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タップダンス



先週のクリスマスイブ、BSテレビで「人生音楽劇場」という番組で前半の1時間は、ドリスデイの特集があった。ドリスデイの映画場面を見せ、おしゃべりと五十嵐はるみや今陽子などベテラン女性歌手にドリスデイのヒット曲を歌わせる番組であった。私にとってドリスデイとは実に、本当に懐かしい名前だ。今ではどのくらいの年代までの人が、ドリスデイの名前を知っているのだろうか?アメリカ全盛期の代表する名女優、名歌手だ。決して美人女優でもなければ、セクシー女優でもない。実に明るい、さわやかな、健康的なイメージのする女優であり歌手だ。私に言わせればアメリカ全盛期好感度ナンバーワンの女優だ。ヒット曲も随分出している。彼女の話す英語が私には、聞き取りやすいせいもあって私の大好きな女優だった。テレビ番組の映画の場面で彼女がタップダンスを踊るシーンがあった。その時、私は突然思い出した。「俺もタップダンスを習った時があったのだ。」
私が26歳のとき交際していた女性に子供ができた。あわてて結婚した、「できちゃった婚」だった。まとまったお金をつくるため、結婚後5年間自分の両親でさえも、つきあいをやめて、それこそもう徹底して社会との付き合いをたち、守銭奴を押し通し、三人家族で徹底して孤立して過ごした。ちょっと話題からそれるが、往々にして若い貧乏人は、お金を作ろうとして働きまくるが、徹底して社会的付き合いを断ち、徹底した孤立した守銭奴の生活を年数を限っておくれば、かなりのお金をつくることもできるのだ。このやりかたの長所は、勉強できる時間が作れるということです。働きまくっては、勉強する時間はできません。エリートでない普通のサラリーマンは、働きながら勉強しないと目が出ません。

私は5年間の徹底した孤立した守銭奴生活から、喪が明けたように社会的なつきあいを開始した。私の長女が小学校三、四その年のころ、私まだ30代のころ、長女をタップダンスに習わせるという、いわば長女をだしにして自分もタップダンスを習い始めたのだ。その頃有楽町、日劇の近くに「中川三郎、タップダンス教室」があった。毎週日曜日、娘を連れて行き、一緒に練習した。そのうちその教室が目蒲線だか池上線だかの大岡山に引っ越した。それでも私は娘を連れて通い続けた。しかし娘はあきがきてやめてしまったが、私はあきらめず通いつづけた。タップダンスの基本ステップが8種類か10種類があった。基本ステップを完全に覚え込んだところで音楽をながしその音楽とともに先生の振り付けで踊りはじめた。その音楽がその頃流行っていたビリー・ヴォーン楽団の「波路はるかに」だった。非常にスローな曲だが初心者が覚えるには最適な速さなのだ。けいこに行くたびにこの曲がながれて練習していくうちに、先生のふりつけの手本を見ることなしに踊れるようになっていった。そのうちに少し早い曲も先生のふりつけを見て踊れるようになった。だんだん進歩していくのは自分でもわかり、楽しいのだが、そのうちに自分には限界があり、自分にはタップダンスが上手になるには限界があることがわかった。要するに音楽的センスがないことがわかったのだ。
ある曲がかけられ、先生がその曲にあわせ、振りつける、その振り付けを見て自分のタップを合わせることができるのが、自分のタップで自分で振り付けして踊ってみろと言われるともうどうしようもなくなるのだ。
タッタカ、タッタカ、タッタカ、タッ、タッ、タッーと素早いタップを踏まれても、私はまだ30代で若いせいか先生の言う通りにタップを踏むことができます。しかし自分でやれと言われ、やってみると果たして自分の素早いタップがその音楽にあっているかどうかわからなくなってしまうのだ。
素早いタップを踏み続けても、その時の両手の動きはどうするのだ、頭の動きはどうするのだ、要するにタップダンスは体全体で踊る感じなのだ。
社交ダンスは、ワルツの曲ならワルツのステップを最後まで踏んでいればいいのだが、タップにはワルツ、ブルース、ルンバ用など決められたステップはない。8種類か10種類のタップのステップを使って自分で合わせて自分の踊りを見せる感じで、音楽的センスがいるということがわかった。タップの先生は、長くやっていればそのうち自分でできるようになりますよと言ってくれた、先生は自分のクラスに通ってくれれば、それが収入になるが、自分にセンスがないものいつまでやってもだめだと思い、またいくらタップダンスがうまく踊れても、それで食ってはいけない。そのため最初から趣味で終わらせるつもりだったから辞めてしまった。それが良かったかどうか、わからないが、一応学んだことがあると言える状態で辞めてしまった。それでも習い始めの頃は、楽しかったことは覚えています。

皆様、今年もブログのご愛読ありがとうございました。来年もよろしくお願いたします。来年も良いお年をお迎えください。

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「えんだんじのブログ」のアクセス数



今から3,4年前、私のブログ管理人(仙台在住)に「私のブログの年間アクセスは、どのくらいですか」と聞いたところ、返事は「年間アクセス大体8万4、5千」ということだった。私は、まだ10万にもいかないのかという感じで、でもたまに人から「年間アクセスは、どのくらい?」と聞かれれば10万ぐらいと答えていました。去年一年間でもう10万に達しただろうと思い、管理人に聞いたところ「訪問者数だけでも年間10万を超えています。」という返事をもらい、去年一年間の正確なアクセス数が送られてきました。詳細な数字は下記のとおりです。
時期(年月)     訪問者数     ページビュー
2015年1月    14、141   35,245
     2月    10,844   27,220
     3月    10,300   26、801
     4月     9,819   25,909
     5月    10,977   32,833
     6月    10,726   30,742
     7月    11,348   32,831
     8月    15,557   38,328
     9月    11,320   33,871
    10月    11,598   36,715
    11月    11,021   32,418
    12月    10,860   33,962
    合計    138,651(人)386,875(人)
(上記の数字は、管理人から提供された数字を公表したもので、数字に関する質問には、私は答えることができないことをご承知おきください)

私の現在のブログを開設したのが平成20年10月です。最初の一年間は、毎週土曜にブログを書き、すなわち月4回書いていましたが、一年後から二週間に一回、毎月二回最低書き続けています。月三回書くときもありますが、月に一回しか書かない時はありません。訪問者というのは、私のブログの常連読者です。私がブログを書くと必ず読んでくれるような読者です。その訪問者が毎月一万人台で年間138,651人です。ページビューと言うのは訪問者数プラス不特定多数の読者です。毎月私のブログを必ず読んでいるわけではないが、突然私のブログを読んだり、あるいは私のブログのあちこちを読み漁るような、いわゆる不特定多数の読者です。毎月3万人(訪問者数を含む)ばかりいます。その人たちを入れた合計のアクセスは、去年一年間で386,875人です。

昨年9月に私の自伝的小説、「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」を出版しました。私は随分苦労したが、決して自分が強運の持ち主だと思ったことはない、どちらかと言えば不運だった。特に結婚して子供3人まで設けて離婚せざるを得なかった時、私は天に向かって、「俺は貧乏人で離婚などしている余裕はない。一体俺のどこが悪かったというのだ?」と毒づいたくらいだ。ところが定年後は、私は実に運が良い。強運と言ってもいい。いままで縁もゆかりもない人たちが、私のためにひと肌ぬいでくれる人が多いのです。「えんだんじのブログ」もそうです。きっかけは、12年前の碧天舎、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の出版社の倒産だった。碧天舎倒産で被害を受けた人たちが、ミクシー内に被害者団体を立ち上げた。その主役は女性計理士の方だった。ミクシーに入会するよう私にも呼びかけがかかった。当時私はミクシーという名前だけは知っていたが、中身はかいもく何も知らなかった。彼女の推薦で私もミクシーの会員になった。当時ミクシーの会員になるには推薦者が必要だった。ミクシーは、当時日本のSNSで最大だった、また当時絶頂期だった。私は会員になって日記を書きまくった。そしてミクシーの友達も沢山できた。仙台在住のミクシーの友達が、「鈴木さんの日記は、ミクシーではもったいない。ブログを自分で開いて書いた方がいい」と言ってくれました。「実はブログという言葉は知っているが、それ以外のことは全く何も知らない。」といったところ、彼が開設してくれたのが、誰でも無料で使えるブログのうち「FC2」というブログでした。

「FC2」のブログでブログを書き始めた。自分でブログを書くと他人のブログが気になり他人のブログを読み始めた。その中に西尾先生のブログ、「西尾幹二のインターネット日録」を見た。「FC2」と違って西尾先生独自のブログです。私も自分独自のブログが欲しくなって、仙台に管理人に言ったところ、私独自のブログを作ってくれました。それが「WordP
ress」の「えんだんじのブログ」です。無論、有料ですが、「そんなに費用かかりません」と言っていまだに管理人は私に請求してくれません。
ブログ記事の載せ方、記事の訂正、削除の仕方、読者のコメントの公開の仕方、返事の書き方などのマニュアルを彼は作ってくれたのです。このブログを開いたのは、8年前の平成20年の10月。今年で8年目。ブロガーとしてのアクセス数は、決して恥ずかしいものでないと思っています。勿論有名人のブログのアクセス数は、桁外れに大きいでしょう。しかし私は、無学、無名、これといった経歴なしの一介のしがない定年サラリーマン、8年書き続けて得たアクセス数が少なくても自慢したい。去年初めて私のブログ管理人に会いに仙台に行き、親交を深めてきました。私より二回りも若い御役人です。私のブログがここまで続いたのも管理人のお蔭です。心から御礼申しあげます。「有難うございました。これからもよろしくお願いいたします。」

私は自分独自のブログを持ちましたが、ミクシーの会員を続け、ミクシーからでも自分のブログにつながるようにしていました。ところが自分独自のブログをもったころ、ミクシーの会員がどっと減り続けました。アメリカのSNS、フェイスブックが日本のSNS、ミクシーにとってかわって超人気になったのです。多くのミクシー会員がフェイスブックに移っていった。そのことが私のブログの読者の増減に影響したかどうかを見たが、結局年を経るごとに読者数が少しずつ増えているのでミクシーからフェイスブックの転向では読者数の影響はほとんどなかったとみています。ミクシーの友達は、ミクシーを去っても私のブログを読み続けてくれたのでしょう。三、四カ月前ぐらいに、私のブログの読者を増やそうと、私はミクシーの会員のままフェイスブックの会員になってみました。文章は一切書かず、ブログの公開だけをしてみました。加入したばかかりでフェイスブックの要領がよくわからないのと、ブログの公開だけのせいか、何日間投稿がありませんなどとフェイスブックから指摘されるので、会員の自由性がないと思い会員登録を削除してしまいました。そんなわけで今後も私のブログのフェイスブックへの転載よろしくお願いいたします。

私は、「えんだんじのブログ」を100歳になるまで書き続けるつもりです。100歳になる頃には、アクセス数は膨大になっているでしょう。私のブログを沢山の日本人が読めば、それだけ日本国家のためになると信じているからです。今年78歳になり体力的には確かに衰えてきましたが、闘争心の衰えは微塵もありません。100歳になるまでにはまだ20年以上あります。そこでとりあえずあと二年でブログ開設以来10年目を迎えます。その10年目のアクセスがどのくらい増えているのかを見るのを楽しみしています。












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私の講演案内



                              
講演案内の詳細は以下の通りです。

<大東亜戦争終結七十年、東條英機、F・ルーズベルト、どっちがワルか!>
 
 <場 所> : 豊島区医師会館(池袋西口徒歩5分、東京芸術劇場前大通り
         反対側、「ローソン」の横道を入って突き当たり)
     TEL03-3986-2321 http://www.tsm.tokyo.med.or.jp/map/index.html
<日 時> ; 平成27年11月14日(土)午後1時00分~5時15分

1)研修会連続講座(PM1:00~1:30)質疑(5分)

        「喫茶の伝統」その5
         講師・石川陽子(日本の伝統と文化を語る集い)
  
2)講  演 Ⅰ (PM1:40~2:40)

        「大東亜戦争はアメリカが悪い」(講師著書より)
         ~戦勝国アメリカへの遠慮史観からの脱却~
              講師・ 鈴木敏明(近現代史研究家)

