楊海英氏、文化人類学者、静岡大教授への反論

楊海英氏、文化人類学者、静岡大教授への反論
Newsweek(ニューズウィーク日本版)、2018・5・15号で楊海英氏は日本の相撲を批判しています。楊氏の日本相撲批判は、次の三つの点です。1.国技であること。2.神事であること。3.力士は品格が必要であること。私もこの三点についてことごとく反論していきます。
1.国技であること。
楊海栄氏はこう書いています。
「ユーラシアでは既に、紀元前8世紀~前3世紀に活躍した遊牧民スキタイが青銅器に相撲の分様を刻んでいた。また、10世紀頃に栄えた遼王朝のモンゴル系契丹人の格闘技が日本に伝わって大相撲になったという学説もある。それでも、「モンゴル高原が相撲発祥の地」と自慢するモンゴル人はほとんどいない。人類共通の興行だからこそ、大相撲にもモンゴル相撲にも似たような技芸があり、モンゴル人力士はそれを遺伝子のように駆使できるので強いというだけだ。わざわざ近代国家の枠組みに縛られて「国技」性を強調する必要があるのだろうか。」

相撲は色々な国に古い起源がありますからスキタイ民族の青銅器に相撲が描かれていたという話には驚きもしません。10世紀頃、モンゴル系契丹人の格闘技が日本に伝わって大相撲になったという学説。これは多分いいかげんでしょう。楊氏に質問しますが、モンゴルでは、相撲について語っている古い歴史書がありますか。日本では、現存する最古の正史と言われる「日本書紀」全30巻があります。奈良時代の720年に完成と言われています。そこでは次の様なことが書かれています。日本の11代目の天皇、垂仁天皇が7年7月7日に出雲の国から野見宿祢(のみのすくね)を呼び寄せ当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとらせ、野見宿祢(のみのすくね)が勝ったと知らせています。これが古代宮中で毎年7月7日に相撲大会が行われる起源になったと書いています。私は古代史を勉強していませんので、垂仁天皇の7年と言っても西暦でいうといつごろになるのかわかりません。ネットで調べると多分3世紀末か4世紀初めごろとありますが、正しいかどうかもわかりません。ただこの野見の宿祢(のみのすくね)は現在でも生きているのです。野見の宿祢神社が兵庫県、たつ野市と東京都墨田区にあります。とくに墨田区の神社は、大東亜戦争中の東京大空襲で完全に消失、1953年(昭和28年)6月、敗戦後まだ8年で日本国全体が極貧状態のとき再建しているのです。この墨田区の神社は、国が管理していますが、場所が狭いだけに沢山の見物人を集めての横綱の土俵入りができません。そこで新横綱が誕生した時だけ、出雲大社の東京分枝を招いて一般への予告なしに新横綱の土俵入りをしています。
大相撲のこれだけの背景、そして国民が何百年もかけてつくりあげた大相撲を「国技」とよんで強調したところで他国に害を及ぼすものではありません。楊氏は文化人類学者でしょう。文化というものは多くのその国民が何百年もかけて作り上げ、国民も経済的に豊でなければ他国からは文化と呼ばれないことを知っておくべきでしょう。大昔世界の多くの国々で相撲というスポーツがあったにも関わらず、現在の日本相撲のように古めかしさを多分に残しながら日本民族の大衆のスポーツに仕上げたのは日本だけ、それを国技と呼んで何が悪いのでしょうか。

2.神事であること。
「サッカーのワールドカップでは、キリスト教徒の選手は十字を切り、イスラム教徒はコーランの一節を唱える。神に頼って勝ちたいし、勝って神を喜ばせたい。それが興行=スポーツの目的なのだ。何も大相撲だけが神事で、他のスポーツより一段と神聖なわけではない。」と楊氏は書いています。
楊氏は、日本の文化をよく理解できないまま日本人の国籍を取ったのだ。日本人は大相撲がほかのスポーツよりより神聖なのだと思っている人は誰もいません。日本人は個人が自分の家を建てる時も、企業が大ビル建設の時でも、神式の儀式(上棟式)を上げるが、誰も自分の家が他の人の家より神聖だとか、他の大ビルより神聖な大ビルなどと思って上棟式を上げているのではありません。ただその儀式が習慣となっているからするだけです。文化人類学者で日本の国籍をとっているのならもっと日本文化を勉強してください。

3.「品格」の問題
楊氏が気にしているのが、「力士が『国技』『神事』の本質がわかっていないので、「品格に問題がある」という見方だ。これは楊氏が長く数年間にわたる相撲を見ていないから、横綱、白鵬の横綱としての品格の問題を力士すなわち一般力士の品格の問題ととらえて勘違いしているのだ。私は相撲ファンです。特に定年後は、特別に仕事をしていませんから、よくテレビを見ます。過去ほぼ20年間テレビをみてきた。横綱白鵬の全盛期を見てきました。白鵬が横綱になると、立会のときに、左右のどちらかの手で張り手をかますか、あるいは右ひじにサポーターを巻いて右ひじでのかちあげが多いのだ。もちろん禁じ手ではないので使ってもよいのだが、あまりにも使う回数が多くなると横綱になっている力士が使うべき手ではないという不満が観衆の間に生まれてきます。だから私は外国人横綱が出現した時から、大相撲は横綱のマニュアルを作れというのが私の主張でした。日本ではこうしてはいけないことという常識なれば、規則がなくても自然と従うが、外人の場合は、やってはいけないと言う場合、規則がないと行っていいのか、悪いのか、迷ってしまう。だから横綱のマニュアルは今でも必要だと私は思っています。

あれは栃ノ心が優勝したときだったと思う。横綱審議委員会の委員長が白鵬の立ち合いの戦いに苦言を呈したとき、それ以後、白鵬は立会に張り手やかちあげをあまりやらなくなった。そのせいか、また白鵬の体力の落ち目のせいか敗ける率が多くなった。かっては土俵上で白鵬は、自分が勝ったと思ったのに負けと判定され、土俵上での彼の抗議で審判の判決になかなか承服せず、土俵をなかなか下りなかったことがあった。現在の審判は最終的判断には、ビデオを使うにもかかわらずだ。確か日馬富士の暴行問題のときだったと思う、白鵬は土俵上で観衆にむかって日馬富士への拍手を強要したのだ。私に言わせれば白鵬は生意気だ。白鵬は自分の打ち立てた大記録に酔い、自分は日本相撲界のジンギスカンになったつもりか。新聞によると白鵬は、横綱人生終わったら、日本人国籍を取り、相撲界に残るつもりらしいが、私は反対だ。横綱終わったら、さっさとモンゴルに帰れ。先場所鶴竜が優勝したが、栃ノ心と星の差一つで優勝争いを演じていた。後半戦に鶴竜と琴奨菊の好取組があった。琴奨菊は元大関で関脇も落ち、先場所は平幕だった。しかし先場所、琴奨菊は好調だった。鶴竜を相手に琴奨菊は、どう戦うか、鶴竜は琴奨菊をどう下すか、皆注目の一戦だった。取り組みが始まると、琴奨菊は、猛然と鶴竜目がけて突っ込んでいた。ところが鶴竜は、立ち合い突っ込まず、横に逃げてあっさりと勝ってしまった。この時の観衆のブーイングがすごかった。私が昔白鵬の立ち合いの逃げ勝を見たとき、観衆はびっくりして、ブーイングを浴びせるどころか、きょとんとしていた。しかしモンゴル横綱の逃げ勝には黙っていられなくなって鶴竜への大きなブーイングになったのだ。横綱同志の戦いには、立ち合いの逃げ勝はあるかもしれません。しかし横綱対平幕の戦いで立ち合いに横綱が逃げて勝つなどとは恐らくないでしょう。だからこれからは、日本人横綱にも外人横綱にもマニュアルを作りなさいと言うのです。
楊氏の日本相撲界への反論は、文化人類学者としては日本相撲に対する知識不足が原因。参考になる意見など何もなし。

最近ニューズウイーク(日本語版)のジャパンタイムズ化と言われます。説明すると英字新聞「Japan Times 」は、穿った見方をして反日の記事をちょくちょく書く。ニューズウイーク(日本語版)もつい最近版(2018・4・24)では日本での外国人実習生の特集記事のタイトル「SLAVERY HELL現代の奴隷制 実習生残酷物語」を愛田峰俊(ルポライター)が書いている。自由意志で応募するかどうか決めるのに「奴隷制」という言葉が使えるのか?私はニューズウィーク誌(日本語版)編集部に何も日本を批判する記事を書くなと主張しているのではありません。論理的記事を書いて批判しろというのです。私はニューズウイーク誌(日本語版)長期契約読者です。読者番号:1101-050-8822。くだらぬ日本批判が続くなら長期契約はやめることにします。


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「日本のすごさ」

Newsweek(ニューズウィーク日本版)2018・5・15日号の表紙のタイトルがすごい、
「日本すごい」に異議あり!」
特集「村上春樹も相撲も漫才もつまらない?日本はすごいのか」など刺激的な文字を羅列していた。日本のテレビで人気のあるパックン氏(コラムニスト、タレント)が書いたお笑い番組についてのコメントの見出しは、『THE ART OF COMEDY, 「忖度の国」のお笑いスキル、一発芸や漫才など「センスの結晶化は欧米に劣る?権威をこき下ろす社会風刺が生まれない理由」と書いてある。
では、パックン自身はどのような文章を書いているのか、しばらく彼の文章を見てみましょう。
引用開始
『この数年で僕の意見は変わったのだ。多くの外国人同様、初めて見た時は日本のお笑いの面白さが全くわからなかった。「スリッパで頭をひっぱたくだけで笑いがとれるこの国ってすごいねぇ」と、軽く軽蔑していた。「コメディー」の頂点、アメリカから来た僕にとって、「お笑い」が解せなかった。一発ギャグもそう。リズムネタもそう。熱湯風呂に入ったり、熱々のおでんを食べたり、乳首を洗濯ばさみで挟んだりするだけで笑いをとる。「リアクション芸」もそう。どれもさっぱり分からなかった。ダチョウ倶楽部さん、ごめんなさい!
漫才のおもしろさもさっぱりだ。日本の芸人は、スタンダップコメディアンのように一人だけで笑いはとれないのか?ツッコミ役のしつっこい説明がないと観客はついていけないのか?それから笑いをとるボケ役と、単に突っ込むだけのツッコミ役のギャラって同じなのか?もう、訳がわからない。自国の芸風と異なる点を全部否定する。このうぬぼれっぷりも「アメリカ人ってすごいな」と振り返って思うところだが、実は僕が芸人を目指すことにしたのは、日本のお笑いをなめていたからでもある。しかしやってみると…目からうろこ!思った以上に、日本で笑いをとるのは難しい。スリッパたたきは技術のたまものだ!一発ギャグはセンスの結晶ダ!ダチョウ倶楽部さん、超天才!』
引用終了

