Archive for 大東亜戦争の詳細

日米の歴史と文化を語る(6)

チェロキー族の「涙の道」(The Trail of Tears)
欧米白人がアメリカ大陸に進出以来、数多くのアメリカインディアン部族が武力抵抗を試みてきた。1890年(明治23年)12月29日サウス・ダコダ州のインディアン居留地、ウーンディッド・ニーで武装したスー族の一部が、アメリカ第七騎兵隊に包囲され、武装解除して降伏した。ところが、どこからともなく出た一発の銃声をきっかけに虐殺が始まったのだ。犠牲者約300人、そのうち女、子供は約200人。これが最後のアメリカとアメリカインディアンの武力衝突になった。これ以後アメリカインディアンの武力抵抗はなくなってしまった。アメリカ軍によって完全に武力制圧されたのです。アメリカという独立国ができてから115年後のことであった。アメリカインディアン各部族の悲劇の物語は色々な本に色々書かれていますが、私が一番胸を打たれるのはチェロキー族の悲劇です。
チェロキー族は、現在のジョージア州とアラバマ州を根城にする部族でした。チェロキー族も最初のうちはアメリカ人に武力抵抗をした。しかし決して勝つことのない戦いで広大な土地を失っていった。そこでチェロキー族は武力抵抗をやめ、アメリカ文明を学び、実践していったのです。
まず1820年前後にチェロキー国家、即ち独自の政府を設立したのだ。1820年代のチェロキー国の発展にすさまじいものがあります。セコイアという一人のチェロキー人がアルファベッドに似たチェロキー文字を作り出したのです。1825年新約聖書のチェロキー語訳完成。さらに1827年英語、チェロキー語を使用して成文化された憲法を制定、1828年には英語とチェロキー語を併載する週刊新聞「チェロキー・フェニックス」を発刊したのだ。その社説には次のような事が誇らかに述べられていた。
「わが国の法律、公文書及びチェロキー人民の福祉状況に関係ある事柄は、忠実に英語とチェロキー語両語で出版されるだろう。」
このチェロキー国の発展の影にモラビア教団の宣教師たちの活躍があったのです。しかしジョージア州当局はチェロキー国の発展を望まず、政府に働きかけてチェロキー族を一掃しようとします。また州当局はチェロキー族の土地の買収を企てます。チェロキー国は、個人の土地売買を禁止し、もし違反の場合死刑という法律を作って抵抗します。チェロキー一族の団結は固いとみた州当局は、いくつかの嫌がらせをするのですが、そのうちの一つが「チェロキーランド宝くじ」です。この宝くじの内容を簡単に言えば、私の住所が、かりに1-2-3としますと、この番号をひいた白人は私の住んでいる土地と家がその白人のものになるというのです。実にたちの悪いいやがらせです。
1892年ジャクソン大統領は、国会施政演説でジョージア、アラバマ州内のチェロキー族の独立国家を認めず、彼ら全部をミシシッピー川以西の地に移す法案を提出することを発表した。1830年にはジャクソン大統領提案の「インディアン強制移住法」が可決成立してしまった。そして運悪く1830年代にチェロキー国内で有望な金山が発見された。
そしてとうとう1838年5月23日が、チェロキー国、全国民のオクラホマ居留地移住の日と決められ、ジャクソン大統領の署名がなされた。その移住日にまにあわせるために合衆国政府は、急造の強制収容所を作りチェロキー族を押し込めた。ところが実際の本格的移住はその年の秋ごろになってしまった。すなわちおよそ半年間強制収容所に押し込まれた生活をよぎなくされた。合計およそ16、000人のチェロキー族をオクラホマ州に設置された居留地に強制移住させるには、膨大な費用がかかりますが、その費用はすべて政府が持ち、実際の運送は入札に参加した業者にやらせたのです。業者は政府からおりるお金をすこしでもピンハネするために毛布の枚数、食料の量、幌馬車の数など減らすことのできるものはあらゆるものが減らされた。オクラホマの居留地およそ1300キロ、道中は難渋をきわめた。食料不足による栄養失調、冬の寒さ、コレラや天然痘など伝染病などで次々病人や死者が出た。死者が出たところで埋葬のために行進は止まることはなかったのです。死者はその場で捨てられました。運送業者は、チェロキー族の死を歓迎した。一人でも死ねば、その分費用がうくからです。目的地に到着した時、正確な死者の数はわかりませんが4,000人と言われています。4人に一人が死んだのだ。このチェロキー族の強制移住を「涙の道」(The Trail of Tears)と呼ばれています。

1838年12月、まだチェロキー族の飢えと寒さと疲労の長い嗚咽の列がオクラホマに向かっている時、ワシントンの国会では大統領、ヴァン・ビューレンが白々しい報告を行っていた。
「私はここに国会に対し、チェロキー・ネイションの、ミシシッピーの西の彼らの新しい土地への移住の完了を報告することに、心から喜びを感ずるものであります。さきに国会において承認決定されました諸方策は、もっともな幸福な結果をもたらしました。現地の米軍司令官とチェロキーとの間の了解に基づいて、移住はもっぱら彼ら自身の指導のもとに行われ、チェロキー達はいささかのためらいを示すこともなく移住をいたしました。」
これはアメリカの大統領は、議会でもうそ、でたらめを平気で語ることの証明です。
アメリカ政府は、およそ20,000人にも満たない小国すら認めようとしなかったのです。チョロキー族は、自分たちの文字を作り、英語を学び、アメリカ政府と協調するためにあらゆる努力をしたがむくわれることはなかったのです。なぜか?それはインディアンが有色人種であり異教徒だからです。アメリカ政府が有色人種であり異教徒である人たちを対等に扱いはじめたのは1960年代に入ってからです。
このチェロキー族の悲劇「涙の道」(The Trail of Tears)の物語は、一般のアメリカ人の間では常識にはなっていません、しかし大東亜戦争時の「バターン死の行進」は、日本軍の残虐行為としてアメリカ人の常識のように知られています。「バターン死の行進」とは、フイリピンのバターン半島の戦場でアメリカ兵とフイリピン兵、合計7万6千人が捕虜となり、鉄道のあるサンフェルナンドまで90キロを夏の炎天下に歩かされたので多数の死者が出た事件のことです。1970年制作のアメリカ映画に「フラップ」という作品があります。この映画は1971年に日本で「最後のインディアン」で上映されています。私の年代ならおそらく誰もが知っているメキシコ系アメリカ人俳優、アンソニー・クィンがアメリカ兵として第二次大戦従軍の経験があるアメリカインディアン役を演じています。その映画のセリフのなかで彼がこう語っている場面がある。
「(チェロキー族の)「涙の道」に比べりゃ、バターン死の行進なんざぁ、そんじょそこらのピクニックみてぇなもんだ。」
それそうでしょう。夏の炎天下に歩かされた距離がおよそ90キロ、捕虜の米比兵は
手ぶらで歩き、護衛する日本兵は、20キロの完全装備で歩くのだから日本兵は苦しい行軍をしいられ、日本兵にも犠牲者も出たほどだ。当時日本軍にとってトラックは貴重品で捕虜何万人も載せるトラックなどなかったのだ。それがチェロキー族にいたってはオクラホマ州居留地まで健常者は1300キロも歩かされているのだ。まさしく90キロの「バターン死の行進」がピクニックに見えるわけです。

このチェロキーの「涙の道」(The Trail of Tears)は、拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の第六章アメリカの侵略主義、第一節インディアンとの戦争(136頁)からの抜粋です。この本が出版されたのが2004年ですが、当時「フラップ」というアメリカ映画で、アメリカインディアン役のアンソニー・クィンの台詞は承知していたのですが、日本でどういう題名で上映されたのか、全くわからなかった。現在では「最後のインディアン」という題名で上映されたのもわかるし、映画の内容も知ることもできます。10年以上前とはネットのウイキペディアもずっと進歩しているのですね。

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『戦争を知らない国民のための日中歴史認識』



平成22年1月に「日中歴史共同研究第一期報告書」(以下『報告書』)が公表された。この日中歴史共同研究の構想は平成17年の小泉内閣の町村外相の時に始り、平成18年10月に安倍首相のシナ訪問中に胡錦濤国家主席と会談し、日中有識者による歴史共同研究を年内にたちあげることで一致。同年翌11月、APEC閣僚会議の際の日中外相会談において、歴史共同研究の実施枠組について合意。同年12月両国10名の委員の初会合が北京で行われた。この共同研究には、日本側は、日本国際問題研究所、シナ側は中国社会科学院近代史研究所にそれぞれ、事務局を設置し、(古代・中近世史)分化会と(近現代史)分化会とに分かれて、共同研究が開始された。この研究の「報告書」が平成22年1月に公表され、その報告書を基にしてタイトルにある『戦争を知らない国民のための日中歴史認識』、「日中歴史共同研究(近現代史)を読む」という長いタイトルの本を平成22年12月に勉誠出版から出版したのが都留文科大学名誉教授、笠原十九司である。笠原は本書の中で自分の文章以外に下記8人の学者の文章を載せています。
1.石田勇治  1957年京都府生まれ、東京大学大学院総合文化研究科教授。
2.大日方 純夫 1950年長野県生まれ、早稲田大学文学学術院教授
3.川島真  1968年東京都生まれ、東大大学院総合文化研究科国際社会科学准教授    
4.北岡伸一 1948年奈良県生まれ、東京大学法学部教授
5.斎藤一晴 1975年山形県生まれ、明治大学、都留文科大学、関東学院大学講師
6.庄司潤一郎 1958年東京都生まれ 防衛研究所戦史部上席研究官
7.歩平 1948年 北京生まれ、中国社会科学院近代史研究所所長
8.毛利和子 2010年4月、早稲田大学名誉教授

この学者たちの生年月日を見ると一番若いのが斎藤一晴(大学講師)、1975年生まれ、まだ41歳です。これからは人生100年といわれ、人生90歳としても彼の今後の人生まだ50年もあるのだ。今から親シナ反日の歴史観にひたっていて、今後50年間も一党独裁のシナ政権が存続しているのだろうか、ソ連の一党独裁政権のように崩壊するのではないかという懸念もあるのです。斎藤一晴は、度胸のいい男か、バカな男かのどちらかでしょう。

日中共同研究の「報告書」が詳細に語られているこの本は、結論すれば、内容があまりにもバカバカしく、反論するには、これと同じ位厚い本を書かねばならなくなります。そこでシナ側の報告書の内容点検より、この本で考慮すべき問題点を挙げてみました。
AA.一党独裁政権、シナ政府の主張する近現代史はうそばかり。
共産党一党独裁のシナ政府(中華人民共和国)が建国したのが1949年10月10日、設立わずか67年。要するにシナ政府は、共産党政権の歴史や内幕を着飾る必要があるのだ、例えば「毛沢東は、人類史上最も多くの人間を虐殺した指導者」と言われています。このためこの種の話は公にすることはできません。そのせいもあるのでしょう、シナ政府はできるだけ外国政府、特に日本からいじめられたことを強調しなければなりません。それに加えてシナ民族特有の作り話があります。うそを平気ででっちあげる、そのために偽の資料を作るなど信用させるための状況、資料操作を平気で作り、必要であれば豪華な建造物まで(南京大虐殺記念館)など平気で建設するのだ。現在のシナ政権にとって、国際条約、国際司法裁判も、道理も、理屈もすべて関係なし、すべて自分勝手。また共産党一党独裁政権も今後50年続くかどうか誰も予測できない難しさがあります。それなのになぜ安倍政権は、日中間の近現代史の共同研究しようなどと呼びかけたのか全く理解できません。

