日本帝国海外旅券、大正5年4月22日

日本帝国海外旅券、大正5年4月22日      平成30年12月8日  
渡韓紀行を書いた明治40年3月以降から8年後の大正5年に私の祖父、鈴木正忠と妻子合わせて4人には、ソ連領の浦塩斯徳(ウラジオストク)への海外旅券が発行されています。「渡韓紀行」の前編に祖父は、ウラジオストクに近い咸鏡北道鏡城支部への辞令を受けたと書いていますので、すくなくともそこでの祖父の仕事ぶりは良かったのでしょう。大正5年4月22日にウラジオストク向けの海外旅券をもらっています。今時大正時代の海外旅券を見るのはめずらしいので、その詳細を書きます。現在のサイズでA4サイズより少し小さめの4頁からなる書類です。

海外旅券の一面:
券旅外海国帝本日   
旅券番号:第参壱〇七参弐號
新潟県岩舟郡村上本庁二十番地
〇〇 鈴木正忠 四十六年
 妻   テイ 三十三年
長男   正貞   四年
次男   忠貞   三年
右ハ師団〇〇〇〇為露領浦塩斯徳(ロシア領ウラジオストクーえんだんじ挿入)へ赴クニ付通路故障ナク旅行セシメ且必要の保護扶助ヲ與ヘラレン事ヲ其筋ノ諸官ニ希望ス
大正五年四月二十二日
日本帝国外務大臣 従三位勲一等男爵 石井菊次郎

えんだんじのコメント
1.明治時代の新聞は縦書きですがたまに広告などで、日本語横書きの場合、現在のように左書きで始まるのではなく、右書きになっています。左書きに統一されたのは戦後からのことでしょうか。どなたか教えてください。
2.〇一つは漢字一つがくずし字のため、あるいは薄すぎて、あるいは当用漢字でないため読むことができない漢字、一字に対して〇一つを与えました。皆さん、どんな字が当てはまるか推量してみてください。
3.住所は現在住んで居る所より本籍地が使われています。当時鈴木家の住所は神奈川県川崎市ですが、本籍地が使われています。私が20代までこの本籍地を使用していましたが、その後本籍地を藤沢市に変えました。

海外旅券の二面(一面の裏):
                證 明
本旅券携帯者ハ年齢、旅行の目的、行先地共ニ旅券面記載ノ通ナルヲ申立テ右事実ニ相違ナク又日本臣民ナルコトヲ證明ス。大正5年四月二十二日
咸鏡北道警務部長○○○○

海外旅券の三面:
三面上半分はロシア語が印刷されたロシア語のハンコが押され、ロシア人のサインもある。ロシア人が書いたロシア語の短い文章もあります。三面下半分は祖父母夫妻の写真がはってあります。祖父母の間にはテーブルルクロスのかかった細長いテイブルがあり、その上に小さな花かごがあり、その中に沢山の小さな花が植えられています。そのテーブルを挟んで左側に和服を着た祖母が椅子に座り、右側に和服を着て、ソフト帽を被った祖父が立っている全身写真が貼ってあります。

海外旅券の四面(三面の裏):
左端に(文譯)と書いて下記の漢字がひとつずつ縦に並んでいます。
任○旅行無阻如有緊要事即請沿途各官如意照料善為保佑○
四面の真ん中にはTRANSLATIONの下には、
IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT
PASSPORT NO.310732 Masatada Susuki 46 Years old
Tei   Susuki 33 “ ”
          Masasada Susuki 4 “ “
Tadasada Susuki 3 “ “
The competent Authorities and all whom it may concern are requested to allow the above
Named person proceeding to Vladivostok to pass keenly and without hindrance and to give said person such protection and assistance as may be required. The 22day of the 4month of the 5 year of Taisho(1916)
Baron K. Ishii
               The Imperial Japanese Majesty’s
Minister of State for Foreign Affairs

Signature of the Bearer_________________________________________

四面の下半分は、ロシア語でTRADUCTIONの下に
Le Gouvernement Imperial Du Japon Passeport NO.310732 その下にロシア語の短文が書かれ、その上にロシア語の印が押されています。
以上がパスポートの説明です。

えんだんじのコメント
私がパスポートの発行月日を見たとき、すなわち大正5年4月22日は私の母の誕生日が大正5年であったはずです。母の誕生日を確認するために、私は母の除籍証明書を藤沢市役所からとり寄せた。除籍証明書にはこう書いてあった。「大正5年9月10日横須賀市で出生同月13日父届け出入籍」。これでは祖父母はウラジオストクに2,3カ月しか滞在してないことになる。その後祖母は、次々と私の母の妹二人を生んでいるので、少なくとも妻子を連れてウラジオストクに滞在することは無理だと思います。それとも祖父は単身赴任したのかどうかはわかりません。いずれにしても海外旅券の発行日が大正5年4月22日であることは、私の祖父母がウラジオストクを訪問した時期がウラジオストクの日本人街が隆盛を極める寸前だったことです。二人が訪問した翌年の1907年には日本の領事館が開設され、翌々年の1909年にはウラジオストクは日本の総領事館に格上げされた。1917年には日本語による新聞、「浦潮新聞」が発行され、1918年には横浜正金銀行の浦塩支店が開設された。特に1918年4月には日英陸戦隊がウラジオストクに上陸、同年7月アメリカ、チェコ軍救援のためウラジオストクに日米共同出兵を提案、日本は同意した。そして同年8月2日ついに日本政府、日本軍のシベリア出兵を宣言。1920年頃(大正9-10年頃)日本の人口6000人ぐらいになった。それを境にしてウラジオストクの日本人街は少しずつ落ち目になっていた。
越後、村上藩の下級武士の一族だった、我が祖父、鈴木正忠は戊辰戦争終結時二歳の幼児だった。その後若い時東京に出て神奈川県警の警察官になり、それなりの活躍をして一生を終えたことを私は鈴木家の誇りとしています。
これで「渡韓紀行」関連のブログは終わりとします。








コメント

「渡韓紀行」(後編)、明治40年作

後編引用開始
「翌18日午後出航につき旅館を出て波止場に行くと我々を迎える満乗丸に乗り本船に移る。この時の同船者は咸興支部勤務の15名、鏡城支部の14名と韓人9名、その他邦人夫婦の一行計45名である。乗客を乗せた船は満歳丸といいながら満歳ではない。トン数25トン足らず、速力8ノット出る程度の木造の老朽船で船室は猛烈に不潔である。船室は横になって天井を見ると蜘蛛の巣が幾重にも掛かっていて埃がたまっている。目をあけていられない。ねずみ属は悲鳴を挙げながら室内を駆けずり回りするので睡眠がとれず情けないばかりか猛烈な寒さで泣きたい。この夜安眠できたものはいない。翌午前1時船は進んでいるが一進一退進むごとに風は益々はげしくなり波もますます高くなり船体の動揺は甚だしい。船が蔚山(うるさん)沖を通過する頃船体の揺れは激しく左に傾き右に移り七転八倒しその上、天に飛ばされたような、さらには奈落の底に沈んだような勢いで、海水が甲板に流れる。海水は甲板から流れて室内に入り込んで凍る。一行の過半数の者が病気に罹ったようにうめき声を上げる。夜が明けて全員が茫然自失していたとき、女客が抱いていた幼児が悲鳴を上げてお乳を欲しがり泣き叫ぶ。船に砕ける波に乗じて遠く響き渡る様に聞いてすさまじい。まさに例えようもない。
ここについて思うと私の命はお終いと思うと共に自然の驚異には驚いた、加えてじっと深く考えると死ぬ事は簡単で生きることは難しい、人一度死んだら二度と生まれてこない、そうすると死を待つことは愚かな事だ。佳いことは自分から進んで事を行い、方法を尽くして結果を得る事だ。
この状況から皆と相談の上船長には諮り船の航行を止めることにして3名の委員を選び(私も委員の一人になる)船長室に行ってから甲板に上がる。甲板一面に張り付いた氷をとる。風は相変わらず激しい。しかし歩行が困難なので船室に戻り各委員に告げると、各委員万事休すと言う。各自が腹を決めなければならない、それ以外手段がないとわかり呆然として声を出す者もいない。その時今度は突然船が当たり響き渡る。これを聞いた一同は南無阿弥陀仏の声を出す。船は航行をやめる。しばらくしてボーイが来て言う。
「波も風も激しくて航行困難にして、避難のためここに仮泊します」と。船客は続きざまの船の響きに船が砕けるのではないかと脅える。苦心惨憺としているこの時間は午後10時を指している。翌午前5時風波やや穏やかになり船も航行を始める。進行に先立ち船長が言うには「これから元山港に向かいますが、途中には適当に避難する場所もないので、風や波があっても我慢してください」と言う。この言葉に何か死の宣告を受けたように思えた。しかしながら幸いに次第に風波もおさまり一同しばらく安心する。ところが午後1時頃風が吹き出し、刻一刻波が高くなる。前日と様子が違う状況に後藤氏は元山港に着く間、船に酔ってしまい船室にはいったまま弐昼夜食事をとらず、励まそうにも猛烈な寒さには手がつけられなかった。

