Archive for 12月, 2010

ガキの小林よしのりを叱る



良い本を書くからといって人間性がすばらしいとはかぎらない。ノーベル文学賞をもらった大江健三郎は日本人のくずだ。私は小林よしのりの漫画本を三冊読んだ。「戦争論」、「パール真論」と「天皇論」です。どれもすばらしい漫画だ。良い漫画を書くからといって人間性がすばらしいとはかぎらない。小林よしのりは、精神的にはまだガキだ。月刊誌「WILL」の2011年1月号(新年特大号)に小林よしのりは漫画を載せている。題して「たそがれ映画館」。60代、70代の老人を徹底して「じじい」呼ばわりし、それこそぼろくそに「じじい」をけなしている。ちょっとガキ、よしのりの吐くセリフを一部紹介するとこうだ。
「映画が終わってロビーで電話していたらじじいが続々トイレにつめかけている」
「最後にトイレに入ったら、便器の周りがビシャビシャ! きったね~~~っ」
「じじいは一条に絞り込んだ小便を勢いよく噴出することができないのだ。
シャワーみたいに周囲に飛び散らしている」
「チンコがだらしなくて、小便が真下にだらだら流れるのか?」
「チャックから出した瞬間に噴出してあらぬ方向に飛んでいくのか?」
「何にしても便器の中の一点に目がけて噴出することができないのがじじいだ!」
「わしの高級な革靴の底が、じじいの小便に汚される。実に不愉快!」   
「考えて見れば、わしが憧れていたのは現在80歳、90歳以上の戦争体験のあるじじいだった」
「今時の70歳代(小国民世代)のじじいは、GHQ占領下で戦後民主主義の影響を受け、価値観を揺さぶられたままになっている」

まぁこういった調子で70代、60代の老人を「じじい」呼ばわりをしてぼろくそにけなしている。男も60、70代にもなると、医学用語で言うところの「排尿障害」に誰もが大なり小なり悩むことになる。これは若い時摂生したとか不摂生したとかの問題ではない。年を取れば白髪が出るように、「排尿障害」も加齢による自然現象なのだ。その病状を大げさに表現して「じじい」をからかい、けなすということは、通常の精神を持った大人なら決してしないことなのだ。小林よしのりの精神は、いまだ未熟でガキのままなのだ。全文「じじい」、「じじい」の「じじい」呼ばわりの連続だ。「言葉使いに気をつけろ、このガキが!」と面と向かって注意したいぐらいです。

ここで読者の皆さんや小林よしのりに言っておきたいのは、我々70代世代は、70代以下の世代と比較して三つの特徴があると思っています。その三つの特徴とは:
(1)戦争孤児の存在。その戦争孤児たちは、今ではほとんどが70歳代なのだ。
(2)他の世代と比べて、最終学歴が中卒の人が圧倒的に多い。
(3)他の世代と比べて、子供の時から苦労している人が圧倒的に多い。
この(1)、(2)、(3)を説明していくと長くなるので、(1)の戦争孤児については少し詳しく説明します。何故なら私の年代でさえ戦争孤児の存在をうっかり忘れ、ましてやほとんどの若い人には、戦争孤児の存在など知られていないからです。戦争孤児とはどういう人たちか。戦争で父親を戦場で失い、母親を空爆(空襲)で失ったり、あるいは空爆で両親を失ったりして孤児になった子供たちのことです。終戦直後、日本中でどのくらいの数の孤児が出現したかわかりません。ただし推測できるケースもあるのです。それは学童疎開です。戦争も末期になった昭和19(1944)年、政府は学童疎開を閣議決定した。都市に住む住民の小学校3年から6年生の学童を安全のため親から離れた田舎(地方)に疎開させた。疎開費用は、政府と親が半々を受けもった。親も都市に住んでいては子供が危ない、自分は死んでも子どもだけは助けたいとの一心でした。この時、学童疎開で地方に暮らすことになった学童数は70万人と言われています。その中には、現在の天皇陛下もおります。陛下も皇居を離れて地方に疎開したのです。