BB。「報告書」を本に書いた笠原十九司。
(1)。笠原は都留文科大学教授を経て、1999年より南京師範大学南京大学虐殺研究センター客員教授、2000年より南開大学歴史学部の客員教授を務める。現在は韓国の東北アジア歴史財団やピースボードが主催する国際教科書会議の日本側代表として参加している。」彼は「南京事件」で写真誤用問題を起こしている。ウィキペディアを引用すると、
「1998年、笠原は、前年11月発行の著書「南京事件」三章の扉の写真として、米国のスタンフォード大学フーバー研究所東アジア文庫で閲覧した「日寇暴行実録」(中国国民政府軍事委員会政治部、1938)に掲載されていた写真を、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち」のキャプションで掲載した。(原典のキャプションは「江南地方の農村婦女が、一群また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、凌辱され、輪姦され、銃殺された」というものであった。しかし、この写真は実際には「アサヒグラフ」昭和12年11月10日号に掲載された「我が兵士(日本軍)に授けられて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群れ」という写真であることが秦郁彦氏より「産経新聞」ならびに「諸君!」において指摘された。笠原は、朝日新聞カメラマンが撮った写真を中国国民政府軍事委員会政治部が悪用したものであったことに気づかず自ら誤用したことについて、秦郁彦に謝意を表し、撮影者の故熊崎環カメラマン、朝日新聞、読者に謝罪した。これを受け、岩波書店も同じページに「読者の皆さまへ」と題した謝罪文を掲載して出品を一時停止し、笠原と相談の上で『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター、1987年)の日本兵に強姦されたという老婆の写真に差し替え、初版本の取り換えにも応じた。)
自虐史観を主張する学者やジャーナリストたちは、日本を貶める材料があれば、検証することもなく、なにでも飛びつき、日本を叩くことを生業にしているのだ。笠原十九司はその一人です。彼は信用ができないのだ。

(2)。その笠原が「戦争を知らない国民のための日中歴史認識」という本を書いているのだ。笑わせるではないか。この本の53頁で笠原は、こういう事を書いている。
「この歴史共同研究自体は2006年、当時の安倍首相から提起したことですが、その安倍氏は、公然と「新しい歴史教科書をつくる会」以下「つくる会」の中学校歴史教科書を支援して日本の侵略戦争を否定すると言う官民一体の運動を、憲法改正の動きと連動させて行った中心的な人物だったわけです。その結果、中国で抗議運動が起こりました。ところが
今回、安倍氏自身が提案した共同研究が、逆に安倍内閣が進めた教科書攻撃や『つくる会』教科書運動を否定する結果になったわけです。そういう意味でも、日本政府はもちろん、国民もこの共同研究の経緯と結果をきちんと受け止めておく必要があると思います。」

この最後の文章はうそです。私は「つくる会」のベテラン会員だから知っているのです。日中歴史共同研究の報告書は、中国側の学者の意見と日本側学者の意見を述べ合ったものです。どちらの意見も相手側政府や国民への拘束するものではありません。私は中国側の報告にも、日本側の報告にも猛反対です。安倍首相自身も中国側意見に反対なのです。証拠をお見せしましょう。平成23年とは、教科書採択戦の年でもあり、平成22年1月に「日中歴史共同研究」の報告書が公表された翌年のことです。その平成23年に安倍氏は、「つくる会」の機関紙『史』三月号に「つくる会」への支援メッセージを載せているのです。安倍氏の文章は長いので、鈴木敏明著「保守知識人を断罪す」(つくる会)苦闘の歴史」(総和社)P178-P181を参照してください。安倍氏のメッセージには、こういう文章もあるのです。
「政府の要職に就いて尚、学生時代に刷り込まれた自虐史観に拘泥する結果、中国や韓国の圧力に抗し得ず膝を屈した結果であり、亡国の判断に他なりません。改めて教育の重要性を認識させられる事象です。」
どうですか、笠原よ、あなたもシナや韓国の圧力に屈して亡国の判断をして、日本を貶めている人なのです。韓国やシナにシッポ振って、韓国やシナに忠実に貢献することが笠原の生業なのです。安倍氏の文章は、最後にこういう文章で終わらせています。
「長年に亘って地道に教科書の改善に取り組む「新しい歴史教科書をつくる会」の活動は大変有意義で感謝と敬意を表します。今後とも一層の成果をあげられますよう期待します。」
教科書問題にたいしては、安倍首相は、中国側の報告書など眼中にないのだ。

CC。日本歴史学協会の問題点
全国の歴史学会と個人会員からなる歴史学会を代表する組織が日本歴史学協会です。日本学術会議の史学委員会へ委員を出しています。この会に所属する会員たちは、ほとんど歴史の先生たちです。その先生たちに大きな二つの問題があるのです。
1.歴史の先生たちは、文章を書くのがへたなのだ。
私は定年後「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の原稿を書いていた。また地元の図書館では高校の歴史の先生をやっていた人の近現代史の講義を受けていた。当時の先生は、たしか拓殖大学の非常勤講師もしていた。講義の内容が面白いので長年参加し、時々受講者たちと先生との慰安旅行も参加し、先生とも懇意になった。そのうちに私は「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を出版し、その一冊を先生にさしあげた。先生は「いい本を書きましたね。」と私に言った、しかし他の受講生には何も言わなかった。先生は、これは先生が書いたものですと彼の二冊の歴史本をくれた。読んで私は驚いた、へたくそな文章、ねむくなる文章なのだ。自分びいきになって申し訳ないが、先生は私の「大東亜戦争は、アメリカは悪い」を読んで、その読み安さに驚いたのではないでしょうか。歴史を学んだこともない人間がいとも簡単な文章で書き上げてしまったのだ。私の先生が他の受講生に私の本について一言も語らなかったのはそのせいだと思った。其の後定年退職した歴史の先生たち数人にお会いしているが、自分は文章がへたなので本を書かない先生たちが多いいのを知った。歴史教科書の本は書けても、ほかの文章になるとダメなのだ。何故か?
歴史の先生たちは、先輩先生の論文などばかり読んでいるから、いつか自分の論文書くとき、無意識のうちに硬い文章になってしまうのだ。その上自分は知識人と思っているからかっこいい文章にしなければと思いこみ、難しい言葉を使い堅苦しい文章になってしまうのだ。ところが歴史を専門に学んでいない先生など、たとえば西尾幹二氏や渡部昇一氏など、沢山の歴史書を書いているが、沢山の読者に読まれています。二人の先生がたの文章が上手で読みやすいからです。歴史の先生たちの書く本は読みにくくてしょうがない。笠原十九司の書いたこの本、『戦争を知らない国民のための日中歴史認識』(「日中歴史共同研究<近現代史>」を読む)は実に長たらしいタイトルで、しかも堅苦しい文章だ。せっかく多くの国民に読ませようと思って書いたのだが、笠原の文章では、ほとんど買手がつかないでしょう。

(2)日本歴史学協会は、新興宗教団体。
この会の特徴は、会員のほとんど自虐史観の人たちです。自虐史観の歴史家たちは、歴史家というより新興宗教の信者と言った方が的を射ていると思います。
読者の皆さん、彼らがどんな新興宗教を信じているのかご存知ですか。東京裁判史観を絶対視する「東京裁判教」のことです。彼らは「東京裁判教」をかたくなまでに絶対視しようと心に決めています。そのため、戦後しばらくしてから、東京裁判史観を批判する色々な歴史本や歴史関係の資料が出版されてきましたが、彼らはそれらを読もうともせず、読んでも読まないふりをしたりして無視しています。例えば「南京虐殺事件」、東中野修道、田中正明、鈴木明、冨澤繁信、阿羅健一、北村稔の諸氏らの日本側研究者が自らの命をかけるようにして調べ上げて東京裁判の判決を否定した。彼ら研究者は、その研究を本にして出版した。しかし日本歴史学協会は徹底して無視した。この『報告書』のなかでもシナ側は、「南京大虐殺」を徹底して主張したが、日本側は、シナ側の主張をそのまま認め、虐殺者数だけ異議を唱えるだけ。上記の南京事件研究者の功績は、一切無視です。外務省も同じ見解を内外に発表しています。大東亜戦争を世界史的視野で見てください。1492年コロンブスがアメリカ大陸発見以来以後500年間は、白人国家が世界の有色人種国家を次々と植民地化し、有色人種の人権を侵害し、殺戮した。日本もその危機に陥った。そして白人国家に抵抗し戦った。日本は敗戦後、世界を侵略続けた白人国家から侵略国と裁かれた。戦後は世界の有色人種国家が次々と独立した。日本のお蔭です。白人国家は、日本を裁けるのでしょうか。シナ人や朝鮮人は有色人種解放に一切役立たなかった。ところが日本歴史学協会は、その東京裁判史観に疑念を持たず、徹底して神聖化し、東京裁判史観以外の歴史観をかたくなに信じようとしないのだ。最近アメリカのバイデン副大統領が戦後の日本憲法はアメリカが作ったと公言しても、まだ日本が作ったものと主張している。ここまでくると新興宗教と同じでしょう。ここ数十年色々な歴史的資料が発掘され、戦後直後は出版されなかった歴史本が数多く出版された。現在は私のように、歴史を学ばなくても、これらの本が沢山読める、そのため自ら「近現代史研究家」と自称している人が沢山いる。ところが日本歴史学協会の人々は、これらの本を読まず、読んでも徹底して無視し、近現代史研究家を「歴史修正主義者」と呼び軽蔑しているのだ。なぜ「東京裁判教」を信じている歴史の先生たちが多いのか。その原因の多くは、外務省にあるのです。外務省のほとんどが「東京裁判教」の信者たちだからです。

