「譲位」は憲法違反

保守の人達の間では有名人のように知られている村田春樹氏が今年の4月に展転社から本を出版した。タイトルは「今さら聞けない皇室のこと」1300円+税。この本で特に重要なのは、今上天皇の譲位問題です。この本の頁数は、全部で177頁です。その頁数の半分ぐらいを「第四章 御譲位に思う」を書いています。春田氏は、元「楯の会」会員です。元「楯の会」会員と言えば、一般の日本人以上に皇室を敬っています。その春田氏が今上天皇の譲位は、政府がすでに決めたことで覆すことはできないが、譲位は憲法違反だと主張しています。私は今上天皇の譲位が決定した時、なぜ今上天皇は譲位したいのだろうかと不思議に思っていました。何故なら今上天皇の父上、昭和天皇は、あの敗戦に終わった大東亜戦争終結の時でさえ譲位も退位もしていません。死ぬまで天皇であり続けました。大日本帝国憲法も現行憲法も天皇は議会の協賛を得なければ、立法を行えないのである。平成29年の通常国会で特別措置法として譲位が正式に決定した。その最初のきっかけが7月13日午後7時のNHKの「譲位の御意向」というリーク速報です。たまたまこの時安倍首相外遊出発の前夜。この速報は宮内庁や官邸の頭越し報道させているのだ。その後平成28年8月8日宮内庁からNHKテレビから象徴としてのお勤めについての天皇陛下のお言葉が放映された。皆さんに思い出していただくためにお言葉の全文を披露します。

『戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。私も80歳を超え、体力の面などから様々な制約をおぼえることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や勤めにつき、思いを致すようになりました。本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に80を超え、幸いにも健康であると申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を、感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行ってきたほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうかと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果し得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることには変わりありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状況に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重いもがりの行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後葬儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関する諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

始めにも述べましたように、憲法の下、天皇の国政に関する機能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。国民の理解を得られることを、切に願っています。』

このお言葉は、今上天皇のお気持ちの表明という形式を取られていますが、実質的には日本政府に対する命令書と解釈されている方が、多いが、私もそのように解釈しています。著者の村田春樹氏は、これは誰か別の人間が書かせたものと解釈し、文章の幾つかを取り上げて説明しています。その例をいくつか挙げると、
1.「私が個人として、これまでに考えてきたことを・・・」。
 陛下がご自分を個人と言うことはあり得ない。陛下は24時間365日天皇であり、8時間勤務の労働者でもなく、いわんや個人や公人でもない。半神の御存在である。

2.「いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日にいたっています。」
いきいきとした社会に内在し、などという言い回しは変である。また、陛下は政治家でもなく、芸能人でもないので、「人々の期待に応える」必要などまったくない。陛下の御存在は、言うまでもなく「国民の総意」にも期待にも関係はない。天孫降臨の際天照大神の三大神勅に立脚しているのである。

3.「これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」。
全身全霊をもって果たしてこられたことは、心ある国民は皆わかっている。それをわざわざビデオでおっしゃる必要はない。最晩年の昭和天皇や桂宮宣仁親王、古くは大正天皇を想起していただければわかることである。

4.「天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場の求められる務めをはたせぬまま、、、、、」。
それでは大正天皇晩年の5年間、摂政を務められた東宮殿下(昭和天皇)の治世を否定することになるのではないか。お言葉から1年経っても「なぜ摂政ではだめだったのだろうか。」という問いに答えられる国民は誰一人いない。

5.「これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な、影響が及ぶことが懸念されます。」
社会はまったく停滞しないし、暮らしになんの影響もない。政治も経済も影響を受けなかったことは昭和63年に証明済みである。この年、日経平均株価は4万円になんなんとしていた。自粛ムードが起きかけたが、自粛を自粛しようとし、皆平成に坦々と日常生活を送りつつ、御平癒を祈っており、そして覚悟したのである。

6.この「譲位」という比較的短いお言葉のなかに、「象徴」という言葉が「なんと8回」も登場するのです。そこで著者の春田氏は、なぜこの「象徴」と言う言葉を強調せねばならないのか、このお言葉を話す今上天皇陛下とは別人(書き手)の政治的意図が含まれているのではないかと推察しています。私もこの春田氏の考え方に全面的に同調します。この辺の作者の説明を詳しく読むと、来年以降の上皇が一体何をなされるのであろうか、非常に興味がわいてきます。

譲位後の国民の心配:
天皇の活動、特に以下の国事行為には内閣の助言と承認を必要。
1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。2.国会を召集すること。
3.衆議院を解散することなどその他の国事行為やその他の公式行事。
ところが上皇になると、国事行為・公的行為は一切なされず、私的行為だけになる。ということは、内閣は天皇への助言承認という監督権を上皇に対しては有しないことになる。
その結果来年以降の上皇の行動の中で次の三つの不安が私の頭にも浮かびます。
一.韓国への謝罪旅行
春田氏によれば、平成29年12月14日号の週刊新潮の記事、同じ年の12月30日の読売新聞の一面トップ記事、二つとも今上陛下は韓国訪問したいとの意志。さらに陛下がサイパン島訪問時に韓国平和記念塔の拝礼されたこと、桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫であったことに、二回の公式の場で言及されています。続いてこの9月の私的旅行で埼玉県の高麗神社参拝は韓国では「退位前の和解のメッセージである」と報道しています。

二.ひょっとして上皇は、キリスト教に帰依して洗礼を受けるのではないか。
天皇陛下は、中学校一年の時、GHQの命令でクエーカー教徒のヴァイニング夫人を家庭教師につけてもらっています。英語の先生としてではなく、家庭教師として5年間努めています。それだけにヴァイニング夫人の影響を強く受けています。毎年の全国戦没者追悼式には、いつも「反省」、「反省」、「反省」のお言葉です。勇敢に戦ってくれた兵士への感謝の言葉は、一切なし、靖国神社への参拝もなし。昔をたどれば、上皇でも仏門に入って法皇と呼ばれた人もいた、白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇など有名です。万一キリスト教に帰依したら何と呼ばれるのでしょうか。

三.現在の天皇陛下在位中の靖国参拝は完全に夢と消えたのか?
私はひょっとして、万が一にも靖国神社に参拝してくれるのではないかと淡い夢みたいなものを持っていましたが、その夢も完全に消えたのでしょうか?しかし来年4月30日の御譲位の日まで7カ月あります。天皇陛下、日本のために戦って死んでくれた兵士たちのためにも靖国神社に参拝していただけませんでしょうか。私はわらをも掴むような気持で祈っております。

現在日本の保守陣営の方は、私のように天皇家を敬う人々ばかりでしょう。私が天皇家を敬うとは、現職の今上天皇を直接批判することは絶対しないことです。私は10年間ブログ書いてきているが、今回春田氏の本を読んで初めて今上天皇を多少とも批判するブログを書きました。今回紹介した春田氏の本は「今更聞けない皇室のこと」と何となく柔らかいタイトルになっているが、一番大事なのは譲位の問題です。それをタイトルにつけなかったのは今上天皇を批判するタイトルを避けたのは春田氏の皇室に対する深い愛情だと思っています。このように皇室に対する敬愛だけでなく、神様のように、まるで宗教的存在のように思っている方も沢山います。上皇の存在は、現代日本人にとって初めての経験なので、上皇の言動が我々日本人の心に動揺を与えるケースも充分考えられます。例えばより左翼的発言や行動などで左翼や狂(共)産党等を喜ばすこともあるかもしれません。これからの上皇の発言、行動を注意深く見守っていかねばならいでしょう。
このブログの読者の皆さんには、ぜひ村田氏の「今さら聞けない皇室のこと」(展転社)を読んでみてください。この本では「譲位」以外にも皇室について色々なことが書かれています。私は、必ずしも村田氏の意見に全面的に賛成しているわけではありません。しかしこの「譲位」については全面的に春田氏と同意見です。この本は一読の価値のある本です。



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私の人生で一番怖かった事

私の人生に最大の影響を与えたのは、大東亜戦争の結果です。私の年齢を考えれば、それは誰にもあることなので、戦争の話はこれ以上言及しません。私の苦労の最大の原因は、両親の長期にわたる病気です。戦後直後は、父親の病気だった。戦争勃発前に結核を患っていた。日本鋼管に勤めていてインドのゴアに転勤を命じられ、出張前の身体検査で初期の結核であることがわかって、インドへ行けなかった。そのお蔭で軍隊に取られずにすんだが、自覚症状はないから本人は元気、しかも戦争中は満足な治療も出来ずに終わった。その結果病状は悪化した。終戦直後には強制的に入院させられ、片肺は切除され、残った片肺だけで日本鋼管に復帰、そして子会社に転勤させられた。それから数年後腎臓結核と診断され、腎臓は二つあるから、一つ切除するというのだ。片肺と残りの腎臓一つでも生きられると言うのだ。ところが父は医者の勧めを拒否、現代医学を拒否する当時の新興宗教、メシア教に入信したのだ。
メシア教は現代医学を完全に拒否し、患者の片手の手の平を患部あてるのだ。暇さえあれば手のひらを患部にあてるのだ。そのやり方で治癒した信者の話を妄信し、母のどんな反対も拒否、一切病院に行かず、薬をもらおうともしなかった。結局母は、このままでは父死んでしまう」と思って、父に嘘をついて強制的に病院に飛び込んだ。腐った腎臓を切除して取り出し、残りの腎臓は、能力の7、8割ぐらいは残っているが、残りの2、3割は死んでいた。これでも生きられるから大事に使いながら生き延びようとすることに決めた。日本鋼管の子会社だから働き続けられたのでしょう。出張の時は、ビジネスバッグに尿瓶を入れて出張していた。半病人のような勤めをしながら定年(55歳)まで働き78歳で死んでいった。定年時には役職など何もなかった。大学まで出てまんざら無能な男ではなかったから無念な人生だった。