その70万人の小学校の生徒が、学童疎開している間に日本の大、中、小都市約90都市が、アメリカ軍の無差別空爆に襲われた。広島、長崎の原爆もそうだし、東京大空襲もそうです。この70万人の学童のうち空爆で両親を失い、あるいは母を失い、父を戦場で亡くして孤児になってしまったのが7万人と言われています。その他に学童疎開の対象にならなかった幼児から小学校2年生までと中学生は、親と一緒に都市に住んでいたのですから、空爆で親を失い自分だけ生きてしまって孤児になった人も沢山います。また満州から引き上げ、引き上げなどと穏便な言葉を使っていますが、満州からの逃避行と言ったほうが妥当でしょう。その逃避行の途中で親を失い、孤児になって日本に上陸した子供もいます。私はざっとみて終戦時には孤児は10万人以上いたのではないかと想像しています。
ちなみに私は終戦時小学校一年生でしたから学童疎開の対象にならなかった。住んでいたところは川崎市、重工業都市です。父は富山県の出身で実家が富山県にあった。いずれ川崎も空爆に会うと予想した父は、私が5歳の時に私一人を富山に疎開させた。両親と幼時の妹二人は、父の会社の寮がある群馬県の草津に身を寄せた。川崎は空爆を受け自宅は跡形もなく焼失したが一家全員無事だった。そのことはラッキーだったのですが、父は戦前結核を煩って軍隊に入れなかった。戦前戦中の無理がたたって戦後は重症の肺結核で即入院、ここから我が家の極貧生活がスタートしたというわけです。

政府はこの7万人とも思われる学童の孤児対策としてなにをしたか。まず孤児たちの親戚探しです。この親戚探しで、孤児が幸せになる場合もありました。しかし多くの孤児たちは我慢を強いられ苦しい生活を続けるはめになった。過去に親戚どうしの深いつきあいがなければ、親戚というだけで孤児を預かっても、日本中皆生活苦で必死の思いで生き延びている時に、食い扶持が一人増えることになるからです。孤児たちは労働力として扱われ、学校に満足の通わせてもらえず、あてがわれる食事の量も差別された。政府はまた孤児たちの養子を公募した。地方の農村から孤児の申し込みが殺到したという。この時も幸せになった孤児もいたはずです。しかしこの時の申し込み殺到は、孤児を助けたいという同情心ではない、あくまでも労働力の確保です。明日をどう生きるか日本中が必死になっている時には、同情心はあってもそれを実行することはむずかしいのだ。戦争で死んでしまった農村の若者にかわる労働力が必要だった。孤児たちは当然のごとく酷使され、差別され、学校にも満足に通わせてもらえず、食事の量も差別された。受け入れ先で不満を感じた孤児たちは、逃げ出す者も多かった。その逃げ出した孤児たちを当時浮浪児と呼んだ。今流行りの言葉で言えば、子供のホームレスです。預けられる親戚もなく、養子にももらわれず戦争孤児のまま浮浪児になった子もいた。終戦直後全国で浮浪児が3万人から4万人いたとい言われています。

私が小学校2、3年の頃だったと思う。横浜は橋の多い町だ。桜木町の橋の下にたむろしていた私と同じぐらい年齢の浮浪児を数人見た。当時の浮浪児は生きるのは非常に大変だったと思う。現在だったらコンビニのそばのゴミ箱のぞけば残飯ぐらいあるでしょう。当時は大変な食糧不足の時代です。最近読んだ本によると、終戦の8月15日から11月18日までの三ヶ月間に東京の上野、四谷、愛宕の三警察署の管内で総計150人ほどの餓死者、また神戸、大阪、名古屋、横浜の五大都市で、合計737人の餓死者が出ているのです。「餓死対策国民大会」などがあった時代。三度のメシを二度にするのは当たり前の時代。ゴミ箱あさっても残飯はない。結局生きるため盗みをする。そのため社会から嫌われ者になる。それでも戦後直後戦争孤児たちは、世間の同情を集めた。それを証明したのが終戦から2年たった昭和22年(1947)から始まったNHKラジオドラマ、「鐘の鳴る丘」だ。ドラマの内容は戦争で復員してきた青年が、戦争孤児たちの痛ましさをみて、自ら信州の山奥に戦争孤児たちをあずかる山小屋を立て、大勢の孤児たちを住ませ、その団体生活を描いたもので大変な人気ラジオドラマになった。このドラマ番組が昭和25年まで三年間続いたのだから人気度がわかります。ドラマ開始の翌年、昭和23年(1948)に映画化された。私は小学校から先生に連れられてこの映画を見た覚えがあります。