まぁ、皮肉っぽく日本のテレビのお笑い番組を批評していますが、パックンの根底には、日本のお笑いは、欧米より少し落ちるのではないかと次のような理由を挙げています。
1.ネタが使えない禁止区域が広すぎる。
欧米の笑いは人種や宗教の違いや下ネタなど題材にするのが多い。これはどれも日本では使えない。
2.アメリカのコメディアンはテレビで、その番組の放送局やその親会社、スポンサーを含
めた企業も、商品も、政治家も、さらに芸能人をもどんどんネタにする。これが当たり前。
権力者やセレブを突き落とすのが芸能人の仕事だとされているから。
3.日本だけでなく英語圏以外の国から世界を制覇したコメディアンがほとんどいない。欧
米のコメディーがグローバルスタンダードになっているからです。
このように書いているパックンも自分では日本のテレビに身を置いているせいか、「日本
は忖度の国、体制側からの圧力が「すごい」。そんな制約の多い中で笑いをとるのも独特の
スキルとして認めるべきではないかと思う」と、同情的な書き方をしています。
それでは、このパックン氏の文章に反論しながら「日本のすごさ」を紹介しましょう。

国民の笑いや涙の背景を考える場合、その国民の歴史を考えて見るのが最適です。パックン
氏は日本通であるから江戸時代が300年の平和を満喫したのは知っているでしょう。日
本は平安時代には江戸時代より長い400年の平和を満喫したのです。平安時代とは、桓武
天皇が平安京(京都)に都に移してから1192年に鎌倉幕府が成立するまでの398年間
が平安時代と言われています。この時代の一大特徴は、非常に沢山の女性作家の登場です。
主な女性作家名、作品名、種類。発表年数をリストアップしてみましょう。
1.紫式部 「源氏物語」、長編小説、1008年
2.枕草子 「つれづれ草」、随筆、996年
3.藤原道綱の母 「蜻蛉日記」、自伝的小説、975年
4.紀貫之 「土佐日記」、紀行文、日本文学史上初めての日記文学、934年。
紀貫之は、その他に「古今和歌集」、全20巻、歌数1111首、912年頃。四人の選者の一人であり且つ選者の主役です。
5.和泉式部 「和泉式部日記」、日記、1008年
6.紫式部  「紫式部日記」、日記、1010年
7.小野小町、歌人、古今和歌集の序で六歌仙の一人の女性と選ばれています。絶世の美人と言われ、生誕地もお墓も全国に散らばっていると言われています。三十六歌仙となると女性歌人が続々と登場してきます。

昔の男社会の中でこれだけの女性文学者が活躍しているのは日本だけです。当時では女性の活躍は世界の最先端だったのです。特に紫式部の「源氏物語」は世界最初に女性が書いた長編小説です。パックン氏初め欧米人が崇めるシェイクスピアは男性ですが、生まれたのは1564年です。「源氏物語」誕生から500年も経っているのだ。アメリカ人女性、マーガレット・ミッチェルの書いた世界的ベストセラー、「風と共に去りぬ」が出版されたのが1936年です。人類最初の女性小説家誕生から900年も超える年月が経っているのです。平安時代に数多くの女性文学者が活躍するためには国内で戦争があったのでは執筆活動などできません。西尾幹二氏は、自著「国民の歴史」(産経新聞社)の中でこう書いています。
「嵯峨天皇の弘仁年間(810―823年)以来、死刑が実際上の廃止という出来事が起こった。後白河天皇の時代の保元の乱(保元元年・1156年)による源為義などに対する
処刑まで、26代、346年間、実際上死刑が執行されることはなかった。このことは日本刑法史上はもとより、世界刑法史上よりみても注目に値する事実である。」
まさに日本列島は平和そのものであったのだ。
平安時代の後、17世紀初めに江戸時代をむかえますが、この時代もおよそ300年間の平和を体験しています。現在の天皇陛下は125代目です。ざっと2000年の歴史がありますが、そのおよその三分の一の700年間が平和だったのだ。しかも日本は島国で海外領土も一切なく純然たる日本列島での幸せを築いたのです。なぜ幸せを築けたのか。日本人は、その国の平和は、自己主張の強さより他人への気配り、すなわち「忖度」が優先されるということを知っていたのです。その「忖度」対する欧米の気質は何か「自己主張」です。ペリーが幕末日本にやって来た時のアメリカの国務長官、ダニエル・ウエブスターは、こう言っています。
「日本列島の地下深く埋蔵する石炭は、万物の想像物である神の御心により全人類のためにさずけられたもの」と語っています。この自己主張の強さを見てください。この自己主張の強さに一神教が加わるとこれほどの傲慢になるのだ。これではいずれ日米戦争が起きるのは当たり前です。私たち日本人は、日本列島全体で平和に暮らすには、自己主張の強さより相手への気配りが重要であることを知っていたのです。このため「お笑い」においてはアメリカでお馴染みの悪の強いネタは嫌われるのです。他人への気配り、「忖度」が優先するのです。

少し長い説明になりましたが、パックン氏は日本のお笑いが欧米より少しおちる例を三つあげていますが、そのうちの1,2はこれで説明できます。3。「日本だけでなく英語圏以外の国から世界を制覇したコメディアンが殆どいない。欧米のコメディーがグローバルスタンダードになっている。」この理由を説明いたしましょう。
欧米諸国は、高度な科学文明の有利さで異民族支配に長けていたことが事実です。もし日本という国がなければ、支配する白人種と支配される有色人種に分かれ、有色人種の国で独立国はごく限られたものになったでしょう。英語が国際語化され、映画産業が先進国だったし、欧米風の物の見方、考え方世界的に広がっていったことは確かです。そのため欧米のコメディーがグローバルスタンダードになったのです。

アメリカの歴史は新しいことは知っているが、念のためアメリカの建国記念日を調べたら、1776年7月4日です。まだ建国250年にも達していないのだ。すなわちまだ江戸時代より短いのだ。歴史の古い日本では、農家が300年続けて農家していた家系はざらにあります。江戸時代に発展した歌舞伎は、現在では400年を超える歴史を持ち、現在でも興行され、時には外国でも興行されているのだ。日本の歌舞伎や相撲は、エンターテイメントの世界でも先進国なのだ。パックン初め多くの外国人が日本のテレビのお笑い番組は、最初はさっぱりわからないのは当然です。「忖度」の文化など知らないからだ。アメリカの建国ぐらいの長さの歴史を誇る「老舗」など日本ではありすぎて数えきれません。

平安時代の古今和歌集を紹介したが、日本最古の歌集は、万葉集だ。奈良時代に編集されたというが、57577という31文字で綴る短歌です。4500首ほど集められ全20巻です。現在でもこの和歌を読む日本国民は多い。毎年、年初めに皇居で歌会始め行われ、その発表式に自分の和歌が詠まれたいと宮内庁に自作を郵送してきます。皇居の「歌会始め」がいつから始められたか定かではないが、一番新しい史実は鎌倉時代中期(1267年1月15日)宮中で歌会始が行われています。以来面々と今日まで歌会始を続けているのです。
日本と言う国は、125代目の天皇陛下と2000年という古い歴史を持つ国です。そのため古い文化が沢山あり、遺物として残っているだけでなく、数々の古い文化を続行しているのです。シナは五千年の歴史を持つ国と言われていますが、シナ得意の大嘘です。シナ全体が何百年と外国に度々支配され、現在は建国70年にも満たない新国です。シナには古い建造物はほとんどありません、国民が殆ど薪などに使ってしまうからです。従ってシナの古代遺物品はほとんど地下から出てきます。シナ、北朝鮮、韓国には「老舗」など何もありません。
日本との民度の差があまりにも違い過ぎます。その日本は極東の小さな島国で歴史の古さだけが自慢の国ではありません、現在の科学文明、世界経済を代表する大変重要な国家でもあるのです。生活水準も高く、社会保障制度も整い、江戸時代の武士たちが作った都市、江戸は当時のロンドン、パリを超える世界最大の都市です。その江戸を東京に名前変えました、現在では東京は世界一安全な大都市です。平均寿命も世界最高齢に近いほどの長命国です。ノーベル賞にいたっては、毎年のように受賞する常連国のような状態です。こんな凄い国が、日本以外に世界のどこにあるかというのだ

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私が嫌いな男になった、小泉純一郎

小泉純一郎氏は、皆様ご存知のように、元総理大臣、選挙の地元は、神奈川県横須賀市。私は神奈川県生まれの神奈川育ちで、戦後は横須賀の市立小学校、中学校卒業まで9年間過ごした所です。だから小泉純一郎と言う名前には愛着がある。彼は総理になる前から「郵政民営化」を主張していた。私も郵政民営化に賛成だったから、小泉純一郎氏は、自民党議員の中でも好きな方だった。それが突然彼に嫌気がさしたのだ。その理由は彼の離婚後の元妻にたいする態度だ。結婚生活4年間で彼の元妻、宮本佳代子氏と離婚しています。離婚後小泉元夫妻は、両方とも離婚の理由などについては一切語っていませんが、宮本佳代子さんは、女性誌「いきいき」、平成28年3月号で6頁にわたって、今回はじめて彼女の離婚後の生活ぶりを語っています。女性誌「いきいき」は書店では買えない直販制の雑誌です。たまたま偶然私は、ネットでそのインタビュー記事の解説を読んだ。
宮本佳代子さんは、エスエス製薬の元会長泰道照山の孫として鎌倉で生まれ、高校生の時、関東女子ゴルフ選手権に優勝、青山学院大学に入学。小泉36歳、宮本は大学4年生の21歳のとき見合い、すぐに小泉は彼女にプロポーズして結婚した。二人の年の差15歳。彼女は長男、孝太郎、次男、進次郎を次々出産、三男を妊娠中に離婚決定。彼女は小泉家を去った。離婚後、小泉の姉が二人息子の面倒を見、二人の子供には絶対に母親に会わせなかった。妊娠中だった三男(宮本佳長)が子供の頃小泉に会いたがったが小泉は絶対に会いたがらなかった。家族五人が再会したのは離婚後30年経っていた。
これを知った私は、小泉はいくら政治家といえ、非常に冷たい非情な男として突然きらいだしていた。なぜなら私も離婚したし子供の気持ちがわかるからだ。

