Archive for 10月, 2010

B・C級戦犯(2) 海外裁判




前回のBC級戦犯(1)(国内裁判)に続いて今回は海外裁判について語ります。
二。海外裁判
前回の横浜裁判について、その特徴をいくつか挙げて書いてみましたが、今回は海外裁判についての特徴をいくつか挙げて書いてみました。

1.裁判国の多さと裁判が行われた場所の多さ。
裁判を行った国は七カ国、裁判が行われた場所は横浜を含めて全部で49ヶ所に及んでいます。裁判国名とその裁判場所を見てみましょう。
アメリカ裁判(横浜、上海、マニラ、クェゼリン、グアム)

イギリス裁判(シンガポール、クアラルンプール、タイピン、ラブアン、ラングーン、アロールスター、香港、ジョホールバル、ペナン、ジェッセルトン、メイミョウ)

オーストラリア裁判(ウエフタ、ラブアン、アンポン、モロタイ、ラバウル、ダーウィン、シンガポール、香港、マヌス)

オランダ裁判(バタビア、バリクパパン、マカッサル、モロタイ、ポンティアナク、メナド、アンポン、メタン、クーパン、パンジェルマシン、ホーランディア、タンジュピナン)

支那(北京、上海、南京、広東、徐州、漢口、瀋陽、台北、太源)

フランス(サイゴン)、
フィリピン(マニラ)

2.裁かれた元日本兵総数
この49ヶ所の裁判所で裁かれた元日本兵総数は、およそ5千700名、そのうち死刑判決を受けた者971名、終身刑の判決が479名、有期刑2、953名。私たち多くの日本人は、東京裁判で7名が死刑判決を受けたことを知っていても、横浜軍事法廷で53名の日本兵が処刑されたこともほとんど教えられず、ましてや海外の裁判で900名以上の日本兵が処刑されたことなど教えられることがないのだ。勝者が敗者を裁く「戦争裁判」なるものは、すべて終戦後に定めた「事後法」によるものであり、また「戦争犯罪者」とはいかなる人物かを規定するものは国際的になにもないのだ。しかもこれら処刑された日本兵は、ほとんど無実の罪や、死刑にあたいしない罪での極刑なのだ。

3.天国と地獄の差
横浜軍事法廷の場合、アメリカ占領軍による日本国内での裁判ということもあってアメリカ側も気を使ったことは間違いない。被告がすさまじい虐待や拷問にあうことはなかったと言えるでしょう。従って横浜裁判にかけられた被告たちには、気の毒ではあったが、不幸中の幸いという面があったことも確かです。海外裁判における元日本兵被告の取り扱われ方を知ると無性に腹が立って怒りがわいてきます。虐待、拷問の例をいくつかあげましょう。
(1)アメリカ、上海裁判の一例
獄中で台湾司令官安藤利吉大将の服毒自殺につづいて松尾正三少佐が首吊り自殺した。これに怒った監獄長のクラレンス・パークス大尉は、主な関係者6名を事務室に引っ張り出し、自殺予防と称して全員を真っ裸にさせ、厳重な身体検査の後パンツ一枚だけの裸にしたまま6名を監獄の最上階にある独房の中にぶち込む。当時の上海の気温は日本内地の真冬と思えばまちがいない。全裸でまさに歯の根も合わず、じっとしていることができない。うずくまろうにも、床はコンクリート、三方の壁もコンクリート、正面は鉄格子、室内に取り付けられた寝台、机、椅子、洋式便器があるのみで、木製のものは一切なかった。それぞれ両腕で自分の裸を抱くようにしてとにかく動いた。しかし疲れてくると床の上に、寝台の端にうずくまるしかなく、しばらく静止していると寒さのために気が遠くなる。睡眠など思いもよらぬことだった。(略)

(2)アメリカ、グアム・グェゼリン裁判の一例
こちらは上海裁判とは対照的に太陽がギラギラ輝く炎天下。朝は暗いうちからたたき起こされ、まず壁に向かって両腕を目の高さに上げたまま不動の姿勢をとらされる。監視兵が腕の上げ方が悪いと言って棍棒で殴る。そのまま数時間。朝食は割り当ての缶詰野菜をスプーンに一杯、ゆで卵半分、ベーコンの小指大一切れ、レモン水をコップに一杯で、主食なし。昼食はパン半切れかビスケット二、三枚。終われば再び両腕をあげた姿勢。午後二時頃から運動という名目で外に出されるが、熱い砂利の上で腕立て伏せをえんえんと続けさせ、その背中を踏みつけたり殴ったり、かと思うと、少しの静止も許されずぴょんぴょんととびはねる動作を繰り返させ、飛び方悪いとののしってつきとばしたりなぐったり。運動というより拷問であった。