昭和30(1955)年には、戦争孤児たちを歌った流行歌が全国的に大ヒットした。宮城まり子が歌った「ガード下のくつみがき」です。三番までの歌詞を披露しますが、若い人にはじっくり読んでいただきたい。
1。赤い夕日が ガードを染めて
  ビルの向こうに 沈んだら
  町にゃネオンの 花がさく
  おいら貧しい靴みがき
  あぁーあ、夜になっても帰れない

2.墨によごれた ポケットをのぞきゃ
  今日も小さな お札だけ
  風の寒さや、ひもじさにゃ
  慣れているから 泣かないが
  あぁーあ、夢のない身がつらいのさ

3.誰も買っては、くれない花を
  抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
  可哀想だよ お月さん
  なんでこの世の 幸せは 
  あぁーあ、みんなそっぽを向くんだろ

どうですか、戦争孤児の悲哀、哀感が伝わってくるではないですか。この歌がヒットした昭和30年は、戦後10年目の年です。戦後直後の混乱、困窮した時代から10年たち、社会全体がちょっと一息できるような年なった。そこへこの歌が出現したから戦争孤児に対する同情が盛り上がりしヒット曲になる素地を生んだのではないでしょうか。ただでさえ貧しい、混乱した時代、そんな時一番頼りになる両親がいない少年少女が健気に生きていく姿。私は現在すぐに自殺したがる若者には、戦争孤児の話しをしてあげたらいいと思う。戦争孤児たちには、今はやりの心のケアもカウンセリングもない、生活保護もない、生抜くか、野垂れ死にするか二者択一だ。現在の自殺問題などが軽く見えてくる。戦争孤児に対する世間の関心は、この時が最高じゃなかったかと思う。戦争孤児たちも成長して大人になると、生きるために盗みをして捕まれば犯罪者になってしまうし、また日本経済も高度成長に入っていくと、戦争孤児たちは世間からだんだんと忘れられていった。現在では完全に忘れられた存在です。それでも彼らは70歳代で現在生活しているのです。恐らく彼らは裕福な生活をおくっていないのだ。戦争孤児たちは、戦没者遺族年金をもらうことができません。

ちょっと話がそれますが、私の息子の友達の両親は、両方とも戦争孤児です。二人は、この広い世間に頼る人誰もおらず大変苦労しただろうと思う。息子の友達の話によると両親は、まともに中学校を卒業していないのでどうしても社会の底辺の仕事につくほかなかった。特に母親は、中学校を満足に卒業していないというのが大変なコンプレックスになり、外では自分の意見を絶対に言わない。こんなこというとバカにされるのではないかとか、恥ずかしい思いをするのではないのかと心配が先になって黙っていることがほとんどだそうです。母親に「母さんは、自動車免許の試験に合格し、どうどうと車の運転しているではないか、そんなにコンプレックスを感じるのはおかしいよ」と言ってもまったくダメだといいます。友達の父親は、60代になってやっと念願の自前の小さなラーメン店を持つことができた。ところがその時すでにガンが進行していて店をオープンしてから間もなく死んでしまった。人生とは残酷なものです。両親の苦労を知っている友達は、高卒後サラリーマンになると、会社終わってから夜の仕事、例えばガソリンスタンドなどで働いたりして、一年365日、何年も日曜祭日休まず、遊ばず、猛烈に働きまくり、とうとう30代で自分の家を建ててしまった。まさに「家貧しくして孝子現る」の格言のごとし。子供手当てで育った現代の子供には、もうこういう孝行息子も孝行娘も現れることはないだろう。

小林よしのりの作品に「天皇論」という漫画がある。その中で自分の苦労(?)を自慢げに語り、我々の年代の苦労をこけにしたようなセリフを吐いているところがある。61頁にこう書いています。
「わしは漫画家になってから円形脱毛症をつくり、三日三晩徹夜で描いても何度も連載打ち切りになり、不調な時は編集者になめられ侮辱され、脅迫にも暗殺尾行にも裁判にも言論封殺にも耐えて、ヘルニアを自力で抑えながら、緑内障も白内障も体験して、今でも一日16時間、机にかじりついて働いているから、若者を甘やかす気にはなれない」

