Archive for 1月, 2009

「鉄の女」 北条正子



源頼朝の名前は、日本人なら誰もが知っているでしょう、北条政子はその頼朝の妻です。源頼朝の生き様はよく知られていますが、そのわりには妻、政子の生き様はあまり知られていません。そこで政子の生き様に光を当ててみました。
彼女は一言でいうと、非常に気の強い、気丈な女性です。昭和55年(1980)年代のイギリスの首相、マーガレット・サッチャーは「鉄の女」と称されましたが、北条正子もまさしく「鉄の女」で、現在は、男女平等、男女同権、男女機会均等の考えが浸透していて沢山の女性が社会で活躍していますが、まだ北条正子ほどの「鉄の女」は、出現していません。
1160年、頼朝は平清盛によって伊豆の蛭が島に流された。頼朝14歳の時です。それ以来20年間この地で流人生活をおくっています。北条正子は、頼朝の監視人の一人である北条時政の三女です。1177年その政子に頼朝から恋文がもたらされたのです。政子21歳、頼朝31の時歳です。
こうして二人の恋が始まった。ちょうどそのころ政子の父親、時政が京都に行って留守でした。頼朝はその時期をねらっていたのでしょう。政子には父親が決めた、いいなづけがいた。相手は北条家の近隣に所在する平氏一門の山木兼隆でした。
政子の父、時政は京都から帰り三島で二人の仲を知らされた。時政は家に帰るなり政子を頼朝から引き離していいなづけの山木兼隆のもとえ送りとどけた。普通の娘ならこれであきらめたはずです。
しかし政子はあきらめなかった。兼隆のすきをうかがって、激しい雨の降る夜政子は、山木の屋敷を抜け出し、頼朝のいる熱海の伊豆権現に向かって一人で逃げ出したのです。
追手を気にしながら激しい雨の降る夜の山道、自分の手元の明かり以外一切闇の中、体力もいるが胆力も必要です。当然政子は、死を覚悟しての脱走です。京都あたりの公家の女性では、とてもまねできない事であったでしょう。
やっとの思いで伊豆権現に到着し、頼朝の胸に飛び込んだ時は、政子には一生忘れることのできない感慨深いものがあったと思います。この彼女の行動が頼朝と北条家を深く結びつける結果になったのである。
頼朝の平家への戦いが始まりました。1185年に鎌倉幕府創立、1192年に頼朝は征夷大将軍になった。この時頼朝46歳、政子36歳でした。政子幸せの絶頂期だったでしょう。その間の政子に関するエピソードを二つ。
1.当時の武士の長ともなると妻の他に愛人(側室)がいるのは当然のことと認められていました。妻は
妻でしかたがないこととあきらめていた。しかし気の強い政子は、頼朝に愛人を持つことをあきらめさせることはできなかったけれど、かなりあらっぽい抵抗をしています。
頼朝には伊豆にいた時から妻、政子の他に、名前を亀の前といった愛人がいた。鎌倉に移り住んでからも亀の前を鎌倉によびよせていた。怒った政子は、家来に亀の前の家に火をつけて燃やしてしまった。それでも頼朝は亀の前を放さなかったそうです。
2.頼朝の家臣たちは、頼朝の異母弟、義経(よしつね)の行方を捜査中、義経の有名な愛人、静御前(しずかごぜん)の居所がつきとめた。京都での取調べではらちがあかず、彼女を鎌倉につれて来させた。彼女はすでに義経の子を身ごもっていました。取調べの結果、静御前が義経の居所を本当に知らないのか、うそをついているのかはっきりしません。
その時政子は、夫、頼朝に頼んで静御前に踊りを見せることを所望しています。政子の好奇心からでしょう。なぜなら静御前は、京都の白拍子だったからです。白拍子は、いまでいうなら芸者のようなものでしょう。田舎娘の政子にとって、京都白拍子の踊がどのようなものか見てみたかったのだと思います。
静御前の度重なる辞退もききとどけられず、踊ることになった。1186年4月8日、静御前は鶴岡八幡宮の回廊に立った。正面に中央に頼朝、政子、そしてずらりと並ぶ御家人たち、静御前は、丸くなったお腹で舞ながら沈痛な声で歌った。
吉野山みねの白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこいしき
しずやしず、しずのおだまきくりかえし昔をいまになすよしもがな
この時静御前は、目にいっぱい涙を流しながら凛としてよく聞こえる声でよみあげていた。満場息を呑む雰囲気だったでしょう。その時、頼朝の怒声がひびいた。
「やめい」
「八幡宮はわれらがみおやの宮。その御前で舞を舞うには、関東の万歳こそ祝うべきであろう。それをなんたること、わが前をはばからず、逆賊義経を慕い、別離の歌を歌うとは」
刀に手をかけた頼朝の手がぶるぶるふるえ、今にも刀を抜くかと思われた瞬間、政子がさとすように頼朝に語りかけた言葉が有名です。
「あなたが流人として伊豆蛭が島にいた時、私たちは結ばれました。されど父は、平家の思惑を恐れて、私を山木兼隆にあずけてしまいました。でも私は、あなたとの恋一筋に生きようと、激しい雨の夜、山木の館を逃げ出しあなたのふところにとびこんだのです。
石橋山の戦いでは、あなたの消息がわからず、一人伊豆山でおびえていた日夜を思いだすと、いまの静どのの心は、まさしくあの時の私の心でしょう。義経殿の長年の愛を忘れ、恋したわないようでは貞女とは言えません」
ほれた女性の心は、私も同じ経験を持つ故、女性である私は一番知っているといいたかったのでしょう。この政子の率直な発言で、頼朝の心が静まり、静御前の舞に対しほうびまで出したのです。
それから3ヵ月後静御前は、鎌倉で出産し男の子を生んだ。男の子なら殺すという約束どおり、政子の必死のとりなしにもかかわらず、静御前の嘆き悲しむ彼女の手から男の子はとりあげられ、由比ガ浜海岸近くに捨てられました。政子の心からのいたわりと数々の餞別を受けましたが、傷心の静御前は、京都に帰ってから仏門に入り、やがて死んだという。
