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蒙古襲来と天皇制



日本史上初の武家政治が行われていた鎌倉時代、その末期にこれまた日本史上初の国家的危機に見舞われた。それは蒙古軍による二度の日本侵略攻撃でした。蒙古とは13世紀にジンギス・ハーンが建国したモンゴル帝国のことです。そのジンギス・ハーンの孫、フビライ・ハーンは、1271年国名に「元(げん)」という名前つけ、1279年に中国全土を完全に支配した。
フビライが国名を「元」にしたのはモンゴル帝国全体を「元」にしたのではありません。フビライ家の領有地を「元」にしたのです。ユーラシア大陸の各地にもジンギス・ハーン家の親族の国家がいくつかありました。キプチャク・ハン国、イル・ハン国、チャガタイ・ハン国、オゴタイ・ハン国がそうです。これらの国全体がモンゴル帝国だったのです。
フビライはその在世中にモンゴリア、満州、中国を中心とし、チベット、高麗(当時朝鮮は高麗王朝時代であった)を属国として元朝最大の領土を支配した。
そのフビライは1274年モンゴル軍15,000、高麗軍6,000、艦船900艘で日本侵略攻撃を開始した。壱岐、対馬といった島は完全に蒙古軍に攻略され、九州の博多湾付近から上陸を始めた。
迎え打つ日本軍は大苦戦を強いられ夜を迎えたのですが、優勢に戦いを進めてきた蒙古軍は、夜になるとどういうわけかほとんどの兵士を軍船に引揚げてしまったのです。これが蒙古軍の命取りになった。その夜台風にも似た大嵐になってしまったのです。翌朝沖をみれば、900艘と言われた蒙古の軍船がまるで一夜でかき消されたように見えなくなっていた。侵略攻撃は失敗に終わった。
フビライは、二度目の侵略攻撃を準備しました。そして1281年今度は最初の攻撃規模を上回る、元、高麗連合軍14万、艦船4400艘で日本侵略に撃って出たのです。ところが今度も博多湾付近で台風にあい、上陸作戦も敢行できずに壊滅的な打撃を受け侵略攻撃は失敗してしまったのです。
この二度の攻撃の時には、京都の朝廷は無論のこと、鎌倉幕府のある鎌倉各地の大きな神社やお寺では、蒙古軍を降伏させる祈祷、祈願の行事を何回とくりかえし行っています。祈祷、祈願は当時の朝廷、神社仏閣の大変重要な行事でもあった。それだけに当時の人たちは祈祷、祈願の効果を信じていたのでしょう。祈祷、祈願する時、祈願文を捧げるのですが、その祈願文の内容は、現代ですと恐らく日本軍がモンゴル軍を打ち負かすようにというような内容になるかと思うのですが、そのような内容のものではなかったのです。
当時の祈願分には、神の力で敵を降伏させてくれという、より妖術的な面が強調されていた。奈良西大寺(さいだいじ)の思円上人叡尊(しえんじょうにん・えいそん)のお祈りの言葉の一部があるので参考に紹介しましょう。
「異国来襲して貴賎男女すべて嘆き悲しんでおります。もはや神明もこの神国をほろぼし、仏陀も見捨てたもうたのでありましょうか。たとえ皇運は末になり正道の誠なくとも、他国よりはわが国、他人よりはわれらを神仏はどうして捨てさせたもうでしょうか、昔、八万台菩薩が、{天皇の勢い衰え人民の力がなくなったときこそ}と誓わせたもうたのも、実にいまこのときのためでありましょう。そもそも異国とわが国土とくらぶれば、蒙古は犬の子孫、日本は神の末裔、かれらはすでに他国の財宝を奪い、人民の寿命をほろぼす殺到非道の輩であります。
我が国が仏法を守り神祇(じんぎ)をうやまい、正理を好む国であるからには、かならずや仏陀も知見したまい、神々も照覧したもうはずであります」
「蒙古は犬の子孫、日本は神の末裔」と主張しています。当時、犬が嫌われていたことがわかります。「犬畜生」という言葉がありますが、言葉の由来は相当ふるいのかもしれません。とにかく当時の人々は、神国日本が蒙古に征服されてしまうという恐れで必死の思いで祈祷、祈願したのです。その結果二度も台風が吹いて、蒙古軍の軍船を壊滅させてしまったのですから、祈祷、祈願が成功したことになりました。
これを当時の人々が神が吹かせた風、「神風」と呼んだのも当然だと思います。こうして『神風が吹く』という縁起の良い言葉が後世まで残りました。大東亜戦争末期、特攻隊にこの縁起の良い「神風」の名前つけて神風特攻隊と称したのです。神風がふくどころか日本の大敗でした。しかし神風特攻隊は、アメリカ兵に強烈な印象をあたえたのでしょう、戦後神風は英語になり、kamikazeとして英語の辞書に載っています。
いまさらこんなことを言うと、当時の人々には、気の毒なのですが、蒙古軍に一時的にも日本列島が征服され、日本国民が痛い目に会う経験をしていたら、日本国民は日本列島の防衛に関してもっと敏感な民族になっていることにはまちがいないでしょう。
ところでフビライは、なぜ日本を侵略しようとしたのでしょうか。それはフビライ本人に聞かないとはっきりした理由がわからないとされています。しかしその理由が想像できる古い本があります。それはマルコ・ポーロが書いた「東方見聞録」です。この本は、日本という国をヨーロッパ人に初めて紹介したことで有名です。
マルコ・ポーロはヴェネツィア生まれのイタリア人商人で父と叔父と共に1271年陸路中国へ旅立ちした。1275年にフビライに謁見することができたのです。ちょうどこの時は、フビライの最初の日本攻撃が失敗した翌年でした。マルコ・ポーロは、フビライに気に入られたのでしょう。彼は元朝の宮廷に仕え優遇された。そして中国に滞在すること17年、帰国の時にはインド沿岸の船旅を重ねて1295年にヴェネツィアに帰国した。帰国後彼の著書「東方見聞録」は、初めて極東の事情を西欧に伝えたものとして有名になりました。その中で日本をジパングと呼んでこのように紹介しています。
「ジパングはマンジ(中国の中南部をさす)から東方1500マイルはなれた太平洋のなかの島で、はなはだ大きな島である。住民は色が白く、開化していて顔立ちもすぐれている。彼らは偶像崇拝者で、かつ誰にも従属していない。
彼らのもつ黄金は無限であると言えるが、それは自分らで金を産し、国王がその輸出を許可しないからである。のみならず大陸から大変遠いためこの国に訪れる商人もほとんどなく、かくて彼らの金の保有量ははかりしれないほどである。
私は諸君に、その島の宮殿について驚くべき事実をお話したいと思う。島主は壮大な宮殿を持っているが、その屋根はすべて純金であって、あたかも我々の教会の屋根が鉛で葺かれていると同様で、その価値はいくらともはかりしれないものがある。
そのうえ宮殿の舗装や各室の床はすべて金で、板石のように敷かれており、それも指二本の厚さはじゅうぶんある。窓もまた金でできており、したがってこの宮殿の富はとても信じられぬほどのものである。
彼らはまた豊富な真珠を持っている。その色はバラ色で、しかも立派で大きくまるく、白色真珠と同じくらい高価なものである。この島では死者は埋葬もしくは火葬にするが、火葬の場合にはこういう真珠一粒を死者の口の中にふくませる風習がある。その他に他の宝石類もすこぶる豊富である」
この記事に続いてマルコ・ポーロは、いまの大ハーンのフビライがジパングのこのすばらしい富を入手する計画を立てて軍勢を送ったが、嵐にあって失敗したことを述べています。
当時日本は確かに比較的産金量が多かったのは事実ですが、この日本に関する記述は、ほとんど伝聞の寄せ集めのような感じがする。従ってフビライが日本の財宝を手に入れるために軍隊を派遣したというのは、とても信頼できないとされています。
ここで私は、特に現在の日本の歴史家に苦言を呈したい。歴史を学ぶあるいは語るとは、現代の目で過去をみることではありません。大東亜戦争を批判する歴史家や知識人は、ほとんどが現代の目で判断して日本を批判しているのです。歴史とは、例えば64年前の大東亜戦争を当時の人たちがどう見ていたか学ぶことなのです。
「東方見聞録」は「ほとんど伝聞の寄せ集め」と言っていますが、それは現在の知識から判断した場合で、当時では真実と受け止められたことは充分予測できます。コロンブスは、マルコ・ポーロの「東方見聞録」を頼りに大西洋回りでインドへ向かい、インドから日本へ向かうはずだったのです。ところがアメリカ大陸海域の島々に到着しインドに到着したと勘違いしていたことでも、「東方見聞録」が真実と思われていた証拠でしょう。
ところでマルコ・ポーロは、日本の情報をどこで手にいれたでしょうか。マルコはフビライに優遇され元の宮廷に仕えていたから、元朝の役人から得ていたことは充分に想像できます。マルコが元の到着する前年にフビライは第一回目の日本侵略攻撃に失敗しています。その話は当然元朝の役人から聞いているでしょうし、あるいはフビライ本人から直接聞いているかもしれません。
「日本の財宝を手にいれるために軍隊を派遣した」と書いていますから、元朝の役人も、フビライも日本についてはあの程度の智識しかもちあわせていなかったのでしょう。またモンゴル軍(遊牧民族)の戦争文化は、略奪です。まさにフビライは日本の財宝を手に入れるために日本を侵略しようとしたのだと思います。
ところでここ数十年、朝鮮(韓国と北朝鮮)は、日本が朝鮮を植民地にしたと日本批判にあけくれています。ところが朝鮮は蒙古軍によって国土は数十年にわたって蹂躙され、特に1254年から6年間にわたる蒙古軍の侵略はすさまじいものがありました。
「高麗史」は、「この年蒙古兵の捕虜になった者、男女およそ20万6千8百人、殺された者あまり数が多すぎて数えることができず。蒙古兵の通る所すべて灰儘に帰す。蒙古兵が侵略して以来、この時ほど悲惨な目にあったことはない」と記しているほどです。あげくのはてに高麗王朝は、元の属国になってしまい、高麗王朝の王は、王妃に元(げん)の皇帝の娘を迎えねばならなくなったのです。実に屈辱意的なことです。それが5代も続いたのです。
もし蒙古軍が台風に襲われなかったら、当時の日本の皇室も高麗王朝と同じ運命が待ち構えていたでしょう。いずれ現在の皇室は、中国から難問を突きつけられるでしょう。話はとんでもない方向に飛びますが、民主党政権が誕生し、長期政権ともなれば、間違いなく日本政府の中国傾斜が深まります。このまま中国の崩壊もなく、日本の憲法も改正もされず、自衛隊が軍隊に変わることもなければ、いずれ日本は、中国の属国になるでしょう。その時の日本の政権担当者は日本共産党になっているでしょう。中国は日本に皇室の廃止をせまるでしょう。その理由は、二つあります。
1.共産主義と皇室とは相容れない。
2.日本人が天皇の下に一致団結するのを恐れる。
日本国民は、必死の願いで皇室維持を訴えます。その時中国政府は、天皇陛下のお妃に中国人国籍の女性をめとることを要求するでしょう。あの中国民族なら必ず要求するとみています。
その時日本民族は、二つの意見に別れます。中国人女性をめとって天皇制維持派、日本の皇室に御妃として中国人女性が入り込むのは絶対反対、そのため天皇家をアメリカに亡命させる。皆さんはどちらを選びますか。ちょっと真剣に考えてみてください。現在の日本の情勢を考えると、こんな事態がおこらないことを願うばかりですが、絶対に起こりえないとは言えなくなっているのです。

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秀吉の描いた大帝国

信長の死後(1582年)、秀吉が後を継ぐのですが、欧米人には、この秀吉の名前も覚えてもらいたいものです。なにしろこの秀吉は、当時の超大国、スペインのフィリップ二世に堂々と挑発をしかけているからです。 秀吉は水のみ百姓の子として生まれ、剣術などなにひとつ知らない彼が戦いにあけくれて天下をとったのですから、日本史上最高の出世頭と言えるでしょう。この秀吉はスペインのフィリップ二世と同世代なのです。
欧米人は西洋史にくわしいはずですから、一般の人でもスペインのフィリップ二世の名前は知っていると思います。なにしろフィリップ二世は、スペインが動けば、世界が震えるといわれたスペイン全盛期の王であり、レパントの海戦でオスマントルコを破って地中海を制覇した王であり、その全盛期のスペインの誇る無敵艦隊がイギリス海軍に負けた時の王であり、さらに悪名高いスペインの宗教裁判の主役を演じた人だからです。
フィリップ二世の玉座の前には壮麗な火刑場をしつらえ、廷臣、騎士、枢機卿、美しい宮廷社交界の貴婦人たちの臨席する場で、セヴィリア全市のおびただしい数にのぼる住民の前で、神の栄光の名において、そのつど百人もの異端者たちが一度に焼き殺されるというケースがあったくらいです。
そのフィリップ二世が在世中東洋の日本に豊臣秀吉という男が存在していたことなど一般の欧米人は知らないでしょう。ましてやその秀吉が、日本国内のキリシタンを大弾圧したことも、またフィリップ二世に当時スペインの植民地、フィリピンを、秀吉に武力で征服される前に日本にゆずりわたせと脅しの手紙を書いていたなど知るよしもないのではないでしょうか。
秀吉の行動で今でもなぞと言われているのが彼の晩年の行動、すなわち明(中国)征服の企てです。秀吉の軍隊は、天下統一まで続いた国内の戦争で疲れきっていたことは確かです。それなのになぜ急いで秀吉は明を征服しようとしたのでしょうか。 秀吉は誇大妄想狂になってしまった、彼の個人的征服欲、秀吉本人をカリスマ的人間と思わせるためのカリスマ的演出、彼の部下の領土的要求を満たすためとか色々言われています。その理由はなぞでした。 しかし最近になって当時日本に滞在していた宣教師たちの本国への報告が明かになり、秀吉の明征服行動要因をかなり具体的に推測できるようになったのです。
秀吉が活躍していた時代、東アジアや日本に滞在していたスペインやポルトガルの宣教師たちは、明(中国)をキリスト教国にするためには武力を使うのをためらうなと、彼らは何度も本国に提言していたのです。 彼らはまた明征服はスペインが中南米で征服したアステカ王国やインカ王国と同様に容易だと繰り返しています。 宣教師たちは、明の武力征服にあたって、日本と同盟するのが有利だとして、具体的に協力すべき武将として小西行長の名前をあげているのです。また秀吉への言及もあり、秀吉が日本平定後、中国を征服する際には、ポルトガル船(この時期スペイン王はポルトガル王を兼ねていた)を提供して支援すべきだと書かれているのです。
インドのゴアにいたイェズス会の巡察使、アレッサンドロ・バリニャーノは、1582年12月フィリピン総督(当時フィリピンはスペインの植民地)へ次のような手紙を送っています。
「尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象として不向きである。なぜなら、日本は私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故、求めるべき物は何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練をつんでいるので、征服が可能でないからである。
しかしながら明において陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるであろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある」
この文で陛下が行いたいと思っているというのは、明征服のことです。
もう一つ例をあげましょう。日本のキリシタン大名が四人の少年使節をローマに派遣しましたが、その少年使節がローマから日本に帰るとき一緒に来日したのが司祭ペドロ・デ・ラ・クルスです。 そのデ・ラ・クルスは「明征服の企ては、ポルトガルとスペインに日本が連合してこそ成就できる」と言う意味のことを何度も言っているのです。
このようにポルトガル、スペインの宣教師たちが本国に明を征服するように説得していること、そのためには日本と組むのが良いということを本国に伝えているいのを、秀吉は宣教師を通して知っていたと思われます。知っていたからこそ1586年に秀吉は日本イェズス会副管区長、ガスパル・コエリュに次のような要求をつきつけたのでしょう。
コエリュの報告によると、秀吉の発言内容は次のとおりです。
「下賎より身を起こして最高の地位に到達したのであるゆえ、その権威あるいは名を後世に残す以外には、もはや諸国をとろうとも、あくほど持っている金銀をさらにふやそうとも思うてはいない。
日本の国内を無事安穏に治めたいと考えている。そして国内を鎮定したうえは、これを弟の秀長にゆずって、私自身は朝鮮と明との征服にもっぱら心をもちいるつもりであり、従ってその用意に大軍を渡海せしめる二千艘の軍船を造るための木材を伐採させている。
宣教師らにたいしては、そのために、じゅうぶん艤装した欧船二艘を依頼いたしたく、船の代価はもちろん、必要品のすべてに対して望みどおり支払いをなすはずである。ついてはまた、練達なる航海士の供給もうけたく、これに禄をあたえ、報酬金を交付するつもりである」
ところが翌年、1587年、当時九州征伐で博多に滞在していた秀吉はコエリュに会ったのですが、彼の要求がなんら具体化されていないことを知ったのです。これには秀吉は激怒したと思われます。なぜならその年のうちに宣教師たちにとっては、全くの寝耳に水のキリシタン禁止令が発令され、宣教師たちは国外退去を命じられたからです。
ところで何故コエリュは、秀吉の要求に応えなかったのでしょうか。秀吉の要求に応えてしまうと、明征服が日本主導のもとで行われてしまうからでしょう。スペインは日本の協力を仰いでもスペイン主導のもとで征服したかったのでしょう、あるいはスペイン単独の明征服計画が煮詰まっていたのかもしれません。
一方秀吉は、スペイン単独で明を征服されてしまうと、日本はスペインの脅威にさらされてしまうと考えたのでしょう。その考えは当然すぎるほど当然です。当時は情報の少ない時代です。海外情報を一番よく知っている人間は、秀吉だけです。そこで秀吉は日本単独で明征服をする決心をし、ついでに宣教師の力を借りようとしたのでしょう。
ところが宣教師の力を借りれないと知った秀吉は激怒したのです。もともと気にいらなかったキリシタンを弾圧、宣教師を国外追放、彼は文字通り単独で明を征服しようとしたのです。 秀吉はその年のうちに明征服の通り道になる朝鮮との外交を開始し、朝鮮国王の来日を要求する強圧外交にでました。翌年の1588年には、秀吉は琉球に入貢を促し日本に服属することを要求しています。
さらに1591年には秀吉は次のような書状をフィリピン総督に送っています。