シャッワーを許したのちは再び両腕をあげて直立不動の姿勢。大小便は一日に一回か二回しか許可を与えられない。しかもその便所というのが収容されたストッケード(収容所)から百メートル離れており、駈足を命じられる。収容所はジャングル内にあるため蚊やブヨが立っている身体に遠慮会釈なくくいつき、その全身の痒みは尋常ではないが、少しでも身体を動かすと棍棒がとんできた。夕食は昼食とほぼ同じ。夜は目の前20センチぐらいのところにある200ワットの電球を注視させ、両腕はあごの前方の重ね合わせで不動の姿勢をとる。監視兵はその間をぶらぶらとまわって気が向くと、天井を仰がせたうえ、みぞおちを棍棒ではげしく突いたり頭や背をたたいたりする。毎夜、失神する者が続出し、恐怖と疲労のため発狂する者も出た。ようやく就寝が許されるのは午後10時ごろであった。

以上のように毎日の中で「白状しろ」といわれなき追求が行われる。それもまた、蹴られたり殴られたりで、ときには実弾がこめられた拳銃を頭に当てられることもあった。夜中に起こされるのはめずらしくない。目隠しされたうえ駈足を命じられ、倒れると手をたたいておもしろがる。日本人同士の殴り合いをやらせる。体験者の報告の中には、
「収容者の義歯金歯を強要し、強奪した」
「収容者に強要して収容者の口の中に陰茎を挿入し、射精した」
「手淫を強制し、拒否すると殴る蹴るで失神させた」

立花芳雄陸軍中将と的場末男少佐は、死刑判決を受けたが、この二人に対する虐待はことさら激しかった。炎天下に素っ裸にして、満水のバケツを頭上にのせさせ、珊瑚礁の破片からなるグランドの上を素足で倒れるまで往復させる。所持品検査の名のもとに二人の所持品を雨後のグランドに放り出し、踏みにじり、時間を限ってそれを二人に拾わせる。二人が絞首刑の宣告を受けた後はさらにひどくなり、独房の中で踏む、蹴る、殴る、壁にたたきつけるなどされて、へたばれば水を全身にあびせかける、といったぐあい。その翌日二人は絞首台にのぼって刑死した。

(3)オランダ、パンジェルマシン裁判の一例
取調べ中サルマタ、フンドシまで脱がされ真っ裸にさせられて籐の棒で臀部を力いっぱい叩かれる。肉は切れ、棒にまきつく。ある者はアリの群がりついている木の枝葉を裸に押し付けられ、全身をアリに食われた。ある時は拷問専用員ともいうべき逞しい現地民兵隊4,5人を連れてきて、それぞれに太い棒を持たせて叩かせる。拷問の結果その場で絶命した者もいる。口に入れるものはろくに支給されず、炊事場の流しの下の溝にたまっている飯粒をひそかにすくいあげ、泥水と一緒に飲み込むときもある。戦犯裁判というのはかたちだけのことで、これは復讐と言っていい。このような惨憺たるわれわれの状況を復員省に伝えてもらいたい。日本は再建してかならずこの仇を討ってもらいたい。

(4)オランダ、メナド・アンポン裁判の一例
銃殺刑の処せられた山田秀雄海軍兵曹長(37歳)の日記の拾い読み。
「昭和20年9月16日モロタイ戦争犯罪収容所に入る。毎日砂袋(40キロ)をかついで作業すること。珊瑚礁を掘る仕事」
「昭和21年3月3日大虐待を受ける。左腕をおられる。今日にいたるもしびれる」
「7月26日メナド警察官より調べを受け拷問を受けた。顔、尻に傷」
「10月30日裁判を受けて死刑を言い渡される。一方的裁判である」
「昭和22年3月3日死刑となる。戦争犯罪者は皆血の出る虐待を受ける」

死刑を宣告された死刑囚たちは、監視兵による虐待が夜と昼となく続いた。犬や猫の真似をさせたり、夜中に起こして二時間もコンクリートの上に座らせて罵詈雑言を浴びせたり腕立て伏せをくりかえさせて蹴りつけたり、お互い日本人同士をなぐらせたり、床の上にまいた飯粒をはいつくばって食べさせたり、その虐待方法はよく思いついたという種類のもので、死刑囚たちは半死半生となった。