翌22日午前3時に目出度く元山港に入港したが誘導船がなかったので、夜が明けるのを待ち、その間上陸の用意を整え、迎えの船に便乗し波止場に着く。一同体力の消耗に加えて北韓の有名なアラシに遭遇し、5時間の自由を失って上陸したので足裏が痛く、メタルがついているような感じで「脚気患者」のように歩行する。なかには這いずって人に助けられている人もいる。やっと3、4丁先の大和旅館の休憩室に駆け込み暖をとる。直ちに女中に言いつけて酒の用意をさせ、元山名物の牛肉でお互い一献する。酔いが回ってこれまでの苦労が飛んでいったようで、万歳を唱える者もいる。笑っている者もいる。釜山、元山間は普通
は一昼夜の海路であるが、4昼夜も掛り困難であったので仕方ない。
翌23日故国に手紙を書き、途中いろいろな辛酸を舐め睡眠も食事も満足に取れない日々であったことを知らせる。しかし最も親愛している後藤氏とこれから別れなくてはならなくなる。そこで互いに盃を交わしてお互いの健康を祝し、励ましあった。離合は男子の常とは知りしも、決別は亦一倍の怒惨を極める。
同氏を見送ってから我々3名は市内を観光する。元山は釜山に及ばないが発展していて北韓第一の都会と言える。元山以北の物資は皆この市から行っているので商業の発展は驚くほど盛況がある。日本人の商家も多い。郵便局、新聞社、回漕店、高級旅館、日本人や韓国人向けの家屋賃貸屋、それに理容店もある。日本人家屋約千余戸、労働者は約一千人、韓人家屋は約三千人、支那商家は10余戸、市の中央には元山公園もある。そしてその中央には大神宮社があり、傍には我が皇太子殿下のご結婚を奉祝した碑がある。その市の西を見ると
眺望もよく、高い方には日本人の別荘がある。更に建設中の家屋も多く、その他種々の事業も振興している。港湾には大小の島々が点在し、波穏やかな中に見える帆は恰も神奈川県のの名勝たる逗子海岸を彷彿させる。
元山市の交通の便は、今は劣っていて発展の度合いは釜山に追いついていないが、今は東元鉄道施設の企画中ときいて、竣工の暁には、急速に進歩して釜山を凌ぐ都会になると思う。
一行は数日の静養をとって気持ちも新たに、健康も回復したので26日出航の小汽船慶宝丸で出発する。この日は風も波も穏やかでその上、当地の回漕店の特別の好意で乗船できたので不便もなく最も平穏に30日午前6時に鏡城を出てから半里の小港の清津に着く。その間の海路は直行すれば一昼夜で到着するが、貨物が多かったので日数を超えてしまった。それから韓人の船に乗り上陸したが船賃の支払いや、荷物の運搬のため牛車を雇い入れるのに言葉が通じない。手振りで説明しても話が通じない。筆談をしても韓人は無学なので更に理解できない。進退窮まってただ突っ立って左右をキョロキョロするばかり。何とかして日本人を探し求めて海浜で待つこと一時間あまりにして鏡城守備隊の巡視2名がきたので、これ幸いと兵士に事情を話し通訳を頼むと一人の兵士が何とかやっと通訳が出来たので、船賃を払い牛車を雇って午前10時に鏡城支部に行き、着任届を出して任所の辞令を受け出発の命令を待つ。
午前10時に召集を受け元警視庁の警視の訓辞を受けさらに旅費の概算払いを受ける。明日元旦で拝賀式を挙げるため、一同の休暇は許され翌2日に出発することになる。予定がわかったので急いで宿舎に帰り静養しようと我々一行に割り当てられている宿舎に行くと、空き室があるというだけで何も整っていない。隣の部屋に先着している者に聞くと「我々も到着前は鏡城に行って先ず一ヶ月間位は下宿して、その間に自炊の器具を買い求め、それから自炊生活を始めようと考えたところ、予想に反し当市は旅館や下宿屋はないとのことなので日常は困難します」とのこと。暫くしてからコンロ、鍋や釜を買い求め、ただ命だけ助かればいいと考える。我々も自炊することに決めて、橋詰氏はコンロ、小生は炭と米、野田は副食物の購買に各方面に行く。なんとか副食物と米は確保できたが、コンロは品切れとの報告で、それ一大事と全力で市中を必死に探しても、遂に探し出すことができず、相談の結果飲食店を探すことにする。当鏡城は守備隊司令部の所在地で韓人の店は7軒、日本人の店約10軒で北韓中では繁盛している場所といわれているが、日本人の飲食店はしるこ屋とウドン屋の外はない。しるこ屋に入って一時の空腹を満たす。
明けた元旦はこのしるこ屋に入り、新年の祝いを挙げようと3名は早朝寒気を衝いて急いでしるこ屋に行くと、門が閉まっていて本日休業の張り紙がしてある。これを見た我々はがっかりしてしまった。嗚呼、目出度い元旦は我らにとって最も悲しむべき元旦なるか、今日は断食になるのは仕方ないと悄然として宿舎に帰り、このことを隣の部屋にいる大阪府の内原部長に話すと同氏は私たちに同情して餅を焼いてくれて、そして牛の缶詰を開けて、その汁で雑煮を作り、味醂酒を2,3杯私たちに馳走してくれた。私は内原部長の好意に感謝してこの饗応を受け私の40年の元旦を祝した。これは終生忘れることができない記念の元旦である。
翌2日午前8時に橋詰氏と残念な別れの挨拶を交わし積雪を踏んで出発する。昨日の未明より降雪は厳しくて、一歩一歩あるくけれど雪は深くなり風亦強くなり鼻毛も凍り襟巻についた雪が凍る。手の指も足の指も自由を失い困難をした。このような空気は到底予想できない。従って半里か一理程度で民家に駆け込み暖をとりつつ鏡城を出て5里先の輪城に到着する。この地は守備隊兵員の外一人も内地人は居なく小村のため韓人経営の旅館にはいる。私は韓人の家屋に泊まり韓人の賄いをするのは、初めての事である。家屋の構造は内地の家と同様で、壁は牛糞で作られている。一方空気の出入りが悪い、そして部屋は狭いため不潔汚辱で話にならない。従ってゴミ捨て場を見てしまうと飲食物が一種異様な臭気を出して味噌汁のような糞の臭いがする。食器はだいたい銅器のものを使っている。洗浄は不十分で酸化している。そのため一面に青色が付いていて見ると嘔吐を催してしまう。到底これを口にするには勇気が必要だ。遂に私は途中買って持っていた朝鮮飴をミルクに溶いて呑んだ。私が感心したのは家屋の床にあるランドルで、窯に火をたき蒸気が床全体に通じて、恰もムロにはいったようで、毛布一枚もあれば充分安眠が摂れる装置で、この部屋も格別暖かい。
翌3日輪城を出て7里、富寧村に泊まる。当地は輪城村に同じに守備隊兵員の外内地人3名で韓家屋式180人あまりの小村である。当地は日露戦の際、北韓軍の激戦地で付近には “我忠勇将士を葬れる墳墓あり”との碑があり、さらに新たに英名でもはっきりと記されている。互いに戦場で散った両方の兵隊の碑である。
嗚呼、何時もめったに会えないので参ることが出来ない。そればかりか戦死した当時の事を思い出すと残念でならない。英霊に対し記帳して去った。
翌4日守備隊の軽便鉄道(トロッコ)を借りて6里20丁奥に入った宝山村に行き泊まる。この土地は山間の僻地で守備隊兵士のほか、内地人はいない。また韓人経営の宿もないので守備隊の兵舎に泊まる。
翌5日午前9時に軽便鉄道(トロッコ)で宝山村を去って次に会寧に午後2時に着く。富寧から会寧までの道程は12里、山また山で徒歩だと4日かかる。もしトロッコを使用すれば2日でこれる。幸いに会寧は韓国の中では鏡城と大体同じくらいの都会地なので日用品もおおむね揃っているので商業は盛んである。韓人人口は4200余人、日本人の商家は10数戸、西洋料理店もある。今後内地人は増える見込みがある。役所、郵便局、電信局、憲兵隊分駐所、第13防空司令部、工作大隊、その他に小料理屋もあり芸妓5,6名、売春婦30余名もいて市内は大いに繁盛している。又当地は軍備上では韓国の枢要の場所なので東西南北の各門には速射砲5門を備えていて警備は厳しく、戦時中のように思える。
去る明治37,8年の日露戦争の際、露兵が富寧の戦いで敗れ、予定通り退却して豆満江を渡って陣地を築いて後方の兵士を集めて、我国の韓軍を撃退しようとした時、我が韓軍は大軍で一挙に露兵を撃滅せんものと豆満江超えて互いに戦闘を開こうとしたとき、休戦の命令が下りここで戦いが出来なかった場所であり、最も記念すべき土地である。
この地において、我々一行は久しぶりに日本食を味わい、酒を交わした。翌6日徒歩で〇寧(5里)に泊まりその翌日7日午後6時に鍾城に到着する(8里)。当鍾城は西豆満江を隔てて支那吉林省にたいし北は8里余りで露境に接し、東方は18里にして日本海の達する。
(鍾城群豊海という処この海岸からは露国の港も見える)そのような土地で全市は土の城壁に囲まれ東西南北に4門の速射砲が備えられている。中央には三層の楼閣があり、その傍らに武器庫があって数百年前の兵器を数百種類も保存してあり、聞くところによると当地に昔鎮守隊の所在地で隆盛を極めていた処であった。本市の総戸数は450で、人口4900で皆農業に従事している。商店二十戸、(韓人は日用品のみ販売)で会寧以北の都と言われているが、日本人は守備隊兵員25名、それに郵便局員守備隊3名それに我々と同じ警察員5名だけで寂しい。これを耐えるにも日用品不足では大変困難である。守備隊酒保には、酒、茶、巻煙草、砂糖、ビスケット、菓子の外は何も無い。品切れなにれば2週間はかかる。
当郡内はほどほど日本人も入っているが、土地の人は身体は強いが頭は悪い。しかし土地の人は日本人の警察官は尊敬している。それは日本警察官が公明正大であることを知っているからである。一例を挙げればまさに当地方の郡内の守りで品格があり、外敵にたいして昔の御大名のように威張らないからである。
今や内地は梅花が散り、桜が咲き出した好季節になったと思うが、当地は禿峰の山々で目を慰めてくれるものは未だにない。只豆満江の岸辺にある数十株の揚柳があるのみで色はなく香りもない。気温は今頃の時期で平均零下5度、1月で最も酷烈で零下30度になる。降雪は割合少ないが寒風は強烈に強い。飛ばされてきた物(流動物)は凍ってしまう。
しかし韓国には寒さを凌ぐ装置が整えられているので、室内に居るときは毛布一枚で安眠できる。物価は著しく高く、米は一升30銭内外を上がったり下がったりしている。石油一合5銭、マッチ一箱1銭、醤油一合5銭、炭一貫15銭、大根一本(日本のかぶと同じ)5,6銭、朱墨、菓子、(煙草は安い)、巻煙アサヒは4銭、砂糖は守備隊より払いを受けるので、内地と大差なし。また安い物は鶏一羽(内地にて5,60銭のもの20銭)。総べてが高い物価であっても、午前10時に出勤、午後4時退庁であれば、毎日2食で充分である。韓国式では、宿舎には給食もあり、沐浴は守備隊にて〇で、散髪は同所でやるから、内地でやるより静養がとれるから、一ヵ月8円アレバ充分なり。こんな経験も毎月出張で旅費が7、8円入れば物価が高くても、冬寒くても困難でない。
只慰であればよいが韓国の家庭に生まれたらそれこそたまらない。
明治40年3月吉日  記入  鈴木正忠(えんだんじの祖父)
「千葉氏の解読文、後編引用終わり」

コメント

「渡韓紀行」(前編)、明治40年作

「渡韓紀行」の千葉氏の解読文は、前編、後編に分けて全文を公開します。
前編引用開始
「平沼停車場を離れたのが明治38年12月10日午後8時12分、途中国府津停車場で先に約束した小田原警察の石井利之助氏と会う。その夜激しいと思っていた寒気が予想に反して暖かった。二人して平沼停車場から同乗し、横浜満代町の果物商田代某や外国帰りの労働者5名と一緒に雑談して一夜を明かした。
翌11日午前11時20分に神戸についた。停車場前の旅館八国屋に投宿して、夜来の労を慰めようと一献を傾ける。午後三時に後藤氏が来たのでお互いに喜びあう。午後5時夕食を終えてから市内観光しようと外出。数年前にペストが発生して猛烈にはびこった栄町の後を思い出し、その状況を視察しようと後藤、石井氏を連れ、栄町に行き精密検査をして見ると、この町は海岸通りの裏町で横浜市の南仲通りよりも道路がせまく混雑している。左右大小の回漕店が軒を並べ土塀貸庫店多数ある。その間に介在する貨物の出入り船、仲仕人、大勢の来訪者で混雑している。これに隣は有名な不潔部落の支那街や労働者の家屋がある。これらは横浜市内に類似している。中央倉庫前三吉町の全部、南東町あたりは不潔汚臭が甚だしい。
よって倉庫なるものは中央倉庫のように完全で、概して壁に亀裂あるいは欠陥がでないよう、そうでなければネズミの出入り自由になる。中にはごみを介して異臭を放ったりも多い。その他水が不完全で街路清浄が行き届いていない。これには驚いている。ネズミの買い取りは聞くところによれば、所、課は形式に流れてこれの励行が欠けていて未だ実現しないことは如何に病気が発生しなくなるのか、またこれを予防しなくてはならないのか、実情を見て考えさせられた。嗚呼、その責任を誰がとればいいのか各位の判断に任す。ここに視察終わる。これより市屈指の繁華街を極める元町通りに行き、野菜や魚の売り出しのために各戸提灯を吊るしている。景品を進呈する女性売り子たちの景気のいいイラッシャイの声はいさましい。これより真行停車場前鉄橋を渡り多門通りを行き湊川神社にお参りして私たち一同の前途の幸福を祈る。帰路に就いた時途中分かれた後藤、石井氏の」両氏に会い、これからどんな旅情の道のりになるか私が書きましょうの提案に後藤氏も石井氏も大賛成してくれた。後藤氏の勧めで寄席に入り旅情を慰め午後11時帰還就寝する。
夜間深々、周囲さびしく、四面声はなし。夜半寂しく胸にせまってくる。本市の警察は保安警察として威厳を感じた。一、二の例をあげると雑踏取り締まりのような酩酊者保護について実に親切丁寧にして言葉をかけている。その職務の執行を見ると真に立憲治安警察官と思った。某県警察官のごときは概して粗暴豪放で本市に遠く及ばない。神奈川県警察界はウブの声をあげたのだからともに成長したのか、こんなこと書きたくないが、人としてふるさとを思うと気が気でない。故国の制度等を思うと依然見過ごすことはできない。嗚呼、いつの日か私のふるさとである神奈川県警察官吏の前途を祈り、深く手を合わせ今夜寝る。
東天紅に及ばず寝てしまい後藤氏の鈴木君起きろ、起きろの声で起きると8時を過ぎている。商船会社に行き出向時間を確かめてみんなを呼び起こす。嗚呼、もし忘れたら怒っただろう。急いで船会社へ行き支局の橋詰氏と会い、一緒に便船の出帆を聞くと、本日午後3時であるとの話なので帰館する。諸々の品物を揃えて正午商船会社に行き待っていたが5時になっても出帆しない。どうしたのかと聞いても,船客係員は「本日は出航しないで明日午後1時に延期する」と言うのでそのままここに滞在する。

