Archive for 4月, 2009

日本の知識人は、バカやアホが多いい



まず初めに間違いのお詫びを申し上げるとともに訂正を御願いします。先週「戦うことは貴いことである」の中に「パンパン(従軍慰安婦)」とありますが、正しくは「パンパン(米軍人相手の慰安婦)」です。「従軍慰安婦」という言葉は戦後、朝日新聞がかってにつくりだした言葉で、戦前の国語辞書にはありません。私自身の著書に、「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」というタイトルの本がありながら、こういう間違いを犯すとは、「もうろく」したのかと自分自身に腹をたてています。
今週の本題に入ります。
私は海外出張を沢山したが、海外に住んだことはありません。従って日本で生まれ、育って、生活して70年あまり。成人してから50年間私は、ずっと日本の知識人の言動を見てきました。そこで日本の知識人の印象はと問われれば、日本の知識人には、本当にバカやアホが多くて腹立たしいくらいです。
日本で活躍されている外国人で、オランダ人のカレル・ヴァン・ウォルフレン氏という人がいます。皆さんご存知かと思います。最近、彼はあまり日本で活躍していないようですが。彼は日本語を話すし、読むこともできます。書くこともできますが、ただ本を日本語で書くことはできません。平成元年に彼が書いた大作「日本・権力構造の謎」は世界12カ国に翻訳されたベストセラーなっています。
私はこのウォルフレン氏がきらいです。私は外国人が日本以外の国で東京裁判史観を披露したところで別に腹立ちはありません。しかし外国人が日本国内で東京裁判史観を主張しようものなら猛烈に腹が立ってきます。私の目や耳に入ってくるからです。ウォルフレン氏は、オランダ人です。私にいわせればオランダなどアメリカと同盟を結んでいたからこそ勝利国の仲間入りができたのです。それをウォルフレン氏は、堂堂と日本国内で東京裁判史観を披露するからきらいなのです。
オランダ軍など開戦早々日本軍にインドネシアから追い出されています。そのくせ日本敗戦になるやまたインドネシアに、オランダ軍を送り込み再植民地化しようとしたのです。
その時日本軍の中には敗戦で敵軍の捕虜になるよりインドネシア独立軍に参加してオランダ軍と戦うことに決めた日本兵の数およそ二千名もいるのです。その日本軍の支援もあってインドネシアはオランダから独立を勝ち取ったのです。
そのオランダがどうして大東亜戦争で正義面できるというのですか。だからウォルフレン氏がきらいなのです。その彼が平成7年に「日本の知識人へ」という本を出版しています。その本の冒頭で彼は、こう書いています。
「日本では、知識人がいちばん必要とされるときに、知識人らしく振舞う知識人がまことに少ないようである。これは痛ましいし、危険なことである」
私と彼とでは、知識人とはどういう種類の人間を言うのかではだいたい一致しています。知識人とは、主に政治問題に対して国民や政府に適切な助言や忠告をしてくれる人のことです。私は日本の知識人にバカやアホが多いいというのに対して彼は知識人が少ないと主張しています。このニュアンスの違いは、彼の文章で理解できます。彼はこう書いています。
「知識人として当然果たすべき役割を果たす知識人がいないかわりに、日本には沢山の学者、ジャーナリスト、文化人がいて――それと知ってか知らずか――意図的な情報(プロパガンダ)をまきちらしている」
このように彼は、学者やジャーなリストなど知識人と考えていないのです。一方私は、皆さんもそうだと思うのですが、日本では一般的に学者やジャーナリストや文化人を知識人と通常解釈しています。だからそういう人たちの50年余りの言動を観察すると、日本人の知識人には、バカやアホが多いいと主張するのです。
それでは日本の知識人は、なぜバカやアホが多いいのか。知識人の仕事は簡単に言えば考えることです。彼らの考え方、すなわち思考方法に欠陥があるからです。その欠陥には四つあると思っています。その四つを箇条書きにして説明を加えましょう。
1.自分の見たい目で物事を見る。
戦前弾圧されていた共産主義が戦後復活しました。日本を統治するアメリカ占領軍も共産党を容認しました。敗戦の憂き目に会い、戦前の反動もあって共産主義思想がもてはやされました。アメリカ軍による7年あまりの占領期間中は、知識人の共産主義国ソ連への肩入れには遠慮がありました。しかし日本が独立し、米占領軍が日本を離れると、知識人の共産主義思想への妄信が強まり共産主義国の盟主、ソ連が彼らのユートピアになったのです。
彼らは冷静な目で共産主義やソ連を見ようとせず、自分が見たい目で判断しました。要するに共産主義という悪女に魅せられてしまったといえます。その結果ほとんどの知識人が反米親ソになってしまいました。一般に私たちは、自分の見たい目で物事を見がちです。もう何年も前から中国が崩壊すると予言していた知識人がいます。しかし未だ崩壊していません。あまりにも自分の見たい目で中国を眺めていたせいでしょう。
2.現実直視ができない。
共産主義という悪女に魅せられた知識人を一方的には非難できないでしょう。なぜなら当時、共産主義に魅せられたのは、世界的な傾向だったからです。しかし日本の知識人は、ソ連の実態、すなわちソ連の現実を見ることができたのです。ソ連の実態とは、終戦間際ソ連は、日ソ中立条約に違反して、終戦直前の8月6日、日本に宣戦布告し満州に攻め込んできました。8月15日に日本は降伏し、武器を放棄しましたがソ連軍は攻撃を続け、日本軍軍人と日本人民間人あわせて60万人以上を捕虜にし、ほぼ全員をシベリアその他の強制労働収容所に放り込みました。さらにソ連軍は、北方四島を略奪しました。
戦後になっても何十万という抑留者は、日本に帰国できず、強制労働収容所に押し込められたまま厳寒のなか飢えと重労働で5万から7万の死者を出しています。最後に日本に帰国できた抑留者は、戦後12年間も強制労働収容所で働かされていたのです。北方四島は略奪されたままいまだに返還もされません。こういう現実がありながらソ連をユートピアのように崇めたのです。自分の見たい目でながめ現実を無視すると狂気になるとはこのことです。
戦後数年たつとさらにソ連国内の実態がわかってきました。ソ連には全く自由がないということです。出版、報道、言論の自由がない、信仰の自由がない、私企業を営む自由もない、農家がどの野菜を植え、どのくらいの収穫を上げるかの自由がない、海外旅行の自由がない、ほとんどあらゆる自由がないのです。日本の知識人は、国内でありあまる自由を満喫しながら全く自由がないソ連にあこがれたのです。どれほど彼らをバカ、アホよばわりしてもたりないくらいです。
だからこんなジョークが生まれたのもむりもない。ソ連は貧しく全く自由がないからソ連からの亡命者が後をたちません。そこでモスクワ飛行場でのジョーク。
入国管理局の職員が局長に向かって、
職員 「局長、我が国に亡命したいという人があらわれました」
局長 「我が国に亡命したいって、めずらしいねぇ、ほんとかよ、一体どこの国の人だ?」
職員 「アフリカのエチオピアです」
局長 「エチオピアか、我が国より貧しいからな、可愛そうに、亡命を許してやれ」
    しばらくすると、また先ほどと同じ職員が現れて
職員 「局長、また我が国に亡命したいという人が現れました」
局長 「またアフリカか?」
職員 「いえ、違います。今度は日本人です」
局長 「え、なに、日本人? あんなに経済的に発展して、なんでも自由にできるのに、我が国に亡命?    そいつはきっと精神病にちがいない。精神病院にいれとけ」
このようにバカでアホな知識人が出版、教育、法曹界などを牛耳ったのですから日本がおかしな国になるのは無理わない。今から30、40年ぐらい前でしたら、私の著書、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」のようなタイトルの本などどこの出版社も出版を断ったでしょう。
3.時流、時勢、権力、権威に極端に弱い
昭和35(1960)年代は、日米安保条約改定騒動のあった時代です。日米安保条約改定は、簡単に言えば日米軍事同盟の強化です。ソ連や中国が日米軍事同盟強化に反対するのは当然です。しかしその四年前、昭和31年のソ連の共産党大会では、ソ連人民一千万以上が殺されたというスターリンの粛清が暴露されました。さらに同じ年にスターリンを批判したソ連政府は、武力で鎮圧したハンガリー動乱がありました。