(5)イギリス、シンガポール裁判の一例
第17方面軍参謀の杉田一次大佐は戦犯容疑者としてシンガポールに移送された。彼は自刃の前に、日本軍が英軍俘虜にたいして守っていた待遇と英軍が現在行っている日本軍俘虜に対するむごい待遇を比較対照を五十四頁にわたって記し、英軍と日本軍の双方に配布してこれを遺書とされた。
「シンガポールにおける英軍の日本軍俘虜に対する待遇は虐待と同じです。朝食はビスケット三枚、昼食も夕食もお粥で、野菜はほとんど食べさせてくれない。服務させられている仕事は波止場の荷役をはじめ市街地のどぶさらいや女性たちの産後の汚物の洗濯、婦人将校たちの下着類の洗濯などです。みな、ボロ着をまとって一日も早く日本に帰還できる日を待っています」

英軍裁判の場合も、各地で逮捕・収容された日本兵たちにあたえられる毎日の食事、片手に握ることができほどの量であり、みな飢えに苦しみ、身体の衰弱と戦わねばならなかった。作業に追いたてられている昼間も収容所に帰った夜間も絶え間なく監視兵による虐待が続き、思考力もなくなり、隙をみては地面にごろごろとよこたわる状態であった。

(6)支那、北京裁判の一例
「われわれは死刑囚と同居し、その一人一人が刑場に引かれていくのを見、犬猫もそむける食物に肉体は骸骨のように痩せ衰え、病人、発狂者が続出する中で酷寒と酷熱の春夏秋冬、前後を入れて約一年半の獄中生活を送った。異国籍人と同居のため、憎悪、悪罵、ひがみ、ねたみ、その中にはもちろん友情もあったが、虫けら以下の生活に、体の弱い私はほとんどまいってしまった。点滴、輸血も数回に及んだ」

支那の裁判や犯罪者に対する慣習は、他の西欧諸国とくらべると異色なところがあります。例えばBC級戦犯者全員に「足鎖」がつけられた。全重量7キロもある。行動の自由は奪われ、足もしびれる。刑の執行法も他国と違っていた。市中引き回しのうえ、所定の空き地に連れてゆき、大衆が見物する中で銃殺する。初期の段階では二時間も三時間も市内を引き回されるうちに投げつけられる石で半死半生となり処刑場に着いた時には、意識を失い、死んだも同然だったという例もある。さらに銃殺の際に心臓や胸を狙わず、最初にわざと急所をはずして撃つので“戦犯者”の苦しみようはひとかどならず、親日的感情を抱く見物人から非難があった、という目撃談もある。

4.無念さこもる遺書の例
(1)台湾歩兵第二連隊長、田中透少将の妻子あて遺書
戦争中、チモールの東に在るスルマタ島にて、土民が反乱を起こし、我が兵を殺害せり。依って、父は討伐隊を送りて、全犯人一千名中より、主たる者約百名を捕らえ、死刑とせり。当時我が軍律会議は、アンポンに在りて、チモールより一千キロ以上隔て、その間敵飛行機、潜水艦の危険甚大にして、犯人を送る方法なく、父は司令官として、緊急自衛権の発動のより、此の処置を為せり。之は国際公法に違反せざるところなり。然るにオランダ軍は見解の相違により、自衛権を認めず。昭和23年1月24日、父は死刑を宣告さる。事情の如き故、此の運命に遭遇せり。従って、全く名誉の戦死と同様なり。御身等二人は、絶対に父の正義を信じ、他人に対して臆するところなかれ。父は御身等二人さえ信じ呉るれば、此の世に何等思い残す所なし。昭和24年4月7日に処刑された。
辞世の句: 日の本の民は逞し百難を乗り超えて立つ時ぞ待たるる。
      阿佐ヶ谷の日の暖かき我庵を瞼に画き文子思いぬ。

(2)中屋義春憲兵中尉の妻への遺書
隊長(膳英雄憲兵大佐)も全然身に覚えなき事件なり。故に軍事法廷に於ける公判廷に於いて堂々と弁論なしたるにもかかわらず我らの条理にかなった弁論も虚偽なりとて採用してくれず、支那側に有利にきめこんで我ら二人を無実の罪に陥れたのである。この様な暗黒裁判、非人道なる裁判による悲憤やる方なき者が幾多あることか、全くの無実の濡れ衣を着せて平然たる支那側の態度は人道の敵として世界の世論を喚起すべきだ。○子よ(註:
妻の名)、日本人に檄を飛ばし、憤死せる余の仇を討って呉れ。孫子の末まで言い残し余の死を空しくするなかれ。

