Archive for 2月, 2009

侵略戦争と憲法九条



私に言わせれば、現在の日本国民は政治家も含め、こと政治見識に関しては、先進国の中では最低でしょう。政治的バカが多すぎます。この政治的バカの根本的要因は、国益や国家意識が完全に抜けおち個人感情で政治を考えているからです。この政治的バカさを詳細に書くと、一冊の本になるくらいですから、短くするため代表的な身近な問題を二つ選びました。
1.侵略戦争
田母神航空幕僚長が、自分の論文の中で日本は侵略国家でないと書いたため大騒ぎになり、退任させられたことは皆さんもう充分に知っているでしょう。日本が侵略国家でないことは、大東亜戦争は侵略戦争でないということです。すなわち自衛戦争です。戦後60年以上たっているのにいまだに侵略戦争だと主張する人が多いい。
田母神論文が問題になったのは、いわゆる村山談話の内容と根本的に食い違ったからです。村山談話とは、平成7年、終戦50年目という節目の時に発表した村山総理大臣談話のことです。村山談話の文章の問題点は、以下の通りです。
「我が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民の存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました。
私は、未来に誤ちを無からしめんとするが故に、疑うべくもない歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表明いたします。また歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念をささげます」
ここで皆さんに質問があります。もし田母神氏や私の主張が間違っていて、大東亜戦争は実は日本の自衛戦争でなくて、侵略戦争が事実であったとしたら、この村山談話の発表は適切な処置だったと思いますか。
もし読者の中に適切な処置だったと思う人は、私ははっきり言いますが、村山と同じバカですよ。大東亜戦争が例え侵略戦争であったとしても、それがどうしたというのですか。外国に向かって謝罪しなければならないことですか。大東亜戦争勃発前の世界の歴史、人類の歴史は、侵略戦争のくりかえしでしょう。大東亜戦争は、数ある侵略戦争の一つにしかすぎません。
さらにもっと具体的に時代をあげれば、コロンブスがアメリカ大陸発見以来大東亜戦争勃発までの約500年間は、白人の有色人種国家侵略の戦争ばかりです。
欧米諸国が武力でアジア諸国を植民地にしました。その欧米諸国を日本が武力で追っ払ってどこが悪いのですか。中国大陸における日本軍の存在が、中国大陸が欧米諸国に完全に支配されるのを救ったのです。日本軍が中国に進出する前は、中国はヨーロッパ諸国の草狩場になっていたではないですか。
日本軍の存在がなかったら、今頃中国大陸は、少数民族が多いいから統一国家になるどころではなく、現在のアフリカ大陸のように貧しい小さな独立国が乱立しているでしょう。毛沢東は、日本軍の存在がなかったら中国は統一できなかったと公言しているではないですか。あのあつかましい中国人に向かってどうしてこういう反論ができないのですか。
60年前の侵略戦争を現在の価値観で裁いてどうするのですか。現在の時代は、大昔と違って時代の流れがものすごく速い。現在から60年前といったら、昔では二、三百年に匹敵するほど長さです。江戸時代の女性の人権が蹂躙されていたといって、現在の価値観で徳川幕府を裁いたり、非難する人がいたら、その人はバカでしょう。
侵略戦争、侵略戦争といいますけど、侵略戦争とはなにかという国際定義がありますか。なにを持って侵略戦争というのか国際定義などないのです。過去において自国が起こした戦争が侵略戦争だったと謝罪した国家の最高責任者がおりますか。誰もいません。村山が初めてです。だから村山は世界中から称賛をあびましたか。なにも称賛をあびていません。
なぜだと思いますか。それは村山が、日本の文化で、すなわち日本の常識で外交をおこなっているからです。日本の常識は世界の非常識。私のブログ、「文化の使い分け」を参照してください。村山談話が、日本人のような民族のいる国家向けだったら通じるかもしれませんが、世界には、日本民族と同じような文化的精神構造をもった民族はいないのです。