DD。外務省は「害務省」
「日中歴史共同研究」の日本側の報告書の作成に関わったのが外務省の外郭団体である日本国際問題研究所です。外務省のOBが必ず理事長になる日本国際問題研究所(JIIA)は、The Japan Institute of International Affairs と言い、世界シンクタンクランキングでは 世界15位でアジアではトップというのだから、驚きのいたりだ。なにしろこの組織は外務省特有の「東京裁判教」の信者の集団なのだ。中曽根内閣時の国会答弁で、外務省の小和田恆は「日本外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交」と発言し世間を騒がせた。こういう発言をしてくれるから欧米諸国は、彼を平成21年に国際司法裁判所所長に任命した。日本人の所長は初めてです。外務省には国賊が目白押しにいるのだ。この小和田が日本国際問題研究所の理事長をやっていたのだ。
平成13年、「つくる会」は扶桑社から出版する「新しい歴史教科書」と「新しい公民教科書」で文科省の検定合格を取得した。その時、元外務官僚で元インド大使の野田英二郎は、当時日中友好会館副会長であり文科省教科用図書調査審議会委員であった。野田は「つくる会」の「新しい歴史教科書」は一発で不合格にすべきと各委員に迫ったことが産経新聞にスクープされ解任された。この事件により教科書検定審議会から外務省関係者が排除された。
このように外務省は、ほとんど売国奴、国賊、東京裁判教の信者の集まりなのだ。
東大法学部教授、北岡伸一は、日中歴史共同研究の日本側座長を務めた男です。笠原はこの本の中で北岡伸一が書いた『外交フォーラム』(261号、2010年4月)を引用しているが笠原の本の235頁にこう書いています。
「便衣隊についても、本来は兵士は軍服を着たまま降服すべきであるが、軍服を脱いで民衆に紛れようとしたから殺してもよいというのは、とんでもない論理の飛躍である。」
北岡はアホか、彼はハーグ陸戦法規を読んでいないのだ。まさか笠原も読んでいないのではないでしょうね。この北岡がJICA(ジャイカ)独立行政法人 国際協力機構の理事長なのだ。資本金7兆8771億円、2015年の予算執行額は1478億円、大組織の理事長です。たかが東大法学部教授の北岡のどこに理事長になる資格があるというのだ。彼は正真正銘の国賊です。こうした状況だから、日本歴史学協会の人たちは、かたくなに「東京裁判教」を信じるのです。そして定年前後になれば、先輩たちのはからいで大学や外務省関係の外郭団体にもぐりこんでいい思いをするという人生設計ができあがっているのです。
これに対して外務省にたいする私たち在野の保守陣営は、外務省に苦情をつけるどころか、ほとんど何もしません。デモさえめったにおしかけません。それどころか元外務官僚の講演をよく聞きに行き、出版物をよく読みます。私は外務省の一般職を退官した元役人に対して「つきあうな」などとは絶対に言いません。しかしエリートの外務官僚には、私たち在野の保守の人たちは、あまりにも甘すぎませんか。元外務官僚とは絶対「つきあうな」と言いたい。いくら保守的な考えだろうが関係ありません。彼らは現職のときには、外務省改革には爪の垢ほども役だっていないのです。外務官僚は退職したら、世間では保守陣営から全く相手にされないという恐怖感をあたえねば外務省の改革はありえません。私は元外務官僚の講演など一切聞きに行きません。私ひとりでは微力なので、みなさんもまねていただけたらと思っています。チャンネル桜の水島社長には、元外務官僚などテレビに登場させるなといいたい。 

EE。「南京虐殺事件」
「報告書」の個々の歴史問題については、ここでは反論しません。しかし「南京虐殺事件」では、両国とも詳細に書き、日本はシナの主張をそのまま認め、但し虐殺数だけははっきりしないというだけのバカげた反論しかしていません。私はここで「南京虐殺」は絶対なかった証拠を提供します。平成20年5月、シナの胡錦濤国家主席が訪日したおり、南京事件の真実を検証する会委員一同が胡錦濤国家主席に公開質問状を提供しています。

一。故毛沢東主席は生涯にただの一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後の延安で講義され、そして『持久戦論』としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみです。
30万市民虐殺などといういわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?

二。南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝処を設置しました。国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によりますと、南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300 回の記者会見を行い、参加した外国人記者、外国公館職員は平均35名と記録されています。しかし、この300回の記者会見において、ただの一度として、「南京で市民の虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていないという事実について閣下はどのようにお考えになりますか。もし本当に大虐殺が行われたとしたら、極めて不自然で不可解なことではないでしょうか?

三。南京安全区に集中した南京市民の面倒を見た国際委員会の活動記録が『Documents of the Nanking Safety Zone』として、国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の英国系出版社から刊行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領一か月には25万人と記録されています。この記録からすると30万人虐殺など、到底あり得ないとしか考えられませんが、閣下はいかがお考えでしょうか?

四。さらに『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害と注記されています。この記録と30万虐殺という貴国の主張とは、到底両立し得ないと考えますが、閣下はいかが思われますか?

五。南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の屠殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。しかし、その後の科学的な研究(『南京事件の「証拠写真」を検
証』(東中野他・草思社)など)によって、ただの一点も南京虐殺を証明する写真は存在しないことがあきらかになっております。もし、虐殺を証明する写真が存在しているのでしたら、是非ご提示いただきたいと思います。そのうえでの検証させていただきたいと思います。
以上述べました五つの点は南京で大虐殺があったなどということを根本的に否定しているものとわれわれは考えざるを得ません。
上記五つの点につきまして、閣下のご見解を承ることができれば幸いです。この問題は多くの日中国民の関心事と考えますので、公開質問状として提出させていただきます。子々孫々までの日中友好を願うものとして、閣下のご高配を、衷心から期待しております。
平成20年5月5日 南京事件の真実を検証する会委員会一同。
(参照:「大東亜戦争は、アメリカが悪い」鈴木敏明著、勉誠社597頁―610頁)
上記の文章は和文ですがシナ語と英文の文章を送っていますが、いまだに返答はありません。

このブログのタイトルにあるこの本の著者は、学者の笠原十九司だが、ウイキペディアによると彼は「南京虐殺事件」に関する本を彼自身の著書と共著で10冊も書いているのだ。
笠原にはぜひこの公開質問状に答えてもらいたい。彼の住所がわかれば、このブログのコピーを郵送したいくらいです。
       


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私の講演案内



日本再生研究会「ハナミズキ」 第26回勉強会
テーマ    「大東亜戦争は、アメリカが悪い」
      大東亜戦争への道になったワシントン会議
講師   鈴木 敏明(新しい歴史教科書をつくる会会員)
日時   平成28年2月22日(月)
会場   参議院議員会館 地下107会議室
     千代田区永田町2-1-1
     最寄駅:永田町駅 出口3(半蔵門線・南北線)
              出口1(有楽町線)
会費   500円

*午後1時から、参議院会館ロビーにて入館の為の通行証をお配りします。詳細のお問い合わせは宮原好子までお願いいたします。連絡先:日本再生研究会 宮原好子
090-9478-1002

ご参加希望の方へ
資料作成の都合上、できれば前日までに連絡いただきますと有難いです。当日参加できるようになった方も、いらっしゃる前にお電話ください。

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渡邊望著「大東亜戦争を敗戦に導いた七人」



9月19日にえんだんじのブログで紹介した林千勝著「日米開戦陸軍の勝算」の林氏は50歳代前半、今度の渡辺氏は40歳代前半、二人とも実に若々しい期待がこめられる作家です。渡辺氏は大東亜戦争敗戦の責任者として七名をあげています。山本五十六、米内光正、瀬島隆三、辻正信、重光葵、近衛文麿、井上成美。彼はこの七人の敗戦責任罪状を説明し、同時に七人の人物像を書いているのだが、この人物評がうまい。何人もの人物像を書く場合、私に言わせれば著者の人物自身が非常に素直であることが大事なのです。そうでないと描かれた人物像がゆがんでしまうからです。この本も新書版同様にわずか231頁の小作品だが非常に読みやすい。えんだんじお勧めの作品です。
この本に描かれた7人の敗戦責任者のうち次の二人について私なりのコメントを付け加えてみました。
瀬島龍三
本書に詳しく説明されているが、瀬島は、非常に重要な二つの電報を握りつぶして大本営に伝えなかった。これはかれの仕事の範囲で握りつぶしが行われた行為でなく越権行為だった。この二つの握りつぶしが後に日本政府と日本軍に取り返しのつかない悲劇が訪れることになるのだ。終戦直前の7月瀬島は大本営参謀から満州の関東軍参謀に転勤になり、以後11年間にわたりシベリヤに抑留された。その期間のうち1947年から1950年までの3年間、彼はどこの収容所にいたのか全く不明。瀬島自身も全く語ろうともしないので不気味な期間なのだ。戦後はソ連のエージェントと言われていたので余計に不気味な期間なのです。
私は、若い時から苦労した苦労人だが、私は神や仏、すなわち宗教に対して冷淡なのだ。理由があります。私には非常に苦労した人間なら、またその人間が悪い人間でなければ、その人間には晩年になったら苦労が少しでも報われるようにしてあげるのが神や仏の仕事ではないのかという思いがあります。ところ現実には、若い時から血のにじむような苦労しながら、一切報われず悲惨な死に方をする人間がいる。私はその時には例え血のつながり他人でも、その人の運命とか宿命に対して物凄くはげしい怒りや憎しみを感じ、神や仏はいないのかという感情に襲われる。同じような感情の襲われるもう一つのケースがある。
瀬島龍三のケースです。瀬島は悪(わる)です。しかし悪人にも悪人なりの幸運があるのだ。
瀬島は陸軍大学を主席で卒業し、大東亜戦争開戦の前年、29歳にして大本営参謀についている、いわば最高の軍エリートコースを歩んだ経歴を生かし、瀬島流の変わり身の早さを生かしたのでしょう。戦後は伊藤忠商事の会長になり、通常社長になった後会長になるものだが、社長にならずに会長になっている。また中曽根政権のブレーンとしても活躍している。瀬島は、軍隊時代は日本中に名前は知られていなかったが、戦後は日本中で名を売った男なのだ。それもソ連のエージェントとして活動しながらなのだ。それを明確な形で文章化したのが元警察官僚の左々淳行氏です。(左々淳行著「インテリジェンスのない国家は滅びる」海竜社)。この悪の瀬島が長生きし95歳で大往生です。悪人にも悪人なりの幸運があるとはこのことです。だから私は瀬島龍三が憎いのです。

近衛文麿
近衛家は天皇家に次ぐ古い家系で、名門中の名門。五摂家(摂政関白の家柄)、近衛家、九条家、二条家、一条家、司家の筆頭です。明治24(1891)年生まれ。東京帝国大学と京都帝国大学を卒業。戦前は貴族制度があり、25歳になると侯爵としての世襲である貴族議員になる。近衛家の御曹司、長身で貴公子然とした端正な風貌で人気があり、将来の首相として嘱望されていた。43歳の時には、アメリカ訪問しルーズベルトやハルに会っています。昭和12(1937)年の時、第一次近衛内閣の首相になった時が、45歳7か月です。それから敗戦までの昭和20(1945)年までの8年間に三度の近衛内閣が成立。この8年間は日本史上最大の危機と言っていい。この8年間に近衛は3度も政治の表舞台に立ち、例え首相でなくても非常に重要な政治家だった。敗戦の年、近衛は自殺し、自らの命を絶ったのだ。近衛の政治についての批判はいろいろな本に書かれていますが、私がこれから書く事が本、特に歴史本で書かれていることを私は読んだことがありません。他の人は読んでいるかもしれませんが。
私がここで書きたいことは、確かに近衛家は、名門中の名門家系の御曹司です。しかし大学卒業後どこかに就職した経験がないのです。どういう能力があるのかないのかさっぱりわからずに45歳で首相に抜擢されているのだ。マスコミでも比較的自由に物が言えた時代でも、「名門中の名門家の御曹司というだけで、能力があるかないかもわからないまま首相にさせていいのか」という疑問符さえも語られた形跡がないみたいです。大東亜戦争勃発かという時に、近衛のように能力のない男を首相に選んだことは最大の失策なのだ。敗戦時、GHQに取り調べられると簡単に自殺。無能且つ意志薄弱な男だったのだ。