それにもかかわれず反米親ソである知識人は、日本のためというより、ソ連や中国のために日米安保条約反対を叫んだのです。日本の知識人は、現在でもその傾向が非常に強いのですが、日本政府の権力や権威をごきぶりのようにきらいますが、外国、特に共産主義国の権力や権威に平然とひざまづきます。
戦前、戦中は政府や軍部の弾圧を恐れて知識人が一致団結して反政府行動に出る勇気など持ち合わせていなかったのが、戦後独立を回復して政府権力が弱まり、何でも言える世の中になって初めて一致団結して反政府行動に出たのです。大学の先生たちも、安保改定を叫ばないと学内で取り残される恐れを感じたのでしょう、先生たちほとんど全員が反対派になった。また大学生の政治組織、全学連も馬鹿騒ぎの活躍をした。名著「ローマ人の物語」を書いた塩野名七生氏は、この時学習院大生、「あの時はなにがなんだかわからず夢中になってデモに参加していた」と語っています。
安保改定阻止国民会議が結成された。その幹事団体は、社会党、労働組合、学生など計十三団体。連日数十万人のデモが国会周辺にあつまった。一番多い時で三十万人の集まったのです。しかし政府は、国会内で安保改定を強行採決。その代わり政府は、安保改定で大混乱を巻き起こしたという理由で、当時の岸首相が退陣させ、国会を解散して総選挙にうってでたのです。その選挙結果は、自民党政府の圧勝、解散前より議席数の数を増やしているのです。
当時の政治学者、蝋山政道氏は、安保改定騒動を一大国民運動と書いていますが、バカを言ってはいけません。一大国民運動だったらどうして総選挙で自民党が大勝できたのでしょうか。蝋山政道はさらに、安保騒動が岸首相の退陣だけで終わって、なんも成果も上がらなかった理由の一つに国民の無関心、特に外交問題の無関心をあげています。こうまでいわれると私も国民の一人として冗談言っちゃいけないよといいたくなります。安保改定反対なら、その代案を出すべきでしょう。その代案もださずにただ反対、ただ反対を叫ぶ人たちに誰がついていくものですか。
知識人はソ連の実態を無視したばかりではありません、当時のソ連に対する日本国民の感情を無視したのです。当時の国民感情とは、日本は敗戦したためにアメリカ占領軍の統治を受けたが、「アメリカ占領軍でよかった、あれがソ連軍の統治だったら大変だった」という感情です。
まだ生存しておられる哲学者の鶴見俊介氏は、自分が安保騒動で活躍したせいか、いまだにあの安保改定騒動を評価しているそうだが、バカやアホもいい加減にしろと言いたい。安保改定騒動時の総選挙の結果は、国民の良識、常識が知識人の妄想、盲動を阻止した歴史的瞬間です。
知識人があれほど崇め奉っていたソ連は、平成三年に崩壊してしまいました。日本の知識人にバカやアホが多いいことをこれほど証明するものはないでしょう。
3.論理的にものを考えることができない。
1.自分の見たい目で物事を眺める。2.現実を直視しない。3.時流、時勢、権威、権力に弱い。いままで説明してきたこの三つは、物事を論理的に考えさせなくしてしまう効力があります。したがって論理的に考えることができず、すべて情緒的に考えてしまうことになります。
昭和35年の安保改定後も、昭和42年には、中国で文化大革命。この時一千万人以上の中国国民が毛沢東によって殺されました。朝日新聞を初め日本の知識人は、これを礼賛するという醜態を演じています。昭和43年には、チェコ事件。チェコ共産党政権が言論の自由を認めたら、ソ連が武力介入しチェコ政府要員をソ連に連行。昭和54年には、ソ連軍アフガニスタンに侵攻、この時、日本を含む西側陣営は、モスクワオリンピックの参加を辞退しています。そして平成3年にソ連解体。
日本の知識人は、ソ連解体までソ連の行動にはすべて非難なし、あるのは日本とアメリカへの非難だけ。今では笑い話になってしまいますが、米ソ両国は、一時的に核兵器開発競争に血眼になりました。そのため両国は、核実験を繰り返しました。その時日本の知識人は、アメリカの核実験は、戦争目的でソ連の核実験は平和目的だと言う者まで出ました。原水協(原水爆禁止日本協議会の略)は世界中の原水爆実験禁止を訴えていたものが、ソ連の実験は容認しようとする一派が出て分裂してしまいました。バカやアホ相手に物事を論理的に考えろといってもはじまりません。
これら常軌を逸した知識人が、我が国にどれだけ悪影響をあたえたかはかりしれないものがあります。ソ連解体後一部の知識人は目を醒ましました。しかしまだなお多くの知識人が悪夢から覚めず、こんど中国などに肩入れして日本批判にあけくれているのが現状です。
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Comments (8)

若い人からのコメント

前にも触れましたが、私はミクシィーの会員にもなっています。私のブログ、ミクシィーにも載せています。私のブログ、「戦うことは貴いことである」に関してミクシィーの20-30代の若い人からのコメントがありましたのでここに転載してみました。
Sean 2009年04月19日 13:14
いつもながらですが、今回の日記は特に胸に”グッ”と来るものがありました。
>「人生とは戦い」
突き詰めれば人が生きていること自体が戦いと私は思います。 医学的なことはほとんど無知ですが、人の体の中には白血球があり、 その白血球は外からの色んなバイ菌と戦ってくれるおかげで、健康な体があります。
私達の体の中でも常に”戦って”いるのですね。ところが戦後左翼連中は”戦い”を 辞めろという、、、これではすぐに”ばい菌”に犯されて死に体になってしまいます。 そういう意味では、今の日本はアンケートの結果を見る限りでは、 現時点では死に体になっているのかもしれません。
非常に危ない現実です。これでは祖父母に顔向けが出来ません。
らりこ 2009年04月19日 13:44
えんだんじさんの本読んでますよ。 すごく気持ちがこもっているし、とても読みやすいです。 この日記も読んでいて、納得することばかりでした。
私も当てはまることがあったので、色々と考えさせられました。
日露戦争の本や映画を見て、これが日本人だったんだ!!と物凄く感動しました。
今の日本には微塵も感じられませんが…
北朝鮮みたいなクソみたいな国に怯えるなんて、ご先祖様があきれてますよね!!! 悪いやつはやっつけないといけません!! 金正日くたばれーーーー
もりけん 2009年04月19日 18:02
やばいです。この日記シビれました・・・
鳥肌が立つ名文でした! 昭和50年代後半、私の小、中学校時代は、えんだんじさんの仰るような感じのしごきを実際に受けましたよw誰か判別がつかなくなるまで殴られて、親のもとに連れて行かれ「すみません、お母さん。殴りすぎて顔がひどいことになりました。」
と・・・
母は、「いやこちらこそお手数かけます。ありがとうございました。」
で、終わりでしたよw
そしてさらに追い撃ちで母に殴られてましたw痛かったなあ・・
このブログ、転載して広めても良いですか?少しでも多くの人に読んでもらいたいのです。
お願いします!
MIE 2009年04月19日 19:09
私は今、自分病気と必死に戦っています。諦めたらそこでおしまい。現代病と言われるうつ病ですが、絶対に治してみせます。
私の中、高校は田舎だったためか、普通に悪いことをしたら殴られていましたし、部活でミスして先生に殴られて鼓膜が破れた友達もいます。でも、それが当たり前で、今、地元の皆で集まると、あのときこうだったよね、とかああだったよね、とか、よき思い出話になっています。殴られて痣を作っても、今の子供や親のように先生に訴え出るなんて持っての他でした。悪いことをしたから殴られたんでしょ、そのくらいで親も干渉はしませんでした。先生にきちんとした敬意があの頃はまだ私たちにはありました。
私の友人は地元で先生をしていますが、飴と鞭は使い分けないとなめられてしまう、という感じでもなくやっぱり先生は先生、といった感じだそうです。まだまだ田舎はそういった風習があって、国旗掲揚、君が代斉唱なんて当たり前だよー、と話していました。
東北人は強いですよ。
KUNI-KUN 2009年04月19日 23:10
全く納得です。 私の子供時代は体罰まだまだありました。
万引きした友人は、一日中、学年の先生全員にビンタされてました、
おかげで彼は全うな人間になれたようです。
最近よく聞く、競争しない風潮って私もおかしいと思います。 どんなに小学校の運動会で平等にってやっても、実際の社会に出てみれば、厳しい競争だらけです。
ズル休みの呼称の件、大賛成です!
