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今年の中学校歴史教科書の最大の焦点



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公立中学校の教科書にどの出版社の教科書が使われるのか、四年ごとにその教科書の採択戦が行われます。今年はその教科書の採択戦が行われる年です。すでに文科省の検定作業が行われ、どの出版社の歴史教科書が検定に合格したのかわかっております。これから今年の8月ぐらいまでにどの中学校がどの歴史教科書を採用するかが決定していきます。歴史教科書には、出版社によって色々問題点がありますが、今年の最大の焦点になっている歴史教科書は、私が所属する「新しい歴史教科書をつくる会」、通称「つくる会」が自由社から出版した歴史教科書です。「つくる会」の何が焦点になっているのかと言えば、通称南京大虐殺事件、「南京事件」を一切記載せずの歴史教科書が文科省の検定合格を取得したことです。
文科省によれば、平成以降、「南京事件」を取り上げなかった歴史教科書は一点もないと主張していますが。その通りです。「つくる会」も「南京事件」を取り上げていた。しかし教科書検定時期には、「つくる会」はいつも文科省と衝突していたのです。なぜか「つくる会」が教科書で「南京事件」を否定するからです。文科省は南京事件を受け入れる教科書を出さないと検定に合格させないからです。この文科省の決断の原因は、平成元年に規定された「近隣諸国条項」だと思っています。その証拠に「近隣諸国条項」が噂に上がる昭和時代末までどこの歴史教科書も南京事件を記載していなかったのです。国民に嘘を教えないと歴史教科書が検定合格しない、「つくる会」はいつも苦渋の決断をせまられた。ついに4年前の採択時、また南京事件を肯定しなければ検定合格しないのならとシナ人の日本人残虐事件を教科書に載せたのです。「通州事件」です。
現地の日本人385名のうち、幼児12名を含む223名が虐殺された。多数の女性は強姦されたあと陰部を銃剣でつかれ、えぐりとられた。首に縄をかけられ、引きまわしにされたうえ、目玉をえぐられた者もいた。牛のように鼻に針金を通されたまま殺された子供や、生きたまま片腕を切断された老婆もいた。これらはすべて中国伝統の虐殺の作法であると黄文雄氏は書いている(「日中戦争しられざる真実」光文社)。当時の歴史を知らない人たちは、日本軍人が勝手にシナ本土に駐留しているからだと主張するでしょう。当時は日本軍人だけでなく欧米諸国の軍人もそれぞれの国々がシナ政府と条約を結びシナに駐留していたのです。日米安保条約で日本に駐留しているアメリカ兵家族を日本人が虐殺したらどういうことになるか想像できますか。
四年前の検定時、「つくる会」は、「南京事件」を他社の教科書同様に肯定した、しかし「通州事件」も載せた教科書を検定合格させたのだ。日本の歴史教科書史上、「通州事件」を載せた初めての教科書でした。
ありもしない「南京事件」を歴史教科書に載せ、「通州事件」は載せないのだ。「つくる会」以外の今年の歴史教科書は全部これで統一されています。
こんな事が平然と行われているのだ。読者の皆さん、私の憤怒は行き過ぎですか。日本人が日本人であることを忘れてどうするのですか。

今年の歴史教科書の文科省の検定を迎えて、「つくる会」執行部は悩んだと思います。私は一会員ですから、彼らの悩みを想像してみます。また今年も検定時に文科省と「南京事件」で衝突する、国民にまた嘘を教えて検定合格させるには忍びない。窮余の一策として「南京事件」には一切触れず、しかし「通州事件」は一度検定合格しているので、今年も載せる。祈る思いでこの一策を提案したのではないか想像しています。しかしこの一策が成功し、検定に合格したのだ。4月7日の産経新聞では、今回、検定を受けた8社の歴史教科書のうち、自由社(つくる会)だけが「南京事件」を記述しなかったことを報道した。記事のなかで、南京事件を書かなかった理由について、「南京事件は中国共産党によるプロパガンダで、事件自体が存在しないため」という自由社編集担当者の発言を伝えています。それでは自由社(つくる会)以外の7社は、「南京事件」を今年度どのように記載しているのか見てみましょう。

「東京書籍」
本文「日本軍は、1937年末に首都の南京を占領し、その過程で、女性や子供など一般の人々や捕虜を含む多数の中国人を殺害しました(南京事件)。」さらに側注「この事件は、「南京大虐殺」とも呼ばれます。被害者の数については、さまざまな調査や研究が行われていますが、いまだに確定していません。」(p220)
「育鵬社」
本文「日本軍は12月に首都南京を占領しましたが」、さらに側注「このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。この事件の犠牲者数などの実態については、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」(p229)
「日本文教出版」
本文「12月に占領した首都南京では、捕虜のほか、女性や子供を含む多数の住民を殺害しました(南京事件)。」、さらに側注「当時、この事件は日本国民には知らされませんでした。戦後、極東国際軍事裁判に当時の調査資料が提出され、その後の研究で、部隊や将兵に日記にもさまざまな殺害の事例が記されていることがわかりました。ただし、全体像をどうとらえればよいかなど、さらに研究が必要な部分もあります。(p228)
「帝国書院」
本文「日本軍は中国南部からも侵攻し、上海や当時首都であった南京を占領しました。南京では、兵士だけでなく多くの民間人が虐殺されました。(南京事件)」、さらに側注「この事件は、諸外国から非難されましたが、戦争は終わるまで、日本国民に知らされませんでした。死者数を含めた全体像については、調査や研究が続いています。」(p220)
「教育出版」
本文「12月に占領した首都の南京では、捕虜や住民を巻き込んで多くの死傷者を出しました。」、さらに側注「このときのできごと(南京事件)は、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で明らかにされました。犠牲者の数などについてはさまざまな説があります。」(p219)
「清水書院」
本文「南京占領の際には、兵士のほか、捕虜は武器を捨てた兵士、老人・女性・子供を含む非戦闘員も無差別に虐殺され」、さらに側注「南京大虐殺と呼ばれる事件。諸外国はこの南京大虐殺を強く非難したが、軍の統制を受けた報道によって当時の日本人はこの事実を知らなかった。」(p232~233)
「学び舎」
本文「日本軍は12月、南京を占領しました。このとき、国際法に反して大量の捕虜を殺害し、老人・女性・子供を含む多数の市民を暴行・殺害しました(南京事件)。日本では、南京占領を祝う行事が盛大に行われました。」、ほか補足資料として、「南京市に住んでいた夏淑琴(当時8歳の話)を紹介。(p235)
「自由社」
(南京事件)記載一切なし。逆に日本人が虐殺された通州事件が記術されています。

今年初めて自由社が南京事件を一切記載せずして検定合格したので、いずれ他の教科書もそれに倣っていくでしょう。9年前全歴史教科書が従軍慰安婦を記載し、検定合格をした。こんな酷い自虐史観教科書はないということで「新しい歴史教科書をつくる会」が設立された。そのお蔭で歴史教科書から従軍慰安婦が年数をかけて教科書から消えていったのです。今年新参入の「学び舎」から従軍慰安婦が復活したが、しかしいままで同じような文章では記載できなかったのです。いずれ他の教科書も自由社にならって南京事件を記載しなくなっていくでしょう。もう一つ強力な理由もあります。平成20年、胡錦濤国家主席が来日した時、「南京の真実を検証する会」(加瀬英明会長、藤岡信勝事務局長、冨澤繁信・茂木弘道監事)は南京事件についての公開質問状を提出しているのです。この質問状は日・中・英三ヶ国語で記者発表され、「史実を世界に発信する会」の英文サイトに掲載されて世界に発信されている。http://www.sdh-factcom/CL0-3/17.S1.pdf 内容は以下の通りです。

「このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の友好を願う者として心より歓迎申し上げます。
さて、われわれは1937年12月に行われた日中南京戦に伴って起こったとされる所謂南京事件を検証すべく、研究して参りましたものです。貴国のこの事件に対する見解とその取扱いにつき、深刻な憂慮を感じております。昨年南京虐殺記念館が大規模に拡張改装されましたが、一方で友好を唱えながらこのような非友好的なことを平然と行う貴国に対して強い不信の念を感じざるを得ません。そもそも南京で大虐殺があったという論拠は最近の研究によって根本的に否定されつつあります。以下の重要な五つのポイントについて閣下のご見解を伺いたく、謹んでご質問申し上げます。
1.故毛沢東党主席は生涯ただの一度も「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義され、そして『持久戦論』としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」と言う批判のみです。30万市民虐殺などと言ういわば.世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?

2.南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によりますと、南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公使館職員は平均35名と記録されています。しかしこの300回の記者会見において、ただの一度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていないという事実について閣下はどのようにお考えになられますか。もし本当に大虐殺が行われたとしたら、極めて不自然で不可解なことではないでしょうか。
3.南京安全区に集中した南京市民の面倒をみた国際委員会の活動記録が『Documents of
the Nanking Safety Zone』として、国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の英国系出版社から刊行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前20万人、占領1か月後の1月には25万人と記録されています。この記録からすると30万虐殺など到底あり得ないとしか考えられませんか、閣下はいかがお考えでしょうか?
4.さらに『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人は合わせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害と注記されています。この記録と30万虐殺という貴国の主張とは、到底両立し得ないと考えますが、閣下はいかが思われますか?
5.南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の虐殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。しかし、その後の科学的な研究(『南京事件の「証拠写真」を検証する』(東中野他・草思社)など)によって、ただの1点も南京大虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかとなっております。もし、虐殺を証明する写真が存在しているのでしたら、是非ご提示いただきたいと思います。
以上述べました五つの点は南京で大虐殺があったなどということを根本的に否定しているものとわれわれは考えざるを得ません。上記五つの点につきまして閣下のご見解を承ることができれば幸いです。この問題は多くの日中国民の関心事と考えますので、公開質問状として提出させていただきます。子々孫々まで日中友好を願うものとして、閣下のご高配を、衷心から期待しております。」          平成20年5月20日

未だにシナ政府からの回答はありません。この民間の質問状にシナ政府が答える義務はありませんが、もしシナ政府が解答できるなら、彼らの主張の正さを強調するために解答してくるでしょう。ところが未だに解答なしということは、南京事件はシナのでっち上げなのだ。
シナ人は平気で歴史を捏造するからこういうボロが出てくるのです。尖閣諸島も同じです日本の南京事件肯定派も歴史教科書製作者もこの五つの質問には答えられないのです。
平成時代の歴史教科書に登場することになった「従軍慰安婦事件」と「南京事件」は、「なかった事」を「あった事」にして嘘を書いた自虐史観であり、昭和時代から続く自虐史観は、歴史史実を曲解、歪曲、誤解、に基づくものです。後者の記事は、なかなか消えたり、変わることはないが、前者の「なかった事」を「あった事」にした「うそ」の記事は、遅かれ、早かれいずれ消えることになる。その意味で今年、「つくる会」が先陣を切って「南京事件」を一切書かずに検定合格したことは賞賛に値すると思っています。

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心強い保守知識人



数ある保守知識人の中で自分の学んだ外国語を駆使して欧米人に媚びることもなく、おもねることもなく、正々堂々と自分の信念を語ってくれるほど心強いものはありません。こういうことのできる保守知識人は、非常に少ない、稀と言っていい。その稀である両知識人、西尾幹二氏と松原久子氏は、「近代日本とは何か」について何をしたのか、個別に紹介しましょう。
A. 西尾幹二氏
1980年代は、日本経済の全盛期、日本経済はアメリカ経済を追い越すのではと、世界中の国々から日本が注目を浴びた時代です。西尾氏は、国際交流基金の依頼により、在独日本大使館の協賛を得て、1982年9月29日から10月11日までにキール、リューネブルク、ハンブルク、ケルン、ボン、デュッセルフドルフ、ミュンヘン、シュトットガルトの8都市で「近代日本とは何か」をドイツ語で講演した。キールでの最初の西尾氏の講演の一部を抜粋しましょう。
(略)「日本は西欧世界と接触する19世紀後半より以前に、『近代社会』への第一歩を踏み出していました。よしんば西欧からの刺激や衝撃を受けなくても、日本が近代的な精神運動を展開し始めるのは時間の問題でした。皆さんはただ西欧世界の基準に当てはまらないも
のは近代的でないと簡単に考えがちではないでしょうか。キリスト教の色彩を帯びていない、儒教や仏教の影響下に置かれた『近代性』というものもあるのだということを認めることから、皆さんの論議を出発させていただかなくてはなりません。」
(略)「いずれにしても、皆さんがもし次のようにかんがえているとしたらーーードイツの新聞・雑誌に次ぎのような考えがしばしば現れますので私は憂慮して言うのですがーーー大変嘆かわしい誤謬に陥っていると言えましょう。すなわち、日本という東のはてのよく働く黄色人種の住む神秘の国が経済的に成功したのは、元をただせば白色人種の欧米人が科学や技術を教えてやったからであって、日本人はわれわれ欧米人と接触するまでは、科学も技術もまったく知らない迷信に満ちた未開の人種であった。彼らの今日の発展はすべて我々欧米人の指導と訓育によるものであって、彼らは零から出発して今日の繁栄を築き上げたのである、と、この考えは哀れな傲慢だけでなく、歴史に対する驚くべき無知から発するものと申す他ありません。」

