Archive for 6月, 2009

人生とはわからないものだ



私はあと一月ほどで満71歳になります。満61歳の誕生月に定年になっていますから、定年からちょうど10年たったことになります。この10年間に四冊の本を出版、そのうちの一冊は大作です。現在、毎週日曜日にブログを更新して8ヶ月目。要するに定年後の生活は、執筆活動を中心にしておくっているわけです。このような執筆活動中心の生活をおくるなど現役時代に予想するどころか夢想すらしなかった生活です。私自身、自分で自分の現在の姿を全く信じられない気持ちで眺めています。
なぜなら私は高校卒業まで作文が好きだったわけでもなく、ましてや自分の作文が先生にほめられたことなどありません。高校卒業後すぐ社会人として働きだしたわけですが、それから定年直前まで日本語の文章などほとんど書いたことがないのです。日記すら生まれてから現在まで書いたことがありません。ガールフレンドに手紙ぐらい書いているのでしょうが全く記憶にありません。忘れてしまっているのでしょう。それくらい文章など書いたことがない男なのです。
私が21、2歳の時、ひょんなことで外資系の会社に就職、以来外資系五社をわたり歩いてほぼ40年です。色々な仕事につきましたが、営業畑が多かった。営業報告書、出張報告書、取引先と重要な会議をやればその議事録など、いわゆるビジネスレポートを書く必要があります。外資系のためそれらビジネスレポートは全部英文で書くことが当時絶対条件でした。
従って日本文を書くどころか何十年間にわたって英文のレポートばかり出していたから、漢字の綴りを忘れるのがはげしくて悩んでいたくらいです。なにしろ漢字を書くのは、年末の年賀状書きだけぐらいという状態でした。現在のようにパソコンでもあれば日本語の文章をネット上にちょくちょく書くという経験もするでしょう。しかし私の若い時代にはパソコンなんかありません、本当に仕事で日本語の文章を書く機会がなかった。新聞や雑誌へ投書もしたことがありません。
西尾幹二先生にこのことを話すと、「若い時から沢山書いていたから、文章が上手に書けるようになった人もいるし、若い時いくら沢山書いても上手にならない人もいる。全然書いたこと無くても書き出したらすばらしい文章を書く人いる。文章力というのはそういうものだ」
沢山読書しているからと言って立派な文章が書けるわけでもないことから言っても、立派な文章を書くにはなにか得体のしれない感性が必要なのかもしれません。私自身は、自分には文才などなにもないと思っていたし、またそれだからこそ新聞や雑誌に投稿しようとする意志すらなかったのでしょう。
そういう私がなぜ定年後に書き出したか。その理由は私の怒りです。社会的怒りとか社会的義憤と言ってもいいかもしれません。私は怒りを人一倍感じる方です。だから正義感が人一倍強い。若い時は、目の前で不埒なことをしていると黙って見ていられない。そのためたまに外で他人とケンカ腰になります。私は腕には自信がありません。しかし足が速いのが自慢です。いざけんかとなったら先に男の急所を蹴り上げて逃げる。これを絶えず頭にぶちこんでいれば、自然と体が反応して相手の急所を先に蹴り上げるはずだ。そう自分にいいきかせていました。だから不埒な男に文句を言う時は、「先に急所を蹴り上げる」を自分の頭に呼び起こしておいて、相手を脅かすために、いきなり相手を威圧する言葉を切り出していました。幸い大喧嘩になることはありませんでした。
私は定年間際になにに怒りを感じて本を書き出したか。それは「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の前書きにも書きましたが、定年間際、定年後は何をしようかと考えあぐねている時に、当時東京教育大学名誉教授、家永三郎が書いた「太平洋戦争」を読んだからです。家永はこのころかなりの有名人になっていました。長年にわたって文部省と裁判沙汰を起こし、「教科書裁判」と呼ばれていました。長期にわたって裁判争いできたのは、日教組の資金援助があったからです。朝日新聞は家永を権力に挑戦する英雄のように扱っていました。
家永の「太平洋戦争」を読んで驚愕しました。これが日本で著名な歴史家が書いた大東亜戦争か。戦争するには相手国が必要だ。その国との外交的関わりがあります。それにもかかわらず徹底した日本批判です。家永が戦前は、自虐史観とは全く別の皇国史観を生徒に教えていたのです。家永の教科書の弱点や人間性の欠陥は、秦郁彦氏の著「現代史の争点」で指摘されています。家永は日本の歴史家の中でも外国で最も知られている歴史家です。彼の「太平洋戦争」が英語に翻訳されているし、文部省相手に長年裁判で戦っていることが海外にも伝わっているからです。家永は、ノーベル平和賞の候補の一人に推薦されていました。
家永は、勝利国の人たちを満足させる太平洋戦争史観を書いただけなのです。こんな歴史家を英雄のように扱ってたまるかという怒りがわいたのです。一介の定年サラリーマンが家永のような著名な歴史家の歴史観に挑戦するのも悪くないだろうと考えて書き出したのです。その時期私は自分史「ある凡人の自叙伝」を自費出版していました。それだからと言って自分に文才などあるなどとは思っていませんでした。内容は自分の思い出を書くだけだし、第一自分史を書いた人などくさるほどいるからです。
自分の大東亜戦争史を書き出して、自分には手におえないものとわかれば書くのを辞めればいいだけです。確かに書いている途中、自分の能力以上のものに手をだしているのではないかと思ったこともありました。また途中自律神経失調症にもなりました。夜中に二度、三度とパジャマがびっしょりなるくらい寝汗を書くのです。心配になって病院で色々検査しても異常なし。医者がなにかストレスがかかっているものないかと聞くから、本を書いていますと答えました。多少ゆきづまっている箇所もある、それがストレスになっているかもしれないとも言いました。医者はそれだ。ストレスが原因だと言いました。ストレスとわかったらあっさり直ってしまいました。結局、本完成までに6年かかりました。
