日米の歴史と文化を語る。(2)



神様とゴッドの話
戦前、戦時中は、昭和天皇は現人神(あらひとがみ)と呼ばれ神様扱いでした。しかし天皇陛下を神様と呼んだのは、なにも昭和天皇が最初ではありません。大昔から天皇は神と呼ばれていた。天皇を神と呼んだ最も古い記録は、「万葉集」の中にあります。「万葉集」とは、5世紀に君臨した仁徳天皇が詠んだ歌から8世紀半ばごろまでに歌われた4,500首の和歌を集めたもので、全20巻からなる歌集です。作者は天皇を初めとする皇族、貴族から庶民にいたるまで幅広い層にわたっています。日本が誇る最古の歌集です。その中に7世紀の歌で天武天皇の皇居造営を賛美したものがあります。(大君は神にしませば赤駒のはらばう田井をみやことなしつ)。これがその歌です。これで古くから天皇が神と呼ばれていたことがわかります。ところが日本では天皇だけが神あるいは神様と呼ばれていたわけではないのです。八百万(やおろず)の神と言って文字通り八百万の神様がいるとは思いませんが、とにかく沢山の神様が日本にいるということなのです。神様が日本に合計何人いるか正確な数は誰も知らないのです。
太陽、風、雷、海、山、森など自然や自然現象などにはほとんど神様がいるのです。神馬などと言って動物にも神と呼ばれる動物や神様との仲介する動物がいます。七福神といって富をもたらす神もいれば、疫病神といって病をはやらす神もいます。また縁結びの神といって結婚の縁組を司る神もいます。人間が死ねば神様に祭り上げられる人もいます、特に戦争中では、戦場で非常に功績のあった軍人は死後、神様となって祭られました。日露戦争の時、日本海海戦の司令官だった東郷元帥は、死後軍神として東郷神社という社で祭られているのは有名です。このように日本には、数え切れないほどの神様がいるのです。すなわち日本は、二つや三つの神ではすまない数多くの多神教の国なのです。にもかかわらず元森喜郎首相が、何年か前に「日本は神の国」と言ったらマスコミはじめ色々な方面から非難が飛んだが、彼ら全員馬鹿なのだ。この多神教の神を、誰が最初に訳したのか知れませんが、ゴッドと訳してしまったのです。これは大変な間違いなのです。なぜなら英語のゴッドは、全知全能の神とか造物主とか言ってたった一人しかいないのです。日本に沢山いる神々とは似ても似つかぬ、全く異なった存在なのです。神をゴッドと訳したため、特に戦争中アメリカ人は、日本人は昭和天皇のことを彼らの言うところのゴッドと思っていると思いこんでいたのです。証拠があります。1945年9月27日、敗戦の翌月、昭和天皇は、アメリカ占領軍最高司令官マッカーサー元帥に会うためにアメリカ大使館を訪問しました、

その日が両者の初めての会見でした。マッカーサーの妻、ジーン夫人は、その日夫の指示に従って日本人の使用人全員をキッチンに集めて、午前中はどこにも行かせずここで銀器をみがいているよう命令したのです。理由はマッカーサーが、昭和天皇は神であり、傍に近ずくことすら許されない存在である。だからもしその天皇が自分の目の前に姿を現したなら、日本人の使用人は、きっと全員ショックで気絶してしまうだろうと思ったからなのです。このことはマッカーサー自身が、日本人は天皇をゴッドと思っていると信じていたのですから恐らく他のアメリカ人も同じ思いだったのでしょう。そのためアメリカ占領軍の意向により終戦の翌年、1946年の元旦に昭和天皇は、有名な「人間宣言」の詔書を発せさせられたのです。昭和天皇自身に神を否定させたGHQは、キリスト教を日本国内に流行らすために日本全国で国民の神社内での会合をさせないように、日本全国いたるところ公民館を建設させた。戦前、昭和天皇は現人神(あらひとがみ)と呼ばれていましたが、昭和天皇が人間でないと思った日本人はいないと言っていいでしょう。ところがこの「人間宣言」よって欧米人には、この「人間宣言」がはっせられるまで、日本人は昭和天皇をゴッドとして信じていたと確信させることになってしまったのです。同時に大東亜戦争で日本だけ徹底して非難してやまない反日日本人に「天皇の神格化の弊害」などと言って、日本批判の材料をあたえることになったのです。彼らは、日本の天皇が昔から神とよばれていたこと、神とゴッドの違いなど知らないのか、知らないふりをしているのです。これからは、神を安易にゴッドと訳さず絶対に「kami」として徹底して押し通すべきだと思います。「謝罪」、「迎合」、「主体性の欠如」と言う文化にどっぷりひたりがちな日本民象は、自分の主体性を世界にあまり主張することがない。特に大事な宗教に関しては、日本は「kami」の国の多神教だと、徹底して多神教であることを主張すべきだと思っています。

世界的には圧倒的に一神教の国が多く、日本みたいに日本古来の神道と外国から伝わった仏教がものの見事に融合しあっている多神教の国は世界でもめずらしいのです。世界が平和になるためには多神教を受け入れる国になるか、あるいは多神教を許容できる国になることが絶対に必要だと思っています。多神教の良さはその寛容性です。アメリカの最近の歴代大統領は、イスラエルとパレスチナの争いの仲介をとろうとして苦労を続けています。一年365日、たった一日で良いからイスラエル人は、イスラム教を、パレスチナ人はユダヤ教を礼拝する日をもうけたらどうだろうか。この提案を聞けば両国民は仰天し、無論反対するでしょう。アメリカの大統領も一神教だからこういう提案もできないでしょう。しかし日本人は多神教だからこの提案もできるし、また国民も実行できます。たまには日本の首相も、世界平和のために国連で多神教の寛容性についての演説をしてみたらどうですか。私に言わせれば、一神教の人間は、多神教の人間より頭が高い。多神教の人間の言うことよく耳を傾けろといいたい。







コメント

「鳩山のバカ、アホ、ノータリーン」(その6)



鳩山由紀夫が首相時代、アメリカのワシントンポスト紙(2010年4月14日)では、loopy Japanese Prime Minister Yukio Hatoyamaと書かれたことは有名です。ルーピー(loopy)とは「愚か者」の意味です。このためこのルーピー鳩山が流行語のようによく使われたのを思いだします。彼の打ち出す政策、構想、発言に実にバカげた事案が多い、例えば、「日本列島は、日本人だけの物じゃない」等で、私は「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」というブログタイトルでシリーズをだしていましたが、鳩山の愚かさをワシントンポスト紙も証明してくれたわと喜んでいました。そのシリーズは(1)から(5)まであります。その日付けとブログタイトルの明細は次の通りです。
2009年9月20日 「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」(その1)
            国連での温室効果ガス排出削減
2009年10月2日 「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」(その2)
            核軍縮、核不拡散条約について
2009年10月10日「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」(その3)
            東京オリンピックについて
2010年4月10日 「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」(その4)
            子供手当と高校授業料無償化
2014年4月25日 「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」(その5)
            東アジア共同体構想

その後鳩山は、総理を止めたので、彼のバカサかげんが下火になったのだろうと思い「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」シリーズ(5)で終わっていた。しかし4年前に政界を引退したにもかかわらず、あいかわらず「バカ、アホ、ノータリン」をくりかえしているのだ。しかたなく今回「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」(その6)を出すことにした。
この「その6」は、下記の三つの事柄からなりたっています。
1.鳩山元首相は、ロシアのクリミア併合後にクリミアを訪問し、ロシアのクリミア併合容
認の発言をしたのだ。(ネットニュース 2015・3・15)
プーチンは「クリミア併合」問題で国連総会が非難決議を出しても歯牙にもかけなかった。なぜなら安保理でロシアは拒否権を有しているからだ。

2.鳩山は韓国訪問、日本統治時代の独立運動家が収監された西大門刑務所跡地を訪問し、その際靴を脱ぎ、土下座して「元日本の総理として心から申し訳なく思っている。」と謝罪した。(ネットニュース 2015・8・12)

3.シナ主導の国際金融機関、アジアインフラ投資銀行(AIIB)金立群総裁から「国際諮問委員会」の委員就任を打診されたことを鳩山由紀夫は明らかにし、就任の意欲をしめしたことを明らかにした。(産経新聞 2016・6・26)
AIIBの創設メンバーは57ヶ国で、24ヶ国が新たに加盟を希望しているが、日本と米国はガバナンス(統治)などへの懸念から参加を見送っている。AIIB側は日米などの要職経験者を招聘することで、国際的信認を高める狙いがあるとみられる。鳩山の意向は、日本政府の意向とは完全に違うのだ。鳩山は、またしても日本政府に弓を構えているようなものです。

私は読者の皆さんに時間があればぜひ読んでもらいたいのは、2010年4月25日の「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」(その5)の「東アジア共同体構想」です。この記事は、私が書いたのでなく、広島県の福山市に住む私のネット友人、中山善照氏がネット上に書いたものを、彼の了解をとり私のブログで転載したものです。中山氏は、私と同年生まれの同い年、最終学歴も私と同じ高卒です。彼は世界史、日本史、宗教史に造詣が深く、専門家顔負けの知識の深さです。世間には例え無名でも、ものすごい人物がいるものだということを実感させてくれる人物です。鳩山が首相時代に提案した東アジア共同体構想がいかに愚かな構想かを歴史的にわかりやすく説明しています。ぜひ中山氏の東アジア共同体構想の文章を読んでいただきたいと思っています。やさしく、分かり易く、それでいて軽妙洒脱に鳩山をからかうすばらしい文章です。私にはこういう文章は書けません。「えんだんじのブログ」の一頁目の左側に年月が縦にならんでいます。その中の2010年4月をクリックしてください。「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」(その5)が現れます。ぜひ読んでみてください。

Comments (2)

自らの努力で美人に仕立てた女性(73歳)



