Archive for 時事評論

ガキ大統領トランプ(その2)



トランプ大統領は、またガキ大統領と呼ばれるにふさわしい事をやった。平成29年7月4日付けの産経新聞にこう書いてある。
引用開始
「トランプ大統領は2日、過去にプロレス大会に出場した際の映像を編集し、自身が殴りつけている敵役の頭部に米CNNテレビのロゴを重ねる加工を施した上でツイッターに投稿した。映像はトランプ氏が暴力による言論弾圧を奨励しているようにも受け取れるため、米メディアや野党から『とても大統領のやることとは思えない』と批判の声が噴出している。
28秒間にわたる問題の動画は、世界最大のレスリング団体WWEによる2007年の興行『レッスルマニア23』の映像を使用、リングサイドにトランプ氏が、CNNのロゴで顔が見えないスーツ姿の男性を押し倒して何度も拳で殴り、立ち去る様子が数回にわたり繰り返される。
映像の最後にはCNNならぬ(FNN(詐欺ニュース・ネットワーク)の文字が映し出され、日頃トランプ氏に批判的な報道を展開しているCNNへの意趣返しなのは明らかだ。
CNNは同日、声明を発表し、『本日は、合衆国大統領が記者に対する暴力をけしかけるという悲しむべき日となった』と述べた上で、ロシアのプーチン大統領との初会談や北朝鮮情勢などの懸案をよそに、トランプ氏は『極めて低次元で幼稚な行為に没頭している』と非難した。トランプ氏は6月29日のツイッターでも、MSNBCテレビの朝の報道番組「モーニングーショー」の女性記者(ミカ・ブレジンスキー、筆者挿入)について『知能指数が低く頭がおかしい』『(前に会ったときに)顔のしわ取りの整形手術でひどくて出血していた』。などと罵倒する発言を書きこみ、波紋を広げていた。
トランプ氏は一日に何時間もテレビの視聴に費やし、自身に関する報道を詳しくチェックしているとされ、一連のツイッターでの発言は、メディアの政権批判に対する同氏の苛立ちが異様な形で暴発した結果と言えそうだ。」
引用終了。

私はトランプ大統領がプロレス姿でCNNをこてんぱんに殴りつけるテレビ映像を夕方7時のNHKテレビニュースを見た。翌日この産経新聞を読んだ。このときふと思った、今時アメリカの子供たちにとって、アメリカ大統領は、将来なってみたい人気職業なのだろうか?実は私は外資系5社渡り歩いて40年。そのうちアメリカ系外資で働いたのが28年。だから米国本土からやってくるアメリカ人社員と雑談する機会は非常に多い。その中で今でも記憶に残るのは、あるアメリカ人が「私は、子供のときアメリカの大統領になりたいと思った」と言ったことだ。以来その事が気になって何人かのアメリカ人に雑談の機会にアメリカの子供たちにとってアメリカ大統領は将来なってみたい職業なのか聞いてみた。なにしろ私の世代の子供時代は、日本の総理になるとか、なってみたいと思うのはほとんど皆無だからです。私が驚いたのはアメリカでは、子供たちが大きくなったら大統領なるとか、大統領になりたいと思うひとが多いのだなと言うことでした。それだけ当時はアメリカの子供たちは大統領に対する尊敬の念が強かったのだなとの思いです。これは私が4,50代の頃の話です。
現在のアメリカでは、子供達は、アメリカの大統領になるとか、なりたいと思う子は多いのだろうかとふと疑問に思ったのです。少なくともトランプ大統領では、大統領としてアメリカの子供たちに尊敬の念をアピールさせるものは何もないということ、それどころか子供心にも幻滅を感じさせる点が多いと思います。

ニューズウイーク誌(2017/07/11)では女性報道記者ミカ・ブレジンスキーへの批判は、あまりにもひどい女性差別的発言だとメディアがこの話題で一色になり、その結果トランプにとって不利なほかのニュースがかき消された。その例;
1.オバマケア(オバマ前大統領の医療保険制度改革)代替法案の下院採決が先送りになったと言うニュース。
2.トランプがロシアのプーチン大統領と初会談するニュース。
3.ロシア疑惑関連で辞任したフリン前大統領補佐官(国家安全保障担当)めぐる疑惑。
ニューズウイーク誌は、トランプは、過去の自分の暴言ニュースが自分にとって不都合な報道を書き消しに成功したことを知っている。彼のこれからも暴言戦略が続くだろうとみています。
上記の産経新聞の10日後の7月14日、同じ産経新聞ではトランプ大統領の長男、ドナルド・トランプ・ジュニアがアメリカ映画「トップガン」の一場面を基にしてトランプ大統領が操縦する戦闘機から発射されたミサイルがCNNのロゴが付いた戦闘機に命中し爆発するよう加工された動画を共有アプリの「インスタグラム」に投稿したと報じています。
「この親にしてこの子あり」とはよくいったものだ。これでは、大統領就任6カ月の支持率が36パーセントと戦後70年間の歴代大統領の中で最低なのも当然でしょう。
今後の世界のためにも、日本のためにも、私のブログ「ガキ大統領トランプ」が長いシリーズにならないことを願うばかりです。

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保守の皆さん、憲法改正はいけません。(2)



        このブログの転載、拡散よろしくお願いいたします。
三。アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治
昭和20年(1945)8月15日、日本は降伏した。8月28日アメリカ占領軍の先遣隊が厚木飛行場に到着、8月30日アメリカ占領軍最高司令官、マッカーサー元帥が厚木に到着した。ところがなんと驚いたことに、日本敗戦から1か月後、マッカーサーが到着してから二週間後の9月15日に小川菊松という出版人が「日米会話手帳」、サブタイトルに英語で「Anglo・・Japanese Conversation Manual」と書かれた本を出版した。この本は32頁の小冊子で、日常の挨拶から始まって、道を聞かれた際の教え方、数の数え方など極めて簡単な会話79例を載せていた。敗戦後わずか1か月でこういう本が売り出されたこと自体が驚きなのに、なんとその年の年末までの3カ月半の間に360万部も売れるという大ベストセラーになったのです。終戦時(昭和20)日本の人口は約7千2百万、まだ海外派遣されていた兵士や民間人全員日本本土に戻っていません。実際の人口は7千万ぐらいでしょう。それに子供、老人は読みませんから、まさに空前のベストセラーでしょう。短期間にこれだけの部数が売れた本が、その後出版されたのでしょうか。終戦直前までは、アメリカ軍の本土上陸に備えて竹やりの訓練さえしていたのです。それが竹槍を投げ捨て本屋さんに殺到したのだ。
この本が売り出される前のわずか半年間の間に三月の東京大空襲、前後して大都市空襲、4月からおよそ一か月にわたる沖縄戦の熾烈な戦い、8月に広島、9月長崎の原爆で、犠牲者を合計すれば少なくとも死者50万人以上を出しているのです。それにもかかわらずこういう本が空前のベストセラーになったということは、マッカーサーの日本到着時点で、すでに日本人のほとんどが今後の生活の心配が先立ちアメリカ軍に対する敵意や憎悪をなくしてしまっている証拠です。
マッカーサーは日本到着後すぐに日本統治を始めますが、最初の五年間にどのくらいの手紙がマッカーサーに寄せられたか記録があります。昭和21年9月から昭和26年5月まで約5年間にアメリカ占領軍(GHQ)翻訳通訳班が44万1千161通の手紙と葉書を読み、処理した公式に記録されています。アメリカのマサチューセッツ工科大学教授、ジョン・ダワーは1999年に「敗北を抱きしめて」(原題、Embracing Defeat, Japan in the wake of World WarⅡ)を著し、ピューリッツアー賞を受賞した。その本の中でマッカーサーに送られた手紙や贈り物の内容について書いています。しばらくその文章を引用します。
引用開始
「これらの手紙は最高司令官に向けられ検閲されていたこともあって、マッカーサーの虚栄心を満たしたことは間違いない。そこには、マッカーサーに対する尊敬の念や、彼の限りない寛大さにたいする惜しみない感謝の言葉が述べられていたからである。手紙を書いた人々は、マッカーサーの「神の如き尊き御慈悲」を讃え、彼を「生きたる救い主の神」と呼んだ。ある青森県の老人は「昔は朝な夕なに天皇陛下の御真影を神様のようにあがめ奉ったものですが、いまはマッカーサー元帥のお姿に向かってそういたしております」と書いている。神戸のある団体は、基督山上垂訓図を日本画風に描かせ、マッカーサーに贈呈し、元帥のご指導は、まさにこの絵に描かれ崇に高さを思わしめるものがありますと賛美の手紙を添えている。マッカーサーは釈迦のような慈悲の持ち主と讃えられ、孔子の「論語」に登場する「遠来の友」にも例えられた。また、日本の悪夢の如き戦争から救ったとして崇められ、外国人による占領という未知の状態におびえていた日本人に、希望と幸福をあたえたと感謝された。市井の男女が、自分たちがかって軍国主義者であったと言う罪をまるで聖職者にたいするようにマッカーサーに告白し、精神科医に対するかのように心の奥底の恐怖や希望を打ち明けたのである。こうした人々にとってマッカーサーは、この時代の偉大な愛の化身であった。彼らは手紙のなかで、まるでお守りのように平和と民主主義という言葉を繰り返し語っていた。マッカーサー最高司令官は、その犯しがたい権力のゆえ天皇のような存在であったが、彼の方が天皇より近づきやすく、より直接的に関係を持つことが出来る存在と思われていたことも明らかであった。民主主義を約束する権威主義な支配という逆説に満ちた試みが、ここに始ったのである。
マッカーサーには沢山の贈り物が届いたが、ほとんどの場合、彼はそれを受け取った。日本では自分より上位の者や恩人に贈り物をすることは伝統的習慣であったが、この外国の大君主への貢ぎ物の数は、過去の日本の軍高官に対する贈り物をはるかに超えていた。(中略)
このうえないほど格式が高く、手のこんだ贈り物は手織りの着物と帯であった。これを織り上げた人物は、1946年11月から京都の下賀茂神社にこもり、丸3年かけて作り上げたのである。彼は毎日お祈りをし、ついには7千万刺しを持って自らの最高傑作を織り上げ、神道の祈祷文とともに「わが国民7千万人の清き心のしるしとして」マッカーサー元帥に献上した。明らかにこの織物の一刺し一刺しが日本人一人一人を意味していたのである。
つつましやかな躍る鮎と豪奢な錦織の間を驚くべき数の贈り物や招待状が最高司令官に向けて滝のように降り注いできた。人形、ランプ、陶器、漆器、竹細工、封建時代の書、書籍、盆栽、盆景、動物の毛皮、鎧、刀、絵画、彫刻にいたるまで、さまざまな物をマッカーサーは受け取った。それらの中にはマッカーサー自身が描いたものもあった。(中略)
引用終了
贈り物に関するページはまだ続きますが、この辺で終わりにして、一般市民からの手紙に関して、さらにこう書いています。

引用開始
「GHQの直接送られた手紙のなかでそれほど多くは占めてはいなかったものの、注目すべきものとしては、特定の個人を戦争犯罪人として逮捕・追放し、裁判にかけるべきだとして、名指しで告発するものもあった。また戦争中に権力を笠にきて威圧的な言動をしていた役人を、地域の住人が告発する手紙もあった。高校生や大学生たちは、軍国主義に加担した教員を指摘した。旧帝国軍人のなかには、戦争中に連合軍の捕虜に虐待をおこなった日本人兵士の名前を告発する者もいた。(中略)
又「反アメリカ的」の感情をもったり、「反民主主義的」な考えをいだいていた人々も告発された。このような情け容赦ない告発文書がマッカーサーやGHQのもとに送られてきたのである。こうした事実だけを見るかぎり、きのうまで愛国主義者だった日本人は、一夜にして占領軍への密告者、或は情報提供者に変貌してしまったようにみえる。その他にも、日本はアメリカの属国になるか、あるいは永久にアメリカの植民地になるべきだと主張するような、驚くべき手紙も存在した。その一方で男女を問わず、占領政策への批判やアドバイスをすることもためらわなかった。」
引用終了

占領軍で手紙の翻訳にかかわった沖縄出身の日系アメリカ人は、このような告発の手紙を読んでいるうちに、自分は日本人を軽蔑するようになってしまったと言っていますが当然でしょう。占領軍や占領軍司令官にたいするまさに度を越した媚態です。長崎では、原爆による放射能の影響調査にやってきたアメリカの科学者チームの責任者に、ガラスケース入りの人形が贈呈されているのです。またその後すぐに住民たちは、駐留する占領軍軍人とともに「ミス原爆美人コンテスト」開催したというのです。敗戦寸前まで激しくたたかった国民が、敗戦直後に見せた豹変ぶりがまったく信じられないくらいで、この豹変ぶりはある種の脅威とか異常とか呼べるような気がします。まさに私が主張する異常なまでの変わり身の早さではありませんか。決してほめられる民族の態度ではないことは確かです。それではマスコミは、マッカーサーに対してどういう態度をとったか見てみましょう。敗戦一年後の昭和21年(1946)8月15日の朝日新聞の社説は、
引用開始
「この一年間にしめされた連合軍最高司令官マッカーサー元帥の偉大な業績については、内外等しく賛嘆をおしまないところである。われわれは心から元帥に対して深厚なる感謝の意を表明するものである。元帥には、日本ならびに日本人を深くいたわる気持ちがある。この気持ちが、日本の人民を信服せしめた。この気持ちがなかったならば、天皇と日本の政治機構をいかに有効に占領目的を達成するために使用したとしても、そのことだけで、今日までの偉大な業績は示し得なかったであろう。」
引用終了

これまでスターリンへの感謝状、日系アメリカ人の強制収容、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治に対する日本人の態度を書いてきましたが、読者の皆さんは、どのような感想をお持ちでしょうか?私の感想は、日本人は外国人に生殺与奪の権を握られると、徹底した「迎合と妥協」に走り、それが行き過ぎて卑屈になるのです。日本人の誇りを見せつけたものはなにもなかった。わずかに指で数えられるほどの日本人だけが己の信念を貫いただけだと思っています。次にGHQはどのような意志と目的をもって日本を統治したのか探っていきます。
1.WGIP
皆さん、この頭文字(ダブリュ・ジー・アイ・ピー)は絶対覚えておいてください。この頭文字の正式な名前は、War Guilt Information Program(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の頭文字をとったものです。日本語の意味は、(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)。このWGIPという言葉は、古くから使われていますが、一番古いのは故江藤淳氏が1989年文芸春秋社から出版した「閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本」です。歴史に興味のある人は、この本を大抵読んでいるのでこの言葉は知っていますが、WGIPは、一般的に使われた言葉でなかった。この本には欠点があったからです。著者が実際にWGIPの書類のコピーを提出していなかった。このためでしょう、現在の百科事典とも言うべきウィキペディアでは、以前は江藤の主張は載せていたが、疑われていた。ところがつい最近のウイキペディアの内容は一変しました。私と同年代の関野通夫氏がGHQの2万5千点の文書から、幻だったWGIPの証拠文書を発掘し、即その本を平成15年3月に出版したからです。出版社は、自由社の「自由社ブックレット1」として出版した。本のタイトルは「日本人を狂わせた洗脳工作(今なお続く占領軍の心理作戦)」、本のページはわずか82頁、値段はわずか500円プラス税です。この本が如何に重要だったかすぐわかるのは、今ではウィキペディアで関野通夫氏の名前もこの本の名前も記載されているからです。この本に続けて関野氏は、平成16年9月に自由社から「続・日本人を狂わせた洗脳工作」(いまなおはびこるWGIPの嘘)を出版、112頁、値段同じく500円+税です。GHQの占領政策は、WGIPの計画を基にして実行されていったのです。憲法改正を主張する人は、まず関野氏のこの本を絶対読んだうえで主張してもらいたい。
「つくる会」の広島県支部長、長谷川真美氏の寄付によって200部を衆議院議員に贈呈しました。その他「つくる会」の会員が地元の県会議員、市会議員などに贈呈しています。
憲法改正の話が話題になっている現在では、関野氏のこの本は、日本国民必読の本です。皆さんに知ってもらいたいのは、この本は憲法改正反対などにひとことも触れていません。この本に書いてあることは、
「GHQは日本を軍事的に征服したうえで、日本民族から記憶を奪い、精神を破壊して、占領を終了した後も、未来永劫にわたってアメリカの属国としてつくりかえるために、日本に対して全面的に歴史戦を開始した」。これらの史実が少ない頁数で適格に書かれているのです。本来ならこの本に書かれていることは日本史の先生方が書いて当然なのです。関野氏は日本史の先生ではありません。長い海外ビジネスの経験を持っている元ビジネスマンです。それだけ日本の歴史教育が歪んでいたわけです。あくまでも憲法改正を主張する人は、絶対にこの本を読んでもらいたい。お願いいたします。