本のタイトルは、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」と決めました。出版して一年ぐらい経った頃には、一面識もない人から手紙や葉書で絶賛、友人や知人からの絶賛もありました。改めて自分で自分の大作の本を眺め、「よくこんな大作が書けたものだと」自分でびっくりしていると同時に「俺にも文才が少しはあるのだ」と初めて自分の文才というものを意識しました。それから立て続けに二冊の本を出版しました。ここで初めて、私の文才がすばらしいものか、あるいはたいしたものではないかもしれないが、とにかく私には文才があると認識したのです。
ところが先週のブログに書いた坦々塾の会合の時、西尾幹二先生は私にこう言ったのです。
「あなたのこれまでの本は、他人の書いた本や史料を読み漁ってまとめたものでしょう。これから自分の世界を書きなさい。ノンフイクションでもなんでもいいから自分の世界を書きなさい。そうすれば、あなたの筆力にはすばらしいものがあるから、すぐに何か賞が取れますよ。なにか賞一つでもとれば文筆業もやりやすくなりますよ」
西尾先生は子どもの時から日記を書いています。そして大変な数の著作があります。その西尾先生が、「あなたの筆力はすばらし、あなたの世界を書きなさい」と言ってくださるのだ。ふりかえれば私は自分にはなにも才能などというものはない、ただ「負けてたまるか」というすさまじいばかりのハングリー精神だけを頼りに生きてきただけです。外資系五社渡り歩いたせいもあるのでしょう、私には愛社精神のつめの垢ほどもない、仕事など誇りに思ったこともなければ、生きがいに感じたこともありません。ただ与えられた仕事ができただけ、高給さえとれればそれでよかったのだ。ただただ家族を養う生活のための仕事だったのです。それが定年数年後になって初めて自分にも得意とする分野の仕事があったのだと悟ったのです。
私の同僚にはこういう例がありました。私が48歳の時、勤めていた外資系会社が希望退職を募った。私はそれに応じて退職した。私の同僚の女性、その時彼女は私より一回り下の36歳だった。彼女の仕事は、外人ボスの秘書。英文速記をとれるから英語には強かったし、仕事ぶりもすばらしかった。彼女は、しばらく子育てに専念すると言って希望退職に応じて退職した。その後40歳過ぎてから職探ししたが、自分の希望する仕事が見つからず、だからと言って就職しないわけにもいかず、こんな仕事でもできるだろうと思って就職した会社が保険会社。生命保険を売る仕事をしたのです。
生命保険のセールスが彼女に最適の仕事だったのだ。彼女もこんな仕事が自分に適しているなんて夢にも思わなかった、とにかく秘書だった時よりはるかにやりがいがあると言うのです。その後彼女は数年にして営業セールスレデイーの最高責任者になっていました。
彼女は秘書という仕事に満足していて、自分に適した仕事だと思っていたのです。ところが希望退職に応じて、転職したところ彼女は、秘書以上に生きがいのある仕事を見つけたのです。
私は定年後。自分に文才のあるのを発見したことになります。しかしよく考えてみると実に恐い話です。定年間際に家永三郎の書いた「太平洋戦争」を読まなかったら、私は本を書く決意をしたでしょうか、あるいはこの本をもっと若い時、例えば50歳ぐらいの時に読んでいたら、定年になったら書いてやろうと思ったでしょうか。たまたまタイミングよく定年後に何をしようか悩んでいた時に読んだからこそ本を書く気になったのだ。要するに私は、自分に文才があるのを気づかずに老いて死んでいく可能性も非常に高かったわけです。それだから恐い話だというのです。こう考えると昔のことを思いだしてしまいます。
私は若い時、女性にもてた。(年寄りの自慢話として理解してください)私の40歳前後は、仕事の延長で銀座、赤坂、六本木のクラブやスナックを出入りしていました。普段もてる男が、ホステスさんたちの常連客になったのです。そのもてぶりを想像してみてください。ある年バレンタインデイがやってくるとあちこちのホステスから義理チョコが沢山送られてきて会社の評判になったことがあった。チョコレートの包みをあけると彼女たちからの、短い手紙、長い手紙、きれいなメモ用紙に書いた簡潔だが意味深なメモ、こういう手紙類を読むのは楽しいものだ。すべて本音が書いてあると思うほどうぶではなかったが、なにしろ気分を害することなどなにも書いていないのだ、気分が悪くなるわけがない。
この頃私はどんなにホステスと仲良くなっても一線を越えてはならないと堅く決心していました。彼女たちと遊ぶと大変なお金がかかる事も知っていたし、自分は貧乏人の出だ、さいわい貯金も少しできてきた。高給もとっていた。しかしここでお金を浪費しては、いままでの苦労が水の泡になる。この頃の私の自己管理能力は抜群でした。私があまり酒を飲めなかったのも幸いした。酒が原因の失敗談がなかった。「据え膳食わぬは男の恥」というが、恥をしのんで逃げ出したこともあった。あの時私が自分用の特別の彼女を作って遊んでいたらいまの生活はない。定年前に借金をすべて返済できず、定年になっても働く先をみつけねばなりません。自費出版どころか執筆活動もできず、私は自分に文才のあることも知らずに年老いて死んでいったかもしれないのだ。人生とはわからないものだ。
西尾先生が語ってくれた「あなたの世界を書きなさい、あなたの筆力にはすばらしいものがある」、この言葉は本当にうれしいかぎりです。71歳にしてまだ夢が描け、それにむけて邁進できるのだ。いずれそのうちに書くテーマを決め私の世界を書こう。「俺はやってやる」
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坦々塾での講演

保守言論界の大御所ともいうべき西尾幹二氏が主宰する会に坦々塾という勉強会があります。この会には錚錚たるメンバーが多く、現在大活躍されている評論家、宮崎正弘氏、「新しい歴史教科書を作る会」副会長で高知大学名誉教授の福地惇氏を初め現役の大学教授や元大学教授、元大使や、元自衛官幹部など高級官僚、すばらしい経歴を持つ現役者や定年退職者、若い人では現役の大学院生など非常に幅ひろい分野の人々がこの坦々塾を構成しています。私はこの会の文字通り末席を汚しております。坦々塾の勉強会は、三ヶ月ごとに開かれ、先々週の土曜日(6月6日)に第14回の坦々塾の勉強会が開かれました。
その日私は、塾長の西尾幹二先生、ゲスト講演者の石平先生に混じって講演をいたしました。三人合計の講演時間4時間半。勿論講演の前座は私が勤めました。私の演題は、私が昨年三月に出版した「逆境に生きた日本人」です。坦々塾が開かれる前に会の事務局から西尾先生の手紙がメールで各会員に転送されてきます。その手紙の中で「逆境に生きた日本人」について西尾先生は、こう書いてくれました。