私と同年代の男性でブログのタイトルに出ている73歳の女性の名前を知っているでしょうか?多分知らないのではないでしょうか。私もつい二、三カ月前までBSテレビで彼女へのインタビュー番組を見るまで全然知らなかった。女性、特に30代以降の女性は、彼女の名前を殆ど知っているでしょう。名前は佐伯チズ、日本のスキンケア界の代表的な美容アドバイザーです。彼女は、まだ大東亜戦争中の昭和18年に満州に生まれ現在73歳、私より5歳若い私と同年代です。無事満州から引き揚げ、15歳の時に見た映画で女優、オードリー・ヘップバーンを見て、「世の中にこんなに美しい女性がいるのか?」と美意識に目覚めたと言うのだ。何とか二重まぶたになりたく両手の指でまぶたを撫で続け、二重まぶたになることができた。ついでだが、戦後私の叔母は、年は20代前半だったが、やはり二重まぶたになりたくて、ひまさえあれば鏡の前でまぶたにヘアピンで線を描いていた。何年も一心不乱にやりつづけて見事な二重まぶたにしあげた。
女性というものは、生まれつきの容姿で美人、不美人は決まるが、しかし例え十人並でも本人の美意識に対する執念が美しくなるための行動を長続きさせることができ、美人に育てあげることができるのだ。私の叔母も佐伯チズもそうです。73歳の佐伯チズをテレビで見た時、私は彼女の顔、首まわり、手首など肌が直によく見える所をよく注意して見たが、実に若い、また容姿全体も眺めたが、背中がまっすぐ実に若々しいオーラをかもしだしているすばらしい女性、おばあさんという感じがまったくありません。

彼女の半生を追ってみると、24歳の時にプラネタリウム製造技術者と結婚。結婚後すぐにフランスの化粧品会社、ゲランに入社。昭和57年にクリスチャン・ディオールのインターナショナル トレーニング マネージャーに就任。昭和59年、彼女が41歳の時、夫が病死、子供はいず、以後独身を通す。彼女の化粧品業界の功績の一つは、ローションパックの先駆者でそのローションパックを広めたことでしょう。彼女の美容関係の著作もすごい。講談社15冊、大和書房13冊、計28冊。ほとんど美肌ケア、美肌ダイエット、美肌カウンセリング関係です。定年退職後の彼女の活躍もすばらしい。平成15年定年退職後、「アトリエ サエキ144」を主宰、エステティックサロン「サロン・ドール・マ・ポーテ」を開業、平成20年 佐伯式美肌塾「チャモロジースクール」を銀座にオープン。沢山のテレビ番組、CMに出演。
これだけの著作を出し、テレビに出れば、なにが何でも美しく、若々しくなければ宣伝にもなりません。自分自身を美しく見せる彼女の努力は大変なものだったでしょう。私の見たテレビインタビューの終わり頃、彼女が出かけるとき、いつも持ってゆくきれいな袋を見せ、その中から取り出したきれいな小箱を見せた。夫の死後の遺骨のいくつかが入っているのだ。その遺骨は取り出さなかったが、「これが夫の喉ちんこ、これが夫の体のどこの部分」とか説明していた。自宅の仏壇に全遺骨が置いてあり、私が死んだら私の遺骨と一緒に泥団子のようなものでいいから固めてどこかに埋めてほしい、絶対に別々にして埋めないでと親戚の者に言ってあるそうだ。本人が出かけて帰宅すると、その日何をしてきたのか、仏壇に向かって話しかけてあげるのだそうだ。できることなら、死んだ夫ともう一度結婚したいのよと語っていた。41歳で夫の死後、新しい伴侶に恵まれ再婚するのも素敵な話です。しかし佐伯チズのように夫の死後も再婚することなくたった一人の男を死ぬまで思い続けるというのは、まさに昭和生まれ、昭和育ちの女性には、日本の古き女性が持っていた美点のようなものを持っているのだと思っています。

私は今小説を書いています。数人の女性の生き様を書いた短編小説です。佐伯チズという女性を知って、その小説のタイトルを決めました。「戦後昭和の女性たち」です。全員昭和生まれ、昭和育ちの女性たちです。この女性たちの中には人生の土壇場で、日本の古き、良き女性の生き方を選ぶ女性がいるのです。ぜひ小説の完成を期待していてください。
私が何故小説を書いているか、気になるかたは、私のブログ「ベストセラー誕生作戦」4月16日をお読みください。






コメント

「えんだんじのブログ」の緊急情報

    「つくる会」情報
シンポジウム「通州事件とは何か?」
通州事件アーカイブズ設立基金が開催

本年5月、日本・チベットの有志により「20世紀中国大陸における政治暴力の記録:チベット、日本」というタイトルで、1937年7月29日に起こった通州事件と、戦後の中国によるチベット民族消滅化政策をユネスコの世界記憶遺産に申請しました。
この度、記憶遺産申請の際の通州事件の調査チームが核となり、通州事件についての発掘、調査、保存、普及のためのNGOとして「通州事件アーカイブズ設立基金」(代表=藤岡信勝)が発足されました。
通州事件からちょうど79年となる本年7月29日、基金の発足を記念し、下記のとおりシンポジウムが開催されます。当会会員・支援者の皆さまも、是非1人でも多くご参加いただきますよう、お願い申し上げます。

 
シンポジウム「通州事件とは何か?」
‐通州事件アーカイブズ設立基金発足記念シンポジウム‐

日 時 平成28 年7 月29 日(金)18:30 開会(20:30 終了予定)

■場 所 東京・角筈(つのはず)区民ホール
     〒160-0023 新宿区西新宿4-33-7(電話)03-3377-1372
      (京王線「初台駅」、大江戸線「都庁前駅」A5出口より徒歩10分)

■参加費 1000 円(申し込みTel03-6912-0047 Fax03-6912-0048)

<証言> 通州事件の犠牲者と遺族のその後
 石井 葉子(遺族・世田谷在住)
  聞き手 皿木 喜久(元産経新聞論説委員長)
<講演>ユネスコ記憶遺産「通州・チベット」共同申請の歴史的意義
 ペマ・ギャルポ(国際政治学者)

<鼎談> 日本近代史の中の通州事件 
 北村 稔(立命館大学名誉教授) 加藤 康男(ノンフィクション作家)
 藤岡 信勝(拓殖大学客員教授)

<アピール> 通州事件アーカイブズ設立基金へのお誘い
 石原 隆夫(基金事務局長)

■主催 通州事件アーカイブズ設立基金


Comments (1)

北条政子は、何故国民の間であまり知られていないのか?



        このブログの転載、拡散をよろしくお願いいたします。
「自虐史観」とは戦後から現在にまで続いている歴史観であり、特に今から30年ぐらい前までは「自虐史観」一辺倒でした。「皇国史観」とは明治から終戦までの歴史観のことです。ここで皆さんに承知していただきたいのは、「皇国史観」と言う言葉は、戦前からあった言葉でなく、戦後の歴史家や知識人が戦前の歴史観を批判するために作った言葉だということです。疑問に思う方は、戦前に出版された国語辞書を見てください。「皇国」という言葉は辞書に載っていますが、「皇国史観」という言葉は載っていません。私の持っている平成7年年出版の「大辞林」には戦後版ですから「皇国史観」は載っています。
明治政府は、天皇を頭にいだいて江戸幕府を倒してできた政府です。そのため明治から敗戦の昭和20年まで、天皇家の権力や権威は、非常に大きなものでした。明治初めから敗戦までの日本史教育が、天皇家を中心に語られ、教えこまれてきました。
これが皇国史観と戦後呼ばれています。日本の歴史がかなりの程度天皇家を中心に語られるのわやむを得ないと思います。皇室の歴史は、日本の歴史でもあるからです。まして明治以降は、天皇家そのものが権力者だったから、余計に天皇家中心に語られるのはやむを得なかったと思います。

ところが戦後、日本批判がゆきすぎて「自虐史観」と呼ばれるように、戦前の歴史も「皇国史観」と呼ばれるようにあまりにも天皇家中心になりすぎてしまったのです。その弊害の一つは日本史上において天皇家と直接権力争いをした人物は、悪人とかたづけられ、人物像が正当に評価されないことです。北条政子はその典型的な例でしょう。
天皇家の鎌倉幕府に対する武力挑戦が承久の乱です。その乱に勝利した鎌倉幕府は、上皇二人を島流しにしています。上皇とは元天皇の地位にいた人のことです。その上皇二人を島流しにするとは不届きな奴ということで、北条政子は悪女扱い、陰謀家などと言われるのはそのせいなのです。このように皇国史観では、北条政子はけなされることはあっても、評価されることのない女性でした。
しかし北条政子すなわち鎌倉幕府は、政治権力を握っていたが、天皇家の権威をずっと立てていました。その一番大きな証拠は、政子の実子が死に絶えたとき、政子は京都の天皇家に頼み込み天皇家ゆかりの摂関家の幼児を京都から迎いれて将軍職につけたことです。ところが後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の後継者の種がつきると、鎌倉幕府を倒幕しようと「院宣」を各地にばらまきました。幕府への謀反を命じたのです。これが後に呼ばれた「承久の乱」です。承久の乱を起こしたのは、政子側でなく上皇側です。「承久の乱」の失敗後は、政子は上皇を殺さず島流しにしているだけです。この「承久の乱」がいつ起こったのかというと1209年です。いまから800年前です。800年前の日本の歴史なら、歴史家ばかりでなく私たちも公平に歴史をながめることはできるはずです。北条政子が、二人の上皇を島流しにしたのがイメージ的に悪いと非難する人がいますが、現在の日本人に政子を批判できる資格のある人はいるのでしょうか。

なぜならば終戦後の日本人を見てください。昭和天皇の権力は喪失し、廃位させられたも同然。宮様家は、廃止させられ、その後復活する兆しも全然なし。いずれ皇太子になられる殿下は嫁選びに苦労することでしょう。勝利国の太平洋戦争史観を植え付けるために大東亜戦争と呼ぶなと言われれば嬉々として従い、さらに国際条約違反の憲法まで押し付けられ、独立を回復しても廃棄も、改正もせず、一切変えこともなく、そのまま使っているのだ。要するにGHQの反皇室命令などに従順に従い続けている我々に政子を批判できる資格はありません。ここらで北条政子の名誉をもう回復すべき時なのです。皆さん、政子が権力を握っていた時代の世界を見て下さい。
アメリカ、カナダ、ニュージ-ランド、オーストラリアなどの国など影も形もないどころか現在の英国(グレイト・ブリテイン)もまだ存在していません。当時となりのシナは、蒙古人のフビライハーンに支配され、彼は日本を滅ぼそうと二度も大軍を派遣(蒙古襲来、文永の役と弘安の役)してきて鎌倉幕府の必死の抵抗に会うなどして失敗しています。ヨーロッパや地中海は、キリスト教の十字軍がイスラム教の国々と戦争を繰り返していたのだ。一体当時のどこの文明国に北条政子のように女性権力者がいたというのだ。当時の世界では、北条政子という女性は、世界史を代表する女性ではないですか。当時は男女同権、平等の思想など全くない時代、武将ともなれば側室を自由自在に持てる時代です。そのため政子は嫉妬に狂い側室宅を燃やしてしまう行為にも出た。しかし政治的行為には嫉妬の影響はみられません。政治的行為と私的行為を区別できる女性だったと思います。

