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もう日本男子の文化は、完全になくなった。



今年の夏は珍しくテレビで高校野球をみた。負けチームの日本のますらおたちは。ほぼ皆と言っていいほど、恥も外聞もなくどっと涙を流して泣いているのだ。私の年代の男にとってこれほど興ざめするものはない。えんだんじのブログは今から10年前に始っているが、今から8年前の2008年9月13日に「男の涙」のタイトルのもとにブログを書いています。その頃から私のブログを読んでいるひとは珍しいと思うので、今回はそのブログの全文を引用して紹介します。

引用開始
「男の涙」
最近の若い男性を見ていて気づくのは、おそらく最低でも何百年と続いてきた我々日本男子の習性とは明らかに違うものがあるということです。それはなにかと言えば今の若い男は、テレビなど見ていると人前でも平気で涙を流すことです。
私が定年時に自費出版した出版社が倒産した時、私を含めて5,6人が会社の事務所に押しかけた。その一人に20代の男性がいた。会社が倒産して彼の支払った70万がもどってこないと知った彼は、「俺、どうしよう」、「俺、どうしよう」とその場にへたりこんでおいおい泣き出したのです。私はびっくりしてしまった。詳しく話しを聞けば、その70万円は借金ではない、自分がバイトで貯めたお金です。それでも「おいおい」人目で堂々と泣く、私など見ていて実に女々しい感じがして腹が立ってきたのを覚えています。
我の女房は、NHKの大河ドラマのファンでよく見ています。今年の主人公の直江兼続がよく涙を流すので、女房は少し怒り気味に「あの当時の武士が、あんなに涙もろいはずがない」とけなしていました。おそらく脚本家がまだ若い多分女性なのかもしれません。年寄りの男性脚本家だったたら、武士にめったのことで涙なんか流させるはずがありません。

そこで若い男性諸君のために昔の日本男子の泣き方の典型的な例を披露しましょう。明治時代の作家、伊藤左千夫の有名な短編小説「野菊の墓」から例をとりました。主人公は故郷を離れ、上京し大学に通う大学生です。突然故郷から「すぐ帰れ」の電報を受け取り、故郷に帰った。そこで彼は、彼の幼友達であり恋人でもあった彼女の死を知るわけなのですが、その死に方があまりにも不憫で涙をさそうものでしたから、彼は泣き崩れます。その描写を、作者の伊藤左千夫は、このように書いています。

「母の手前兄夫婦の手前、泣くまいとこらえて漸くこらえていた僕は、自分の蚊帳(かや)へ這入り蒲団に倒れると、もうたまらなくて一度にこみあげてくる。口へは手拭を噛(か)んで、涙を絞った」
この短い文章が、男の泣き方を端的に表しています。「母の手前兄夫婦の手前」で他人のいる前では男は泣かないもの、涙を流さないものだということ。「口へは手拭を噛んで」とは、号泣するとどうしても嗚咽がもれる。明治時代の田舎の夜は、静寂そのものだったでしょう。その嗚咽のもれを誰かに聞き取られると自分が泣いているのがわかってしまう。そのために口の中で手拭を噛んで嗚咽をこらえるのです。そして涙だけはとめどもなく流すのだ。それが「涙を絞った」という表現になった。これによって男というものは、どんなに悲しくても人しれずこっそり泣くものだということがわかります。この後の文章は、伊藤左千夫は、こう書いています。
「どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声をかけられるまで、少しも止まず涙が出た」
男が人前で涙を流すということは、女々しい男と思われたのは、人前で涙を流すということは男のうろたえた姿を表すことなのだ。男たる者、どんな悲しい目に会おうが、辛い目にあおうが、うろたえてはならないのだ。この武士道にも似た精神が当時の男にどれほどしみついていたかを端的に表す例を示しましょう。

日清戦争終了から5年後の明治33(1900)年、清国で義和団事件が起きた。義和団の騒乱にかこつけて清国政府は、中国に公使館を持つ国々に宣戦布告してきた。この時、清国に公使館を持っていたのが日本を含む欧米諸国11カ国、そのうちオランダ、ベルギー、スペインは守備兵力を持たず、合計は八カ国の守備兵力は、公使館員、学生、民間人いれて5百余名。イギリス公使館が一番広いのでここに各国の老人、子女、病人を集め、各国自国の公使館の籠城し、各国連携しながら戦うことになった。籠城戦は、約二ヶ月半続いた。この時大活躍して欧米軍の間で大評判を勝ち取ったのが会津藩出身の柴五郎中佐率いる日本の守備隊です。
籠城戦は結局成功に終わるのですが、日本軍の名声を高めたことが二つあります。戦後各国は、それぞれの担当地域で軍政を敷くのですが、各国軍は略奪をほしいままにするのですが、柴中佐率いる日本守備隊には一切の略奪がなかったこと、二つ目は日本兵の我慢強さです。戦場では負傷兵が出ます。当時は麻酔などありませんから外科手術など荒っぽいし激痛が伴います。片脚切断、片腕切断など麻酔なしでやります。この時欧米兵はでかい図体で大きな声で泣き叫びます。しかし日本兵は違った。人前で涙など流してうろたえる姿をさらすなが習慣になっているから、どんな大手術でも日本兵は、軍帽を口の中に入れそれを噛み締めて、低い声で「うーうー」といううめき声を出すことすら恥とばかり懸命になって平静さを装うとするのです。これが当時の日本男子の強さの原因の一つでもあったのだ。

私の年代以上の人たちの父親は、ほとんど全員明治生まれです。従って私たち男の子が、いつまでもめそめそ泣いていると、父親から「男のくせにいつまでもめそめそ泣くな」と一喝されるのが当たり前でした。母親でさえそういうことを言っていた時代です。それでもくやしくて泣きたい場合は、トイレに入って声を立てずに悔し涙を流し、落ち着いてから涙をふき取りなんでもないような顔をしてトイレから出るのです。夜だったら布団の中で悔し涙を流し枕を濡らすのだ。私は小学校時代にいじめにあい、多勢に無勢こてんぱんにやられ逃げるように家に帰り、母に悟られないよう、すぐトイレに駆け込み悔し涙をどっと流した思い出がある。このように私の年代以上の男は、小学生の頃から涙など人前で流さないのが男の強さの象徴みたいだった。

だから大人の男が人前で流す涙には価値があった。どういう風に価値があったか具体的に説明するのはむずかしいので例をあげましょう。私の20代の頃の話です。私の知人が私を含む数人の前で自慢げに話しをしてくれました。彼には愛を誓った恋人がいた。結婚するつもりだったらしい。ところが新しい恋人ができてしまった。前の恋人より新しい恋人の方が気に入ってしまったのだ。彼はどう別れ話を切り出すか悩んだ。前の恋人は、特に気が強いし、別れ話でひと悶着は避けられそうもなかった。そこで彼が考え付いたのが、別れ話の時に彼はわざと涙をながすことだった。彼は、私たちの前でその成功話をしたのだ。
どうやってわざと涙を流したのか聞くと、彼は、いかにも涙をこらえているように両手で顔を覆い人差し指と親指で目頭をできるだけ強く押して涙を出したというのだ。同年代の女性は、大人の男が涙を流しているのを見たことがありません。彼女は彼の涙を見てかえって感激したようだというのだ。どういうふうに別れ話を切り出したのか知らないが、彼女は涙を流しながら、彼の涙を見て、「あなたもつらいのね」と言ってくれたそうだ。「うそをつけ」と言いたい。おおげさな自慢話なのだろう。しかし別れ話は成功したのだ。

そのあと私は、自分で人差し指と親指で自分の目頭を押さえてみた。涙が出ませんでした。しかし強く押せば押すほど、指を離した瞬間目元がさだまらず目をパチパチするような感じになるので、涙をこらえているように見えるかもしれません。後年私は同じことをやる羽目になった。残念ながら女性との別れ話ではない。通勤定期のキセルで私が駅員に捕まったのだ。当時、現在のJRになる前の国鉄は、よくストライキをやった。24時間ストライキ、48時間ストライキなど、平気でストライキをしたものだ。会社によっては貸布団を借りて社員を事務所に寝泊りさせるところが沢山出た。
私は大組織への抵抗の意味と三番目の子どものミルク代かせぎもかねて通勤定期のキセルを長年していた。捕まった時、数年間キセルをやっていたのですぐに大きな罰金を想像し、私は青くなった。

私はハングリーに育っているので、こういうピンチにはすぐに臨機応変に対応します。目頭を押さえることを思いだし、涙をこらえるような仕草で、人差し指と親指で目頭を必死で痛みを感じながらも強く押しつづけた。手を離して駅員と話す時には、おそらく私は、涙を流した後の顔つき、あるいは最低でも涙をこらえている顔に見えたに違い。国鉄のストに対する庶民の抵抗などと開き直りせず、ひたすら謝りの一点張り。生命保険もかけてもいないくいせに、罰金が払えなければ、生命保険かけていますから、自殺してでも払いますとごく自然に名セリフが出てきます。自殺では保険がおりないのを知ったのはずっとあとだった。キセルの原因を子どものミルク代かせぎにした。いつもなら私はサラリーマンらしからぬはでな背広を着ているのだが、その日は幸いにも取引先の工場にゆくことになっていたから目立たぬドブねずみ色の背広を着ていたのも幸いした。ついに駅員の同情を獲得して難を逃れた経験がある。
女の涙は武器だと言われますが、我々の年代までは男の涙は、めったのことでは見られないだけに武器にもなり、価値もあった。それがどうです現在の若者は、うれし涙も悔し涙もすぐに出す。日本男子が数百年かけて築いてきた男の涙の価値を現在の若者は、完全にぶちこわしてしまったのだ。一体この責任をどうしてくれるというのだ。ある台湾人の男性が、日本に来て日本人男性が平気でテレビの前で涙を流すのを見てびっくりしたと言っています。台湾人の男性も私の世代と同じように人前ではめったに涙を流さないのだ。私には、現在の日本男子の若者のひ弱さは、すぐに人前で涙を流すことと非常に関係があるように思えてなりません。

