。それではマスコミは、マッカーサーに対してどういう態度をとったか見てみましょう。敗戦一年後の昭和21年(1946)8月15日の朝日新聞の社説は、
引用開始
「この一年間にしめされた連合軍最高司令官マッカーサー元帥の偉大な業績については、内外等しく賛嘆をおしまないところである。われわれは心から元帥に対して深厚なる感謝の意を表明するものである。元帥には、日本ならびに日本人を深くいたわる気持ちがある。この気持ちが、日本の人民を信服せしめた。この気持ちがなかったならば、天皇と日本の政治機構をいかに有効に占領目的を達成するために使用したとしても、そのことだけで、今日までの偉大な業績は示し得なかったであろう。」
引用終了

これまでスターリンへの感謝状、日系アメリカ人の強制収容、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治に対する日本人の態度を書いてきましたが、読者の皆さんは、どのような感想をお持ちでしょうか?私の感想は、日本人は外国人に生殺与奪の権を握られると、徹底した「迎合と妥協」に走り、それが行き過ぎて卑屈になるのです。日本人の誇りを見せつけたものはなにもなかった。わずかに指で数えられるほどの日本人だけが己の信念を貫いただけだと思っています。次にGHQはどのような意志と目的をもって日本を統治したのか探っていきます。
1.WGIP
皆さん、この頭文字(ダブリュ・ジー・アイ・ピー)は絶対覚えておいてください。この頭文字の正式な名前は、War Guilt Information Program(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の頭文字をとったものです。日本語の意味は、(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)。このWGIPという言葉は、古くから使われていますが、一番古いのは故江藤淳氏が1989年文芸春秋社から出版した「閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本」です。歴史に興味のある人は、この本を大抵読んでいるのでこの言葉は知っていますが、WGIPは、一般的に使われた言葉でなかった。この本には欠点があったからです。著者が実際にWGIPの書類のコピーを提出していなかった。このためでしょう、現在の百科事典とも言うべきウィキペディアでは、以前は江藤の主張は載せていたが、疑われていた。ところがつい最近のウイキペディアの内容は一変しました。私と同年代の関野通夫氏がGHQの2万5千点の文書から、幻だったWGIPの証拠文書を発掘し、即その本を平成15年3月に出版したからです。出版社は、自由社の「自由社ブックレット1」として出版した。本のタイトルは「日本人を狂わせた洗脳工作(今なお続く占領軍の心理作戦)」、本のページはわずか82頁、値段はわずか500円プラス税です。この本が如何に重要だったかすぐわかるのは、今ではウィキペディアで関野通夫氏の名前もこの本の名前も記載されているからです。この本に続けて関野氏は、平成16年9月に自由社から「続・日本人を狂わせた洗脳工作」(いまなおはびこるWGIPの嘘)を出版、112頁、値段同じく500円+税です。GHQの占領政策は、WGIPの計画を基にして実行されていったのです。憲法改正を主張する人は、まず関野氏のこの本を絶対読んだうえで主張してもらいたい。
「つくる会」の広島県支部長、長谷川真美氏の寄付によって200部を衆議院議員に贈呈しました。その他「つくる会」の会員が地元の県会議員、市会議員などに贈呈しています。
憲法改正の話が話題になっている現在では、関野氏のこの本は、日本国民必読の本です。皆さんに知ってもらいたいのは、この本は憲法改正反対などにひとことも触れていません。この本に書いてあることは、
「GHQは日本を軍事的に征服したうえで、日本民族から記憶を奪い、精神を破壊して、占領を終了した後も、未来永劫にわたってアメリカの属国としてつくりかえるために、日本に対して全面的に歴史戦を開始した」。これらの史実が少ない頁数で適格に書かれているのです。本来ならこの本に書かれていることは日本史の先生方が書いて当然なのです。関野氏は日本史の先生ではありません。長い海外ビジネスの経験を持っている元ビジネスマンです。それだけ日本の歴史教育が歪んでいたわけです。あくまでも憲法改正を主張する人は、絶対にこの本を読んでもらいたい。お願いいたします。

2.GHQの占領政策にたった一人抵抗した男
GHQの占領政策のほとんどが、日本政府の強い抵抗もなく、また反対のための暴動らしい暴動もほとんどなく、日本国民に受け入られました。しかしここにたった一人、占領政策に公然と抵抗した人物がいました。終戦直後の幣原内閣に次いでできた第一次吉田内閣の大蔵大臣、石橋湛山です。次の二つの問題で石橋とGHQとの対決の場になった。
(1)戦時補償打ち切り問題
戦時補償とは、戦時中日本政府が軍需生産の増強を図るため、国家総動員法、軍需会社法などの法令に基づき、多数の軍需企業や民間企業に対して生産設備の建設あるいは軍需品の生産のための全力を注ぎ、政府の補償をあてにして巨額の借入金を背負い、設備を拡張したり、工場の疎開を行ったりしたが、敗戦の結果、これらの企業ばかりでなく、企業に融資していた銀行も多大な損失を被った。ここで戦時補償を打ち切ったら、日本経済はどうなるか?石橋湛山は必死にGHQに抵抗したし、抵抗しきれないと判断したら、吉田首相に辞意を表明した。吉田は「長い物には巻かれろというから」と言って湛山を説得したという。GHQ当局は、日本の軍需産業などつぶしたくてしょうがないのだ。湛山の必死な抵抗が続いたため、当時の日本の王様、マッカーサーの裁断に仰ぐ結果となり、戦時補償は打ち切られた。湛山の執拗な抵抗がGHQ司令部に「生意気な奴」という印象が残り、公職追放の計画が練られていった。

(2)終戦処理費問題。
終戦処理費とは昭和21年GHQが報道各社にどうしても占領軍維持費に言及しなければならない場合は、「占領軍維持費」を「終戦処理費」と呼ぶよう通達した。占領軍維持費の膨大さを隠そうとしたのだ。占領軍維持費は、毎年度政府予算における歳出総額のほぼ三分の一を占める膨大なものだった。日本の保守の読者層なら誰も知っているヘレン・ミアーズ女子(「アメリカの鏡・日本」の著者)は、終戦時GHQのスタッフと働いていた。彼女はこう書いています。
「アメリカ人は、贅沢なことを考えるから、占領経費を節約しようとしない。将校宿舎や官舎の生け花代、本国への電報電話代、キャンプに維持費、文民専門と秘書の給料、その他生活のお楽しみ代は日本人が負担した。」
しかし最も驚くべき支出項目があった。占領軍関係者が起こした交通事故で被害を受けた日本人に支払われた保証金総額6億2千万である。ゴルフ場の建設、シャンデリア、ジュウタン、装飾用の生け花などもすべて終戦処理費で賄われた。さらに問題になったのは、清浄野菜農場の新設だ。人肥を使用した日本の野菜は不潔で口にできないというのでプールのようなコンクリート槽の中に砂地を作り、水を張って、化学肥料を加える方法の野菜畑を作ったのも終戦処理費です。
さらに東京裁判の費用、即ち法廷建設費や、裁判官や検事の滞在費、人件費、その他で合計72億円も日本政府は払わされているのだ。占領軍は、占領軍維持費を終戦処理費と呼ばせておいて、日本人の税金を湯水のように使っていたわけだ。
終戦直後の日本は、軍需産業の倒産、財閥解体などで失業者があふれ、そのうえ海外からの一般人や軍人のひきあげなどでさらに失業者があふれかえり、国民は食うや食わずの極貧生活を強いられていたのです。そんな時に東京裁判が開かれ、現行憲法の施行を強要されたのです。だから大蔵大臣である石橋湛山が、GHQに占領軍維持費(終戦処理費)を削減してくれと要求するのは当然すぎるほど当然だったのだ。しかし湛山の要求は、特にGHQの地方に駐屯する軍人の不評をかった。占領軍維持費は勝者の特権であり敗者が口をはさむ問題ではないという意識だった。このため湛山の公職追放計画が早められ、公職追放の口実探しが加速された。公職追放通知で湛山は、自分がGHQによって追放されると知った時、吉田首相に追放拒否を主張した。この時の吉田首相の言葉が有名です。「しかし君、狂犬に噛まれたと思ってくれ」
公職追放後の湛山の態度も私は偉いと思います。公職追放された人たちの殆どが、自分の公職追放は納得いかないものであっても、泣き寝入りしていた。ところが湛山は、自分の公職追放は納得いかないと追放の不当性を訴え、GHQに徹底した戦いを挑んだのです。湛山が自分の公職追放策に挑んだ抵抗策は。
(1)片山新内閣に追放取消策を要求。
(2)湛山の友人たちの署名の陳情書をマッカーサーに提出。
(3)中央公職適否審査祈願委員会に英文80頁におよぶ反論書提出。
(4)公職追放になった10月27日午後2時に日本主要新聞の政治部長を、午後4時から外国紙の特派員を招いて反論書を渡し、記者会見をひらいた。