日本の歴史上近衛文麿という悲惨な首相を経験しながら、日本国民は、戦後の現在にいたっても、名門家の出身なら、能力を問わず人の頭に立てるのだ。最近では名門、細川家の御曹司、細川護熙、鳩山家の御曹司、鳩山由紀夫、我々国民は当たり前のごとく二人を首相に迎えいれているのだ。二人とも最低の首相だった。わが国民は、政策の反対デモはするが首相につく政治家への反対デモをしたことはない。日本国民は、家柄をことさら大事にするため、政治家稼業がファミィリービジネスになり、二代目、三代目議員が目白押しだ。我が地元神奈川県では、河野一郎、河野洋平、その洋平のガキが河野太郎、ガキ太郎の大叔父は河野健三。そのガキの太郎が安陪内閣に入閣して、なんと驚くことに国家公安委員長。日本の政治家がどんどん小物化して、この面からも日本の将来が暗いものになる。日本国民に政治見識が全然ないから、日本の将来が暗い物になるのも当たり前でしょう



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ついに「大東亜戦争は、アメリカが悪い」再出版決定。



上記の本を11年前に自費出版した。出版した7月から12月までのわずか5か月間に示された読者の好反響の詳細をえんだんじのブログで「大東亜戦争の思い出」(1)平成27年6月6日、(2)6月20日、(3)7月4日、(4)7月18日と4回続けて書いた。出版一年後の7月に千部(合計三千部)を出版後、半年あまりで出版社、碧天舎が倒産した。倒産した直後では、再出版しようとする出版社がなかなか現れないのはわかるような気がします。しかし倒産後もう10年も経った。また私も有名な保守知識人の紹介を受けて出版社にあたり、本を読んでみてくださいと本を送った出版社も何社かありました。この本は良い本だから読んで貰えれば、再出版する出版社が容易に現れるだろうと思っていたが、全く現れなかった。その原因には、私にあるのだと思いはじめたのだ。私は大学で歴史を学んだわけでもなく、大学どころか私の最終学歴は高卒です。しかも仕事で誇れるほどの経歴も全くなし、要するに一しがない定年サラリーマンに過ぎないのだ。こんな経歴の持ち主が書いた分厚い歴史評論など、いくら出版早々売れたたからといって、出版社の担当者が積極的に読む気になれない、また本も厚いのだ。私には誇る物が何もない社会的経歴では、出版社の担当者に読む気を越させなかったのでしょう。
また一方、私は若い時から色々ハンディーの多い人間、人が五年でできることを自分は10年かければできるだろうと、そのとき私に目がでていなくてもいずれは自分にも目が出てくるだろうと努力してきた人間です。しかしこんな生き方ができるのも若いときだけ。現在77歳になった老人ではできません。死とか病がかってに向こうからやってくるのだ。私の人生の賞味期限もあと10年あまりだ。今年は私の私小説、「えんだんじ・戦後昭和に一匹狼」が出版されるので、80歳ぐらいまでにもし再出版の話がなければ、私の人生の最後の仕事として「大東亜戦争は、アメリカが悪い」をもう一度自費出版しようなどと考えていたのだ。そんな時突然再出版の話が持ち上がったのです。

きっかけを作ってくれたのが、「史実を世界に発信する会」の事務局長、茂木弘道氏です。私と鎌倉在住の渡辺昌明氏と二人で「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を英文翻訳した英文を最終的にチェックして英文版に仕上げてくれた恩人です。その茂木氏が自分の仕事の企画で勉誠出版社の池嶋洋次会長との面談の時、「この本は面白いですよ」と言って「大東亜戦争は、アメリカが悪い」をさしあげてくれたのです。池嶋会長は、即座にこの本をよみ、「これはおもしろい」といって私に再出版しようと連絡してくれました。この本を読んでもらえれば、この本の良さがわかると常日頃思っていたのでやはりそうかと意を強くしました。先月(9月半ば)私は、勉誠出版と出版契約を結びました。そこで私はおよそ10年ぶりでこの分厚い本を最初から最後まで読み直しました。自画自賛しますが、出版当初から好評の投書があったように素晴らしい内容の本だと改めて再認識しました。特別歴史に興味あるわけではない一般の読者に読ませるには、こういう本を書かなければダメだという典型的な本でしょう。実に分かり易い、かといって決して低俗な本ではない。分厚いから読者に飽きがこないように適度に関連した「脱線話」が盛り込んである。読んでもらうには最高、最良の歴史本です。歴史学会に所属する歴史の先生たちは、自分たちの先輩が書いた歴史本ばかりで勉強するから、歴史本は硬く書かなければならないのだと無意識のうちに染み込んでいるのだ。だから堅苦しくて読んでいて眠くなる文体になってしまうのだ。西尾幹二氏や渡部昇一氏の歴史本を見てください。二人は歴史学の専門家はでないため実に読みやすい。自分の思うこと、感じること素直に書けるのです。

この本を読み直した結果、少々変えるところがあったのは南京事件だけです。11年前には発見されていなかった史料が見つかったからです。それ以外はほとんどすべて同じままで、後は改訂版用の「はじめに」と「あとがき」を加えて最出版することにしました。私は定年後これまでに7冊の本を出版してきましたが、例え高くつこうと安くつこうとすべて自費出版でした。しかし今度の再出版は、自費は一切含まず出版社が全部やってくれますので、私としては、生まれて初めて作家のような気分を味わえてうれしい気分です。池嶋会長によりますと、再出版はぜひ年内と主張していますので、多少遅れても来年の1,2月には出版できるでしょう。皆さん、再出版をご期待ください。

最後に「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出シリーズに紹介することができなかったネットでの「カストマーレビュー」の一つを紹介します。これはカナダ、バンクーバー在住の日本人からのものです。
「日本人が誇り高く生きるための歴史観を史実を基に示す。(2005/05/21)
この書は出典を明確にして、日本近代史の重要な事件の持つ本質的な理解を示す貴重な考え方を縦横に披瀝する。支那と米国の反日行動に挟撃され、日本が大東亜戦争に突入せざるを得なくなる事情の描写はすばらしく林房雄氏の名著<大東亜戦争肯定論>と並ぶ程のレベルの高さ。
東京裁判史観や司馬史観に慣らされた人々にとってまさに目から鱗の落ちること疑いない。定年サラリーマンの挑戦と著者は謙遜するが出来栄えには相当の自信があるに違いない。
(おすすめ度:*****)」

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林千勝著「日米開戦陸軍の勝算」(祥伝社)



林氏は、1961年生まれだからまだ50代です。このように若い人が大東亜戦争を研究してくれるということは、私のような年寄にとって非常にうれしいことです。世間では保守知識人の中にも、「いつまでも大東亜戦争の話でもないだろう、もう70年も前の話だ。もういいかげんにしろ」などという人もいる。私に言わせれば、そんなことをいう人を軽蔑してしまいます。私たちは、日本人のほとんど全員が大東亜戦争は、日本が正義で悪いのがアメリカだといのが常識になるまで、戦い続けなければならないのだ。その意味でこの「日米開戦 陸軍の勝算」は日本人の自虐史観を払拭するのに役にたつ一書である。
大日本帝国陸軍は、昭和14年秋、わが国の最高頭脳を集めた本格的なシンクタンク「陸軍省戦争経済研究班」をスタートさせた。わが国に経済国力がないことを前提として、対英米の総力戦に向けての打開策を研究するためです。開戦のおよそ二年前のことであった。この「陸軍省戦争経済研究班」を率いたのが秋丸次郎中佐なので「秋丸機関」と呼ばれ、その研究リーダーは有沢広巳経済学者だった。本書はこの秋丸機関の詳細な計画が語られています。この計画で対米戦に勝てると確信した時点でその勝利計画をぶちこわしたのが真珠湾攻撃を行った山本連合艦隊司令長官だというのだ。いまから20年前ぐらい前、私が定年に近づいたころ、そのころはまだ山本長官は、非常な有名人であまり彼を悪く言う人は少なかったと思う。しかし大東亜戦争の研究が進むにつれて彼を悪くいう人が多くなったと思う。しかし元海軍軍人は山本を悪く言う人は少なかったと思うし、元陸軍軍人は東条を悪く言う人も少なかったと思う。元軍人が極端に少なくなった現在、山本も東条も公平に人物評価ができるでしょう。私の山本評価も実に低い。

戦後になると、帝国陸軍が科学的、合理的であり高度で正確な認識をもっていたことは、米占領軍にとって不都合な真実であった。彼らは、日本陸軍が無謀な戦争へと暴走したものにしたかったのだ。そのため「陸軍省戦争経済研究所」の真実の物語がGHQによって抹殺された。有沢広巳のような学者たち、秋丸次郎のような軍人たちにとって「陸軍省戦争経済研究班」で大東亜戦争の戦略立案に貢献したという事実は、不都合な真実であった。有沢も秋丸も二人とも回顧録をだしているが、「秋丸機関が陸軍に戦争することを思いとどまらせることに努めたにもかかわらず、陸軍がそれを顧みずに開戦へと暴走した」とうそを書いてGHQに貢献しているのだ。有沢は親中派の代表的人物になり、「中国侵略の贖罪」として蔵書二万冊を中国社会学院日本研究所へ寄贈し「有沢弘巳文庫」を設立した。「日本は中国に謝り続け、アメリカに感謝し続けなければならない」のが彼の持論です。東京大学名誉教授、法政大学総長日本学士院長を務め叙勲一等綬瑞宝章、授旭日大綬章などいわば戦後レジームの立役者になり、私の著書「逆境に生きた日本人」に入れたい人物になっていたのだ。祥伝社新書版だから250頁の小冊子です、しかし頁数にしては内容が深い。えんだんじが一読を勧める本である。

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「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出(4)



上記の本の三刷り目(三千部)が平成17年7月に出版された。それからおよそ半年後に出版社、碧天舎が倒産した。この突然の倒産ニュースには、私は完全に打ちのめされた。私はそれまでの本の売り上げのスピードや反響からいって、この本はベストセラーにならなくても、多少とも世間で評判を呼ぶ本になることは間違いないと思っていたからだ。倒産はその夢と希望を完全に打ち砕いた。それだけではない自費出版完結なのに、私にも負債があることがわかった。調べた結果碧天舎が使用していたある倉庫会社が上記の本の売れ残り430冊を抱えこみ、私に一冊400円で売りにだした。買わなければ焼却するほかないというのだ。「焼却」という言葉に憤怒したが、仕方がない交渉の結果私は一冊300円で買い取り、自宅に置いた。私は有隣堂の伊勢佐木町本店と八重洲ブックセンターの本社、この二社と個人契約を結びことに成功した。神奈川県下で私の本に実績があるのは、有隣堂の各支店だった。伊勢佐木町本店に行って神奈川県下の将来性ある作家の卵を支援してやる気持ちぐらい起こしてくれとくいさがった。八重洲ブックセンターは、当時毎年夏ごろになると「大東亜戦争史展」というようなタイトルで特別展を開いていた。あらゆる大東亜戦争関係の本が売られていた。私の本が売られる最適の場所だった。この両社で全部売りさばくのに一年ぐらいかかったと思う。

