Archive for 2月, 2010

潜水艦乗員の悲劇「鎮魂」




「鎮魂」というタイトルの本が去年のクリスマスに出版された。著者の千葉哲夫氏は、大正13(1924)年生まれ、現在85歳。千葉氏は17歳の時に海軍志願兵として佐世保海兵団に入団、海軍潜水学校を経て終戦まで潜水艦乗員として活躍。終戦直後は、機雷掃海艇の乗員になる。B-29等の米軍機が終戦までに投下した機雷は2万個を超えたといわれています。戦中、日本海軍掃海部隊は決死的な努力で約2,400個の機雷を処分したと言われていますが終戦時には日本の主要港湾付近の海底に9,600個以上の機雷が獲物を待ち構えていたという。それに日本海軍が施設した機雷もありますから戦後、日本列島付近の海上は危険極まりない情況でした。

千葉氏らが乗り組んだ掃海艇が、機雷を除去したのですが、除去したあとはたして日本列島付近の海上を安全に航行できるか確認しなければなりません。掃海艇ではその確認作業ができません。そこで「試航船」の登場ということになります。「試航船」とは、構造上非常に頑丈に作られていて自ら蝕雷することによって機雷を除去するという危険極まりない作業船のことです。危険な海域を連日指定の航過回数を航走しますから操船は極めて細心で正確でなければならい。航路を正確に保持し海図に記録しなければなりません。従って作業中には絶えず救助船がひかえているというのですからその危険度が推測できます。この試航船にも千葉氏は乗員として活躍し、完全に日本近海の安全が確認されるまで勤務、その後民間会社に勤務。その民間会社が倒産。

昭和27(1952)年に海上自衛隊の前身、海上警備隊に入隊、昭和30(1955)年に米国潜水艦学校に留学、帰国後自衛隊の潜水艦乗員の教官になり、昭和38(1958)年に自衛隊退職後、民間会社に就職し現在は定年生活です。千葉氏の略歴を知れば、戦前戦中の日本海軍の潜水艦部隊がどう活動したかを語れる最適任者であることがわかります。

千葉氏が書かれた「鎮魂」には、潜水艦乗員戦没者、11,500名全員の氏名(潜水艦名ごとに)が記載されていますが、決して反戦書ではありません。戦没者11,500名の多くが潜水艦乗員としての能力を充分に発揮できないまま海中の藻屑と消えた。その上戦後は、日本の潜水艦部隊は、期待に反して全くの期待はずれに終わってしまったという汚名を着せられたままなのです。この彼らの無念の気持ちを一乗員であった千葉氏が戦友を代弁する形で、潜水艦部隊の使用作戦を誤った戦時中の日本海軍エリート、すなわち上層部を鋭く批判している本です。

潜水艦部隊は、分かり易く言えば忍者部隊です。従って潜水艦の活躍は、陰にかくれがちになります。そういう事情があったにせよ、我々一般の人々は、戦時中の日本潜水艦部隊の活躍をほとんど知りませんし、また知らされてもいません。日本海軍上層部でも、例えば、大戦中大本営海軍部作戦課長であった山元鎮雄少将は、彼の著書『大本営海軍部』の中で「実に今度の戦争でいちばん予期に反したのは我が潜水艦の不振な戦績であった」と書いています。大本営海軍部作戦部長(後に連合艦隊作戦参謀長となる)福留中将は、「期待を裏切った潜水艦」と題する論文の中で「日本海軍は潜水艦に極めて大きな期待をかけていただけに云々、しかるに実践の蓋をあけてみると惨憺たる結果に終わった」と記述している。また戦争末期の連合艦隊司令長官だった豊田大将は、「日本の潜水艦作戦は緒戦より誤算をきたし所期の戦果をあげ得ないままに全滅した。その最大の原因は戦前の建艦政策の誤りと科学及び生産力の劣弱に基づいている」と述べています。

著者の千葉氏も「日本の潜水艦作戦は失敗であり期待に添えなかったことは否定できない」と正直に語っています。しかしその原因が何であったかの探求せずに、海軍上層部は、己の潜水艦に対する無知無策を棚にあげて潜水艦作戦が失敗で期待を裏切った最たるものと責任を他に転嫁する発言をしている」と千葉氏は、手厳しく海軍上層部を批判しています。

一体それでは同盟軍のドイツの潜水艦部隊と敵国アメリカ軍の潜水艦部隊は、どういう作戦行動に出たのでしょうか。皆さんご存知のように大東亜戦争勃発前にドイツはすでに英仏などの連合軍と開戦していた。開戦時のドイツの潜水艦U(ユー)ボートの活躍がすばらしかった。U(ユー)ボートと言えば、ドイツの潜水艦の代名詞のようになったのもその活躍がめざましかったからでしょう。そのU(ユー)ボートは、なにをしたかと言えば、徹底した通商破壊作戦です。通商破壊作戦などという堅い言葉を使っていますが、簡単に言えば、敵国の貨物船や油送船など、総称して商船と呼んでいますが、あらゆる商船を発見しだい徹底して破壊し荷物ごと撃沈させてしまう作戦です。