翌13日午後商船会社に来て3時に乗ろうとすると、例のごとく案内人がいない。今日出帆しないと予定の16日中に釜山に到着できない。どうしようかと相談し、何はともあれ船客係に相談しようと事務室に押し掛ける。本日の出航については勘弁するけど、どうして説明がないのか、我々一同は、官の命令を受けて期間を定めて渡韓するものである。本社は何のため定期の出帆を延期してまた延期するのか、聞くところによると、本社は旅客の定期出航についての掲示やあるいは新聞紙上に出しておきながら、いろいろ理由をつけて延期している。私たちは大変迷惑している。公衆のために厳重に訴えた。私の厳重な抗議に恐れたのか支配人がやってきて、穏やかに、「本日出航のはずでしたが、出航間際に汽缶が破損したので延期することにしました」と。どうしてそう言わないのか、弁解もない。一夜の宿料と
汽車賃は本社で支払うと頭を低くして言うので受け取る。しかし、我々は宿泊料や汽車賃が欲しいために言っているのではなく、今日出航しないと予定の期日に到着しなければならないのだと言っても一向に埒があかない。どうしようかと熟慮していると、一人の客引きと思われる男が駆け寄り、「只今釜山直行の船があります、乗客はおりませんか」と呼びかける。これを聞いた我々は釜山直行の船があるとこれは夢でないのかと喜ぶ。早々と談判してお国の一大事と急ぎ駆けつけ、乗船の約束事を決めて切符を買う。先に商船会社より一泊の料金を受け取っているので用意を調え午後5時に乗船する。船名は幸光丸。われわれ一行前途を祝す。まさかこんな事になろうと考えていなかったので上喜する。

かくして神戸からの同船者は、統監府巡査、徳島県一行4名、大阪府1名、神奈川県大川村の農家1名、東京市の者2名、北海道の農家5名、大阪の淫売婦3名、京都府の淫売婦2名に我ら4名を加えて計23名で仮の家庭を作る。そしてお互いに胸襟を開いて語り合い、各自それぞれ好きな食事をしながら酒を飲む。且つ歌や剣を使った踊りもあり、義太夫、長唄を謡う者もいる。皆が船中に居ることも忘れ、大いにもりあがり陽気になった。一同は夜の更けるのも知らず眠りについたのは午後2時ごろになる。
明けて14日未明、甲板に出てみると空には一点の雲もなく海面も穏やかで、西方をみると漁船の帆もみえる。今は名高い明石沖を航行中で遠く仰ぎ見おれば諸々の峰が霞に反射して美しい。近くを見れば魚の鱗がきらきら反射して岸を洗っている。鳥は波間に眠っている。天然の美しい絵画を見ながら甲板の離れ船室に帰り朝食をとり終わった時、突然船が止まり、水夫たちが碇を用意する。船員の言う門司入港は検疫を終了しなければ入港できない、さらに夜中になった時は検疫を行わない。そのため入港時間を調整するため当地に停泊する。よって翌15日未明、検疫するための何らかの方法を執るのかと待っていると午前8時にボーイが駆け込んできて「只今検疫するので皆さん甲板に上がってください」というのを聞いて、他人を省みず先立ちて甲板に上がると、検疫船が来ている。検疫船が来ないので今までに到着を待っていた本船の船長が出向かい検疫船の船長に対し「乗客は何人か」と問われた船長が「全部で22名です」と答える。検疫官は「よろしい」と言って本船を離れていく。その簡単な非常識な態度には私は驚き呆れ無責任な対応に呆れた。嗚呼、門司検疫官は只船客の人数を聞いたのみであった。無用の検疫所を設けるとは国家のために大いに研究すべき問題と考える。
まさに形式的な検査を終えて船は直ぐに進行を始める午前10時に門司に入港する。出航が午後8時であったので橋詰さんを誘い一緒に船を雇い上陸し彼と共に市内の観光をした。本市の面積が広く、市中及び港の内の繁盛さに実に驚いた。加えて天然の風景は横浜港に遠く及ばない。午後3時に小舟の帰船のあと出航を待ち予定通り午後8時に出航する。乗客達の中から今夜10時頃玄界灘に近づくので波が高く厳しくなると言う人居て乗客は皆それぞれ覚悟してお互いに励まし合う。そして一同、一人も声を出さずに就寝する。通常玄界灘は時化で苦労すると聞いたところだったので、それなりに経験からその用意はしていた。
しかるに、天幸なるかな、風もなく波も穏やかで、船に乗ったのは横須賀で乗っただけで経験が無く怖いと思っていたので、玄界灘が穏やかに無事に過ぎたことは有難かった。翌16日午前8時24分釜山に入港する。しかし検疫終了後でなければ上陸できないので一時間余り待ち、健康診断を終了して上陸する。上陸する前に同署税関で貨物の検査がしてあり、指定の宿所である市第一の釜山ホテルに入る。我々一行の居室に当てられている階は50畳敷きの広間だった。我々より先着の諸氏70余名は任所への出発の準備をしている。傍らの別属は酒を飲みすでに酔って歌を歌っている。上の階も同じように酔っていて騒々しい。妻子連れが18、9名がいる。諸氏は皆勇気爽快で殆どの者は韓国を飲み込んだ意気で、態度が大きい。韓国警察の啓発は我々の手にありと豪語している。
一行は昼食を済ませ午後一時本部員の出張所がる釜山理事長警察署に行き着任届を渡し、任所に辞令並びに旅費を受け取り被服その他の点検があり、永内警視の訓示を聞き午後3時に帰館する。ここに辞令収受を受けたとき、目に印象に残ったこと言うと我々と同じ日に辞令を貰った70余名のひとたちは部屋の中央に掲示されている朝鮮全図の明細を見て辞令とその場所を確認して、自分の任地がどこなのか見て喧しくなった。
(70余名は場の中央に掛った朝鮮明細地図に対し、辞令と照らし我が住所は何道なるやと喧しや)しかし南鮮行きの辞令を貰った者は大変得意顔になり、北鮮行きの辞令を受けた者は、意気消沈してあちこちから嘆声が漏れてきた。嗚呼、我らの希望は京城か、もしくは釜山の南鮮かと以外であった。独り言を言う者もあり、また辞令を受けたくないため嘆息している者もあり、お互いに話あったりしている。笑う者、泣く者、共にいる。
某県の人は北韓の咸鏡北道:咸興支部の辞令を受け、その辞令を見た瞬間、大声を出して「咸鏡北道に行かされたら死んでしまいますので、他の方面に勤務を変更してください、お願いします。」と泣き出す。他にも住所を変更してくれるよう申し出るものがいた。しかし本部員との話し合いで渋々任地に向かった。その人を推薦した人は恥をかいたことになり、同情せざるをえない。その故、なんとなれば、南韓地方は気候温暖で交通機関は発達して、僻地と言っても日用品の不便は感じないし、物価も安い。これに反し北韓は寒気酷烈にして交通不便でありこれに加えて物価も高い、その上僻地に行けば、米、麦を得ようとしても不便である。私は到着も遅れていたので最後に辞令を貰うことにして咸鏡北道鏡城支部の辞令を受けたところ橋詰氏と同じになる。また後藤氏は咸興支部の辞令を受けることになりお互いに北韓の任地になり、そこは北韓の端として露国浦塩(ロシア領ウラジヲストックーえんだんじ記入)に近いので驚いてしまった。私だけでなく後藤氏も橋詰氏も共に驚く。しかし如何に落ち窪んでも救いようがない。お互い文句もいわないでホテルに帰る。帰ると南韓にいく諸氏達は皆「お気の毒ですネ」と挨拶して私たちを迎えた。今にして思えば後藤氏より私のほうが恵まれている。尚今回は韓人の諸氏は皆京城付近かまた釜山付近に勤務するのが多いように私は思った。しかるに之に反して概して日本人は、日本人が足跡を付けた僻地に配置したようだ。これは思うに今後の応募者は一層僻地に配属されるのではないだろうかと思えた。どうしてかというと駐屯地を多く配置するためだろう。
我々は帰館後便船について聞いてみると明後日18日であるので明日17日ここに滞在することになる。石井氏は海州支部仁川付近のため出発の命令を受けているので健康を祝しあう。三名で市内を観光する。実に当市は内地で想像するよりもはるかに繁栄している。日本家屋だけで3000軒、人口三万、劇場もあれば寄席もあり見世物小屋もあり料理屋もある。これらは皆内地人(日本人)が経営している。弁天通りに立つ家屋の構造も冴えていて賑やかである。雑踏も極め、ここはちょうど伊勢佐木町に似ている。海岸通りには白衣がたむろしている(内地では人夫と言うがこちらはチゲと言う)チゲは波止場に集まって貨物の運搬をする。また中にはタバコを口に銜えながら道ばたで食べながら巻きタバコ売っているものもいる。これにより同市の北端の韓人町に行くと数件の商売屋があるが日本人に売る店屋で品物が少なく活気がない。そのほかの韓国労働者は商業で内地人と競争してはならないことになっている。したがって富を得るのは日本人ばかりで韓人は貧乏人になっている。いかに被亡国の民と言ってもその状況を目撃するとその気概を喪失させていると思わざるを得ない。ここの視察を終えて帰館すると丁度夕飯の時間で女中が膳を進めてくれたので見ると内地では容易に食べられない贅沢な膳なのに驚く。私の友人の野村氏が京城で一泊してその時の宿泊料を思いだして、コッソリ宿泊料を聞くと当ホテルの宿料は普通弐円50銭以上になるが理事長の交渉で特別に昼付きで弐円と聞いて、急に食堂に飛んで行き一椀一椀お代わりをする。弥次喜多の旅を思い出し面白かった。ここではどんな料理が出たかといいますと、鯛の刺身とぶりのテリ焼き、それ添えられた筍とサヤエンドウ豆、酢の物は内地ではやたらに食べられない大きな蛤にウド、またスイモノはボラの切り身にモヤシ、酒の肴には申し分ない。内地でも2円以上の宿料を奮発すれば可能かもしれない。
いわんや生活が苦しい当地では理屈に合わない、
釜山は魚類の安いところで内地に比べ2円内外の鯛でも20銭出せば容易に買うことが出来ると聞いて、ここで初めて宿料が安いのがわかった。その他の物価は内地より高いものも安いものもあって平均すれば特別高くもない。気温は横浜市より釜山の方が暖かく感じられる。今や同市は各種の事業大いに振興し日に月に発展しつつあり、将来横浜を追い抜く勢いである。」
前編引用終わり(後編に続く)、後編は来週11月24日(土)に公開します。

読者には祖父は咸鏡北道鏡城支部の辞令を受けたことを覚えておいてください。これがあとで説明する祖父と妻子(2人の幼児)がソ連領ウラジオストック滞在の海外旅券、大正5年(1916年)につながる話です。咸鏡北道とは日本統治時代の朝鮮の行政区画の一つ。現在の北朝鮮の咸鏡北道。

コメント

「渡韓紀行」、明治40年作

私の祖父、鈴木正忠は私が生まれる3年前の昭和10年に68歳で死んだ。そのため私は祖父に会ったことも話したこともありません。祖父は越後の国、村上藩(新潟県、村上市)の下級武士の一族であった。豊臣政権下1958年に村上氏が当地に入った。1618年に改易になり、譜代、親藩の大名が次々と変わった。江戸時代に内藤家が5万石大名として入り以後9代の内藤家が継ぎ、戊辰戦争で村上藩は悲劇的結末をむかえた。家老の跡継ぎである鳥居三十郎は19歳で家老事務見習いとして江戸の村上藩邸に入っていた。戊辰戦争が始まると村上藩は幕府を助けるべき奧羽越列藩同盟に参加した。しかし新政府軍が接近してくると藩論は、抗戦か帰順かで統一できなかった。帰順派の藩主、内藤信民はこれを苦にして自害。村上藩は大混乱に陥る。この時鳥居三十郎は抗戦派藩士約200名を引き連れ村上を脱出、北の庄内藩に合流した。羽越の国境、鼠ケ関で政府軍との交戦中村上藩の両陣営が相戦う場面が発生している。
戊辰戦争終了後、三十郎は戦犯として東京に送られ、取り調べ後に死罪が言い渡された。やがて処刑のために身柄は村上に送られ、安泰寺に幽閉された。藩内では三十郎の処刑に同情が集まり、村上藩は斬首という政府の命令を無視して安泰寺に切腹の場をもうけ、抗戦派藩士として三十郎とともに戦った山口生四郎が介錯をつとめた。享年29歳。