数週間前、テレビでうつ病と仕事のストレスとの関係を話題にした番組がありましたが、うつ病の多くの原因が仕事のストレスに関係があるというのです。これは私の想像だが、多分当たっているような気がしますが、男が人前で平然と涙を流すようになってから男のうつ病が増えたのではないでしょうか。
最後に、現在の若い日本男子を一喝する文章でこの記事を終わることにしましょう。
「男のくせに人前でメソメソ涙など流すな!!」
引用終了

日本人は何百年かけて作り上げた文化を惜しげもなく捨て去るのだ。サウディアラビアは、宗教上の理由によりサウディ国内では、現在でも映画館が一館もありません。映画はテレビで家庭で見る物なのです。日本の現在の葬式は様変わり変わっています。今年はお経をロボットに読ませる人工ロボットを売っていました。私の葬式の時は、私の天国行きを祝して日劇ミュージックホールなみにトップレスショーの下に葬儀を行って世間をアット言わせるか。いずれにしても日本男子の文化は、もう完全になくなったのだ。いずれ戦争が起きた時、自衛隊員が大東亜戦争時の我が軍隊に比べていかに弱い軍隊になっているかを知ることになるでしょう。
最後に現在仕事のやり過ぎで、病気、過労死、自殺に追い込まれる若者よ、私は現在79歳、幼いときから飢えと金欠に育ってきているからいまだに闘争心旺盛だ。私の爪の垢でも煎じて飲みたければ、送ってあげるよ!

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文庫本売り出し、幸先良いスタート



私の最新の新著、文庫本「戦後昭和の女性たち」が9月1日から売り出されました。出版社、文芸社は、広告として「戦後昭和の女性たち」含む文芸社作品14冊を日本最大級の書籍情報サイト、ブック・アサヒ・コムを利用しています。
まずブック・アサヒ・コムをクリックしてください。次に(文芸社おすすめの一冊)をクリックしてください。14冊の本の表紙カバーが現れます。その表紙カバー「戦後昭和の女性たち」からアマゾンに発注できます。表紙カバーそのものをクリックすると、著者プロフィール、著作集がならび、その後が「えんだんじのブログ」です。そこをクリックするとブログに直結できます。この広告は9月1日から30日までの一か月間です。
文芸社からの報告によりますと、発売日の9月1日には、都内、千葉、神奈川のネット店、本屋さん、合計5店から計30冊の注文があったとのことです。ほかの著者にとっては当たり前のようなことかもしれませんが、今度の本は私の9冊目の本です。これまでこういう経験したことありません。特に前回の作品、「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」も文芸社作品ですが、売り出し日に注文があったなど聞いていません。それだけに今回のニュースは、「売り出し日に幸先良いスタート」して心中密かに期待しております。

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「戦後昭和の女性たち」、9月1日発売開始



「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版「The USA is responsible for The Pacific War」
を世界中に、いや少なくともアメリカ中に売り込みたい。そのために英文版を大量発注する資金を稼ぐためのベストセラー作品を作り出そうと売りだしたのがちょうど2年前、2015年の9月に文芸社から出版したのが「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」。
この本は私の波乱万丈の一生を描いた自伝的小説だが、私によれば本が立派過ぎたのだ。B6版のハードカバー、ページ数363頁、値段1,600円+税。私あてに個人的に書評を書いてくれた人たちは皆絶賛してくれたが、やはり何といっても私は無名人。もっと簡単に手に入りやすい本にしなければ思い、新しい本を文芸社から文庫本を出すことにしました。本の題材ももっと受け入れやすい物にしなければと思い書いた本のタイトルは、「戦後昭和の女性たち」、八つの女性短編小説をまとめたもので、ページ数243頁、値段700円+税。これなら持ち運びに便利で、しかも本の内容が思想信条に関係ないから読みやすいのが特徴です。

これまで私の著作は、男性読者中心だった。ぜひ今度は女性読者層を引き込みたい。それによって売り上げ部数を伸ばしたい意向もあった。ある時ある人から言われました。「戦後昭和の女性たち」ではまるで論文のタイトルみたいで、女性短編小説集ならもっとセンスの良いタイトルがあるのではないかと忠告された。「戦後昭和の女性たち」以外のタイトルを考え出せなかった理由を示すには、この本の目次を見てもらわなければなりません。目次は、
一。綾子の無念さ
二。幸子の試練
三。つばめとお松
四。愛人関係契約書
五。春江とさやかの生き様
六。栄子の帰郷
七。佳代子の心変わり
八。天国での女性体験
この本はこの八つの短編小説で10人の女性の生き様を描いております。一人か二人の女性の生き様を描いた小説なら、一人か二人に凝縮した素敵なタイトルが浮かぶかもしれませんが、10人の女性を平等に扱わねばなりません。その10人を凝縮した素敵なタイトルを決めるのはむずかしかったので「戦後昭和の女性たち」に決めました。10人の女性たちと同時に10人の男性たちも登場します。この10人たちの男性のなかに私も登場しますが、私が他の男性を描く場合、どうしても自分に似てくるのです。私の筆力不足もあるのでしょう。それでも一つ、一つの短編小説が生き生きと描かれていれば問題ないのですが、皆さんが読んでいてどう思うかどうか不安なところもあります。

私は「つくる会」初めいくつかの保守の会に所属していますが、皆さん、非常にまじめな方が多い。政治、歴史、経済、教科書問題等々、難しい話を一年365日話続けてもあきることがないようです。私はその奥様方に同情いたします。「戦後昭和の女性たち」を読んで、たまには若いころ、二人でデイトしたころを思い出して話合うのもいいのではないでしょうか。
本の内容もさることながら、私にはもう一つ心配な点があった。本のカバーデザインをどう思ってもらえるかです。私は文芸社に昭和の娯楽の殿堂と言えば日劇だから、夜の日劇を明るく照らし、その前を二、三人ぐらいの若い女性たちが歩いているような写真風景を求めた。文芸社は早速探したが、見つからず、夜の日劇から銀座方面を映した写真、とそのほかの写真を見せてくれた。その中から私が選んだカバーデザインが現在使用しているものです。私はこのカバーデザインをすごく気に入っています。しかし老人の少女趣味だと言う人もいれば、私の精神的若々しさ出ていていいという人もいれば、私の女房みたいにこれだと女性読者層だけしか読まないのではと心配という人もいます。皆さんはこの本のカバーデザインどう思われますか。