私が離婚したのは結婚15年後だった。長女が中一か中二、次女が小5か小6、長男が小2か小3の頃.結婚5年間は順調そのものだった。二人には目的があったがあったからだ。長女が5歳なるまでできるだけではなく、徹底してたくさんの現金をつくることだった。私の給料のはるか下で生活し、社会から徹底して孤立した生活をし、五年間という条件つきで、身内との付き合いもたった。住居も6畳一間で、風呂もテレビもなし、親子4人まで過ごした。独身の時から株をやっていたから、もっとお金をためて株でもうけてマンションを買ってやろうと思っていた。5年経つと三人目ができて6畳一間では狭すぎると借家に引っ越した。その後すぐに横浜の磯子にマンションを買った。その頃からだった夫婦仲がうまくいかなくなったのは。理由は生活にかなりゆとりがではじめたからだ。
私はアメリカの会社に務め週休五日制という制度をおう歌していた。毎週土曜他の会社でアルバイトをしていた。当時加山雄三の父親が関係している茅ヶ崎パシフイックホテルは、プールで水泳教室をやっていた。ある時知人が水泳をある程度できる生徒たちを教えることが出来る先生は、くさるほどいるが、まだ泳げるどころか水を恐がる子供を教える、しかも女性の先生がなかなかいないと言うのだ。
その話を元妻に話すと、「私が教えるわよ」。私も彼女の水泳のうまさを知っていたから、知人に紹介した。これで彼女は成功した。もともと彼女の社交術に右に出るものはいない。それに美人だ。まだ40代初めだ、昔の面影はある。プールの中でびしびし教えるが、プールの外に出ればにこやかな笑みを浮かべてお母さまがたと話をする。すぐに人気者の先生になって生徒がぐっと増えた。彼女は、パシフイックホテルの他にアルバイトをし始め、公営プールを使って教え始めたのだ。その公営プールでの営業も上手くいって、当時は「私の仕事着は水着だから」といって、押入れをあければ水着20着ぐらいが横にならんでいた。経済的にゆとりが出過ぎっちゃったのだ。経済的にゆとりのでたお金を、元妻は全部子供の教育のために使った。子供達全員にアイススケート、ピアノを習わせ、水泳は他の生徒たちと一緒に自分の子供にも教え、学業はまだ小さいから自分で教えられると言って教えだした。その教え方もスパルタ教育で、凄まじい。手を挙げることもあるなんて生易しいものでない。私は結婚前には見ることもなかった、彼女の非情,意地悪さを見たし、私との教育観の違いの大きさを悟った。私は中学校卒業までは公立学校でいい、高校から各自の実力でどこかに入れるだろうと考えていた。しかし元妻は違った。できるなら幼稚園から名門校にいれて育てたかったのだ。二人の教育観の差はあまりにも大きかった。二人の喧嘩も多くなった。ある時の喧嘩で、私が許すことができない言葉を聞いた。「たかが高卒のサラリーマンのくせに、偉そうな事言わないでよ」と大声で怒鳴った。瞬間、私はこの女房はダメだ。離婚を決意した。元妻は夫婦喧嘩しても絶対に謝らなかった。今回の発言でも取消もしなければ、謝りもしなかった。横浜の家庭裁判所で協議離婚した。私が買ったマンションを彼女にあげ、三人の子供の親権も彼女に渡し、私はいつでも子供達に会える権利を得、私の毎月の仕送りを決め、私は6畳一間のアパートを借りた。丁度離婚した頃、元妻の公営プールの水泳ビジネスの陰りが出ていた。多くの水泳上手な人が公営プールを利用し、ビジネスや練習用に使い出した。多くの一般利用者から文句がでたのだ。もうプールで生徒数を増やすどころかプールで教えることがむずかしくなった。離婚後1,2年経つか経たない内に、元妻は男の子つれの男と再婚し、私が彼女に与えたマンションに三人のこどもたちと一緒に暮らし始めていた。私はその話を子供達から聞いた。私は元妻が他人の生んだ子を自分の子のように育てられるわけがないことを知っていたが、子供には黙っていた。だからといって新しいお父さんとは仲良く暮らせなどとても言えるものではなかった。ただ連れ子にはお前たちと同じ環境だから仲良くしてやれと言うのが精一杯だった。三人の子供達が高校生になるまでは私と一緒によく会ったものだ。一番よく利用したのは横浜球場だった。私は阪神タイガースファン。そのため三人ともタイガースファンになっていた。横浜阪神戦をよく見にいったものだ。いつだったか何十年ぶりで阪神が優勝した。私は約束したどおり、優勝後三人を連れて横浜超一流のニューグランドホテルのダイニングルームに連れてゆき、食べたいもの好きなだけたべさせた。ところが息子は、メニュウ―を見た後、「俺はスパゲティーでいい」と言いだした。理由を聞いてみるとメニューだけでは何が出てくるかわからいと言うのだ。まだ幼かったのだ。

ところで、小泉純一郎氏の元妻、宮本佳代子さんは、三男佳長を生んだ後、彼女は何をしていたのでしょうか?彼女は宅地建物取引主任の資格を持って三井不動産で30年間働いていたのだ。三男の佳長の結婚まじかに小泉元夫妻と男三人兄弟が30年間で初めて小泉行き付けのレストランで食事をし、2013年の結婚式には父親の小泉氏と二人の兄も参加したと宮本佳代子さんはインタビューで語っていた。父親の小泉は、自分の三男が同じ神奈川県のどこに住んでいるかも知っているのに、30年間ほど一度も三男に会おうともしなかった。いくら政治家でも小泉は非情すぎます。その三男が三兄弟の中で小泉氏の顔に一番良く似ているというのだから皮肉なものです。

実は私の元妻も子供の手がかからなくなったら働き出そうと新婚時代から宅地建物取引主任の勉強し。その資格を持っていたのだ。水泳教室が落ち目になるとこの資格を生かして中小企業の不動産会社で働きだした。いつの間にか私の元妻たちと一緒に暮らしていた子連れの旦那とは離婚していた。不動産ビジネスの時代と彼女の社交性が性に合ったのでしょう、彼女の生活の羽振りが良くなるには時間がかからなかった。不動産会社の社長と元妻との関係も仲良くなっていた。いつのまにか三人の子供もおおきくなり息子は高校生になっていた。ある時息子は言った。「俺、高卒になったら自衛隊に入って2、3年たったらフランスの外人部隊に入る」。息子は高卒後、母親と一緒に暮らしたくないのだろうと思って返事もせずに黙って聞いていた。本人が言っていたように高卒後、陸上自衛隊にはいり、自ら好んで北海道の自衛隊名寄基地に任務した。当時はソ連が健在で若しソ連軍が北海道に侵攻してきたら、名寄の基地が迎え撃つというので名寄の基地には最新鋭の兵器、設備を備えていた。自衛隊勤務しながら趣味としてトライアスロンを初めていた。トライアスロンの練習しすぎで腰をいためてしまい、走れなくなってしまった。その腰を治してくれたのが「整体」であった。そこで息子は「整体」に初めて興味を示し勉強もし、習いもした。自衛隊を辞めた時、名寄の基地から地元の藤沢まで全部ヒッチハイクで帰ってきた。ついに1992年地元藤沢で整体院、「健療施術院」を開業、その後川崎に支店、その後代々木上原、去年の一月から上野にも支店を設け、四施術院の従業員合計20人を雇っている。今では藤沢の昔からの高級住宅地として有名な鵠沼で瀟洒な三階建ての借家に住んでいるのだ。
私が離婚した時、子供もたちと離れてくらし、その時息子は、小学2,3年、父親としての役目を充分に果たすこともできず、ここまで育ってくれたことに感謝感激です。息子が結婚した嫁さんは素晴らしい内助の功を発揮してくれて、彼女にも感謝感激です。息子の結婚式の時、肉親の挨拶で、私は、「息子には自慢するものは何もないが、息子にはこれからは何が起ころうとも、音を上げることなど絶対にありません。世間でよくあるように仕事に挫折して自殺するとか、家庭を放棄するとか、などは絶対にありません。私は息子には何があっても生き抜くことを教え込んでありますから。」とスピーチしたことを覚えています。
息子よ、これからもその意気で過ごしてください。

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人生とは、戦いである。



80歳を迎える私に、人生と何かと問われれば、文句なしに「人生とは戦いである」、それも強調して、「人生とは一にも二にも戦いである。」と力説します。私が生まれた年は、昭和13年、大東亜戦争で日本が敗戦で終結した時は、小学一年生だった。川崎にあった我が家は、空爆で焼失。親父は重病で働けず、我が家は極貧状態だった。大学にも行けず、高卒で社会に出た。以来人生は戦いそのものだった。現在は戦後70年も過ぎて日本も経済的に豊かになって何年も経つ。そのせいか、「人生は戦いである。」等という言葉をめったに聞くことがない。まるで日常語になっていないみたいです。私は三人の子供にも、しょっちゅう事あるごとに、「人生とは戦いだぞ」と言ってきた。現在三人の孫娘がいるが、一番上は今年二十歳だ。だから会う度に何かと「人生とは戦い」だと言っていることが多いい。
子供から大人になって社会人として過ごす間、すなわち長い人生の間にいくつかの試練がある。いじめ、自殺、過労死、お金、仕事など色々です。これらに関する事柄が世間の話題になったり、大事件になったりすると、テレビ、新聞、雑誌などで解決策などが語られることが多いい。
しかしその語られる解決策の中に、私が述べる、子供の時から、「人生とは戦いである。」、「人生とは、一にも二にも戦いである。」等と言って言い聞かせろ、などと言った人は誰もいません。本を読んでもそんなこと言ったり、書いたり人は誰もいませんでした。
皆さんにお聞きしたい。「人生とは戦いである。」とはそんなに野蛮な言葉ですか。この言葉を子供の時から、徹底して叩きこんでおけば、無意識のうちに自立心が生まれ、何かと言えば、他人に頼ろうとする心が生まれにくい。「戦い」と言えば、何も戦争やスポーツを意味するだけではありません。心にも戦う気持ちを持つことが大事なのです。
これから先、どんな悲劇的な事があろうとも、心には、「人生とは戦いである」としっかり根付かせておくことが一番大事なのです。