「坦々塾のメンバーのお一人である鈴木敏明氏の「逆境に生きた日本人」は大変な力作で、かねて感服して拝読してきました。日本人の社会集団特有の政治権力に対する弱さ、曖昧さ、卑怯な自己変更がテーマです。
鈴木氏は日本の戦後の屈服、アメリカにおける日本人強制収容所の二世のアイデンティーの危機、シベリア捕虜強制収容所内の日本人の自我の弱さからくる悲喜劇、そしていわゆる「自虐史観」は日本民族の資質が生んだ生得の欠陥である所以を説いておられます。
鈴木氏の労作は日本人が見たくない苦い真実を次々と暴いていきます。もういい、これ以上知りたくないと思うくらいリアルな心の現実を見せつけてくれます。日本人というものをどう考えたらよいかという哲学的な反省をわれわれに迫る書です。今回はこの本のテーマに触れ私も思うところを語ってみたいと考えています。
加えてもとよりのこと、鈴木氏ご自身にも同主題について一席のご講和を寄せていただきたいと願っております。」
私の講演後、西尾先生が私の講演内容を引き継ぐ形で、演題「複眼の必要――日本人への絶望に踏まえて」を基に講演、最後に当日のゲスト講演者は、石平先生が演題「中国の崩壊と日本の備え」を基に講演をいたしました。三者の講演の概略に関しては、坦々塾の名の下にブログを開きますと、会員参加者の感想文が記載されておりますので、それを参照していただければと思っております。
講演会後は懇親会、懇親会後は二次会でカラオケでした。西尾先生の歌の特徴は、高音です。年寄りなら誰でも知っている「イヨマンテの夜」を声量たっぷり歌いこんでいました。先生は私より三歳上の先輩です。年をとると声量が弱くなるのですが、あの声量を聞くとまだまだ西尾先生は元気です。石平先生もジェスチャーたっぷりの歌いぶり、歌好きであることは間違いない。
この坦々塾のメンバーは、全員で60名ぐらいです。この会の特徴は、会員の紹介で会員になった人はほとんどいません。西尾先生がなんらかの関係で自ら引っ張ってきて会員にさせているからです。皆さんそれを光栄に思って入会してくるだけに熱心な西尾幹二ファンであり熱心な西尾幹二支持者です。私が坦々塾に入会するきっかけになったのが、私の大作、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の縁です。
私はこの大作を自費出版したのは5年前の平成16年7月でした。驚いたことに出版3ヶ月後の10月に千葉県のある保守の団体が私に講演依頼してきたのです。その他いままで一面識もない方からの手紙や葉書の投稿をいただきました。皆さん絶賛してくれたのです。初めて私は自分の本の内容に自信を持ちました。それ以来本の宣伝のために西村慎吾氏のような政治家や著名な知識人には機会がある度に贈呈してきました。
西尾先生は、「新しい歴史教科書を作る会」の創立者の一人であり会長でした。私が「新しい歴史教科書を作る会」に入会した時には、西尾先生は会長職を退かれていました。私は「作る会」の総会に出席しました。総会後に懇親会が開かれます。西尾先生が参加されているのを知りました。なんとか名刺交換してから本を贈呈したいと思っていました。しかし西尾先生は保守言論界では超有名人、いつも誰かと話していて話かけるチャンスがありませんでした。次の年にも総会に出席し、西尾先生のお顔を見ることができましたが、話しかけるチャンスがありませんでした。
一方この本の出版社、碧天社が平成18年3月に破産してしまいました。在庫400冊あまり自分で引き取りました。それでも機会あるごとに知識人にこの本を贈呈してきました。
例えば、講演を聴きに行き、講演後名刺を交換、後で本を郵送したりしていました。
一昨年の「新しい歴史教科書を作る会」の総会にも私は参加しました。総会に連続参加して三回目だったと思います。この時も西尾先生は懇親会に参加していました。立食パーティーの宴もたけなわの頃、料理が並べてあるテーブルには誰もいません。そこへ西尾先生が料理を取りに一人でのこのこ近づいて行くのを見た私は、この時とばかり挨拶を交わしました。「私は西尾先生の読書ファンで先生の本を沢山読んでいます。自分かってに先生は私の師であると思っています。実は、私はこういう本を書いたのです」と言って名刺を見せました。すると先生は自分の名刺を取り出して、「それでは私の所へ郵送してください」と言ってくれたのです。
それから三ヶ月ぐらい経っていたと思います。西尾先生から電話があったのです。西尾先生に自分の本を贈呈したのをほとんど忘れかけていましたから私はほんとうにびっくりしました。「あなたはすばらしい本を書かれましたね。あなたは、私の読んでない本まで読んでおられるので私は勉強させてもらっています。」先生が発したこの最初の言葉だけははっきり覚えています。私はどう返事したのかまったく覚えていません。電話の最後の方で「実は私は坦々塾という勉強会を開いているが、よかったら参加しませんか」という話があり、喜んで受けさせていただいたわけです。
電話が終わった後、私は「やったー」と叫びました。私は沢山の著名人に本を贈呈してきました。代議士の西村慎悟氏のように葉書で礼状をくれた方はまだいい方です。ほとんどの人がうんともすんとも音沙汰なしです。西尾先生だけが、私の大作を読み、評価してくれたのです。その上私が先生に直接言ったように、先生の本の愛読者であり、大学教育を受けていない私には、先生は私の師である思っていましたから、その先生からの評価ですから、喜びが二重になったのは理解していただけるかと思います。なぜ「我が師」なのか、その理由は、先生の本の話しになり長くなるのでここでは省かせていただきます。
西尾先生の若い頃を少し紹介しましょう。先生は東大時代、大江健三郎と同級生です。先生は東大文学部の独文科、大江は東大文学部の仏文科、二人とも大変な秀才だったと聞いています。私の年代で若い時の最大ニュースは、昭和35年(1960)の日米安保条約改定の大反対運動でしょう。大学生、大学の先生、労働組合、日教組、マスコミなどが反米親ソの左翼の集団と化した。30万人のデモが国会議事堂周辺に集まったのだ。私はその時22歳で働いていました。先生は25歳、東大大学院を卒業しているかいないかの頃でしょう。