「わが国は百余年にわたって群雄が争っていたが、予が生まれたときから、これをことごとく統一すべき使命を与えられ、ついに十年余りでこれを成就した。いま、さらに明にたいして征討の軍を送らんとしているから、即刻降伏せよ、さもなければ征服してしまう」
朝鮮との外交交渉がなかなか合意に達せず、いわゆる「仮途入明」(かとにゅうみん)といって明に入るために朝鮮の道を借りたいとの要求も朝鮮側の拒否にあい、ついに1592年3月朝鮮との戦争が始まりました。秀吉の軍勢は合計15万8千7百人の大軍です。緒戦の大勝利に気をよくした秀吉は、秀吉の甥でのちに養子になる秀次に次のような書状を送っています。
「大唐の都北京(ぺきん)に後陽成天皇(ごようぜい)を移す。明後年には天皇の居をお移しし、都の周辺の国々十か国を進上する。そして秀次を大唐国の関白として据え、都周辺の百カ国を渡す。日本国内の天皇には、皇太子良仁(よしひと)親王か弟帝の智仁(ともひと)親王かのいずれかどちらでもよい。日本の関白には、豊臣秀保か宇喜多秀家をおき、九州は羽柴秀俊。そして秀吉自ら北京に入り、その後寧波(にんぽう)に居をさだめる。そこから諸侯各位、予が命令せずともインドを好き勝手に切り取らせるようにする」
翌年の1593年には、台湾に入貢をうながし服属を要求しています。 1594年には秀吉はさらなる脅しの手紙をフィリピン総督に送り届けています。その手紙の内容は、
「予が誕生の時、太陽が予の胸に(光)を与えたが、これは奇跡であり、これによって予が東西にわたって君主となるべき人物であり、諸国ことごとく予に服し、予の門に来たって屈服すべきであることが判る。 これを為さぬ者は戦いによってことごとく殺戮するであろう。 予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラを攻略に行く許可を求めている。これを知って原田(喜右衛門)と(長谷川) 法眼は予に『彼我の地の間には緒船の往来があり、それによって(マニラ)が敵であると思えない』と言った。
この道理によって予は(マニラ)へ軍勢を派遣することを思い留まったのである。朝鮮の人々に対してその言葉を守らなかったので戦を始め、 その首都まで獲得し、その後予の部下は彼らの救援に明(中国)からきた無数の明人や数多の貴人を殺害した。(中略)彼らはかの地において(明からの)使節を待っている。もし彼ら(明人)がその言葉を守らねば、彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。こうして明に至ればフィリピンがすぐ近く予の指下にある。 予は我ら(日本とフィリピン)が永久に交友を保つことを希望する。これをカスティリア王に書きおくられよ。遠隔の地を理由にカスティリア国王が予の言葉を軽んずることがないようにせよ」
カスティリア王とは、スペイン王フィリップ二世のことです。この時期 秀吉は、日本、朝鮮、中国、琉球、台湾、フィリピン、インドを含む大帝国の支配者になろうと考えていたのではないでしょうか。 それでは実際の戦場である朝鮮の戦いはどうなったかと言えば、確かに緒戦は大勝利でしたが、その後は朝鮮民族の激しい抵抗、朝鮮水軍の活躍、明軍の支援、朝鮮国内の大飢饉などで、秀吉軍の進撃がおもうようにはかどらなくなってしまったのです。
和平交渉が始まるとほとんど休戦状態になってしまいました。長い和平交渉は決裂し、1597年に秀吉は朝鮮の再征を決めた。その再征も失敗、1598年に秀吉の死を秘して朝鮮から撤兵した。 秀吉は国内平定前に明征服をコエリュにうちあけているのですが、国内をほぼ平定後すぐに朝鮮出兵を命じているのです。なぜそれほど急ぐ必要があったのかなぞなのですが、考えられる理由は二つあります。
一つは、秀吉が明征服のため二艘の船と熟練の船員の手配をコエリュに要求したのに、事実上拒否された形になっています。その時秀吉は、ひょっとしてスペインが単独で明を征服するつもりではないのかと考えたのではないでしょうか。それなら先に日本が征服してしまわなければという理屈になります。
二つ目は、再征出兵後の翌年秀吉は、あっけなく死んでいるので、秀吉は自分の体力の急激な衰え、あるいは病気で、自分はもう長く生きられないと悟ったのではないでしょうか。こういう時はえてして人は、結論を急ぎたがるものです。あるいはこの二つの理由が一緒になっていたかもしれません。
もし息子の秀頼が、もっと早く生まれていて、一人前の武将になっておれば、後は秀頼に後事を託す心の余裕も生まれていたことでしょう。 日本国内の秀吉の脅しの手紙は、効き目があったと思います。それが外国にも通じると思って脅しの手紙を連発する秀吉のおそまつな外交は、現代の日本人は笑うことはできません。
秀吉の明征服に関して私は、近所の図書館でわざわざ四種類の歴史書を読みました。それはある予想をしていたからです。大東亜戦争日本悪玉論が主流をなす現在、なにかといえば戦前の日本を批判する時勢です。 明を征服しようとして朝鮮征伐までした秀吉は、恐らく徹底して批判されているのではないかと想像したからです。
想像どおり四種類の本とも秀吉をはげしく批判していました。明征服については、誇大妄想だの、ひょっとして秀吉は気が狂ったのではないかと書いてあるのもありました。私はあらためて時勢、時流に盲従する歴史学者を見た思いでした。 秀吉批判もけっこうですけど、世界情勢の中での秀吉をなぜ見ようとしないのでしょうか。秀吉の時代は、スペインが動けば、世界が震えると言われたスペイン帝国が存在していました。
南ヨーロッパを支配し、イスラム勢力を駆逐し、中南米大陸を征服し、フィリピンのマニラを根拠地としてアジア全体の支配を狙っていたスペインに対して異を唱えることができたのはヨーロッパを除いて秀吉のいた日本だけです。宣教師たちも日本を征服できない国とか、明を征服する時は日本の協力が必要とか言って日本という国の存在感を認めているのです。
秀吉はスペインに自分の意思をはっきり見せ付けたのがキリシタン禁止令であり、六人の外国人宣教師を含む26人のキリシタンの処刑です。 これに対してスペインは報復できなかったのです。国内平定後秀吉は、スペインの向こうを張って東アジアに大帝国を築こうとして明征服を実行にうつしたのです。
秀吉のフィリピンを日本によこせという脅しの手紙の効果のほどはわかりませんが、少なくとも日本にいる宣教師たちは秀吉の動性を不安げに見ていたことは確かです。
処刑のため長崎に護送される途中、フランシスコ会の宣教師マルチン・デ・ラ・アッセンシオンは1597年一月にマニラ総督にあてて 「この国王はサン・フェリペ号から没収した貨物によっていっそうの欲望をつのらせた。うわさによれば、彼は元来は朝鮮との事件に忙殺されていて、いまは企てないが、来年はマニラにおもむくとのことである。 この目的を達するため、彼は琉球列島および台湾島の占領を計画し、同島をへて軍隊をカガヤンに送り、さらにマニラに殺到する由である」と報じています。
処刑される寸前までマニラのことを心配して情報を送っているのです。秀吉の軍隊を強敵とみている証拠でしょう。結局秀吉の計画は失敗に終わりました。失敗したからといって秀吉を批判するにはおよびません。 現職の天皇の住居を中国の北京に移し、自分は上海のすぐ南にある寧波 (にんぽう、当時日中貿易の拠点)に居をかまえようと計画した時、秀吉の頭には、ジンギス・ハーンやフビライ・ハーンの大帝国や、当時の大帝国スペインが描かれていたはずです。
隣国の領土だろうが、遠い国の領土だろうが、切り取り自由の時代に日本の外に飛び出して世界的な大帝国を築こうと計画し、実行に移したのは、日本史上秀吉しかおりません。貧農の出と言われる秀吉が、一生の間に日本国内平定だけでなく、世界的大帝国を築こうとしたのです。
まさしく秀吉は我々日本人が誇るべき英雄の一人なのです。
ナポレオンに対してどんなに近隣諸国から文句が出ようがナポレオンは、フランス人の誇る英雄です。近隣諸国を蹂躙して大帝国を築いたジンギス・ハーンはモンゴル人の誇る英雄です。 ところがどうですか、日本の歴史学者は、秀吉の時代まで現在の価値観で秀吉を裁き、批判しているしまつです。皆さんはどちらの歴史観を支持するのでしょうか。
このブログをひょっとして韓国人が読んでいるかもしれません。私は、韓国人にはっきり主張しておきます。韓国人が秀吉のことを何と言おうと、秀吉は日本の英雄です。 秀吉が元気でもっと長生きして朝鮮や明を征服してくれたら良かったのにと思っています。
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キリスト教弾圧成功が日本の植民地化を防いだ。



日本にキリスト教を布教するために、最初にやってきた宣教師は、カトリック教会のイェズス会に属する、スペイン人の宣教師フランシスコ・デ・ザビエルと彼の二人の修道士、コスモデ・トルレスとジョアン・
フェルナンデスの三人でした。 彼らは1549年の夏、鹿児島に入港した。当時日本では、キリスト教の教えや信者のことを、ポルトガル語のクリスタンからなまってキリシタンと呼ばれていました。 このイェズス会というのは、分かりやすく言えば、プロテスタントの始祖と言われるマルティン・ルッターの宗教改革がカトリック教会外部からの宗教改革なら、イェズス会はカトリック教会内部からの宗教改革と言えるでしょう。
イェズス会は1543年に設立され、創立者はイグナス・ロヨラで、ザビエルは七人の同士の一人でした。ポルトガル国王ジョアン三世によるインド布教の要請に応えて、ザビエルはインドに渡り1542年インドのゴアに到着し布教活動に入った。 布教活動中の1547年にマレー半島のマラッカで、ザビエルは池端弥次郎という一人の日本人に出会った。彼はこの池端弥次郎という 男に好印象を持ったのでしょう、弥次郎をインドのゴアに送り宗教教育を受けさせ、彼に洗礼を受けさせたのです。弥次郎は、日本人最初のキリスト教信者になった。
ザビエルは彼をともなって日本にやってきました。こうしてザビエルは、日本にキリスト教をもたらした最初の外国人宣教師として日本の歴史に記憶されることになったのです。 日本滞在三ヶ月目にザビエルは、最初の報告書をインドのゴアにいるイェズス会の人たちに出しています。その中に日本人についてこう書いています。
「この国民は自分たちがこれまでに接触してきた諸国民の中で最高に傑出した人々である。まだキリスト教化されていない国民で日本人ほど優秀な者はない。彼らは総体的に親しみやすく、善良で悪意がない。 驚くほど名誉心が強く、他の何ものに代えてもまず名誉を重んじる。 日本人は大概貧乏である。だが武士たると平民を問わず、貧乏を恥じだと思っている者は一人もいない」
「他のなにものに代えてもまず名誉を重んじる」などと言われると、現代の日本人に比べると、まるで違う人種のような気がするのは私一人だけではないでしょう。 ザビエルは布教活動しながら京都まで行きましたが、布教活動は順調にゆかず、日本滞在わずか二年三ヶ月にしてインドに帰り、後事を残ったトルレスやフェルナンデスに託したのでした。 残された人たちや新しく日本にやって来た宣教師たちの努力で布教活動も軌道に乗り、少しずつキリスト教信者が増えていきました。
それにはずみをつけたのが、大村純忠(すみただ)が日本最初のキリシタン大名になったことです。彼は熱心なキリスト教保護者になったばかりでなく、 彼の領地にある長崎の土地をイェズス会に寄進した。それまでポルトガル商船は平戸に出入りしていたのですが、こんどは長崎が貿易船の出入りの中心になり、またイェズス会の布教の中心にもなりました。
宣教師の数も1577年になると21人にもなり、修道士は30人になっていました。 キリシタンの数は1571年のイェズス会の報告によると、「日本におけるキリシタンの総数は約三万人、日本全体においてはキリシタンの数はおおいに増加している」と伝えています。 それが1579年の報告によると諸国に居住しているキリシタンは十万人内外であろうといわれるほどの数になっていたのです。この年イェズス会の巡察使アレッサンドロ・バリニャーノが日本の布教状況の視察にやってきた。
1581年にはバリニャーノは、京都に上って織田信長に会い歓待されてもいます。彼は三回巡察使として日本にやってきましたが、日本語が話せず、通訳はもっぱら1570年から布教にきているオルガンティーノ・ソルドに頼ったものと思われますが、そのオルガンティーノは度を越した日本礼賛をしています。ちょっと彼の言葉を聞いてみましょう。
「日本人は全世界でも最も賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので我ら一同よりはるかに優っている。我らの主が人類になにを伝え給うたかを見たいと思う者は、日本へ来さえすればよい。
彼らは不必要な事を外面の表情に表すことなく、はなはだ忍耐強く、 心の広い国民で、改悛は真摯にして信心深く、儀礼に大いに気を遣い、 交際において鄭重である」、さらにこうも言っているのです。
「ミヤコ(京都)こそはヨーロッパでいうならローマに当たる。この地の科学、見識、文明はローマよりもさらに高尚である。信仰のことはともかくとして、我らは日本人より顕著に劣っている。私は日本語がわかるようになってから、世界にかくも聡明で明敏な人々はいないと考えるに至った」
これはまたものすごい誉めようではありませんか。オルガンティーノが日本にすっかりほれこんでいるのがよくわかります。彼は38歳の時に日本に来たのですが、77歳で長崎で亡くなるまで39年間日本の地を離れなかったのも、わかるような気がします。彼にとって日本は天国のような国だったのでしょう。
1581年のイェズス会の報告には、 「本年日本にいるキリシタンの数は15万人内外、そのなかには豊後、有馬及び土佐のキリシタン王のほかにも、高貴な人で親戚および家来とともにキリシタンとなったものが多数いる。キリシタンの大部分は、下(しも)の地方有馬、大村、平戸、天草などにいて五島および壱岐の地にもキリシタンがあって、その数11万5千人にのぼる。豊後国には一万人、ミヤコの地方にも二万五千人いる。ただし五機内と称する国々および山口その他の地方に散在するものも、このなかに加算してある。 キリシタンのいる国々に大小あわせて二百の聖堂がある」
なぜキリスト教がこのように発展していったのか、いろいろな要員があげられるでしょうが、要約すれば三つの要因があげられるでしょう。
一つは信長が、キリスト教の布教を容認したこと。
二つ目は、ポルトガル船による貿易の利益を得ることができたこと。 多くの大名が布教を容認してポルトガル商船の入港を歓迎したのです。
三番目は、キリスト教の布教には必ずと言っていいほど医療救済が伴い、庶民が積極的に医療救済を求めたのです。
無論無料で行われたのでしょう。いくら無料でも医療技術が日本より水準が低ければ繁盛しないでしょう。宣教師たちの医療水準は高かったのではないかと思います。そして各地に大小の病院が建設されました。
1582年には、キリシタン大名の大友、大村、有馬の三氏は、十四、五歳の少年四人をローマ法王への使者としてローマに派遣するほどになったのです。 渡欧途中少年たちは、秀吉がキリシタン禁止令を出した一つの理由である多数の若い日本人男女が奴隷として売られ、みじめな仕事をさせられているのを見た。巡察使のバリヤーノがインドのゴアまで少年たちのお供をしたのですが、彼はヨーロッパ人種以外の人種について少年たちに次のように語っています。
「黒人は自然が作った畜生のようなもので、奴隷となるために生まれてきた」、「中南米には色のどす黒いきわめて下等な人種が多数いる」、 「インド人は身体の色が黒味を帯びているように精神も愚鈍」、
「畜類のような生活をしている全アジアの無限ともいうべき多くの種族、そしてこれら憐れむべき種族は、少数のヨーロッパ人の権力を仰ぎ、彼らを当然の支配者と考えている」
このようにヨーロッパ人の有色人種に対する差別の歴史は古いのです。少年たちがローマに向けて出発した同じ年に信長が亡くなりました。 その後を継いだのが秀吉です。信長急死後の後始末で秀吉は忙しかったせいもあるのでしょう、秀吉も信長と同じようにキリシタンの布教を容認していました。 ところが突然、1587年秀吉は、キリシタンの布教禁止、宣教師の国外追放を発表しました。発表の内容は次のようなものでした。
1.日本は神国であるからキリシタン国から邪教を伝えたのは、はなはだけしからぬ。
2.宣教師たちが諸国の人民をキリシタン化し、神社、仏閣を破壊するのは、みのがすわけにいかぬ。
3.それゆえに宣教師を日本に滞在させるわけにはゆかぬ。 今日から二十日の間に帰国せよ。 この期  間に宣教師に危害を加える者がいれば処罰する。
4.日本人奴隷の売買禁止。
5.大名や侍が領内の農民をキリシタンにすることを禁止。
7.牛馬を屠殺して食用に供することを禁ず。
8.商売のためにやってくる外国船は、今後とも長く続けてよい。
この秀吉の禁令に接し、当然その対策を考えたと思われる宣教師のルイス・フロイスは、 「秀吉殿はミヤコの大名たちと語るさい、宣教師を追放したのは、神仏に反対の説教をしたためであるとし、また多数の大名たちをその宗旨に引き入れ、日本において反乱をおこすおそれあることは、これまで何人も気づかなかったが、彼だけがこれを洞察したといって誇っている」と伝えています。
秀吉は大名たちをキリシタンに引き入れたあげく、反乱をおこさせ、国をうばおうとする魂胆があるのではないかと疑いの目でキリシタン布教を見ていたのでしょう。この秀吉の疑いの目を確信させる事件が起きたのです。1596年七百トンもあるスペイン船、サン・フェリペ号が、メキシコに向かう途中暴風雨にあい高知県の浦戸沖に漂着した。秀吉はすぐに部下を現地に派遣して取調べさせました。その時サン・フェリペ号の水先案内人、フランシスコ・デ・サンダがおもわぬ失言をしてしまったのです。 イェズス会の宣教師ルイス・デ・セルケラが伝えたところによると、
この水先案内人は、秀吉の部下に世界地図を見せて、スペインの領土の広大なことを自慢した。そしてどうしてそんなに領土を拡大したかと尋ねられると、わが国ではまず宣教師を派遣してその国の人にキリスト教を伝えておき、信者が相応の数になったとき軍隊をさしむけ、信者の内応をえて、たやすく目指す国土を征服すると答えたというのです。 これが秀吉に伝えられたのです。1587年に秀吉は、キリシタン禁止令や宣教師の国外追放を発令していました。しかしこの発令が厳しく施行されなかったので、イェズス会の宣教師は地下にもぐって伝道していました。