私は横浜在住なので、鎌倉にたまに出かけますが、政子の地味なお墓はありますが、その他に政子の存在感を示す特別なものが何もない。頼朝死後政子のがんばりで現在の鎌倉は古都としての面目を保って観光地になっているのではないでしょうか。ところが鎌倉にやってくる観光客の多くが政子の名前を知らずに来て、政子の名前を知ることもなく帰ってしまうのだ。これは鎌倉市政の落ち度ではないでしょうか。800年も前に世界史的女性として北条政子が存在したことをもっと日本国民に知らしめる必要があるのではないでしょうか。それによって若い日本女性に刺激を与えることもできると思っています。
私が北条政子の物語を書くにあたって参考文献にしたのは、「日本の女性史 2巻 (乱世に生きる)」和歌森太郎、山本藤枝、集英社(昭和40年)。





コメント

「鉄の女」北条政子(2)



          このブログの転載、拡散をお願いいたします。
1.尼将軍
暗殺される前、生存中の次男、実朝は体が弱く、結婚後十年以上たっても子供ができなかった。昔のことですから体力のなさが原因と考えたことでしょう。そのため実朝の跡継ぎが問題になってきました。そこで政子や幕府首脳陣が話し合った結果、誰の発案かわかりませんが京都から皇族の将軍を迎えようということに決まった。その交渉のため政子が京都にのぼった。交渉の結果、後鳥羽上皇の息子の六条宮か、冷泉(れいぜい)宮かのどちらかを将軍として鎌倉へ使わすという約束をとりつけて鎌倉に帰郷した。ところが実朝が暗殺されてしまったので、早速幕府側は、約束の履行を要求した。
ところが後鳥羽上皇は、源氏将軍家の断絶は、鎌倉幕府打倒の絶好の機会ととらえ政子との約束を反故にしようとした。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の荘園支配に不満を持っていた。上皇の収入に直結するからです。
それでも再交渉の結果、左大臣九条道家の子で、西園寺公経(きんつね)の孫、頼朝からいえば、妹の曾孫にあたる二歳の幼児、藤原頼経(よりつね)を将軍として鎌倉に向かえることで話が落ち着いた。二歳の幼児将軍頼経(よりつね)は、1219年7月19日鎌倉に到着した。
後見人は政子がなった。これによって政子は尼将軍と呼ばれるにようになった。夫、頼朝の死後、政子はすぐ出家して尼になっていましたが、今まではどちらかと言えば影の実力者のような存在でした。
ここで尼将軍と呼ばれ幼児将軍の後見人になり、政治面で弟の執権義時と同じように肩を並べたようになったのです。実朝が殺されたのが同じ年の1月12日ですから、悲しみに浸っているどころか、わずか半年で政治の矢面にたったというのは政子の並々ならぬ精神力がうかがえます。
2.承久(じょうきゅう)の乱
鎌倉幕府と後鳥羽上皇との関係は、幼児将軍、藤原頼経を鎌倉へくだすことで決着がついたわけではなかった。後鳥羽上皇は、実朝が死に源氏の跡継ぎが絶えたこの時期が鎌倉幕府を倒す好機と、北条氏に不満を持つ武士たち、京都の御家人たちを集めたりして倒幕の準備をしていた。
1221年5月19日京都から鎌倉まで4日で到達できるという超特急の飛脚が鎌倉に着いた。鎌倉から京都守護職に出向いている伊賀光季(みつすえ)からの飛脚でした。
「院ではしきりに兵を集めています。私の身辺もあぶないようです」
この時伊賀光季はすでに殺されていた。5月14日に後鳥羽上皇が召集をかけたのに京都にいた鎌倉の御家人たちで、光季ただ一人応じなかったからです。
5月19日の光季の最初の飛脚後、その日のうちに次々と飛脚が着いた。飛脚たちの報告で政子を初め幕府首脳陣は愕然とした。上皇の呼びかけに応じて北条氏に滅ぼされた比企氏や和田氏の一族の裏切りはしかたがないとしても、鎌倉御家人の有力者に裏切りが出ていること。上皇が義時追討の院宣を全国に配布したこと。
院宣とは上皇が出す公文書のことです。院宣の影響力は大きく枯れ木に花が咲くとまで言われてきました。すなわち鎌倉幕府が「朝敵」になってしまったのです。その日のうちに上皇の院宣を持った使者が鎌倉に到着しました。
幕府は滅びるかもしれない。鎌倉武士に動揺が広がりました。ぐずぐずしていると上皇軍の数がふくれあがるかもしれないとその日のうちに義時、時房の兄弟、義時の長男泰時、大江広元らがあわただしく政子の邸宅に集まった。同時に鎌倉中の御家人たちも招集された。
政子の邸宅、また庭のすみずみまでぎっしり集まった御家人たちを前に尼将軍政子は、一世一代の名演説をぶちあげた。
「みなさん、心を一つにして聞いてください。これは私の最後の言葉です。あなたたちには、昔は三年の大番(おおばん)(京都大番役のこと)というものがあった。大切な勤めゆえ、みなはりきって出かけていった。しかし三年ののちには力つきて、みすぼらしいみのかさ姿、足にははくものがないありさまで帰って来た。故殿(頼朝のこと)はそれをあわれんで、三年の勤めを六ヶ月にちぢめ、分に応じたわりあてをして、みなが助かるようにはかられたではないですか。
これほどの深いおなさけを忘れて、京がたへつこうとする者は、・・・いいえ、とどまって鎌倉がたへ奉公しようとする者も、さあ、ここで、はっきり、所存を申し述べて下さい」
政子は上皇の院宣の不当さをなじり、鎌倉には将軍四代の今までに、朝敵の汚名をきせられるようなあやまちは、露ちりほどもなかったと主張、さらに「わたしはなまじこの年まで生き延びて、三代将軍の墓所を、西国のやからの馬のひづめにかけられるのかと思うとくやしくてならない。これ以上生きて何になろう。京都がたにつきたいのなら、この尼を殺してからいくがいい」
切々と訴える政子の目には涙があふれ、聞いている御家人たちの目にも涙、政子の説得は功を奏し、御家人たちは一致団結した。防御に専心すりより一刻も早い攻撃と決定。
5月21日の夜、総指揮官、北条泰時は、主従わずか18騎で鎌倉をたった。時房と朝時(泰時の弟)がこれに続き、東国の武士たちが続々とあつまり、京都を攻め入る時は19万の大軍になり朝廷側に圧勝した。これを承久の年に起こったので承久の乱と言う。乱後の処分に政子も立ち会っています。
事件の張本人、後鳥羽上皇は出家の上、隠岐の島(島根県)へ、後鳥羽上皇の皇子の順徳上皇は佐渡島(新潟県)へ配流ときまった。同じく後鳥羽上皇の皇子、土御門(つちみかど)上皇は、事件に関係がなかったけれど、自ら進んで土佐(高知県)にひっこんでしまった。
3.政子の弟、義時の急死
承久の乱からまる3年後の1224年、執権北条義時が急死した。義時は持病の脚気を病んでいたところへ発作をおこし、いまでいう脚気衝心で死んだというのが公式発表でした。ところが義時は毒殺されたというのです。首謀者は義時の後妻伊賀の方(かた)とその兄伊賀光宗。伊賀の方には義時との間に一男一女がいた。
娘の方が、参議右中将一条実雅(さねまさ)に嫁いでいて、当時20歳の政村(まさむら)という息子がいた。伊賀の方と、兄光宗は、この一条実雅を将軍に、政村(まさむら)を執権にし、幕府の権力を伊賀氏の手中におさめようという野望を抱いていた。
これはまさにかっての政子の父、時政の後妻牧氏の陰謀の再生版です。伊賀の方と兄光宗は、幕府の最有力者、三浦義村(よしむら)を抱き込みにかかった。それを察知した政子は、一人で三浦邸に乗り込み義村を談判、説得し陰謀を未然に防いだ。そして首謀者、伊賀の方と兄光宗を流罪に処した。
この事件解決後、政子は病に倒れた。執権北条泰時を初め鎌倉じゅう大変熱のこもった治癒祈願がおこなわれたという。ついに69歳の生涯をとじた。政子にとってやっと得た安息の日は、死だったのではないでしょうか。
しかもあの世では、夫頼朝に「政子、お前は本当によくがんばってくれた」と涙を流して喜び、しっかりと政子を抱きしめたことでしょう。政子のお墓は、現在鎌倉の源氏山のふもと、寿福寺の岩窟に実朝のお墓と並んでいる。
4.政子陰謀家への反論
政子は鎌倉幕府の実権を政子の実家、北条家ににぎらせるために数々の陰謀を行ったという陰謀家説があります。小説家が、政子を陰謀家と描くのは勝手ですが、歴史家や知識人が政子を陰謀家のように扱うのはいただけないと思います。
史実的には、政子が陰謀家だったということを肯定する史料もなければ否定する史料もないからです。(もっとも私の知る限りではという条件はつきますが)
私は政子を非常に好意的にとらえるのは、承久の乱の時の政子の存在感の大きさです。承久の乱の時、鎌倉幕府の最高責任者は、政子の弟、執権北条義時です。頼朝生存中は、父時政とともに戦場を駆け巡っていますから経歴も文句なし。そして将軍はまだ4歳になったばかりです。
そのことを考えると執権義時が、自邸に首脳陣や御家人たちを集め、義時が皆の前で演説して当然だと思うのです。それが義時自ら首脳陣を引き連れて政子の邸宅に行き、そこで鎌倉中の御家人たちを呼び集め、政子に演説させているのです。いかに政子の鎌倉幕府での存在感が大きかったかの証拠でしょう。政子はそれだけのカリスマ性を備えていたのです。ここでカリスマ性を分かり易く説明するために全く関係のない人物をとりあげてみます。
「経営の神様」と言われた松下幸之助です。ご存知のように幸之助は、戦後直後に一町工場としてスタートしてから一代で世界的なメーカー育てあげた経営者です。幸之助は、ちょっとやそっとでつぶれそうもない大きさの会社にするまでに、恐らく数えきれないほどの艱難辛苦を乗り越えてきたことでしょう。
幸之助と一緒に働く従業員は、苦悩し奮闘する幸之助を実際に見聞きし、幸之助への絶大の信頼を寄せるようになったと思います。そのようにして幸之助はカリスマ性を備えていったと私は解釈しています。
要するにその人のカリスマ性というものは、数多くの試練を乗り越えることによって自然と身につくものだと考えています。
話を元に戻して、政子のことですが、政子も前に振れたように数多くの試練を乗り越えてきました。それもこれも夫頼朝の残した鎌倉幕府安泰のため乗り越えてきたということ、そこには政子の私利私欲なかったことを鎌倉御家人たちが実際に見聞きして知っていたからこそ、政子はカリスマ性を身につけることができたのではないでしょうか。
もし政子が陰謀家だったら、陰謀事件にはかならずうわさがつきまといます。「人の口には戸はたてられない」という言葉があります。御家人たちの政子に対する信頼性が必ず薄らぎます。承久の乱、すなわち朝敵と名指しされ鎌倉幕府存亡の危機に直面したとき、鎌倉中の御家人たちは、政子の演説のもとに一致団結した行動がとれたでしょうか。
このように私は、北条政子という女性を非常に高く評価しているのですが、世間ではあまり知られていません。政子は、男女同権だとか男女平等の考えがなかった800年も前にこれだけの活躍をしているにもかかわらず、現在の女性にも全く感心を持たれていません。なぜか、歴史観が影響しているからです。そのことについては次回のブログに書くことにします。読者の皆さん、北条政子の生き様どう思われますか、私が映画監督なら、北条政子を主演にした映画を絶対に作ります。




