Archive for 未分類

日本人の原爆投下論はこのままでよいのか(日新報道)

阿羅健一先生、杉原誠四郎先生、二人の対談本「吉田茂という反省」(自由社、平成30)の333頁から334頁の中途まで次のような対談をしています。
引用開始
杉原「なるほど、そうですね。
日本人の抱く原爆投下論へのレイ氏の批判というのは、あの原爆は、当時ソ連を牽制するために、投下する必要がないのに投下したという誤った批判を日本人はしている、と言う批判です。
レイ氏の言うのは、原爆投下の際の当時に、原爆投下にソ連を牽制する効果があるということは確かに認識されていたけれど、しかしそのことを目的として投下したのではなく、投下はあくまでも本土決戦で大量に犠牲となるアメリカ兵を救うためであり、日本からみても、原爆投下によって早期降伏ができ、それ以上の計り知れない日本人の犠牲者が出ずにすみ、さらに分断国家への悲劇も避けられたのではないか。そのことを認めようとしない日本人の原爆投下論は誤っているという批判です。
私は、このレイ氏の言っていることは当たっていると思うんです。そしてそのことを前提にしたうえで、レイ氏の日本人原爆投下論への批判を批判しているんです。」引用終了

ここでレイ氏と言っている人は、ハリー・レイ氏と言ってアメリカ人の歴史学者で、
日本でも明星大学、筑波大学、横浜国立大学、南山大学などで教鞭をとっています。このハリー・レイ氏は、杉原先生と共著を出版しています。本のタイトルは、「日本人の原爆投下論はこのままでよいのか」(日新報道、平成27)。
ところでこの本の269頁では、ハリー氏は、このように書いているのだ。
引用開始
「その上多くの著作家はガー・アルぺロ・ウ’’ィッツが1965年に書いた本に影響を受けた。アルぺロ・ウ“ィッツは日本の降伏は1954年11月までに決定的になるので、通常爆撃を継続すれば上陸作戦は不要であったと論じた1946年のアメリカの戦略爆撃調査を徹底して引用した。アルぺロ・ウ”ィッツ”の原爆外交説に関する学術研究を酷評したのは、ロバート・J・マドックスの論文、「ガー・アルぺロウ“ィッツ、修正主義のゴッドファーザー」である。
マドックスは、アルぺロ・ウ“ィッツが彼の説を立証するために粗雑な方法を使っていると批判した。すなわち、その粗雑な方法の最も顕著な特徴は論理的飛躍である。原爆外交説に対する最も重要な反論は、修正主義者は日本の「徹底的な敗北」と「明確な降伏」とを混同しているということであった。」(以下続くが略し引用終了)
ハリー氏は、彼の援護者としてジョン・ダワーの名前をあげている。ダワーにはヒット作がある「敗北を抱きしめて」だ。高山正之氏は保守の酷評家と知られている。その彼が「歴史通」という月刊誌(2015年1月号)に「(敗北など抱きしめて)などといられない」のタイトルの下にダワー氏を勝者の正義と偏見・無知と徹底して酷評しています。私もジョン・ダワー氏が大嫌い。女房に日本人に持つくらいならもっと日本について勉強しろと言いたい。

ガー・アルぺロ・ウ“イッツと言えば私には、懐かしい名前だ。彼が1995年に書いた大作、「The Decision To Use The Atomic Bomb」。英文のペーパバックで847頁の大作です。そのころ私は現役の外資系サラリーマン、最終学歴が高卒だ、だからどちらかと言えば英語の原文に弱い。いずれ日本語の翻訳書が出るから、いざとなればそれをたよればよいかなと考えた。当時まだ私は現役のサラリーマンで57,8歳だった。買った書店が渋谷の有隣堂だった。日本語の翻訳本が出た。鈴木俊彦、岩本正恵、米山洋子訳、はるぷ出版。日本語のタイトルは、「原爆投下決断の内膜―悲劇のヒロシマ、ナガサキ(上、下)。残念ながらこの翻訳本は,2006年8月の絶版になってしまった。現在、私は原爆関係では、次の三作の原書を持っています。
1. The Decision To Use The Atomic Bomb
2. Hiroshima In America
3. Hiroshima, Why America Dropped The Atomic Bomb
もし読みたい方がおれば、私に連絡ください。

ガー・アルペロ・ウ“ィイツが書いた「The Decision to Use the Atomic Bomb」の最近のカストマーレビューがないだろうかパソコンを見たが見つからず、2006年8月6日に書いた西岡昌紀氏(内科医)のカストマーレビューが見つかった。その全文を引用します。
引用開始
「アメリカは、何故、日本に原爆を投下したのだろうか?その問いに対する、アメリカの歴史家アルペロウ“イッツ教授の答えである。
この本は、アメリカによる広島、長崎への原爆投下をライフワークとして来たアメリカの歴史家ガー・アルベロウ“イッツ教授が1995年に発表した大著であるが、その、日本語訳
(「原爆投下決断の内膜」上・下(はるぷ出版))は、2006年8月現在、残念ながら、絶版の状態に在る。私は、この本の日本語訳が絶版状態に在る事を残念に思う。
この本を読めば、広島、長崎への原爆投下が、戦争を終結する為の決定ではなかった事は、誰の目にも明らかである。そして、大統領をはじめ、原爆投下が不必要であった事を認めたアメリカ指導者が枚挙にいとまが無い事に、誰もが、「語るに落ちた」という気持ちを持つに違いない。
更に、この本は、原爆投下後、アメリカ政府・軍関係者が、原爆投下を正当化するために、どのようなウソをついたかまでを、徹底的に書いた。アメリカ人歴史家による、自国指導者への筆誅の書となっている。「ウソと暴力は、双子の兄弟だ。二人はいつも一緒にやってくる。」と言ったのは、ロシアの作家ソルジェニーツインであった。彼のこの言葉は、原爆投下が必要だったと言うアメリカのウソについての言葉であるかの様である。」
引用終了
私の感想文も全く同じです。すごい暴露には驚きました。「原爆投下が百万人以上のアメリカ兵の命を救った」と言って信じて疑わない退役軍人がいるのだ。さらに数年後、原爆投下のアメリカの神話を丹念に調べ上げ1997年にアメリカ人が書いた大作にもびっくりしました。原題は英文で、「An Exhibit Denied―Lobbying the History of Enora Gay」,日本語訳「拒絶された原爆展」(歴史のなかのエノラ・ゲイ)、(山岡清二監訳、渡会和子、原純夫訳、3800円、みすず書房)。作者はマーティン・ハーウィット。最近パソコンでこの本に対して誰かカストマーレビューを書いていないか調べて見ると、2003年6月3日に「やまちゃん」と言う名前で「20世紀の歴史に残る名著」として書いています。その全文を紹介すると、
引用開始
 国立航空宇宙博物館の元館長、マーティン・ハーウィットによる本書は、20世紀に頂点を迎え、そして21世紀に入ってもその勢いを弱めようとしない偏狭なナショナリズム、または「国民の物語」が、具体的な形で論争を引き起こした事例を生々しく物語っている。
 エノラ・ゲイ展示論争と時を同じくして、日本では歴史教科書論争が勃発した。従来の歴史教科書は「自虐的」であり、これではそれを使って歴史を学ぶ子供たちが自分の国に誇りを持つことはできないとして、教科書記述の大幅な改訂を要求する運動が一部の保守派知識人によって展開された。
 この二つの論争に共通する点は、自国民から多数の死傷者を出した過去の戦争の記憶をめぐって、その記憶を「国民の物語」、すなわちアメリカ人としてのまたは日本人としての集団記憶として語ることへの執着が、そう簡単には消滅しないという厳然たる事実を提示したことである。
 この二つの論争における大きな違いは、日本においては、「日本人としての誇り」を強調したグループの主張が歴史の歪曲、歴史修正主義として猛烈な反発を招いたのに対し、アメリカのエノラ・ゲイ展示論争においては、記念的性格とは異なる、学術的で分析的な展示を企画し、原爆投下の道義性や被害の実態などにも言及しようとした博物館スタッフに対し、退役軍人らが「政治的正しさ(political correctness)」という看板によって事実を捻じ曲げた修正主義という批判を浴びせたことである。日米間では、明らかに多数派の言説が正反対の特徴を示しているのである。つまり、アメリカでは愛国的言説が素朴に受け容れられる素地が大きいということである。そのことは2001年9月11日の同時多発テロ以後のアメリカにおける言説の保守化やハリウッド映画に頻繁に現れる、愛国心の肯定的な描写からも明らかである。
 国際交流の美名の下に全く異なる歴史観を持つ二つの国が協力を試みる時、各々の「国民の物語」が我々の前に立ちはだかって、陰に陽に論争の火種を持ち込んで来ることに、我々は常に敏感でいなくてはならないだろう。「国民の誇り」に執着する自慰的な言説が非生産的であることは言を俟たないとしても?それを克服することが言うほど易しいものではないことを、本書ははっきりと示している。20世紀の歴史に残る名著であると思う。
引用終了

「拒絶された原爆展」の頁数は索引を除いて599頁の大作です。これを出来るだけ簡潔に内容を語ります。国立航空宇宙博物館の信任の博物館長(マーティン・ハーウィット)になった時、翌年5月1日が原爆搭載機のエノラ・ゲイ号が長らく修復過程のあったのが5月1日に修復が終わり、長らくアメリカ国民に見せらのれなかったのが見せられる日になった。またその年の5月が原爆投下の50周年だった。この時を利用して、エノラ・ゲイ号をアメリカ国民に見せ、原爆投下50周年記念の行事をしようと考えた。早速新館長は、広島、長崎に原爆投下の資料の貸し出しをもとめた。一方国立宇宙博物館にとってやりにくい相手、議会と退役軍人協会の交渉に入りました。博物館側は、予算の承諾を議会から得なければなりません。退役軍人協会は過去の軍関係の資料がありその資料を借りださなければなりません。退役軍人協会は、アメリカでも強力な圧力団体でもあった。資料関係の提出は博物館側と退役軍人協会側との交渉になります。会場に提示する資料が退役軍人協会に握られ博物館側スタッフに不満がたまります。ここで新任館長、マーティン・ハーウイットは、一寸の虫にも五分の魂とばかり辞職覚悟で反撃に出た。その反撃も原爆投下を肯定する人たちにとって一番痛いところをついてきたのです。ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長の見積もりによれば、戦闘部隊19万のうち死傷者数六万三千名、そのうち死者は一万二千名から一万六千名と書いてあります。「原爆投下が百万人以上のアメリカ兵の命を救った」と信じて疑わない退役軍人にとって、死傷者6万三千名、死傷者に至っては一万二千名から一万6千名という数字は絶対に受け入れない数字でした。時のクリントン政権は「エノラ・ゲイ展」日本名、「原爆展」を、オープン直前にも中止し、カタログは販売禁止になった。ハーウィット館長も辞任した。この時の事情を克明に描いたのが「拒絶された原爆展」(歴史のなかのエノラ・ゲイ)1997年 みすず書房。