イェズス会ばかりでなく、スペイン政府を後ろ盾にしたフランシシスコ 会の宣教師がフィリピンからやってきて伝道するようになっていました。そこで秀吉は、サン・フェリペ号漂着の同じ年の暮れにフランシスコ会の6人の宣教師と日本人信者20人を長崎ではりつけの刑の処し、 やりでつき殺したのです。 これが日本最初の大殉教で、この26人の殉教者は、1862年、ときのローマ教皇によって聖人の位を受け、殉教の日は全世界カトリック教徒の祝祭日に定められました。 この大殉教の日からおよそ一年半後の1598年に秀吉は亡くなり、このキリシタンの問題は、徳川家康の江戸幕府に引き継がれます。
この大殉教は、ローマのカトリック教会本部や海外のカトリック教会に衝撃を与えましたが、逆に宣教師たちに禁教下にある日本に殉教覚悟の伝道に熱意をもえたぎらせる結果になったのです。 秀吉のあとを引き継いだ家康は、貿易のため多少のキリシタン布教はしょうがないという態度をとったのでキリシタンの数がさらに増えたのです。1605年には、全国で6、70万といわれるほどになったのです。
1612年のイェズス会の報告によると宣教師、修道士あわせて250人も全国に配置されているほどです。キリシタンが確実に日本社会に深く浸透していったことが分かります。 これに脅威を感じた家康には、オランダのオレンジ公マウリチウスが1610年家康あてに書いた手紙の中で、ポルトガル、スペインは宗教上の神聖をよそおって、実は日本国民をキリシタンにしたて、貴国を徐々に分裂させ、派閥を生ませ、内乱に導こうとしているというような情報も手に入っていました。
日本との貿易で遅れをとったオランダやイギリスは、布教とは無関係に貿易しようとあらゆる機会を通じてポルトガル、スペインの追い落としをはかり、キリシタンの影にひそむ両国の領土的野心を家康に忠告したのです。
家康はまた大阪城にいる秀吉の息子、秀頼とキリシタンの結びつきをも警戒しなければならず、1613年家康は、キリシタン禁止令を発布してキリシタン弾圧を始めました。 家康死後、秀忠の代になると弾圧は厳しさを増し、1622年には、外国人宣教師をはじめ、日本人信者、その家族ら老若男女あわせて55人のキリシタンを長崎で処刑、翌年には江戸でキリシタン50人を火あぶりの刑にしょしたというようにこれまでにない徹底した弾圧を加えたのです。
そして日本のキリシタン布教の息の根をとめたのが1637年の島原の乱です。もともとこの島原の乱は、領主の重税に対する農民の抗議でしたが、領地の天草、島原はもともとキリシタンの多いい地域で、農民にもキリシタンが沢山いたのです。
このため幕府は島原の乱をキリシタンの暴動とみなし、乱平定後もキリシタン弾圧は全国的に続けられ1636年には長崎のポルトガル人278人をマカオに追放、1639年にはポルトガル船の来航を禁止しました。 このためキリシタン布教は完全に下火になり、二度と弾圧前の隆盛に戻ることはなかったのです。江戸幕府は、弾圧に成功したのです。ヨーロッパでは、この時期の日本のキリシタン弾圧はよく知られています。 ヨーロッパ内では、新聞で日本特集を編集する時か、なにかの講演で日本が語られる時など色々な機会を利用して宣教師の迫害が語られ、日本人の残虐性の表れと非難するケースが多いいのです。
私はヨーロッパ人のこのような行為には別に驚きもしませんが、私が驚くのは、かなりの日本人がこのキリシタン弾圧を批判していることです。歴史書においてもたとえ弾圧を批判しなくとも、ことさら弾圧を強調したりするのです。ましてや私のようにキリシタン弾圧を正当化する歴史教科書は皆無と言っていいでしょう。
ではなぜ日本はキリシタン弾圧に成功したのでしょうか。それは信長、秀吉、家康の時代は、日本は軍事大国だったからです。当時の超大国と言えばスペインです。秀吉などは、そのスペインのフィリップ王に脅しの手紙を書いているくらいです。 江戸幕府が、外国人宣教師の入国をいくら厳しく禁止しても、死を覚悟の宣教師が、現在用語で言えば、密入国し、不法滞在して布教していたのです。密入国の宣教師たちを送り出す前線基地が、スペインの植民地であるフィりピンのマニラでした。このため江戸幕府はマニラへの遠征計画をたてたほどです。ところが島原の乱が起きてそれどこではなくなってしまったのです。
日本がキリスト教国にならずにすみ、またヨーロッパの植民地にならずにすむためには、弾圧のタイミングがちょうど良かったといえるのです。1560年、ポルトガル人によってインドのゴアに設けられた「死の収容所」には、ヒンズー教、イスラム教、仏教徒など「邪教」を信じる者が収容され、教会による拷問は苛酷を極めたと言われています。 16世紀から17世紀のはじめにかけて、宗教裁判によって殺されたゴアの住民は3800人にも上っていたのです。日本に来た宣教師は、こういう残酷なことをしなかったことは確かです。 それはザビエルをはじめ日本にきた宣教師たちが良い人だったからと考える人がいたら、それはあまりにも人が良すぎます。日本の政治体制がしっかりしていて、外国人宣教師たちが好き勝手なことができなかったからです。
キリシタン弾圧のタイミングを逸して、もし幕末にでも弾圧をしたらどうなったでしょうか。それこそキリシタンの信者はさらに増えていて、 弾圧するとすればヨーロッパ諸国が介入してくるでしょう。 その時日本は、ヨーロッパ諸国との軍事力の格差が広がりすぎていて、たちうちできなかったはずです。
だからキリシタンを弾圧するなら、日本がヨーロッパ諸国と互角にあるいは互角以上に戦える16世紀と17世紀の半ばぐらいの時期しかなかったのです。 中南米に住む人たちは、キリスト教を弾圧できないどころか、民族自身が弾圧されてしまったのです。そして現在の中南米では、自分たちの祖先弾圧に手を貸したカトリック教をまるで国教のように信仰しているのです。私から見れば実に哀れというほかはありません。
日露戦争の勝利が日本が植民地にならずにすんだと誰もが承知しています。しかし同時に16,7世紀にキリシタン弾圧に成功したことも、日本が植民地にならずすんだ原因の一つにあげてもおかしくありません。 それがどうして日本の歴史教科書に書かれることがないのか不思議でなりません。
日本でキリシタンの布教が活発に行われていたころ、見逃してはならないことは、神社、仏閣の破壊です。ローマ帝国でもキリスト教が国教になるとそれ以前の数百年にわたる多神教時代の多神教に関する建造物は、ことごとく破壊されています。 日本でもキリシタンによる神社、仏閣の破壊がありました。だから秀吉はキリシタン禁止令の理由の一つに「神社、仏閣の破壊は見逃すわけにはいかぬ」とあげているのです。不思議なことに日本の歴史書、特に歴史教科書にいたっては、日本のキリシタン弾圧は強調しますが、神社、仏閣の破壊行為についてはあまり振れようとはしません。
日本に初めてキリスト教が伝えられた当時の宣教師、ルイス・フロイスは、長年日本に滞在して「日本史」を書いたほどの日本通ですが、彼はその中で仏像を焼却するか首に縄をかけて町中に引き回し、教会で炊事の薪にしたと書いています。 いったん破壊されて数十年も経つと、記録にでも残されていないかぎり、そこになにが建っていたか忘れられてしまいます。例えば、 私は現地に行って実際には見ていませんが、雲仙の温泉地獄で幕府により改宗を迫られ、断固拒否して殺された30数名の神父とキリシタンについては石に刻んで記録に残し、大きな十字架を建てて観光客に訴えています。
そこから数百メートルの地点に温泉神社と真言宗の満明寺が存在しますが、双方とも当時神父やキリシタンにより破壊されてしまったことは現在どこにも記されていません。皮肉にも、唯一の史料はルイス・フロイス著「日本史」です。
第二部五十三章に「温泉神社や僧院、神仏像はキリシタン大名有馬晴信の改宗後、ことごとく破壊された」とあります。この例など記録に破壊されたことが記されているから、破壊後再建されたことがわかるのです。だから破壊されたまま、再建されることもなく消えてしまった神社、仏閣などがどれほどあったか想像つきません。
いずれにしてもキリシタン弾圧に成功したから、日本はキリスト教国になってヨーロッパの植民地になることを免れ、現在では世界遺産に指摘されるような神社、仏閣、そして世界遺産に指摘されなくても古い伝統ある神社、仏閣などを眺めることができるのです。
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オバマ大統領誕生は、日本のおかげ。

皆さんに一つ質問があります。大東亜戦争の原因の一つにもなったものが、戦後国連で撤廃されたもの、それは何でしょうか?それは人種差別撤廃です。敗戦から20年後の1965年に国連で「あらゆる形態の人種差別の撤廃」に関する国際条約が結ばれました。こうして人種平等は、世界中の人々の常識になりました。
戦前までは、白人国家の政府高官たちでさえ公式に有色人種に対する差別的発言をしていました。それが現在では様変わりして、どんな人でも公式の席では人種差別的な発言は許されなくなっています。この人種差別撤廃に大変な貢献をしたのが日本なのです。「あらゆる形態の人種差別撤廃」条約が結ばれるまでの過程を簡単に説明しましょう。
1492年は、コロンブスのいわゆるアメリカ大陸発見の年です。その後の450年間は、白人国家による有色人種国家の侵略です。その間白人にとって有色人種は、差別と搾取と憎悪の対象でした。この450年間の最後に近い1904年の日露戦争と1940年の大東亜戦争は、異色な戦争です。なんで異色かと言えば、この二つの戦争は、有色人種国家、日本による白人大国への武力挑戦だからです。それまでにも有色人種国家の白人国家への武力抵抗はありましたが、いずれも白人国家に鎮圧され、有色人種国家や世界になんら影響を与えることはありませんでした。
日露戦争が起きたその頃、世界の有色人種国家のほとんどが、白人に侵略され、彼らの植民地になっていました。有色人種国家で独立を保っていたのは、日本、タイ、エチオピアなど五本の指に満たないものでした。満州に武力進出してきたロシアに、日本は大変な脅威を感じた。満州が支配されると朝鮮が必ず支配されると、日本は乾坤一擲の勝負に出た。世界中の国々が、日本みたいな小国が、ロシアのような大国に勝てるわけがないと考えていた。
アメリカも当然日本が負けるだろうと予想していましたから日本に同情していました。ところが日本が勝ってしまったのです。当時日本はイギリスと日英同盟を結んでいました。当時の情報の発信地は、ロンドンです。ロンドンから日露戦争の詳細が世界中に伝えられた。日本軍の強さが伝えられ、日本海海戦にいたっては日本海軍の完璧な勝利が伝わると世界中に大変な反響を巻きおこしました。
欧米の白人国家は、自分たち一国だけでも当時の大国、ロシアと戦争してもひょっとしたら勝つのがむずかしいかなぐらいに思っていたのに、小国、しかも有色人種の国、日本が勝った。そのことが日本への脅威が強まり黄禍論の勢いが強まりました。アメリカでは日本を仮想敵国にしたてあげ、日本人移民に対する差別政策が強化され、人種的憎悪の目がさらに強くなっていった。
一方白人国家の植民地になっていた有色人種国家にとって日本は、希望の星になり彼らに刺激を与えることになりました。各国で独立運動が芽生え、また強化されていった。中国からは日本への留学生が一気に増加した。インドの独立の父と言われた、ネール首相は、「ネール自伝」の中でこう書いています。
「もう一つの重要な出来事で私に影響をおよぼしたものとして忘れることが出来ないのは日露戦争である。日本の戦勝は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日新聞を待ち焦がれた。相当の金をかけて日本に関する書籍を買い込んで読もうとつとめた。ところが日本の歴史では面食らった感じだが、昔の日本武士道の物語、それから小泉八雲の楽しい散文は大好きだった。私の頭はナショナリスチックの意識で一杯になった。インドをヨーロッパの隷属から、アジアをヨーロッパの隷属から救い出すことに思いを馳せた。
さらに想いはほとばしり、私が剣をとってインドのために闘い、インド解放の一助けたらんと英雄的行為を夢みるのだった」
数百年にわたって白人に支配されてきた有色人種にとって、白人には絶対に勝てないという「神話」ができあがっていました。その「神話」を有色人種である日本が打ち砕いたのです。世界中の有色人種にとって、またフィンランドやポーランドのようにロシアにいじめられていた白人国家にとっても、日本勝利は快挙だったのです。
日露戦争後10年たらずで第一次世界大戦が起きました。この戦争は、ヨーロッパ内部の白人どうしの戦争でした。日英同盟のよしみもあってイギリスは、日本の参戦を望みました。日本は参戦を決意、ドイツと戦いました。ドイツの敗戦によって戦争は終結した。日本は、イギリス、フランス、アメリカなどと戦勝国の一員でした。この第一次大戦は、ヨーロッパが戦場でしたから、アメリカと日本は本国への影響はなく、却って日本は漁夫の利を得、国力が発展。大戦後日本は、大国としての地位がさらに強固になりました。
大戦終了後、色々な問題を討議するために1919年パリ講和会議が開かれました。日本はこの会議に出席する前から、「人種差別撤廃条約」の締結を議題にのせることを公約にしていました。何故なら現実に日本人がアメリカで人種差別と憎悪の対象になっていたからです。全米黒人地位向上協会の創立に貢献したデュボイスら黒人代表者は、日本全権団がパリに到着すると、早速日本全権団を訪ね、世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくすことに尽力してほしいという嘆願書を提出しています。
アメリカの黒人代表者たちは、アメリカ代表団を尋ねようとせず、日本代表団を訪れて人種平等の嘆願書を出したということは、彼らはすでにアメリカ政府に絶望していることを意味しています。パリ講和会議には、黒人代表者など出席できません。当時アジア、アフリカ、中南米の有色人種国家の中で日本だけが「人種差別撤廃案」を提出できる力を持っていたのです。
「人種差別撤廃案」が会議上に提案され、討議が始まりました。さっそく全米黒人新聞協会は、次のようなコメントを発表しています。
「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を闘わせている日本に、最大の敬意を払うものである。全米1200万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」
「人種差別撤廃案」に強行に反対したのは、現在人権先進国づらしているアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどでした。日本は反対国に受け入れられるように字句の修正などしましたが全然受け入れられません。日本は票決に持ちこもうとしました。しかしこの時の会議の議長は、アメリカのウィルソン大統領でした。彼は長い演説をして事態を沈静化させ票決なしですませようとしました。
しかし日本のしぶとい交渉が功を奏し票決が決定、投票の結果合計16票中11票が日本案に賛成、反対5票の多数決で日本案が採決されたのです。この時ウィルソン大統領は、このような重要な問題は全員の賛成が必要だと、この票決を無効にしてしまった。それまでの会議は、すべて多数決で決定されていたにもかかわらず。ところでオバマ大統領初め現在のアメリカ黒人は、このようなことを学校教育で教えられ知っているのでしょうか。
ウィルソン議長の特権で、「人種差別撤廃案」を無効にしたが、採決の結果負けたことは、アメリカにとって大変なショックだったでしょう。アメリカは移民でできた大国です。インディアンから土地を奪い、彼らを僻地に押し込め、黒人を奴隷にして発展してきた国です。当時アメリカは、日本以外のアジアの国々からの移民を禁止してしまいました。ここで人種差別撤廃が実現すると、インディアン、黒人と平等になり、アジアから大挙して移民が押し寄せてくると、アメリカという国の文化、すなわち白人文化が破壊されることになりかねなません。
当時の上院議員、J.D.フィランは「アジア人に平等権を適用すれば、われわれ自身の国民的生存を危機に陥れ、西欧文明を破壊することになる」と表明しています。ここでアメリカは、「人種差別撤廃案」など提案した日本などつぶしてしまわなければ、アメリカという国の存在の危機になる。その上日本はアメリカがほしがる中国市場にとって邪魔な存在。こうして日本は、アメリカにとっていずれつぶしてしまわなければならい国になったのです。
このように考えるとこれ以後の日本に対するアメリカの外交政策がよく理解できます。パリ講和会議二年後の1921年に日、米、英、仏、中など九カ国が集まってワシントン会議が開かれた。私がいつも主張する、「うぶでバカでお人好し」の日本外交は、完全にアメリカに丸めこまれ、中国における日本の権益の大幅な譲歩など、アメリカの外交の大勝利に終わっています。
そしてあの悪名高い「排日移民法」が1924年に制定されたのです。それまでにアメリカは、日本を除くアジアの国々からの移民を禁止していました。しかし日本は大国なので他のアジアの国々と同列に扱うことができず、日本からの移民が許可されていました。しかしアメリカにいる日本人は、白人の差別や憎悪の対象でした。とくに日本移民の農地に関して様々な制限を設けた法律が次々と可決されていきました。そしてとうとう1924年に、正式に日本人は「帰化不能民族」のレッテルを貼られ、アメリカへの移民が禁止されたのです。
当時の日本人は、現在の日本人と違って非常に誇りが高かった。日本人であることに特別の誇りを持っていた。だから日本国内では反米感情が一気にふくれあがったのです。昭和天皇は、この排日移民法を大東亜戦争の原因の一つに上げています。私も同感です。1941年に大東亜戦争が勃発しましたが、その前に日本を含む全アジアの人々は、アメリカ、カナダ、オ-ストラリア、ニュージーランドへの移民は禁止されていたのです。ここで私たちが忘れてならないのは、私たちが戦争に突入した時のアメリカは、人種差別政策を国策にしていたことです。
