Archive for 11月, 2009

ペリーの白旗事件



アヘン戦争後の1844年(ぺりー来航の9年前)、オランダ政府は、国王ウィリアム二世から江戸の将軍あての親書をたずさえた海軍大佐を特使として日本に派遣してきた。国王の親書は、これまでオランダが日本との貿易を独占してきた背景もあって善意の手紙であった。その手紙はいまなぜ開国しなければならいか理由をあげ、そして開国を進める内容でした。国王の手紙に対する幕府の回答は、鎖国政策の変更なしというものでした。
1846年7月浦賀沖に二艘の軍艦が現れた。アメリカのビッドル提督の率いる軍艦です。来航の目的は、日本がアメリカと通商を開始する意志があるかどうかの打診でした。幕府の返答は、新たに外国と通商を行うのは国禁であること、外交のことは長崎で取り扱う、この二点でした。このためビッドルは、なにもせずそのまま退去しました。この外交交渉でビッドルは、三つの失態を演じたとアメリカでは言われています。一つは軽率にも気さくに日本人に接したこと。二つは、大統領の親書を身分の低い浦賀の役人に手渡したこと。三つ目は、ビッドル提督自ら幕府の返書を日本船までとりにいったこと。要するに威厳の欠如を言うのでしょう。
このことの反省のせいか、ペリーが日本にやって来たとき、他人から見ればなに様と思わせるくらい威厳に満ちた態度を最後までくずしませんでした。ビッドルの行動が軟弱だったなどの批判が出ましたが、ビッドルばかり責めることはできません。その時のアメリカ政府には、開港に応じなければ、武力を使ってもという強い意志はありませんでしたし、それにビッドルが率いた二艘は、軍艦といっても帆船だったので威圧感がなかった。
1850年になるとアメリカ政府には、どうしても日本に開国を迫らなければならないはめに直面したのです。その理由の一つが太平洋上での捕鯨産業です。当時ニューイングランド地方の捕鯨産業が最盛期でした。南北戦争のころまでのアメリカの家庭における照明と機械用潤滑油は、捕鯨会社が運ぶ鯨油が主力でした。1846年だけで出漁船736艘、総トン数233,000トンにものぼっています。そのため捕鯨船の補給基地として日本の港が必要になったのです。
二つ目の理由は、アメリカはカリフォルニアと支那を結ぶ太平洋航路の開設を望んでいた。当時の蒸気船ではあまりにも距離がありすぎたのだ。当時の蒸気船の石炭消費量は、現代の想像以上に大きく、太平洋横断には航路途上での石炭の補給なしでは困難な時代でした。そのため太平洋横断のための石炭補給基地としての日本の港が必要になった。
1851年、アメリカ政府は、日本開国のための遠征隊を派遣しました。その時の司令官はペリーでなくて、東インド艦隊司令長官に任命されたオーリック海軍中佐でした。オーリックは、メキシコ戦争の時、ペリーの部下でした。オーリックの艦隊が日本に向けて出発しようとした時、時のアメリカ国務長官ダニエル・ウェブスターがスピーチの中で聞き捨てにならないことを言っているので紹介しましょう。
「日本列島の地下深く埋蔵する石炭は、万物の創造である神のみ心より全人類のためにさずけられたもの」と語っているのです。
当時のアメリカ人は、自分の行為を正当化する口実がないと彼らのゴッドを持ち出して正当化したのです。そのもっとも典型的な言葉が「マニフェスト オブ デスティニー」(Manifest of Destiny),日本語では「明白なる天命」と訳されています。日本の読者にはあまり知られていない言葉なのでぜひ覚えてもらいたいです。この「明白なる天命」という言葉は、ニューヨークのジャーナリストが1845年7月に雑誌に発表した論文の中で使用したものです。
ジャーナリストは、「年々増加していく幾百万のわが国民の自由の発展のために、神によって与えられたこの大陸に我々が拡大するというマニフェスト オブ デスティニーの偉大さ・・・」と記したのです。
白人がインディアンまたバッファローなどの野生動物をけちらしながら、西部へ、西部へと土地を求めて移住する行為に白人は正当化する口実がほしかったのでしょう。タイミングよく「明白なる天命」という言葉が出たものですから、その考えがアメリカ国民に浸透して、アメリカ膨張主義の思想になっていったのです。
アメリカ人(白人)がこの大陸で発展するのは彼らのゴッドが与えた明白な天命だというのですから、一神教というのは随分都合のいい宗教といわざるを得ません。先にあげたダニエル国務長官の発言にしても、自分の国の石炭は自分のものだが、日本列島に埋蔵している石炭は、自分たちのゴッドが全人類のために授けられた物と言っているのと全く同じことです。ダニエル国務長官も「明白なる天命」の思想に染まっているのです。
オーリック司令長官の遠征艦隊は、香港まで到着しながら、日本に来ることが出来なかった。オーリック司令官自身の悪評のため解任されてしまったからです。そこでペリー提督の登場となってくるのです。ペリーは、日本からの帰国後膨大な日本遠征記を発表するのですが、その中で先ほど述べたマニフェスト オブ デスティニー(Manifest of Destiny)「明白なる天命」という言葉を使っています。
「米国の今後の発展に照らし合わせてみても、わが国は他国より先んじて前向きな姿勢を示していく宿命にある。(万能の神)が(米国の明白なる天命)を極東にむけるとするなら、われわれはそれを真剣にとらえて(正義と誇りに満ちた)行動をとっていく必要があろう」
アメリカ人が西武へ西部へと発展していくのは、神から与えられた「明白なる天命」なら、西部開拓が終わった後は、極東へ極東へと向かうのもアメリカの「明白なる天命」だと主張しているのです。アメリカ人の心に無意識に存在する「明白なる天命」が大東亜戦争を生む一員になっていることはまちがいありません。アメリカ人のこの勝手な思い上がりともいうべき「明白なる天命」という言葉はぜひ記憶しておいてください。日本はアメリカとの戦争で負けましたが、アメリカ人のこの思い上がった「明白なる天命」という考え方を二度と公言させなくしたことは確かです。
入念に準備した後、ペリー提督の率いるアメリカ艦隊は、1852年3月8日にアメリカを出航した。ペリー艦隊の日本遠征は、現地の新聞ではほとんど話題になりませんでしたが、そんな中で5月4日付けの「ニューヨーク・ヘラルド」紙は以下の記事を載せています。
「遠征軍は日本政府に好意をいだかせて、交渉への下工作をするために、日本の皇帝への献上品としてたくさんの品物を積み込んだ。鉄道というものを教えるために機関車と線路を、そして文明をしらせるために電信機や写真機も積み込んだ。
日本とアメリカとの間で商品の交換をしようと言う気をおこさせるために、実に多くの工業品を持っていった。この遠征のために、議会は12万5千ドルをつぎ込むことを決定した。天文学、化学、植物学、博物学の研究者も参加した」
さらにペリー艦隊の日本遠征の目的は、いかなることがあっても長崎ではなくて江戸に上陸することをめざすとともに、いろいろな地方に遠征すること、そして長期間閉ざされた人々と通商関係を結ぶことでした。遠征は18ヶ月を要するだろうと推測されていた。