現在、保守の論陣を張る知識人の多くは、この時左翼化していたり、デモに積極的に参加していた人は多いい。名著「ローマ人の物語」を書いた塩野七生。彼女はなにがなんだかよくわからなかったけど夢中になってデモに参加していたと言う。彼女の正直な気持ちでしょう。学生たちは、よく理解もできずに、ムードに乗って参加していたのではないでしょうか。
西部すすむ(漢字変換ならず)氏は、悪名高き全学連の執行役員でした。新しい歴史教科書を作る会の会長、藤岡信勝は共産党員だった。
この時期、西尾先生が属する東大自身が左翼の巣靴となり、学生も先生たちも西尾先生の同僚も左翼化、その中で保守の孤高を貫くのは大変だったと思います。皆に軽蔑されたり、からかわれたりいやな目にあっているでしょう。西尾先生は最後まで保守の孤高をつらぬき、左翼の考えや行動を批判してきた。
昨年の坦々塾の会合の時、先生は、先生が29歳の時、ある雑誌に載せて新人賞を受賞した論文のコピーを会員一人ひとりにくばりました。論文のタイトルは、「私の『戦後』観」。現在私が読んでも納得のいく論文内容です。しかし先生は言った、「私はこの論文で東大文学部教授への道を棒に振った」。東大と先生では歴史観が違うのです。
上記の二つの件でわかるように西尾先生は、時流や時勢に媚びず、権威にも媚びず自分の信念を押し通す人だと理解できるでしょう。実はこういうタイプの知識人は、日本では非常に少ない。それどころか日本の知識人は、自ら率先して時勢、時流、権威、権力に媚びるのです。(私のブログ記事「日本の知識人は、バカやアホが多いい」を参照)
実は私はしがない一定年サラリーマンですが、私も信念を貫いて生きてきたと自負していますので西尾先生とは共通したところがあると自分では思っています。
最後にいままで私は自分のブログに私の著書を、(著書と言ってもわずか四冊ですが)宣伝したことありません。そこで本日は私の著書の宣伝をさせていただきます。
1.「ある凡人の自叙伝」 自費出版図書館編集室 平成11年出版
私は定年サラリーマンでも非常に波乱万丈の人生をおくってきました。功成りとげた定年サラリーマンの自分史は、自慢話が多くてまったくおもしろくありません。私の赤裸々な波乱万丈の人生の話なら面白いだろうと書いて見ました。定年直前の私は、窓際族みたいなもの、定年前から会社内のパソコンを利用して書いていました。平成11年の8月末に定年になりましたが、その年の12月には出版していました。100部の限定出版。友人、知人、身内に配りました。大好評でした。
出版から8年後の平成19年に出版社、飛鳥新社から電話がかかってきました。飛鳥新社で出版している中高年男性用の月刊誌、「dankai パンチ」12月号(週刊誌サイズ)に特集で「自分史の書き方」を出す。参考に自分史三冊をとりあげて記事にする。その一冊に私の「ある凡人の自叙伝」が選ばれた。だから出版社に来てインタビュイーと写真を撮らせてくれとの要求でした。
「ある凡人の自叙伝」は自費出版図書館編集室から出版されています。館長の伊藤氏は、自費出版図書館を経営し、その図書館には全国で自費出版された本、二万冊の蔵書があります。その伊藤氏が出版社、飛鳥新社に面白そうな本を数冊推薦したそうです。その中の一冊に私の「ある凡人の自叙伝」が含まれていたのです。私はなんとか90歳まで生きて、定年後の30年間の生き様を加えて「ある凡人の自叙伝」を完結するつもりでいます。
2.「大東亜戦争は、アメリカが悪い」  碧天社  平成16年出版
私の定年後の人生の進路を決定づけた本になりました。大型サイズA5版 735頁の大作です。碧天社と自費出版契約を結びました。契約の要点は次の三つです。
(1) 初版千部出版、その出版費用250万円、著者全額負担。
(2) 初版千部以上、5万部売れようが100万部売れようが出版費用はすべて出版社負担。
(3) 印税は定価の8パーセント。本代は一冊1500円。
本屋の店頭に置いてもらうため私は、東京、神奈川の首都圏の大型書店に飛び込みセールを始ました。この本、予想外に売れました。初版千部半年で売り切れ、次の千部も半年で売り切れ、三版目の千部を出版後まもなく破産。在庫400部あまり全部私が引き取りました。現在横浜の有隣堂と著者との直接販売(直版取引)をしております。
3.「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」  展転社  平成18年出版
アメリカ政府の原爆投下正当化は、史実に基づかない全くのうそ。国益を守り抜くためにアメリカ政府は徹底してうそを押し通してきます。一方「従軍慰安婦」事件は史実ではありません。ところが日本政府は、韓国との外交交渉で一時的妥結をはかるために「従軍慰安婦」事件を公認し、謝罪し、お金まで払うバカバカしさ。日本政府自ら国家の名誉と誇りを平然と傷つけた。所謂、河野談話の責任者の河野洋平は、衆議院議員議長に栄転。日本国民全体が怒りを示さないこの異常さ。日本という国の末期現象の一つです。本代は、2000円です。
4.「逆境に生きた日本人」  展転社  平成20年出版
私は大東亜戦争を徹底的に調べ上げて「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を6年間かけて書きました。それだけになぜ自虐史観がいまだに主流なのか全く腑に落ちません。アメリカ占領軍が日本に駐留していた七年あまりはしょうがないとしても、独立を回復してもう半世紀以上経っているのです。それでも自虐史観が主流ということは、日本民族の資質に関係があるのではないかと考え調査しました。その結果、自虐史観とは、日本民族の資質が生んだ歴史観という結論に達したのです。本の帯には西尾先生の推薦文を印刷して売っております。本代は2000円です。
「逆境に生きた日本人」と「原爆正当化のアメリカと『従軍慰安婦』謝罪の日本」は、本屋さんに置いてなくても本屋さんに注文していただければ全国どこの本屋さんでも手にはいります。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」は、まだ在庫がありますので、住所を教えていただければ実費1500円郵送代込で送ります。本到着後指定の銀行に1500円をお振込みください。
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秀吉の描いた大帝国