Comments (1)

北条政子(1)



        このブログの転載、拡散をよろしくお願いします。
1980年代のイギリス人女性首相、マーガレット・サッチャーは、鉄の女(Iron Lady)と呼ばれて有名です。私に言わせれば日本には、サッチャーに勝るとも劣らない女性が今から800年ほど前にいたのです。北条政子です。私は北条政子の存在を伝えたいために、題して「鉄の女」北条政子として私のブログ、「えんだんじのブログ」に今から7年前の2009年1月25日と2月1日に書きました。2009年とは私の「えんだんじのブログ」を始めた翌年です。従って 私のブログの読者が少ない時です。この作品なかなかできがよいので、最近の私のブログの読者にも読ませたいと思い再公開してみました。
[引用開始] 「源頼朝の名前は、日本人なら誰もが知っているでしょう、北条政子はその頼朝の妻です。源頼朝の生き様はよく知られていますが、そのわりには妻、政子の生き様はあまり知られていません。そこで政子の生き様に光を当ててみました。
彼女は一言でいうと、非常に気の強い、気丈な女性です。昭和55年(1980)年代のイギリスの首相、マーガレット・サッチャーは「鉄の女」と称されましたが、北条正子もまさしく「鉄の女」で、現在は、男女平等、男女同権、男女機会均等の考えが浸透していて沢山の女性が社会で活躍していますが、まだ北条正子ほどの「鉄の女」は、出現していません。
1160年、頼朝は平清盛によって伊豆の蛭が島に流された。頼朝14歳の時です。それ以来20年間この地で流人生活をおくっています。北条正子は、頼朝の監視人の一人である北条時政の三女です。1177年その政子に頼朝から恋文がもたらされたのです。政子21歳、頼朝31歳の時です。
こうして二人の恋が始まった。ちょうどそのころ政子の父親、時政が京都に行って留守でした。頼朝はその時期をねらっていたのでしょう。政子には父親が決めた、いいなづけがいた。相手は北条家の近隣に所在する平氏一門の山木兼隆でした。
政子の父、時政は京都から帰り三島で二人の仲を知らされた。時政は家に帰るなり政子を頼朝から引き離していいなづけの山木兼隆のもとえ送りとどけた。普通の娘ならこれであきらめたはずです。
しかし政子はあきらめなかった。兼隆のすきをうかがって、激しい雨の降る夜政子は、山木の屋敷を抜け出し、頼朝のいる熱海の伊豆権現に向かって一人で逃げ出したのです。
追手を気にしながら激しい雨の降る夜の山道、自分の手元の明かり以外一切闇の中、体力もいるが胆力も必要です。当然政子は、死を覚悟しての脱走です。京都あたりの公家の女性では、とてもまねできない事であったでしょう。
やっとの思いで伊豆権現に到着し、頼朝の胸に飛び込んだ時は、政子には一生忘れることのできない感慨深いものがあったと思います。この彼女の行動が頼朝と北条家を深く結びつける結果になったのである。
頼朝の平家への戦いが始まりました。1185年に鎌倉幕府創立、1192年に頼朝は征夷大将軍になった。この時頼朝46歳、政子36歳でした。政子幸せの絶頂期だったでしょう。その間の政子に関するエピソードを二つ。
1.当時の武士の長ともなると妻の他に愛人(側室)がいるのは当然のことと認められていました。妻は妻でしかたがないこととあきらめていた。しかし気の強い政子は、頼朝に愛人を持つことをあきらめさせることはできなかったけれど、かなりあらっぽい抵抗をしています。
頼朝には伊豆にいた時から妻、政子の他に、名前を亀の前といった愛人がいた。鎌倉に移り住んでからも亀の前を鎌倉によびよせていた。怒った政子は、家来に亀の前の家に火をつけて燃やしてしまった。それでも頼朝は亀の前を放さなかったそうです。
2.頼朝の家臣たちは、頼朝の異母弟、義経(よしつね)の行方を捜査中、義経の有名な愛人、静御前(しずかごぜん)の居所がつきとめた。京都での取調べではらちがあかず、彼女を鎌倉につれて来させた。彼女はすでに義経の子を身ごもっていました。取調べの結果、静御前が義経の居所を本当に知らないのか、うそをついているのかはっきりしません。
その時政子は、夫、頼朝に頼んで静御前に踊りを見せることを所望しています。政子の好奇心からでしょう。なぜなら静御前は、京都の白拍子だったからです。白拍子は、いまでいうなら芸者のようなものでしょう。田舎娘の政子にとって、京都白拍子の踊がどのようなものか見てみたかったのだと思います。
静御前の度重なる辞退もききとどけられず、踊ることになった。1186年4月8日、静御前は鶴岡八幡宮の回廊に立った。正面に中央に頼朝、政子、そしてずらりと並ぶ御家人たち、静御前は、丸くなったお腹で舞ながら沈痛な声で歌った。
吉野山みねの白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこいしき
しずやしず、しずのおだまきくりかえし昔をいまになすよしもがな
この時静御前は、目にいっぱい涙を流しながら凛としてよく聞こえる声でよみあげていた。満場息を呑む雰囲気だったでしょう。その時、頼朝の怒声がひびいた。
「やめい」
「八幡宮はわれらがみおやの宮。その御前で舞を舞うには、関東の万歳こそ祝うべきであろう。それをなんたること、わが前をはばからず、逆賊義経を慕い、別離の歌を歌うとは」
刀に手をかけた頼朝の手がぶるぶるふるえ、今にも刀を抜くかと思われた瞬間、政子がさとすように頼朝に語りかけた言葉が有名です。
「あなたが流人として伊豆蛭が島にいた時、私たちは結ばれました。されど父は、平家の思惑を恐れて、私を山木兼隆にあずけてしまいました。でも私は、あなたとの恋一筋に生きようと、激しい雨の夜、山木の館を逃げ出しあなたのふところにとびこんだのです。
石橋山の戦いでは、あなたの消息がわからず、一人伊豆山でおびえていた日夜を思いだすと、いまの静どのの心は、まさしくあの時の私の心でしょう。義経殿の長年の愛を忘れ、恋したわないようでは貞女とは言えません」
ほれた女性の心は、私も同じ経験を持つ故、女性である私は一番知っているといいたかったのでしょう。この政子の率直な発言で、頼朝の心が静まり、静御前の舞に対しほうびまで出したのです。
それから3ヵ月後静御前は、鎌倉で出産し男の子を生んだ。男の子なら殺すという約束どおり、政子の必死のとりなしにもかかわらず、静御前の嘆き悲しむ彼女の手から男の子はとりあげられ、由比ガ浜海岸近くに捨てられました。政子の心からのいたわりと数々の餞別を受けましたが、傷心の静御前は、京都に帰ってから仏門に入り、やがて死んだという。
政子は、静御前には深い同情をそそぎましたが、自分の夫の愛人になると、そうはいきません。静御前騒ぎのころ、頼朝は、新しい愛人、大進(だいじん)の局(つぼね)に男の子を生ませています。その子が生まれた時から、政子は、頼朝にその子の処分をしつようにせまります。政子に約束はしているものの、頼朝は大進の局の必死の願いの板ばさみなり、とうとうその子は七歳になってしまいました。
決心した頼朝は、その子を京都の仁和寺に送って僧とさせ、後に貞尭(じょうぎょう)と名乗ることになります。その子が京都へたつ前夜、頼朝はこっそりその子の母のもとえ出かけ、餞別に剣をあたえています。当時の武士の指導者階級に生まれた男女、またその男に見込まれた女性にとっては、厳しい人生を当たり前のごとく受け入れないととても暮らしていけないような時代であったことは確かでしょう。
1199年1月頼朝は、落馬して急死。死因は色々ととりざたされていますが、落馬による脳出血が死の直接的原因というのが説得力あります。武家政権創立者の予期せぬ突然の死は、全国的に衝撃だったでしょう、しかし残された政子にとってそれ以上の大ショックだったと思います。この時頼朝は53歳、政子43歳、長男、頼家18歳、次男、実朝8歳、次女三幡(さんまん)15歳でした。
政子が本領を発揮するのは、頼朝の急死後です。頼朝の死後鎌倉幕府が、およそ130年も続いた功績の第一人者が北条正子です。頼朝、政子夫妻には4人の子供がいましたが、4人全員政子の在世中に死んでいます。このため4人の子の生き様が政子の人生に深く関わっています。そこで4人の子の生き様を追ってみましょう。
1.長女、大姫(おおひめ)
政子の最初の子です。源義仲(よしなか)が自分の長男、義高(当時11歳)を人質として頼朝に差し出した。頼朝は快く受け入れ、義高を当時5、6歳だった長女大姫のいいなずけと決めた。この二人は、はためにもはっきりわかるように親しい間柄になっていた。夫妻もそれを喜んでいた。ところがおよそ一年後木曽義仲は、逆賊になってしまった。頼朝は、家臣に人質の義高を殺させた。このことは大姫は無論、政子も知らなかった。
政子は激怒した。「なぜ内々に知らせてくれなかったのか、なんとか助ける手立てはあったはずです」
義高の死を知った大姫の嘆き悲しみぶりがひどく、食事さえとれなくなってしまったのです。12歳と6,7歳では恋と呼べるものではなかったかもしれない。しかしこれが大姫の心の病になってしまった。
大姫の深い悲しみは、母親、政子にとっても実につらい。政子の怒りがあまりにも激しいので、頼朝は、大姫を殺した下手人を斬った。しかし残虐を重ねただけでなんの解決、きやすめにもならなかった。大姫はこの悲しみから立ち直れず、精神病のような状態になり、20歳で短い生涯を終えた。政子にとって大姫の死の悲しみは、少なくとも頼朝が生きていたから彼と悲しみを分かちあうことができた。