湛山のこれらの努力は何一つ報われることがなかった。追放はまる4年間続きそれまで政界に復帰することができなかった。私が腹が立つのは、当時の政治家、マスコミの人たちは、湛山追放の理由がでたらめであったことを知っていたにも関わらず誰一人として湛山を援護しなかったことです。

ここからは現在非常に話題になっている憲法改正問題について語ります。真っ先に最重要な事を先に書きます。いいですか、皆さんぜひ注目してください。現行憲法は、「日本国憲法」ではなく占領軍が作ったままの憲法、すなわち「占領軍憲法」である。その理由、
1.アメリカ占領軍は、絶対王政の王様の権限を持っていた。昭和天皇の生殺与奪の権をにぎっていた。占領軍が「昭和天皇の地位をどうの、こうのするつもり」という発言で日本政府を震え上がらせることができた。
2.マッカーサーは部下に命じて。わずか四日余りで英文で作成させたものを単純和訳させて、「日本国憲法草案」なるものが作成され、昭和21年2月13日に、当時の日本政府に対して手交された。
3.戦時国際法、ハーグ陸戦法規(第43条)」明治40年(1907年)10月18日ハーグにおいて調印、日本は、明治44年(1911)11月6日批准)には、「戦勝国が敗戦国を統治する場合は、その国の法律にしたがわなければならない」(「国の権力が事実上、占領者の手に移ったときは、占領者は絶対的支障がない限り、『占領地の現法律を尊重して』、なるべく公共の秩序、および生活を回復確保するために施しうる一切の手順を講じなければならない。」ことが決められていた。すなわち「占領軍憲法」は国際法違反のもとでつくられ、「日本国憲法」としたのです。
4.30項目の報道規制(プレスコード)
敗戦から一か月とたたない昭和20年9月10日、「新聞報道取り締まり方針」」と「言論及び新聞の自由に関する覚書」がGHQより発せられ、「削除及び発行禁止対象のカテゴリー」(30項目)が定められた。その30項目の3番目にはこう記載してあります。
「3.GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」
すなわちGHQは、国際法違反で平気で日本国憲法を作っておきながら、その憲法を批判する態度を厳禁にしているのだ。そうなると憲法について書く学校の教科書はどうなったのでしょうか。昭和22年8月2日文部省発行の中学校教科書にはこう書いてあります。

「今度の新しい憲法は、日本国民が自分でつくったもので、日本国民全体の意思で自由に作られたものであります。この国民全体の意思を知るために、昭和21年4月10日に総選挙が行われ、新しい国民の代表が選ばれて、その人々がこの憲法を作ったのです。それで新しい憲法を作ったのです。それで新しい憲法は国民全体で作ったということになるのです」

どうですか、国は平然と国民に大嘘をついて教えていたのです。これがのち、のちまで日本の学校の歴史教科書に嘘が書かれ、嘘が嘘を呼ぶのが現実となってしまった。どうしても戦前戦中の日本を徹底して悪に貶める教科書が誕生しつづけ、一例は全歴史教科書が「従軍慰安婦事件」を掲載。これではなんとかしなければいけないと国民の支持で20年前に立ち上がったのが「新しい歴史教科書をつくる会」なのです。安倍総理も議員時代は、「つくる会」の積極的な支持者で、「つくる会」の季刊誌にも投稿してくれ、激励してくれたこともあった。私も安陪議員に面会しお礼を言ったこともあるのだ。しかし総理になるとアメリカ政府の太平洋戦争史観に従っているだけなのだ。それが安陪総理の「村山談話」と「河野発言」の容認、首相自身の「70年談話」でもわかるし、今度の憲法改正提案でもわかります。

5.私は憲法学者ではないので「占領軍憲法」の弱点を一々取り上げて論評することはできません。しかし一読してどうもこれは、占領国が敗戦国の日本を差別して作った憲法、どうしても日本国が自分で作った憲法でないと察することができる条文があります。憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書いてあります。
いいですか、普通、ある国家が諸国民と言ったら近隣諸国のことです、日本はシナ、朝鮮、ロシアなどと何世紀と付き合いがあるのです。その近隣諸国の公正と信義を信頼して、日本の安全ばかりでなく生存まで彼らに委ねているのです。こんなバカな条文を日本自身で作ると思いますか。結局、アメリカは、戦勝国になったばかりだし日本を舐めきっているから書ける条文です。

ところで、皆さん、私が憲法改正反対のためになぜ、三つの話題、一、スターリンへの感謝状、二、日系アメリカ人の強制収容、三、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治、の話を持ち出したか、わかりますか。日本人は戦場で敵を驚かすほどの強さを持っていた、しかし、一旦負けて捕虜になったり、本土が敵の占領地になったりすると、からっきし弱くなってしまいます。私はこれらの日本人を「世界一変わり身の早さで権力者に迎合、妥協し、時には卑屈さを通り越し卑屈さを前面に押し出す」と酷評しました。読者の方で、これに変わる良い意味での表現があれば教えてください。私はこの弱さの原因は、日本は古来から無慈悲な独裁者から徹底的に搾取され続けた経験がないからだと思っています。
キリスト教の宣教師たちが、日本にやってきたとき、「彼らは皆一様に貧乏だ、だが民度は高く、誇り高い民族だ」と日本人のすばらしさを本国に知らせています、明治時代にやってきた外国人が日本民族を褒めあげるのも何度も本で読んでいます。もともと日本民族は誇り高い民族であったのだ。その誇り高い民族が、大東亜戦争の敗戦ですっかり落ち込んでしまった。戦後70年もたった今は経済が戦後直後より大発展し、国民は食うに困るわけでもない、何でもできるし、なんでも発言できる、そのため日本民族の誇りはもどりましたか?冗談じゃない、誇りがもどるどこらか、さらに悪くなり、日本への誇りなどなくなってしまったのだ。
いいですか、戦前、戦中の日本をどうしようもない悪い国にするために、海外で「起こらなかった事件」を「起こった事件」にして日本政府を批判したり、日本政府にお金を支払わせたり、あるいわ謝罪させることが度々起こし、それを歴史教科書に堂々と載せるのだ。それが度をこして現在では、占領軍が作った「日本憲法」にノーベル平和賞まで与えてくれと叫ぶ日本人グループが存在しているのだ。