一方母親は、戦後直後父が満足に働けなかったから、その苦労は母親が背負うことになる。母の苦労をこの目で一番みてきたのは、長男の私だ。母の死に際のもだえ苦しむ姿を見ながら死んでいった母を見ると、神や仏に怒りさえ感じます。私が神や仏に無関心なのは母の死の影響は大きい。母は50代前半、52,3歳だったと思います。胃癌になり、三分の一切除して治癒した。その後10年間は重い病気は何もせず、完全に胃癌は治癒したと思っていた。ところが胃の手術の11年あるいは12年後、今度は咽頭癌になった。喉には二つの声帯がある。治療のため声帯一つを切除。治癒したが声量が半分になって弱弱しい声になっただけで元気になったのだ。それから何年ぐらいたったのだろうか、その頃の記憶はあいまいです。次々と癌の襲われるのです。今度は大腸癌だった。大手術だった。肛門を切除し、人口肛門を自分の腹にとりつけて退院してきた。その時期私は初めて親孝行をしたのだ。離婚していた私は、実家のボロ家を壊して建坪42坪あまりの二階家を新築し、私は両親と母の手伝いをしてくれる独身の母の妹と四人暮らしを初めていた。私も念願の貧乏からの脱出の願いが少し身を結んだのだ。新築の家に住み始めても母親の節約ぐせは続いた。当時の人口肛門は、アメリカ製で日本製がなかった。そのためでしょうアメリカ製の人口肛門は高かった。冬は寒いから一回使った人工肛門は使い捨てだったが、春になると母は一回使った人工肛門は、庭にある水道できれいに洗い、乾して再利用するのだ。私が使い捨てにしろと言ってもきかなかった。それでも元気が出てきて、人口肛門をつけながらあちこち出かけられるようになった。その頃のことだったと思う今度は小腸癌を宣告された。これで四つの癌を宣告されたが、父は一度も癌にかかったとは母には言わなかったし、私や妹にも母には癌とは絶対に言うなと命じた。母は、知っていたかどうか全く分からなかったが、内心は自分が癌にかかっているようなそぶりを見せたことは一度もがなかった。当時小腸癌の治癒は難しく手術は困難だった。治癒時間長くなれば、悪化するだけでまさに死の病だった。患者がベッドの中で静かに寝ているだけならば、問題はないのだが、治療が長引くと、患者の痛みが激しくなるのだ。母は、「痛い、痛い」とヒーヒー泣く、それを診ている家族たちは、母の体を一生懸命さすってやるほかなかった。この時の老いさらばえた母の痛々しい声で泣き声をあげる姿は、あまりにも惨い姿だった。痛みを和らげることが出来なかった原因もあった。あの当時痛み止めに使うモルヒネの量が少なかったのだ。モルヒネ中毒なるのを医者は恐れていたのではないかと素人判断しています。結局母は痛みに苦しみながら71歳で死んでいった。死後、医者は一人で癌を三つも、四つも患うのは多重癌と言って珍しい体質だから、死後解剖させてくれないかと言った。父は、母に死後これ以上メスをいれて切り刻むのは可哀想だと言ってことわった。

母の死後、葬式など一段落すると、母の妹二人と私と二人の妹のことが心配になってきた。母の癌体質を継いでいるのではないかと心配になってきた。医者も癌体質を継いでいるとは断言できないが、母の妹より、母の実子の私と私の妹二人のほうが母の癌体質を継ぐ可能性が高いと言ったのだ。私は家も建てたばかりだし、貧乏から脱出して経済的に少しはゆとりが出たばかり。私も癌体質を継いで、母親のように癌をいくつも患い、その治療のために再び貧乏になるのではないかと、今思えば極端に恐れていたような気もする。癌の早期発見、早期治療すれば早く治せる。そのためこれから毎年一年に一回人間ドックに入り、検査してもらう。治療費のために癌保険に入ることも決めた。こうして私が40歳の時からこの年まで40年間一年に一回人間ドックに入って検査を受けてきた。一回も検査をかかしたことはなかった。40代、50代の時は、若い世代の癌の悪化の速度が速い、私は医者に少しでも気になるところは、遠慮なく精密検査にまわしてくれと頼んだ。そのため胃癌、大腸癌、肺癌、等々ずいぶん精密検査をした。そのうち年数が経つと、母の二人の妹が病気で亡くなった。但し癌ではなかった。私が70代に入ると、妹二人は60代、でも癌にはならない。どうやら母の癌体質は継いでないようだと安堵した。
今年8月に80歳になる私は、4月に一日人間ドックに入った。検査の結果、検便に陽性反応が出た。大腸の内視鏡検査が進められた。二つのポリープ発見、入院せず削除した。ポリープの検査結果は良性であった。80歳で癌がなければ、もう癌の心配はないでしょう。癌ができたとしても加齢による癌で体質ではないと完全に決断した。毎年一年一回の人間ドックのほかに、癌にかからないように、またかかっても軽く済むようにと次の二つのことを30年以上続けてきました。今までこのことを他人に話したことありません。今回が初めてです。
1.尿療法
尿療法は、よく知られ密かに実行している方が結構います。私もその一人です。若い男で健康のため自分の小便を毎日飲んでいると公言するような男はいません。私の若い頃は結構女性にもてたからなおさらです。私とキスして尿くさい匂いがすると言われたら、もうおしまいです。それで時々親しくしていたホステスに、俺とキスすると尿くさいかと聞くと、「別に」と少しも気にしていなかった。もっとも若い女性のときには軽めの匂いの香水、熟女のときには濃い目の匂いがする香水を使い分けしていたことも事実だが、尿を飲んでも、口や体から尿の匂いは発散しなかった事も事実です。私の尿の飲み方は朝トイレに行くときに出る尿の全量を飲む、これ一回だけです。しかし男は年を取ると、前立腺肥大症になり夜中にもトイレに行くようになる。その時は夜中にゆくトイレの全量は飲まず、一口だけ飲む。しかし朝起きた時の尿は全量飲みます。入院患者など、自分の尿を水やお茶がわりに全量飲む人もいます。体に効いているのかどうか、さっぱりわかりません。癌にかかることもなかったというので今現在も自分の尿を飲んでいます。

2.ガムを噛む
健康のためガムをわざわざ買って噛むと言った人に私は会ったことはありません。新聞、雑誌、本などで読んだこともありません。私のガム噛みは、私独自の判断で噛んでいるだけです。唾液は殺菌作用があると言います。人は手足が傷つくと、無意識のうちになめます。唾液に殺菌力があるからです。私はテレビで猛獣のライオンが自分の嫁か子供に自分の背中を舐めさせている姿をみました。 唾液に殺菌力があるからです。自分独自の考えでガムを噛み続ければ、大量の唾液が胃に流れ込み、大腸にも流れこむのではないか、胃の中で癌細胞が生まれれば、唾液の殺菌作用が少しでも作用するのではないかと考え、ガム噛みを実行しているのです。ガムはキシリリトールガムです。朝食後歯磨き後にすぐ噛みだします。一日家に居る時は、一つガムを一日中噛んでいます。外出で昼食の時には、ガムを噛み変えます。一日中食事以外ガムを噛み続けても、唾液でお腹が張ることは絶対ありません。
ガムはタバコとくらべたらはるかに安く買えます。尿を飲むのに一銭もかかりません。尿のみもガム噛みもほとんどお金がかかりません。やり通す意志があるかないかだけです。私にはやり通す意志があり、両方ともいつやりだしたか正確な日付けわかりませんが、やりだしてもう30年以上たっています。

私は生まれつき、頭も並程度、体も並程度、大学も行っていず、これと言った就職に有利な技術もなく、ひたすら努力を続けないと、皆さんに勝てません。だから若い時から、人生長生きで勝負と決めているのに、母親の癌体質を継いでいるのではないか、そのことが私の恐怖だった。こうして癌にもかからず、満八十歳を健康で迎え、四年前軽い脳梗塞を患ったが、一度患うと、脳のMRIテストすると必ず脳梗塞の影がある。ところが私の脳梗塞は軽度だったため、去年まであった小さな影が消えていた。医者は軽度のせいというが、右膝には軽い後遺症は残っています。それ以外はすべて順調。80歳は長寿の可能性の始まりだ。人生長生きで勝負の年になったのだ。闘争心、少しも衰えず、さあー、やるぞう。人生とは戦いだ。

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杉田水脈氏が寄稿した記事は異常か?

自民党議員、杉田水脈氏が月刊誌「新潮45」(平成30年8月号)に書いた『「LGBT」支援の度が過ぎる」が大変な悪評であると騒ぎになっている状態だと幾つかのメイルがとどけられました。8月2日(金)の夜、NHKの7時のニュースでは、記事の内容を簡単に述べ、わざわざ安倍総理の姿の映像を見せ、記者が質問を浴びせていた。翌日8月3日のネットの朝日デジタルでは韓国訪問中の二階幹事長をつかまえて質問をあびせれば、「こんなもの帰国してから取り出す話ではありません」などと拒否されているのだ。その同じ日の夕方6時半ごろのNHKのテレビを見ていたら、画面の杉田氏が国会で発言する姿が映しだされ、女性アナウンサーが杉田氏の使用した「生産性のないLGBT」を取り上げ、これは相模原障害者施設殺傷事件で男女含め19人を殺害した犯人の精神性と同じものですと言って、殺された被害者の母親らしき人物を画面に登場させ、「LGBTは生産性がない」というのは犯人の根底にあるもの同じですねのような発言しているのです。NHK女性アナウンサーの誘導質問に答えての返事でしょう。杉田氏の記事の異常な拡大解釈で、NHKのあくどさは、ここまできたのかと思った。早速私の手元にある二つの資料をとりだし再度読んでみた。
1.2018・8・7号のニューズウィーク日本版
大橋希(本誌記者)が、“LGBTへの支援は「度がすぎる」のか”の見出しで記事を書いている。次のようなことが書かれています。「同性パートナーシップ制度をいち早く導入した渋谷区の場合、平成30年度の男女平等・LGTB関連予算が1300万円、予算総額983億円の0.01%でしかない。これで「度が過ぎる」と批判するのは度が過ぎる。」
金額の学の大きさで使いすぎの判断しているのではない。大橋の記事はなんら評価に値しない、8月9月分日の私の「えんだんじのブログ」を公表するから、それを読んで勉強しろと言いたい。
2.産経新聞朝刊8月1日の「正論」
動物行動学研究家、エッセイスト竹内久美子が“LGBTには「生産性」がある”と書いている。彼女は、LGTBは自分では子をつくらないのに、つまり「生産性」がないにもかかわらず、なぜ常に一定の割合で存在すのかということだと言って不思議がっているが、そんなのは当たり前でしょ。「例外のない規則はない」、「例外のない法則はない」と言うような言葉があるではないですか。動物行動学研究家というがその研究をしたからと言って人間社会がわかるものではない。彼女にも私のブログを読んでもらいたい。産経新聞は保守系新聞の最,最有力新聞なのになぜこんな記事を正論に載せるのかと不思議に思う人がいるでしょう。しかし現在はLGBTに便乗した方が産経に得と考えたのでしょう。LGBTと言えば、「泣く子もだまる」以上の社会現象だ。5,6年前産経は、八木秀次と組んで「新しい歴史教科書をつくる会」を潰し、或は乗っ取ろうとしたのです。その計画が失敗するとすぐ産経新聞の親会社、フジテレビの日枝が育鵬社という歴史教科書出版社をつくりだしたのです。拙著「保守知識人を断罪す。」(つくる会苦闘の歴史)総和社 1500円+税)」を参照してください。