私が参考文献で「中島欣也、武士道残照(鳥居三十郎と伴百悦の死)恒文社」を読んでいるとき、万が一にも私の曽祖父、鈴木越太郎、そして村上藩の名前を全国的にしてくれた皇太子殿下、雅子妃殿下の小和田家の名前が出てくれるのでないかと期待したが、ダメであった。定年後(平成14年)私は家内を連れて我が先祖の出身地、村上市を訪れた。市役所を訪れたとき、小和田家は剣道指南役の下級武士と書いてあった。
鳥居三十郎の辞世の和歌:
「淡雪と ともに我が身は、消ゆるとも、千代万代に 名をぞ残さ武」
述懐の歌:「去年の秋 去りにし君の あと追うて なかく彼の世に 事うまつらむ」
     「五月雨 濡れる我が身は 惜しからず 御恩の深き 君を思えば」

三十郎が切腹したとき若干29歳。妻子、奥方(じゅん)と一人娘光(てる)5歳が残された。二人とも長生きして、母(じゅん)は昭和七年、86歳で、一人娘(てる)は84歳で昭和24年に没した。我が祖父、鈴木正忠は、昭和10年に68歳で死んでいるので、逆算すると三十郎が切腹した時が2歳。私の想像では明治時代以前なら身分制度が厳しくて一介の下級武士が家老の奥方やお嬢様には会うこと難しかったかもしれないが、明治に入って四民平等ということで昭和の時代には、祖父は娘のてるには会えたのではないかと私は想像しています。
鳥居家は家名断絶となったが、明治16年(1883)に家名は再興された。抗戦派の武士、鳥居三十郎だけが切腹し、全責任取ったので生存した抗戦派武士は全員助けられたから、鳥居家の再興は、大いに歓迎された。昭和43年(1963)7月20日には新潟県村上市安泰寺において鳥居三十郎先生100年忌法要が行われています。
ところで戊辰戦争中、政府軍と戦った多くの東北、北陸の武士たちやその子孫たちの多くが日本軍に入隊あるいは警察に入った。我が祖父、正忠は、若い時東京に行って警察官になった。そこで我が祖母、テイは神奈川県秦野市の歯医者の娘、日本赤十字社の看護婦になっていた。当時、東京の日本赤十字社の看護学校出身の看護婦は、看護婦のエリートと言われていた。二人は結婚し、長男、次男、三姉妹を設けた。その長女が私の母です。私が高校生の時、母から我が家は新潟県の村上藩の下級武士の出と初めて聞かされた。その時祖父の遺品、三つの書類が私に渡された。私たちは神奈川県の川崎市に住んでいた。私は4,5歳のころ父の実家の富山県に疎開していた。川崎では両親と私の妹と祖母の四人暮らしだった。祖母は昭和19年4月に59歳で死んだ。これが鈴木家にとって幸いだった。翌年の20年4月4日のB29による最初の空爆、4月15日には最大規模の大空爆を受け、実家と鈴木家の持つ数件の借家は完全に消失した。昭和19年祖母の死、昭和20年の川崎大空襲までおよそ一年間が川崎脱出期間をあたえたのだ。脱出先(群馬県草津市、父親の勤務先、日本鋼管の下請け工場寮)に両親は私の幼児妹一人を連れて逃げ出していた。その時祖父の遺品、書類三つを持ち出すことができたのだ。さもなければ大空襲で消失しまっていたのだ。その意味でこの書類は重要だったのだ。その三つの書類とは、
1.昭和天皇と香淳皇后との若夫婦の家族団らんの集まりの写真です。今上天皇が小学生で写っています。私より年配のかたは、集まった皇族家族全員の名前が言えるでしょう。

2. 大正5年4月22日発行の日本帝国海外旅券
祖父、正忠は46歳の時妻、テイ33歳、長男4歳、次男3歳を引き連れてソ連領、ウラジオストックに出張滞在しているのだ。このパスポートについては「渡韓紀行」の説明が終わった時点で詳細に説明します。

3.「渡韓紀行」
この書類は和紙でできた便箋で一行の間に細い毛筆の崩し字で二行が書かれて非常に読みにくく、母に渡された時は、高校生だったので全然読めませんでした。成人してからたまに取り出してよんでも、全然読めず、タイトルの「渡韓紀行」という字すら読むことができなかった。誰か専門家に解読してもらわなければだめと机の奥深くにしまいこんでいた。ただこの書類の最後の文章は40年3月吉日とかいてあるのは読めた。明治40年3月のことでしょう。この書類のタイトルが「渡韓紀行」と解読してもらったのが、私の定年後です。神奈川県庁を定年退職した人が古文を読む勉強していたので解読してもらったのです。解読分全部もらっていますが、同時に解読者が書いてくれた「解読を終わって」のコメントをくれましたので、その全文を先に紹介します。

「解読を終わって」
引用開始
「明治時代に権力と公安情報を司る地位にいた人の書いた「紀行」であることに、非常な興味と期待をもって解読した。一通り通読をすまして概要を知った私はノメリ込んでしまって、正月の楽しみよりこの解読に熱中して、暮れから朝から夜まで取り掛かり、明けて平静16年1月3日に解読出来た。専門家でないので、完全な解読は不可能でしたが、楷書でなく昔の書体(この人は右肩上がりで丸字)と漢字が不鮮明で崩し字の字画が何画か不明で、辞書で検索出来ないものがありその部分は削除した。100年前の筆記で字が薄くなっているので拡大鏡を使って解決したところもある。相当に学識の高い人の文で、語彙が豊富で、センテンスは文学的で高度な表現力があり驚いた。一般の警察官だったらこのような記録は残すことが出来なかったと思った。旧漢字、旧かな使い、そして官命であったため役人的な高圧な意見も時に表現されているので、そのような部分は安易に解読して読みやすくした。
明治時代公安情報の収集に従事していた国家機関では、最も著名なものは内務省保局で、結社、集会、言論の統制が主であったが、これらの業務は保安課が担当するようになる。明治26年以降新聞、雑誌等の検閲は新設の図書課に移されている。この警察権力のことについて、紀行にも書かれているが神戸市の警察は親切丁寧と言っていて保安警察になっていると復命し、上司から欄外に赤字で「関西と東方とは違う」と書かれている。警官の態度についても「他山の一石」と欄外に書かれている。
原文にそって補足する。
明治39年12月10日から明治40年3月までの約4カ月間の紀行で、出発する12月は寒い季節なので、着る物も合わせ着で身体を保温して出かけたようだ。神戸に着いてから本番の具体的に復命が始まっている。
漢文調と旧漢字と自作の漢字
(例)音に名高い → 昔から有名な 
   観覧 → 観光  状境 → 状況  陰混 → 混雑  周壁 → 壁
   欠喚 → 欠陥  紀裂 → 亀裂  軒打堤 → 提灯  保度 → 保護
   意気傷沈 → 意気消沈  懇談 → 相談または話し合い
   醜業婦 → 淫売婦 寒国 → 韓国 須丁明石 → 周防明石 
   翠巒 → 青青とした山の峰 熨(のし)のような → 布をのばしたような
等、明治調の語句が多くみられた。
嗚呼という語の後は、必ず本人自身の率直な意見として、苦言、苦情、悔しさ、または褒め言葉が一節に纏めている。石井氏、後藤氏、橋詰氏と本人の4人が親友で共に苦楽を経験して、忘れることの出来ない旅行をした (荒れ狂うアラシの中で、一時は生死の世界をさまよった)ことを、後の子供に語り伝えるための「貴重な思い出の記」であったと思う。
平静16年1月4日 千葉昭」引用終了

私が高校生の時母から渡された祖父の原稿のタイトルが、平静16年にして「渡韓紀行」であることが初めてわかったのです。千葉氏が解読分を提出してくれた時、私は「えんだんじのブログ」を作成していませんでした。3,4年前に千葉氏が癌で亡くなられました。この時千葉氏の解読分を思い出し、私のブログに書こうとしましたが、大事な書類で机の奥にしまったまま忘れてしまいました。今年の夏、私は80歳になり、大事な忘れ物をしていないか机の奥を調べたらこの書類が出てきました。すっかり公開するのが遅れてしまいましたが、そのぶん新潟県村上市のことをよく知ることができました、定年後私は家内を連れて我が先祖の墓参りをしました。万福寺です。母も叔母(妹ふたり)実に立派なお寺だと言っていましたが。文字どおり素晴らしいお寺で特に庭が大変立派でした。下級武士の先祖のお墓として立派すぎるのではと言うのが私の見解です。祖父はこのお墓を小田原市に移したのですが、新幹線や飛行機のない時代、村上市で仏の供養するのが大変だったからと思います。
「武士道残照」という小説も私が元々知っていた本ではなく偶然ネットで知ったのです。出版は1990年8月で私のために出版してくれたような本で、このブログのために利用させてもらいました。
この文章のタイトル、最初から「渡韓紀行」と書いてあるのですが、細筆のくずし字で書いてあるので、誰も読めなかったのです。文章も崩し字で内容が何を書いてあるのか推測もつ
きませんでした。ただ最後のページでこの文章を書いた日付が「40年3月」と最初から読めましたので「渡韓紀行」の背景が浮かび上がってきたのです。日本政府は明治43年に韓国を併合、韓国の国号を朝鮮にあらためました。韓国併合といえば、朝鮮半島全体に日本人警察官を配置しなければなりません。文章ではそのことにも当然触れています。「渡韓紀行」は、明治40年当時の神奈川県県警の一警察官、鈴木正忠(私の祖父)が実際韓国に渡って書いた紀行文です。原稿は、冒頭右はしの上に大きな赤っぽい、橙色字で大きく「知事」と書かれており、右側左下には「石田」、「細川」ら数人の同僚の三文判が押されています。次回のえんだんじのブログでは、解読文全文を公開しますのでぜひ読んで見てください。











Comments (1)

えんだんじのブログ、10年目が終わります。

10年ひと昔といいますが、最近は時代の流れが速いので、10年と言ってもアット言う間の感じですが、それでもこの10年間のブログをじっくり思いだすと、10年と言う年限はそれなりに重みがあるものだと思います。私がブログを書き出すきっかけになったのは、私の著書「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の出版社、碧天舎の倒産です。本の売り出しは予想に反して好調で2004年7月に売り出してから11月には、私に生まれて初めての講演依頼(90分の講演と30分の質疑)があり翌年に1月には靖国神社で講演し、その縁で靖国神社の本屋さんでも販売してくれました。販売開始一年後、2005年7月には二刷り目の1000部が販売されました。ひょっとするとベストセラーになるかもの夢を抱きました。しかし2刷り目発売後半年ぐらいで碧天舎が倒産してしまいました。ちょうどそのころ私の二冊目の著書「原爆正当化のアメリカと従軍慰安婦謝罪の日本」がもうすぐ碧天舎から出版の予定でした。私は碧天舎の債権者の一人になってしまった。私も債権者の集会にも参加しました。ある時相模原市在住の女性から手紙が来て、当時日本では最大SNS、ミクシー(mixi)に「碧天舎の会」を立ち上げたので参加してくれとの依頼があった。私はミクシーという名前は知っているが何をどうすればよいのかさっぱりわかりませんと答えた。当時ミクシーに入会するには、ミクシーの会員の紹介が必要なのでその相模原の女性が紹介してくれ、彼女が日記の書き方、返答に仕方などをメイルのやりとりで教えてくれました。それ以来私は、ミクシーに色々なことを書き始めました。半年か一年ぐらい書き続けると、それを読んでくれていた仙台のGさんが「鈴木さんの日記は、内容が良いからミクシーの日記ぐらいではもったいない、自分でブログを書いたらどうですかとの提案があった。私は自分のブログの書き方など何も知りませんと伝えたところ、仙台のGさんがそれでは「私が作ってあげましょう」といって無料でブログが書けるFC2のブログの書き方を教えてくれました。以来二、三か月、或は半年ぐらいFC2のブログを書き続けていましたが、西尾先生のブログを見た時、自分でも私自身のブログを持ちたいと思い、仙台のGさんにお金を払うから自分自身のブログを持ちたいと言ったところ「私が作ってあげましょう」と言って、最初に書いた、えんだんじのブログのタイトルが「カントリーファースト」2008年10月13日です。以来Gさんは、私のブログ管理人になってくれ今でも私のブログの管理人になってくれています。ブログを書き始めた一年間は毎週の土曜日にブログを書き、次の年からは毎月二週間おきの土曜日、すなわち月二回のペースでブログを書き続け今回で毎週土曜書き続けた1年間と合わせて合計10年間書き続けました。書いたブログの記事数は、アーカイブとしてブログ上に残っております。書いた全記事数は306通です。この中から良い記事だと思うものは取り上げて一冊の本にしようと思っています。