ソ連の日本人捕虜収容所で6万人以上の日本人が「スターリンへの感謝状」を書いた。そこにはそこまで書くかというくらい、うそも方便の卑屈なまでのおべんちゃらを書いているのだ。もし彼らが現在まだ生きて、現在の日本の姿を見たら、間違いなくこう言うでしょう。
「私たちはいつ死んでしまうかわからない地獄の極限状態で暮らしていたのだ。だからはからずも、極度に卑屈な言葉を書いてしまった、今となっては申し訳なかったと思っています。ところ現在の日本は、私たちの地獄状態の生活と違って極楽状態の生活をしているようなものです。それなのに何故史実として存在しなかったものを(あったことにして)謝罪したり、お金を払ったり、歴史教科書に書いたりするのですか、占領軍の作った日本憲法にノーベル賞を上げてくれだと、あなたがた日本人は気が狂ったのですか。」と必ず言われるでしょう。

現在の日本人は、国際スポーツの試合で日本を応援すれば、それが愛国心だと思っているのだ。愛国心もなければ、日本人としての誇りもありません。ただやたらと日本をけなし、日本を卑下する人が多すぎます。私たちはこの健全な愛国心や誇りを取り戻さねばなりません。それには、憲法改定とか言って、占領軍の作った「日本国憲法」をいくら継ぎ接ぎして改正しても洗脳された者、あるいわ洗脳されたふりをしている者を正気に戻すことはできません。現憲法が生きている限り、自虐史観は絶対になくなりません。やはり現憲法を無効にし、明治憲法の改正か、あるいは新憲法を制定するしか道はありません。保守の皆さん、最初からその目的ではなかったのではありませんか?しかし70年近くも現憲法を使ってきて、いきなり無効ではと心配するむきもありますが、要は国民と国会が一致すれば問題ありません。憲法違反の自衛隊を半世紀も使ってきたではありませんか。私は強く主張します。占領軍が作った 日本国憲法を無効にして、新憲法制定か、明治憲法の改定です。そして「太平洋戦争」という日本国家のくびきから解放して「大東亜戦争」という自らの生き方を選ぶ新しい日本を作りましょう。私はアメリカとの同盟はとても大事で重要だと思っています。しかし現在の日本は、あまりにも、あまりにもアメリカのポチ的存在が強すぎます。今のままでは日本人は、二流のアメリカ人に成り下がるだけです。現憲法を無効にして真に独立した真正日本を作りましょう。

安倍総理の改正条件が全面的改正ではなく、憲法9条の1項、2項はそのまま残し、3項を新設という案です(5月3日の総理発言)。追加3項の内容は、自衛隊の根拠規定を追加して、自衛隊が憲法違反と言われないようにするためです。非常に簡単な改正条件だから、それだけに現実的でいいという声が聞こえてきます。私が冒頭に書いた終戦直前直後の三つの事件のケースは、それこそ現実的でいいから、徹底した迎合、妥協の結果、卑屈なまでに陥ったのではないですか。今回改正条件が簡単、明解なだけに現実的に良いからと言って、国際法違反の憲法、占領軍の作った憲法にケチをつけるなという検閲された憲法を改正したら現憲法は、正真正銘の日本製憲法になってしまいますよ。私たちは、一度憲法問題で大失敗しているのです。日本が独立を回復した時(昭和27年)、現憲法を廃棄し、新憲法を作るべきだったのです。できなかった理由は、日本人は、原理原則や法律に固執するより、妥協、迎合しがちで現実的に対処してごまかしたがるからです。だから今回はそれでは、ダメですよと国民をいさめるのが知識人の役目でしょう。それができなくて何が知識人だというのですか。知識人自らが安倍総理にこびているのだ。私はいずれ自分のブログでふらちな保守知識人の名前をあげて罵倒するつもりです。その時には知識人とは、どういう人間を言うのか書くつもりでいます。

最後にひと言。上記のスターリンへの感謝状、日系アメリカ人の強制収容、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治は、拙著「逆境に生きた日本人」(展転社、平成20年、2000円)を参考文献に使いました。この本は、上記の三つ以外に他の件も扱っていますので目次を紹介します。第一章 戊辰戦争とアメリカ南北戦争、第二章 アメリカ軍による日本占領時代、第三章 日系アメリカ人強制収容、第四章 シベリア捕虜強制労働収容所、第五章 日本民族の資質、第6章 日本民族の資質が生んだ「自虐史観」。
この本の原稿を書いていたのが平成19年ごろ、ちょうどその頃に西尾幹二先生に「私が主催している坦々塾に入会しませんか?」と声かけられ喜び勇んで入会いたしました。せっかく西尾先生の面識を得たばかりなのに厚かましくも、この本の出版の時、西尾先生の宣伝の言葉を入れたいと思い全原稿を見せました。西尾先生は、「わかった、自分で宣伝したい文章を書いて見せてくれ」と言われて書いた宣伝文章が本の帯に書かれています。次の様な文章です。
「私は著者の名前を評判をよんだ労作『大東亜戦争は、アメリカが悪い』で知った。今度の作品もすばらしい。戦中戦後、強圧権力の下で示した日本民族の行動をするどく分析、我々に猛省をせまる」西尾幹二

この本は348頁、ハハードカバー、価格2000円+税ですが私にはまだ在庫がありますので価格1500円(印税も郵送代もいりません)でお売りいたします。希望者は私あてのメール、あるいはこのブログあてにお申込みください。

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保守の皆さん、憲法改正はいけません。(1)



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大東亜戦争敗戦後、1947年(昭和20)9月からアメリカ占領軍(GHQ)が日本統治を始めた。現行憲法は昭和22年5月3日に施行された。GHQの日本占領機関は約7年あまり、その間は日本人の生殺与奪の件はGHQに握られた。日本人がGHQのまな板のこいになってしまったのだ。日本の長い歴史の中で日本人が外国人のまな板のこいになった大きな三つの事件がある。ソ連抑留所の日本人捕虜、アメリカの日系人強制収容所、GHQの日本統治。憲法改正の話の前に、これらの三つのケースがどんな状況であったか、お知らせしましょう。
一。スターリンへの感謝状
終戦の翌日、昭和20年8月16日に大本営は、関東軍に武器を置く命令を出した。一方ソ連軍は、日本降伏を知りながらも15日以降も攻撃を続け、8月末頃には満州全土、北朝鮮、樺太及び千島列島を占領してしまった。対日参戦二週間後の8月23日、スターリンは、極東ソ連軍司令官ワシレフスキー元帥に日本軍捕虜のシベリア移送を命じる極秘指令を発した。
(1)極東シベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本軍捕虜を約50万人選別すること。
(2)捕虜をソ連邦に移送する前に千人ずつの建設大隊を組織すること。大隊と中隊の長として、特に日本軍工兵部隊の若い将校、下士官の軍人捕虜を指揮官に命ずること。
この指令の下に、ソ連軍は、ソ連占領地域(満州、北朝鮮、樺太、千島など)の日本軍人、一部の民間人合わせて約60万人(厚生省発表によれば57万4千530人、ソ連側発表によれば60万9千176人)を強制連行し、シベリア(47万2千)を初めとして、外蒙古(1万3千)、中央アジア(6万5千)、ヨーロッパ・ロシア(2万6千)などを捕虜強制労働収容所(ラーゲリ)約1200ヵ所、監獄その他特殊収容所約百カ所に分散収容した。
収容された日本人捕虜は、粗食と厳寒の下に重労働を課せられ、それによって命を落とした者、推定で6万人から7万人と言われています。これは明らかにソ連の国際法違反です。