後年、2015年3月2日の日本の中国地方の中国新聞の記事に、「ヒロシマは問う 被爆70年」 「神話」の壁」、金崎由美記者が、ハーウィット元館長に取材している記事がパソコンに載っていました。最初の「問い」と「答え」を抜粋しました。
「――大量に送り付けられた抗議文から、壮絶な批判の矢面に立っていたことが伝わってきますね。
博物館としてやるべきことを全て要求したまでだ。機体の展示だけでなく、歴史的な背景についても最新の研究成果を提示する。来館者が豊富で正確な情報を得る場にする。米国と広島、長崎の両方の見方を尊重し、知ってもらう計画だった。」(以下省略)

ここでマーティン・ハーウィット新官庁を私が信用するのが、私は他の書物でも知っている事は、大東亜戦争中、ヨーロッパ戦線の最高司令官アイゼンハワー元帥が1948年に回顧録「Crusade in Europe」を出版した。
「私は原爆のようなものが敵に対して絶対に使われることがないようにと、私の望みを伝えました。なぜなら私は、アメリカが戦場でこのような武器の使用に先頭をきることを望んでいなかったからです。」
この回顧録はベストセラーになっているけど彼の発言は注目されることもなかった。
その後アイゼンハワーは、1953年に第34代アメリカ大統領になり二期務め退任後の1963年に二冊目の回顧録「Mandate for Change」を出版。この本のなかでも原爆使用の反対を唱え、さらに前作の回顧録より詳しく反対理由をのべているが、退役軍人協会も、メディアもクリントン政権も原爆展を開くこと中止したのだ。

ところでこのブログのお三方、ハリー・レイ氏、杉原先生、阿羅先生がたは、この話題のみすず書房の本、「拒絶された原爆展」(歴史の中のエノラ・ゲイ)を読んだのでしょうか。特に杉原先生とハリー氏は、共著で「日本人原爆投下論はこのままでよいのか」(原爆投下をめぐる日米の初めての対話)について一言も語っていません。「拒絶された原爆展」の和訳出版は1997年です。ところが、ハリー、杉原両氏の出版は2015年12月。私に何か理由があるに違いないと思っています。
私事を引き合いにだして恐縮ですが、私は「つくる会」に入会したのが、平成17年8月3日です。その時は、私は「つくる会」の中でも無名の定年サラリーマンです。翌年平成18年10月に私の三作目の本、「原爆正当化のアメリカと従軍慰安婦謝罪の日本」を出版しています。ここでも私は無名同然。私はこの原爆正当化の中で、私が上げた三冊の原書、「The Decision To Use The Atomic Bomb」,「Hiroshima In America」、「Hiroshima,why America dropped the atomic bomb」と一冊の和訳本、「拒絶された原爆展」(歴史のなかのエノラ・ゲイ)とその他数冊の参考物件として使用したことを私の本には書いています。
一方、私は二人の共著、「日本人の原爆投下論このままでよいか」の参考文献をチェック、特に和訳本、「拒絶された原爆展」は参考文献にはなかった。なぜ選ばなかったのか、説明していただければありがたい。
出版社の展転社をチェックして頂き、在庫が在れば、もしあなたが「つくる会」の会員であれば、読んでいただきたいと思っています。本の表紙には宣伝のため、大文字で「国家の名誉や誇りを気にしない国民がどこにいるか!」と書いてあります。その下に小さな文字で
「大作『大東亜戦争は、アメリカが悪い』で気炎を吐いた作家が再び現代人を叱咤する憂国の一書。
本のタイトルは、「原爆正当化のアメリカと従軍慰安婦謝罪の日本」、展転社、値段ハードカバー、2000円+税。よろしくお願いいたします。

コメント

若い女性たちに告ぐ(えんだんじのブログ特選集)

若い女性たちに告ぐ(えんだんじのブログ特選集)
令和2年1月15日から私の新出版本が全国的に本屋で販売されます。本のタイトルは上記の通りです。出版社は文芸社です。今年の12月には作者の私には、新本が手に入りますので、無論、限度がありますが、できるだけ皆さんに贈呈したいと思っています。本の目次を伝えますと本の全容がわかりますので、目次の前半部をお知らせします。
目次:
一. 文化の使い分け     2コメント  平成20年(2008)12月28日
二. 文かの使い分け(その2)14コメント 平成21年(2009) 1月4日
三. アイヌ民族とアメリカン・インディアン 11コメント 平成20年(2009)3月
                          1日
四. アイヌの末裔二人のコメント(1) 5コメント 平成21年(2009)3月10日
五. アイヌの末裔二人のコメント(2)10コメント 平成21年(2009)3月18日
六. 戦うことは貴いことである。 19コメント 平成21年(2009)4月19日。
七. 男の涙           10コメント 平成21年(2009)9月13日
八. 鳩山のバカ、アホ、ノータリン(その2) 6コメント
                    平成21年(2009)10月2日
九. 教育が日本男子をダメにした。3コメント 平成21年(2009)11月7日
              *コメントは次章にも反映されています。
十.若い人たちからの反応。   18コメント 平成21年(2009)11月11日
十一。鳩山のバカ、アホ、ノータリン(その4)、 14コメント 平成21年(2010)4月10日から最終の二十四までケネディ駐日大使への手紙。10コメント 平成24年(2013)12月27日と続きます。えんだんじのブログ(全総数、315通)の中で反響の大きかった24記事をまとめてみました。

私はこの本のタイトルを初めは、「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」と決め、本文の中では「鳩山のバカ、アホ、ノータリン(1)」から(7)までのを全文を披露しました。すると頁数が多くなり400頁を超えてしまいました。私は貧乏暮らしで大学も出ず、鳩山みたいな大金持ちが大学を出たのはいいが、大馬鹿ぶりを見せると、ここぞとばかりに攻め込みたがる。出版社、文芸社は、まるで私の鳩山への八つ当たりのようだとタイトルを変えることを望んだ。そこでタイトルを「若い女性たちに告ぐ」に変えました。

本には宣伝のため帯をまきますが、その帯のオモテの宣伝文句は!
『国際化が一層進んだこれからの世に、
日本人はどう生きるべきか?
えんだんじが「今」を斬る!
政治、経済、歴史を初めとして女性、人生、映画等の幅広いテーマで持論を発信し続け話題を集めてきた「えんだんじのブログ」から、特に反響のあった24記事を厳選して書籍化。』

帯のウラの宣伝文句。
『少なくとも数百年続いた日本男子の習性。「男の涙」は完全になくなってしまったじゃないか。この本を読んだ若者は、文句があるなら言ってみろ。』

できるだけ採用者全員の応答を取り入れましたので、採用頁数、384頁数になり少し厚めの本になりました。ご期待のほどよろしくお願いいたします。




コメント

夏の甲子園、高校野球雑感

私はプロ野球は、阪神タイガースのフアンだから、ここ何十年間とテレビナイターを見てきたが、夏の甲子園の高校野球は、今年何十年ぶりかで初めてテレビ放送を見た。それでは何故、夏の甲子園の高校野球のテレビ放送を何十年間も一度も見たことが無かったのか。高卒後何年後か、何十年後かに初めて夏の高校野球の試合をテレビで見たとき、画面ではファンが母校の応援歌や母校の校歌を歌っているとき、私は母校、県立鎌倉高校の応援歌や校歌の歌詞の一言も、そのメロディーの一節すらも思い出せなかったのです。完全に忘れてしまっていたのであった。
それには理由があった。私が中学校を卒業する前年、昭和25年(1950)の4月からいわゆる「就職列車」が始まっていた。経済力のない地方在住者の中卒生を大都会に集めるために政府は「就職列車」という夜行列車を運行させたのだ。それから20年間運行させたのだ。私は現在81歳だから現在60歳位から81歳ぐらいまでの人たちの最終学歴が中卒の人が一番多いい年齢です。
私は神奈川県川崎市生まれの神奈川育ち、戦争中父親の故郷、富山県射水市に一年半ぐらい疎開、戦後は神奈川県の横須賀市の追浜に小1から中卒まで9年間住んでいました。中卒の時、父は藤沢市辻堂にぼろやを建てた。その時、我が家では私が公立(県立)の高校に入学できなければ中卒で働かねばならないことは十分わかっていた。その頃湘南地方のトップの高校は湘南高校であった。中学の先生によると組で5番の私の成績では湘南高校は無理だからと言って鎌倉高校を進めてくれた。その通りにしたら無事鎌倉高校に入学できた。
入学して初めてしったことは、いわゆる湘南地方に住む住民は、いわゆる中産階級で、横須賀市追浜に住む人たちとの貧富の差が大きすぎることだった。
私が住んでいた追浜は、車やバスが走る道路から山頂をめざして15分ぐらい上り詰めた山中の中であった。私の家より上は三、四軒の家があるくらいで、その上は山中に入った山の中だった。水道などあるはずもなく、四軒で使う共同井戸は、つるべ落としで水をくみ上げていた。6畳と4.5畳、と台所の借家だったが、小さな庭があった。我が家は五人家族で両親と私と二人の妹。父は戦後、重症の肺結核で入院、片肺切除で、4,5年入院していた。長男一人の私は小さい時から家の手伝いをした。井戸水の汲み取り、サトイモ、じゃがいも、サツマイモ、トウモロコシ、野菜などな栽培の母親の手伝い、便所は汲み取り、これは私が男だから私専用の仕事だった。便所の汲み取りでは思い出がある。長いひしゃくで汲み取り、大きなバケツに入れ、バケツがいっぱいになると畑の中に大きな穴の中に捨てる。これを繰り返すと便所の中はきれいなるのだが、最後の残った濁り水を完全に汲み上げることが出来ず、どうしても少し残ってしまう。便所掃除をして、最初の犠牲者が、健全な大便をしたとき、その大便が便所掃除で取尽せなかった濁り水の中に落ち、ポチャリと上に跳ね返るのだ。跳ね返り水がお尻の肌に当たるのだ。それを二、三人繰り返すと、正常に使えるのだ。
そんな貧乏生活した上で、ぼろ家とは言え、一応新築した家に引っ越したので家族は喜んだ。
何しろ終戦直前に重症の肺結核で入院、片肺切除で4,5年入院して、退院後すぐに働きだしてから建てた家だからです。退院後の無理な働き方が原因か、一家が藤沢市の辻堂の引っ越した直後に、父は腎臓結核を診断され、医者から二つある腎臓のうち、一つを手術で切除すること宣言された。父は家を新築したばかりで、腎臓など切除できるかと怒るようにして、現代医療のすべてを拒否するメシヤ教という新興宗教に凝った。こうして我が家には再び新しい医療問題がもちあがった。