村山を初め自虐史観を主張する政治家、歴史家、知識人と私との大きな違いは何だと思われますか。国家意識があるかないかなのです。私には強烈な日本人意識がある、だから諸外国から日本への非難が集中すれば、「なんだと、このやろう」とばかりに本能的に日本弁護の論陣を張ります。だから私は「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を書いたのです。
ところが村山のような自虐史観者たちは、諸外国から日本への非難が集中したら、たちまちのうちに祖国日本をこれでもか、これでもかと足げにして外国に媚びるのだ。特に歴史に興味のない若い女性に聞きたい、日本人男子としてどっちを選びますか。
終戦後50年を記念して村山は、謝罪を国会決議しようとしたが、衆議院で過半数を得ず反対され、談話という姑息な手段を用いました。村山の個人感情で外交を行った村山の罪は大きすぎます。
2.憲法九条
日本国憲法は、「前文」と「第一章」から「第十一章」までで構成されています。有名な九条は、第二章の「戦争の放棄」に規定されています。ご存知九条は、三つのことを規定しています。
国際紛争を解決する手段として武力行使の放棄、陸海空軍その他の戦力を保持しない、国の交戦権を認めない、この三点です。
阿部内閣誕生時、憲法改正問題がいよいよ具体的に成ろうかという時、いわゆる護憲派は、憲法改正反対、特に憲法九条改正は絶対阻止の構えで「九条の会」までが設立しました。この護憲派といわれる政治家や知識人が、これまた政治的バカなのです。
現在日本には、陸海空に匹敵する自衛隊という戦力を保持しています。海外派兵まで行っています。これは憲法九条の「陸海空その他の戦力を保持しない」とあきらかに矛盾しています。時代の変化によって憲法の内容と現実との間に整合性がなくなれば、現実に合わせるべく憲法を改正するのが世界の常識です。護憲派という大バカ派は、これが全く理解できないし、理解しようともしないのです。
なぜ日本の安全を丸裸にするような危険な九条が規定されたか。その理由は、憲法の「前文」にあると私は見ています。その「前文」の条文とは、このように書かれています。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」 これは大事なことなのでもう一回同じことを書きます。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」
このように「決意」したからこそ九条の武力行使放棄、軍事力の不所持、国の交戦権の放棄の条文が生まれた素因なのです。ところがこの「決意」が現在では非常に危険で不安要因になっているのです。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」の諸国民とは世界各国の国民です。
しかし日本の安全にとって一番気がかり動向は、世界各国国民の中でも近隣諸国民の動向です。この「諸国民」を具体的に日本の近隣諸国の民族をあげると、条文はこうなります。
「平和を愛する中国民族、ロシア民族と朝鮮民族の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」となります。現在、常識ある日本人なら、この条文は危険極まりないと判断し、ふざけたことをぬかすなと怒るでしょう。だからこそ憲法改正や憲法廃棄を主張しているのです。
中国、ロシア、北朝鮮は核兵器を所有し、ロシアは北方四島を略奪したまま、中国は尖閣諸島を中国の領土と主張し、日本の領海で石油盗掘。北朝鮮は日本人を拉致。韓国は竹島を韓国領土と主張して占拠したまま。日本の安全に取って近隣諸国のこの4カ国が一番危険な存在です。
再度主張しますが、この憲法の前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」という考えほど危険な思想はありません。現実に日本の安全を近隣諸国が脅かしているではないですか。
護憲派は、我々保守派と論争しても勝ち目はありません。護憲派は、世界の現実、日本の現実、とりわけ日本の近隣諸国の危険性を全く無視、ただ理想につっぱしるだけだからです。そのため彼らから出てくる最終発言が、
「私たちは、とにかく戦争はしたくない、だから外国が日本を侵略するなら、さっさと降参し彼らの命令どおりに従います」。
このような開き直りのような意見を言われると、私たちはどうしていいか全く困ってしまいます。ちょうどバカを相手にしたとき、私たちは、どう相手に発言していいのか、どのように行動をすればよいか、わからないと同じです。外国に侵略されるとはどういう意味なのかわからない、現実に中国に侵略されたチベット民族やウイグル民族がどんな扱いを受けているのか見ようともしない。