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79歳の誕生日を迎えて



この8月1日で私は満79歳の誕生日を迎えた。私の波乱万丈な人生を振り返ると三つの特徴がある。両親の病気、外資系、一匹狼。この三つのうち今回は、両親の病気について語ります。敗戦になって多くの軍人たちが自宅に帰ってきてからが本格的な生活苦が始まった。我が家はもっとひどく最悪な生活だった。父は戦争直前に結核になった。結核が初期だったため満足な治療もせず病状悪化、お蔭で軍人に取られることはなかったが戦後即入院だった。私が小学2年のころです。他の家庭では戦地から帰国した父親は、働きにでるが、いくら賃金がやすくてもお金は入る。ところが我が家は、父親は働けないからお金が全くはいらない、その上病気の治療費を払わなければならない。お金の工面はどうしたか。父親の実家です。実家は富山県の地主だった。しかし戦後すぐ農地改革があって、大地主は小作農より多少裕福だったが、以前より金銭的余裕がなくなっていた。そこえ父が頼み込んでなんとか助けてもらった。父の実家の援助がなかったら母は三人の子供を育てるためにパンスケになっていただろう。その頃住んでいた横須賀は、パンスケの街だった。
父は右肺だか左肺を切除して治癒。日本鋼管に復帰した。首にならなかったのは、日本鋼管が大会社だったからだろう。
父が仕事に復帰して10年ぐらいたっただろうか、私が高校に入学するころ、父は、今度は腎臓結核を患ってしまった。この時きちんとした治療しておけば完治していたでしょう。しかし治療にはお金がかかる、それではいつまでも生活が向上しない。父は現代医学を拒否する新興信仰、メシア教に走った。一旦決めたら梃子でも動かぬ信念を持つ父親は、母の忠告も全く聞かずメシア教を祈りつづけた。結局二つ腎臓のうち、片方は腐ってしまい、残り腎臓の三分の一全く機能せず、このままでは父は死んでしまうと思い、母は父を騙すようにして病院に担ぎこんだ。5年間ぐらい入院しただろうか。結局三分の一が完全に機能しなくなった腎臓をだまし、だまし使い続けて、出張の時には鞄のなかに尿瓶をいれていた。そんな状態のまま定年まで働き78歳で死んだ。
父親がこんな状態だから我が家は、いつも貧乏で私は大学にも行けず、頭は優秀でなく普通のでき、体は頑丈でなく、普通の体。しかししぶとく努力することは得意であったから、自分の人生は長期で勝負、人が5年かかってできることは、俺は10年かけてでもやる。そのためには元気で長生きしてやるしかないと心に決めていた。
ところが私が30代にはいったころ、母親が五十代半ばで胃癌になり、胃の三分の一を切除して退院した。手術後5年間は元気いっぱいで完全治癒したと誰もが思った。だが6,7年後に咽頭癌になった。医者は胃癌の転移でなく新しい癌だと言った。人間は二つ声帯をもっているが、母は癌の為一つの声帯が麻痺してしまい、声量が半減してしまった。治癒しても声帯は元に戻らなかった。その後すぐに今度は大腸癌になった。手術後人口肛門をつけるようになった。その後すぐ小腸癌になった。通常一人の患者が一人で二つも三つもがんを患うのを多重癌と呼んでいた。母は結局四つの癌をわずらい多重癌で、それぞれ大手術をし、71歳の若さで死んだ。これまで私は、人生を長期戦で戦おうときめて実行していた。人が五年かかるところ10年かけてやる。そのための努力は、大いにやってやる気でいた。しかし私も私の二人の妹も父も、また医者も我が家は癌家系と思った。私は常日頃神や仏、いわゆる宗教に関心がない、それどころか時には、神や仏に怒りさえ感じる時がある。それはある特定の人物にこれでもか、これでもかというように苦労を与えるからです。私の母親は戦後三人の子供を育て上げるのにどれだけ苦労したか、長男である私は、その苦労を一番知っている。私は子供の時お正月にお年玉をもらわずに、大人になってしまった。家族でどこかに遊びに行くどころか、どこかに家族で一緒に食べに行くこともなかった。あの苦労に苦労を重ねた母親が中年なったら、次から次への癌に犯された。胃癌治癒後60歳から死ぬ71歳の11年間に三つの癌におかされたのだ。しかも当時は末期癌でも副作用が大きいからと言っていまほどモルヒネを多用に使用しなかったのだ。母がベッドの中で痛い、痛いと嘆くのだ。病院見舞いの帰り、私は悔し涙が出てどうしようもなかた。お袋は何も悪いことはしていない、何故癌に襲われ続けねばならないのか。神や仏を恨んだ。37,8歳のとき、私は自分がいずれ癌に襲われるかもしれないと思い癌と戦うことを決心した。癌の早期発見でやっつける対策だ。生命保険にも入らない私が癌保険に入った。毎年人間ドックに入ることを決め、以来40年間毎年人間ドックに必ず入った。母の病歴を知った医者は、私のドッグ結果を詳細にチェックするせいか、これまでに何度も胃癌、大腸癌、肺癌など再検査をさせられた。
またできるだけ健康な体で癌を早期発見して治そうと考えていたから日頃運動不足にならないよう気をつけてきた。ところが三年半まえ軽い脳梗塞を患い、幸い一週間の入院ですんだ。毎年人間ドックに入っているから脳梗塞の注意など受けたことなかった。私が大病するとしたら胃癌か大腸癌、いわゆる内臓の癌だろうと自分で決めていた。脳梗塞になる注意など受けていなかったせいか脳梗塞は実に軽症だった。わずかに右足をひきずる程度ですんでいる。そして現在79歳の誕生日がきた。
ここで私は初めて癌家系からの解放を宣言した。母には二人に妹がいた。すでに死んでいるが癌では死んではいない。私には二人の妹がいる、二人とも現在70歳以上だ。しかし癌を患ったこともない。私は79歳、癌にわずらったことがない。母親の四つの癌は彼女独自のもので、家系によるものではない。私や妹がいずれ癌になったとしても、それは家系によるものでなく加齢による癌と結論づけたのです。これによって私の終末期の人生が洋々と広がる明るい人生になったのだ。日頃の運動不足を注意していたから私には体力に自信があるのだ。懇親会というパーティーでは最初から終わりまで立ち続けでいられるのだ。自分で講演した時も立ち続けできる。今年と昨年の人間ドックの結果は再検査の必要なしだった。私の癌保険の満期は82歳です。もうこれ以上癌保険かける必要なしと決めた

これからの私の人生の終末期に何をするか。人は大体一つの人生で終わりです。私は欲を出して二つの人生を送ろうと思っています。サラリーマン人生実働40年、61歳で定年退職。以後執筆活動。これまでの18年間の執筆実績は、来月に女性短編小説集を出版します。それを入れて9冊目の出版です。2年ごとに1冊出版したことになります。それに「えんだんじのブログ」が今年11月で10年目を迎えます。この執筆実績は、ちょっとした人気作家なみです。こうなると自慢したくなって、「俺は若い頃から執筆活動していたら、今頃偉大な作家なっていたのではないか?」という気分です。あと20年執筆活動すると99歳になる。100歳まで書き続ければ、サラリーマン人生40年、執筆活動40年の二つの人生をおくったことになる。現在は人生100歳の時代です。途方もない夢ではない。どん底から這い上がってきた男のすごさを見せつけてやると闘志満々の日々を過ごしております。

「おふくろよ、俺が執筆活動をしているとは、全く予想外のことでしょう。俺の人生このままでは終わらないぜ、いずれお袋を主人公にした小説を書きたいと思っている。俺はお袋の分も長生きするからな。よく見ていてくれよ!」



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えんだんじのベストセラー作戦(1)



このブログの転載、拡散をよろしくお願いいたします。
(AA)  私の大作「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版「The USA is responsible for the Pacific War」を出版したのが2013年。出版部数は資金不足のため300部。これを私の協力者であり共著者の渡辺氏と私で50部ずつ個人用として使い、残り200部を日本在住の外国の大使館、領事館の無償提供するつもりでいた。しかし例えば南アフリカの小さな独立国にさしあげたところで国際的に影響力がない。そこでさしあげた外国の大使館、領事館は、合計185ヶ国。
私としては、この英文版を大量に印刷し、世界中にばら撒きたい、できればアメリカ中だけでもばら撒きたい思いがあります。そこで考えたのは、私がベストセラー本を書き、その印税で英文版を大増発することだった。その一番手として書き上げたのが、私の自伝的小説、「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」(文芸社)です。私自身の波乱万丈な生活を描いて出版が2015年9月。しかし売り上げ増加の兆しは一切なし。ベストセラーになりそうになるどころではない。しかし文芸社は、自社の優秀作品(「えんだんじ・戦後昭和に一匹」などを含む)の「特別長期販売企画」を立てた。
文芸社から『「特別長期販売企画」配本リストのご送付ならびにご案内』が送られてきました。要点は、
〇別紙「常備配本リスト」記載の書店にて、2017年3月より1年間の常備配本を実施いたします。(3年間の長期販売企画ですが、配本先は、1年毎に変わりますので、新たな配本リストは来年ご報告をさせていただきます。

〇流通事情は各店舗の作業スケジュール都合等により、店頭陳列の開始日は一律ではございません。予めご了承ください。(遅くとも3月10日頃までには陳列が開始される見込みです。)

〇当配本期間中に書籍が売れた場合には必ず補充されます。ただし、流通事情等により再度店頭へ陳列されるまでに2週間ほどのお時間を要する場合もございますので、あわせてご了承くださいませ。

〇陳列場所につきましては、各書店の裁量となっておりますが、概ね各店舗に陳列された文芸社の棚の周辺に陳列されると存じます。(各ジャンル棚に陳列される等、例外もございます。

〇もし、ご友人等へご案内いただく際には、書名・著者名・出版社名等を具体的にご紹介のうえ、見つからない場合は、検索機のご利用や書店員へお問い合わせいただくようお伝えいただければ幸いです。
            常備配本される書店名リスト
(1年目:2017年3月1日~2018年2月28日)
県名   地域    書店名
青 森  弘前市   紀伊国屋書店 弘前店
群 馬  前橋市   紀伊国屋書店 前橋店
東 京  江東区   紀伊国屋書店 ららぽーと豊洲店
東 京  新宿区   紀伊国屋書店 新宿本店
東 京  千代田区  紀伊国屋書店 大手町ビル店
神奈川  横浜市   紀伊国屋書店 横浜店
神奈川  横浜市   紀伊国屋書店 ららぽーと横浜店
神奈川  横浜市   紀伊国屋書店 横浜みなとみらい店
福 井  福井市   紀伊国屋書店 福井店
大 阪  大阪市   紀伊国屋書店 本町店
兵 庫  加古川市  紀伊国屋書店 加古川店
広 島  広島市   紀伊国屋書店 広島店
香 川  高松市   紀伊国屋書店 高松店
福 岡  福岡市   紀伊国屋書店 福岡本店
大 分  大分市   紀伊国屋書店 大分店
上記以外の本屋でも注文できますが、上記の書店ではいつでも陳列されていてすぐに買えます。それだけが通常の本屋さんとの違いです。

(BB) 「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」は本の寿命として今後三年間保証されましたが、今後も売れそうにもありません。勿論私の最近出版する本がベストセラーになれば、その相乗効果で「えんだんじ・戦後昭和に一匹狼」が売れ出すことは間違いないでしょう。私は、そこでもう一度ベストセラーを狙って小説を書いてやれと思って、どんな題材を主題にすれば面白い小説が書けるか悩みましたが、結局女性を描ければ良いのだと思い構想を練った。最終的な構想は、10人の女性を登場させ一人一人に彼氏をつけ、一人一人の女性の生き様を短編小説に描き、それを一冊の本にすることだった。私は今までに書いた本は主に評論だった。評論は史実や事実を知れば、自分の意見が出てくるから、それを書けばすむが、小説を書くには、無かる有を産まなければならない、それだけに難しい。大よその原稿できるまでに自分が予想していた以上に時間がかかってしまった。それでもなんとか原稿の概要はできた。本のタイトルは、「戦後昭和の女性たち」にした。女性が出てくるので、何とか色気のある、あるいはムードある題にしたいのだが10人もの女性を書いているので、全員の女性を表す「戦後昭和の女性たち」にするつもりです。幸い文芸社が今年の9月に文庫本で出版することになった。前の作品、「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」は本の体裁が立派すぎた。素晴らしいハードカバーで363頁、値段は(1600円+税)です。気軽に買って気軽に読める本ではなかった。今度は文庫本、10人の女性が主人公、思想信条関係なし。これだけでもベストセラーに近づくような気がします。次のブログ「えんだんじのベストセラー作戦(2)」では「戦後昭和の女性たち」の宣伝用ブログとして出版間際に書くつもりです。