よしのりに言わせれば、自分が漫画家として成功するまでには、こういう苦労をしてきたのだぞと誇りたいのであろう。しかし70代の人間にとっては、こんなものは苦労でもなんでもない。よしのりの苦労は、漫画を書くという好きなことで生活がなりたつための努力ではないか。漫画描くことで生活がなりたつほど収入がない時でも、三度の食事ができるから漫画を描き続けられたのだろう。そんなものは苦労とは呼ばないのだ。何と呼ぶのか。努力です。苦労と努力とは違うのだ。例えば野球選手のイチローは、大リーグで大活躍していますが、彼の日頃の努力は大変なものです。「苦労」とはいいません。ジャッキー・ロビンソンという有名な初代の黒人大リーグ選手がいました。アメリカの人種差別の激しい時代の選手です。そのためジャッキー・ロビンソンは大変苦労した。「努力した」とは言いません。「苦労」とは何か定義することはむずかしいが、自分にはやりたいことがある、しかし食べる事の方が先決で、自分のしたいことができない、やむを得ずしたくない仕事をする。これは苦労と呼んでいいでしょう。よしのりにはこういう苦労はなかったのだ。私とよしのりとでは、15歳の年の差がある。彼は1953年生まれ。1955年から1973年の18年間が日本の高度成長の時代、1973年から1991年の18年間が日本経済最強の時代。その間36年間。1991年後は、日本経済は突然貧困になったわけではありません。要するによしのりは、日本の高度成長直前に生まれ、高度成長期に育ち、成人した頃は日本経済絶頂期と苦労なし時代の申し子だ。現在の20歳前後の若者よりめぐまれていたのだ。

よしのりよ、よしのりの時代は、自分の好きなことに熱中できる幸せな時代だ、その好きなことで飯を食えるようによしのりは大変な努力をしたのだ。苦労したのではない。よしのりの自分の「苦労?」を誇るセリフの後に、次のセリフが続きます。
「だが敗戦後の占領期に流行った『東京の花売り娘』や『東京キッド』を聞いてみろ。
なんて希望を感じる歌なんだ!
戦中派が『リンゴの唄』や『青い山脈』を高らかに歌いながら、これから高度成長を迎える日本の未来を、単純に信じられた時代とは全く違うんだと釘を刺しておきたい」

このセリフも70代の人間を怒らせる。よしのりはなにもわかってはいない。自分の努力を苦労と勘違いし、私の年代の苦労と比較しているちぐはぐさが理解できないのだ。だから私は、よしのりは精神的にまだガキだというのです。「東京の花売り娘」の実情は、先ほど紹介した「ガード下のくつみがき」の三番の歌詞を読めというのだ。「東京キッド」にしても主人公の少年のねぐらがどこか歌詞に書いてある。ねぐらはマンホールだ。こういう暗い時代だからこそ、明るくとらえて歌い上げて生活していこうとする人間の知恵なのだ。苦しい労働から民謡が生まれるのも同じ感覚でしょう。「東京の花売り娘」や「東京キッド」を聞いて、「なんて希望を感じる歌なんだ」と、バカも休み休み言えというのだ。暗い歌もある。歌の題名より、歌の中の歌詞一句が有名になったセリフがある。「こんな女に誰がした」だ。歌の題名は「星の流れに」。よしのりよ、この歌詞を読んでみるがいい。自分が育ち、成人して社会に巣立っていった時代がどんなに幸せな時代であったかを改めて知るがいい。

「これから高度成長を迎える日本の未来を、単純に信じられた時代とは全く違うんだと釘をさしておきたい」
このセリフも全く笑わせる。いいですか、よしのり、よく聞け。人間は未来を予測することは出来ないのだ。だから生きていけるのだ。我々70代や先輩の方々は、やがて高度成長がくるからと日本の未来を信じて働いてきたのでない。誰が当時の日本の未来を予測できたというのだ。当時の全国民がなんとか貧乏から這い上がろうと、自分の家庭の生活水準を少しでも上げようと国から命令されずとも一致団結してただただがむしゃらに夢中になって働いた結果が高度成長に繋がっていったのだ。それを「単純に日本の未来が信じられた」などとバカをほざくのもいいかげんしろと言いたい。最後によしのりはなぜ猛烈に毒づいて老人批判をするのか、そのくせ若い人には辛らつに毒づく事もないのか説明しましょう。