もっと鍛えて、強くいきいて行かねばならんですね!!
ザ・ワールド 2009年04月20日 01:24
正直な意見を言います。
日本が戦争に突入し、国のために命をかけるかと言ったら俺の答えは「ノー」です。
バカな政治家の利権によってもたらされた戦争なんかに自分の命はかけられません。
この手で人間の命を奪うなど俺の中ではもっとも避けたい事の一つです。
日本が亡国の危機に立たされるような事があれば変わるかもしれませんが。
他はとても賛成できます。
真っ白なキャンパスを持った子供達が自然と日本に誇りを持てるような教育がきたら素晴らしいですね♪
えんだんじの返事 2009年04月20日 07:36
皆さんコメントありがとうございます。皆さんのコメント、ブログにも転載させていただきますのでよろしくご了承ください。
えんだんじの返事 2009年04月20日 07:50
>Seanさん
<現時点では死に体になっているかもしれません。
<非常に危ない現実です。これでは祖父母に顔向け出来ません。
まさにすでに死に体になっているかもしれませんね。でも私は最後の息をはくまで日本を見捨てずがんばるつもりです。
せっかく長生きされてきた元軍人たちは、現状の日本に無念の思いで死んでいっています。なんとしても昔の栄光の日本をとりもどさねばなりません。
>らりこさん
らりこさんのように非常に若い女性が私の本を読んでいただいていることは私にとって非常にうれしいことです。若い人に私の本を読んでほしい思いがあるからです。
読後感が良ければ、お友達にも宣伝してください。また私のブログも読むよう進めてください。
過去の栄光ある日本を取り戻すべくお互いがんばりましょう。
>もりけんさん
昭和50年代にそういう先生がいたのですねぇ。もりけんさんのおかぁさんもえらいです。今の若い母親とはえらい違いです。
どうぞ私のブログ自由に利用してください。
ショウ 2009年04月20日 08:30
テレビで、ビート・たけしも言っていたのですが「妙な平等主義がいじめを助長している」というのです。私も同感です。 私の体験でもあるのですが、小学校時代には体格のでかいやつがガキ大将になってクラスの半分くらいを牛耳っていました。
「強いものが優勢になる」という冷徹な事実を教えられ、これはどこの世界にも当てはまるなと考させられました。
学校の先生としては、このガキ大将だけをコントロールすればよいはずだったのですが、今の先生は「みんな平等」という建前ですからクラス全員をコントロールしなければなりません。当然こんなことできるはずはないと思うのですが、、、。
 学校の先生が「平等、平等」と言っているのには偽善性をつくづく感じます。世の中はそのようには決してなっていないし、「平等」と教えられた人は、不平等な世の中に出て行って不幸になるだけだと思います。
えんだんじの返事 2009年04月20日 08:30
>MIEさん
MIEさんのような若い女性の中、高校生時代の話をきくとびっくりしますね。やはり地域差があるのですね。そう言えば、秋田県は、全国学力テストでは全国一位でしたよね。
日教組の力が強い県は、学力テストの結果が低いと言われています。日教組の力が強いか弱いかは、学力テストに現れるばかりでなく、しつけでも違いがでるのではないでしょうか。
>KUNI-KUNさん
KUNI-KUNさんの時代になると学校教育がまだましだったのかもしれませんね。日教組の力も地域差があるし、また学校の差もあるし、教育については全国的に一律に言えないことがわかりました。
KUNI-KUNさんの日記からみても子煩悩であることがよくわかります。やさしい父親だけではダメですぞ。
>ザ・ワールドさん
<日本が亡国の危機にたたされるような事があれば変わるかもしれませんが
勿論私が主張しているのは、日本が亡国に危機にさらされている時のことです。
ザ・ワールドさんに一つ質問があります。
日本みたいな貧乏小国が、およそ勝てそうもない大国ロシアやアメリカになぜ乾坤一擲の勝負をかけたのでしょうか。
MIE 2009年04月20日 09:01
いやいや、それが当たり前だったので…、家庭教師時代、こちらの親の子供への接し方にびっくりしましたね。甘やかしすぎ、自己責任を持たせない。 親が先生に抗議するなんて持っての他でしたし、恥ずかしいことでした。
秋田県は塾に通ったりするのは大体高校受験の前くらいからなんです。ですから、学校の勉強は充実していますし、朝ご飯は必ず食べる習慣があるので、それも学力テストで全国一になった要因かも知れません。田舎の子供たちはのびのびしているので、都会の子供を見ると何だか可哀想になってきますね。 メリハリをつけることも大事だと思います。
日教組の影響は、秋田はあまり受けていない気がします。田舎ですから、古き善き習慣が残っているのかも知れません。旗日には家の前に国旗掲揚する家もありますし…。
株式会社『無計画』 2009年04月20日 15:55
お久ぶりです。読んでみました。
>「人生とは戦い」
まったくです。漫画にもおなじセリフがありました。
「生きることは、戦うことでしょう?」
えんだんじ の返事2009年04月20日 16:00
>ショウさん
平等の行き過ぎですね。現在は、徹底した男女平等が学校ではびこっていますね。男女別トイレを廃止して、男女同じトイレ、体育の時間などに使う更衣室も男女別廃止、修学旅行の宿での寝室も男女別廃止、等など、男女平等もどこまでいくのでしょうか。
学校で使う性教育の本。裸の男女がからみあう絵は、すべて男が下で女が上に描かれているそうです。
>株式会社『無計画』さん
本当にひさしぶりですね。読んでいただいてありがとうございます。
内容を納得していただきうれしいです。
ザ・ワールド 2009年04月20日 19:40
日露戦争・大東亜戦争に関しては正に亡国の危機でしたね。
僕の浅い知識でも、この二つの戦争は勝てる要素がないと判断します。 当時の軍の中枢もそう判断していたんじゃないでしょうか。
それでも米との戦争に踏み切ってしまった事の要因に世論があるかなと。 日本人は和を重んじ極論を嫌いますが、一度左から右へ振り子がゆれだすとどこまでいくかわからない恐ろしい極端性を持っていると思います。 当時の世論を止められる人などあの国にはいなかったんじゃないでしょうか。
当時の日本人が心底祖国を憂い命を賭していったのか、マスコミによる扇動により思考が停止した火の玉になったのか、判断しかねます。
戦中の鬼畜欧米が戦後は鬼畜日本軍になったりとマスコミの無責任のせいでどれだけの人が不幸になったか。 今もその体質は全く変わってないと思います。
戦争なんてもんはホントに最後の最後の手段であり、その悲惨さを人類は学ばなくてはいけないと思います。
今の日本があるのもこの時に命をかけた日本人がいるからというのも理解しています。
誇りに思っていますし、感謝もしています。 僕はこの国が好きですし、生まれた事を幸せに思います。 しかし、命をかけるか?と聞かれた時においそれと「YES」は出せません。
甘い考えかもしれませんが自分なりの戦い方を最後の最後まで考えます。
話がそれてしまいすいません!
けど、この国を好きな気持ちは負けません!