昭和24年の春に「スターリンに対する感謝状署名運動」を起きた。「シベリア捕虜収容所」上下巻の著者、若槻泰雄氏によると、感謝状署名運動は、ソ連側の意向であると主張しています。その理由は、
(1)ナホトカ港乗船の際、署名に拒否した一部の捕虜に対し、ソ連官憲が「サインをしなければ帰さぬ」と言明している。
(2)従来も色々大会や会議あるいは政治学校の卒業式に際しては、ソ指示によって感謝文が決議されている。
その結果、感謝文を提出することになったが、次のような大げさな感謝状になった。
この感謝状は1万6千語にのぼる長文のもので、数十メートルに達する奉書紙に達筆の者が筆をふるい、それをきれいに表装し、刺繍を施し、20メートル以上の美しい巻物として桐の箱におさめられた。この感謝状の他に、「感謝アルバム」と題した61枚からなる画集があります。一枚一枚は収容所の生活を巧みな筆で描いたものに細かな説明文が書き込まれています。収容所生活がすばらしかったことを絵で説明し、スターリン大元帥への感謝状、6万3千人以上の人からの署名アルバム、そして61枚の絵からなる感謝アルバムをおさめる奉納庫はすばらしく精巧に作られています。これだけでも、彼らを奴隷のように扱った総責任者のスターリンに対して過剰なまでの媚びです。それでは感謝状の内容はどんな文章だったのでしょうか。
昭和63年6月に全国抑留者協議会の斎藤六郎氏が、スターリン感謝状の現物をロシアから借り受け東京で展示したが、展示後その感謝状はソ連に返されてしまった。そのため感謝状にどんな文章が書かれていたのか全然わからなかった。自民党群馬県議会議員、中村紀雄 氏は、かねてからシベリア抑留問題に興味を示していました。平成16年を7月19日、中村氏は二人の抑留体験者と一緒に新潟空港からハバロスクに向かい、ハバロスクの国立古文書館に訪れ、女性館長から幸運にも全文34頁からなる「スターリン大元帥への感謝状」のコピーを手にいれることができた。中村氏は、自分のホームページで、感謝状の一部を原文のまま、残りはその概要を公表していますが、ここに中村氏のコメント付きの公開文章を発表します。
引用開始、
「この感謝状は、昭和24年5月から8月にわたりハバロスク、沿岸両地方の日本人捕虜大集会で審議採択されたもので6万4千434名が署名したと添え書きされている。以下はこの文の主要部を紹介する。
文の表題は、「ソヴィエト諸民族の偉大なる指導者・全世界勤労者の師父にして日本人民の最良の友、スターリン大元帥へ」となっており、書き出しは、「敬愛するイシオフ・ヴィサリオーノヴィッチ」で始まる。スターリンというのは、通称であり、鉄の男を意味する。イシオフ(又はヨシフ)・ヴィッサリオーノヴィッチ・ジュガシヴィリが「大元帥」の正式な名前である。次は冒頭の全文である。
『旧日本軍捕虜である私たちは、人類最大の天才、全世界勤労者の導きの星であるあなたに、そしてあなたと通じソヴィエト政府ならびにソヴィエト人民に、偉大なるソヴィエトの国が私たちに与えられた光と歓びに対し私たちの心からの感謝とあつき感激をこめてこの手紙を送ります。あなたの配慮のもとに、そしてあなたの教え子、あなたの愛児であるソヴィエト市民、ソヴィエト軍将兵のもとに、ソヴィエトの地におくった4か年の生活こそ、私たちにとって偉大なる民主主義の学校となったのでありました。それは私たちにとって終生忘れ得ぬ感銘として残るでありましょう』

以下は引用すると長くなりますので中村氏のコメントは除いて彼が公開してくれた手紙の全文だけを引用します。
引用開始
「私たちのいくシベリアは、荒涼たる氷雪以外何ものもなくおそるべき「酷使」と「死」が待つと言われたが、実際は並々ならぬ寛大さと人道主義によって迎えられ、あらゆるサービスが完備し夢のようだった。厳正な8時間労働、十分なカロリー計算のもと一点の汚れもない調理場で日本料理風の料理がつくられ食前をにぎわす。温かい寝具と被服、立派な宿舎が保証されたあらゆる日用品と嗜好品が販売され、食事、菓子、飲料をもそなえたレストランも開設され、下着もまた毎週、清潔なものと交換され、立派な施設をもった入浴場、洗濯場が設けられている。医療に至っては日本では夢にも見られないもので、幾多の高価な薬品や医療機械が備えられ完治するまでよく見てもらえる。その他文化教養を高めるための施設や配慮が行き届き毎週ソヴィエト映画を楽しむことができる等々」
引用終了

引用開始
「私たち四年前の自分たちを振り返るとき、自らの巨大な変化に打たれる。私たちは、日本では到底学び得なかった巨大なものを学びとり身につけた。だから、社会主義の国で過ごした四か年は幸福であり、誇りである。日本軍兵士の時は奴隷であったが、ソヴィエトで解放され、初めて自由を得た。以下略」
引用終了

引用開始  
「私たち日本人捕虜の帰国も最終段階に入ったが、私たちは断じて祖国なつかしとのみ帰国するのではない。私たちの人生における最大の感銘に満ちた四年間を、我が再生の宝とし、その懐かしい想い出を変えることもなく抱き続け、私たちの聖なる誓いを固く守り、わが人民解放の闘いに必要とあらば、わが生命を掲げようとする確固たる決意に燃えて進撃するために帰国するのだ。私たちは戦争の間に諮りしえない罪悪をソヴィエト市民にかけた。このことについては限りない自己嫌悪の念に耐えない。
私たちは、今こそわが日本に帰国したその時は、日本海の波濤遠く、レーニン、スターリンの国を仰ぎ見つつ、ソヴィエトの国の偉大な模範に無限の勇気をくみ取りつつ日本人民の利益のために、全世界勤労者の自由と幸福のために、果敢に、献身的に闘うでありましょう。社会主義ソヴィエトの国に過ごした4か年の思い出は、終生私たちの心を、大なる喜びと感激をもって充たすでありましょう。そして偉大なる人民、建設者となる人民、真のヒューマニストたる人民についての思い出は、永久に日本勤労者の心のうちに生きるでありましょう。この感謝状は、最後に改めて、大元帥に対して宣誓する。
『敬愛するイシオフ・ヴィッサリオーノヴィッチ
私たちは、全世界勤労者の愛する天才的教師たるあなたの前に、そして偉大なる社会主義者ソヴィエト同盟の人民の前に、いまここに厳粛なる決意にもえて宣誓せんとするものであります。
(1)ソヴィエト人民と日本人民とのゆるぎなき友誼のために献身的に闘う。そして、私たちがこの目で見、かつ学んだソヴィエトの国の真実を日本のすみずみまで、全日本にひびきわたらせる。
(2)アメリカ帝国主義、日本帝国主義のやからどもが、私たちを再び犯罪的奴隷兵士と化することを断じて許さない。そして、解放軍たるソヴィエト軍に対し、たとえ大地がはりさけるとも二度と武器をとらない。もし再び帝国主義どもが、日本を、ソヴィエトに対する
戦争の舞台にしようとするなら、私たちは死をも恐れず決起し帝国主義者と戦う。
(3)私たちは、社会主義の事業と平和の事業に、あくまでも忠誠を守り抜く。
(4)私たちは、この聖なる誓いを、わが瞳のごとく、わが魂のごとく守り抜き断固としてそれを果たし抜く。
全世界勤労者の命であるあなたがますます健康に、限りなき長寿を保たれんことを、
日本共産党万歳!
ソヴィエト同盟に栄光あれ!
ソヴィエト軍に栄光あれ!
万国勤労者の師父、敬愛するイシオフ・ヴィッサリオーノヴィッチ万歳』