(略)「つまり日本の近代文明が西欧の刺激と衝撃によって促進されたことは疑いもありませんが、しかしそれは徳川幕府の鎖国時代に、少しずつ準備され、蓄積されて来ていたものが誘発されたという以上の意味は持ってはいないのです。日本の『近代文明』がもしも欧米人の指導と影響にのみ負うているのだとしたら、日本以外の地球上のあらゆる国々は、今日、日本と同じように速やかに前進を遂げてもなんら不思議はないと申せましょう。現代の開発途上国の方が、当時の日本よりも、はるかに恵まれた条件下に置かれているからです。19世紀後半の日本は、僅かの宣教師から受けた教育面の無料奉仕を除くならば、いかなる無償援助にも預かりませんでした。しかも外国からの債務を危険視した当時の日本政府は、どんなに苦しくても、巨額の借款を受けようとはしなかったのです。ところが今日の世界では、政治的になんら危険のない開発途上国援助が、ほぼ無償で提供されているのです。つまり、近代日本の出現は、日本の過去の歴史に内在していた自発的な自己展開能力に大部分負うているのであって、欧米の刺激と影響はきわめて甚大なものではありましたが、中心的要素ではありませんでした。」

西尾氏の講演の内容の一部はこれくらいにして、次に講演来場者の質問と西尾氏の回答を見てみましょう。
中年の男A「日本の西欧の影響とは独立して、江戸時代に独自の近代社会を準備していたとうお話であったが、しかし日本は当時長崎でオランダに門戸を開いて、世界の情報を必死に集めていた。日本人は情報を集めて利用する才能ばかりが発達した国民で、日本が独創の国だというのは嘘っぱちである。今でもアメリカからパテントを買って、技術大国を自称している」
西尾氏の回答「17-19世紀に西欧の情報を入手していたのは日本だけではなく、アジアのあらゆる国々において条件は同じであった。むしろ鎖国していた日本の条件は不利でさえあった。その中で日本だけ近代化に成功した事実を貴方はどのように説明できるのか。すべて西洋の猿真似だというのか。
中年の男A「日本はアメリカやヨーロッパ諸国が時間をかけ、多大の投資をして発見した原理を盗用して、巧に大量生産システムを作り上げ、金儲けのみに夢中になっている。これは不公平であり、許しがたい。日本が自ら開発した原理なにもない」(この質問は他の会場でも何度もでた。)
西尾氏の回答「講演の中ででも強調したように、19世紀から20世紀へかけて、イギリスからドイツへの産業の力が交替した。とりわけ製鉄業の長足の進歩が目立つ。それを基礎づけた発明の大半は、イギリス人、ベルギー人によってなされたが、その発明を制度化し、一大技術革命を成し遂げたのは、ほかでもあいドイツ人であった。自動車を発明したのは、アメリカ人ではないが、自動車を大量生産システムにのせ、現代人の生活に一大変化をもたらしたものはアメリカ人であった。どこの国が原理を最初に発明したかが重要なのではない。ただ、新しい生産システムの制度化に成功したアジアの国であるがゆえに、これまでとは別扱いし、白眼視するのは人種的偏見である。私が本講演で日本を特別扱いしないように強調した意味が貴方には本当に分かっていないように思える(ここまできて私に自分の言葉に刺激され、激昂して叫んだ)。技術革新に対する情熱を失い、労働モラルを今や喪失したドイツが、日本を非難する資格はない!」
この後も次々と質問者に、西尾氏はていねい答え、最後に次ぎのようなかなり長い追加演説で講演を閉じた。
「私は日本の優越を宣伝しているのではありません。ドイツ、もしくは西欧世界がむしろ久しく優越感情にひたって、外の世界を見ようとしないできた閉鎖性に私は警告を発しているにすぎないのです。例えばドイツも教育の大衆化の時代を迎えつつあるのですから、ドイツの教育学者はこの点で先を歩んでいる日本の教育事情に強い関心を持つのが当然で、それは自分のためにも役立つはずです。しかし彼らはイギリスやスウェーデンを研究しても、日本の教育に関する唯一人のドイツ人専門学者は、日本語を読めないのです。そんな程度で専門家が勤まっている。アメリカの日本研究の水準は高く、こういうことはとても考えられません。ヨーロッパは非常に閉ざされた世界です。皆さんは外のことはなにも知らない。
私の本日の講演は皆さんにはご不満かもしれません。私のもたらした情報は皆さんに耳新しく、ドイツのマスメディアで聞かされていたことと違うので、にわかに受け入れがたいかもしれない。けれども皆さんの唯我独尊を揺さぶり、目を覚ましてもらうのが私の講演の目的の一つでもあります。ドイツでは知識人と一般労働者の間の教養の差が大きすぎる、というようなことは、日本人の誰の目にもあきらかなのですが、皆さんは夢にも考えたみたことがないでしょう。『フランクフルター・アルゲマイネ』とほぼ同水準の日刊新聞が日本では二千五百万部も発行されているのです。日本には種類豊富な雑誌ジャーナリズムが存在し、その規模は全ヨーロッパを合わせたそれよりもさらに大きいでしょう。これは宣伝ではありません。事実を述べているだけなのです。ただ皆さんにはそういうことを想像したこともない。ヨーロッパの中だけ見て満足している。私がイギリス、フランス、ドイツの悪口を言って、最後に日本を正当化したというような反論が先ほどありましたが、物事を理解するには歴史的に理解することが必要で、私がしたのはそれだけのことにすぎません。考えてみればヨーロッパが他の地域に優越していたのは、たかだか三百―四百年の事にすぎません。ひょっとしたらその時代が終わろうとしているのかもしれないのですよ。自己満足を捨て、どうか皆さん、目を覚まして下さい。・・・・・」
この後の文章で西尾氏は、次のように書いています。
最後はまた再び、ドイツ人を叱るような高飛車な口調になった。目を覚ましてください、と言う言葉は、私が八回の講演を通じて何度も用いた言葉であった。ところが不思議なことに、この言葉と同時に、キールの会場に激しい拍手が沸き起こったのである。

こうしてキールをかわきりに八都市を講演したのですが、西尾氏の講演内容を歓迎して受け入れようとするドイツ人、多くはそれに反発する人、その中間派も存在したりして、要するにドイツ国内で物議をかもしたのです。そのため西尾氏の日本帰国後も彼の講演のドイツ語原文を送ってくれとの依頼、さらに英訳、仏訳、韓国語訳にまでなった。ところがドイツ語原文は、いつまでたっても日本のドイツ大使館は、印刷しようとしなかったので西尾氏は、要求される度に自分でドイツ語原稿をコピーせざるを得なかったのである。なぜ日本の大使館は、西尾氏のドイツ語原稿を印刷しなかったのか、彼が西欧側の既成の味方――日本を特殊な国として神秘化したがる――に挑戦しない穏和しい日本人の講演者ではないため、ひたすら現地の反発を恐れる役人根性の表れであることにまちがいない。
帰国後、西尾氏のドイツ人友人の日本人奥さんから手紙きました。西尾氏の文章にはこう書いてあります。
「夫人の友人である上智大学教授木村直司氏――ゲーテ研究科で、私も識っている人だが――たまたま滞在中で、私の講演を論破する日独協会の例会にまぬかれて、質疑応答の席に着き、自ら次のような発言したと伝えている。
日本人は決して外国人の助けなしで近代化の精神的素質をも備えていたわけではない。その点で西尾氏の諸説はひどい。日本の近代化は16世紀に来たキリスト教の宣教師たちによってその精神的基礎を作ってもらったために可能になったのである。参加したドイツ人たちは、『ああ、西尾氏はその大切な一言を隠していたのだ』と一斉に安心して拍手が湧き起り、『さすが木村先生はドイツで学位をお取りになっただけのことはある大学者だ』みな一様に晴れ晴れとした表情になり、大喜びしたという話である。
木村氏が私の知らぬ処で私に闇討ちをしかけていた事実は不問に付すとしても、いくらキリスト教系の大学に勤めているのでキリスト教に義理があるとはいえ、またドイツの方が日本より何でも秀れているとした方が氏の利益に一致するとはいえ、ここまで事実を捻じ曲げて物を言うのは、氏が“西ドイツロビー“であることを割り引いてもいささかお粗末すぎはしないだろうか。
日本は16世紀にキリスト教化される危険を事実上拒絶することに成功した国である。明治以降の急速な発展がキリスト教に原因付けられると考えるより、その反対であると考えた方が、はるかに歴史事実に合至しているであろう。これはほぼ国民的常識である。問題は木村氏、というより依然としてかなり多くの知識人が西欧側の提出する思考の枠内でしか考えることができず、またその種の日本人が西欧側に歓迎されるだけに発言権を持つという不幸な事態――日本と西欧の双方にとって不幸な――が今なお解消されないことである。

これまで西尾氏のドイツのキールの講演の一部を掲載してきましたが、ドイツ国内八都市の講演の詳細とドイツ人の反応の詳細を知りたい方は、『西尾幹二の思想と行動」②日本人の自画像』の(三章 近代日本とは何か)扶桑社 2000年10月31日出版をご参照ください。

B.松原久子氏
松原久子氏の名前は、あまり多くの人に知られていないでしょう。私も定年後しばらくして知った人物です。ウイキペディアによると、1935年生まれだから西尾幹二氏と同じ年。昭和33年に国際基督教大学卒業後、アメリカペンシルバニア州立大学舞台芸術科にて修士号取得。同時に日本演劇史を講ず。西独ゲッティンゲン大学院でヨーロッパ文化史専攻。昭和45年日欧比較文化史において博士号取得。現在アメリカ在住。海外在住が長いのでその分日本ではあまり知られていないのでしょう。松原氏は、平成13年一月号の『正論』に彼女のドイツでの体験の一端を披露しています。
それは、ドイツの全国テレビで毎週五か国の代表が出演して行われる討論番組に、氏がレギュラーとして出演していた折の逸話である。その時のテーマは、「過去の克服―日本とドイツ」で、相変わらずドイツ代表は、日本軍がアジア諸国で犯した蛮行をホロコーストと同一視し、英国代表は捕虜虐待を、米国代表は生体実験や南京事件を持ち出すなどして日本を攻撃非難した。松原氏は応戦し、ドイツ代表には、ホロコーストは民族絶滅を目的としたドイツの政策であって、戦争とは全く無関係の殺戮であること、そういう発想そのものが日本人の思惟方法の中には存在しないと反論し、英国代表には、彼らによる日本人捕虜虐待、米国代表には、百以上の日本の都市無差別爆撃を指摘した。問題が起きたのはテレビ番組終了後です。彼女がテレビ局からケルン駅を出てハンブルグ行を待っていると人ごみの中から中年の女性が近づいてきて、彼女の前に立ち、「我々のテレビで我々の悪口を言う者はこれだ。日本へ帰れ」と言うなり彼女の顔にぴしゃりと平手うちをくらし、さっさと消えていったと言うのだ。