えんだんじ の返事2009年04月20日 20:18
>MIEさん
私の孫娘、秋田県に住ませたいですね。現在神戸で小学五年になったばかりです。彼女4年間学校で君が代歌ったことないんです。5年になったら歌うことあるのでしょうか。
信じられますか、こんな話。
>ザ・ワールドさん
ザ・ワールドさんから具体的に戦争史観を聞くのは初めてです。こう言っては大変失礼になってしまいますが、若い人にしては戦争を理解していると思います。しかし対米戦についてはアメリカ側の対日戦意識を知ることも大事だと思います。
いずれにしても、ザ・ワールドさんは、不甲斐ない日本男児になる恐れは全くありませんね。そのことを確信させていただきました。 率直なご意見ありがとうございました。
MIE 2009年04月20日 20:32
> えんだんじさん
えっ!とカルチャーショックを受けました。私が中学の時の音楽のテストは、君が代の意味を解説しなさい、という問題も出ましたよ。もちろん、先生が事前に意味を教えてくれるのですが…。
との弟 2009年04月20日 22:42
自分への甘え、弱さがが身にしみました………日本、故郷はどこよりも好きです………しかし……有事の際、私は15%の中に入れるのだろうか…………
えんだんじの返事 2009年04月21日 07:55
>との弟さん
現在20歳前半の日本人の平均的な姿ではないでしょうか。学校生活そのものが温室のようになっていますからね。
<日本、故郷はどこよりも好きです
ならば自分の国は自分で守るのが男たるものの務めではないでしょうか。男たる者、いざとなれば祖国や、家族を守るために命を投げ出す気概が必要ではないでしょうか。
その気概が実社会でも大いに役立つのではないでしょうか。
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Comments (2)

戦うことは貴いことである

私は、できることなら20代30代の若者全員にこの記事を読んでもらいたいと思っています。大東亜戦争中、私たち日本人は、広島、長崎の原爆投下、沖縄戦、そして東京、横浜、川崎、大阪、神戸など大都市を含む66都市が無差別空爆を受けなど、残酷で悲惨な体験をした。それでも戦争に勝っていれば事情が違ったでしょうが、徹底的な敗北だったため、事ある度に戦争の悲惨さが強調された。
大東亜戦争に関することのすべてにおいて、戦争の悲惨さが強調され、戦争することは悪いこと、そして自虐史観が子供たちに教え込まれてきています。そのため戦争だけでなく戦うこと自体があまりよくない印象を子供たちに与えてきたような気がしてなりません。
さらに学校教育では、子供からよけいな競争心をなくそうとすることに力をそそいでいるのです。現在の運動会が典型的な例です。私たちの運動会の時には、1等、2等、3等には賞品が与えられ、その賞品の内容には等級別の差がついていた。賞品をもらえなかった生徒には、全員に参加賞だけがあたえられた。
現在は競争心を煽るからというので等級別の賞品一切なし、全員参加賞か全員参加賞なしのどちらかです。徒競走を例にとりましょう。私たちの時は、男女別に、無差別に7、8人一緒に走らせます。そのためどうかすると一番早い生徒と一番遅い生徒が一緒に走り、1位とビリの差がとんでもない差がつくことがありました。現在では、早い者は早い者どうしで、中くらいの者は中くらいの者どうしで、遅い者は遅い者どうしで走り、極端に差がつかないように走らせるのです。例え負けても極端に差がついてあまり落胆しないようにとりはからっているのです。極端な例になると皆で手をつないで一緒にゴールインです。
幼稚園や保育園の運動会には、必ず綱引きをやります。男女一緒同人数で引かせるのはいいのですが必ず二回戦で終わります。1回目は、正真正銘な公正な戦いです。2回目は、かならず先生方が後ろのほうで綱を引いて1回戦で負けた方に応援して勝たせます。3回目はなし。
このように子供の時から勝った喜び、負けたくやしさをあまり感じさないように、むやみやたらと競争心をおこさせないのを基本方針としているのです。これは人間の本能に背く教育です。運動会の騎馬戦なども全く迫力がなくなってしまった。私の息子が中学生の時、いまから24、5年前です。彼らの騎馬戦を見てがっかりしました。騎手がかぶっている帽子取りでした。私が中学生の時の騎馬戦は、騎手を地面に引きずり下ろしての勝ちです。騎馬戦よりもっと勇壮な棒倒しは息子の運動会ではなくなっていました。
息子の騎馬戦では、騎馬戦中にケガした生徒が出たとかで、翌年から騎馬戦が中止になってしまいました。運動会から棒倒しが消えたのもケガを恐れてのことでしょう。終戦直後の子供たちは、充分満足に食べられない環境で育った、デブな子供など一人もいなかった。それでも騎馬戦や棒倒しをやってもけが人はでないのだ。
最近私は学校教育で気になっていることがあります。「心のケア」です。「心のケア」が当たり前になっていることです。私に言わせれば、冗談もほどほどにしてくれと言いたい。終戦直後には、都会では沢山の浮浪児(いまではパソコンでも変換できない漢字になっています)、現代語で言えば、子供のホームレス、すなわち戦災孤児です。父親を戦場で亡くし、空爆で家を焼失し、母を亡くし、親戚に引き取られなかった子供たちのことです。
終戦直後私は、横浜の桜木町の橋のたもとに私の年代とおなじような浮浪児(子供のホームレス)沢山たむろしていたのを見ました。彼らはいずれ国の施設に収容されてその中で育っていきました。彼らに心のケアが与えられたのでしょうか。私の息子の友達の両親は、二人とも浮浪児でした。親戚がいるのかいないのかわからず、広い世間たった二人で社会の底辺の仕事をしながらまじめに働いて、やっと晩年になって小さなラーメン屋を持つことができました。ところが父親は、ガン発見が遅すぎ60代に亡くなってしまいました。現在70歳以上の人たちの中には、自分では言わないが、浮浪児だった戦災孤児がいるのです。
この人たちは、小学校の心のケアなどどう思っているのでしょうか。私は、小学校で心のケアなど絶対必要ないなどとは言いません。しかし地震の被害のように大勢の子供たちが同じような体験しているのに、なぜそこに心のケアなどが必要なのでしょうか。
現在学校では子供たちに体罰は与えることができないどころか、非常に厳しく叱責することもできません。それどころか先生が生徒を殴ると先生が罰せられるしまつです。
私が中学校に入学した時、戦後七年たっていました。場所は横須賀市。米海軍基地。米兵めがけてパンパン(従軍慰安婦)が全国から集まったような場所だから町中パンパンだらけで、最低の教育環境だった。小学生の時には学校である日突然男だけタバコの所持検査があったくらいです。中学校は貧乏人ばかり、全校で2000名以上のマンモス中学校。当時は貧乏が悪の温室と言われた時代です。悪ガキの生徒が非常に多かった。それでも中学校の規律が守られていたのは、戦前教育の遺産がまだ残っていたからです。
その遺産とはなにか、先生の権威や威厳です。生徒、その両親にとって先生の権威や威厳は絶大でした。校舎の隅の方で見張りをつけてタバコを吸い、見張りが「せんこう(先生のこと)来た」というと、とたんに皆ばらばらに逃げ出していました。私と因縁深い男でいまでも名前を覚えていますが、仲間が「清水がせんこうに捕まってしごかれている」と知らせてきた。仲間たちと清水がしごかれている部屋の中を覗きこもうとしたけど、ドアや窓は完全にしまっているからのぞきこめません。それでも中からしごかれているいような音がきこえてきました。そのうちに清水がドアから放り出された。一瞬私と彼の目が会った。かれは鼻からものすごい血をだし顔は赤くなっていた。こてんぱんに殴られたのだろう。彼は駆け出して消えていった。生徒のしごき役は、若い体育の先生と決まっていました。先生の力ずくのしごきに父母が文句などつけませんでした。そのくらい当時の先生には権威と威厳があったのです。だからこそ戦後の混乱した中学校、全校生徒二千人以上いる中学校を統制することができたのいです。中学生も悪いことをした、しかし皆先生が恐かったのです。
しかし日教組は、子供に媚びて自ら権威や威厳を放棄し、先生と子供とは友達関係なってしまった。昔の先生のように権威と威厳があったら、いじめや不登校など半減することはまちがいないでしょう。不登校という名前ほど腹立つものはありません。昔は不登校を「ずる休み」と言っていたのです。不登校はまさに「ずる休み」なのです。「ずる休み」する連中を甘やかすから不登校になるのです。昔に戻って「ずる休み」に言い換えることを提案します。