平和主義者づらして祖国がどうなってもかまわない。こういうバカの数が少なければ問題ないのですが、けっこう数が多いい。特に平成16年に出来た「九条の会」の講演時の動員力は大きく、また全国各地に各分野の「九条の会」が設立されています。例えば、「九条の会・医療者の会」、「映画人九条の会」、「九条科学者の会」、「九条美術の会」、「スポーツ九条の会」等等、こういう各分野の「九条の会」が全国で約5000(五百ではありません)もあるのです。
かって社会党はソ連から資金援助を受けていました。この「九条の会」が中国や韓国から資金援助を受けていないことを願うばかりだ。私たち保守派は、憲法九条さえあれば平和が守れるという大変な数の大バカと同じ日本列島で共存しているのです。彼らは日本の安全にとって脅威以外のなにものでもない、むしろ危険な存在です。
「九条の会」の指導者たちには、ご存知大江健三郎、井上ひさし、鶴見俊輔、梅原猛などなどがいます。彼らは、もういい年寄りだ。それにもかかわらず中学生並みのナイーブな精神構造の持ち主で、憲法九条さえあれば平和になれると思っているバカ丸出しの老害地知識人の集まりです。
彼らは国民を惑わす根源です。「バカにつける薬なし」、「バカは死ななきゃ治らない」。日本のために一日も早く死んでもらいたい。
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保守知識人への苦言

保守の知識人の中に「大東亜戦争」という言葉を使わずに平然と「太平洋戦争」という言葉を使う人がかなりいます。東京裁判史観を否定しているくせに太平洋戦争という言葉を平然と使っているのです。私にとっては実に腹立たしい。大東亜戦争という言葉は、真珠湾攻撃四日後の昭和16(1941)年12月12日に当時の内閣が、
「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」
と正式に大東亜戦争と命名したのです。
ところが敗戦の年の昭和20(1945)年12月15日にアメリカ日本占領軍(GHQ)は、
「公文書ニ於テ『大東亜戦争』『八紘一宇』ナル用語乃致ソノホカノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ即刻停止ヲ命令スル」として「大東亜戦争」という言葉の使用を一切禁止し、彼らの使用している「太平洋戦争」という言葉を押し付けた。
なぜアメリカ日本占領軍(GHQ)は、大東亜戦争という言葉の使用を禁止したか。それは大東亜戦争というと東アジアの解放という意味が込められているからです。この言葉の使用を禁止することによって大東亜戦争史観を抹殺し、GHQは、検閲、焚書、東京裁判などあらゆる方法を用いて日本国民を洗脳し、太平洋戦争史観を押し付けたのです。
こんなこと百も承知の保守知識人の中に平気で太平洋戦争という言葉を使う人が大勢います。使う理由は、ほとんどが太平洋戦争という戦争名がもう世界語だという主張です。
平川祐弘氏、東大名誉教授は、自著「米国大統領への手紙」ではこう書いています。「日本が戦った第二次大戦を大東亜戦争という歴史が臭う言葉で呼ばずに太平洋戦争というアメリカ側の言葉を私が用いたことに不満を覚える向きもいるかもしれない。しかし敗れた戦さである」
まるで戦争で敗れたから太平洋戦争と言ってもしょうがないと言わんばかりです。
さらに平川氏はこう書いています。
「私たちはグアム島をもはや大宮島とは呼ばない。シンガポールを昭南とは呼ばない。日本以外の土地でthe Great East Asia War という語が通用しない以上、そう言い張ってみたところで所詮、井の中の蛙ではあるまいか。
この前の戦争について太平洋戦争というよりも大東亜戦争という呼び名の方がよく似合う点もありはしたが、私はその部分を拡大して全体をおおうようなことはしたくない」
平川氏は地名と戦争名を一緒しています。地名など征服者によっていろいろ変えられます。このことよりも私が疑問を呈するのは、「日本以外の土地で通用しない以上、そう言い張ったところで所詮、井の中の蛙ではあるまいか」という彼の考え方です。
平川氏に伺いますが、ヴェトナム戦争、これ世界語でしょう。なぜヴェトナム人は、ヴェトナム戦争と言わず、アメリカ戦争(American War)というのでしょうか。日清戦争、これも世界語でしょう。しかし中国は日清戦争などと言いません。中国では中国の甲午の年に起きた日中間の戦争だから甲午中日戦争と呼びます。