(3)前田利貴陸軍大尉の弟と妹への遺書
終戦後とかく部下から種々非難され、又此の種戦犯者の取調べに際しても、上官と部下が互いに責任をなすり合い、果ては外国人に対して我が身可愛さから部下又は上官を売り、無事帰国した人々の多い中で、兄は常に部下たる石田、石渡両君及び他の人々から愛され、召喚を受けてからひたすら「部下及び上官を無事に内地に帰す」という初心を最後迄守り通せた事、加えるに原住民特にサウ島警備隊長時代(兄の責任のもとに行われた一切の仕事)の至誠が天に通じているものと、之亦現在如何なる罪の汚名を受くるとも兄は幸福である一つの理由だ。原住民は皆「前田は曲がった事がきらいな真直ぐな人間だ、善人であるからなんとか助けて下さい」と嘆願してくれたのだ。如何に兄を極悪人なりと軍法会議で決定しても一般の声は善人なりという。之だけでも充分ではないか。

(4)山口県出身、兼石績海軍大尉
私は無実の罪で死刑になるのは誠に残念である。然し敗戦日本が無条件降伏後に於いて日本の国体と国土を護り日本民族の滅亡を止めるために血の代償は是非必要であると肝に銘じ、国家の犠牲となる私の心中を親も兄弟も妻子も知って戴きたい。

私がこのブログ記事を書くにあたって利用した資料は、特に海外裁判については、ほとんど岩川隆氏の著書、「孤島の土となるとも」(BC級戦犯裁判)(講談社)からのものです。この本は1995年に出版されています。岩川氏は1933年生まれ、私より五歳先輩です。岩川氏が、文献として参考にしている本は、「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会)です。この本「世紀の遺書」はBC級戦犯として処刑された人たちの七百一篇の遺書・遺稿を集めたものです。岩川氏は、この本ばかりでなく未発表の資料を駆使し、体験者や遺族のかたがたに面会し、25年の歳月を要して書き上げた原稿が1600枚、大作であり労作です。ちなみに拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」は1100枚です。読者は私が紹介した資料は、岩川氏の大作のほんの一部であると理解していただけるでしょう。岩川氏は、BC級戦犯裁判についてこれほど徹底した本を書きあげても、彼は最後にこう書いています。
「日本国内では戦後いち早く、元陸海軍将校を主体とした調査班が厚生省引き上げ援護局内に置かれ、20年近くにわたって国内に住むBC級裁判体験者たちに面接し、資料を集めた。途中この調査班は法務省の管理下に置かれたが、その間に収集された膨大な記録や資料は今もって公開されていない。『まだ生きている人たちのプライバシーに関わる』『国際間の外交問題にも微妙な影響を与える』『賠償問題に直接関わってくる』というようなことが、非公開の主たる理由のようだ」

私はいまこそ公開して日本国民に知らせるだけでなく外国にも知らせるべきだと思う。そのために国家の予算を使ってでも翻訳すべきなのです。最後に私は著者、岩川氏に苦言を呈したい。岩川氏は、最後にこう書いているのだ「(略)戦争犯罪の事実はこれからもたゆみなく追求されるべきであり、真の責任者も明るみに出さなければいけないと思う。日本再建を信じて逝った刑死者たちの冥福を祈るとともに、日本軍の戦争犯罪によっていわれなき悲惨な死を遂げたアジアの一般の人たちの霊に心から詫びたい」

この「心から詫びたい」という文章、これは一体なんですか。こういう立派な本を書く人でさえ、「詫びる」すなわち「謝罪」と言う言葉を使いたがるのです。日本民族は、過去のこと水に流す民族です。そのために過去の嫌な事は、早く忘れようとします。過去のことを水に流したり、早く忘れようとするために、日本民族自身が悪くなくても謝罪ですませようとする癖があるのです。一方日本民族以外の民族は、過去のことは絶対に水に流しません。例え謝罪しても絶対に水に流しません。今年の8月12日の産経新聞で桜井よしこ氏はこう書いています。
「歴史に関して日本国政府がどれほど謝罪を重ねてきたかを調べてみると、その夥しさに愕然とする、ざっと見て、日中国交正常化当時の田中角栄以来、菅直人首相の談話まで、実に36回に上る」