その後「つくる会」東京支部の池田克彦氏が杉田氏の記事、“「LGBT」支援の度がすぎる”の全文がメイルで送ってくれました。早速全文読んだが疑念に思うところは何もなかった。彼女がこう書いてある文章がありました。
「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を解いてもそのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことがうかがえます。どうして日本のマスメディアは欧米がこうしているから日本も見習うべきだという論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。」
私も全く同感で、これは全く正しい、見解です。まず「LGBT」という文字を見てみましょう。
「L」レスビアン 女性の同性愛者、「G」ゲイ 男性の同性愛者、「B」バイセクシュアル 両性愛者、「T」トランスジェンダー、出生時に診断された性と自認する性の不一致。これを見れば同性愛者は、漢字で日本語だから日本にも昔からいたことがわかります。しかし「BとT」には日本語がありません。なぜないのでしょうか。「BT」は昔からなかった、あったとして目立った存在ではなかったのではないでしょうか。そのため日本語(漢字)が生まれなかったのではないですか?NHKと朝日に教えてもらいませんか。また医学者にも専門的見解を聴いてみたい。日本は農耕民族だから牛を牛肉として食べる習慣が欧米人に比べて非常におくれた。欧米人は狩猟民族だから子供のときから動物は家族の一員、それだけに親近感がある。男の子が思春期を迎えるころには。どの民族の男の子は自慰行為をする。往々にして男の子は動物を相手に自慰行為をすることが多い。だからキリスト教は、動物との性交は厳禁。見つかれば人も動物も即殺されます。それでもアメリカの開発期の初期、沢山のヨーロッパ人がやってくる。初期のころは男ばかり、女性が少ない、男のセックスのはけぐちがすくない。1620年(家光の江戸時代)ニューイングランドのプリマス植民地では、物凄い裁判記録のいくつかが残っています。トーマス・グレンジャーという下男が動物と性行為をしているのを目撃されたのだ。彼の告白によると性交渉した相手の動物は、馬一頭、牛一頭、山羊二頭、羊五頭、小牛二頭、七面鳥一羽であった。おそらく交際相手とすべき女性が極端に少なく、彼の欲望は親近感のある動物に向けられたのだ。彼と性交渉をもった動物はすべて殺され、本人は絞首刑となっています。(「ピルグリム ファーザーズという神話(作られたアメリカ建国)大西直樹 講談社」。
農耕民族の日本人の男は、例え気が狂っても動物とセックスすることはありません。昔から青春期には誰にもわからないように自慰するが、欧米人は昔は、男は自分でもするが、こっそりと誰にもわからないように動物相手に自慰をしてしまう者もいたのだ。それだけ昔は動物が身近な存在だったのだ。こんどアメリカで動物との性行為は容認できないが、ペットとの結婚許可しようと言ったら、現在の中年以上の独身男女が多い日本には良いニュースだと言って、NHK,朝日は積極的に同意するのですか。日本の知識人やマスコミは欧米の文化、思想を分別することなくすぐに同調するのだ。私は日本の「LBGT」の人達を差別しません。私と同じに扱うようにすればいいのです。何も余計なお金を使う必要はありません。

私は本屋に月刊誌「新潮45」8月号を読みに行きました。ほかにもなにか情報が取れるかもしれないと思ったからです。私が実際に本を手にとって分かった事は、この8月号の特集記事が「日本を不幸にする朝日新聞」です。このタイトルに向けて11人の識者が記事を書いています。その一人が杉田水脈氏の記事、「LGBTの支援の度が過ぎる」です。このため杉田氏がNHK,朝日、毎日から総反撃をくらっている状態です。特集記事のタイトルが、「日本を不幸にする朝日新聞」ですが、私のこの種のタイトルで沢山のブログを書いています。私のブログは、「えんだんじのブログ」と言って今年で10年目に入って今年の11月で11年目に入ります。私のタイトルは、「NHK,朝日、毎日は、日本国民の敵」。このタイトルが2014年度を中心に9回書いています。同じ内容なものはありません。それでは一回目から日付けを紹介しましょう。
一回目 2014年4月12日 二回目 5月10日  三回目 6月7日
四回目 7月19日  五回目 8月16日  六回目 8月30日        
七回目 9月27日  八回目 10月11日 九回目 2015年4月24日
ブログのタイトルは、繰り返しますが「NHK、朝日、毎日は、日本国民の敵」。内容がすべて違います。また読者の率直な反応のコメントと私の回答もすべて読むことができます。「えんだんじのブログ」左側のアーカイブスをご覧ください。私の10年間のブログをすべて読むことができます。「NHK、朝日、毎日は、日本国民の敵」を一回から九回まで読んで頂き、内容に気に入るものがあれば自由に転載、拡散に利用してください。

最後に杉田議員は、自民党の性的指向に関する委員会の古屋圭司委員長の指導を受けてメディア向けの無難なコメントを出しています。謝罪文や寄稿文の撤回を求められても、杉田氏には、絶対に応じないようお願いします。古田圭司委員長に言っておきます。私は神奈川支部の自民党党員です。党員番号:0914-000996・8.入党日:平成21年9月7日。この時期民主党政権が出現、自民党の党員数がごっそり減った時期です。自民党をつぶしてはだめだと入党した価値ある自民党員なのだ。私は杉田氏の熱烈な支持者です。杉田氏は従軍慰安婦問題で国連で活躍した功績がある、それだけに野党、マスコミは杉田氏が目の敵にして憎んでいます。杉田氏は、こんど「つくる会」の理事をしており、私も「つくる会」の古い会員です。杉田氏には強力な、熱心な支援者がついていることをお忘れなく。

最後に、皆さん、このブログの内容気に入りましたら、転載、拡散よろしくお願いいたします。

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男女同権、男女平等、但し男女別動物

最近では男女同権、男女平等の思想が行き過ぎて、男女の区別を明確化すると非常に強い反発を招きます。何が何でも男女は同じ動物で男女の区別の認識化を嫌がる傾向があります。私に言わせれば、男女は全く別の動物であり、それがために男女はお互いに100パーセント理解し合えることができない。だから夫婦という男女間の密接な関係は、お互いの深い愛情がないと成立いたしそません。お互いの深い愛情こそが、精神的にも肉体的にも全く違う男女という生き物を結びつける一大要因なのだという認識できなくなっているのだ。なにが何でも男女の区別をやめて男女同じ動物にしようとするから、今後どんどん日本の離婚率は増えること間違いありません。もうアメリカは何年も前に最初に結婚した相手と死ぬまで結婚を続ける人たちが50パーセントをきっています。いずれ日本の離婚率もアメリカ並みになるでしょう。それを避けるためには、「男女同権、男女平等、但し男女別動物」という認識を強く持つことです。
そして日本女性のあるべき姿をどこに置くべきか、私の主張を述べてみます。私は読書好きですが、私が個人的の好きな小説家は二人しかおりません。私はこの二人の作家だけは全集などすべて読んでいます。二人の作家とは司馬遼太郎と山本周五郎です。司馬遼太郎は大東亜戦争史に関して歴史的には危険人物です。ここで私が推薦するのは山本周五郎です。周五郎は明治36年生まれ、時代小説しか書かない時代小説の専門家です。作風は登場する主人公が個性的な意固地な生き方を選ぶ、そのために苦労するが、その生き方をやめようともしない主人公を描き、その生き方に手を貸してくれる女性が現れると言うような筋書が多いい。私もどちらかと言うと意固地な生き方をするほうなので登場する主人公に親近感を持って読み続けた。一番印象に残る作品は、「日本婦道記」です。昭和18年には直木賞に選ばれましたが山本は辞退しています。直木賞受賞決定後に辞退した雄一の人物です。辞退の理由は山本が個性的で文壇との付き合いがほとんどなかったからと言われています。その後も賞とよばれるものはすべて辞退です。それでも新潮社が主体になって昭和63年に山本周五郎賞を設けられ現在まで続いています。
この「日本婦道記」、舞台は江戸時代でそれぞれ出自の違う武家の娘11人の生き様を描いた短編小説です。完成された封建制度と武家社会の基に、武家の娘たちは決して現在社会の女性ように自由奔放に生きられないものの、決して信念を曲げずに自分の愛する夫、子供、家族、家名を守るために一途に捧げる彼女たちの愛情の深さには感銘を受けるばかりです。権力や権威、あるいは力づくで愛情深さを出せと命じられても、愛情深さを出すことはできません。出版された当時でも読者の中に女性だけに不当な犠牲を払わされているという批判も浴びたこともありました。山本周五郎は、このように解答しています。
「あれは教訓で、女だけが不当な犠牲を払っていると言われるのですが、私はそれが非常に心外なので、もう一度よく読み直して頂きたいと、よく申し上げます。あれはむしろ世の男性や父親たちに読んでもらおうと思って書いた物で、小説自体の中で女性だけが特別な不当な犠牲を払っているようなものは一篇もないと思います。(中略)もし不当な犠牲を強いられたら、日本女性だって、そんな不当な犠牲に甘んじている筈はありません。私はそうではなく夫も苦しむ、その夫が苦しむと同時に妻も夫と一緒になって、一つの苦難を乗り切って行く、という意味で、あれだけの一連の小説を書いたのであります。」と回答しております。
現在の若い女性たちは、自分自身できめた人生を自由奔放に突き進むことができますが、現在日本の老若男女は、江戸時代の上流社会の武家の娘たちの生き方を一度読んでみるのも参考になっていいのではないかと私は思っています。なぜあれほどの深い愛情をささげることができたのか、やはり江戸時代の前から何百年にわたる家庭生活からうまれた日本文化の質の高さによるのではないでしょうか。その意味において敗戦後GHQから与えられた現行憲法は、日本の文化あるいは日本人を堕落させた根本犯人です。一にも二も現行憲法破棄、新憲法制定でアメリカの保護国からの脱却、真に独立独歩の日本、日本文化及び日本人の復活を希望します。特に現在の若い男女たちにお願いがあります。「男女同権、男女平等、但し男女別動物」の考えをよろしく、そして山本周五郎の「日本婦道記」の一読をお願いいたします。先ごろ若夫婦が生み、育てた幼児に満足な食事を与えず殺してしまう、若夫婦の話は、戦後の日本文化と日本人の堕落以外のなにものでもありません。