2.GHQの占領政策にたった一人抵抗した男
GHQの占領政策のほとんどが、日本政府の強い抵抗もなく、また反対のための暴動らしい暴動もほとんどなく、日本国民に受け入られました。しかしここにたった一人、占領政策に公然と抵抗した人物がいました。終戦直後の幣原内閣に次いでできた第一次吉田内閣の大蔵大臣、石橋湛山です。次の二つの問題で石橋とGHQとの対決の場になった。
(1)戦時補償打ち切り問題
戦時補償とは、戦時中日本政府が軍需生産の増強を図るため、国家総動員法、軍需会社法などの法令に基づき、多数の軍需企業や民間企業に対して生産設備の建設あるいは軍需品の生産のための全力を注ぎ、政府の補償をあてにして巨額の借入金を背負い、設備を拡張したり、工場の疎開を行ったりしたが、敗戦の結果、これらの企業ばかりでなく、企業に融資していた銀行も多大な損失を被った。ここで戦時補償を打ち切ったら、日本経済はどうなるか?石橋湛山は必死にGHQに抵抗したし、抵抗しきれないと判断したら、吉田首相に辞意を表明した。吉田は「長い物には巻かれろというから」と言って湛山を説得したという。GHQ当局は、日本の軍需産業などつぶしたくてしょうがないのだ。湛山の必死な抵抗が続いたため、当時の日本の王様、マッカーサーの裁断に仰ぐ結果となり、戦時補償は打ち切られた。湛山の執拗な抵抗がGHQ司令部に「生意気な奴」という印象が残り、公職追放の計画が練られていった。

(2)終戦処理費問題。
終戦処理費とは昭和21年GHQが報道各社にどうしても占領軍維持費に言及しなければならない場合は、「占領軍維持費」を「終戦処理費」と呼ぶよう通達した。占領軍維持費の膨大さを隠そうとしたのだ。占領軍維持費は、毎年度政府予算における歳出総額のほぼ三分の一を占める膨大なものだった。日本の保守の読者層なら誰も知っているヘレン・ミアーズ女子(「アメリカの鏡・日本」の著者)は、終戦時GHQのスタッフと働いていた。彼女はこう書いています。
「アメリカ人は、贅沢なことを考えるから、占領経費を節約しようとしない。将校宿舎や官舎の生け花代、本国への電報電話代、キャンプに維持費、文民専門と秘書の給料、その他生活のお楽しみ代は日本人が負担した。」
しかし最も驚くべき支出項目があった。占領軍関係者が起こした交通事故で被害を受けた日本人に支払われた保証金総額6億2千万である。ゴルフ場の建設、シャンデリア、ジュウタン、装飾用の生け花などもすべて終戦処理費で賄われた。さらに問題になったのは、清浄野菜農場の新設だ。人肥を使用した日本の野菜は不潔で口にできないというのでプールのようなコンクリート槽の中に砂地を作り、水を張って、化学肥料を加える方法の野菜畑を作ったのも終戦処理費です。
さらに東京裁判の費用、即ち法廷建設費や、裁判官や検事の滞在費、人件費、その他で合計72億円も日本政府は払わされているのだ。占領軍は、占領軍維持費を終戦処理費と呼ばせておいて、日本人の税金を湯水のように使っていたわけだ。
終戦直後の日本は、軍需産業の倒産、財閥解体などで失業者があふれ、そのうえ海外からの一般人や軍人のひきあげなどでさらに失業者があふれかえり、国民は食うや食わずの極貧生活を強いられていたのです。そんな時に東京裁判が開かれ、現行憲法の施行を強要されたのです。だから大蔵大臣である石橋湛山が、GHQに占領軍維持費(終戦処理費)を削減してくれと要求するのは当然すぎるほど当然だったのだ。しかし湛山の要求は、特にGHQの地方に駐屯する軍人の不評をかった。占領軍維持費は勝者の特権であり敗者が口をはさむ問題ではないという意識だった。このため湛山の公職追放計画が早められ、公職追放の口実探しが加速された。公職追放通知で湛山は、自分がGHQによって追放されると知った時、吉田首相に追放拒否を主張した。この時の吉田首相の言葉が有名です。「しかし君、狂犬に噛まれたと思ってくれ」
公職追放後の湛山の態度も私は偉いと思います。公職追放された人たちの殆どが、自分の公職追放は納得いかないものであっても、泣き寝入りしていた。ところが湛山は、自分の公職追放は納得いかないと追放の不当性を訴え、GHQに徹底した戦いを挑んだのです。湛山が自分の公職追放策に挑んだ抵抗策は。
(1)片山新内閣に追放取消策を要求。
(2)湛山の友人たちの署名の陳情書をマッカーサーに提出。
(3)中央公職適否審査祈願委員会に英文80頁におよぶ反論書提出。
(4)公職追放になった10月27日午後2時に日本主要新聞の政治部長を、午後4時から外国紙の特派員を招いて反論書を渡し、記者会見をひらいた。

湛山のこれらの努力は何一つ報われることがなかった。追放はまる4年間続きそれまで政界に復帰することができなかった。私が腹が立つのは、当時の政治家、マスコミの人たちは、湛山追放の理由がでたらめであったことを知っていたにも関わらず誰一人として湛山を援護しなかったことです。

ここからは現在非常に話題になっている憲法改正問題について語ります。真っ先に最重要な事を先に書きます。いいですか、皆さんぜひ注目してください。現行憲法は、「日本国憲法」ではなく占領軍が作ったままの憲法、すなわち「占領軍憲法」である。その理由、
1.アメリカ占領軍は、絶対王政の王様の権限を持っていた。昭和天皇の生殺与奪の権をにぎっていた。占領軍が「昭和天皇の地位をどうの、こうのするつもり」という発言で日本政府を震え上がらせることができた。
2.マッカーサーは部下に命じて。わずか四日余りで英文で作成させたものを単純和訳させて、「日本国憲法草案」なるものが作成され、昭和21年2月13日に、当時の日本政府に対して手交された。
3.戦時国際法、ハーグ陸戦法規(第43条)」明治40年(1907年)10月18日ハーグにおいて調印、日本は、明治44年(1911)11月6日批准)には、「戦勝国が敗戦国を統治する場合は、その国の法律にしたがわなければならない」(「国の権力が事実上、占領者の手に移ったときは、占領者は絶対的支障がない限り、『占領地の現法律を尊重して』、なるべく公共の秩序、および生活を回復確保するために施しうる一切の手順を講じなければならない。」ことが決められていた。すなわち「占領軍憲法」は国際法違反のもとでつくられ、「日本国憲法」としたのです。
4.30項目の報道規制(プレスコード)
敗戦から一か月とたたない昭和20年9月10日、「新聞報道取り締まり方針」」と「言論及び新聞の自由に関する覚書」がGHQより発せられ、「削除及び発行禁止対象のカテゴリー」(30項目)が定められた。その30項目の3番目にはこう記載してあります。
「3.GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」
すなわちGHQは、国際法違反で平気で日本国憲法を作っておきながら、その憲法を批判する態度を厳禁にしているのだ。そうなると憲法について書く学校の教科書はどうなったのでしょうか。昭和22年8月2日文部省発行の中学校教科書にはこう書いてあります。

「今度の新しい憲法は、日本国民が自分でつくったもので、日本国民全体の意思で自由に作られたものであります。この国民全体の意思を知るために、昭和21年4月10日に総選挙が行われ、新しい国民の代表が選ばれて、その人々がこの憲法を作ったのです。それで新しい憲法を作ったのです。それで新しい憲法は国民全体で作ったということになるのです」

どうですか、国は平然と国民に大嘘をついて教えていたのです。これがのち、のちまで日本の学校の歴史教科書に嘘が書かれ、嘘が嘘を呼ぶのが現実となってしまった。どうしても戦前戦中の日本を徹底して悪に貶める教科書が誕生しつづけ、一例は全歴史教科書が「従軍慰安婦事件」を掲載。これではなんとかしなければいけないと国民の支持で20年前に立ち上がったのが「新しい歴史教科書をつくる会」なのです。安倍総理も議員時代は、「つくる会」の積極的な支持者で、「つくる会」の季刊誌にも投稿してくれ、激励してくれたこともあった。私も安陪議員に面会しお礼を言ったこともあるのだ。しかし総理になるとアメリカ政府の太平洋戦争史観に従っているだけなのだ。それが安陪総理の「村山談話」と「河野発言」の容認、首相自身の「70年談話」でもわかるし、今度の憲法改正提案でもわかります。

5.私は憲法学者ではないので「占領軍憲法」の弱点を一々取り上げて論評することはできません。しかし一読してどうもこれは、占領国が敗戦国の日本を差別して作った憲法、どうしても日本国が自分で作った憲法でないと察することができる条文があります。憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書いてあります。
いいですか、普通、ある国家が諸国民と言ったら近隣諸国のことです、日本はシナ、朝鮮、ロシアなどと何世紀と付き合いがあるのです。その近隣諸国の公正と信義を信頼して、日本の安全ばかりでなく生存まで彼らに委ねているのです。こんなバカな条文を日本自身で作ると思いますか。結局、アメリカは、戦勝国になったばかりだし日本を舐めきっているから書ける条文です。

ところで、皆さん、私が憲法改正反対のためになぜ、三つの話題、一、スターリンへの感謝状、二、日系アメリカ人の強制収容、三、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治、の話を持ち出したか、わかりますか。日本人は戦場で敵を驚かすほどの強さを持っていた、しかし、一旦負けて捕虜になったり、本土が敵の占領地になったりすると、からっきし弱くなってしまいます。私はこれらの日本人を「世界一変わり身の早さで権力者に迎合、妥協し、時には卑屈さを通り越し卑屈さを前面に押し出す」と酷評しました。読者の方で、これに変わる良い意味での表現があれば教えてください。私はこの弱さの原因は、日本は古来から無慈悲な独裁者から徹底的に搾取され続けた経験がないからだと思っています。
キリスト教の宣教師たちが、日本にやってきたとき、「彼らは皆一様に貧乏だ、だが民度は高く、誇り高い民族だ」と日本人のすばらしさを本国に知らせています、明治時代にやってきた外国人が日本民族を褒めあげるのも何度も本で読んでいます。もともと日本民族は誇り高い民族であったのだ。その誇り高い民族が、大東亜戦争の敗戦ですっかり落ち込んでしまった。戦後70年もたった今は経済が戦後直後より大発展し、国民は食うに困るわけでもない、何でもできるし、なんでも発言できる、そのため日本民族の誇りはもどりましたか?冗談じゃない、誇りがもどるどこらか、さらに悪くなり、日本への誇りなどなくなってしまったのだ。
いいですか、戦前、戦中の日本をどうしようもない悪い国にするために、海外で「起こらなかった事件」を「起こった事件」にして日本政府を批判したり、日本政府にお金を支払わせたり、あるいわ謝罪させることが度々起こし、それを歴史教科書に堂々と載せるのだ。それが度をこして現在では、占領軍が作った「日本憲法」にノーベル平和賞まで与えてくれと叫ぶ日本人グループが存在しているのだ。

ソ連の日本人捕虜収容所で6万人以上の日本人が「スターリンへの感謝状」を書いた。そこにはそこまで書くかというくらい、うそも方便の卑屈なまでのおべんちゃらを書いているのだ。もし彼らが現在まだ生きて、現在の日本の姿を見たら、間違いなくこう言うでしょう。
「私たちはいつ死んでしまうかわからない地獄の極限状態で暮らしていたのだ。だからはからずも、極度に卑屈な言葉を書いてしまった、今となっては申し訳なかったと思っています。ところ現在の日本は、私たちの地獄状態の生活と違って極楽状態の生活をしているようなものです。それなのに何故史実として存在しなかったものを(あったことにして)謝罪したり、お金を払ったり、歴史教科書に書いたりするのですか、占領軍の作った日本憲法にノーベル賞を上げてくれだと、あなたがた日本人は気が狂ったのですか。」と必ず言われるでしょう。

現在の日本人は、国際スポーツの試合で日本を応援すれば、それが愛国心だと思っているのだ。愛国心もなければ、日本人としての誇りもありません。ただやたらと日本をけなし、日本を卑下する人が多すぎます。私たちはこの健全な愛国心や誇りを取り戻さねばなりません。それには、憲法改定とか言って、占領軍の作った「日本国憲法」をいくら継ぎ接ぎして改正しても洗脳された者、あるいわ洗脳されたふりをしている者を正気に戻すことはできません。現憲法が生きている限り、自虐史観は絶対になくなりません。やはり現憲法を無効にし、明治憲法の改正か、あるいは新憲法を制定するしか道はありません。保守の皆さん、最初からその目的ではなかったのではありませんか?しかし70年近くも現憲法を使ってきて、いきなり無効ではと心配するむきもありますが、要は国民と国会が一致すれば問題ありません。憲法違反の自衛隊を半世紀も使ってきたではありませんか。私は強く主張します。占領軍が作った 日本国憲法を無効にして、新憲法制定か、明治憲法の改定です。そして「太平洋戦争」という日本国家のくびきから解放して「大東亜戦争」という自らの生き方を選ぶ新しい日本を作りましょう。私はアメリカとの同盟はとても大事で重要だと思っています。しかし現在の日本は、あまりにも、あまりにもアメリカのポチ的存在が強すぎます。今のままでは日本人は、二流のアメリカ人に成り下がるだけです。現憲法を無効にして真に独立した真正日本を作りましょう。

安倍総理の改正条件が全面的改正ではなく、憲法9条の1項、2項はそのまま残し、3項を新設という案です(5月3日の総理発言)。追加3項の内容は、自衛隊の根拠規定を追加して、自衛隊が憲法違反と言われないようにするためです。非常に簡単な改正条件だから、それだけに現実的でいいという声が聞こえてきます。私が冒頭に書いた終戦直前直後の三つの事件のケースは、それこそ現実的でいいから、徹底した迎合、妥協の結果、卑屈なまでに陥ったのではないですか。今回改正条件が簡単、明解なだけに現実的に良いからと言って、国際法違反の憲法、占領軍の作った憲法にケチをつけるなという検閲された憲法を改正したら現憲法は、正真正銘の日本製憲法になってしまいますよ。私たちは、一度憲法問題で大失敗しているのです。日本が独立を回復した時(昭和27年)、現憲法を廃棄し、新憲法を作るべきだったのです。できなかった理由は、日本人は、原理原則や法律に固執するより、妥協、迎合しがちで現実的に対処してごまかしたがるからです。だから今回はそれでは、ダメですよと国民をいさめるのが知識人の役目でしょう。それができなくて何が知識人だというのですか。知識人自らが安倍総理にこびているのだ。私はいずれ自分のブログでふらちな保守知識人の名前をあげて罵倒するつもりです。その時には知識人とは、どういう人間を言うのか書くつもりでいます。