三刷り目を出版した平成17年に私は、「新しい歴史教科書をつくる会」に入会した。会長が八木秀次氏の時だった。執筆活動が主だったので、もっぱら会費だけを払う神奈川支部の会員で支部の会合には参加しなかった。それから2,3年後ぐらいに「つくる会」本部の総会は、どんなことするのか興味があったので総会に参加した。総会後の懇親会に「つくる会」の最初の会長であった西尾幹二先生が出席していた。私は西尾先生本人の姿を見たのはその時初めてであった。西尾先生が参加するのを知っていたら、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の本を持参してきたのにと思った。私は宣伝のために数人の著名人にこの本を送っていたが、西尾先生の住所を知らなかったので送っていなかったのだ。
西尾先生は著名人なので取り巻き連も多く、私と二人きりで話しする機会はないかもしれないと思っていた。宴たけなわの頃、ふと料理が並んでいるテーブルを見ると西尾先生が一人で料理をつまんでいるではないか、この機会を逃さじと私は急いで西尾先生のそばにかけこむようにして話かけた。
『私は30代後半ぐらいから先生の本を読み、以後先生の出版物は毎回読んでいます。私は高卒なので師という人がいません。そのため西尾先生をわが師と呼んでいます。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を書いたが、西尾先生の住所を知らなかったので送ることができなかった。』等と言ったら「それでは私の所を送ってください」」と言ってくれたのです。本を送って数か月後、西尾先生から私に電話があった。それには私は本当にびっくりした。先生は電話口で、「鈴木さん、あなたはすばらしい本を書きましたね。あなたの参考文献の中には、私がまだ読んでいない本もありましたよ。」
私はこれまで一般読者の賛辞の投稿や言葉を聞きましたが、保守知識人からお褒めの言葉など聞いたことがなかった。それが保守知識人論壇の重鎮である西尾先生からお褒めの言葉を直に私の耳で聞いたのです。私はうれしくてまいあがってしまった。
さらに先生は、「私は坦々塾を主宰しています、二、三カ月に一度くらい坦々塾を開いて私が講演するか、他の先生に講演してもらい、講演後は懇親会を開いているが、良かったら鈴木さんも会員になりませんか。」と言うではないか。
私は喜んで坦々塾の会員になった。初めて坦々塾に参加した時、現役の評論家や大学教授はいるし、その他多士済々ぶりには驚いた。ひょっとして高卒など私一人ではないのかと心配した。西尾先生が、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を紹介してくれたので坦々塾ではかなり売れた。ちょうどその頃私は、展転社から「逆境に生きた日本人」を出版しようとしていた。欲張りな私はこの本の帯にまく宣伝文句を先生から貰えないかと考えたのです。先生からせっかく知遇を得たのにあまりにも早い、ぶしつけな要求ではないか考え込んでしまった。
しかし、本の出版を考えると先生にお願いするにはその時しかなかった。
私は怖々と本の原稿を送り、本に巻く帯の宣伝文句を依頼した。忙しくて時間がないと断られれば、それで仕方がないと諦めるつもりでした。ところが西尾先生は、執筆活動など忙しいにもかかわらず、引き受けてくれたのだ。帯の宣伝文句は、こうだった。
「私は著者の名前を評判をよんだ労作
『大東亜戦争は、アメリカが悪い』で知った。
今度の作品もすばらしい。
戦中戦後、強圧権力の下で示した
日本民族の行動をするどく分析、
我々の猛省をせまる」西尾幹二

本が出版され、この文章が書かれた帯を見た時は、感無量、ただ、ただうれしいの一言だった。私の本に箔がついたのだ。さらに嬉しいことがあった。西尾先生は、この「逆境に生きた日本人」について私に坦々塾で講演させてくれたのです。私が、知的水準が高い人々の前で講演するなんて、私みたいに何も誇る経歴もない、一しがない定年サラリーマンにとってこれほど名誉なことはなかった。私は深く感謝して先生の講演依頼を受け入れた。

坦々塾では懇親会の後、二次会にカラオケに行くことが多いい。先生も参加するので私も参加する。自然と先生と会話することが多くなります。或時先生は、私の文章力をほめたのです。私はびっくりしてしまった。私は先生に正直に話しをした。私は小学校に入学以来定年になるまで文章は苦手と思い、作文で褒められたこともなければどこかに投稿したこともないのです。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を書いたのは、私の本心の怒りから書きあげたものです。
西尾先生の説によると、文章というものは、沢山本を読んで上手な文章を書ける人もいれば書けない人もいる、本など読まなくても文章の上手な人もいる。文章はそういうものなのだというのです。あげくに私の文章には、パワーがある、説得力がある、これからももっと書いたらどうかと言うのです。実にうれしい言葉でした。しかし私は多少おせいじもあるのではないかとも考えていた。そのため私は、その時には、そんなものなのかなと思っていただけでした。しかし今では西尾先生の言葉を信じ、自分にも文章力が多少でもあるかなと思っています。その理由は、私のブログです。このブログは、月に二週間おきに二回書いて、それが今年の10月には満七年を迎えるからです。7年間も二週間おきに書けるということは多少とも文章力があるからでしょう。小学校入学から半世紀、年賀状以外日本文の文章を書いたことのない私が定年後は毎日執筆活動を続けているとは、人生とはわからないものです。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」は、出版社が倒産した時は、最大ショックだったが、西尾先生と知り合いになれたことは最大の喜びであった。
なお、「逆境に生きた日本人」の在庫がまだあります。読んで見たいと思う人は、私のブログにある、お問い合わせコーナーを利用して注文してください。一冊2、000円です。消費税と郵送代はいりません。『「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出』のシリーズは、この回で終わりとさせていただきます。

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「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出(3)



前回のブログでの9通の投書は、2004年7月の本出版後5か月以内に届いたものでしたが、本出版後3カ月以内には電話による講演依頼もあった。その講演依頼は、千葉県のある読者(S)さんだった。彼は元空軍のパイロットの卵だった。終戦直前は、毎日満州で飛行機乗りの訓練に明け暮れていたそうです。このSさんは、私の「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を東京で買い求め、感激した人です。彼は個人で保守の団体を作り(4,50人位の会員数)、そのリーダーになっている人でした。講演依頼は、一時間半、質問30分の合計2時間の講演でした。それを聞いて私はびっくりしてしまった。私はサラリーマン時代、長時間の講演などしたこともない。定年後は執筆活動に追われ、保守陣営の講演なども聞いたこともなかった。講演引き受けるかどうかビビッてしまった。しかしこの講演を引き受けないとこの本の売り込みにも影響がある。女房は私の初めての講演を聞きたいというし引き受けることにした。11月末私は女房を連れJRの千葉駅に着いた。Sさんが迎に来ていた。会場は千葉駅近くの郵便局のあるビルだったと思う。参加者は4、50人ぐらいだった。私には生まれて初めての大講演だった。緊張していたが、無事乗り切った。Sさんは、その後パーキンソン病になり、私との交際は短い期間になってしまった。

懇親会の時、その日たまたま参加していた人が、習志野の空挺部隊の元隊員であった。その彼が私に向かって、「今日の講演内容と全く同じ内容でいいから来年の1月か2月に靖国会館で講演してもらいませんか」と言うではないか。渡りに船と同意し、来年に2月に講演をした。講演の主催者は、ある右翼の団体だった。私にしてみれば、私の講演を聞いてもらい、本が売れるのであれば、共産党でも右翼でもどこでもよかった。遊就館に本屋があること知っていましたから、講演を利用して本屋への売り込みに成功した。講演後の懇親会では、以後長くつきあうことになるノモンハン事変の生存兵の一人、Aさんと出合った。Aさんは、自衛隊には色々な団体があるが、戦前、戦中からあった在郷軍人会の流れを含む、全国組織の神奈川県支部の副会長だった。それから3,4か月後、Aさんから電話があった。A さんの神奈川支部会長のKさんが私の本を読んで大変感激し、ぜひ私に会いたいし、また頼みたいこともあるので、ぜひ、ぜひお会いたい、私の都合の良い日にあわせるから、ぜひ会う約束をしてくれないかという丁重な電話をいただき、横浜駅付近で会うことを決めた。

横浜駅近くのレストランで二人の接待を受けた。紹介された神奈川支部会長のKさんは、終戦時陸軍中尉、終戦時フイリッピン米軍の捕虜収容所にいた。Kさんによると、敗戦時の捕虜収容所の問題は、捕虜間で日本兵の階級意識が保てるかどうかだ。敗戦になったら上官の命令など聞くのがバカらしくなる、部下から侮り受ける、彼の部下も反抗的になり暴力で立ち向かってきた。幸い彼は空手を習っていたので、抑えることができたが、もし自分が負けていたらどうなっていたか皆目わからないと言っていたことを思い出す。
Kさんは、「私がお願いしたいのは、ぜひ私が会長をしている神奈川支部に入会してもらいたい」と言った。理由は、当時では現役の自衛官や元自衛官すら自虐史観の人が沢山いるのが現状。会長は少しでも自衛官を自虐史観から解放したいと思っているのです。それには私の本を読ませるのが最適です、本を読むことがきらいな人もいるでしょう。それには私の講演を聞かせるのです。会長の団体は、戦前の在郷軍人会の流れから組織は全国的につながっています。ぜひ私にも入会して自虐史観からの解放に手を貸してくれませんか。
会長は私の手を借りて、神奈川支部会員全部に大東亜線史観を教え、その後関東地方の各県支部を訪問してこの本の販売と私の講演の支援をしたいと言うのです。ぜひ入会してくれと三顧の礼をもって迎えられたような感じで入会した。

入会してみたが、私は期待外れだと思ったし、K会長、A副会長二人とも期待外れの感を抱いたと思う。神奈川支部の会員たちは、表向きは会長の意見に従っているが実際には、二人の考え(私の本、講演を通じて全国の支部に大東亜戦争史観を広める)に積極的に参加しようとしなかった。私はK会長にお願いして、神奈川支部で講演した。私は神奈川支部の会員たちに私の講演の実力をみせたかったのだ。初めて私の講演を聞いたK会長は、すばらしかった、どこで講演しても恥ずかしくないと言ってくれたが、会員たちにはアピールしなかった。その理由は四つ考えられます。
1.本が分厚すぎて、本好きでないと積極的に読む気にならない。会員たちのほとんどが私の本を読んでいなかった。
2.私が有名な学者や知識人であれば、K会長の言うことを積極的に取り上げようとしたでしょう。しかし、私は無学無名、これといった誇りにできるような経歴なし、一しがない定年サラリーマンに過ぎなかった。
3.K会長とA副会長だけが元軍人であったが、他の会員たちも老人が多かった。老人特有のパソコンを触れない人がほとんどだった。そのため会長、副会長だけでなくほとんど全員、私のブログなど読む人がいなかった。
4.碧天舎が出版一年半後に倒産。本が話題になる機会が完全に失われたこと。

これらの事情のため会長、副会長の計画が空回りしてしまった。それでもK会長は、東京本部の会長から次のような表彰状を書かせ私にくれた。
表彰状: 鈴木敏明殿
「あなたは永年にわたり日本○○○○の使命の重要性を認識されよく連盟の理念を体し防衛思想の普及英霊顕彰並びに歴史伝統の継承助長等日常活動を強化推進し基盤の充実強化に著しい成果をおさめ連盟の発展に多大の寄与をされました。よってここにその功績を称え表彰します。」 平成23年5月18日    社団法人日本○○○○ 会長 T.S.