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昔の貧困、現在の貧困

来月、8月1日で誕生日を迎え80歳になる。大東亜戦争終結時、私は小学校一年。私の世代の人たちは、大東亜戦争敗戦後の社会で育った。だから同じ貧乏でも共通点が非常に多かった。戦場で父を亡くし、空襲で母を亡くし、戦後孤児になって浮浪児と呼ばれ、国支援の民間の施設、あるいは国の施設で育てられた。厚生省昭和23年2月の発表によると、親戚の人にも引き取られずに施設に預けられた浮浪児たちは、1歳から18歳まで全国で123,511人です。この人達の中で現在80歳以上になり元気で会話をかわせる人がおれば、筆者に連絡して頂けませんか。私は自費でその人の所へ伺い、その人の伝記を無料で書きたいと思っています。興味があれば「えんだんじのブログ」にご連絡ください。

浮浪児に次いで苦労していると思われる人達は、私の中学卒業時、即ち昭和29年4月青森発上野行き夜行列車、これが最初の就職列車で大都会に働きに出てきた地方の中卒の方々です。この就職列車は50年の4月まで21年間続いたのです。私が中卒の時から21年間就職列車が続いたということは、現在60歳以上から80歳までの多くの男女の最終学歴が中卒のままでいることを意味しています。私はその方々より少し条件が良かった。私はもし公立高校に入学できれば、その高校に入学し、入学できなければ就職と決めて受験したら合格したからです。合格しても、学費以外は全部払うつもりがない。修学旅行はどこにも参加せず、運動部などクラブ活動はどこへも入らず、アルバイトで資金かせぎ。以来定年まで孤独な生活が続いた。私の自伝的小説「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」(文芸社、1600円)を読んでいただければ、私の孤軍奮闘ぶりを読むことができます。私は自分の貧乏ぶりを歎いていたが、日本社会への不満は少しも感じなかった。多くの人達が自分以上の貧乏人が多かったからだ。私が鎌倉市の県立高校を卒業した時、鎌倉市は当時から裕福な家庭が多かったから、県立高校卒業時、男はほとんど全員大学進学です。卒業時学校の先生から、「鈴木、就職どうする?」と聞かれたから、「職安(職業安定所)で見つけますよ。」と少し反抗的に答えていた。男子生徒たった一人のための就職の世話など面倒だったのでしょう。工業高校卒とか商業高校卒なら、大体働き先が決められるが普通高校卒では働き先は自分できめるほかはない。私が高校卒業後、高校の同窓会に参加したのが、高卒36年後の64歳の時です。元気で快調に過ごしているところ見せてやれと思ったからです。高卒後5,6年ぐらいのうちに長く勤められる勤め先を決めた。外資系5社渡り歩いた貿易関係の仕事です。貿易関係の仕事が好きだったわけではありません。長く勤めていられそうだと思ったからです。私には仕事にたいする誇り、愛着、愛社精神など何もありません。一番気になったのが給料の高さだけです。自分の仕事に対する、役付き、名誉、体裁など一切関係なし。関係あるのは給料の高さだけ。こうして外資系5社渡りあるいて定年。今になって考えれば、こうした徹底した考え方が良かったのでしょう。また私は自分の主義、主張をはっきり、堂々と主張してきた。どういうわけか日本人は自分の主張をはっきりさせず、ぼかし気に主張するのが多い。そのお蔭かどうか知らぬが定年後働くことなしに、どういう私の人生の風の吹き回しか、執筆活動に専念することができたのだ。贅沢はできないが、働くこともなく執筆活動ができるなんてうれしくてしょうがなかった。そのためこの20年間は幸せだった。私が中学卒業時、地方の片田舎から就職列車で大都会に働きに出ていたら、定年後働くこともなく執筆活動に専念できなかったでしょう。自宅から東京、横浜の大都会に通勤で通えることがどんなに有利か知っていたのだ。

現在の貧困原因は何か。主に家庭崩壊でしょう。最初から結婚もせずに子供を産む人、結婚して子供二、三人持って離婚した、母子家庭、あるいは父子家庭、これで収入不足で貧困に陥る。さらに親が病気になると片親だけに悲惨な家庭状況におちいる。一例をあげると、離婚した父が二人の子供(小学生)を引き取ったのはいいが病気になり、6畳一間に住み、食卓に使う御膳がそのまま勉強机になり、子供が栄養失調になりそうだ。こういう貧乏所帯でも、私の子供時代と比べて決定的に違う点が三つあります。
1.政府から生活保護費が出る。この生活保護費は、全国一律同じでなく、地方自治体によって違う、また同じ地方自治体でも住む場所によっても違うところもあるが、生活保護費は必ず出る。
2.最近、主に貧困者の子供たちに食事を提供する「子供食堂」がある。2016年で少なくとも全国で139ヵ所、およそ2年後には全国で2286ヵ所、利用者がのべ100万人を超えた。
3.冷蔵庫、洗濯機等家庭電化製品の大発展で私の子供の時の家事手伝いとは天国と地獄の差。私は小学校1年から中学校卒業するまで9年間横須賀の山奥に住んでいた。飲み水は水道でなく、井戸水。6,70メートルぐらい歩いて、つるべ落としで飲み水を運ぶのが私の仕事だった。電気製品はラジオだけ、アイロンは、アイロンの中に火鉢の中の炭(スミ)を入れていた。自宅のトイレの汲み取りも私の仕事だった。要するに家事の仕事が極端に楽になったのだ。

極端な言い方をすれば、上記(1)、(2)、(3)のおかげで昔の貧困より現在の貧困のほうが、はるかに楽で扱いやすくなったのだ。この事実を誰も否定することはできません。ところが私の子供時代にも、現役で働いている時にも、全然なかった驚くべき不思議な事が起こり出したのだ。それは過労死です。労働者に長時間労働や休みなしの勤務をさせ、病気になったり、或は自殺に追い込まれて死んでしまうことです。この過労死は先進国の中では日本だけが特出して多く、日本社会の特異な現象になっています。2017年だけで労災が過労死(自殺を含む)と認定した死者190人です。やっと横ばいになったと言われているくらいです。私は過労死に怯える労働者の気持ちが全く理解できません。労働者は仕事がきつ過ぎて、病気になったり、自殺するくらいなら、その仕事を辞めればいいじゃないですか。就職難どころか人手不足の時代でしょ。昔に比べて生活水準があがったくらいで、こうも人間の闘争心が衰えるものなのでしょうか。現在日本民族の民度の劣化がよくいわれますが、この過労死の続出は民度の劣化の典型的な例と私はみなしています。こういう情けない日本人が多く出てくるから、現在よく言われる憲法改正の内容がはっきりしないままうやむやに終わってしまっているような感じです。なぜ現行憲法破棄、新憲法制定、旧宮家の皇籍復帰、核兵器保持、日米同盟堅持、一人前の独立国家建設など、なぜ国民の前にはっきりと主張できないのか。私は日本民族の劣化が激しく、ますます日本の主体性をはっきりと主張し、実行することができない国になるのでないでしょうか。シナ、韓国、ロシアに浸食されつづけ、いざとなったら拉致事件のようにアメリカにお願いするのですか。そんな日本の姿になんとも思わない日本人が多くなっているのではないでしょうか。こんな情けない、惨めな日本の姿が見えてくるのです。


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MIEさん、大変ご無沙汰しております、お元気ですか?

私が「えんだんじのブログ」を書き始めて10年目になり、今年の10月でその10年目が終わります。ところがミクシーに入会したのが「えんだんじのブログ」よりも早く、入会していてもうほとんど12年目になります。ミクシーは私が入会したころが全盛期で今では会員がFACEBOOKに奪われ、会員数がどっと減りました。それでも「えんだんじのブログ」をミクシーの日記にも毎回転載し続けております。ミクシーの会員のままFACEBOOKにも移った人もいますので、その方々がたまに思いだしたように「えんだんじのブログ」を読んでくれています。わたしのミクシー上の女性友達で、ミクシーを去り、FACEBOOKにも入会せず、メイルでも連絡もとれない人がいます。しかしその女性は私のミクシーの昔仲間で、ぜひ連絡して、「お元気ですか」と声をかけたい女性なのです。その方の名前は、ミクシー上でMIE(ミー)さんと呼んでいます。
「えんだんじのブログ」を読んで直接コメントを書いていただき、私が承認すると、公開され、私が削除しないかぎりそのコメントはほぼ永遠に消えることはありません。しかしミクシー上の日記に、えんだんじのブログのコメントを書いても、数日経てば自然と消えてしまいます。
「えんだんじのブログ」を見て頂きますと、左側のコラムには上から「おしらせ」、「カテゴリー」、「アーカイブ」と並んでいます。「アーカイブ」には今現在、2018年6月から2008年10月までのブログ公開数298通が公開されています。そこで皆さんにお願いがあります。2009年4月19日のブログ「戦うことは貴いことである。」をぜひお読みください。このブログの冒頭で「私は、できることなら20代30代の若者全員にこの記事を読んでもらいたいと思っています。」と書いています。皆さん、このブログを読んで見てください。それからその三日後の2009年4月22日にブログ「若い人からのコメント」を公開しています。4月19日のブログ「戦うことは貴いことである」に対してわずか2,3日で大勢の若い人達からのコメントがミクシーの日記に書きこまれたので、私すぐにえんだんじのブログに転載したのです。その中にMIEさんからのコメントもありました。