―――――休憩(15分)―――――

3)講  演 Ⅱ (PM2:55~3:55)

「大東亜戦争について考える」
    ~日本はなぜアメリカと戦わなければならなかったのか~
              講師・ 石部勝彦(近現代史研究家)

4)鼎  談   (PM4:00~5:00)質疑(15分)

「大東亜戦争終結七十年、東條英機、F・ルーズベルト、どっちがワルか!」
語り手・鈴木敏明、石部勝彦、田中秀雄(近現代史研究家)


         司会:平田由香(「つくる会」会員)

 【懇親会】  PM5:30~7:30 同会館にて
※ 研修会は、¥1,500- 予約優先で先着90名様迄
※ 懇親会は、¥3,500-で30名様予約制

< 主 催 >: ≪日本の伝統と文化を語る集い≫
<企画・運営>:「新しい歴史教科書をつくる会」東京支部
<連絡先・島﨑宛> TEL;080-6722-5670 FAX;03-3660-5672
MAIL;simazaki@rondo.plala.or.jp




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ガキの小林よしのりを叱る



良い本を書くからといって人間性がすばらしいとはかぎらない。ノーベル文学賞をもらった大江健三郎は日本人のくずだ。私は小林よしのりの漫画本を三冊読んだ。「戦争論」、「パール真論」と「天皇論」です。どれもすばらしい漫画だ。良い漫画を書くからといって人間性がすばらしいとはかぎらない。小林よしのりは、精神的にはまだガキだ。月刊誌「WILL」の2011年1月号(新年特大号)に小林よしのりは漫画を載せている。題して「たそがれ映画館」。60代、70代の老人を徹底して「じじい」呼ばわりし、それこそぼろくそに「じじい」をけなしている。ちょっとガキ、よしのりの吐くセリフを一部紹介するとこうだ。
「映画が終わってロビーで電話していたらじじいが続々トイレにつめかけている」
「最後にトイレに入ったら、便器の周りがビシャビシャ! きったね~~~っ」
「じじいは一条に絞り込んだ小便を勢いよく噴出することができないのだ。
シャワーみたいに周囲に飛び散らしている」
「チンコがだらしなくて、小便が真下にだらだら流れるのか?」
「チャックから出した瞬間に噴出してあらぬ方向に飛んでいくのか?」
「何にしても便器の中の一点に目がけて噴出することができないのがじじいだ!」
「わしの高級な革靴の底が、じじいの小便に汚される。実に不愉快!」   
「考えて見れば、わしが憧れていたのは現在80歳、90歳以上の戦争体験のあるじじいだった」
「今時の70歳代(小国民世代)のじじいは、GHQ占領下で戦後民主主義の影響を受け、価値観を揺さぶられたままになっている」

まぁこういった調子で70代、60代の老人を「じじい」呼ばわりをしてぼろくそにけなしている。男も60、70代にもなると、医学用語で言うところの「排尿障害」に誰もが大なり小なり悩むことになる。これは若い時摂生したとか不摂生したとかの問題ではない。年を取れば白髪が出るように、「排尿障害」も加齢による自然現象なのだ。その病状を大げさに表現して「じじい」をからかい、けなすということは、通常の精神を持った大人なら決してしないことなのだ。小林よしのりの精神は、いまだ未熟でガキのままなのだ。全文「じじい」、「じじい」の「じじい」呼ばわりの連続だ。「言葉使いに気をつけろ、このガキが!」と面と向かって注意したいぐらいです。

ここで読者の皆さんや小林よしのりに言っておきたいのは、我々70代世代は、70代以下の世代と比較して三つの特徴があると思っています。その三つの特徴とは:
(1)戦争孤児の存在。その戦争孤児たちは、今ではほとんどが70歳代なのだ。
(2)他の世代と比べて、最終学歴が中卒の人が圧倒的に多い。
(3)他の世代と比べて、子供の時から苦労している人が圧倒的に多い。
この(1)、(2)、(3)を説明していくと長くなるので、(1)の戦争孤児については少し詳しく説明します。何故なら私の年代でさえ戦争孤児の存在をうっかり忘れ、ましてやほとんどの若い人には、戦争孤児の存在など知られていないからです。戦争孤児とはどういう人たちか。戦争で父親を戦場で失い、母親を空爆(空襲)で失ったり、あるいは空爆で両親を失ったりして孤児になった子供たちのことです。終戦直後、日本中でどのくらいの数の孤児が出現したかわかりません。ただし推測できるケースもあるのです。それは学童疎開です。戦争も末期になった昭和19(1944)年、政府は学童疎開を閣議決定した。都市に住む住民の小学校3年から6年生の学童を安全のため親から離れた田舎(地方)に疎開させた。疎開費用は、政府と親が半々を受けもった。親も都市に住んでいては子供が危ない、自分は死んでも子どもだけは助けたいとの一心でした。この時、学童疎開で地方に暮らすことになった学童数は70万人と言われています。その中には、現在の天皇陛下もおります。陛下も皇居を離れて地方に疎開したのです。

その70万人の小学校の生徒が、学童疎開している間に日本の大、中、小都市約90都市が、アメリカ軍の無差別空爆に襲われた。広島、長崎の原爆もそうだし、東京大空襲もそうです。この70万人の学童のうち空爆で両親を失い、あるいは母を失い、父を戦場で亡くして孤児になってしまったのが7万人と言われています。その他に学童疎開の対象にならなかった幼児から小学校2年生までと中学生は、親と一緒に都市に住んでいたのですから、空爆で親を失い自分だけ生きてしまって孤児になった人も沢山います。また満州から引き上げ、引き上げなどと穏便な言葉を使っていますが、満州からの逃避行と言ったほうが妥当でしょう。その逃避行の途中で親を失い、孤児になって日本に上陸した子供もいます。私はざっとみて終戦時には孤児は10万人以上いたのではないかと想像しています。
ちなみに私は終戦時小学校一年生でしたから学童疎開の対象にならなかった。住んでいたところは川崎市、重工業都市です。父は富山県の出身で実家が富山県にあった。いずれ川崎も空爆に会うと予想した父は、私が5歳の時に私一人を富山に疎開させた。両親と幼時の妹二人は、父の会社の寮がある群馬県の草津に身を寄せた。川崎は空爆を受け自宅は跡形もなく焼失したが一家全員無事だった。そのことはラッキーだったのですが、父は戦前結核を煩って軍隊に入れなかった。戦前戦中の無理がたたって戦後は重症の肺結核で即入院、ここから我が家の極貧生活がスタートしたというわけです。

政府はこの7万人とも思われる学童の孤児対策としてなにをしたか。まず孤児たちの親戚探しです。この親戚探しで、孤児が幸せになる場合もありました。しかし多くの孤児たちは我慢を強いられ苦しい生活を続けるはめになった。過去に親戚どうしの深いつきあいがなければ、親戚というだけで孤児を預かっても、日本中皆生活苦で必死の思いで生き延びている時に、食い扶持が一人増えることになるからです。孤児たちは労働力として扱われ、学校に満足の通わせてもらえず、あてがわれる食事の量も差別された。政府はまた孤児たちの養子を公募した。地方の農村から孤児の申し込みが殺到したという。この時も幸せになった孤児もいたはずです。しかしこの時の申し込み殺到は、孤児を助けたいという同情心ではない、あくまでも労働力の確保です。明日をどう生きるか日本中が必死になっている時には、同情心はあってもそれを実行することはむずかしいのだ。戦争で死んでしまった農村の若者にかわる労働力が必要だった。孤児たちは当然のごとく酷使され、差別され、学校にも満足に通わせてもらえず、食事の量も差別された。受け入れ先で不満を感じた孤児たちは、逃げ出す者も多かった。その逃げ出した孤児たちを当時浮浪児と呼んだ。今流行りの言葉で言えば、子供のホームレスです。預けられる親戚もなく、養子にももらわれず戦争孤児のまま浮浪児になった子もいた。終戦直後全国で浮浪児が3万人から4万人いたとい言われています。

私が小学校2、3年の頃だったと思う。横浜は橋の多い町だ。桜木町の橋の下にたむろしていた私と同じぐらい年齢の浮浪児を数人見た。当時の浮浪児は生きるのは非常に大変だったと思う。現在だったらコンビニのそばのゴミ箱のぞけば残飯ぐらいあるでしょう。当時は大変な食糧不足の時代です。最近読んだ本によると、終戦の8月15日から11月18日までの三ヶ月間に東京の上野、四谷、愛宕の三警察署の管内で総計150人ほどの餓死者、また神戸、大阪、名古屋、横浜の五大都市で、合計737人の餓死者が出ているのです。「餓死対策国民大会」などがあった時代。三度のメシを二度にするのは当たり前の時代。ゴミ箱あさっても残飯はない。結局生きるため盗みをする。そのため社会から嫌われ者になる。それでも戦後直後戦争孤児たちは、世間の同情を集めた。それを証明したのが終戦から2年たった昭和22年(1947)から始まったNHKラジオドラマ、「鐘の鳴る丘」だ。ドラマの内容は戦争で復員してきた青年が、戦争孤児たちの痛ましさをみて、自ら信州の山奥に戦争孤児たちをあずかる山小屋を立て、大勢の孤児たちを住ませ、その団体生活を描いたもので大変な人気ラジオドラマになった。このドラマ番組が昭和25年まで三年間続いたのだから人気度がわかります。ドラマ開始の翌年、昭和23年(1948)に映画化された。私は小学校から先生に連れられてこの映画を見た覚えがあります。

昭和30(1955)年には、戦争孤児たちを歌った流行歌が全国的に大ヒットした。宮城まり子が歌った「ガード下のくつみがき」です。三番までの歌詞を披露しますが、若い人にはじっくり読んでいただきたい。
1。赤い夕日が ガードを染めて
  ビルの向こうに 沈んだら
  町にゃネオンの 花がさく
  おいら貧しい靴みがき
  あぁーあ、夜になっても帰れない

2.墨によごれた ポケットをのぞきゃ
  今日も小さな お札だけ
  風の寒さや、ひもじさにゃ
  慣れているから 泣かないが
  あぁーあ、夢のない身がつらいのさ

3.誰も買っては、くれない花を
  抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
  可哀想だよ お月さん
  なんでこの世の 幸せは 
  あぁーあ、みんなそっぽを向くんだろ

どうですか、戦争孤児の悲哀、哀感が伝わってくるではないですか。この歌がヒットした昭和30年は、戦後10年目の年です。戦後直後の混乱、困窮した時代から10年たち、社会全体がちょっと一息できるような年なった。そこへこの歌が出現したから戦争孤児に対する同情が盛り上がりしヒット曲になる素地を生んだのではないでしょうか。ただでさえ貧しい、混乱した時代、そんな時一番頼りになる両親がいない少年少女が健気に生きていく姿。私は現在すぐに自殺したがる若者には、戦争孤児の話しをしてあげたらいいと思う。戦争孤児たちには、今はやりの心のケアもカウンセリングもない、生活保護もない、生抜くか、野垂れ死にするか二者択一だ。現在の自殺問題などが軽く見えてくる。戦争孤児に対する世間の関心は、この時が最高じゃなかったかと思う。戦争孤児たちも成長して大人になると、生きるために盗みをして捕まれば犯罪者になってしまうし、また日本経済も高度成長に入っていくと、戦争孤児たちは世間からだんだんと忘れられていった。現在では完全に忘れられた存在です。それでも彼らは70歳代で現在生活しているのです。恐らく彼らは裕福な生活をおくっていないのだ。戦争孤児たちは、戦没者遺族年金をもらうことができません。