私は他県の支部での講演を一回もしたことがなく、講演したのは地元神奈川支部の一回だけ、その他この表彰状に書かれているようなこと一度も行ったことありません。それでもK会長もA副会長も、私を表彰状に書かれているように活躍させるつもりができなかったし、私も期待に応えることができなかった。それでも二人は、せめて本部会長から表彰状だけでも渡そうとしたのではないかと憶測しています。現在はもう高齢のため二人とも亡くなっていますが、生前二人が個人の力だけでも私の本が売れるよう最大の努力をはらってくれたことに対しても私は、心からの御礼を申し上げる次第です。

K会長は、元陸軍中尉であったが、私の本に関してもう一人忘れることができない元陸軍中尉がいます。千葉市本八幡に住むIさんだった。Iさんは、本来なら私に投稿したかったのだが、脳梗塞を患い右手と右足が不自由で手紙が書けない、そこで出版社を頼って電話してきたのです。彼は電話口で私の本を絶賛した。彼も大東亜戦争関係の本を数えきれないほど沢山読んでいるけど、私の本の出来が最良だと言うのです。彼は非常な読書家で今でも自宅に三万冊の本があるというのだ。自分はもう年で残り時間が少ないから、私さえ良かったら、この三万冊の本をあげるから受け取ってくれないか、私のこれからの執筆活動に使える本もあると思う。だからぜひ私の家に来て蔵書を見てくれというのだ。我が家には、そんな三万冊の蔵書を置くような場所もないということで丁重にお断りをした。しかし、その後何度も電話してくるようになったのだ。本を譲ることはあきらめたけど、ぜひ私と話をしたいと言うのだ。電話による会話でわかったことは、Iさんはビルマ戦線中に米軍の捕虜になった。彼は戦前アメリカ留学の経験があるので、通訳として働いていたのだ。彼はビルマでは有名な南機関の一員としてビルマ独立義勇軍の編成にも当たったようなことを言っていた。彼の家の訪れることにした。彼は熱心に誘うし、私も面白い話が聞けるかもしれないと考えたからだ。

彼は老夫婦二人だけの生活、彼は脳梗塞で右手、右足が不自由と聞いていたので、私は手土産にお酒より、甘いものがいいのではと思い、虎屋の羊羹を持ってでかけた。本八幡は、秋葉原から総武線で30分ぐらいの所だった。彼の家についてびっくりした。建物は非常に古くなっていたが立派な西洋館で敷地は300坪ぐらいあったのではないか。彼は色の濃いサングラスをかけていた。ジャングル戦で敵の狙撃兵に狙われ、頭部の後ろを撃たれ、その弾が右目から眼球と一緒に飛び出していったというので命が助かったらしい。サングラスをはずしてくれて見せてくれたが、どす黒く非常に怖い顔つきになっていた。挨拶をかわし話し込んだが、まず初めに彼が言ったことは、私の本を読んだとき、もっと早く自分が元気だったときこの本に出合っていたら、この本の売り込みに役立ったのに非常に残念だと言った。それから後は、アウンサン・スーチーの父親、アウンサンの話ばかりだったような気がした。話が一段落して、それでは書庫を案内しようと言って案内されたのが四階だての書庫ビルだった。一階から三階まで三万冊の本がびっしり、四階は彼の書斎になっていたが、脳梗塞後四階にあがったことがないのでしょう、机の上がほこりだらけだった。どれでも好きな本があったらさしあげるからと言うのでハーマン・カーンの本など二、三冊もらった。本棚の中に「千夜一夜物語」があった。アラビアンナイトでしょう。その全集を見て、あんなに連続した説話集だったのかとびっくりしたのを覚えています。彼自身本も書くこともなく、何か研究しているわけでもないのに、ただ読書の趣味だけで三万冊を自宅の書庫を建てて持っているのは全国的にもめずらしいのではないか。息子さん一人いるが全く本に興味しめさないそうだ。彼の家を退去して数日後、幸田露伴全集全44巻が送られてきたのにはびっくりした。幸田露伴の名前は知っていたが、まさか44巻も出版しているのは知らなかった。彼が言うには、私が手土産まで持って訪ねて来てくれた御礼だというのだ。君は苦労しているかもしれないが、幸田露伴も苦労している、九巻を読んで見なさい。幸田露伴の苦労ぶりが書いてあるからと言うではないか。さっそく私は九巻をとりあげて読みだした。残念ながら私には、明治時代の小説家の文体などまったく読み慣れていず、時間がかかるばかりだった。結局九巻を私の書斎に置き、残り43巻全部物置にしまいこんだ。

その後Iさんは、癌になり三万冊の本は千葉の地元の図書館に寄贈、敷地は売って、東京三田のマンションに移り住んだ。私は新しい本を出版する度に、三田に送ってやった。必ず三田からお礼の電話があり、その度に彼は私の文章力を褒め、これからもどんどん書き続けるようすすめるのであった。K元陸軍中尉もI元陸軍中尉も、そしてノモンハン事変の生存兵Aさんも、もう年でこの世にはいないが、三人に「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版の完成を見せることも知らせることもできなかったことが残念でたまらない。彼らには生存中本当にお世話になりました。ただただ感謝のみでご冥福を祈るばかりです。
「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出は次回のブログに続きます。












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「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出(2)




前回のブログで紹介しましたが、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の本を平成16年7月に自費出版した。初版千部印刷しましたが、一年後の平成17年の7月には三刷目の三千部を出版したのです。一介の定年サラリーマンが作者だと考えると全く予想外の売り上げでした。そして三千部出版後半年で出版社、碧天舎が倒産してしまった。売れていただけに私には大変ショックでした。平成16年7月に出版してその年の12月までに、すなわち5か月間の間にこれまで私とは一面識のない人たちからの投稿が続き、計9通も私に送られてきたのです。その全文を紹介しましょう。手紙は、時候の挨拶などは抜きにして本分だけを紹介します。
1.京都、NAさん
大東亜戦争は、アメリカが悪い」を拝読しました。気分爽快です。イデオロギーに左右されず正しい事実をお書きなさっている。当たり前のことですが、著者は日本人であるから御国の歴史・文化に誇りを持ち、民族を愛しておられる。そうして左傾の流行に迎合されることなど微塵も無く、文章が低学歴卒の者にも良く理解されやすい、有難いことです。
私は大正10年生まれ大阪の逓信講習所を経て郵便局に勤め大東亜戦争の開戦二か月後海軍に入り主計兵として昭和17年暮れソロモン海戦に参加、戦病のため18年4月ラバウル発最後の病院船で帰国、回復後特攻隊司令部の下級下士官として大分で終戦を迎えました。第一次、第二次ソロモン海戦には私は同期生とともに参加、小生の部隊、350人位がガ島の北隣のムンダ基地の防空中隊として配備されましたが、小生が18年4月上旬横須賀港に着いた翌日、米軍が上陸、部隊は全滅と聞き、大きなショックを受け、その余韻が未だに残っています。
中村震太郎事件は、小生がまだ小学生の頃で映画を見、歌も聞きました。柳条橋爆破などの小細工をせず、前述の理由で宣戦布告すべきだったとかねがね思っていましたところ、御本に同じ趣旨の記述があったので大いに意を強めることができました。結局幣原軟弱平和外交は、国家の誇りを傷つけることになった。今日の宮沢元首相と性格(政治的識見)がよく似ているみたい。
数え年84歳、モーロクと申しましょうか、ボケがひどく根気がありません。しかし御本を拝読しますと、元気が湧いてくるようです。精神的保養になります。御本が学校教育に活用されたら若い日本人の良い教育になるのにと日夜考えております。

2.弘前市、SHさん
8月7日、紀伊国屋書店でたまたま貴著「大東亜戦争はアメリカが悪い」を購入しました。買った理由は、1500円で720頁と言う膨大な著書に一驚しました。目次を見れば明治維新から現代まで。私は元教員で社会科を教えていましたが、40年ほど前から余りにも近現代史が偏向、反日、自虐の教科書なので数年前から西尾幹二先生の「新しい歴史教科書をつくる会」に参加、その運動にがんばっている者です。
あなたは海外企業で長い間勤務され、全くのアマチュアなようですが、読んでみると専門の学者顔負けのすばらしい内容に、しかも日本人として実に正しい視点で近現代史を書かれていることに一驚した次第です。
戦後の日本、特に歴史学会はマルクス主義の影響が強く、全く連合国の立場いわゆる「東京裁判史観」一辺倒で書かれています。私は戦争中、師範学校在校中、石原莞爾の東亜連盟運動に参加、どちらかというと東条政府に反対の立場でしたが、戦後は全く180度転換し日本の学界、マスコミは左翼系に独占されてしまいました。
一寸脱線してしまいましたが、あなたの第一次大戦以後の幣原外交の誤り、ワシントン会議がいかに日本外交を間違った方向に導いたか、米国の謀略をものの見事に描いている文章には全く感嘆するばかりでした。
別冊「満州国再興」にもあなたと同じ基本線で書きましたが、あなたの資料豊富な研究には頭がさがるばかりです。
まだ半分より見ておりませんが、今後これを機会に文通、できれば上京の節ぜひおあいしたいと思っております。住所と電話をご教示くだされば幸いです。
益々のご活躍を祈ってやみません。御無礼の段平にご容赦下さい。

3.仙台市、SIさん
僅か二日間拝読させていただきましたが本当に詳細に分かりやすく記されてある稀にみる名著かと心から感激いたし驚いています。
支那事変最中からずっと米国軍隊は中立を冒し、支那軍に味方し我が日本軍に戦闘攻撃を続けてきたこと等、到底許されざる卑怯な行動をとってきた。そして米国は不正極まる間違いだらけの支那人を全面的に助け、日本軍を根本から悉くくいつぶしてしまったということが理解できました。戦後59年経過した現在、本書を僅か拝読しただけでアメリカ民族は世界中で最も悪い残虐極まる国民だということが分かったのであります。
残念なことは59年たった敗戦日本人には大部分今でも何一つ分からずアメリカは何より正しい善い国だと甚だしく誤解しております。世界中でこんな愚かな骨抜きで無能な敗戦日本人は存在しない様に考えられます。敗戦後の日本人は全く骨抜きの空人間でしかありません。明治維新から日清日露戦争、満州事変、支那事変、アメリカの中国感、支那事変の泥沼化とアメリカの反応、そして最後に大切な大東亜戦争勃発に至るまで克明に書かれてあり、深く感銘を受けました。本書は稀の見るすばらしく立派な高著かと存じます。こんなにまで詳しく真剣なお気持ち一杯でまとめられた鈴木敏明様に対し、特別感謝の念をもちました。ここに有難く御礼申し上げます。