次のテレビ出演の際に、平手うちされたことを番組のはじめに話、「ドイツに今もって言論の自由がないから身を守るため沈黙すると宣言した」ところ、放送中視聴者から多数の電話がかかり、花束がお見舞いとしてたくさん送られてきたそうである。その中につぎのようなことが書いてあるカードがついていたという。「あなたの言うことは腹立たしい。でも本当だから仕方ない」。外国で「真実を語る」とか「本音を語る」ということは反発があって大変のことなのです。それを日本の知識人が、やりたがらないのは保身が入るからです。本来から言えば、日本人に本音をぶつけるより外国人にぶつける方が楽なはずです。ところが逆なのは「外国でよく思われたい」という保身がはいるからです。松原氏は、いまや少なからぬ日本人が欧米で、講演、講座、討論会を通じ「日本」を語っているが、彼らの中で袋叩き遭いながら反論し、そして平手打ちをくらうほど日本を弁明した人がいるだろうかと書いているが、私も全く同感です。彼女はドイツ語で「宇宙船日本」という本を書き、ミュンヘンで出版した。その本を田中敏氏が翻訳し、タイトルを、「驕れる白人と闘うための日本近代史」にして文芸春秋から出版(平成17年)した。

本の帯にはこう書いてあります。全文を披露します。
「大航海時代の到来以後、全世界を発見、征服した偉業に対する欧米人たちの誇りを根底から覆す書。1999年にドイツ・ミュンヘンで出版され、大きな話題となった。欧米においては、自分たちの歴史こそ世界史であり、自分たちの生き方こそ文明の名に最も相応しく、地球上のあらゆる民族は欧米文明の恩恵に浴することによって後進性から救われてきた。だから彼らの潜在意識の奥深くには、確固たる優越感が入り込んでいる。これに対し著者は、江戸期の鎖国日本は経済的社会的にみごとまでのバランスのとれた「小宇宙」社会を形成しており、人間と自然の共生に心を砕いていたと史実を示す。それは同時代のヨーロッパのすべてを侵略征服せんとする拡張謳歌精神とは正反対だと指摘する。ヨーロッパの世界侵略は、その「小宇宙」を壊したのであり、それを「文明開化」と解釈するのは大間違いだと言う。この、ヨーロッパのほうが野蛮だった、という主張は、ドイツで大きな物議をかもしたが、同時にいまや、世界人口の急増と資源の枯渇を前にして、欧米でも「小宇宙」日本の共生思想に目覚め始めている。欧米人の優越意識を覆すためにドイツ語で刊行された書を、今度は日本人の劣等感を打ち破るために、邦訳出版する。」

翻訳者の上田敏氏が、このドイツ語の本を受け取った時、彼は「この本は薄幸な一級品の作品である。なぜならば、ドイツ語なので日本では読まれないから評価の対象にならない、ドイツ人にとっては、決して快いものでないから、それ故に正当な評価を受けない、どっちにしても報われることの少ない宿命の著作だ、という感想で、私はそのことを氏に率直に伝えた。」
彼女から折り返し返事があって、「この本は、どうしても彼らに言わなければ我慢できないという『激怒』と『使命感』に燃えて書き上げた」という。深いところで東西の対決を試みる日本人だけが自己正当化の渦のなかに巻き込まれ、毅然とした日本人だけが彼らから冷酷な扱いを受けるのである。『出版にこぎつけるまでの闘いで、一度に十歳くらい歳をとったとも書いてあった。そして『この報われることの少ない薄幸な作品をこのまま埋めてしまうことに、ある日突然耐えられなくなった』ので日本語翻訳してもらえないだろうかとの依頼を受けた』と書いています。
私は彼女の気持ちがよく理解できますし、またえらいと思います。彼女がドイツ語の本を書いたのはこれが初めてではありません。ドイツの週刊紙の全国紙、「ディー・ツァイスト」のコラムニストを務め、ドイツ語による評論、小説、戯曲など多数書いているし、ドイツペンクラブの会員でもある。ドイツに何十年と暮らして彼女の社会的地位を築いてきたと思います。それなのになぜこういう本をドイツ語で書かねばならなかったのか。わざわざドイツ人に嫌われる本を書いたのも同然だからです。彼女の生家は、織田信長を主祭神とした京都の建勲神社です。私の想像ですが、彼女の出自にも関係あるのではないでしょうか。彼女には勇気があります。出版は1989年のミュンヘン、1987年にはアメリカのカリフォルニアに移住しています。この本を書いたためにドイツに居づらくなったのではないかと私は想像してしまいます。

要するに、私の著書、「逆境に生きた日本人」で力説したように、日本人は信念の強い人には、冷淡で、変節者には寛大なのです。現在の反日日本人の言動を見ればわかるでしょう。よくも皆さん彼らに寛大でいられると思います。このブログに書かれた西尾幹二氏と松原久子氏には、私は絶大な信頼と支持を惜しまない者です。



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育鵬社歴史教科書支持派の皆様へ



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先月6月30日に「新しい歴史教科書をつくる会」の総会がありました。大きな議題の一つが育鵬社の歴史教科書の二つの問題でした。この二つの問題は、育鵬社の支持者の間では、あまりよく知られていないし、また知っていたとしてもその深刻度が理解されていないような気がしてなりません。そこでこの二つの問題を少し掘り下げて説明させていただきます。二つの問題とは盗作と南京虐殺事件です。

一。盗作問題
実は去年の教科書採択戦中に「つくる会」本部は、育鵬社の歴史教科書が「つくる会」が扶桑社から出版した「新しい歴史教科書」を盗作しているということは、正確な数はわからなかったが、盗作している事実は掴んでいました。一方「つくる会」の年表流用問題が発覚し激しい批判を浴びせられた。即謝罪し、年表を作り直し差し替えし会長は責任をとって辞任した。この「つくる会」の失態は、ネガティブキャンペインに徹底的に利用され、痛手を受けました。それでも「つくる会」は、育鵬社の盗作を公式には発表しませんでした。理由は、採択戦中「盗作」をネガティブキャンペインに利用して保守同志の足の引っ張り合いをしたくなかったからです。採択戦終了後も「つくる会」首脳部は、育鵬社の盗作を公表しませんでした。たった一つ公表先は、文科省への報告です。今年の3月30日のことです。保守同士の足の引っ張り合いをしたくなかったのでしょう。その間、つくる会の理事で、公民教科書の執筆者であり、また著作権の専門家でもある小山常実先生が、育鵬社の盗作を徹底的に調べ上げ、それを自分のブログに発表したり、あるいは盗作の事実を育鵬社関係者に手紙を書いたりしていました。また会員の中にも盗作をブログで発表したり、あるいは、育鵬社の歴史教科書の監修者に直接手紙を書いたりしていました。しかし育鵬社からは、ほとんど回答なし。一方「つくる会」首脳部もこの盗作問題について二つに意見が分かれました。盗作を公表して問題解決をはかろうとする方と盗作を無視して穏便に済ます方に分かれたのです。会員もこの二つにわかれましたが、なんと言っても公表して積極的に戦って解決する方が圧倒的でした。そして総会日、「つくる会」首脳部は最終決断を発表しました。育鵬社の盗作を社会に公表し、育鵬社と「つくる会」の執筆者どうしの話し合い解決を優先することを発表しました。著作権問題に直接関わる西尾幹二先生と藤岡信勝先生も話し合い解決優先に同意し、それでも解決つかなければ法廷闘争をいとわないこと誓いました。これで会員たちのもやもやした気分がふっとび、全員一致団結して次の教科書採択戦にかかれることは、一会員として喜ばしいかぎりです。

「つくる会」首脳部の公表によると育鵬社の盗作箇所は、全部で47ヵ所。いままで私はブログなどで全部で50ヵ所あまり、あるいは49ヵ所などと書いてきましたが、正式の発表によると47ヵ所です。内訳は以下の通りです。

          育鵬社の章       盗作箇所
        1.原始と古代       10ヵ所     
        2.中世           3ヵ所
        3.近世          11ヵ所
        4.近代           2ヵ所
        5.二つの世界大戦     16ヵ所
        6.現代           5ヵ所
                    計 47ヵ所

盗作と言ってもほとんど同じ考え方同士、文章が似てくるのは当然だろうと言う人もおりますが。それは全く見当違いであり、自分であまり文章を書いたことがない人のせりふです。どんなに同じような事を書いても自分の書いたものと、人の書いたものでは完全に違ってくるものなのです。盗作箇所47ヵ所という数字は、前代未聞の規模の大きさです。そして現在その盗作された教科書が学校の教室現場で使われているのです。こんな事があっていいのでしょうか。どう解決していくか深刻な問題です。著作権侵害は、かなり重い罪です。最高刑は10年です。なにより神聖な製品ともいうべき教科書に大変な数の盗作があるということは、まさには国家としてはずかしいかぎりです。これでは日本は韓国や支那に向かって日本製品をぱくっているなどとえらそうな口はきけません。それでも、私に言わせれば、純粋に国内問題です。次の南京事件に比べれば解決は楽です。南京事件は直接支那がからんできます。また支那ばかりでなく外国でも注視されていますから盗作問題以上に深刻です。

二。南京虐殺事件
今から2,30年前ぐらいまでは、南京虐殺事件は、日本国内でも「あった派」が優勢であった。「あった派」でもいくらなんでも30万人は大げさだろう、もっと少ないのではという声が圧倒的だった。そこへ秦郁彦氏の4万人説が出て多くの知識人がその説に飛びついた。テレビの田原総一郎氏もその口です。ところが1998年に南京研究者として有名な東中野修道氏が「南京虐殺の検定検証」という本を著した。彼は南京事件がなかったことを証明したのではありません。これが南京虐殺事件の証拠だという物件を全部徹底的に調べあげて、写真などすべての物件はデタラメであること証明したのです。その後も東中野先生や数人の研究者が南京事件の研究を進め、研究の成果や資料の発掘などで現在では、支那やNHKの御用学者や左翼を除いてほとんどが、南京虐殺事件はなかったというのが、少なくとも保守の間では常識になったのです。南京事件研究者は、東中野先生を含めてほとんど歴史の専門家ではありません。私は日本の大学の近現代史学者の怠慢ぶりは刑罰に値すると思っています。2007年発行の雑誌「WILL」の12月増刊号、『『南京大虐殺』に終止符』が、まさに南京事件のけりをつけたと言っていい。

ところが日本の歴史教科書では、南京事件を容認しないと文科省の検定合格がとれないのです。しかたがないから「つくる会」の歴史教科書は、南京事件については育鵬社の歴史教科書と大体似たような表現になっています。しかし結果として両教科書に同じような文章になるまでの過程には天と地の差があります。「つくる会」は南京事件を否定して書類を提出して、文科省の検定官と論戦しています。文科省の拠り所は、近隣諸国条項や歴史学会の通説などです。昨年の教科書検定の時、「つくる会」はある作戦をたてました。「通州事件」申請の中に入れたのです。「通州事件」とは日本人一般市民、老若男女が支那人に虐殺された事件です。「つくる会」は、南京事件を否定させてくれたら、この「通州事件」をひっこめるつもりでした。ところがやはり南京事件は否定できず、「通州事件」は認められたのです。戦後の歴史教科書で「通州事件」が記載されたのは、今回が初めてのケースなのです。南京事件を否定しようと戦った結果、いい意味での副作用を生んだのです。このへんの文科省検定官と「つくる会」執筆者のやりとりに興味あるかたは、「つくる会」公民教科書の執筆者、小山先生のブログを御覧ください。
http://tamatsunemi.atwerby.info/201207/article.4.htm

これに反し育鵬社は、違います。育鵬社は、教科書検定前から南京事件を公然と容認していたのです。昨年の7月20日、河村名古屋市長の肝いりで名古屋で中学校歴史、公民教科書討論会が開催された。教科書会社で出席したのは自由社(つくる会)と育鵬社だけでした。この時育鵬社の歴史教科書の監修者の一人である石井昌浩氏(元拓殖大学客員教授)は、こう語った。
「南京事件は確かにありました。日本軍によって中国軍人や民間人に多数の死傷者が出ました。これは事実です。ただ犠牲者の数などの実態については、様々な見解があり、今でも論争が続いている。これが育鵬社の南京事件についての記述です。」
皆さん、驚きませんか。自ら保守と称する育鵬社の歴史教科書の監修者の言葉ですよ。名古屋に引き続いて東京でも教科書会社の懇談会の席でも同じような発言をしているのです。
石井氏の冒頭の発言、「南京事件は確かにありました。日本軍によって中国軍人や民間人に多数の死傷者が出ました。これは事実です。」
これはまさに文科省の見解であり、左翼の見解であり、支那の見解です。それと同じ見解を保守が示しているのです。ここで読者にはっきり認識してもらいたいことがあります。「つくる会」の歴史教科書も育鵬社の歴史教科書も南京事件の記載については、ほぼ似ていますが、「つくる会」は、「なかった」説を変えないと検定合格がとれないから文言を変えざるを得なかったということです。いっぽう育鵬社は、「あった派」ですからそのまま変える必要なく文科省に受け入れられたということです。