ついでにこの感謝状に署名した人たちの感激のことばを当時の現地の捕虜収容所の新聞、「日本新聞」に載せていますのでいくつかを紹介します。
「我々の小さな名を記す瞬間、なぜか手が震え五体がしびれ胸が高鳴り涙が耀き」
「輝く眼、美しい顔、清々した姿、湧き上がる決意、それが署名の瞬間だった。」
「手をきよめ、心しずめて握る筆、署名こそ我らの雄々しい姿」
「やむにやまれぬ謝恩の発露、われらのスターリン大元帥万歳を心の中で叫びました」

読者の皆さん、この感謝状の内容といい、署名者の興奮した言葉といい、どう思いますか。どんなに感情を表さない読者でも、少なくとも驚くことは間違いないでしょう。感謝状の内容を紹介してくれた中村紀雄氏は、非常に冷静に淡々と筆を進めていますが、読んでいる私は、これが日本人なのかという落胆と同時にどうしようもない怒りを感じてきます。その理由を箇条書きにします。
(1)シベリア抑留による死者の数は、合計で5万から7万です。この感謝状が書かれたときは、抑留4年後です。その時すでに万を超す何万人もの日本兵捕虜が死んでいるのです。それはすべて日本兵を抑留せよという指令を発したスターリンの責任なのです。そんなことは日本人捕虜は充分に知っていて、これほど徹底して媚びた感謝状を書いているのです。この感謝状は、収容所で死んでいった同胞への裏切りであり、祖国日本への裏切りです。祖国を裏切っておいて、彼らは心底帰国したがっていたのです。
(2)生存しておられる抑留体験者の中には、また読者の中にも、感謝状の内容は、うそも方便の一つに過ぎないと軽く考える人がいるかもしれませんが、それはあまりにも甘い考えです。6万人以上が署名した感謝状は、重要な証拠として扱われます。ソ連政府には、日本政府への反撃材料として使える貴重な史料になるのです。
(3)日本人捕虜のほとんどが軍人です、当時の日本軍人にとって「天皇陛下」は絶対的な存在であったはずです。それがどうですか。地獄のような厳しい捕虜生活を強いられ、同僚の多くが死んでゆき、自分も死ぬか生きるかの分かれ道にさしかかったとき、彼らにとって絶対的存在だった「天皇陛下」からあっさり「スターリン陛下」変わってしまったのです。
そしていままで同じ境遇で生活し、そして共産主義に転向しない同僚の捕虜を反動扱いしにしていじめぬいたのです。これが日本軍人の姿なのです。「民主運動」の狂態、感謝状の内容、どれも軍人精神を問われるだけでなく、個人としての誇りや尊厳も問われています。
さらに驚くことは、帰国したいためのみせかけの共産主義者だけでなく、多くの軍人が本当の共産主義者になってしまい、彼らの帰国時、祖国に上陸するのに、「天皇島に適前上陸」と叫んで迎えきている家族との面会もそこそこに、故郷に帰るよりもまず第一に実行したのが、東京の日本共産党本部への直行し、日本共産党員になることだった。そして帰国後半年もたって少し身が落ち着くと、日本共産党を脱党したり、熱心な活動的な共産党員でなくなってしまったのです。

シベリア抑留を体験した人は、私の批判にたいして、「実際に地獄を体験したことない人間が偉そうなこと言うな」と私を非難するでしょう。スターリンの感謝状に署名せず、自分の息子が帰国できず死ぬことになったらどうするのだ、留守家族にとってどんなことをしてもいいから帰国してほしいのだと私を批判するでしょう。しかし私が日本人捕虜を批判するのは、同じような環境の下で暮らした外国人捕虜と比べると、日本人捕虜(主にほとんど元日本軍人)があまりにも無様な姿を見せつけるからです。「日本新聞」の編集長、イワン・コワレンコ中佐は、「ドイツ人捕虜は日本人よりもっと厳しい条件で労働させられた」と語っていますが、当然だと思います。ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連領に侵入したからです。ソ連領土内では、沢山のソ連軍人や民間人の死傷者を出しているからです。独ソ戦のスターリングラードの攻防戦はあまりにも有名です。ソ連によるドイツ兵捕虜315万5千人、死亡者は109万4千250人で全捕虜の3分の1が死んでいます。日本の死者10パーセントに対しドイツはその3倍です。ドイツ兵捕虜の悲惨さは、日本兵捕虜以上だったことがわかります。それでもドイツ兵捕虜の間では、「民主運動」のような狂態を演じてドイツ兵捕虜が同胞であるドイツ兵捕虜をいためつけることもなく、ましてはスターリン感謝状など提出していません。彼らにとって、全く想像を絶するような行為でしょう。
「シベリア捕虜収容所」を書いた若槻泰雄氏によれば、その収容所の場所によっては日本兵捕虜とドイツ兵捕虜と一緒になる。日本兵捕虜は、一致してドイツ兵の堂々たる捕虜ぶりを称賛しています。全員ドイツ兵捕虜は卑屈になるどころかソ連兵を徹底して軽蔑していた。

ソ連によって抑留された軍人は、日本軍とドイツ軍だけではありません。ヨーロッパ諸国の軍人が多数抑留されています。イタリアは、ソ連遠征軍総数22万のうち約4万6千名がソ連によって抑留され、3万5千名が死亡、残り1万名のうちソ連側によって死亡が確認されているのが472名です。その他フランス、オーストリア、ルクセンブルグ等、特にハンガリーでは、同国の捕虜35万人が消息を絶っていると言われています。その他の東欧諸国、ブルガリア、チェコ、ポーランドなど多数の捕虜がソ連で抑留されたのです。それでも日本以外、どこの国も「民主運動」という狂態を演じたり、「スターリンへの感謝状」を書いたりしていません。

信念を貫いた人たち
ソ連は日本兵捕虜を粗食の下に厳寒の中、重労働を課すばかりでなく、日本兵を共産党員にするべく勉強させ、あるいはソ連のスパイにすべく教育をした。その中で共産党員にもならず、スパイにもならず最後まで信念を貫いた人たちが何人かいた。史料不足のため、私の独断と偏見で三人を選びました。草地禎吾大佐、近衛文隆、赤羽文子。草地大佐は、軍人間では有名です。ソ連当局の拷問にも耐え、民主運動の嵐にも耐え、信念を貫いた将校は草地以下十数名いたと言われています。近衛文隆は文麿の長男、甥が細川護熙元首相です。文隆が共産党員なれ、スパイになれと要求に断固と拒否続けることができたのは、細川家は天皇家に次ぐ古さの家系の重みからです。帰国できず、ついにモスクワで死去。赤羽文子は最高にすばらしい日本女性だ。彼女は軍隊教育を一切受けていない。ソ連軍に捕まった時、大連市の市長の秘書をしていて彼女が36歳の時だった。ソ連当局は、彼女が市長の秘書の前にソ連領事館でソ連人スタッフに日本語を教えていたのを知っていた。奉天から列車で17日間もかかるシベリアのチタの女囚監獄に入れられた。日本人女性は彼女一人。以来ソ連のスパイになれと説得されたが拒否し続け、シベリア滞在10年、その間故国への通信は一切拒絶された。そのうえリューマチを患い、病院での治療と早い帰国をえさにスパイ勧誘は続いたが、彼女は極北地での死を覚悟をした。そしてついに帰国の機会が訪れたのだ。