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日米の歴史と文化を考える(3)



和の文化
西暦604年、日本最初の憲法、憲法17条が制定されました。その第一条の冒頭の文句はあまりにも有名です。その冒頭にはこう記されている。「和をもって貴しとなし」となっています。このあとにも文章は続くのですが、この冒頭の文句は、日本の「和」の文化を象徴するものとして非常に有名なので、あとの文章は知らなくても、この文句だけは覚えている人が圧倒的に多いいのではないでしょうか。それでは第一条全体の文章は、どう書かれているのか、現代文に訳されているものを見てみましょう。
第一条
「お互いの心がやわらいで協力することが尊いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが基本的態度でなければならない。ところが人にはそれぞれ党派心があって、大局を見通しているものは少ない。だから、主君や父に従わず、あるいは近隣の人々と争いを起こすようになる。しかしながら、人々が上も下も和らぎ、睦まじく話し合いができるなら、事柄はおのずから道理にかない、なにごとも成し遂げられないことはない。」

第十七条は、上記の第一条とも関連しているので全文を見て見ましょう。
「重大な事柄は一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに論議すべきである。小さな事柄はたいしたことはないから、必ずしも多くの人々と相談する必要はない。ただ、重要な事柄を議論するに当たっては、あるいはもしくは過失がありやしないかという疑いがある。だから多くの人々とともに論じ、是非をわきまえていくならば、その言葉が道理にかなうようになるのである。」
現在の日本社会でも7世紀初めに制定された憲法17条の1条と17条の理念、すなわち話し合い至上主義がまだ生きていることがわかります。話し合い至上主義は、民主主義のことだから、この時代に日本は民主主義だったのだと早合点してはいけません。故山本七平氏は面白い例を紹介しています。
宿題を忘れた生徒は教壇の前で裸にならなければいけないというルールを全員一致でつくって、第一回の適用で女の子が裸にされた。これはいいことなのでしょうか、悪いことなのでしょうか。
悪いことに決まっているのですが、どこが悪いのでしょうか、ということで先生がたが話しあったのですが、先生がたはどこが悪いのかということがはっきり言うことができなかった。
話し合い至上主義は、話し合いで決めたことは、すべて正しいことになってしまうから、先生方はどこが悪いのか判らなくなってしまうのです。民主主義は、キリスト教をバックボーンにしてできあがっています。キリスト教によると人間は神様によって作られたことになっています。神様によって作られた人間なんだから基本的な人権はあるはずだと考えます。だからいくら全員一致で決めたことでも、基本的人権は侵してはならないというルールができてくるわけです。話し合い至上主義は、決して民主主義ではないということをわかっていただけるのではないでしょうか。
現在では外国でも、日本は「和」を大事にする国であるという認識は広まっていますが、その「和」を大事にすることが今からほぼ1400年前の日本最初の憲法、その第一条に記載されていることまで知っているのは極端に少ないでしょう。日本人は「和」の大切さを憲法の条文だけで終わらすことなく、数百年かけて日本人は、一人一人が「和」の大切さを無意識に感じ、また「和」を保つための行動が無意識のうちにとれるという世界でも貴重な、何回でも書きます、世界でも非常に貴重な「和」の文化を完成させたのです。
それでは日本人が和を保つために無意識のうちにとれるようになった行動とは、どんな行動をいうのでしょうか。自己主張を強くしないこと、対立を避けること、気配りをすること、すぐ謝ることなど色々考えられますが、そういうものをひっくるめて一言で言い表すならそれは、「自己犠牲」をはらうという行動だと思います。日本人は、集団の「和」を保つために一人ひとりが無意識のうちに「自己犠牲」を払っているのです。
自己犠牲と言っても武士の切腹のような大きな「自己犠牲」ではなく小さな「自己犠牲」です。日本人は集団の和を保つために一生のうちいくつもの小さな「自己犠牲」を無意識のうちに払っているのです。この無意識のうちにと言うのが文化の良さでもあり恐ろしさでもあるのです。
それではその小さな「自己犠牲」とは、無数にあると思うのですが、具体的に説明するために二つの例を挙げてみました。
一つの例は、日本人はすぐ謝ることです。自分が犯した罪に対して謝るのは当然としても、日常生活用語のようにすぐ「すいません」という言葉が出てきます。これは無意識のうちに相手に対して敵対関係にありませんよと、すこしでも相手の気持ちを楽にしてあげようとするためにはらう小さな「自己犠牲」と言えるのではないでしょうか。
二つ目の例は私の友人の話です。彼の家の隣に80歳を過ぎたおばあさんが一人住んでいます。彼女は猫が好きですが、自分の家では飼っていません。おばあさんのご主人が数年前に亡くなってしばらくしてから、彼女は自分の家に近づく野良猫にえさをやり始めたのです。それからは彼女の家のまわりに3,4匹の野良猫がたむろするようになったのです。そのため友人の家の庭は、猫の糞の被害を時々受けるようになったのです。
友人は、おばあさんに文句を言って、野良猫にエサをあげるのをやめさせたいのですが、彼女は一人住まいになって寂しい思いをしているのだろうと同情を感じるし、また彼女のご主人が生存していたころから隣組同士の関係が良好なので、あえて文句を言ってお互い気まずい関係になるのもいやだしということで我慢しながら猫の糞をかたずけています。この程度の糞ならがまんできると友人は自分で決めているのです。この友人の行為は、対人関係のきまずさを避けるための自己犠牲と言っていいのではないでしょうか。ところが友人は自己犠牲などとおおげさに考えずほとんど無意識に行っているのです。このように日本人は、一人ひとりが色々な時に、色々な場所で対人関係では、気まずい思いをせず「和」を保てるように無意識に自己犠牲を払ってきたのではないでしょうか。
「和」を保つために無意識のうちに小さな「自己犠牲」を行うことが、日本社会独特の「居心地の良さ」を生んでいるのだと思います。国連や世界銀行などに勤める外国人は、定年退職すると多くの外国人はそのまま勤務地ないし勤務地が所在する国に住み続ける人が多いいと言われていますが、日本人の定年退職者の多くが日本に帰国するとも言われています。いくら外国に住み慣れてもやはり日本に帰りたくなるのは、和の文化によるこの「居心地の良さ」が原因だと思います。
日本が「自己犠牲」なら日本以外のほとんどの外国は「自己主張」です。この自己主張に対する日本人の考え方を語っている古い文献があります。それは、万葉集の歌集の中にあります。
「葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国は、神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする」
葦(あし)とはイネ科の植物で、瑞穂(みずほ)というのはみずみずしいイネの穂のことです。葦原の瑞穂の国と言うのは日本のことです。要するに稲作という言葉が同時に日本という国の意味になっているのです。数十年前、おコメの輸入自由化が日米間の貿易摩擦になりました。日本政府は、おコメの輸入自由化に必死に抵抗しました。その時ある政治家だか役人だかが「おコメは日本の文化だ」と言っていました。
たしかに万葉の時代から日本は「瑞穂の国」と言われていたことを考えれば、おコメは日本の文化と言えます。この歌の作者は、日本は神の国だから言挙げしない国だが自分はするぞと言っているのです。「言挙げ」とは、ことばに出していいたてること、すなわち自己主張のことです。
自分が自己主張するのをわざわざ歌に詠むくらいですから、万葉の時代から日本では自己主張が嫌われていた一つの証拠でしょう。
宗教の自己主張は、その宗教の教義、経典のことです。ところが日本の神道には、教義、経典などなにもありません。だから万葉集に、日本は神の国だから自己主張しない国などと詠まれた一つの理由でしょう。こじつけと言われればそれまでです。
キリスト教の教義、経典は、旧約聖書と新約聖書です。旧約聖書の創世記のところでゴッドはこう命令を下しています。
「子孫を増やし、大地を子孫で満たせ、そして大地を征服せよ。すべての魚、鳥そして大地に這うあらゆる動物を支配せよ」
どうですかゴッドのこの強烈な自己主張。現在はアメリカ・インディアン、アイヌ、アボリジニなど少数民族の権利、主張、文化などに光があてられています。かりに彼らの神だとか仏だとか彼らの信じる対象物が、キリスト教のゴッドのように強烈な自己主張を残していたら彼らは少数民族になりはてていただろうかと考えてしまいます。
万葉の時代から自己主張が嫌われていた日本では、どうしても自己主張したいときはどうしていたのでしょうか。その時は言いたいことを遠まわしにほのめかしたり、におわせたり、暗示したりしてきました。こういう自己主張の仕方を一千年以上経験してきた日本人は、相手の気持ちを「察する能力」がまるで五感の一部のようにたけて以心伝心となっていったのです。以心伝心は一夜の人間関係ではできません。ただ同一民族だから以心伝心ができると思ったら大間違いです。それなりの年数が必要だと思います。
アメリカ人は、非常に自己主張の強い民族です。そのためアメリカ人は、相手の気持ちを「察する能力」が日本人よりも劣るのです。自己主張の強さは我がままに通ずるものがあるからです。
サンフランシスコ州立大のディーン・バーランド教授は、アメリカに訪れていた作家の司馬遼太郎にこう語っています。
「相手の心を察する感覚は、日本人において強く、アメリカ人においては弱いのです。アメリカ人の場合、自己を表現するということを、母親や学校から徹底的に教えられます。まず第一に、自己を表現しなさい。第二は、自己が正しいと思っていることをやりなさい。そして自己表現はアーティキュレイト(明瞭)に、クリア(明晰)にやりなさい。また、相手に訴えるときはパーフェクト(完璧)にやりなさいということを教えつづけます。そのため、相手の心を察する感覚が弱くなっているのです。」
日本とはまるで逆ですね。日本人の親なら、自分の子供に「相手の気持ちを考えなさい」と小言を言うのは一度や二度でないでしょう。バーランド教授の話を聞いているとアメリカでは、子供に向かって「相手の気持ちを少しは考えろ」などと言うことは全くないみたいです。
相手の気持ちを「察する能力」にたける「和」の文化には大きな弱点があります。それは思い切った改革が必要なとき、なかなか改革ができないことです。改革は敵対関係が生まれ、不安が生じます。しかし敵対関係を避ける「和」の文化は、それが苦手です。
自己主張が強いと対立関係が生じやすいのでアメリカ人は、対立関係になれています。従って対立関係から生じる禍根はそれほど強くのこらないと思います。
日本人は対立関係に慣れていないから、ちょっとした対立でも禍根として強く残るものですから、改革が必要とわかっていても、なかなかできず、外圧に頼って改革するというなさけないはめになってしまいます。