その時からMIEさんは軽いうつ病だったことを突然思いだしました。MIEさんは、秋田県出身で幼いころ両親が離婚、祖父母に引き取られ成長し東京の大学を卒業した。祖父は彼女が高校生のころ亡くなり、以後祖母だけに育てられた。祖母は私より4,5歳若く、若い時秋田から稚内にお嫁にゆき苦労したそうだ。MIEさんにとってお婆さんの存在は大変重要な存在であった。もう数年前になりますが、MIEさんがミクシーの日記に死んだおじいさんの思い出を愛情たっぷり込めて、「おじいちゃん、あたし今おじいちゃんに会いたいよ、二人でお話しがしたいよ」などと書いていたのを思いだします。その頃MIEさんは、横浜市の神奈川区の住んでおり、私は青葉区で同じ横浜で、二人は結構近いところに住んでいたのだ。二人ともいずれどこかでお会いすることが出来るだろうと思っていた。私がミクシーに入会して5,6年ぐらい経ったころだと思います。私がミクシー上で主催して「えんだんじの会」を開きました。まったく何人来てくれるか分からないのでとりあえず、横浜駅のルミネのレストラン街に10人ぐらいの予定で予約しました。当然MIEさんも参加予定で、参加予定者が20人前後になった。これでは皆初参加ですので名札がなければダメだと思い、自分で名札を買い、自分で各自の名前を書き込んで会場にゆきました。ところがMIEさんは風邪をひき、熱がでてしまい参加できませんでした。食事をしながら一緒に話し込み、その後有志で喫茶店に向かってお開きでした。
その頃にお会いした人達は、ミクシー上では会員でいる人も結構いますが、ミクシー上では退会行動をとっておらず、事実上は会員のままの人が結構おります。MIEさんもその後ミクシー上での日記を書かなくなり、「えんだんじのブログ」へのコメントを書かなくなり、メイルも来なくなりました。MIEさんからの連絡なしが半年以上続いた後、突然、MIEさんからのメイルが入りました。
「えんだんじさん、長らくごぶさたして申し訳ありません。私、いまある男性と同棲しています。二人の出会いの話をすると長くなるのでしませんが、二人はいずれ出合うべき相手に出会ったことに気づきました。これからも末長く一緒に暮らしていきたいと思っています。新しい住所とメイルアドレスが書いてありあました。
私は次の様な返信を出してあげました。
「音信不通が長かったので心配していたこと。突然メイルが来たと思ったら、同棲生活を始めたニュースにはびっくりしました。新住所でも二人とも近いところに住んでいたので、二人の前途を祝すから、二人に昼食を招待します。私は定年で毎日が日曜日なのでいつでも都合できますから都合の良い日を教えてください」とメイルしました。MIEさんは喜んで私の招待を受けてくれ、一緒に昼食をする日を決めたのです。ところが招待日直前になって事情があって招待をキャンセルしてきたのです。それ以来MIEさんからのメイルもなし、そのうちにミクシーから、また私のミクシーの友人リストからも名前が消えていました。彼女はミクシーから脱退したのでした。きっと二人の同棲生活がうまくいかなくなったのでしょう。彼女は軽いとはいえ長いうつ病を患っているので心配です。彼女は故郷の秋田に帰ったのでしょうか、それとも東京近辺で生活しているのでしょうか。MIEさんの昔のミクシーのお友達で彼女の消息をご存知のかたおりませんでしょうか?MIEさん、えんだんじのブログを思い出すようなことはないでしょうか?思い出したら、ぜひえんだんじのブログ、「両手両足を失った中村久子」(平成30.3.24)をぜひお読みください。昔は女性の人は一生働かず、夫の生活力が頼りでしたが、彼女は両手両足をなくした女性にもかかわらず、四度も結婚して、子供をつくり幸せな老後をおくりました。パソコンのない時代なら、私とMIEさんとの間柄はペンフレドとも呼ぶべきなのでしょうが、物の見方、考え方が私とほとんど同じなのです。それだけにMIEさんの将来が気になっています。人生はまだ長いですよ。MIEさん、頑張って良き人生をお送りください。

私がミクシーに入会したきっかけは、私の二作目「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の売り上げが非常によく、初版出版後一年後、2005年7月に二刷りを出版後、およそ一年後に出版社、碧天舎が倒産してしまったからです。私は売れ残った約300冊を自分で買い取り、出版しようとしていた三冊目の「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」の出版費用を払いこんでいました。私は碧天舎倒産で受けた数多くの債権者の一人でした。ある日碧天舎は東京の神保町で倒産の説明会がありました。私は無論参加しました。数日後ミクシィーの会員名、マジョリカさん(女性計理士)からメイルがきました。マジョリカさんも碧天舎倒産で債権者になった一人でした。その方が碧天舎の債権者のリスト見ながらミクシー上に「碧天舎」という仲間の会を作りました。碧天舎の今後の活動を監視していこうという計画です。どうぞミクシーに入会して、「碧天舎」という仲間に加わってくれとの依頼でした。私はミクシーという名前だけ知っているが、それ以外のことは、何も知らなかった。マジョリカさんが、私のミクシー入会の推薦者になってくれた。当時はミクシー入会者の信頼性を強調のため、入会者の推薦が必要であった。彼女は私にミクシーの日記の書き方、日記に対するコメントの返答の書き方などをメイルで逐一教えてくれました。私がミクシーの会員になれたのもマジョリカさんのおかげです。私が「えんだんじ」というミクシー名で日記を書き始めて一、二年ぐらいたったころ、仙台のミクシー名、ソードフイッシュさんが、えんだんじさんの日記の内容では、ミクシー上の日記ではもったいないから、自分でブログにしたらどうかという提案がありました。私はブログの作り方などさっぱり、分からないと言ったら、彼もまた、ブログ記事の作成のしかた、コメントに対する返事の仕方など懇切丁寧にメイルで教えて頂き10年前の10月に「えんだんじのブログ」開設したのです。以来10年間私の「えんだんじのブログ」の管理者になってくれました。今年の10月以降も「えんだんじのブログ」の管理者なっていただくことも了解してくれました。しかしソードフイッシュさんは、現在ミクシーの会員ではありません。現在はfacebookが圧倒的強さですが、数年前まではミクシーは日本最大のSNSでした。私は安倍総理が首相になる一年前のただの安倍議員時代に面会できたのも強力なミクシーの保守系会員だったからでしょう。また安倍議員もそのころ「つくる会」の積極的支持者だった。「つくる会」の季刊誌に積極的に投稿していたくらいです。安倍議員は、私を含む訪問者全員を議員宿舎の執務室に案内し、私と仲が好かった元カメラマンは私と安倍総理二人だけの写真をA4の紙一枚の大きさでとってくれました。女性たちは、奥さんの昭惠さんと気さくに話こんでいました。こんなとっつき易い奥さんでは利用されやすいのではという感触だったが、いまになって見ればその通りになったみたいな感じでした。当時の安倍議員は、熱心な「つくる会」支持者だったが、育鵬社が設立されるとあっさり育鵬社支持に変わった。育鵬社がフジテレビの社長が3億円を出して設立されたが、恐らくフジテレビの社長から安倍氏への多額の献金があったのでしょう。安倍議員はあっと言う間に育鵬社支持者になってしまった。

ミクシーへの入会、えんだんじのブログの作成、安倍議員への面会、あるいは西尾幹二氏が主宰する「坦々塾」への西尾氏からの入会の誘いも「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の読後の推薦だった。そして「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文化とその出版。私の定年後の大作出版は、私の人生に非常大きな影響をあたえています。「えんだんじのブログ」は、私の執筆の大きな役割を務めているが、ミクシー上での執筆活動を無視するわけにはいきません。それだけに、私のミクシー上での女性ペンフレドのMIEさんが元気でいればとの思いが強いのです。

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楊海英氏、文化人類学者、静岡大教授への反論

楊海英氏、文化人類学者、静岡大教授への反論
Newsweek(ニューズウィーク日本版)、2018・5・15号で楊海英氏は日本の相撲を批判しています。楊氏の日本相撲批判は、次の三つの点です。1.国技であること。2.神事であること。3.力士は品格が必要であること。私もこの三点についてことごとく反論していきます。
1.国技であること。
楊海栄氏はこう書いています。
「ユーラシアでは既に、紀元前8世紀~前3世紀に活躍した遊牧民スキタイが青銅器に相撲の分様を刻んでいた。また、10世紀頃に栄えた遼王朝のモンゴル系契丹人の格闘技が日本に伝わって大相撲になったという学説もある。それでも、「モンゴル高原が相撲発祥の地」と自慢するモンゴル人はほとんどいない。人類共通の興行だからこそ、大相撲にもモンゴル相撲にも似たような技芸があり、モンゴル人力士はそれを遺伝子のように駆使できるので強いというだけだ。わざわざ近代国家の枠組みに縛られて「国技」性を強調する必要があるのだろうか。」