政子は、静御前には深い同情をそそぎましたが、自分の夫の愛人になると、そうはいきません。静御前騒ぎのころ、頼朝は、新しい愛人、大進(だいじん)の局(つぼね)に男の子を生ませています。その子が生まれた時から、政子は、頼朝にその子の処分をしつようにせまります。政子に約束はしているものの、頼朝は大進の局の必死の願いの板ばさみなり、とうとうその子は七歳になってしまいました。
決心した頼朝は、その子を京都の仁和寺に送って僧とさせ、後に貞尭(じょうぎょう)と名乗ることになります。その子が京都へたつ前夜、頼朝はこっそりその子の母のもとえ出かけ、餞別に剣をあたえています。当時の武士の指導者階級に生まれた男女、またその男に見込まれた女性にとっては、厳しい人生を当たり前のごとく受け入れないととても暮らしていけないような時代であったことは確かでしょう。
1199年1月頼朝は、落馬して急死。死因は色々ととりざたされていますが、落馬による脳出血が死の直接的原因というのが説得力あります。武家政権創立者の予期せぬ突然の死は、全国的に衝撃だったでしょう、しかし残された政子にとってそれ以上の大ショックだったと思います。この時頼朝は53歳、政子43歳、長男、頼家18歳、次男、実朝8歳、次女三幡(さんまん)15歳でした。
政子が本領を発揮するのは、頼朝の急死後です。頼朝の死後鎌倉幕府が、およそ130年も続いた功績の第一人者が北条正子です。頼朝、政子夫妻には4人の子供がいましたが、4人全員政子の在世中に死んでいます。このため4人の子の生き様が政子の人生に深く関わっています。そこで4人の子の生き様を追ってみましょう。
1.長女、大姫(おおひめ)
政子の最初の子です。源義仲(よしなか)が自分の長男、義高(当時11歳)を人質として頼朝に差し出した。頼朝は快く受け入れ、義高を当時5、6歳だった長女大姫のいいなずけと決めた。この二人は、はためにもはっきりわかるように親しい間柄になっていた。夫妻もそれを喜んでいた。ところがおよそ一年後木曽義仲は、逆賊になってしまった。頼朝は、家臣に人質の義高を殺させた。このことは大姫は無論、政子も知らなかった。
政子は激怒した。「なぜ内々に知らせてくれなかったのか、なんとか助ける手立てはあったはずです」
義高の死を知った大姫の嘆き悲しみぶりがひどく、食事さえとれなくなってしまったのです。12歳と6,7歳では恋と呼べるものではなかったかもしれない。しかしこれが大姫の心の病になってしまった。
大姫の深い悲しみは、母親、政子にとっても実につらい。政子の怒りがあまりにも激しいので、頼朝は、大姫を殺した下手人を斬った。しかし残虐を重ねただけでなんの解決、きやすめにもならなかった。
大姫はこの悲しみから立ち直れず、精神病のような状態になり、20歳で短い生涯を終えた。政子にとって大姫の死の悲しみは、少なくとも頼朝が生きていたから彼と悲しみを分かちあうことができた。
2.次女、三幡(さんまん)
頼朝急死が1月。その頃病にかかっていた三幡は6月に父のあとを追った。夫の死後、その年のうちに次女、しかもたった一人残った女の子を失った政子には、じつに厳しい試練でした。嘆き悲しむ姿が想像できるではありませんか。
3.長男、頼家
頼朝が死んだ時、頼家は18歳。当然のごとく将軍職を継いだ。しかし頼家はいかにも若い、苦労知らずの経験不足。頼朝の重臣たちは、命をかけて戦ってきた人たちばかり。彼らにとって頼家は頼りない存在。政子は母親であるだけに、頼家と重臣たちとの微妙なムードを見抜いていた。政子には頼家が危なっかしくて黙って見ていられないのです。この彼女の気持ちは理解できます。政子は頼家に訴訟事件の裁決には、独断によらず北条時政、義時、大江広元、梶原景時等の13人の親戚、元老たちと合議の上で裁決するように指示を出した。頼家はこういう母の指図をお節介と受け付け従おうとはしなかった。
頼家は母の実家の北条家より妻の実家の比企能員(ひきよしかず)を頼りにし、母の指名した13人を無視し、お気に入りの小笠原、比企、細野、和田、中野の5人を側近にし、この5人以外には直接自由に会おうとはしなかった。頼家はさらに暴君のきざしさえ見せた。
御家人、安達景盛(あんだちかげもり)が京都からよびよせた美人の愛人に目をつけた。何度も恋文をおくったが、なびかない。強引な手をつかった。景盛に格別に用もないのに三河の国(愛知県)に出張させ、そのすきに彼女を盗み出し、自分の屋敷に住まわせ、彼女のいる部屋には、上記の5人以外近づけさせなかった。
1ヶ月後、景盛が帰国した。景盛は怒りをストレートに表すことができません。しかし誰かが景盛は大変うらんでいるらしいと頼家に告げ口をした。頼家は、「おのれ、生意気なやつ」と腹心の者を集めて景盛を討とうとした。ここまでくるとさすがに政子は傍観していられず、頼家をいさめた。頼家はしぶしぶ母、政子の忠告を聞き入れた。政子は、景盛を慰撫することも忘れなかった。
当時京都の公家の間で蹴鞠(けまり)大流行でした。頼家は、この蹴鞠が大好きだった。わざわざ京都から蹴鞠(けまり)の名人を鎌倉に呼び寄せているくらいですから、彼の熱の入れ方がわかるというものです。要するに頼家は、跡継ぎとしては無能なのです。主君の跡継ぎが無能だと、その無能を利用して己の出世を計ろうとする人たちが必ず出て来るものです。
頼家の場合も頼家をとりまく一派と反対派の対立が激しくなっていったのです。そんな情勢の時、幸か不幸か頼家が、原因不明の奇病にとりつかれた1202年7月病に伏した。早くも翌月、8月の末に危篤状態になってしまったのです。政子は、父時政と相談して、頼家の持分のうち、関西38ヶ所の地頭職は弟の実朝(さねとも)に、関東28カ国の地頭職と全国総守護職は頼家の長男で6歳の一幡(いちまん)に与えると決めた。