えんだんじのブログは、私がミクシーの会員になり、ミクシー上に書く日記として登場したものですから、えんだんじのブログとして独立して公開されてもミクシーにも公開していましたからミクシーの会員から数多く読者が読んでくれました。またその頃ミクシーの全盛期で、20歳前後から30代、40代、或は50代前後若い会員が圧倒的に多かった。また私の毒舌的な文章も反感を買ったり、また逆に受けが良かったり、色々なコメントが来るのでその反応を読むのが楽しかった。その傾向が一転したのがアメリカのフェイスブックの登場です。猫も杓子もフェイスブックの会員が増えました。ミクシーの会員たち軒並みフエイスブックの会員になっていきました。ミクシーの会員たちは正式にミクシーを退会しなくてもフエイスブックの会員になれますので、私の知っている古い会員たちは、えんだんじのブログを公開する度に読んではくれませんが、思い出したように私のブログは読んでくれていることはミクシー上で知ることが出来ますので、私の慰めの一つになっています。あれほど日本の若者の人気絶頂にあったミクシーがフエイスブックの人気に圧倒されるとはあまり気持ちのいいものではありません。また私はこの夏80歳になりますので、高齢者の私のブログファンが更に年を取り、あるいは亡くなられたりして、私のブログへのコメントが突然途絶えたりすると、病気の重症化、あるいは死を予想したりして気持ちのいいものではありません。全体としてえんだんじのブログの読者数は少なくなって当然なのですが、私のブログの管理者によると、私のブログ読者数は、減ってはいず、この二、三年ほぼ変わらないそうです。
来月11月からは、えんだんじのブログは11年目に入りますが、11年目から毎月、月一回のペースにするつもりです。ブログを月二回にすると読書数が極端に少なくなるのです。また年のせいか本を読むと眠くなる時も結構あるのです。読書不足解消のため、ブログを書く回数も最低でも月に一回にするつもりです。
読者の皆様10年間の長い間読んでいただきましてありがとうございました。また来月から11年目のブログを書き続けていきますのでご愛読のほどよろしくお願いいたします。

コメント

私のライバル、ヒュー・ヘフナー

このブログは、昨年11月4日に出した小説「戦後昭和の女性たち(3)」の全部同一のコピー作品です。何故再提出したか、皆さんに私の小説「戦後昭和の女性たち」を思い出させたいからです。
引用開始
(一)ライバル
皆さん、ヒュー・ヘフナーと言えばどんな人だか知っていますか。最近ヘフナー氏は91歳で死んだが、彼はあの超有名なアメリカの週刊誌「プレイボーイ」誌の創刊者です。ヒュー・ヘフナーは、1953年(彼が27歳の時)「プレイボーイ」を創刊した。その創刊号にあのマリリリン・モンローのヌード写真(本人の承諾なしに)掲載し世間をアット言わせたのだ。以後数十年にわたり豊満な女性のヌードグラビアと読み応えのある記事が世界的に高い評価を受け、世界各地に現地版の「プレイボーイ」を発刊させた。ヘフナーとモンローは奇しくも同じ年で、私より12歳年上です。「プレイ^ボーイ」に載せられたヌード写真は、モンローが同じ27歳の時ですから、ヌード写真の年齢は少なくとも同じ27歳か、それとも27歳以下の年齢です。すなわち彼女の全盛期のヌードだから世界中の男性ファンをアット言わせたことは間違いない。ヘフナーは女性の裸の写真で大金持ちになったのだ。老後はプレイボーイ社の経営を娘のクリスティーに任せ、彼自身はプレイボーイ・マンションに住んでいた。そこは男たちの究極の隠れ家、そこでは全てがセックスのためにあり、全ての女性たちはやるためにいると男たちは勝手に空想した。ヒュー・ヘフナー氏はその館で死んだ。ヘフナーは生前に購入していた場所に埋葬された。マリリン・モンローの墓の隣だった。ヘフナーもマリリンも同じ年だからお互いの顔を知っていたでしょう。しかしモンローの男性遍歴にはヘフナーはいないし、ヘフナーの女性遍歴にはモンローの名前はない。モンローは彼女の承諾なしに「プレイボーイ」の創刊号に載せたことが許せなかったのだろう。ヘフナーはモンローファンの一人だったのだろう。だから生前、彼はモンローの墓の隣の地所を大金で買ったのでしょう。このヘフナーの記事は、今年に11月19日のニューズウイーク誌に出ていた。早速私が自分の「えんだんじのブログ」に取り上げたのには理由があった。

今年の9月1日私は、文芸社から文庫本で「戦後昭和の女性たち」(700円)を出版した。全部で八編からなる短編小説、全部で10人の女性を登場させた女性短編小説集です。一から七までは現実の女性を扱って書いていますが、八はタイトルが「天国での女性体験」で、天国での空想体験の話で、想像上の話が主体です。通常人間は死ぬ直前には死後天国に行ったら、あれこれしようとか、地獄に行ったらあれこれしようなど考えずに黙って死んでゆきます。しかし私は違う、「俺は間違いなく天国に行く、天国に行ったらマリリン・モンローを口説いて、ベッドを共にしよう。生前彼女が欲しがっていた子供を絶対に作ってやって、幸せにしてやると考えていたのだ。予想通りに天国に行けたので、計画通りモンローを口説き始め、成功し、ベッドを共にし、赤ちゃんも作ることが出来た。モンローに子供が出来て記者会見の時に、どこかの国のボーイフレンドと恋仲になって子供ができたと公表すればよかったのに、ところが日本人の定年サラリーマンのミスター鈴木と恋仲になってなどと本当のことをしゃべってしまい、そのため鈴木は日本のマスコミの寵児になってしまい、鈴木の物静かな定年人生がてんやわんやになり大騒動を巻き起こす物語なってしまったのだ。
ヘフナー氏と私はモンローファン、お互いライバルです。世界中にモンローファンのライバルが沢山いるでしょう。しかし私みたいに天国にいるモンローを口説いてベッドを共にし、子供を産ませて彼女を幸せにしてやった小説を書いたのは世界広しといえども恐らく私一人でしょう。それだけに小説「戦後昭和の女性たち」を一読する価値があると思っています。

二。男性読者からのコメント
さきほど一気に読み終えました。のちほどあらためて感想を・・・。
登場人物の生きた世界は私のそれとは全く違いますが、小説としても正直、面白いな~と思いました。なんでそう感じるのかな?と思ったのですが、
私の視点は、この時代が、ヒロインの両親はみな戦前の歴史を引きづって
いること。結果、いわく言い難い、両親もしくは片親との悲しい別れ、あるいは知恵遅れの兄弟を面倒みていたこと・・・など。
悲しいまた貧乏生活のなかで優秀な弟(のち東大医学部へ)の学費を送金・・姉はクラブで労働・・。姉の死を前に弟が著者に託した姉への恋文作成の依頼、それを読んで安堵した姉の、さわやかな死に顔・・・・。さわやかに天国へ逝くというのはこういうことだろう。
さらにいえば、登場する昭和の女たちは、みな現代とは違った経済生活の「苦労」と「緊張」を抱えており、それしか生きる道がなかった・・という宿命の
なかで実にいじましく人生を送っていたのである。
現代の、その気になればいくらでも仕事がある・・という経済安全圏とはまるで環境が違っていた。
そういう時代環境のなかで花咲いた、悲しくもそれなりに男との出会いによって一抹の幸せも得た・・という物語である。
考えさせられたことは、昭和という時代は、戦前と戦後が深く交錯する時代であったこと。
平成の弛緩した時代環境とは大きな差がある。その意味で、昭和という時代は、「文学」が成立し得る基本条件を備えていたこと。これが解る年代はたぶん団塊の世代以上ではないか。
・対して、平成の時代はなかなか「文学」が成立し難い、いや成立するとしてもQualityがまるで異なる。
いま政官財界、その他で活躍する人たちは、段階の世代
以前の人たちが多い。鈴木さんの時代感覚とは違った世代の人たちである。良くも悪くも時代の変遷とはそういうものだ。
以上即席感想でした。しかし文章の実に巧みなこと・・・
それ以上に、鈴木さんの真剣な生き様と鼓動が伝わってきました。
もっともどこまで実話で実話でないのか、知りかねますが・・。まずは御礼まで*フェイスブックでもご紹介します。
三。女性読者からのコメント
こんばんは。感想遅くなりまして、申し訳ありません。
大分前に読み終わってはいたのですが、なかなかえんだんじさんのように上手に文章に出来なくてすみません。一番印象的なのは、えんだんじさんは、本当に素敵でモテモテでいらしたんだなぁということです。それと、この頃の女性は、可愛くて女らしくて素敵ですね。
男性と女性が、その役割をきちんと果たしていたように感じます。私はそんな感じの方が好きですよ。どうして男女というものがあるのか、ちゃんと訳があってのことでしょうに、何でもかんでも平等にしたいというのは、何かの策略に翻弄されているような気がしてしかたありません。ただ、昭和初期の女性は、ずいぶんご苦労なことも多かったのではないでしょうか?だから、男性に頼らなくてはならない世の中だったという気もします。
えんだんじさんが日頃日本の名誉のために頑張っていらっしゃるのは本当に素晴らしいことだと思っています。一方、こうした小説もとても面白いですね。面白いというのは、失礼ですね、だってこれはほとんど実話なんですよね?
でもこんなに沢山の想い出をお持ちというのは、お幸せだと思います。
読ませて頂いて、私もその当時にタイムスリップ出来たような気がします。
ここに登場された女の方たちは、辛いことも沢山あっけれど、皆さん前向きで人生を一生懸命生きていらっしゃいますよね、私も少し見習いたいなぁと思いました。そして、今の20代、30代、40代の人が読むと、やる気が増すのではないですか?
私もあっという間に読んでしまいました。えんだんじさんが、これからも益々お元気でご活躍されますよう、お祈りしています。また色々なことを教えて下さいね。
四。読者の皆様へのお願い。
この小説は、私の前作『えんだんじ・戦後昭和の一匹狼』に次いで二作目です。何故私が小説を書いたか?ベストセラーにして印税をかせぎ、私の人生の最終目的、私の大作「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版「The USA is responsible for the Pacific War」 を世界中、いや少なくともアメリカ中にばらまきたいからです。アマゾンでお買い上げの方がおられましたら、率直なコメントを書いてくださいませんか。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」のように沢山のコメントを書いてくれるとありがたいのです。よろしくお願いいたします。
引用終了

 

コメント

戦後の貧困、現在の貧困

大東亜戦争終結時、私は小学校一年。私の世代の人たちは、大東亜戦争敗戦後の社会で育った。だから同じ貧乏でも共通点が非常に多かった。戦場で父を亡くし、空襲などで母を亡くし、戦後孤児になって浮浪児と呼ばれ、国支援の民間の施設、あるいは国の施設で育てられた。厚生省昭和23年2月の発表によると、親戚の人にも引き取られずに施設に預けられた浮浪児たちは、1歳から18歳まで全国で123,511人です。この人達の中で現在80歳以上になり元気で会話をかわせる人がおれば、筆者に連絡して頂けませんか。私は自費でその人の所へ伺い、その人の伝記を無料で書きたいと思っています。興味があれば「えんだんじのブログ」にご連絡ください。