戦後70年経た現在、日本社会では、自己主張は容認されたと言っていいでしょう。もっとも我がままを自己主張と勘違いされている部分も多いです。時と場合によっては、自己主張は歓迎されます。その反面相手の気持ちを「察する能力」が落ちてきてきたことは否定できません。そのため気の利かない、気配りのできない若者が増えていることも事実です。喜んでいいのか、悲しんでいいのか、私のような年寄りには複雑な気持ちです。
私が「喜んでいいのか」という意味は、外交交渉では「相手の気持ちを察する能力」とか「気配り」とか「気を利かす」などは、百害あって一利なしだと思うからです。
歴史の話をする時には、“もし”なになにだったらと、“もし”を使うのがは禁物と言われていますが、あえてつかって“もし”「和の文化」だけだったら、日本人は人の気持ちを“察する”能力にたけて人が良いだけで、対立することを苦手とする弱い民族になっていたのではないでしょうか。そのため日本は欧米の植民地になっていたと思います。それを救ったのは、日本の歴史において、シナや韓国や他のアジア諸国にみられない武士というものが登場し、そして武士としての人間形成と行動規範である武士道を生んだことだと思います。極限すれば武士道が日本の植民地化を救ったのです。

このブログをもって「えんだんじのブログ」の8年目が終わります。来月からは9年目に入ります。今後もご愛読のほどお願いいたします

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日米の歴史と文化を語る。(2)



神様とゴッドの話
戦前、戦時中は、昭和天皇は現人神(あらひとがみ)と呼ばれ神様扱いでした。しかし天皇陛下を神様と呼んだのは、なにも昭和天皇が最初ではありません。大昔から天皇は神と呼ばれていた。天皇を神と呼んだ最も古い記録は、「万葉集」の中にあります。「万葉集」とは、5世紀に君臨した仁徳天皇が詠んだ歌から8世紀半ばごろまでに歌われた4,500首の和歌を集めたもので、全20巻からなる歌集です。作者は天皇を初めとする皇族、貴族から庶民にいたるまで幅広い層にわたっています。日本が誇る最古の歌集です。その中に7世紀の歌で天武天皇の皇居造営を賛美したものがあります。(大君は神にしませば赤駒のはらばう田井をみやことなしつ)。これがその歌です。これで古くから天皇が神と呼ばれていたことがわかります。ところが日本では天皇だけが神あるいは神様と呼ばれていたわけではないのです。八百万(やおろず)の神と言って文字通り八百万の神様がいるとは思いませんが、とにかく沢山の神様が日本にいるということなのです。神様が日本に合計何人いるか正確な数は誰も知らないのです。
太陽、風、雷、海、山、森など自然や自然現象などにはほとんど神様がいるのです。神馬などと言って動物にも神と呼ばれる動物や神様との仲介する動物がいます。七福神といって富をもたらす神もいれば、疫病神といって病をはやらす神もいます。また縁結びの神といって結婚の縁組を司る神もいます。人間が死ねば神様に祭り上げられる人もいます、特に戦争中では、戦場で非常に功績のあった軍人は死後、神様となって祭られました。日露戦争の時、日本海海戦の司令官だった東郷元帥は、死後軍神として東郷神社という社で祭られているのは有名です。このように日本には、数え切れないほどの神様がいるのです。すなわち日本は、二つや三つの神ではすまない数多くの多神教の国なのです。にもかかわらず元森喜郎首相が、何年か前に「日本は神の国」と言ったらマスコミはじめ色々な方面から非難が飛んだが、彼ら全員馬鹿なのだ。この多神教の神を、誰が最初に訳したのか知れませんが、ゴッドと訳してしまったのです。これは大変な間違いなのです。なぜなら英語のゴッドは、全知全能の神とか造物主とか言ってたった一人しかいないのです。日本に沢山いる神々とは似ても似つかぬ、全く異なった存在なのです。神をゴッドと訳したため、特に戦争中アメリカ人は、日本人は昭和天皇のことを彼らの言うところのゴッドと思っていると思いこんでいたのです。証拠があります。1945年9月27日、敗戦の翌月、昭和天皇は、アメリカ占領軍最高司令官マッカーサー元帥に会うためにアメリカ大使館を訪問しました、

その日が両者の初めての会見でした。マッカーサーの妻、ジーン夫人は、その日夫の指示に従って日本人の使用人全員をキッチンに集めて、午前中はどこにも行かせずここで銀器をみがいているよう命令したのです。理由はマッカーサーが、昭和天皇は神であり、傍に近ずくことすら許されない存在である。だからもしその天皇が自分の目の前に姿を現したなら、日本人の使用人は、きっと全員ショックで気絶してしまうだろうと思ったからなのです。このことはマッカーサー自身が、日本人は天皇をゴッドと思っていると信じていたのですから恐らく他のアメリカ人も同じ思いだったのでしょう。そのためアメリカ占領軍の意向により終戦の翌年、1946年の元旦に昭和天皇は、有名な「人間宣言」の詔書を発せさせられたのです。昭和天皇自身に神を否定させたGHQは、キリスト教を日本国内に流行らすために日本全国で国民の神社内での会合をさせないように、日本全国いたるところ公民館を建設させた。戦前、昭和天皇は現人神(あらひとがみ)と呼ばれていましたが、昭和天皇が人間でないと思った日本人はいないと言っていいでしょう。ところがこの「人間宣言」よって欧米人には、この「人間宣言」がはっせられるまで、日本人は昭和天皇をゴッドとして信じていたと確信させることになってしまったのです。同時に大東亜戦争で日本だけ徹底して非難してやまない反日日本人に「天皇の神格化の弊害」などと言って、日本批判の材料をあたえることになったのです。彼らは、日本の天皇が昔から神とよばれていたこと、神とゴッドの違いなど知らないのか、知らないふりをしているのです。これからは、神を安易にゴッドと訳さず絶対に「kami」として徹底して押し通すべきだと思います。「謝罪」、「迎合」、「主体性の欠如」と言う文化にどっぷりひたりがちな日本民象は、自分の主体性を世界にあまり主張することがない。特に大事な宗教に関しては、日本は「kami」の国の多神教だと、徹底して多神教であることを主張すべきだと思っています。

世界的には圧倒的に一神教の国が多く、日本みたいに日本古来の神道と外国から伝わった仏教がものの見事に融合しあっている多神教の国は世界でもめずらしいのです。世界が平和になるためには多神教を受け入れる国になるか、あるいは多神教を許容できる国になることが絶対に必要だと思っています。多神教の良さはその寛容性です。アメリカの最近の歴代大統領は、イスラエルとパレスチナの争いの仲介をとろうとして苦労を続けています。一年365日、たった一日で良いからイスラエル人は、イスラム教を、パレスチナ人はユダヤ教を礼拝する日をもうけたらどうだろうか。この提案を聞けば両国民は仰天し、無論反対するでしょう。アメリカの大統領も一神教だからこういう提案もできないでしょう。しかし日本人は多神教だからこの提案もできるし、また国民も実行できます。たまには日本の首相も、世界平和のために国連で多神教の寛容性についての演説をしてみたらどうですか。私に言わせれば、一神教の人間は、多神教の人間より頭が高い。多神教の人間の言うことよく耳を傾けろといいたい。







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自らの努力で美人に仕立てた女性(73歳)



私と同年代の男性でブログのタイトルに出ている73歳の女性の名前を知っているでしょうか?多分知らないのではないでしょうか。私もつい二、三カ月前までBSテレビで彼女へのインタビュー番組を見るまで全然知らなかった。女性、特に30代以降の女性は、彼女の名前を殆ど知っているでしょう。名前は佐伯チズ、日本のスキンケア界の代表的な美容アドバイザーです。彼女は、まだ大東亜戦争中の昭和18年に満州に生まれ現在73歳、私より5歳若い私と同年代です。無事満州から引き揚げ、15歳の時に見た映画で女優、オードリー・ヘップバーンを見て、「世の中にこんなに美しい女性がいるのか?」と美意識に目覚めたと言うのだ。何とか二重まぶたになりたく両手の指でまぶたを撫で続け、二重まぶたになることができた。ついでだが、戦後私の叔母は、年は20代前半だったが、やはり二重まぶたになりたくて、ひまさえあれば鏡の前でまぶたにヘアピンで線を描いていた。何年も一心不乱にやりつづけて見事な二重まぶたにしあげた。
女性というものは、生まれつきの容姿で美人、不美人は決まるが、しかし例え十人並でも本人の美意識に対する執念が美しくなるための行動を長続きさせることができ、美人に育てあげることができるのだ。私の叔母も佐伯チズもそうです。73歳の佐伯チズをテレビで見た時、私は彼女の顔、首まわり、手首など肌が直によく見える所をよく注意して見たが、実に若い、また容姿全体も眺めたが、背中がまっすぐ実に若々しいオーラをかもしだしているすばらしい女性、おばあさんという感じがまったくありません。