相撲は色々な国に古い起源がありますからスキタイ民族の青銅器に相撲が描かれていたという話には驚きもしません。10世紀頃、モンゴル系契丹人の格闘技が日本に伝わって大相撲になったという学説。これは多分いいかげんでしょう。楊氏に質問しますが、モンゴルでは、相撲について語っている古い歴史書がありますか。日本では、現存する最古の正史と言われる「日本書紀」全30巻があります。奈良時代の720年に完成と言われています。そこでは次の様なことが書かれています。日本の11代目の天皇、垂仁天皇が7年7月7日に出雲の国から野見宿祢(のみのすくね)を呼び寄せ当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとらせ、野見宿祢(のみのすくね)が勝ったと知らせています。これが古代宮中で毎年7月7日に相撲大会が行われる起源になったと書いています。私は古代史を勉強していませんので、垂仁天皇の7年と言っても西暦でいうといつごろになるのかわかりません。ネットで調べると多分3世紀末か4世紀初めごろとありますが、正しいかどうかもわかりません。ただこの野見の宿祢(のみのすくね)は現在でも生きているのです。野見の宿祢神社が兵庫県、たつ野市と東京都墨田区にあります。とくに墨田区の神社は、大東亜戦争中の東京大空襲で完全に消失、1953年(昭和28年)6月、敗戦後まだ8年で日本国全体が極貧状態のとき再建しているのです。この墨田区の神社は、国が管理していますが、場所が狭いだけに沢山の見物人を集めての横綱の土俵入りができません。そこで新横綱が誕生した時だけ、出雲大社の東京分枝を招いて一般への予告なしに新横綱の土俵入りをしています。
大相撲のこれだけの背景、そして国民が何百年もかけてつくりあげた大相撲を「国技」とよんで強調したところで他国に害を及ぼすものではありません。楊氏は文化人類学者でしょう。文化というものは多くのその国民が何百年もかけて作り上げ、国民も経済的に豊でなければ他国からは文化と呼ばれないことを知っておくべきでしょう。大昔世界の多くの国々で相撲というスポーツがあったにも関わらず、現在の日本相撲のように古めかしさを多分に残しながら日本民族の大衆のスポーツに仕上げたのは日本だけ、それを国技と呼んで何が悪いのでしょうか。

2.神事であること。
「サッカーのワールドカップでは、キリスト教徒の選手は十字を切り、イスラム教徒はコーランの一節を唱える。神に頼って勝ちたいし、勝って神を喜ばせたい。それが興行=スポーツの目的なのだ。何も大相撲だけが神事で、他のスポーツより一段と神聖なわけではない。」と楊氏は書いています。
楊氏は、日本の文化をよく理解できないまま日本人の国籍を取ったのだ。日本人は大相撲がほかのスポーツよりより神聖なのだと思っている人は誰もいません。日本人は個人が自分の家を建てる時も、企業が大ビル建設の時でも、神式の儀式(上棟式)を上げるが、誰も自分の家が他の人の家より神聖だとか、他の大ビルより神聖な大ビルなどと思って上棟式を上げているのではありません。ただその儀式が習慣となっているからするだけです。文化人類学者で日本の国籍をとっているのならもっと日本文化を勉強してください。

3.「品格」の問題
楊氏が気にしているのが、「力士が『国技』『神事』の本質がわかっていないので、「品格に問題がある」という見方だ。これは楊氏が長く数年間にわたる相撲を見ていないから、横綱、白鵬の横綱としての品格の問題を力士すなわち一般力士の品格の問題ととらえて勘違いしているのだ。私は相撲ファンです。特に定年後は、特別に仕事をしていませんから、よくテレビを見ます。過去ほぼ20年間テレビをみてきた。横綱白鵬の全盛期を見てきました。白鵬が横綱になると、立会のときに、左右のどちらかの手で張り手をかますか、あるいは右ひじにサポーターを巻いて右ひじでのかちあげが多いのだ。もちろん禁じ手ではないので使ってもよいのだが、あまりにも使う回数が多くなると横綱になっている力士が使うべき手ではないという不満が観衆の間に生まれてきます。だから私は外国人横綱が出現した時から、大相撲は横綱のマニュアルを作れというのが私の主張でした。日本ではこうしてはいけないことという常識なれば、規則がなくても自然と従うが、外人の場合は、やってはいけないと言う場合、規則がないと行っていいのか、悪いのか、迷ってしまう。だから横綱のマニュアルは今でも必要だと私は思っています。

あれは栃ノ心が優勝したときだったと思う。横綱審議委員会の委員長が白鵬の立ち合いの戦いに苦言を呈したとき、それ以後、白鵬は立会に張り手やかちあげをあまりやらなくなった。そのせいか、また白鵬の体力の落ち目のせいか敗ける率が多くなった。かっては土俵上で白鵬は、自分が勝ったと思ったのに負けと判定され、土俵上での彼の抗議で審判の判決になかなか承服せず、土俵をなかなか下りなかったことがあった。現在の審判は最終的判断には、ビデオを使うにもかかわらずだ。確か日馬富士の暴行問題のときだったと思う、白鵬は土俵上で観衆にむかって日馬富士への拍手を強要したのだ。私に言わせれば白鵬は生意気だ。白鵬は自分の打ち立てた大記録に酔い、自分は日本相撲界のジンギスカンになったつもりか。新聞によると白鵬は、横綱人生終わったら、日本人国籍を取り、相撲界に残るつもりらしいが、私は反対だ。横綱終わったら、さっさとモンゴルに帰れ。先場所鶴竜が優勝したが、栃ノ心と星の差一つで優勝争いを演じていた。後半戦に鶴竜と琴奨菊の好取組があった。琴奨菊は元大関で関脇も落ち、先場所は平幕だった。しかし先場所、琴奨菊は好調だった。鶴竜を相手に琴奨菊は、どう戦うか、鶴竜は琴奨菊をどう下すか、皆注目の一戦だった。取り組みが始まると、琴奨菊は、猛然と鶴竜目がけて突っ込んでいた。ところが鶴竜は、立ち合い突っ込まず、横に逃げてあっさりと勝ってしまった。この時の観衆のブーイングがすごかった。私が昔白鵬の立ち合いの逃げ勝を見たとき、観衆はびっくりして、ブーイングを浴びせるどころか、きょとんとしていた。しかしモンゴル横綱の逃げ勝には黙っていられなくなって鶴竜への大きなブーイングになったのだ。横綱同志の戦いには、立ち合いの逃げ勝はあるかもしれません。しかし横綱対平幕の戦いで立ち合いに横綱が逃げて勝つなどとは恐らくないでしょう。だからこれからは、日本人横綱にも外人横綱にもマニュアルを作りなさいと言うのです。
楊氏の日本相撲界への反論は、文化人類学者としては日本相撲に対する知識不足が原因。参考になる意見など何もなし。

最近ニューズウイーク(日本語版)のジャパンタイムズ化と言われます。説明すると英字新聞「Japan Times 」は、穿った見方をして反日の記事をちょくちょく書く。ニューズウイーク(日本語版)もつい最近版(2018・4・24)では日本での外国人実習生の特集記事のタイトル「SLAVERY HELL現代の奴隷制 実習生残酷物語」を愛田峰俊(ルポライター)が書いている。自由意志で応募するかどうか決めるのに「奴隷制」という言葉が使えるのか?私はニューズウィーク誌(日本語版)編集部に何も日本を批判する記事を書くなと主張しているのではありません。論理的記事を書いて批判しろというのです。私はニューズウイーク誌(日本語版)長期契約読者です。読者番号:1101-050-8822。くだらぬ日本批判が続くなら長期契約はやめることにします。


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「日本のすごさ」

Newsweek(ニューズウィーク日本版)2018・5・15日号の表紙のタイトルがすごい、
「日本すごい」に異議あり!」
特集「村上春樹も相撲も漫才もつまらない?日本はすごいのか」など刺激的な文字を羅列していた。日本のテレビで人気のあるパックン氏(コラムニスト、タレント)が書いたお笑い番組についてのコメントの見出しは、『THE ART OF COMEDY, 「忖度の国」のお笑いスキル、一発芸や漫才など「センスの結晶化は欧米に劣る?権威をこき下ろす社会風刺が生まれない理由」と書いてある。
では、パックン自身はどのような文章を書いているのか、しばらく彼の文章を見てみましょう。
引用開始
『この数年で僕の意見は変わったのだ。多くの外国人同様、初めて見た時は日本のお笑いの面白さが全くわからなかった。「スリッパで頭をひっぱたくだけで笑いがとれるこの国ってすごいねぇ」と、軽く軽蔑していた。「コメディー」の頂点、アメリカから来た僕にとって、「お笑い」が解せなかった。一発ギャグもそう。リズムネタもそう。熱湯風呂に入ったり、熱々のおでんを食べたり、乳首を洗濯ばさみで挟んだりするだけで笑いをとる。「リアクション芸」もそう。どれもさっぱり分からなかった。ダチョウ倶楽部さん、ごめんなさい!
漫才のおもしろさもさっぱりだ。日本の芸人は、スタンダップコメディアンのように一人だけで笑いはとれないのか?ツッコミ役のしつっこい説明がないと観客はついていけないのか?それから笑いをとるボケ役と、単に突っ込むだけのツッコミ役のギャラって同じなのか?もう、訳がわからない。自国の芸風と異なる点を全部否定する。このうぬぼれっぷりも「アメリカ人ってすごいな」と振り返って思うところだが、実は僕が芸人を目指すことにしたのは、日本のお笑いをなめていたからでもある。しかしやってみると…目からうろこ!思った以上に、日本で笑いをとるのは難しい。スリッパたたきは技術のたまものだ!一発ギャグはセンスの結晶ダ!ダチョウ倶楽部さん、超天才!』
引用終了

まぁ、皮肉っぽく日本のテレビのお笑い番組を批評していますが、パックンの根底には、日本のお笑いは、欧米より少し落ちるのではないかと次のような理由を挙げています。
1.ネタが使えない禁止区域が広すぎる。
欧米の笑いは人種や宗教の違いや下ネタなど題材にするのが多い。これはどれも日本では使えない。
2.アメリカのコメディアンはテレビで、その番組の放送局やその親会社、スポンサーを含
めた企業も、商品も、政治家も、さらに芸能人をもどんどんネタにする。これが当たり前。
権力者やセレブを突き落とすのが芸能人の仕事だとされているから。
3.日本だけでなく英語圏以外の国から世界を制覇したコメディアンがほとんどいない。欧
米のコメディーがグローバルスタンダードになっているからです。
このように書いているパックンも自分では日本のテレビに身を置いているせいか、「日本
は忖度の国、体制側からの圧力が「すごい」。そんな制約の多い中で笑いをとるのも独特の
スキルとして認めるべきではないかと思う」と、同情的な書き方をしています。
それでは、このパックン氏の文章に反論しながら「日本のすごさ」を紹介しましょう。