病床でそのことを聞いた頼家は、大変憤慨し、妻の実家の比企能員(ひきよしかず)と相談し北条氏を討つことにした。ところがこの二人の話し合いを障子をへだてた次の間で政子は聞いてしまった。政子はすぐに父、時政に告げた。時政は腹心たちと協議をし、比企能員一人を自宅に招いた殺し、中野、小笠原、細野ら頼家の重臣たちを逮捕し、後に流罪にした。
重態から立ち直った頼家は、和田義盛と新田忠常を味方に引き入れ時政を討とうとしたが、義盛は寝返り、新田忠常は殺され万事休した。病後の頼家は、結局母、政子に頼らねばならなかった。政子は結局、長男、頼家は跡継ぎするだけの才能がないことを認めざるをえず、涙をのんで頼家を修善寺に幽閉し出家させた。
幽閉後一月ぐらいたってから頼家から政子に手紙が届けられました。
「ここは深い山の中で、退屈でたまりません。もと召し使っていた者どもをよこしてください。それから、安達景盛を成敗したいから、これもよこしてください」
元の召使をよこしてくれという要求は理解できても、自分が安達景盛の愛人を盗み取って大騒動を起こしておいて、景盛を寄こせ、殺したいというのだから、頼家は絶望感でやけくそになっていることがわかります。
政子は使いの者を修善寺に行かせ「のぞみは、二つともかなえるわけにはいきません。これからは二度とお手紙を書かないように」と伝えた。1204年、頼家は修善寺で死んだ。若干23歳、政子は48歳でした。政子の父、時政が暗殺させたとも言われています。夫、頼朝の死後、わずか数ヶ月で次女を失い、五年後には長男失脚の形で自分が死なせてしまったという思いが政子に一生つきまとったのではないでしょうか。
4.次男、実朝(さねとも)
頼家が修善寺に幽閉され出家し、頼家一派は壊滅状態になってしましました。後継者は当然次男、実朝です。実朝はまだ幼かった。政子の父、時政のはからいで京都の朝廷から征夷大将軍に任命された時、まだ12歳でした。事実上、時政が実朝の後見人になった。そのため幕府内での時政の勢力が増したことになります。
政子の父、時政は自分ひとりの名で下知状という文書を発行して、将軍の命令を下々に伝えた。幼い実朝将軍は、完全な時政のロボットに、またロボットにならざるを得なかった。政子は、実朝が父の偉業をつぐたくましい将軍の育ってくれるだろうか、また政子が信頼している父、時政や政子の弟、義時と関係が順調にゆくのだろうか、心配が絶えなかったでしょう。政子の心配が現実になってきたのです。実朝の嫁選びでした。征夷大将軍に12歳で任命された実朝には、早くも翌年、13歳の時、嫁をもらうべきであるというのが鎌倉幕府首脳陣の一致した考えになっていた。
そこで政子は、自分の妹のとついでいる足利義兼(あしかがよしかね)の娘を推薦しました。ところが政子の父、時政の年のはなれた若い後妻、牧(まき)の方(かた)は、自分が京都の公家の娘であることから、京都の親戚筋の娘を推薦した。政子は、公家の娘を嫁にすることに反対だったが、実朝が京都の娘の方を選んだのでしかたなく実朝にしたがった。
ところが時政の若い後妻、牧の方はとんでもない陰謀を抱いていたのです。彼女は、京都守護としてはぶりきかせている娘むこの平賀朝雅(ともまさ)がとても気にいっていた。その朝雅を将軍にしようという、とんでもない計画を企んでいた。彼女は、政子や幕府首脳陣に疑われる行動を起こした。それが畠山騒動です。
幕府の元老、畠山重忠(しげただ)の子、重保と牧の方のお気に入り平賀朝雅とささいな争いがあった。牧の方はそれを根にもって夫、義時に畠山父子の謀反のたくらみありと報告した。時政はよく調べもせず、息子義時に畠山父子を討つ命令をくだした。義時は、父時政をいさめたが、年老いた時政は、若い後妻にまるこまれていてあくまでも追討を命じた。
畠山父子は、結局命令どおり討たれ命を失くしたが、その後無実であったことが証明された。若い後妻の浅知恵にだまされた時政の評判ががたおちになってしまった。それでも時政は目が覚めず、平賀朝雅を将軍にするために実朝を暗殺しようという牧の方のささやきに同意してしまったのです。
この陰謀を知った政子は、御家人を集め、時政の屋敷から実朝を救いだし、弟の義時の屋敷に移した。時政の屋敷に集まっていた武士たちも実朝を守るためといって皆義時の家に移ってしまったのです。父、時政はもう年ですこしぼけかかっていたのでしょう、鎌倉中から拒否され出家せざるを得なくなり鎌倉から姿を消した。
この時14歳になっていたい実朝には、父、時政の代わって政子の弟、義時が後見人になっていた。この役の名を執権と呼ぶようになった。
死んだ兄頼家は、蹴鞠(けまり)に夢中になっていたが、弟の実朝は、和歌に夢中になっていました。その腕前も玄人はだしだったと言われています。実朝は体も弱く、政子がはるばる紀伊の熊野神社参詣にでかけたのも実朝の健康祈願のためとも言われています。実朝は、和歌にのめりこみ、ともすれば政治の仕事から逃げてばかりいるようで、北条義時の力が増すばかりでした。自分が嫁いだ源氏の力が弱まり、実家、北条家の力が益々強くなるのを見て、政子はどんな気持ちだったでしょうか。
その実朝が1219年1月17日、鶴岡八幡宮の社前で突然切り殺されたのである。この時実朝は28歳。取り押さえられた犯人は、長男、頼家のわすれがたみ、公暁(くぎょう)、19歳でした。政子は幼くして父を失ったこの公暁(くぎょう)をあわれがり、一時は、実朝の養子ぶんにして世話したが、四、五年して出家させ、円城寺へ修業に出した。1217年鎌倉の呼び寄せ、鶴岡八幡宮の別当にしてやったのも政子です。
政子が目をかけてやった者が、次男を殺すという事態になったのです。
亡き夫、頼朝との間にできた四人の子供、全員不遇の死、しかも皆十代、ないしは20代の死です。最後の子供である次男の実朝は、長男、頼家の子、すなわち政子が目をかけてやった孫に切り殺されるという肉親による暗殺、すなわち尊属殺人です。政子にとっていたたまれず、とても耐えられそうもない事件です。