ちょっと話がそれますが、私の息子の友達の両親は、両方とも戦争孤児です。二人は、この広い世間に頼る人誰もおらず大変苦労しただろうと思う。息子の友達の話によると両親は、まともに中学校を卒業していないのでどうしても社会の底辺の仕事につくほかなかった。特に母親は、中学校を満足に卒業していないというのが大変なコンプレックスになり、外では自分の意見を絶対に言わない。こんなこというとバカにされるのではないかとか、恥ずかしい思いをするのではないのかと心配が先になって黙っていることがほとんどだそうです。母親に「母さんは、自動車免許の試験に合格し、どうどうと車の運転しているではないか、そんなにコンプレックスを感じるのはおかしいよ」と言ってもまったくダメだといいます。友達の父親は、60代になってやっと念願の自前の小さなラーメン店を持つことができた。ところがその時すでにガンが進行していて店をオープンしてから間もなく死んでしまった。人生とは残酷なものです。両親の苦労を知っている友達は、高卒後サラリーマンになると、会社終わってから夜の仕事、例えばガソリンスタンドなどで働いたりして、一年365日、何年も日曜祭日休まず、遊ばず、猛烈に働きまくり、とうとう30代で自分の家を建ててしまった。まさに「家貧しくして孝子現る」の格言のごとし。子供手当てで育った現代の子供には、もうこういう孝行息子も孝行娘も現れることはないだろう。

小林よしのりの作品に「天皇論」という漫画がある。その中で自分の苦労(?)を自慢げに語り、我々の年代の苦労をこけにしたようなセリフを吐いているところがある。61頁にこう書いています。
「わしは漫画家になってから円形脱毛症をつくり、三日三晩徹夜で描いても何度も連載打ち切りになり、不調な時は編集者になめられ侮辱され、脅迫にも暗殺尾行にも裁判にも言論封殺にも耐えて、ヘルニアを自力で抑えながら、緑内障も白内障も体験して、今でも一日16時間、机にかじりついて働いているから、若者を甘やかす気にはなれない」

よしのりに言わせれば、自分が漫画家として成功するまでには、こういう苦労をしてきたのだぞと誇りたいのであろう。しかし70代の人間にとっては、こんなものは苦労でもなんでもない。よしのりの苦労は、漫画を書くという好きなことで生活がなりたつための努力ではないか。漫画描くことで生活がなりたつほど収入がない時でも、三度の食事ができるから漫画を描き続けられたのだろう。そんなものは苦労とは呼ばないのだ。何と呼ぶのか。努力です。苦労と努力とは違うのだ。例えば野球選手のイチローは、大リーグで大活躍していますが、彼の日頃の努力は大変なものです。「苦労」とはいいません。ジャッキー・ロビンソンという有名な初代の黒人大リーグ選手がいました。アメリカの人種差別の激しい時代の選手です。そのためジャッキー・ロビンソンは大変苦労した。「努力した」とは言いません。「苦労」とは何か定義することはむずかしいが、自分にはやりたいことがある、しかし食べる事の方が先決で、自分のしたいことができない、やむを得ずしたくない仕事をする。これは苦労と呼んでいいでしょう。よしのりにはこういう苦労はなかったのだ。私とよしのりとでは、15歳の年の差がある。彼は1953年生まれ。1955年から1973年の18年間が日本の高度成長の時代、1973年から1991年の18年間が日本経済最強の時代。その間36年間。1991年後は、日本経済は突然貧困になったわけではありません。要するによしのりは、日本の高度成長直前に生まれ、高度成長期に育ち、成人した頃は日本経済絶頂期と苦労なし時代の申し子だ。現在の20歳前後の若者よりめぐまれていたのだ。

よしのりよ、よしのりの時代は、自分の好きなことに熱中できる幸せな時代だ、その好きなことで飯を食えるようによしのりは大変な努力をしたのだ。苦労したのではない。よしのりの自分の「苦労?」を誇るセリフの後に、次のセリフが続きます。
「だが敗戦後の占領期に流行った『東京の花売り娘』や『東京キッド』を聞いてみろ。
なんて希望を感じる歌なんだ!
戦中派が『リンゴの唄』や『青い山脈』を高らかに歌いながら、これから高度成長を迎える日本の未来を、単純に信じられた時代とは全く違うんだと釘を刺しておきたい」

このセリフも70代の人間を怒らせる。よしのりはなにもわかってはいない。自分の努力を苦労と勘違いし、私の年代の苦労と比較しているちぐはぐさが理解できないのだ。だから私は、よしのりは精神的にまだガキだというのです。「東京の花売り娘」の実情は、先ほど紹介した「ガード下のくつみがき」の三番の歌詞を読めというのだ。「東京キッド」にしても主人公の少年のねぐらがどこか歌詞に書いてある。ねぐらはマンホールだ。こういう暗い時代だからこそ、明るくとらえて歌い上げて生活していこうとする人間の知恵なのだ。苦しい労働から民謡が生まれるのも同じ感覚でしょう。「東京の花売り娘」や「東京キッド」を聞いて、「なんて希望を感じる歌なんだ」と、バカも休み休み言えというのだ。暗い歌もある。歌の題名より、歌の中の歌詞一句が有名になったセリフがある。「こんな女に誰がした」だ。歌の題名は「星の流れに」。よしのりよ、この歌詞を読んでみるがいい。自分が育ち、成人して社会に巣立っていった時代がどんなに幸せな時代であったかを改めて知るがいい。

「これから高度成長を迎える日本の未来を、単純に信じられた時代とは全く違うんだと釘をさしておきたい」
このセリフも全く笑わせる。いいですか、よしのり、よく聞け。人間は未来を予測することは出来ないのだ。だから生きていけるのだ。我々70代や先輩の方々は、やがて高度成長がくるからと日本の未来を信じて働いてきたのでない。誰が当時の日本の未来を予測できたというのだ。当時の全国民がなんとか貧乏から這い上がろうと、自分の家庭の生活水準を少しでも上げようと国から命令されずとも一致団結してただただがむしゃらに夢中になって働いた結果が高度成長に繋がっていったのだ。それを「単純に日本の未来が信じられた」などとバカをほざくのもいいかげんしろと言いたい。最後によしのりはなぜ猛烈に毒づいて老人批判をするのか、そのくせ若い人には辛らつに毒づく事もないのか説明しましょう。

それは老人が、漫画を読む層ではない、だからよしのりの漫画などほとんど読みはしない。そのため老人をいくらけなしても彼の生活には影響はない。それに老人は、パソコンをあまり使わないからネットで猛反撃されることもない。ところが若者は違う。若者は彼の漫画の読者層だ。だから毒舌のよしのりが若者に毒づいたら、若者の読者離れが生じて彼の漫画が読まれなくなります。すなわち彼の食い扶持に悪影響が出る。従ってよしのりは若者にはあまり毒づかないのだ。若者の意見に同調して老人批判に徹した方が若者に受けがいいから、毒づかないどころか若者に媚びることさえする。月刊誌「WILL」の一月号(新年特大号)でよしのりはこういうセリフを吐いている。
「60歳すぎのじじいは本を読まない。老眼になるし、読書もつらくなるのだろう」
「最も本を読むのは30代で、次に読むのが20代、そして40代という順なのだ!まさに『ゴーマニズム宣言』の読者層と、どんびしゃ! 一致している!」
確かに老人は、年を重ねると読書しづらくなることも事実でしょう。しかし我々70代の人間は、もともと読書という言葉には、漫画を読むことなど入っていないのだ。女房、子供もいる30代、40代の男が、漫画に夢中になっているとその男がなんとなく頼りなく見えるのが70代の人間だ。30代、40代の人たちに言っておくが、漫画ばかりみて他の本などほとんど見ない人は、その人の今後の経済的発展もなければ精神的発展もありません。よしのりは、この意見に賛成のはずだ。若者にそのことをはっきり言ってやっていますか。よしのりは、自分の読者層の若者に媚びるだけではない。若者に反老人を煽ることさえするのだ。同じ新年特大号で、若者にこう呼びかけてさえいるのだ。
「若者は戦後育ちのじじいを糾弾すべきなのだ!
「戦争で死んだ若者のおかげで平和な日本の繁栄を享受し、バブル以後の若者の負担で長生きするようなじじいでいいのだろうか?
『無縁社会』も戦後育ちが作った社会だと自覚してるか?」

どうですか、このよしのりのふざけた主張。この主張に反論するのもばかばかしい。自分の読者層ではない老人を徹底してけなし、読者層の若者の意見には同調して若者を喜ばせ、反老人を煽る。とにかくよしのりはまだ精神的にガキなのだ。よしのりよ、年寄りの持病の症状を大げさに表現しながら年寄りをけなし、からかうのはやめて、もっと精神的に大人になり、老人に癪に障るけど痛いところを突いてくるわと思わせるような毒舌を吐いてもらいたね。

このブログ記事の転載、転送は自由です。ぜひ利用してください。

お知らせ:
これをもって今年最後のブログ記事とさせていただきます。ブログ記事を書いてちょうど2年2ヶ月。昨年は毎週ブログ記事を書きましたが、今年は月に二回のペースで記事を書いてきました。今回の記事でちょうど区切りのよい100回目の記事になりました。ここまでブログを書き続けられたのも読者の皆さんのお陰と感謝しております。来年も月二回のペースでブログ記事を書き続けるつもりですのでよろしくご愛読のほどお願いいたします。皆さん、どうもありがとうございました。来年も良いお年をお迎えください。






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「品格」のマニュアル化



朝青龍が引退に追い込まれ、引退を表明した。今年10月に断髪式を行うことになった。朝青龍には未練の残る引退であった。なにしろ体力的にまだまだ相撲がとれるし、本人もまだまだやる気充分だった。朝青龍が引退に追い込まれた直接の原因は、場所中に酒に酔い、暴行事件を起こしたことです。朝青龍の説明によれば、彼の個人マネージャーに暴行を振るったことになっているが、実際は朝青龍が飲んでいたお店の主人で鼻骨を折られるなど全治一ヶ月の重傷を負わされたというのだ。朝青龍はうそをついていたこになった。日本相撲協会は朝青龍を呼びつけ、引退を勧告した。引退を受け入れれば朝青龍には、高額な功労金や退職金が払われるが、引退を受け入れなければ、相撲界からは追放される。追放の場合は、一銭の金額も払われない。現時点では断髪式を行うのは決定しているが、引退相撲を行うかどうかは宙に浮いている状態です。横綱審議委員会は、引退横綱に引退相撲を取らせるかどうかの権限はありませんが、引退相撲の興行には反対を表明しています。

朝青龍は、これまでに「横綱の品格」を問われる行為を数々してきたからいまでは相撲界全体から嫌われているのだ。そこで皆さんにお聞きしたい。よく「横綱の品格」と言われますが、一体「横綱の品格」とは何でしょうか。どなたか「横綱の品格」を、具体的に且つ簡潔に説明できる人がいるでしょうか。日本人が「品格」というものを具体的に説明できないものを、外国人横綱に「品格」を理解させることは非常に無理なのではないでしょうか。朝青龍自身が『「横綱の品格」とよく言われるが、どういうものかよくわからない』と言ったとか報道されていますが、当然だと思います。日本人でさえ「横綱の品格」と言っても、それぞれの人たちが、かってに思い描くだけで、誰もこれが「横綱の品格」だと断定的に説明できないからです。その説明できない難しさは、その「品格」の中には、横綱は相撲に強いばかりでなく、人間として立派でなければならないというような日本の文化が含まれているからだと思います。

これから先10数年、日本人横綱は誕生しないどころか、この二、三年で横綱大関陣は、すべて外国人で占められそうな気配が濃厚です。そこで外国人力士に「横綱の品格」を理解させるために「品格」をマニュアル化、すなわち横綱としてのあるべき姿、あるいは横綱として守るべき規則、あるいは横綱としてしてはいけない行動などを列挙して書類にし、それを横綱誕生時に同意のサインをさせる必要があるのではないかと考えています。これが私の主張する「品格」のマニュアル化です。朝青龍の悪例をひきながら、あるいは文化的背景を説明しながら、いくつかの項目を挙げて「品格」のマニュアル化のいくつかの例を提示してみました。

1.横綱は他の力士のリーダーであり模範でなければならないという自覚を持つこと。
朝青龍は一人横綱になってから巡業先での稽古をよくサボルようになった。巡業は、相撲界全体の団体行動です。稽古をサボれば全力士にわかってしまいます。朝青龍にしてみれば稽古しなくても本場所で立派な成績を上げれば、文句ないだろうという考えがある。これでは他の力士へのしめしがつきません。力士たちもなんとなく稽古をサボるようになる。
そのせいもあるのでしょう、去年から巡業中は力士の稽古出席簿が作られたというのだ。