信長の死後(1582年)、秀吉が後を継ぐのですが、欧米人には、この秀吉の名前も覚えてもらいたいものです。なにしろこの秀吉は、当時の超大国、スペインのフィリップ二世に堂々と挑発をしかけているからです。 秀吉は水のみ百姓の子として生まれ、剣術などなにひとつ知らない彼が戦いにあけくれて天下をとったのですから、日本史上最高の出世頭と言えるでしょう。この秀吉はスペインのフィリップ二世と同世代なのです。
欧米人は西洋史にくわしいはずですから、一般の人でもスペインのフィリップ二世の名前は知っていると思います。なにしろフィリップ二世は、スペインが動けば、世界が震えるといわれたスペイン全盛期の王であり、レパントの海戦でオスマントルコを破って地中海を制覇した王であり、その全盛期のスペインの誇る無敵艦隊がイギリス海軍に負けた時の王であり、さらに悪名高いスペインの宗教裁判の主役を演じた人だからです。
フィリップ二世の玉座の前には壮麗な火刑場をしつらえ、廷臣、騎士、枢機卿、美しい宮廷社交界の貴婦人たちの臨席する場で、セヴィリア全市のおびただしい数にのぼる住民の前で、神の栄光の名において、そのつど百人もの異端者たちが一度に焼き殺されるというケースがあったくらいです。
そのフィリップ二世が在世中東洋の日本に豊臣秀吉という男が存在していたことなど一般の欧米人は知らないでしょう。ましてやその秀吉が、日本国内のキリシタンを大弾圧したことも、またフィリップ二世に当時スペインの植民地、フィリピンを、秀吉に武力で征服される前に日本にゆずりわたせと脅しの手紙を書いていたなど知るよしもないのではないでしょうか。
秀吉の行動で今でもなぞと言われているのが彼の晩年の行動、すなわち明(中国)征服の企てです。秀吉の軍隊は、天下統一まで続いた国内の戦争で疲れきっていたことは確かです。それなのになぜ急いで秀吉は明を征服しようとしたのでしょうか。 秀吉は誇大妄想狂になってしまった、彼の個人的征服欲、秀吉本人をカリスマ的人間と思わせるためのカリスマ的演出、彼の部下の領土的要求を満たすためとか色々言われています。その理由はなぞでした。 しかし最近になって当時日本に滞在していた宣教師たちの本国への報告が明かになり、秀吉の明征服行動要因をかなり具体的に推測できるようになったのです。
秀吉が活躍していた時代、東アジアや日本に滞在していたスペインやポルトガルの宣教師たちは、明(中国)をキリスト教国にするためには武力を使うのをためらうなと、彼らは何度も本国に提言していたのです。 彼らはまた明征服はスペインが中南米で征服したアステカ王国やインカ王国と同様に容易だと繰り返しています。 宣教師たちは、明の武力征服にあたって、日本と同盟するのが有利だとして、具体的に協力すべき武将として小西行長の名前をあげているのです。また秀吉への言及もあり、秀吉が日本平定後、中国を征服する際には、ポルトガル船(この時期スペイン王はポルトガル王を兼ねていた)を提供して支援すべきだと書かれているのです。
インドのゴアにいたイェズス会の巡察使、アレッサンドロ・バリニャーノは、1582年12月フィリピン総督(当時フィリピンはスペインの植民地)へ次のような手紙を送っています。
「尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象として不向きである。なぜなら、日本は私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故、求めるべき物は何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練をつんでいるので、征服が可能でないからである。
しかしながら明において陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるであろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある」
この文で陛下が行いたいと思っているというのは、明征服のことです。
もう一つ例をあげましょう。日本のキリシタン大名が四人の少年使節をローマに派遣しましたが、その少年使節がローマから日本に帰るとき一緒に来日したのが司祭ペドロ・デ・ラ・クルスです。 そのデ・ラ・クルスは「明征服の企ては、ポルトガルとスペインに日本が連合してこそ成就できる」と言う意味のことを何度も言っているのです。
このようにポルトガル、スペインの宣教師たちが本国に明を征服するように説得していること、そのためには日本と組むのが良いということを本国に伝えているいのを、秀吉は宣教師を通して知っていたと思われます。知っていたからこそ1586年に秀吉は日本イェズス会副管区長、ガスパル・コエリュに次のような要求をつきつけたのでしょう。
コエリュの報告によると、秀吉の発言内容は次のとおりです。
「下賎より身を起こして最高の地位に到達したのであるゆえ、その権威あるいは名を後世に残す以外には、もはや諸国をとろうとも、あくほど持っている金銀をさらにふやそうとも思うてはいない。
日本の国内を無事安穏に治めたいと考えている。そして国内を鎮定したうえは、これを弟の秀長にゆずって、私自身は朝鮮と明との征服にもっぱら心をもちいるつもりであり、従ってその用意に大軍を渡海せしめる二千艘の軍船を造るための木材を伐採させている。
宣教師らにたいしては、そのために、じゅうぶん艤装した欧船二艘を依頼いたしたく、船の代価はもちろん、必要品のすべてに対して望みどおり支払いをなすはずである。ついてはまた、練達なる航海士の供給もうけたく、これに禄をあたえ、報酬金を交付するつもりである」
ところが翌年、1587年、当時九州征伐で博多に滞在していた秀吉はコエリュに会ったのですが、彼の要求がなんら具体化されていないことを知ったのです。これには秀吉は激怒したと思われます。なぜならその年のうちに宣教師たちにとっては、全くの寝耳に水のキリシタン禁止令が発令され、宣教師たちは国外退去を命じられたからです。
ところで何故コエリュは、秀吉の要求に応えなかったのでしょうか。秀吉の要求に応えてしまうと、明征服が日本主導のもとで行われてしまうからでしょう。スペインは日本の協力を仰いでもスペイン主導のもとで征服したかったのでしょう、あるいはスペイン単独の明征服計画が煮詰まっていたのかもしれません。