現状の学校教育の不満をついながたらしく書きましたが、要するに戦後は戦争の悲惨さばかり強調し、戦争することは悪いことにし、自虐史観で日本をとんでもない悪い国にして誇りを持てなくし、運動会などでは競争心をなくすことに夢中になって闘争心の薄い子供に育てあげ、そのうえ子供たちを保護することばかり考え、精神的に鍛えることや、いざとなれば戦うことの尊さなど一切教えこまなかった。
その結果として現れた数字があります。世界36ヶ国で「もし戦争が起こったら国のために戦うか?」の調査をしたら、「はい」と答えて日本人は15.6パーセントで36ヶ国中最低。韓国74.4パーセント、中国人89.9パーセント、アメリカ人63.3パーセント。まさに最悪の数字です。たかがアンケート調査、目くじらを立てることでもないという人もいるかもしれませんが、私は違います。あまりにも低すぎる数字です。その原因のほとんどが教育のせいだと私は思うからです。
私は学校の先生がたに御聞きしたい。戦争はすべて悪いことですか。現在の大国アメリカは、イギリスの植民地からイギリスとの独立戦争を経て独立国家になりました。アメリカの教科書では、ジョージ・ワシントンは英雄だが、イギリスの教科書では悪人です。同じ人物でも国によって評価が違います。これが歴史です。
アメリカ以外にも幾多の有色人種国が宗主国との独立戦争をして独立国家になっています。この独立戦争は悪い戦争なのですか。1990年に湾岸戦争がありました。この時国連は、国連加盟国にクェートに軍隊の派遣を求めました。そのため多国籍軍が編成されました。これは国連が承認した戦争です。この戦争も悪い戦争ですか。
日露戦争を戦争することは悪いことだとして戦わなかったら、世界は支配する白人の世界と支配される有色人種の国に分かれてしまっていたでしょう。戦っても負けていたら同じような状態になっていたでしょう。白人に支配されたら、人種差別は止めましょうと言えば、人種差別撤廃ができたのですか。白人の植民地になっている国々が、白人国家との話し合いで独立国にしてくださいと要求すれば、独立国が誕生したのですか。
日露戦争勃発前は、世界中のほとんどの有色人種の国は、白人に支配されていました。支配する白人と支配される有色人種という関係を、現在のように対等で平等な関係にするには、どこかの有色人種の国が大々的に武力で白人国家に挑戦しなかったら実現しなかったのではないでしょうか。日本の日露戦争と大東亜戦争がたまたまその役割を果たし戦争になったのではないですか。
私は戦争礼賛者ではありません。戦争がなければこれにこしとことはありません。しかし人類の歴史を考えれば、人間は戦争ともに歩んでいるも同然です。だからこそ「治にいて乱を忘れず」という言葉があるのです。どんな時でも戦争があるものとして準備を怠ってはいけないのです。そして自分の国が戦争に巻き込まれたら、侵略されよとしたら、国民は銃をとって戦う、これが常識なのです。
それが「もし戦争が起こったら国のために戦うか?」「ハイ」と答えた日本人、たった15.6%。36ヶ国中最低。この原因は教育のせいだと前にもふれましたが、なかでも精神的に鍛えること、戦うことの貴さをほとんど教えてこなかった影響は非常に大きいと思います。だから今の若い人は、難しい問題に直面すると、逃げようとしたり、避けようとするばかりで立ち向かう姿勢がないのだ。そのためすぐ自殺するのです。
最近、NHKの夜の7時のニュース番組で実に腹立たしいニュースがありました。今度厚生省は、パワーハラスメントを労災の対象にしようかと検討に入ったというのです。パワーハラスメントということは、上司の言葉の暴力です。32歳の男性サラリーマンが、上司のパワーハラスメントが理由で自殺したというのです。上司がなにを言ったかといえば、月給泥棒と言ったり、会社での存在感がないなどとしょっちゅう言われたので、それを苦にして自殺したというのです。ある女性はパワーハラスメントで体調をすっかりこわして病院通いするようになってしまったというのです。
冗談じゃないですよ。上司に月給泥棒と言われて自殺するような弱い人間に労災など適用うれば、日本の若者はますます弱くなってしまいます。こんな男に「戦争になったら国のために戦うか?」と聞いたところで「ハイ」の返事は返ってくることはありません。私が主張する「戦うことは貴いことである」という戦いはなにも戦争の時だけではありません。
人生そのものが戦いなのです。自分の人生を幸せにするためには、色々な困難にたちむかって戦い取るものなのです。幸せは他人が与えてくれるものではありません。自分が戦いとるものなのです。過労死などというのは自殺と同じように実にひ弱な人間の行為です。
もうこれでは自分の体が持ちそうもないと思ったら、会社を辞める覚悟で上司や社長に直訴したらどうですか。サラリーマンが辞める決心したら。その時点で上司や社長と対等なのです。その直訴もしたくないというなら、なにも言わず辞表を出して辞めればいいじゃないですか。ある時、ある人から相談受けた時、こういうような事を言いました。そしたらその人は「会社はそう簡単に辞めさせてくれません」。私は「あなたは、アホか」と言いたかった。
会社の業績が悪くて首になったとき、「御願いですから私を首にしないでください」といったら聞きとどけてくれるのですか。過労死を心配しながら、それでいて辞める勇気さえないのだ。
息子を過労死で亡くした両親が、会社を訴えるのもいい、しかし私はその両親に言いたい、「そんなひ弱な息子を育てた両親が悪い」
私には、子供三人います。長男に姉二人です。いじめに負けないように厳しく育てました。だからいじめに会うことなど全く心配しませんでした。あるいはいじめにあっていたかもしれません、しかし私にそのことを言ったらどういう騒動になるかわかるので黙っていたかもしれません。私はそれでいいと思っています。最近は父親と子供の仲がいい、私にいわせれば仲良しすぎます。やさしい父親だけだったら、父親としての価値はありません。
親は子供の経験してますから子供の気持ちをかなりの程度理解できます。しかし子供は親になったことがないので親の気持など理解できません。それを子供に媚びてまで親の気持ちを理解させようとするのはナンセンスです。私は「親の気持ちなどわかってたまるか」とほっておきました。
話が脱線してしまいましたが、要は「人生とは戦い」なのです。しかし戦いといってもその戦いの六割あるいは七割は、「耐える」ことなのです。「耐える」ということは非常に大事なことです。しかし耐えてばかりいると過労死みたいになってしまいます。そこで行動が必要です。しかし「人生は戦い」の基本は忍耐です。忍耐をベースにして戦いが始まるのです。
最後に結論を申しましょう。
日露戦争当時も大東亜戦争当時も村役場には、「娘身売りの相談に応じます」という看板がめずらしくないくらい日本は貧乏小国でした。その貧乏諸国がロシア、アメリカという大国に戦争を挑んだのです。理由なしにこんな貧乏小国が勝てそうもない二大国に戦争しかけるはずがありません。わが先人たちは、「例え負けても一戦は辞せず」の覚悟で全国民一致して誇りと命をかけて戦いに挑んだのです。
この二つの大戦のお陰で、白人にほとんど支配されていた世界が、現在の各国対等、人種平等の世界になったのです。先人たちの勇気、誇りにはすばらしいものがあります。この勇気ある先人たちは、遠いい昔の人たちではありません。あなたがたの祖父母や曽祖父母なのです。あなた方は彼らの孫やひ孫ですよ。
現在の日本を見て下さい、外交ではアメリカに頼らないとなにもできない。日本列島の上空は、北朝鮮のミサイルの実験場と化し、戦争になれば戦うかと問われれば、ハイと答えるのは、わずか16パーセント。あまりにも情けない状況と思いませんか。あなたがたに御願いしたい。普段は生活に追われ、国のことにあまり関心もてないかもしれません。
しかし日本という国のことは忘れないでほしい、そしてあなたがたの先人たち、祖父母や曽祖父母は祖国のために命をかけて戦ってくれたことを忘れないでほしい。だからあなた方もいざ日本が危機に面した時には、立ち上がって国のため、自分の家族を守るため堂堂と戦いにいどんでほしいのです。そういう気概は常に持っていてほしいのです。お願いします。
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オバマ大統領誕生は、日本のおかげ。

皆さんに一つ質問があります。大東亜戦争の原因の一つにもなったものが、戦後国連で撤廃されたもの、それは何でしょうか?それは人種差別撤廃です。敗戦から20年後の1965年に国連で「あらゆる形態の人種差別の撤廃」に関する国際条約が結ばれました。こうして人種平等は、世界中の人々の常識になりました。
戦前までは、白人国家の政府高官たちでさえ公式に有色人種に対する差別的発言をしていました。それが現在では様変わりして、どんな人でも公式の席では人種差別的な発言は許されなくなっています。この人種差別撤廃に大変な貢献をしたのが日本なのです。「あらゆる形態の人種差別撤廃」条約が結ばれるまでの過程を簡単に説明しましょう。