大東亜戦争勃発後の六ヶ月間の日本軍の快進撃がすごかった。大東亜戦争は、日本の敗北に終わったが、開始の六ヶ月間の快進撃とその後の半年あまりの東南アジア支配が、戦争を意義あるものにしたのです。六ヶ月間のうちに日本軍は、全東南アジア地域から白人を全部追っ払ってしまったのです。
アジアの人たちは、日露戦争で日本が勝ったのを知っています。日本に勇気付けられたことも確かです。しかし日露戦争の戦場は満州であり、日本海海上です。日本の戦いぶりは新聞で読んだだけです。しかし大東亜戦争の場合は違います。アジアの人たちは、自分の目で日本軍兵士の戦いぶりを見たのです。
自分たちを二、三百年以上支配してきた白人、自分たちには絶対に勝てないと思いこんでいた白人を、自分たちと同じ背格好の日本人が、徹底的に白人兵をやっつけているのです。彼らを見下していた白人兵が、捕虜になって日本軍の命令に従順に従っているのです。「一見は百聞にしかず」といいますが、日本人が出来て、自分たちにできないはずがないと考えるのは当然の結果です。
このため戦後アジアから独立国が続々と誕生した。例えばフィリピンの場合を見てみましょう。戦争中日本軍は、フィリピンを支配していたアメリカ軍全軍を追っ払い、フィリピンを独立国にしました。その後アメリカ軍は、反撃し逆に日本軍全軍をフィリピンから追い出した。日本がフィリピンを独立させた以上、アメリカがまた植民地にするわけにきません。そこでアメリカは、日本がフィリピンを独立させたのではなく、アメリカがフィリピンを独立させたことにしたのです。
東南アジアの国々の独立、その波及がアフリカ、中近東へと広がりを見せました。独立国の数字の動きを見てみましょう。1945年、終戦の年に国連が誕生しました。その時加盟が承認されたのが51ヵ国でした。アジアから3ヵ国、アフリカからも3ヵ国、中近東は7ヵ国、残りは全部ソ連を含むヨーロッパ、南北アメリカと白人の英連邦諸国でした。これでは過去数世紀と同様に将来も白人の世界が続くと思った。
ところがその後の10年間に25の新国家が加盟、1965年までにさらに41ヵ国が加わり加盟国は117ヵ国になったのです。
それでは戦後直後のアメリカの人種差別政策はどうのなったのか。終戦後もアジアからの移民は禁止されたままです。終戦後アメリカの日本占領軍は、日本に民主主義政治を教えたことになっていますが、アメリカ本国では、黒人は相変わらず差別と憎悪の対象であった。投票権も事実上与えられず、投票権を持っていても行使することもできないのです。このことがアメリカは外交面で非常に不利になっていました。
なぜなら戦後長い間、ソ連が崩壊するまで、米ソ冷戦構造と言って世界が大国米ソ両陣営に分かれてお互いに勢力範囲を広げていました。ソ連は、アメリカ国内の黒人に対する人種差別を指摘して対外宣伝に徹底的に利用しました。アジア、アフリカから沢山の独立国が誕生した結果、多くの有色人種の外交官がニューヨークの国連に訪れます。そのときアメリカの人種差別の実態を体験します。ケネディー政権時代のラスク国務長官が「1960年代の外交関係で我々が背負っている唯一最大の重荷は人種差別問題だった」と白状しています。
1950年代にアメリカで黒人の公民権運動がはじまりました。教育、雇用、住居、選挙などあらゆる分野において白人と同等の権利の保障を要求する運動です。紆余曲折を得て1964年に公民権法が成立。ここに初めてアメリカの黒人は、法的にあらゆる差別から解放されたのです。終戦後20年近く経ってアメリカは完全な民主主義国家になったのです。こうして大国、アメリカが人種差別国家でなくなった翌年、1965年に国連総会で人種差別撤廃条約が採決されました。賛成89、反対0、棄権17で可決された。この同じ年に、アメリカは、アジアからの移民禁止を解除しました。
これまでの文章を要約しますと、コロンブスやマゼランが活躍した時代を世界史では、「大航海時代」と読んでいます。これはまさに白人側の呼び名であって、有色人種側から呼べばまさに「大侵略時代」と言えます。この「大航海時代」が17世紀半ば頃に終わるのですが、その時すでにほとんど有色人種の国は、白人国家の植民地なっていました。日露戦争の時には、ほとんどの有色人種国家が白人国家の植民地になって二、三百年経っていたのです。
歴史を振り返れば、この日露戦争で日本が負ければ、世界は支配する白人と支配される有色人種に差別された世界になるかの分岐点でした。日本が勝ったからこそ人種差別撤廃の可能性への道を開いたことになるのです。
第一次大戦後のパリ講和会議での日本の人種差別撤廃案の提出、討議、賛成多数を得た採決、議長の特権による採決無効。まさに人種差別撤廃に向けた貴重な第一歩でした。そして大東亜戦争の勃発。
半藤一利氏は、大東亜戦争の意義など認めませんが、とんでもない主張です。もし大東亜戦争で植民地体制を残したままあっさり敗れたら、意義のない戦争になってしまったでしょう。初戦の快進撃で植民地体制を破壊し一時的にせよ東南アジア全体を支配したということがどれだけ意義のある戦争だったか測り知れないものがあります。その意義の一つが続々と出現した有色人種国家の独立です。彼らは数百年にわたって白人に支配されていたのです。彼らの存在が人種差別撤廃にむけての大変な力になったか容易に想像つくでしょう。
人種差別撤廃条約が結ばれ、現在では人種平等ということは世界の常識になってさえいます。それまでの歴史を振り返るとき、日本の貢献の大きさを抜きに語ることはできません。欧米諸国は、「人種差別撤廃」などで日本など誉めたくありません、自分たちの過去の汚点を語らなくてはならなくなるからです。韓国や中国は、日本の価値など一切認めようとしません。我々日本人がこの点を世界に向かって堂々と語らなくてどうするのですか。また私たちの子供に誇りを持って語らなくてどうするのですか。
自虐史観をつめこまれている若い人たちに言いたい、このブログに納得したら、ぜひこの文章をコピーするなり、あるいは自分のブログに転載するなりして利用していただきたい。
日露戦争と大東亜戦争ほど、世界全体の人類に貢献した戦争はありません。
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日本人とヨーロッパ人の最初の出会い

鹿児島県の大隈半島の南に種子島という島があります。現在は種子島宇宙センターと言って日本の人工衛星打ち上げの基地になっていますので、種子島の名前はよく新聞、テレビに出てきます。その種子島に1543年、一艘のポルトガル船が漂着しました。その時種子島領主、種子島時尭(ときたか)の配下の武士がポルトガル船員と出会ったのです。この時が記録に現れる日本人とヨーロッパ人の最初の出会いと言われています。
出会ったのはいいのですが、双方全く言葉が通じません。ところが幸いにもポルトガル船に中国人が乗っていたのです。二人は砂浜に漢字を書いて筆談をはじめた。それで彼らがポルトガル人であることがわかりました。ポルトガル人を観察してびっくりしているものの一つに、彼らが箸を使わずに手で食事をしていることでした。ということはその頃日本の一般家庭では箸を使ってたべていた証拠です。ポルトガルの船員が手で食べていたというのは、船が島に漂着したせいではないかと思ったのですが、なんとヨーロッパの一般庶民は、19世紀に入っても、ほとんどの地域の民衆は日常、手づかみで食べていたのです。
木製のスプーンはありましたが、だいたいパンですくって食べ、骨や皮や食べかすは、どんどん床に投げ、そこに犬猫が待ち受けて平らげていた。各地の宮廷や大金持ちの食卓では18世紀中ごろからナイフとフォークを使うテーブルマナーを発達させた。ポルトガルの船員が手づかみで食べていたのは、特別の事情ではなくてあたりまえのことだったのです。
ポルトガル船の種子島漂着6年後の1549年に、最初のキリスト教宣教師が布教のため日本にやってきました。この16世紀後半から17世紀にはヨーロッパ諸国の宣教師達、貿易商、船員達が日本にやってくるようになりました。その頃の日本文化について、アメリカ人作家で日本文化に造詣の深いドナルド・キーン氏はこう書いています。
「ヨーロッパの人達は、日本を見て、日本の文化はだいたいヨーロッパの文化と同じ水準に達していると言っていました。もっと客観的に考えますと、当時の日本の文化の水準は、あらゆる点でヨーロッパよりはるかに上だったと私は思っています。日本人の生活が、まず清潔であることに、ヨーロッパ人は驚きました。ある宣教師が手紙の中で、日本の家の中が清潔でありすぎるから、どこでつばを吐いたらいいかわからないと書いています。ヨーロッパでは、きっと家のなかで平気でつばを吐いていたにちがいないと思います。また当時のヨーロッパの食堂では、床の上に葦などがしいてありました。食べながら残り物を捨てるのですが、葦があると見えにくくなるのです。あるいは、犬を呼んで食べさせました。当時のヨーロッパ人は日本の家のなかを見てどんなに驚いたでしょう。どんなに文明的だと思ったでしょう。」
私が力説したいのは、このドナルド・キーン氏のように日本の歴史や文化を熟知している欧米人がいることはいるのです。ところが一般の欧米人は日本の歴史にはほとんど無知といって言っても言い過ぎではありません。このため日本は、欧米人に接するまでは、文化的にも文明的にも、また科学技術の面でもなにひとつみるべきものがなく、未開の国同然であった。現在の日本の発展のもとはといえばすべて欧米人の指導によるものと考えている人が多いのです。これは歴史の無知による傲慢さです。
ドナルド・キーン氏が日本の文化水準はあらゆる点でヨーロッパよりはるかに上といったこの時期、日本は、その当時なかった言葉で、現代使われている言葉で言えば、強力な軍事大国でもあったのです。軍事大国になるきっかけは、ポルトガル船の種子島漂着です。この時ポルトガル人は、種子島領主に鉄砲の使い方を教え、島を離れる時二挺の鉄砲を置き土産として領主に与えていた。
鉄砲という名前の武器は1510年に中国から堺に渡来したと言われています。その時は銅銃でした。その後銅銃は堺で作られたと言われています。堺といえばポルトガル人宣教師、ガスパール・ビレラが「堺はベニスのように執政官によって治められている」といった自治都市のことです。銅銃よりポルトガル人がもたらした鉄砲の性能が圧倒的に良かったのでしょう、たちまちのうちに鉄砲は全国に広まった。このため鉄砲の伝来と言えば、ポルトガル人が置き土産に残していった鉄砲をさすようになったのです。
この鉄砲が種子島の伝えられた頃の日本は、戦国時代といって全国の大名が日本全国の統一をめざしての戦いにあけくれていた時代でした。そのため鉄砲がまたたくまに全国で使われるようになった主な原因になった。日本全国統一を目指す大名の中でもナンバーワン候補になったのが織田信長でした。この織田信長が戦場で鉄砲を使用する全く新しい戦法をあみだし、そして大成功したのが1575年の長篠の戦でした。
彼の戦法は三千丁の鉄砲隊を三列に並べたのです。当時の鉄砲は先込め銃といって、一発撃つたびに銃口に火薬や弾を込めなおさなければならないから連続使用は不可能だった。そこで千丁の鉄砲隊を三列にならべ、最初の一列が撃つとすぐひきさがって二列目が撃つ、二列目が引き下がると三列目が撃つ、三列目が撃つと最初の一列目が撃つといった具合に連続して鉄砲が使えるようにしたのです。
長篠の戦の時の敵は、当時日本最強を誇ると言われた武田の騎馬隊です。そこで信長は木で作った柵をもうけたのです。武田の騎馬隊が柵を乗り越えようと、もたもたしている時に、一千丁の銃がいっせいに火を吹き、それが連続して行われたのです。武田の騎馬隊は壊滅した。黒沢明監督の映画「影武者」を見た人は戦闘場面を思い出してください。あの戦闘場面が長篠の戦なのです。信長が採用したこの戦法で戦闘形態が変わった。鎧(よろい)と兜(かぶと)をつけ、長やりもつ重装備の騎馬隊の戦いから身軽に動ける歩兵隊の戦いに変わったのです。この意味では、長篠の戦は世界の戦史に残る戦ではないでしょうか。信長のこの戦法について、上智大学名誉教授、渡部昇一氏はこう語っています。
「これは別の言葉で言えば、一定の戦場に一定の時間、一定の量の弾を流しつづけるという発想である。そしてこれは鉄砲の使い方としては、まさに最先端の使い方であった。西洋でこの戦法が意識的に採用されるには、実に第一次大戦の末期、実質上のドイツ参謀総長であったルーデンドルフが西部戦線で実行するまで約350年待たなければならなかった」(以下略)
もちろん、第一次大戦のドイツ軍の鉄砲・機関銃の数と長篠の戦における鉄砲の数と性能は比べようもない。だが意識的に一定戦場に一定の時間一定の量の弾を流しつづけるという発想法は世界史的にみても信長によって始められたと言ってよい。」
さらに軍事史研究の世界的権威でイェール大学教授J・パーカーは、彼の著書「長篠合戦の世界史」の中でヨーロッパ人が銃の装填のし直し時間を短縮するのに努力を重ねたのに対し、日本人は命中度を上げることに専心したと述べています。
信長のこの戦法も三千丁の鉄砲が自分の手に入っていたからこそ可能になった戦法です。当時ヨーロッパでも、一つの戦場で三千丁も鉄砲が使われた例はないと思います。信長方だけで三千丁で、敵の武田方でも当然鉄砲を使っていました。しかし武田方は自慢の騎馬隊を頼りにしすぎたため、使用した鉄砲の数は少なかったと言われています。それでも両軍あわせて三千丁以上の鉄砲が一つの戦場で使用されたのです。鉄砲と言えば当時は世界の最新兵器です。
鉄砲が種子島に伝わってからわずか30年後には、日本はその最新兵器の大変な量産国になっていたのです。鉄砲を使用するには、弾がなければなりません。弾の原材料は鉛です。ところが鉛は日本では産出しません。そのため各大名は、鉛の輸入に必死でした。その鉄砲の弾が、1619年オランダ人の日本からの買い付け品目の報告書には、鉄砲の弾、11、696発と記載されているのです。早くも鉛の原料輸入から製品として輸出に向けられているのです。
長篠の戦に勝った信長は、1578年には、自分が作らせた七艘の鉄船、鉄張りの船を使用して、瀬戸内海の制海権を握る敵を海戦で勝ちをおさめています。鉄張りの船、鉄船は、世界最初の出現です。戦いが終わって堺港に入港すると、鉄船の噂を聞いて見物人がわんさとおしかけて、皆びっくりしたと言われています。その見物人の一人の日記には「堺の浦へ近日伊勢から大船が調達されてきた。船は横七間(一間は約1.8メートル)、縦は十二,三間もあって、鉄張りの船である。これは鉄砲が貫通せぬ用意であって、まことに仰々しいことであった。大阪へ廻航して敵の通路を妨害するためのことである。」と書かれています。
鉄船出現前、信長が毛利水軍と戦った時、火矢を打ち込まれ船内が火事になり毛利軍に大敗しました。そのため鉄張りの船を開発したと言われています。鉄船がヨーロッパで採用されたのは18世紀にはいってからです。ポルトガル人でカトリック・イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは、織田信長に会い、1569年6月1日付けで信長の印象をローマに報告しています。
「この尾張の王は、年齢37歳なるべく、長身痩躯、髯(ひげ)すくなし、声ははなはだ高く、ひじょうに武技を好み、粗野なり。正義および慈悲の業をたのしみ、傲慢にして名誉をおもんず。決断を秘し、戦術にたくみにしてほとんど規律に服せず、部下の進言にしたがうこと稀なり。かれは緒人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、みずから奉ずることきわめて薄く、日本の王侯をことごとく軽蔑し、下僚に対するごとく肩の上よりこれに語る。
緒人は至上の君に対するがごとくこれに服従せり。よき理解力と明晰なる判断力を有し、神仏その他偶像を軽視し、異教いっさいの占いを信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後なにごとも存せざることを明らかに説けり。その事業は完全にして巧妙をきわめ、人と語るにあたり、紆余曲折をにくめり」、となかなか的をいた人物評です。
神仏その他の偶像を軽視し、占いも信用せず、魂や霊もなく死んだらそれで終わりという考え方は、当時としては全く常識では考えられなかったのではないでしょうか。信長のこの考え方にうそ、いつわりがない証拠を見せたのが、フロイスのこの報告書の二年後、1571年に敵対する比叡山の延暦寺を焼き打ちにしたことです。僧侶、信徒など多数殺し、800年の伝統をもつお寺をことごとく焼き尽くし、お寺のひとかけらも残さないほど徹底したものでした。
これを知った当時の人たちが仰天したのも当然です。信長が生きていた時代の彼の無神論と比叡山焼き討ちの行為は、現代では通用しますが、当時の常識を超越したものであったことはまちがいないでしょう。この天才肌の信長は、自分の腹心の武将、明智光秀の裏切りにあい、満48歳で死んでしまいます。その後の日本の歴史にとって全くおしまれる早死にでした。
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アイヌ末裔二人のコメント (2)

前回の私(えんだんじ)のコメントに対するアイヌ末裔のしょたこたママさんの反論、りんごあめさんのコメントに対するアイヌ末裔のMark Bogatの反論、ショウさんのコメント、そして最後に私のコメントを載せました。
しょたこたママ
生活する上で不便を感じることがあれば、誰であろうとその不便を解消しようとするでしょう。 強がりに思われるのが不思議なのですが、 幕府や松前藩に介入されて自由貿易ができなくなる以前、 貿易するにあたって当時のアイヌは文字を必要としなかったと思います。 おそらく当時のアイヌにとってシサムがそれほど羨ましい対象ではなかったのでしょう。
文字があったから発展したというようなことは、現代の尺度で測ってから言えるようなことで、 当時のアイヌもシサムでさえも、そんな意識はしていなかったのでは? それを「怠慢」と仰るのが私には不思議に思えます。 それも私の理解力のなさでしょうか。
>日本の近隣諸国がこれほど危険な国々なのに、日本は、武力放棄、戦争放棄の現行憲法も変えることもなく、自国の安全をアメリカにまかせ、いざとなればアメリカが守ってくれるという自分勝手な希望的観測にひたり、自分自身で日本を守る気概など全然なしの状態です。日本人は完全に民族全体で、自国の安全保障に全く怠慢に陥っているのです。こんなことをしているといずれ日本民族は、現在のチベットやウイグルのように衰退の道をたどるのではないかと心配しているのです。<