育鵬社の歴史教科書を支持している方々に聞きたい。こんなこと許されていいのですか。これは我々保守に対する裏切りではないですか。この石井発言に対し育鵬社教科書を支持した保守知識人がいっせいに反論すると思ったら、ほとんど誰も反論しないのです。何故か?育鵬社のバックにいるフジサンケイグループに気を使っているのです。産経新聞にはコラムもあれば「正論という月刊誌もある、「正論賞」などという賞もある色々世話になることも多いいし、また世話になるチャンスもある。著名な知識人ですらフジサンケイグループに気をつかって反論できないのです。例をあげましょう。渡部昇一氏と櫻井よしこ氏です。二人とも「南京事件」「なかった派」の強力なメンバーです。渡部氏は、しかも育鵬社歴史教科書の監修者の一人です。育鵬社自身が南京事件「あった派」なのに批判できないのです。私は櫻井よしこ氏をかっていました。だから彼女の主宰する「国基研」のメンバーにもなった。「国基研」のあるパーティーでは彼女と名刺交換したいために列を作って並んでいたのを覚えています。彼女の集客力はすごいですよ。「つくる会」の歴史教科書の市販本には彼女の写真が載っています。育鵬社の歴史教科書の市販本にも彼女の写真が載っています。彼女は両教科書の支持者になったのです。私はそれに対して非難はしません。その桜井氏の南京事件に対する考えかたは、育鵬社の「南京事件あった」派とは完全に違います。それでも彼女は育鵬社を表立って批判できないのです。私がここで保守知識人不甲斐なさを責めるのは、南京事件はこれからも支那と論争し続けなければならない重要な外交問題だからです。日本民族の尊厳にかかわる最重要な問題でも、国内でさえ相手によっては非難の舌鋒がゆるむようで、どうして支那と論戦できるのかと言いたい。結局これは日本人知識人の弱点の現れでしょう。えらそうな事を主張していても結局は権威権力には弱いのです。フジサンケイグループが持つ権威、権力に堂々と反論できる著名な知識人が少なすぎるのです。育鵬社の登場によって南京事件に対する保守の一画がくずれてしまい、ますます日本は不利な体勢においこまれてしまったのだ。育鵬社教科書を支持する方々に私は、はっきり主張します。私も保守同士お互いけんかはしたくはありません。だから大東亜戦争を太平戦争と記載したこと、漢字の支那語読みや朝鮮語読みのルビの問題、私は片目をつぶります。盗作も国内問題、しかし南京事件容認は、これは絶対に許すことはできません。日本人の敵です。それに私は、日本民族の尊厳を救ってくれた東中野先生を初めとする数人の南京事件研究者に感謝の念を抱いています。それゆえに育鵬社の南京事件容認は保守への裏切りであり、日本民族の裏切りでもあります。絶対に許すことはできません。私は育鵬社の教科書支持者から嫌われるでしょう、それも覚悟のうえです。私は、「従軍慰安婦事件」と「南京事件」を日本人であるかどうかの踏み絵にしています。

最後に日本会議へ一言。日本会議は日本では保守最大の組織だという。私は日本会議が日本にとって良いことをしてきたことは認めます。しかし去年の教科書採択戦で日本会議は、「つくる会」を蹴って育鵬社を支援した。私はそのことについては批判する気は毛頭ありません。日本会議の首脳部は、育鵬社の教科書の内容に満足しているのでしょうか。公民教科書には「愛国心」や「公共の精神」は記載されず、歴史教科書にいたってはいままで述べてきたようなていたらくです。育鵬社が、南京事件容認であることを知らなかったのですか。知らなかったとしたら首脳部の怠慢です。ここで私はあなたがたにはっきり御聞きしたい。あなた方は南京事件容認派ですか、容認派でなければすぐにでも育鵬社に抗議してもらいたいし、そして縁え切ってもらいたいと思います。もし容認派であれば、あなたがたは日本民族の裏切り者であり、保守の看板をおろしてもらいたい。









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ペリー提督の上陸用舟艇



日本の歴史家、特に近現代史家にはバカやアホが多すぎる。私に言わせれば、数学を教える先生に人間性を問われないでしょう、あるいは問う必要もないでしょう。しかし歴史を教える先生は、人間性を問われます。なぜなら歴史の先生は、生徒にうそを教えるからです。数学に門外漢の私に言わせれば。1+1=2。 これは数学上の真理でもあり、また世の中で誰もが否定できない事実です。だから1+1=3と教える数学者は絶対にいないでしょう。それだけに私のような数学について無学な人間は、数学者は、教室でうそをつくことはないのではないかと考えて、数学者は人間性を問われることはないと解釈しているわけです。
ところが歴史学者は違います。歴史学者に一つの史実資料を与えたとしましょう。ある学者は、史料を読むが「偽物」だといってその史料を無視する人、あるいは史料を読むがその内容を曲解する人、あるいはその史料を正しく理解する人、どうして同じ史料を与えたにもかかわらず歴史学者によって解釈の仕方が違うのか、すなわち歴史観が違ってくるのでしょうか?皆さん、なぜだと思いますか。それは歴史が、時勢、時流、権力者の影響を非常に受けやすい学問だからだと思うのです。拙著、「逆境に生きた日本人」を読んでいただければわかっていただけると思いますが、日本人は、この時勢、時流や権力者の意向に極端に弱い。付和雷同は日本民族最大の特徴です。日本民族の付和雷同性を皮肉る外国製ジョークは、いくつもあります。時勢、時流や権力者の意向に従うためには、いままでの考え方とは180度も違う転向を平気でやってのけるのだ。

戦前と戦後の歴史家の違いは何かと言えば、答えは簡単です。戦前の歴史家は、日本の大絶賛、日本批判の一言も言ってはダメ、戦後の歴史家は、日本の大批判、日本絶賛の一言も言ってもダメ。祖国の歴史がこんなに両極端になって、日本の歴史家に果たして祖国の歴史を教える資格があるのかと言いたい。度を越した自虐史観が現在日本の歴史学界全体の歴史観になっていて、大学で歴史を学び、中学校や高校の歴史の先生になった人たちは、ほとんど自虐史観そのものです。大学内での自虐史観への挑戦などは、絶対許されないのです。もし挑戦したら、学者としての出世は、望みうす、学校の歴史の先生としての就職も望めないでしょう。

保守言論界の巨人、西尾幹二氏、現在76歳。専攻は東大ドイツ文学。その西尾幹二氏が29歳の時、雑誌「自由」に『私の「戦後」観』というタイトルの論文を発表し「自由新人賞」の入賞論文になった。私は二、三年前にこの論文を読んだが、内容は徹底した自虐史観批判で、当時の著名知識人をボロクソに批判しています。西尾氏は、講演の時この論文を指し、「私は、この論文で東大文学部教授への道を棒に振った」と語った。その時からおよそ50年後の現在、東大文学部教授の肩書きを背に岡本陽子氏がさっそうと登場、自虐史観の本を書きまくり、度々NHKに登場する人物となっています。彼女は、大学時代から自虐史観を忠実に学び、一歩もはずれることなく忠勤に励んだ結果、東大文学部教授の肩書きを得たのです。このように大学では自虐史観が主流派ですから大学の現役学者が自虐史観に挑戦する本など書くことはめったにない。自虐史観への挑戦者は、ほとんど西尾幹二氏や渡部昇一氏のように歴史が専門でない学者ばかりです。それに在野ともいうべき私のような一介の定年サラリーマンのような人たちが加わります。その在野の挑戦者でもちょっと稀有な存在の女性を紹介しましょう。

数年前「ペリー提督の上陸用舟艇」という論文を発表した東京在住の北村陽子氏です。北村氏の何が稀有かというと、自分の書いた論文が日本歴史学会に挑戦しているということが暫くの間気がつかなかったこと。また在野の人が歴史本を書くというのは、たいがい若い時から歴史に興味があったというのがほとんどです。ところが彼女は違った。彼女は美術系の大学を出、現在は主婦です。大学時代を含む若い時は、歴史など一切興味がなかった。だから歴史小説さえ読んだこともなかったのです。その彼女がどうして専門家顔負けの論文を書くまでになったのか。彼女に言わせると、自分が教育ママだからですと言うのだ。教育ママだから子供を博物館などによく連れていきます。ある時上野の科学博物館に子供と一緒に出かけた。天文系の展示で、日本で初めて太陽の黒点観測したのは近江の国友鍛冶、国友藤兵衛という人物だと知った。鉄砲のような殺人道具を作る人が、夜空の星や太陽を観察するというその落差が彼女の胸にグッと感じるものがあった。国友藤兵衛の人物を調べようと思い鉄砲史学会に入会。そこで江戸の鉄砲鍛冶を知り、そこから江川太郎左衛門を知り、太郎左衛門から開国の歴史に踏み込み「ペリー提督の上陸用舟艇」という論文が生まれたというわけです。

この論文の概略: 幕府に開港をせまるにあたってペリーの採用した軍事作戦は、「砲艦の集中使用」と「サーフ・ボードと称する一種の上陸用舟艇」による上陸作戦の実施と「陸戦隊」の起用の三点であった。特に威力を発揮したのがサーフ・ボードと称する一種の上陸用舟艇です。船首にボート・ホーイッスルと呼ぶ曲射砲が設置されていた。その曲射砲も固定式に設置されているのでなく、自由自在に旋回できる砲座の上に設置されているのだ。当時の日本人はこの砲を「船放自在砲」と呼んでいます。この「船放自在砲」が上陸用舟艇で上陸し、砲座から外され二輪掛けの砲車に設置されると野戦砲に変身するのだ。要するにこの「船放自在砲」は、水陸両用に設計されていたのだ。この「船放自在砲」が野戦砲に変身し、その威力は、幕府側に大きな影響を与えた。それまで幕府は、海上では勝てなくても、陸上では勝てるだろうと予想していたのだ。なにしろ江戸湾は、遠浅で黒船艦隊は、極端に陸上接近して停泊できないからだ。ところが上陸用舟艇の「船放自在砲」、それが陸上では野戦砲に変身、陸戦隊が放つライフル銃の威力、陸戦でもとうてい勝てないことを悟ったのだ。このようにペリーは、圧倒的軍事力を実際に見せ付けての軍事圧力で幕府側に開港をせまり成功させた。

アメリカインディアンが白人に接触した時の軍事技術の差は、ほとんど弓矢と銃の差だった。だから戦いもした。しかし江戸末期の武士がペリー艦隊に接触した時、その軍事技術の差は、どうしようにもない開きで一戦を交えることが不可能だったのだ。この論文を発表してから彼女は、しばらく考えこんでしまった。「なぜ私みたいな一介の主婦が調べれば書けることが、歴史の専門家の人たちが書かなかったのだろうか」と?その後いわゆる「ペリーの白旗事件」を知り、私のブログなどを読むようになって、彼女は日本の歴史学界は、自虐史観中心で、日本のことはいくら悪く書いてもいいが、アメリカのことはあまり悪く書けない、書かないのが暗黙の了解になっているのと、同時にペリーの圧倒的軍事力で強引に開国を迫られて開国が実現したことを強調することを好まれていないことを知ったのでした。私がこの論文を読んで、最初に私の頭に浮かんだのは、いわゆる「ペリーの白旗事件」でした。読者の中にはすでにご存知の方も多いと思いますが、「ペリーの白旗事件」の概略は以下のようなものです。