この時政子は、63歳。現在の63歳とは違います。体力的には現在より衰えているはずです。病気で寝込んでしまったり、あるいは認知症の様になったとしてもおかしくありません。それでも政子はこの試練を乗り越え立ち直るのです。その立ち直った政子にさらなる大試練が待ち構えていました。(来週に続く)
ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。




Comments (7)

「涙の道」 (The Trail of Tears)

私が20代の頃というと、もう半世紀ほど前になります。その頃アメリカの西部劇が全盛の時代でした。多くの映画にアメリカインディアンが登場していました。そしてそのほとんどは、アメリカインディアンが悪、白人が正義の内容でした。インディアンの部族の名前も映画で教えられました。アパッチ、シャイアン、スー族などです。
白人たちがアメリカ大陸にやってきた時、北米大陸には数え切れないほどインディアン部族はいたといわれています。言語も千を超えていたと言われています。そのためインディアンは、自分たちが一つの民族とみなしておらず、白人の侵入者に対し一致団結して立ち向かうことができなかったのです。
アメリカインディアンが最初に白人に接触した時、両民族の間に決定的な文明の差がありました。分かり易く言えば、銃の文明と弓矢の文明です。この文明の差がアメリカインディアンの悲劇になった。白人開拓民の行く先々でその地方のインディアンと衝突し土地を奪われてゆきました。
そして1775年アメリカは独立国になりました。独立宣言には有名な一節があります。すなわち 「すべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利を与えられており、その権利の中には生命、自由、幸福の追求が含まれている」
アメリカ独立前後のアメリカの歴史を見れば、アメリカ人やアメリカ政府は、インディアンや黒人を人間として扱っていなかったことがわかります。独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンは、たくさんの黒人奴隷を雇っている大牧場主であり、徹底した人種差別主義者として知られています。
後年日本移民を含むアジア諸国の移民が徹底的に差別され、移民が禁止されてしまうのも、黄色人種が人間として扱われなかった証明です。 アメリカ独立後は、国家自らがインディアンの土地略奪に拍車をかけ、彼らを僻地に押し込めて行ったのです。インディアンの数々の武力抵抗があり、アメリカ人による数々の虐殺が行われ、数え切れないほどのインディアンの悲劇が繰り返されました。
そして明治23(1890)年12月29日サウス・ダコダ州のインディアンの居留地、ウーンディッド・ニーで武装したスー族の一部が、アメリカ第七騎兵隊に包囲され、 武装解除して降伏しました。 ところが、どこからともなく出た一発の銃声をきっかけに虐殺が始まった。犠牲者約300人、そのうち女、子供は約200人でした。
これが最後のアメリカ人とアメリカインディアンの武力衝突となりました。 これ以後、インディアンの武力抵抗はなくなったのです。 アメリカ軍によって完全に武力制圧されたことになります。
アメリカという独立国家ができてから115年後のことでした。
アメリカインディアンの各部族の悲劇の物語は、色々本に書かれていますが、私が一番胸を打たれるのは、チェロキー族の悲劇です。 チェロキー族は、現在のジョージア州とアラバマ州を根城にする部族でした。チェロキー族も最初のうちはアメリカ人に武力抵抗しました。 しかし決して勝つことのない戦いで広大な土地を失っていきました。
そこでチェロキー族は武力抵抗をやめ、アメリカ文明を学び、実践していきました。まず1820年前後にチェロキー国家、すなわち独自の政府を設立したのです。1820年代のチェロキー国家の発展にはすばらしいのがあります。
セコアイという一人のチェロキー人がアルファベッドに似たチェロキー文字を作りだしたのです。1825年に新約聖書のチェロキー語訳完成。さらに1827年には英語とチェロキー語を使用して成文化された憲法を制定しました。 1828年には英語とチェロキー語を併載する週間新聞「チェロキー・ フェニックス」を発刊したのです。その社説には次のよう事が誇らかに述べられていました。
「わが国の法律、公文書およびチェロキー人民の福祉状況に関係ある事柄が、忠実に英語とチェロキー語両語で出版されるであろう」 同じ年にチェロキー国初代の大統領が選ばれました。
このチェロキー国の発展の陰にモラビア教団の宣教師たちの活躍があった。しかしジョージア州当局は、チェロキー国の発展を望まず、政府に働きかけてチェロキー族を一掃しようとします。また 州当局はチェロキー族の土地の買収を企てます。
チェロキー国は、個人の土地売買を禁止し、もし違反の場合死刑という法律を作って抵抗します。
チェロキー族の団結が固いとみた州当局は、いくつかのいやがらせをするのですが、そのうちの一つが「チェロキーランド宝くじ」です。 州当局はかってに各インディアンの家屋に番号をふりあてるのです。
この宝くじを簡単に言えば、私の家の住所は、2-12-10です。この番号を引き当てた白人には、私の家や土地が無料で手に入るのです。
無論白人が、番号を引き当てたからと言って、そのインディアンの家に行ったところでおいそれと引き渡すはずがありません。しかしインディアンは、うっかり家を留守にして遠出ができなくなったことは確かです。実にたちが悪いいやがらせです。チェロキー国の指導者が、一番気を使ったのが一部国民の暴発です。暴発すれば州当局に武力を使う口実を与えることになります。 チェロキー族は、徹底して耐えることによって武力介入されないようにした。