2.次女、三幡(さんまん)
頼朝急死が1月。その頃病にかかっていた三幡は6月に父のあとを追った。夫の死後、その年のうちに次女、しかもたった一人残った女の子を失った政子には、じつに厳しい試練でした。嘆き悲しむ姿が想像できるではありませんか。
3.長男、頼家
頼朝が死んだ時、頼家は18歳。当然のごとく将軍職を継いだ。しかし頼家はいかにも若い、苦労知らずの経験不足。頼朝の重臣たちは、命をかけて戦ってきた人たちばかり。彼らにとって頼家は頼りない存在。政子は母親であるだけに、頼家と重臣たちとの微妙なムードを見抜いていた。政子には頼家が危なっかしくて黙って見ていられないのです。この彼女の気持ちは理解できます。政子は頼家に訴訟事件の裁決には、独断によらず北条時政、義時、大江広元、梶原景時等の13人の親戚、元老たちと合議の上で裁決するように指示を出した。頼家はこういう母の指図をお節介と受け付け従おうとはしなかった。
頼家は母の実家の北条家より妻の実家の比企能員(ひきよしかず)を頼りにし、母の指名した13人を無視し、お気に入りの小笠原、比企、細野、和田、中野の5人を側近にし、この5人以外には直接自由に会おうとはしなかった。頼家はさらに暴君のきざしさえ見せた。
御家人、安達景盛(あんだちかげもり)が京都からよびよせた美人の愛人に目をつけた。何度も恋文をおくったが、なびかない。強引な手をつかった。景盛に格別に用もないのに三河の国(愛知県)に出張させ、そのすきに彼女を盗み出し、自分の屋敷に住まわせ、彼女のいる部屋には、上記の5人以外近づけさせなかった。
1ヶ月後、景盛が帰国した。景盛は怒りをストレートに表すことができません。しかし誰かが景盛は大変うらんでいるらしいと頼家に告げ口をした。頼家は、「おのれ、生意気なやつ」と腹心の者を集めて景盛を討とうとした。ここまでくるとさすがに政子は傍観していられず、頼家をいさめた。頼家はしぶしぶ母、政子の忠告を聞き入れた。政子は、景盛を慰撫することも忘れなかった。
当時京都の公家の間で蹴鞠(けまり)大流行でした。頼家は、この蹴鞠が大好きだった。わざわざ京都から蹴鞠(けまり)の名人を鎌倉に呼び寄せているくらいですから、彼の熱の入れ方がわかるというものです。要するに頼家は、跡継ぎとしては無能なのです。主君の跡継ぎが無能だと、その無能を利用して己の出世を計ろうとする人たちが必ず出て来るものです。
頼家の場合も頼家をとりまく一派と反対派の対立が激しくなっていったのです。そんな情勢の時、幸か不幸か頼家が、原因不明の奇病にとりつかれた1202年7月病に伏した。早くも翌月、8月の末に危篤状態になってしまったのです。政子は、父時政と相談して、頼家の持分のうち、関西38ヶ所の地頭職は弟の実朝(さねとも)に、関東28カ国の地頭職と全国総守護職は頼家の長男で6歳の一幡(いちまん)に与えると決めた。
病床でそのことを聞いた頼家は、大変憤慨し、妻の実家の比企能員(ひきよしかず)と相談し北条氏を討つことにした。ところがこの二人の話し合いを障子をへだてた次の間で政子は聞いてしまった。政子はすぐに父、時政に告げた。時政は腹心たちと協議をし、比企能員一人を自宅に招いた殺し、中野、小笠原、細野ら頼家の重臣たちを逮捕し、後に流罪にした。
重態から立ち直った頼家は、和田義盛と新田忠常を味方に引き入れ時政を討とうとしたが、義盛は寝返り、新田忠常は殺され万事休した。病後の頼家は、結局母、政子に頼らねばならなかった。政子は結局、長男、頼家は跡継ぎするだけの才能がないことを認めざるをえず、涙をのんで頼家を修善寺に幽閉し出家させた。
幽閉後一月ぐらいたってから頼家から政子に手紙が届けられました。
「ここは深い山の中で、退屈でたまりません。もと召し使っていた者どもをよこしてください。それから、安達景盛を成敗したいから、これもよこしてください」
元の召使をよこしてくれという要求は理解できても、自分が安達景盛の愛人を盗み取って大騒動を起こしておいて、景盛を寄こせ、殺したいというのだから、頼家は絶望感でやけくそになっていることがわかります。
政子は使いの者を修善寺に行かせ「のぞみは、二つともかなえるわけにはいきません。これからは二度とお手紙を書かないように」と伝えた。1204年、頼家は修善寺で死んだ。若干23歳、政子は48歳でした。政子の父、時政が暗殺させたとも言われています。夫、頼朝の死後、わずか数ヶ月で次女を失い、五年後には長男失脚の形で自分が死なせてしまったという思いが政子に一生つきまとったのではないでしょうか。
4.次男、実朝(さねとも)
頼家が修善寺に幽閉され出家し、頼家一派は壊滅状態になってしましました。後継者は当然次男、実朝です。実朝はまだ幼かった。政子の父、時政のはからいで京都の朝廷から征夷大将軍に任命された時、まだ12歳でした。事実上、時政が実朝の後見人になった。そのため幕府内での時政の勢力が増したことになります。
政子の父、時政は自分ひとりの名で下知状という文書を発行して、将軍の命令を下々に伝えた。幼い実朝将軍は、完全な時政のロボットに、またロボットにならざるを得なかった。政子は、実朝が父の偉業をつぐたくましい将軍の育ってくれるだろうか、また政子が信頼している父、時政や政子の弟、義時と関係が順調にゆくのだろうか、心配が絶えなかったでしょう。政子の心配が現実になってきたのです。実朝の嫁選びでした。征夷大将軍に12歳で任命された実朝には、早くも翌年、13歳の時、嫁をもらうべきであるというのが鎌倉幕府首脳陣の一致した考えになっていた。
そこで政子は、自分の妹のとついでいる足利義兼(あしかがよしかね)の娘を推薦しました。ところが政子の父、時政の年のはなれた若い後妻、牧(まき)の方(かた)は、自分が京都の公家の娘であることから、京都の親戚筋の娘を推薦した。政子は、公家の娘を嫁にすることに反対だったが、実朝が京都の娘の方を選んだのでしかたなく実朝にしたがった。
ところが時政の若い後妻、牧の方はとんでもない陰謀を抱いていたのです。彼女は、京都守護としてはぶりきかせている娘むこの平賀朝雅(ともまさ)がとても気にいっていた。その朝雅を将軍にしようという、とんでもない計画を企んでいた。彼女は、政子や幕府首脳陣に疑われる行動を起こした。それが畠山騒動です。
幕府の元老、畠山重忠(しげただ)の子、重保と牧の方のお気に入り平賀朝雅とささいな争いがあった。牧の方はそれを根にもって夫、義時に畠山父子の謀反のたくらみありと報告した。時政はよく調べもせず、息子義時に畠山父子を討つ命令をくだした。義時は、父時政をいさめたが、年老いた時政は、若い後妻にまるこまれていてあくまでも追討を命じた。
畠山父子は、結局命令どおり討たれ命を失くしたが、その後無実であったことが証明された。若い後妻の浅知恵にだまされた時政の評判ががたおちになってしまった。それでも時政は目が覚めず、平賀朝雅を将軍にするために実朝を暗殺しようという牧の方のささやきに同意してしまったのです。
この陰謀を知った政子は、御家人を集め、時政の屋敷から実朝を救いだし、弟の義時の屋敷に移した。時政の屋敷に集まっていた武士たちも実朝を守るためといって皆義時の家に移ってしまったのです。父、時政はもう年ですこしぼけかかっていたのでしょう、鎌倉中から拒否され出家せざるを得なくなり鎌倉から姿を消した。
この時14歳になっていたい実朝には、父、時政の代わって政子の弟、義時が後見人になっていた。この役の名を執権と呼ぶようになった。
死んだ兄頼家は、蹴鞠(けまり)に夢中になっていたが、弟の実朝は、和歌に夢中になっていました。その腕前も玄人はだしだったと言われています。実朝は体も弱く、政子がはるばる紀伊の熊野神社参詣にでかけたのも実朝の健康祈願のためとも言われています。実朝は、和歌にのめりこみ、ともすれば政治の仕事から逃げてばかりいるようで、北条義時の力が増すばかりでした。自分が嫁いだ源氏の力が弱まり、実家、北条家の力が益々強くなるのを見て、政子はどんな気持ちだったでしょうか。
その実朝が1219年1月17日、鶴岡八幡宮の社前で突然切り殺されたのである。この時実朝は28歳。取り押さえられた犯人は、長男、頼家のわすれがたみ、公暁(くぎょう)、19歳でした。政子は幼くして父を失ったこの公暁(くぎょう)をあわれがり、一時は、実朝の養子ぶんにして世話したが、四、五年して出家させ、円城寺へ修業に出した。1217年鎌倉の呼び寄せ、鶴岡八幡宮の別当にしてやったのも政子です。
政子が目をかけてやった者が、次男を殺すという事態になったのです。
亡き夫、頼朝との間にできた四人の子供、全員不遇の死、しかも皆十代、ないしは20代の死です。最後の子供である次男の実朝は、長男、頼家の子、すなわち政子が目をかけてやった孫に切り殺されるという肉親による暗殺、すなわち尊属殺人です。政子にとっていたたまれず、とても耐えられそうもない事件です。
この時政子は、63歳。現在の63歳とは違います。体力的には現在より衰えているはずです。病気で寝込んでしまったり、あるいは認知症のようになったとしてもおかしくありません。それでも政子はこの試練を乗り越え立ち直るのです。その立ち直った政子にさらなる大試練が待ち構えていました。(次回に続く)
[引用終了]
次回は「鉄の女」北条政子(2)として2009年2月1日に公開されていますので、全文を引用し次の土曜日、2016年7月2日に再公開します。