一方秀吉は、スペイン単独で明を征服されてしまうと、日本はスペインの脅威にさらされてしまうと考えたのでしょう。その考えは当然すぎるほど当然です。当時は情報の少ない時代です。海外情報を一番よく知っている人間は、秀吉だけです。そこで秀吉は日本単独で明征服をする決心をし、ついでに宣教師の力を借りようとしたのでしょう。
ところが宣教師の力を借りれないと知った秀吉は激怒したのです。もともと気にいらなかったキリシタンを弾圧、宣教師を国外追放、彼は文字通り単独で明を征服しようとしたのです。 秀吉はその年のうちに明征服の通り道になる朝鮮との外交を開始し、朝鮮国王の来日を要求する強圧外交にでました。翌年の1588年には、秀吉は琉球に入貢を促し日本に服属することを要求しています。
さらに1591年には秀吉は次のような書状をフィリピン総督に送っています。
「わが国は百余年にわたって群雄が争っていたが、予が生まれたときから、これをことごとく統一すべき使命を与えられ、ついに十年余りでこれを成就した。いま、さらに明にたいして征討の軍を送らんとしているから、即刻降伏せよ、さもなければ征服してしまう」
朝鮮との外交交渉がなかなか合意に達せず、いわゆる「仮途入明」(かとにゅうみん)といって明に入るために朝鮮の道を借りたいとの要求も朝鮮側の拒否にあい、ついに1592年3月朝鮮との戦争が始まりました。秀吉の軍勢は合計15万8千7百人の大軍です。緒戦の大勝利に気をよくした秀吉は、秀吉の甥でのちに養子になる秀次に次のような書状を送っています。
「大唐の都北京(ぺきん)に後陽成天皇(ごようぜい)を移す。明後年には天皇の居をお移しし、都の周辺の国々十か国を進上する。そして秀次を大唐国の関白として据え、都周辺の百カ国を渡す。日本国内の天皇には、皇太子良仁(よしひと)親王か弟帝の智仁(ともひと)親王かのいずれかどちらでもよい。日本の関白には、豊臣秀保か宇喜多秀家をおき、九州は羽柴秀俊。そして秀吉自ら北京に入り、その後寧波(にんぽう)に居をさだめる。そこから諸侯各位、予が命令せずともインドを好き勝手に切り取らせるようにする」
翌年の1593年には、台湾に入貢をうながし服属を要求しています。 1594年には秀吉はさらなる脅しの手紙をフィリピン総督に送り届けています。その手紙の内容は、
「予が誕生の時、太陽が予の胸に(光)を与えたが、これは奇跡であり、これによって予が東西にわたって君主となるべき人物であり、諸国ことごとく予に服し、予の門に来たって屈服すべきであることが判る。 これを為さぬ者は戦いによってことごとく殺戮するであろう。 予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラを攻略に行く許可を求めている。これを知って原田(喜右衛門)と(長谷川) 法眼は予に『彼我の地の間には緒船の往来があり、それによって(マニラ)が敵であると思えない』と言った。
この道理によって予は(マニラ)へ軍勢を派遣することを思い留まったのである。朝鮮の人々に対してその言葉を守らなかったので戦を始め、 その首都まで獲得し、その後予の部下は彼らの救援に明(中国)からきた無数の明人や数多の貴人を殺害した。(中略)彼らはかの地において(明からの)使節を待っている。もし彼ら(明人)がその言葉を守らねば、彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。こうして明に至ればフィリピンがすぐ近く予の指下にある。 予は我ら(日本とフィリピン)が永久に交友を保つことを希望する。これをカスティリア王に書きおくられよ。遠隔の地を理由にカスティリア国王が予の言葉を軽んずることがないようにせよ」
カスティリア王とは、スペイン王フィリップ二世のことです。この時期 秀吉は、日本、朝鮮、中国、琉球、台湾、フィリピン、インドを含む大帝国の支配者になろうと考えていたのではないでしょうか。 それでは実際の戦場である朝鮮の戦いはどうなったかと言えば、確かに緒戦は大勝利でしたが、その後は朝鮮民族の激しい抵抗、朝鮮水軍の活躍、明軍の支援、朝鮮国内の大飢饉などで、秀吉軍の進撃がおもうようにはかどらなくなってしまったのです。
和平交渉が始まるとほとんど休戦状態になってしまいました。長い和平交渉は決裂し、1597年に秀吉は朝鮮の再征を決めた。その再征も失敗、1598年に秀吉の死を秘して朝鮮から撤兵した。 秀吉は国内平定前に明征服をコエリュにうちあけているのですが、国内をほぼ平定後すぐに朝鮮出兵を命じているのです。なぜそれほど急ぐ必要があったのかなぞなのですが、考えられる理由は二つあります。
一つは、秀吉が明征服のため二艘の船と熟練の船員の手配をコエリュに要求したのに、事実上拒否された形になっています。その時秀吉は、ひょっとしてスペインが単独で明を征服するつもりではないのかと考えたのではないでしょうか。それなら先に日本が征服してしまわなければという理屈になります。
二つ目は、再征出兵後の翌年秀吉は、あっけなく死んでいるので、秀吉は自分の体力の急激な衰え、あるいは病気で、自分はもう長く生きられないと悟ったのではないでしょうか。こういう時はえてして人は、結論を急ぎたがるものです。あるいはこの二つの理由が一緒になっていたかもしれません。
もし息子の秀頼が、もっと早く生まれていて、一人前の武将になっておれば、後は秀頼に後事を託す心の余裕も生まれていたことでしょう。 日本国内の秀吉の脅しの手紙は、効き目があったと思います。それが外国にも通じると思って脅しの手紙を連発する秀吉のおそまつな外交は、現代の日本人は笑うことはできません。
秀吉の明征服に関して私は、近所の図書館でわざわざ四種類の歴史書を読みました。それはある予想をしていたからです。大東亜戦争日本悪玉論が主流をなす現在、なにかといえば戦前の日本を批判する時勢です。 明を征服しようとして朝鮮征伐までした秀吉は、恐らく徹底して批判されているのではないかと想像したからです。
想像どおり四種類の本とも秀吉をはげしく批判していました。明征服については、誇大妄想だの、ひょっとして秀吉は気が狂ったのではないかと書いてあるのもありました。私はあらためて時勢、時流に盲従する歴史学者を見た思いでした。 秀吉批判もけっこうですけど、世界情勢の中での秀吉をなぜ見ようとしないのでしょうか。秀吉の時代は、スペインが動けば、世界が震えると言われたスペイン帝国が存在していました。