私は子供たちに自慢します、『親父は定年になっても、働き口を探しもせず、執筆生活をおくれるのも、「人生とは戦いである」を実践して懸命に働いてきたからだ。』
もっとも再就職を希望しても高給で雇ってくれるとこはどこもなかったが。私は離婚して三人の子供を女房に残して、15年間独身生活をおくった。しかしその間子供の生活費を毎月必ず送金していた。愛した女性と別れた時は、男の価値の見せ時だ。毎日子供たちと一緒に生活し、その子供が自殺してうろたえているような父親に聞く、「あなたは、男として迫力のある生活を送ってきましたか?」子供は父親の言動をよく見ているのだ。こどもだからと言ってあなどってはいけません。一生懸命になって働いて、必死になって努力している男の姿をみせつけるのだ。
私の意見では、娘がぐれるのは母親の責任、息子がぐれるのは父親の責任、両方ぐれるのは、両親の責任。だから子供は両親が育てるべきなのだ。一人親の責任は、それだけ大変大きいのだ。現在の日本人は、精神的に物凄くひ弱になっています。いわゆる日本人の精神面での民度の劣化は凄まじいものがあります。若夫婦の皆さん、子供達には、ぜひ「人生とは戦いである。」と常日頃伝えおいてください。現在は収入格差の時代、例え「AI」の時代になっても人生との戦いに挑む気持ちは一番重要なのだ。

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高倉健のなぞ(2)



前にもこのブログで伝えていますが、このえんだんじのブログは、昨年10月には10年目を迎え、今年の10月には10年目の終りを迎えます。えんだんじのブログを開始した最初の一年間は毎週土曜日に書いていたが、翌年から現在まで二週間おきの土曜日、即ち一月に2回書いてきています。今現在全部で292通のブログ記事が公開されています。来年には10年間のブログを厳選して本を書く計画でいます。そこで10年間の全ブログを見てみようと現在時間を見ては古いブログをもう一度読み直しています。ブログ書き始めた時、自分の読者を増やそうと思い、当時日本で最大のSNSミクシー(Mixi)入会した。当時ミクシーの全盛期でその会員数は、10代後半から20代の若者、30代、40代の若者が非常に多かった。いつも書くものが時事評論や歴史ものではつまらないし、また読者も増えないと思い、女性もの、映画評論、人生相談的な物等が結構色々な題材を書いていたことを再読しながら改めて思いだしています。そんなブログ記事の中に2014年(平成26)12月6日に「高倉健のなぞ」という記事を書いています。まず読者にはこの4年前の2014年(平成26)12月6日づけの「高倉健のなぞ」を読んで見てください。

このブログでは江利チエミと高倉健の結婚生活は12年間続いたこと。チエミは妊娠したが流産した。二人の離婚の理由は、チエミの異父姉の虚言と横領でチエミが億という借金を抱え、高倉に迷惑をかけたからです。チエミからの離婚要求であった。離婚した高倉は、その時40歳。彼が死んだ時は83歳。俺はその時、女房に「高倉健のような男が40歳で離婚して女性との浮名も流さずに83歳で死ぬなんてとても理解できない」というと、女房は、「それだけ健さんは、江利チエミに惚れこんでいたのよ」といった。
一方俺のブログに最近まで毎回のようにコメントをくれていた私より三歳先輩の男性は、「彼は本当に純情一途だったと思います」。またこうも書いていた。「彼の女性遍歴は業界内では、自然にタブーなるほどの位置づけが出来上がっていたのでしょう。」
俺はこのブログの最後の文章を以下のように終わらせています。
「定年後の男性の皆さん、彼が40歳から40年間再婚しなかった理由づけ、なにか推測できますか?あったら教えてください。」

去年、平成29年11月5日づけの産経新聞の書評の見出しで、(隠された私生活浮き彫りに)の下に森功著、「高倉健(七つの顔を隠し続けた男)」講談社、についての書評記事が書かれていた。やっぱり俺が想像したとおり、高倉健には、何も特筆すべきものがなにもなかったわけではなかったのだとすぐにその本を買った。その本の出版日を見ると、平成29年8月29日、俺の二冊目の小説、「戦後昭和の女性たち」の出版日が平成29年9月15日。なんとほぼ同時期に出版されたのです。それだけに親近感が湧いた。以下の文章は、「高倉健(七つの顔を隠し続けた男)」の高倉死後の話の要約です。

平成25年10月26日、高倉健への文化勲章授与が決定した。文化の日の11月3日、皇居で親授式が執り行われた。これまで授与された俳優は3人いたが、現役の映画俳優としては、初めての快挙であった。それから一年後の平成26年11月10日、何の前触れもなく、映画界の誰にも知られずに高倉健は悪性リンパ種で亡くなった(83歳)。生きた伝説と呼ばれた映画スターの死を看取った近親者は一人しかいない。養女の小田貴(オダタカ)である。死後、突然あらわれた「最後の女性」だ。彼女は、高倉がその死から一年半ほど前、一人娘として養子縁組をしたとされる。以来、高倉の戸籍上の姓である小田を名乗るようになる。
おかげで小田貴は莫大な遺産を相続した。生涯収入が100億円と伝えられる高倉健の遺産は、江利チエミとの結婚時に購入した土地を含め8億円相当の不動産をはじめ、30億円の金融資産などと合わせると、しめて40億円を超えるとも言われる。それをすべて相続したのが彼女である。高倉の死の二日後、平成26年11月12日に渋谷区の代々幡斎場で密葬が行われた。招待したのはたった五人。東宝社長の島谷能成、東映会長の岡田祐介、元警察庁長官の田中節夫、読売新聞最高顧問の老川祥一、映画監督の降籏康夫、それ以外だれも呼ぼうともしなかった。この五人を小田貴、高倉の秘書、高倉プロモーションの日高康専務の三人が迎えた。高倉健は福岡県中間市の出身で両親兄弟の肉親と一族の親戚とは日頃密接に連絡しあう懇意な間柄でもあったのに誰一人として高倉の死を連絡しなかった。ところが日頃高倉からの近況報告のない高倉の親戚が心配して高倉の秘書に電話してきた。そこで初めて高倉健が二日前に死んだと知らされ、あわてて九州の本家に伝えられた。密葬に参加しようにも時間的余裕がなかった。最初から小田貴は、実家に連絡する予定がなかったのだ。無事密葬は、かれらだけで執り行われた。高倉の死が実家にばれたのは、高倉プロの日高専務のせいと、小田貴は、日高専務との縁を切ってしまった。一体、この小田貴という女性はどういう女性なのか、高倉健はもう亡くなっていて、生前公に彼女を語ったことを聞いたものはいません。あくまでも高倉の死の直前あるいは死後、彼女から公に知らされた情報に限られています。それでもそのいくつかを箇条書きにしてみましょう。

1.彼女はサラリーマンだった父親と美容師の母との間に生まれた。両親は離婚し、彼女は母親についていっしょに暮して来た。本人も一度日仏ハーフの男性と結婚した経験がある。高倉と知り合ったのが1990年代の後半だった。
2.彼女は旧姓を河野といったが貴倉(タカクラ)良子という芸名で、女優やテレビ・レポーターとして活躍していた時期もある、いわゆる大部屋女優だった。
3.高倉サイドの関係者で、唯一古くから彼女の存在を知っていたのが、高倉プロの日高専務だ。平成25年5月、日高と小田貴の実母が保証人となり、小田貴は養女として正式に小田家(高倉健)に入籍した。そこから高倉が亡くなる平成26年11月までわずか一年半しかない。高倉健の養女としての入籍は、高倉家の実家や親族には一切知らされてはいない。
4.小田貴の話によれば、高倉と共に暮らしたのは18年ということだ。二人の年の差は
30歳。

高倉の死後、彼女は東京の瀬田にある高倉の豪邸を完全に解体し、自分自身用の豪邸、美術館を思わせるようなドーム型の瀟洒な屋根が印象的な豪邸を建築した。彼女はすぐに高倉プロの代表取締役に就任し、赤坂の事務所を閉鎖し、古参の日高専務や事務員をクビ、オフイスを顧問弁護士事務所に移した。高倉健が生前購入していた鎌倉霊園の墓、そばにあった江利チエミとの水子の眠る墓まで、ことごとく解体してしまった。高倉は車好きで、特に外車の高級車好きでポルシェやベンツなど多いい時は10台以上所有していた。彼女はその車を全部売ってしまった。高倉自慢のクルーザーも転売するどころか完全に解体してしまった。まるで国民的スター高倉の名前をすべて消し去ろうとするかのような行為であった。名声と富を極めた高倉健は、その骨すら家族の手元に残らなかった。
ウイキペディアを見てみると、私が読んだ参考文献には書かれていない文章があった。
「平成29年3月18日鎌倉光明寺の境内に墓碑が県立された。その墓碑の高さ180cmと高倉の身長と同じで、墓碑にある段状の意匠には高倉の映画人生の節目となる年、映画作品数などを表している。」
私の参考文献の著者の出版日は、平成29年8月29日、高倉健の新しい墓の件は知らなかったのでしょう。私はこれまで書いてきたことは高倉の死後の話です。高倉自身何も知らないのです。私の想像では、遺産相続した小田貴は、高倉の豪邸やお墓などを解体してしまったことに多少でも後悔の念が残っていたのでしょう。そこで同じ鎌倉市にあるお寺の墓に大金をかけて新しい高倉健のお墓を建てたのでしょう。この事は九州の高倉家の実家や一族に知らされていないと私は判断しています。知らされていれば、必ず高倉健の妹や一族から著者の森功氏に連絡がいくと思うからです。彼らは森功氏が本を書くためのインタビューを受けていたからです。

生前の高倉健は、国民的な人気だけでなく、業界全体の誰からも好かれ、また彼は自分が気に入った人間には誰彼かまわずと言っていいくらい高価なプレゼントをしているのだ。大物女優たちにもよくもてていた。死んだ大原麗子も高倉にメロメロだった。「緋牡丹博徒」シリーズなどで何作も共演した藤純子(現在、富司純子)は、彼への思い入れがあったのでしょう。彼の死後一周忌にあたる平成27年 11月に唐突に高倉の実家、九州の中間市の実家の菩提寺に供養に訪れ、住職や近所の住人が大騒ぎになっているくらいだ。彼が生きていたら、彼の死後の養女、小田貴の行為は、全く考えられない行為だった。資産家で男やもめの暮らしているご老人よ、「後妻業の女」には注意しましょう。

参考文献:森功著「高倉健(七つの顔を隠し続けた男)」 講談社

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今朝のブログの訂正

今朝、「育鵬社の歴史教科書盗作事件」のブログをながしました。後半部に「ところが最近、
またぞろ古い歴史教科書が復活した。平成28年度から使用されている窓社の歴史教科書だ。」