しかもこのU(ユー)ボート、ドイツ港を離れて当時の潜水艦の走行距離を越えたインド洋やアメリカ東海岸でも活躍しているのです。その理由は一千トン級の補給潜水艦の存在です。魚雷、燃料、食糧を潜水艦に補給する補給専門の潜水艦です。英国の首相、チャーチルは第二次大戦後回顧録を書いていますが、その中で「大戦中私が本当に恐怖を感じたのは、唯一Uボートであった。潜水艦による攻撃は我々にとって最大の災厄であった。すべてを潜水艦にかけたドイツ人は賢明であった」と書いている。

アメリカの潜水艦部隊も日本に対して徹底した通商破壊作戦を展開し、日本の貨物船や油送船など1042艘(全船名記載)も撃沈しているのだ。そのことが日本軍の戦闘行動にどれほどの損害をあたえたかはかりしれないものがあります。日本敗戦の原因の一つに挙げられています。それでは日本海軍潜水艦部隊は一体なにをしていたのか。日本海軍は、潜水艦の商船撃沈など戦果と評価せず、沢山の潜水艦を敵主力艦隊撃滅の海戦に投入したのだ。著者の千葉氏に言わせれば日本海軍は、レーダーもソーナー(水中探知機)もシュノーケル(潜水艦が水中航行中に海面に出す給排気用装置)さえもたない裸同然の潜水艦を敵機動部隊の迎撃に集中投入した。そのため潜水艦の多くを喪失してしまった。中にはアメリカ護衛駆逐艦「イングランド」一艘だけで日本潜水艦五艘も撃沈されるという失態を演じてしまっているのだ。

大戦中ドイツ海軍の作戦部長フレッケ中将や駐日海軍武官ベネガー中将は繰り返し「艦船の量産や航空機の増産競争では到底アメリカに勝てないのだから艦隊決戦に執着せず海上補給路の攻撃に乗り出すべきである」、「ハワイとアメリカ本土、ハワイと戦場との中間に潜水艦を配備し艦隊に対する補給船を攻撃するほうが効果的である」と進言していた。

潜水学校校長は、「潜水艦戦果の所望の如く挙がらざる原因は海上作戦構想の大変化に対し適時適切な頭の切りかえが行い得ざりしにあり、早急に潜水艦の特性を発揮できる本来の海上交通破壊戦に変更すべきである」との提案を上級司令部に提出したが、「国賊」と朱書きされて校長に送りか返されたというのだ。日本海軍上層部は、先ほど振れましたように日本の商船1,000艘以上を撃沈されたため、潜水艦を使って物資輸送にあたらせた。制海権、制空権を握られた地域では多くの潜水艦乗員が、海の藻屑と消え、あるいは潜水艦にとじこめられたまま海底に沈んだ。

日本海軍上層部は、このように潜水艦の使用作戦を完全に間違えた。と同時に日本の潜水艦には欠陥があった。アメリカの軍事専門家のモーリソン博士は、著書の中で「日本の潜水艦は潜水秒時が遅い。そして潜入深度が浅い。それから艦内が非常に蒸し暑い」と述べています。著者の千葉氏は、前に触れましたように戦後すぐアメリカの潜水学校に留学した。その間に戦時中相対した敵潜水艦に実際に乗船して驚いています。日本の潜水艦の中は非常に蒸し暑く、労働環境が苛酷であった。自分たちは潜水艦とはそういうものだと思い込んでいたのだ。ところが敵潜水艦の乗員の住環境のすばらしさに驚いています。乗員の寝室、食堂がそれぞれ独立していて、特に寝室は空調されていて充分な休息がとれる。それに反して日本潜水艦は、乗員の寝室も食堂の区別もなく充分な休息が得がたい。それにすごい蒸し暑さが加わるから乗員は、作戦行動中に疲労困憊してしまうのだ。しかし乗員の質は、日本人の方が上だ。アメリカ製の潜水艦に日本人乗員が乗り組めば、世界最強の潜水艦部隊ができると千葉氏は語っています。

なぜ日本海軍上層部は、潜水艦の作戦方法を間違えたか、大きな理由が二つあります。
(1)潜水艦乗員は、日本海軍での出世街道ではなかった。そのため海軍上層部には、潜水艦を熟知した軍人がいなかった。

(2)海軍の要職は、ほとんどが砲術出身者で大艦巨砲主義者と言われている人たちで占められていた。このことが艦隊決戦主義を固執し、戦艦「大和」を生むことになるのだ。潜水艦部隊は、これら要職を占めた人たちの作戦の犠牲になってしまった。