最後にひと言。上記のスターリンへの感謝状、日系アメリカ人の強制収容、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治は、拙著「逆境に生きた日本人」(展転社、平成20年、2000円)を参考文献に使いました。この本は、上記の三つ以外に他の件も扱っていますので目次を紹介します。第一章 戊辰戦争とアメリカ南北戦争、第二章 アメリカ軍による日本占領時代、第三章 日系アメリカ人強制収容、第四章 シベリア捕虜強制労働収容所、第五章 日本民族の資質、第6章 日本民族の資質が生んだ「自虐史観」。
この本の原稿を書いていたのが平成19年ごろ、ちょうどその頃に西尾幹二先生に「私が主催している坦々塾に入会しませんか?」と声かけられ喜び勇んで入会いたしました。せっかく西尾先生の面識を得たばかりなのに厚かましくも、この本の出版の時、西尾先生の宣伝の言葉を入れたいと思い全原稿を見せました。西尾先生は、「わかった、自分で宣伝したい文章を書いて見せてくれ」と言われて書いた宣伝文章が本の帯に書かれています。次の様な文章です。
「私は著者の名前を評判をよんだ労作『大東亜戦争は、アメリカが悪い』で知った。今度の作品もすばらしい。戦中戦後、強圧権力の下で示した日本民族の行動をするどく分析、我々に猛省をせまる」西尾幹二

この本は348頁、ハハードカバー、価格2000円+税ですが私にはまだ在庫がありますので価格1500円(印税も郵送代もいりません)でお売りいたします。希望者は私あてのメール、あるいはこのブログあてにお申込みください。

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保守の皆さん、憲法改正はいけません。(1)



       このブログの転載、拡散をよろしくお願いいたします。
大東亜戦争敗戦後、1947年(昭和20)9月からアメリカ占領軍(GHQ)が日本統治を始めた。現行憲法は昭和22年5月3日に施行された。GHQの日本占領機関は約7年あまり、その間は日本人の生殺与奪の件はGHQに握られた。日本人がGHQのまな板のこいになってしまったのだ。日本の長い歴史の中で日本人が外国人のまな板のこいになった大きな三つの事件がある。ソ連抑留所の日本人捕虜、アメリカの日系人強制収容所、GHQの日本統治。憲法改正の話の前に、これらの三つのケースがどんな状況であったか、お知らせしましょう。
一。スターリンへの感謝状
終戦の翌日、昭和20年8月16日に大本営は、関東軍に武器を置く命令を出した。一方ソ連軍は、日本降伏を知りながらも15日以降も攻撃を続け、8月末頃には満州全土、北朝鮮、樺太及び千島列島を占領してしまった。対日参戦二週間後の8月23日、スターリンは、極東ソ連軍司令官ワシレフスキー元帥に日本軍捕虜のシベリア移送を命じる極秘指令を発した。
(1)極東シベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本軍捕虜を約50万人選別すること。
(2)捕虜をソ連邦に移送する前に千人ずつの建設大隊を組織すること。大隊と中隊の長として、特に日本軍工兵部隊の若い将校、下士官の軍人捕虜を指揮官に命ずること。
この指令の下に、ソ連軍は、ソ連占領地域(満州、北朝鮮、樺太、千島など)の日本軍人、一部の民間人合わせて約60万人(厚生省発表によれば57万4千530人、ソ連側発表によれば60万9千176人)を強制連行し、シベリア(47万2千)を初めとして、外蒙古(1万3千)、中央アジア(6万5千)、ヨーロッパ・ロシア(2万6千)などを捕虜強制労働収容所(ラーゲリ)約1200ヵ所、監獄その他特殊収容所約百カ所に分散収容した。
収容された日本人捕虜は、粗食と厳寒の下に重労働を課せられ、それによって命を落とした者、推定で6万人から7万人と言われています。これは明らかにソ連の国際法違反です。

昭和24年の春に「スターリンに対する感謝状署名運動」を起きた。「シベリア捕虜収容所」上下巻の著者、若槻泰雄氏によると、感謝状署名運動は、ソ連側の意向であると主張しています。その理由は、
(1)ナホトカ港乗船の際、署名に拒否した一部の捕虜に対し、ソ連官憲が「サインをしなければ帰さぬ」と言明している。
(2)従来も色々大会や会議あるいは政治学校の卒業式に際しては、ソ指示によって感謝文が決議されている。
その結果、感謝文を提出することになったが、次のような大げさな感謝状になった。
この感謝状は1万6千語にのぼる長文のもので、数十メートルに達する奉書紙に達筆の者が筆をふるい、それをきれいに表装し、刺繍を施し、20メートル以上の美しい巻物として桐の箱におさめられた。この感謝状の他に、「感謝アルバム」と題した61枚からなる画集があります。一枚一枚は収容所の生活を巧みな筆で描いたものに細かな説明文が書き込まれています。収容所生活がすばらしかったことを絵で説明し、スターリン大元帥への感謝状、6万3千人以上の人からの署名アルバム、そして61枚の絵からなる感謝アルバムをおさめる奉納庫はすばらしく精巧に作られています。これだけでも、彼らを奴隷のように扱った総責任者のスターリンに対して過剰なまでの媚びです。それでは感謝状の内容はどんな文章だったのでしょうか。
昭和63年6月に全国抑留者協議会の斎藤六郎氏が、スターリン感謝状の現物をロシアから借り受け東京で展示したが、展示後その感謝状はソ連に返されてしまった。そのため感謝状にどんな文章が書かれていたのか全然わからなかった。自民党群馬県議会議員、中村紀雄 氏は、かねてからシベリア抑留問題に興味を示していました。平成16年を7月19日、中村氏は二人の抑留体験者と一緒に新潟空港からハバロスクに向かい、ハバロスクの国立古文書館に訪れ、女性館長から幸運にも全文34頁からなる「スターリン大元帥への感謝状」のコピーを手にいれることができた。中村氏は、自分のホームページで、感謝状の一部を原文のまま、残りはその概要を公表していますが、ここに中村氏のコメント付きの公開文章を発表します。
引用開始、
「この感謝状は、昭和24年5月から8月にわたりハバロスク、沿岸両地方の日本人捕虜大集会で審議採択されたもので6万4千434名が署名したと添え書きされている。以下はこの文の主要部を紹介する。
文の表題は、「ソヴィエト諸民族の偉大なる指導者・全世界勤労者の師父にして日本人民の最良の友、スターリン大元帥へ」となっており、書き出しは、「敬愛するイシオフ・ヴィサリオーノヴィッチ」で始まる。スターリンというのは、通称であり、鉄の男を意味する。イシオフ(又はヨシフ)・ヴィッサリオーノヴィッチ・ジュガシヴィリが「大元帥」の正式な名前である。次は冒頭の全文である。
『旧日本軍捕虜である私たちは、人類最大の天才、全世界勤労者の導きの星であるあなたに、そしてあなたと通じソヴィエト政府ならびにソヴィエト人民に、偉大なるソヴィエトの国が私たちに与えられた光と歓びに対し私たちの心からの感謝とあつき感激をこめてこの手紙を送ります。あなたの配慮のもとに、そしてあなたの教え子、あなたの愛児であるソヴィエト市民、ソヴィエト軍将兵のもとに、ソヴィエトの地におくった4か年の生活こそ、私たちにとって偉大なる民主主義の学校となったのでありました。それは私たちにとって終生忘れ得ぬ感銘として残るでありましょう』

以下は引用すると長くなりますので中村氏のコメントは除いて彼が公開してくれた手紙の全文だけを引用します。
引用開始
「私たちのいくシベリアは、荒涼たる氷雪以外何ものもなくおそるべき「酷使」と「死」が待つと言われたが、実際は並々ならぬ寛大さと人道主義によって迎えられ、あらゆるサービスが完備し夢のようだった。厳正な8時間労働、十分なカロリー計算のもと一点の汚れもない調理場で日本料理風の料理がつくられ食前をにぎわす。温かい寝具と被服、立派な宿舎が保証されたあらゆる日用品と嗜好品が販売され、食事、菓子、飲料をもそなえたレストランも開設され、下着もまた毎週、清潔なものと交換され、立派な施設をもった入浴場、洗濯場が設けられている。医療に至っては日本では夢にも見られないもので、幾多の高価な薬品や医療機械が備えられ完治するまでよく見てもらえる。その他文化教養を高めるための施設や配慮が行き届き毎週ソヴィエト映画を楽しむことができる等々」
引用終了

引用開始
「私たち四年前の自分たちを振り返るとき、自らの巨大な変化に打たれる。私たちは、日本では到底学び得なかった巨大なものを学びとり身につけた。だから、社会主義の国で過ごした四か年は幸福であり、誇りである。日本軍兵士の時は奴隷であったが、ソヴィエトで解放され、初めて自由を得た。以下略」
引用終了

引用開始  
「私たち日本人捕虜の帰国も最終段階に入ったが、私たちは断じて祖国なつかしとのみ帰国するのではない。私たちの人生における最大の感銘に満ちた四年間を、我が再生の宝とし、その懐かしい想い出を変えることもなく抱き続け、私たちの聖なる誓いを固く守り、わが人民解放の闘いに必要とあらば、わが生命を掲げようとする確固たる決意に燃えて進撃するために帰国するのだ。私たちは戦争の間に諮りしえない罪悪をソヴィエト市民にかけた。このことについては限りない自己嫌悪の念に耐えない。
私たちは、今こそわが日本に帰国したその時は、日本海の波濤遠く、レーニン、スターリンの国を仰ぎ見つつ、ソヴィエトの国の偉大な模範に無限の勇気をくみ取りつつ日本人民の利益のために、全世界勤労者の自由と幸福のために、果敢に、献身的に闘うでありましょう。社会主義ソヴィエトの国に過ごした4か年の思い出は、終生私たちの心を、大なる喜びと感激をもって充たすでありましょう。そして偉大なる人民、建設者となる人民、真のヒューマニストたる人民についての思い出は、永久に日本勤労者の心のうちに生きるでありましょう。この感謝状は、最後に改めて、大元帥に対して宣誓する。
『敬愛するイシオフ・ヴィッサリオーノヴィッチ
私たちは、全世界勤労者の愛する天才的教師たるあなたの前に、そして偉大なる社会主義者ソヴィエト同盟の人民の前に、いまここに厳粛なる決意にもえて宣誓せんとするものであります。
(1)ソヴィエト人民と日本人民とのゆるぎなき友誼のために献身的に闘う。そして、私たちがこの目で見、かつ学んだソヴィエトの国の真実を日本のすみずみまで、全日本にひびきわたらせる。
(2)アメリカ帝国主義、日本帝国主義のやからどもが、私たちを再び犯罪的奴隷兵士と化することを断じて許さない。そして、解放軍たるソヴィエト軍に対し、たとえ大地がはりさけるとも二度と武器をとらない。もし再び帝国主義どもが、日本を、ソヴィエトに対する
戦争の舞台にしようとするなら、私たちは死をも恐れず決起し帝国主義者と戦う。
(3)私たちは、社会主義の事業と平和の事業に、あくまでも忠誠を守り抜く。
(4)私たちは、この聖なる誓いを、わが瞳のごとく、わが魂のごとく守り抜き断固としてそれを果たし抜く。
全世界勤労者の命であるあなたがますます健康に、限りなき長寿を保たれんことを、
日本共産党万歳!
ソヴィエト同盟に栄光あれ!
ソヴィエト軍に栄光あれ!
万国勤労者の師父、敬愛するイシオフ・ヴィッサリオーノヴィッチ万歳』

ついでにこの感謝状に署名した人たちの感激のことばを当時の現地の捕虜収容所の新聞、「日本新聞」に載せていますのでいくつかを紹介します。
「我々の小さな名を記す瞬間、なぜか手が震え五体がしびれ胸が高鳴り涙が耀き」
「輝く眼、美しい顔、清々した姿、湧き上がる決意、それが署名の瞬間だった。」
「手をきよめ、心しずめて握る筆、署名こそ我らの雄々しい姿」
「やむにやまれぬ謝恩の発露、われらのスターリン大元帥万歳を心の中で叫びました」

読者の皆さん、この感謝状の内容といい、署名者の興奮した言葉といい、どう思いますか。どんなに感情を表さない読者でも、少なくとも驚くことは間違いないでしょう。感謝状の内容を紹介してくれた中村紀雄氏は、非常に冷静に淡々と筆を進めていますが、読んでいる私は、これが日本人なのかという落胆と同時にどうしようもない怒りを感じてきます。その理由を箇条書きにします。
(1)シベリア抑留による死者の数は、合計で5万から7万です。この感謝状が書かれたときは、抑留4年後です。その時すでに万を超す何万人もの日本兵捕虜が死んでいるのです。それはすべて日本兵を抑留せよという指令を発したスターリンの責任なのです。そんなことは日本人捕虜は充分に知っていて、これほど徹底して媚びた感謝状を書いているのです。この感謝状は、収容所で死んでいった同胞への裏切りであり、祖国日本への裏切りです。祖国を裏切っておいて、彼らは心底帰国したがっていたのです。
(2)生存しておられる抑留体験者の中には、また読者の中にも、感謝状の内容は、うそも方便の一つに過ぎないと軽く考える人がいるかもしれませんが、それはあまりにも甘い考えです。6万人以上が署名した感謝状は、重要な証拠として扱われます。ソ連政府には、日本政府への反撃材料として使える貴重な史料になるのです。
(3)日本人捕虜のほとんどが軍人です、当時の日本軍人にとって「天皇陛下」は絶対的な存在であったはずです。それがどうですか。地獄のような厳しい捕虜生活を強いられ、同僚の多くが死んでゆき、自分も死ぬか生きるかの分かれ道にさしかかったとき、彼らにとって絶対的存在だった「天皇陛下」からあっさり「スターリン陛下」変わってしまったのです。
そしていままで同じ境遇で生活し、そして共産主義に転向しない同僚の捕虜を反動扱いしにしていじめぬいたのです。これが日本軍人の姿なのです。「民主運動」の狂態、感謝状の内容、どれも軍人精神を問われるだけでなく、個人としての誇りや尊厳も問われています。
さらに驚くことは、帰国したいためのみせかけの共産主義者だけでなく、多くの軍人が本当の共産主義者になってしまい、彼らの帰国時、祖国に上陸するのに、「天皇島に適前上陸」と叫んで迎えきている家族との面会もそこそこに、故郷に帰るよりもまず第一に実行したのが、東京の日本共産党本部への直行し、日本共産党員になることだった。そして帰国後半年もたって少し身が落ち着くと、日本共産党を脱党したり、熱心な活動的な共産党員でなくなってしまったのです。