コメント

日米の歴史と文化を語る(一)



一。アメリカの建国神話
私の年代で特にアメリカ史を学んでいない人たちのアメリカ建国の常識というものは、イギリスで迫害を受けた清教徒(ピューリタン)が信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に上陸した。恐らくこの程度ではないかと思います。私も最初はこの程度でした。それでは義務教育を通して得られる一般アメリカ人の常識ではどうでしょうか。恐らく次の様になるのではないでしょうか。

「17世紀初頭のイギリスでの宗教弾圧をのがれ、信仰の自由を求めた清教徒(ピュウリタン)の一団がメイフラワー号に乗ってイギリスのプリマスを出発し、アメリカ大陸をめざした。1620年の冬ニューイングランドに到着した彼らは、プリマス・ロックに初めての第一歩を踏みおろし、その地をプリマスと名付け、プリマス植民地を設立。上陸前に入植民の間で取り交わされたメイフラワー・コンパクト(盟約)は後のアメリカ合衆国憲法の基礎となった。その冬の厳しい気候に耐えられずメンバーの半数は餓死したが、二年目の秋には豊かな収穫に恵まれ、その間援助を受けたインディアンを招いて感謝の機会を持ち、それが今日の感謝祭に直接つながる起源となっている。」

これを読むとイギリス人が1620年に初めてアメリカに植民地を建設したかのように感じてしまいますが、実はそれよりも早く1607年に男ばかりのイギリス人がバージニアにジェームスタウンという植民地を建設しているのです。1619年には最初の黒人奴隷がジェームスタウンに輸入されています。それなのに、あとから建設されたプリマス植民地はなぜ有名なのでしょうか。それはやはり信仰の自由を求めてやってきた清教徒(ピューリタン)がいたからでしょう。信仰の自由を求めてアメリカにやってきたとなれば、アメリカ建国の物語には実にふさわしい背景です。ところでメイフラワー号の乗組員全員が清教徒だったのでしょうか。乗組員全員で102名。そのうち清教徒はわずか41人だったのです。
残りはイギリス本国では、うだつが上がらないのでアメリカで一旗という連中でした。しかもそのほとんどが清教徒と敵対関係にあるイギリス国教会のメンバーだったから、およそ二か月間の航海期間中、平穏無事ではなかった。清教徒と他の人たちの対立関係が極度に悪化したのです。そこで上陸する前に、秩序を維持し、分裂をさける目的もあったのでしょう、植民地建設の意図と目的を明らかにした契約書に署名したのです。それを後世の歴史家が「メイフラワー。コンパクト」、メイフラワー誓約と呼び始めたのです。当時はそんな呼び名などつけていなかったのです。その内容もアメリカ憲法の基礎になったとか、民主主義の起源とか言われていますが、それも後世の歴史家のこじつけと言っていいでしょう。もっとも行動を起こす前に契約書を作って合意をとりつけておくということは、契約社会のアメリカらしいという気がしないでもありません、さて上陸した一行は、その冬の厳しい寒さと食料不足で翌年の春を迎えずに半数が餓死してしまった。一行の大半が農耕生活の経験のない都市生活者だったのが致命傷だったらしいのです。残された半数もインディアンの援助がなかったら生き延びられなかったのです。彼らの運命はインディアンの手に握られていたのです。インディアンが彼らにとうもろこしや、じゃがいもや、かぼちゃなどの栽培方法を教えたのです。秋の収穫期を迎えた時、彼らは感無量だったでしょう。
彼らはインディアンを招いて祝宴を張りました。インディアンの酋長マサイトは、部下90名を率いて祝宴に加わりました。その時彼らは、秋の収穫を神に感謝したのです。
これが感謝祭の起源になった。アメリカの子供たちは、酋長マサイトの名前は知っています。現在彼の銅像が立っているからです。しかし彼の死後、後を継いだ息子のキング・フィリップは、どういう運命をたどったかはほとんど知らないのだ。入植者の白人たちは、マサイトの後継者の息子の名づけ親になり、キング・フィリップと命名した。キング・フィリップが子供の時は、白人入植者と仲良かったが、大人になると白人入植者たちと戦争になり敗れた。
プリマス植民地の人たちは、彼の死体を分断し、その首をプリマスの街頭に25年間もさらし続け、腕はラム酒づけにされ金銭をとって見世物にした。妻と子供たちは奴隷として西インド諸島に売られてしまった。

プリマス植民地は、信仰の自由を求めて建設されたとよく言われますが、クエイカー教徒がイギリスの迫害から逃れてやってくると、きびしい迫害を加えて追い出してしまうのです。
プリマスの近くにやはり清教徒が建設したマサチュウセッツ湾植民地があるのですが、そこでは追い出しの警告を無視するクエイカー教徒四人を絞首刑にしてしまった。自分の信仰の自由は守るが、他の宗派の人たちの信仰の自由は認めないのです。同じキリストでも宗派が違えば憎しみあうのですから宗教戦争も起こるはずです。プリマス植民地で興味を引くのはその克明な裁判記録です。殺人事件もありますが、かなりの数の性犯罪が記録されています。例えば1639年9月インディアンの男性テインシンと関係を持ったロバート・メンドラブの妻メアリーは、町の通りを荷馬車の上で鞭打たれながら引き回された。
牧師のジョン・コトン・ジュニアは、複数の女性信徒との密接な関係がばれてプリマスから追放された。最もショッキングな事件は獣姦です。1642年、ラブ・ブルスターに仕えるトーマス・グレンジャーという下男が、動物と性交をしていたところみつかってしまったのです。彼の告白のよるとそれまでに彼が相手にしたのが、馬一頭、牛一頭、山羊二頭、羊五頭、小牛二頭、七面鳥一羽だと言うのです。結局裁判では、旧約聖書のレビ記二十章十五節に「男がもし、獣と寝るならば彼は必ず殺されねばならない。あなたがたはまた、その獣を殺さなければならない」とあるので、これに従うことになった。最初に彼と関係をもった動物たちと七面鳥が殺され、その後本人が絞首刑になっているのです。ただでさえ女性が少ないので、下男では多分交際相手もいなかったのでしょう。清教徒が信仰の自由を求めてアメリカに植民地建設なんて聞くと、道徳的になにも問題が起きそうにもないと思いがちですが、そこは人間生活、どの世界でもかわりないという気がします。それにしてもこの克明に記録されている裁判記録というものは、さすが法律に重きを置くアメリカ人の祖先ということを如実に示しているのではないでしょうか。

このプリマス植民地は、大きく発展することもなく1691年にマサチューセッツ植民地に合併されてしまった。プリマスの地は耕地に乏しく、漁業にも適さなかったため経済活動が低調だったからです。プリマス植民地は、イギリス人が建設した植民地の中でも小さく、またニューイングランド地方の中でも一番小さくてさして重要な植民地ではなかったのです。ところが現在のプリマスは毎年大勢の観光客が押し寄せるアメリカ最大の国民的史跡
になっています。復元されたメイフラワー号が係留されていて当時の服装をした人たちが観光客の質問に答えてくれるのです。植民地時代の清教徒の生活を再現したプリマス・プランテイションもあります。親切にしてくれたインディアンの酋長マサイトの銅像もあります。清教徒たちが上陸第一歩を踏みしめたと言われるプリマス・ロック(岩)がまるでギリシャのパルテノン神殿そっくりの巨大な円柱でかこまれていて手すりの外からその岩を拝顔するようになっています。その岩には彼等が上陸した年の1620という数字が刻まれています。ところがその岩は、メイフラワー号に乗っていた人たちが、自分たちが最初に踏んだ岩だといって記念に残しておいたものではないのです。実は上陸した年からなんと121年後の1741年に当時94歳の老人、エルダー・トーマス・フォーンスと言う人が、「この岩が、彼らが最初に踏んだ岩だ」と宣言した岩なのです。プリマス植民地を建設した清教徒たちは、ピルグリム・ファーザーズ(巡礼者)とも呼んでいますが、これも建設当初から呼ばれた名前でなく、後世の人たちが上陸からおよそ170年後の1794年に、ある歌の歌詞のなかで、彼らをピルグリム・ファーザーズと呼んだのです。それ以来ピルグリム・ファーザーズと呼ばれるようになったのです。

白人が武力でアメリカインディアンを殺しまくり、彼等の土地を奪い、生き残ったインディアンは僻地に閉じ込め、黒人奴隷を沢山輸入し、こき使って民主主義国家を建設してきたのだ。そのためアメリカの建国物語は、史実の都合の良い部分に創作を加えて美化しなければならない宿命にあるのだ。ニューヨークタイムス誌は、こんなことを書く私を、歴史修正主義者と呼ぶのだろうか。




Comments (4)

保守知識人の皆さん、「改憲」でよろしいのですか?