2.横綱が病気及びけがなどの治療のため巡業を欠席する場合、必ず診断証明書を相撲協会に提出すること。巡業を欠場している期間中は公の場所に出席しないこと。
巡業は、相撲協会にとって本場所に次ぐ重要な興業です。力士、行司、親方総勢330名
ほどの大所帯が参加しますし、横綱の土俵入りもあります。以前朝青龍は腰の治療と称して巡業に参加せずモンゴルに帰った。モンゴルでサッカー行事に参加し、自らサッカーのプレイをした。このことが相撲協会にばれた。どうやら腰の治療というのは朝青龍の仮病らしかった。このとき相撲協会は、朝青龍に二場所連続出場停止の処分を下しています。

3.横綱は、行司のくだした判定に、抗議の態度すらも示してはならない。
日本古来のスポーツ、例えば剣道、相撲、柔道、空手などは審判の判定は絶対です。選手など抗議などしてはならない雰囲気です。相撲の勝負の判定は行事の権限で、行事の判定に「まった」をかけるのが土俵下にいる審判員だけです。ある場所朝青龍は、勝負が非常にもつれ両力士土俵際でほとんど同時に倒れこんだ。行司の審判が相手方に軍配を挙げた瞬間、倒れていた朝青龍は土俵際に指を差し「相手が先に土俵を割ったではないかと」抗議するしぐさを示した。いわゆる見苦しいしぐさを示したのだ。行司の装束には腰に小刀がさしてある。行司が間違った判定をしたら切腹の意が込められているのだ。行司は、自分の軍配に命をかけろという意味です。力士の本業は、土俵上で相撲をとることであり、勝負判定は行司の仕事です。力士は行司の判定に不服な態度を示してはならないのだ。

4.横綱は、土俵上では正々堂々と戦わねばならぬ。
日本国民は、スポーツの世界では常に正々堂々と戦うことを好みます。この正々堂々と戦おうとする日本人の執着心は、外国人よりはるかに強い。私たち先人の示した一例を披露しましょう。1920年(大正9)テニスのウィンブルドン大会です。出場した日本人選手、清水善造は、当時世界ランキング4位の強豪です。清水は、前年のウィンブルドン大会の優勝者への挑戦者決定戦でアメリカのビル・チルデンと対戦した。対戦中チルデンがコート内で転倒した。清水は転倒したチルデンが起き上がって打ち返せるようにわざとゆっくりとした球を送ってやった。この時コートは一瞬静まり返ったが間もなく彼のスポーツマンシップに観衆から大きな歓声がわきあがった。試合は清水の敗戦に終わった。しかしこの清水のスポーツマンシップは語り草になった。私の年代以上の者は、戦前戦後間もなくまで学校の教科書に載っていたのでこの話をよく知っています。

現在ではこんなスポーツマンシップは見られなくなってしまった。今では勝つことがすべてになってしまったようだ。サッカーなどは審判の見ていないところでは上手に反則をするのが常識になっているのだ。すなわち正々堂々と戦わないのだ。しかし相撲の世界では、この正々堂々と戦う文化が残っていて勝つことがすべてではない。相撲の決まり手に「けたぐり」というのがある。奇襲戦法です。通常、平幕の力士が横綱、大関を相手に戦うような時とか、あるいは体重が極端に軽い力士が非常に重量の重い力士を相手に戦う場合に「けたぐり」を奇襲戦法として使うのが常識です。ところが、横綱ともあろう朝青龍が平幕相手に「けたぐり」を使って勝ったのを私はテレビでみたことが一度あります。その後朝青龍が「けたぐり」を使ったかどうか知りません。横綱が使うべき決まり手ではありません。

ところで清水、チルデン両選手の死後に後日談があります。1921年(大正10)デビスカップ決勝戦で清水は再度チルデンと試合した。清水は試合を有利に進め、彼がマッチポイントを握った。清水のサーブがエースとなってセンターラインをかすめた。敗れたと思ったチルデンが清水に握手を求めるためネットに駆け寄った。その時ネットジャッジは、清水のサーブの球がネットにふれたと判定した。その結果この一球で試合の流れは変わり結局清水は敗れた。しかし後年この時のネットジャッジだったC.N.フォーテスクは、アジア人にデ杯を渡したくなかったために球がネットに振れたと判定したと告白したのだ。1921年(大正10)の清水、チルデンのデ杯戦の三年後、1924年(大正13)にアメリカの徹底した人種差別政策、排日移民法が可決された。これが昭和天皇も主張する大東亜戦争勃発の原因の一つになったのだ。

5.横綱のガッツポーズは禁止。
横綱また力士は、自分がどんな印象的な勝ち方をしようと、また優勝を決定づけた勝ち方をしようと、誇らしげにガッツポーズをすべきではない。
これは日本特有の敗者への配慮、ないし気配りの手段なのだ。正々堂々と戦うことと敗者への配慮は、日本で生まれたスポーツの真髄なのだ。土俵上は、正々堂々と戦う相撲の勝ち負けを観衆に見せる場所であり、勝った力士が喜びを、負けた力士が無念さを観衆に見せ付ける場所ではありません。

6.横綱の「駄目押し」は特にダメです。
「駄目押し」とは勝負がついて自分が勝っているにもかかわらず、相手力士をまだ勝負がついていないと言わんばかりに押したり突いたりすること。勝負がついているだけに相手力士は力をぬいているから一突きで吹っ飛んだり、崩れたりします。朝青龍は、この「駄目押し」が実に多かった、見ていて実に見苦しいのだ。横綱の名が泣きます。例外的に夢中のあまり行司の軍配に気がつかず「駄目押し」になる時もあります。土俵下の審判員は、自然な相撲の流れの中の「駄目押し」なのか、あるいは醜い「駄目押し」なのか区別がつくはずなのです。相撲協会は、この醜い「駄目押し」にはもっと厳しい態度で朝青龍を罰すべきだったと思う。

7.横綱の暴力行為の禁止。
最初に触れたように朝青龍は、場所中に酒に酔い、暴力をふるい一般の人に重い怪我を負わせ引退に追い込まれた。力士の拳は、手刀と言われるほどの凶器なのだ。

以上七項目をあげましたが、その他にも麻薬の問題、あるいは横綱の土俵入りのような横綱としての仕来りや習慣などがあるでしょう。そういう項目を全部網羅して、項目によってはその背景を説明し、最後に下記のような項目を挿入しておくのです。
「横綱としてどういう行動をとればよいのか分からない時には、親方と相談して決める。親方も分からない時には、相撲協会と相談して決める」
最近では、朝青龍は、モンゴルの外務大臣らと一緒に北朝鮮を訪問しています。しかし朝青龍は、まだ断髪式が終わっていません、引退相撲も行われるかもしれません。まだ身分は日本相撲協会の一員ではないのか。北朝鮮には拉致問題が未解決、いわば日本の敵国です。朝青龍は自由に北朝鮮を訪問できる立場にいるのでしょうか。引退横綱と日本相撲協会との関係は、いつの時点で終了するのか取り決めておかなければいけないのではないでしょうか。

大相撲のような伝統あるスポーツに西洋式の契約概念を持ち込むのは、私はあまり好みませんが,「横綱の品格」としての書類を作成し、横綱に承諾のサインをさせることによって公式に横綱の誕生とすることが最良の策だと思うのです。その理由は、
1. 外国人横綱がこれからも長い間続く。
2.「横綱の品格」を口で説明するより書類にしてサインで承諾させる方が重みがある。
3. 横綱誕生時においてすでに「横綱の品格」を意識させる効果がある。
4. 日本相撲協会への外国人や引退横綱の不平不満を防ぐのに役立つ。
朝青龍が引退に追い込まれた時、母国、モンゴルでは、朝青龍が日本人横綱の最多優勝記録を破りそうだから引退に追い込んだと報道された。朝青龍の父親もそのような発言していました。父親が日本に来た時は、そんなこと一言も言っていません。父親のそのような発言で、朝青龍の高額な功労金や退職金がフイになるのを恐れたのだ。断髪式も済み、功労金や退職金を手にしたら、朝青龍は必ず相撲協会への不満を口にするでしょう。
5. 先にも触れましたが、いずれ横綱大関陣は、全部外人で占められる可能性が非常に強
い。そんな時、外人横綱大関陣がこぞって日本相撲協会になにか要求や提案(例えば日本語を強制するなとか)を出す可能性は否定できない。その時に慌てないように、項目の中には横綱の参加を防ぐような条項、例えば「相撲協会の慣習には必ず従う」などを挿入しておくべきだと考えています。