1853年7月8日ペリーは、四艘のアメリカ軍艦を引き連れて江戸湾入り口に姿を現した。そして1854年2月8日には、今度は七艘のアメリカ軍艦を引きつれ、強引に江戸市街を遠く眺められる羽田沖まで侵入してきました。あわてた幕府は、横浜で交渉を行うことに譲歩したのです。数回の交渉の結果、1854年3月31日、日米和親条約、12か条が調印された。その主な内容は、下田、函館の二港を開港し、薪、水、食料など供給すること、アメリカ船の必要品購入許可、外交官の下田駐在許可、最恵国約款の承認などでした。
ペリーの外交交渉は、日本の国法をむりやり破って、アメリカの主張を通させたということで「砲艦外交」と呼ばれています。帰国後のペリーは、鎖国政策をとる日本を、武力を使うことなく、一発の銃砲をうつこともなく平和裏に開国に同意させた理由もあったのでしょう、アメリカ国民から大歓迎をうけ、大統領候補に祭り上げられる始末でした。
帰国後のペリーは、膨大な遠征記を書き残しています。それが米国海軍省の委託により編纂された
「The Narrative of The Expedition of an American Squadron to the China and Japan
Performed in the years 1852, 1853, and 1854」です。
ペリーはもう1冊個人的な記録「日本遠征記」を書き残しています。実はこの2冊の本には書かれなかった事実あがるのです。ペリーがわざと隠したと思われてもしかたがない事実が、日本側の史料にあるのです。その事実とは、三輪公忠(みわきみただ)著「隠されたペリーの(白旗)」によると、幕府との交渉でペリーは3通の書状を提出したと彼の二つの遠征記に書いてありますが、実際は四つの書状を幕府に提出しているのです。その四つ目の書状には、国書の受け入れを拒むなら、それは天命にそむくことである。戦いとなれば必ずアメリカが勝つから、その時にはこの白旗を掲げて和を請えと書かれているのです。そしてその書状と一緒に二本の白旗が、幕府に渡されていた。
この史実の出所はと言えば、当時の日本の対外関係を知るための第一級の史料といえる「大日本古文書・幕末外国関係文書之一」です。
ところでこの事実がアメリカ側の著作によって初めて公にされたのは、ピーター・ワイリー著の
「神々の国ヤンキーたち――ペリー提督と日本の開国」で、出版がなんと1990年です。著者のピーター・ワイリーは、なにを参考にしてペリーの隠された事実をさぐりあてたかと言えば、
「大日本古文書」が1970年に英文に翻訳されていたからです。それではなぜペリーはこの事実を隠したか、ピーター・ワイリーは、「遠征が日本国民に対する威嚇であったような印象を与えないために、自分の報告書にはこの書簡のことは書かないことにきめたのだと、としか推量のしようもない」と書いています。
「大日本古文書」が1970年に翻訳されているのに、なぜワイリーの1990年の著書にいたるまで、英語圏において、この書状の存在すら気づかなかったのか、その理由は二つ考えられます。
一つはペリーの膨大な遠征記があるので、外国の研究者は、それを読めば充分事足りると考えたのでしょう。まさかペリーが日本政府あてに書いた手紙が、日本側だけに、しかも日本語訳としてだけ存在しているなど想像もしなかったのではないでしょうか。
二つ目の理由は、新渡戸稲造です。新渡戸は戦前では日本の有名な知識人です。略歴を簡単に紹介しましょう。1862年生まれ、キリスト教徒、アメリカとドイツに留学、京大教授、東大教授、東京女子大学初代学長歴任。同志社大学創立者。国際連盟事務局次長を務め国際的に活躍。英文で書かれた「武士道」は有名。新渡戸稲造には、彼の最初の処女作、「日米関係史」とも訳すべき「The Intercourse between The United States and Japan: A historical Sketch」と題する著作があります。この「日米関係史」は、アメリカのジョン・ホプキンス大学での博士論文を得るために書かれた本です。
この本は、ペリー提督を中心に展開しています。新渡戸は、史料として白旗事件のことが詳しく書かれている水戸藩主、徳川斉昭の著「海防愚存十条五事」を使用し、長々と紹介しているのですが、白旗事件のことは一切紹介しなかったのです。なぜか。
新渡戸は、自分の評判を上げるため、アメリカ政府にへつらうため、アメリカが知ったら嫌がるだろうと思われる情報はわざと紹介しなかったのだ。戦後多くの日本の知識人が外国での自分の評判を上げようと、外国政府の都合の悪い史実を無視して外国政府に媚ました。戦前にもそういう日本の知識人がいたのです。私が新渡戸を非難するのは、彼は当時アメリカで一番良く知られた日本人知識人でした。それにもかかわらず、新渡戸は年々厳しさを増す日本人移民への法差別に対してアメリカ政府にほとんど抗議はしていません。記録によると新渡戸は、1911年から1912年にかけて一年たらずの間にアメリカの六大学において166回も講演をして、大活躍していますが、しかし移民問題を正面からとりあげた講演は一回もありません。
「隠されたペリーの(白旗)」の著者、三輪公忠氏によると、1924年、アメリカで「排日移民法」が可決されると、新渡戸は「この日本人を侮辱した人種主義立法が撤回されるまで、二度とアメリカを訪問するつもりはないと宣言した」と言うのです。
もしそうであるなら新渡戸は、この時こそアメリカに渡って、「排日移民法」が通過する前に、その不当性を批判し、日本人移民のためにひとはだぬぐべきだったと思います。
この新渡戸の行為で思い出すのが、ノーベル文学賞作家、大江健三郎の行為です。1995年、フランスは南太平洋のムルロワ環礁で地下核実験を数度強行しました。その時国際間で大変な反対運動が盛り上がった。その前の年にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は、フランスのある会議に出席するはずだったのですが、核実験に抗議してフランス行きをキャンセルした。
この時大江はフランス行きをキャンセルせず、フランスに行きフランスのマスコミの前で堂々と核実験反対の意見を言うべきだったと思います。
新渡戸も大江も日本に留まって反対意見を発言するという、二人にとって一番楽な方法を選んでいます。
もう二度とアメリカにゆくつもりはないと言っていた新渡戸が渡米したのは満州事変直後で、新渡戸は日本の「満州国」建設について理解を得ようとアメリカ各地をめぐってアピールしました。
戦前、外国に媚びる日本の知識人のつらさはここにあるのです。外国での自分の評判は、気になるが、同時に祖国、日本の評判も気になります。なぜなら戦前の日本は、国家としての権威が非常に強かったからです。外国の評判ばかり気にしたり、媚びたりして日本をないがしろしたら、日本国民から総すかんを食うからです。そのため新渡戸は、アメリカにも、日本にもいい顔をしなければならなかったのです。
その点戦後の日本の知識人は、気が楽です。戦後の日本は経済大国になったとはいえ、日本の国家としての権威は敗戦後落ちたままですから、安心して外国に媚を売り、祖国を平気で足蹴にすることができるのです。誇りを失った多くの日本国民は、ただ黙ってその知識人を眺めているか、それともその知識人と一緒になって祖国日本を非難するかのどちらかだけです。

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NHKドラマ「坂の上の雲」開始に備えて