国民の笑いや涙の背景を考える場合、その国民の歴史を考えて見るのが最適です。パックン
氏は日本通であるから江戸時代が300年の平和を満喫したのは知っているでしょう。日
本は平安時代には江戸時代より長い400年の平和を満喫したのです。平安時代とは、桓武
天皇が平安京(京都)に都に移してから1192年に鎌倉幕府が成立するまでの398年間
が平安時代と言われています。この時代の一大特徴は、非常に沢山の女性作家の登場です。
主な女性作家名、作品名、種類。発表年数をリストアップしてみましょう。
1.紫式部 「源氏物語」、長編小説、1008年
2.枕草子 「つれづれ草」、随筆、996年
3.藤原道綱の母 「蜻蛉日記」、自伝的小説、975年
4.紀貫之 「土佐日記」、紀行文、日本文学史上初めての日記文学、934年。
紀貫之は、その他に「古今和歌集」、全20巻、歌数1111首、912年頃。四人の選者の一人であり且つ選者の主役です。
5.和泉式部 「和泉式部日記」、日記、1008年
6.紫式部  「紫式部日記」、日記、1010年
7.小野小町、歌人、古今和歌集の序で六歌仙の一人の女性と選ばれています。絶世の美人と言われ、生誕地もお墓も全国に散らばっていると言われています。三十六歌仙となると女性歌人が続々と登場してきます。

昔の男社会の中でこれだけの女性文学者が活躍しているのは日本だけです。当時では女性の活躍は世界の最先端だったのです。特に紫式部の「源氏物語」は世界最初に女性が書いた長編小説です。パックン氏初め欧米人が崇めるシェイクスピアは男性ですが、生まれたのは1564年です。「源氏物語」誕生から500年も経っているのだ。アメリカ人女性、マーガレット・ミッチェルの書いた世界的ベストセラー、「風と共に去りぬ」が出版されたのが1936年です。人類最初の女性小説家誕生から900年も超える年月が経っているのです。平安時代に数多くの女性文学者が活躍するためには国内で戦争があったのでは執筆活動などできません。西尾幹二氏は、自著「国民の歴史」(産経新聞社)の中でこう書いています。
「嵯峨天皇の弘仁年間(810―823年)以来、死刑が実際上の廃止という出来事が起こった。後白河天皇の時代の保元の乱(保元元年・1156年)による源為義などに対する
処刑まで、26代、346年間、実際上死刑が執行されることはなかった。このことは日本刑法史上はもとより、世界刑法史上よりみても注目に値する事実である。」
まさに日本列島は平和そのものであったのだ。
平安時代の後、17世紀初めに江戸時代をむかえますが、この時代もおよそ300年間の平和を体験しています。現在の天皇陛下は125代目です。ざっと2000年の歴史がありますが、そのおよその三分の一の700年間が平和だったのだ。しかも日本は島国で海外領土も一切なく純然たる日本列島での幸せを築いたのです。なぜ幸せを築けたのか。日本人は、その国の平和は、自己主張の強さより他人への気配り、すなわち「忖度」が優先されるということを知っていたのです。その「忖度」対する欧米の気質は何か「自己主張」です。ペリーが幕末日本にやって来た時のアメリカの国務長官、ダニエル・ウエブスターは、こう言っています。
「日本列島の地下深く埋蔵する石炭は、万物の想像物である神の御心により全人類のためにさずけられたもの」と語っています。この自己主張の強さを見てください。この自己主張の強さに一神教が加わるとこれほどの傲慢になるのだ。これではいずれ日米戦争が起きるのは当たり前です。私たち日本人は、日本列島全体で平和に暮らすには、自己主張の強さより相手への気配りが重要であることを知っていたのです。このため「お笑い」においてはアメリカでお馴染みの悪の強いネタは嫌われるのです。他人への気配り、「忖度」が優先するのです。

少し長い説明になりましたが、パックン氏は日本のお笑いが欧米より少しおちる例を三つあげていますが、そのうちの1,2はこれで説明できます。3。「日本だけでなく英語圏以外の国から世界を制覇したコメディアンが殆どいない。欧米のコメディーがグローバルスタンダードになっている。」この理由を説明いたしましょう。
欧米諸国は、高度な科学文明の有利さで異民族支配に長けていたことが事実です。もし日本という国がなければ、支配する白人種と支配される有色人種に分かれ、有色人種の国で独立国はごく限られたものになったでしょう。英語が国際語化され、映画産業が先進国だったし、欧米風の物の見方、考え方世界的に広がっていったことは確かです。そのため欧米のコメディーがグローバルスタンダードになったのです。

アメリカの歴史は新しいことは知っているが、念のためアメリカの建国記念日を調べたら、1776年7月4日です。まだ建国250年にも達していないのだ。すなわちまだ江戸時代より短いのだ。歴史の古い日本では、農家が300年続けて農家していた家系はざらにあります。江戸時代に発展した歌舞伎は、現在では400年を超える歴史を持ち、現在でも興行され、時には外国でも興行されているのだ。日本の歌舞伎や相撲は、エンターテイメントの世界でも先進国なのだ。パックン初め多くの外国人が日本のテレビのお笑い番組は、最初はさっぱりわからないのは当然です。「忖度」の文化など知らないからだ。アメリカの建国ぐらいの長さの歴史を誇る「老舗」など日本ではありすぎて数えきれません。

平安時代の古今和歌集を紹介したが、日本最古の歌集は、万葉集だ。奈良時代に編集されたというが、57577という31文字で綴る短歌です。4500首ほど集められ全20巻です。現在でもこの和歌を読む日本国民は多い。毎年、年初めに皇居で歌会始め行われ、その発表式に自分の和歌が詠まれたいと宮内庁に自作を郵送してきます。皇居の「歌会始め」がいつから始められたか定かではないが、一番新しい史実は鎌倉時代中期(1267年1月15日)宮中で歌会始が行われています。以来面々と今日まで歌会始を続けているのです。
日本と言う国は、125代目の天皇陛下と2000年という古い歴史を持つ国です。そのため古い文化が沢山あり、遺物として残っているだけでなく、数々の古い文化を続行しているのです。シナは五千年の歴史を持つ国と言われていますが、シナ得意の大嘘です。シナ全体が何百年と外国に度々支配され、現在は建国70年にも満たない新国です。シナには古い建造物はほとんどありません、国民が殆ど薪などに使ってしまうからです。従ってシナの古代遺物品はほとんど地下から出てきます。シナ、北朝鮮、韓国には「老舗」など何もありません。
日本との民度の差があまりにも違い過ぎます。その日本は極東の小さな島国で歴史の古さだけが自慢の国ではありません、現在の科学文明、世界経済を代表する大変重要な国家でもあるのです。生活水準も高く、社会保障制度も整い、江戸時代の武士たちが作った都市、江戸は当時のロンドン、パリを超える世界最大の都市です。その江戸を東京に名前変えました、現在では東京は世界一安全な大都市です。平均寿命も世界最高齢に近いほどの長命国です。ノーベル賞にいたっては、毎年のように受賞する常連国のような状態です。こんな凄い国が、日本以外に世界のどこにあるかというのだ

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私が嫌いな男になった、小泉純一郎

小泉純一郎氏は、皆様ご存知のように、元総理大臣、選挙の地元は、神奈川県横須賀市。私は神奈川県生まれの神奈川育ちで、戦後は横須賀の市立小学校、中学校卒業まで9年間過ごした所です。だから小泉純一郎と言う名前には愛着がある。彼は総理になる前から「郵政民営化」を主張していた。私も郵政民営化に賛成だったから、小泉純一郎氏は、自民党議員の中でも好きな方だった。それが突然彼に嫌気がさしたのだ。その理由は彼の離婚後の元妻にたいする態度だ。結婚生活4年間で彼の元妻、宮本佳代子氏と離婚しています。離婚後小泉元夫妻は、両方とも離婚の理由などについては一切語っていませんが、宮本佳代子さんは、女性誌「いきいき」、平成28年3月号で6頁にわたって、今回はじめて彼女の離婚後の生活ぶりを語っています。女性誌「いきいき」は書店では買えない直販制の雑誌です。たまたま偶然私は、ネットでそのインタビュー記事の解説を読んだ。
宮本佳代子さんは、エスエス製薬の元会長泰道照山の孫として鎌倉で生まれ、高校生の時、関東女子ゴルフ選手権に優勝、青山学院大学に入学。小泉36歳、宮本は大学4年生の21歳のとき見合い、すぐに小泉は彼女にプロポーズして結婚した。二人の年の差15歳。彼女は長男、孝太郎、次男、進次郎を次々出産、三男を妊娠中に離婚決定。彼女は小泉家を去った。離婚後、小泉の姉が二人息子の面倒を見、二人の子供には絶対に母親に会わせなかった。妊娠中だった三男(宮本佳長)が子供の頃小泉に会いたがったが小泉は絶対に会いたがらなかった。家族五人が再会したのは離婚後30年経っていた。
これを知った私は、小泉はいくら政治家といえ、非常に冷たい非情な男として突然きらいだしていた。なぜなら私も離婚したし子供の気持ちがわかるからだ。