アヘン戦争。これも世界語です。しかしイギリスでは、第一次英清戦争と呼んでいます。「セポイの反乱」歴史辞書では、この言葉で載せられています。しかしインドでは、「セポイの反乱」などの言葉は使われていません。第一次インド独立戦争と呼ばれています。中国人は、太平洋戦争と言う言葉も使わないし、大東亜戦争という言葉も使いません。使用している言葉は、抗日戦争です。
これらの民族は、なぜ世界語になっているような一般的呼び名の戦争名より彼ら独自の呼び方に固守するのでしょうか。その理由は、民族としての意地とか、こだわりとか、誇りのようなものが混在しているからではないのですか。太平洋戦争という呼び名を平気で使用する保守知識人の方々、あなたがたは、日本民族としての意地とかこだわりがないのですか。これは誇りの問題でもあるのです。
私は、なにもアメリカ人や中国人に大東亜戦争という呼び名を使えと主張しているわけではありません、日本人が先の戦争と言えば、大東亜戦争という呼び名しかないと主張しているのです。私の父の代の日本軍人は、大東亜戦争という名のもとに戦場で戦ってきたのであって、敵国が呼ぶ太平洋戦争あるいは日本の左翼の一部が主張している十五年戦争の名のもとで戦ったのではありません。
私は子供の時、防空壕に入った経験があるが、私が防空壕にもぐったのは、大東亜戦争の下に防空壕にもぐったのであり、太平洋戦争の下に防空壕にもぐったのではありませ。それを太平洋戦争などあっさり読んで、日本民族としてのこだわりはないのですか。
大東亜戦争のことは英語でなんというか、先ほど引き合いにだした東大名誉教授、平川祐弘氏は、the Great East Asia War と言っていましたが、この表現も悪くないが、直訳しすぎてなんとなく長たらしくぎこちない。
映画にもなった有名な小説、「ケイン号の反乱」を書いたアメリカのピューリッツァー賞受賞作家、ハーマン・ウォーク氏が自著の中で使っていた The Great Asian War, これは簡潔で使いやすい表現だと私は思います。
従って先の戦争と日本人が言えば、それは絶対に大東亜戦争のことでわり、英語で表せば、the Great Asian Warのことです。この二語に統一して世界に向けて堂々と使用することです。
世界に通用しようが、しまいが、これが日本人のこだわりであることを示せ。保守の知識人ばかりでなく、日本人よ、もっと自分の主張を前面に出して世界に向けて自己主張せよ、したり顔してよく考えもせずすぐに迎合、妥協ばかりするなと言うのです。
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自虐史観と皇国史観

「自虐史観」とは戦後から現在にまで続いている歴史観であり、特に今から30年ぐらい前までは「自虐史観」一辺倒でした。「皇国史観」とは明治から終戦までの歴史観のことです。ここで皆さんに承知していただきたいのは、「皇国史観」と言う言葉は、戦前からあった言葉でなく、戦後の歴史家や知識人が戦前の歴史観を批判するために作った言葉だということです。疑問に思う方は、戦前に出版された国語辞書を見てください。「皇国」という言葉は辞書に載っていますが、「皇国史観」という言葉は載っていません。
明治政府は、天皇を頭にいだいて江戸幕府を倒してできた政府です。そのため明治から敗戦の昭和20年まで、天皇家の権力や権威は、非常に大きなものでした。明治初めから敗戦までの日本史教育が、天皇家を中心に語られ、教えこまれてきました。
これが皇国史観と戦後呼ばれています。日本の歴史が有る程度天皇家を中心に語られるのはやむを得ないと思います。皇室の歴史は、日本の歴史でもあるからです。まして明治以降は、天皇家そのものが権力者だったから、余計に天皇家中心に語られるのはやむを得なかったと思います。
ところが戦後、日本批判がゆきすぎて「自虐史観」と呼ばれるように、戦前の歴史も「皇国史観」と呼ばれるようにあまりにも天皇家中心になりすぎてしまったのです。その弊害の一つは日本史上において天皇家と直接権力争いをした人物は、悪人とかたづけられ、人物像が正当に評価されないことです。北条政子はその典型的な例でしょう。
天皇家の鎌倉幕府に対する武力挑戦が承久の乱です。その乱に勝利した鎌倉幕府は、上皇二人を島流しにしています。上皇とは元天皇の地位にいた人のことです。その上皇二人を島流しにするとは不届きな奴ということで、北条政子は悪女扱い、陰謀家などと言われるのはそのせいなのです。このように皇国史観では、北条政子はけなされることはあっても、評価されることのない女性でした。