今度の日曜日、11月29日から話題のドラマ「坂の上の雲」が始まります。司馬遼太郎原作「坂の上の雲」のドラマ化です。司馬遼太郎と言えば、私の年代で、しかも男であれば、誰もが知っている作家であり、しかもほとんどの人が司馬遼太郎の本を少なくとも一冊ぐらい読んでいると思います。ちなみに私は司馬遼太郎の本は恐らく全冊読んでいるでしょう。私に言わせれば司馬遼太郎は、歴史小説家としては天才でしょう。とにかくどれも面白い。大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したとき、司馬遼太郎は健在でしたから、司馬遼太郎こそノーベル文学賞に値するし、なぜ彼の本がどんどん英語に翻訳されないのか不思議に思っていました。
「坂の上の雲」は最初、産経新聞の新聞小説として誕生した。単行本全6巻が出版されたのが1969年、私が31歳の時です。以来これまでに一千五百万部売れたと言われています。現在では「坂の上の雲」ビジネスといわれ本屋では、「坂の上の雲」関係の本がずらりと並んでいるのはとうにご存知だと思います。ドラマ放映は大変な視聴率を示すと予想されています。そこでこの本の内容を簡単に説明しましょう。愛媛県松山市生まれの三人の男、正岡子規(俳人)、と秋山兄弟。兄の秋山好古(よしふる)は、日本騎兵の父と呼ばれ、最終階級は陸軍大将)、弟の秋山真之(さねゆき)は、日本海海戦の時、連合艦隊司令長官、東郷元帥付の作戦参謀、最終階級は、海軍中将)。彼ら三人は同世代。前半は三人の青春群像を描き、後半は日露戦争の詳細に描いて終わります。
このドラマは、今年から3年にわたって放送されます。3年にわたって放送と言っても一年中放映されるわけでなく、その年の後半だけです。今年は11月27日の日曜から12月27日の日曜日までの全5回、午後8時から9時半まで。来年の後半に全4回、再来年の後半に全4回。再来年の全4回のプログラムを見ると、第10回「旅順総攻撃」、第11回「二百三高地」、第12回「敵艦見ゆ」、第13回「日本海海戦」。まさに息をもつかせずに戦場シーンの連続でしょう。年をとって涙もろくなった私は、日本兵の苦戦や、大活躍に涙を流すことでしょう。ドラマの紹介はこのくらいにして、話の本番に入ります。話の本番とはなにか。司馬遼太郎の歴史観です。
司馬遼太郎の書く歴史小説がことごとくベストセラーになるくらいですから、まえに触れたように非常に著名な小説家です。それだけに彼の歴史観が読者に影響します。司馬史観とまで言われました。私にいわせれば司馬史観には功罪があります。それでは功罪の「功」のほうから説明しましょう。
私が30代の終わりぐらいまでは、自虐史観が全盛期だったと思います。本屋の歴史コーナーでは、大東亜戦争などという呼び名のついた本などほとんどありませんでした。ほとんどが太平洋戦争という呼び名一色でした。日清戦争や日露戦争まで侵略戦争と呼ばれていたのはこの頃ですよ。ところが司馬遼太郎は、この「坂の上の雲」で日清戦争についてこう書いています。
「日清戦争は、清国や朝鮮を領有しようとおこしたものでなく多分に受身であった」。そして日露戦争について司馬遼太郎は、徹底して日本の自衛戦争として描いているのだ。もともと日清戦争や日露戦争を侵略戦争と呼ぶには無理があります。そこえ天下の司馬遼太郎が「坂の上の雲」を書いたので、日清戦争や日露戦争まで侵略戦争と呼ぶ自虐史観論者を黙らせた功績はありました。今どきの自虐史観論者で、日清戦争や日露戦争まで侵略戦争と呼ぶ人がほとんどいなくなりました。「坂の上の雲」のベストセラー化かが大きく影響しているのです。
そこで皆さんに今度のテレビドラマで注視してもらいたいのは、NHKが果たして司馬遼太郎が主張しているように日露戦争を日本の自衛戦争とはっきり主張するかどうか注視してもらいたいものです。なにしろNHKは、歴史関係番組では、特に近現代史については史実の捏造、歪曲を平然と行う前科者、それも前科一犯どころか何回も前科歴のある常習犯です。この番組で日露戦争を侵略戦争と描いたらNHKを許すわけにはいきません。
それで司馬史観の功罪の罪とは何かと言えば、自虐史観ですよ。司馬の言葉でよくひきあいに出されるのが「日清・日露戦争までがよかったが、それ以降日本は駄目になった。日本は昭和に入ってまるで魔法にかかったようにおかしくなった。昭和以降は陸軍が悪玉であり海軍が善玉である」。
司馬は日本人の誰もが認めるすばらしい歴史小説家だけに、彼の歴史観の影響力は非常に大きいものがあります。防衛大学の五百旗頭(イオキベ)校長も司馬史観の典型的な後継者です。私はどうかと言えば、私は司馬史観の影響は受けませんでした。私が若い時から大東亜戦争の歴史に詳しかったからではありません。ごく常識的に判断していたからです。常識的判断とはなにか、対外戦争するには、相手国が必要です。勝った国がすべて正しく、負けた国がすべて悪いなどという戦争があるわけがない。皆さんそう思いませんか。この常識的な考え方から詳細に歴史を勉強していけば、真の歴史観を取得できるのです。皆さんそう思いませんか。なまじ先入観をもって物事を勉強してみても、歴史観だけでなくすべて本質を掴み取ることはできないのではないでしょうか。
私は司馬の自虐史観の影響を受けなかったが、反論ができませんでした。大東亜戦争のこと詳しく知らなかったからです。今は反論できます。だから「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を書けたわけです。これからちょっと反論してみましょう。
日露戦争では日本はやっとのおもいで勝ちました。辛勝とはこのことでしょう。国際社会すなわち欧米社会は、日本を一人前の国として扱い初めました。日本はロシアに勝ったとはいえ、軍事、経済、工業などあらゆる面において欧米諸国より劣っていました。もっと国力をつけるのが日本国民の望みでした。そのためにのしあがってこようとする日本は、欧米社会の邪魔者以外の何者でもありませんでした。大東亜戦争までに日本が、外交面、経済面などで欧米諸国に翻弄されつづけたと言っても過言ではありません。自虐史観論者は、日露戦争後の日本を含めた世界の動きを勉強しようとせず、ただ日本国内の動きだけ、すなわちコップの中の嵐だけを追っかけて日本批判をくりかえしているにすぎないのです。
コップの外の嵐が日本にどれだけの影響を与えたかなど眼中にないのだ。
あの天才とも言える司馬遼太郎がなぜ、「日清・日露戦争までは良かったが,それ以降は日本は駄目になった」などと言って昭和の歴史を単純化して自虐史観を展開するのか全く、私には理解できません。司馬遼太郎が歴史の先生なら、彼の自虐史観も理解できます。歴史の先生は、恩師が自虐史観の持ち主であれば、自虐史観を変更することができません。先生の仕事場がなくなってしまうからです。最近加藤陽子なる東大教授の歴史学者がたまにNHKに登場しますが、東大で歴史を学んだら自虐史観論者にならなければ、もう彼女の就職先もなければ、社会的栄達の道も開けません。