皆さんは、私のこの考えにどう思われるでしょうか。








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男の涙

最近の若い男性を見ていて気づくのは、おそらく最低でも何百年と続いてきた我々日本男児の習性とは、あきらかに違うものがあるということです。それはなにかと言えば今の若い男は、テレビなど見ていると人前で平気で涙を流すことです。うれしいと言っては涙を流し、悲しいといっては涙を流す、その涙も涙ぐむなどは、通り越して涙をボロボロ流すのさえ全く稀ではなくなってきています。
私が定年時に自費出版した出版社が倒産した時、私を含めて4,5人が会社の事務所に押しかけた。その一人に20代の男性がいた。会社が倒産して彼の支払った70万がもどってこないと知った彼は、「俺、どうしよう」、「俺どうしよう」とその場にへたりこんでおいおい泣き出したのです。私はびっくりしてしまった。詳しく話しを聞けば、その70万円は借金ではない、自分がバイトで貯めたお金です。それでも「おいおい」人目で堂々と泣く、私など見ていて実に女々しい感じがして腹が立ってきたのを覚えています。
我が女房は、NHKの大河ドラマのファンでよく見ています。今年の主人公の直江兼続がよく涙を流すので、女房は少し怒り気味に「あの当時の武士が、あんなに涙もろいはずがない」とけなしていました。おそらく脚本家がまだ若い多分女性なのかもしれません。年寄りの男性脚本家だったたら、武士にめったのことで涙なんか流させるはずがありません。
そこで若い男性諸君のために昔の日本男子の泣き方の典型的な例を披露しましょう。明治時代の作家、伊藤左千夫の有名な短編小説「野菊の墓」から例をとりました。主人公は故郷を離れ、上京し大学に通う大学生です。突然故郷から「すぐ帰れ」の電報を受け取り、故郷に帰った。そこで彼は、彼の幼友達であり恋人でもあった彼女の死を知るわけなのですが、その死に方があまりにも不憫で涙をさそうものでしたから、彼は泣き崩れます。その描写を、作者の伊藤左千夫は、このように書いています。
「母の手前兄夫婦の手前、泣くまいとこらえて漸くこらえていた僕は、自分の蚊帳(かや)へ這入り蒲団に倒れると、もうたまらなくて一度にこみあげてくる。口へは手拭を噛(か)んで、涙を絞った」
この短い文章が、男の泣き方を端的に表しています。「母の手前兄夫婦の手前」で他人のいる前では男は泣かないもの、涙を流さないものだということ。「口へは手拭を噛んで」とは、号泣するとどうしても嗚咽がもれる。明治時代の田舎の夜は、静寂そのものだったでしょう。その嗚咽のもれを誰かに聞き取られると自分が泣いているのがわかってしまう。そのために口の中で手拭を噛んで嗚咽をこらえるのです。そして涙だけはとめどもなく流すのだ。それが「涙を絞った」という表現になった。これによって男というものは、どんなに悲しくても人しれずこっそり泣くものだということがわかります。この後の文章は、伊藤左千夫は、こう書いています。
「どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声をかけられるまで、少しも止まず涙が出た」
男が人前で涙を流すということは、女々しい男と思われたのは、人前で涙を流すということは男のうろたえた姿を表すことなのだ。男たる者、どんな悲しい目に会おうが、辛い目にあおうが、うろたえてはならないのだ。この武士道にも似た精神が当時の男にどれほどしみついていたかを端的に表す例を示しましょう。
日清戦争終了から5年後の明治33(1900)年、清国で義和団事件が起きた。義和団の騒乱にかこつけて清国政府は、中国に公使館を持つ国々に宣戦布告してきた。この時、清国に公使館を持っていたのが日本を含む欧米諸国11カ国、そのうちオランダ、ベルギー、スペインは守備兵力を持たず、合計は八カ国の守備兵力は、公使館員、学生、民間人いれて5百余名。イギリス公使館が一番広いのでここに各国の老人、子女、病人を集め、各国自国の公使館の籠城し、各国連携しながら戦うことになった。籠城戦は、約二ヶ月半続いた。この時大活躍して欧米軍の間で大評判を勝ち取ったのが会津藩出身の柴五郎中佐率いる日本の守備隊です。
籠城戦は結局成功に終わるのですが、日本軍の名声を高めたことが二つあります。戦後各国は、それぞれの担当地域で軍政を敷くのですが、各国軍は略奪をほしいままにするのですが、柴中佐率いる日本守備隊には一切の略奪がなかったこと、二つ目は日本兵の我慢強さです。戦場では負傷兵が出ます。当時は麻酔などありませんから外科手術など荒っぽいし激痛が伴います。片脚切断、片腕切断など麻酔なしでやります。この時欧米兵はでかい図体で大きな声で泣き叫びます。しかし日本兵は違った。人前で涙など流してうろたえる姿をさらすなが習慣になっているから、どんな大手術でも日本兵は、軍帽を口の中に入れそれを噛み締めて、低い声で「うーうー」といううめき声を出すことすら恥とばかり懸命になって平静さを装うとするのです。これが当時の日本男子の強さの原因の一つでもあったのだ。
私の年代以上の人たちの父親は、ほとんど全員明治生まれです。従って私たち男の子が、いつまでもめそめそ泣いていると、父親から「男のくせにいつまでもめそめそ泣くな」と一喝されるのが当たり前でした。母親でさえそういうことを言っていた時代です。それでもくやしくて泣きたい場合は、トイレに入って声を立てずに悔し涙を流し、落ち着いてから涙をふき取りなんでもないような顔をしてトイレから出るのです。夜だったら布団の中で悔し涙を流し枕を濡らすのだ。私は小学校時代にいじめにあい、多勢に無勢こてんぱんにやられ逃げるように家に帰り、母に悟られないよう、すぐトイレに駆け込み悔し涙をどっと流した思い出がある。このように私の年代以上の男は、小学生の頃から涙など人前で流さないのが男の強さの象徴みたいだった。
だから大人の男が人前で流す涙には価値があった。どういう風に価値があったか具体的に説明するのはむずかしいので例をあげましょう。私の20代の頃の話です。私の知人が私を含む数人の前で自慢げに話しをしてくれました。彼には愛を誓った恋人がいた。結婚するつもりだったらしい。ところが新しい恋人ができてしまった。前の恋人より新しい恋人の方が気に入ってしまったのだ。彼はどう別れ話を切り出すか悩んだ。前の恋人は、特に気が強いし、別れ話でひと悶着は避けられそうもなかった。そこで彼が考え付いたのが、別れ話の時に彼はわざと涙をながすことだった。彼は、私たちの前でその成功話をしたのだ。
どうやってわざと涙を流したのか聞くと、彼は、いかにも涙をこらえているように両手で顔を覆い人差し指と親指で目頭をできるだけ強く押して涙を出したというのだ。同年代の女性は、大人の男が涙を流しているのを見たことがありません。彼女は彼の涙を見てかえって感激したようだというのだ。どういうふうに別れ話を切り出したのか知らないが、彼女は涙を流しながら、彼の涙を見て、「あなたもつらいのね」と言ってくれたそうだ。「うそをつけ」と言いたい。おおげさな自慢話なのだろう。しかし別れ話は成功したのだ。
そのあと私は、自分で人差し指と親指で自分の目頭を押さえてみた。涙が出ませんでした。しかし強く押せば押すほど、指を離した瞬間目元がさだまらず目をパチパチするような感じになるので、涙をこらえているように見えるかもしれません。後年私は同じことをやる羽目になった。残念ながら女性との別れ話ではない。通勤定期のキセルで私が駅員に捕まったのだ。当時、現在のJRになる前の国鉄は、よくストライキをやった。24時間ストライキ、48時間ストライキなど、平気でストライキをしたものだ。会社によっては貸布団を借りて社員を事務所に寝泊りさせるところが沢山出た。
私は大組織への抵抗の意味と三番目の子どものミルク代かせぎもかねて通勤定期のキセルを長年していた。捕まった時、数年間キセルをやっていたのですぐに大きな罰金を想像し、私は青くなった。
私はハングリーに育っているので、こういうピンチにはすぐに臨機応変に対応します。目頭を押さえることを思いだし、涙をこらえるような仕草で、人差し指と親指で目頭を必死で痛みを感じながらも強く押しつづけた。手を離して駅員と話す時には、おそらく私は、涙を流した後の顔つき、あるいは最低でも涙をこらえている顔に見えたに違い。国鉄のストに対する庶民の抵抗などと開き直りせず、ひたすら謝りの一点張り。
生命保険もかけてもいないくいせに、罰金が払えなければ、生命保険かけていますから、自殺してでも払いますとごく自然に名セリフが出てきます。自殺では保険がおりないのを知ったのはずっとあとだった。キセルの原因を子どものミルク代かせぎにした。いつもなら私はサラリーマンらしからぬはでな背広を着ているのだが、その日は幸いにも取引先の工場にゆくことになっていたから目立たぬドブねずみ色の背広を着ていたのも幸いした。ついに駅員の同情を獲得して難を逃れた経験がある。
女の涙は武器だと言われますが、我々の年代までは男の涙は、めったのことでは見られないだけに武器にもなり、価値もあった。それがどうです現在の若者は、うれし涙も悔し涙もすぐに出す。日本男子が数百年かけて築いてきた男の涙の価値を現在の若者は、完全にぶちこわしてしまったのだ。一体この責任をどうしてくれるというのだ。ある台湾人の男性が、日本に来て日本人男性が平気でテレビの前で涙を流すのを見てびっくりしたと言っています。台湾人の男性も私の世代と同じように人前ではめったに涙を流さないのだ。私には、現在の日本男子の若者のひ弱さは、すぐに人前で涙を流すことと非常に関係があるように思えてなりません。
数週間前、テレビでうつ病と仕事のストレスとの関係を話題にした番組がありましたが、うつ病の多くの原因が仕事のストレスに関係があるというのです。これは私の想像だが、多分当たっているような気がしますが、男が人前で平然と涙を流すようになってから男のうつ病が増えたのではないでしょうか。
最後に、現在の若い日本男子を一喝する文章でこの記事を終わることにしましょう。
「男のくせに人前でメソメソ涙など流すな!!」

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ある高校生からのコメント



前にも触れましたが私はミクシィーの会員です。この会員には、20代、30代の人が非常に多い。私のマイミク(ミクシィー用語でネットフレンドの意味)も圧倒的にこの年齢が多い。ここに紹介する彼は、私のマイミク(ネットフレンド)の最年少の高校生です。彼はいま受験勉強に忙しく、私のブログなど読んでいる暇はありません。
それでも私は、4月17日に書いたブログ、「戦うことは貴いことである」を時間があったらこれだけは読んでくれるようにメッセージを送っておきました。以下は彼の返事です。思わずうれしくなり彼の了解をとり転載しました。
本当にお久しぶりです。
4月にいただいているメールを今頃になってからお返事をするという非礼をまずお詫びいたします。
2度目の留年の危機も脱し、無事高校3年生となり受験生として日々忙しい毎日を過ごすあまり、パソコンの電源をつけることもなくなっていました。
今日から夏休みに入り少しゆっくりできたので、何ヶ月かぶりにmixiにログインしてみたところ、えんだんじさんからのメッセージに気づき日記を読ませていただきました。
私の友人に小学校までは普通だったのに、高校に入って久しぶりに会ったら、「うつ病になって高校を辞めた」と平気な顔で答える人がいます。
その友人は小学校5年のときに塾で知り合ったのですが、塾内の5段階クラスのトップのクラスで第一志望校のラサール中学校に合格したできのいい生徒でした。
そんな彼に「なぜうつ病になってしまったのか」とたずねると「自分よりも頭のいいやつらばっかりで劣等感を感じた」と答えました。
その友人の家庭は決して裕福ではなく、私立であるラサールの学費のために姉は大学進学を断念したそうです。
親や姉の思いは全く彼には届かなかったのでしょう。
今思えば彼は小学校の頃からアニメオタクで、ひ弱なイメージがありました。
勉強だけが取り柄だと思っていた彼はそこで挫折を感じたのでしょう。
なにが言いたいのかというとえんだんじさんのおっしゃられるように、最近の若者は精神が薄弱だ、ということです。
17歳の私が最近の若者というのもおかしいですけどね(笑)
先生の権威が低下しているというのもうなずけます。
昔がどうであったのかは父や祖父などから聞いたことしかありませんが、やはり厳しく怖い存在だったと聞いています。
私の小学校5年生の時の担任の先生は、1ヶ月授業を休みました。
また中学1年の時の担任はクラス内で起こったいじめの解決ができずに、クラスを捨てて学校を去りました。
このような先生を残念ながら私は尊敬をすることはできません。
もちろん馬鹿親にも原因はあると思います。
が、個人的には人を教え導く人間として誇りを持って、生徒に刺されて死んでも本望だ、といえるくらいの人間が教師にはなるべきだと思います。
話は変わりますが、最近ずっと悩んでいた進路について答えを出しました。
父方のほうが医師が多く、父も開業医で私は長男なので跡を継がねばならないのですが、医師として助ける命はせいぜい生涯数千人でしょう。
私は政治家となって国民の命を救いたいのです。
父も私の進む道を支持してくれましたので、大学は早稲田大学の政治経済学部に決めました。
1・2年の遅れを取り戻すことは容易ではなく、日々猛勉強です(汗)
あと最新の日記も読ませていただいたのですが、あなたのような人が自爆テロで命を落としては国の損失です。
そもそも腐れきった今の日本国民があなたの決死の訴えをきいて、なにか心が動くでしょうか。
私はマスコミに「右翼は怖いよね~」というようなことを国民に植え付ける格好のネタにしかされないのではないかと思います。
20年後、30年後は今よりもいい日本にしたい。
私が政治家になりたいと動機は「日本人が、自分は日本人であると、胸を張って答えられる国にしたい」と思ったことです。
えんだんじさんがご存命のうちに必ずや「うん。日本は変わった。」と言わせてみせます!!
それまでは是非、日本にさじを投げず、今後も我々若い世代を教え導いていただいきたい。
長文、乱文失礼いたしました。