それは老人が、漫画を読む層ではない、だからよしのりの漫画などほとんど読みはしない。そのため老人をいくらけなしても彼の生活には影響はない。それに老人は、パソコンをあまり使わないからネットで猛反撃されることもない。ところが若者は違う。若者は彼の漫画の読者層だ。だから毒舌のよしのりが若者に毒づいたら、若者の読者離れが生じて彼の漫画が読まれなくなります。すなわち彼の食い扶持に悪影響が出る。従ってよしのりは若者にはあまり毒づかないのだ。若者の意見に同調して老人批判に徹した方が若者に受けがいいから、毒づかないどころか若者に媚びることさえする。月刊誌「WILL」の一月号(新年特大号)でよしのりはこういうセリフを吐いている。
「60歳すぎのじじいは本を読まない。老眼になるし、読書もつらくなるのだろう」
「最も本を読むのは30代で、次に読むのが20代、そして40代という順なのだ!まさに『ゴーマニズム宣言』の読者層と、どんびしゃ! 一致している!」
確かに老人は、年を重ねると読書しづらくなることも事実でしょう。しかし我々70代の人間は、もともと読書という言葉には、漫画を読むことなど入っていないのだ。女房、子供もいる30代、40代の男が、漫画に夢中になっているとその男がなんとなく頼りなく見えるのが70代の人間だ。30代、40代の人たちに言っておくが、漫画ばかりみて他の本などほとんど見ない人は、その人の今後の経済的発展もなければ精神的発展もありません。よしのりは、この意見に賛成のはずだ。若者にそのことをはっきり言ってやっていますか。よしのりは、自分の読者層の若者に媚びるだけではない。若者に反老人を煽ることさえするのだ。同じ新年特大号で、若者にこう呼びかけてさえいるのだ。
「若者は戦後育ちのじじいを糾弾すべきなのだ!
「戦争で死んだ若者のおかげで平和な日本の繁栄を享受し、バブル以後の若者の負担で長生きするようなじじいでいいのだろうか?
『無縁社会』も戦後育ちが作った社会だと自覚してるか?」

どうですか、このよしのりのふざけた主張。この主張に反論するのもばかばかしい。自分の読者層ではない老人を徹底してけなし、読者層の若者の意見には同調して若者を喜ばせ、反老人を煽る。とにかくよしのりはまだ精神的にガキなのだ。よしのりよ、年寄りの持病の症状を大げさに表現しながら年寄りをけなし、からかうのはやめて、もっと精神的に大人になり、老人に癪に障るけど痛いところを突いてくるわと思わせるような毒舌を吐いてもらいたね。

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お知らせ:
これをもって今年最後のブログ記事とさせていただきます。ブログ記事を書いてちょうど2年2ヶ月。昨年は毎週ブログ記事を書きましたが、今年は月に二回のペースで記事を書いてきました。今回の記事でちょうど区切りのよい100回目の記事になりました。ここまでブログを書き続けられたのも読者の皆さんのお陰と感謝しております。来年も月二回のペースでブログ記事を書き続けるつもりですのでよろしくご愛読のほどお願いいたします。皆さん、どうもありがとうございました。来年も良いお年をお迎えください。