悪くけなされるのは人物だけではありません。時代そのものもけなされました。明治政府は江戸幕府を倒してできた政府です。そのため皇国史観では、江戸時代はまるで暗黒時代のように描かれます。最近やっと江戸時代が見直されてきました。
また皇国史観は、天皇の批判を許しません。しかしこれも行き過ぎです。なぜなら天皇あっての日本国民ではなく、日本国民あっての天皇だと私は思うからです。そうでないと天皇は独裁者になってしまいます。拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」では、私は昭和天皇を称賛もしていますが批判もしています。
皇国史観にはこのような欠陥があります。それでも自虐史観にくらべればまだずっとましです。皇国史観は、世界中で教えられている歴史教育と共通のものがあるからです。すなわち自国の歴史に誇りを持てるように子供に教え込むという共通性があるからです。自虐史観とは、分かりやすく云えば、日本の歴史にけちをつけ、子供たちに祖国を誇りに思わなくさせる歴史観です。
同じ日本の歴史を学ぶにしても、戦前は徹底して皇国史観が教え込まれ、戦後は現在まで自虐史観が徹底して教えこまれています。時代によってこれほどまでに両極端な歴史が教えまれるということは異常なことです。教え込まれる国民はたまったものではありません。すべて歴史学者の責任です。なぜ歴史学者は公正な目で歴史を眺めることができないのでしょうか。
歴史学者だけではありません。知識人もそうです。知識人も戦前は、皇国史観一点ばり、戦後の知識人は、自虐史観一点ばりです。最近自虐史観の傾向は多少弱くなっていますが、マスコミや教育は、相変わらず自虐史観一点ばりです。
なぜ日本の歴史学者や知識人は、日本の歴史を公正な目でながめることができないのでしょうか。私に言わせれば、歴史学者も知識人も日本人であるがゆえに、日本民族の習性が表れてしまうからです。日本民族の習性とはなにか。「日本人は、自分の意見を持たない」からです。私は無名なので説得力がないから、いつも著名な方の発言を借りて自分の主張を援護しています。
戦後長きにわたって首相を務めた吉田茂の黒子のような存在だった白洲二郎、彼は「日本人には自分の考えがない」と語っています。二、三年前の一時期白洲二郎関係の本が本屋をにぎわした時期がありました。私は、白洲次郎に全く同感です。「日本人には、自分の考えがない」のです。
自分の考えがないから、なにをするかと言えば、「空気を読む」のです。自分の考えより空気を読むことを優先してしまうのです。そしてその空気にあわせて自分の意見が形成され、発言し、行動するのです。
戦前の日本の歴史家や知識人は、戦前の天皇や日本国家の権力や権威の大きさ、日本の強力な軍隊の存在感、時勢、時流等、すなわち空気を読み、その空気にあわせて皇国史観を構築し、子供に教えこんだのです。
戦後の歴史家や知識人は、戦後の天皇や日本国家の権力や権威の失墜、強力な日本軍隊の壊滅、占領軍の巨大な権力と権威、時勢、時流等、すなわち空気を読み、空気にあわせて自虐史観を構築し、子供に教えこんだのです。
教科書裁判で有名になった歴史家、家永三郎は、中年以降の人なら誰でも知っているでしょう。彼は戦前は、教室で皇国史観を教えていて昭和天皇を神様のように思っていた歴史教師でした。それが戦後、自虐史観に転向し昭和天皇をあしげにしだしたのです。家永三郎だけではありません、戦前の歴史家は、ほとんどが戦後、自虐史観に転向したと言っていいでしょう。
すなわち歴史家全員が、空気を読み、空気にあわせることに夢中になった。悪いことには、日本では、この空気が支配的になってしまうと、空気そのものがある種の「絶対的な権威」になってしまい、空気を読まない人の発言、すなわち自分自身の考えを披露した人を「空気をよめない奴」として抹殺してしまうことです。このように自分の意見や信念を押し通すより、空気を読むことばかりに夢中なるから、私に言わせれば、日本民族の恥ともいうべき「付和雷同」がいとも簡単に起きるのです。
この日本民族の習性をものの見事にあらわしたすばらしいジョークがあります。このジョークは有名なので知っている人も多いいかと思いますが、知らない人もいると思いますので、ここに書いてみます。
「各国の大金持ちばかりが乗っている超豪華客船が航海中にエンジントラブルが起きました。船が沈みそうになったので、船長は全乗客にできるだけ自分の荷物を海中に捨てるように命じました。それでも