ペリーは帰国後、膨大な遠征航海記を書いています。ところがその膨大な遠征記には書かれていないことが、当時の日本の外交文書に書かれているものがあるのです。それはなにか。彼の遠征記では、ペリーは幕府との外交交渉で3通の書状を提出したと書いてありますが、実際は四通の書状を幕府に提出しているのです。その四つ目の書状には、国書の受け入れを拒むなら、それは天命に背くことである。戦いとなれば必ずアメリカが勝つから、その時にはこの白旗を掲げて和を請えと書かれているのです。そしてその書状と一緒に二本の白旗が幕府に渡されていた。この史実の出所はと言えば、当時の日本の対外関係を知るための第一級の史料と言える「大日本古文書・幕末外交関係文書之一」です。

ところがなぜかこの白旗事件が、戦前もそして戦後も長く日本国民に知らされることがなかったのか。戦前の理由の一つに新渡戸稲造があげられています。新渡戸は、アメリカのジョン・ホプキンス大学で博士論文を得るために「日米関係史」(The Intercourse Between The United States and Japan)という論文を書いています。新渡戸が史料として白旗事件のことが詳しく書かれている水戸藩主、徳川斉昭の著「海防愚存十条五事」を使用し、長々と紹介しているのですが、白旗事件のことは一切触れていません。何故か?新渡戸は、自分の評判を上げるためにアメリカ政府に媚をうったとも言われています。私もその考えに同意します。新渡戸は「武士道」を書いて有名ですので、すばらしい人物のように思われていますが、私は人間的には彼はきらいです。ここでは詳細を省きます。

それでは戦後の理由は何でしょうか。幕末外交史を研究する歴史家にとって、先にあげた「大日本古文書」は必読の本です。それがどうして長い間「ペリーの白旗」事件が日本国民に知られることがなかったのか。それは先に触れた自虐史観の影響です。それではいつ日本国民に知れわたるようになったのか。1990年にアメリカ人のピーター・ワイリーの著書、「神々の国ヤンキーたち――ペリー提督と日本の開国」が出版されたからです。それでは著者ピーター・ワイリーは何を参考にしてペリーの隠された白旗書簡のことを知ったのかというと「大日本古文書」が1970年に英文に翻訳されていたからです。要するに「白旗事件」は江戸時代の日本人が書いたのにアメリカ人によって知らされたということです。

北村氏は、ペリーの黒舟艦隊の軍事力の実態を詳細に調べあげてその圧倒的軍事力の差を書き、それが大変な圧力なって開港を導いた主張しています。だからこそペリーは、戦になればアメリカが勝つから、その時はこの白旗を掲げよと二本の白旗を日本に渡したということは当然考えられる筋書きです。それではなぜペリーは、この事実を隠したのか、先に触れたアメリカ人作家、ピーター・ワイリーは、「遠征が日本国民に対する威嚇であったような印象を与えないために、自分の報告書にはこの書簡を書かないことに決めたのだとしか推量のしようもない」と書いているが、私はその推量はまともだと思います。ところが、この白旗書簡は、日本人が作成した偽物だと主張する人が現れたのだ。誰か?自虐史観の親分的存在の歴史学者で東京大学教授、宮地正人氏です。日米両国が正式に交わした外交文書に書かれているわけでなく、アメリカ側にはなくて日本側だけにある文書など史料とは言えず、偽文書だと決め付けているのだ。宮地氏の場合、徹底した自虐史観論者だから、日本を悪い国にしなければなりません。そのため江戸末期の開国は、ペリーの武力威圧で強引に結ばれたということを強調したくないのだ。そのため無意識のうちにアメリカ擁護になり、アメリカの御用学者になってしまうのだ。従って日本の歴史学者にとってペリーの黒舟艦隊の軍事力の実態を調べた北村氏の論文は、歓迎できない論文なのです。

「大日本古文書」が英文翻訳されていますから、ペリーの白旗書簡は、少なくとも歴史の専門家に知られていたのです。ところが自虐史観が支配的なため誰も世間に公開しようともしなかった、あるいは公開できなかったためにアメリカ人の作家によって公開された。一方ペリーの黒船艦隊の軍事力の実態は、日本の歴史家によって調べられなかった。実態を暴くと、圧倒的軍事力の差で強引に外交をせまられたことがばれてしまうからです。もし北村氏の論文が発表されなかったら、黒船艦隊の軍事力の実態は、自虐史観が歴史学会の絶対的主流派であるかぎり日の目を見ることはなかったでしょう。それだけに北村氏の論文は、貴重であり読む価値があります。北村氏の論文、「ペリー提督の上陸用舟艇」は、横須賀市開国史研究会編集・刊行の「開国史研究 第五号」に掲載されています。販売は横須賀市役所、市政情報コーナー、電話046-822-9478。本代800円、郵送代290円、合計1090円払い込むと郵送してくれます。多分部数に限りがあると思いますので早い者勝ちだと思います。

「開国史研究 第五号」には北村氏の論文をふくめて四つの論文が掲載されていますが、その一つに岩下哲典氏が書いている「ぺりーの白旗書簡論争への一つの回答」も白旗書簡に関心のある方には興味があるのではないかと思います。北村氏は、この論文を本にして出版する予定にしています。さらに彼女は現在三本の歴史論文を書いているそうです。若い時歴史など全く興味なかった彼女が、子育てもそろそろ終わろうかという時に、次々と歴史論文を手がけるという離れ業をやってのける、隠れていた逸材に花が咲く時がきたようで今後の北村氏の活躍が楽しみです。







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ペリーの白旗事件



アヘン戦争後の1844年(ぺりー来航の9年前)、オランダ政府は、国王ウィリアム二世から江戸の将軍あての親書をたずさえた海軍大佐を特使として日本に派遣してきた。国王の親書は、これまでオランダが日本との貿易を独占してきた背景もあって善意の手紙であった。その手紙はいまなぜ開国しなければならいか理由をあげ、そして開国を進める内容でした。国王の手紙に対する幕府の回答は、鎖国政策の変更なしというものでした。
1846年7月浦賀沖に二艘の軍艦が現れた。アメリカのビッドル提督の率いる軍艦です。来航の目的は、日本がアメリカと通商を開始する意志があるかどうかの打診でした。幕府の返答は、新たに外国と通商を行うのは国禁であること、外交のことは長崎で取り扱う、この二点でした。このためビッドルは、なにもせずそのまま退去しました。この外交交渉でビッドルは、三つの失態を演じたとアメリカでは言われています。一つは軽率にも気さくに日本人に接したこと。二つは、大統領の親書を身分の低い浦賀の役人に手渡したこと。三つ目は、ビッドル提督自ら幕府の返書を日本船までとりにいったこと。要するに威厳の欠如を言うのでしょう。
このことの反省のせいか、ペリーが日本にやって来たとき、他人から見ればなに様と思わせるくらい威厳に満ちた態度を最後までくずしませんでした。ビッドルの行動が軟弱だったなどの批判が出ましたが、ビッドルばかり責めることはできません。その時のアメリカ政府には、開港に応じなければ、武力を使ってもという強い意志はありませんでしたし、それにビッドルが率いた二艘は、軍艦といっても帆船だったので威圧感がなかった。
1850年になるとアメリカ政府には、どうしても日本に開国を迫らなければならないはめに直面したのです。その理由の一つが太平洋上での捕鯨産業です。当時ニューイングランド地方の捕鯨産業が最盛期でした。南北戦争のころまでのアメリカの家庭における照明と機械用潤滑油は、捕鯨会社が運ぶ鯨油が主力でした。1846年だけで出漁船736艘、総トン数233,000トンにものぼっています。そのため捕鯨船の補給基地として日本の港が必要になったのです。
二つ目の理由は、アメリカはカリフォルニアと支那を結ぶ太平洋航路の開設を望んでいた。当時の蒸気船ではあまりにも距離がありすぎたのだ。当時の蒸気船の石炭消費量は、現代の想像以上に大きく、太平洋横断には航路途上での石炭の補給なしでは困難な時代でした。そのため太平洋横断のための石炭補給基地としての日本の港が必要になった。
1851年、アメリカ政府は、日本開国のための遠征隊を派遣しました。その時の司令官はペリーでなくて、東インド艦隊司令長官に任命されたオーリック海軍中佐でした。オーリックは、メキシコ戦争の時、ペリーの部下でした。オーリックの艦隊が日本に向けて出発しようとした時、時のアメリカ国務長官ダニエル・ウェブスターがスピーチの中で聞き捨てにならないことを言っているので紹介しましょう。
「日本列島の地下深く埋蔵する石炭は、万物の創造である神のみ心より全人類のためにさずけられたもの」と語っているのです。
当時のアメリカ人は、自分の行為を正当化する口実がないと彼らのゴッドを持ち出して正当化したのです。そのもっとも典型的な言葉が「マニフェスト オブ デスティニー」(Manifest of Destiny),日本語では「明白なる天命」と訳されています。日本の読者にはあまり知られていない言葉なのでぜひ覚えてもらいたいです。この「明白なる天命」という言葉は、ニューヨークのジャーナリストが1845年7月に雑誌に発表した論文の中で使用したものです。
ジャーナリストは、「年々増加していく幾百万のわが国民の自由の発展のために、神によって与えられたこの大陸に我々が拡大するというマニフェスト オブ デスティニーの偉大さ・・・」と記したのです。
白人がインディアンまたバッファローなどの野生動物をけちらしながら、西部へ、西部へと土地を求めて移住する行為に白人は正当化する口実がほしかったのでしょう。タイミングよく「明白なる天命」という言葉が出たものですから、その考えがアメリカ国民に浸透して、アメリカ膨張主義の思想になっていったのです。