私は県立鎌倉高校に入学すると、まず私がびっくりしたことは、男子学生でも多くが、友達同士で「君」、「僕」と話していることだった。横須賀では男子生徒全員が、「俺」、「お前」だ。私は即座に男子生徒とは友達になれないと判断し、積極的に交わろうとはしないことにした。中学校は横須賀だから中学時代を知っているやつは誰もいなかった。私が孤立的になるのはとても楽だった。その頃鎌校は、私にとって好都合なことをやっていた、高校生のアルバイト禁止だ。当時「江の島ゴルフ場」と言うゴルフ場があった。藤沢駅、鎌倉駅間に江ノ電が今でもある。駅名から言うと「江の島駅」、「腰越駅」、「鎌倉高校前駅」、などと順番にあるがこの腰越駅から山を登ってゆくと、景勝地江の島が一望できる江の島ゴルフ場があった。山坂のきついコースだったが、このゴルフ場のオーナーが獅子文禄の小説「大番」のモデルと言われた佐藤和三郎です。私は夏休みの三年間キャディーをやっていた。この間現在俳優の中井貴一の父親、有名俳優の佐田啓二のキャディーをやったことを覚えています。
学校では、授業料以外に払うお金はすべて欠席していた。修学旅行、クラブ活動、運動部のクラブ活動など。高3の時、一週間の北海道旅行があった。一週間学校は休みかと思ったら、修学旅行中の一週間は、持病持ちであまり体力のない男子生徒と私と二人で学校でおしゃべりしたり、本をもっぱら読んでいた。修学旅行が終わって全員が学校に戻った時、担任の先生が鈴木が可哀そうだと思って皆がお土産を買ってくれたというので、私は前の方に出てもらった。先生が皆にお礼を言えというので、「ありがとうございました」と言った。これは私には屈辱以外の何物でもなかった。こうして授業以外は、全部欠席し、夏休みは三年間極秘でゴルフ場のキャディーをやり、鎌倉高校の校歌や応援歌を歌うこともなく卒業してしまったのだ。母校の校歌や応援歌を何一つ覚えていないのは当然です。今年の高校野球は、大阪の履正社高校が初優勝、創立1922年以来の初優勝だから、同窓生、先輩たちは、感極まったことでしょう。私には青春時代の楽しい思い出は何もないのだ。

卒業まじかになると女生徒は働く人が沢山いるので、学校側から就職先の連絡があるのは当たり前ですが、男子生徒は全員大学受験ですから私にはなんの連絡ありません。担任の先生は、「鈴木君、君は就職すると思うが、君、どうする?」と聞くから、「僕は、職安で探すからいいですよ」と言って、先生とのかかわりを断ってしまった。あの当時、横浜の長者町に職業安定所があった。そこにゆくと、英語がしゃべれると、いくらでも仕事があり、給料も結構高い。そこで私は英語をもっと勉強しようと思い、横浜在住が長い人は、知っている人が多いいと思いますが、横浜山下橋の近くにバンドホテルがあった。ボーイにでもなれば、英語を話す機会が多くなるのでないかとバンドホテルのボーイになった。初任給昼食つきで6,500円だった。高卒18歳から定年61歳までの43年間は、波乱万丈の生活だった。
私の生き様ぶりは、私の小説、「えんだんじ、戦後昭和の一匹狼」(文芸社、1,600円)に描かれています。今思うともっと日本国内の政治情勢を書くべきだったと思う点があるのです。戦後長い間日本は、苦労した。その長い期間、民間ビジネスでは、多くの民間人ビジネスマンが才能を発揮して世界的ビジネスマンになった人も沢山います。しかし政治の世界では、戦後の長い期間、特出の才能を示した政治家が一人だけいた。田中角栄だけである。戦後、日本は常に米国追従であった。吉田茂以下30名の総理大臣のうち、田中角栄は極めて異色であり、唯一、毅然とした姿勢で米国と対峙した。日本の国益を常に追求し、これを第一番目の基準におき物事を判断し、勇気をもって米国のはばかることなく独立独歩の政策を次々と実行し、真の意味での総理大臣中の総理大臣であったというのが私の田中角栄の総合的評価です。ところが田中角栄の金権政治ぶり徹底的に批判された。石原慎太郎も自民党議員だが、ボン、ボン育ちの若さゆえに角栄の苦労がわからない。読者の皆さん、男というものは、金のない男は、目くそ鼻くそと同じ。全く役立たないのだ。政治家にとってはなおさらだ。私も高卒後、外資系五社を渡りあるき、61歳で定年、再就職することなく現在81歳まで半ば作家気分で本を書き続けられるのもその蓄えがあるからこそなのだ。田中角栄反対の急先鋒だった石原慎太郎も都知事になったころから、角栄のすごさが分かったのでしょう。石原が84歳(2016年)のとき、角栄を天才とほめあげ、小説「天才」を書き、出版。石原を礼賛し、それがベストセラーになっているのだ。
その後田中角栄は、日米政府の司法界の謀略に巻き込まれたロッキード裁判という「冤罪事件」に巻き込まれ、病気になり病死してしまった。吉田茂以下総理大臣は、沢山がいるが、田中角栄以下は、総理大臣に値しない政治家ばかりだ。現在の政治環境を見てみろ、日本は戦後大変苦労してきたのだ、それにもかかわらず、政治家稼業は、家族経営、すなわちフアミリービジネスに陥ってしまったのだ。日本みたいに家族が代議士出身の代議士が多いいのは世界でも非常に珍しいのではないか。日本の将来に希望はもてません。これからはずっと下降線をたどるのではないか。ここからは、皆さん、最重要なことを、書きますからじっくり読んでみてください。私たち日本は、明治憲法の下で日清、日露戦争、第一次世界大戦を戦い、これらの戦争で戦い勝利し、大東亜戦争でアメリカに負けた。勝利国のアメリカは、太平洋戦争は日本が悪かった主張し、アメリカ占領軍が作った憲法を押し付けたのだ。戦争に負けた国が、勝った勝利国に憲法を押し付けられ、その憲法を改正することもなく、そのまま大事に70年間以上使い続けている国は、世界には日本以外にありません。田中角栄が生きていたら、現行憲法を無効にし、新憲法作成にまい進したことは間違いないと私は思っています。

コメント

なぜ日本民族は、核シェルターを作れないのか?

なぜ日本民族は、核シェルターを作れないのか?
毎年八月になると、広島、長崎で原爆慰霊祭がNHKテレビなどで必ず放映される。それと同時にNHKは必ずこの時期に大東亜戦争当時の戦争ドラマやドキュメンタリードラマをいくつか放映し、いかに日本軍が悪かったを示し、大東亜戦争日本悪玉論を日本国民に植え続けているのだ。今から30年ほど前、私は現在81歳だから、私が50歳位ごろから、毎夏もう日本は核シェルターを作るべきではないかと考えていた。核実験の一切禁止を長年世界に訴えても、核実験禁止どころか、新たに核武装する国が増えているからだ。さらについ最近、2019年2月、トランプ大統領は、ソ連と結んでいたINF全廃条約(中距離核戦力全廃条約――米ソ間で結ばれた軍縮条約)の破棄をロシア側に通告。その後米は、中距離ミサイルでは世界最大数を持つ中国に、米中ロの三加国での話し合いを求めたが中国とロシアは応じなかった。1967年(昭和42)日本では佐藤栄作首相が、日本は「核兵器は持たず、作らず、持ち込まず」といういわゆる非核三原則を公言した。その7年後の1974年、佐藤栄作はノーベル平和賞を受賞している。昭和40年代では、まだ世界では核シェルターを充分備えている国はなかったのでしょう。だから核戦争は起きなかった。しかし現在は違う各国の核シェルターの普及が進んで、家庭用の核シェルターまであるのだ。この世界の現実を見て、もし世界に核戦争が起きたら、日本民族は間違いなく全滅してしまう。例えわずかでも日本民族の生存を願って核シェルターを作らなきゃダメだと、原爆犠牲者の家族の中からでも日本にも核シェルターを作ろうという声が上がって当然だと私は思っているのです。ところが未だに核シェルターに最も敏感と思われる原爆犠牲者の家族からの声が何一つあがりません。
今から30年前、私の50代初めのころから現在まで東京の地下鉄の発展を目の当たりにみて、これだけの技術を持ちながら、なぜ公共施設の核シェルターを作らないのだろうか不思議でしょうがなかった。作る技術やお金の問題でない、一般国民の核シェルターに関心があるか、どうかの問題であった。何でも技術革新があるように30年前は、核シェルターといえば防空壕タイプでいまや家庭用の核シェルターもあるとのこと、日本核シェルター協会では、人口あたりの核シェルター普及率は、下記のごとくであるという。
スイス 100%、 イスラエル100%、 ノルウェー 98%、 アメリアか 82%、ロシア 78%、 イギリス 67%、シンガポール 54%、日本 0.02%
日本には核シェルターは、ほとんど一基もなしのような状態です。イスラエル、スイスが100パーセントというのは両国とも家庭用核シェルターのメーカーがあるからだ。特にすごいのは、スイスだ。1963年の法律で義務化、核シェルター普及は官民一体となって推進中だ。新たに建設される大型ビルには、民間、公共問わず地下に核シェルターを設けることが義務付けられている。公共核シェルターは全国に5000基あまり。病院や学校といった公共の地下にあるシェルターを合わせると、その数30万基にもなるという。全人口の114%収容が可能。広島、長崎両市民、両市長、両原爆被爆者たちに言いたい、あなた方は、戦後七十年間なにをやってきたのだ。核兵器実験の禁止をいくら世界に訴えても核保有国が増えるだけ。このままだと核戦争が起きても、生き残れる日本民族はいない。だから日本にも核兵器を作ろうとあなた方が声をあげれば、危機意識のない他の日本人の魂を揺り動かすことができると思います。それには、原爆慰霊祭や世界にむけて核実験反対の声をあげた原水協(原水爆禁止日本協議会)や原水禁(原水爆禁止日本国民会議)の両方を脱退しなければなりません。なぜなら両団体は原水協(社会党や総評中心)、原水禁(共産党中心)にできた左翼政党。左翼政党は思想を訴えることはできても何も実行力はありません。広島、長崎の両市民や原爆犠牲者がいるご家族の皆さん、ぜひ両会を脱退して日本国内にも核シェルターを設置しようと運動を始めてくれませんか。日本政府に核シェルター建設の資金を出させ、広島、長崎、両市民も多少なりとも資金を負担して頂くというスイス方式で核シェルター建設しようという気持ちがおきませんか。核シェルターを建設しようと気持ちが起きるどころか、広島、長崎両市は市内の高校生をこの夏、国連に行かせ、「核実験絶対反対」の演説をさせているのだ。広島、長崎両市議会が、日本にも核シェルターを建設すると決心すれば、全国の地方都市にも広がると、私は思うのですけど。