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害(外)務省



誰が最初に外務省の(外)に(害)という字をあてたか知りませんが、実態を表したすばらしい当て字だと感心してしまいます。私が成人してから過去50年間、特にこの30年間一体外務省は日本の国のために役立つことをしてきたのだろうか。外務省とは、わかりやすく言えば、国際社会の中で日本の国益を追求すること、すなわち国の役にたつことが仕事のはずです。私に言わせれば、この30年間外務省は、日本の国のために役立たず、国益を損なってきただけです。特に私のように、今ではあまわり使われなくなってしまった貿易マンとして日本の外貨かせぎの最前線で働き、まさに企業戦士として働いてきた人たちは、皆、日本経済発展に貢献してきたと自負していると思います。それに対して外務省は、日本のために一体なにを貢献してきたのかと言いたい。現役の外務官僚や、定年になって退官した元外務官僚、特にマスコミでえらそうな発言したり、書いたりしている外務官僚に、一体あなたがたは、この30年間日本国家のためになにを貢献してきたかと聞きたい。退官になってからまともな事を言っても遅すぎるのです。ODAなどというお金を外国に貸したり、あげたりすることは、外務官僚じゃなくても誰にでもできますよ。

一。目立つ、歴史の無知と気概のなさ
先月、私は「妥協と譲歩外交のなれの果て」というタイトルのブログ記事を二回にわたって書きましたが、「妥協と譲歩外交の成れの果て」の姿は、あなたがたの責任も非常に大きい。私に言わせれば半分以上があなたがたの責任です。確かに外交政策を実行するのは政治家です。しかしその政治家は、ほとんど外交の素人、あなたがたが政治家を指導したり、補佐したりするわけです。そこであなたがたに聞きたい。この「妥協と譲歩外交の成れの果て」の姿の原因は何だと思いますか。あなたがたこういう「妥協と譲歩外交の成れの果て」の姿を想像していましたか。それともあなたがたは、この「成れの果て」の姿こそが成れの果てどころか最良の国家の姿と思っているのですか、冗談ではない。「成れの果て」の姿の原因は何だと思いますか。無能だからという人もいるでしょう。確かにそれも一つの原因かもしれません。いろいろ原因があるでしょうが、私に言わせれば、最大の原因は、外務省に巣くっている「自虐史観」です。

大東亜戦争は、人類史上最大の戦争でした。日本は負けたために大変な被害を受けた。それでも日本の文化には、過去のことを水に流すという文化がある。そのため敵国に対するうらみも長続きしません。日本が悪いというのなら謝りましょう。そのかわり過去のことは忘れてお互い仲良くやっていきましょうということになる。ところが外国、日本以外のすべての国と言っていいでしょう、彼らは過去のことは、戦争に勝とうが負けようが絶対に忘れません。また勝とうが負けようが、自分たちが正しかったという戦争史観を永遠に主張し続けます。
従って大東亜戦争の勝敗はつきましたが、その後は戦争史観の戦いが始まるのです。これが世界の常識です。そこえ日本が謝罪すればどうなるか、徹底してつけこまれるだけです。謝罪すれば一時的には効力があるかもしれません。それはほんの一時的なもの、その結果何回も謝ることになる。自虐史観では国益に適わない。こんな単純なことが、外務官僚がわからないのだ。外務省に「自虐史観」が巣くうきっかけになったのは、昭和60(1985)年11月3日の小和田恒氏(現国際司法裁判所所長)の国会での発言です。この日の小和田発言まで東京裁判に対する日本政府の公式見解は、東京裁判の訴因を受諾したものでなく、その裁判の判決だけを受諾したというものだった。ところがこの日の国会での土井たか子(当時社会党委員長)の質問に対して小和田外務相条約局長(当時)は、裁判全体、先の大戦が、国際法、条約、協定などに違反する戦争であったという裁判の訴因をも受諾したものと解釈の変更をしたのだ。すなわち東京裁判全面肯定です。これが反日派を喜ばせ自虐史観を募らせた。さらに小和田氏を有名にしたのが「ハンディキャップ国家論」です。平成4年4月、小和田氏は「1992年の世界情勢と日本外交」というタイトルで講演をした。その中で彼はこう述べています。
「(略)日本と東アジアの関係で考える時に念頭に置かなければならない重要なことについて述べておきたいと思います。一つは日本外交を推し進めていく上で日本が背負っている大きなハンディキャップとしての過去の負の遺産の問題であります。過去に行った行動との関連と関係にたいする懸念や疑念、あるいは不安感をどういうように和解させながら今日の外交を推し進めていくかということは決して容易な問題ではありません。(略)」