1492年は、コロンブスのいわゆるアメリカ大陸発見の年です。その後の450年間は、白人国家による有色人種国家の侵略です。その間白人にとって有色人種は、差別と搾取と憎悪の対象でした。この450年間の最後に近い1904年の日露戦争と1940年の大東亜戦争は、異色な戦争です。なんで異色かと言えば、この二つの戦争は、有色人種国家、日本による白人大国への武力挑戦だからです。それまでにも有色人種国家の白人国家への武力抵抗はありましたが、いずれも白人国家に鎮圧され、有色人種国家や世界になんら影響を与えることはありませんでした。
日露戦争が起きたその頃、世界の有色人種国家のほとんどが、白人に侵略され、彼らの植民地になっていました。有色人種国家で独立を保っていたのは、日本、タイ、エチオピアなど五本の指に満たないものでした。満州に武力進出してきたロシアに、日本は大変な脅威を感じた。満州が支配されると朝鮮が必ず支配されると、日本は乾坤一擲の勝負に出た。世界中の国々が、日本みたいな小国が、ロシアのような大国に勝てるわけがないと考えていた。
アメリカも当然日本が負けるだろうと予想していましたから日本に同情していました。ところが日本が勝ってしまったのです。当時日本はイギリスと日英同盟を結んでいました。当時の情報の発信地は、ロンドンです。ロンドンから日露戦争の詳細が世界中に伝えられた。日本軍の強さが伝えられ、日本海海戦にいたっては日本海軍の完璧な勝利が伝わると世界中に大変な反響を巻きおこしました。
欧米の白人国家は、自分たち一国だけでも当時の大国、ロシアと戦争してもひょっとしたら勝つのがむずかしいかなぐらいに思っていたのに、小国、しかも有色人種の国、日本が勝った。そのことが日本への脅威が強まり黄禍論の勢いが強まりました。アメリカでは日本を仮想敵国にしたてあげ、日本人移民に対する差別政策が強化され、人種的憎悪の目がさらに強くなっていった。
一方白人国家の植民地になっていた有色人種国家にとって日本は、希望の星になり彼らに刺激を与えることになりました。各国で独立運動が芽生え、また強化されていった。中国からは日本への留学生が一気に増加した。インドの独立の父と言われた、ネール首相は、「ネール自伝」の中でこう書いています。
「もう一つの重要な出来事で私に影響をおよぼしたものとして忘れることが出来ないのは日露戦争である。日本の戦勝は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日新聞を待ち焦がれた。相当の金をかけて日本に関する書籍を買い込んで読もうとつとめた。ところが日本の歴史では面食らった感じだが、昔の日本武士道の物語、それから小泉八雲の楽しい散文は大好きだった。私の頭はナショナリスチックの意識で一杯になった。インドをヨーロッパの隷属から、アジアをヨーロッパの隷属から救い出すことに思いを馳せた。
さらに想いはほとばしり、私が剣をとってインドのために闘い、インド解放の一助けたらんと英雄的行為を夢みるのだった」
数百年にわたって白人に支配されてきた有色人種にとって、白人には絶対に勝てないという「神話」ができあがっていました。その「神話」を有色人種である日本が打ち砕いたのです。世界中の有色人種にとって、またフィンランドやポーランドのようにロシアにいじめられていた白人国家にとっても、日本勝利は快挙だったのです。
日露戦争後10年たらずで第一次世界大戦が起きました。この戦争は、ヨーロッパ内部の白人どうしの戦争でした。日英同盟のよしみもあってイギリスは、日本の参戦を望みました。日本は参戦を決意、ドイツと戦いました。ドイツの敗戦によって戦争は終結した。日本は、イギリス、フランス、アメリカなどと戦勝国の一員でした。この第一次大戦は、ヨーロッパが戦場でしたから、アメリカと日本は本国への影響はなく、却って日本は漁夫の利を得、国力が発展。大戦後日本は、大国としての地位がさらに強固になりました。
大戦終了後、色々な問題を討議するために1919年パリ講和会議が開かれました。日本はこの会議に出席する前から、「人種差別撤廃条約」の締結を議題にのせることを公約にしていました。何故なら現実に日本人がアメリカで人種差別と憎悪の対象になっていたからです。全米黒人地位向上協会の創立に貢献したデュボイスら黒人代表者は、日本全権団がパリに到着すると、早速日本全権団を訪ね、世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくすことに尽力してほしいという嘆願書を提出しています。
アメリカの黒人代表者たちは、アメリカ代表団を尋ねようとせず、日本代表団を訪れて人種平等の嘆願書を出したということは、彼らはすでにアメリカ政府に絶望していることを意味しています。パリ講和会議には、黒人代表者など出席できません。当時アジア、アフリカ、中南米の有色人種国家の中で日本だけが「人種差別撤廃案」を提出できる力を持っていたのです。
「人種差別撤廃案」が会議上に提案され、討議が始まりました。さっそく全米黒人新聞協会は、次のようなコメントを発表しています。
「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を闘わせている日本に、最大の敬意を払うものである。全米1200万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」
「人種差別撤廃案」に強行に反対したのは、現在人権先進国づらしているアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどでした。日本は反対国に受け入れられるように字句の修正などしましたが全然受け入れられません。日本は票決に持ちこもうとしました。しかしこの時の会議の議長は、アメリカのウィルソン大統領でした。彼は長い演説をして事態を沈静化させ票決なしですませようとしました。
しかし日本のしぶとい交渉が功を奏し票決が決定、投票の結果合計16票中11票が日本案に賛成、反対5票の多数決で日本案が採決されたのです。この時ウィルソン大統領は、このような重要な問題は全員の賛成が必要だと、この票決を無効にしてしまった。それまでの会議は、すべて多数決で決定されていたにもかかわらず。ところでオバマ大統領初め現在のアメリカ黒人は、このようなことを学校教育で教えられ知っているのでしょうか。
ウィルソン議長の特権で、「人種差別撤廃案」を無効にしたが、採決の結果負けたことは、アメリカにとって大変なショックだったでしょう。アメリカは移民でできた大国です。インディアンから土地を奪い、彼らを僻地に押し込め、黒人を奴隷にして発展してきた国です。当時アメリカは、日本以外のアジアの国々からの移民を禁止してしまいました。ここで人種差別撤廃が実現すると、インディアン、黒人と平等になり、アジアから大挙して移民が押し寄せてくると、アメリカという国の文化、すなわち白人文化が破壊されることになりかねなません。
当時の上院議員、J.D.フィランは「アジア人に平等権を適用すれば、われわれ自身の国民的生存を危機に陥れ、西欧文明を破壊することになる」と表明しています。ここでアメリカは、「人種差別撤廃案」など提案した日本などつぶしてしまわなければ、アメリカという国の存在の危機になる。その上日本はアメリカがほしがる中国市場にとって邪魔な存在。こうして日本は、アメリカにとっていずれつぶしてしまわなければならい国になったのです。
このように考えるとこれ以後の日本に対するアメリカの外交政策がよく理解できます。パリ講和会議二年後の1921年に日、米、英、仏、中など九カ国が集まってワシントン会議が開かれた。私がいつも主張する、「うぶでバカでお人好し」の日本外交は、完全にアメリカに丸めこまれ、中国における日本の権益の大幅な譲歩など、アメリカの外交の大勝利に終わっています。
そしてあの悪名高い「排日移民法」が1924年に制定されたのです。それまでにアメリカは、日本を除くアジアの国々からの移民を禁止していました。しかし日本は大国なので他のアジアの国々と同列に扱うことができず、日本からの移民が許可されていました。しかしアメリカにいる日本人は、白人の差別や憎悪の対象でした。とくに日本移民の農地に関して様々な制限を設けた法律が次々と可決されていきました。そしてとうとう1924年に、正式に日本人は「帰化不能民族」のレッテルを貼られ、アメリカへの移民が禁止されたのです。