ところが1829年ジャクソン大統領(インディアン武力討伐で名前を売って大統領になった男)は、国会施政演説でジョージア、アラバマ州内のチェロキー族の独立国家を認めず彼らを全部ミシシッピー川以西の地に移す法案を提出すると発表、翌年ジャクソン大統領提案の「インディアン強制移住法」が可決成立してしまったのです。
そして運悪く1830年代にチェロキー国内で有望な金山が発見されてしまいました。そしてとうとう1838年5月23日が、チェロキー国、国民のオクラホマ居留地移住の日と決められ、ジャクソン大統領の署名がなされました。オクラホマまでの移住距離はなんと1300キロです。
その移住日にまにあわせるためアメリカ政府は、急造の強制収容所をつくりチェロキー族を押し込めた。ところが実際の本格的移住は、その年の秋ごろになってしまったので、その間約半年間、強制収容所に押し込められたままの生活を余儀なくされたのです。
合計およそ16,000人のチェロキー族をオクラホマ州に設置された居留地に強制移住させるには膨大な費用がかかりますが、その費用はすべて政府が持ち、実際の運送は入札に参加した民間業者にまかせました。業者は政府からおりるお金を少しでもピンハネするために、毛布の枚数、食糧の量、幌馬車の数など減らすことができる物はあらゆる物を 減らしました。
オクラホマの居留地までおよそ1300キロ、道中は難渋をきわめました。食糧不足による栄養失調、冬の寒さ、コレラや天然痘などの伝染病などで次々と病人や死者が出ました。死者が出たところで埋葬のための行進は止まることはなかったのです。死者はその場で捨てられた。
運送業者は、チェロキー族の死を歓迎したのです。一人でも死ねば、その分費用がうくからです。
16,000人で出発した人数が、目的地に到着した時なんとわずかの4,000人、到着して間もなく死んだ人もいるでしょうから、4人に一人以上死んだことになります。このチェロキー族の強制移住を「涙の道」(The Trail of Tears)と呼ばれています。
1838年12月、まだチェエロキー族が飢えと寒さと疲労の長い長い嗚咽の列がオクラホマに向かっている時、ワシントンの国会では大統領、ヴァン・ビューレンが白々しい報告を行っていた。
「私はここに国会に対し、チェロキー・ネイションのミシシッピーの西の彼らの新しい土地への移住の完了を報告することに、心から喜びを感ずるものであります。
先の国会において承認決定されました諸方策は、最も幸福な結果をもたらしました。現地の米司令官とチェロキーとの間の了解に基づいて、移住はもっぱら彼らの指導のもとに行われ、チェロキー族はいささかのためらいを示すことなく移住いたしました」
アメリカの大統領が議会でうその演説するのは、今に始まったことでなく歴史があるということです。
アメリカ政府は、人口およそ20,000にも満たない小国すら認めようとはしなかった。チェロキー族は、自分たちの文字を作り、英語を学び、アメリカ政府に協調するためあらゆる努力をしましたが、報いられることはなかったのです。
なぜか? それはインディアンが有色人種であり異教徒だったからです。アメリカ政府が、有色人種であり異教徒である人たちを対等に扱いはじめたのは、大東亜戦争後も1960年代以降になってからのことなのです。
このチェロキー族の悲劇「涙の道」(The Trail of Tears)の物語は、一般のアメリカ人の間では常識にはなっていません。しかしアメリカ人が主張する大東亜戦争時の「バターン死の行進」は、日本軍の残虐行為としてアメリカ人の常識のように知られています。
「バターン死の行進」とは、フィリピンのバターン半島の戦場でアメリカ兵とフィリピン兵、合計7万6千人が捕虜となり、鉄道のあるサンフェルナンドまでおよそ112キロを夏の炎天下歩かされたので多数の死者が出たと言われる事件です。
1970年制作のアメリカ映画に「フラップ」という作品があります。 日本でも上映されたかどうか不明です。ずっと前に亡くなった、私の年代なら誰も知っているアンソニー・クィーンがアメリカ兵として第二次大戦従軍の経験あるアメリカインディアン役を演じています。 その彼のセリフの中にこういうのがあるのです。 「(涙の道)にくらべりゃ、バターン死の行進なんざぁ、そんじょそこらのピクニックみてぇなもんだ」
それはそうでしょう。夏の炎天下に歩かされた距離はおよそ112キロ、捕虜の米、比兵は手ぶらで歩けるが護衛する日本兵は、20キロ完全装備で歩くのだから日本兵も苦しい行軍を強いられ、日本兵の犠牲者も出たほどです。
それがチェロキー族にいたってはオクラホマ州の居留地まで1300キロも歩かされているのです。まさしく「バターン死の行進」なんかピクニックに見えるわけです。
なにかと「バターン死の行進」を例にあげるアメリカ人よ、チェロキー族の「涙の道」(The Trail of Tears)を勉強しろというのです。
ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。




Comments (4)

アメリカの建国神話

私の年代で特にアメリカ史を学んでない人たちのアメリカ建国の常識というものは、イギリスで迫害を受けた清教徒(ピュウリタン)が信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に上陸した。
恐らくこの程度ではないかと思います。私も最初はこの程度のものでした。それでは学校教育を通して得られる一般のアメリカ人の常識はどうでしょうか。恐らく次のようになるのではないでしょうか。
「17世紀初頭のイギリスでの宗教弾圧を逃れ、信仰の自由を求めた清教徒(ピュウリタン)の一団がイギリスのプリマスを出発し、メイフラワー号に乗ってアメリカ大陸をめざした。1620年の冬現在のニューイングランド州に到着した彼らは、プリマス・ロックに初めの第一歩を踏み、その地をプリマス(ボストンから南に車で1時間)と名づけ、プリマス植民地を設立。