浮浪児に次いで苦労していると思われる人達は、私の中学卒業時、即ち昭和29年4月青森発上野行き夜行列車、これが最初の就職列車で大都会に働きに出る地方の中卒の方々です。この大都会向け就職列車は昭和50年の4月まで21年間続いたのです。私が中卒の時から21年間就職列車が続いたということは、現在60歳以上から80歳までの多くの男女の最終学歴が中卒のままでいることを意味しています。すなわちこの年代が最終学歴中卒の人たちが多いいのです。私はその方々より少し条件が良かった。私はもし公立高校に入学できれば、その高校に入学し、入学できなければ就職と決めて受験したら合格したからです。合格しても、学費以外は全部払うつもりがない。修学旅行はどこにも参加せず、運動部などクラブ活動はどこへも入らず、アルバイトで資金かせぎ。以来定年まで孤独な生活が続いた。私の自伝的小説「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」(文芸社、1600円)を読んでいただければ、私の孤軍奮闘ぶりを読むことができます。私は自分の貧乏ぶりを歎いていたが、日本社会への不満は少しも感じなかった。多くの人達が自分以上の貧乏人も多かったからだ。私が鎌倉市の県立高校を卒業した時、鎌倉市は当時から裕福な家庭が多かったから、県立高校卒業時、男はほとんど全員大学進学です。卒業時学校の先生から、「鈴木、就職どうする?」と聞かれたから、「職安(職業安定所)で見つけますよ。」と少し反抗的に答えていた。男子生徒たった一人のための就職の世話など面倒だったのでしょう。工業高校卒とか商業高校卒なら、大体働き先が決められるが普通高校卒では働き先は自分できめるほかはない。私が高校卒業後、高校の同窓会に参加したのが、高卒46年後の64歳の時です。元気で快調に過ごしているところ見せてやれと思ったからです。高卒後5,6年ぐらいのうちに長く勤められる勤め先を決めた。外資系5社渡り歩いた貿易関係の仕事です。貿易関係の仕事が好きだったわけではありません。長く勤めていられそうだと思ったからです。私には自分の仕事にたいする誇り、愛着、愛社精神など何もありません。一番気になったのが給料の高さだけです。自分の仕事に対する、役付き、名誉、体裁など一切関係なし。関係あるのは給料の高さだけ。こうして外資系5社渡りあるいて定年。今になって考えれば、こうした徹底した考え方が良かったのでしょう。また私は自分の主義、主張をはっきり、堂々と主張してきた。どういうわけか日本人は自分の主張をはっきりさせず、ぼかし気に主張するのが多い。そのお蔭かどうか知らぬが定年後働くことなしに、どういう私の人生の風の吹き回しか、執筆活動に専念することができたのだ。贅沢はできないが、働くこともなく執筆活動ができるなんてうれしくてしょうがなかった。そのためこの20年間は幸せだった。私が中学卒業時、地方の片田舎から就職列車で大都会に働きに出ていたら、定年後働くこともなく執筆活動に専念できなかったでしょう。自宅から東京、横浜の大都会に通勤で通えることがどんなに有利だったのかを身を以て体験したのだ。

現在の貧困原因は何か。主に家庭崩壊でしょう。最初から結婚もせずに子供を産む人、結婚して子供二、三人持って離婚した母子家庭、あるいは父子家庭、これで収入不足で貧困に陥る。さらに親が病気になると片親だけに悲惨な家庭状況におちいる。一例をあげると、離婚した父が二人の子供(小学生)を引き取ったのはいいが病気になり、6畳一間に住み、食卓に使う御膳がそのまま勉強机になり、子供が栄養失調になりそうだ。こういう貧乏所帯でも、私の子供時代と比べて決定的に違う点が四つあります。
1.政府から生活保護費が出る。この生活保護費は、全国一律同じでなく、地方自治体によって多少違う、また同じ地方自治体でも住む場所によっても違うところもあるが、生活保護費は必ず出る。
2.最近、主に貧困者の子供たちに食事を提供する「子供食堂」がある。2016年で少なくとも全国で139ヵ所、およそ2年後には全国で2286ヵ所、利用者がのべ100万人を超えた。
3.学童保育
昼間保護者が家庭にいない小学児童。学童保育所の統一的な名前はない。全国各地で適当に呼ばれています。2013年5月1日現在、全国の設置施設数21、482ヵ所、登録児童数889,205名(全国の小学生総数6、676,920名)。
4.冷蔵庫、洗濯機等いわゆる家庭電化製品の大発展で私の子供の時の家事手伝いとは天国と地獄の差。
私は小学校1年から中学校卒業するまで9年間横須賀の山奥に住んでいた。飲み水は水道でなく、井戸水。6,70メートルぐらい歩いて、つるべ落としで飲み水をくみ、運ぶのが私の仕事だった。電気製品はラジオだけ、アイロンは、アイロンの中に火鉢の中の炭(スミ)を入れていた。自宅のトイレの汲み取りも私の仕事だった。要するに家事の仕事が極端に楽になったのだ。

極端な言い方をすれば、上記(1)から(4)のおかげで戦後の貧困より現在の貧困のほうが、はるかに楽で暮らしやすくなったのだ。この事実を誰も否定することはできません。ところが私の子供時代にも、現役で働いている時でも、全然なかった驚くべき不思議な現象が起こり出したのだ。過労死です。労働者に長時間労働を休みなしの勤務をさせ、病気になったり、或は自殺に追い込まれて死んでしまうことです。この過労死は先進国の中では日本だけが特出して多く、日本社会の特異な現象になっています。2017年だけで労災が過労死(自殺を含む)と認定した死者190人です。やっと横ばいになったと言われているくらいです。産経新聞(平成30・9・6)「平成30年史」、過労死の年代順を拾ってみると、
1.昭和63年4月
全国で大阪府に初めて「過労死110番」という名称で電話相談の受付を始めた。
2.平成3年11月―「全国過労死を考える家族の会」が結成。
3.平成14年―「過労死(karoshi)」が英語の辞書に記載。
4.平成25年5月―国連が過労死・過労自殺の防止を日本政府に勧告。
5.平成26年6月―「過労死防止対策推進法」が成立。
6.平成28円10月―初の「過労死白書」を公表。
これによると、全国の過労死は、全体で年間200人前後で極端な上がり下がりはないが、過労死が出始めのころは、過労死は病気による死が上回っていたが、平成26年頃から過労死は病気で死ぬより過労自殺で死ぬ方が多くなった。

私は過労死に怯える労働者の気持ちが全く理解できません。労働者は仕事がきつ過ぎて、病気になったり、自殺するくらいなら、その仕事を辞めればいいではないですか。就職難どころか今は人手不足の時代でしょ。昔に比べて生活水準があがったくらいで、こうも人間の闘争心が衰えるものなのでしょうか。自己主張能力が下がるものなのでしょうか。現在日本民族の民度の劣化がよくいわれますが、この過労死の続出、相変わらず続く幼児の虐待、子供の自殺の多さ、平気で日本を貶める日本人の多さなどとは、全く同じで民度の劣化の典型的な例と私はみなしています。こういう情けない日本人が何故多く出てくるのでしょうか?その原因は日本の教育制度の欠陥です。戦後、GHQは戦前の日本の教育制度をほとんどすべて悪とし、下記の四つの項目に関する指令を日本政府に提出。
1.日本教育制度に対する管理政策に関する指令。
2.教育及び教育関係者の調査、除外、認可に関する指令
3.国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに広布の廃止。
4.修身、日本歴史及び地理の停止。
さらにGHQは本国アメリカから教育使節団を日本に派遣、報告書を作成。
日本政府は上記四つの指令書とアメリカ教育使節団の報告書に基づいて日本の戦後の教育方針をきめた。すなわちGHQは、日本の教育方針を決めたのです。日本は歴史の古い国だ。教育方針にも古い歴史がある。なにも独立して間もない歴史が極端に浅いアメリカに学ぶ必要ないと突っ張れば良いものを、敗戦のためGHQに積極的に迎合していったのだ。

日本が独立を回復した時、日本の教育界では、日本の戦前の教育の長所、短所、戦後アメリカ教育の長所、短所などが話あわれたことなど何もありません。日本が独立を回復したとき、現行憲法を無効にして新憲法を作るべきだったし、同時に日本の教育制度を徹底的に改めるべきところ、ほとんど何もしなかったのだ。「新しい歴史教科書をつくる会」を設立したが、日本の教育制度を改める、例えば日教組を潰さない限り、「つくる会」の教科書が全国的に採用されることもなく、日本の復活もあり得ません。新憲法作成、日本の教育制度の大改革、どれも強力な政治力が必要です。現在の日本の政治家は戦後七十年以上経つが政治家はファミリービジネス、家系政治産業界出身者ばかりが多くなってしまった。一人一人数えたわけではないが、いつの間に150人ぐらいになっているらしい。現在の政治家には、魅力的な政治家はほとんど皆無になってしまった。保守層の間では安倍総理は人気だが、私も安陪さんを強力な支持者だった。安倍氏が無冠の帝王のような状態のとき、彼は公言するほど「つくる会」の強力な支持者だったからだ。その頃私はミクシーの友達と一緒に安倍氏と面会し、私は安倍氏と「つくる会」の話もした。一緒にいた親友の元プロカメラマンが私と安倍氏の二人だけの写真をA4の大きさで撮ってくれた。私は今でも記念に持っています。ところが安倍氏は首相になると「つくる会」を平然と裏切り八木秀次(育鵬社)を支持した。今では安倍氏に対して「自分が惚れた女性に裏切られた感情」と同じような感情を持っています。安倍総理は、やはり二世議員、「機を見る敏はある」が「信念に欠ける」のだ。日本には現在、有望な政治家はいません。自民党総裁候補も安倍氏と石破氏です。石破と言えば私には思い出すことがあります。私は平成18に「原爆正当化のアメリアカと従軍慰安婦謝罪の日本」(展転社)を出版した。日本テレビのあるディレクターがこの本に注目しテレビ出演の依頼を受けた。テレビ番組のタイトルは確か「太田総理に秘書田中」だったと思います。本の宣伝になると思って出演することにした。その出演者のなかに石破がいた。石破は元防衛庁長官で出演していた。テレビ番組の収録のとき、私は初めて石破の歴史観を聴いた。これが元防衛長官の歴史観かと唖然とし怒りがわいた。私は石破を罵倒した。テレビ番組の収録だから皆言いたい意見を言う。翌日私はミクシーの日記にこの番組のケチと石破のケチを書いた。早速日本テレビのディレクターから、「鈴木さん、この番組の公開後の意見だったら、何を書いてもかまわないが、公開前だから鈴木さん日記を削除してくれとの依頼を受けそれに従いました。その石破が安倍氏の競争相手というのだから、日本にはもう政治的活力は生まれてこないのでしょう。私はもう日本の行く末には希望は持っていません。安倍氏に関しては、皆さんには、もう一度拙著「保守知識人を断罪す。(つくる会)苦闘の歴史」総和社、1500円)を読んで見てほしいです。


コメント

「譲位」は憲法違反

保守の人達の間では有名人のように知られている村田春樹氏が今年の4月に展転社から本を出版した。タイトルは「今さら聞けない皇室のこと」1300円+税。この本で特に重要なのは、今上天皇の譲位問題です。この本の頁数は、全部で177頁です。その頁数の半分ぐらいを「第四章 御譲位に思う」を書いています。春田氏は、元「楯の会」会員です。元「楯の会」会員と言えば、一般の日本人以上に皇室を敬っています。その春田氏が今上天皇の譲位は、政府がすでに決めたことで覆すことはできないが、譲位は憲法違反だと主張しています。私は今上天皇の譲位が決定した時、なぜ今上天皇は譲位したいのだろうかと不思議に思っていました。何故なら今上天皇の父上、昭和天皇は、あの敗戦に終わった大東亜戦争終結の時でさえ譲位も退位もしていません。死ぬまで天皇であり続けました。大日本帝国憲法も現行憲法も天皇は議会の協賛を得なければ、立法を行えないのである。平成29年の通常国会で特別措置法として譲位が正式に決定した。その最初のきっかけが7月13日午後7時のNHKの「譲位の御意向」というリーク速報です。たまたまこの時安倍首相外遊出発の前夜。この速報は宮内庁や官邸の頭越し報道させているのだ。その後平成28年8月8日宮内庁からNHKテレビから象徴としてのお勤めについての天皇陛下のお言葉が放映された。皆さんに思い出していただくためにお言葉の全文を披露します。

『戦後70年という大きな節目を過ぎ、2年後には、平成30年を迎えます。私も80歳を超え、体力の面などから様々な制約をおぼえることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や勤めにつき、思いを致すようになりました。本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に80を超え、幸いにも健康であると申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を、感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行ってきたほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうかと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果し得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることには変わりありません。
天皇が健康を損ない、深刻な状況に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重いもがりの行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後葬儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関する諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

始めにも述べましたように、憲法の下、天皇の国政に関する機能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。国民の理解を得られることを、切に願っています。』

このお言葉は、今上天皇のお気持ちの表明という形式を取られていますが、実質的には日本政府に対する命令書と解釈されている方が、多いが、私もそのように解釈しています。著者の村田春樹氏は、これは誰か別の人間が書かせたものと解釈し、文章の幾つかを取り上げて説明しています。その例をいくつか挙げると、
1.「私が個人として、これまでに考えてきたことを・・・」。
 陛下がご自分を個人と言うことはあり得ない。陛下は24時間365日天皇であり、8時間勤務の労働者でもなく、いわんや個人や公人でもない。半神の御存在である。