シベリア抑留を体験した人は、私の批判にたいして、「実際に地獄を体験したことない人間が偉そうなこと言うな」と私を非難するでしょう。スターリンの感謝状に署名せず、自分の息子が帰国できず死ぬことになったらどうするのだ、留守家族にとってどんなことをしてもいいから帰国してほしいのだと私を批判するでしょう。しかし私が日本人捕虜を批判するのは、同じような環境の下で暮らした外国人捕虜と比べると、日本人捕虜(主にほとんど元日本軍人)があまりにも無様な姿を見せつけるからです。「日本新聞」の編集長、イワン・コワレンコ中佐は、「ドイツ人捕虜は日本人よりもっと厳しい条件で労働させられた」と語っていますが、当然だと思います。ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連領に侵入したからです。ソ連領土内では、沢山のソ連軍人や民間人の死傷者を出しているからです。独ソ戦のスターリングラードの攻防戦はあまりにも有名です。ソ連によるドイツ兵捕虜315万5千人、死亡者は109万4千250人で全捕虜の3分の1が死んでいます。日本の死者10パーセントに対しドイツはその3倍です。ドイツ兵捕虜の悲惨さは、日本兵捕虜以上だったことがわかります。それでもドイツ兵捕虜の間では、「民主運動」のような狂態を演じてドイツ兵捕虜が同胞であるドイツ兵捕虜をいためつけることもなく、ましてはスターリン感謝状など提出していません。彼らにとって、全く想像を絶するような行為でしょう。
「シベリア捕虜収容所」を書いた若槻泰雄氏によれば、その収容所の場所によっては日本兵捕虜とドイツ兵捕虜と一緒になる。日本兵捕虜は、一致してドイツ兵の堂々たる捕虜ぶりを称賛しています。全員ドイツ兵捕虜は卑屈になるどころかソ連兵を徹底して軽蔑していた。

ソ連によって抑留された軍人は、日本軍とドイツ軍だけではありません。ヨーロッパ諸国の軍人が多数抑留されています。イタリアは、ソ連遠征軍総数22万のうち約4万6千名がソ連によって抑留され、3万5千名が死亡、残り1万名のうちソ連側によって死亡が確認されているのが472名です。その他フランス、オーストリア、ルクセンブルグ等、特にハンガリーでは、同国の捕虜35万人が消息を絶っていると言われています。その他の東欧諸国、ブルガリア、チェコ、ポーランドなど多数の捕虜がソ連で抑留されたのです。それでも日本以外、どこの国も「民主運動」という狂態を演じたり、「スターリンへの感謝状」を書いたりしていません。

信念を貫いた人たち
ソ連は日本兵捕虜を粗食の下に厳寒の中、重労働を課すばかりでなく、日本兵を共産党員にするべく勉強させ、あるいはソ連のスパイにすべく教育をした。その中で共産党員にもならず、スパイにもならず最後まで信念を貫いた人たちが何人かいた。史料不足のため、私の独断と偏見で三人を選びました。草地禎吾大佐、近衛文隆、赤羽文子。草地大佐は、軍人間では有名です。ソ連当局の拷問にも耐え、民主運動の嵐にも耐え、信念を貫いた将校は草地以下十数名いたと言われています。近衛文隆は文麿の長男、甥が細川護熙元首相です。文隆が共産党員なれ、スパイになれと要求に断固と拒否続けることができたのは、細川家は天皇家に次ぐ古さの家系の重みからです。帰国できず、ついにモスクワで死去。赤羽文子は最高にすばらしい日本女性だ。彼女は軍隊教育を一切受けていない。ソ連軍に捕まった時、大連市の市長の秘書をしていて彼女が36歳の時だった。ソ連当局は、彼女が市長の秘書の前にソ連領事館でソ連人スタッフに日本語を教えていたのを知っていた。奉天から列車で17日間もかかるシベリアのチタの女囚監獄に入れられた。日本人女性は彼女一人。以来ソ連のスパイになれと説得されたが拒否し続け、シベリア滞在10年、その間故国への通信は一切拒絶された。そのうえリューマチを患い、病院での治療と早い帰国をえさにスパイ勧誘は続いたが、彼女は極北地での死を覚悟をした。そしてついに帰国の機会が訪れたのだ。

二。日系アメリカ人強制収容
昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発した。その日の夕刻、アメリカ国内における日系二世団体「日系市民協会」の指導者たちは会議を開いた。城戸三郎会長は、「我々はアメリカ市民として義務を果たすものである。米日開戦は最も不幸な出来事であるが、いまこそ我々の忠誠心を示すときである。戦場に送られるといえども、我々忠誠心は不変である。我々の父母は、法律の下ではアメリカ市民になることは許されていない。しかし、アメリカ市民である我々の父母として、善良なる住民として、どこまでも我々とともに進むことを信じて疑わないものである」という趣旨の電報をルーズベルト大統領に送った。
戦争開始後二か月後の昭和17年2月19日、ルーズベルト大統領は、大統領行政令9066号に署名、軍が国防上必要である場合に強制的に外国人を隔離することを承認した。大統領行政令はすべての「敵性外国人」に向けたものでしたが、実際に適用されたのは日系人だけでした。日本だけでなくドイツもイタリアもアメリカと戦争状態になっていたが、ドイツ系、イタリア系は適正外国人にはならなかった。こうして、アメリカ国内において日本人の血が16分の1以上混じっている日系アメリカ人は、制限期日の4月2日までに逮捕、拘束され収容所に送られることとなったのである。アメリカ国内に10ヵ所の強制収容所がつくられ合計12万人が強制収容された。その他に中南米13ヶ国の日系人、2264名をアメリカを脅かす「敵性外国人」としてアメリカ国内の抑留所に強制連行した。

ここで一つ読者に注意していただきたいのは、ハワイ在住の日系人は、一部の日系人指導者を除いて殆どの日系人が強制収容されなかったことです。理由は開戦当時のハワイ日系人の人口が15万8千人で、ハワイ全人口の35パーセントを占め現地の経済的影響力が大きかったため、ハワイ州当局が強制収容を拒否した結果です。このためハワイの日系人のほとんどが例外的に財産を失わず済んだ。
日露戦争以来、日系人は法的にも社会的にも徹底して差別され、大変な苦労を味わってきた。
日米開戦とほとんど同時に強制的に財産をほとんど失わされ、強制的に収容所にぶちこまれた。それにもかかわらず、私が驚くのは、日系市民協会の指導者たちは、おとなしく強制収容に応じ、アメリカ政府に対して抗議声明一つださず、それどころか軍隊に志願させるように要求していることです。アメリカ政府は、日米開戦以来、日系二世の徴兵、志願を凍結していたが、日系市民協会の軍隊志願の要求に応じるかたちで、昭和18年1月のその政策を変更し、「アメリカに忠誠を尽くす」と意思表示した日系二世の兵役を認めることにした。
ここで私は読者の皆さんに質問があります。
あなたが「忠誠登録」にイエスと答えたところで、あなたの両親、兄弟姉妹が強制収容所から釈放されるとか、両親が失った財産のほとんど戻ってくるとか、両親に市民権が与えられるとか、あるいはあなたが戦死したらアメリカ政府は、金銭的にあなたの両親の面倒をみてくれるとか、一切の好条件は示されませんでした。それでもあなたは、「忠誠登録」にイエスと答えてアメリカ軍に入隊しますか。
カリフォルニア州北部のツールレイク収容所では忠誠登録を強制されたことに反感をもった二世35人はデモ行進し「徴兵局に登録する意思はまったくない、しかし、日本への送還にはいつでも署名する」という抗議文を手渡した。この35人は、全員銃を突き付けられ他州の抑留所にほうりこまれてしまった。この忠誠登録によって収容所の日本人間に亀裂が深まり対立になって殺人事件にまで発展していった例も出たのも当然でしょう。
「忠誠登録」にイエスと答えて全米10カ所の収容所から志願した日系二世は、全部で1181人(その後数はずっと増えます)です。この数を多いと見るか少ないと見るかは見解の相違になるでしょう。私はとてつもない多い数字だと解釈しています。なぜなら志願者日系二世は、ほとんど全員が両親健在の年代です。私の考えでは、人生で一番見るに忍びない事とは何かと問われれば、血のにじむような努力を何十年と続けながら、その努力がなにも報われることなく一生を終わることではないでしょうか。もし自分が戦死でもすれば、両親の悲劇はますます深まるのだ。
それでも志願者数、1181人という数字は、権力に弱い、権力にすり寄って生きる日本人資質のあらわれのような気がしてなりません。ここでまた読者に問いたいのです。
人間は死を覚悟すれば、なんでもできると言われています。事実その通りでしょう。忠誠登録に「イエス」と答えて入隊した日系二世は、戦場での死を覚悟したに違いありません。死を覚悟したなら、自分たちを不当に扱ったアメリカ政府への抗議の態度ぐらいとれるはずです。それにもかかわらず多くの日系二世が入隊していったのはなぜでしょう。その理由は二つ考えられます。
(1)日本人は、権力に非常に弱い。権力者にすりよっては生きるのが得意なのだ。日系二世の入隊組は、徹底してアメリがカ政府に媚びて言ったとして言い過ぎではないでしょう。
(2)人の好い日本人が陥りやすい最大の欠陥、すなわち自分勝手な善意の思い込みです。この自分勝手な善意の思い込みが、日本の外交がどれほど損なわれているか計り知れません。韓国やシナに謝罪し、多額の経済援助をすれば、両国と友好関係が築けるだろうという善意の思い込み、ロシアに経済援助や技術援助したのも、そうすれば北方四島返還交渉に有利に作用するだろうという善意の思い込みがあったのでしょう。入隊組の日系二世は、アメリカのために入隊して戦場で死んだら、いくらなんでもアメリカ政府は、自分の家族は冷遇しないだろうという自分勝手な善意の思い込みあったのではないでしょうか。
こうしてアメリカ本土の日系二世は、入隊組と入隊拒否組との間に亀裂が入り対立関係になってしまった。
アメリカ本土と事情が違うハワイでは、忠誠登録は行われていません。アメリカ政府は、日系二世だけの部隊編成を考え、ハワイの徴兵目標を1500人としたところ、全部で1万人近く日系人が応募しています。

「称賛すべきは入隊拒否した日系人」
戦後、日系二世部隊のヨーロッパ戦線での大活躍はマスコミなどで知られています。私が一番気になったのは「忠誠登録」に「ノー」と答えて兵役拒否をした日系二世は、そのごどうしているのかでした。かれらの戦後の様子など知らされることがなかったのではないでしょうか。
平成14年5月14日、読売新聞の国際ニュース面で、「日系徴兵拒否者に謝罪」、「日系人団体 大戦後、長年『仲間外れ』」と言う見出しが出ていましたのでその記事の全文を引用します。
引用開始
「第二次大戦中、米国で強制収容に抗議して徴兵拒否した約三百人の日系人に対し、日系人団体が長年にわたる「仲間はずれ」を初めて公式に謝罪する式典が11日、サンフランシスコで開かれた。大戦で従軍して米国への忠誠心をしめした日系二世は賞賛の対象となったが、兵役拒否者は、日本人社会から長年卑怯者呼ばわりされてきた。謝罪までに要した約60年もの歳月からは、戦争によって引き裂かれた日本人社会の悲劇が浮かび上がってくる。真珠湾攻撃後、米政府は約十二万人の日本人を強制収容所の送りこみ、軍隊からも排除した。
だが、一九四三年に日系人の従軍が認められるようになると、約三万三千人の日系二世が従軍し、多数の死傷者を出しながらも勇敢な戦いぶりを見せ、日系人の名誉回復に大きく貢献した。これに対し三百二十五人の日系人が徴兵を頑として拒んだ。
『自分や両親が強制収容され権利を奪われているというのに、どうして民主主義のために戦えると言うのか』こう語るのは徴兵拒否者の一人、ミツ・コシヤマさん(77)だ。「選抜徴兵法」違反で懲役三年の判決を受けたコシヤマさんはじめ、二百五十六人が投獄された。だがもっともつらかったのは、日系人社会で受けた公然の非難だった。
全米最大の日系人団体『日系市民協会』は四十四年三月『徴兵拒否者は煽動罪に問われるべきだ』と声明。徴兵拒否者は『反逆者』『卑怯者』とののしられた。戦後の四十七年、トルーマン大統領はいち早く徴兵拒否者に謝罪し、特赦を与えたが、日系社会のわだかまり消えず、『いまでも新聞などに徴兵拒否者を批判する投書がよせられる』(コシヤマさん)
しかし日系人が二世から三世、四世へと世代交代し、徴兵拒否は正当な憲法上の権利の行使だったという理解が徐々に広がった。「日系市民協会は2000年、ようやく徴兵拒否を『理解する』という決議を採択。日系退役軍人らを説得し、11日、コシヤマなどの懲兵拒否者や家族22人を招く式典の開催にこぎつけた。
式典ではフロイド・モリ(日系市民協会会長)が『苦痛をぬぐいさることはできない』と謝罪した上で、『過去に起こった過ちを水に流そう』と呼びかけた。他にも徴兵拒否の道を選んだ人々の勇気をたたえる発言が相次いだ。式典に参加した徴兵拒否者のケン・ヨシダさん(78)は『本当は謝罪はいらない。ただ私たちは徴兵から逃げたのではなく、政府に抗議したのだということは、これからの世代に知ってほしい』と語った。(森田清司)」

日系人強制収容についてインターネットで色々調べていたところ2006年2月6日のインターネット上で2005年4月1日付けのニューヨークIPS(Inter Press Service)のニュースが、IPSジャパンの浅霧勝浩氏に翻訳されていた。
「日系人強制収容所の不当性を訴えた闘士86歳で逝去」の見出しのもとに、次のような記事が載せられていました。
「フレッド・コレマツは、第二次大戦期のローザ・パークス(米国公民権運動の母)と称される人物だが、40年間正義を待ち続けたこの日系アメリカ人は、水曜日(3月30日)北カリフォルニアのカークスブルで86年の生涯を閉じた。コレマツの40年に及ぶ(第二次大戦中の日系人強制収容所の不当性を訴えた)闘争は、カリフォルニア州オークランド刑務所の檻の中から始まった。彼の訴えは敗訴を重ねた末に米最高裁で否決され有罪が確定した(1944年)。ところが一転して犯罪歴は抹消され、しかも米国民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」が授与された」

コレマツがたどった軌跡は、米国公民権史に名を残す言語道断な事件の中でも最も醜いもの一つである。真珠湾攻撃から間もなくルーズベルト大統領はアメリカ国内に住む日系人、12万人を市民権の有無にかかわらず各地の強制収容所に送り込んだ。フレッド・コレマツの両親も収容所にぶちこまれたが、フレッド・コレマツ自身は収容所入りを拒否したため、逮捕、起訴され、刑務所に収監された。以来コレマツ氏の法廷闘争がつづいた。1944年、日系人収容処置は解除され、コレマツ氏はサンフランシスコに戻ってきた。彼は製図工として働き家族を養ったが、「前科者」が災いして大企業や公的な職につけなかった。それから約40年後1981年彼の有罪判決が偽証のせいと判明。其の後裁判所が特赦を申し出たが、コレマツ氏はこれを拒否、再審を要求した。まもなく連邦裁判所は、コレマツ氏は不確かな証拠に基づいて裁かれたとして彼の当時の有罪判決を無効とし、コレマツ氏の犯罪歴は抹消された。こうしてコレマツ氏は(40年の闘争の末)米国法史の暗黒部分に終止符をうった。
五年後、ジェラルド・フォード元大統領は、日系人強制収容処置を「国家的な過ち」と非難した。五年後、当時のドナルド・レーガン大統領は、日系人強制収容処置「深刻な不法行為」であるとし、コレマツ氏を含む数千人の生存中の元収容者に対し、一人当たり二万ドルの賠償金を支払うことを決定した、そして1999年、当時にビル・クリントン大統領は、コレマツ氏に対して、米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」を授与した。
「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています。・・・・プレッシー、ブラウン、パークス・・・・」。クリントン大統領は有名な公民権関連の事例を挙げながら続けた。『その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです。』(以下略)

このブログを書くために拙著「逆境に生きた日本人」(展転社、平成20年2月出版)を抜粋して書いています。この本の原稿を書いていたのが平成19年ごろです。ここに書いたコレマツの記事は、その当時コレマツ氏についてインターネットで調べられるすべてでした。コレマツ氏の名前の漢字を調べましたが、見つけることができませんでした。ところがこのブログを書くに当たってつい最近ネットで調べたらコレマツ氏についてのウイキペディアでは、詳しい経歴やその他いろいろな情報が手に入りびっくりしました。以下のコレマツ氏の情報は、つい最近のインターネット調べによるものです。
フレッド・コレマツの正式の名前は、フレッド・トヨサブロウ・コレマツ、漢字では是松豊三郎。2005年5年3月30日、86歳で死亡。2010年9月30日カリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定、州法に守られた市民の自由の重要性を再認識する日にした。2017年4月25日、NHKテレビで番組「NHK先人たちの低力」でフレッド・コレマツの人生の特集を放映した。私はあのNHKがコレマツ氏について放映をしたことについて非常に驚きました。私がNHKの支払い拒否を続けて13年目です。私はNHKの歴史検証番組など絶対に見ません。偏っているからです。あのNHKがコレマツ氏を取り上げたのには何か理由があるのだろうと想像をした。私の想像は、このことだろうと思う事件があった。2017年1月30日、すなわちカリフォルニア州の「フレッド・コレマツの日」にあわせてGoogleのアメリカ合衆国版のフロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うなら、声を上げることを恐れてはならない」(If you have the feeling that something is wrong,don’t be afraid to speak up.)とこうコレマツ氏の言葉を紹介しています。グーグル社は、大統領選ではトランプ氏に大口献金をしています、いわゆるトランプ大統領の人種差別といわれる大統領令には、反対なのでしょう。そのためカリフォルニア州のフレッド・コレマツの日、1月30日 に合わせてコレマツの記事をのせたのではないかといわれています。グーグルがこれだけ派手にコレマツ氏を載せると、NHKは黙視するにはいかなかったのでしょう。クリントン大統領の時、コレマツ氏に大統領自由賞が授けられた。その時日本国内で反響を呼んだのでしょうか。記憶している人おられますか。多くの日本人が偉大なコレマツ氏の存在を知ったのはつい最近ではないでしょうか?