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人生とはわからないものだ



私はあと一月ほどで満71歳になります。満61歳の誕生月に定年になっていますから、定年からちょうど10年たったことになります。この10年間に四冊の本を出版、そのうちの一冊は大作です。現在、毎週日曜日にブログを更新して8ヶ月目。要するに定年後の生活は、執筆活動を中心にしておくっているわけです。このような執筆活動中心の生活をおくるなど現役時代に予想するどころか夢想すらしなかった生活です。私自身、自分で自分の現在の姿を全く信じられない気持ちで眺めています。
なぜなら私は高校卒業まで作文が好きだったわけでもなく、ましてや自分の作文が先生にほめられたことなどありません。高校卒業後すぐ社会人として働きだしたわけですが、それから定年直前まで日本語の文章などほとんど書いたことがないのです。日記すら生まれてから現在まで書いたことがありません。ガールフレンドに手紙ぐらい書いているのでしょうが全く記憶にありません。忘れてしまっているのでしょう。それくらい文章など書いたことがない男なのです。
私が21、2歳の時、ひょんなことで外資系の会社に就職、以来外資系五社をわたり歩いてほぼ40年です。色々な仕事につきましたが、営業畑が多かった。営業報告書、出張報告書、取引先と重要な会議をやればその議事録など、いわゆるビジネスレポートを書く必要があります。外資系のためそれらビジネスレポートは全部英文で書くことが当時絶対条件でした。
従って日本文を書くどころか何十年間にわたって英文のレポートばかり出していたから、漢字の綴りを忘れるのがはげしくて悩んでいたくらいです。なにしろ漢字を書くのは、年末の年賀状書きだけぐらいという状態でした。現在のようにパソコンでもあれば日本語の文章をネット上にちょくちょく書くという経験もするでしょう。しかし私の若い時代にはパソコンなんかありません、本当に仕事で日本語の文章を書く機会がなかった。新聞や雑誌へ投書もしたことがありません。
西尾幹二先生にこのことを話すと、「若い時から沢山書いていたから、文章が上手に書けるようになった人もいるし、若い時いくら沢山書いても上手にならない人もいる。全然書いたこと無くても書き出したらすばらしい文章を書く人いる。文章力というのはそういうものだ」
沢山読書しているからと言って立派な文章が書けるわけでもないことから言っても、立派な文章を書くにはなにか得体のしれない感性が必要なのかもしれません。私自身は、自分には文才などなにもないと思っていたし、またそれだからこそ新聞や雑誌に投稿しようとする意志すらなかったのでしょう。
そういう私がなぜ定年後に書き出したか。その理由は私の怒りです。社会的怒りとか社会的義憤と言ってもいいかもしれません。私は怒りを人一倍感じる方です。だから正義感が人一倍強い。若い時は、目の前で不埒なことをしていると黙って見ていられない。そのためたまに外で他人とケンカ腰になります。私は腕には自信がありません。しかし足が速いのが自慢です。いざけんかとなったら先に男の急所を蹴り上げて逃げる。これを絶えず頭にぶちこんでいれば、自然と体が反応して相手の急所を先に蹴り上げるはずだ。そう自分にいいきかせていました。だから不埒な男に文句を言う時は、「先に急所を蹴り上げる」を自分の頭に呼び起こしておいて、相手を脅かすために、いきなり相手を威圧する言葉を切り出していました。幸い大喧嘩になることはありませんでした。
私は定年間際になにに怒りを感じて本を書き出したか。それは「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の前書きにも書きましたが、定年間際、定年後は何をしようかと考えあぐねている時に、当時東京教育大学名誉教授、家永三郎が書いた「太平洋戦争」を読んだからです。家永はこのころかなりの有名人になっていました。長年にわたって文部省と裁判沙汰を起こし、「教科書裁判」と呼ばれていました。長期にわたって裁判争いできたのは、日教組の資金援助があったからです。朝日新聞は家永を権力に挑戦する英雄のように扱っていました。
家永の「太平洋戦争」を読んで驚愕しました。これが日本で著名な歴史家が書いた大東亜戦争か。戦争するには相手国が必要だ。その国との外交的関わりがあります。それにもかかわらず徹底した日本批判です。家永が戦前は、自虐史観とは全く別の皇国史観を生徒に教えていたのです。家永の教科書の弱点や人間性の欠陥は、秦郁彦氏の著「現代史の争点」で指摘されています。家永は日本の歴史家の中でも外国で最も知られている歴史家です。彼の「太平洋戦争」が英語に翻訳されているし、文部省相手に長年裁判で戦っていることが海外にも伝わっているからです。家永は、ノーベル平和賞の候補の一人に推薦されていました。
家永は、勝利国の人たちを満足させる太平洋戦争史観を書いただけなのです。こんな歴史家を英雄のように扱ってたまるかという怒りがわいたのです。一介の定年サラリーマンが家永のような著名な歴史家の歴史観に挑戦するのも悪くないだろうと考えて書き出したのです。その時期私は自分史「ある凡人の自叙伝」を自費出版していました。それだからと言って自分に文才などあるなどとは思っていませんでした。内容は自分の思い出を書くだけだし、第一自分史を書いた人などくさるほどいるからです。
自分の大東亜戦争史を書き出して、自分には手におえないものとわかれば書くのを辞めればいいだけです。確かに書いている途中、自分の能力以上のものに手をだしているのではないかと思ったこともありました。また途中自律神経失調症にもなりました。夜中に二度、三度とパジャマがびっしょりなるくらい寝汗を書くのです。心配になって病院で色々検査しても異常なし。医者がなにかストレスがかかっているものないかと聞くから、本を書いていますと答えました。多少ゆきづまっている箇所もある、それがストレスになっているかもしれないとも言いました。医者はそれだ。ストレスが原因だと言いました。ストレスとわかったらあっさり直ってしまいました。結局、本完成までに6年かかりました。
本のタイトルは、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」と決めました。出版して一年ぐらい経った頃には、一面識もない人から手紙や葉書で絶賛、友人や知人からの絶賛もありました。改めて自分で自分の大作の本を眺め、「よくこんな大作が書けたものだと」自分でびっくりしていると同時に「俺にも文才が少しはあるのだ」と初めて自分の文才というものを意識しました。それから立て続けに二冊の本を出版しました。ここで初めて、私の文才がすばらしいものか、あるいはたいしたものではないかもしれないが、とにかく私には文才があると認識したのです。
ところが先週のブログに書いた坦々塾の会合の時、西尾幹二先生は私にこう言ったのです。
「あなたのこれまでの本は、他人の書いた本や史料を読み漁ってまとめたものでしょう。これから自分の世界を書きなさい。ノンフイクションでもなんでもいいから自分の世界を書きなさい。そうすれば、あなたの筆力にはすばらしいものがあるから、すぐに何か賞が取れますよ。なにか賞一つでもとれば文筆業もやりやすくなりますよ」
西尾先生は子どもの時から日記を書いています。そして大変な数の著作があります。その西尾先生が、「あなたの筆力はすばらし、あなたの世界を書きなさい」と言ってくださるのだ。ふりかえれば私は自分にはなにも才能などというものはない、ただ「負けてたまるか」というすさまじいばかりのハングリー精神だけを頼りに生きてきただけです。外資系五社渡り歩いたせいもあるのでしょう、私には愛社精神のつめの垢ほどもない、仕事など誇りに思ったこともなければ、生きがいに感じたこともありません。ただ与えられた仕事ができただけ、高給さえとれればそれでよかったのだ。ただただ家族を養う生活のための仕事だったのです。それが定年数年後になって初めて自分にも得意とする分野の仕事があったのだと悟ったのです。
私の同僚にはこういう例がありました。私が48歳の時、勤めていた外資系会社が希望退職を募った。私はそれに応じて退職した。私の同僚の女性、その時彼女は私より一回り下の36歳だった。彼女の仕事は、外人ボスの秘書。英文速記をとれるから英語には強かったし、仕事ぶりもすばらしかった。彼女は、しばらく子育てに専念すると言って希望退職に応じて退職した。その後40歳過ぎてから職探ししたが、自分の希望する仕事が見つからず、だからと言って就職しないわけにもいかず、こんな仕事でもできるだろうと思って就職した会社が保険会社。生命保険を売る仕事をしたのです。
生命保険のセールスが彼女に最適の仕事だったのだ。彼女もこんな仕事が自分に適しているなんて夢にも思わなかった、とにかく秘書だった時よりはるかにやりがいがあると言うのです。その後彼女は数年にして営業セールスレデイーの最高責任者になっていました。
彼女は秘書という仕事に満足していて、自分に適した仕事だと思っていたのです。ところが希望退職に応じて、転職したところ彼女は、秘書以上に生きがいのある仕事を見つけたのです。
私は定年後。自分に文才のあるのを発見したことになります。しかしよく考えてみると実に恐い話です。定年間際に家永三郎の書いた「太平洋戦争」を読まなかったら、私は本を書く決意をしたでしょうか、あるいはこの本をもっと若い時、例えば50歳ぐらいの時に読んでいたら、定年になったら書いてやろうと思ったでしょうか。たまたまタイミングよく定年後に何をしようか悩んでいた時に読んだからこそ本を書く気になったのだ。要するに私は、自分に文才があるのを気づかずに老いて死んでいく可能性も非常に高かったわけです。それだから恐い話だというのです。こう考えると昔のことを思いだしてしまいます。
私は若い時、女性にもてた。(年寄りの自慢話として理解してください)私の40歳前後は、仕事の延長で銀座、赤坂、六本木のクラブやスナックを出入りしていました。普段もてる男が、ホステスさんたちの常連客になったのです。そのもてぶりを想像してみてください。ある年バレンタインデイがやってくるとあちこちのホステスから義理チョコが沢山送られてきて会社の評判になったことがあった。チョコレートの包みをあけると彼女たちからの、短い手紙、長い手紙、きれいなメモ用紙に書いた簡潔だが意味深なメモ、こういう手紙類を読むのは楽しいものだ。すべて本音が書いてあると思うほどうぶではなかったが、なにしろ気分を害することなどなにも書いていないのだ、気分が悪くなるわけがない。
この頃私はどんなにホステスと仲良くなっても一線を越えてはならないと堅く決心していました。彼女たちと遊ぶと大変なお金がかかる事も知っていたし、自分は貧乏人の出だ、さいわい貯金も少しできてきた。高給もとっていた。しかしここでお金を浪費しては、いままでの苦労が水の泡になる。この頃の私の自己管理能力は抜群でした。私があまり酒を飲めなかったのも幸いした。酒が原因の失敗談がなかった。「据え膳食わぬは男の恥」というが、恥をしのんで逃げ出したこともあった。あの時私が自分用の特別の彼女を作って遊んでいたらいまの生活はない。定年前に借金をすべて返済できず、定年になっても働く先をみつけねばなりません。自費出版どころか執筆活動もできず、私は自分に文才のあることも知らずに年老いて死んでいったかもしれないのだ。人生とはわからないものだ。
西尾先生が語ってくれた「あなたの世界を書きなさい、あなたの筆力にはすばらしいものがある」、この言葉は本当にうれしいかぎりです。71歳にしてまだ夢が描け、それにむけて邁進できるのだ。いずれそのうちに書くテーマを決め私の世界を書こう。「俺はやってやる」
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坦々塾での講演