彼女の半生を追ってみると、24歳の時にプラネタリウム製造技術者と結婚。結婚後すぐにフランスの化粧品会社、ゲランに入社。昭和57年にクリスチャン・ディオールのインターナショナル トレーニング マネージャーに就任。昭和59年、彼女が41歳の時、夫が病死、子供はいず、以後独身を通す。彼女の化粧品業界の功績の一つは、ローションパックの先駆者でそのローションパックを広めたことでしょう。彼女の美容関係の著作もすごい。講談社15冊、大和書房13冊、計28冊。ほとんど美肌ケア、美肌ダイエット、美肌カウンセリング関係です。定年退職後の彼女の活躍もすばらしい。平成15年定年退職後、「アトリエ サエキ144」を主宰、エステティックサロン「サロン・ドール・マ・ポーテ」を開業、平成20年 佐伯式美肌塾「チャモロジースクール」を銀座にオープン。沢山のテレビ番組、CMに出演。
これだけの著作を出し、テレビに出れば、なにが何でも美しく、若々しくなければ宣伝にもなりません。自分自身を美しく見せる彼女の努力は大変なものだったでしょう。私の見たテレビインタビューの終わり頃、彼女が出かけるとき、いつも持ってゆくきれいな袋を見せ、その中から取り出したきれいな小箱を見せた。夫の死後の遺骨のいくつかが入っているのだ。その遺骨は取り出さなかったが、「これが夫の喉ちんこ、これが夫の体のどこの部分」とか説明していた。自宅の仏壇に全遺骨が置いてあり、私が死んだら私の遺骨と一緒に泥団子のようなものでいいから固めてどこかに埋めてほしい、絶対に別々にして埋めないでと親戚の者に言ってあるそうだ。本人が出かけて帰宅すると、その日何をしてきたのか、仏壇に向かって話しかけてあげるのだそうだ。できることなら、死んだ夫ともう一度結婚したいのよと語っていた。41歳で夫の死後、新しい伴侶に恵まれ再婚するのも素敵な話です。しかし佐伯チズのように夫の死後も再婚することなくたった一人の男を死ぬまで思い続けるというのは、まさに昭和生まれ、昭和育ちの女性には、日本の古き女性が持っていた美点のようなものを持っているのだと思っています。

私は今小説を書いています。数人の女性の生き様を書いた短編小説です。佐伯チズという女性を知って、その小説のタイトルを決めました。「戦後昭和の女性たち」です。全員昭和生まれ、昭和育ちの女性たちです。この女性たちの中には人生の土壇場で、日本の古き、良き女性の生き方を選ぶ女性がいるのです。ぜひ小説の完成を期待していてください。
私が何故小説を書いているか、気になるかたは、私のブログ「ベストセラー誕生作戦」4月16日をお読みください。






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北条政子は、何故国民の間であまり知られていないのか?



        このブログの転載、拡散をよろしくお願いいたします。
「自虐史観」とは戦後から現在にまで続いている歴史観であり、特に今から30年ぐらい前までは「自虐史観」一辺倒でした。「皇国史観」とは明治から終戦までの歴史観のことです。ここで皆さんに承知していただきたいのは、「皇国史観」と言う言葉は、戦前からあった言葉でなく、戦後の歴史家や知識人が戦前の歴史観を批判するために作った言葉だということです。疑問に思う方は、戦前に出版された国語辞書を見てください。「皇国」という言葉は辞書に載っていますが、「皇国史観」という言葉は載っていません。私の持っている平成7年年出版の「大辞林」には戦後版ですから「皇国史観」は載っています。
明治政府は、天皇を頭にいだいて江戸幕府を倒してできた政府です。そのため明治から敗戦の昭和20年まで、天皇家の権力や権威は、非常に大きなものでした。明治初めから敗戦までの日本史教育が、天皇家を中心に語られ、教えこまれてきました。
これが皇国史観と戦後呼ばれています。日本の歴史がかなりの程度天皇家を中心に語られるのわやむを得ないと思います。皇室の歴史は、日本の歴史でもあるからです。まして明治以降は、天皇家そのものが権力者だったから、余計に天皇家中心に語られるのはやむを得なかったと思います。

ところが戦後、日本批判がゆきすぎて「自虐史観」と呼ばれるように、戦前の歴史も「皇国史観」と呼ばれるようにあまりにも天皇家中心になりすぎてしまったのです。その弊害の一つは日本史上において天皇家と直接権力争いをした人物は、悪人とかたづけられ、人物像が正当に評価されないことです。北条政子はその典型的な例でしょう。
天皇家の鎌倉幕府に対する武力挑戦が承久の乱です。その乱に勝利した鎌倉幕府は、上皇二人を島流しにしています。上皇とは元天皇の地位にいた人のことです。その上皇二人を島流しにするとは不届きな奴ということで、北条政子は悪女扱い、陰謀家などと言われるのはそのせいなのです。このように皇国史観では、北条政子はけなされることはあっても、評価されることのない女性でした。
しかし北条政子すなわち鎌倉幕府は、政治権力を握っていたが、天皇家の権威をずっと立てていました。その一番大きな証拠は、政子の実子が死に絶えたとき、政子は京都の天皇家に頼み込み天皇家ゆかりの摂関家の幼児を京都から迎いれて将軍職につけたことです。ところが後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の後継者の種がつきると、鎌倉幕府を倒幕しようと「院宣」を各地にばらまきました。幕府への謀反を命じたのです。これが後に呼ばれた「承久の乱」です。承久の乱を起こしたのは、政子側でなく上皇側です。「承久の乱」の失敗後は、政子は上皇を殺さず島流しにしているだけです。この「承久の乱」がいつ起こったのかというと1209年です。いまから800年前です。800年前の日本の歴史なら、歴史家ばかりでなく私たちも公平に歴史をながめることはできるはずです。北条政子が、二人の上皇を島流しにしたのがイメージ的に悪いと非難する人がいますが、現在の日本人に政子を批判できる資格のある人はいるのでしょうか。

なぜならば終戦後の日本人を見てください。昭和天皇の権力は喪失し、廃位させられたも同然。宮様家は、廃止させられ、その後復活する兆しも全然なし。いずれ皇太子になられる殿下は嫁選びに苦労することでしょう。勝利国の太平洋戦争史観を植え付けるために大東亜戦争と呼ぶなと言われれば嬉々として従い、さらに国際条約違反の憲法まで押し付けられ、独立を回復しても廃棄も、改正もせず、一切変えこともなく、そのまま使っているのだ。要するにGHQの反皇室命令などに従順に従い続けている我々に政子を批判できる資格はありません。ここらで北条政子の名誉をもう回復すべき時なのです。皆さん、政子が権力を握っていた時代の世界を見て下さい。
アメリカ、カナダ、ニュージ-ランド、オーストラリアなどの国など影も形もないどころか現在の英国(グレイト・ブリテイン)もまだ存在していません。当時となりのシナは、蒙古人のフビライハーンに支配され、彼は日本を滅ぼそうと二度も大軍を派遣(蒙古襲来、文永の役と弘安の役)してきて鎌倉幕府の必死の抵抗に会うなどして失敗しています。ヨーロッパや地中海は、キリスト教の十字軍がイスラム教の国々と戦争を繰り返していたのだ。一体当時のどこの文明国に北条政子のように女性権力者がいたというのだ。当時の世界では、北条政子という女性は、世界史を代表する女性ではないですか。当時は男女同権、平等の思想など全くない時代、武将ともなれば側室を自由自在に持てる時代です。そのため政子は嫉妬に狂い側室宅を燃やしてしまう行為にも出た。しかし政治的行為には嫉妬の影響はみられません。政治的行為と私的行為を区別できる女性だったと思います。

私は横浜在住なので、鎌倉にたまに出かけますが、政子の地味なお墓はありますが、その他に政子の存在感を示す特別なものが何もない。頼朝死後政子のがんばりで現在の鎌倉は古都としての面目を保って観光地になっているのではないでしょうか。ところが鎌倉にやってくる観光客の多くが政子の名前を知らずに来て、政子の名前を知ることもなく帰ってしまうのだ。これは鎌倉市政の落ち度ではないでしょうか。800年も前に世界史的女性として北条政子が存在したことをもっと日本国民に知らしめる必要があるのではないでしょうか。それによって若い日本女性に刺激を与えることもできると思っています。
私が北条政子の物語を書くにあたって参考文献にしたのは、「日本の女性史 2巻 (乱世に生きる)」和歌森太郎、山本藤枝、集英社(昭和40年)。





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北条政子(1)