この「窓社」は間違いで「学び舎」が正しい呼び方で、訂正のほどお願いします。

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育鵬社の歴史教科書盗作事件



今回のブログのタイトルは、タイトルそのものは、前々回のブログのタイトル『「南京大虐殺」ユネスコ記憶遺産登録は、日本政府の失態』とは違いますが、両方とも関連がありますのでその点を留意してお読みださい。
「つくる会」に続いて日本で二社目になる保守系の歴史教科書と公民教科書を公立中学校向けに販売する育鵬社が設立されたのは平成19年8月です。その育鵬社が最初に検定合格した歴史教科書は『新しい日本の歴史』と呼ばれ平成24年度から平成27年度まで使用された。その育鵬社が最初に検定合格した『新しい日本の歴史』は、「つくる会」が作り上げた『新しい歴史教科書』(扶桑社、平成18年度から22年度使用)と多くの部分で酷似した内容と酷似した文章からなるものであった。その一例を見てみましょう。
●『新しい歴史教科書』(平成17年版、「つくる会」)
すでに日本列島には、縄文時代に大陸からイネがもたらされ、畑や自然のみずたまりを用いて小規模な栽培が行われていたが、紀元前4世紀ごろまでには、灌漑用の水路をともなう水田を用いた稲作の技術が九州北部に伝わった。稲作は西日本一帯にもゆっくりと広がり、海づたいに東北地方にまで達した。(24頁)

●『新しい日本の歴史』(平成23年版、育鵬社)
わが国には、すでに縄文時代末期に大陸からイネがもたらされ、畑や自然の湿地で栽培がおこなわれていました。その後、紀元前4世紀ごろまでに、灌漑用の水路をともなう水田での稲作が、大陸や朝鮮半島から九州北部にもたらされると、稲作はしだいに広がり、東北地方にまで達しました。(24頁)

これは酷似のレベルが、デッドコピーと言えるほど酷似しています。この「つくる会」の歴史教科書『新しい歴史教科書』の著作権を有する代表執筆者藤岡信勝氏らが調べてみると上記を含む47ヵ所で氏の著作権を侵害しているのだ。育鵬社は、教科書の中心部分について47ヵ所にもわたって、藤岡氏や西尾氏などの原稿から盗作し、藤岡氏らの著作権を故意に侵害した。この著作権侵害は、10年以下の懲役もしくは千万円以下の罰金かそれらの併科の罪に相当する犯罪行為である(著作権法第119条)。
このような犯罪行為により作成された育鵬社の教科書は平成23年度の採択戦において採択を伸ばし、不当な利益を得ることになった。その結果、「つくる会」の『新しい歴史教科書』は採択を激減させ、自由社の教科書事業は大幅な赤字を計上することになった。しかし、「つくる会」が訴えたいのはこのような経理上の損害だけではありません。次の五つの大きな問題が生じたのです。
一。歴史的な大規模盗作事件
この盗作に関与している人間の数は、少なく見積もっても十人は優に超える。これほど大規模かつ大がかりな盗作は歴史上あまり例がないのではないか。こんなことが許されるならば、どんな盗作もほとんど許されることになろう。
二。国民の教科書への信頼感を破壊した。
日本の教科書に対する歴史的に培われた国民の信頼を傷付け、さらに教科書制度全体を破壊する、重大な犯罪行為であるといっても過言ではない。
三。日本の文化の発展を阻害し法秩序とモラルを破壊する。
他人が真面目につくった教科書から中心部分を丸ごと盗んだ人たちが、何の社会的制裁も受けないならば、今後はどんな盗作行為も許されることになるだろう。それは日本の文化の発展を阻害することにつながる。
四。中韓による知的財産権の侵害を批判できなくなる。
今日、知的財産権をめぐるルールをシナや韓国に守らせるように持って行くことは、日本国にとって死活問題である。
五。保守言論界に泥を塗った。
「日本教育再生機構」に集まり「教科書改善の会」に協力している保守系の知識人は、事情を知らないまま善意で協力したに過ぎないだろう。こんな大規模な盗作事件が、代表的な保守知識人を糾合したと自称する団体によってなされたことの深刻さは、計り知れない。
フジサンケイグループという保守言論界出版物の雄と言うべき企業が発行する教科書というだけで盲目的に支持しているだけなのだ。それによって責任の所在と責任の取り方をあいまいにしているのだ。

これらの大事な事情にもかかわらず、「つくる会」はすぐに裁判に訴えることもなく育鵬社や八木氏らの言論人に対して、一年余りも粘り強く盗作に関する謝罪を求め続けてきた。裁判による解決ではなく、育鵬社らによる自発的な謝罪によって問題を解決したかったからです。謝罪要求は無視され続け、ようやく平成25年になって、「つくる会」側と育鵬社との間で話し合いがもたれたが、交渉は不調に終わった。同年4月、裁判の場に問題の解決が移された。
ここまで書いて来たのは、「つくる会」の理事で公民教科書執筆者、小山常実著、「歴史教科書と著作権(育鵬社歴史教科書事件判決を批判する)三恵社、3,400円+税、平成28」のごく前半の部分を要約したものです。この本では裁判の様子が詳細に書かれています。いずれにしても裁判の結果は、「つくる会」側が負けたのです。判決の理由は、簡単に分かり易く説明すれば歴史教科書などは、著作権は必要ないというのだ。こんな馬鹿げた判決理由がどこにあるかというのです。私は著者の小山常実氏は、この判決に怒りを感じているのだと思います。だから裁判の様子を非常に詳細に書いています。本の頁数も340頁、値段も3,400円+税です。読むのも買うのもなかなか大変です。ですから皆さん、自分の住所付近の公立図書館にこの本を常備させていただけませんでしょうか。
著者の小山常実氏は、この本のあとがきの最後にこう結んでいます。引用開始
「特に二審判決が歴史教科書の著作権を原理的に否定したことである。今後は、少なくとも単元本文については、他社教科書をコピー&ペーストして作った教科書も完全に合法となる。歴史教科書の世界は盗作教科書で溢れかえることになるかもしれない。生徒に模範を示すべき教科書が盗作で溢れるようになるかもしれないということは、何ともブラックな状態であり、見たくない事態である。そんな状態にしないためにも、育鵬社歴史教科書事件判決に対する批判を社会に広める必要があると考えるものである。」引用終了

実は私も、歴史教科書には著作権などないという判決には怒りを感じた。いずれは自分のブログにも書かなければと思っていた。しかし私は、毎月二回ブログを書いたり、本を書いたり、読書などで結構忙しい。たまたま小説書きに夢中になっていて、この著作権の問題を忘れてしまっていた。しかし今回、ピョンチャンオリンピックのことでこの著作権の問題を思い出したのだ。北海道北見市の女子カーリングチームが試合の休憩中(もぐもぐタイム)に韓国製のイチゴを食べていた。このイチゴは、もともと日本製なのだ。いつのまにか韓国が製作方法を盗み出し勝手に作っていたのだ。マスカットという果物もがありますが、これもシナのある地方で日本メーカーからの制作許可をとらずに自分たちで勝手に作り出していてシナ人自慢の作品にしているのだ。農協とかJTなどが農家に著作権を取るよう指導するのが仕事でしょう。歴史教科書の著作権と農産物の著作権とは質が違いますが著作権の意図は同じです。歴史教科書など著作権などないという判決自体がおかしいのだ。こういう判決は、法律論より時流時勢に左右されやすいのだ。思えば20年前「つくる会」が設立されたとき、朝日新聞を筆頭とするマスコミ関係、日教組を主体とする教育界、野党連合ばかりでなく自民党政府の一部、極左翼団体、韓国、シナまでが「つくる会」に猛反発した。その頃は外国人たちが大東亜戦争関係で日本政府や日本企業を訴えれば裁判に勝って金になる、すなわち「司法が日本を亡ぼす」とまで言われていた。
そこえ「つくる会」が誕生した。誕生以来20年間、「つくる会」の教科書は全国の公立中学校で採用される率は極端に少ない。しかし「つくる会」効果はあがった。それが証拠に歴史上の嘘をついて日本を貶める教科書はなくなってきた。ところが最近、またぞろ古い歴史教科書が復活した。平成28年度から使用されている窓社の歴史教科書だ。日本共産党系の歴史教育者協議会のメンバーである元教員や現職者の教師が作った歴史教科書。この教科書が有名国立中学校5校、有名私立中学校30校以上が採用しているのだ。「つくる会」の誕生以来無くなった「従軍慰安婦事件」を復活させ、「南京虐殺事件」を詳細に語り、旧日本軍の蛮行行為を強調しているのだ。その上裁判では相変わらず、「歴史教科書の著作権は、必要ない」などの「司法が日本を亡ぼす」のような判決が出ているのだ。

私は「つくる会」の会員です。「つくる会」は、日本の大会社からの献金は一銭もありません。全部国民から自発的献金だけに支えられているのです。日本企業が「つくる会」に献金すると、韓国やシナに輸出できなくなると言われているのだ。このままだと「つくる会」の先行きも心配です。トランプはアメリカファーストです。ヨーロッパも各国独自のファーストです。ロシアもシナも自国ファーストです。どうして日本政府も「日本ファースト」と主張して軍事力強化、現憲法破棄、新憲法成立を叫ばないのであろうか。安倍総理は議員時代には「つくる会」を大っぴらに支援してくれたが総理になったらこわくなったのでしょう。結局は育鵬社支持にまわった。二世議員のなれのはてだ。日本ファーストと叫ぶ政治家が誕生しないのだ。現在の日本民族は、ここまで劣化してしまったのだ。もう二と度日本は立ち上がれない国になったのかもしれない。一度経済発展したら、「お花畑」の様な事を言って世界の現実、日本の現実を見ようともしないのだ。どうしても日米同盟を堅持し、「日本フアースト」と力強く主張する政治家を誕生させよう。さもないと「つくる会」のジリ貧が続くだけです。
参考文献:小山常実著「歴史教科書と著作権」(育鵬社歴史教科書事件判決を批判する)
     三恵社 3,400円+税 平成28年

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両手両足を失った中村久子



ピョンチャンのパラリンピックも終わりました。日本代表選手の皆さんご苦労様でした。このブログは身体障碍者の話ですが再度紹介します。以前「えんだんじのブログ」で紹介した日は、三年前の平成27(2015)年5月9日です。読んで思い出す人もいるかもしれませんが非常に胸うつ話で、創作ではなく真実の話です。
三歳で突発性脱疽(だっそ)
明治30年、中村久子は岐阜県高山市の貧しい畳屋の第一子として誕生した。結婚して11年目にしてようやく恵まれた娘は、両親にとって目に入れても痛くないかわいい子。ところが、もうじき三歳になる年の秋、足の痛みを訴えて泣く久子を背負って病院に駆けつけた両親は、医師から衝撃的な病名を告げられた。体の一部が壊死(えし)して脱落するという突発性脱疽(だっそ)。「両足とも切断しなければならず、命の保証は出来ない。」
突然襲い掛かった災難に両親はうろたえた。そうこうしているうちに病状は悪化し、きらずに治せないかとう両親に哀願もむなしく、病は手にまで感染した。父栄太郎は看病のため仕事もできず、わずかな貯えは医者代に消え、一家は借金を抱え込んだ。
父の切実な願いが天に通じることなく、ある日、久子の激しい泣き声に台所から駆け付けた母親のあやは、そばに転がる白い物をみつけた。それは包帯に覆われたままもげ落ちた、わが子の左手だった。結局同じ月のうちに右手と両足を切断、久子は三歳にして両腕のひじから先と、両足の膝から下を失ったのだ。