上陸前に入植民の間で取り交わされたメイフラワー・コンパクト(盟約)は後のアメリカ合衆国憲法の基礎となった。その冬の厳しい気候の耐えられずメンバーの半数は餓死したが、二年目の秋には豊かな収穫にめぐまれ、その間援助を受けたインディアンを招いて感謝の機会をもち、それが今日の感謝祭に直接つながる起源となっている」
これを読むとイギリス人が関が原の戦いから10年後の1620年に初めてアメリカに植民地を建設したかのように感じてしまいますが、実はそれよりも早く1607年に男ばかりのイギリス人がバージニアにジェームスタウンという殖民地を建設しているのです。1619年には最初の黒人奴隷がジェームスタウンに輸入されています。
それなのに、あとから建設されたプリマス植民地はなぜ超有名なのでしょうか。それはやはり信仰の自由を求めてやってきた清教徒がいたからでしょう。信仰の自由を求めてアメリカにやってきたとなれば、アメリカ建国の物語には実にふさわしい光景です。ところでメイフラワー号の乗組員全員が清教徒だったのでしょうか。
乗組員は全員で102名、そのうち清教徒はわずか41名でした。残りはイギリス本国ではうだつがあがらないのでアメリカで一旗という連中でした。しかもそのほとんどが清教徒とは敵対関係にあるイギリス国教会のメンバーでした。およそ2ヶ月間の航海期間中、平穏無事ではありませんでした。清教徒と他の連中との対立関係が極度に悪化したのです。
そこで上陸する前に、秩序を維持し、分裂を避ける目的もあったのでしょう、植民地建設の意図と目的をあきらかにし、自由な市民として公正な法律のもとに生活するという契約書に署名したのです。それを後世の人たちが「メイフラワー・コンパクト」、メイフラワー誓約書と呼びはじめたのです。当時はそんな呼び名などつけていなかったのです。
その内容もアメリカ合衆国憲法の基礎になったとか、アメリカ民主主義の起源とか言われていますが、それも後世の人たちのこじつけといってもいいでしょう。
さて上陸した一行は、その冬の厳しい寒さと食糧不足で翌年の春をむかえずに半数が餓死してしまった。一行の大半が農耕生活の経験のない都市生活者だったのが致命傷だった。 残された半数もインディアンの援助がなかったら生き延びることはできなかったでしょう。インディアンが彼らにとうもろこしや、ジャガイモや、かぼちゃなどの栽培方法を教えたのです。
秋の収穫期を迎えた時彼らは感無量だったでしょう。彼らはインディアンを招いて祝宴を張りました。インディアンの酋長マサイトは、部下90名を率いて祝宴に加わりました。その時秋の収穫を神に感謝したのです。これが感謝祭の起源になっています。
現在、プリマスに酋長マサイトの銅像が建っていますのでアメリカの子供たちは、酋長マサイトの名前は知っていますが、かれの息子、キング・フィリップのことはあまり知りません。ましてや酋長マサイトの死後、後を継いだ息子のキング・フィリップがどういう運命をたどったか全然知らないのです。 なぜ酋長の息子の名前にキング・フィリップという英語式の名前がついたか。入植者たちが酋長マサイトの慈悲に感謝して、彼の息子の名付け親になったからです。そのキング・フィリップは、父の死後白人の入植者たちと戦争になり敗れました。
プリマス植民地の人たちは、彼の死体を分断し、その首をプリマスの街頭に25年間さらし続け、腕はラム酒づけにされ金銭をとって見世物にしたのです。妻と子供たちは奴隷として西インド諸島に売られてしまいました。
プリマス植民地は、信仰の自由を求めて建設されたとよく言われますが、クエイカー教徒がイギリスでの迫害から逃れてやってくると、きびしい迫害を加えて追い出してしまうのです。プリマスの近くにやはり清教徒が建設したマサチュウセッツ湾植民地があるのですが、そこでは追い出しの警告を無視するクエイカー教徒4人を絞首刑にしてしまいました。自分の信仰の自由は守るが、他の宗派の人たちの信仰の自由は認めないのです。同じキリスト教でも宗派が違えば憎しみあうのですから宗教戦争も起こるはずです。
プリマス植民地で興味をひくのはその克明な裁判記録です。殺人事件もありますが、かなりの数の性犯罪も記録されています。 たとえば、1639年9月インディアンの男性テイジンと関係をもったロバート・メンドラブの妻メアリーは、町の通りを荷馬車の上で鞭打たれながら引き回されました。
1665年10月にはサラ・エンサインの売春行為が発覚、彼女も鞭打たれながら荷馬車で引き回されました。牧師のジョン・コットン・ジュニアは、複数の女性信徒の密接な関係がばれてプリマスから追放されています。最もショッキングな事件は獣姦です。
1642年、ラブ・ブルスターに仕えるトーマス・グレンジャーという下男が動物と性行為をしていたところをみつかってしまったのです。 彼の告白によるとそれまでに彼が相手にしたのが、馬一頭、牛一頭、 山羊二頭、羊五頭、子牛二頭、七面鳥一羽だと言うのです。
結局裁判では、旧約聖書のレビ記20章15節に「男がもし獣と寝るならば彼は必ず殺されなければない。またその獣も殺さなければならない」とあるので、これに従うことになった。最初に彼と関係をもった動物たちが殺され、その後本人が絞首刑になっています。
旧約聖書に動物と性行為をした罰が書かれているくらいだから、昔の狩猟民族には、めずらしくなかったのではないでしょうか。それにしてもこの克明に記録されている裁判記録というものは、さすが訴訟社会に生きるアメリカ人の先祖ということを如実に示しているのではないでしょうか。
このプリマス植民地は、大きく発展することもなく1691年に マサチュウセッツ湾植民地に合併されてしまいました。プリマスの地は 耕地に乏しく、漁業にも適さず経済活動が低調だったからです。プリマス植民地は、イギリス人が建設した植民地の中でも小さく、またニューイングランド地方のなかでも一番小さくてさして重要な植民地ではなかったのです。