日系人強制収容の時、12万人強制収容されました。日系人はアメリカ政府に抗議デモもするでもなく、講義の手紙を出すでもなく、従順に黙々と強制収容所に入った。入所したら、
アメリカ軍に入隊させてくれと自ら頼み込んでいるのだ。いざ入隊許可になれば、入隊拒否者が500人ばかりしでた。日系人全体で入隊拒否者を村八分にしてしまった。強制収容所そのものに入所することを拒んだたった一人の日系人がコレマツ氏だけだったのだ。日本人は、信念と突き通す人には冷淡なのだ。このブログは長くなりましたのでこの辺で辞めておきます。次回は終戦後の占領軍の統治と最重要問題の憲法改正について書きます。



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パナマ文書(2)、プーチン大統領について



翻訳本「パナマ文書」でプーチンについて書かれている全文を読んで要約したものをお知らせしようと思いましたが、それをすると大変なので、プーチンについて書かれているページ数を書いて、その頁の全文を転載、あるいは適度に要約する等して、お知らせする方式をとりました。
1.12頁
文書の多くは契約書で扱われている金額がとても大きい。ある時は800万ドル、ある時は3000万ドル、2億ドルとか8億5000万ドルというものもある。それらは株取引によるものか貸付だろう。だが、ロルドゥギンという名にこころあたりはない。調べてみる。そして少しビクリとする。
セルゲイ・ロルドゥギンは、「ウラジミール・プーチンの親友だった。ロルドゥギンはロシア大統領の長女であるがマリアの洗礼時の代父なのだ。これだけでも十分に興味深い。代父によるオフショア・ビジネス。だが読み進めるうちに私はすっかり困惑してしまう。セルゲイ・ロルドゥギンは、投資家でもなければオリガルヒ(ロシアの新興財閥)でもない。芸術家なのだ。音楽界では名のしれたチェロ奏者で、サンクトペテルブルグ音楽院の元院長。」
私は、2014年9月のニューヨーク・タイムズ紙に掲載された、彼のインタビュー記事を見つけた。その中でロルドゥギンは、自分はビジネスマンではないし、「何百万ドルも所有してはいない」とはっきり語っている。(略)
2.30頁
想像を絶する大金だ。(略)株ビジネスの関する契約を読むと、これらが特にロシアの重要な大企業の株に関わるものだということがわかる。プーチンに批判的なロシア専門家は殆ど皆、プーチンが大統領を辞める時には億万長者になっているだろうと考えている。だがしかし、ならば彼の財産はどこにあるのだ?専門家の中には、プーチンが株式の配当を受けていると主張するものもいる。だが、プーチンが本当にロシアの大企業の株を保有しているのなら、そのことを知られるのを良しとするだろうか?そんなことは絶対にあり得ない。信頼のおける人物を利用するだろう。セルゲイ・ロルドゥギンのような人物を?
ロルドゥギンとプーチンが知り合ったのは1970年代だ。ロルドゥギンはサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)時代のプーチンが肩入れしていた友人のひとりであ、後年、プーチンが大金持ちにしてやった友人の一人でもある。だからもたらされた文書中の中に登場するロルドゥギンが、このロルドゥギンであること想像に難くない。プーチンの友人は、ロルドゥギンだけでない。プーチンが主導で国内有数の大手主要銀行になったその大株主もロルドゥギンだけでなくプーチンの友人たちだ。これらプーチンが信頼する友人のほとんどは、プーチンによるクリミア併合後はアメリアカが発動した制裁、その制裁対象者リストに載っている。(略)

3.167頁
セルゲイ・ロルドゥギン、ウラジミール・プーチンのお友達の、あのチェリストだが、彼の名が載っているカンパニーが三つになった。調査の最初で行き当たったインターナショナル・メディア・オーバーシーズに、ソネッテ・オーバーシーズとイター・リミテッドというカンパニーが加わる。この三社とも、2014年のインタビューで、自分はビジネスマンでないし、何百万ドルなんか持っていないと語った男の名義になっているのだ。では本当の持ち主は誰だと言うのだろう。我々の好奇心がかき立てられる。この三社の株主のほとんどの出身地はサントペテルブルクだ。プーチンが権力への足掛かりをつかんだ、あの町だ。(略)

4.168頁
専門家の多く、特に西側の専門家は、ロシア国家元首――2014年の収入が765万ルーブル(1万9000ドル)とされている—―はダミー社長を操り、いくつもの大企業の株式を保有していると考えている。ロシア人アナリスト、スタニスラフ・ベルコフスキーはプーチンの資産を2007年時点で400億以上と推測している。だが確証はとれていない。プーチンの資産について同様の推測がいろいろなされている。違っているのは、結局プーチンの資産が100億か、400億か、あるいは2000億かという点だけだ。USドルでだ。
(略)

5.211頁
まず何といってもセルゲイ・ロルドゥギンだ。チェリストでプーチンの娘の代父。この男の金融ネットワークには5億ドルが隠れていることが分かっている。それからプーチンの柔道仲間で(今は制裁リストに載っている)ポリス・ローテンベルクとアルカディ・ローテンベルク、プーチンの従兄弟イゴール、そしてロシア有数の大富豪アリシェル・ウスマノフ。リストはまだまだ続く。ここに登場する名前が興味深い理由がもうひとつある。彼らは皆、プーチンに近い人物なのだ。そしてそのプーチンはといえば、オフショア・ビジネスを非愛国的だと非難している。だとすると、プーチン勢力下の人間がこんなにも大勢、よりにもよってその非愛国的オフショア・ワールドにお出かけ中というのは、あまり聞こえの良いものでない。(略)

6.353頁
プーチンが家族と写っている写真は多くない。大統領の私生活はロシアではタブーなのだ。プーチンは二人の娘を世間の目から厳重に遠ざけている。それだけに、調査の途中にネット上にいくらか解像度の低い一枚の白黒画像を見つけたときは、びっくりした。そこには鋭い目つきをした若き日のプーチンが写っている。この写真が撮られたのは1985年のレニングラード、現在のサンクトペテルベルク。1985年といえば、ミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任したばかりで、プーチンは小柄な一介のKGB士官に過ぎなかった。写真のプーチンは娘のマリアを腕に抱き、彼の横には当時の妻リュドミラが立っている。
リュドミラの隣でふさふさの髪をした若い男がこちらを見据えている。セルゲイ・ロルドゥギンだ。プーチンの娘マリアが洗礼を受けた時、代父を務めた、謎に包まれたチェリストだ。
調査を通じて我々は、彼をオフショア・カンパニーからなる一つのネットワークの中心人物として捉えた。(略)
7.358頁
2009年から2011年までの間だけでも総額10億ドルがロルドゥギン・ネットワークに流れ込んでいることが我々のデーターから読み取れる。この資金の大半がキプロスの商業銀行から出ている。(略)

8.361頁
ロシア国家から金を巻き上げるというのは、基本的にいい考えではない。いい後ろ盾があって、それが許されている立場にある場合を除いて――。
プーチンに支配されるロシアのことを話しする時、泥棒政治を話題にするのはもはや西側の専門家だけでない。実際、プーチンが政治家としてのキャリアの段階を登り始めた当初から、政界内部では汚職の噂が囁かれていた。だがそのほとんどは忘れ去られている。
しかし、我々は、オフショアの置かれた金の壺が、さまざまに交錯した道を経てやってくる何億もの金で満たされる様子を見ている。しかも、それに大きく関わっているのがプーチンの古くからの友人なのだ。(略)

9.366頁
つい最近ロイター通信が、プーチンの下の娘カテリーナが2013年二月にキリル・シャマロフという30代半ばの男と密かに結婚していたことを暴露したのだ。キリル・シャマロフは伝説に包まれたオゼロ・コオペラティブのメンバー、ニコライ・シャマロフの息子だ。このオゼロ・コオペラティブというのは、プーチンが友人たち共に設立した共同組合のようなもので、設立場所となったのは、その友人たちがサンクトペテルブルクからほど近いコムソモルスコイ湖畔に買っておいた、ダーチャ(別荘)付き土地だった。もとは単なるダーチャ所有者たちの集まりとして出発したオゼロ・コオペラティブだが、ほどなくして経済における排他的ネットワークを意味するようになった。例えば、オゼロのメンバー、ユーリー・コ
ヴァルチュクは現在、ロシア銀行の頭取兼最大株主だ。息子をプーチンの娘と結婚させたニコライ・シャマロフもこの銀行の株主の一人だ。
プーチンの義理の息子は結婚後数か月もしないうちにさらに裕福な男になった。保有するロシアの石油化学最大手シプールの株が数%から21%に増えているのだ。我々にとって
さらに興味深いのは、プーチンの娘とシャマロフの息子の結婚式が行われた場所だ。スキーリゾート、イゴーラなのだ。(ロマノフ王朝の結婚式と呼ばれてもいい超豪華結婚式、中略)。
ここでパナマに始りイゴーラリゾートに終わる、何カ月にもわたる我々の調査の旅が終了した。行き着いた先はプーチンの家族だった。あまりにも、恐ろしい。

パナマの法律事務所、モサック・フォンセカから故意にか、あるいはある目的をもってかは、いまだに不明だが、この「パナマ文書」を公表したことで、多くの国々で何百人もが捜査対象となった。同時に苦境に立たされた現職の政府首脳も多い。アイスランド、イギリス、アルゼンチン、マルタ、パキスタンです。「パナマ文書」は世界中の人々について書いているが、個人の中でウラジミール・プーチンほど詳しく書かれている人物はいません。シナについては、本文293頁から第二十一章 「赤い貴族」として習近平を含む数人のシナ人が本文304頁まで書かれています。

なぜ私は「パナマ文書」に書かれているプーチンを詳細にとりあげたか。私は安倍首相対プーチンの領土交渉に反対だからです。私の反対主張は、まず私のブログ、「安倍総理、プーチンにのめりこまないでください。」(2016・11・5)と「鈴木宗男よ、前科者のくせに偉そうな口をきくな。」(2016・12・3)を再度お読みください。「パナマ文書」で記されているのはプーチンに関するお金の動きだけです、プーチンの暗殺指令などほとんど書かれていません。結論づければプーチンはロシア国内の政敵を暗殺指令などで間接的か直接的かで殺しているのです。私のブログ、「安倍総理、プーチンにのめりこまないでください。」のitem2「プーチン政権時の国内政敵落としのいくつかを紹介」を参照ください。また最近のニューズウイーク誌(2017・3・7)には「止まらないプーチンの暗殺令」という記事が二頁わたって書かれています。38頁にはこう書いてある。
「つい最近、元情報機関職員協会(AFIO)の季刊誌インテリジェンサーで、まさにそれが発表された。AFIOはCIA,FBI,軍の諜報関係機関に在籍した4500人の会員を擁する協会。リストには、ロシア政府の命令で殺害されたに違いない30人以上の犠牲者の名が並ぶ。作成者は米国国防省情報局(DIA)の元補佐官ピーター・オールソンだ。リストの完成後も、不審な死は続いている。」

プーチンは少年の頃からKGBの秘密警察の権力に取りつかれ、希望どおりにKGBに入り、いまやロシアの最高の権力者になった。彼は我が世の春を謳歌しているに違いない。プーチンには二人の娘がいます。姉か妹かどちらだか知らぬが、彼女は完全の別の女性になりすまし、時々日本に旅行しています。NHKのロシア駐在に記者、確か石川さんと言う人が、全く他人になりすましているプーチンの娘に日本で会っていると語っていました。プーチンの娘と知られると、殺される危険があるからです。私はロシア史の歴史的観点から、またプーチンの人間的観点からもプーチンとの領土交渉には絶対反対です。プーチンは安倍総理ともうそろそろ20回近く会談していますが、まだ一度でも北方領土を返すとは公言していません、それどころか北方領土の軍事要塞化を進めているのだ。どんなに交渉を進めても北方領土は帰ってきません。ただ何回もプーチンに会うということは、シナへの牽制になることは確かだ。日ソ交渉は長く時間をかけ結果としてなにも生まれない方がよいのだ。奪われた領土は、例え千年かかっても奪い返す。そのためには軍事力の強化は緊急に必要。核兵器が絶対に必要なのです。もう何回も私は、同じことを主張しています。核所有国に対して核攻撃力を持たない外交交渉は無に等しい。いつまでも奴隷的に従属した日米同盟関係とは、おさらばして、早く核兵器を持ち、自主憲法を持ち、正真正銘の独立国日本と対等の日米同盟関係を結んでもらいたい。

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パナマ文書(1)



タックス・ヘイヴン(tax haven)すなわち租税回避地のことです。租税回避地としては中南米の島々、諸国はあまりにも有名ですが、アメリカにもあります。ワイオミング、ネバダ、デラウェアの三州です。特にデラウェア州は、2016年の4月の集計では人口89万7934人に対し企業数94万5326社も存在し、「世界最悪のタックス・ヘイヴン」と言われています。デラウェア州ウイルミントン市北オレンジ通り1209番地にある2階立てのビルに31万社が存在し、ペーパーカンパニーの代表者には弁護士が多く、設立の実質所有者の情報は不要で州も把握できず、非常に秘匿性が高い。2007年、当時上院議員であったバラク・オバマが提出したオフショアの悪用を規制する法案は、今日にいたるまで採択されていない。「アメリカ経済の支配層では、自己の富の多くをオフショアに隠すことは、もはや例外ではなく恒常化した」とニューヨーク・タイムズ紙のコラムニストで、ノーベル賞を受賞したポール・クルーグマンは書いている。