司馬遼太郎がまだ駆け出しの作家だとしても、彼の自虐史観は理解できます。戦後ずっと自虐史観が主流であり時流でもあったからその流れに乗るのが賢明だからです。しかし、司馬遼太郎は歴史学者でもなければ駆け出しの作家でもない、途方もない超有名な国民的作家です。例え彼が駆け出しの頃、自虐史観論を主張していたとしても、これだけ国民的作家になれば主張の変更さえも自由にできるわけでしょう。自虐史観論者のまま死んでしまいました。国民的な大作家だけに、彼の死後も自虐史観論の影響はいまだに強く残っています。
最初に触れましたように「坂の上の雲」の特徴は、日露戦争は日本の自衛戦争と描いておりますから、NHKにどう描かれるか大変興味があると書きましたが、もう一つ興味があるのは、乃木将軍、すなわち乃木希典(まれすけ)大将の人物像です。乃木将軍の略歴を紹介しましょう。乃木希典は西南戦争に参加しています。乃木の率いる部隊が退却戦のとき軍旗を薩摩軍に奪われてしまいます。軍旗を敵に奪われることは大変な不名誉なことです。乃木は[軍旗は天皇陛下から賜ったもの、詫びなければならない]と切腹を命じられることを欲しましたが、同僚や上官の必死のとりなしで切腹にいたりませんでした。
日露戦争では乃木は、旅順要塞攻撃を担当する第三軍司令官として活躍します。最終的には旅順要塞攻撃に成功して名を馳せるのですが、あまりにも日本兵の人的損害が大きかった。彼自身も二人の息子が戦死しています。乃木はあまりにも多い犠牲者の責任をとって明治天皇に直訴し切腹を命じられる事をのぞみます。しかし明治天皇は、「自分が死ぬまで死ぬことはまかりならぬ」と言って切腹厳禁を命じます。さらに明治天皇は、乃木に向かって自分の子どもだと思って、当時子どもだった昭和天皇を育ててくれと昭和天皇の家庭教師に、乃木を学習院の院長に命じています。後年昭和天皇は、自分にとって一番尊敬する人物は、乃木将軍だったと言っています。明治天皇が亡くなられた時、乃木は殉死しています。乃木は自分の妻の死の介添えし、自分は切腹しました。遺書には明治天皇に対する殉死であり、また西南戦争の時に軍旗を奪われたお詫びでもあると書いてありました。日本海海戦時の東郷元帥の名は、海外でも有名で、フィンランドでは、トーゴーというブランドのビールが現在でも売られていますが、乃木将軍も海外でもけっこう有名でトルコでは、自分の生まれた息子の名前にノギとなづけるのが一時流行ったそうです・
この乃木将軍を司馬遼太郎は、「坂の上の雲」で乃木将軍とその下で働く参謀長、伊地知幸介をボロクソにけなしています。この本ではいくつかの戦場の戦況場面が書かれていますが、旅順要塞攻撃はこの本の最大のクライマックスでしょう。コンクリートでためた難攻不落の要塞を乃木と伊地知参謀長は、肉弾攻撃をしかけ、最初の総攻撃失敗にもかかわらず、何度も何度もバカの一つ覚えのように肉弾攻撃を繰り返し、ついに6万人もの死傷者(戦死1万5千人、負傷者4万5千人)を出したのだ。司馬遼太郎は、この乃木を徹底して無能呼ばわり、あまりにも手厳しく無能呼ばわりをくりかえすので、乃木家や伊地知家ゆかりの人たちは頭にきたのではないでしょうか。
私はこの本「坂の上の雲」を持っていますが、見ると初版本です。私が31歳の時に読んでいるのです。その頃の私は歴史の知識などあまりなかったので、この話(乃木の無能ぶり)を完全に信じこんでいました。また司馬遼太郎の筆の運びが上手だからおもわず手にあせを握りなら夢中で読み、信じこんで、「なんと愚かな司令官、なんと馬鹿な参謀長」と興奮していたと思います。
乃木がこの本であまりにも無能呼ばわりされたので、その後司馬遼太郎に対する反論が出ています。反論のいくつかを上げてみますと:
1.日露戦争には欧米諸国から多くの観戦武官が戦場に派遣されています。もし乃木が司
馬遼太郎が悪態をつくほど無能な作戦をくりかえしていいたら、当然ニュースや話題、あるいは観戦武官の間で嘲笑の対象になってもおかしくありません。
2.要塞を攻撃する場合、通常先に砲弾を雨あられとぶちこみ要塞の外部あるいは内部を混乱させてその後肉弾攻撃しかけるのですが、日本軍の砲弾不足のため砲弾攻撃の効果があがらなかった。砲弾や弾薬不足は貧乏小国、日本の象徴のようなもので、大東亜戦争でも兵器不足で泣かされた。
3.要塞攻撃というものは戦闘の性質上、攻撃側に多大な犠牲を強いるものです。日露戦争からおよそ10年後に第一次大戦が始まります。ベルダンの戦い(ドイツ軍によるフランスのベルダン要塞の攻撃)、これもベルダン要塞という一ヶ所だけの戦場です。そこでおよそ10ヶ月間の攻防戦になんと独仏両軍あわせて75万人もの死傷者をだしているのだ。従って乃木がとった作戦が無謀とも言いきれないのだ。
4.司馬遼太郎が、旅順要塞攻撃にあたって引用した参考文献は、「機密日露戦史」(これは戦前陸軍大学で教材として使われた)だ。この資料に彼の独自の想像や脚色を加えたため史実と異なる物語になっていると言われています。
司馬は、自虐史観の持ち主で「海軍は良かったが陸軍は悪かった」などと言っていた男だ。陸軍の暴走、精神主義を批判するために誇張して書いたような気がするのは私だけでしょうか。この旅順要塞攻撃をNHKがどう描くか非常に見ものです。小説に忠実に描くか、あるいは小説以上に悪意をこめて乃木の作戦を描き、陸軍の悪を印象づけるかのどちらかでしょう。
前にも触れましたように歴史番組におけるNHKの史実の捏造、歪曲は、常習犯です。この小説には、日本軍の残虐行為など語られていませんが、ひょっとしてNHKの事だから演出するかもしれません。日露戦争の戦場は、すべて満州地方です。日露戦争が始まると、満州民族は、負けると予想されていた日本軍が勝つことを心底祈っていた。なぜか、日本軍が負けると満州地方はロシアのものになり、ロシア兵による略奪、強姦、暴力等々で、満州が地獄のようになるからです。昭和に入って満州地方は、日本によって満州国が建設され、すぐに経済発展していきます。日露戦争勝利後の日本軍や日本政府への信頼が、根底にあったからこそ満州国は建国するやいなや発展していったのです。この時アメリカは、満州国建国には猛反対で満州国を承認しませんでした。現在アフガニスタンに手を焼くアメリカよ、満州国建国の歴史を学べといいたい。
若い人たちでまだ「坂の上の雲」を読んでいない人は、ぜひ読んでほしいと思います。私は日本国民必読の本だと思います。また読んでいて実に面白い。この本をNHKがどう描くか比較するのも面白いと思います。最後に産経新聞の片隅に出ていたちいさな記事を紹介します。
「NHKスペシャルドラマ『坂のうえの雲』の主題歌を、英国のソプラノ歌手で『世界の歌姫』と呼ばれるサラ・ブライトマンさんが歌うことが21日、NHKで発表された。タイトルは『STAND ALONE』で小山薫堂さんが作詞、久石譲さんが作曲した。ドラマは司馬遼太郎原作で、11月29日から放送される」
なぜ高いお金を出してでも世界的な外国人ソプラノ歌手に歌わせるのか、日本人歌手でもいいだろう、なぜ曲の題名が「STAND ALONE」などという英語の題名なのか、日本語の題名を使ったらどうなのか。まさか曲の詩まで英語じゃないでしょうね、それとも英単語が随所に入っているのですかなどと、ドラマを見る前からNHKに文句をいいたい。NHKよ、ドラマは、小説を忠実に描けよ、いつものように史実を勝手に捏造したり、歪曲するなよ。

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私の天皇論