ところが現在のプリマスは、毎年大勢の観光客がどっと押し寄せるアメリカ最大の国民的史跡になっているのです。原寸どおりに復元されたメイフラワー号が係留されていて当時の服装をした人たちが観光客の質問に答えてくれるのです。植民地時代の清教徒の生活を再現したプリマス・プランテイションもあります。親切にしてくれたインディアンの酋長マサイトの銅像もあります。
清教徒たちが上陸第一歩を踏みしめたと言われるプリマス・ロック(岩)がまるでギリシャのパルテノン神殿そっくりの巨大な円柱にかこまれていて手すりの外からその岩を拝顔するようになっているのです。
その岩には彼らが上陸した年の1620という数字が刻みこまれています。ところがその岩は、メイフラワー号に乗っていた人たちが、自分たちが最初に踏んだ岩だといって記念に残しておいたものではありません。
実は上陸した年からなんと121年後の1741年に当時94歳の老人、エルダー・トーマス・フォーンスという人が、「この岩は、彼らが最初に踏んだ岩だ」と宣言した岩なのです。 プリマス植民地を建設した清教徒たちは、ピルグリム・ファーザーズ( 巡礼者)とも呼ばれていますが、これも建設当初から呼ばれた名前でなく、後世の人たちが上陸からおよそ170年後の1794年に、ある歌の歌詞のなかで、彼らをピルグリム・ファーザーと呼んだのです。 それ以来ピルグリム・ファーザーズと呼ぶようになったのです。
史実の都合の良い部分に創作を加えてできたのがアメリカの建国神話と言っていいでしょう。特にアメリカの歴史は新しく、インディアンから土地を奪い、黒人奴隷をこき使って民主主義国家を建設してきた国にとって建国物語は絶対美化しなければない宿命にあるのではないでしょうか。
ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。




コメント

文化の使い分け その2

先週の「文化の使い分け」に引き続いて今回は、「謝罪」と「誠意」について書いてみました。
1.謝罪
例外もありますが、外国政府および外国政府高官は、一切謝罪しないものと解釈した方がよいと私は思っています。日本のマスコミでは、時々外国政府あるいは外国政府高官が謝罪などと報道しますが、文字通りに解釈することはできません。注意が必要です。例をあげましょう。平成10年(1998)にクリントン大統領とホワイトハウスの若い女性研修生との不倫関係の事件がりました。日本のマスコミは、「クリントン大統領謝罪」と伝えました。ところが英字新聞を読むと、クリントン大統領の発言に謝罪という言葉はありません、ただdeeply regret と言っているだけです。Regretには、英語の初歩の方でも辞書引けばわかりますが、謝罪という意味はありません。Regretの意味はあくまでも遺憾です。
Deeply regretは「深く遺憾に思う」です。それを日本のマスコミは、かってに謝罪と訳しているのです。クリントンは決して謝罪なんかしていません。彼と女性研修生との不倫を調べていくうちに、クリントンは彼女にホワイトハウスのどこかの一室で、露骨な表現を借りれば、彼の一物をしゃぶらせたことが判明しました。
なぜそんなことが判明したかというと、「大統領の精液がついた彼女の青いドレス」の存在が明らかになったからです。結局クリントンは血液を採取され、DNA鑑定を受けざるをえませんでした。その結果クリントンの黒が決定した。
その時クリントンは何と言ったか。彼は、オーラルセックスをしただけで、オーラルセックスは性交渉ではないと公言しています。日本の常識から考えれば、実にくだらない口実であり、聞く耳を疑う屁理屈です。
自分の落ち度であっても謝罪しないためにあらゆる口実を考えるという外国の文化に無頓着な日本のマスコミは、日本の文化をもとに考えて大統領は国民に謝罪して当然と平気で「謝罪」と報道してしまったのでしょう。クリントン大統領は、確かにオーラルセックスをするほど若い女性研修生と親しい間柄だった。しかしオーラルセックスは、性交渉ではない。従って不倫ではない。謝る必要もなければ、まして大統領職を辞任する必要ないというのがクリントン側の論理の組み立てです。大統領でさえこういう口実を平然と駆使できるのが外国の文化なのです。
クリントンは弾劾裁判にかけられましたが、反クリントン派は三分の二以上の票がとれずクリントン大統領は、解任をまぬがれました。私が不思議に思うのはアメリカの世論です。確かにクリントンに大統領辞任を求める声はありました。しかし圧倒的に辞任をもとめるほどの強さではありませんでした。一つの理由として考えられたのが、アメリカ経済が絶好調だったからです。経済が豊かであれば、大統領の道徳論は問題ならないというわけです。日本人の道徳感からいったら最低の大統領です。クリントンはアメリカ国民に謝罪せず、「深く遺憾に思う」だけで難局を乗り切ってしまいました。このクリントンのケースほど日本国民とアメリカ国民の道徳観念の文化の違いを表しているものはありません。
次のケースも興味ある一種の謝罪とも言えるものです。
平成12(2000)年という年にローマ法王ヨハネパウロ二世が教会史上初めて、教会の犯した過失を認めたことが全世界に報道されました。その過失とはカトリック教会が十一世紀前後イスラム世界に十字軍を送って改宗をせまり、殺戮を繰り返したこと、異教徒に対し宗教裁判と称して拷問と殺戮を繰り返したこと、そしてユダヤ教徒の迫害、とくにナチスのユダヤ人虐殺を黙認していたことなどを、法王は歴史上の過失を指摘して許しを乞うたのです。
誰に許しを乞うたと思いますか。法王は自分の神に許しを乞うたのです。アラブ人やユダヤ人に許しを乞うと賠償金を請求されかねません。そのため自分の神に許しを乞うて法的債務を逃れる実に用意周到な謝罪と言えます。私はいまうっかり用意周到な謝罪と言ってしまいましたが、謝罪ではなくあくまで「自分の神に許しを乞う」で「自分の神に謝罪」でないことにも留意してください。「許しを乞う」と「謝罪」とを区別しているのです。