アメリカ以外のタックス・ヘイヴンの代表的な場所は、ご存知のイギリス領ケイマン諸島、バージン諸島といったカリブ海の島国があげられる。パナマ文書とは、パナマ共和国の首都パナマにある法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した計約1150万件に及ぶ膨大な内部文書のことです。このパナマ文書にはオフショア金融センターを利用する21万4000社の企業とその内容が匿名で2015年にドイツの新聞社「南ドイツ新聞」にもたらされ、その後南ドイツ新聞は、その情報をワシントンDCにある国際調査報道ジャーナリスト連合(International Consortium of Investigative Journalists: ICIJ)に送った。世界80ヶ国・107社の報道機関に所属する約400名のジャーナリストがこの文書の分析に加わった。私が調べたところでは、日本の新聞社がこの国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)に加盟しているのは朝日新聞社の一社だけ。戦前、戦中、戦後の日本を貶めることが目的の朝日新聞が何故選ばれたのか理由はわかりません。日本の新聞記者は、英文で作成された書類を読み、書き、話すのがいくら一流大学出ても苦手なのでしょう。
この国際調査報道ジャーナリスト連語(ICIJ)は、営利団体ではなく寄付金で運営されています。大口の寄付金を寄せているのが億万長者のジョージ・ソロス氏です。ソロス氏には二つの顔があります。国境を越えて資金を動かし、外国為替レートの歪みに目をつけて多額の資金を注ぎ込み、莫大な利益を上げる抜け目ない投資家。もう一つの顔は、こうして稼いだ資金を投じ、独裁国家の民主化に協力する活動家です。旧ソ連のウクライナの民主化運動に資金を投じていたとされています。

パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」の膨大な機密文書を誰が、なんのために南ドイツ新聞にもたらされたか、現在でもまったく不明です。モサック・フォンセカという法律事務所を設立したユルゲン・モサックがドイツ生まれであることが分かっているだけ。膨大な機密文書が南ドイツ新聞社に送られたが、南ドイツ新聞社はこれらの書類を(ICIJ)に送り、世界中のジャーナリストの目にふれさせた。同時に南ドイツ新聞の二人の記者、バスティアン・オーバーマイヤー、フレデリック・オーバーマイヤーは、この機密書類を「PANAMA PAPERS」日本名「パナマ文書」として本を出版した。日本文翻訳者:姫田多佳子訳、(株)KADOKAWAが2016年8月27日に出版した。

この本の出版で世界中の政治、経済、スポーツ界などに如何に影響を及ぼしたかを詳細に語っている。それらの情報については多くの読者が知っているでしょう。例えば、アイスランドの現職の首相が退陣に追い込まれたこと、イギリスのブレア首相は自分の父親のオフショア・ファンドから利益を得ていたことを認めた。以来、ロンドンでは首相の退陣を要求するデモがいくつも起きたこと等、皆さんよくご存知でしょう。私が、「すでに多くの人が知っている」というのは多くの国々は民主主義が機能している、すなわち出版、報道の自由が機能しているということです。だから国民は、「パナマ文書」報道に苛立ち大騒ぎになるのです。ところが世界の二大独裁国家、ロシアとシナは、出版、報道の自由がないから、国民は全く知らず、国内ではパナマ文書騒ぎは起こらず、平然としたものです。そこで次回のパナマ文書(2)ではプーチンがロシア国民に隠れて何をしてきたかを書いてみるつもりです。

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鳩山のバカ、アホ、ノータリン(7)



鳩山由紀夫が手を貸した「重慶爆撃」が南京大虐殺の二の舞。
有史以来、これほど売国発言をくりかえした政治家がいただろうか。尖閣諸島の魚釣島を中国領土と言い放ち、南京大虐殺を日本兵の犯罪行為だったと謝罪した鳩山由紀夫元総理(69)。凝りもせず、中国へ“土下座“を繰り返している。
鳩山元総理は2016年11月10日、中国重慶市で開かれた「中国国際友好都市大会」の開幕式に出席してこう挨拶した。
「日本が中国を侵略した際に行った“重慶爆撃”で、重慶市の繁華街の大部分が破壊され、多くの罪のない一般人の命を奪った。ここに深くお詫び申し上げる」
重慶爆撃とは、旧日本軍が1938年2月から44年12月までの6年10カ月で200回以上行ったといわれる空爆を指す。“鳩山発言”を聞いた外務省関係者が説明する。
「実は、爆撃で亡くなった中国人の遺族ら188人が2006年3月、日本政府に対し、謝罪と総額18億8000万円の賠償を求めて東京地裁で訴訟を起こしたのです。鳩山さんは元総理としての発言が、いかに国益を損なうかを理解していないのでしょう。」

東京地裁は15年2月25日、空爆による被害をみとめたものの、”当時も、個人の国家への賠償請求権を認めていない“として原告の主張を退けた。敗訴した中国人訴訟団は、判決を不服として控訴している。全国紙の中国特派員によれば、
「“南京大虐殺の記録”がユネスコの世界記憶遺産に登録されましたが、習近平政権は”重慶爆撃“の登録も目論んでいます。15年に開かれた抗日、反ファシズム勝利70周年記念式典では、重慶爆撃を取り上げた公開前の”反日映画“への特別賞を授与したほどの力の入れようです」

不完全な統計
重慶爆撃では何人が死亡したというのか。中国人訴訟団は、裁判で”全期間を通じた中国側の死者1万1000人“と主張。一方、中国の公的機関が85年に編纂した『重慶抗戦記事』では1万1889人と数に開きがある。
「中国人訴訟団は日本政府を訴える一方、“空爆加担企業”として三菱重工に謝罪と賠償を求める『要請書』を突きつけました。そこでは不完全な統計としつつも、“10万人以上”と記している。実に、裁判で主張した数の約10倍に膨れ上がっているのです」(先の外務省関係者)
南京大虐殺の死傷者は、東京裁判の判決文でも10万、20万以上に分かれて客観性を欠いていた。日本政府は一貫して”人数の特定は困難“としているが、中国は「南京大虐殺記念館」に”犠牲者数30万人“の看板を堂々と掲げ続けているのはご存知の通りだ。中国事情に詳しい、ルポライターの麻生晴一郎氏は、
中国人訴訟団が要請書に記した“10万人以上”は根拠もなく、信憑性に欠ける。当時の重慶市が、空爆で亡くなった人たちの遺体を数えたわけでもないし、戸籍制度も充分とは言えなかったはずです。今後、中国は南京大虐殺と同じように死者の数を増加させて発表するかもしれません」
つまり、重慶爆撃は、“南京大虐殺”の二の舞になる恐れあり。それに手を貸した鳩山元総理に求めると、
「国益を損なうどころか、日本のためになると考えています。過ちを犯したら、事実を受け止めて謝るのが人間として当然です」
この調子では、死ぬまで中国への”土下座”をやめそうにもない。

この全文章は、2016年12月29日発行の週刊新潮、47頁、48頁の全文を転載したものです。

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ガキ大統領トランプ(その1)



       このブログの転載、拡散よろしくおねがいします。
平成29年1月28日、「ガキ大統領トランプを徹底利用せよ。」というブログを書きました。これから時々トランプ大統領についてシリーズでブログを書いてみようと思っています。そこで、今回は「ガキ大統領トランプ(その1)」として書きました。私のブログでシリーズものを書いたのが一つあります。「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」シリーズで(その6)まで書きました。ちかじか(その7)を書きます。ガキ大統領トランプのシリーズが何回まで続くかわかりませんが、数が多くなるほど世界が騒がしくなるのは明白なような気がします。
私は個人的にはトランプ大統領は大嫌いです。彼ほど傲慢で生意気な男はいない。傲慢、生意気だけでトランプに反発する人はいくらでもいる。彼が公約で掲げた失敗作を列挙してみると、
1.人種差別の公言
アメリカは今でも白人国家です。国民の50パーセント以上が白人です。しかし10数年後には、白人は50パーセント以下になり異民族大国家になるのです。そのため最近のアメリカ大統領になる人は、人種差別主義者でもかまいませんが(大概の人が人種差別主義を持っていますから)、その人種差別主義を公言しては絶対にいけません。公言すればアメリカ国内が騒然とし、分裂主義が生じるからです。皆さん、そう思いませんか。それにもかかわらず、人種差別主義を公言し、その上女性蔑視発言です。これが娘のイバンカのファッションビジネスに影響し、高級デパートのノードストロームがイバンカのファッションブランドの店内販売を中止した。ノードストローム社は、トランプの人気選挙地には支店がない。トランプの脅しにはびくともしない。人種差別主義の公言と女性蔑視発言は、アメリカ国内にはトランプ政権へ非常に強く反発する人々がこれからも沢山存在することになる。それが証拠に政権誕生一か月すぎてもアメリカ各地の反トランプデモは後を絶ちません。

2.メキシコとの国境に壁を建設する、それもメキシコ側の費用で。
私は前にテキサスやカリフォルニアはメキシコの領土だったと書きました。戦争で負けたためにアメリカ領になっただけ。メキシコが自分の費用で壁など築くわけがない。お金の問題より心意気の問題です。トランプはそれでは、NAFTAの再交渉だと言えば、イルデフォンソ・グアハルド経済相は、NAFTAの見直し交渉がゆき詰まれば脱退も検討すると警告し、ペニャ・ニエト大統領は「壁の建設費用は負担しない」と断言しています。メキシコの通商と安全保障と移民問題は長く両国の問題になるでしょう。

3.アメリカのTPP離脱
戦後一貫して押し通されてきたのができるだけ多国間で自由貿易することです。その枠組を作る為に国際間の貿易交渉が行われ、国際協定が結ばれてきました。GAT、WTO,等です。そして今度はTPPです。どれもこれも加盟国には、長所も短所もありました。総じて多国間自由貿易が成功したと認める長所があったのです。いまだに世界中には経済的に悲惨な国々がありますが、総じてみれば世界的に経済水準があがっているのです。その証明の一例はアジアの低開発国の観光客が日本にやってくる数が増えたことです。アメリカは国際貿易のため自国製の製品が割高になり、それを海外で作らせ、自分たちは金融工学とか言って金融産業で儲けようとし、アメリカ国内の物作りを放棄しようとしたことです。いまさら今度はアメリカファーストと言って二国間協議しようと言うのだ。自分勝手も甚だしい。

日本の保守の人たちは、TPP加盟賛成、反対にわかれます。TPPの中身はいろいろありますからどの点を取り上げるかで賛成、反対に別れるのではないでしょうか。私は日本の農業産業を見て,例え他の産業にTPPはダメでも、日本農業はTPPに入れるべしと、私はTPPに賛成なのです。日本は物づくりの国です。日本農業はその物づくりの原点なのです。いいですか、皆さん、日本にはなくて世界で作られているものがあります。その今まで日本で作られていないものを日本が作り出すと、日本製が世界一になってしまうのです。その原点は日本農業なのです。ビール、ウイスキー、ワインなど、これらの製品は、我々の祖先は口にしたことはありません。ところ作り出すと日本製品は世界での高級品になってしまうのです。14,5年前アメリカ製の安いリンゴが日本に入ってくるといってリンゴの産地は戦々恐々となった。スーパーで確か一個50円ぐらいで売りだされていた。赤いりんごで見てくれも、味もたいしたことがなく、結局売れなくて、アメリカ製りんごを見なくなってしまった。

私が40代後半、いまから34、5年前、三重県の鈴鹿サーキットの近くに松坂牛の牧場を持つ有名な牛肉レストラン、「和田金」に私は白人外人3人と一緒に入った。一緒に食したのが、松坂牛の牛サシ、(牛肉の刺身)です。その味の美味しかったこと、未だに忘れられません。三人の外国人も味にも驚いたが、その柔らかさにも驚いていた。まるでマグロの刺身を食べるような感覚だった。牛は我々日本人の先祖の食べ物ではなかった。食肉と作りだすと刺身まで作ってしまうのだ。当時、刺身は世界的な料理じゃなかった、しかし今は違う世界中で食べられています。いまオーストラリアの牧場で「和牛」ブランドの牛が飼われています。牛サシを作るブランドの牛が海外で飼育される可能性はあるかもしれません。このように私言わせれば、日本農業は世界の一大産業の発展性を持っていると思っています。その邪魔な存在が農協の親分のような存在、JTです。彼らは日本農業を守ることしか眼中にない。攻撃は最大の防御という言葉さえ知らないようだ。JTを潰さなければだめです。

つい最近安倍、トランプ会談で安倍総理はトランプにTPPに良く説明し、その要点は理解してくれていると国会で答弁していたが、すかさず「日本維新の会」は、安倍氏に向かってTPP交渉時の加盟国は12ヶ国だったがアメリカが抜けて11ヶ国になった、だから先にアメリカ抜きで11ヶ国のTPPをまとめあげましょうと提案していた。私も、最初はアメリカ抜きでTPPをまとめあげるのは大賛成です。しかし安倍総理は、そんなことは絶対できないでしょう。せっかく日米会談がうまくいってトランプと仲良くできたのに、トランプの機嫌を損ねることができないからです。日本のアメリカへの奴隷根性で日米同盟が成り立っているのは、日本の防衛をアメリカの軍事力に頼りすぎているからです。日本は核装備兵器を備え、自分で自分の国は守れる能力を備えれば、対等の日米同盟関係が成立するのです。

4.オバマケア(医療保険制度改革)撤廃
私はオバマ政権のただ一つの善政は、医療保険制度を確定したことだと思っています。ヘルスケア関連の支出は家計の非常に大きな部分を占める。健康保険を失えば、他の商品やサービスへの出費に重要な影響をあたえます。オバマケア撤廃でいっきに無保険者が2000万人増えると言われています。だからイエレンFRB議長は、オバマケア廃止は、アメリカ経済に悪影響を及ぼすと主張しています。オバマケア撤廃後、どんな保険制度なるかも決定していません。トランプ大統領は、人種差別主義者だから黒人のオバマ政権のしたことなど徹底して破壊したいくらいなのだ。医療保険制度改革など、改革前のオバマケアの方がマシなどと言われるのではないかと私は想像しています。オバマの方がマシということになりトランプの顔が潰れるのでないかと心配しています。

5。環境問題
この問題についてトランプ政権の結論は出ていませんが、選挙戦では物騒な事を言っています。国際的な温暖化対策であるパリ協定から離脱すると言っているのだ。トランプ主張しているのは、気候変動は作り話だというのだ。これは、私がトランプを強引で生意気なやつだとののしる原因の一つなのだ。これまでの気候変動が作り話というなら、それにそうとうする科学的根拠を提出するのが常識です。そんなこともせず、気候変動に懐疑的な人物、スコット・ブルイット氏を米環境保護局(EPA)長官に指名しているのだ。彼はいままでに(EPA)を10回以上提訴している。同時に彼はエネルギー業界からの献金も多い。そのうえトランプは、EPAの廃止、ないしは職員大幅削減を選挙戦で主張。気象変動の研究者の間では。「トランプ大統領が既存の気象観測データーを破壊するのでは」という見方さえ出ているのだ。現在アメリカでは代替エネルギーは過去の話になり、石炭と石油の話でもちきりだ。トランプ政権では、オバマ政権が凍結した国有地における石炭の新規採掘も許可される見通しです。炭鉱地域での選挙戦は、トランプは圧倒的に強かった。これでもしアメリカが国際的な温暖化対策のパリ協定の離脱を発表するなら、アメリカは国際的な地球安全対策の破壊者といわざるを得ません。