核シェルターの外に日本は戦後70数年間何もやってこなかった大きな問題があります。皆さん、なんだと思いまうすか、現行憲法の破棄、新憲法制定、ないしは現行憲法の改正です。皆さんご存知のように現行憲法は、戦後のアメリカ占領軍(GHQ)が作ったものです。外国がつくった憲法なんか破棄して当然、少なくとも改正されて当然。ところが日本は未だに改正すらしてこなかったのだ。ここでも日本民族は、当然すべきことが何事もできずに終わっているのだ。日本政府の発表によると、戦後主要国の憲法改正数の数を見ると、
アメリカ6回、フランス27回、ドイツ62回、イタリア15回、インド103回、中国10回、韓国9回、日本0回。
日本は憲法改正数0の上に、1967年(昭和42)に佐藤栄作首相は、日本は「核兵器は持たず、作らず、持ち込まず」という非核三原則を公言した。核戦争が始まると日本人は待避する核シェルターがないから、皆自由に「死の灰」を吸えて日本民族はこの地球上からほぼ消え失せてしまうのだ。バカ、バカ、バカな日本人よ。日本は核兵器を自ら作って、どこかの国に落としたのか、こんな愚かな外交政策をとっている国が日本以外にどこにあるのだ。ぼけーっとしていないで、目をさませ!こんど安倍政権は、ごまかしの憲法改正でなくて、日本の文化、歴史にもマッチした、日本の国情にも、世界の情勢にも適合した新憲法を作り出す雰囲気づくりがまず必要なのだ。いずれ近い将来、核戦争はおこるでしょう。核シェルターを持っている国は、全民族が生き残るわけではないが必ず生き残る人がいるのだ。しかしこのままでは、日本民族は生き残れないのだ。ボケーっとしてバカ面している日本人よ、「平和」は誰かに与えられる物ではないのだ。自分の行為で平和を作り出すものなのだ。その意味で現行憲法を破棄し、新憲法制定に反対するどころか、憲法改正にも反対するや野党議員とか知識人は、お前らさっさと先に死ね。お前らに生きている価値は全くない。お前らは即、死ぬことによって価値が生まれるのだ。お前らが死ねば、即日本は、新憲法制定してアメリカ保護国から脱却して、完全な独立国になるでしょう。私の人生はあと10年くらいでしょう。私の死後10年以上も現行憲法を利用しているなら、私が化けて出るぞ。もういいかげんにして、現行憲法問題は、新憲法制定でけりをつけろ。

コメント

「80-50問題」は共産党のせい。(その2)

前回、(その一)で伝えたように、私が中学を卒業する前年、昭和29年(1954)4月5日、15時33分発青森駅発上野駅行き臨時夜行列車。これが、その後20年間呼ばれる「就職列車」の始まりだった。北海道、東北、北陸、九州、中国、四国などから中学卒業生が就職先として大都会に呼び寄せられたのだ。私は現在81歳だが現在79歳から99歳までの年齢の人は、最終学歴が中卒の人が一番多いい年代だということです。
私が高卒で社会に出て驚いたことは、大学生が共産主義にかられた政治的な暴動に出る行為が非常に多かったという印象だったことです。
アメリカ占領軍(GHQ)が占領当時の政策の一つに治安維持法の撤廃と政治犯の釈放の要求だった。約220名の共産党員が獄中から解放され、徳田球一、宮本顕治、志賀義男、袴田里見などが出獄と同時に、「党拡大強化促進委員会」を作った。機関誌「赤旗」を再刊行し、党本部を現在の渋谷区千駄ヶ谷に置いた。戦争に反対した共産党員たちの出獄は、凱旋将軍を迎えるように歓迎されたのだ。その後数十年間、共産党や容共勢力(労働組合、国労、日教組、日弁連、知識人、学生たち等)が我が世の春を謳歌するように暴れまくったと言ってよい。
私が高卒で働きだし、大学生の年齢になったころ。1960年6月(昭和35)に全学連が衆議院南通用門から国会にむけデモを仕掛け警官隊と激突した。その激突の最中に全学連の共産党員で東大の女子大生、樺道子さんが死亡した。死亡原因は警官隊との激突最中に転び彼女が下敷きになったからだ。当時女子大生は少なかった。それが東大の女子大生だから大きなニュースで取り上げられた。死亡時彼女は22歳、私と同じ年だ。私は貧乏、高卒で働いていたから大学生のストライキなど徹底して軽蔑していたから死亡した東大女性など同情心すらもわかなかった。

それから20年位たつと私も勉強して現在日本の保守知識人と言われる人たちの中には、共産党員だったり、全学連に加盟したりして反米親ソ活動に参加していた連中が多いいことを知った。例えば、最近自殺した西部邁だ。西部の年齢は、私より一歳若い。彼も共産党員で全学連の幹部だった。彼も死んだ東大女子大生、樺道子さんと同じデモに参加していた。西部の人生の後半には、有名な保守知識人になっていた。「俺は自殺する」など偉そうなことを言っていたが、いざ彼が自殺すると、彼の直近の部下、二人が自殺幇助者として逮捕されていた。若い時全学連に加盟したり、共産党員になったりした男が、大人になると有名な保守知識人になる人間は、西部邁以外にも大勢いる。「つくる会」の会長のとき八木秀次は、「つくる会」の執行部には極秘にして中国のスパイ網の一組織といわれる「中国社会学院日本研究所」を訪問し歴史認識をめぐって会談し、その後は逆に中国の歴史研究者を日本訪問させているのだ。その結果八木秀次は「つくる会」を追われ、その抵抗として数々の暗躍策を講じた。その一つが「つくる会」の幹部が現役の共産党員だというメイルを流しているのだ。そんなこと言えば。「つくる会」の理事経験者で現在は育鵬社の歴史教科書代表執筆者、伊藤隆氏は、共産党員です。この八木秀次が第二次安倍内閣が作った「教育再生実行会議」のメンバーの一人になっていたのには驚きのいたりです。

私は「つくる会」の神奈川支部の会員になって15年のベテラン会員です。「つくる会」の公立中学校用の歴史教科書と公民教科書の販路の邪魔をするのが各地方にある教育委員会。教育委員会のメンバーは、ほとんどが日教組あがり。日教組と言えばミスター日教組、と言われた悪名高い槙枝元文氏。彼は1971年に日教組委員長になり1975年に総評議長になっている。日教組委員長を12年間務め、又委員長になる前は日教組の幹部役員を務め、計30年間日教組の幹部だった。まさに「ミスター日教組」だった。その彼が日教組委員長時代の1973年に訪朝し、その際にこう語っている。
「この国は、みんなが労働者であって資本家、搾取者がいない。だから、みんながよく働き、生産をあげればあげるほどみんなの財産がふえ、みなの生活がそれだけ豊になる・・・この共産主義理論を徹底的に教育し、学習し、自覚的に労働意欲を高めている。またこのころは、労働―生産-生活の体験を通して現実的にも実証されているから国民の間に疑いがない。生活必需品はべらぼうに安い。ただも同然である。したがって生活の不安は全くない。だからこの国には泥棒がいない。泥棒とは富の片寄ったところに発生する。この国には泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいないから警察官もいない。交通整理やけが人のために社会安全員が街角にたっているだけ」。(「チェチェの国、北朝鮮を訪ねて」、読売新聞1974)
槙枝は、この時52歳、私はこの時3人の子持ちで35歳の亭主。私は凡人亭主だが、当時の北朝鮮を見る目は、槙枝ほど大馬鹿ではない。槙枝の支配する日教組の先生たちに気に入られる自虐史観もあらわな歴史教科書や公民教科書を戦後の出版会社を出版し、文科省は教科書採択戦の度に文科省許可を与えてきたのだ。さらに1982年、宮沢喜一内閣官房長官が近隣諸国条項「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」
文科省は教科書についてこの点が敏感になった。さらに1980年代に社会党の石橋委員長が非武装中立論を提唱。日本人が主張する論理には論理的な面、法的な面での考慮は全くなし、只情緒的に主張するだけ。知識人が非武装中立を唱えれば、進歩的文化人と呼ばれるのだ。
文科省はまた南京虐殺事件はなかったと否定する「つくる会」の歴史教科書には検定合格を決して与えなかった。文科省は、南京虐殺否定論者の学術論文を一切無視し続けた。そのため日本中に使用されている中学校の歴史教科書に南京虐殺事件を否定する教科書は一冊もなかった。 2015年(平成27)10月、南京虐殺事件についてユネスコは中国の申請に対し記憶遺産に登録した。これは安倍政権の大チョンボです。
戦後50年間は、共産党を含む容共勢力、(日教組、労働組合、教育委員会、歴史学者、市民団体、日弁連、朝日新聞を筆頭とする各メディア等)発言力、行動力が最高に強かった。これにくわえた政府の反発力は弱かった。その影響力が日本国民の愛国心の強さを弱めてしまった。一つ例をあげれば、「思想、信条の自由が常に正しい」と主張するあまり公立の小、中、高、では「君が代」を歌わず、「日章旗」を挙げなくなってしまった。現在日本人の愛国心は史上最低でしょう。