当時の日本人は、現在の日本人と違って非常に誇りが高かった。日本人であることに特別の誇りを持っていた。だから日本国内では反米感情が一気にふくれあがったのです。昭和天皇は、この排日移民法を大東亜戦争の原因の一つに上げています。私も同感です。1941年に大東亜戦争が勃発しましたが、その前に日本を含む全アジアの人々は、アメリカ、カナダ、オ-ストラリア、ニュージーランドへの移民は禁止されていたのです。ここで私たちが忘れてならないのは、私たちが戦争に突入した時のアメリカは、人種差別政策を国策にしていたことです。
大東亜戦争勃発後の六ヶ月間の日本軍の快進撃がすごかった。大東亜戦争は、日本の敗北に終わったが、開始の六ヶ月間の快進撃とその後の半年あまりの東南アジア支配が、戦争を意義あるものにしたのです。六ヶ月間のうちに日本軍は、全東南アジア地域から白人を全部追っ払ってしまったのです。
アジアの人たちは、日露戦争で日本が勝ったのを知っています。日本に勇気付けられたことも確かです。しかし日露戦争の戦場は満州であり、日本海海上です。日本の戦いぶりは新聞で読んだだけです。しかし大東亜戦争の場合は違います。アジアの人たちは、自分の目で日本軍兵士の戦いぶりを見たのです。
自分たちを二、三百年以上支配してきた白人、自分たちには絶対に勝てないと思いこんでいた白人を、自分たちと同じ背格好の日本人が、徹底的に白人兵をやっつけているのです。彼らを見下していた白人兵が、捕虜になって日本軍の命令に従順に従っているのです。「一見は百聞にしかず」といいますが、日本人が出来て、自分たちにできないはずがないと考えるのは当然の結果です。
このため戦後アジアから独立国が続々と誕生した。例えばフィリピンの場合を見てみましょう。戦争中日本軍は、フィリピンを支配していたアメリカ軍全軍を追っ払い、フィリピンを独立国にしました。その後アメリカ軍は、反撃し逆に日本軍全軍をフィリピンから追い出した。日本がフィリピンを独立させた以上、アメリカがまた植民地にするわけにきません。そこでアメリカは、日本がフィリピンを独立させたのではなく、アメリカがフィリピンを独立させたことにしたのです。
東南アジアの国々の独立、その波及がアフリカ、中近東へと広がりを見せました。独立国の数字の動きを見てみましょう。1945年、終戦の年に国連が誕生しました。その時加盟が承認されたのが51ヵ国でした。アジアから3ヵ国、アフリカからも3ヵ国、中近東は7ヵ国、残りは全部ソ連を含むヨーロッパ、南北アメリカと白人の英連邦諸国でした。これでは過去数世紀と同様に将来も白人の世界が続くと思った。
ところがその後の10年間に25の新国家が加盟、1965年までにさらに41ヵ国が加わり加盟国は117ヵ国になったのです。
それでは戦後直後のアメリカの人種差別政策はどうのなったのか。終戦後もアジアからの移民は禁止されたままです。終戦後アメリカの日本占領軍は、日本に民主主義政治を教えたことになっていますが、アメリカ本国では、黒人は相変わらず差別と憎悪の対象であった。投票権も事実上与えられず、投票権を持っていても行使することもできないのです。このことがアメリカは外交面で非常に不利になっていました。
なぜなら戦後長い間、ソ連が崩壊するまで、米ソ冷戦構造と言って世界が大国米ソ両陣営に分かれてお互いに勢力範囲を広げていました。ソ連は、アメリカ国内の黒人に対する人種差別を指摘して対外宣伝に徹底的に利用しました。アジア、アフリカから沢山の独立国が誕生した結果、多くの有色人種の外交官がニューヨークの国連に訪れます。そのときアメリカの人種差別の実態を体験します。ケネディー政権時代のラスク国務長官が「1960年代の外交関係で我々が背負っている唯一最大の重荷は人種差別問題だった」と白状しています。
1950年代にアメリカで黒人の公民権運動がはじまりました。教育、雇用、住居、選挙などあらゆる分野において白人と同等の権利の保障を要求する運動です。紆余曲折を得て1964年に公民権法が成立。ここに初めてアメリカの黒人は、法的にあらゆる差別から解放されたのです。終戦後20年近く経ってアメリカは完全な民主主義国家になったのです。こうして大国、アメリカが人種差別国家でなくなった翌年、1965年に国連総会で人種差別撤廃条約が採決されました。賛成89、反対0、棄権17で可決された。この同じ年に、アメリカは、アジアからの移民禁止を解除しました。
これまでの文章を要約しますと、コロンブスやマゼランが活躍した時代を世界史では、「大航海時代」と読んでいます。これはまさに白人側の呼び名であって、有色人種側から呼べばまさに「大侵略時代」と言えます。この「大航海時代」が17世紀半ば頃に終わるのですが、その時すでにほとんど有色人種の国は、白人国家の植民地なっていました。日露戦争の時には、ほとんどの有色人種国家が白人国家の植民地になって二、三百年経っていたのです。
歴史を振り返れば、この日露戦争で日本が負ければ、世界は支配する白人と支配される有色人種に差別された世界になるかの分岐点でした。日本が勝ったからこそ人種差別撤廃の可能性への道を開いたことになるのです。
第一次大戦後のパリ講和会議での日本の人種差別撤廃案の提出、討議、賛成多数を得た採決、議長の特権による採決無効。まさに人種差別撤廃に向けた貴重な第一歩でした。そして大東亜戦争の勃発。
半藤一利氏は、大東亜戦争の意義など認めませんが、とんでもない主張です。もし大東亜戦争で植民地体制を残したままあっさり敗れたら、意義のない戦争になってしまったでしょう。初戦の快進撃で植民地体制を破壊し一時的にせよ東南アジア全体を支配したということがどれだけ意義のある戦争だったか測り知れないものがあります。その意義の一つが続々と出現した有色人種国家の独立です。彼らは数百年にわたって白人に支配されていたのです。彼らの存在が人種差別撤廃にむけての大変な力になったか容易に想像つくでしょう。
人種差別撤廃条約が結ばれ、現在では人種平等ということは世界の常識になってさえいます。それまでの歴史を振り返るとき、日本の貢献の大きさを抜きに語ることはできません。欧米諸国は、「人種差別撤廃」などで日本など誉めたくありません、自分たちの過去の汚点を語らなくてはならなくなるからです。韓国や中国は、日本の価値など一切認めようとしません。我々日本人がこの点を世界に向かって堂々と語らなくてどうするのですか。また私たちの子供に誇りを持って語らなくてどうするのですか。
自虐史観をつめこまれている若い人たちに言いたい、このブログに納得したら、ぜひこの文章をコピーするなり、あるいは自分のブログに転載するなりして利用していただきたい。
日露戦争と大東亜戦争ほど、世界全体の人類に貢献した戦争はありません。
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日本人とヨーロッパ人の最初の出会い

鹿児島県の大隈半島の南に種子島という島があります。現在は種子島宇宙センターと言って日本の人工衛星打ち上げの基地になっていますので、種子島の名前はよく新聞、テレビに出てきます。その種子島に1543年、一艘のポルトガル船が漂着しました。その時種子島領主、種子島時尭(ときたか)の配下の武士がポルトガル船員と出会ったのです。この時が記録に現れる日本人とヨーロッパ人の最初の出会いと言われています。
出会ったのはいいのですが、双方全く言葉が通じません。ところが幸いにもポルトガル船に中国人が乗っていたのです。二人は砂浜に漢字を書いて筆談をはじめた。それで彼らがポルトガル人であることがわかりました。ポルトガル人を観察してびっくりしているものの一つに、彼らが箸を使わずに手で食事をしていることでした。ということはその頃日本の一般家庭では箸を使ってたべていた証拠です。ポルトガルの船員が手で食べていたというのは、船が島に漂着したせいではないかと思ったのですが、なんとヨーロッパの一般庶民は、19世紀に入っても、ほとんどの地域の民衆は日常、手づかみで食べていたのです。
木製のスプーンはありましたが、だいたいパンですくって食べ、骨や皮や食べかすは、どんどん床に投げ、そこに犬猫が待ち受けて平らげていた。各地の宮廷や大金持ちの食卓では18世紀中ごろからナイフとフォークを使うテーブルマナーを発達させた。ポルトガルの船員が手づかみで食べていたのは、特別の事情ではなくてあたりまえのことだったのです。
ポルトガル船の種子島漂着6年後の1549年に、最初のキリスト教宣教師が布教のため日本にやってきました。この16世紀後半から17世紀にはヨーロッパ諸国の宣教師達、貿易商、船員達が日本にやってくるようになりました。その頃の日本文化について、アメリカ人作家で日本文化に造詣の深いドナルド・キーン氏はこう書いています。