船は浮力をつけることができません。ついに船長は、乗船客のうち多くの人たちに海に飛びこんでもらう人的犠牲者が必要と判断しました。
船長はその状況を船内にアナウンスしておいてから、まずアメリカ人乗客にむかって、「民主主義のために」と叫んだら数人のアメリカ人が海に飛び込みました。フランス人乗客にむかって、「自由、平等、博愛のために」と叫んだら数人のフランス人が海に飛び込みました。今度はイギリス人乗客に向かって「ユニオンジャックのために」と叫んだら数人のイギリス人が海に飛び込みました。
今度は日本人乗客に向かって、船長が「さぁ皆さん全員飛び込みましたよぅ」と叫んだら日本人乗客全員が海に飛び込んだ」と言うのです。
誰がこのジョークを作ったかしれませんが、ものの見事に日本民族の習性をついています。日本人には自分のしっかりした意見や信念などないのです。またかりに意見や信念があったとしても、それを声高に発表し、他人を説得して自分に同調させるなどということをおそろしく苦手にしている民族です。
そのため空気を読むことばかりに夢中なるからすぐ付和雷同するのです。付和雷同は、自説を強力に主張するよりすぐ妥協を選びます。妥協はいさかいを生まない長所がありますが,はかりしれない欠陥を生みます。
自分の考えや信念がない、すぐ空気を読む、すぐに妥協する、この三点セットで、日本人の言動は極端から極端に振れます。皇国史観から自虐史観に、特攻隊のように祖国と守るために自分の命を捨てた日本人が、戦後は、日本が戦時中悪いことしていないのに、こんな悪いことをしたとうそついてまで祖国を足げにするのです。
戦後の歴史を振り返り、すさまじい自虐史観を目のあたりすると考えこんでしまいます。すべて勝利国に対する自己主張のない度を越した妥協だからです。もし現在、強力な猿帝国が日本を支配したとしましょう。日本民族は一致団結して猿帝国に抵抗などしません。なにをするか。一致団結して「木登り」の練習をします。なんとすばらしい妥協精神ではないですか。そして「日本人の先祖は猿である」という猿史観がはばをきかすことになるのです。
現在、日本の大学の歴史学者には、真に歴史学者と呼ばれる人は、ほとんどいません。いたとしてもその歴史学者は主流派になれません。主流派の歴史学者は、権力、権威、時勢、時流、すなわちその時代の空気に媚びた歴史観を披露しているだけです。歴史家は、歴史を公平に見るものなのです。
それでも対外戦争になるとつい自国びいきになってしまうのが歴史家のくせのようなものであり、またそれが心情でもあるでしょう。ところが現在の日本の歴史家は、対外戦争になると自国をめったやたらと批判して、徹底的に悪い国にしてしまうのです。こんな歴史家は、日本以外どこにもいないでしょう。
数学者は、人間性が問われることはほとんどありません。なぜなら彼らの学問は、権力、権威、時勢、時流など空気に影響を受けないからです。しかし歴史学者は、人間性が問われます。上記の影響を多分に受けるからです。私は現代の日本の歴史学者や知識人を、大東亜戦争をどう見ているかで、その人の人間性を計る尺度にしています。
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「鉄の女」 北条政子 (その2)

まず最初に訂正の御願いを申しあげます。タイトル「鉄の女」 北条正子、正子という漢字ですが正しくは政子です。本文では正子と政子が入り混じっていますが、正式には政子が正しい漢字名です。漢字変換のミスを読者から指摘されるまで全然気がつきませんでした。失礼をいたしました。
1.尼将軍
暗殺される前、生存中の次男、実朝は体が弱く、結婚後十年以上たっても子供ができなかった。昔のことですから体力のなさが原因と考えたことでしょう。そのため実朝の跡継ぎが問題になってきました。そこで政子や幕府首脳陣が話し合った結果、誰の発案かわかりませんが京都から皇族の将軍を迎えようということに決まった。その交渉のため政子が京都にのぼった。
交渉の結果、後鳥羽上皇の息子の六条宮か冷泉(れいぜい)宮のどちらかを将軍として鎌倉へ使わすという約束をとりつけて鎌倉に帰郷した。ところが実朝が暗殺されてしまったので、早速幕府側は、約束の履行を要求した。
ところが後鳥羽上皇は、源氏将軍家の断絶は、鎌倉幕府打倒の絶好の機会ととらえ政子との約束を反故にしようとした。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の荘園支配に不満を持っていた。上皇の収入に直結するからです。