ここで読者の皆さんによく知ってもらわねばならないことがあります。愛国心の薄い民族には共産主義が流行るということです。では日本共産党の実体を見てみましょう。
党員数:1961年・8万800人、1982年・48万人、2017年・30万人。
「しんぶん赤旗」の読者数:1961年・30万人、1980年・355万人、2017年・113万人
支部数:2000年・2万6000、2006年・2万4000、2018年・2万支部。
政党への個人寄付額:2016年・日本共産党(80億2362万円)、自由民主党(39億7356万円)、公明党(25億6560万円)、共産党の個人献金は自民党の二倍、公明党の3倍以上。日本共産党の議員数:国会議員2018年現在・衆参26名(衆議院12名、参議院14名)、地方議員2017年現在2754名(都道府県議会149名、市区町村議会2605名)
これだけ多くの議員を抱えている共産党は、明らかに大きな政治力を持っています。

それでは世界の共産党の勢力を見てみましょう。現在、共産主義の国は、中国、キューバ、北朝鮮、ベトナム、ラオスの五か国のみ。主要先進国で共産党が国会で議席を持っている国は日本とフランスのみ。ところがフランスの共産党はジリ貧が続くため党名変更が議論されているのだ。少し古い話だが昭和29年8月のニューヨーク・タイムズが世界で共産党を非合法化している国を調査しています。非合法化している国は、アメリカ、スペイン、韓国など約40か国、違法ではないが制限している国は西ドイツなど多数あります。要するにもう欧米では共産主義が死滅しつつあるのだ。二十世紀は、共産主義の誕生と死滅を目撃した世紀と言われています。「共産主義国書」によれば「ソ連2000万人」、中国6500万人」が粛清・殺戮されたと述べています。それではなぜ日本の共産党だけが隆盛を迎えているのか、世界では極めて珍しい珍事と言っていい。読者の皆さん、その理由は何だとおもいますか。その理由は現在の日本人は、世界最低の愛国心しか持っていないからです。一つ数字を上げましょう。日本の調査機関が36か国を調査した。「もし戦争が起こったら国のために戦うか?」
「はい」と答えた日本人は15.6%、韓国人は74.4%、中国人は89.4%、アメリカ人は63.3%。

50年間以上も自虐史観が教えこまれ、日の丸を上げず、君が代も歌わない時代が長く続いた。現在でも日本をことさらひどくけなす人が多いいから愛国心などないのだ。
現在、「80-50問題」があります。親が80歳代で子供が50歳代。親は大学出で、子供も大学出て、子供50歳代でも「引きこもり」。私も8月で81歳になる。私の年代の大学生は、全学連の大学時代、卒業すれば大企業のストライキ、日教組(学校の先生)のストライキ、国鉄労組のストライキ等々、ストライキ慣れして、日本全体が共産主義国家にはならない、と思って、無意識のうちに容共精神になっているのだ。50代の自分の子供が「引きこもり」になっても老後は生活保護などで政府が面倒見てくれるだろうと安心感にふけっているのだ。そこで私は、現在の年寄で年齢が75歳位から95歳位の年齢で大学に進学しておらず、特に中卒で大都市に働きに出た人たち。私は高卒で苦労したが幸い自宅が大都市、横浜に近かったから就職列車に乗らずにすんだ。中卒で就職列車にのって大都会に働き来た人たち、あなたがた大変苦労して生活を築きあげた人たちだ。私はあなたたちの苦労がわかるのです。明日の日本に向かって苦労する日本に向けて、あなたたちの率直な意見を積極的に公言してください。特におばあさんたちには、現代の若い女性には、きっと苦言があるはずです。それを世間に向けてどん、どん発言してください。私の時代の大学卒業生たちは、皆さん、大なり、小なり組合活動などで共産主義の影響を受けているのだ、高卒で終わった人、中卒で終わった人だけが共産主義に影響を一切受けてこなかったのです。日教組の先生方は、皆、共産主義の影響を大なり、小なり受けているのです。50年間以上自虐史観の歴史をふりかざし、祖国日本をぼろくそにけなし、学校で君が代を歌わせず、日章旗を上げる事さえ禁止したのだ。それだけに皆さんの声が大事なのです。お願いです、大声をあげてください。共産主義者たちを徹底的に叩き落としましょう。

参考文献:拙著「保守知識人を断罪す。(つくる会)苦闘の歴史」 総和社、平成25年
     「日本共産党の正体」。福富健一、新潮社、平成31年。
    「数字の比較でわかるトンデモ日本」。「日本の数字」研究会、主婦の友社、2021年。         
     ウイキペディア 

コメント

「80-50問題」共産党のせい。(その1)

80歳代の両親に寄宿して暮らす子供たちが世間的な問題を越したり、或いは親が自分たちの死後を心配して問題を起こしそうな自分の子供を先に殺したりする。親が80代で子供が50代の人は多いいので略して「80-50問題」と呼ばれている。80代と言えば、私がちょうど80歳だ。この8月になれば81歳、子供3人いるから上の娘二人は、二人とも50歳を超えた。一番下の長男は、50歳直前です。私は結婚式をあげた時、妻は妊娠3,4カ月だった。仲人をしてくれた上司は、ささやかな費用でいいから結婚式を挙げた方がいいと言ってくれたので自分で貯めた少ないお金を使って新宿の公民館であげた。二人の娘が生まれ、三番目に長男が生まれた。私は最初から三人産むつもりだった。当時は結婚した夫婦は、皆一人か二人だった。猫も杓子も子供は一人か二人だった。私はそれがいやだった。三番目の長男が小学校2,3年の時私たち夫婦は離婚した。離婚した時、女房は二人の娘を引き取り、私が買ったマンションに住み、私は息子を引き取り、私と息子は両親と一緒に住んだ。その理由は女房が息子の勉強のできが悪いので、こんなバカな子はいないと息子の前で堂々と言い、上の娘二人とあからさまな差別をしていたからだ。さすがに息子と私が、マンションを出るころには息子に対して急にねこなで声になり急にやさしくなった。息子は、母親のあからさまの変化には少しは動揺していたのだろう。私と息子が私の両親がいる藤沢にもどると、両親は私に直ぐ言った。息子は私が家にいる時は、私の言うことを素直に聞くが、私が会社に行っているときは、両親の言うことをなかなか素直に聞いいてくれない。おやじは、「あれはひょっとすると問題児になるぞ」と言って私を脅した。藤沢への小学校の転向手続きをとり、藤沢の小学校に通い始めたころ、突然息子が我が家から消えた。別れた女房に電話すると息子がいた。息子は、これからはママと一緒に暮らそうと言うから、僕もそうするというのだ。
私は、女房が一時的気まぐれでそういう方法を選んだのを知っていたが、息子には説明するのが難しかった。そこで「お前がママと一緒に住みたいなら、一緒に住みなさい。ただし自分が何処にすみたいのか、決めたら、次々と自分の住むところを変えるようなことはするな。小学校を転向するには必ず手続き必要だからな。」と電話を切った。
私はいずれ、ママから息子にもうお前はパパと一緒に住めと言われるだとうと思っていた。あれから二、三週間たったのか、一、二カ月経ったのか忘れてしまったが、夜中に息子から電話がかかってきた。息子は泣きながら、ママがもうパパのところへ戻れと言われたと言うのだ。その時、私の母は病気で入院するところだった。
私は一瞬、ちゅうちょなく次のことを言った。そのことが結果的に良かったのかどうかわからない。
「いいか、なお(直、息子の名前)、この前これからはママと一緒に住むと言っただろう。お前がそういうからパパはそう決めたのだ。今度はパパと一緒に住みたいという。そんな弱い精神状態でどうするのだ。男が自分で決めたことを、ママの都合であきらめるとは何事だ。
男が一旦口に出したことを、そう簡単に諦めてどうするのだ。」息子の返事を待たずに私は電話をきった。
後になって考えたのは、あの時息子の返事を待たずに電話をきったのはまずかったのではないか?母が入院でも息子を暖かく迎え入れるべきではなかったのではないか?一緒に暮らすべきではなかったのではないか?色々迷い悩んだが、これで息子がぐれたら、親の俺の責任とも思っていた。別れた女房は、息子とは、いつも喧嘩状態で仲が悪かったが、娘二人とは、仲が良かったわけではなく、息子とのけんかのように深刻にはならなかった。そのうちに女房は、息子より一歳年下の男の子の連れ子がある男性と再婚し、私が与えたマンションに同居し始めた。再婚者のいる前で、女房が息子のとこと激しく責めることが少し減ったのではないかと思った。彼女は自分が産んでもいない、他人の子を自分の子のようにやさしく育てることができないからすぐ別れるよと三人の子供の前ではっきり言ってやった。しかし二人目の父親になった彼氏を実の親のように仲良く接しろとは言えなかった。ただし連れ子とは実の兄弟のように接しろと言うのが精いっぱいだった。しかし、いつの間にか彼氏とその連れ子は、マンションを去っていった。こういうことは、いずれ起きるだろうと誰もが想像できたので、誰にも驚きはなかった。