そうですね。本当に心配な状態だと思います。 国籍法も変えられるとか。
日本が日本で無くなってしまうかもしれません。 これは昔アイヌが経験してきたことです。
徐々に受け入れていたら、アイヌが住んでいた土地はいつのまにか 全部シサムの土地になっていて、 差別を恐れて大勢のアイヌが関東に逃げ出したくらいです。 シサムの皆様も、同じ轍を踏まれませんように。
しょたこたママ
追記。
何度もすみません。 私も白人が各地で先住民を虐殺したり追いやったりしたことも、 もちろん恐ろしいことだと思っております。 彼らが自分たちのしたことを棚に上げて他国に干渉することがあれば、 それはおかしいんじゃない?とも思います。
和人はそこまでアイヌを迫害していない・・・という人々もいますし、 私自身、アイヌはまだマシかと思うこともありますが、 現代にいたるまでのアイヌの悲劇を、 アイヌだけに責任転嫁されるのは、やはり大きな違和感を覚えます。
祖国を愛し、自虐史観を改めて正しく歴史を見直そうと思われるのは、 私も素晴らしいことだと思います。 なんでもかんでも日本が悪かったのか検証するのは良いことだと思います。 アイヌ文化が好きだと仰る方々のなかには、日本人なのに日本が嫌いって方も存在します。 私はかえってそういう方を信頼できません。 でもやはり、アイヌ衰退に関してアイヌだけの責任と言われると、 首を傾げざるを得ません。
軍事的に同等でも、和睦を申し出て謀殺のようなことをされ、 見せしめに首をさらして恐怖心をあたえるやり方をされ、 奴隷や妾にされてきた過去を自然淘汰として片付けられて良いのかと思います。
えんだんじ
しょたこたママ様
私はアイヌ衰退の原因をすべてアイヌのせいにするつもりは毛頭ありません。日本列島支配者になった日本民族が、アイヌの人たちにたいしてやりすぎた面もあったことは認めます。おっしゃるように自然淘汰で片付けられてはたまらない面も理解できます。
それではアイヌ民族衰退の原因は、なにかと言えば、一番大きな理由は、なんども申しますが文字をつくらなかったことだと私は考えています。ひょっとして私の考えが間違っているかもしれませんが、今現在はそのように考えております。
現状に甘んじて民族全体で怠慢になる恐ろしさを私は感じとってしまいます。現状の日本民族は、こと防衛問題に関しては、現状に甘んじて、怠慢の極言にさえはまりこんでいるようです。これが将来取り返しのつかない怠慢なのではないかと心配しています。
しょたこたママさんの将来にも関することですが、私は将来の日本にほとんど絶望を感じております。日本に生まれながら、日本を愛することに関しても一致団結できないからです。 しょたこたママさんがおっしゃるように、自分のうまれた国がきらいで、どうしてアイヌが好きになれるかというのです。
一介の定年サラリーマンですが、たとえ微力でも国のために尽して死んでいきたいと思っています。 どうもこの度は、貴重なコメントありがとうございました。まさかアイヌの末裔の方と交信できるとは思ってもいませんでした。
これからもアイヌのため、日本のためにがんばってください。
りんごあめ
アイヌ問題は私も最近になって小林よしのり氏の「わしズム」のアイヌ特集を見てから興味を持ちました。 同じ日本人なのになぜ先住民だと区別するのだろうか・・・という疑問は以前からあって
大陸から来た人、東南アジアから来た人・・・でもみんな日本と言う国土で同じ法律のもと、同じ言葉を使って暮らしているのに・・・
街で誰がアイヌかと問われたら分からないと思うし、今ではほぼ純粋なアイヌと言う人はいないとも・・・
なのになぜ、今、アイヌだけがしかもアイヌと言うのはまたその中で多数の民族が存在したと聞くので、その中のどの人々を指すのだろう?・・・などなど・・
文化と言えば和人の様々な文化も消えつつあり、なぜ、アイヌは保護されて、地域文化は保護されないのか・・・など、本当に疑問点が噴き出してきます。
文字については確かに使う必要がなければそれでよいという意見もあるでしょうが
それは、異質なものと接触しないという保証のもとでのみだと思います。
でも、私は人間社会を野生の王国以上の欲望を絡めた弱肉強食の世界だと最近になってよく分かりましたので
純粋に人々が分をわきまえて暮らせるというのは夢物語だと、悲しいけれど今の段階ではそう思います。
えんだんじさんのブログをアイヌの方が読まれたらきっと激怒されるだろうなとそれは思いますが 、えんだんじさんの他の著書もお読みになると怒りが減るかもしれません(笑)
と、いうのは、えんだんじさんの激しいおっしゃり方は、身内に対しては、もうより凄まじいものがあるからです。
「大東亜戦争はアメリカが悪い」も題名を読むと米国批判のようですが
日本人に対する歯に衣着せぬ批判も凄いものがあります・・・ぁ、でもそこには愛情を私は感じるので耳が痛いが納得するのです。
さらに「逆境に生きた日本人」に至っては、私は、思わず、書かれた人々の弁護に回りました。しかし、その激しい批判が日本人の欠点を浮き彫りにしたり、また、目をそむけていたいことに目を向けさせてくれて、それが未来の教訓になるのです。
アイヌ問題もある意味、国際問題の様相をはらむので、それが日本国民にとって非常に大きな痛手になる可能性があるということです。日本人の国際的信頼を失墜させる道具に使われかねない・・・
国防が喫緊の課題になっている今、日本国民(もと、アイヌも琉球も渡来人も薩摩隼人も和人も)みな団結して、この激動の時代を乗り切らないといけないと思います。
Mark Bogat
>りんごあめさん
同じ言葉を使っているのが、アイヌのそもそもの間違いだと思います。でも強制されたから現在そうなっているだけであって、それが未来永劫変わらないと思ってはいけません。あくまでも潜在的武力と金銭によって和人は北辺の一時的平和を買っているに過ぎません。
弱肉強食の世界で力に劣ったアイヌが同化されるのは仕方がないと言っていただいて結構です。その通りだと私も思います。だからこそその屈辱を忘れず、和人の力が衰える時まで力を蓄え、何時か和人を肉にしてしまえば良いと思います。「純粋」のアイヌ。笑ってしまいます。
民族に「純粋」も「不純」もありません。そういう分類は明治の頃の未開な学問が生んだ概念です。それを
言うなら、あなたは白人に劣った黄色人種である自分を認めるんですか?ナチス・ドイツと同盟できたのもアーリアの末裔であるアイヌの血を引くのが日本人だからで、アイヌの血を取り去れば猿にも自分が劣るのを認めるんですか?いくら私がアイヌでも、そんな黴の生えた旧説を持ち出して誰かさんのようにホルホルしようとは思いません。だいたい現代民族を定義する上で最も重視されるのが、民族への帰属意識と言語です。そして何をもってアイヌとするかはアイヌ自身の問題であり、他民族の干渉するところではありません。
まあ、こういった事を言っても分からないだろうとアイヌ語ではなく日本語で言うからダメなのですね。
Mark Bogat
それでは美しく、論理的な母国語で言えば
Tane oaraynunekur isam sekor patek a=ye korka aynu
sekor somo yayrekore p teeta isam no Yaunmosir ta
okay utar Sarunkur usa Iskarunkur usa okay korka
yukar otta tan ci=kor mosir epunkine p Poyyaumpe
ne wa tan mosir un kur anakne opitta ne kamuy-
rametok sanike ne kusu yayeoripak=an kane
yaunkur , sekor yayrekore=an wa Cupkamosir ta
cupkaunkur okay , Karapto ta karaptunkur okay rok pe ,
opittano sineytak eiwanke wa sinepuri kor pe ne
kusu sineutari ne ruwe ne .
Tampe neno ku=nuye yakka samo anakne eraman
eaykap kusu kuani emosma aynu utar opittano
sisamitak eiwanke kor samo ene itak hi : tane
aynuytak easkay pe isam . Sonno hayta p samo ne na .
Onnekur asiknen ikasma waniw patek itak easkay
kuni an=ramu wa tampe neno easkay pe ku=ne korka
enci=piski ka somo ki .
Tane eikos ku=nuye yakka e=erampetek nankor kusu
ku=okere kusune .
Mark Bogat
現在、いくら皆が和語を話していようとアイヌ語で通そうと若者達で言い合っています。北海道は我々アイヌの国なのに何を遠慮がいりましょう。でも東京は外国なので郷に入れば郷に従え、和語を使います。
国を愛するあなたには、国土、文化の大切さが分かる筈です。どうか我々の国土を返還して下さい。と言っても一度盗んだものを返す者はいませんね。でも一応言っておきます。
私はアイヌに味方してくれるのであれば、中国でも朝鮮でもロシアでも構わないと思っております。また我々には本州の半分、四国、九州は不要ですから、和人がアイヌに要らんちょっかいを出すのなら、自らの民族の国益を守るため、喜んで先の地を欲しいという国に渡します。貴方方が気持ち悪く日本人に取り込もうとするなら、日本を我々がどうしようと勝手な訳ですから。そもそもここまでアイヌを追い込んだのはあなた達和人です。
朝鮮や中国に恐れをなし、羹にこりて膾を吹くという奴です。彼らは和人に恨まれる事をやってきたのでしょう。でもそれに直接言うのは怖いからと、弱いアイヌを標的に八つ当たりされた訳です。頭を殴っておいて団結を呼びかけるとは片腹痛い限りです。
ショウ
先生の論文を読んで、ふと高校の政治経済の資料集を読んでみたのですが、びっくりいたしました。 東京学習出版社から出ている資料集なのですが、「アイヌ民族差別」にまるまる一ページを割いて書かれています。
コラムとして中曽根首相の「日本は単一民族」発言を取り上げています。論調としては、『私は、日本国籍を持たされ、筆舌に尽くしがたい差別を受けた。中曽根よ恥を知れ!!』と、だいたいこのようなものです。
確かに、アイヌ、琉球、その他いろいろ民族がいることは事実であります。 ところが明治維新以来、近代国家として、東京に政府をおく日本が誕生した以上、北海道も沖縄も生産的かつ日本人として当然な愛国心を持っていただきたいものです。 問題の核心は、アイヌにしろ、琉球にしろ「反日」主義が跋扈していることだと思います。過去の真相を探るのは悪いことではないと思いますが、一見したところ、この種の運動は深く反日勢力と結びついているようです。どうか、北海道も沖縄も「普通の県・道」になってほしいものです。
えんだんじ
りんごあめさん、Mark Bogatさん、ショウさん
コメントありがとうございます。これ以上この話題を続けていくとお互いの非難合戦になってしまいますので、この辺でこの話題を終わらせていただきます。
上記の方以外にもコメントいただきました皆さん、コメントありがとうございました。
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アイヌ末裔二人のコメント (1)

私は、ネットのsocial clubの一つであるmixi(ミクシィー)の会員になっています。私のブログの記事すべてがミクシィーにも載せています。そのミクシィーの方にミクシィーの会員であるアイヌの末裔お二方からコメントをいただきました。皆様に興味があるのではないかと思いここにも載せてみました。
「えんだんじ」はミクシィーでの私のハンドルネームです。「しょたこたママ」さんと「mark bogat」さんは、
アイヌ末裔お二人のハンドルネームです。
しょたこたまま
はじめまして。
文字を持たなかった者達の末裔です。 ブログを拝読いたしました。 日本という国の中での争いと見ることもできるかと思いますが、 昔のアイヌにとっては和人もロシア人も中国人も皆シサム(隣人)であって、 自分たちが住んでいる土地が「日本という国」であるという概念もなかったかもしれませんね。
アイヌが和人に虐げられる前は、けっこう自由に豊かな生活を送っていたことが、 最近の研究で分かってきています。 よく左側の方々が「アイヌは自然と共生し、争いを好まない平和を愛する民族」などと、 美化したイメージで語られることが多いのですが、 実際はアイヌ同士の戦もあったし、ときには交易のために 蒙古と何10年にもわたって戦をしていたことも分かっています。 アイヌである私自身も、昔のアイヌの活動範囲の広さに驚かされました。
えんだんじ様は、アイヌが文字を学ばなかったことをご指摘なさっておられ、 私もそれが一因かも知れないとは思いますが、 アイヌの衰退は、多くのコタンがまとまって国を作ることをしなかったことと、 自由に貿易することを幕府や松前藩に禁じられたことが、大きな要因に思えます。
また江戸時代まで本州から女性が北海道に入ることが許されませんでした。 アイヌの男性は漁場で奴隷のように働かされ、女性は妾に。 梅毒などの病気で多くのアイヌが死にました。 シャクシャインの戦いや、クナシリ・メナシの戦いなどがありましたが、 武力で和人を圧倒しても、和睦を持ちかけられては謀殺されてきました。 アイヌは和人のしたたかさも学ぶべきだったかと思います。
・・・と言っても、昔のことは今さら変えられないので、 せめてこれからは北海道の和人とアイヌが、 お互い尊重しあっていける世の中になることを願って暮らしていこうと思っています。 長々とすみませんでした。
Mark Bogat
はじめまして。私は北海道アイヌ、ユーラップ人の末裔ですが、あまりに酷い説に放っておこうと思ったもののしょたこたママさんは心の良い立派な女性であって清い心から書いた事にオリパクするので、姉さまの書いた事に補って少しばかり書きます。
とかく北東アジアでは中華文明の影響を受け、文字を持つ事が文明を持つ事とされています。だからこそ漢民族だけでなく周辺の民族も独自の文字を持とうとしてきました。西夏文字や女真文字などがそれです。文字にコンプレックスを持つ蛮族がそれにこだわるのは勝手ですが、他民族にまでそれを押し付けるのはとても文明人とは言えません。必要がないから文字がなかった、必要ならその時に自分達に最も都合の良い物を取り入れて使えば良いだけです。友人が何かを手に入れ自慢し、持ってない人の事を馬鹿にするのと同様愚かな行為です。
昔は記憶する事で事足りたし、どうしても必要な場合個人的な記号を木に刻んでいたましたが、それが現在ではアイヌも文字を使っているだけです。今は過渡的にカナ文字を使う者もいますが、将来的にはアイヌ語用に整えられたラテン文字に移行するでしょう。それは和人の文字が不合理で遅れているからと私は言いません。
単にアイヌ語の言語体系に合っているからです(尤も仮名文字も日本語の表記としては著しく欠陥があります。例えば「する」という動詞は国文学ではさ変活用の動詞として特殊なものとされますがsという子音が語根と考えれば規則動詞でありローマ字的なものを使えば和語の学習上とても便利でしょう)。
さて日本民族はこの場合「和人」の事と思いますが、新しい文明に対する進取の気風に富みアイヌが劣る由書かれていますが、事実はその逆です。アイヌと和人が物質文明の上で差を広げたのは江戸時代の中期以降です。それまでアイヌも和人も生活に大して違いはありません。
アイヌに城郭や寺院などのようなものが無いと言われるかもしれませんが、必要がなかったので同じものがなかっただけで、例えば城郭については独自のチャシ建築様式があり、例えば幕末北方警備に来た武士が、浜益などで何故和風の築城をせずアイヌの様式で陣屋を設営したかを考えれば、場所場所に風土環境に適した文明、文化があり、和人でさえも北海道で生きる場合は土着のものに従うのが理に適っているからです。
江戸時代これを唱え北辺で活躍した幕府の役人の最上徳内はアイヌの着る物を着、食べる者を食したそうですが、この聡明な和人をアイヌはレキカムィ(髭の神)と呼び尊敬しました。これに対してアイヌを馬鹿にし、あくまでも和風にこだわった秋田藩士達など敵と戦うどころか寒さのために凍死し壊滅しています。
何も私はアイヌ文明の素晴らしさを自画自賛したい訳ではありませんし、アイヌの歴史が半万年などと誰かさんのように歴史を捏造しようとしている訳ではありません。その時代や場所、しかるべき理由によって文明と文化があるだけだと言いたいだけです。
アイヌについては江戸時代中期に戦国時代となり、国家統一は和人の介入により失敗しました。しかし国家が存在しなかった訳ではなく、小国は幾つかありました。大陸との貿易で開けていた石狩川筋はハウカセという大将の元、シャクシャインの戦いには中立を宣言、次いで松前藩に対しても独立を宣言しています。その後和人による不当な占拠は今尚続いておりますが、石狩のアイヌが如何に警戒され不当な扱いの中に殺されても、独立の志は今日まで受継がれています。
それはさておきアイヌ存立の柱である貿易の自由を奪われ、あまつさえ使い殺しの奴隷として酷使される内に文明は破壊され、わずかに狩猟採集をして生き延びる有様になったのを怠慢というなら、甘んじてその事葉を受け入れましょう。
しかしいつか歴史上立場が変わった時、その発言は自分に返ってくるでしょう。第二次大戦後、アイヌは朝鮮人のように三国人とならなかったのですが、その様な文明人の礼儀正しさに唾をかけるなら、和人は所詮最新の器機を持っただけの土人と言えましょう。
それはさておき、文明の優劣で貴方が抱くアイヌ像は観光のため和人の幻想と妄想が作り出した土人としてのアイヌだと思います。当時生き残っていたアイヌの中、観光に従事していたものは本当にごく一部です。わが家系も誰一人そんな見世物になった事はありません。その他大勢のアイヌはどうしていたのでしょうか?