それでも再交渉の結果、左大臣九条道家の子で、西園寺公経(きんつね)の孫、頼朝からいえば、妹の曾孫にあたる二歳の幼児、藤原頼経(よりつね)を将軍として鎌倉に向かえることで話が落ち着いた。二歳の幼児将軍頼経(よりつね)は、1219年7月19日鎌倉に到着した。
後見人は政子がなった。これによって政子は尼将軍と呼ばれるにようになった。夫、頼朝の死後、政子はすぐ出家して尼になっていましたが、今まではどちらかと言えば影の実力者のような存在でした。
ここで尼将軍と呼ばれ幼児将軍の後見人になり、政治面で弟の執権義時と同じように肩を並べたようになったのです。実朝が殺されたのが同じ年の1月12日ですから、悲しみに浸っているどころか、わずか半年で政治の矢面にたったというのは政子の並々ならぬ精神力がうかがえます。
2.承久(じょうきゅう)の乱
鎌倉幕府と後鳥羽上皇との関係は、幼児将軍、藤原頼経を鎌倉へくだすことで決着がついたわけではなかった。後鳥羽上皇は、実朝が死に源氏の跡継ぎが絶えたこの時期が鎌倉幕府を倒す好機と、北条氏に不満を持つ武士たち、京都の御家人たちを集めたりして倒幕の準備をしていた。
1221年5月19日京都から鎌倉まで4日で到達できるという超特急の飛脚が鎌倉に着いた。鎌倉から京都守護職に出向いている伊賀光季(みつすえ)からの飛脚でした。
「院ではしきりに兵を集めています。私の身辺もあぶないようです」
この時伊賀光季はすでに殺されていた。5月14日に後鳥羽上皇が召集をかけたのに京都にいた鎌倉の御家人たちで、光季ただ一人応じなかったからです。
5月19日の光季の最初の飛脚後、その日のうちに次々と飛脚が着いた。飛脚たちの報告で政子を初め幕府首脳陣は愕然とした。上皇の呼びかけに応じて北条氏に滅ぼされた比企氏や和田氏の一族の裏切りはしかたがないとしても、鎌倉御家人の有力者に裏切りが出ていること。上皇が義時追討の院宣を全国に配布したこと。
院宣とは上皇が出す公文書のことです。院宣の影響力は大きく枯れ木に花が咲くとまで言われてきました。すなわち鎌倉幕府が「朝敵」になってしまったのです。その日のうちに上皇の院宣を持った使者が鎌倉に到着しました。
幕府は滅びるかもしれない。鎌倉武士に動揺が広がりました。ぐずぐずしていると上皇軍の数がふくれあがるかもしれないとその日のうちに義時、時房の兄弟、義時の長男泰時、大江広元らがあわただしく政子の邸宅に集まった。同時に鎌倉中の御家人たちも招集された。
政子の邸宅、また庭のすみずみまでぎっしり集まった御家人たちを前に尼将軍政子は、一世一代の名演説をぶちあげた。
「みなさん、心を一つにして聞いてください。これは私の最後の言葉です。あなたたちには、昔は三年の大番(おおばん)(京都大番役のこと)というものがあった。大切な勤めゆえ、みなはりきって出かけていった。しかし三年ののちには力つきて、みすぼらしいみのかさ姿、足にははくものがないありさまで帰って来た。故殿(頼朝のこと)はそれをあわれんで、三年の勤めを六ヶ月にちぢめ、分に応じたわりあてをして、みなが助かるようにはかられたではないですか。
これほどの深いおなさけを忘れて、京がたへつこうとする者は、・・・いいえ、とどまって鎌倉がたへ奉公しようとする者も、さあ、ここで、はっきり、所存を申し述べて下さい」
政子は上皇の院宣の不当さをなじり、鎌倉には将軍四代の今までに、朝敵の汚名をきせられるようなあやまちは、露ちりほどもなかったと主張、さらに「わたしはなまじこの年まで生き延びて、三代将軍の墓所を、西国のやからの馬のひづめにかけられるのかと思うとくやしくてならない。これ以上生きて何になろう。京都がたにつきたいのなら、この尼を殺してからいくがいい」
切々と訴える政子の目には涙があふれ、聞いている御家人たちの目にも涙、政子の説得は功を奏し、御家人たちは一致団結した。防御に専心すりより一刻も早い攻撃と決定。
5月21日の夜、総指揮官、北条泰時は、主従わずか18騎で鎌倉をたった。時房と朝時(泰時の弟)がこれに続き、東国の武士たちが続々とあつまり、京都を攻め入る時は19万の大軍になり朝廷側に圧勝した。これを承久の年に起こったので承久の乱と言う。乱後の処分に政子も立ち会っています。
事件の張本人、後鳥羽上皇は出家の上、隠岐の島(島根県)へ、後鳥羽上皇の皇子の順徳上皇は佐渡島(新潟県)へ配流ときまった。同じく後鳥羽上皇の皇子、土御門(つちみかど)上皇は、事件に関係がなかったけれど、自ら進んで土佐(高知県)にひっこんでしまった。
3.政子の弟、義時の急死