父が亡くなり一家の運命は暗転する
昼夜かまわず泣く子をおぶり、雨の日も雪の日も街中を歩いてあやす両親と祖母。特に栄太郎は不幸な娘を不憫(ふびん)がり、弟の栄三が誕生してからも、久子を側においてかわいがった。久子の噂を聞きつけた見世物小屋の興行師が「その子を売ってくれないか」と話を持ち込むと、父は怒り、たとえ乞食になっても娘を守り抜くと誓うのだった。
こうして家族の愛情に包まれて、短いと思われた久子の命は奇跡的にとりとめられた。ところが、一家の大黒柱であり久子の守り神でもあった栄太郎の突然死が、家族の運命を大きく変えることになった。
手足のない七歳の娘と、二歳になったばかりの幼児、そして山のような借金を残された母。栄三は伯父の家に引き取られ、久子の面倒を伯母に託し、あやは働きにでるようになった。
久子は祖母から百人一首の歌や片仮名をならい、大好きな人形の着物をぬってもらった。戸外で遊べない彼女にとって唯一の友達は人形。頬(ほほ)よせて「あんたはお手てもあんよもあっていいのね。そのお手て、あたしに貸してちょうだい」と語りかける切ない日々。それでも春が来れば学校に行けるという希望が少女の胸を躍らせた。しかし、障害者への差別が強い時代のこと、それははかない夢にすぎなかった。

母の再婚とつらい日々
あやが子連れの男と再婚したのは久子が八つの時、義父との生活は、生きるために仕方ないとはいえ、母娘(おやこ)にとってつらいものとなった。それまで娘に甘かったあやは、夫への気兼ねから厳しくなり、不具な子を恥じる義父は久子を二階の部屋に隠すように置いた。来客で忙しい日など、丸一日忘れ去られることもあり、空腹や便を我慢して待たなければならなかった。

口を使って縫い物をする
あやは、娘の将来を思って何でも自分でやるようにさせた。癇癪を起こし泣きわめいても手を貸さない。酷とも言える母の厳しさを恨むこともあった。しかし、繰り返し、繰り返し練習するうちに、口でハサミを使い、マッチを擦ることを覚えました。大好きな人形の着物作りにも挑み、「手無し、足なしに何ができるもんか」と罵(ののし)られても、最後まであきらめなかった。「きっと作ってあげるで、待っておいでよ」人形にやさしく語り掛け、幾日もかけて一枚の着物を縫い上げた。それは口で縫ったためつばでベトベトにぬれていたが、久子は至福の一時を味わった。自分の力で物を作れるのだ!
ところが、そんな浮き立つ思いはすぐに打ち消されました。友達に人形の着物を贈ったところ、その母親が「こんな汚いもの」と言って小川に捨ててしまったことを知るのだ。
この時、久子は初めて自分は普通の子と違う、手足のない子であることをはっきり自覚した。「ぬれない着物を縫う」悔しさ、悲しさをばねに悲壮なまでの努力を重ねたのだ。それが実現したのが十三年後のこと。後年、久子はこの時のことを振り返り、「この侮辱こそが宝だった」と感謝さえするのです。
また食事も自分で取る決意をした。箸(はし)を持つ指がないので器に口を直接つけて食べていると、「犬だ、猫だ」と店の小僧たちに笑われた。「自分は犬や猫ではない、人間だ。きっと箸(はし)を持ってご飯を食べて見せる。」久子の反抗心に火がついて、あれこれ工夫を凝らすうちに、包帯に箸を挟むことを思いつき、一人で食事ができるようになった。自分の力で食べるご飯のおいしさ・・・それは久子にとって大きな発見であった。

誇りを捨て興行の道へ
近所の男の子たち「手なしぃ、足なしぃ」と馬鹿にされて泣いていると、祖母は孫に諭(さと)した。「仏様がご覧になっているから、いじめられても他人様を口汚くののしってはいけませんよ」と。
久子はこの祖母から読書や習字の手ほどきを受け、学校に行かないながら知識を身に着けたのだ。また、祖母は来客への礼儀から日常生活のこまごまとした振舞いまで厳しく教えたのだ。一方義父は久子を「穀(ごく)つぶし」と呼び、彼女を巡る夫婦間の言い争いはたえなかった。間もなく久子は麻糸つなぎの内職を始めた。
固い麻糸が口でむすべるようになるまでには並々ならぬ苦労があり、初めて成功した時は畳にひれ伏して泣いた。人生で初めて稼いだ十六銭。働く喜びが手足のない久子の体を駆け抜けた。
そんな久子も十八歳になり、自活の道を選ぶ時が来た。国が身体障碍者に下付する扶助料をもらう道もあったが、役に立っていない自分がお国のお金をもらう資格などない。国に甘えて生きれば自分の力で立てなくなると、これを拒否した。
迷い苦しんだ挙句、やるまいと誓っていた興行の道を選んだのは、それから一年後のこと。大正五年、久子は見知らぬ土地へと旅立った。家族と別れ、誇りを捨て、ただ生き抜くために・・・。

泥中の蓮になろう
『だるま娘』― これが見世物小屋の芸人となった久子につけられた名前でした。芸は裁縫、揮毫(きごう、文字や書画を書く事)、切り紙など、生活の中で覚えたこと、派手な衣装や卑しい曲芸を売りにしない、品性と教養がにじむ芸が好評を博し一躍人気者になりました。一座を率いる伊勢兼(いせかねる)は亡き父を知る人で、久子を実の娘のように労り、「暇さえあれば、一字でも多く学べ」と励ました。
しかし、順風満帆な日々は長く続きません。興行師として素人の伊勢兼(いせかねる)は興行に失敗、小屋が人手に渡ってしまったのだ。後を継いだ主人は腹黒い男で、久子に過酷な労働を強いた。しかし、どんな惨めな環境にあっても、彼女の向上心がくじかれることはなかった。「泥中の蓮になれ」という書道の師匠、沖六鵬(おきろくほう)の言葉の力を得て、短歌に親しみ、本を読んで精神を高めたのだ。その結果、彼女の芸は次第に高尚さを増していくのだった。

半生記が懸賞の一等になり、義足で歩ける
久子の運命は大きく転換します。自分の半生を綴った手記が婦人雑誌『婦女界』の懸賞で一等当選。賞金を手にしただけでなく、社の援助で義足が贈られたのだ。久子は真っ先に義足をつけるために入院した。立って歩く訓練はまずもって恐怖を克服する戦い。しかし四歳で脚を失って以来、自分の力であるくことをどれほど切望してきたことか!久子は嬉々として練習に励み、四か月後には颯爽と歩いて病院を後にしたのだった。

結婚、そして未亡人
また、絶対に無理であろうと諦めていた結婚の夢も叶ったのだ。二十四歳になった久子は同僚の女性たちが羨む中、同じ小屋で働く中谷雄三と結婚したのだった。結婚二年目にして妊娠。障害を持って生まれてくるのではないかという心配をよそに四千グラムの健康な女の子を出産し、厳しい生活を送る夫婦に希望を与えたのだ。
しかし、暗雲は情け容赦なくせまります。体調を崩した夫は死を宣告されたと同じような結核の末期状態だった。絶望と悔しさを抱え、久子は医者代と生活費のために毎晩遅くまで働いた。ところが大正十二年九月一日に突如襲った関東大震災が、命以外のあらゆるものを奪っていった。
栄養失調と心労で乳は出なくなり、わずかな配給と残されたものを利用して病人と幼子を懸命に世話しました。しかし、その甲斐なく、震災から三週間後に夫は逝き、二十七歳で久子は未亡人となってしまったのだった。

障害を持つ女性に会い、恨みを感謝に転換する。
夫の百か日が済まないうちに、久子は再婚した。女一人の興行は不可能で、生きていくために仕方のない選択。幸い再婚相手の進士由太(しんしゆうた)はよき夫であり、頼れる太夫元(たゆうもと)でした。次女も誕生、生活苦からようやく脱し、訪れたささやかな幸せに喜びを感じていた。ところが寄り添って二年に満たない大正十四年の秋、床についた進士(しんし)は急な発作であっけなく世をさり、久子は二番目の夫をも失ったのでした。
それでも彼女はくじけず、三度目の結婚に踏み切った。この結婚は久子に幸福をもたらさなかった。夫の定兼(さだかね)は浪費癖があり身持ちも悪く、久子の連れ子に対して無責任な態度を取るばかり。やがて二人の間に生まれた三女が病で死ぬと、彼女の夫への愛情は急激に冷えていった。
心労を抱える中、久子の人生観を変える座古愛子(ざこあいこ)と出会った。首から下が付随の女性が女学校の購買部を受け持っている、という記事を偶然目にした久子は、直接彼女を訪ねたのだ。
結婚もせず、肉親もすべて失い、たった一人で寝たきりの生活を送る座古愛子の明るい顔に衝撃を受け、久子は一つのことを悟るのだった。苦難のあまり運命を呪い世を恨んできた不幸な者は山ほどいる。考え方を改めて、恨みを感謝に転換しなければならないと。

芸に磨きをかけながら、子供を学校に通わせる
芸人のほとんどが子どもを小学校に行かせない中、久子は教育が必要だと確信し、信頼のおける家庭に二人の娘を預けて学校に通わせた。久子は子供たちに送金するため必死に働き、芸に磨きをかけた。久子の色紙(しきし)や短冊は人気が高く、よく売れた。投げ銭をとらないのも彼女の信条であった。芸人は乞食ではない、人々に驚嘆と感動を与えるのが真の芸人と考え、ただ縫ったり編んだりするのではなく、より完成度の高い作品を舞台で披露するようになった。そうして七年間の忍耐の末、久子は昭和八年に定兼と別れ、知人の勧めで九歳年下の中村敏雄と四度目の結婚をした彼女は、ほどなく興行界をさった。