私の天皇論などという大げさなタイトルをつけましたが、簡単に言えば今皇室が抱えている二つの問題に対する私の意見です。皇室がかかえている二つの問題とは、一つは天皇の男系・女系継承問題であり、二つ目は皇太子殿下と雅子妃殿下がどうも心もとないというのが一般庶民の感覚です。特に雅子妃殿下に対する批判がよく聞かれます。その批判に賛成する人、反対する人が出ています。
1.天皇継承問題。
小林よしのり氏は、今年6月「天皇論」という本を出版した。私も読んだ。すばらしい本であることにまちがいない。ただ一つ私のような保守派にとっての不満は、小林が男系の天皇が望ましいが、女系天皇でもかまわないという女系天皇を認めていることです。左翼が女系天皇推進論者であることはよく知られています。女系天皇を認めて天皇の権威を少しでも落として、いずれは天皇制廃止を目論んでいるからです。特に共産党など、国会が開会する時、天皇陛下が出席し開会のお言葉を述べられますが、このとき、共産党議員は、国会に出席しません。共産党は天皇廃止論者だからです。選挙で共産党に投票する人は、このことを知って投票しているのでしょうか。
私は左翼の連中に天皇の継承は男性でなければ絶対にダメだと説得する気は全くありません。昔はバカなやつのことを左巻きと呼んでいましたが、左翼は文字どおり左巻きのバカだから、私は相手にしません。私が説得したいのは、保守系の若い男女です。保守系の若い男女の間では、現在は男女平等社会、だから女系天皇を認めるべきだという意見の人が多いのではないか。私はその人たちに男子継承者でなければ絶対ダメですよと説得したい。その説得の理由を以下に述べてみました。
日本の初代天皇と言われている神武天皇が即位したと伝えられているのが西暦紀元前660年のことです。西暦はイエスが生まれたとする年を基点としています。それを紀年法と呼んでいます。日本の紀年法は、神武天皇が即位した年を基点にして「皇紀」(こうき)と呼んでいます。日本の紀年法で数えると今年は、西暦紀元前660年プラス現在の西暦2009年で、今年は皇紀2669年になります。
この2669年間男系のみによる世襲で皇位を継承してきました。これを万世一系と呼んでいます。そして男系とは父親が天皇もしくは歴代天皇の血筋ということです。すなわち125代の今上天皇が父親をたどっていくと神武天皇に繋がるというわけです。このおよそ2700年の間に女性天皇が存在しましたが、あくまで繋ぎの天皇でした。すなわち次代の天皇がまだ成長していないため成長するまでの繋ぎの天皇でした。
この2700年間万世一系と呼ばれて男系のみで家系が継がれてきた家系は、世界では天皇家だけです。だから私は、天皇家を世界遺産に登録しろと主張しているのです。現在保守の間でも、特に若い男女の間では現在は男女平等の社会だから女系天皇もやむを得ないという風潮が強いようです。私に言わせれば、2700年も男系で継いできた天皇家に現在は男女平等社会だからと女性が継いでもよいのでしょうかと問いたい。男女平等社会と言っても日本ではたかだか数十年の歴史しかありません。そんなに短い歴史しかもたない男女平等制度を2700年も続けてきた男系制度より優先させてよいものでしょうか。
天皇家は男系が継ぐという制度が2700年も続いたということは、天皇制度の根本は男系が継ぐということで、それが絶対条件であることがわかります。この2700年間私達の先人、何億何千万人の方がたが支持してきたことなのです。私の寿命もあと20年前後でしょう。その時私は、2700年間保ち続けてきた先人たちの仲間入りをすることになります。保守の使命には伝統をできるだけ守るなどがあります。死者への配慮も保守の使命ではないでしょうか。靖国神社へお参りするのも大東亜戦争などで亡くなった人たちへの配慮ではないのですか。私は2700年間も男系で守り通してき何億何千万人という私達の先人達の意思というものをたかだか数十年の歴史かない男女平等より重要視したいし、また重要視しなければいけないと考えています。
また2700年間も続いた男系の家系には、誰にも説明できない無言の権威というものが備わっている事を空気みたいに意識することなく国民は感じ取っているのではないでしょうか。権力と違って権威は一朝一夕に作り出せません。同時にいったん失墜した権威を取り戻すのは至難の技です。2700年続いた男系に今後一人でも女系天皇出現することによって天皇家に対する権威が凋落することもありえるのだ。女系天皇出現で天皇家の権威が凋落することは有り得ませんなどと誰も断定することはできません。左翼はそこを狙っているのだ。
現在、現皇太子殿下の後継者は、悠仁親王様お一人なので男系天皇の存続が心配されていますが、終戦直後にアメリカ占領軍によって宮家が廃絶されてしまいました。その宮家を今すぐにでも復活させれば解決できる問題です。
2.皇太子殿下夫妻への不満
だいぶ前から雅子妃殿下に対する世間の評判があまり芳しくありません。私も私の女房も雅子妃殿下にはなんとなく不満を感じていました。私の先祖も雅子妃殿下の先祖も越後の村上藩5万石に仕えた下級武士でした。だから雅子様が皇太子妃殿下になった時の私の喜びは最高でした。それだけに私は雅子妃殿下に対する失望には大きいのがあります。
昨年、西尾幹二氏が雑誌「Will」に「皇太子様に敢えてご忠告申し上げます」という論文を掲載した。私も読んだし女房も読みました。西尾氏の主張は、皇太子御夫妻に対する私たち一般の人々の不安不満の気持ちを代表するものでした。「Will」での反響は、圧倒的に西尾支持だったと言われています。しかし論文のタイトル「皇太子様に敢えてご忠告申し上げます」というように強烈でしたから当然反対もありました。これを機に色々な人たちの賛否両論が雑誌上で論じられてきました。西尾氏や橋本氏(今生天皇の御学友)などの主張に反対する人たちの論点は、一点につきると思います。すなわち私達庶民は、皇室について一切非難や注文をしてはいけない。黙って眺めているのが一番懸命だという意見です。漫画家、小林よしのり氏の意見もこれと同じです。
「Will」最新の12月号には、西尾氏らに反論する小林よしのり氏の意見が大きくとりあげられています。小林氏はこう書いています。
「反皇太子殿下」の橋本明、西尾幹二、保坂正康の三氏は、おこがましくも「皇太子には人徳がないから『廃太子』して皇統を秋篠宮に譲れ」などと言っていますが、そもそも日本の皇室は「皇道」であり、万世一系の血統にとるもので「徳」には関係ありません。この点で「徳」を基準にするシナの「王道」とは全く違う。(中略)
日本の皇道は、「徳」は初めから皇位継承に関係ありません。今までもいろいろな天皇がいらっしゃいましたが、天皇の血統によって受け継がれるものですから、「次の皇太子はどうも天皇の器ではない。「廃太子」して、別の人間に皇位を譲れ」というのはまるで通用しない。それどころかこの呼びかけは革命を誘導することになります。
こんな馬鹿馬鹿しいことをよくも言ってのけて、よくも雑誌に載せて、よくも賛同する読者いたものだと呆れるしかない。わしの描いた『天皇論』(小学館)が出版されたのは今年の五月末ですが、これ以降はもうくだらない皇室論は出てこないだろうと思っていたのに、とんだ見込み違いでした。」