南ヨーロッパを支配し、イスラム勢力を駆逐し、中南米大陸を征服し、フィリピンのマニラを根拠地としてアジア全体の支配を狙っていたスペインに対して異を唱えることができたのはヨーロッパを除いて秀吉のいた日本だけです。宣教師たちも日本を征服できない国とか、明を征服する時は日本の協力が必要とか言って日本という国の存在感を認めているのです。
秀吉はスペインに自分の意思をはっきり見せ付けたのがキリシタン禁止令であり、六人の外国人宣教師を含む26人のキリシタンの処刑です。 これに対してスペインは報復できなかったのです。国内平定後秀吉は、スペインの向こうを張って東アジアに大帝国を築こうとして明征服を実行にうつしたのです。
秀吉のフィリピンを日本によこせという脅しの手紙の効果のほどはわかりませんが、少なくとも日本にいる宣教師たちは秀吉の動性を不安げに見ていたことは確かです。
処刑のため長崎に護送される途中、フランシスコ会の宣教師マルチン・デ・ラ・アッセンシオンは1597年一月にマニラ総督にあてて 「この国王はサン・フェリペ号から没収した貨物によっていっそうの欲望をつのらせた。うわさによれば、彼は元来は朝鮮との事件に忙殺されていて、いまは企てないが、来年はマニラにおもむくとのことである。 この目的を達するため、彼は琉球列島および台湾島の占領を計画し、同島をへて軍隊をカガヤンに送り、さらにマニラに殺到する由である」と報じています。
処刑される寸前までマニラのことを心配して情報を送っているのです。秀吉の軍隊を強敵とみている証拠でしょう。結局秀吉の計画は失敗に終わりました。失敗したからといって秀吉を批判するにはおよびません。 現職の天皇の住居を中国の北京に移し、自分は上海のすぐ南にある寧波 (にんぽう、当時日中貿易の拠点)に居をかまえようと計画した時、秀吉の頭には、ジンギス・ハーンやフビライ・ハーンの大帝国や、当時の大帝国スペインが描かれていたはずです。
隣国の領土だろうが、遠い国の領土だろうが、切り取り自由の時代に日本の外に飛び出して世界的な大帝国を築こうと計画し、実行に移したのは、日本史上秀吉しかおりません。貧農の出と言われる秀吉が、一生の間に日本国内平定だけでなく、世界的大帝国を築こうとしたのです。
まさしく秀吉は我々日本人が誇るべき英雄の一人なのです。
ナポレオンに対してどんなに近隣諸国から文句が出ようがナポレオンは、フランス人の誇る英雄です。近隣諸国を蹂躙して大帝国を築いたジンギス・ハーンはモンゴル人の誇る英雄です。 ところがどうですか、日本の歴史学者は、秀吉の時代まで現在の価値観で秀吉を裁き、批判しているしまつです。皆さんはどちらの歴史観を支持するのでしょうか。
このブログをひょっとして韓国人が読んでいるかもしれません。私は、韓国人にはっきり主張しておきます。韓国人が秀吉のことを何と言おうと、秀吉は日本の英雄です。 秀吉が元気でもっと長生きして朝鮮や明を征服してくれたら良かったのにと思っています。
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横浜サイエンス フロンティア高等学校

私の住む横浜市に市立の理数科を専門に教える高等学校が新設され今年4月に開校した。新しく建設されたすばらしい校舎に、最新鋭の実験設備を豊富に揃え、先生方もノーベル賞受賞者も含め現在日本で活躍されている一流の学者、技術者が直接生徒たちを教えます。生徒たちを「先端科学技術の知識を活用して世界で幅広く活躍する人間」の育成を目指すとしています。簡単に言えば、理数科を得意としている子どもたちを、高校生のうちから理数専門教育を受けさせ、その才能を伸ばそうとするのが目的です。私はこのようにエリートを養成する学校創設には諸手をあげて賛成します。
しかし以下に述べる三点については、この学校だけの問題ではなく広く社会一般に通じる問題点でもあります。
1.横浜サイエンス フロンティア高等学校、恐らく教育委員会が学校の名前をつけたのでしょうが、この学校の名前のつけかたは一体なんですか、全く気に入りません。私にいわせれば実にけったいな学校名です。完全に現在大はやりの、立派な日本語がありながら、わざわざ英語に言い換えて使用する傾向を典型的に示しています。なぜ横浜理数専門高等学校、あるいは横浜理数専門学校ではいけないのでしょうか。第一サイエンス フロンティアで理数課を専門に教えるという意味にとれるでしょうか。
現在の日本国民のほとんどが、意識的にせよ、無意識にせよ日本語は、ださいなもの、英語やヨーロッパ系語の方がかっこいいものと思っているのです。どんな言葉が今日常的に使われるようになっているか例をあげましょう。リベンジ、コラボレイション、パーフォーマンス、レシピ、コンプライアンス、アンチエイジング、ターミナルケア、コンシェルジェ、等等。これら全部立派な日本語があります。まだ探せばいくらでも出てくるでしょう。その他テレビの定時のニュースの時間では、七時のニュースとか九時のニュースとか言っていたのに今では、ニュースセブン、ニュースナインと言っています。
私は日本国民に聞きたい。あなた方は、自国の言葉である日本語を誇りに思うどころか、自国の日本語を呪っているのではないですか。私には呪っているとしか思えません。北海道のサッカーチームに「コンサドーレ」というチームがあります。このチーム名の由来は、最初は北海道のチームだから「道産子」を考えました。しかし日本語じゃまずいからさかさまにして「コンサド」それに「オーレ」をつけてスペイン語風を出したというのです。チーム名が「道産子」ないし「ドサンコ」でいいじゃないですか。ここには日本語へのこだわりもなければ、日本語をださいな言葉と考えていることがよくわかります。そのうえ日本人の悪いくせ。皆が外国語みたいなチーム名だから。他のチームが皆横文字だから、それだったら余計日本語を使ってみようという気にならないのですかと言いたい。
それでも「コンサドーレ」は、いままでになかった新しく生まれたものに対する命名だからわずかながらも情状酌量の余地があるような気がします。ところが「職業安定所」略して「職安」という立派な言葉がありながら、いまでは完全に「ハローワーク」という言葉が使われ、「職安」という言葉が全く聞かれなくなってしまった。恐らく役所がかってに「職業安定所」から「ハローワーク」に変えたのでしょう。それを国民は素直にしたがって「ハローワーク」を使い始めたのでしょう。日本国民の皆さん、あなたがたはバカか。一体「ハローワーク」がなにを意味するのですか。日本語へのこだわりはないのですか。だから私が最初に触れたように日本人は、日本語を呪っているというのです。そのうちにアメリカに滞在している日本人が、アメリカで職探ししようとして、「ハローワーク」はどこでしょうかとアメリカ人に聞くことになるでしょう。