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1980年代のイギリス人女性首相、マーガレット・サッチャーは、鉄の女(Iron Lady)と呼ばれて有名です。私に言わせれば日本には、サッチャーに勝るとも劣らない女性が今から800年ほど前にいたのです。北条政子です。私は北条政子の存在を伝えたいために、題して「鉄の女」北条政子として私のブログ、「えんだんじのブログ」に今から7年前の2009年1月25日と2月1日に書きました。2009年とは私の「えんだんじのブログ」を始めた翌年です。従って 私のブログの読者が少ない時です。この作品なかなかできがよいので、最近の私のブログの読者にも読ませたいと思い再公開してみました。
[引用開始] 「源頼朝の名前は、日本人なら誰もが知っているでしょう、北条政子はその頼朝の妻です。源頼朝の生き様はよく知られていますが、そのわりには妻、政子の生き様はあまり知られていません。そこで政子の生き様に光を当ててみました。
彼女は一言でいうと、非常に気の強い、気丈な女性です。昭和55年(1980)年代のイギリスの首相、マーガレット・サッチャーは「鉄の女」と称されましたが、北条正子もまさしく「鉄の女」で、現在は、男女平等、男女同権、男女機会均等の考えが浸透していて沢山の女性が社会で活躍していますが、まだ北条正子ほどの「鉄の女」は、出現していません。
1160年、頼朝は平清盛によって伊豆の蛭が島に流された。頼朝14歳の時です。それ以来20年間この地で流人生活をおくっています。北条正子は、頼朝の監視人の一人である北条時政の三女です。1177年その政子に頼朝から恋文がもたらされたのです。政子21歳、頼朝31歳の時です。
こうして二人の恋が始まった。ちょうどそのころ政子の父親、時政が京都に行って留守でした。頼朝はその時期をねらっていたのでしょう。政子には父親が決めた、いいなづけがいた。相手は北条家の近隣に所在する平氏一門の山木兼隆でした。
政子の父、時政は京都から帰り三島で二人の仲を知らされた。時政は家に帰るなり政子を頼朝から引き離していいなづけの山木兼隆のもとえ送りとどけた。普通の娘ならこれであきらめたはずです。
しかし政子はあきらめなかった。兼隆のすきをうかがって、激しい雨の降る夜政子は、山木の屋敷を抜け出し、頼朝のいる熱海の伊豆権現に向かって一人で逃げ出したのです。
追手を気にしながら激しい雨の降る夜の山道、自分の手元の明かり以外一切闇の中、体力もいるが胆力も必要です。当然政子は、死を覚悟しての脱走です。京都あたりの公家の女性では、とてもまねできない事であったでしょう。
やっとの思いで伊豆権現に到着し、頼朝の胸に飛び込んだ時は、政子には一生忘れることのできない感慨深いものがあったと思います。この彼女の行動が頼朝と北条家を深く結びつける結果になったのである。
頼朝の平家への戦いが始まりました。1185年に鎌倉幕府創立、1192年に頼朝は征夷大将軍になった。この時頼朝46歳、政子36歳でした。政子幸せの絶頂期だったでしょう。その間の政子に関するエピソードを二つ。
1.当時の武士の長ともなると妻の他に愛人(側室)がいるのは当然のことと認められていました。妻は妻でしかたがないこととあきらめていた。しかし気の強い政子は、頼朝に愛人を持つことをあきらめさせることはできなかったけれど、かなりあらっぽい抵抗をしています。
頼朝には伊豆にいた時から妻、政子の他に、名前を亀の前といった愛人がいた。鎌倉に移り住んでからも亀の前を鎌倉によびよせていた。怒った政子は、家来に亀の前の家に火をつけて燃やしてしまった。それでも頼朝は亀の前を放さなかったそうです。
2.頼朝の家臣たちは、頼朝の異母弟、義経(よしつね)の行方を捜査中、義経の有名な愛人、静御前(しずかごぜん)の居所がつきとめた。京都での取調べではらちがあかず、彼女を鎌倉につれて来させた。彼女はすでに義経の子を身ごもっていました。取調べの結果、静御前が義経の居所を本当に知らないのか、うそをついているのかはっきりしません。
その時政子は、夫、頼朝に頼んで静御前に踊りを見せることを所望しています。政子の好奇心からでしょう。なぜなら静御前は、京都の白拍子だったからです。白拍子は、いまでいうなら芸者のようなものでしょう。田舎娘の政子にとって、京都白拍子の踊がどのようなものか見てみたかったのだと思います。
静御前の度重なる辞退もききとどけられず、踊ることになった。1186年4月8日、静御前は鶴岡八幡宮の回廊に立った。正面に中央に頼朝、政子、そしてずらりと並ぶ御家人たち、静御前は、丸くなったお腹で舞ながら沈痛な声で歌った。
吉野山みねの白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこいしき
しずやしず、しずのおだまきくりかえし昔をいまになすよしもがな
この時静御前は、目にいっぱい涙を流しながら凛としてよく聞こえる声でよみあげていた。満場息を呑む雰囲気だったでしょう。その時、頼朝の怒声がひびいた。
「やめい」
「八幡宮はわれらがみおやの宮。その御前で舞を舞うには、関東の万歳こそ祝うべきであろう。それをなんたること、わが前をはばからず、逆賊義経を慕い、別離の歌を歌うとは」
刀に手をかけた頼朝の手がぶるぶるふるえ、今にも刀を抜くかと思われた瞬間、政子がさとすように頼朝に語りかけた言葉が有名です。
「あなたが流人として伊豆蛭が島にいた時、私たちは結ばれました。されど父は、平家の思惑を恐れて、私を山木兼隆にあずけてしまいました。でも私は、あなたとの恋一筋に生きようと、激しい雨の夜、山木の館を逃げ出しあなたのふところにとびこんだのです。
石橋山の戦いでは、あなたの消息がわからず、一人伊豆山でおびえていた日夜を思いだすと、いまの静どのの心は、まさしくあの時の私の心でしょう。義経殿の長年の愛を忘れ、恋したわないようでは貞女とは言えません」
ほれた女性の心は、私も同じ経験を持つ故、女性である私は一番知っているといいたかったのでしょう。この政子の率直な発言で、頼朝の心が静まり、静御前の舞に対しほうびまで出したのです。
それから3ヵ月後静御前は、鎌倉で出産し男の子を生んだ。男の子なら殺すという約束どおり、政子の必死のとりなしにもかかわらず、静御前の嘆き悲しむ彼女の手から男の子はとりあげられ、由比ガ浜海岸近くに捨てられました。政子の心からのいたわりと数々の餞別を受けましたが、傷心の静御前は、京都に帰ってから仏門に入り、やがて死んだという。
政子は、静御前には深い同情をそそぎましたが、自分の夫の愛人になると、そうはいきません。静御前騒ぎのころ、頼朝は、新しい愛人、大進(だいじん)の局(つぼね)に男の子を生ませています。その子が生まれた時から、政子は、頼朝にその子の処分をしつようにせまります。政子に約束はしているものの、頼朝は大進の局の必死の願いの板ばさみなり、とうとうその子は七歳になってしまいました。
決心した頼朝は、その子を京都の仁和寺に送って僧とさせ、後に貞尭(じょうぎょう)と名乗ることになります。その子が京都へたつ前夜、頼朝はこっそりその子の母のもとえ出かけ、餞別に剣をあたえています。当時の武士の指導者階級に生まれた男女、またその男に見込まれた女性にとっては、厳しい人生を当たり前のごとく受け入れないととても暮らしていけないような時代であったことは確かでしょう。
1199年1月頼朝は、落馬して急死。死因は色々ととりざたされていますが、落馬による脳出血が死の直接的原因というのが説得力あります。武家政権創立者の予期せぬ突然の死は、全国的に衝撃だったでしょう、しかし残された政子にとってそれ以上の大ショックだったと思います。この時頼朝は53歳、政子43歳、長男、頼家18歳、次男、実朝8歳、次女三幡(さんまん)15歳でした。
政子が本領を発揮するのは、頼朝の急死後です。頼朝の死後鎌倉幕府が、およそ130年も続いた功績の第一人者が北条正子です。頼朝、政子夫妻には4人の子供がいましたが、4人全員政子の在世中に死んでいます。このため4人の子の生き様が政子の人生に深く関わっています。そこで4人の子の生き様を追ってみましょう。
1.長女、大姫(おおひめ)
政子の最初の子です。源義仲(よしなか)が自分の長男、義高(当時11歳)を人質として頼朝に差し出した。頼朝は快く受け入れ、義高を当時5、6歳だった長女大姫のいいなずけと決めた。この二人は、はためにもはっきりわかるように親しい間柄になっていた。夫妻もそれを喜んでいた。ところがおよそ一年後木曽義仲は、逆賊になってしまった。頼朝は、家臣に人質の義高を殺させた。このことは大姫は無論、政子も知らなかった。
政子は激怒した。「なぜ内々に知らせてくれなかったのか、なんとか助ける手立てはあったはずです」
義高の死を知った大姫の嘆き悲しみぶりがひどく、食事さえとれなくなってしまったのです。12歳と6,7歳では恋と呼べるものではなかったかもしれない。しかしこれが大姫の心の病になってしまった。
大姫の深い悲しみは、母親、政子にとっても実につらい。政子の怒りがあまりにも激しいので、頼朝は、大姫を殺した下手人を斬った。しかし残虐を重ねただけでなんの解決、きやすめにもならなかった。大姫はこの悲しみから立ち直れず、精神病のような状態になり、20歳で短い生涯を終えた。政子にとって大姫の死の悲しみは、少なくとも頼朝が生きていたから彼と悲しみを分かちあうことができた。
2.次女、三幡(さんまん)