私は西尾氏や橋本氏の主張に賛同する者です。小林に反論してやろうではないですか。小林は立派な本を書いていますが、どうも時代、現在の時代認識ができていないようだ。私は、小林の「戦争論」を読みました。この本が多くの若者の自虐史観を変えたとい点では、非常に功績が大きいものがあります。私の大東亜戦争論とほとんど同じです。ところが現在のアメリカに対する認識がまるでできていない。反米主義一辺倒です。現在の日本が現状の軍事力で平和を保っているのは、バックにアメリカが控えているぞという暗黙の脅しでもっているようなものだという認識がまるでできてない。だから反米主義一点張りを主張するのだ。私は歴史観では反米主義だが、外交では親米主義で、日米安保条約の積極的推進者です。
皇室についても小林は、時代認識ができていません。小林は徳の問題を持ち出して西尾氏や橋本氏を批判したり、雅子妃殿下をかばったりしていますが、やはり皇室のことについて一般庶民は口を出すなの主張にかわりありません。皇太子ご夫妻に対する小林の発言には、次に述べる二つの時代認識ができていない。
(1)私は、こういうことを言うと小林や皇室絶対論者から猛反撃を覚悟の上で言いますが、いまのような凡庸な皇太子では、日本にとって非常に危険だということです。その説明するために皆さんに明治時代の明治天皇のことを考えてもらいたい。明治天皇が即位されたのが17歳の時です。16歳の時に王政復古の号令と五箇条のご誓文を発した。この年齢では、薩長の重臣達の操り人形意同然だったでしょう。
しかし帝王教育が良かったのでしょうか、誰も認めるすばらしい天皇に成長されました。明治天皇は、明治大帝と呼ばれました。これまでに125人の天皇がおられますが、大帝と呼ばれたのは明治天皇だけです。明治天皇が亡くなられた時には世界中から称賛の記事が書かれ、明治政府はそれをまとめて一冊の本を出版しています。明治政府は、あの難局の時代に明治天皇を押し立てて近代君主国家としてスタートした。したがって日本の行く末がうまくいくかどうかは天皇次第でもあった点が非常に大きい。その時に名君にめぐり合わせたのは、日本国民にとって非常に幸運でした。この時凡庸な君主だったら今の日本はなかったのでしょう。
昭和天皇も立派でした。あの敗戦時昭和天皇の存在が、どれほど日本にとって重要であったか私より先輩の年寄りが一番よく知っているのです。要するに日本が危機状態の時には、すぐれた天皇がいてくれることが非常に重要だということです。今上天皇は、現在75歳、あと寿命も15年前後でしょう。私の予想ではその頃は、あるいは今生天皇が生存中に日本が一番難しい時期に差し掛かってくるだろうと見ています。日本は今危機的状況にあります。それだけ日本の未来が暗いのだ。日本の繁栄は、もうここ数十年ありません。下り坂一方です。国民の意思は団結しておらず、分かり易く言えば、右翼と左翼に真っ二つに二分されています。左翼は中韓二国を取り込んで国内の指導権を完全に握ろうとしています。外国人に参政権を与えようとするのも、左翼が国内の指導権を握ろうとする彼らの一策にすぎません。島国日本では、日本国内の実権を握るために近隣諸国、特に中韓のような外国と組むことは、一番やってはいけない方策ではないのですか。国内が二分すると天皇家がからんでくるのは日本史の常識みたいなものです。そんな時には、凡庸な天皇では困るのです。
(2)小林や皇室絶対視論者は、われわれ国民が皇室についてあれこれ言うなと主張しています。そういう意見は、テレビやラジオや新聞などがない昔であれば有効な意見でしょう。なぜなら天皇陛下ご夫妻や皇太子殿下後妻など皇室の人たちを、一般庶民が見かけることなどめったにないからです。そのため庶民は皇太子が普段はどんな外見なのか、あるいはどんなお人柄か全然わからないからです。
ところが今は違います。テレビの威力は大変大きい。私達庶民はテレビを通して皇室の人たちをしょっちゅうお目にすることができます。また新聞、雑誌などで読むこともできます。
そうすると一般の人々の間に皇室に人々に対する印象度が自然にできあがります。現在一般庶民の間では、美智子妃殿下に対しては厚い敬愛と尊敬の念をいだき、雅子妃殿下に対しては少し不満を抱いています。これはここ何年にもわたってテレビ、ラジオ、新聞などを通して得た印象からきています。その印象から一般庶民がそれぞれの意見を発言するのは、当然の現象でしょう。それを一般庶民は、皇室の人々にあれこれ注文をつけるなというのはおかしいのではないでしょうか。
雅子妃殿下が心に病を抱えられてから、もうゆうに五年以上経つのではないでしょうか。多少良くなっているようだけど全快しない。治療を受けられているのは、たった一人の精神科医だけです。なかなか全快しないのだから、他の医者にも診てもらうとか、あるいは複数の医者に診てもらったらどうかということまで国民は推理できるわけです。皇太子殿下は、雅子妃殿下に医者を変えるか、複数の医者に診てもらったらどうかと妃殿下になぜ言わないのか。あるいは雅子妃殿下が皇太子殿下の忠告に耳をかさないのではないかと庶民は詮索します。だからしょっちゅうテレビでお目にかかれるから庶民として意見が自然に湧いてくるのが当然です。それを皇室のことだから一言も言うなというのはどこかおかしくありませんか。
私には皇太子殿下は、雅子妃殿下に対する指導力が全然ないような気がしてなりません。このような国民の皇室に対する懸念や心配ごとから発する意見を公言してはならないというのは時代錯誤もはなはだしい。今日ほど皇室と一般庶民との間の垣根が払われた時代はありません。それだけに庶民の皇室の人たちへの注文がつけやすくなっているのです。皇室について一般庶民はなにも言うなというなら、昔のように皇室と一般庶民との間に大きな垣根をつくるほかありません。
私の想像では、天皇皇后両陛下は、皇太子を自分の手元で育て上げたのを後悔しているのではないでしょうか。今生天皇は慣習に従って早くから親元を離れ帝王教育が授けられた。これに反して、皇太子殿下はずっと天皇皇后陛下の手元で育てられたのだ。悠仁親王におかれましては、いずれは親元を離れ帝王教育を授けられることを私は国民の一人として希望しています。小林によればこんな意見さえも恐れ多くて発してはならないことなのでしょうか。

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若い人たちからの反応

今週のブログ、「教育が日本男子をダメにした」に関してミクシィーで若い人からの反応がありましたので転載しました。
tano
教育現場では「人間は平等ではない」という根本的な事実がなおざりにされていると思いますね。学校で平等だの公平だのと教え込まれたところで実社会に出ればそんな物は無いと痛感するばかり。そのギャップが日本人、特に男子を弱体化させていると思います。
「教育が日本男子をダメにした」とはその通りですね。
怒太
自称肉食系男子です(笑)
私も男尊女卑反対とか言う女は大嫌いです。
そう言う奴に限ってこれは男の仕事でしょ?みたいな事を平気で言うんですよね。
ジェンダーフリーもそうですけど、日教組は競争心もなくそうとしていると思います。
徒競走で横一列にゴールさせたりする所もあるそうです。
私は競争心が人の成長に一番大切だと考えているのでこれは大変な事だと思います。
私の人格形成には武道の影響が大きいので、一般の男子よりかは精神的にも肉体的にも強いと自負しております!