4.さいたま市、YNさん
世界史的俯瞰をまとめられ、特にアメリカを分析し、大変に良い力作を発表していただきました。初めて知り得た知識も含まれていました。ご労苦に感謝申し上げます。私ども歴史教科書を墨で消し、知識のリセットを体験している者にとって、未だに日本現代史の本当の姿を探し続けています。良い本でした。なお老婆心ながら「日本はなぜ敗れるのか」(山本七平、平成16年角川書店)は目を通していただきたいと思います。また「東京裁判・原典英文版 パール判決書」(ラダビノット・パール 平成11年 国書刊行会)は参考文献に含めてほしいと思います。思いつくままに。

5.春日部市、TKさん
私が常日頃から考えていたことを、そのまま書いて下さったと思います。これだけ本を読み、物を書きながら鈴木さんは、なぜ親米で日米安保条約に賛成なのですか。アメリカが悪いのは大東亜戦争だけではありません。ベトナム以後イラクに至るまで武力を欲しいままにして、横暴な振る舞いを続けています。アメリカの経済・軍事・思想に呪縛されて安保条約に頼り、アメリカ軍の駐留に莫大な費用を支出する「思いやり予算」アメリカは日本を守るために駐留しているのではありません。アメリカ本土を守るため、日本が軍事大国にならないよう監視するために駐留を続けているのです。私たちが昔フィリピンを攻めた時、マッカーサーは味方の兵士を見殺しにして逃げました。体制を立て直してレイテ島に上陸したときから終戦までフィリピン人を利用してゲリラとして戦い、マニラ市民を巻き添えにして多数を殺害しました。今日本にそんなことが起きたらとしたら、アメリカはどこまで日本を守れるか、恐らく逃げ出して、体制を立て直して日本に上陸してくるでしょうけれど、そこで巻き込まれて市民が多数死ぬでしょう。
アメリカは自分の戦争のために一般市民が死ぬのは仕方がないとの信念でやっているのです。日本の国を守るのは日本自身しかないのです。国際的に孤立するのは最悪ですが、アメリカの呪縛から抜け出して精神的独立が必要です。

6.横浜市、IUさん
先ず、第一に貴方の並々ならぬ膨大な過去の資料を基礎に、この著作を書かれたそのご努力に対し、尊敬と賛辞を送りたいと思います。大東亜戦争に負けて、廃墟の中から立ち上がり、一時は世界第二位の経済大国になったと物資至上主義に踊り、バブルを経験し、その挙句最近のデフレ不況からなかなか抜け出せず、21世紀の日本の在るべき姿も描けずに居る今日この頃ですが、私の見るところ日本が拡大成長期に青春を謳歌出来たのは、ある意味では日本が戦争に負けて、ゼロから再スタートした、日本民族の優秀性、戦後の開発銀行による重厚長大産業への積極投資、世界の原油のバレル2ドル時代が続いた事、中国を含め東南アジア諸国の産業基盤が出来ていなかった事などのプラス要因が長期間に亘り続いた事等の幸運に恵まれた事があったと思いますが、若し日本が大東亜戦争に負けず、日本の軍閥政治が続いていたとしたら如何なる国になっていたか?は想像しえず、私は負けた事を良いとは言いたくないが、軍閥が未だに存続しているとしたら、恐らく今日のような良い時代はこなかっただろうと日本はソ連に占領されずにアメリカにまけて良かったと思うものです。
しかし、極東軍事裁判は戦勝国の論理で進められた訳で、勝てば官軍のロジックでの裁判だから、例えば現在のイラクの場合フセインが如何に裁かれるか?注目はしています。
貴方がご自分の 労作を英訳されて世界の図書館に寄贈されると言うお考えは非常に良いと思います。世界の人に、物事には裏表が有るということを知らしめる意義があります。
貴方は外資系の会社に長年働かれたと言う事は外人の物の考え方は、違うと言う事を日常の生活から体得されたものと思いますが、一方日本の政府関係者が外国人の要人と会うと、矢鱈にニコポン外交をして不等に日本の過去を悔いる発言をすると憤慨されますが、その場合、例えば中国、韓国に行った場合、如何なる発言すべきか?代案はおありでしょうか?上記に対してお返事をいただければ非常に参考になります。何よりも貴方の労作に対して私の賛辞を送りたく一文をお送り申し上げます。

7.神戸市、YSさん
「大東亜戦争はアメリカが悪い」の読後感です。ご参考になれば幸甚です。小生は64歳です。おもにP361から最後まで読みました。
●P361 1932年の西暦優先より、元号優先が良い。
●P395 内田康哉伯爵 ― 内田康哉 彼だけ敬称は不公平。
●P409 蒋介石将軍 ― 蒋介石、歴史的用語だから不公平。
●p414 あの悪逆非道の2.26事件 ― 彼らの心情まで誹謗するのは行き過ぎ。
○p466 国民一人一人が、日本人の意識が低いから ― 同感
○p489 国民の意思が政府をしてこの方針を決せしめた ― 同感
○p502 私たちは、国の根源にかかわる憲法でさえあいまいにして平然としていられる民族 ― 同感
○p512 近衛文麿は無能な総理大臣 ― 同感
○p512 細川護熙は、大罪を犯した。日本を侵略国と決めつけたから ― 同感
○p542 日本人は、それが時流であれば、嬉々として大勢に順応する ― 同感
○p544 南京事件は、日本が悪いという烙印を押すため ― 松井岩根司令官を絞首刑にする必要から捏造した。最近は日本から大金をむしり取るためにうそとしりつつ捏造している。
○p547 アイリス・チャンに付け上がらせたのは、日本国民 ― 同感
●p601 昭和天皇の最悪の決断は、ソ連を撃たなかったこと ― 日ソ中立条約を破るような信義に反する行為は、国家百年の千年の名誉にはならない。やせ我慢であっても信義は守るべきだ。
○p644 9.11のテロでアメリカの若者は軍に志願した。現在の日本人は、日本史上最低の意気地のない民族になりはてた ― 同感
○p667 日本民族の欠陥は、権力、権威、時勢に弱い ― 同感
●p672 マッカーサー元帥 ― マッカーサーにすべし。貴兄は判らないだろうが、しらずしらずのうちにマッカーサーと言えば元帥を使用し、ペリーと言えば提督を使う。刷り込みでしょうか。被征服者の悲しいまでの卑屈さのでしょう。元帥は何百人とおり、提督は何十万とおりましょうに。
○p687 日本人は、うぶでバカでお人よし ― 同感
○p696 日本人のように、祖国をいやしめ、辱め、足蹴りにした民族は、世界のどこにもいないでしょう。 ― 同感
○p698 なぜ大東亜戦争と呼ばずに太平洋戦争と呼ぶのか ― 大賛成
貴兄は日本をけなしているのではありません。歯痒い思いをしておられるのです。私も同感です。立派な本を出版され、貴兄はさぞ満足でしょう。多くの国民が読んでくれるならいいのですが、三千冊も無理じゃないかな。今後もご健闘をお祈りしております。

8.鹿児島市 TKさん
「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を読ませていただき感動いたしました。アヘン戦争・ペリー来航から大戦終了までの歴史だけでなく、大東亜戦争の意義まで分析されており、実に分かり易く、日本人としての正しい歴史観育成に適した素晴らしい良書だと思います。現在私は知覧特攻平和会館で語り部をしていますが、最近漸増しつつある外国人に共通して言えることは、それぞれ自国を誇りに思い、親に感謝の念を持っていることです。
私の拙い英語での説明にも日本人以上の感動があり、「カミカゼ」への尊敬の気持ちが伝わってきます。
修学旅行生に話をする時、私は鎖国、ペリー来航、列強の植民地、東南アジアへの進攻、物量VS精神力の戦い、特攻誕生等、一連の経緯に重きを置いていますが、話が終わって生徒でなく先生から「やっとわかりました」等と言われますと、うれしさ半分、情けなさ半分、複雑な気持ちになります。明治以降の近現代史について、日本人として公正な歴史観を養うことは、これから日本を背負ってたつ若い方々の大きな課題でもあり、本書はその期待に応え得る素晴らしい構成と内容であると思います。折にふれまた再読してみます。
鈴木先生、時節柄、ご自愛の上益々のご健勝とご多幸を記念いたします。有難うございました。平成16年9月10日。

9.鎌倉市 渡辺昌明さん
この渡辺氏は、私のブログに何度も登場しましたが、彼が「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文翻訳を手伝い、資金援助もしてくれた人です。その渡辺氏が私にくれた最初の手紙が以下の通りです。
貴著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を拝読し、内容が充実しているのに一驚しました。百五十もの著作を詳細に調べ、千もの記述を選び出し、適切に引用して、大東亜戦争にかんする歴史を公平、正確に叙述した労作で、かってない内容の豊富な著作と思います。その不撓不屈の熱意と努力に敬意を表します。
東京裁判の「パル判決書」(講談社学術文庫)をかって読んでパル判事が国際法的立場で裁判の不当を鋭く批判したのに感動しましたが、今回の著作は遥かに広い範囲の歴史的事実を集めて、従来のアメリカ史観を徹底的に覆している点で「パル判決書」と共に公平な歴史を世に知らしむる強力且つ貴重な史料であると考えます。
本書は日本語で書かれているのが唯一の問題点と思います。お考えの様に、英文にして世界中の人に広く読んで貰い、徹底的に議論する事が絶対に必要と思います。是非英訳に着手し、なるたけ早く完成させてください。英訳しなければ、せっかくの宝が持ち腐れになる恐れが大きいと思います。
出来れば、一度お目に掛かって英訳ほか今後のご活動について色々お話を伺いたいと念願いたします。宜しければご連絡頂きたいと思います。
平成16年秋彼岸の中日。

この手紙をきっかけにして私と渡辺氏とはその後何十回と面談し2013年の秋、英文翻訳を出版。去年の暮れ彼は死んだ。84歳だった。病床で彼は、成人した孫たちに自慢できて本当に良かったと言ってくれたのが忘れられない。この「大東亜戦争の思い出」(3)を次回も続けます。

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「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出(1)



今年は大東亜戦争敗戦70周年ということでマメディアでは色々な事柄が語られたり、書かれたりしています。私は、大作「大東亜戦争は、アメリカが悪い」(A5版、736頁)を、碧天舎から今から11年前に自費出版した。完成するのに6年ほど費やしましたので今から17年前ぐらいには書きだしていた。今から17年ぐらい前というと、現在のfacebookもなく、第一現在大流行のSNSなどほとんどなかったような気がします。だから私が定年後の大きな初仕事として大東亜戦争について本を書くことなど公表することさえできなかった。そこで今回は、なぜ定年後の大仕事として大東亜戦争について書くことになったか、お話しましょう。
私は若い時から政治とか歴史に興味があった。私の若い時の非常に大きな政治的、社会的騒動は、1960年前後の日米安保条約改定の締結だった。1960年代は私の20代、まさに若さあふれる青春時代だ。この時期私は、日本の左翼知識人に猛烈に反発していた。私の最終学歴は高卒です。高卒の私でさえ日米安保条約は、日本にとって最重要な外交政策だと賛成しているのに、日本の左翼知識人は、ソ連など共産主義国を入れた全面的な条約を作れと非現実的な提案をし、大反対したのだ。大学生も苦労もせず親父のすねかじりで大学に入っただけでえらそうな口を聞いて大反対していたのだ。国会前では20万、30万の大デモ活動が行われたのだ。高卒の私でもわかるのになぜ知識人、野党政治家、労働組合、マスコミ、大学生などがわからないのかと私は彼らを罵倒していたのだ。私が正しかっただけじゃない、多くの国民も正しい解釈をしていたのだ。安保騒動のため岸内閣は退陣し総選挙に打ってでた。大国民運動として連日大デモをくりかえしたのに、自民党内閣は、選挙に大敗するどころか、大勝してしまったのだ。当時の政治学者、蝋山正道は、日本国民は日米安保などの外交問題を良く理解できないからだと主張していた、外交問題がわからないのは左翼の知識人なのだ。以来私は、日本の左翼知識人を徹底して軽蔑していった。