いくら謝罪しても水に流してくれない証明でしょう。岩川氏よ、日本が戦争に勝てば、日本はトルーマン大統領やスターリン首相は、絞首刑にします。ドイツが勝てばヒトラーは英雄でしょう。これが戦争の現実です。なぜ日本が詫びなければならないのでしょうか。道徳論で戦争が起こることはないのです。道徳論で戦争をとらえるのをやめてもらいたい。
敗戦で終わったからと言って、また謝罪したからと言って戦争が終わるのではありません。戦争史観の戦いが続くのです。だから誤っても彼らは水に流さないのだ。

私は読者の皆さんに御聞きしたい。日本民族は、無実の罪を着せられた日本兵が死刑判決を受け、拷問虐待を受けながら処刑されていった日本兵が沢山いるのに、教科書で教ようともしないどころか、日本兵がやってもしない「従軍慰安婦事件」や「南京虐殺事件」を堂々と教科書に載せて日本兵を非難するのでしょうか。






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B・C級戦犯(1) 国内裁判



前回の私のブログ記事は「二人の芸者」というタイトルの短編小説でした。その中で芸者、お春の彼氏は、元憲兵大尉で捕まれば戦犯として裁判にかけられるので逃亡者になり無事逃げおおせています。そこで今回は、戦犯について書いてみました。戦犯(戦争犯罪者)には三種類あります。A級戦犯、B級戦犯、C級戦犯です。これは、階級差によるクラスわけではありません。A級戦犯は、「平和にたいする罪」であって「侵略戦争または国際法・条約・協定に違反した戦争を計画・準備・および遂行したもの」、B級は「固有の戦争犯罪」で戦時における「戦争法規違反」。C級は「人道に反する戦争犯罪」で、「戦争前あるいは戦争中に、すべての人民に対して行われた殺害・殲滅・奴隷化・追放その他の非人道的行為、政治的もしくは人道的理由にもとづく迫害行為」を対象としている。日本の政治家、軍人などの指導者、合計28名がA級戦犯の汚名を着せられ裁判にかけられ、そのうち東条元首相ら7名が死刑の宣告を受け処刑された。これが東京裁判です。この東京裁判については現在でもよく話題になり、それこそ沢山の本がこれまでに出版されています。これに反して、B級戦犯、C級戦犯、いわゆるBC級戦犯についてはあまり話題になることもないし、またこれまでに書かれた本の数も東京裁判にくらべると極端に少ない。そこで今回このブログではBC級戦犯に絞って話しをすすめていきます。

一。横浜裁判
日本国内でBC級戦犯が裁かれた場所は、横浜地方裁判所一ヶ所だけです。横浜軍事法廷とも呼ばれています。この横浜軍事法廷で取り扱った件数は、327件。その多くが日本国内の捕虜収容所での敵軍捕虜の虐待です。被告数1037名。死刑つまり絞首刑の判決は53名、終身刑88名、有期刑702名、無罪150名、その他(起訴取り下げ、公訴棄却、裁判中止など)44名。
この横浜軍事法廷に関する主な特徴を箇条書きにしてみました。

1.最初の死刑者: 由利敬元陸軍中尉、福岡俘虜収容所大牟田分所所長
昭和18年より昭和19年にいたる間、同分所より逃亡を企てた米軍俘虜ジェームス・シー・ハールド上等兵を部下に命じて刺殺・殺害せしめ、また同米軍俘虜ジー・パブロス伍長を飢餓により死亡するにいたらしめ、かつ部下、警備員などが同分所の収容中の氏名不詳の多数の米軍俘虜に対し拷問または不当の取り扱いなどの虐待を加えることを許容し、分所長としての自己の職責を無視、かつ怠った」(要約)の基に死刑判決、即処刑された。
由利は日本人弁護士をつけるのも断り従容として運命を受け入れた。
由利の母への遺書、「死するに非ず、大生命の本源に帰するものなり。ただ物質なる肉体のみ、、ポツダム宣言の露と消えん」
「お母上様の御声を得る、すべなくして散るを悲しむ」
「ああ悲しかるかな、お母上様の運命、思えば涙漣 果つるを知らず、何卒、敬の分も百年も二百年も強く生きられよ」