潜水艦乗員11,500人の戦没者名簿がこの本の厚さの半分近くを占めていますが、書かれている内容の中身は非常に濃い。日米間の数々の海戦の話も書かれています。またアメリカ海軍では、有名な山本五十六はあまり買われていないと書かれています。アメリカ海軍に一番感銘を与え、恐れられた日本海軍軍人は、日本人にはほとんど知られていない田中頼三少将というのだ。日本では彼の功績を認められないまま敗戦を迎えた。功績を認められるどころか左遷させられていたのだ。田中家のご遺族の方、もし彼の戦場での活躍をご存知でなければ、ぜひこの本を読んでほしい。田中少将の活躍が詳細に書かれています。

その他にも靖国神社の話にはびっくりしました。東京裁判を初め、戦場になった国々で連合国は裁判を行い、A、B、C級日本人戦犯合計1,068名が処刑された。日本政府は、この人たちを戦犯と呼ばず昭和殉難者と命名した。驚くなかれ、ローマ法王庁ヴァチカンに昭和殉難者1,068柱の霊が祀られているというのだ。

以下は千葉氏の文章全文引用です。
「引用開始
連合軍の手で処刑されたABC級すべての日本人の霊が世界のキリスト教カトリックの総本山ヴァチカンにローマ法王によって祀られているのである。処刑を執行した側は殆どキリスト教信者である。連合国側にとってこれ程皮肉なことはあるまい。時のローマ法王パウロ六世に日本人殉難者のためのミサを訴えたのは日本の仏教徒仲田順和師であった。
昭和51年にヴァチカンを訪問された折、かねてより心を痛めていた戦犯として処刑された人々の鎮魂と慰霊のために宗教の違いを超えて願い出られた。
仲田順和師の父君仲田順海大僧正は学徒兵や戦犯処刑者の法要を欠かさずなさっておられ、A級戦犯者の七柱の慰霊の鐘を護持されておられた。此の先代座主の志を継がれた仲田順和師(真言宗醍醐派別格本山品川寺座主)の願いをパウロ六世は快く承諾された。喜んで帰国した仲田順和師のもとに届いたのはパウロ六世の訃報であった。更にパウロ六世のあとを継がれたパウロ一世も急逝されたので順和師の願いは途絶したかに思えた。

落胆の中五年が過ぎた時パウロ二世から親書が届いた。主旨は五年前の約束を果たしたいというものであった。ローマ法王庁は異教徒であり、戦犯という厄介な問題をかかえるという願いであったにもかかわらず忘れていなかったのである。順和師はミサをご承知下さったパウロ六世に真心にお答えすべく殉難者の位牌を納める五重の塔(京都醍醐寺の五重の塔を模した)を制作して位牌を納め、昭和五十五年の五月にローマ法王庁に持参した。昭和五十五年五月二十一日ローマ法王パウロ二世のもとでヴァチカン・サンピエトロ寺院でミサが取り行われた。
我が国内では靖国神社への戦犯合祀に対する異論は四分五裂。隣国からは異常な抗議の矢表に立っている。然しヴァチカン・サンピエトロ寺院に祀られていることに対しては国内からも、激しい抗議をする隣国からも一言半句の抗議がない。ここで天皇陛下がローマ法王の御意思に倣ってと宣言され、御親拝を国民のすべてに告げてなされてはいかがでしょう。
ともに戦いながら生き残り命ながらえるも我等非力の故に未だ天皇陛下を靖国の社頭にお迎えすることもなし得ずこの無念言うべからず。ただ友よ許せと願う日々である。 合掌
引用終了」

東京裁判で処刑された7名を含む戦犯処刑者、1,068名がカソリック教の本拠、ヴァチカンに祀られている事実を知っている日本人は、多くないのではないでしょうか。この点をぜひネットで転載していただいて広めようではありませんか。

ところで最近、茂木弘道氏が翻訳されたジェームズ・B・ウッド氏の著作「太平洋戦争は無謀な戦争だったのか」が評判になっています。ワック社が出版しています。この本は八章から構成されていますが、そのうちの一章を「運用に失敗した潜水艦隊」として日本海軍の潜水艦作戦の失敗を詳述しています。まさに千葉氏の主張と同じです。それでは日本海軍は、なぜ敵艦隊撃滅に潜水艦を使用することを考えたのか。千葉氏によると日本潜水艦部隊の悲劇の始まりは、1921(大正10)年のワシントン会議だと主張しています。その理由も本書に書かれています。とにかく一読をお薦めする本です。
出版社と電話番号は、星への歩み出版、電話・FAX 072-990-2887。


追記:
現在トヨタ問題が話題になっております。それについて来週の日曜(3月7日)に「トヨタ問題の根底にあるもの」というタイトルで記事を書きますのでぜひ御覧ください。




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