今度息子が問題になったのは、高校入学の時だった。中学生になった時、女房は息子の勉強には一切関与しなかった。中学校三年になった時、私は初めて息子の中学校に行き、息子の受け持ちの先生と息子と一緒に面会した。中学卒業したらどうすると息子にきいたら、「俺は自衛隊に入りたい、二、三年、或いは三,四年、自衛隊に所属し、その後フランスの外人部隊の入ると言ったので、その通り中学校の先生に言ってやった。姉二人のよると弟は、自衛隊関係に夢中になっていて、体を鍛えるのに夢中になっていた。真冬でもジャンパー一枚着て、その下は半そでシャツ一枚だそうだ。さらに自ら中3から自主的にランニングしていた。中学校の先生は、学校の名誉のため、学校名は書かないが、一番最低の県立高校の名前を教えてくれた。ここを合格しなければ、私立の高校しかなかった。息子はこの最低の高校に入学した。その高校は全入学者が高校卒業時は三分の二ぐらいに減ってしまう最低の高校だった。そんな高校は入学式の時は、どんな入学式をやるのか、逆の意味で私は興味がわき、その入学式に参加した。入学式に参加する男女学生を見ると、まるで愚連隊がそろって学校に来ているみたいだ。もうとっくに入学式が始まっているのに、悪びれた様子もなく、急いでいる様子もなく、平気の平左で席に着く。それを見ていた私は、一瞬のうちに怒りが爆発し、大声をあげて怒鳴った。「お前ら、もう入学式は始まっているのだぞ、もたもたせず、さっさと自分の席順を探しだし席に就け、もさもさしていると俺が殴りつけるぞ。」
この時学校の校長や先生が私の怒鳴り声を注意するなら私は怒鳴り返すつもりでいた。「これが正常な入学式と言えるのか。幸い私を制しようする先生はいなかった。後で私が考えたことだが、この時私が興奮して怒りの声を上げてよかったと思っています。私は男として真面目に生き、力強く生きている姿を息子に見せつけることが出来たと思っている。
私は息子に、自衛隊員になるためにも入社試験で決めるのだ。少しは勉強しておいた方がいいぞと言っておいた。息子は私の発言をまじめに聞いて勉強したらしい。後で「俺、試験勉強して損しちゃった。答案用紙に名前を書けば誰でも合格したのだ。これだけは絶対守れと約束させたことがある。お前は学校に出席しても、授業が全然わからなくても、また先生に怒られても、出席だけはしろ、休むことは絶対にするな、成績は最低でもいい、絶対に卒業しろ。自衛隊新隊員は、当時3カ月間の訓練を富士山の裾野で基礎訓練をした。基礎訓練後に航空自衛隊、海上自衛隊、陸上自衛隊、のどこに所属するか自分で決めるのだ。息子は陸上自衛隊、北海道、名寄基地を選んだ。当時ソ連が健在で、ソ連軍が北海道に上陸してきたら、名寄基地が総力をあげて基地を守ることになっていた。そのため基地には最新式の兵器が置かれ、兵士は最強の部隊がついた。息子は自衛隊に入りたく入隊したのだ。基礎訓練など積極的に受け、全参加し、隊員の体力テストは全部一級だった。私は名寄の自衛隊基地に入所以来、息子と姉妹三人が二十歳になるまで毎月手紙を書き続けた。三人から返事をもらったことはないが,とにかく二十歳になるまで書き続けた。息子は名寄に入隊してから現在迄ほぼ35年間、母親と長女には一度も会ったことはない。息子の結婚式には、母親や姉を招待しないし、私と私が再婚した妻と長女の妹、その他の肉親だけが参加した。
息子は名寄基地で趣味としてトライアスロンをはじめた。彼はトライアスロンに夢中になり、練習をやりすぎて自分の腰を痛めてしまった。きちんと治りきらないうちに激しい練習を再開たりするから、全く腰を痛めて自衛隊の仕事にも支障がきたした。仕事をせず徹底的に治癒することに専念した。腰が回復し、完全に治癒した。その整体師の技術を直接見ていたから自ら整体技術を先生から学んだ。学び終わってから名寄基地から藤沢までオールヒッチハイクで帰ってきた。それから何年後かに、息子は整体院を開業した。名前は健遼施術院。ここを拠点として、今では世田谷、川崎、上野に適当な名前を付けて全部で4件の整体院を経営し、子供も二人の小学生の娘を持ち、経営も今のところ順調だ。

私には三人の50代の子供たちがいるが、何十年間も閉じこもりは誰もいません。だいたい現在の80代は、子供のころ貧乏だったのだ。私が中学校卒業する前のとし昭和29年(1954)4月5日、15時33分青森駅発上野行きの臨時夜行列車が運行されたのだ。これがこの時から始まった就職列車だった。昭和29年の4月から全国の地方から大都市に勤務する中卒生を呼び入れる就職列車が運行されたのだ。以来20年間就職列車が運行された。現在の79歳から99歳までの人は、最終学歴中卒の日本人が一番多いいのです。
私も昭和30年、県立高校受験の時、もし合格できなければ、就職するはずだったのだ。ところが高校に入学できたので高卒で就職できたのだ。私の時代の若者は、中卒あるいは高卒で社会に出て働く人、あとは大学を卒業して社会に出て働く人の三種類。この三種類のうち大学を出て働き家庭を持った子供が五十を過ぎても引きこもりなっている人がいる。何故か。次回のブログ「80-50問題」は共産党のせい(その2)で説明します。

コメント

丸山穂高衆院議員の戦争発言

丸山衆院議員が体中から酒くささの臭いをだしながら、「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」、「戦争しないとどうしようもなくないですか」、などとの発言にはあきれてものが言えないと、令和元年5月17日の産経新聞の「正論」に書いていたのが伊藤俊幸氏、金沢工業大学、虎ノ門大学院教授。この戦争発言によって丸山議員はあらゆるテレビから猛烈な批判をあびている。酒の上での発言だから余計批判されているいのでしょう。酒に酔っていなければ彼の主張は至極当然です。ところが伊藤俊幸氏が産経の「正論」に書いた記事、その内容にはあきれてびっくりだ。彼はこう書いています。
「しかし、国連憲章では、第2条3項「国際紛争は平和的手段により解決しなければならない」、4項「武力による威嚇」又は「武力行使」は慎まなければならない」との規定、および前述した51条の「報告義務」の規定により、今や「戦線布告」という用語は国際法上死語となった。」
私はこの記事をみて、書き手である伊藤俊幸氏には呆れかえって、この男はバカかと思った。大東亜戦争終結後まだ70年あまりだ、一世紀にも達していないのに宣戦布告という用語は国際法上死語となったとはあきれてものが言えない。つい最近では2014年ウクライナ南部のクリミア半島をロシアが軍事力で強制的に併合した。2014年2月28日にウクライナは国連安保緊急会議の開催を求め、ソ連の住民投票を認めないよう安保理決議を要請した。その結果ロシアの住民投票は認められず、ロシアは拒否権を行使した。そのためクリミヤ半島の一部はロシア領のままだ。国連の決議など未だに多数決できめられないままだ。
日本の北方四島は、日本が大東亜戦争終結宣言(敗北宣言)を発し、武器を放棄した、それにもかかわらずロシア軍は北方四島を侵略し、日本島民を島から追い出したのだ、従って、ロシア領有の北方四島は、なんら領有権もないのだ。それを「先の戦争の結果によってロシアが得たものであり正当なものである」とロシアは宣言をしているのだ。
酒に酔った丸山発言を徹底的に叩くのもよい、しかしこのくらいのニュースを流してもいいだろう。メディアは、このようなニュースは、流そうともしないのだ。戦後70年もアメリカの属国でいるから、「日本憲法信者」、「国連教信者」が増えるばかりだ。

ウイキペディアで伊藤俊幸氏を調べれば、1958年生まれ、私は1938年生まれ、年の差20歳、10年ひと昔ということばがあるが、伊藤氏は私よりふた昔も若いのだ。自衛隊も戦後間もないころは、大東亜戦争の戦場で戦って生き残りの軍人がいた。私は頼もしい軍人がいると思った。しかし今では70年間もアメリカ軍のポチとして働いてきたのだ、正真正銘のれっきとした日本国独立軍ではないのだ。伊藤氏は潜水艦の艦長をやり、元海将なのだ。70年間もアメリカ軍の下請けをやっていて、実際に戦場で戦ったことがない元将軍の一人なのだ、心もとないではないか。誰もが大っぴらに丸山議員を非難にこたえて遠吠えで非難しているみたいだ。北方領土返還交渉では、プーチンとの話し合いも暗礁に乗り上げた感じです。
この際日露交渉の話題転換を試みたらどうですか?元海将程度ではそんなことはできません。それもそうだろう。自衛隊隊員の「お友達作戦」を見れば、各自衛隊隊員の行動は立派だ、上層部の様子ばかり気にするボスがダメなのだ。

コメント

「令和時代」幕開けの悲劇

五月一日から始まる令和時代を迎えて日本中歓迎一色にそまった。私自身年寄ですが、まるで新年を迎えるようにすがすがしい気分で令和元年五月一日を迎えた。ところがお正月ならまだおとそ気分が完全に冷めやらぬ気分でいる5月11日午前4時ごろ、靖国神社事務局長、沼山光洋氏が靖国神社前の道路脇で割腹自殺を遂げられたというネットニュースが飛び込んできた。私は普段、沼山氏とは親しい付き合いはないが、拙著をきっかけにお互い面識があり、年賀状を交換し、たまに都内の講演の時に私が出席した時は、偶然にも沼山氏も出席し、お互い目があうと挨拶をかわすのだった。
拙著とは碧天舎が出版していた「大東亜戦争は、アメリカが悪い」だった。この本の出版は、平成16年7月だった。月日が経つのは早いもので出版後15年も経つのだ。私は出版後半年ぐらいで千葉で講演をした。会場に元自衛隊員が出席していて、その方の紹介で靖国神社での講演をすることになった。その自衛隊員はその後名古屋に引っ越しましたが、その方とも今でも年賀状をやりとりしています。靖国神社で講演するなら、本屋があるから、その売店で「大東亜戦争は、アメリカが悪い」売ってもらおうとしたのです。その時私は沼山氏と会ったのです。それがきっかけで会えば挨拶をする関係が生まれたのです。靖国神社の本屋では、出版社、碧天舎が倒産するまで「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を売ってくれました。

実は、私は平成30年9月8日にえんだんじのブログで、『「譲位」は憲法違反』というタイトルでブログを書いています。村田春樹氏の本、「今さら聞けない皇室のこと」を紹介しながら書いています。村田氏は、今後の平成天皇、上皇として次の三つのことを心配していました。
1. 上皇即位後、韓国への謝罪旅行
2. キリスト教の洗礼を受けるのではないか?
3. 現在在位中の天皇陛下の靖国参拝は完全に夢ときえたのか?
私もこの三つの点に心配でしたが、なかでもまだ天皇在位まだ7カ月もある。その間に万が一にも平成天皇は、靖国神社参拝してもらえないだろうか、わらをも掴む思いだった。靖国参拝もないまま上皇になられてしまった。その結果上皇在職中に必ず靖国神社へのご参拝をしてもらいたいというのが私の主張だった。
しかし靖国神社事務局長という立場の沼山氏には、平成天皇在位中に靖国神社参拝してもらいたいという切なる希望があったのでしょう。そのため彼自身もできることはすべてやったと思います。しかしその希望はかなわす、挙句の果てに5月11日午前4時ごろ、沼山氏の切腹のニュースだった。彼の割腹自殺は、テレビも新聞でもいまだに伝えることもなく無言のままだ。私はメディアにたいして激しい怒りを感じています。
「つくる会」の池田東京支部長が5月16日に三島由紀夫研究会が沼山光洋烈士の残した最期のお言葉の全文を掲載しておりますので、「つくる会」MLでそのコピー流しておりますからご参照ください。
もうこうなったら上皇在位中に靖国神社に参拝してもらえるよう説得してもらおうではないか。それに全力を挙げねばならない。みなさん、頑張りましょう。