保守言論界の大御所ともいうべき西尾幹二氏が主宰する会に坦々塾という勉強会があります。この会には錚錚たるメンバーが多く、現在大活躍されている評論家、宮崎正弘氏、「新しい歴史教科書を作る会」副会長で高知大学名誉教授の福地惇氏を初め現役の大学教授や元大学教授、元大使や、元自衛官幹部など高級官僚、すばらしい経歴を持つ現役者や定年退職者、若い人では現役の大学院生など非常に幅ひろい分野の人々がこの坦々塾を構成しています。私はこの会の文字通り末席を汚しております。坦々塾の勉強会は、三ヶ月ごとに開かれ、先々週の土曜日(6月6日)に第14回の坦々塾の勉強会が開かれました。
その日私は、塾長の西尾幹二先生、ゲスト講演者の石平先生に混じって講演をいたしました。三人合計の講演時間4時間半。勿論講演の前座は私が勤めました。私の演題は、私が昨年三月に出版した「逆境に生きた日本人」です。坦々塾が開かれる前に会の事務局から西尾先生の手紙がメールで各会員に転送されてきます。その手紙の中で「逆境に生きた日本人」について西尾先生は、こう書いてくれました。
「坦々塾のメンバーのお一人である鈴木敏明氏の「逆境に生きた日本人」は大変な力作で、かねて感服して拝読してきました。日本人の社会集団特有の政治権力に対する弱さ、曖昧さ、卑怯な自己変更がテーマです。
鈴木氏は日本の戦後の屈服、アメリカにおける日本人強制収容所の二世のアイデンティーの危機、シベリア捕虜強制収容所内の日本人の自我の弱さからくる悲喜劇、そしていわゆる「自虐史観」は日本民族の資質が生んだ生得の欠陥である所以を説いておられます。
鈴木氏の労作は日本人が見たくない苦い真実を次々と暴いていきます。もういい、これ以上知りたくないと思うくらいリアルな心の現実を見せつけてくれます。日本人というものをどう考えたらよいかという哲学的な反省をわれわれに迫る書です。今回はこの本のテーマに触れ私も思うところを語ってみたいと考えています。
加えてもとよりのこと、鈴木氏ご自身にも同主題について一席のご講和を寄せていただきたいと願っております。」
私の講演後、西尾先生が私の講演内容を引き継ぐ形で、演題「複眼の必要――日本人への絶望に踏まえて」を基に講演、最後に当日のゲスト講演者は、石平先生が演題「中国の崩壊と日本の備え」を基に講演をいたしました。三者の講演の概略に関しては、坦々塾の名の下にブログを開きますと、会員参加者の感想文が記載されておりますので、それを参照していただければと思っております。
講演会後は懇親会、懇親会後は二次会でカラオケでした。西尾先生の歌の特徴は、高音です。年寄りなら誰でも知っている「イヨマンテの夜」を声量たっぷり歌いこんでいました。先生は私より三歳上の先輩です。年をとると声量が弱くなるのですが、あの声量を聞くとまだまだ西尾先生は元気です。石平先生もジェスチャーたっぷりの歌いぶり、歌好きであることは間違いない。
この坦々塾のメンバーは、全員で60名ぐらいです。この会の特徴は、会員の紹介で会員になった人はほとんどいません。西尾先生がなんらかの関係で自ら引っ張ってきて会員にさせているからです。皆さんそれを光栄に思って入会してくるだけに熱心な西尾幹二ファンであり熱心な西尾幹二支持者です。私が坦々塾に入会するきっかけになったのが、私の大作、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の縁です。
私はこの大作を自費出版したのは5年前の平成16年7月でした。驚いたことに出版3ヶ月後の10月に千葉県のある保守の団体が私に講演依頼してきたのです。その他いままで一面識もない方からの手紙や葉書の投稿をいただきました。皆さん絶賛してくれたのです。初めて私は自分の本の内容に自信を持ちました。それ以来本の宣伝のために西村慎吾氏のような政治家や著名な知識人には機会がある度に贈呈してきました。
西尾先生は、「新しい歴史教科書を作る会」の創立者の一人であり会長でした。私が「新しい歴史教科書を作る会」に入会した時には、西尾先生は会長職を退かれていました。私は「作る会」の総会に出席しました。総会後に懇親会が開かれます。西尾先生が参加されているのを知りました。なんとか名刺交換してから本を贈呈したいと思っていました。しかし西尾先生は保守言論界では超有名人、いつも誰かと話していて話かけるチャンスがありませんでした。次の年にも総会に出席し、西尾先生のお顔を見ることができましたが、話しかけるチャンスがありませんでした。
一方この本の出版社、碧天社が平成18年3月に破産してしまいました。在庫400冊あまり自分で引き取りました。それでも機会あるごとに知識人にこの本を贈呈してきました。
例えば、講演を聴きに行き、講演後名刺を交換、後で本を郵送したりしていました。
一昨年の「新しい歴史教科書を作る会」の総会にも私は参加しました。総会に連続参加して三回目だったと思います。この時も西尾先生は懇親会に参加していました。立食パーティーの宴もたけなわの頃、料理が並べてあるテーブルには誰もいません。そこへ西尾先生が料理を取りに一人でのこのこ近づいて行くのを見た私は、この時とばかり挨拶を交わしました。「私は西尾先生の読書ファンで先生の本を沢山読んでいます。自分かってに先生は私の師であると思っています。実は、私はこういう本を書いたのです」と言って名刺を見せました。すると先生は自分の名刺を取り出して、「それでは私の所へ郵送してください」と言ってくれたのです。
それから三ヶ月ぐらい経っていたと思います。西尾先生から電話があったのです。西尾先生に自分の本を贈呈したのをほとんど忘れかけていましたから私はほんとうにびっくりしました。「あなたはすばらしい本を書かれましたね。あなたは、私の読んでない本まで読んでおられるので私は勉強させてもらっています。」先生が発したこの最初の言葉だけははっきり覚えています。私はどう返事したのかまったく覚えていません。電話の最後の方で「実は私は坦々塾という勉強会を開いているが、よかったら参加しませんか」という話があり、喜んで受けさせていただいたわけです。
電話が終わった後、私は「やったー」と叫びました。私は沢山の著名人に本を贈呈してきました。代議士の西村慎悟氏のように葉書で礼状をくれた方はまだいい方です。ほとんどの人がうんともすんとも音沙汰なしです。西尾先生だけが、私の大作を読み、評価してくれたのです。その上私が先生に直接言ったように、先生の本の愛読者であり、大学教育を受けていない私には、先生は私の師である思っていましたから、その先生からの評価ですから、喜びが二重になったのは理解していただけるかと思います。なぜ「我が師」なのか、その理由は、先生の本の話しになり長くなるのでここでは省かせていただきます。
西尾先生の若い頃を少し紹介しましょう。先生は東大時代、大江健三郎と同級生です。先生は東大文学部の独文科、大江は東大文学部の仏文科、二人とも大変な秀才だったと聞いています。私の年代で若い時の最大ニュースは、昭和35年(1960)の日米安保条約改定の大反対運動でしょう。大学生、大学の先生、労働組合、日教組、マスコミなどが反米親ソの左翼の集団と化した。30万人のデモが国会議事堂周辺に集まったのだ。私はその時22歳で働いていました。先生は25歳、東大大学院を卒業しているかいないかの頃でしょう。
現在、保守の論陣を張る知識人の多くは、この時左翼化していたり、デモに積極的に参加していた人は多いい。名著「ローマ人の物語」を書いた塩野七生。彼女はなにがなんだかよくわからなかったけど夢中になってデモに参加していたと言う。彼女の正直な気持ちでしょう。学生たちは、よく理解もできずに、ムードに乗って参加していたのではないでしょうか。
西部すすむ(漢字変換ならず)氏は、悪名高き全学連の執行役員でした。新しい歴史教科書を作る会の会長、藤岡信勝は共産党員だった。
この時期、西尾先生が属する東大自身が左翼の巣靴となり、学生も先生たちも西尾先生の同僚も左翼化、その中で保守の孤高を貫くのは大変だったと思います。皆に軽蔑されたり、からかわれたりいやな目にあっているでしょう。西尾先生は最後まで保守の孤高をつらぬき、左翼の考えや行動を批判してきた。
昨年の坦々塾の会合の時、先生は、先生が29歳の時、ある雑誌に載せて新人賞を受賞した論文のコピーを会員一人ひとりにくばりました。論文のタイトルは、「私の『戦後』観」。現在私が読んでも納得のいく論文内容です。しかし先生は言った、「私はこの論文で東大文学部教授への道を棒に振った」。東大と先生では歴史観が違うのです。
上記の二つの件でわかるように西尾先生は、時流や時勢に媚びず、権威にも媚びず自分の信念を押し通す人だと理解できるでしょう。実はこういうタイプの知識人は、日本では非常に少ない。それどころか日本の知識人は、自ら率先して時勢、時流、権威、権力に媚びるのです。(私のブログ記事「日本の知識人は、バカやアホが多いい」を参照)
実は私はしがない一定年サラリーマンですが、私も信念を貫いて生きてきたと自負していますので西尾先生とは共通したところがあると自分では思っています。
最後にいままで私は自分のブログに私の著書を、(著書と言ってもわずか四冊ですが)宣伝したことありません。そこで本日は私の著書の宣伝をさせていただきます。
1.「ある凡人の自叙伝」 自費出版図書館編集室 平成11年出版
私は定年サラリーマンでも非常に波乱万丈の人生をおくってきました。功成りとげた定年サラリーマンの自分史は、自慢話が多くてまったくおもしろくありません。私の赤裸々な波乱万丈の人生の話なら面白いだろうと書いて見ました。定年直前の私は、窓際族みたいなもの、定年前から会社内のパソコンを利用して書いていました。平成11年の8月末に定年になりましたが、その年の12月には出版していました。100部の限定出版。友人、知人、身内に配りました。大好評でした。
出版から8年後の平成19年に出版社、飛鳥新社から電話がかかってきました。飛鳥新社で出版している中高年男性用の月刊誌、「dankai パンチ」12月号(週刊誌サイズ)に特集で「自分史の書き方」を出す。参考に自分史三冊をとりあげて記事にする。その一冊に私の「ある凡人の自叙伝」が選ばれた。だから出版社に来てインタビュイーと写真を撮らせてくれとの要求でした。
「ある凡人の自叙伝」は自費出版図書館編集室から出版されています。館長の伊藤氏は、自費出版図書館を経営し、その図書館には全国で自費出版された本、二万冊の蔵書があります。その伊藤氏が出版社、飛鳥新社に面白そうな本を数冊推薦したそうです。その中の一冊に私の「ある凡人の自叙伝」が含まれていたのです。私はなんとか90歳まで生きて、定年後の30年間の生き様を加えて「ある凡人の自叙伝」を完結するつもりでいます。
2.「大東亜戦争は、アメリカが悪い」  碧天社  平成16年出版
私の定年後の人生の進路を決定づけた本になりました。大型サイズA5版 735頁の大作です。碧天社と自費出版契約を結びました。契約の要点は次の三つです。
(1) 初版千部出版、その出版費用250万円、著者全額負担。
(2) 初版千部以上、5万部売れようが100万部売れようが出版費用はすべて出版社負担。
(3) 印税は定価の8パーセント。本代は一冊1500円。
本屋の店頭に置いてもらうため私は、東京、神奈川の首都圏の大型書店に飛び込みセールを始ました。この本、予想外に売れました。初版千部半年で売り切れ、次の千部も半年で売り切れ、三版目の千部を出版後まもなく破産。在庫400部あまり全部私が引き取りました。現在横浜の有隣堂と著者との直接販売(直版取引)をしております。
3.「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」  展転社  平成18年出版
アメリカ政府の原爆投下正当化は、史実に基づかない全くのうそ。国益を守り抜くためにアメリカ政府は徹底してうそを押し通してきます。一方「従軍慰安婦」事件は史実ではありません。ところが日本政府は、韓国との外交交渉で一時的妥結をはかるために「従軍慰安婦」事件を公認し、謝罪し、お金まで払うバカバカしさ。日本政府自ら国家の名誉と誇りを平然と傷つけた。所謂、河野談話の責任者の河野洋平は、衆議院議員議長に栄転。日本国民全体が怒りを示さないこの異常さ。日本という国の末期現象の一つです。本代は、2000円です。
4.「逆境に生きた日本人」  展転社  平成20年出版
私は大東亜戦争を徹底的に調べ上げて「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を6年間かけて書きました。それだけになぜ自虐史観がいまだに主流なのか全く腑に落ちません。アメリカ占領軍が日本に駐留していた七年あまりはしょうがないとしても、独立を回復してもう半世紀以上経っているのです。それでも自虐史観が主流ということは、日本民族の資質に関係があるのではないかと考え調査しました。その結果、自虐史観とは、日本民族の資質が生んだ歴史観という結論に達したのです。本の帯には西尾先生の推薦文を印刷して売っております。本代は2000円です。
「逆境に生きた日本人」と「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」は、本屋さんに置いてなくても本屋さんに注文していただければ全国どこの本屋さんでも手にはいります。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」は、まだ在庫がありますので、住所を教えていただければ実費1500円郵送代込で送ります。本到着後指定の銀行に1500円をお振込みください。
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私の心を捉えた三人の女優