でも、えんだんじさんの恋愛授業是が非でも受けたいです!!!!笑
たろー
美しが丘中がそんな事になっているとは。。。(´_`o)ハァ・・・
どんどん、周りから侵食されているのですね。。。
MIE
私は祖母や周りの環境のお陰で、「日教組」というものにあまり影響を受けずに育ちました。祖母の口癖は、「女は結婚したら旦那さんを立てるのが当たり前。」、「働いてくれる人がいるから家計が成り立つことに感謝しなさい。」、等々。また、祖父は弟が台所に立つのを禁じていました。理由は、「台所は女の職場」だからでしたね。私は女の子なので、小さな頃から皿洗いや家事を見て覚えたりしていました。
小さな頃の私の写真は、全てワンピースやレース物。祖母の影響でしょう、本当に女の子らしく育てたかったのでしょうね。一方弟は相撲をしていた頃の写真だらけ。
しかし今や祖母の期待は外れてしまったかも知れません。血の気と気の強さは男子に負けず劣らずですから…。でもお嫁に行ったら祖母の言い付けは役に立つことだと我ながら思っています。
それに、全国学力テストは行うべきであると私は思います。自分の立ち位置を自覚せずしては人間は堕落すると思うからです。
以下は子どもさんがおられる父母からのコメントです。
りんごあめ
幸い、私の周りでは、「男の子なんだから」「女の子なんだから」
という言葉をよく使います。
が、公立小学校時代は、途中で名簿が男女混合に変わったのを覚えています。
見辛くてとんでもない改悪でした。
最近は”女男”がもてはやされたり、あまりに不快でテレビ画面を消すこともたびたび。
個人的に病気なのは仕方がありませんが、その病気をもてはやす神経が分かりません。
ローマ末期と同様、国亡に繋がってしまう恐れもあります。
息子の学校は男所帯で、しかも、男くさい行事目白押し
売りは、占領終了後、真っ先に武道を復活させたことですので
なんとか日本男子です(笑)
それでも、昔ほどでないは、とも聞きます・・・
えんだんじさんのブログつづけてくださぁ~~~い!!!
とてもお勉強になります。
ランキングも上がっていますし、さらに、多くの人たちが読んでくれたら~と心から思います。
KUNI-KUN
私の父親は、九州男児。
幼少のころより「男らしさ」を美徳とする教育をされました。
その結果、5歳のかわいい盛りに近所の人達に「KUNI-KUN」かわいいねといわれた際、「かわいくないワイ!男らしいんじゃ!」と毒づく子供になってしまいました。(笑)
それだけですが・・・
男と女は別物です。
子供の小学校の教育が気になります・・・
国旗掲揚しないとか・・・
ジェンダーフリー教育とか直面するといやだなぁ~と思います・・・
親として、勉強することは多いですね・・・

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教育が日本男子をダメにした。

「人類」という漢字や言葉がいつから使われたのか私は知りません。私の考えでは,男と女を一緒にして「人類」という言葉をつくったのは大間違いだったと考えています。正しくは、「男類」、「女類」に分けて使うべきだったのではないでしょうか。その理由は、男と女とは全く異質な動物だからです。だから男女お互い100パーセント理解しあうことはできません。男が人類なら女は人類ではありません。また女が人類なら男は人類ではありません。そのくらい男女間に違いがあるのだ。もし大の大人が、いやそれは違う、男女は、体の機能が違うだけで、あとは全く同じなのだと主張する男女がいたら、その男は女のことについてあまりよく知らない野暮な男であり、女は男のことをあまりよく知らない野暮な女なのだ。こんなことを主張する男女が異性からもてるようならもう此の世も終わりです。
最初から「男類」、「女類」という字と言葉を使っていたら、現在の日教組の教育方針の基本中の基本、「男女同質」などという考えは生まれなかったでしょう。なまじ「人類」などといって男女一緒こたにしてしまったから「男女同質」という思想が生まれたのかもしれません。「男女同質」とは、男と女は体の機能が違うだけで、あとはすべて同じだ、だから男女間にあらゆる差別、区別はなくすべきだという考えです。よくジェンダーフリーという言葉を使っていますが、この「男女同質」のことです。
戦後このかた男女同権、男女平等が特に強調され、実践されつづけられ、今ではすっかり常識になり、ことさら意識する事ないあたりまえのこととなりました。それはそれで非常に結構なことでなにも反対するものではありません。しかしその反面、男女異質がことさら無視され続け、そのため「男は、男らしく」、「女は、女らしく」育てるという伝統的育て方は、男女差別を生むとして徹底的にきらわれた。今では、特にフェミニストや左翼の連中は、男女異質を無視するどころか強引に男女区別そのものを取り払おうとしてやっきになっている感さえします。その現象が一番強く現れているのが日教組の支配する学校や各市の男女共同参画室です。
学校での男女混合名簿は、もう当たり前になっています。新築の校舎は、男女のトイレは同じ、更衣室も同じ、父兄から文句が出て更衣室の真ん中にカーテンをかけて男女を区別しているような学校も出るしまつです。修学旅行では宿屋に泊まれば、男女同室で寝る。小学校の運動会では、男女を騎馬戦で戦わせる等等。すべての公立学校がこのようだとはいえませんが、こういう傾向になっているようです。
一昨年の3月私は公立の中学校の卒業式では、国旗や君が代がどう扱われているかを調査しに横浜市青葉区の美しが丘中学校に行きました。学校でトイレが使いたくなったので、トイレを探しましたが見つかりません。学生に「トイレはどこ」と聞くと「すぐそこです」と言うから入っていくと女性のトイレでした。びっくりして隣の男子用のトイレで用をたしました。トイレを出てからトイレの入り口を見ると、男女識別のマークが全然ありません。よく観察すると以前は、木に「男」、「女」と書いた木札みたいのがはりつけてあったのでしょう。その男女を識別する木札が無理矢理はがした跡が残っていました。学校のトイレの男女識別札をわざわざ剥がすことが、教育となんの関係があるのでしょうか。日教組のバカさかげんもここまで進んだということでしょうか。
愛知県大府市では、市庁舎のトイレは、「男は青でヒト形、女は赤のスカートでヒト形」で区別していたが、「区別は差別につながる恐れがある」として2000年以降は市庁舎など五箇所のトイレを同一マークに変えた。ところがトイレの利用に迷うケースが続出、結局元のマークに戻すことに決めたというのです。男女のトイレ区別が、男女差別につながるというのなら、女性に全員立小便させたらどうだというのです。
数年まえ私は、相模原市で講演をした。相模原市の男女共同参画室は、駅前ビルの確か5階か6階を全部借り切っています。その階のトイレは、男女区別なし、その他の階は通常どおり男女区別ありという状態でした。今でもそのまま変わらないのかどうかわかりません。このように現在では男女の区別さえ取り除こうとしているだけではありません。発想の区別さえ厳しく問われるのだ。発想の区別とは、例えば、高校生が母の日のプレゼントとしてエプロンを贈った。この母の日にエプロン、すなわち母イコール台所という発想そのものが、男女の区別化だと主張するのだ。