6.中東和平問題の複雑化
2002年ブッシュ大統領がパレスチナとイスラエルの二つの国家として平和的に共存する道を目指すと演説。それ以来米政権は二国家共存案を政策としてきた。また米政権はその実現の努力してきたのだ。ところが最近のトランプとイスラエルのネタニヤフ首相との会談でで、トランプはイスラエルとパレスチナとの二国家共存案にこだわらないとの考えを表明した。また大統領選挙中、トランプ氏が繰り返し主張したイスラエル米大使館のエルサレム移転方針に関して急がない姿勢を見せています。この二人の会談に娘のイバンカの夫、ジャレド・クシュナー氏が同席しています。義理の息子はユダヤ教、イバンカはユダヤ教に改宗なのです。普通、大統領は家族のことより国家優先、ところがトランプは家族のことを国家より優先するみたいです。だから私はガキ大統領と呼ぶ原因の一つです。中近東諸国は、トランプ、ネタニヤフ両名だけの見解に同意するはずがないでしょう。中東問題は今まで以上に紛糾しそうで心配しています。

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日米の歴史と文化を語る。(5)



武士の登場
日本の歴史において武士の登場と聞けば、世の中の争乱が武士を登場させるきっかけになったのではないかと誰もが想像するのではないでしょうか。ところが全くの正反対で、その武士の登場のきっかけを作った人が桓武天皇です。桓武天皇は西暦781年に即位しました。即位後の794年に都を京都に移したのです。その794年から1868年に東京に移るまで、その間半年ぐらい今の神戸市近くに移りすんだことがありましたが、およそ一千年間京都は天皇家の住む都でした。そしてその794年から武士に天皇家の政治権力を奪われ、政治の中心が京都から鎌倉に移るまでのおよそ400年間を平安時代と呼んでいます。この平安時代の末期に女性作家、紫式部が現代では世界的に有名な長編小説「源氏物語」を発表したのです。当時の宮廷生活をあますところなく伝え、登場人物数百人、全54巻の世界最古の最長編小説です。おもしろいことに、当時この「源氏物語」を読んだ女性が大変おもしろいと感想を述べている史料はあるのですが、男性が面白いと述べている史料は全然ないのです。
当時男性が使う文字は漢文、女性が使う文字はひらがなと使い分けされていたから、男性が詠むのに苦痛を感じたり、あるいは読めなかったかもしれないというのが理由だと言われています。
その平安時代の最初の天皇、桓武天皇は、都を京都にうつす二年前の792年に東北とか九州といった辺境地に駐在する軍隊を除いて事実上日本の軍隊を廃止してしまったのです。東北地方に駐在する日本軍の最高司令官が有名な征夷大将軍、坂上田村麻呂でした。征夷とは蝦夷(えぞ)、即ちアイヌ民族を征伐することです。アイヌ民族を征伐する軍隊は残しておいたのです。実際のところアイヌ民族が住む東北地方を除いて軍隊を動員するような騒乱がなかったのです。そこで東北とか九州といった辺境地には軍隊を存続させそれ以外の兵士をそれぞれの出身地に帰してしまったのです。
そのかわりに国の大小に応じて人数を決め、裕福な地主には武芸の才能のあるものを徴発させ兵士として武芸の練習をさせ、地方の警備にあたらせたのです。これを「健児(こんでい)」と呼んでいます。極端な言い方ですが、アメリカの開拓時代の保安官のようなものです。この「健児(こんでい)」の制度が武芸を専業とする者を歴史に登場させ、これが後に武士に発展していったのです。その結果地方に武士が割拠するようになり、もめごと、特に土地争いなどが武力で解決する時勢になり、そして武士のボスは武士を集めてその勢力範囲を広げていったのです。その結果桓武天皇が792年に事実上日本の軍隊を廃止してしまってからちょうど400年後の1192年に源頼朝によって日本最初の武家政治が。現在の鎌倉市に成立したのです。これを鎌倉幕府と呼び、1333年に鎌倉幕府が滅びるまでのおよそ150年間を鎌倉時代と呼んでいます。天皇家を中心とする貴族政治から武士のボスを中心とする武家政治に変わったのですが、そこには日本の歴史の大きな特徴があります。外国の歴史では、ある政治体制か他の政治体制に移る場合、守ろうとする側と奪おうする側とで一大決戦が行われるのが普通です。
ところが日本では、最初の武家政治が誕生した時、小競り合い程度はありましたが戦争は起こらなかったのです。なぜかと言えば先に述べましたように平安時代の桓武天皇の時に軍隊を廃止してしまったからです。アイヌ民族を征伐する軍隊も最盛時には10万人にものぼる兵士の数を誇りましたが、アイヌ平定が終わるとその軍隊もなくしてしまっていたのです。時の政府が自前の軍隊を持っていないがために、戦もできずに政治権力をあっさり奪われるような歴史を持つ国が他にあるのでしょうか。さらにこの平安時代には、世界史的にも貴重な事例が起こっているのです。
石井良助著「日本法制史概説」(創文社、1960年)によると嵯峨天皇即位後の810年から後白河天皇の時代の1156年の保元の乱による源為義(みなもとのためよし)などに対する処刑が行われるまでの26代の天皇、346年間実際上死刑が執行されることはなかったと言うのです。当時の世界では予想もつかない全くめずらしい出来事と言っていいのではないでしょうか。平安時代400年間は、文字通り平和の時代であったことはこれだけでも推測できます。さらに紫式部のような女性が54巻にも上る長編小説が書けたのも平和な世の中ではなければ絶対に書けないことです。世界の主要国の中で日本は、その中でも一番古くてしかもとにかく平和の時代が長かったのは、何が原因だと思いますか。それは日本が昔から現在にいたるまで多神教だからです。大東亜戦争後になって初めて世界の情勢は、一神教だけではダメで他の宗教の存在を絶対に許さなければいけない傾向に完全になりました。その傾向に胸を張ってえばれる日本だけです。反日日本人よ、これに対して文句が言えるなら、言ってみろと言うのです。話がちょっと脱線しましたので、戻します。

政治権力が武家政治の鎌倉幕府に移ってから29年後の1221年、朝廷は後鳥羽上皇が中心となって鎌倉幕府打倒の反旗を翻すのです。上皇とは天皇が譲位後につけられる名前です。この時後鳥羽上皇は天皇の権力を握っていました。この後鳥羽上皇の反旗を「承久の乱」と言いますが、その時大活躍したのが鎌倉幕府創立者の源頼朝の妻、北条政子です。
日本の歴史を知らないアメリアカ人などは、大昔の日本女性などは、ほとんど男の奴隷みたいに思っているでしょうが、とんでもない間違いです。1980年代、イギリスの女性首相、サッチャーは「鉄の女」と呼ばれましたが、今からおよそ800年前の日本には、「鉄の女」と呼ばれても、もっともだと言われるべき女性がいたのです。それが北条政子です。政子の活躍がすばらしいのは夫の死後です。彼女の活躍の詳細については私のえんだんじのブログ、「鉄の女」北条政子、2016年6月11日と「鉄の女」北条政子(2)2016年7月1日を参照してください。

「承久の乱」において鎌倉幕府があっさり勝ってしまいましたが、朝廷側にも勝つチャンスはあったのです。朝廷に弓を引くことになると言って動揺した鎌倉武士は。政子の名演説で一致団結して京都に向けて進軍したのですが、翌日東海道に出陣した、泰時は鎌倉に戻ってきて父、義時に「もしも上皇自身が陣頭指揮をとったらどうしよう」と聞いているのですその義時は「上皇自身出陣されたらしかたがない、武器を捨てて。降伏するのだ、それ以外の時は、千人が一人になっても戦え」と答えているのです。このエピソードは、公家側の書いた史料にあるので、こうであってほしいという公家側の願望を示すもので事実ではあるまいと判断する歴史家は多いのです。しかしこう書けるほど朝廷の権威が高かったことは事実だと思います。ただ事実として言えることは、実在した歴代の天皇の中で誰一人として戦場で武士たちの陣頭指揮を執って戦った天皇はいないのです。また天皇家には、自前の軍隊、すなわち天皇家直属の武士をもったこともないのも事実です。天皇家は権威だけで現在まで生き延びてきたのです。この歴史的事実と日本国民が極端に権威というものに弱い事とは無関係ではないと思うのです。

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ガキ大統領トランプを徹底利用せよ。



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私は外資系会社五社働いて実働40年。振り出しは、メイルボーイと言われて、「この書類はA社へ持っていけ、この書類はB社へ、C社から書類を貰ってこいなどと命令を受けて使い走りの下っ端の仕事をしなから這い上がってきた実働40年です。年齢は今年79歳になります。従って私はこれまでに随分沢山のアメリカ大統領を見てきた。私の経験から言って今度のトランプ大統領ほど生意気で傲慢な人間は、初めて経験です。ニクソン元大統領の時、ウォーターゲイト事件で弾劾され、その時ニクソンは現職大統領の地位を失った。これを見た私は、さすがにアメリカは民主主義先進国だと感銘を受け礼賛した。ところがクリントン元大統領の時何が起きたか。現職大統領のクリントンは、ホワイトハウスの室内で懇ろになった若い女性(ホワイトハウス研修生)に自分のペニスをなめさせ歓喜の声を上げていたことがあったのだ。クリントン弾劾の声があがったが弾劾にはならなかった。一番大きな原因は、その時アメリカ経済が好調だったからだ。彼は日本を経済的にいじめ、シナにすりよったのだ。クリントンは大統領を辞職もせず、妻のヒラリー・クリントンは離婚しようともしなかった。この時私は、ブログを書いていれば、ヒラリーの離婚しない理由は、自分はいずれ女性大統領として出馬するつもりなのだと書いていたでしょう。事実その通りになってしまった。クリントン夫妻は、お金に関しては疑惑の多い夫妻だった。
そしてオバマ大統領という無能な大統領だ。アメリカの力を世界的に弱めるのが目的みたいだった。そのオバマへの反感などがトランプ大統領の誕生を呼んだ一因でしょう。
そしてトランプ大統領誕生です。彼は人間性が良くない、生意気で傲慢だ。彼はいまだに納税証明書を提出ていません。納税証明書を提出せず大統領になったのはトランプだけです。彼に対する非難が色々あり、皆さんもわめいていますが、私が特に非難したい点は、人種差別宣言です。私にも人種差別された苦い経験があるからです。

今から50年前、私が28,9歳のころです。私は人種差別された。そのころの白人は、人種差別しない人も沢山いたけれどもする人もいた。私が人種差別するというのは、徹底していじめにあうような感じをいいます。それが毎日のように続くのをいいます。
私が入社したオーストラリアの会社で人種差別を受けながら、何故5年間も勤め上げることができたかと言えば、特に人種差別の激しいルースという男が私の直属の上司でなかったこと。二つ目は、私は大学出ておらず、手に職がない。仕事を学んだ経験を得なければ、いまのままではどこでも使い物にならない。もう二度と臨時工の仕事などやりたくなかったからです。このルースという男は体がでかくて、しゃべり方がトランプに似ていたのだ。私がオフィスの中で大ゲンカする相手として選んだのは、私と同じ部で一緒に机を並べて働いている社長の息子、レスリーだ。彼は本国のオーストラリアで高卒後銀行に努め、二、三年後貿易の仕事を学ぶために東京事務所に派遣された。彼はこの時21,2歳、私は、28,9歳。彼は日本語など全然話せない。担当者に電話するのに、交換台の女性とも電話できない。それを私が電話して、担当者に私が彼を紹介するのだ。私に言わせれば、私は彼の小遣いでない、彼は最初のうち私の言うことをきいていたが、そのうち私に命令するようになった。ガキの彼なんかに命令されてたまるかと私のプライドにがまんできなかった。作戦を立てた。できるだけ大勢のスタッフが事務所にいるとき大声を上げて喧嘩する。当時私は英語で喧嘩できるほどの力がなかった。そこで私の言い分を英作文にして、口からすらすら出るように暗記した。彼の発する英語はけっして聞き取ろうとしないこと、彼の怒りの英語をいちいち聞き取ろうとしたら、変に静かな間ができることを心配して、私は一切の彼の発言を聞こうとせず、怒りの大声の英語をどなり続けた。またその文章を一生懸命暗記した。その間にだれかが説得に入らず、私の英作文を発言してしまったら、「なんだと、この野郎!」日本語でどなりつけてやろうと決心していた。
予想通り彼は怒って英語で反撃してきた。そして予想通り二、三人の白人が仲裁に入ってきた。私は東京支社長室に通された。支社長は、ユダヤ人のアラムだった。アラムが何故けんかしたと聞くから、「彼が貿易の仕事などまだ何も知らない。それがどうして彼は、私にこうしろ、ああしろと命令が出すことできるのだ。支社長はずっと私より年上でビジネス経験も豊富だ。そこえまだ年若い私が社長のせがれだと派遣されてきて、私が「ああだ」、「こうだ」と命令しはじめたら、素直に支社長は私の命令きけますか?支社長は私の問に答えられず、答えられなくて当然だ。「自分の席に戻れ」と言われたので戻った。
この時私は首になると決めていたし、新しい就職口を探していた。

翌日、朝会社に着いた時、私は直ぐ支社長室に呼ばれた。「お前は今日で首だ。何故首になったかわかるだろう。」というから。「わかります」といったら「机のなかの自分のもの整理してもう帰れ。」といった。
私は首になることは覚悟していたが、少なくとも一か月間くらいは首にならに猶予期間があると思っていた。突然けんかして翌日首とは予想していなかった。帰りの電車の中で私は激しい後悔の念に襲われた。社長室で「今日でお前は首だ。なぜ首か分かるだろう。」と言われた時、「私は分かります。」と答えただけだった。なぜあの時「私はこれで今日から幸せになりますね。」と皮肉の一つもいえなかったのかしきりに歯ぎしりした。「今日から幸せになれる」ぐらいの英語なら自分でも簡単にいえるものをと思って地団太を踏んだ。
新就職口探しが始まった。これまで私が勤めた外資系会社は二つであった。最初はアメリカ人が日本で起こした会社。二つ目がオーストラリアに本社を持つ東京支社だった。二つとも外資系としては小さな会社だった。しかし今度の三つ目の外資系は、アメリカの会社でニューヨーク株式市場に上場している一流の会社だった。面接のため東京支店のオフィスに入った時には、びっくりしてしまった。広い、しかも綺麗な事務所、受付の床はジュウタンが敷き積まれていた。一般社員の机も全部スティール性で両側に引き出しがある大きな机、その机と隣の人の机の間は、二人並んで歩けるほどのスペース、先ず私はオフィスの余裕のあるスペースにビックリ仰天した。給料もよかった、一ドル360円の固定相場。全盛期のアメリカは、さすがに経済力が違った。給料が良い上に、当時の日本企業は土曜日ほとんど働いていたのにこの会社は、完全な週五日制。必ず取らなければならない年間休暇もある。その頃私は、面接試験を英語で受ける程度の英語を話せていた。面接が終わった時点で、それでは最後に、前の会社でのあなたの働き具合いの評判を聞いてから面接結果を連絡します。その瞬間私は頭の中で「しまったぁ!喧嘩なんかするんじゃなかった。せっかくのすばらしい就職口を逃ししてしまったと。」悔いてもくやみきれなかった。なにもプライドに燃えて喧嘩せず、だまって退職すればよかったのだ。数日後、面接通知の結果を知らせてきた。こわごわ開けて見ると「合格」と出ているではないか。感激に震えた。翌日会社へ行って面接者に面会したら、「前の会社に、君の仕事ぶりを聞いてみたら大変褒めていたよ。」とっさに「佐藤さんですか」と私の日本人上司の名前を上げた、佐藤氏なら私のことを間違いなく褒めてくれてくれるだろうと自信があったのだ。
「違うよ、外人のボームと言う人だよ。」というので私はびっくりした。ボームは経理や人事の責任者だった。私は別にボームと特に親しくしてたわけでない。自分の仕事とは直接関係ないから社内で会えば挨拶ぐらいだけだった。そのボームが私のことを褒めてくれたと言うことは、社内の人種差別の雰囲気に義憤を感じていたのでしょう。私は外人社長に首を切られ、同じ社の外人スタッフに救われたのです。
これ以後も私と白人との戦いは続くのですが、興味があれば私の自伝的小説、「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」(文芸社)を読んで見てください。