これが私の大東亜戦争史観につながっていった。大東亜戦争は、日米間の大、大、大戦争だ。そのような大戦争をしてきたのに、日本だけが悪い侵略国なのか。戦後敗戦国として大東亜戦争における日本側の歴史検証があって当然です。ところが検証など何ひとつせず、日本がなにもかも悪く、アメリカは何時も正義なのだ。こんな大戦争がありえますか。少なくとも日本にも言い分があるだろうと考えるのが常識でしょう。太平洋戦争という呼び名も非常に気にくわなかった。当時、本屋の歴史本コーナーでは、ほとんどが太平洋戦争という名前のつく本ばかりだった。
なぜ我々日本人は、大東亜戦争と呼ばずに、太平洋戦争と平然と呼ぶのか。東大名誉教授の平川祐弘氏に「米国大統領への手紙」という好著がある。彼は戦争の呼び名についてこう書いている。「しかし敗れた戦である。私たちはグアム島をもはや大宮島とは呼ばない。シンガポールを昭南とは呼ばない。日本以外の土地でthe Greater East Asian Warと言う語が通用しない以上、そう言い張ってみたところで所詮、井の中の蛙ではあるまいか。この前の戦争について太平洋戦争というより大東亜戦争という呼び名の方がよく似合う点もありはしたが、私はその部分を拡大して全体を覆うようなことしたくない。」などと延々と続くので後は略します。外国の地名など戦争に負けりゃ元にもどるのは当たり前の話です。
アヘン戦争(The Opium War)は、世界語でしょう。しかしイギリスでは、第一次英清戦争です。「セポイの反乱」はインドでは第一次インド独立戦争。日清戦争は、シナは日本に負けても日清戦争などと呼んでいません。シナの甲午(こうご)の年に起きた戦争だから甲午中日戦争、「ベトナム戦争」恐らく世界中の人がこう呼んでいるでしょう。しかしベトナムでは「アメリカ戦争」と呼んでいます。私が主張したいのは、日本人としてのこだわりはないのかと日本国民に問いたい。なぜ多くの国民が太平洋戦争と呼んで平然としていられるのかというのだ。日本国民は、私にいわせれば優秀な民族であることに間違いないが、国民性は自己主張型より迎合型です。しかも欧米の主張には嬉々として迎合し、従う傾向がある。私は外資系五社を渡り歩いて定年を迎えた。多くの日本人労働者が白人に媚びる姿を見てきた、しかし私は日本人としてのこだわりが人一倍強い人間です。ヴェトナム人は世界中でヴェトナム戦争と言ってもアメリカ戦争といっている。私は、世界中が太平洋戦争といっても、私は死ぬまで大東亜戦争と呼びます。

定年になったら何をしようかなどと考えていた頃、私が59歳(1997年)の時、歴史教科書裁判で名前を売った当時の東京教育大学教授、家永三郎に対する最高裁の判決が新聞に大きく取り上げられた。その時なんとなく家永三郎がずっと以前に書いた「太平洋戦争」を読んでみようと思ったのだ。ずっと以前に彼が書いていたことは知っていましたが、彼と私とは歴史観の違いがわかっていたので読む気がしなかったのだ。ところがなぜかその時読んでみようと思ったのだ。読んで本当に驚いた。それと同時に彼にたして激しい怒りや軽蔑を感じたのです。これがれっきとした日本史の学者が書く大東亜戦争か。戦争というものは一国でできるものではりません。必ず相手国が必要です。また戦争はある日突然起こるものではありません。起こるまでに必ず国際情勢がからんできます。家永は最初から最後まで徹頭徹尾、徹底的に日本を非難し続けるのです。この時私は、定年後最初にする仕事を決めたのです。「よーし。俺が大東亜戦争の本を書いてやる」。自虐史観論に激しい怒りが燃え上がったのです。
大東亜戦争の本を書いてやると決心したのはいいが、はたして自分に本が書けるのかという疑問があった。私は定年前に本など書いたこともなければ投稿したこともない。それどころか文章を書くのは苦手思いこんでいたのだ。それが自分の怒りだけで歴史評論などの文章が書けるのかどうか非常に不安になっていた。以前新聞か雑誌で「本を書く」というようなタイトルの記事があった。誰が書いていたか覚えていません。彼はうまい文章を書こうとは、絶対の思わないこと。原稿用紙に自分の正直な気持ちをこめ、素直に一心不乱に書け、そうすれば例え貧しい文章でも読者は作者の覇気にのまれて読み続けてしまうとそのようなことが書かれていた。よし私も徹底して自分の気持ちをこめ、素直に書くぞと決めた。それでも自分に本など書ける才能があるかどうか不安だったので試してみた。私は「ある凡人の自叙伝」を書いてみたのだ。自叙伝なら自分の思い出を時代順に書けばよいのだから、書けるのではないか、もし書けないようならいくら怒りに燃えても書ききれるものではない、あきらめるほかわないと考えたのだ。私の誕生日は、8月1日です。8月1日で61歳を迎え、その月末8月31日が定年退職日だった。「ある凡人の自叙伝」は、その年の11月に出版した。これで私は「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の文章は書けるだろうと判断した。私が定年後の初仕事として歴史本を書くと決心した1997年から4年後の2001年に私の執筆活動を強烈に刺激する事件が起きた。
2001年1月19日の日本経済新聞に、「ノーベル平和賞、家永氏が候補に、欧州議員が推薦」という小さな見出しの記事がでた。全文を掲載します。
「英国選出のグレアム・ワトソン欧州議会議員(英自由民主党所属、同議会司法委員会委員長)は18日、日本の家永三郎元東京教育大学教授を2001年のノーベル平和賞候補に推薦したと発表した。同議員は、家永氏は第二次大戦中にアジアに起きた事実をはっきりさせるため生涯をささげてきたと推薦の理由を述べた。同賞への推薦は、スウェーデンのノーベル委員会が依頼した世界各国の研究者や議員らが行う。締切は2月1日で推薦された人物を中心に10月の発表に向けて選考が行われる」
家永のどこが世界平和に貢献したというのだ。彼は欧米人に気に入られる歴史書を書いたにすぎない。ノーベル賞に歴史学賞があれば、家永は間違いなくノーベル歴史学賞を受賞したでしょう。大江健三郎も長年海外で戦前、戦中の日本を徹底して非難してきた。それが報われてノーベル文学賞をもらった。このように欧米は、自国に媚びてくる学者を利用して、いまだに大東亜戦争において自分たちが正義だと主張し続けているのです。それに引きかえ日本はどうですか。戦後50年以上も祖国日本を足蹴にして外国に媚び続けているのが現状です。その現状に私の怒りは爆発したのです。私は執筆活動に苦戦していた。多くの人たちに向かって私は大東亜戦争について本を書くと約束したわけでない、書き上げることが私の力では無理とわかったら、さっさと止めるつもりでいた。しかしこの日経の記事をみたら、なにがなんでも絶対に書き上げてやるとさらに決心を強くしたのだ。

私は最初この本を書き始めた時、本のタイトルを「アメリカ人に教える大東亜戦争」とした。喧嘩両成敗で日米の言い分は五分五分とみていたのだ。しかし大東亜戦争関連の本を読み漁ると、大東亜戦争は、六四、ないし七三でアメリカが悪いとわかったのだ。それでタイトルを「大東亜戦争は、アメリカが悪い」とした。途中筆が進まない時もあった。特に満州事変前後からシナの混乱した状況をどう筆をすすめるべきか悩んだ時もあった。或時夜中に寝汗をかいた。一回寝間着を着かえただけじゃすまないのだ。二回、三回と着かえるようになってしまった。病院で徹底して検査したが、異常がない。先生が何かストレスに感じることはないかと聞くから、実は長編の歴史評論を書いている。どう書いてよいか筆が進まない時があると言ったらそれがストレスになっているのでしょうと言った。私も同感だった。ストレスが原因とわかったら、すっかり寝汗をかかなくなってしまった。分厚い本を書くのも結構体力を使うものだということがわかった。このようにあくせくしながらやっと出版したのが、2004年7月10日。本の宣伝用に巻く帯の表には次のような文章を載せた。
「この本は、いまだに大東亜戦争日本悪玉論を主張してやまない外国人や日本人に対する、凡人定年サラリーマンの挑戦です。」
自虐史観論を書く日本の知識人は、自分の頭で本を書いていません、まず占領軍(GHQ)の戦争観、左翼国家の戦争観、勝利国の戦争観を書いた方が時流にのれるから有利、などの思想に駆られて書いているから自分の考えで書く部分がなかったり、あるいは極端にすくないのだ。一方私は、「一寸の虫にも五分の魂」とばかりに沢山の本を読み漁り、そのまま自分の頭で考えたこと書いてきたのだ。どちらの本に信用力があるか、読者はおわかりでしょう。
出版後数日して私と出版社との折半費用で産経新聞に一日だけ八つ切りサイズの小さな広告を出した。私は自ら自作の本を持参し、東京、神奈川の大手書店の店長をアポイントなしで訪問し、営業販売した。私のセールスポイントは、「この本はサイズが大きいし、分厚いから5冊も平積みしてもらえれば非常によく目立つ、少なくとも55歳以上の男の人なら必ず目にとまり、買う、買わないは別にして本を必ず取り上げ、パラパラと頁をめくります。この厚さで1500円なら必ず買う人が多くいますから、ぜひこの本をこの書店に置いてくださいの一点ばりで通し、長い立ち話に時間をつぶさずに引き下がった。この結果けっこう売れるではないかとわかりうれしくなった。

出版が7月10日なのにその年が終わる12月末の5か月間にこの本に関する投書が全部九通もあったのだ。それも私には縁もゆかりもない全く未知の九人の方からの投書だった。私は狂喜乱舞した。だってそうでしょう、私は無学無名、これといった人に自慢できるような経歴など何もなし、ただ一介のしがない定年サラリーマンの一人です。その私の書いた本をわざわざ本屋で買い上げ、読書後は、わざわざ手紙やはがき、それもすべてお褒めの言葉を書いた投書を送ってきたのです。私は狂喜し、これらの投書を私の大事な宝物として所有しています。次回のブログでは、この九通の投書の内容を紹介するつもりです。



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