クリントン大統領は、アフリカ諸国訪問時、奴隷貿易発祥の地、ゴレー島に訪れました。奴隷貿易について遺憾の意を表しただけで謝罪はしていません。イギリスのエリザベス女王は、インド独立記念日に合わせて50年ぶりにインドを訪問しました。その時かってイギリス軍がインド市民を多数虐殺した土地を訪問、彼女は犠牲者の墓に花輪をささげましたが、謝罪しませんでした。遺憾の意を表しただけです。
結論を申しますと、現職のクリントン大統領の個人的な不道徳行為に謝罪しなかったのは不届きであるが、その他の謝罪拒否ともとれる「遺憾の意」の表明は、当然のことだと思います。なぜなら100年以上の前の歴史的事件を現在の価値観で裁くのは、あまりにも行き過ぎだからです。大東亜戦争も、現在の価値観で裁かれるすじあいの戦争ではありません。
2.誠意
前回私は日本外交の障害になる日本の文化(常識)を6つあげました。ここでもう一つ重要な文化(常識)を示します。それは「誠意」です。この「誠意」という言葉も日本人がよく使う好きな言葉の一つでしょう。皆さんは無意識のうちに「こちらが誠心誠意をつくせば、相手は必ず理解してくれる。例え万が一理解されなくとも、こちらの意図を少しは察してくれるのではないか」という気分というか考えというか、そういうものを感じているのではと私は思うのです。「至誠天に通ず」という言葉まであります。ましてや自分の誠心誠意が悪用されるなんていうことをあまり考えないのではないでしょうか。
このため日本外交は、この誠心誠意外交をやり、裏切られたり、悪用されたりすることがよくあります。大東亜戦争前の中国に対する幣原外相の「軟弱外交」は有名です。幣原の軟弱外交と言いますが、幣原は、中国に対して誠意をつくしているのですが、その誠意がことごとく破られていたのです。「従軍慰安婦」事件も日本の誠心誠意外交が完全に韓国に悪用されてしまいました。ODAによる中国への莫大な援助、これも日本政府自ら、戦争で中国に迷惑をかけたからの思いが強いゆえの誠意の支援です。その支援が裏目に出ています。
政治家や役所の高官が海外に行く時、「誠心誠意を持って話し合ってくる」とよく言います。私はそれだけでなんとなく日本側の譲歩を感じ取ってしまいます。日本代表は、多少とも譲歩することによって誠意を示そうとするのではないかと、決して「誠意を持って話し合ってくる」という発言には、「なにがなんでも相手の譲歩を引き出す意気込み」には見えません。私は外交とは、誠意を示すことではなく、日本側が誠意を示していると相手側に思わせるのが重要だと思っています。
話しは変わりますが、或る日本人が日本に生まれ、日本で育ち、日本の大学に入って歴史学を学び、異文化体験など何一つ経験することもなく、また異文化について学ぶこともなく歴史の先生になります。その先生が、大東亜戦争についての著書を書いたとしましょう。その先生は、大東亜戦争前後日本はいかにおろかな外交を展開してきたか全くわからないから書くこともできません。
外交官試験に合格して外交官になっても、選挙に当選して政治家になっても、異文化体験などなにもないと日本の文化だけで外交してしまうのです。この弊害は非常に大きなものがあります。この私の主張は、私が無名なので説得力がありません。そこで著名な二人の発言を例にあげます。
落合信彦氏は、彼の著書、「常識を捨てろ」の中でこのように言っています。「外交官試験合格者を外交官に育てるのもいい。しかし海外ビジネスの修羅場を体験した人たちを中途採用して外交官にしろ。外交官試験に合格しただけの外交官など外国人とまともにけんかもできやしない」
私も全く同感です。何故落合信彦氏がこういうことを発言できるかというと、彼は作家になる前オイルビジネスの最前線で外国人と商売をしていたビジネスマンだったからです。
あのすばらしい大作、「ローマ人の物語」を書いた塩野七生氏。彼女は、二、三年前の産経新聞でこう言っています。「日本の政治家は、純情すぎる。もっと悪(わる)にならなければだめです。」
彼女は、日本外交の幼稚さを指摘しているのです。彼女は、イタリアに十年以上住み、イタリア語の史料を読みあさって本を書いています。彼女の異文化体験も異文化学習もたっぷりです。だからこそ彼女は、あのように表現できるのです。
福田前首相は、平成7(2007)年9月自民党総裁選出馬記者会見で「お友達の嫌がることあなたはしますか。しないでしょう。国と国との関係も同じ。相手の嫌がることをあえてする必要はまったくない」と述べた。新聞記者から「お友達外交だ」と冷やかされました。
まさに塩野七生氏が言う「日本の政治家は、純情すぎる」の典型的な例でしょう。福田は個人間の関係と国家間の関係とは全く違うという外交の基礎さえ理解できないのだ。アメリカ政府の首脳や中国政府の首脳が、福田のこの発言を聞いて、あまりのうぶさにあいた口がふさがらないのではないでしょうか。
日本の政治家の二世、三世は、なんの苦労することもなくボンボンで育ち、また日本の平和な文化にたっぷりひたって育って政治家になります。国内の仕事はできても外交に関しては塩野氏の言うように純情すぎて外交交渉では使い物にならないケースがほとんどです。そのため年来私が主張している「うぶでバカでお人好し」外交が続けられているのです。外交官や政治家が、「うぶでバカでお人好し」外交から脱皮するためには、文化の使い分けをしなさい、すなわち日本の文化をかなぐり捨てて外交交渉をすることなのです。日本の文化が外交交渉の障害になってしまうことをもっと国民の間で周知されること必要です。
ブログランキングに参加しています。応援クリック御願いします。




Comments (14)