Mark Bogat
(続き)
面白いのは明治大正の頃の一般のアイヌ達が行ったクマ送りの写真を見ると、成る程伝統的な装束の老人もいますが、男達はシルクハットに洋服を着込み、見物の和人は着物に下駄という、今日の目から見ると明らかに和人の方が未開人のものです。狩の写真にしてもアイヌはハンティング帽に洋服を着込み銃を片手にヨーロッパの貴族を思わせる颯爽とした姿で、対する和人の貧相な事といったら奴隷のようではありませんか。明治期、アイヌ達の中でも教育のある者はいち早く西洋風を取り入れ、男はシルクハットに洋服、女はエレガントなドレスを着こなし町を歩きました。
挨拶の際にもヨーロッパ式です。ところが和人はそれが気に入りません。アイヌは和人より劣っていなければならぬというのが奴らの思考です。誰より優れたアイヌを嫌ったのは役人で、アイヌの新風俗の禁止を求めた嘆願が当時の官報に残っております。
日本がアイヌを保護しなければロシアに占領されていたという勝手な説もありますが、当時アイヌ白人説があり、彼らのアイヌに向ける目は黄色人種に向けられるものとは違っていました。歴史にもしは禁物ですが、アイヌが白人に同胞として迎えられていれば、今の我々はもっと良い暮らしができていたと信じます。私も汚い人モドキの血が混じらず、容貌で苦労する事もなかったでしょう。本当に、血の分離機があれば良いと幾度思った事か!話が逸れましたが、私の祖父は写真すら珍しい時代、見よう見まねでその技術を習得しました。
また自動車を見るのも稀な時代その運転を志し、また子供の時実際に目にしたリンドバーグの飛行から飛行機の操縦を夢見、アイヌ語、日本語の他ロシア語も話し、96で死ぬまで常に新しいものを厭わず、器具を使いこなし思想や社会情勢を理解しました。そんな祖父が大好きだったので私もアイヌとして生きている訳ですが、アイヌの中にはこういう人が数多くいます。知られてないのはそんな情報和人が欲しがらないので流通していないだけです。
一方和人の方ではこんな人は本当に稀です。和人ばかりこんなに沢山いるのに私も1、2名しか知りません。これをもってしても、貴方の古臭い考えを読んでも、和人が進取の気風に富むなどとは到底言えません。気分を悪くなされたなら、和風に一応意味なく謝っておきます。けれど事実は事実ですので致し方ありません。
ともあれこんな至らぬ和人の自惚れも、今後栄え行くアイヌ民族の反面教師として役立てたいと思います。どこの民族でも事実に目を背け歴史を捏造するするようになってはお仕舞いですね。勉強になりました。心より イヤィラィケレー(有難うございます)!
えんだんじ
しょたこたママさん、Mark Bogatさん
コメントありがとうございます。私には貴重なコメントでした。私が初めてアイヌの方に会ったのは、もう何年も前の北海道のみやげ物店でした。ましてアイヌの方のご意見を聞くことは今までになかったことなので余計に貴重でした。
アメリカインディアンが白人と出合った時が17世紀の初めです。インディアンの白人に対する武力抵抗が終わりを告げたのは19世紀後半です。白人とインディアン接触後わずか280年たらずでインディアンは、完全に僻地に押し込まれ民族の末路を迎えたのです。弓矢と鉄砲の文明度の違いが、両民族の闘争の結末に決定的な影響をあたえました。
日本民族とアイヌ民族が最初に出会ったとき、おそらく千年以上も前でしょう。両民族とも文字を使用していない時期に遭遇しているはずです。この時日本民族とアイヌ民族との間に文明の差はほとんどなかったのではないでしょうか。
時代を経るにつれて文明の発達度がちがい、日本民族有利になりました。また両者の間に戦争もありました。しかし現在にいたるまでの長期間に日本民族に同化させられたり、あるいはアイヌ民族の中に日本民族との同化を求めたり、あるいはアイヌ民族の独自性を保つアイヌ民族もいました。日本民族の中にアイヌの血が混じっている人も沢山いるでしょう。
私は日本民族とアイヌ民族の接触の長さを考えると、現在のアイヌ民族の状態は、日本民族の武力によって民族の末路をたどったと言うより、自然淘汰の道をたどったのではないかと考えております。御ふた方にとって不満だと思いますが、私は今のところこのように考えております。歴史的に新しい発見でもあれば、変わるかもしれませんが。
文字は文明発達の基礎で大変重要なものです。文字を持たない民族で文明的に発展した民族はありません。持つ必要がなかったから持たなかったというのは、強がりにすぎません。アイヌ民族が住む同じ日本列島で文字を持たなかった日本民族が文字を使用し始め、文明が発展している現実を見て、なぜアイヌ民族は、自分で文字を作ろうとしなかったのでしょうか。私が主張したアイヌ民族の祖先の怠慢の意見は変わることはありません。
御二方に時間があれば、私のブログの中にある「涙の道」(The Trail of tears)をぜひ読んでください。アメリカインディアンには、それこそ沢山の部族がありました。その中でたった一つチェロキー族だけは、アメリカ文明にならって独自のチェロキー文字を作ったのです。聖書をチェロキー文字に翻訳し、チェロキーフェニックスという新聞を出版し、議会を持ち、大統領制を採用したのです。短期間に人口およそ2万人の小国家。チェロキーネイションが誕生しました。
しかしアメリカ政府は、このチェロキー国家の存在を許しませんでした。自分たち独自の文字を使いだしたチェロキー小国家の発展に脅威を感じたのでしょう。アメリカ政府は、チェロキー族が住む場所から1300キロ先の僻地に押し込めたのです。1300キロ先に着くまでの行程は苛酷をきわめ、2万人のうち無事到着したのがわずか4千名ほどでした。
御二方には、さらにブログの中にある「アメリカの建国神話」を読んでほしいいと思います。なぜアメリカインディアンの話を読むことをすすめるかというと、人種間の争いでも白人とアメリカインディアン、アイヌ民族と日本民族とでは争いの質が違うからです。
白人とインディアンとでは、完全に異民族間の争いです。この二つの民族の間に共通性などなにもありません。それだけに支配者、白人のインディアンに対する扱いは残酷、苛烈です。
アイヌ民族と日本民族との人種間の争いは、完全な異民族どうしの争いより、似た者どうしの争いです。同じ日本列島に1000年以上住み、同じ黄色人種、宗教も似たような自然崇拝に祖先崇拝。要するに両民族には共通点があるのです。それだけに支配者側の日本民族は、アイヌ民族に対して白人のインディアンに対する扱いほど残酷、苛烈ではなかったと思っています。
その証拠として明治政府が北海道開発の一環としてアイヌ民族の同化政策があげられます。社会には現実としてアイヌ差別はあったでしょう。しかし日本政府そのものは出来るだけ差別しない意向が強かったからこそ同化政策をとったのではないでしょうか。白人にはアメリカインディアンは徹底した差別の対象ですからインディアンの同化政策などの考えも浮かばないでしょう
わずか2万名ほどの人口を持つチェロキー族でさえ独自の文字を作りだしたにもかかわらず、アイヌ民族は、全く文字を作ろうともしませんでした。何度もいいますがアイヌの祖先の怠慢です。なぜこの怠慢を力説するかといいますと、本当はここから先もブログに書きたかったのですが、あまり長くなるようなので書くのをやめたのです。そこでここら先は書きたかったことを書きます。
人間の歴史において民族全体で間違いを起こしたり、民族全体で怠慢になることがあります。ドイツ民族全体で、ユダヤ虐殺の間違いを起こしました。アイヌ民族全体で、すぐ近くに文字を使用する日本民族が存在するのに文字の使用を怠りました。民族全体で間違いを起こすより、民族全体で怠慢になることの方が恐いのです。間違いは簡単に言えば、謝ればすむことです。しかし怠慢はその民族の命取りになりかねないからです
日本民族には、現在完全に怠慢になっている問題があります。国の安全保障の問題です。中国は核兵器所有、尖閣諸島は中国の領土と主張、日本領海内で石油の盗掘。ロシアも核兵器所有、いまだに北方四島を返還せず、自由気ままに日本漁船や船員を拿捕し、罰金を請求。北朝鮮も核兵器所有、大勢の日本人を拉致。韓国は竹島を略奪し、韓国の領土だと主張。
日本の近隣諸国がこれほど危険な国々なのに、日本は、武力放棄、戦争放棄の現行憲法も変えることもなく、自国の安全をアメリカにまかせ、いざとなればアメリカが守ってくれるという自分勝手な希望的観測にひたり、自分自身で日本を守る気概など全然なしの状態です。日本人は完全に民族全体で、自国の安全保障に全く怠慢に陥っているのです。こんなことをしているといずれ日本民族は、現在のチベットやウイグルのように衰退の道をたどるのではないかと危惧しております。
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アイヌ民族とアメリカ インディアン

アメリカという国は、インディアンから土地を奪い、彼らを 僻地に押し込め、黒人を奴隷にしてできあがった国だけに、多少うしろめたい気持ちがあるのでしょう。アメリカは他国の少数民族や原住民族の人権には敏感なところがあります。
数年前アメリカの週刊誌、タイムにオーストラリアの原住民族アボリジンの記事が出ていて、その中でアメリカ人はアメリカ インディアンと条約を結んだが、オーストラリア人はアボリジンと何一つ条約を結ばなかったとオーストラリア人を批判していました。
確かにアメリカ人は、インディアンと条約を結びました。結んだ条約の数は400から600と言われています。ところが条約違反が出るのはいつも白人側からであった。その理由はたいがい次の三つが原因でした。
(1)入植者が増えてもっと土地が必要になった時。
(2)インディアンを押し込めた居留地が思ったほど不毛の土地でなく、農地、鉱山その他の確保に欲しくなって インディアンが邪魔になった時。 特に居留地から金や石油がでたらたちまち条約はほごになってしまった。
(3)決められた居留地に大陸横断鉄道が通過することになった時。
だからタイムの記者がアメリカ人は インディアンと条約を結んだなどと自慢げに語ることはできないのです。 多分学校ではインディアンと結んだ条約がその後どうなったのか教えなかったのでしょう。
これも数年前のタイムの記事ですが、アイヌの人々がいかに日本人に差別されてきたか、そしていまなお差別されているかくわしく取り上げ、その中で日本人の観光客が、アイヌ記念博物館に訪れたとき、博物館内を説明するアイヌ人が靴をはき日本語を話すのを聞いてびっくりしていたと書いてありました。
いまどきの日本人は、日本にいるアイヌの人が靴をはき、日本語を話すのはあたりまえと思っています。それを驚くというのは日本人ではないと断言できるくらいです。タイムのアイヌ差別記事は、言外にアメリカ人がインディアンにしたようなことを日本人もアイヌの人にしているではないかという意味が含まれていました。
日本人とアイヌ人、アメリカ人とインディアンは、決して同列に扱えません。一番大きな理由は、日本人とアイヌ人との接触の古さです。日本民族とアイヌ民族は、いつ、どこで最初に接触したのか古すぎて誰も正確なことはわかりません。
古くは4世紀前半ごろ在位したとみられる景行天皇の息子がアイヌ討伐に遠征したという伝承があります。この頃日本はまだ文字があまり普及していなかったと考えられています。 実在のはっきりした天皇でアイヌ征伐に遠征軍を派遣したのは斉明天皇です。西暦658年の時です。いまからおよそ1350年前のことです。
この頃の日本は文字が充分に普及していました。なぜここで文字のことを振れるかというとアイヌは、アメリカン インディアンと同じ文字を持たない民族だからです。
日本民族とアイヌ民族の最大の戦争が8世紀末から9世紀初めにかけて行われました。第一回目の日本軍が788年に現在の岩手県を根城にしているアイヌ民族を征伐するために派遣された。 アイヌ軍の総大将ともいうべきアテルイにゲリラ戦に持ち込まれ大敗を喫してすごすごと京都に引き返しています。
第二回目は794年に十万という大遠征軍が派遣されました。この時有名な坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)は副将軍として参加しています。 今度は負け戦ではなかったもののアイヌ軍を降伏させることができなかった。日本政府はすぐに三回目の派遣準備にとりかかり、797年に坂上田村麻呂を征夷大将軍に抜擢しました。
801年彼は天皇により節刀を授与され派遣されました。節刀とは、古代、天皇が出征する将軍に全権を委任するしるしとした刀のことです。 802年ついにアイヌ軍を降伏させることができたのです。彼はアイヌ軍の総大将アテルイを捕虜にして京都に凱旋した。
日本民族とアイヌ民族は、お互い文字を持たない時代から日本列島で接触していたと考えられているのに、なぜこの時代で両民族の大差ができてしまったのか。 その原因は一言で言えば、文明の発達の差です。日本は先の三回の遠征軍で見せたように10万の大軍を派遣できる経済的余力もあれば、その大軍を動かす政治力も組織力もあった。
これは完成された国家があってはじめてできることです。ところがアイヌは、まだ部族どうしばらばらで国家といえる体制ではなかったと言われています。それではなぜ同じ日本列島に存在する両民族に文明度の発達に差が出たのでしょうか。
日本民族は昔から新しい文明に対する進取の気性に富むのに対し、アイヌ民族は、自分たちの生き方にこだわるあまり文明に背を向けたと考えられます。 日本民族は漢字が中国から輸入されると、その漢字を使いこなし、ひらがな、カタカナを作り出していきました。6,7,8世紀は中国の隋、唐の国家の時代です。その当時両国の文化は、日本より圧倒的に高かった。そのため日本政府は莫大な費用をかけて遣隋使と遣唐使を派遣しました。
役人、留学生、僧侶たちが両国の文化、文明を学ぶために派遣されていきました。遣唐使など十数回、総勢500人は派遣されたと言われます。当時の造船技術では、いくら近いとはいえ命がけの面がありました。当時の日本人の気概が伝わってきます。
これに反しアイヌ民族は、彼らと同じように文字を使用しなかった日本民族が文字を使い出し、日本の文明がどんどん発達していくのを横目に身ながらほとんど日本からなにも学ばなかったのではないでしょうか。 それでも先の三回の戦いで善戦できたのも、その時まだ文明にそれほど大きな差がなかったからだと想像できます。
しかしそれ以後は、文明の差どんどん大きくなっていったと思われます。明治の時代になって日本政府は、明治2年(1869)蝦夷地を北海道という名前に変え、本格的に北海道開発にのりだしたのですが、この時代になってもアイヌ民族は、文字を使用していません。
5世紀には日本政府は完全に文字を使いこなしていたと考えられていますから、19世紀に蝦夷地が北海道という名前になるまでおよそ1400年間、アイヌ民族は、文明発達の基礎になる文字の使用ということを日本民族から学びとろうとしなかったのです。 これは全く理解できない不思議な現象で、日本列島という小さな島だけにアイヌ民族の怠慢と言っていいのではないでしょうか。
アイヌ民族は、同じ日本列島に住み、彼らより文明水準の高い日本からほとんど何も学ぶことなく、民族全体で文明の発達に背を向けて1400年間も暮らし続けてきたのではないでしょうか。 そのためアイヌ民族は、結果として自ら滅びる道を選び自然淘汰に近い形で民族の末路を迎えてしまったといえます
この狭い日本列島で大昔にらみあった二つの民族は、一方は貪欲なまでに新しい文明を吸収し、片方は文明の発達をほとんど無視してきたということが、現在の日本人とアイヌ人の差になっていると言えます。