承久の乱からまる3年後の1224年、執権北条義時が急死した。義時は持病の脚気を病んでいたところへ発作をおこし、いまでいう脚気衝心で死んだというのが公式発表でした。ところが義時は毒殺されたというのです。首謀者は義時の後妻伊賀の方(かた)とその兄伊賀光宗。伊賀の方には義時との間に一男一女がいた。
娘の方が、参議右中将一条実雅(さねまさ)に嫁いでいて、当時20歳の政村(まさむら)という息子がいた。伊賀の方と、兄光宗は、この一条実雅を将軍に、政村(まさむら)を執権にし、幕府の権力を伊賀氏の手中におさめようという野望を抱いていた。
これはまさにかっての政子の父、時政の後妻牧氏の陰謀の再生版です。伊賀の方と兄光宗は、幕府の最有力者、三浦義村(よしむら)を抱き込みにかかった。それを察知した政子は、一人で三浦邸に乗り込み義村を談判、説得し陰謀を未然に防いだ。そして首謀者、伊賀の方と兄光宗を流罪に処した。
この事件解決後、政子は病に倒れた。執権北条泰時を初め鎌倉じゅう大変熱のこもった治癒祈願がおこなわれたという。ついに69歳の生涯をとじた。政子にとってやっと得た安息の日は、死だったのではないでしょうか。
しかしあの世では、夫頼朝に「政子、お前は本当によくがんばってくれた」と涙を流して喜び、しっかりと政子を抱きしめたことでしょう。政子のお墓は、現在鎌倉の源氏山のふもと、寿福寺の岩窟に実朝のお墓と並んでいる。
4.政子陰謀家への反論
政子は鎌倉幕府の実権を政子の実家、北条家ににぎらせるために数々の陰謀を行ったという陰謀家説があります。小説家が、政子を陰謀家と描くのは勝手ですが、歴史家や知識人が政子を陰謀家のように扱うのはいただけないと思います。
史実的には、政子が陰謀家だったということを肯定する史料もなければ否定する史料もないからです。(もっとも私の知る限りではという条件はつきますが)
私は政子を非常に好意的にとらえるのは、承久の乱の時の政子の存在感の大きさです。承久の乱の時、鎌倉幕府の最高責任者は、政子の弟、執権北条義時です。頼朝生存中は、父時政とともに戦場を駆け巡っていますから経歴も文句なし。そして将軍はまだ4歳になったばかりです。
そのことを考えると執権義時が、自邸に首脳陣や御家人たちを集め、義時が皆の前で演説して当然だとおもうのです。それが義時自ら首脳陣を引き連れて政子の邸宅に行き、そこで鎌倉中の御家人たちを呼び集め、政子に演説させているのです。いかに政子の鎌倉幕府での存在感が大きかったかの証拠でしょう。政子はそれだけのカリスマ性を備えていたのです。ここでカリスマ性を分かり易く説明するために全く関係のない人物をとりあげてみます。
「経営の神様」と言われた松下幸之助です。ご存知のように幸之助は、戦後直後に一町工場としてスタートしてから一代で世界的なメーカー育てあげた経営者です。幸之助は、ちょっとやそっとでつぶれそうもない大きさの会社にするまでに、恐らくかぞえきれないほどの艱難辛苦を乗り越えてきたことでしょう。
幸之助と一緒に働く従業員は、苦悩し奮闘する幸之助を実際に見聞きし、幸之助への絶大の信頼を寄せるようになったと思います。そのようにして幸之助はカリスマ性を備えていったと私は解釈しています。
要するにその人のカリスマ性というものは、数多くの試練を乗り越えることによって自然と身につくものだと考えています。
話を元に戻して、政子のことですが、政子も前に振れたように数多くの試練を乗り越えてきました。それもこれも夫頼朝の残した鎌倉幕府安泰のため乗り越えてきたということを鎌倉御家人たちが実際に見聞きして知っていたからこそ、政子はカリスマ性を身につけることができたのではないでしょうか。
もし政子が陰謀家だったら、陰謀事件にはかならずうわさがつきまといます。「人の口には戸はたてられない」という言葉があります。御家人たちの政子に対する信頼性が必ず薄らぎます。承久の乱、すなわち朝敵と名指しされ鎌倉幕府存亡の危機に直面したとき、鎌倉中の御家人たちは、政子の演説のもとに一致団結した行動がとれたでしょうか。
このように私は、北条政子という女性を非常に高く評価しているのですが、世間ではあまり知られていません。政子は、男女同権だとか男女平等の考えがなかった800年も前にこれだけの活躍をしているにもかかわらず、現在の女性にも全く感心を持たれていません。なぜか、歴史観が影響しているからです。そのことについては来週書くことにします。
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