2.「いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日にいたっています。」
いきいきとした社会に内在し、などという言い回しは変である。また、陛下は政治家でもなく、芸能人でもないので、「人々の期待に応える」必要などまったくない。陛下の御存在は、言うまでもなく「国民の総意」にも期待にも関係はない。天孫降臨の際天照大神の三大神勅に立脚しているのである。

3.「これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」。
全身全霊をもって果たしてこられたことは、心ある国民は皆わかっている。それをわざわざビデオでおっしゃる必要はない。最晩年の昭和天皇や桂宮宣仁親王、古くは大正天皇を想起していただければわかることである。

4.「天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場の求められる務めをはたせぬまま、、、、、」。
それでは大正天皇晩年の5年間、摂政を務められた東宮殿下(昭和天皇)の治世を否定することになるのではないか。お言葉から1年経っても「なぜ摂政ではだめだったのだろうか。」という問いに答えられる国民は誰一人いない。

5.「これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な、影響が及ぶことが懸念されます。」
社会はまったく停滞しないし、暮らしになんの影響もない。政治も経済も影響を受けなかったことは昭和63年に証明済みである。この年、日経平均株価は4万円になんなんとしていた。自粛ムードが起きかけたが、自粛を自粛しようとし、皆平成に坦々と日常生活を送りつつ、御平癒を祈っており、そして覚悟したのである。

6.この「譲位」という比較的短いお言葉のなかに、「象徴」という言葉が「なんと8回」も登場するのです。そこで著者の春田氏は、なぜこの「象徴」と言う言葉を強調せねばならないのか、このお言葉を話す今上天皇陛下とは別人(書き手)の政治的意図が含まれているのではないかと推察しています。私もこの春田氏の考え方に全面的に同調します。この辺の作者の説明を詳しく読むと、来年以降の上皇が一体何をなされるのであろうか、非常に興味がわいてきます。

譲位後の国民の心配:
天皇の活動、特に以下の国事行為には内閣の助言と承認を必要。
1.憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。2.国会を召集すること。
3.衆議院を解散することなどその他の国事行為やその他の公式行事。
ところが上皇になると、国事行為・公的行為は一切なされず、私的行為だけになる。ということは、内閣は天皇への助言承認という監督権を上皇に対しては有しないことになる。
その結果来年以降の上皇の行動の中で次の三つの不安が私の頭にも浮かびます。
一.韓国への謝罪旅行
春田氏によれば、平成29年12月14日号の週刊新潮の記事、同じ年の12月30日の読売新聞の一面トップ記事、二つとも今上陛下は韓国訪問したいとの意志。さらに陛下がサイパン島訪問時に韓国平和記念塔の拝礼されたこと、桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫であったことに、二回の公式の場で言及されています。続いてこの9月の私的旅行で埼玉県の高麗神社参拝は韓国では「退位前の和解のメッセージである」と報道しています。

二.ひょっとして上皇は、キリスト教に帰依して洗礼を受けるのではないか。
天皇陛下は、中学校一年の時、GHQの命令でクエーカー教徒のヴァイニング夫人を家庭教師につけてもらっています。英語の先生としてではなく、家庭教師として5年間努めています。それだけにヴァイニング夫人の影響を強く受けています。毎年の全国戦没者追悼式には、いつも「反省」、「反省」、「反省」のお言葉です。勇敢に戦ってくれた兵士への感謝の言葉は、一切なし、靖国神社への参拝もなし。昔をたどれば、上皇でも仏門に入って法皇と呼ばれた人もいた、白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇など有名です。万一キリスト教に帰依したら何と呼ばれるのでしょうか。

三.現在の天皇陛下在位中の靖国参拝は完全に夢と消えたのか?
私はひょっとして、万が一にも靖国神社に参拝してくれるのではないかと淡い夢みたいなものを持っていましたが、その夢も完全に消えたのでしょうか?しかし来年4月30日の御譲位の日まで7カ月あります。天皇陛下、日本のために戦って死んでくれた兵士たちのためにも靖国神社に参拝していただけませんでしょうか。私はわらをも掴むような気持で祈っております。

現在日本の保守陣営の方は、私のように天皇家を敬う人々ばかりでしょう。私が天皇家を敬うとは、現職の今上天皇を直接批判することは絶対しないことです。私は10年間ブログ書いてきているが、今回春田氏の本を読んで初めて今上天皇を多少とも批判するブログを書きました。今回紹介した春田氏の本は「今更聞けない皇室のこと」と何となく柔らかいタイトルになっているが、一番大事なのは譲位の問題です。それをタイトルにつけなかったのは今上天皇を批判するタイトルを避けたのは春田氏の皇室に対する深い愛情だと思っています。このように皇室に対する敬愛だけでなく、神様のように、まるで宗教的存在のように思っている方も沢山います。上皇の存在は、現代日本人にとって初めての経験なので、上皇の言動が我々日本人の心に動揺を与えるケースも充分考えられます。例えばより左翼的発言や行動などで左翼や狂(共)産党等を喜ばすこともあるかもしれません。これからの上皇の発言、行動を注意深く見守っていかねばならいでしょう。
このブログの読者の皆さんには、ぜひ村田氏の「今さら聞けない皇室のこと」(展転社)を読んでみてください。この本では「譲位」以外にも皇室について色々なことが書かれています。私は、必ずしも村田氏の意見に全面的に賛成しているわけではありません。しかしこの「譲位」については全面的に春田氏と同意見です。この本は一読の価値のある本です。



Comments (2)

私の人生で一番怖かった事

私の人生に最大の影響を与えたのは、大東亜戦争の結果です。私の年齢を考えれば、それは誰にもあることなので、戦争の話はこれ以上言及しません。私の苦労の最大の原因は、両親の長期にわたる病気です。戦後直後は、父親の病気だった。戦争勃発前に結核を患っていた。日本鋼管に勤めていてインドのゴアに転勤を命じられ、出張前の身体検査で初期の結核であることがわかって、インドへ行けなかった。そのお蔭で軍隊に取られずにすんだが、自覚症状はないから本人は元気、しかも戦争中は満足な治療も出来ずに終わった。その結果病状は悪化した。終戦直後には強制的に入院させられ、片肺は切除され、残った片肺だけで日本鋼管に復帰、そして子会社に転勤させられた。それから数年後腎臓結核と診断され、腎臓は二つあるから、一つ切除するというのだ。片肺と残りの腎臓一つでも生きられると言うのだ。ところが父は医者の勧めを拒否、現代医学を拒否する当時の新興宗教、メシア教に入信したのだ。
メシア教は現代医学を完全に拒否し、患者の片手の手の平を患部あてるのだ。暇さえあれば手のひらを患部にあてるのだ。そのやり方で治癒した信者の話を妄信し、母のどんな反対も拒否、一切病院に行かず、薬をもらおうともしなかった。結局母は、このままでは父死んでしまう」と思って、父に嘘をついて強制的に病院に飛び込んだ。腐った腎臓を切除して取り出し、残りの腎臓は、能力の7、8割ぐらいは残っているが、残りの2、3割は死んでいた。これでも生きられるから大事に使いながら生き延びようとすることに決めた。日本鋼管の子会社だから働き続けられたのでしょう。出張の時は、ビジネスバッグに尿瓶を入れて出張していた。半病人のような勤めをしながら定年(55歳)まで働き78歳で死んでいった。定年時には役職など何もなかった。大学まで出てまんざら無能な男ではなかったから無念な人生だった。

一方母親は、戦後直後父が満足に働けなかったから、その苦労は母親が背負うことになる。母の苦労をこの目で一番みてきたのは、長男の私だ。母の死に際のもだえ苦しむ姿を見ながら死んでいった母を見ると、神や仏に怒りさえ感じます。私が神や仏に無関心なのは母の死の影響は大きい。母は50代前半、52,3歳だったと思います。胃癌になり、三分の一切除して治癒した。その後10年間は重い病気は何もせず、完全に胃癌は治癒したと思っていた。ところが胃の手術の11年あるいは12年後、今度は咽頭癌になった。喉には二つの声帯がある。治療のため声帯一つを切除。治癒したが声量が半分になって弱弱しい声になっただけで元気になったのだ。それから何年ぐらいたったのだろうか、その頃の記憶はあいまいです。次々と癌の襲われるのです。今度は大腸癌だった。大手術だった。肛門を切除し、人口肛門を自分の腹にとりつけて退院してきた。その時期私は初めて親孝行をしたのだ。離婚していた私は、実家のボロ家を壊して建坪42坪あまりの二階家を新築し、私は両親と母の手伝いをしてくれる独身の母の妹と四人暮らしを初めていた。私も念願の貧乏からの脱出の願いが少し身を結んだのだ。新築の家に住み始めても母親の節約ぐせは続いた。当時の人口肛門は、アメリカ製で日本製がなかった。そのためでしょうアメリカ製の人口肛門は高かった。冬は寒いから一回使った人工肛門は使い捨てだったが、春になると母は一回使った人工肛門は、庭にある水道できれいに洗い、乾して再利用するのだ。私が使い捨てにしろと言ってもきかなかった。それでも元気が出てきて、人口肛門をつけながらあちこち出かけられるようになった。その頃のことだったと思う今度は小腸癌を宣告された。これで四つの癌を宣告されたが、父は一度も癌にかかったとは母には言わなかったし、私や妹にも母には癌とは絶対に言うなと命じた。母は、知っていたかどうか全く分からなかったが、内心は自分が癌にかかっているようなそぶりを見せたことは一度もがなかった。当時小腸癌の治癒は難しく手術は困難だった。治癒時間長くなれば、悪化するだけでまさに死の病だった。患者がベッドの中で静かに寝ているだけならば、問題はないのだが、治療が長引くと、患者の痛みが激しくなるのだ。母は、「痛い、痛い」とヒーヒー泣く、それを診ている家族たちは、母の体を一生懸命さすってやるほかなかった。この時の老いさらばえた母の痛々しい声で泣き声をあげる姿は、あまりにも惨い姿だった。痛みを和らげることが出来なかった原因もあった。あの当時痛み止めに使うモルヒネの量が少なかったのだ。モルヒネ中毒なるのを医者は恐れていたのではないかと素人判断しています。結局母は痛みに苦しみながら71歳で死んでいった。死後、医者は一人で癌を三つも、四つも患うのは多重癌と言って珍しい体質だから、死後解剖させてくれないかと言った。父は、母に死後これ以上メスをいれて切り刻むのは可哀想だと言ってことわった。

母の死後、葬式など一段落すると、母の妹二人と私と二人の妹のことが心配になってきた。母の癌体質を継いでいるのではないかと心配になってきた。医者も癌体質を継いでいるとは断言できないが、母の妹より、母の実子の私と私の妹二人のほうが母の癌体質を継ぐ可能性が高いと言ったのだ。私は家も建てたばかりだし、貧乏から脱出して経済的に少しはゆとりが出たばかり。私も癌体質を継いで、母親のように癌をいくつも患い、その治療のために再び貧乏になるのではないかと、今思えば極端に恐れていたような気もする。癌の早期発見、早期治療すれば早く治せる。そのためこれから毎年一年に一回人間ドックに入り、検査してもらう。治療費のために癌保険に入ることも決めた。こうして私が40歳の時からこの年まで40年間一年に一回人間ドックに入って検査を受けてきた。一回も検査をかかしたことはなかった。40代、50代の時は、若い世代の癌の悪化の速度が速い、私は医者に少しでも気になるところは、遠慮なく精密検査にまわしてくれと頼んだ。そのため胃癌、大腸癌、肺癌、等々ずいぶん精密検査をした。そのうち年数が経つと、母の二人の妹が病気で亡くなった。但し癌ではなかった。私が70代に入ると、妹二人は60代、でも癌にはならない。どうやら母の癌体質は継いでないようだと安堵した。
今年8月に80歳になる私は、4月に一日人間ドックに入った。検査の結果、検便に陽性反応が出た。大腸の内視鏡検査が進められた。二つのポリープ発見、入院せず削除した。ポリープの検査結果は良性であった。80歳で癌がなければ、もう癌の心配はないでしょう。癌ができたとしても加齢による癌で体質ではないと完全に決断した。毎年一年一回の人間ドックのほかに、癌にかからないように、またかかっても軽く済むようにと次の二つのことを30年以上続けてきました。今までこのことを他人に話したことありません。今回が初めてです。
1.尿療法
尿療法は、よく知られ密かに実行している方が結構います。私もその一人です。若い男で健康のため自分の小便を毎日飲んでいると公言するような男はいません。私の若い頃は結構女性にもてたからなおさらです。私とキスして尿くさい匂いがすると言われたら、もうおしまいです。それで時々親しくしていたホステスに、俺とキスすると尿くさいかと聞くと、「別に」と少しも気にしていなかった。もっとも若い女性のときには軽めの匂いの香水、熟女のときには濃い目の匂いがする香水を使い分けしていたことも事実だが、尿を飲んでも、口や体から尿の匂いは発散しなかった事も事実です。私の尿の飲み方は朝トイレに行くときに出る尿の全量を飲む、これ一回だけです。しかし男は年を取ると、前立腺肥大症になり夜中にもトイレに行くようになる。その時は夜中にゆくトイレの全量は飲まず、一口だけ飲む。しかし朝起きた時の尿は全量飲みます。入院患者など、自分の尿を水やお茶がわりに全量飲む人もいます。体に効いているのかどうか、さっぱりわかりません。癌にかかることもなかったというので今現在も自分の尿を飲んでいます。