アメリカ人(白人)がこの大陸で発展するのは彼らのゴッドが与えた明白な天命だというのですから、一神教というのは随分都合のいい宗教といわざるを得ません。先にあげたダニエル国務長官の発言にしても、自分の国の石炭は自分のものだが、日本列島に埋蔵している石炭は、自分たちのゴッドが全人類のために授けられた物と言っているのと全く同じことです。ダニエル国務長官も「明白なる天命」の思想に染まっているのです。
オーリック司令長官の遠征艦隊は、香港まで到着しながら、日本に来ることが出来なかった。オーリック司令官自身の悪評のため解任されてしまったからです。そこでペリー提督の登場となってくるのです。ペリーは、日本からの帰国後膨大な日本遠征記を発表するのですが、その中で先ほど述べたマニフェスト オブ デスティニー(Manifest of Destiny)「明白なる天命」という言葉を使っています。
「米国の今後の発展に照らし合わせてみても、わが国は他国より先んじて前向きな姿勢を示していく宿命にある。(万能の神)が(米国の明白なる天命)を極東にむけるとするなら、われわれはそれを真剣にとらえて(正義と誇りに満ちた)行動をとっていく必要があろう」
アメリカ人が西武へ西部へと発展していくのは、神から与えられた「明白なる天命」なら、西部開拓が終わった後は、極東へ極東へと向かうのもアメリカの「明白なる天命」だと主張しているのです。アメリカ人の心に無意識に存在する「明白なる天命」が大東亜戦争を生む一員になっていることはまちがいありません。アメリカ人のこの勝手な思い上がりともいうべき「明白なる天命」という言葉はぜひ記憶しておいてください。日本はアメリカとの戦争で負けましたが、アメリカ人のこの思い上がった「明白なる天命」という考え方を二度と公言させなくしたことは確かです。
入念に準備した後、ペリー提督の率いるアメリカ艦隊は、1852年3月8日にアメリカを出航した。ペリー艦隊の日本遠征は、現地の新聞ではほとんど話題になりませんでしたが、そんな中で5月4日付けの「ニューヨーク・ヘラルド」紙は以下の記事を載せています。
「遠征軍は日本政府に好意をいだかせて、交渉への下工作をするために、日本の皇帝への献上品としてたくさんの品物を積み込んだ。鉄道というものを教えるために機関車と線路を、そして文明をしらせるために電信機や写真機も積み込んだ。
日本とアメリカとの間で商品の交換をしようと言う気をおこさせるために、実に多くの工業品を持っていった。この遠征のために、議会は12万5千ドルをつぎ込むことを決定した。天文学、化学、植物学、博物学の研究者も参加した」
さらにペリー艦隊の日本遠征の目的は、いかなることがあっても長崎ではなくて江戸に上陸することをめざすとともに、いろいろな地方に遠征すること、そして長期間閉ざされた人々と通商関係を結ぶことでした。遠征は18ヶ月を要するだろうと推測されていた。
1853年7月8日ペリーは、四艘のアメリカ軍艦を引き連れて江戸湾入り口に姿を現した。そして1854年2月8日には、今度は七艘のアメリカ軍艦を引きつれ、強引に江戸市街を遠く眺められる羽田沖まで侵入してきました。あわてた幕府は、横浜で交渉を行うことに譲歩したのです。数回の交渉の結果、1854年3月31日、日米和親条約、12か条が調印された。その主な内容は、下田、函館の二港を開港し、薪、水、食料など供給すること、アメリカ船の必要品購入許可、外交官の下田駐在許可、最恵国約款の承認などでした。
ペリーの外交交渉は、日本の国法をむりやり破って、アメリカの主張を通させたということで「砲艦外交」と呼ばれています。帰国後のペリーは、鎖国政策をとる日本を、武力を使うことなく、一発の銃砲をうつこともなく平和裏に開国に同意させた理由もあったのでしょう、アメリカ国民から大歓迎をうけ、大統領候補に祭り上げられる始末でした。
帰国後のペリーは、膨大な遠征記を書き残しています。それが米国海軍省の委託により編纂された
「The Narrative of The Expedition of an American Squadron to the China and Japan
Performed in the years 1852, 1853, and 1854」です。
ペリーはもう1冊個人的な記録「日本遠征記」を書き残しています。実はこの2冊の本には書かれなかった事実あがるのです。ペリーがわざと隠したと思われてもしかたがない事実が、日本側の史料にあるのです。その事実とは、三輪公忠(みわきみただ)著「隠されたペリーの(白旗)」によると、幕府との交渉でペリーは3通の書状を提出したと彼の二つの遠征記に書いてありますが、実際は四つの書状を幕府に提出しているのです。その四つ目の書状には、国書の受け入れを拒むなら、それは天命にそむくことである。戦いとなれば必ずアメリカが勝つから、その時にはこの白旗を掲げて和を請えと書かれているのです。そしてその書状と一緒に二本の白旗が、幕府に渡されていた。
この史実の出所はと言えば、当時の日本の対外関係を知るための第一級の史料といえる「大日本古文書・幕末外国関係文書之一」です。
ところでこの事実がアメリカ側の著作によって初めて公にされたのは、ピーター・ワイリー著の
「神々の国ヤンキーたち――ペリー提督と日本の開国」で、出版がなんと1990年です。著者のピーター・ワイリーは、なにを参考にしてペリーの隠された事実をさぐりあてたかと言えば、
「大日本古文書」が1970年に英文に翻訳されていたからです。それではなぜペリーはこの事実を隠したか、ピーター・ワイリーは、「遠征が日本国民に対する威嚇であったような印象を与えないために、自分の報告書にはこの書簡のことは書かないことにきめたのだと、としか推量のしようもない」と書いています。
「大日本古文書」が1970年に翻訳されているのに、なぜワイリーの1990年の著書にいたるまで、英語圏において、この書状の存在すら気づかなかったのか、その理由は二つ考えられます。
一つはペリーの膨大な遠征記があるので、外国の研究者は、それを読めば充分事足りると考えたのでしょう。まさかペリーが日本政府あてに書いた手紙が、日本側だけに、しかも日本語訳としてだけ存在しているなど想像もしなかったのではないでしょうか。
二つ目の理由は、新渡戸稲造です。新渡戸は戦前では日本の有名な知識人です。略歴を簡単に紹介しましょう。1862年生まれ、キリスト教徒、アメリカとドイツに留学、京大教授、東大教授、東京女子大学初代学長歴任。同志社大学創立者。国際連盟事務局次長を務め国際的に活躍。英文で書かれた「武士道」は有名。新渡戸稲造には、彼の最初の処女作、「日米関係史」とも訳すべき「The Intercourse between The United States and Japan: A historical Sketch」と題する著作があります。この「日米関係史」は、アメリカのジョン・ホプキンス大学での博士論文を得るために書かれた本です。
この本は、ペリー提督を中心に展開しています。新渡戸は、史料として白旗事件のことが詳しく書かれている水戸藩主、徳川斉昭の著「海防愚存十条五事」を使用し、長々と紹介しているのですが、白旗事件のことは一切紹介しなかったのです。なぜか。
新渡戸は、自分の評判を上げるため、アメリカ政府にへつらうため、アメリカが知ったら嫌がるだろうと思われる情報はわざと紹介しなかったのだ。戦後多くの日本の知識人が外国での自分の評判を上げようと、外国政府の都合の悪い史実を無視して外国政府に媚ました。戦前にもそういう日本の知識人がいたのです。私が新渡戸を非難するのは、彼は当時アメリカで一番良く知られた日本人知識人でした。それにもかかわらず、新渡戸は年々厳しさを増す日本人移民への法差別に対してアメリカ政府にほとんど抗議はしていません。記録によると新渡戸は、1911年から1912年にかけて一年たらずの間にアメリカの六大学において166回も講演をして、大活躍していますが、しかし移民問題を正面からとりあげた講演は一回もありません。
「隠されたペリーの(白旗)」の著者、三輪公忠氏によると、1924年、アメリカで「排日移民法」が可決されると、新渡戸は「この日本人を侮辱した人種主義立法が撤回されるまで、二度とアメリカを訪問するつもりはないと宣言した」と言うのです。
もしそうであるなら新渡戸は、この時こそアメリカに渡って、「排日移民法」が通過する前に、その不当性を批判し、日本人移民のためにひとはだぬぐべきだったと思います。
この新渡戸の行為で思い出すのが、ノーベル文学賞作家、大江健三郎の行為です。1995年、フランスは南太平洋のムルロワ環礁で地下核実験を数度強行しました。その時国際間で大変な反対運動が盛り上がった。その前の年にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は、フランスのある会議に出席するはずだったのですが、核実験に抗議してフランス行きをキャンセルした。
この時大江はフランス行きをキャンセルせず、フランスに行きフランスのマスコミの前で堂々と核実験反対の意見を言うべきだったと思います。
新渡戸も大江も日本に留まって反対意見を発言するという、二人にとって一番楽な方法を選んでいます。
もう二度とアメリカにゆくつもりはないと言っていた新渡戸が渡米したのは満州事変直後で、新渡戸は日本の「満州国」建設について理解を得ようとアメリカ各地をめぐってアピールしました。
戦前、外国に媚びる日本の知識人のつらさはここにあるのです。外国での自分の評判は、気になるが、同時に祖国、日本の評判も気になります。なぜなら戦前の日本は、国家としての権威が非常に強かったからです。外国の評判ばかり気にしたり、媚びたりして日本をないがしろしたら、日本国民から総すかんを食うからです。そのため新渡戸は、アメリカにも、日本にもいい顔をしなければならなかったのです。
その点戦後の日本の知識人は、気が楽です。戦後の日本は経済大国になったとはいえ、日本の国家としての権威は敗戦後落ちたままですから、安心して外国に媚を売り、祖国を平気で足蹴にすることができるのです。誇りを失った多くの日本国民は、ただ黙ってその知識人を眺めているか、それともその知識人と一緒になって祖国日本を非難するかのどちらかだけです。