二。日系アメリカ人強制収容
昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発した。その日の夕刻、アメリカ国内における日系二世団体「日系市民協会」の指導者たちは会議を開いた。城戸三郎会長は、「我々はアメリカ市民として義務を果たすものである。米日開戦は最も不幸な出来事であるが、いまこそ我々の忠誠心を示すときである。戦場に送られるといえども、我々忠誠心は不変である。我々の父母は、法律の下ではアメリカ市民になることは許されていない。しかし、アメリカ市民である我々の父母として、善良なる住民として、どこまでも我々とともに進むことを信じて疑わないものである」という趣旨の電報をルーズベルト大統領に送った。
戦争開始後二か月後の昭和17年2月19日、ルーズベルト大統領は、大統領行政令9066号に署名、軍が国防上必要である場合に強制的に外国人を隔離することを承認した。大統領行政令はすべての「敵性外国人」に向けたものでしたが、実際に適用されたのは日系人だけでした。日本だけでなくドイツもイタリアもアメリカと戦争状態になっていたが、ドイツ系、イタリア系は適正外国人にはならなかった。こうして、アメリカ国内において日本人の血が16分の1以上混じっている日系アメリカ人は、制限期日の4月2日までに逮捕、拘束され収容所に送られることとなったのである。アメリカ国内に10ヵ所の強制収容所がつくられ合計12万人が強制収容された。その他に中南米13ヶ国の日系人、2264名をアメリカを脅かす「敵性外国人」としてアメリカ国内の抑留所に強制連行した。

ここで一つ読者に注意していただきたいのは、ハワイ在住の日系人は、一部の日系人指導者を除いて殆どの日系人が強制収容されなかったことです。理由は開戦当時のハワイ日系人の人口が15万8千人で、ハワイ全人口の35パーセントを占め現地の経済的影響力が大きかったため、ハワイ州当局が強制収容を拒否した結果です。このためハワイの日系人のほとんどが例外的に財産を失わず済んだ。
日露戦争以来、日系人は法的にも社会的にも徹底して差別され、大変な苦労を味わってきた。
日米開戦とほとんど同時に強制的に財産をほとんど失わされ、強制的に収容所にぶちこまれた。それにもかかわらず、私が驚くのは、日系市民協会の指導者たちは、おとなしく強制収容に応じ、アメリカ政府に対して抗議声明一つださず、それどころか軍隊に志願させるように要求していることです。アメリカ政府は、日米開戦以来、日系二世の徴兵、志願を凍結していたが、日系市民協会の軍隊志願の要求に応じるかたちで、昭和18年1月のその政策を変更し、「アメリカに忠誠を尽くす」と意思表示した日系二世の兵役を認めることにした。
ここで私は読者の皆さんに質問があります。
あなたが「忠誠登録」にイエスと答えたところで、あなたの両親、兄弟姉妹が強制収容所から釈放されるとか、両親が失った財産のほとんど戻ってくるとか、両親に市民権が与えられるとか、あるいはあなたが戦死したらアメリカ政府は、金銭的にあなたの両親の面倒をみてくれるとか、一切の好条件は示されませんでした。それでもあなたは、「忠誠登録」にイエスと答えてアメリカ軍に入隊しますか。
カリフォルニア州北部のツールレイク収容所では忠誠登録を強制されたことに反感をもった二世35人はデモ行進し「徴兵局に登録する意思はまったくない、しかし、日本への送還にはいつでも署名する」という抗議文を手渡した。この35人は、全員銃を突き付けられ他州の抑留所にほうりこまれてしまった。この忠誠登録によって収容所の日本人間に亀裂が深まり対立になって殺人事件にまで発展していった例も出たのも当然でしょう。
「忠誠登録」にイエスと答えて全米10カ所の収容所から志願した日系二世は、全部で1181人(その後数はずっと増えます)です。この数を多いと見るか少ないと見るかは見解の相違になるでしょう。私はとてつもない多い数字だと解釈しています。なぜなら志願者日系二世は、ほとんど全員が両親健在の年代です。私の考えでは、人生で一番見るに忍びない事とは何かと問われれば、血のにじむような努力を何十年と続けながら、その努力がなにも報われることなく一生を終わることではないでしょうか。もし自分が戦死でもすれば、両親の悲劇はますます深まるのだ。
それでも志願者数、1181人という数字は、権力に弱い、権力にすり寄って生きる日本人資質のあらわれのような気がしてなりません。ここでまた読者に問いたいのです。
人間は死を覚悟すれば、なんでもできると言われています。事実その通りでしょう。忠誠登録に「イエス」と答えて入隊した日系二世は、戦場での死を覚悟したに違いありません。死を覚悟したなら、自分たちを不当に扱ったアメリカ政府への抗議の態度ぐらいとれるはずです。それにもかかわらず多くの日系二世が入隊していったのはなぜでしょう。その理由は二つ考えられます。
(1)日本人は、権力に非常に弱い。権力者にすりよっては生きるのが得意なのだ。日系二世の入隊組は、徹底してアメリがカ政府に媚びて言ったとして言い過ぎではないでしょう。
(2)人の好い日本人が陥りやすい最大の欠陥、すなわち自分勝手な善意の思い込みです。この自分勝手な善意の思い込みが、日本の外交がどれほど損なわれているか計り知れません。韓国やシナに謝罪し、多額の経済援助をすれば、両国と友好関係が築けるだろうという善意の思い込み、ロシアに経済援助や技術援助したのも、そうすれば北方四島返還交渉に有利に作用するだろうという善意の思い込みがあったのでしょう。入隊組の日系二世は、アメリカのために入隊して戦場で死んだら、いくらなんでもアメリカ政府は、自分の家族は冷遇しないだろうという自分勝手な善意の思い込みあったのではないでしょうか。
こうしてアメリカ本土の日系二世は、入隊組と入隊拒否組との間に亀裂が入り対立関係になってしまった。
アメリカ本土と事情が違うハワイでは、忠誠登録は行われていません。アメリカ政府は、日系二世だけの部隊編成を考え、ハワイの徴兵目標を1500人としたところ、全部で1万人近く日系人が応募しています。

「称賛すべきは入隊拒否した日系人」
戦後、日系二世部隊のヨーロッパ戦線での大活躍はマスコミなどで知られています。私が一番気になったのは「忠誠登録」に「ノー」と答えて兵役拒否をした日系二世は、そのごどうしているのかでした。かれらの戦後の様子など知らされることがなかったのではないでしょうか。
平成14年5月14日、読売新聞の国際ニュース面で、「日系徴兵拒否者に謝罪」、「日系人団体 大戦後、長年『仲間外れ』」と言う見出しが出ていましたのでその記事の全文を引用します。
引用開始
「第二次大戦中、米国で強制収容に抗議して徴兵拒否した約三百人の日系人に対し、日系人団体が長年にわたる「仲間はずれ」を初めて公式に謝罪する式典が11日、サンフランシスコで開かれた。大戦で従軍して米国への忠誠心をしめした日系二世は賞賛の対象となったが、兵役拒否者は、日本人社会から長年卑怯者呼ばわりされてきた。謝罪までに要した約60年もの歳月からは、戦争によって引き裂かれた日本人社会の悲劇が浮かび上がってくる。真珠湾攻撃後、米政府は約十二万人の日本人を強制収容所の送りこみ、軍隊からも排除した。
だが、一九四三年に日系人の従軍が認められるようになると、約三万三千人の日系二世が従軍し、多数の死傷者を出しながらも勇敢な戦いぶりを見せ、日系人の名誉回復に大きく貢献した。これに対し三百二十五人の日系人が徴兵を頑として拒んだ。
『自分や両親が強制収容され権利を奪われているというのに、どうして民主主義のために戦えると言うのか』こう語るのは徴兵拒否者の一人、ミツ・コシヤマさん(77)だ。「選抜徴兵法」違反で懲役三年の判決を受けたコシヤマさんはじめ、二百五十六人が投獄された。だがもっともつらかったのは、日系人社会で受けた公然の非難だった。
全米最大の日系人団体『日系市民協会』は四十四年三月『徴兵拒否者は煽動罪に問われるべきだ』と声明。徴兵拒否者は『反逆者』『卑怯者』とののしられた。戦後の四十七年、トルーマン大統領はいち早く徴兵拒否者に謝罪し、特赦を与えたが、日系社会のわだかまり消えず、『いまでも新聞などに徴兵拒否者を批判する投書がよせられる』(コシヤマさん)
しかし日系人が二世から三世、四世へと世代交代し、徴兵拒否は正当な憲法上の権利の行使だったという理解が徐々に広がった。「日系市民協会は2000年、ようやく徴兵拒否を『理解する』という決議を採択。日系退役軍人らを説得し、11日、コシヤマなどの懲兵拒否者や家族22人を招く式典の開催にこぎつけた。
式典ではフロイド・モリ(日系市民協会会長)が『苦痛をぬぐいさることはできない』と謝罪した上で、『過去に起こった過ちを水に流そう』と呼びかけた。他にも徴兵拒否の道を選んだ人々の勇気をたたえる発言が相次いだ。式典に参加した徴兵拒否者のケン・ヨシダさん(78)は『本当は謝罪はいらない。ただ私たちは徴兵から逃げたのではなく、政府に抗議したのだということは、これからの世代に知ってほしい』と語った。(森田清司)」