私が離婚したのは結婚15年後だった。長女が中一か中二、次女が小5か小6、長男が小2か小3の頃.結婚5年間は順調そのものだった。二人には目的があったがあったからだ。長女が5歳なるまでできるだけではなく、徹底してたくさんの現金をつくることだった。私の給料のはるか下で生活し、社会から徹底して孤立した生活をし、五年間という条件つきで、身内との付き合いもたった。住居も6畳一間で、風呂もテレビもなし、親子4人まで過ごした。独身の時から株をやっていたから、もっとお金をためて株でもうけてマンションを買ってやろうと思っていた。5年経つと三人目ができて6畳一間では狭すぎると借家に引っ越した。その後すぐに横浜の磯子にマンションを買った。その頃からだった夫婦仲がうまくいかなくなったのは。理由は生活にかなりゆとりがではじめたからだ。
私はアメリカの会社に務め週休五日制という制度をおう歌していた。毎週土曜他の会社でアルバイトをしていた。当時加山雄三の父親が関係している茅ヶ崎パシフイックホテルは、プールで水泳教室をやっていた。ある時知人が水泳をある程度できる生徒たちを教えることが出来る先生は、くさるほどいるが、まだ泳げるどころか水を恐がる子供を教える、しかも女性の先生がなかなかいないと言うのだ。
その話を元妻に話すと、「私が教えるわよ」。私も彼女の水泳のうまさを知っていたから、知人に紹介した。これで彼女は成功した。もともと彼女の社交術に右に出るものはいない。それに美人だ。まだ40代初めだ、昔の面影はある。プールの中でびしびし教えるが、プールの外に出ればにこやかな笑みを浮かべてお母さまがたと話をする。すぐに人気者の先生になって生徒がぐっと増えた。彼女は、パシフイックホテルの他にアルバイトをし始め、公営プールを使って教え始めたのだ。その公営プールでの営業も上手くいって、当時は「私の仕事着は水着だから」といって、押入れをあければ水着20着ぐらいが横にならんでいた。経済的にゆとりが出過ぎっちゃったのだ。経済的にゆとりのでたお金を、元妻は全部子供の教育のために使った。子供達全員にアイススケート、ピアノを習わせ、水泳は他の生徒たちと一緒に自分の子供にも教え、学業はまだ小さいから自分で教えられると言って教えだした。その教え方もスパルタ教育で、凄まじい。手を挙げることもあるなんて生易しいものでない。私は結婚前には見ることもなかった、彼女の非情,意地悪さを見たし、私との教育観の違いの大きさを悟った。私は中学校卒業までは公立学校でいい、高校から各自の実力でどこかに入れるだろうと考えていた。しかし元妻は違った。できるなら幼稚園から名門校にいれて育てたかったのだ。二人の教育観の差はあまりにも大きかった。二人の喧嘩も多くなった。ある時の喧嘩で、私が許すことができない言葉を聞いた。「たかが高卒のサラリーマンのくせに、偉そうな事言わないでよ」と大声で怒鳴った。瞬間、私はこの女房はダメだ。離婚を決意した。元妻は夫婦喧嘩しても絶対に謝らなかった。今回の発言でも取消もしなければ、謝りもしなかった。横浜の家庭裁判所で協議離婚した。私が買ったマンションを彼女にあげ、三人の子供の親権も彼女に渡し、私はいつでも子供達に会える権利を得、私の毎月の仕送りを決め、私は6畳一間のアパートを借りた。丁度離婚した頃、元妻の公営プールの水泳ビジネスの陰りが出ていた。多くの水泳上手な人が公営プールを利用し、ビジネスや練習用に使い出した。多くの一般利用者から文句がでたのだ。もうプールで生徒数を増やすどころかプールで教えることがむずかしくなった。離婚後1,2年経つか経たない内に、元妻は男の子つれの男と再婚し、私が彼女に与えたマンションに三人のこどもたちと一緒に暮らし始めていた。私はその話を子供達から聞いた。私は元妻が他人の生んだ子を自分の子のように育てられるわけがないことを知っていたが、子供には黙っていた。だからといって新しいお父さんとは仲良く暮らせなどとても言えるものではなかった。ただ連れ子にはお前たちと同じ環境だから仲良くしてやれと言うのが精一杯だった。三人の子供達が高校生になるまでは私と一緒によく会ったものだ。一番よく利用したのは横浜球場だった。私は阪神タイガースファン。そのため三人ともタイガースファンになっていた。横浜阪神戦をよく見にいったものだ。いつだったか何十年ぶりで阪神が優勝した。私は約束したどおり、優勝後三人を連れて横浜超一流のニューグランドホテルのダイニングルームに連れてゆき、食べたいもの好きなだけたべさせた。ところが息子は、メニュウ―を見た後、「俺はスパゲティーでいい」と言いだした。理由を聞いてみるとメニューだけでは何が出てくるかわからいと言うのだ。まだ幼かったのだ。

ところで、小泉純一郎氏の元妻、宮本佳代子さんは、三男佳長を生んだ後、彼女は何をしていたのでしょうか?彼女は宅地建物取引主任の資格を持って三井不動産で30年間働いていたのだ。三男の佳長の結婚まじかに小泉元夫妻と男三人兄弟が30年間で初めて小泉行き付けのレストランで食事をし、2013年の結婚式には父親の小泉氏と二人の兄も参加したと宮本佳代子さんはインタビューで語っていた。父親の小泉は、自分の三男が同じ神奈川県のどこに住んでいるかも知っているのに、30年間ほど一度も三男に会おうともしなかった。いくら政治家でも小泉は非情すぎます。その三男が三兄弟の中で小泉氏の顔に一番良く似ているというのだから皮肉なものです。

実は私の元妻も子供の手がかからなくなったら働き出そうと新婚時代から宅地建物取引主任の勉強し。その資格を持っていたのだ。水泳教室が落ち目になるとこの資格を生かして中小企業の不動産会社で働きだした。いつの間にか私の元妻たちと一緒に暮らしていた子連れの旦那とは離婚していた。不動産ビジネスの時代と彼女の社交性が性に合ったのでしょう、彼女の生活の羽振りが良くなるには時間がかからなかった。不動産会社の社長と元妻との関係も仲良くなっていた。いつのまにか三人の子供もおおきくなり息子は高校生になっていた。ある時息子は言った。「俺、高卒になったら自衛隊に入って2、3年たったらフランスの外人部隊に入る」。息子は高卒後、母親と一緒に暮らしたくないのだろうと思って返事もせずに黙って聞いていた。本人が言っていたように高卒後、陸上自衛隊にはいり、自ら好んで北海道の自衛隊名寄基地に任務した。当時はソ連が健在で若しソ連軍が北海道に侵攻してきたら、名寄の基地が迎え撃つというので名寄の基地には最新鋭の兵器、設備を備えていた。自衛隊勤務しながら趣味としてトライアスロンを初めていた。トライアスロンの練習しすぎで腰をいためてしまい、走れなくなってしまった。その腰を治してくれたのが「整体」であった。そこで息子は「整体」に初めて興味を示し勉強もし、習いもした。自衛隊を辞めた時、名寄の基地から地元の藤沢まで全部ヒッチハイクで帰ってきた。ついに1992年地元藤沢で整体院、「健療施術院」を開業、その後川崎に支店、その後代々木上原、去年の一月から上野にも支店を設け、四施術院の従業員合計20人を雇っている。今では藤沢の昔からの高級住宅地として有名な鵠沼で瀟洒な三階建ての借家に住んでいるのだ。
私が離婚した時、子供もたちと離れてくらし、その時息子は、小学2,3年、父親としての役目を充分に果たすこともできず、ここまで育ってくれたことに感謝感激です。息子が結婚した嫁さんは素晴らしい内助の功を発揮してくれて、彼女にも感謝感激です。息子の結婚式の時、肉親の挨拶で、私は、「息子には自慢するものは何もないが、息子にはこれからは何が起ころうとも、音を上げることなど絶対にありません。世間でよくあるように仕事に挫折して自殺するとか、家庭を放棄するとか、などは絶対にありません。私は息子には何があっても生き抜くことを教え込んでありますから。」とスピーチしたことを覚えています。
息子よ、これからもその意気で過ごしてください。

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人生とは、戦いである。



80歳を迎える私に、人生と何かと問われれば、文句なしに「人生とは戦いである」、それも強調して、「人生とは一にも二にも戦いである。」と力説します。私が生まれた年は、昭和13年、大東亜戦争で日本が敗戦で終結した時は、小学一年生だった。川崎にあった我が家は、空爆で焼失。親父は重病で働けず、我が家は極貧状態だった。大学にも行けず、高卒で社会に出た。以来人生は戦いそのものだった。現在は戦後70年も過ぎて日本も経済的に豊かになって何年も経つ。そのせいか、「人生は戦いである。」等という言葉をめったに聞くことがない。まるで日常語になっていないみたいです。私は三人の子供にも、しょっちゅう事あるごとに、「人生とは戦いだぞ」と言ってきた。現在三人の孫娘がいるが、一番上は今年二十歳だ。だから会う度に何かと「人生とは戦い」だと言っていることが多いい。
子供から大人になって社会人として過ごす間、すなわち長い人生の間にいくつかの試練がある。いじめ、自殺、過労死、お金、仕事など色々です。これらに関する事柄が世間の話題になったり、大事件になったりすると、テレビ、新聞、雑誌などで解決策などが語られることが多いい。
しかしその語られる解決策の中に、私が述べる、子供の時から、「人生とは戦いである。」、「人生とは、一にも二にも戦いである。」等と言って言い聞かせろ、などと言った人は誰もいません。本を読んでもそんなこと言ったり、書いたり人は誰もいませんでした。
皆さんにお聞きしたい。「人生とは戦いである。」とはそんなに野蛮な言葉ですか。この言葉を子供の時から、徹底して叩きこんでおけば、無意識のうちに自立心が生まれ、何かと言えば、他人に頼ろうとする心が生まれにくい。「戦い」と言えば、何も戦争やスポーツを意味するだけではありません。心にも戦う気持ちを持つことが大事なのです。
これから先、どんな悲劇的な事があろうとも、心には、「人生とは戦いである」としっかり根付かせておくことが一番大事なのです。

私は子供たちに自慢します、『親父は定年になっても、働き口を探しもせず、執筆生活をおくれるのも、「人生とは戦いである」を実践して懸命に働いてきたからだ。』
もっとも再就職を希望しても高給で雇ってくれるとこはどこもなかったが。私は離婚して三人の子供を女房に残して、15年間独身生活をおくった。しかしその間子供の生活費を毎月必ず送金していた。愛した女性と別れた時は、男の価値の見せ時だ。毎日子供たちと一緒に生活し、その子供が自殺してうろたえているような父親に聞く、「あなたは、男として迫力のある生活を送ってきましたか?」子供は父親の言動をよく見ているのだ。こどもだからと言ってあなどってはいけません。一生懸命になって働いて、必死になって努力している男の姿をみせつけるのだ。
私の意見では、娘がぐれるのは母親の責任、息子がぐれるのは父親の責任、両方ぐれるのは、両親の責任。だから子供は両親が育てるべきなのだ。一人親の責任は、それだけ大変大きいのだ。現在の日本人は、精神的に物凄くひ弱になっています。いわゆる日本人の精神面での民度の劣化は凄まじいものがあります。若夫婦の皆さん、子供達には、ぜひ「人生とは戦いである。」と常日頃伝えおいてください。現在は収入格差の時代、例え「AI」の時代になっても人生との戦いに挑む気持ちは一番重要なのだ。

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