ヘレン・ケラーと対面、一躍全国的な有名人に
昭和十二年久子にとって忘れがたい年となった。周囲の計らいで、来日したヘレン・ケラーと直接対面したのだ。その日のために彼女は生活費を切り詰めて布を買い、口で縫い上げた日本人形を贈り物として用意していた。
政界の要人も参会する歓迎会の席で、その人形を受け取ったヘレン・ケラーは、手探りで久子の短い腕と義足を確認すると、突然その体を抱き寄せました。そして見えない瞳から熱い涙を流しながら、「私より不幸な人、そして私より偉大な人」と彼女を称賛した。
三重苦のヘレン・ケラーと無手無足の久子。二人を見る聴衆は深い感動に包まれ、各紙は「和製ケラーと相抱く」と大きく報道。これより中村久子の名は全国的しられた。
晩年の久子は各地で講演し、執筆活動に力を注いだ。昭和40年、六十九歳の彼女は自分を支えてくれた亡き母を顕彰し、国分寺境内に悲母観音像を建立(こんりゅう)した。一時は厳しさゆえに恨んだ母。しかし自らも母となることで、すべての愛情の裏返しであることを知ったのだ。
久子は言いました。「確かなことは自分で生きているのではない、生かされているのだということです。いかなる人生にも決して絶望はない」。七十二歳で波乱の人生を閉じると、遺言通り久子の体は解剖された。持っているすべてをささげつくした最期であった。

この物語の由来:
私のブログの愛読者に関西地方にある私立高等学校の校長先生がいる。彼がその高校の校長になった時、学校の経営者が我が校は、道徳教育に力を入れたいと強調した。彼は道徳教育の教科書を作るため、古今東西の心を打つ話や、インターネットや、日本の古典などから情報を仕入れ、日本の古典は自ら現代語訳に翻訳したりして、一年用、二年用、三年用の三冊の道徳教育の教科書を作成した。一冊平均5-60頁あった。
教科書名として「徳育科」と称した。その「徳育科」三冊を私に送ってくれた。私のブログに掲載しても良いとの了解を取りながら、私は自分の書棚のどこかにしまいこみ忘れてしまっていた。それからおよそ二年後の現在この道徳教科書「徳育科」をふとしたことで見つけだした。
あわてて彼に連絡して見ると、彼はすでに定年になっていた。学校の名前も変わり、経営者も変わっていた。しかし「徳育科」の授業は続いており彼が作成した教科書がまだ使用されているのがわかった。しかし中身が多少変わったかどうかわかりません。この「中村久子」の話は、一年用の教科書「徳育科」に載せられた十三話の一つです。前校長の了解を得てブログに載せました。全文ほとんど原文と同じですが、文章の終わり目は、「~です」、「~であります」というように教科書的だったものをもっと口語的なものに私の判断で変えさせていただきました。あとは全文、原文と全く同じです。
ここからは私が新たに追加した文章です。このブログ公開後、私はお年寄りに中村久子の話を知っているかを聴きまわりました。私はこの夏80歳を迎えますが、私はこれまで中村久子の話は知りませんでした。従って現在80歳以下では知っている人が極端に少ないでしょう。現在83歳の方がある程度知っておりました。すでに85歳以上の方がこの中村久子の話は、戦後封印されたのでしょうと語っておりました。これは私の推測ですが、日教組など共産主義に魅せられたり、親近感を持っていたから中村久子が、政府の身障者への扶助はっきりと断ったから、彼女の話を封印してしまったのかもしれません。皆さん、中村久子のウイキペディアを読んで見てください。ヘレン・ケラー女子と面会したとき自分の口で作った日本人形を差し上げていますが、その日本人形と一緒に取ったときの彼女の写真を見ることができます。DVD制作を中心業務とする映画監督、斎藤満雄氏が平成10(2008)年に「生きる!!中村久子物語」を公開しています。今では若い人たちにも中村久子の名前は良く知られています。



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「南京大虐殺」ユネスコ記憶遺産登録は、日本政府の失態



シナ政府は、「南京大虐殺」に関する文書をユネスコの記憶遺産に登録するよう申請していたが、平成27年10月10日にその登録が正式に認められた。これは安倍政権の外交的失態と同時に安倍政権支持派の保守知識人の失態でもあります。その失態の実状を説明しましょう。
一。文科省の検定
文科省は過去数十年間、公立の中学校で使う全教科書の内容を検定し、その検定合格をもって教科書の販売許可にしてきました。歴史教科書については、南京大虐殺を否定すると検定を合格させなかった。平成9年に「新しい歴史教科書をつくる会」が設立された。設立されたきっかけは、あの嘘八百の「従軍慰安婦」事件が当時販売されていた歴史教科書七社、その全社が「従軍慰安婦」事件を掲載したからです。公立中学校の全教科書は4年ごとに改定され、発売されますが「つくる会」は南京大虐殺を否定しています。歴史的理由は長くなるので省略。南京事件否定では文科省は検定の合格はくれません。結局「つくる会」は折れて南京事件を肯定して検定合格を取ってきました。四年ごとの改定の度に歴史上の嘘を書き続けるわけにいかないと前回の改定のときには「つくる会」は南京事件を否定もせず、肯定もせず、また全く何も書かずに、また歴史教科書では初めて「通州事件」を書いて検定合格を取っています。文科省が南京虐殺を否定すると絶対に検定合格を与えない最大の理由は、「日本歴史学会」と「歴史学研究会」が民間の南京事件研究で有名な東中野修道氏を初め、田中正明、鈴木明、冨澤繁信、阿羅健一、北村稔の諸氏の研究論文など歯牙にもかけず一切を無視しているからです。今でも自虐史観に固まっている「日本歴史学会」、「歴史学研究会」、憲法学者学の集まりの会などが大手を振っているのだ。それを許して眺めているのが文科省なのだ。

二。育鵬社の登場
フジサンケイグループのドン・日枝会長が三億円を支出し、「つくる会」系と同じ保守系歴史教科書を出版する育鵬社を設立(平成19年8月)。育鵬社登場については二つの注目点があります。
1.八木秀次氏は、育鵬社の歴史教科書の監修者の一人ですが、それ以前は「つくる会」の会長であった。八木氏は「つくる会」の会長在任中、「つくる会」執行部には極秘で、「つくる会」の事務局長でもあり日本会議の会員でもある宮崎事務局長をつれてシナの「中国社会科学院研究所」を訪問した。実状は、八木氏自らの訪問ではなくて「中国社会科学院研究所」からの招待であった。シナ極秘旅行がばれたせいもあって平成18年4月30日八木氏と八木派は「つくる会」を退任し、育鵬社に参加しますが、五月に八木氏に招待されて「中国社会科学院」の蒋立峰・日本研究所所長等研究者グループが来日、5月17日に日中討論会が扶桑社で行われた。同時に同じ平成18年7月3日の「AERA」では八木氏は「朝日新聞に批判されるようなものにならないはずですよ」と語っていた。上記の扶桑社の日中討論会で一説にはスパイの李春光が参加していたという。それを証明する写真もあるというのである(月刊「WILL」平成24年10月号)。何を語られたか詳細はわからない。

2.平成23年7月20日河村たかし名古屋市長の肝いりのもと名古屋で中学校歴史、公民教科書討論会が開催された。育鵬社と「つくる会」の自由社だけが出席し、ほかの教科書会社は出席しなかった。その席で育鵬社の歴史教科書監修者の一人である石井昌浩氏(元拓殖大学客員教授)は、「南京事件は確かにあった。これは事実です。犠牲者の数などの実態についてはまだ論争が続いている」と発言しているのです。要するに育鵬社は、否定しても検定がとれないから最初から文科省と議論せず南京事件を肯定しているのです。一方保守の間では、史実的に「南京事件はなかったことが常識になっています」だから「つくる会」は南京事件虐殺に抵抗しているのです。この当時は、私にははっきりわからなかったが、安倍総理が「つくる会」より育鵬社支持をはっきり示していたのでしょう。その証拠に石井昌浩氏の「南京事件」の肯定発言に反発した保守知識人はほとんどゼロでした。保守知識人の雄、また南京虐殺否定派の雄ともいうべき渡部昇一氏は、石井昌浩氏の肯定発言に反発するどころか育鵬社の歴史教科書の監修者の一人になっています。櫻井よし子氏は、自著『日本よ、「歴史力」を磨け』では「南京大虐殺の嘘」がありますが、石井発言に反発するどころか育鵬社の歴史教科書には支援者の写真の一人になっています。日本会議も育鵬社支援の記事を度々月刊誌「明日への選択」に載せています。八木秀次氏、日本会議の伊藤哲夫氏は安倍総理の太鼓持ちだ。八木氏は日本教育再生機構の理事長、その再生機構の複数の顧問が日本会議の幹部でもあり、組織面、運動面で関係が深い。教科書改善の会は、フジサンケイグループの教科書発行を支援グループ。代表世話人屋山太郎氏。ここには学者ばかりでなく多方面の保守知識人が多いい。育鵬社はフジサンケイグループ。フジサンケイは保守系出版グループの雄だ。保守知識人にとって利用価値がある。従って保守知識人は、「つくる会」の歴史教科書より育鵬社の歴史教科書利用の方に価値があった。そのためでしょう、保守知識人でありなが、無意識のうちに民間の南京事件研究者たちの論文を無視してしまったのです。南京虐殺事件に関する限り、日本会議の一般会員は、ただの馬鹿の集まり、自分で民間保守の南京虐殺研究者たちの論文を否定していることが判らないのだ。

三。日中歴史共同研究
一党独裁のシナ政府と民主政治の日本政府と日中の歴史問題を話しあったところで両政府が了解することは有り得ないはずです。日本側の座長を務めた北岡伸一氏はこう書いています。「日中間で歴史共同研究の開始が合意されたのには平成18年10月の安倍晋三首相と胡錦濤主席との首脳会談によってであった。」
安倍総理と胡錦濤の話し合いで「日中歴史共同研究」が始められ、最終的な結論の一つとして南京虐殺事件を日本政府が認めたのだから、「南京大逆説事件」のユネスコ登録は、安倍政権の失態ではないですか。シナ側の代表団、団長歩兵氏は、インタビューでこう語っています。
「中日双方の学者に等しく、自己の論文中に、南京大虐殺は大規模な集団虐殺行為であり、日本軍の南京占領期間に、中国人被害者に対しておこなった残虐な虐殺であったことを明確に認めて記述した。(略)双方の認識は、一致したところもあれば、異なった視点からの考察も存在した。しかし南京大虐殺の歴史事実を否定するものではなかった。」