        このブログの転載、拡散をよろしくお願いいたします。                              
保守知識人の皆さんは、大東亜戦争はアメリカが悪いことも知っています。現在の日本国憲法がハーグ陸戦条約43条違反、すなわち国際法違反のもとで作成されたものであり、GHQによって強制的に押し付けられたものであることも知っています。要するにあなたがたは、現日本憲法に正当性が全くないことを知っているのです。その憲法が採用されたのが終戦2年後の昭和22年5月3日です。昭和27年4月28日に日本は独立を回復した。そのため本来ならこの現憲法を破棄して新憲法を作らなければならなかったことも知っています。それなのに、安倍政権のいまごろになって、何故保守の知識人たちは(ここで言う保守知識人たちとは、有名、無名の保守層のことです。)、まるで夢中になって「改憲」、「改憲」と言って騒ぐのでしょうか。私なりにその理由を考えると次の二点に限るでしょう。
1.現憲法廃棄は、現実的に無理。
もう70年以上使ってきて今更破棄は遅すぎて現実的にむり。
2.安倍政権健在中に改憲しておかないと改憲のチャンスがいつくるかわからない。

保守知識人の改憲論者にも消極的な改憲論者がいます。改憲しなくても自衛隊が持てた、また安倍政権の下で集団安保体制の法的強化もできた、今むりして改憲にはしる必要ないという意見の人も結構多いのです。私は現憲法絶対破棄論者ですが、今回は消極的改定論者と一緒になって今回の参議院選では改憲反対を唱えたいと思っています。

皆さんは、日本文化の特徴を一言で言えと言ったら、何と答えますか。私に言わせれば、それは妥協、迎合です。すべてにおいて妥協、迎合が歓迎されます。私みたいに信念の強い人は嫌われ、出世しません。現憲法に対して政府と国民は大変な妥協、迎合をしてきたのです。本来なら日本の独立後には新憲法を制定すべきだったのです。ところが日本は米政府と妥協、迎合し新憲法を制定しなかった。要するにその後の日本政府は、米政府に妥協、迎合よりももっとすすんだ「媚びる」態度に出たのです。妥協、迎合も行き過ぎて「媚びる」までになると弊害が出るのですが、しかしこの時期は成功していた。アメリカは戦後さらに発展し、世界の最大の大国になっていたからですし、また日本もまたその市場の大きさなどで経済的恩恵を受けていたからです。

しかしその後、日本は自首憲法制定すべき時がきたのです。日本が再軍備するときです。自衛隊が創立されたのが昭和29年。本来なら再軍備(自衛隊)を持つとき、憲法違反だから現憲法を破棄し、新憲法をつくるべきだった。再軍備のため新憲法を作るといえば米政府もOKしたはずです。ところが自衛隊は軍隊ではないと、階級の呼び名、戦艦、武器名などすべて旧軍時代の呼び名を変えた。不思議なことに、自衛隊は外国では軍隊とよばれ、日本だけ自衛隊と称しているのだ。国民に憲法違反だと主張されると、最高裁の裁判官は、「最高裁判所は、米軍基地の存在が憲法に違反するかどうかは高度な統治行為に属することであって司法の判断に馴染まない。」と言って憲法判断を保留しているのだ。自衛隊違憲訴訟はいくつもだされたが、いつも同じような裁判所の判断はあいまいのまま保留されつづけてきたのだ。要するに最高裁の裁判官は逃げて、判決を出さなかったのだ。いまの憲法も自衛隊も国家あげての妥協、迎合の産物なのだ。

その上に改憲したら、妥協、迎合の上にさらに妥協、迎合したことになるのだ。このブログの冒頭に私が主張したように、大東亜戦争はアメリカが悪い、現憲法は、ハーグ陸戦条約43条違反、すなわち国際法違反で作られたものです。このことを自民党議員の中にも国会ではっきり主張した者はいません。主張すると国会でつるし上げを食うから怖くて言えないのです。安倍総理もこいう発言をするつもりは絶対ないことがわかりました。こういう発言を堂々と言えない時点で改憲などとてもすべきではないことはあなた方保守知識人もわかっているはずです。ただあなたがたは、安倍さんに媚びているだけです。
安倍政権の限界が見えました。私も皆さんと同じように安倍さんをかっていました。いまになってみれば、保守教科書業界が「つくる会」と育鵬社に別れた時、安倍さんは育鵬社支持になった。その時が安陪さんとの別れ時だった。ところが未練がましく、私は安倍さんを支持してしまった。ところが従軍慰安婦問題でさらに10億円も払って韓国と解決を図ろうとしていること、終戦70年談話で安倍さんの力の限界が見えた。さらにそれを裏書したのが最近のヘイトスピーチ法案です。それをいまだに安倍さん、安倍さんと安倍さんを頼りにして改憲を叫ぶ保守陣営の人が多すぎます。

彼らの一番心配しているのが日米の良好関係の破たんです。戦後70年の現在、アメリカの力が一番衰えている時期です。アメリカが日米軍事同盟を破棄するぞと脅してくれば、それなら日本はシナと軍事同盟結ぶぞと言えば、それだけで十分。売り言葉に買い言葉。いままでの日本は買い言葉さえかけるのを躊躇していた。ある面それだけアメリカの力は巨大だったのだ。アメリカは今でも日本の軍事同盟国家です。私もこの軍事同盟関係維持は賛成です。しかし時代は変わったのだ。現在、ジャパンバッシングという言葉は完全になくなったと保証できませんが、現在は明らかに使われなくなりました。アメリカにトランプ大統領誕生が現実味を増しているのだ。いままでのように日本はアメリカのポチと揶揄されるような対米べったり政策を改めることが必要です。大東亜戦争史観は、日米政府間で違いがあることぐらいをはっきりさせておくべきです。戦後しばらくの間は、戦争史観の違いを公にすることは、難しかったかもしれない。しかし時代が変わったのだ。国会で自民党議員が、「現憲法は国際法違反、GHQによって強制的に施行された。」と自由に発言できるようにして、新憲法を作るべきです。

国会で自民党議員が「現憲法は国際法違反、GHQによって強制的に施行された。」と自由に発言できるようにするにはどうしたら良いか?現在のように政治は保守の天下、教育は左翼の天下では絶対に発言できません。教育界を変えるのです。日教組を潰すのです。「つくる会」の教科書改善運動だけでは、日教組を潰せません。共産党系の歴史先生たちがつくった「学び舎」の自虐史観書が名門国立、名門私立中学校、数十校に採用され、「つくる会」の教科書は徹底して差別され無視されているのだ。これでは「現憲法は国際法違反、GHQによって強制的に施行された。」と発言できる議員はなかなかあらわれません。どうやって日教組を潰すか?戦前の国定教科書の復活です。そんな事をしたら新憲法を作るのには時間がかかりすぎると言う人も出てくるでしょう。現憲法を70年間も使ってきたのだ、新憲法作るのにあと30、40年かかるかもしれない。私たち日本国民は、世界一古い歴史を持つ民族にもかかわらず、いまだに国民の力で憲法を作ったことがないのだ。国際法違反のうえアメリカ政府の強制で施行された現憲法、軍隊など持てないのに自衛隊と呼び妥協、迎合して軍事力をもった。その上さらに妥協、迎合して改憲したら、違法な憲法を合法化することになるのですよ。私は著名な保守知識人に呼びかけたい。安倍政権に媚びるな。自分が得になるより国家を優先して考えてほしい。いつまでも安陪首相を支持していると安倍総理以上の政治家が現れるのを邪魔している存在になりかねません。
私はただ日本国民の一人として、日本史上初の日本国民が作った新憲法をも持ちたいのです。これが誇り高い日本人のやることではないでしょうか。誇り高い日本人であるだけに、私は、現憲法の原文が英語であるだけに翻訳憲法に我慢ができないのです。新憲法を作ることは、私の生前にかなわないことかもしれない、それでもかまわない、目的に向かって突き進みましょう。

(註)私は日本文化の最大の特徴は、「妥協、迎合」だと述べました。「妥協、迎合」はお互い喧嘩せず、仲良くやっていこうという日本の平和文化の特徴です。また「妥協、迎合」には外国のものを容易に受け入れる美点もありあます。「妥協、迎合」があるから日本国内は諸外国に比べて平和的な歴史を繰り返した要因でもあります。ところが妥協、迎合にも弊害があります。妥協、迎合も徹底すると、「媚びる」形になり自主性がなくなります。現憲法はいわくつきの理由があり、しかもアメリカ人が作った憲法です。ところがその憲法を神聖化してしまっている日本人が多いのです。神聖化しているから、憲法改憲などというと、何も考えず即座に反対してしまうのです。平成20年に展転社から私が出版した「逆境に生きた日本人」(2,000円)は、日本人の徹底した妥協、迎合がどういう結果になったかを数々の例が示されています。在庫がありますので一冊1500円(消費税、郵送代込み)でお譲りします。ブログの「お問い合わせ」コーナーを利用するか、あるいは私あてにメールでご発注ください。
これは名著です。私の書く本は、皆ベストセラーに値するものです。しかし私の無学無名が災いしています。いまから8年前の私は今以上にごく、ごく無名でしたから売れませんでした。しかし実際に読んだ人は絶賛してくれています。だから御買い得です。
「逆境に生きた日本人」の中の一篇でソ連の日本人捕虜(6万3千人)が、全くのしらじらしいうそ、でたらめの美辞麗句を並べた一万6千語の手紙、題して「スターリンへの感謝状」を提出しています。これなど全く正当性のない現憲法を廃棄するどころか神聖化して、「現日本憲法にノーベル平和賞」をと画策している日本人が多いのと同じ現象ではないでしょうか。「妥協、迎合」の恐ろしいのは、ほっておくとここまで進むということです。

Comments (5)

教育委員会関係者の最大の罪



      このブログの転載、拡散よろしくお願いいたします。
教科書出版会社は、検定中の教科書を教員などの部外者に見せることは禁じられているのに、わざわざ見せてその上、教員らに謝礼金を渡していたことが大きな記事になって産経新聞(平成28年1月23日)にとりあげられていた。記事の見出しは、「教科書12社が検定中開示、10社、4000人に謝礼」。平成28年4月1日の産経新聞では文科省の調査の結果が公表された。記事の見出しは、「教科書謝礼 教職員延べ3454人、4人に1人 採択関係者。」
ここに書いてある「採択関係者」とは四年毎にどの出版社の教科書を使うか決める教育委員会の人たちのことです。私の地元、神奈川県教育委員会の3月14日の記者会見発表によると、教科書出版会社による謝礼金問題で金品(謝礼、交通費等)受け取り者、人数ランキングでは神奈川県は、大阪府に次いでワースト四位であることを発表した。
1位:北海道 教職員 489人、そのうち教科書採択関係者 116人
2位:東京都  “  399人      ”        不明
3位:大阪府  “  380人      ”        不明
4位:神奈川県 “  223人      ”        25人