上記でも話したが、トランプ大統領の失態は、彼の人種差別政策です。それにプラス女性蔑視発言です。アメリカの歴史上、人種差別政策が国是であったことは確かです。大東亜戦争後にアメリカは民主主義国家を完全に成立させ白人以外の異民族も平等に権利を与えられ人種差別国家ではなくなった事情があります。アメリカは現在、人口の三分の一は、異民族です。これほど多くの異民族を抱えているのだからアメリカの国家元首は、人種差別的発言は慎むべきだったのです。人種差別的発言は異民族の強烈な反発心や敵愾心を生むのだ。トランプ大統領の就任式後に続くデモは。すべて異民族の敵愾心と女性蔑視発言による女性たちからの敵意です。私がメキシコへの同情心を引き起こすのは、アメリカとメキシコの国境に壁を立て、その費用はメキシコが負担しろというトランプ大統領の政策です。米国・メキシコ戦争は、1848年二月グアダルベ・イルダゴ条約が成立した。これによってアメリカは、カリフォルニアとニューメキシコ(現在のネバダ州、ユタ州、アリゾナ州を含む)を獲得し、リオグランデ川をテキサスの南境界線とすることを承認させた。それが今度は違法メキシコ人がアメリカに押し寄せるから自分の費用で国境に壁を建設しろとは、メキシコ人が内心怒り狂っている姿を想像できるでしょう。

それに比べると日本の総理も天皇陛下も韓国、シナに遠慮して靖国神社に参拝しないのだ。一体何に遠慮しているのでしょうか?まったく理解できまあせん。日本は国家的決断をつきつけようとはしません。トランプ大統領は安保条約にケチをつけている。ケチをつけられないように自国で核兵器を持ち、シナに対してシナからの攻撃を受けて充分対処できるほどの軍事力を持つことです。そうしないと日米同盟は真に対等の同盟関係になりません。最近になってトランプ大統領を日本の自動車メーカーを非難した。1980年代の復活を狙っているのか。当時アメリカのビッグスリーと言われたクライスら―のリー・アイアコッカは、日本の自動車メーカーをバカにしていた。アイアコッカの狙った車が次々とうれ、クライスラーは超繁忙になった。アイアコッカは「アメリカ産業界の英雄」とされレーガン大統領から大統領候補になってくれと言われほどだ。そのアイアコッカは、1992年社員や株主から反発をくいクラスラ―社を退社。今では其のクライスラー、イギリスの自動車メーカーFCA USLLIの子会社です。
昨年12月日本フォード車は、日本での車の生産を中止した。日本フォードが戦前の1925年に日本に進出していた古いアメリカの自動車メーカーだ。それがもう日本では車を作らないというのだ。その理由は、外車でもドイツ系は売れるがフォードではからきし日本国内では売れないのだ。こういうとトランプ大統領は、日本の不公平さを主張するでしょう。ひょっとするとフォ-ドもクライスラーの二の舞を踏むのではないか。

トランプ大統領よ、私たち日本人は、貿易で食べていくために、中学生から全員英語を学ばされてされているのだ。あなたは今70歳だ。現在70歳以上のアメリカ人白人は、戦前からの影響で人種差別をしがちだ。あなたは「しがち」どころではない。堂々人種差別しているのだ。また70歳以上のアメリカ白人は、日本のことについてほとんど何も知らない。日本の江戸時代だけでアメリカの建国の歴史より古いのを知らないのだ。トランプ大統領よ、日本語を勉強してください。もっとインタナショナルになってください。

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日米の歴史と文化を語る(4)



引用開始
アイヌ民族とアメリカインディアン
アメリカという国は、インディアンから土地を奪い、彼らを 僻地に押し込め、黒人を奴隷にしてできあがった国だけに、多少うしろめたい気持ちがあるのでしょう。アメリカは他国の少数民族や原住民族の人権には敏感なところがあります。
数年前アメリカの週刊誌、タイムにオーストラリアの原住民族アボリジンの記事が出ていて、その中でアメリカ人はアメリカインディアンと条約を結んだが、オーストラリア人はアボリジンと何一つ条約を結ばなかったとオーストラリア人を批判していました。
確かにアメリカ人は、インディアンと条約を結びました。結んだ条約の数は400から600と言われています。ところが条約違反が出るのはいつも白人側からであった。その理由はたいがい次の三つが原因でした。
(1)入植者が増えてもっと土地が必要になった時。
(2)インディアンを押し込めた居留地が思ったほど不毛の土地でなく、農地、鉱山その他の確保に欲しくなってインディアンが邪魔になった時。 特に居留地から金や石油がでたらたちまち条約はほごになってしまった。
(3)決められた居留地に大陸横断鉄道が通過することになった時。
だからタイムの記者がアメリカ人は インディアンと条約を結んだなどと自慢げに語ることはできないのです。 多分学校ではインディアンと結んだ条約がその後どうなったのか教えなかったのでしょう。
これも数年前のタイムの記事ですが、アイヌの人々がいかに日本人に差別されてきたか、そしていまなお差別されているかくわしく取り上げ、その中で日本人の観光客が、アイヌ記念博物館に訪れたとき、博物館内を説明するアイヌ人が靴をはき日本語を話すのを聞いてびっくりしていたと書いてありました。
いまどきの日本人は、日本にいるアイヌの人が靴をはき、日本語を話すのはあたりまえと思っています。それを驚くというのは日本人ではないと断言できるくらいです。タイムのアイヌ差別記事は、言外にアメリカ人がインディアンにしたようなことを日本人もアイヌの人にしているではないかという意味が含まれていました。
日本人とアイヌ人、アメリカ人とインディアンは、決して同列に扱えません。一番大きな理由は、日本人とアイヌ人との接触の古さです。日本民族とアイヌ民族は、いつ、どこで最初に接触したのか古すぎて誰も正確なことはわかりません。
古くは4世紀前半ごろ在位したとみられる景行天皇の息子がアイヌ討伐に遠征したという伝承があります。この頃日本はまだ文字があまり普及していなかったと考えられています。 実在のはっきりした天皇でアイヌ征伐に遠征軍を派遣したのは斉明天皇です。西暦658年の時です。いまからおよそ1350年前のことです。
この頃の日本は文字が充分に普及していました。なぜここで文字のことを振れるかというとアイヌは、アメリカインディアンと同じ文字を持たない民族だからです。
日本民族とアイヌ民族の最大の戦争が8世紀末から9世紀初めにかけて行われました。第一回目の日本軍が788年に現在の岩手県を根城にしているアイヌ民族を征伐するために派遣された。 アイヌ軍の総大将ともいうべきアテルイにゲリラ戦に持ち込まれ大敗を喫してすごすごと京都に引き返しています。
第二回目は794年に十万という大遠征軍が派遣されました。この時有名な坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)は副将軍として参加しています。 今度は負け戦ではなかったもののアイヌ軍を降伏させることができなかった。日本政府はすぐに三回目の派遣準備にとりかかり、797年に坂上田村麻呂を征夷大将軍に抜擢しました。
801年彼は天皇により節刀を授与され派遣されました。節刀とは、古代、天皇が出征する将軍に全権を委任するしるしとした刀のことです。 802年ついにアイヌ軍を降伏させることができたのです。彼はアイヌ軍の総大将アテルイを捕虜にして京都に凱旋した。
日本民族とアイヌ民族は、お互い文字を持たない時代から日本列島で接触していたと考えられているのに、なぜこの時代で両民族の大差ができてしまったのか。 その原因は一言で言えば、文明の発達の差です。日本は先の三回の遠征軍で見せたように10万の大軍を派遣できる経済的余力もあれば、その大軍を動かす政治力も組織力もあった。
これは完成された国家があってはじめてできることです。ところがアイヌは、まだ部族どうしばらばらで国家といえる体制ではなかったと言われています。それではなぜ同じ日本列島に存在する両民族に文明度の発達に差が出たのでしょうか。
日本民族は昔から新しい文明に対する進取の気性に富むのに対し、アイヌ民族は、自分たちの生き方にこだわるあまり文明に背を向けたと考えられます。 日本民族は漢字が中国から輸入されると、その漢字を使いこなし、ひらがな、カタカナを作り出していきました。6,7,8世紀は中国の隋、唐の国家の時代です。その当時両国の文化は、日本より圧倒的に高かった。そのため日本政府は莫大な費用をかけて遣隋使と遣唐使を派遣しました。
役人、留学生、僧侶たちが両国の文化、文明を学ぶために派遣されていきました。遣唐使など十数回、総勢500人は派遣されたと言われます。当時の造船技術では、いくら近いとはいえ命がけの面がありました。当時の日本人の気概が伝わってきます。
これに反しアイヌ民族は、彼らと同じように文字を使用しなかった日本民族が文字を使い出し、日本の文明がどんどん発達していくのを横目に身ながらほとんど日本からなにも学ばなかったのではないでしょうか。 それでも先の三回の戦いで善戦できたのも、その時まだ文明にそれほど大きな差がなかったからだと想像できます。
しかしそれ以後は、文明の差どんどん大きくなっていったと思われます。明治の時代になって日本政府は、明治2年(1869)蝦夷地を北海道という名前に変え、本格的に北海道開発にのりだしたのですが、この時代になってもアイヌ民族は、文字を使用していません。
5世紀には日本政府は完全に文字を使いこなしていたと考えられていますから、19世紀に蝦夷地が北海道という名前になるまでおよそ1400年間、アイヌ民族は、文明発達の基礎になる文字の使用ということを日本民族から学びとろうとしなかったのです。 これは全く理解できない不思議な現象で、日本列島という小さな島だけにアイヌ民族の怠慢と言っていいのではないでしょうか。
アイヌ民族は、同じ日本列島に住み、彼らより文明水準の高い日本からほとんど何も学ぶことなく、民族全体で文明の発達に背を向けて1400年間も暮らし続けてきたのではないでしょうか。 そのためアイヌ民族は、結果として自ら滅びる道を選び自然淘汰に近い形で民族の末路を迎えてしまったといえます
この狭い日本列島で大昔にらみあった二つの民族は、一方は貪欲なまでに新しい文明を吸収し、片方は文明の発達をほとんど無視してきたということが、現在の日本人とアイヌ人の差になっていると言えます。
明治の初めに日本政府が北海道開発に乗り出した時、政府は生存するアイヌの人たちを日本人にするための同化策をとりました。 同化策の中には開墾するアイヌ人には住居や農具を支給するから、死者が出た時には家を焼き払って転居しないこと、これからうまれる女の子には入れ墨をしないこと、男子は耳輪をしないこと、日本語を学ぶのはむろん文字も学ぶこと、アイヌの人口の多いい所ではアイヌ人専用の小学校が作られたことなど色々あります。
現在は少数民族の人権が強調される時代ですから、時流に乗り遅れるなとばかりに、この同化策そのものを批判する日本人が多いいのです。 確かに同化策の細部には批判されてもしかたのない面もあります。 例えば開墾地を支給する場合日本人に与える土地の方が広いということなどです。
しかし同化策そのものを私は明治政府を批判する気にはなりません。まず考えなければならないのは、その頃の日本経済です。明治時代全体で言えることは日本の貧しさです。特に明治の初めは、近代国家が出来たばかり明治時代のなかでも特に貧しいと言っていいでしょう。
ましてや未開地の北海道のことです。特に内地からやってきた日本人開拓民など極貧状態のようなものです。 そういうところで少数民族をほったらかしにしておくと多数民族の餌食になってしまうのです。これは北海道だけの話でなく世界共通のことです。だからアイヌ人を保護するために政府の力が必要なのです。
アイヌ人を保護するための政策といったら二つしかありません。一つはアメリカインディアンのように居留地を設けそこに押し込めてしまうことです。二つ目が同化策です。同化政策そのものを人権無視と主張する人は、明治の初めごろ北海道の状況を考えてアイヌ民族を保護するにはどんな現実的な政策があったか提言してもらいたいものです。
現在のような人権意識が過剰とも言える現在の価値観で、人権意識がほとんどなかった明治時代を批判し、裁くことは、現在の価値観で大東亜戦争を裁いているのと全く同じ現象です。日本の左翼の知識人にはこういうバカが多すぎます。
現存するアイヌの人たちには酷な言い方であることを充分承知のうえで、私は言いたいのです。アイヌ民族の祖先の人たちは、すぐれた文明を吸収する努力を完全に怠ってきた。これではアイヌ民族みずから自滅の道をたどる原因を作ったと言えるのではないでしょうか。
アイヌ民族が日本民族と同じようにすぐれた文明をどんよくなまでに吸収していたら、それこそ日本列島の支配権をめぐって熾烈な戦いが続いたでしょうし、ひょっとしたら日本列島は南北二つの国にわかれる可能性すらあったのではないでしょうか。
アイヌ民族は自ら身を滅ぼす原因を作ってしまったと考えられるのに対しアメリカインディアンやオーストラリアのアボリジンは、他の大陸からやってきた白人によって強制的に民族絶滅の危機にさらされ、オーストラリアのタスマニア島のタスマニア人は、皆殺しにあい絶滅されてしまっています。
アメリカ人やオーストラリア人に、アイヌ民族について日本を批判する資格など全然ないのです。
引用終了

上記の文章は、今から8年前の2009年3月1日付けの「えんだんじのブログ」に載せた「アイヌ民族とアメリカインディアン」の全文の引用です。えんだんじのブログの左側コラムに年月がずらりと並んでいますが、その中の2009年3月をクリックしてください。そうすると2009年3月1日に「アイヌ民族とアメリカインディアン」が出てきます。ついでにcomments 11をお読みください。ついで2009年3月10日のブログには「アイヌ末裔ふたりのコメント(1)」が出てきます。そのcomments 4 もお読みください。2009年3月18日には「アイヌの末裔二人のコメント(2)」が出てきます。そのcomments 5 もお読みください。

私が「えんだんじのブログ」を書き始めたのはアイヌのブログを書いた前年の2008年10月です。従って当時私のブログの一般読者は非常に少ないはずです。にもかかわらずそれなりのコメントの応答があるのは、私はその時からミクシーの会員だからです。当時ミクシーは、当時日本最大のSNSで、とくに若い会員(20代、30代、40代前半)が非常に多かった。そのためオフ会と称してミクシーの仲間同士が集まる会合がよくありました。私もオフ会をもうけ、私の呼びかけでも4.5人は集まるだろうと予想していました。ところが応募してきたのが14,5人でした。これでは名札が必要だと思い、自分で名札を買って名前を書き込んだのを覚えています。場所は横浜駅西口のルミネのレストラン街にあるレストランに東京、横浜方面から14,5名集合してくれました。会合を開いたのはこの一回だけですが、懐かしい想い出です。集まった14,5名、今ではほとんど全員が、ミクシーを抜けフエイスブックの会員となっています。私は今でもミクシーの会員ですが、フエイスブックに乗っ取られた感じで、今ではミクシーは、過疎地のような感じでさびしい思いをしています。

なぜ私が8年も前のブログをここにもちだしたかというと、「つくる会」の季刊誌、「史」の「つくる会」創立20周年記念号(1月号)の24頁に工芸家、砂澤陣氏が「日本を確実に蝕んでいる、アイヌ政策とアイヌ史」を書いております。また砂澤氏は「北海道が危ない!」という本を育鵬社から出版されています。私の8年も前のブログですが「アイヌ末裔二人のコメント(1)、(2)」と、そのcommentsも参照できますので参考になるかと思い記載させていただきました。

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