後で振れることになりますが、「男が妻子のために頑張る」このような言葉や発想自体が、男女差別、男女区別を助長する言葉だと非難されるのです。このような時代だから男女異質など全く顧みられることはないのだ。中、高校生の女性のカバンには色々と可愛げな物がついています。一方男性のカバンにはなにもついていません。このように日常生活で子供の時から男女異質性を種々表しているにもかかわらず、その異質性を無視し、男らしさ、女らしさという性差は,後天的に造られたものとしているのだ。
この男女同質、いまはやりの言葉で言えば、「ジェンダーフリー」の思想は、欧米からきたものです。ところが欧米でもこの「ジェンダーフリー」が行き過ぎ、とうとうカソリック教会のローマ法王のベネディクト16世は、去年の末バチカンで聖職者向けに行った年末の演説で、ジェンダーフリーは男性と女性との区別をあいまいにし、人間の「自己破壊」に繋がるものとして非難しているのだ。至極当然のことです。教育界から「男の子は、男らしく」、「女の子は女らしく」という発想を失くし、男女同質で育てられた最大の犠牲者は、男の子です。私に言わせれば、今の若い男は、まるで去勢されたような弱い男に育て上げられたのではないでしょうか。いくつかの好例を紹介しましょう。
1.男が人前で平気で涙を流す。
私のブログ「男の涙」(9月13日)参照
2.妻子を残して平気で自殺していく男が実に多い。
妻子のためにがんばるというような男の気概など全くなくなってしまったと言えるのではないでしょうか。要するに前に触れましたが「男は妻子のために頑張る」とか「男の気概」とか言う言葉そのものが性差別、性区別につながるから使われることがないのだ。先生をしていた経験者から聞きましたが、教室で「お前男だろう」、「男のくせに」、「男らしく」などという言葉をついうっかり使用すると、生徒から「差別用語だ」と「訴えるぞ」などという言葉が返ってくるというのです。男たるものこうでなくてはならぬという枠をはめる言葉が全く使われなくなったため強い男が育ちにくくなっていることは確かでしょう。そういう男がいずれ政治家になっていくのだ。外交交渉はどうなるのでしょうか。
父親が自殺した遺児が、経済的に援助されたりしていますが、私は自殺した父親への同情の言葉を遺児に伝えることは絶対に間違っていると思います。遺児に同情しても妻子を残して自殺する父など最低中の最低の男だとはっきり指摘してやることが必要です。
3.家庭内暴力の増加。
これも男が弱くなっている典型的な例です。男というものは、精神的に幼稚で弱い、情けない男ほど暴力にものをいわせたがるからです。
4.若いセックスレス夫婦の増加。
「草食系男性」という言葉がはやって久しい。私は最初ベジタリアンの男かと思ったくらいです。誠実で優しいが、恋愛には消極的な男性を指す言葉だという。女性との交際が苦手で、晩婚化に拍車をかけているという指摘もあります。厚生労働省の「第四回男女の生活と意識に関する調査」(平成20年9月)のデーター分析の結果、1ヶ月以上性交渉していない夫婦は36.5パーセントです。少子化問題も性交回数の少なさも原因として考えられるとも言われています。若い夫婦が一月以上も性交渉がないのが36.5パーセントなどというのはセックレス夫婦同然と言っていいでしょう。幼児から全く男であるとか女であるとか意識させられることもなく育てられるとこうなってしまうのでしょうか。精神科医でもわからないのではないでしょうか。
「草食系男性」は、女性との交際が苦手だと言われています。好きな女性がいてもくどけないのだ。こんな男は最低中最低だ。私がたまにやる講演は、年配者が多いが、若い男ばかり集めて、「女の口説き方」という演題で講演したいくらいだ。
その他にも日本の男に意気地がなくなった話はよくききます。最近私は、横田徹氏の講演を聴いた。彼は34歳、戦場カメラマンです。日本では難民キャンプの映像を取るカメラマンまで戦場カメラマンを呼んでしまっていますが、実際に銃や機関銃をドンパチと撃ち合っている本物の戦場でカメラ撮影している戦場カメラマンは、日本では現在、横田氏だけです。横田氏によると日本の若者は勇気がないと語っていました。戦場カメラマンは、危険だしその割には収入に報われることがない。だから若い男になり手がないことは理解できると彼は言っています。それにしても日本の若者は勇気がなさすぎる、そこいくと欧米人の若者は実に勇気があると感心していました。欧米人戦場カメラマンが続々と誕生してくると横田氏は言うのだ。
そう言えば、世界の紛争地での現場レポートなどは、CNNなど海外テレビのレポーターからの報告ばかりだ。私の若い頃は、日本兵の勇敢さは、外人からさえも聞かされたし、また世界が認める勇敢さだった。それが現在の日本の若者の姿はどうだ、大相撲では日本人横綱が出なくなって久しいし、また日本人横綱が生まれる気配すらない。
人類が地球上に誕生した時、すでに男女の異質性は、存在していたのです。農業がまだ始まっていなかった何万年も前、男は狩に出かけ、女は家も守りました。狩する道具が幼稚のころは、狩は非常に危険な仕事であったでしょう。そのため男は負傷したり死んだりしたでしょう。また部族同士の戦争もあったでしょう。そのため男の犠牲死により、女は悲惨な辛い目にあう。農業が発展し人間の文明が栄えて狩をする機会が減っても、戦争する規模が少しずつ拡大していきました。男の戦争犠牲者の増加です。同時にそれがまた女が悲惨な辛い目に会う機会の増加です。
この繰り返しの何千年だか何万年、そのために男の攻撃性が強化され、また女の忍耐性が強化されたことは誰も否定できないでしょう。男の攻撃性、女の忍耐性が男女異質の根本的な違いです。この根本的違いから色々と派生して男女異質の遺伝子が組み込まれていったと解釈できます。
三、四年前大ヒットした映画、「タイタニック」。私は若い皆さんに問いたい。あの映画の男女の恋人に逆の演技、すなわち男の演技を女に、女の演技を男にさせたら同じように大ヒットしたでしょうか。まずヒットしないどころか、そんな映画を作る監督もいないでしょう。女が男を一所懸命助けることは、実生活でもいくらでもあります。しかしあの映画の場合は、愛する男が、愛する女を助けてなりたつ映画なのです。すなわち男女異質を忠実に反映した映画です。
若い男女があの映画を見て感動したということは、男女異質を徹底して無視されて育てられた若い男女にもまだ男女異質の遺伝子があるということなのです。「男は、男らしく」、「女は、女らしく」育てるという男女異質を認識したこれまでの育て方を徹底して無視して育てられた男女がいまや20代から30代初め頃の年齢に達しています。私はこの年代の人たちに聞きたいのです。若い皆さんは、私のこのブログにたいしてどのような感想を抱くのでしょうか。

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