頼朝急死が1月。その頃病にかかっていた三幡は6月に父のあとを追った。夫の死後、その年のうちに次女、しかもたった一人残った女の子を失った政子には、じつに厳しい試練でした。嘆き悲しむ姿が想像できるではありませんか。
3.長男、頼家
頼朝が死んだ時、頼家は18歳。当然のごとく将軍職を継いだ。しかし頼家はいかにも若い、苦労知らずの経験不足。頼朝の重臣たちは、命をかけて戦ってきた人たちばかり。彼らにとって頼家は頼りない存在。政子は母親であるだけに、頼家と重臣たちとの微妙なムードを見抜いていた。政子には頼家が危なっかしくて黙って見ていられないのです。この彼女の気持ちは理解できます。政子は頼家に訴訟事件の裁決には、独断によらず北条時政、義時、大江広元、梶原景時等の13人の親戚、元老たちと合議の上で裁決するように指示を出した。頼家はこういう母の指図をお節介と受け付け従おうとはしなかった。
頼家は母の実家の北条家より妻の実家の比企能員(ひきよしかず)を頼りにし、母の指名した13人を無視し、お気に入りの小笠原、比企、細野、和田、中野の5人を側近にし、この5人以外には直接自由に会おうとはしなかった。頼家はさらに暴君のきざしさえ見せた。
御家人、安達景盛(あんだちかげもり)が京都からよびよせた美人の愛人に目をつけた。何度も恋文をおくったが、なびかない。強引な手をつかった。景盛に格別に用もないのに三河の国(愛知県)に出張させ、そのすきに彼女を盗み出し、自分の屋敷に住まわせ、彼女のいる部屋には、上記の5人以外近づけさせなかった。
1ヶ月後、景盛が帰国した。景盛は怒りをストレートに表すことができません。しかし誰かが景盛は大変うらんでいるらしいと頼家に告げ口をした。頼家は、「おのれ、生意気なやつ」と腹心の者を集めて景盛を討とうとした。ここまでくるとさすがに政子は傍観していられず、頼家をいさめた。頼家はしぶしぶ母、政子の忠告を聞き入れた。政子は、景盛を慰撫することも忘れなかった。
当時京都の公家の間で蹴鞠(けまり)大流行でした。頼家は、この蹴鞠が大好きだった。わざわざ京都から蹴鞠(けまり)の名人を鎌倉に呼び寄せているくらいですから、彼の熱の入れ方がわかるというものです。要するに頼家は、跡継ぎとしては無能なのです。主君の跡継ぎが無能だと、その無能を利用して己の出世を計ろうとする人たちが必ず出て来るものです。
頼家の場合も頼家をとりまく一派と反対派の対立が激しくなっていったのです。そんな情勢の時、幸か不幸か頼家が、原因不明の奇病にとりつかれた1202年7月病に伏した。早くも翌月、8月の末に危篤状態になってしまったのです。政子は、父時政と相談して、頼家の持分のうち、関西38ヶ所の地頭職は弟の実朝(さねとも)に、関東28カ国の地頭職と全国総守護職は頼家の長男で6歳の一幡(いちまん)に与えると決めた。
病床でそのことを聞いた頼家は、大変憤慨し、妻の実家の比企能員(ひきよしかず)と相談し北条氏を討つことにした。ところがこの二人の話し合いを障子をへだてた次の間で政子は聞いてしまった。政子はすぐに父、時政に告げた。時政は腹心たちと協議をし、比企能員一人を自宅に招いた殺し、中野、小笠原、細野ら頼家の重臣たちを逮捕し、後に流罪にした。
重態から立ち直った頼家は、和田義盛と新田忠常を味方に引き入れ時政を討とうとしたが、義盛は寝返り、新田忠常は殺され万事休した。病後の頼家は、結局母、政子に頼らねばならなかった。政子は結局、長男、頼家は跡継ぎするだけの才能がないことを認めざるをえず、涙をのんで頼家を修善寺に幽閉し出家させた。
幽閉後一月ぐらいたってから頼家から政子に手紙が届けられました。
「ここは深い山の中で、退屈でたまりません。もと召し使っていた者どもをよこしてください。それから、安達景盛を成敗したいから、これもよこしてください」
元の召使をよこしてくれという要求は理解できても、自分が安達景盛の愛人を盗み取って大騒動を起こしておいて、景盛を寄こせ、殺したいというのだから、頼家は絶望感でやけくそになっていることがわかります。
政子は使いの者を修善寺に行かせ「のぞみは、二つともかなえるわけにはいきません。これからは二度とお手紙を書かないように」と伝えた。1204年、頼家は修善寺で死んだ。若干23歳、政子は48歳でした。政子の父、時政が暗殺させたとも言われています。夫、頼朝の死後、わずか数ヶ月で次女を失い、五年後には長男失脚の形で自分が死なせてしまったという思いが政子に一生つきまとったのではないでしょうか。
4.次男、実朝(さねとも)
頼家が修善寺に幽閉され出家し、頼家一派は壊滅状態になってしましました。後継者は当然次男、実朝です。実朝はまだ幼かった。政子の父、時政のはからいで京都の朝廷から征夷大将軍に任命された時、まだ12歳でした。事実上、時政が実朝の後見人になった。そのため幕府内での時政の勢力が増したことになります。
政子の父、時政は自分ひとりの名で下知状という文書を発行して、将軍の命令を下々に伝えた。幼い実朝将軍は、完全な時政のロボットに、またロボットにならざるを得なかった。政子は、実朝が父の偉業をつぐたくましい将軍の育ってくれるだろうか、また政子が信頼している父、時政や政子の弟、義時と関係が順調にゆくのだろうか、心配が絶えなかったでしょう。政子の心配が現実になってきたのです。実朝の嫁選びでした。征夷大将軍に12歳で任命された実朝には、早くも翌年、13歳の時、嫁をもらうべきであるというのが鎌倉幕府首脳陣の一致した考えになっていた。
そこで政子は、自分の妹のとついでいる足利義兼(あしかがよしかね)の娘を推薦しました。ところが政子の父、時政の年のはなれた若い後妻、牧(まき)の方(かた)は、自分が京都の公家の娘であることから、京都の親戚筋の娘を推薦した。政子は、公家の娘を嫁にすることに反対だったが、実朝が京都の娘の方を選んだのでしかたなく実朝にしたがった。
ところが時政の若い後妻、牧の方はとんでもない陰謀を抱いていたのです。彼女は、京都守護としてはぶりきかせている娘むこの平賀朝雅(ともまさ)がとても気にいっていた。その朝雅を将軍にしようという、とんでもない計画を企んでいた。彼女は、政子や幕府首脳陣に疑われる行動を起こした。それが畠山騒動です。
幕府の元老、畠山重忠(しげただ)の子、重保と牧の方のお気に入り平賀朝雅とささいな争いがあった。牧の方はそれを根にもって夫、義時に畠山父子の謀反のたくらみありと報告した。時政はよく調べもせず、息子義時に畠山父子を討つ命令をくだした。義時は、父時政をいさめたが、年老いた時政は、若い後妻にまるこまれていてあくまでも追討を命じた。
畠山父子は、結局命令どおり討たれ命を失くしたが、その後無実であったことが証明された。若い後妻の浅知恵にだまされた時政の評判ががたおちになってしまった。それでも時政は目が覚めず、平賀朝雅を将軍にするために実朝を暗殺しようという牧の方のささやきに同意してしまったのです。
この陰謀を知った政子は、御家人を集め、時政の屋敷から実朝を救いだし、弟の義時の屋敷に移した。時政の屋敷に集まっていた武士たちも実朝を守るためといって皆義時の家に移ってしまったのです。父、時政はもう年ですこしぼけかかっていたのでしょう、鎌倉中から拒否され出家せざるを得なくなり鎌倉から姿を消した。
この時14歳になっていたい実朝には、父、時政の代わって政子の弟、義時が後見人になっていた。この役の名を執権と呼ぶようになった。
死んだ兄頼家は、蹴鞠(けまり)に夢中になっていたが、弟の実朝は、和歌に夢中になっていました。その腕前も玄人はだしだったと言われています。実朝は体も弱く、政子がはるばる紀伊の熊野神社参詣にでかけたのも実朝の健康祈願のためとも言われています。実朝は、和歌にのめりこみ、ともすれば政治の仕事から逃げてばかりいるようで、北条義時の力が増すばかりでした。自分が嫁いだ源氏の力が弱まり、実家、北条家の力が益々強くなるのを見て、政子はどんな気持ちだったでしょうか。
その実朝が1219年1月17日、鶴岡八幡宮の社前で突然切り殺されたのである。この時実朝は28歳。取り押さえられた犯人は、長男、頼家のわすれがたみ、公暁(くぎょう)、19歳でした。政子は幼くして父を失ったこの公暁(くぎょう)をあわれがり、一時は、実朝の養子ぶんにして世話したが、四、五年して出家させ、円城寺へ修業に出した。1217年鎌倉の呼び寄せ、鶴岡八幡宮の別当にしてやったのも政子です。
政子が目をかけてやった者が、次男を殺すという事態になったのです。
亡き夫、頼朝との間にできた四人の子供、全員不遇の死、しかも皆十代、ないしは20代の死です。最後の子供である次男の実朝は、長男、頼家の子、すなわち政子が目をかけてやった孫に切り殺されるという肉親による暗殺、すなわち尊属殺人です。政子にとっていたたまれず、とても耐えられそうもない事件です。
この時政子は、63歳。現在の63歳とは違います。体力的には現在より衰えているはずです。病気で寝込んでしまったり、あるいは認知症のようになったとしてもおかしくありません。それでも政子はこの試練を乗り越え立ち直るのです。その立ち直った政子にさらなる大試練が待ち構えていました。(次回に続く)
[引用終了]
次回は「鉄の女」北条政子(2)として2009年2月1日に公開されていますので、全文を引用し次の土曜日、2016年7月2日に再公開します。



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