それでは、日中両国代表団の団長ともいうべき、北岡伸一と歩兵、両氏に質問いたします。平成20年に胡錦濤氏が日本を訪れた時、「南京事件の真実を検証する委員会一同」が平成20年5月に公開質問状を胡錦濤氏に提出しています。全部で五つの質問状です。どれも胡錦濤氏から返事をもらっていません。全部紹介すると長くなりますのでここでは、質問の一だけを紹介します。
「一。故毛沢東主席は生涯にただの一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後の延安で講義され、そして『持久戦論』としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみです。30万市民虐殺などといういわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?」(参照:えんだんじのブログ「戦争を知らない国民のための日中歴史認識」(平成28年9月24日)
なぜ胡錦濤氏は、これらの質問に答えられないのか、教えてもらいませんか。

皆さんは上記三つの記事、一。文科省の検定 二。育鵬社の登場 三。日中歴史共同研究、を読めば、シナ側は、ひょっとして南京虐殺事件のユネスコ記憶遺産に登録してくるかもしれない等と予想できます。予想通りユネスコ記憶遺産に登録を申請し、平成27年10月10日にその登録の承認が発表された。早速日本では平成27年11月28日東京で「南京大虐殺の歴史捏造を正す国民会議」の集会が開かれ、議長に渡部昇一氏が選ばれています。
私がここで言いたいのは、なぜか渡部昇一氏が平然と議長に選ばれていることです。いいですか皆さん、渡部氏は、育鵬社の歴史教科書の監修者の一人です。その同じ育鵬社の歴史教科書監修者である石井昌浩氏は、すでに書きましたように平成23年7月23日に名古屋の歴史、公民教科書討論会で「南京虐殺事件は、あった」と公言しているのです。皆さん、平成23年7月23日以後、10日間ぐらいの間に、誰か有名な保守知識人で、石井発言に反発した人がいましたか。私の知る限り誰もいません。すでに書きましたように櫻井よし子氏も反対していません。日本会議の連中も反対していません。それにもかかわらず、日本会議の幹部は、「南京大虐殺の歴史捏造を正す国民会議」の参加者名簿には記入しています。東中野氏など民間の保守知識人の南京虐殺事件の研究論文など完全に無視しているくせに平気で加入しているのだ。
平成29年9月15日のえんだんじのブログ、「日本人の政治的幼稚さが国を亡ぼす。」で、私はこう書いています。
「戦前戦後を通じて、日本の保守知識人の特徴は権力から独立した知識人は、極端に少ないこと。むしろ権力によって認められてこそ知識人というか、そのことを望み喜ぶ知識人が昔からの主流なのです。これが日本の悲劇になっている。」
平成27年10月10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は正式に「南京大虐殺」関連文書を記憶遺産(重要歴史文書を保存)とした。なぜ日本にとってこのような悲劇的結末を迎えたかは、無論日本政府の責任だが同時に圧倒的多数の日本の保守知識人が日本政府に媚びて加担したからだ。すなわち文科省の南京事件を否定すると検定がもらえないことを支持したからです。渡部昇一氏、櫻井よしこ氏、日本会議、日本教育再生機構、教科書改善の会などそのことで文科省や安倍総理を批判したことありますか?

ところで安倍総理は、自民党議員時代は「つくる会」をえこひいきするように支援してくれましたが総理になると育鵬社支持にまわった、何故か。簡単な例を出して説明しましょう。「つくる会」は、どうしても南京事件を認めないと検定がとれない。そこで対策を変えて、南京事件については一切述べない、その代り「通州事件」を記載して検定をとった。これはまさにトランプ大統領ばりの「日本ファースト」なのだ。
安倍総理は、「日本ファースト」で日米関係を対等な同盟関係にしようなどとは考えてはいません、あくまでも日本はアメリカの忠実なポチとして行動したいのです。安倍総理の「70年談話」はその証明の一つです。こういう首相に憲法改正をまかせるわけにはいきません。「日本ファースト」を堂々と主張してくれるような総裁や総裁候補の出現まで待とうではありませんか。そんな首相が出現するはずがないと言う保守の人たちが多いからこそ現れないのです。
参考文献:
1.拙著「保守知識人を断罪す」(「つくる会」苦闘の歴史)平成25年 総和社
2.「戦争を知らない国民のための日中歴史認識」笠原十九司 平成22年 勉誠出版


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『尋ね人』、時田早苗(ときたさなえ)さん



ピョンチャンオリンピックでは、随分テレビ番組を見た。冬のスポーツでも色々なスポーツがあるものだと感心してしまいます。現在の10代、20代の人たちは冬のスポーツだけでなく、色々種々雑多なスポーツを楽しむことが出来て実に幸せだ。健康体の人たちだけでなく、何十年と患う人たちから車イスの人まで楽しむことができるのだ。今年の夏、80歳を迎える年代の俺たちにくらべると、同じ10代、20代でも天国と地獄の差がる。特に俺など極貧育ちだから、現代の子供たちと俺の子供時代との差は、天国と地獄の差以上、めちゃくちゃな開きじゃないかなと思う。
俺など両親と一緒にどこかに食べに行ったことは一回もありません、どこかに一緒に遊びに行ったこともありません。お正月にお年玉をもらったことなど一回もないままにおとなになってしまった。俺は長男で妹二人、男ひとりだからいつもお袋の手伝い。親父は重病の結核で入院、俺が手伝わなければ一家全滅というのを子供心に無意識に持っていた。自宅から7,80メーター先に井戸があり、井戸からつるべ落としで水をくみ上げ、二つのバケツに水を入れる、いわゆる水汲み仕事、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、ガスなし、自宅のトイレの汲み取り、自宅の小さな庭に穴を掘り便を埋める。親父は少しでも生活の足しにモルモットを育て、ジュウシマツを飼っていた。面倒なのはモルモットが大きいのでえさを食べる。その餌をかまでとるために山へ入るのだ。その山のごく近くにわざわざ住んでいたのは敗戦(大東亜戦争)のためであった。

俺は神奈川県の川崎市に昭和13年の時に生まれ、昭和16年の時大東亜戦争が起こった。俺が5,6歳のころ日本本土への空爆が度々あった。川崎は重工業地帯でいずれ大空爆にあうのは時間の問題と考え、俺一人を親父の実家、富山に疎開させ、両親と妹の3人は親父の勤務する日本鋼管系列の会社が草津にあったので、そこえ疎開した。予想どおり川崎は大変な空爆を受け、我が家は焼き尽くされてしまった。戦後親父の勤め先は川崎の日本鋼管だったので通勤範囲内の横須賀市の追浜の山の上に引っ越した。横須賀は山の多いい町だ。山の上、またその山の上にいけば家賃が安い、親父は肺結核にかかっていて入院しそうだったから、家賃の安い山の上、我が家を含めて5.6件でその上はまわりがすべて山だった。モルモット用の餌の野草なら山ほどある山上だった。俺は追浜の浦郷小学校に小学一年の三学期に転向した。浦郷小学校は古い学校で明治16年に創立され今年で創立135年という古さです。引っ越して、親父は重病の肺結核ですぐに入院、当時どこでも貧乏だったが俺の家の家族は、大貧乏所帯だった。日曜日は、朝遅く起きねばならなかった。朝食を抜いて一日二食の時もあったからだ。俺が小学校3年か4年の時だった、担任の先生が飯田先生といって女性の先生の時だった。その頃学校では秋になると学芸会があった。各組が演芸をやったり、歌を歌ったりなどして芸を競い合う学芸会があった。その時飯田先生は、俺の組で「白雪姫」を演じることを決めたのだ。その時飯田先生は、俺を白雪姫の王子役をやらせたのだ。どうして王子役に選ばれたのかさっぱりわからなかった。何しろ勉強はできない方だったからだ。俺の女房は、「あなたは子供のころからイケメンだったのよ」と言ってくれるが、俺には子供のころの写真など空爆で焼失一枚もないのだ。
いずれにしても俺は「白雪姫」の王子様役をやった。王子様の被る帽子は、硬いボール紙を緑色に塗り、着るマントは大きい風呂敷を着たことだけは覚えています。他のことは全然覚えていません。主役やる白雪姫は、時田早苗(ときたさなえ)と言った女の子で、お転婆な女の子だったということは覚えています。これ以外何も思い出さないのです。俺はその後浦郷小学校で彼女に会ったこともないし、俺は中卒後間際に藤沢に引っ越すのですがそれまでに一度も会った覚えはありません。
学芸会出演の時には、俺の両親は着ていません。父は結核の重症患者で入院中、母は病院に看護に行っていたからです。時田早苗さんの両親が見にきていたかどうかわかりあません。
俺が今もって不思議に思うのはたったこれだけの思い出だけでよく時田早苗さんというフ
ルネイムを70年間も忘れる事もなく覚えていたものだと感心しています。

ピョンチャンオリンピックのテレビ番組を見ていたとき、俺には若い時夢中になってしたことは何もなかったことを改めて思いだし、思い出に残ることはなんだったかと考えたとき、学芸会で白雪姫の王子役をやったのを思いだし、白雪姫役の時田早苗さんの名前がすぐ出たのだ。これには自分でビックリした。飯田先生という女性と時田早苗さんしか思いだせなかったのだ。飯田先生はともかく、時田早苗さんというフルネームがなぜか覚えていてすぐに口に出たのだろうか。他の学友たちの名前は一切出てこなかったのだ。なぜか彼女の容姿や顔つきを全く思い出せないのに、なぜフルネームだけ覚えていたんだろう、こうして「訪ね人」を利用して探してみようと思ったのだ。

『尋ね人』
「時田早苗さん、あなたは、横須賀市追浜の浦郷小学校3,4年の時、女性の担任の飯田先生のもとで学芸会の時、「白雪姫」の主人公白雪姫を演じませんでしたか?私は白雪姫の王子役を演じた鈴木敏明と申します。私は飯田先生以外の生徒の名前は誰一人思いだせないのですが、時田早苗さんの名前は何故かほぼ70年間覚えていたのです。時田さんが健康であったら、ぜひ私と会ってもらいませんか。白雪姫と王子が70年ぶりに再会というニュースが盛り上がるかもしれませんよ。お互い70年間の人生の営みを話し合いませんか?
もし興味がありましたら、ぜひこの「えんだんじのブログ」に応答してください。あるいは、メイルで私あてに返事をお送りください。私のメイルアドレスは、tosi-suzuki@d03.itscom.net, あるいは私は横浜に住んでいますので自宅の電話番号は、045-903-6348にご連絡ください。もし読者で時田早苗さんの居所をご承知の方がおりましたら、私あてに連絡してください。よろしくお願いします。」

テレビでオリンピックを見ている最中に、ふと思い出したので、このようなブログを公表してみました。もしこれで時田早苗さんと会えるようでしたら、俺はオリンピックで金メダルを取ったのと同じようなことですね。


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