明治の初めに日本政府が北海道開発に乗り出した時、政府は生存するアイヌの人たちを日本人にするための同化策をとりました。 同化策の中には開墾するアイヌ人には住居や農具を支給するから、死者が出た時には家を焼き払って転居しないこと、これからうまれる女の子には入れ墨をしないこと、男子は耳輪をしないこと、日本語を学ぶのはむろん文字も学ぶこと、アイヌの人口の多いい所ではアイヌ人専用の小学校が作られたことなど色々あります。
現在は少数民族の人権が強調される時代ですから、時流に乗り遅れるなとばかりに、この同化策そのものを批判する日本人が多いいのです。 確かに同化策の細部には批判されてもしかたのない面もあります。 例えば開墾地を支給する場合日本人に与える土地の方が広いということなどです。
しかし同化策そのものを私は明治政府を批判する気にはなりません。まず考えなければならないのは、その頃の日本経済です。明治時代全体で言えることは日本の貧しさです。特に明治の初めは、近代国家が出来たばかり明治時代のなかでも特に貧しいと言っていいでしょう。
ましてや未開地の北海道のことです。特に内地からやってきた日本人開拓民など極貧状態のようなものです。 そういうところで少数民族をほったらかしにしておくと多数民族の餌食になってしまうのです。これは北海道だけの話でなく世界共通のことです。だからアイヌ人を保護するために政府の力が必要なのです。
アイヌ人を保護するための政策といったら二つしかありません。一つはアメリカ インディアンのように居留地を設けそこに押し込めてしまうことです。二つ目が同化策です。同化政策そのものを人権無視と主張する人は、明治の初めごろ北海道の状況を考えてアイヌ民族を保護するにはどんな現実的な政策があったか提言してもらいたいものです。
現在のような人権意識が過剰とも言える現在の価値観で、人権意識がほとんどなかった明治時代を批判し、裁くことは、現在の価値観で大東亜戦争を裁いているのと全く同じ現象です。日本の左翼の知識人にはこういうバカが多すぎます。
現存するアイヌの人たちには酷な言い方であることを充分承知のうえで、私は言いたいのです。アイヌ民族の祖先の人たちは、すぐれた文明を吸収する努力を完全に怠ってきた。これではアイヌ民族みずから自滅の道をたどる原因を作ったと言えるのではないでしょうか。
アイヌ民族が日本民族と同じようにすぐれた文明をどんよくなまでに吸収していたら、それこそ日本列島の支配権をめぐって熾烈な戦いが続いたでしょうし、ひょっとしたら日本列島は南北二つの国にわかれる可能性すらあったのではないでしょうか。
アイヌ民族は自ら身を滅ぼす原因を作ってしまったと考えられるのに対しアメリカイ ンディアンやオーストラリアのアボリジンは、他の大陸からやってきた白人によって強制的に民族絶滅の危機にさらされ、オーストラリアのタスマニア島のタスマニア人は、皆殺しにあい絶滅されてしまっています。
アメリカ人やオーストラリア人に、アイヌ民族について日本を批判する資格など全然ないのです。
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「鉄の女」 北条政子 (その2)

まず最初に訂正の御願いを申しあげます。タイトル「鉄の女」 北条正子、正子という漢字ですが正しくは政子です。本文では正子と政子が入り混じっていますが、正式には政子が正しい漢字名です。漢字変換のミスを読者から指摘されるまで全然気がつきませんでした。失礼をいたしました。
1.尼将軍
暗殺される前、生存中の次男、実朝は体が弱く、結婚後十年以上たっても子供ができなかった。昔のことですから体力のなさが原因と考えたことでしょう。そのため実朝の跡継ぎが問題になってきました。そこで政子や幕府首脳陣が話し合った結果、誰の発案かわかりませんが京都から皇族の将軍を迎えようということに決まった。その交渉のため政子が京都にのぼった。
交渉の結果、後鳥羽上皇の息子の六条宮か冷泉(れいぜい)宮のどちらかを将軍として鎌倉へ使わすという約束をとりつけて鎌倉に帰郷した。ところが実朝が暗殺されてしまったので、早速幕府側は、約束の履行を要求した。
ところが後鳥羽上皇は、源氏将軍家の断絶は、鎌倉幕府打倒の絶好の機会ととらえ政子との約束を反故にしようとした。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の荘園支配に不満を持っていた。上皇の収入に直結するからです。
それでも再交渉の結果、左大臣九条道家の子で、西園寺公経(きんつね)の孫、頼朝からいえば、妹の曾孫にあたる二歳の幼児、藤原頼経(よりつね)を将軍として鎌倉に向かえることで話が落ち着いた。二歳の幼児将軍頼経(よりつね)は、1219年7月19日鎌倉に到着した。
後見人は政子がなった。これによって政子は尼将軍と呼ばれるにようになった。夫、頼朝の死後、政子はすぐ出家して尼になっていましたが、今まではどちらかと言えば影の実力者のような存在でした。
ここで尼将軍と呼ばれ幼児将軍の後見人になり、政治面で弟の執権義時と同じように肩を並べたようになったのです。実朝が殺されたのが同じ年の1月12日ですから、悲しみに浸っているどころか、わずか半年で政治の矢面にたったというのは政子の並々ならぬ精神力がうかがえます。
2.承久(じょうきゅう)の乱
鎌倉幕府と後鳥羽上皇との関係は、幼児将軍、藤原頼経を鎌倉へくだすことで決着がついたわけではなかった。後鳥羽上皇は、実朝が死に源氏の跡継ぎが絶えたこの時期が鎌倉幕府を倒す好機と、北条氏に不満を持つ武士たち、京都の御家人たちを集めたりして倒幕の準備をしていた。
1221年5月19日京都から鎌倉まで4日で到達できるという超特急の飛脚が鎌倉に着いた。鎌倉から京都守護職に出向いている伊賀光季(みつすえ)からの飛脚でした。
「院ではしきりに兵を集めています。私の身辺もあぶないようです」
この時伊賀光季はすでに殺されていた。5月14日に後鳥羽上皇が召集をかけたのに京都にいた鎌倉の御家人たちで、光季ただ一人応じなかったからです。
5月19日の光季の最初の飛脚後、その日のうちに次々と飛脚が着いた。飛脚たちの報告で政子を初め幕府首脳陣は愕然とした。上皇の呼びかけに応じて北条氏に滅ぼされた比企氏や和田氏の一族の裏切りはしかたがないとしても、鎌倉御家人の有力者に裏切りが出ていること。上皇が義時追討の院宣を全国に配布したこと。
院宣とは上皇が出す公文書のことです。院宣の影響力は大きく枯れ木に花が咲くとまで言われてきました。すなわち鎌倉幕府が「朝敵」になってしまったのです。その日のうちに上皇の院宣を持った使者が鎌倉に到着しました。
幕府は滅びるかもしれない。鎌倉武士に動揺が広がりました。ぐずぐずしていると上皇軍の数がふくれあがるかもしれないとその日のうちに義時、時房の兄弟、義時の長男泰時、大江広元らがあわただしく政子の邸宅に集まった。同時に鎌倉中の御家人たちも招集された。
政子の邸宅、また庭のすみずみまでぎっしり集まった御家人たちを前に尼将軍政子は、一世一代の名演説をぶちあげた。
「みなさん、心を一つにして聞いてください。これは私の最後の言葉です。あなたたちには、昔は三年の大番(おおばん)(京都大番役のこと)というものがあった。大切な勤めゆえ、みなはりきって出かけていった。しかし三年ののちには力つきて、みすぼらしいみのかさ姿、足にははくものがないありさまで帰って来た。故殿(頼朝のこと)はそれをあわれんで、三年の勤めを六ヶ月にちぢめ、分に応じたわりあてをして、みなが助かるようにはかられたではないですか。
これほどの深いおなさけを忘れて、京がたへつこうとする者は、・・・いいえ、とどまって鎌倉がたへ奉公しようとする者も、さあ、ここで、はっきり、所存を申し述べて下さい」
政子は上皇の院宣の不当さをなじり、鎌倉には将軍四代の今までに、朝敵の汚名をきせられるようなあやまちは、露ちりほどもなかったと主張、さらに「わたしはなまじこの年まで生き延びて、三代将軍の墓所を、西国のやからの馬のひづめにかけられるのかと思うとくやしくてならない。これ以上生きて何になろう。京都がたにつきたいのなら、この尼を殺してからいくがいい」
切々と訴える政子の目には涙があふれ、聞いている御家人たちの目にも涙、政子の説得は功を奏し、御家人たちは一致団結した。防御に専心すりより一刻も早い攻撃と決定。
5月21日の夜、総指揮官、北条泰時は、主従わずか18騎で鎌倉をたった。時房と朝時(泰時の弟)がこれに続き、東国の武士たちが続々とあつまり、京都を攻め入る時は19万の大軍になり朝廷側に圧勝した。これを承久の年に起こったので承久の乱と言う。乱後の処分に政子も立ち会っています。
事件の張本人、後鳥羽上皇は出家の上、隠岐の島(島根県)へ、後鳥羽上皇の皇子の順徳上皇は佐渡島(新潟県)へ配流ときまった。同じく後鳥羽上皇の皇子、土御門(つちみかど)上皇は、事件に関係がなかったけれど、自ら進んで土佐(高知県)にひっこんでしまった。
3.政子の弟、義時の急死
承久の乱からまる3年後の1224年、執権北条義時が急死した。義時は持病の脚気を病んでいたところへ発作をおこし、いまでいう脚気衝心で死んだというのが公式発表でした。ところが義時は毒殺されたというのです。首謀者は義時の後妻伊賀の方(かた)とその兄伊賀光宗。伊賀の方には義時との間に一男一女がいた。
娘の方が、参議右中将一条実雅(さねまさ)に嫁いでいて、当時20歳の政村(まさむら)という息子がいた。伊賀の方と、兄光宗は、この一条実雅を将軍に、政村(まさむら)を執権にし、幕府の権力を伊賀氏の手中におさめようという野望を抱いていた。
これはまさにかっての政子の父、時政の後妻牧氏の陰謀の再生版です。伊賀の方と兄光宗は、幕府の最有力者、三浦義村(よしむら)を抱き込みにかかった。それを察知した政子は、一人で三浦邸に乗り込み義村を談判、説得し陰謀を未然に防いだ。そして首謀者、伊賀の方と兄光宗を流罪に処した。
この事件解決後、政子は病に倒れた。執権北条泰時を初め鎌倉じゅう大変熱のこもった治癒祈願がおこなわれたという。ついに69歳の生涯をとじた。政子にとってやっと得た安息の日は、死だったのではないでしょうか。
しかしあの世では、夫頼朝に「政子、お前は本当によくがんばってくれた」と涙を流して喜び、しっかりと政子を抱きしめたことでしょう。政子のお墓は、現在鎌倉の源氏山のふもと、寿福寺の岩窟に実朝のお墓と並んでいる。
4.政子陰謀家への反論
政子は鎌倉幕府の実権を政子の実家、北条家ににぎらせるために数々の陰謀を行ったという陰謀家説があります。小説家が、政子を陰謀家と描くのは勝手ですが、歴史家や知識人が政子を陰謀家のように扱うのはいただけないと思います。
史実的には、政子が陰謀家だったということを肯定する史料もなければ否定する史料もないからです。(もっとも私の知る限りではという条件はつきますが)
私は政子を非常に好意的にとらえるのは、承久の乱の時の政子の存在感の大きさです。承久の乱の時、鎌倉幕府の最高責任者は、政子の弟、執権北条義時です。頼朝生存中は、父時政とともに戦場を駆け巡っていますから経歴も文句なし。そして将軍はまだ4歳になったばかりです。
そのことを考えると執権義時が、自邸に首脳陣や御家人たちを集め、義時が皆の前で演説して当然だとおもうのです。それが義時自ら首脳陣を引き連れて政子の邸宅に行き、そこで鎌倉中の御家人たちを呼び集め、政子に演説させているのです。いかに政子の鎌倉幕府での存在感が大きかったかの証拠でしょう。政子はそれだけのカリスマ性を備えていたのです。ここでカリスマ性を分かり易く説明するために全く関係のない人物をとりあげてみます。
「経営の神様」と言われた松下幸之助です。ご存知のように幸之助は、戦後直後に一町工場としてスタートしてから一代で世界的なメーカー育てあげた経営者です。幸之助は、ちょっとやそっとでつぶれそうもない大きさの会社にするまでに、恐らくかぞえきれないほどの艱難辛苦を乗り越えてきたことでしょう。
幸之助と一緒に働く従業員は、苦悩し奮闘する幸之助を実際に見聞きし、幸之助への絶大の信頼を寄せるようになったと思います。そのようにして幸之助はカリスマ性を備えていったと私は解釈しています。
要するにその人のカリスマ性というものは、数多くの試練を乗り越えることによって自然と身につくものだと考えています。
話を元に戻して、政子のことですが、政子も前に振れたように数多くの試練を乗り越えてきました。それもこれも夫頼朝の残した鎌倉幕府安泰のため乗り越えてきたということを鎌倉御家人たちが実際に見聞きして知っていたからこそ、政子はカリスマ性を身につけることができたのではないでしょうか。
もし政子が陰謀家だったら、陰謀事件にはかならずうわさがつきまといます。「人の口には戸はたてられない」という言葉があります。御家人たちの政子に対する信頼性が必ず薄らぎます。承久の乱、すなわち朝敵と名指しされ鎌倉幕府存亡の危機に直面したとき、鎌倉中の御家人たちは、政子の演説のもとに一致団結した行動がとれたでしょうか。
このように私は、北条政子という女性を非常に高く評価しているのですが、世間ではあまり知られていません。政子は、男女同権だとか男女平等の考えがなかった800年も前にこれだけの活躍をしているにもかかわらず、現在の女性にも全く感心を持たれていません。なぜか、歴史観が影響しているからです。そのことについては来週書くことにします。
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「鉄の女」 北条正子



源頼朝の名前は、日本人なら誰もが知っているでしょう、北条政子はその頼朝の妻です。源頼朝の生き様はよく知られていますが、そのわりには妻、政子の生き様はあまり知られていません。そこで政子の生き様に光を当ててみました。
彼女は一言でいうと、非常に気の強い、気丈な女性です。昭和55年(1980)年代のイギリスの首相、マーガレット・サッチャーは「鉄の女」と称されましたが、北条正子もまさしく「鉄の女」で、現在は、男女平等、男女同権、男女機会均等の考えが浸透していて沢山の女性が社会で活躍していますが、まだ北条正子ほどの「鉄の女」は、出現していません。
1160年、頼朝は平清盛によって伊豆の蛭が島に流された。頼朝14歳の時です。それ以来20年間この地で流人生活をおくっています。北条正子は、頼朝の監視人の一人である北条時政の三女です。1177年その政子に頼朝から恋文がもたらされたのです。政子21歳、頼朝31の時歳です。
こうして二人の恋が始まった。ちょうどそのころ政子の父親、時政が京都に行って留守でした。頼朝はその時期をねらっていたのでしょう。政子には父親が決めた、いいなづけがいた。相手は北条家の近隣に所在する平氏一門の山木兼隆でした。
政子の父、時政は京都から帰り三島で二人の仲を知らされた。時政は家に帰るなり政子を頼朝から引き離していいなづけの山木兼隆のもとえ送りとどけた。普通の娘ならこれであきらめたはずです。
しかし政子はあきらめなかった。兼隆のすきをうかがって、激しい雨の降る夜政子は、山木の屋敷を抜け出し、頼朝のいる熱海の伊豆権現に向かって一人で逃げ出したのです。
追手を気にしながら激しい雨の降る夜の山道、自分の手元の明かり以外一切闇の中、体力もいるが胆力も必要です。当然政子は、死を覚悟しての脱走です。京都あたりの公家の女性では、とてもまねできない事であったでしょう。
やっとの思いで伊豆権現に到着し、頼朝の胸に飛び込んだ時は、政子には一生忘れることのできない感慨深いものがあったと思います。この彼女の行動が頼朝と北条家を深く結びつける結果になったのである。