この報道を知ると「つくる会」、神奈川支部会員の若林さん(鎌倉市在住)は神奈川県黒岩祐治知事宛てに次のような葉書を出しています。
前略
神奈川県は大阪府に次いでワースト四位です。
教科書会社が検定中の教科書を教職員らに見せて意見を聞き、謝礼を渡していた問題で、
県内教職員223人(内金品受取者209人)を調査。
その打ち25人もが教科書採択に関与しうる立場にあった。これら教職員は規範(違反)意識が微塵も無い。ワイロを平気で受け取った。
子供達(生徒)にどの面して教室に立つのか。この件を重大問題として対処して下さい。
平成28年4月19日     草々
これと同じような葉書を神奈川県教育委員会桐谷次郎教育長、神奈川県警察本部警察本部長、自民党神奈川県議会議員団にも、県議員団長にも郵送しています。

一方、つくる会本部、「新しい歴史教科書をつくる会」は、3月7日、一連の検定中教科書「贈収賄」事案について東京地検特捜部に該当する教科書会社10社の社長を「贈賄」の罪で刑事告発するとともに、文科大臣に刑事告発の報告と併せて下記の申し入れを行い、その後記者会見を行った。申し入れ及び記者会見には高池勝彦会長以下5人の幹部が出席し、各々よりこの問題の重大性を説明した。
文部科学大臣                         平成28年3月7日
馳 浩 様
                      (一社)新しい歴史教科書をつくる会
                               会長 高池 勝彦
        検定中教科書「贈収賄」事案についての要望

この度、教科書発行各社が検定中教科書を教員らに見せ、金品などを謝礼に渡していた事実が明らかになりました。文科省は各社からの報告を公表し、さらに実際の教科書選定・採択への影響の有無を、全国都道府県教育委員会に3月中旬までに報告するよう指示されました。このことに私どもは謝意と敬意を表します。
今回の事案は、教科書業界と公務員である教育委員会・教師との間で起きた、下記の法律に抵触した重大な「犯罪行為」です。
・「刑法第197条(収賄、受託収賄及び事前収賄)及び198条(贈賄)の違反
・「地方公務員法第29条(懲戒)」の違反
・「独占禁止法」の違反           (各法律については資料参照)
当会はまず上記の「刑法第198条」への違反について、本日3月7日、該当各教科書会社
を東京地方検察庁に刑事告発したことをご報告いたします。

今回の事件は、不正行為を否定する教育をすべき立場の教員や教科書業界の倫理感が疑われます。「子供たちに顔向けできるのか?羞恥心があるのか?」と問いたい思いです。
よって私どもは文科省に対し、教育行政の信用回復と再発防止のために、下記の6点について速やかな検討・実施を切に望みます。
(注意)以下の文章(4)(6)は長すぎるので筆者が適度に要約したものです。
(1)文科省は、今回指示した各都道府県教育委員会からの報告の結果を精査し、影響があったとされた教育委員会は、教育委員会名とその報告内容を公表すること。また該当する教育委員会の採択地区について、採択の無効化とやり直しを検討すること。

(2)謝礼を受け取った当事者は全員氏名を公表し、処分を科すこと。
(3)教育現場で教育に関する不正行為を発見した者は、身分保障も含めて安心して、文科省へ直接通報できるシステム(内部通報制度)を構築すること。
(4)義家弘介文科副大臣は、「申告漏れが発覚した場合は指定取り消しも含めて必要な処置を講じることも辞さない。徹底的な調査を行っていただきたいと発言しているが、文科省主導のもと、申告漏れの事案の有無について、既に退職している教育関係者への聞き取も含めて徹底した調査を指示すること。
(5)その調査報告いかんでは、義家副大臣の発言通り、該当する発行会社を教科書発行停止などの厳罰に処すること。
(6)文科省は現行の教科書採択制度の問題点について早急に検討・見直しを行い、今後国民にとってより透明性の高い公正な教科書採択が行われるよう改善をはかっていただきたい。
最後に、本事案発覚の経緯は、昨秋からの報道の追及と文科省からの指導によって隠し切れないと判断した各教科書会社が、言わば自首した形で行われたものです。2月24日には、該当教科書会社10社が文科大臣に謝罪を行いました。しかし、本件は大臣の厳重注意をもって一件落着として幕を引くような軽微な事案ではありません。当会は今後も引き続いて注目して参る所存です。大臣に於かれましては、一層の指導力を発揮していただきたいと思います。

この「つくる会」本部が馳文科大大臣への申し入れが行われたのが3月7日、それから一ヵ月後の4月13日の産経新聞では公正取引委員会は12日、謝礼を渡すなどの行為で公正な取引がゆがめられた可能性があるとして、独禁法違反(不公正な取引方法)容疑で小中学校教科書を発行する全22社の担当者の事情聴衆を始めた。この産経の記事は少し長いが、重要なので全文を引用します。
[引用開始]
「一連の教科書謝礼問題で12日、公正取引委員会が小中学校の教科書を発行する全22社への調査に乗り出した。結果次第では一部教科の教科書が発行されない最悪のケースも想定される。教育行政に混乱を招いた教科書会社には改めて猛省が求められる。
「仮に公取委の判断があれば発行取消も含めて当然、検討する」。馳文科科学相は12日の閣議後会見でこう述べ、公取委が排除処置命令を出した場合は、教科書無償処置法に基づく教科書発行者の指定取り消しも含めて検討する考えを示した。
文科省によると、全22社のうち教員らに検定中の教科書を見せたのは12社、そのうち謝礼を提供したのは10社に上る。この10社は謝礼について「検定中の教科書を見せ、意見を聞いた事への対価」と説明し、シェ拡大に向けた勧誘の意図はなかったとしている。
今後の焦点は仮に排除処置命令が出され、指定取り消しが現実となれば、原則4年間使用する教科書の途中での採択やり直しのほか、一部の教科では教科書を発行する会社がなくなる事態にもなりかねない。文科省に対し「問題はない」と自己申告している残り10社についても、公取委の調査で何らかの不正が発覚すれば、文科省への虚偽報告となり、再発防止を誓った教科書業界へのダメージは計り知れない。長年続いてきた業界の旧弊にどこまで迫れるか。公取委の調査が注目される。」
[引用終了]

公取委の調査結果の発表が待たれるわけですが、マスコミは教育委員会のこの二つの罪だけに注目して記事にしていますが、もう一つ大きな罪を犯しているのです。この罪は私のような「つくる会」の会員で直接教科書採択戦を戦っている者だけが痛切に感じている罪なのです。
それは何か?全国の教育委員会関係者が、「つくる会」を徹底して無視し差別化したことです。徹底して無視され差別化されたことが分かる理由は何か?それは全国の教育委員会関係者が、まるで事前に取り決めたように「つくる会」の歴史教科書と公民教科書が一冊も注文をしなかったことです。「つくる会」の教科書は、そんなに悪い教科書なのでしょうか。私たちの教科書が教育委員会関係者に評判が悪かったのは、確かです。しかし教科書の内容が悪いというより教育委員会関係者の思想的違いによるものなのです。そのため「つくる会」の教科書採用が遅々として進まなかったことは確かです。それでも去年みたいに公立中学校から一冊も注文をもらえなかったことはありません。また「つくる会」が設立されて、つくる会の教科書の内容が他社の教科書の内容に多少なりとも影響し、例えば「従軍慰安婦」事件を取り上げる歴史教科書がなくなりました。私たち「つくる会」の会員は、教科書に採択される実績は、少なくても、日本全体の歴史教科書業界に影響を及ぼし多少でも改善されてきたことも事実です。

ところが昨年の採択戦では、一変しました。「つくる会」の教科書が徹底して差別され、その上去年初めて登場した「学び舎」、自虐史観たっぷり盛り込まれた歴史教科書が、国立中学校五校、そのほか名門私立中学校など30校以上に採用されたのです。日本共産党系の団体、歴史教育者協議会(歴教協)の現役教師とOBが執筆した教科書です。検定中に教科書を見せていた教科書会社10社を上げていたが、「学び舎」は上げられていません。本当かどうか疑わしい。「学び舎」の資金はどこから出ているのか、文科省が「学び舎」のような歴史教科書に検定合格を与えた理由はなにか。「学び舎」の最大の弱点は、うそを書いて日本を貶め、子供達に日本を誇りに思わせなくすることです。

教育委員会関係者が「つくる会」の差別化原因には思想的背景があることは間違いない。「つくる会」の教科書を採用しようものなら左翼関係者から猛反発がでる。教育委員会関係者は、元日教組関係者が多い。そのため同じ左翼から攻撃をうけやすい。「つくる会」には大きな欠陥がある。資金はすべて私たちのような個人の献金です。そのためいつも資金不足。ほかの教科書会社のように謝礼金など逆立ちしても出せないのだ。教育員会関係者にとって、「つくる会」の教科書を採用しても一銭の得にもならず、しかも同じ左翼から攻撃を受けるということで一切関わらずに徹底して無視した方が得というやりかたです。
現代社会では、「差別」すると言うことは悪のように嫌われています。教育委員会関係者は、意識して「つくる会」を徹底して差別し、「学び舎」のような徹底した自虐史観教科書を復活させ、「つくる会」の教科書業界に与える影響を無にしようとしているのです。公取委の調査報告がどういうものかわかりませんが、もし手ぬるいものであれば、私はこのような不埒な不祥事をなくすために、現在の教科書制度を廃止し、戦前の国定教科書にもどるべきです。私たち「つくる会」が、平成13年初めて文科省の検定合格を取得した年、国会内で「つくる会」の採択反対集会が開かれた。そのとき社会党の故土井たか子元衆議院議長は、「憲法は言論の自由を保障しているが、教科書については言論の自由は制限されていい。」と語っているのだ。マスコミの大勢は反日左翼だから土井の発言は大騒ぎにならなかった。自民党議員の発言だったら大騒ぎだったでしょう。現在の私は土井の意見に全く賛成。いまこそ国定教科書に戻るべきです。現在の政治は保守、教育は左翼の現状を変えるには、教科書を戦前の国定教科書制度に戻さねば、変わることは絶対にあり得ません。

Comments (3)

« Previous entries 次ページへ » 次ページへ »