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NHKドラマ「坂の上の雲」開始に備えて

今度の日曜日、11月29日から話題のドラマ「坂の上の雲」が始まります。司馬遼太郎原作「坂の上の雲」のドラマ化です。司馬遼太郎と言えば、私の年代で、しかも男であれば、誰もが知っている作家であり、しかもほとんどの人が司馬遼太郎の本を少なくとも一冊ぐらい読んでいると思います。ちなみに私は司馬遼太郎の本は恐らく全冊読んでいるでしょう。私に言わせれば司馬遼太郎は、歴史小説家としては天才でしょう。とにかくどれも面白い。大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したとき、司馬遼太郎は健在でしたから、司馬遼太郎こそノーベル文学賞に値するし、なぜ彼の本がどんどん英語に翻訳されないのか不思議に思っていました。
「坂の上の雲」は最初、産経新聞の新聞小説として誕生した。単行本全6巻が出版されたのが1969年、私が31歳の時です。以来これまでに一千五百万部売れたと言われています。現在では「坂の上の雲」ビジネスといわれ本屋では、「坂の上の雲」関係の本がずらりと並んでいるのはとうにご存知だと思います。ドラマ放映は大変な視聴率を示すと予想されています。そこでこの本の内容を簡単に説明しましょう。愛媛県松山市生まれの三人の男、正岡子規(俳人)、と秋山兄弟。兄の秋山好古(よしふる)は、日本騎兵の父と呼ばれ、最終階級は陸軍大将)、弟の秋山真之(さねゆき)は、日本海海戦の時、連合艦隊司令長官、東郷元帥付の作戦参謀、最終階級は、海軍中将)。彼ら三人は同世代。前半は三人の青春群像を描き、後半は日露戦争の詳細に描いて終わります。
このドラマは、今年から3年にわたって放送されます。3年にわたって放送と言っても一年中放映されるわけでなく、その年の後半だけです。今年は11月27日の日曜から12月27日の日曜日までの全5回、午後8時から9時半まで。来年の後半に全4回、再来年の後半に全4回。再来年の全4回のプログラムを見ると、第10回「旅順総攻撃」、第11回「二百三高地」、第12回「敵艦見ゆ」、第13回「日本海海戦」。まさに息をもつかせずに戦場シーンの連続でしょう。年をとって涙もろくなった私は、日本兵の苦戦や、大活躍に涙を流すことでしょう。ドラマの紹介はこのくらいにして、話の本番に入ります。話の本番とはなにか。司馬遼太郎の歴史観です。
司馬遼太郎の書く歴史小説がことごとくベストセラーになるくらいですから、まえに触れたように非常に著名な小説家です。それだけに彼の歴史観が読者に影響します。司馬史観とまで言われました。私にいわせれば司馬史観には功罪があります。それでは功罪の「功」のほうから説明しましょう。
私が30代の終わりぐらいまでは、自虐史観が全盛期だったと思います。本屋の歴史コーナーでは、大東亜戦争などという呼び名のついた本などほとんどありませんでした。ほとんどが太平洋戦争という呼び名一色でした。日清戦争や日露戦争まで侵略戦争と呼ばれていたのはこの頃ですよ。ところが司馬遼太郎は、この「坂の上の雲」で日清戦争についてこう書いています。
「日清戦争は、清国や朝鮮を領有しようとおこしたものでなく多分に受身であった」。そして日露戦争について司馬遼太郎は、徹底して日本の自衛戦争として描いているのだ。もともと日清戦争や日露戦争を侵略戦争と呼ぶには無理があります。そこえ天下の司馬遼太郎が「坂の上の雲」を書いたので、日清戦争や日露戦争まで侵略戦争と呼ぶ自虐史観論者を黙らせた功績はありました。今どきの自虐史観論者で、日清戦争や日露戦争まで侵略戦争と呼ぶ人がほとんどいなくなりました。「坂の上の雲」のベストセラー化かが大きく影響しているのです。
そこで皆さんに今度のテレビドラマで注視してもらいたいのは、NHKが果たして司馬遼太郎が主張しているように日露戦争を日本の自衛戦争とはっきり主張するかどうか注視してもらいたいものです。なにしろNHKは、歴史関係番組では、特に近現代史については史実の捏造、歪曲を平然と行う前科者、それも前科一犯どころか何回も前科歴のある常習犯です。この番組で日露戦争を侵略戦争と描いたらNHKを許すわけにはいきません。
それで司馬史観の功罪の罪とは何かと言えば、自虐史観ですよ。司馬の言葉でよくひきあいに出されるのが「日清・日露戦争までがよかったが、それ以降日本は駄目になった。日本は昭和に入ってまるで魔法にかかったようにおかしくなった。昭和以降は陸軍が悪玉であり海軍が善玉である」。
司馬は日本人の誰もが認めるすばらしい歴史小説家だけに、彼の歴史観の影響力は非常に大きいものがあります。防衛大学の五百旗頭(イオキベ)校長も司馬史観の典型的な後継者です。私はどうかと言えば、私は司馬史観の影響は受けませんでした。私が若い時から大東亜戦争の歴史に詳しかったからではありません。ごく常識的に判断していたからです。常識的判断とはなにか、対外戦争するには、相手国が必要です。勝った国がすべて正しく、負けた国がすべて悪いなどという戦争があるわけがない。皆さんそう思いませんか。この常識的な考え方から詳細に歴史を勉強していけば、真の歴史観を取得できるのです。皆さんそう思いませんか。なまじ先入観をもって物事を勉強してみても、歴史観だけでなくすべて本質を掴み取ることはできないのではないでしょうか。
私は司馬の自虐史観の影響を受けなかったが、反論ができませんでした。大東亜戦争のこと詳しく知らなかったからです。今は反論できます。だから「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を書けたわけです。これからちょっと反論してみましょう。
日露戦争では日本はやっとのおもいで勝ちました。辛勝とはこのことでしょう。国際社会すなわち欧米社会は、日本を一人前の国として扱い初めました。日本はロシアに勝ったとはいえ、軍事、経済、工業などあらゆる面において欧米諸国より劣っていました。もっと国力をつけるのが日本国民の望みでした。そのためにのしあがってこようとする日本は、欧米社会の邪魔者以外の何者でもありませんでした。大東亜戦争までに日本が、外交面、経済面などで欧米諸国に翻弄されつづけたと言っても過言ではありません。自虐史観論者は、日露戦争後の日本を含めた世界の動きを勉強しようとせず、ただ日本国内の動きだけ、すなわちコップの中の嵐だけを追っかけて日本批判をくりかえしているにすぎないのです。
コップの外の嵐が日本にどれだけの影響を与えたかなど眼中にないのだ。
あの天才とも言える司馬遼太郎がなぜ、「日清・日露戦争までは良かったが,それ以降は日本は駄目になった」などと言って昭和の歴史を単純化して自虐史観を展開するのか全く、私には理解できません。司馬遼太郎が歴史の先生なら、彼の自虐史観も理解できます。歴史の先生は、恩師が自虐史観の持ち主であれば、自虐史観を変更することができません。先生の仕事場がなくなってしまうからです。最近加藤陽子なる東大教授の歴史学者がたまにNHKに登場しますが、東大で歴史を学んだら自虐史観論者にならなければ、もう彼女の就職先もなければ、社会的栄達の道も開けません。
司馬遼太郎がまだ駆け出しの作家だとしても、彼の自虐史観は理解できます。戦後ずっと自虐史観が主流であり時流でもあったからその流れに乗るのが賢明だからです。しかし、司馬遼太郎は歴史学者でもなければ駆け出しの作家でもない、途方もない超有名な国民的作家です。例え彼が駆け出しの頃、自虐史観論を主張していたとしても、これだけ国民的作家になれば主張の変更さえも自由にできるわけでしょう。自虐史観論者のまま死んでしまいました。国民的な大作家だけに、彼の死後も自虐史観論の影響はいまだに強く残っています。
最初に触れましたように「坂の上の雲」の特徴は、日露戦争は日本の自衛戦争と描いておりますから、NHKにどう描かれるか大変興味があると書きましたが、もう一つ興味があるのは、乃木将軍、すなわち乃木希典(まれすけ)大将の人物像です。乃木将軍の略歴を紹介しましょう。乃木希典は西南戦争に参加しています。乃木の率いる部隊が退却戦のとき軍旗を薩摩軍に奪われてしまいます。軍旗を敵に奪われることは大変な不名誉なことです。乃木は[軍旗は天皇陛下から賜ったもの、詫びなければならない]と切腹を命じられることを欲しましたが、同僚や上官の必死のとりなしで切腹にいたりませんでした。
日露戦争では乃木は、旅順要塞攻撃を担当する第三軍司令官として活躍します。最終的には旅順要塞攻撃に成功して名を馳せるのですが、あまりにも日本兵の人的損害が大きかった。彼自身も二人の息子が戦死しています。乃木はあまりにも多い犠牲者の責任をとって明治天皇に直訴し切腹を命じられる事をのぞみます。しかし明治天皇は、「自分が死ぬまで死ぬことはまかりならぬ」と言って切腹厳禁を命じます。さらに明治天皇は、乃木に向かって自分の子どもだと思って、当時子どもだった昭和天皇を育ててくれと昭和天皇の家庭教師に、乃木を学習院の院長に命じています。後年昭和天皇は、自分にとって一番尊敬する人物は、乃木将軍だったと言っています。明治天皇が亡くなられた時、乃木は殉死しています。乃木は自分の妻の死の介添えし、自分は切腹しました。遺書には明治天皇に対する殉死であり、また西南戦争の時に軍旗を奪われたお詫びでもあると書いてありました。日本海海戦時の東郷元帥の名は、海外でも有名で、フィンランドでは、トーゴーというブランドのビールが現在でも売られていますが、乃木将軍も海外でもけっこう有名でトルコでは、自分の生まれた息子の名前にノギとなづけるのが一時流行ったそうです・
この乃木将軍を司馬遼太郎は、「坂の上の雲」で乃木将軍とその下で働く参謀長、伊地知幸介をボロクソにけなしています。この本ではいくつかの戦場の戦況場面が書かれていますが、旅順要塞攻撃はこの本の最大のクライマックスでしょう。コンクリートでためた難攻不落の要塞を乃木と伊地知参謀長は、肉弾攻撃をしかけ、最初の総攻撃失敗にもかかわらず、何度も何度もバカの一つ覚えのように肉弾攻撃を繰り返し、ついに6万人もの死傷者(戦死1万5千人、負傷者4万5千人)を出したのだ。司馬遼太郎は、この乃木を徹底して無能呼ばわり、あまりにも手厳しく無能呼ばわりをくりかえすので、乃木家や伊地知家ゆかりの人たちは頭にきたのではないでしょうか。
私はこの本「坂の上の雲」を持っていますが、見ると初版本です。私が31歳の時に読んでいるのです。その頃の私は歴史の知識などあまりなかったので、この話(乃木の無能ぶり)を完全に信じこんでいました。また司馬遼太郎の筆の運びが上手だからおもわず手にあせを握りなら夢中で読み、信じこんで、「なんと愚かな司令官、なんと馬鹿な参謀長」と興奮していたと思います。
乃木がこの本であまりにも無能呼ばわりされたので、その後司馬遼太郎に対する反論が出ています。反論のいくつかを上げてみますと:
1.日露戦争には欧米諸国から多くの観戦武官が戦場に派遣されています。もし乃木が司
馬遼太郎が悪態をつくほど無能な作戦をくりかえしていいたら、当然ニュースや話題、あるいは観戦武官の間で嘲笑の対象になってもおかしくありません。
2.要塞を攻撃する場合、通常先に砲弾を雨あられとぶちこみ要塞の外部あるいは内部を混乱させてその後肉弾攻撃しかけるのですが、日本軍の砲弾不足のため砲弾攻撃の効果があがらなかった。砲弾や弾薬不足は貧乏小国、日本の象徴のようなもので、大東亜戦争でも兵器不足で泣かされた。
3.要塞攻撃というものは戦闘の性質上、攻撃側に多大な犠牲を強いるものです。日露戦争からおよそ10年後に第一次大戦が始まります。ベルダンの戦い(ドイツ軍によるフランスのベルダン要塞の攻撃)、これもベルダン要塞という一ヶ所だけの戦場です。そこでおよそ10ヶ月間の攻防戦になんと独仏両軍あわせて75万人もの死傷者をだしているのだ。従って乃木がとった作戦が無謀とも言いきれないのだ。
4.司馬遼太郎が、旅順要塞攻撃にあたって引用した参考文献は、「機密日露戦史」(これは戦前陸軍大学で教材として使われた)だ。この資料に彼の独自の想像や脚色を加えたため史実と異なる物語になっていると言われています。
司馬は、自虐史観の持ち主で「海軍は良かったが陸軍は悪かった」などと言っていた男だ。陸軍の暴走、精神主義を批判するために誇張して書いたような気がするのは私だけでしょうか。この旅順要塞攻撃をNHKがどう描くか非常に見ものです。小説に忠実に描くか、あるいは小説以上に悪意をこめて乃木の作戦を描き、陸軍の悪を印象づけるかのどちらかでしょう。
前にも触れましたように歴史番組におけるNHKの史実の捏造、歪曲は、常習犯です。この小説には、日本軍の残虐行為など語られていませんが、ひょっとしてNHKの事だから演出するかもしれません。日露戦争の戦場は、すべて満州地方です。日露戦争が始まると、満州民族は、負けると予想されていた日本軍が勝つことを心底祈っていた。なぜか、日本軍が負けると満州地方はロシアのものになり、ロシア兵による略奪、強姦、暴力等々で、満州が地獄のようになるからです。昭和に入って満州地方は、日本によって満州国が建設され、すぐに経済発展していきます。日露戦争勝利後の日本軍や日本政府への信頼が、根底にあったからこそ満州国は建国するやいなや発展していったのです。この時アメリカは、満州国建国には猛反対で満州国を承認しませんでした。現在アフガニスタンに手を焼くアメリカよ、満州国建国の歴史を学べといいたい。
若い人たちでまだ「坂の上の雲」を読んでいない人は、ぜひ読んでほしいと思います。私は日本国民必読の本だと思います。また読んでいて実に面白い。この本をNHKがどう描くか比較するのも面白いと思います。最後に産経新聞の片隅に出ていたちいさな記事を紹介します。
「NHKスペシャルドラマ『坂のうえの雲』の主題歌を、英国のソプラノ歌手で『世界の歌姫』と呼ばれるサラ・ブライトマンさんが歌うことが21日、NHKで発表された。タイトルは『STAND ALONE』で小山薫堂さんが作詞、久石譲さんが作曲した。ドラマは司馬遼太郎原作で、11月29日から放送される」
なぜ高いお金を出してでも世界的な外国人ソプラノ歌手に歌わせるのか、日本人歌手でもいいだろう、なぜ曲の題名が「STAND ALONE」などという英語の題名なのか、日本語の題名を使ったらどうなのか。まさか曲の詩まで英語じゃないでしょうね、それとも英単語が随所に入っているのですかなどと、ドラマを見る前からNHKに文句をいいたい。NHKよ、ドラマは、小説を忠実に描けよ、いつものように史実を勝手に捏造したり、歪曲するなよ。

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拙著が雑誌「撃論ムック」に登場

保守系雑誌、「撃論ムック」の今月号は、『民主党の正体』を特集記事にしています。その特集記事とは関係ありませんが、私が昨年3月に出版した拙著、「逆境に生きた日本人」が西尾幹二氏によって8頁にわたって論評されております。
皆さん本屋に立ち寄った際には、ついでにちょっと立ち読みでもしていただければと思っております。
よろしく御願いします。

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私の講演案内

来月、以下の予定で私の講演があります。
日時: 10月18日(日)  14:00-16:30
場所: 大和市生涯学習センター204号室
     大和氏深見西1丁目3-17 
     電話: 046-261-0491
最寄り駅: 相鉄線「大和」駅、または小田急ー江ノ島線「大和」駅
演題: 「逆境に生きた日本人」
     昨年3月に出版した本の内容(日本人論)を中心に語ります。
主催者: 大和正論の会
参加費: 会員1000円、非会員1500円
近辺にお住まいの方でお時間があればぜひ参加してみてください。
なお次ぎの日曜日(9月6日)には「選挙結果とその後の日本」というタイトルでブログ記事を書きますので、多くの方のご愛読を期待しております。