コメント

安倍総理を叱る。(その1)

先月、えんだんじのブログではおよそ二年半前の平成28年(2016)11月5日のブログ「安倍首相、プーチンにのめりこまないでください。」の全文を紹介しました。プーチンの人格形成をKGBとFSB(両方とも俗に言う「秘密警察」)で働いてきたのが影響していると書いた。
それでは安倍総理の人格形成はどうかとみると、母型の祖父が岸信介首相、大叔父は佐藤栄作が首相、父親が安倍晋太郎外務大臣、政治家一家の次男坊、学校は成蹊小、中、高、成蹊大学法学部政治学科を卒業、神戸製鋼所に入社、三年後に退社。安倍晋太郎外務大臣の秘書になる。結婚相手は森永製菓、松崎昭雄社長の長女、昭恵。
どうですか、この安倍家の家系の華麗さ。安倍氏は大金持ちのぼんぼん育ち。私の極貧の波乱万丈の育ちと比べたら月とすっぽんの違い以上です
焦点をしぼって「新しい歴史教科書をつくる会」の話をします。私は「つくる会」神奈川支
部の会員です。入会は平成17年(2005)8月、会長が八木秀次の時です。私が入会した4カ月後の12月に八木は、「つくる会」の会長でありながら「つくる会」の執行部には極秘で、繰り返します、極秘で中国を訪問し、「中国社会科学院日本研究所」を訪れ、蒋立峰所長等と「新しい歴史教科書」をめぐって意見交換したというのだ。平成24年6月1日の朝日新聞は、「中国社会科学院」は人民解放軍と関係が深い機関と説明しています。

一方安倍晋三氏は、総理になる前の無冠の時代から「つくる会」の支援者だった。平成二十三年、この年教科書採択戦の年でもあり、安倍総理はわざわざ「つくる会」の機関誌「史」三月号に自分のメッセージを載せているのです。
長い文章なので最初の文章と最後の文章を引用します。最初出だしの文章、引用開始、
「昨年八月十日、日韓併合百年を迎えた菅首相は、与党内の議論抜きに、韓国の主張に副う
形で謝罪談話を閣議決定し発表しました。過去の文化財協力協定で決済済みの朝鮮王朝資料の返還も打ち出しました。引用終了。
その後も安倍総理は、安倍内閣の教育政策を語りながら、最後にこういう文章で終えました。
引用開始
長年に亘って地道に教科書の改善に取り組む「新しい歴史教科書をつくる会」の活躍は大変有意義で感謝し敬意を表します。今後とも一層の成果をあげられますよう期待します。
引用終了。
ここまでは「つくる会」と安倍総理との関係は健全だった。ところが八木秀次が「つくる会」の執行部に極秘の中国行きがばれ、八木秀次が「つくる会」を首になった。ここからが「つくる会」の運命が急転する。フジサンケイグループのドン、フジテレビの日枝社長が三億円を提出して育鵬社を設立、これまで「つくる会」の教科書を作っていた扶桑社を子会社として、新たに育鵬社が中学生用の歴史教科書、公民教科書を作成し、売り出すことになった。扶桑社と「つくる会」との10年間にわたる親密関係は完全に終わった。「つくる会」にとっては、新たに保守系の競争相手、教科書作成会社の登場です。この育鵬社が中学生用歴史教科書販売史上消すことのできない、以下の二つの点を巻き起こしたのだ。

一.育鵬社は平成二十三年の教科書採択戦に登場した。この教科書は、17年出版の「新しい歴史科書」の内容と文章を下敷きにして作られたものでしたが、中にはデッドコピーの箇所も多数存在していた。そこで、17年版「新しい歴史教科書」の代表執筆者である藤岡信勝氏は、全部で47か所にわたる著作権を侵害されたとして育鵬社を訴えましたが、平成26年12月19日には東京地裁が、二十七年9月10日には知財高裁が藤岡氏の訴えを棄却しました。
知財高裁曰く「歴史教科書の著作権は、国史大辞典等に既に書かれている歴史事実などを分かりやすくありふれた文章で記述したとしても、その教科書には著作権は認められない。」
歴史教科書というものは、言うまでもなく、一般歴史書に既に書かれているような歴史事実などを取り上げて、分かりやすくありふれた文章で記すものです。この判決は、歴史教科書の著作権を原理的に否定しています。今後はコピペ教科書があふれる事態になっていくかもしれません。この点に関して小山常美氏が彼の著書、「歴史教科書と著作権」(育鵬社歴史教科書事件判決を批判する)」、三恵社、340頁、3,400円)、ていねいに詳述しています。ぜひご覧ください。

二.育鵬社は、南京虐殺事件は「あった」と報道した。
日中歴史共同研究プロジェクトは、平成18年10月に訪中した安倍総理と胡錦涛国家主席との合意によって始められた。日本側座長は北岡伸一東大教授です。その一期報告書が平成22年1月に公表された。その中で特筆すべきことは、日本政府が南京虐殺事件の犠牲者数は未定だが南京虐殺事件そのものはあったと認めていることです。
平成23年7月20日、河村たかし名古屋市長のきもいりで中学校歴史、公民教科書の討論会が開催された。育鵬社の歴史教科書監修者の一人である石井昌浩氏(元拓殖大学客員教授は、「南京事件は確かにあった。これは事実です。犠牲者の数の実態についてはまだ論争が続いている」と発言した。これはこれまで「つくる会」が歴史教科書の検定を取るまでの工程と違っていた。「つくる会」は、南京事件を否定するためにいろいろ学術的に説明したが、文科省は南京事件を否定すると検定を絶対にくれなかった。そこで仕方なく「南京虐殺事件」はあったことにして文科省の検定をとっていた。こんど育鵬社が初めて歴史教科書の検定を取るとき、「南京虐殺事件」を肯定してくるだろう。一方「つくる会」は、いつまでもうそは書いて「南京虐殺」を肯定できないと、今度は初めて南京事件を肯定もしなければ否定もしない、南京事件のことは無視して何も書かずに検定をとることができたのだ。
この育鵬社の歴史教科書作成者の一人、石井昌浩氏が「南京虐殺事件があった」と公言したとき、大変驚愕する事件が起きた。私は日本の保守陣営の方々こぞって反対すると思っていたのに、誰一人反対をする者がいなかったのです。日本会議(田久保忠衛)、日本教育再生機構(八木秀次)、教科書改善の会(屋山太郎)、国家基本問題研究所(櫻井よしこ)、日本政策研究センター(伊藤哲夫)等、彼らは「反対の声」を何一つださないどころ、全員育鵬社支持者になった。「お前らバカか?」
私は極貧育ちのため、すこしでも上の生活をしたい。そのため媚びず、一匹狼を通してきた。
いざとなれば祖国優先です。ところがあなた方の保守は。安倍総理のおほめの言葉を得ようと、またフジサンケイグループは、保守言論界の雄、自分の名前の覚えを悪くしたくないと一斉に「つくる会」より育鵬社支持に力が入った。一方私はなまじ一度議員会館で安倍夫妻に会っているものだから、「安倍総理への緊急提言!」として「つくる会」の援助に関する手紙をかいた。結果は何一つ役立たなかった。安倍総理自身が育鵬社支持になっていた。私は日本がこんなことをしていると、中国政府の「南京大虐殺」のユネスコ記憶遺産に登録する行為が進むのではないかと心配していたが、案の定、平成27年10月10日にユネスコの記憶遺産に登録するよう申請していた許可がおりたのだ。

文科省はこれまで、「南京虐殺事件」を否定した歴史教科書には検定合格を与えなかった。そのため「つくる会」は「南京虐殺事件」をいわばうそを書いて肯定してきて検定合格をもらってきた。しかし平成23年度は南京虐殺事件のことは一切触れずして検定合格をとった。一方平成23年度の育鵬社は、「南京虐殺事件」は「あった」と公言しているので、検定合格とっています。
文科省が歴史教科書が「南京虐殺事件」を否定すると検定合格を与えないということは、これまで日本側に「南京虐殺事件」を否定する研究者が沢山いる、たとえば亜細亜大学教授、東中野修道氏、その他田中正明、鈴木明、冨沢繁信、阿羅健一、北村稔の諸氏がいる、文科省は彼らの意見をなにも信用できないというのでしょうか。私は安倍総理に直接聞きたい、これらの研究者の研究は、全然信用ならないと言うのですか?学問の真偽が多数決できめられると言うのですか。安倍総理の最大の失敗は、日中間で歴史問題で話し合えば、まともな結論が出ると思ったことだ。お坊ちゃま育ちで苦労しない人間は、たとえ外国人でも誠心誠意話会えば、話ができると信じていることです。ロシアのプーチンの場合も同じです。安倍総理にいくつか打ち明け話をしましょう。中国の「南京大虐殺」の書類がユネスコの記憶遺産に登録された日、平成27年10月10日、この日から一か月後の平成27年11月28日、東京で「南京大虐殺の歴史捏造を正す国民会議」が開かれた日、渡部昇一先生が議長
に選ばれた。彼は育鵬社の歴史教科書の監修者で、同時に南京虐殺はなかったと公言していた先生です。
櫻井よしこ氏は、「日本よ、『歴史力』を磨け」、文芸春秋社という本を書いた。第三章、「南京大虐殺の嘘」を南京虐殺事件の研究者、立命館大学教授、北村稔氏と対談しています。彼女は育鵬社歴史教科書の支持派で自分の顔写真を教科書に載せています。日本政策研究センターの伊藤哲夫氏は、毎月、雑誌「明日への選択」を出版しています。私も数年間購読していた。その間「つくる会」の記事など一度も書いたことがないのに、育鵬社が登場すると、育鵬社の記事が度々出版され、一方「つくる会」の話題は全然なし。私は頭に気て購読を止めてしまった。
日本会議、日本教育再生機構、教科書改善の会、国家基本問題研究所、日本政策研究センターなどこれらの会の指導者は、「南京虐殺事件」が「あった顔」を文科省や安倍総理にみせ、「なかった顔」を一般保守支持者に見せるという自分の顔を使い分けているのだ。
安倍総理、私は自民党を救おうと思って、自民党に入党としたのです。入党日:平成21年9月7日。党員NO.0914-000996-8.安倍総理の日中歴史問題、日露交渉、憲法問題、どれ取ってもダメ。世間では安倍総理の外に誰がいるかと言っている人が多いいが私自身は、ある程度政治に安定性がなくなって、経済がさらに不安定になってもかまわない。もともと極貧育ち、元に戻ったところで生きてゆける。安倍総理では日米間は仲良くできる、私はそれには賛成だ、しかし日本はアメリカの保護国のままだ、絶対にアメリカの保護国から完全に脱して独立した民主主義国家にはなれない。私はそれが、絶対にいやなのだ。