明治時代には、当時日本にはなかった言葉が欧米諸国からどんどん入ってきました。明治政府の人たちは、それらに全部漢字をはてはめて日本語をつくりました。電信、電話、電報、経済、資本主義、共産主義、民主主義、革命、人権、化学などなど沢山の漢字を作りました。それらの漢字全部が、中国に逆輸出され現在でも中国で使用されています。ところが現在の日本は、どうですか。我々の先人たちが、せっかく「職業安定所」という立派な日本語をつくりながら、バカ丸出しの「ハローワーク」。この言葉に一体なんの意味がこめられているというのですか。便所がトイレになるよりたちが悪い。
横浜サイセンス フロンティア高等学校を命名した横浜市の教育委員会の皆さん、そんなに英語が使いたかったら、これから自分の女房を「ハイ、ハニー」と呼んだらどうですか。
2.教育問題に熱心に取り組んでおられる参議院議員、義家弘介氏は、この学校の開校式に出席し、その模様を次ぎのように語っています。
「競争率五倍以上の難関をくぐり抜けてきた優秀な生徒たちですから態度もよく、びしっと座っていたのですが、国家斉唱の際「君が代は・・・」に続く歌詞がわからないのです。もともと声がほとんど出ていなかったうえに、「千代に八千代に」のところでほとんど聞こえなくなってしまい、本当に悲しかったですね。世界的に活躍できる人材を生み出そうという目的で作った学校なのですが、これでは国歌も知らない日本人を育ててしまうことになりかねません。」
全く情けない話ではありませんか。
実は、私が所属する「日本世論の会、神奈川支部」では、毎年卒業時における国歌・国旗の実施状況調査をし、その結果を県教委、県議会、知事などに提出しています。今年も会員と協力者で小学校(46校)、中学校(38校)、高校(22校)の卒業式の国歌、国旗の実施状況を調査しました。年々改善されてきたのは確かです。しかし高校の卒業式になると実施状況が悪くなるので昨年あたりから高校に重点を置き始めました。
私は昨年、県立元石川高校の卒業式に出席した。壇上にピアノが置いてあるからピアノ伴奏で国歌を歌うのかと思ったら、国歌斉唱の時、一応全員起立した。それから君が代の歌入りのテープが流れ、生徒がそれに合わせて歌う式典でした。生徒たちは黙って聞いているか、テープにあわせて小さな声で口ごもっていました。直立不動の姿勢で大声をはりあげて歌う私の声が一際ひびきわたった。今年は、県立荏田高校の卒業式に出席した。この高校はピアノ伴奏で君が代を歌うことになっていました。しかし生徒たちは、義家参議院議員が言うように「君が代」の文句を知らないのです。この学校の卒業生320名、全員が歌えないのです。私や一部の人が大声あげて歌うものですから、我々の歌声の大きさが大変目立ちました。
神奈川県に関するかぎり公立学校の生徒は、高校卒業時でも国歌を歌える生徒はほとんどないのです。だから高校入学時、ほとんどの生徒が国歌を歌えないのも当然でしょう。国歌も歌えない、国に誇りを持たない、日本語にさえ誇りを持たない、そのうえ自虐史観を教え込まれている生徒にいくらエリート教育をほどこしたところで国家にはなんの役にも立ちません。
この新高校の校長、佐藤晴夫氏は、昭和44年の数学教師から神奈川県立の柏陽高校の校長になった経歴の持ち主です。要するに現場の教師をしていた時は、日章旗を掲げない、君が代は歌わないことにしていた時代なのです。その佐藤校長が、新高校の入学式の時には、日章旗を掲げ、君が代を歌わせたことは少し前進したことはたしかでしょう。しかし一昨年私は、横浜市立美し丘中学の卒業式を見学した時は、君が代の歌のテープが流れただけでした。少しずつ改善しているとはいえ、こと神奈川県の高校に関する限り、全校生徒全員が直立不動の姿勢のもとに大きな声で君が代斉唱できるまでにまだ時間がかかることはたしかです。
3.全館冷暖房付きのすばらしい校舎、最新の実験設備、現在各専門分野で活躍中の一流
の先生たち、このように恵まれた環境で勉強できるのですが、心配するのは生徒たちの精神面の教育はどうするのだろうかということです。私の年代の人たちは、若いとき国が貧乏だった、そのうえ私のように家が極貧状態だった家庭も多かった。そのために学校で特別に鍛えられなくても精神的に非常に鍛えられた。
しかし現在の若者は、恵まれて育ってきた。それだけに精神面に弱い面があります。若者の自殺や、秋葉原の通り魔事件などにみる刹那的暴力など精神面の弱さが目立ちます。めぐまれた環境の中でどうやって精神免を鍛えるか非常に重要な問題ではないでしょうか。ところがそんな討論がなされたことがないのではないでしょうか。
この選ばれたエリートの卵たちは、恵まれた環境だけで育てられるだけで、精神面を鍛えられることもなく卒業するなら、それまでに費やした時間とお金が浪費になる可能性が高い。プロのスポーツ選手になるとか、オリンピックに出る選手ならそれなりに精神的に鍛えられますが、一般学生は精神的に鍛えられることがない。どう精神的に鍛えるかが大変重要な問題なにの、教育者の間ですら考えようともしないのです。
大体現在の教育者自身がなんの苦労もなく勉強し、教師になる。教師になったら首になることがないから,実社会では精神的にタフであることの重要性など理解できないのです。国際社会で活躍できる人材の育成を目指していますが、その国際社会そのものが国内より激しい競争にさらされるのです。もし精神的に弱ければ、今まで学んできた力も発揮できずに終わってしまうのです。強い愛国心、強い精神、優秀な学業成績、この三つがそろっていてこそ、国際社会で、各国のエリートと対等に渡り合えるのです。学業成績優秀だけでは使い物になりません。
現在、高校卒まで義務教育になっているような状況です。この間、どうやって子どもたちの精神面を鍛えるかということが非常に重要な問題であることを一日も早く理解してもらいたいものです。
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