頼朝の平家への戦いが始まりました。1185年に鎌倉幕府創立、1192年に頼朝は征夷大将軍になった。この時頼朝46歳、政子36歳でした。政子幸せの絶頂期だったでしょう。その間の政子に関するエピソードを二つ。
1.当時の武士の長ともなると妻の他に愛人(側室)がいるのは当然のことと認められていました。妻は
妻でしかたがないこととあきらめていた。しかし気の強い政子は、頼朝に愛人を持つことをあきらめさせることはできなかったけれど、かなりあらっぽい抵抗をしています。
頼朝には伊豆にいた時から妻、政子の他に、名前を亀の前といった愛人がいた。鎌倉に移り住んでからも亀の前を鎌倉によびよせていた。怒った政子は、家来に亀の前の家に火をつけて燃やしてしまった。それでも頼朝は亀の前を放さなかったそうです。
2.頼朝の家臣たちは、頼朝の異母弟、義経(よしつね)の行方を捜査中、義経の有名な愛人、静御前(しずかごぜん)の居所がつきとめた。京都での取調べではらちがあかず、彼女を鎌倉につれて来させた。彼女はすでに義経の子を身ごもっていました。取調べの結果、静御前が義経の居所を本当に知らないのか、うそをついているのかはっきりしません。
その時政子は、夫、頼朝に頼んで静御前に踊りを見せることを所望しています。政子の好奇心からでしょう。なぜなら静御前は、京都の白拍子だったからです。白拍子は、いまでいうなら芸者のようなものでしょう。田舎娘の政子にとって、京都白拍子の踊がどのようなものか見てみたかったのだと思います。
静御前の度重なる辞退もききとどけられず、踊ることになった。1186年4月8日、静御前は鶴岡八幡宮の回廊に立った。正面に中央に頼朝、政子、そしてずらりと並ぶ御家人たち、静御前は、丸くなったお腹で舞ながら沈痛な声で歌った。
吉野山みねの白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこいしき
しずやしず、しずのおだまきくりかえし昔をいまになすよしもがな
この時静御前は、目にいっぱい涙を流しながら凛としてよく聞こえる声でよみあげていた。満場息を呑む雰囲気だったでしょう。その時、頼朝の怒声がひびいた。
「やめい」
「八幡宮はわれらがみおやの宮。その御前で舞を舞うには、関東の万歳こそ祝うべきであろう。それをなんたること、わが前をはばからず、逆賊義経を慕い、別離の歌を歌うとは」
刀に手をかけた頼朝の手がぶるぶるふるえ、今にも刀を抜くかと思われた瞬間、政子がさとすように頼朝に語りかけた言葉が有名です。
「あなたが流人として伊豆蛭が島にいた時、私たちは結ばれました。されど父は、平家の思惑を恐れて、私を山木兼隆にあずけてしまいました。でも私は、あなたとの恋一筋に生きようと、激しい雨の夜、山木の館を逃げ出しあなたのふところにとびこんだのです。
石橋山の戦いでは、あなたの消息がわからず、一人伊豆山でおびえていた日夜を思いだすと、いまの静どのの心は、まさしくあの時の私の心でしょう。義経殿の長年の愛を忘れ、恋したわないようでは貞女とは言えません」
ほれた女性の心は、私も同じ経験を持つ故、女性である私は一番知っているといいたかったのでしょう。この政子の率直な発言で、頼朝の心が静まり、静御前の舞に対しほうびまで出したのです。
それから3ヵ月後静御前は、鎌倉で出産し男の子を生んだ。男の子なら殺すという約束どおり、政子の必死のとりなしにもかかわらず、静御前の嘆き悲しむ彼女の手から男の子はとりあげられ、由比ガ浜海岸近くに捨てられました。政子の心からのいたわりと数々の餞別を受けましたが、傷心の静御前は、京都に帰ってから仏門に入り、やがて死んだという。
政子は、静御前には深い同情をそそぎましたが、自分の夫の愛人になると、そうはいきません。静御前騒ぎのころ、頼朝は、新しい愛人、大進(だいじん)の局(つぼね)に男の子を生ませています。その子が生まれた時から、政子は、頼朝にその子の処分をしつようにせまります。政子に約束はしているものの、頼朝は大進の局の必死の願いの板ばさみなり、とうとうその子は七歳になってしまいました。
決心した頼朝は、その子を京都の仁和寺に送って僧とさせ、後に貞尭(じょうぎょう)と名乗ることになります。その子が京都へたつ前夜、頼朝はこっそりその子の母のもとえ出かけ、餞別に剣をあたえています。当時の武士の指導者階級に生まれた男女、またその男に見込まれた女性にとっては、厳しい人生を当たり前のごとく受け入れないととても暮らしていけないような時代であったことは確かでしょう。
1199年1月頼朝は、落馬して急死。死因は色々ととりざたされていますが、落馬による脳出血が死の直接的原因というのが説得力あります。武家政権創立者の予期せぬ突然の死は、全国的に衝撃だったでしょう、しかし残された政子にとってそれ以上の大ショックだったと思います。この時頼朝は53歳、政子43歳、長男、頼家18歳、次男、実朝8歳、次女三幡(さんまん)15歳でした。
政子が本領を発揮するのは、頼朝の急死後です。頼朝の死後鎌倉幕府が、およそ130年も続いた功績の第一人者が北条正子です。頼朝、政子夫妻には4人の子供がいましたが、4人全員政子の在世中に死んでいます。このため4人の子の生き様が政子の人生に深く関わっています。そこで4人の子の生き様を追ってみましょう。
1.長女、大姫(おおひめ)
政子の最初の子です。源義仲(よしなか)が自分の長男、義高(当時11歳)を人質として頼朝に差し出した。頼朝は快く受け入れ、義高を当時5、6歳だった長女大姫のいいなずけと決めた。この二人は、はためにもはっきりわかるように親しい間柄になっていた。夫妻もそれを喜んでいた。ところがおよそ一年後木曽義仲は、逆賊になってしまった。頼朝は、家臣に人質の義高を殺させた。このことは大姫は無論、政子も知らなかった。
政子は激怒した。「なぜ内々に知らせてくれなかったのか、なんとか助ける手立てはあったはずです」
義高の死を知った大姫の嘆き悲しみぶりがひどく、食事さえとれなくなってしまったのです。12歳と6,7歳では恋と呼べるものではなかったかもしれない。しかしこれが大姫の心の病になってしまった。
大姫の深い悲しみは、母親、政子にとっても実につらい。政子の怒りがあまりにも激しいので、頼朝は、大姫を殺した下手人を斬った。しかし残虐を重ねただけでなんの解決、きやすめにもならなかった。
大姫はこの悲しみから立ち直れず、精神病のような状態になり、20歳で短い生涯を終えた。政子にとって大姫の死の悲しみは、少なくとも頼朝が生きていたから彼と悲しみを分かちあうことができた。
2.次女、三幡(さんまん)
頼朝急死が1月。その頃病にかかっていた三幡は6月に父のあとを追った。夫の死後、その年のうちに次女、しかもたった一人残った女の子を失った政子には、じつに厳しい試練でした。嘆き悲しむ姿が想像できるではありませんか。
3.長男、頼家
頼朝が死んだ時、頼家は18歳。当然のごとく将軍職を継いだ。しかし頼家はいかにも若い、苦労知らずの経験不足。頼朝の重臣たちは、命をかけて戦ってきた人たちばかり。彼らにとって頼家は頼りない存在。政子は母親であるだけに、頼家と重臣たちとの微妙なムードを見抜いていた。政子には頼家が危なっかしくて黙って見ていられないのです。この彼女の気持ちは理解できます。政子は頼家に訴訟事件の裁決には、独断によらず北条時政、義時、大江広元、梶原景時等の13人の親戚、元老たちと合議の上で裁決するように指示を出した。頼家はこういう母の指図をお節介と受け付け従おうとはしなかった。
頼家は母の実家の北条家より妻の実家の比企能員(ひきよしかず)を頼りにし、母の指名した13人を無視し、お気に入りの小笠原、比企、細野、和田、中野の5人を側近にし、この5人以外には直接自由に会おうとはしなかった。頼家はさらに暴君のきざしさえ見せた。
御家人、安達景盛(あんだちかげもり)が京都からよびよせた美人の愛人に目をつけた。何度も恋文をおくったが、なびかない。強引な手をつかった。景盛に格別に用もないのに三河の国(愛知県)に出張させ、そのすきに彼女を盗み出し、自分の屋敷に住まわせ、彼女のいる部屋には、上記の5人以外近づけさせなかった。
1ヶ月後、景盛が帰国した。景盛は怒りをストレートに表すことができません。しかし誰かが景盛は大変うらんでいるらしいと頼家に告げ口をした。頼家は、「おのれ、生意気なやつ」と腹心の者を集めて景盛を討とうとした。ここまでくるとさすがに政子は傍観していられず、頼家をいさめた。頼家はしぶしぶ母、政子の忠告を聞き入れた。政子は、景盛を慰撫することも忘れなかった。
当時京都の公家の間で蹴鞠(けまり)大流行でした。頼家は、この蹴鞠が大好きだった。わざわざ京都から蹴鞠(けまり)の名人を鎌倉に呼び寄せているくらいですから、彼の熱の入れ方がわかるというものです。要するに頼家は、跡継ぎとしては無能なのです。主君の跡継ぎが無能だと、その無能を利用して己の出世を計ろうとする人たちが必ず出て来るものです。
頼家の場合も頼家をとりまく一派と反対派の対立が激しくなっていったのです。そんな情勢の時、幸か不幸か頼家が、原因不明の奇病にとりつかれた1202年7月病に伏した。早くも翌月、8月の末に危篤状態になってしまったのです。政子は、父時政と相談して、頼家の持分のうち、関西38ヶ所の地頭職は弟の実朝(さねとも)に、関東28カ国の地頭職と全国総守護職は頼家の長男で6歳の一幡(いちまん)に与えると決めた。
病床でそのことを聞いた頼家は、大変憤慨し、妻の実家の比企能員(ひきよしかず)と相談し北条氏を討つことにした。ところがこの二人の話し合いを障子をへだてた次の間で政子は聞いてしまった。政子はすぐに父、時政に告げた。時政は腹心たちと協議をし、比企能員一人を自宅に招いた殺し、中野、小笠原、細野ら頼家の重臣たちを逮捕し、後に流罪にした。
重態から立ち直った頼家は、和田義盛と新田忠常を味方に引き入れ時政を討とうとしたが、義盛は寝返り、新田忠常は殺され万事休した。病後の頼家は、結局母、政子に頼らねばならなかった。政子は結局、長男、頼家は跡継ぎするだけの才能がないことを認めざるをえず、涙をのんで頼家を修善寺に幽閉し出家させた。
幽閉後一月ぐらいたってから頼家から政子に手紙が届けられました。
「ここは深い山の中で、退屈でたまりません。もと召し使っていた者どもをよこしてください。それから、安達景盛を成敗したいから、これもよこしてください」
元の召使をよこしてくれという要求は理解できても、自分が安達景盛の愛人を盗み取って大騒動を起こしておいて、景盛を寄こせ、殺したいというのだから、頼家は絶望感でやけくそになっていることがわかります。
政子は使いの者を修善寺に行かせ「のぞみは、二つともかなえるわけにはいきません。これからは二度とお手紙を書かないように」と伝えた。1204年、頼家は修善寺で死んだ。若干23歳、政子は48歳でした。政子の父、時政が暗殺させたとも言われています。夫、頼朝の死後、わずか数ヶ月で次女を失い、五年後には長男失脚の形で自分が死なせてしまったという思いが政子に一生つきまとったのではないでしょうか。
4.次男、実朝(さねとも)
頼家が修善寺に幽閉され出家し、頼家一派は壊滅状態になってしましました。後継者は当然次男、実朝です。実朝はまだ幼かった。政子の父、時政のはからいで京都の朝廷から征夷大将軍に任命された時、まだ12歳でした。事実上、時政が実朝の後見人になった。そのため幕府内での時政の勢力が増したことになります。
政子の父、時政は自分ひとりの名で下知状という文書を発行して、将軍の命令を下々に伝えた。幼い実朝将軍は、完全な時政のロボットに、またロボットにならざるを得なかった。政子は、実朝が父の偉業をつぐたくましい将軍の育ってくれるだろうか、また政子が信頼している父、時政や政子の弟、義時と関係が順調にゆくのだろうか、心配が絶えなかったでしょう。政子の心配が現実になってきたのです。実朝の嫁選びでした。征夷大将軍に12歳で任命された実朝には、早くも翌年、13歳の時、嫁をもらうべきであるというのが鎌倉幕府首脳陣の一致した考えになっていた。
そこで政子は、自分の妹のとついでいる足利義兼(あしかがよしかね)の娘を推薦しました。ところが政子の父、時政の年のはなれた若い後妻、牧(まき)の方(かた)は、自分が京都の公家の娘であることから、京都の親戚筋の娘を推薦した。政子は、公家の娘を嫁にすることに反対だったが、実朝が京都の娘の方を選んだのでしかたなく実朝にしたがった。
ところが時政の若い後妻、牧の方はとんでもない陰謀を抱いていたのです。彼女は、京都守護としてはぶりきかせている娘むこの平賀朝雅(ともまさ)がとても気にいっていた。その朝雅を将軍にしようという、とんでもない計画を企んでいた。彼女は、政子や幕府首脳陣に疑われる行動を起こした。それが畠山騒動です。
幕府の元老、畠山重忠(しげただ)の子、重保と牧の方のお気に入り平賀朝雅とささいな争いがあった。牧の方はそれを根にもって夫、義時に畠山父子の謀反のたくらみありと報告した。時政はよく調べもせず、息子義時に畠山父子を討つ命令をくだした。義時は、父時政をいさめたが、年老いた時政は、若い後妻にまるこまれていてあくまでも追討を命じた。
畠山父子は、結局命令どおり討たれ命を失くしたが、その後無実であったことが証明された。若い後妻の浅知恵にだまされた時政の評判ががたおちになってしまった。それでも時政は目が覚めず、平賀朝雅を将軍にするために実朝を暗殺しようという牧の方のささやきに同意してしまったのです。
この陰謀を知った政子は、御家人を集め、時政の屋敷から実朝を救いだし、弟の義時の屋敷に移した。時政の屋敷に集まっていた武士たちも実朝を守るためといって皆義時の家に移ってしまったのです。父、時政はもう年ですこしぼけかかっていたのでしょう、鎌倉中から拒否され出家せざるを得なくなり鎌倉から姿を消した。
この時14歳になっていたい実朝には、父、時政の代わって政子の弟、義時が後見人になっていた。この役の名を執権と呼ぶようになった。
死んだ兄頼家は、蹴鞠(けまり)に夢中になっていたが、弟の実朝は、和歌に夢中になっていました。その腕前も玄人はだしだったと言われています。実朝は体も弱く、政子がはるばる紀伊の熊野神社参詣にでかけたのも実朝の健康祈願のためとも言われています。実朝は、和歌にのめりこみ、ともすれば政治の仕事から逃げてばかりいるようで、北条義時の力が増すばかりでした。自分が嫁いだ源氏の力が弱まり、実家、北条家の力が益々強くなるのを見て、政子はどんな気持ちだったでしょうか。
その実朝が1219年1月17日、鶴岡八幡宮の社前で突然切り殺されたのである。この時実朝は28歳。取り押さえられた犯人は、長男、頼家のわすれがたみ、公暁(くぎょう)、19歳でした。政子は幼くして父を失ったこの公暁(くぎょう)をあわれがり、一時は、実朝の養子ぶんにして世話したが、四、五年して出家させ、円城寺へ修業に出した。1217年鎌倉の呼び寄せ、鶴岡八幡宮の別当にしてやったのも政子です。
政子が目をかけてやった者が、次男を殺すという事態になったのです。
亡き夫、頼朝との間にできた四人の子供、全員不遇の死、しかも皆十代、ないしは20代の死です。最後の子供である次男の実朝は、長男、頼家の子、すなわち政子が目をかけてやった孫に切り殺されるという肉親による暗殺、すなわち尊属殺人です。政子にとっていたたまれず、とても耐えられそうもない事件です。
この時政子は、63歳。現在の63歳とは違います。体力的には現在より衰えているはずです。病気で寝込んでしまったり、あるいは認知症の様になったとしてもおかしくありません。それでも政子はこの試練を乗り越え立ち直るのです。その立ち直った政子にさらなる大試練が待ち構えていました。(来週に続く)
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