「ヨーロッパの人達は、日本を見て、日本の文化はだいたいヨーロッパの文化と同じ水準に達していると言っていました。もっと客観的に考えますと、当時の日本の文化の水準は、あらゆる点でヨーロッパよりはるかに上だったと私は思っています。日本人の生活が、まず清潔であることに、ヨーロッパ人は驚きました。ある宣教師が手紙の中で、日本の家の中が清潔でありすぎるから、どこでつばを吐いたらいいかわからないと書いています。ヨーロッパでは、きっと家のなかで平気でつばを吐いていたにちがいないと思います。また当時のヨーロッパの食堂では、床の上に葦などがしいてありました。食べながら残り物を捨てるのですが、葦があると見えにくくなるのです。あるいは、犬を呼んで食べさせました。当時のヨーロッパ人は日本の家のなかを見てどんなに驚いたでしょう。どんなに文明的だと思ったでしょう。」
私が力説したいのは、このドナルド・キーン氏のように日本の歴史や文化を熟知している欧米人がいることはいるのです。ところが一般の欧米人は日本の歴史にはほとんど無知といって言っても言い過ぎではありません。このため日本は、欧米人に接するまでは、文化的にも文明的にも、また科学技術の面でもなにひとつみるべきものがなく、未開の国同然であった。現在の日本の発展のもとはといえばすべて欧米人の指導によるものと考えている人が多いのです。これは歴史の無知による傲慢さです。
ドナルド・キーン氏が日本の文化水準はあらゆる点でヨーロッパよりはるかに上といったこの時期、日本は、その当時なかった言葉で、現代使われている言葉で言えば、強力な軍事大国でもあったのです。軍事大国になるきっかけは、ポルトガル船の種子島漂着です。この時ポルトガル人は、種子島領主に鉄砲の使い方を教え、島を離れる時二挺の鉄砲を置き土産として領主に与えていた。
鉄砲という名前の武器は1510年に中国から堺に渡来したと言われています。その時は銅銃でした。その後銅銃は堺で作られたと言われています。堺といえばポルトガル人宣教師、ガスパール・ビレラが「堺はベニスのように執政官によって治められている」といった自治都市のことです。銅銃よりポルトガル人がもたらした鉄砲の性能が圧倒的に良かったのでしょう、たちまちのうちに鉄砲は全国に広まった。このため鉄砲の伝来と言えば、ポルトガル人が置き土産に残していった鉄砲をさすようになったのです。
この鉄砲が種子島の伝えられた頃の日本は、戦国時代といって全国の大名が日本全国の統一をめざしての戦いにあけくれていた時代でした。そのため鉄砲がまたたくまに全国で使われるようになった主な原因になった。日本全国統一を目指す大名の中でもナンバーワン候補になったのが織田信長でした。この織田信長が戦場で鉄砲を使用する全く新しい戦法をあみだし、そして大成功したのが1575年の長篠の戦でした。
彼の戦法は三千丁の鉄砲隊を三列に並べたのです。当時の鉄砲は先込め銃といって、一発撃つたびに銃口に火薬や弾を込めなおさなければならないから連続使用は不可能だった。そこで千丁の鉄砲隊を三列にならべ、最初の一列が撃つとすぐひきさがって二列目が撃つ、二列目が引き下がると三列目が撃つ、三列目が撃つと最初の一列目が撃つといった具合に連続して鉄砲が使えるようにしたのです。
長篠の戦の時の敵は、当時日本最強を誇ると言われた武田の騎馬隊です。そこで信長は木で作った柵をもうけたのです。武田の騎馬隊が柵を乗り越えようと、もたもたしている時に、一千丁の銃がいっせいに火を吹き、それが連続して行われたのです。武田の騎馬隊は壊滅した。黒沢明監督の映画「影武者」を見た人は戦闘場面を思い出してください。あの戦闘場面が長篠の戦なのです。信長が採用したこの戦法で戦闘形態が変わった。鎧(よろい)と兜(かぶと)をつけ、長やりもつ重装備の騎馬隊の戦いから身軽に動ける歩兵隊の戦いに変わったのです。この意味では、長篠の戦は世界の戦史に残る戦ではないでしょうか。信長のこの戦法について、上智大学名誉教授、渡部昇一氏はこう語っています。
「これは別の言葉で言えば、一定の戦場に一定の時間、一定の量の弾を流しつづけるという発想である。そしてこれは鉄砲の使い方としては、まさに最先端の使い方であった。西洋でこの戦法が意識的に採用されるには、実に第一次大戦の末期、実質上のドイツ参謀総長であったルーデンドルフが西部戦線で実行するまで約350年待たなければならなかった」(以下略)
もちろん、第一次大戦のドイツ軍の鉄砲・機関銃の数と長篠の戦における鉄砲の数と性能は比べようもない。だが意識的に一定戦場に一定の時間一定の量の弾を流しつづけるという発想法は世界史的にみても信長によって始められたと言ってよい。」
さらに軍事史研究の世界的権威でイェール大学教授J・パーカーは、彼の著書「長篠合戦の世界史」の中でヨーロッパ人が銃の装填のし直し時間を短縮するのに努力を重ねたのに対し、日本人は命中度を上げることに専心したと述べています。
信長のこの戦法も三千丁の鉄砲が自分の手に入っていたからこそ可能になった戦法です。当時ヨーロッパでも、一つの戦場で三千丁も鉄砲が使われた例はないと思います。信長方だけで三千丁で、敵の武田方でも当然鉄砲を使っていました。しかし武田方は自慢の騎馬隊を頼りにしすぎたため、使用した鉄砲の数は少なかったと言われています。それでも両軍あわせて三千丁以上の鉄砲が一つの戦場で使用されたのです。鉄砲と言えば当時は世界の最新兵器です。
鉄砲が種子島に伝わってからわずか30年後には、日本はその最新兵器の大変な量産国になっていたのです。鉄砲を使用するには、弾がなければなりません。弾の原材料は鉛です。ところが鉛は日本では産出しません。そのため各大名は、鉛の輸入に必死でした。その鉄砲の弾が、1619年オランダ人の日本からの買い付け品目の報告書には、鉄砲の弾、11、696発と記載されているのです。早くも鉛の原料輸入から製品として輸出に向けられているのです。
長篠の戦に勝った信長は、1578年には、自分が作らせた七艘の鉄船、鉄張りの船を使用して、瀬戸内海の制海権を握る敵を海戦で勝ちをおさめています。鉄張りの船、鉄船は、世界最初の出現です。戦いが終わって堺港に入港すると、鉄船の噂を聞いて見物人がわんさとおしかけて、皆びっくりしたと言われています。その見物人の一人の日記には「堺の浦へ近日伊勢から大船が調達されてきた。船は横七間(一間は約1.8メートル)、縦は十二,三間もあって、鉄張りの船である。これは鉄砲が貫通せぬ用意であって、まことに仰々しいことであった。大阪へ廻航して敵の通路を妨害するためのことである。」と書かれています。
鉄船出現前、信長が毛利水軍と戦った時、火矢を打ち込まれ船内が火事になり毛利軍に大敗しました。そのため鉄張りの船を開発したと言われています。鉄船がヨーロッパで採用されたのは18世紀にはいってからです。ポルトガル人でカトリック・イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは、織田信長に会い、1569年6月1日付けで信長の印象をローマに報告しています。
「この尾張の王は、年齢37歳なるべく、長身痩躯、髯(ひげ)すくなし、声ははなはだ高く、ひじょうに武技を好み、粗野なり。正義および慈悲の業をたのしみ、傲慢にして名誉をおもんず。決断を秘し、戦術にたくみにしてほとんど規律に服せず、部下の進言にしたがうこと稀なり。かれは緒人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、みずから奉ずることきわめて薄く、日本の王侯をことごとく軽蔑し、下僚に対するごとく肩の上よりこれに語る。
緒人は至上の君に対するがごとくこれに服従せり。よき理解力と明晰なる判断力を有し、神仏その他偶像を軽視し、異教いっさいの占いを信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後なにごとも存せざることを明らかに説けり。その事業は完全にして巧妙をきわめ、人と語るにあたり、紆余曲折をにくめり」、となかなか的をいた人物評です。
神仏その他の偶像を軽視し、占いも信用せず、魂や霊もなく死んだらそれで終わりという考え方は、当時としては全く常識では考えられなかったのではないでしょうか。信長のこの考え方にうそ、いつわりがない証拠を見せたのが、フロイスのこの報告書の二年後、1571年に敵対する比叡山の延暦寺を焼き打ちにしたことです。僧侶、信徒など多数殺し、800年の伝統をもつお寺をことごとく焼き尽くし、お寺のひとかけらも残さないほど徹底したものでした。
これを知った当時の人たちが仰天したのも当然です。信長が生きていた時代の彼の無神論と比叡山焼き討ちの行為は、現代では通用しますが、当時の常識を超越したものであったことはまちがいないでしょう。この天才肌の信長は、自分の腹心の武将、明智光秀の裏切りにあい、満48歳で死んでしまいます。その後の日本の歴史にとって全くおしまれる早死にでした。
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