日系人強制収容についてインターネットで色々調べていたところ2006年2月6日のインターネット上で2005年4月1日付けのニューヨークIPS(Inter Press Service)のニュースが、IPSジャパンの浅霧勝浩氏に翻訳されていた。
「日系人強制収容所の不当性を訴えた闘士86歳で逝去」の見出しのもとに、次のような記事が載せられていました。
「フレッド・コレマツは、第二次大戦期のローザ・パークス(米国公民権運動の母)と称される人物だが、40年間正義を待ち続けたこの日系アメリカ人は、水曜日(3月30日)北カリフォルニアのカークスブルで86年の生涯を閉じた。コレマツの40年に及ぶ(第二次大戦中の日系人強制収容所の不当性を訴えた)闘争は、カリフォルニア州オークランド刑務所の檻の中から始まった。彼の訴えは敗訴を重ねた末に米最高裁で否決され有罪が確定した(1944年)。ところが一転して犯罪歴は抹消され、しかも米国民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」が授与された」

コレマツがたどった軌跡は、米国公民権史に名を残す言語道断な事件の中でも最も醜いもの一つである。真珠湾攻撃から間もなくルーズベルト大統領はアメリカ国内に住む日系人、12万人を市民権の有無にかかわらず各地の強制収容所に送り込んだ。フレッド・コレマツの両親も収容所にぶちこまれたが、フレッド・コレマツ自身は収容所入りを拒否したため、逮捕、起訴され、刑務所に収監された。以来コレマツ氏の法廷闘争がつづいた。1944年、日系人収容処置は解除され、コレマツ氏はサンフランシスコに戻ってきた。彼は製図工として働き家族を養ったが、「前科者」が災いして大企業や公的な職につけなかった。それから約40年後1981年彼の有罪判決が偽証のせいと判明。其の後裁判所が特赦を申し出たが、コレマツ氏はこれを拒否、再審を要求した。まもなく連邦裁判所は、コレマツ氏は不確かな証拠に基づいて裁かれたとして彼の当時の有罪判決を無効とし、コレマツ氏の犯罪歴は抹消された。こうしてコレマツ氏は(40年の闘争の末)米国法史の暗黒部分に終止符をうった。
五年後、ジェラルド・フォード元大統領は、日系人強制収容処置を「国家的な過ち」と非難した。五年後、当時のドナルド・レーガン大統領は、日系人強制収容処置「深刻な不法行為」であるとし、コレマツ氏を含む数千人の生存中の元収容者に対し、一人当たり二万ドルの賠償金を支払うことを決定した、そして1999年、当時にビル・クリントン大統領は、コレマツ氏に対して、米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」を授与した。
「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています。・・・・プレッシー、ブラウン、パークス・・・・」。クリントン大統領は有名な公民権関連の事例を挙げながら続けた。『その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです。』(以下略)

このブログを書くために拙著「逆境に生きた日本人」(展転社、平成20年2月出版)を抜粋して書いています。この本の原稿を書いていたのが平成19年ごろです。ここに書いたコレマツの記事は、その当時コレマツ氏についてインターネットで調べられるすべてでした。コレマツ氏の名前の漢字を調べましたが、見つけることができませんでした。ところがこのブログを書くに当たってつい最近ネットで調べたらコレマツ氏についてのウイキペディアでは、詳しい経歴やその他いろいろな情報が手に入りびっくりしました。以下のコレマツ氏の情報は、つい最近のインターネット調べによるものです。
フレッド・コレマツの正式の名前は、フレッド・トヨサブロウ・コレマツ、漢字では是松豊三郎。2005年5年3月30日、86歳で死亡。2010年9月30日カリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定、州法に守られた市民の自由の重要性を再認識する日にした。2017年4月25日、NHKテレビで番組「NHK先人たちの低力」でフレッド・コレマツの人生の特集を放映した。私はあのNHKがコレマツ氏について放映をしたことについて非常に驚きました。私がNHKの支払い拒否を続けて13年目です。私はNHKの歴史検証番組など絶対に見ません。偏っているからです。あのNHKがコレマツ氏を取り上げたのには何か理由があるのだろうと想像をした。私の想像は、このことだろうと思う事件があった。2017年1月30日、すなわちカリフォルニア州の「フレッド・コレマツの日」にあわせてGoogleのアメリカ合衆国版のフロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うなら、声を上げることを恐れてはならない」(If you have the feeling that something is wrong,don’t be afraid to speak up.)とこうコレマツ氏の言葉を紹介しています。グーグル社は、大統領選ではトランプ氏に大口献金をしています、いわゆるトランプ大統領の人種差別といわれる大統領令には、反対なのでしょう。そのためカリフォルニア州のフレッド・コレマツの日、1月30日 に合わせてコレマツの記事をのせたのではないかといわれています。グーグルがこれだけ派手にコレマツ氏を載せると、NHKは黙視するにはいかなかったのでしょう。クリントン大統領の時、コレマツ氏に大統領自由賞が授けられた。その時日本国内で反響を呼んだのでしょうか。記憶している人おられますか。多くの日本人が偉大なコレマツ氏の存在を知ったのはつい最近ではないでしょうか?