2.他死刑者の遺書の例:
平手嘉一元陸軍大尉、函館俘虜収容所分所所長の父への遺書
「その始めて生ずるを見て、終に死あることを知る。時到って自然に帰する。是れ人生であります。たとえ身体は何処に果てましょうと、五尺の生命死せざるものあるを信じて疑ひありません。聖皇仁王といえども難に当たっては破邪の剣を執ると云ひます。嘉一は不肖ながら誠心を持って任務に服したことを誰はばからず確信いたします。国敗れて国に殉ず、嘉一の本懐これに過ぎるものありません。立派に最後まで責を果たしたつもりです。どうぞご安心ください。
辞世の句:「ますらおの道にしあればひたすらに務はたして今日ぞ散りゆく」

平松貞次元陸軍兵長、東京満島俘虜収容所警備員の妻への遺書
「久子よ、お前の心の内は私に通じ、私の胸の中は、そのままお前に通じている。勿体ない事である。私はお前を力強く思って、おまかせして安静に一足先に行く。苦しい生涯であろうが、あくまで耐え忍び、報恩の道を力強く生き抜いてくれ。貞枝、千枝、貞美の顔が何時までもまぶたを走るけれども、その後は必ず純情なお前の姿が子供を包んでいてくれる。お前は本当に素直で純情であった。気強かった。つつましかった。お前は全身の精力をこめてこの愚者の夫を良く助けてくれた。このような言葉ではいい表せないほど強い縁に一体となった。またお前は心から私を落ちつかせようと絶えず細心の注意を払ってくれた。が、不徳のいたすところこのような運命に立ち至ったことを思うとき、われを恨んでも恨んでも足りないのである。もはや過去はいうまい。そんな愚痴はお互いを曇らすばかり。生死の巌頭に立って、お前たちを思う一念の魂が言葉を差し上げる。良く聞いてくれ(略)」


3.「嘆願書」に対する日米文化の差
横浜軍事法廷で日米の文化の違いが一番現れたのが嘆願書に対するアメリカ人の態度でしょう。嘆願書とは、被告の肉親や近親者が集めた書類、すなわち被告はかくかくしかじかの経歴を持つ温厚なで立派な人物である。そのためそのような残虐な行為をするわけがない。裁判にまで情に訴えようとする日本人の心情が現れています。中には被告の幼い子が書いた切々たる手紙があった。日本人としてはその心情は理解できますが、アメリカ人は全く理解できません。なぜこんな無駄なことをするのか全く理解できないし、理解しようともしなかった。血と涙に訴えた嘆願書を歯牙にもかけていません。彼らにとっての関心は、“事件”についての真実だけです。その「真実」も米国人による調査に基づくものです。だからその「真実」を覆す反論や疑問を提示して法的に論戦を挑むのが最適なのですが、米国軍という権力者に向かって反論、反証して反感を買うより情に訴えようとしたのではないかとも想像できます。その日本人の心情はよく理解できます。当時の日本人の感覚では裁判は、悪い人が裁かれる所という意識が強かったから無理もない。

4.映画「明日への遺言」
この映画は2008年に公開された。映画の主人公は、死刑に処せられて岡田資(たすく)元中将。岡田元中将の役を俳優、藤田まことが演じていた。岡田が主犯とされた事件がいわゆる“敵機搭乗員処刑事件”です。同じ俘虜に違いないが無差別空爆にやってきて不時着・撃墜されて俘虜になった連合軍兵士の一部を日本軍は各地で処刑にした。無防備な一般庶民を皆殺しするような無差別攻撃をしてきた敵機が不時着したり、撃墜されたりしても敵機の搭乗員の生命を保証しろというのはナンセンスもきわまりない。岡田元中将の守備範囲である名古屋方面が無差別攻撃にあった。岡田の命令のもとB29米軍搭乗員38名が処刑された。岡田を含め20名が裁判にかけられた。この時岡田は「この裁判は戦争の継続、法戦だ」、「責任は私一人に集中させる。規律を乱すな」のもとに20名全員一致団結のもとに法廷闘争を戦いぬいた。法廷での岡田の主な反論は、無差別空爆は国際法違反である。事実、国際法違反なのです。オランダのヘーグで調印(日・英・米・仏・伊・蘭の六カ国)された「空戦法規案」の第四「敵対行為」第22条には、「普通人民ヲ威嚇シ軍事的性質ヲ有セサル私有財産ヲ破壊若ハ毀損シ又ハ非戦闘員ヲ損傷スルコトヲ目的トスル空中爆撃ハ之ヲ禁止ス」とあり、陸戦法規には、「防守セザル都市ソノ他ハ、イカナル手段ニヨルモ、コレヲ攻撃アルイハ砲撃シテハナラナイ(第25条)」という規定があるのだ。