2.ガムを噛む
健康のためガムをわざわざ買って噛むと言った人に私は会ったことはありません。新聞、雑誌、本などで読んだこともありません。私のガム噛みは、私独自の判断で噛んでいるだけです。唾液は殺菌作用があると言います。人は手足が傷つくと、無意識のうちになめます。唾液に殺菌力があるからです。私はテレビで猛獣のライオンが自分の嫁か子供に自分の背中を舐めさせている姿をみました。 唾液に殺菌力があるからです。自分独自の考えでガムを噛み続ければ、大量の唾液が胃に流れ込み、大腸にも流れこむのではないか、胃の中で癌細胞が生まれれば、唾液の殺菌作用が少しでも作用するのではないかと考え、ガム噛みを実行しているのです。ガムはキシリリトールガムです。朝食後歯磨き後にすぐ噛みだします。一日家に居る時は、一つガムを一日中噛んでいます。外出で昼食の時には、ガムを噛み変えます。一日中食事以外ガムを噛み続けても、唾液でお腹が張ることは絶対ありません。
ガムはタバコとくらべたらはるかに安く買えます。尿を飲むのに一銭もかかりません。尿のみもガム噛みもほとんどお金がかかりません。やり通す意志があるかないかだけです。私にはやり通す意志があり、両方ともいつやりだしたか正確な日付けわかりませんが、やりだしてもう30年以上たっています。

私は生まれつき、頭も並程度、体も並程度、大学も行っていず、これと言った就職に有利な技術もなく、ひたすら努力を続けないと、皆さんに勝てません。だから若い時から、人生長生きで勝負と決めているのに、母親の癌体質を継いでいるのではないか、そのことが私の恐怖だった。こうして癌にもかからず、満八十歳を健康で迎え、四年前軽い脳梗塞を患ったが、一度患うと、脳のMRIテストすると必ず脳梗塞の影がある。ところが私の脳梗塞は軽度だったため、去年まであった小さな影が消えていた。医者は軽度のせいというが、右膝には軽い後遺症は残っています。それ以外はすべて順調。80歳は長寿の可能性の始まりだ。人生長生きで勝負の年になったのだ。闘争心、少しも衰えず、さあー、やるぞう。人生とは戦いだ。

Comments (2)

杉田水脈氏が寄稿した記事は異常か?

自民党議員、杉田水脈氏が月刊誌「新潮45」(平成30年8月号)に書いた『「LGBT」支援の度が過ぎる」が大変な悪評であると騒ぎになっている状態だと幾つかのメイルがとどけられました。8月2日(金)の夜、NHKの7時のニュースでは、記事の内容を簡単に述べ、わざわざ安倍総理の姿の映像を見せ、記者が質問を浴びせていた。翌日8月3日のネットの朝日デジタルでは韓国訪問中の二階幹事長をつかまえて質問をあびせれば、「こんなもの帰国してから取り出す話ではありません」などと拒否されているのだ。その同じ日の夕方6時半ごろのNHKのテレビを見ていたら、画面の杉田氏が国会で発言する姿が映しだされ、女性アナウンサーが杉田氏の使用した「生産性のないLGBT」を取り上げ、これは相模原障害者施設殺傷事件で男女含め19人を殺害した犯人の精神性と同じものですと言って、殺された被害者の母親らしき人物を画面に登場させ、「LGBTは生産性がない」というのは犯人の根底にあるもの同じですねのような発言しているのです。NHK女性アナウンサーの誘導質問に答えての返事でしょう。杉田氏の記事の異常な拡大解釈で、NHKのあくどさは、ここまできたのかと思った。早速私の手元にある二つの資料をとりだし再度読んでみた。
1.2018・8・7号のニューズウィーク日本版
大橋希(本誌記者)が、“LGBTへの支援は「度がすぎる」のか”の見出しで記事を書いている。次のようなことが書かれています。「同性パートナーシップ制度をいち早く導入した渋谷区の場合、平成30年度の男女平等・LGTB関連予算が1300万円、予算総額983億円の0.01%でしかない。これで「度が過ぎる」と批判するのは度が過ぎる。」
金額の学の大きさで使いすぎの判断しているのではない。大橋の記事はなんら評価に値しない、8月9月分日の私の「えんだんじのブログ」を公表するから、それを読んで勉強しろと言いたい。
2.産経新聞朝刊8月1日の「正論」
動物行動学研究家、エッセイスト竹内久美子が“LGBTには「生産性」がある”と書いている。彼女は、LGTBは自分では子をつくらないのに、つまり「生産性」がないにもかかわらず、なぜ常に一定の割合で存在すのかということだと言って不思議がっているが、そんなのは当たり前でしょ。「例外のない規則はない」、「例外のない法則はない」と言うような言葉があるではないですか。動物行動学研究家というがその研究をしたからと言って人間社会がわかるものではない。彼女にも私のブログを読んでもらいたい。産経新聞は保守系新聞の最,最有力新聞なのになぜこんな記事を正論に載せるのかと不思議に思う人がいるでしょう。しかし現在はLGBTに便乗した方が産経に得と考えたのでしょう。LGBTと言えば、「泣く子もだまる」以上の社会現象だ。5,6年前産経は、八木秀次と組んで「新しい歴史教科書をつくる会」を潰し、或は乗っ取ろうとしたのです。その計画が失敗するとすぐ産経新聞の親会社、フジテレビの日枝が育鵬社という歴史教科書出版社をつくりだしたのです。拙著「保守知識人を断罪す。」(つくる会苦闘の歴史)総和社 1500円+税)」を参照してください。

その後「つくる会」東京支部の池田克彦氏が杉田氏の記事、“「LGBT」支援の度がすぎる”の全文がメイルで送ってくれました。早速全文読んだが疑念に思うところは何もなかった。彼女がこう書いてある文章がありました。
「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を解いてもそのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことがうかがえます。どうして日本のマスメディアは欧米がこうしているから日本も見習うべきだという論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。」
私も全く同感で、これは全く正しい、見解です。まず「LGBT」という文字を見てみましょう。
「L」レスビアン 女性の同性愛者、「G」ゲイ 男性の同性愛者、「B」バイセクシュアル 両性愛者、「T」トランスジェンダー、出生時に診断された性と自認する性の不一致。これを見れば同性愛者は、漢字で日本語だから日本にも昔からいたことがわかります。しかし「BとT」には日本語がありません。なぜないのでしょうか。「BT」は昔からなかった、あったとして目立った存在ではなかったのではないでしょうか。そのため日本語(漢字)が生まれなかったのではないですか?NHKと朝日に教えてもらいませんか。また医学者にも専門的見解を聴いてみたい。日本は農耕民族だから牛を牛肉として食べる習慣が欧米人に比べて非常におくれた。欧米人は狩猟民族だから子供のときから動物は家族の一員、それだけに親近感がある。男の子が思春期を迎えるころには。どの民族の男の子は自慰行為をする。往々にして男の子は動物を相手に自慰行為をすることが多い。だからキリスト教は、動物との性交は厳禁。見つかれば人も動物も即殺されます。それでもアメリカの開発期の初期、沢山のヨーロッパ人がやってくる。初期のころは男ばかり、女性が少ない、男のセックスのはけぐちがすくない。1620年(家光の江戸時代)ニューイングランドのプリマス植民地では、物凄い裁判記録のいくつかが残っています。トーマス・グレンジャーという下男が動物と性行為をしているのを目撃されたのだ。彼の告白によると性交渉した相手の動物は、馬一頭、牛一頭、山羊二頭、羊五頭、小牛二頭、七面鳥一羽であった。おそらく交際相手とすべき女性が極端に少なく、彼の欲望は親近感のある動物に向けられたのだ。彼と性交渉をもった動物はすべて殺され、本人は絞首刑となっています。(「ピルグリム ファーザーズという神話(作られたアメリカ建国)大西直樹 講談社」。
農耕民族の日本人の男は、例え気が狂っても動物とセックスすることはありません。昔から青春期には誰にもわからないように自慰するが、欧米人は昔は、男は自分でもするが、こっそりと誰にもわからないように動物相手に自慰をしてしまう者もいたのだ。それだけ昔は動物が身近な存在だったのだ。こんどアメリカで動物との性行為は容認できないが、ペットとの結婚許可しようと言ったら、現在の中年以上の独身男女が多い日本には良いニュースだと言って、NHK,朝日は積極的に同意するのですか。日本の知識人やマスコミは欧米の文化、思想を分別することなくすぐに同調するのだ。私は日本の「LBGT」の人達を差別しません。私と同じに扱うようにすればいいのです。何も余計なお金を使う必要はありません。

私は本屋に月刊誌「新潮45」8月号を読みに行きました。ほかにもなにか情報が取れるかもしれないと思ったからです。私が実際に本を手にとって分かった事は、この8月号の特集記事が「日本を不幸にする朝日新聞」です。このタイトルに向けて11人の識者が記事を書いています。その一人が杉田水脈氏の記事、「LGBTの支援の度が過ぎる」です。このため杉田氏がNHK,朝日、毎日から総反撃をくらっている状態です。特集記事のタイトルが、「日本を不幸にする朝日新聞」ですが、私のこの種のタイトルで沢山のブログを書いています。私のブログは、「えんだんじのブログ」と言って今年で10年目に入って今年の11月で11年目に入ります。私のタイトルは、「NHK,朝日、毎日は、日本国民の敵」。このタイトルが2014年度を中心に9回書いています。同じ内容なものはありません。それでは一回目から日付けを紹介しましょう。
一回目 2014年4月12日 二回目 5月10日  三回目 6月7日
四回目 7月19日  五回目 8月16日  六回目 8月30日        
七回目 9月27日  八回目 10月11日 九回目 2015年4月24日
ブログのタイトルは、繰り返しますが「NHK、朝日、毎日は、日本国民の敵」。内容がすべて違います。また読者の率直な反応のコメントと私の回答もすべて読むことができます。「えんだんじのブログ」左側のアーカイブスをご覧ください。私の10年間のブログをすべて読むことができます。「NHK、朝日、毎日は、日本国民の敵」を一回から九回まで読んで頂き、内容に気に入るものがあれば自由に転載、拡散に利用してください。

最後に杉田議員は、自民党の性的指向に関する委員会の古屋圭司委員長の指導を受けてメディア向けの無難なコメントを出しています。謝罪文や寄稿文の撤回を求められても、杉田氏には、絶対に応じないようお願いします。古田圭司委員長に言っておきます。私は神奈川支部の自民党党員です。党員番号:0914-000996・8.入党日:平成21年9月7日。この時期民主党政権が出現、自民党の党員数がごっそり減った時期です。自民党をつぶしてはだめだと入党した価値ある自民党員なのだ。私は杉田氏の熱烈な支持者です。杉田氏は従軍慰安婦問題で国連で活躍した功績がある、それだけに野党、マスコミは杉田氏が目の敵にして憎んでいます。杉田氏は、こんど「つくる会」の理事をしており、私も「つくる会」の古い会員です。杉田氏には強力な、熱心な支援者がついていることをお忘れなく。

最後に、皆さん、このブログの内容気に入りましたら、転載、拡散よろしくお願いいたします。

Comments (3)

« Previous entries 次ページへ » 次ページへ »