ブログを開いて早くも半年過ぎました。その間毎週硬い話ばかり書いてきましたので、ここらでちょっと気分転換に話題を変えて書いてみました。私の年代の人たちは、みな若い頃映画ファンだったのではないでしょうか。映画産業が全盛期でしたからです。しかし年をとると大体映画を見なくなる傾向にあります。しかし私は違います。現在でも映画をよく見る方です。毎月一本は必ず見ますから、年間15本ぐらいの映画を見ています。
私の若い頃は、洋画が全盛期だったような気がします。あるいは洋画ファンだったからそう思うのかもしれません。日本映画にしろ洋画にしろ、昔は美人じゃないと女優なれません。そのため洋画でも美人女優がキラ星のごとく沢山いました。その中でも私が最も深く魅了されも、ものすごいファンになってしまったのがマリリン・モンローです。
数あるモンロー映画の中で、一番衝撃的で印象深い映画は、「七年目の浮気」です。彼女が29歳の時の作品です。まさに彼女の全盛期の素晴らしい肢体と魅力を思う存分見せ付けてくれました。映画のシーンの中で共演者の男優が、モンローを見た途端一瞬ボーっとする場面がありますが、私は映画の最初から最後までただモンローの動きに釘付けになり、ただボーっとして彼女の姿だけを追いかけていたような気がします。スクリーン上の彼女は、まるで動く大人の人形のように可愛らしく、魅力的で、その人形が人間の言葉をしゃべってくれる、その上その声がまたすばらしいので余計たまらなく魅力的になってくる感じでした。
スクリーン上の名場面は、共演の主役の男優と二人でお互い指一本で戯れながらピアノを弾く場面です。この時の彼女の生き生きとした無邪気で、モンロースマイルと言われる素晴らしい笑顔に、なんとも言えない魅力に圧倒されました。彼女の笑顔を讃えるモンロースマイルと言う言葉は、彼女の死後、心理学用語、すなわち学術用語になりました。モンロースマイルは少女たちの悲しい生い立ちを物がたる意味になったのです。事実、モンローには、悲しい生い立ちがありました。
彼女は生まれた時、母と娘たったふたりきりの母子家庭でした。彼女が7歳の時母親は精神病になり入院します。モンローは孤児院に預けられます。里親になりたい人たちがその孤児院に訪れ自分の気に入った子を養子として受け入れます。当時のアメリカ政府は里親になった夫婦には、ある一定の金銭を援助しました。その援助金目当てにわざわざ里親になる夫婦も多く、里親の中には人間的にあまり良くない人もいました。モンローは何組かの里親たちの間をたらいまわしのように預けられたと言われています。その環境があのモンロースマイルという素晴らしい笑顔を生む原因になったのだ。
すなわち親の愛情に恵まれない子どもほど周囲の大人に気にいられようと魅力的な笑顔を振りまく傾向があるというのです。そのため彼女の死後、モンロースマイルは、心理学用語になりました。彼女が16歳の若さで結婚したのも愛情ほしさのためだでしょう。20歳で離婚。軍需工場で女工として働いていた時、プロのカメラマンの目に留まり、モデルとして新しい人生のスタート。これから花形映画女優になるまでのモンローの私生活は決してきれいごとではすみません。自分の肉体美を有効に利用して花形映画スターへの道をのしあがっていたというしたたかな面を持ち合わせていたのも確かです。
彼女にとって不運だったのは、夫、元有名野球選手のディマジオとの間で二回流産を経験し、子どもが生めない女になってしまったことでしょう。薄幸な少女だった彼女は、幸せな親子関係の夢を描いていたからです。流産が彼女の運の分かれ目だったのではないでしょうか。その後ディマジオとも離婚、その後有名な脚本家と再婚したり、離婚したり私生活はにぎやかでした。モンローの私生活の中でも最も驚いたのは、暗殺されたケネディー大統領と不倫関係だったことが暗殺後暴露されたことでした。
モンローとの不倫関係が暴露された時、私はケネディー大統領への同情はなくなり、死んで当然のような気さえしました。ケネディーの父親は、禁酒法時代に密造酒で大儲けしたりして莫大な財産を一大で築き上げ、そのおかげでケネディーは、お金には何不自由なく育ち、大学卒業して海軍に入るまで、働いてお金を得た経験もないのです。除隊後も働く必要もなく、父親のお金で選挙運動して下院議員に、また父親のお金で大統領選に出馬、アメリカ史上最年少の43歳で大統領に当選。これだけでもケネディーは幸せ者です。それが大統領就任2,3年後には、あの世界の大女優モンローとの不倫関係が始まったのです。
これでは、私のような極貧育ちで貧乏サラリーマンにとって、ケネディーはあまりにも恵まれすぎです。これでケネディーが天寿を全うして死んだとなったら、あまりにも人生不公平です。人生よくしたものであまりにも恵まれすぎは、どこかで痛い目にあうものなのだ。ケネディーには暗殺されるという形で表れたのだ。モンローは、モンローで自分の肉体を有効に使ってのしあがってきた過去があります。大統領と関係を持つことほど強力な武器はないと彼女が考えたとしても無理はない。大統領暗殺後モンローは、弟のロバート・ケネディー司法長官と関係を持つたとも言われています。
モンローは結局36歳の若さで死ぬのですが、もうその頃には、精神科医、睡眠薬とアルコールづけの生活が続いて、撮影現場の彼女の遅刻癖は、常習犯になっていました。監督が彼女に役を与えるのが恐くなっているような状態で、彼女は役がもらえなくなっていました。それがまた睡眠薬とアルコールに拍車をかける悪循環に陥ってしまった。彼女の死は、過度のアルコールと過度の睡眠薬による事故死になっていますが、彼女はあの時死んで本当に良かったと思います。他殺死のうわさもあります。私は熱烈なファンですから他殺死関係の本を読みました、しかし他殺死は信じることはできません。
彼女はあのまま生き続けたら、役はもらえなくなりジリ貧に陥り、肉体美の衰え、そして結果的に母親と同じで精神病院に送られるということが充分想像できるからです。彼女には酷な言い方になりますが、彼女の死は惜しまれる死ではなく、彼女のためにも死んでよかったのではないかと思わせる死です。彼女の若すぎる死が、彼女の名声を永遠にしたのです。
日本人女優で最も私の心を捉えたのは、藤純子(ふじじゅんこ)です。若い人には藤純子って誰?ということになるでしょう。現在名前を変えて富司純子(ふじすみこ)の芸名でおばさん、ないし初老の女性役を演じています。それでもわからなければ寺島しのぶの母親といえば分かっていただけるでしょう。
私は30歳前後の頃、株式投資の勉強をしていて株に熱中していました。或る時、東映の株を買いました。そのとき株主優待券が手に入り、それを利用して見た映画が「緋牡丹博徒」(ひぼたんばくと)でした。この映画の女主人公「お竜さん」役を演じていたのが藤純子でした。
演歌や歌謡曲、フォークソングにしても決して名曲でもないのになぜあの時ヒットしたのかまったくわからない曲がときどきあります。映画にもあります。なぜあの作品がアカデミィー受賞なのか理解できない作品も多々あります。「緋牡丹博徒」(ひぼたんばくと)のお竜さんシリーズを全部見ましたが、映画そのものは、名作でもなんでもありません。「緋牡丹博徒」を見て、時には涙ぐむ時もありました。そんな時、「おれは、馬鹿じゃないのか、ヤクザ映画なんか見て涙ぐんだりして」と思ったりしたこともありました。
とにかく後年、もう一度ビデオで見たいと思うような作品ではありません。それでも人気が非常に高かったのは、お竜さん役を演じる藤純子のスクリーン上でのあのさっそうとした魅力でしょう。藤純子は、洋服より和服の方がよく似合うことは確かです。画面ではすべて和服でとおしています。ヤクザ映画ですから当然男性客が多いい。私を含めて男どもは、映画の内容より藤純子を見に映画館にやってくるのです。それでは藤純子の魅力とはなにか、これが説明するのがむずかしいのです。
私の独断と偏見で言わせてもらえば、藤純子の魅力は、映画の主人公、お竜さんこと矢野竜子という人物の魅力からきているのではないかと思うのです。時代設定は、明治から大正にかけてのヤクザの世界です。矢野竜子は、粋できれいな若い女渡世人です。女渡世人であるという孤独な影を背負っています。矢野竜子には恋人がいません。恋人ができかかっても、その恋人はヤクザに殺される筋立てになっています。普段は非常にしとやかで、礼儀正しく、品のある非常にやさしい女性です。とても渡世人には見えません。切った張ったの修羅場になると、映画「極道の妻」に出てくる女ヤクザのように大声をあげたり、下品な言葉は吐きません。時には目に涙を浮かべながらドスをふりまわし、あるいは頭にさしたかんざしを手裏剣がわりに使いながら、男どもバッタ、バッタとやっつけるのです。こういう矢野竜子という女性を藤純子は実に見事に演じているのです。
私には自分かってなきまりがあって、洋服には笑顔、着物には微笑みが似合うと決めています。現在の若い女性が、着物を着慣れていないから歩く姿がさまになっていないのはしかたがないことです。そのことをあえて非難するつもりはありません。しかし着物を着ているのに口を大きくあけてゲタゲタ大声で笑う女性ほど興ざめするものはありません。ついでだから言っておきますが、着物には白いタビがつきものです。真っ白さは清潔さを現します。彼氏が彼女の白いタビを脱がせたてあげた時、「汚ねぇ足首」が現われるほどムードをぶちこわすものはない。最高のムードが一瞬にして冷え込みます。女性は注意した方がよいと思います。
スクリーン上でたまに見せる藤純子の微笑みは、絶品です。当時の私は、これほど気品のある、また色気もあるすばらしい微笑みをもった女優がいるだろうかと思いました。現在、ビデオを見て同じように感じるかどうかわかりませんが、当時はそう思ったのです。とにかく当時、藤純子の人気はすごかった。お竜さんを演じた藤純子の数々のシーンが写真集として売られたくらいです。藤純子主演の女ヤクザ映画の盛りが過ぎた頃、彼女は結婚した。確か、結婚後だと思います。
藤純子(ふじじゅんこ)から富司純子(ふじすみこ)に名前を変えました。その理由は、私は知りません。しかし名前の変更は、私にはファンサービスと自分で解釈しています。なぜなら藤純子と富司純子を別人扱いできるからです。数年前、NHKの大河ドラマの中で年老いた尼さん役を演じていましたが、あれは年取った富司純子であって、藤純子とは別人と思いきることができるからです。かくしてさっそうたるお竜さんの藤純子は、そのイメージが損なわれることなく、これからもわたしの心のなかで生き続けることになるでしょう。
もう一人私の心を捉えた日本人女優がいます。私の心に強烈な印象をあたえながら、最近ではその印象がどんどん薄れてゆく女優。それは松坂慶子です。私が最初に強く惹かれたのは映画ではなく、テレビの歌番組です。彼女が主演していたドラマの主題歌「愛の水中歌」を歌っていました。それから彼女の映画やテレビドラマを見るようになりました。私は普段あまりテレビを見ませんが、彼女が出演するテレビドラマは、ちょくちょく見ていましたが、いまでは全く見なくなりました。
現在の彼女は、あいかわらずきれいですが、年齢と太りで全盛期の魅力がなくなってしまいました。彼女の容姿の全盛期は、1980年代でしょう。スタイル、顔、声、三拍子完全にそろっていました。私は日本のマリリン・モンローだと思っていました。この全盛期にコミカルな演技も上手な彼女で、日本版リメイクした「七年目の浮気」を映画製作したらきっとヒットするにちがいないと考えていましたが、実現しなかったのは残念でなりません。
私のような映画ファンで松坂慶子ファンにすれば、彼女にもう少し映画女優としてのこだわりを示してほしかったと思っています。吉永小百合を見て下さい。彼女は松坂慶子よりずっと年上です。映画女優としてのこだわりをもっています。テレビドラマなどにはめったに登場しないでしょう。
これはあくまでも松坂慶子の一ファンの想像ですが、彼女が映画女優としてのこだわりが持てなかったのは、彼女の夫、ジャズギタリストの稼ぎが少なかったからではないかと考えてしまうのです。気のせいか彼女に最初の娘が生まれてから、急にテレビ出演する機会が増えたような気がします。彼女が50歳の時、彼女のヘアー丸出しのヌード写真集が出版されました。相当なお金が彼女に支払われたのでしょう。
私は彼女の夫、ジャズギタリストに言ってやりたいね。男というものは、自分の女房が例え有名人であろうとなかろうと、自分の女房のヘアー丸出しのヌードなんか、いくら金を積まれても誰にも撮らせないものなのです。その亭主の反対を押し切って、ヌード写真を撮らせる女房なら、それはもう離婚ものです。松坂慶子にしてももう大女優になっているし、50歳にしてやることではありません。品性がなさすぎます。
ジャズギタリストでは、自分一人を養うことはできても、松坂慶子と二人の娘を高い生活水準で養うことはできません。その分彼女が働きまわらねばなりません。私みたいな他人にどう言われようと、夫婦円満であればそれで良いのですが、なまじ稼ぎのすくない男を夫に選んだため、松坂慶子というまれにみる逸材をテレビドラマなどで浪費したような気がしてなりません。彼女はいつの間にかテレビタレント化してしまったのだ。あの写真集事件以来、私の松坂慶子への関心が完全に薄れてしまいました。
その松坂慶子は、今年は賞づいています。NHK放送文化賞を受賞。さらに学術、芸能、スポーツに貢献した紫綬褒章まで受章です。中年女性50歳にしてヘアー丸出しヌード写真をとったことなど彼女の経歴の汚点になっていないのです。世の移り変わりほどはげしいものはありません。まさに時代が変わったのだ。私に言わせれば、松坂慶子がまさかポルノ女優に夢をあたえる女優になるなどとは想像すらしていませんでした。
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