裁判の結果は、岡田の計画どおり絞首刑は自分だけ一人となり、大西一元大佐は、終身刑、他の被告全員、10年から30年の有期刑。この判決は他のBC級裁判ではめずらしい軽い刑だと言われています。岡田の統率力が抜群だったのが幸いしたのだ。岡田以外の組織は、敗戦とともに組織の秩序が乱れ、単なる烏合の衆と化し、それぞれ自分の行く末を考えて混乱した。またそこが米軍のならいでもあった。この映画をまだ見ていない人はぜひ見てほしいと思います。横浜軍事法廷を舞台にした典型的な裁判劇です。このような映画が製作可能になったのも米国が、横浜軍事法廷の記録をすべて全面公開したからだということも付記しておきます。

5.密告と裏切りの続発
裏切りと変節の遺伝子を持つのが日本民族です。したがって我々日本人は、裏切りや者や変節者に非常に寛大なのだ。この私の意見をきいて驚いたり、怒りを覚える人がいたら私の拙著、「逆境に生きた日本人」(展転社)を読むことをお薦めします。日本民族はあらゆる面で世界一優秀な民族、日本の文化はすべての面で世界最高などと主張する盲目的国粋主義者は、この本を読むのをいやがりますし、また読んでも全く無視してしまいます。横浜軍事法廷で働いていた米軍の調査官が「日本人はなぜこのような密告(裏切り)が多いのか。われわれ外国人には考えられないことだ」、「こんなに密告や裏切りが多い国民は見たことがない」と驚いているのだ。
短編小説「二人の芸者」の芸者、お春の彼氏、元憲兵大尉、は逃亡中榊原温泉で偶然お春に出くわします。そこで彼はお春と一月間ぐらい一緒に暮らします。あまり長居するとうわさになるからと言ってお春の元を去っていきます。密告されるのを警戒してのことです。アメリカ軍や日本警察に追われている元日本軍人を知らんふりして匿うどころか積極的に密告するのが日本人なのだ。アメリカ軍人が「こんなに密告や裏切りの多い国民はみたことがない」と軽蔑するのもむりはない。

一方警察は警察で、敗戦後は米軍に徹底して迎合していくのだ。その態度がBC級戦犯者に対する態度が如実に現れます。いくつかの例をあげましょう。
「私は居住地(静岡県)警察署に逮捕拘引状の提示もなにもなく連行され、一般の囚人と同じ房に監禁された。家族との面会を禁止されたばかりか、極悪人と同じ待遇であった。巣鴨に移送するため県の刑事部署観察房に泊められたが、12月の厳寒のときに毛布一枚だけ渡され、翌日の朝食ハジャガイモ7個といったぐあい。なによりも、逮捕状拘引状(のちに入手)に記されている名と経歴が明らかに私でなく別人であるにもかかわらず、ろくに調査もせず私を連行したことに怒りを感じる。人違いではないか、逮捕拘引状を見せてくれと私が幾度も言ったにもかかわらず、彼らは“絶対におまえだ”と言う。部長クラス二名もそばにつきながら、逃亡におそれてか縄をかけ、一般の囚人とおなじようにして列車で送られた」

「山口県の警察署に拘留されたが、ただちにいっさいの自由を束縛され、護送中は両手に手錠をかけられ、”こら”、“こっちへ来い”などと聞くに堪えないような罵声を浴びせられた。しかも、東京までの旅費を自弁させられたのにはなんとも腹がたった」

「連合国側の取調べで拷問にあう前に、まず日本人による制裁や暴行を受けねばならなかった」

芸者、お春さんの彼氏は、BC級戦犯の逃亡者だったが、逃亡をはかった者たちに対する米軍側も日本の警察も、当然のことながら追及は苛烈であった。
「家族の全員(両親、兄、婚家よりお産のための実家に帰っていた妹)が一週間も警察に留置された。産後の妹は生まれて一ヵ月ばかりの赤ちゃんを抱いての留置だった。本人の居所が分かり、逮捕するまでおまえたちは釈放しないと言われたという」

「私が逃亡しているあいだ、兄と母はおよそ一ヶ月間留置され、福岡県の某警部補からきつい尋問を受けた。その調べのため兄は勤め先を休むことが多くなり、責任感から辞職せざるを得なかった。その後は職もなく、一年半にわたって失業状態が続き、売り食いも底をついてきて、いっときは一家心中まで考えたことがあるという。しかし日雇い仕事でなんとか危機を脱し、ようやく新制中学校の教師となることができて、細々と一家五人食いつないでいる。米軍当局の要求はどうすることもできなかったろうし、その命令を受けた所長にも事情があったと思うが、日本人の警察ならもうすこししっかりして、みんな人間らしく扱い、もっと要領よくやってほしかった」