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自虐史観と皇国史観

「自虐史観」とは戦後から現在にまで続いている歴史観であり、特に今から30年ぐらい前までは「自虐史観」一辺倒でした。「皇国史観」とは明治から終戦までの歴史観のことです。ここで皆さんに承知していただきたいのは、「皇国史観」と言う言葉は、戦前からあった言葉でなく、戦後の歴史家や知識人が戦前の歴史観を批判するために作った言葉だということです。疑問に思う方は、戦前に出版された国語辞書を見てください。「皇国」という言葉は辞書に載っていますが、「皇国史観」という言葉は載っていません。
明治政府は、天皇を頭にいだいて江戸幕府を倒してできた政府です。そのため明治から敗戦の昭和20年まで、天皇家の権力や権威は、非常に大きなものでした。明治初めから敗戦までの日本史教育が、天皇家を中心に語られ、教えこまれてきました。
これが皇国史観と戦後呼ばれています。日本の歴史が有る程度天皇家を中心に語られるのはやむを得ないと思います。皇室の歴史は、日本の歴史でもあるからです。まして明治以降は、天皇家そのものが権力者だったから、余計に天皇家中心に語られるのはやむを得なかったと思います。
ところが戦後、日本批判がゆきすぎて「自虐史観」と呼ばれるように、戦前の歴史も「皇国史観」と呼ばれるようにあまりにも天皇家中心になりすぎてしまったのです。その弊害の一つは日本史上において天皇家と直接権力争いをした人物は、悪人とかたづけられ、人物像が正当に評価されないことです。北条政子はその典型的な例でしょう。
天皇家の鎌倉幕府に対する武力挑戦が承久の乱です。その乱に勝利した鎌倉幕府は、上皇二人を島流しにしています。上皇とは元天皇の地位にいた人のことです。その上皇二人を島流しにするとは不届きな奴ということで、北条政子は悪女扱い、陰謀家などと言われるのはそのせいなのです。このように皇国史観では、北条政子はけなされることはあっても、評価されることのない女性でした。
悪くけなされるのは人物だけではありません。時代そのものもけなされました。明治政府は江戸幕府を倒してできた政府です。そのため皇国史観では、江戸時代はまるで暗黒時代のように描かれます。最近やっと江戸時代が見直されてきました。
また皇国史観は、天皇の批判を許しません。しかしこれも行き過ぎです。なぜなら天皇あっての日本国民ではなく、日本国民あっての天皇だと私は思うからです。そうでないと天皇は独裁者になってしまいます。拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」では、私は昭和天皇を称賛もしていますが批判もしています。
皇国史観にはこのような欠陥があります。それでも自虐史観にくらべればまだずっとましです。皇国史観は、世界中で教えられている歴史教育と共通のものがあるからです。すなわち自国の歴史に誇りを持てるように子供に教え込むという共通性があるからです。自虐史観とは、分かりやすく云えば、日本の歴史にけちをつけ、子供たちに祖国を誇りに思わなくさせる歴史観です。
同じ日本の歴史を学ぶにしても、戦前は徹底して皇国史観が教え込まれ、戦後は現在まで自虐史観が徹底して教えこまれています。時代によってこれほどまでに両極端な歴史が教えまれるということは異常なことです。教え込まれる国民はたまったものではありません。すべて歴史学者の責任です。なぜ歴史学者は公正な目で歴史を眺めることができないのでしょうか。
歴史学者だけではありません。知識人もそうです。知識人も戦前は、皇国史観一点ばり、戦後の知識人は、自虐史観一点ばりです。最近自虐史観の傾向は多少弱くなっていますが、マスコミや教育は、相変わらず自虐史観一点ばりです。
なぜ日本の歴史学者や知識人は、日本の歴史を公正な目でながめることができないのでしょうか。私に言わせれば、歴史学者も知識人も日本人であるがゆえに、日本民族の習性が表れてしまうからです。日本民族の習性とはなにか。「日本人は、自分の意見を持たない」からです。私は無名なので説得力がないから、いつも著名な方の発言を借りて自分の主張を援護しています。
戦後長きにわたって首相を務めた吉田茂の黒子のような存在だった白洲二郎、彼は「日本人には自分の考えがない」と語っています。二、三年前の一時期白洲二郎関係の本が本屋をにぎわした時期がありました。私は、白洲次郎に全く同感です。「日本人には、自分の考えがない」のです。
自分の考えがないから、なにをするかと言えば、「空気を読む」のです。自分の考えより空気を読むことを優先してしまうのです。そしてその空気にあわせて自分の意見が形成され、発言し、行動するのです。
戦前の日本の歴史家や知識人は、戦前の天皇や日本国家の権力や権威の大きさ、日本の強力な軍隊の存在感、時勢、時流等、すなわち空気を読み、その空気にあわせて皇国史観を構築し、子供に教えこんだのです。
戦後の歴史家や知識人は、戦後の天皇や日本国家の権力や権威の失墜、強力な日本軍隊の壊滅、占領軍の巨大な権力と権威、時勢、時流等、すなわち空気を読み、空気にあわせて自虐史観を構築し、子供に教えこんだのです。
教科書裁判で有名になった歴史家、家永三郎は、中年以降の人なら誰でも知っているでしょう。彼は戦前は、教室で皇国史観を教えていて昭和天皇を神様のように思っていた歴史教師でした。それが戦後、自虐史観に転向し昭和天皇をあしげにしだしたのです。家永三郎だけではありません、戦前の歴史家は、ほとんどが戦後、自虐史観に転向したと言っていいでしょう。
すなわち歴史家全員が、空気を読み、空気にあわせることに夢中になった。悪いことには、日本では、この空気が支配的になってしまうと、空気そのものがある種の「絶対的な権威」になってしまい、空気を読まない人の発言、すなわち自分自身の考えを披露した人を「空気をよめない奴」として抹殺してしまうことです。このように自分の意見や信念を押し通すより、空気を読むことばかりに夢中なるから、私に言わせれば、日本民族の恥ともいうべき「付和雷同」がいとも簡単に起きるのです。
この日本民族の習性をものの見事にあらわしたすばらしいジョークがあります。このジョークは有名なので知っている人も多いいかと思いますが、知らない人もいると思いますので、ここに書いてみます。
「各国の大金持ちばかりが乗っている超豪華客船が航海中にエンジントラブルが起きました。船が沈みそうになったので、船長は全乗客にできるだけ自分の荷物を海中に捨てるように命じました。それでも
船は浮力をつけることができません。ついに船長は、乗船客のうち多くの人たちに海に飛びこんでもらう人的犠牲者が必要と判断しました。
船長はその状況を船内にアナウンスしておいてから、まずアメリカ人乗客にむかって、「民主主義のために」と叫んだら数人のアメリカ人が海に飛び込みました。フランス人乗客にむかって、「自由、平等、博愛のために」と叫んだら数人のフランス人が海に飛び込みました。今度はイギリス人乗客に向かって「ユニオンジャックのために」と叫んだら数人のイギリス人が海に飛び込みました。
今度は日本人乗客に向かって、船長が「さぁ皆さん全員飛び込みましたよぅ」と叫んだら日本人乗客全員が海に飛び込んだ」と言うのです。
誰がこのジョークを作ったかしれませんが、ものの見事に日本民族の習性をついています。日本人には自分のしっかりした意見や信念などないのです。またかりに意見や信念があったとしても、それを声高に発表し、他人を説得して自分に同調させるなどということをおそろしく苦手にしている民族です。
そのため空気を読むことばかりに夢中なるからすぐ付和雷同するのです。付和雷同は、自説を強力に主張するよりすぐ妥協を選びます。妥協はいさかいを生まない長所がありますが,はかりしれない欠陥を生みます。
自分の考えや信念がない、すぐ空気を読む、すぐに妥協する、この三点セットで、日本人の言動は極端から極端に振れます。皇国史観から自虐史観に、特攻隊のように祖国と守るために自分の命を捨てた日本人が、戦後は、日本が戦時中悪いことしていないのに、こんな悪いことをしたとうそついてまで祖国を足げにするのです。
戦後の歴史を振り返り、すさまじい自虐史観を目のあたりすると考えこんでしまいます。すべて勝利国に対する自己主張のない度を越した妥協だからです。もし現在、強力な猿帝国が日本を支配したとしましょう。日本民族は一致団結して猿帝国に抵抗などしません。なにをするか。一致団結して「木登り」の練習をします。なんとすばらしい妥協精神ではないですか。そして「日本人の先祖は猿である」という猿史観がはばをきかすことになるのです。
現在、日本の大学の歴史学者には、真に歴史学者と呼ばれる人は、ほとんどいません。いたとしてもその歴史学者は主流派になれません。主流派の歴史学者は、権力、権威、時勢、時流、すなわちその時代の空気に媚びた歴史観を披露しているだけです。歴史家は、歴史を公平に見るものなのです。
それでも対外戦争になるとつい自国びいきになってしまうのが歴史家のくせのようなものであり、またそれが心情でもあるでしょう。ところが現在の日本の歴史家は、対外戦争になると自国をめったやたらと批判して、徹底的に悪い国にしてしまうのです。こんな歴史家は、日本以外どこにもいないでしょう。
数学者は、人間性が問われることはほとんどありません。なぜなら彼らの学問は、権力、権威、時勢、時流など空気に影響を受けないからです。しかし歴史学者は、人間性が問われます。上記の影響を多分に受けるからです。私は現代の日本の歴史学者や知識人を、大東亜戦争をどう見ているかで、その人の人間性を計る尺度にしています。
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「君が代」に二番、三番あり。



一.君が代は 千代に八千代に
   さざれ石の 巌となりて こけの むすまで
二.君が代は 千尋の底の
   さざれ石の 鵜のいる磯と あらはるるまで
三.君が代は 限りもあらじ
  長浜の  真砂の数は  よみつくすとも
「エッ!」とお思いの方が多いでしょうが、本当にあるのです。それが上記です。今回編集部はこの衝撃的事実を発見、また、次の史実も合わせて読者の皆様にご報告いたします。
明治維新の新政府は、各国礼式にのっとり、国旗、国家の制定に着手し、英国軍楽隊長を講師に招き、古来より伝わっている祝詞に作曲した「君が代」を完成、明治三年東京の越中島における観兵式で明治天皇に発表したが、今の「君が代」とはメロディーの異なる異国風のものであったという。
時は移り明治13年、宮内庁雅楽部、林廣守が雅楽風のメロディーに切り替え、現在の「君が代」誕生したのである。また、縁とは奇なものである、その林廣守の先祖は秦河勝(はたのかわかつ)といい、推古天皇・聖徳太子に仕えた人物であった。近年の研究で「君が代」の本詩はその推古天皇・聖徳太子の詩をあつめた「詠歌本紀」に納められていた祝詞であることが判明した。
紀貫之の「古今和歌集」が「君が代」の本詩と記憶の方も多いいでしょうが、さらに二百年も古い1500年前の推古朝の詩であったのだ。この歴史のゆりかごに育まれた国歌「君が代」、いわば日本国民の魂の遺産と言えよう、大切に子々孫々まで伝えたいものである。
以上は、自衛隊、中央音楽隊、小林正雄一曹の文章をそのまま拝借したものです。
「詠歌本紀」によると「君が代」の一番の原文は、以下の通りです。
「君之代者千代干八千代干
     微小砂石之磐巌興成而苔之結迄時人」
(旧漢字は、変換できないので新漢字になっています)
「君が代」のこの話、去年知人から聞かされていました。最近彼から、記事のコピーをいただきましたので公表してみました。もうすでにご存知の方にはご容赦ください。
日本の国歌の詩の古さ、すごいではないですか。こんなに古い詩を国歌にしている国なんか他にないでしょう。世界には現在、独立国が全部で何カ国あるか、私は正確な数は知りません。しかし、間違いなく100カ国以上あるでしょう。それらの独立国のうち、1500年も前に存在していた独立国となると、ほんの数えるほどになるでしょう。
1500年前に祝詞を述べられた君主が、現在でもその子孫が君主として存在しているのは、世界広しといえど日本だけです。「君が代」と皇室を世界遺産にしたいくらいです。「君が代」を戦争に結び付けて反対している連中は、この事実をなんと思うのでしょうか。
本来ならNHKが、「詠歌本紀」の実物をカメラに映し出し、ニュースとして全国に流して当然です。ところが現在のマスコミ、特に朝日やNHKなどは、「君が代」や「靖国神社」に偏見を持っているのだ。
私が住む神奈川県では、公立学校の教師が百人を超す集団で、入学式、卒業式での「君が代」斉唱と国旗掲揚を義務付けた神奈川県教育委員会を提訴しています。もう三年がかりの法廷闘争です。私が会員になっている「日本世論の会」(神奈川支部)の人たち、数人が必ず法廷を傍聴しています。私も二回傍聴しました。
そうしないと、50席にも満たない傍聴席が、彼らの支援者で独占されてしまうからです。
入学式、卒業式に国旗を掲揚し、ピアノ伴奏つきで、全員起立のもとに「君が代」を斉唱することの是非を大の大人が雁首そろえ論じてあってもう三年越しの裁判です。大変な時間と税金の無駄遣いもはなはだしい。あまりにも馬鹿バカしく法廷に向かって怒鳴りつけたい衝動を抑えるのが大変です。反対する連中を一人一人張り倒したいくらいです。

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