参考文献:小山常実、『歴史教科書と著作権』(育鵬社歴史教科書事件判決を批判する)
     三恵社、3400円。
     鈴木敏明、『保守知識人を断罪す』(「つくる会」苦闘の歴史)、総和社
     1500円。

コメント

楊海英氏、文化人類学者、静岡大教授への反論

楊海英氏、文化人類学者、静岡大教授への反論
Newsweek(ニューズウィーク日本版)、2018・5・15号で楊海英氏は日本の相撲を批判しています。楊氏の日本相撲批判は、次の三つの点です。1.国技であること。2.神事であること。3.力士は品格が必要であること。私もこの三点についてことごとく反論していきます。
1.国技であること。
楊海栄氏はこう書いています。
「ユーラシアでは既に、紀元前8世紀~前3世紀に活躍した遊牧民スキタイが青銅器に相撲の分様を刻んでいた。また、10世紀頃に栄えた遼王朝のモンゴル系契丹人の格闘技が日本に伝わって大相撲になったという学説もある。それでも、「モンゴル高原が相撲発祥の地」と自慢するモンゴル人はほとんどいない。人類共通の興行だからこそ、大相撲にもモンゴル相撲にも似たような技芸があり、モンゴル人力士はそれを遺伝子のように駆使できるので強いというだけだ。わざわざ近代国家の枠組みに縛られて「国技」性を強調する必要があるのだろうか。」

相撲は色々な国に古い起源がありますからスキタイ民族の青銅器に相撲が描かれていたという話には驚きもしません。10世紀頃、モンゴル系契丹人の格闘技が日本に伝わって大相撲になったという学説。これは多分いいかげんでしょう。楊氏に質問しますが、モンゴルでは、相撲について語っている古い歴史書がありますか。日本では、現存する最古の正史と言われる「日本書紀」全30巻があります。奈良時代の720年に完成と言われています。そこでは次の様なことが書かれています。日本の11代目の天皇、垂仁天皇が7年7月7日に出雲の国から野見宿祢(のみのすくね)を呼び寄せ当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとらせ、野見宿祢(のみのすくね)が勝ったと知らせています。これが古代宮中で毎年7月7日に相撲大会が行われる起源になったと書いています。私は古代史を勉強していませんので、垂仁天皇の7年と言っても西暦でいうといつごろになるのかわかりません。ネットで調べると多分3世紀末か4世紀初めごろとありますが、正しいかどうかもわかりません。ただこの野見の宿祢(のみのすくね)は現在でも生きているのです。野見の宿祢神社が兵庫県、たつ野市と東京都墨田区にあります。とくに墨田区の神社は、大東亜戦争中の東京大空襲で完全に消失、1953年(昭和28年)6月、敗戦後まだ8年で日本国全体が極貧状態のとき再建しているのです。この墨田区の神社は、国が管理していますが、場所が狭いだけに沢山の見物人を集めての横綱の土俵入りができません。そこで新横綱が誕生した時だけ、出雲大社の東京分枝を招いて一般への予告なしに新横綱の土俵入りをしています。
大相撲のこれだけの背景、そして国民が何百年もかけてつくりあげた大相撲を「国技」とよんで強調したところで他国に害を及ぼすものではありません。楊氏は文化人類学者でしょう。文化というものは多くのその国民が何百年もかけて作り上げ、国民も経済的に豊でなければ他国からは文化と呼ばれないことを知っておくべきでしょう。大昔世界の多くの国々で相撲というスポーツがあったにも関わらず、現在の日本相撲のように古めかしさを多分に残しながら日本民族の大衆のスポーツに仕上げたのは日本だけ、それを国技と呼んで何が悪いのでしょうか。

2.神事であること。
「サッカーのワールドカップでは、キリスト教徒の選手は十字を切り、イスラム教徒はコーランの一節を唱える。神に頼って勝ちたいし、勝って神を喜ばせたい。それが興行=スポーツの目的なのだ。何も大相撲だけが神事で、他のスポーツより一段と神聖なわけではない。」と楊氏は書いています。
楊氏は、日本の文化をよく理解できないまま日本人の国籍を取ったのだ。日本人は大相撲がほかのスポーツよりより神聖なのだと思っている人は誰もいません。日本人は個人が自分の家を建てる時も、企業が大ビル建設の時でも、神式の儀式(上棟式)を上げるが、誰も自分の家が他の人の家より神聖だとか、他の大ビルより神聖な大ビルなどと思って上棟式を上げているのではありません。ただその儀式が習慣となっているからするだけです。文化人類学者で日本の国籍をとっているのならもっと日本文化を勉強してください。

3.「品格」の問題
楊氏が気にしているのが、「力士が『国技』『神事』の本質がわかっていないので、「品格に問題がある」という見方だ。これは楊氏が長く数年間にわたる相撲を見ていないから、横綱、白鵬の横綱としての品格の問題を力士すなわち一般力士の品格の問題ととらえて勘違いしているのだ。私は相撲ファンです。特に定年後は、特別に仕事をしていませんから、よくテレビを見ます。過去ほぼ20年間テレビをみてきた。横綱白鵬の全盛期を見てきました。白鵬が横綱になると、立会のときに、左右のどちらかの手で張り手をかますか、あるいは右ひじにサポーターを巻いて右ひじでのかちあげが多いのだ。もちろん禁じ手ではないので使ってもよいのだが、あまりにも使う回数が多くなると横綱になっている力士が使うべき手ではないという不満が観衆の間に生まれてきます。だから私は外国人横綱が出現した時から、大相撲は横綱のマニュアルを作れというのが私の主張でした。日本ではこうしてはいけないことという常識なれば、規則がなくても自然と従うが、外人の場合は、やってはいけないと言う場合、規則がないと行っていいのか、悪いのか、迷ってしまう。だから横綱のマニュアルは今でも必要だと私は思っています。

あれは栃ノ心が優勝したときだったと思う。横綱審議委員会の委員長が白鵬の立ち合いの戦いに苦言を呈したとき、それ以後、白鵬は立会に張り手やかちあげをあまりやらなくなった。そのせいか、また白鵬の体力の落ち目のせいか敗ける率が多くなった。かっては土俵上で白鵬は、自分が勝ったと思ったのに負けと判定され、土俵上での彼の抗議で審判の判決になかなか承服せず、土俵をなかなか下りなかったことがあった。現在の審判は最終的判断には、ビデオを使うにもかかわらずだ。確か日馬富士の暴行問題のときだったと思う、白鵬は土俵上で観衆にむかって日馬富士への拍手を強要したのだ。私に言わせれば白鵬は生意気だ。白鵬は自分の打ち立てた大記録に酔い、自分は日本相撲界のジンギスカンになったつもりか。新聞によると白鵬は、横綱人生終わったら、日本人国籍を取り、相撲界に残るつもりらしいが、私は反対だ。横綱終わったら、さっさとモンゴルに帰れ。先場所鶴竜が優勝したが、栃ノ心と星の差一つで優勝争いを演じていた。後半戦に鶴竜と琴奨菊の好取組があった。琴奨菊は元大関で関脇も落ち、先場所は平幕だった。しかし先場所、琴奨菊は好調だった。鶴竜を相手に琴奨菊は、どう戦うか、鶴竜は琴奨菊をどう下すか、皆注目の一戦だった。取り組みが始まると、琴奨菊は、猛然と鶴竜目がけて突っ込んでいた。ところが鶴竜は、立ち合い突っ込まず、横に逃げてあっさりと勝ってしまった。この時の観衆のブーイングがすごかった。私が昔白鵬の立ち合いの逃げ勝を見たとき、観衆はびっくりして、ブーイングを浴びせるどころか、きょとんとしていた。しかしモンゴル横綱の逃げ勝には黙っていられなくなって鶴竜への大きなブーイングになったのだ。横綱同志の戦いには、立ち合いの逃げ勝はあるかもしれません。しかし横綱対平幕の戦いで立ち合いに横綱が逃げて勝つなどとは恐らくないでしょう。だからこれからは、日本人横綱にも外人横綱にもマニュアルを作りなさいと言うのです。
楊氏の日本相撲界への反論は、文化人類学者としては日本相撲に対する知識不足が原因。参考になる意見など何もなし。

最近ニューズウイーク(日本語版)のジャパンタイムズ化と言われます。説明すると英字新聞「Japan Times 」は、穿った見方をして反日の記事をちょくちょく書く。ニューズウイーク(日本語版)もつい最近版(2018・4・24)では日本での外国人実習生の特集記事のタイトル「SLAVERY HELL現代の奴隷制 実習生残酷物語」を愛田峰俊(ルポライター)が書いている。自由意志で応募するかどうか決めるのに「奴隷制」という言葉が使えるのか?私はニューズウィーク誌(日本語版)編集部に何も日本を批判する記事を書くなと主張しているのではありません。論理的記事を書いて批判しろというのです。私はニューズウイーク誌(日本語版)長期契約読者です。読者番号:1101-050-8822。くだらぬ日本批判が続くなら長期契約はやめることにします。


Comments (2)

« Previous entries 次ページへ » 次ページへ »