米軍の逮捕リストに記載されているというだけで日本の警察は、米軍以上に日本人容疑者に辛くあたる。日本人が日本人を裏切るのだ。同胞が同胞を裏切る。これが日本民族の習性なのだ。理由は最初に触れたように日本民族には、裏切りと変節の遺伝子がくみこまれているからです。読者の皆さん、大東亜戦争が仮に侵略戦争だったことにしましょう。侵略戦争に関しては欧米諸国の方が日本の大先輩です。欧米諸国は、侵略戦争だろうとなんであろうと自国のために戦ってくれた兵士や戦争当時の指導者に敬意を払っています。ところが日本では自国のため戦ってくれた兵士を平気で足げにするのだ。日本政府自ら、自国のために戦ってくれた兵士に敬意を払うどころか足げにしているのだ。これは政府の同胞への裏切りではないのですか。そんな政府を誕生させる国民も同胞への裏切りではないのですか。だから私は主張するのです。日本民族は裏切りと変節の遺伝子を持つ、だから裏切り者や変節者にたいして寛大なのだ。現在の日本列島は、裏切り日本人で充満しています。日本が落ち目になっていて、這い上がれそうもない現状になっているのは当たり前の話なのです。

戦争目的がなんであれ、自国のために戦ってくれた兵士には敬意を表す。これが日本以外の民族の常識なのだ。日本民族は確かに優秀なところはある、しかし同胞にたいしてはいつでも裏切るのです。この点に関しては世界最低の民族と言えるでしょう。そんな世界最低の民族になぜ私が日本人として誇り高い男なのか、それは「俺こそが日本人を代表する日本男子だ、裏切る日本人は真の日本人ではない」との思いが強いからです。

6.殉国六十烈士忠魂碑
皆さん、「殉国60烈士忠魂碑」をご存知ですか。60烈士とは、東京裁判で極死刑させられたA級戦犯者7名と横浜軍事法廷で極死刑させられたBC級戦犯者53名、合わせて60名の人たちの忠魂碑ことです。最初の殉国六十烈士慰霊祭が行われたのは昭和29(1959)年でした。「日本協会」の会長荒木貞夫元陸軍大将以下幹部列席のもと横浜、久保山火葬場脇の墓地で行われました。昭和43(1968)年10月20日に横浜、久保山、光明寺に「殉国六十烈士忠魂碑」が建設され、慰霊碑の裏面には殉国六十烈士の氏名が久保山で荼毘にふされた日の順に刻まれています。以来毎年一回も欠かすことなく10月20日前後に横浜、久保山、光明寺で慰霊祭が現在まで行われています。今年も今月20日に日本郷友連盟神奈川支部主催のもとに行われます。私も参加します。

私は、去年は所用があって慰霊祭には参加できませんでしたが、その前の5年間は連続して参加しています。その時、A級戦犯では、板垣征四郎元陸軍大将の次男の板垣正氏が毎年、東条元首相のお孫さんの東条由布子氏が時々、慰霊祭に参加しておりました。しかし53名のBC級戦犯者の遺族は誰一人として慰霊祭に参加しておりません。年をとられた先輩たちの話のよると遺族の方たちは、「不名誉なことだからほっといてくれ」という方が多かったそうです。しかし昭和29(1954)年、国会決議により連合国による刑死者(A級戦犯者、横浜軍事法廷で裁かれたBC級戦犯者、また外国で裁かれたBC級戦犯者)は、国内的には昭和殉難者とされ、法的には法務死として戦犯の汚名は払拭され、恩給、遺族手当て、遺族年金など戦死者と同様な扱いとなり、その名誉は回復されております。遺族の方々にはぜひ堂々と慰霊祭に参加してほしいものです。それでも遺族の中に不名誉と感じる方がおられるとするならば、それはあなた自身で自分の家系をいやしめることになるのではないでしょうか。国敗れて国に殉じた。戦死と全く同じです。だから国会で決議したのです。例えご遺族の参加がなくともすでに50年以上慰霊祭を続けている神奈川県民の方々がおられるということも全国の方々に知ってもらいたいと思っております。

なお次回は、BC級戦犯の海外裁判の実態の一部について書きます。












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