日系人強制収容の時、12万人強制収容されました。日系人はアメリカ政府に抗議デモもするでもなく、講義の手紙を出すでもなく、従順に黙々と強制収容所に入った。入所したら、
アメリカ軍に入隊させてくれと自ら頼み込んでいるのだ。いざ入隊許可になれば、入隊拒否者が500人ばかりしでた。日系人全体で入隊拒否者を村八分にしてしまった。強制収容所そのものに入所することを拒んだたった一人の日系人がコレマツ氏だけだったのだ。日本人は、信念と突き通す人には冷淡なのだ。このブログは長くなりましたのでこの辺で辞めておきます。次回は終戦後の占領軍の統治と最重要問題の憲法改正について書きます。



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日米の歴史と文化を語る(6)

チェロキー族の「涙の道」(The Trail of Tears)
欧米白人がアメリカ大陸に進出以来、数多くのアメリカインディアン部族が武力抵抗を試みてきた。1890年(明治23年)12月29日サウス・ダコダ州のインディアン居留地、ウーンディッド・ニーで武装したスー族の一部が、アメリカ第七騎兵隊に包囲され、武装解除して降伏した。ところが、どこからともなく出た一発の銃声をきっかけに虐殺が始まったのだ。犠牲者約300人、そのうち女、子供は約200人。これが最後のアメリカとアメリカインディアンの武力衝突になった。これ以後アメリカインディアンの武力抵抗はなくなってしまった。アメリカ軍によって完全に武力制圧されたのです。アメリカという独立国ができてから115年後のことであった。アメリカインディアン各部族の悲劇の物語は色々な本に色々書かれていますが、私が一番胸を打たれるのはチェロキー族の悲劇です。
チェロキー族は、現在のジョージア州とアラバマ州を根城にする部族でした。チェロキー族も最初のうちはアメリカ人に武力抵抗をした。しかし決して勝つことのない戦いで広大な土地を失っていった。そこでチェロキー族は武力抵抗をやめ、アメリカ文明を学び、実践していったのです。
まず1820年前後にチェロキー国家、即ち独自の政府を設立したのだ。1820年代のチェロキー国の発展にすさまじいものがあります。セコイアという一人のチェロキー人がアルファベッドに似たチェロキー文字を作り出したのです。1825年新約聖書のチェロキー語訳完成。さらに1827年英語、チェロキー語を使用して成文化された憲法を制定、1828年には英語とチェロキー語を併載する週刊新聞「チェロキー・フェニックス」を発刊したのだ。その社説には次のような事が誇らかに述べられていた。
「わが国の法律、公文書及びチェロキー人民の福祉状況に関係ある事柄は、忠実に英語とチェロキー語両語で出版されるだろう。」
このチェロキー国の発展の影にモラビア教団の宣教師たちの活躍があったのです。しかしジョージア州当局はチェロキー国の発展を望まず、政府に働きかけてチェロキー族を一掃しようとします。また州当局はチェロキー族の土地の買収を企てます。チェロキー国は、個人の土地売買を禁止し、もし違反の場合死刑という法律を作って抵抗します。チェロキー一族の団結は固いとみた州当局は、いくつかの嫌がらせをするのですが、そのうちの一つが「チェロキーランド宝くじ」です。この宝くじの内容を簡単に言えば、私の住所が、かりに1-2-3としますと、この番号をひいた白人は私の住んでいる土地と家がその白人のものになるというのです。実にたちの悪いいやがらせです。
1892年ジャクソン大統領は、国会施政演説でジョージア、アラバマ州内のチェロキー族の独立国家を認めず、彼ら全部をミシシッピー川以西の地に移す法案を提出することを発表した。1830年にはジャクソン大統領提案の「インディアン強制移住法」が可決成立してしまった。そして運悪く1830年代にチェロキー国内で有望な金山が発見された。
そしてとうとう1838年5月23日が、チェロキー国、全国民のオクラホマ居留地移住の日と決められ、ジャクソン大統領の署名がなされた。その移住日にまにあわせるために合衆国政府は、急造の強制収容所を作りチェロキー族を押し込めた。ところが実際の本格的移住はその年の秋ごろになってしまった。すなわちおよそ半年間強制収容所に押し込まれた生活をよぎなくされた。合計およそ16、000人のチェロキー族をオクラホマ州に設置された居留地に強制移住させるには、膨大な費用がかかりますが、その費用はすべて政府が持ち、実際の運送は入札に参加した業者にやらせたのです。業者は政府からおりるお金をすこしでもピンハネするために毛布の枚数、食料の量、幌馬車の数など減らすことのできるものはあらゆるものが減らされた。オクラホマの居留地およそ1300キロ、道中は難渋をきわめた。食料不足による栄養失調、冬の寒さ、コレラや天然痘など伝染病などで次々病人や死者が出た。死者が出たところで埋葬のために行進は止まることはなかったのです。死者はその場で捨てられました。運送業者は、チェロキー族の死を歓迎した。一人でも死ねば、その分費用がうくからです。目的地に到着した時、正確な死者の数はわかりませんが4,000人と言われています。4人に一人が死んだのだ。このチェロキー族の強制移住を「涙の道」(The Trail of Tears)と呼ばれています。

1838年12月、まだチェロキー族の飢えと寒さと疲労の長い嗚咽の列がオクラホマに向かっている時、ワシントンの国会では大統領、ヴァン・ビューレンが白々しい報告を行っていた。
「私はここに国会に対し、チェロキー・ネイションの、ミシシッピーの西の彼らの新しい土地への移住の完了を報告することに、心から喜びを感ずるものであります。さきに国会において承認決定されました諸方策は、もっともな幸福な結果をもたらしました。現地の米軍司令官とチェロキーとの間の了解に基づいて、移住はもっぱら彼ら自身の指導のもとに行われ、チェロキー達はいささかのためらいを示すこともなく移住をいたしました。」
これはアメリカの大統領は、議会でもうそ、でたらめを平気で語ることの証明です。
アメリカ政府は、およそ20,000人にも満たない小国すら認めようとしなかったのです。チョロキー族は、自分たちの文字を作り、英語を学び、アメリカ政府と協調するためにあらゆる努力をしたがむくわれることはなかったのです。なぜか?それはインディアンが有色人種であり異教徒だからです。アメリカ政府が有色人種であり異教徒である人たちを対等に扱いはじめたのは1960年代に入ってからです。
このチェロキー族の悲劇「涙の道」(The Trail of Tears)の物語は、一般のアメリカ人の間では常識にはなっていません、しかし大東亜戦争時の「バターン死の行進」は、日本軍の残虐行為としてアメリカ人の常識のように知られています。「バターン死の行進」とは、フイリピンのバターン半島の戦場でアメリカ兵とフイリピン兵、合計7万6千人が捕虜となり、鉄道のあるサンフェルナンドまで90キロを夏の炎天下に歩かされたので多数の死者が出た事件のことです。1970年制作のアメリカ映画に「フラップ」という作品があります。この映画は1971年に日本で「最後のインディアン」で上映されています。私の年代ならおそらく誰もが知っているメキシコ系アメリカ人俳優、アンソニー・クィンがアメリカ兵として第二次大戦従軍の経験があるアメリカインディアン役を演じています。その映画のセリフのなかで彼がこう語っている場面がある。
「(チェロキー族の)「涙の道」に比べりゃ、バターン死の行進なんざぁ、そんじょそこらのピクニックみてぇなもんだ。」
それそうでしょう。夏の炎天下に歩かされた距離がおよそ90キロ、捕虜の米比兵は
手ぶらで歩き、護衛する日本兵は、20キロの完全装備で歩くのだから日本兵は苦しい行軍をしいられ、日本兵にも犠牲者も出たほどだ。当時日本軍にとってトラックは貴重品で捕虜何万人も載せるトラックなどなかったのだ。それがチェロキー族にいたってはオクラホマ州居留地まで健常者は1300キロも歩かされているのだ。まさしく90キロの「バターン死の行進」がピクニックに見えるわけです。

このチェロキーの「涙の道」(The Trail of Tears)は、拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の第六章アメリカの侵略主義、第一節インディアンとの戦争(136頁)からの抜粋です。この本が出版されたのが2004年ですが、当時「フラップ」というアメリカ映画で、アメリカインディアン役のアンソニー・クィンの台詞は承知していたのですが、日本でどういう題名で上映されたのか、全くわからなかった。現在では「最後のインディアン」という題名で上映されたのもわかるし、映画の内容も知ることもできます。10年以上前とはネットのウイキペディアもずっと進歩しているのですね。

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