小和田氏は自分が海外で活躍するには、自虐史観を押し通した方が自分自身の出世の早道だと考えたことはまちがいない。自虐史観とは欧米諸国の歴史観でもあり韓国、支那の歴史観でもあるからです。読者の皆さん、もし小和田氏が、拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」というような歴史観を主張していたら国際司法裁判所所長の椅子を手にいれることができたと思いますか。小和田氏は、自分の出世のために自虐史観を利用して祖国日本を足げにしたのだ。戦後は小和田氏のように、自分の出世のために、あるいは自分の金儲けのために自虐史観を利用して祖国、日本を足げにする連中が雨後竹の子のように出現し、小和田氏はその成功者の一人です。

小和田外務次官の後を引き継いだのが斉藤邦彦氏です。その斉藤氏が駐米大使になる時プレスセンターで会見しそこで「小和田先輩が言われたハンディキャップ国家論は、私は正しいと思います」と語っているのだ。この斉藤駐米大使は、アメリカでアイリス・チャンとテレビ対談した。アイリス・チャンとは、「レイプ・オブ・南京」を書いて平成9年に刊行した中国系アメリカ人女性作家のことです。この本がアメリカで一年たらずの間に50万部を超えるベストセラーになった。ところがこの本は、南京事件を研究されている東中野修道氏、安羅健一氏、秦郁彦氏などの専門家によるとこの「レイプ・オブ・南京」は史実的がまったくでたらめで、証拠として使用されている写真のほとんどが「偽造」、「すりかえ」、「やらせ」のたぐいで全く信用できないと言っています。そのうえ猟奇的記述は満載、例えば「日本兵は女性の腹をさき、胸を切り刻み、生きたまま壁に釘付けにした。舌を鉄のかぎに吊るしたり、埋めてセパードに食い散らかせることも行った」。

なぜこのような本がアメリカでベストセラーになったか。勿論、アメリカ在住の反日支那人の宣伝の力もあったでしょう、しかし根本的には、最初に書きましたように大東亜戦争は、日本人は忘れても、決して彼らは忘れず歴史観の戦いを日本に挑んでいるのです。自分たちは絶対に正義であることを主張するために戦前戦中の日本を攻撃する材料に飛びついてくるからベストセララーになるのです。ちょうど反日日本人が戦前戦中の日本を批判する材料には、検証することもなくすぐ飛びつくのと精神状態と同じです。斉藤駐米大使は、アイリス・チャンとのテレビ対談の話が持ち上がった時、彼は即座に断るべきだったと思います。いくらベストセラーになったと言っても史実的にでたらめだからです。もし彼女とテレビ対談するのであれば、斉藤大使は、彼女の本を読み、その欠陥を見つけ、また南京虐殺事件の日本人研究者の本を読み、アイリス・チャンの目の前で彼女の本の欠陥を徹底して追及すべきなのです。皆さんそう思いませんか。ところがそうではなかったのです。対談内容を知って私は愕然とし即怒りが沸いてきました。

斉藤駐米大使とアイリス・チャンのテレビ対談がアメリカで平成10(1998)年12月1日に放映されました。同じ対談が日本では12月2日の深夜放送でBSー7チャンネルが放映された。対談の内容は、二人の次の発言に凝縮されます。
アイリス・チャンの発言:
「アメリカでは余り知られていませんが、日本の侵略行為により中国では1900万人から3500万人抹殺されたんです。そして日本は韓国やその他のアジアの国々の女性を何十万人と従軍慰安婦として強制連行しているのです。こうした戦争犯罪は、極めて深い心の傷を中国や他のアジアの国々の人の心に残しているんです」

読者の皆さん、彼女のこの発言に対して、皆さんはどう応答されますか、常識的に浮かぶ返答は、反論ないし否定でしょう。ところが驚くなから斉藤大使はこう応答したのだ。
斉藤大使の応答:
「日本としては、日本軍による残虐行為や暴力行為が有ったことを認めております。そしてこの事について大変申し訳なく思っております。傷ついた方々の記憶は、なかなかいえないものではない事も理解しております。私個人としては、これは日本人が長い間背負って行かなくてはならない重荷だと考えております。
南京でなにが起きたかについては、日本は不幸な出来事が有った事を認めています。日本軍による暴力行為がありました。また日本の学校の教科書の事ですが、私が調べた20冊ほどの教科書では、どれも南京の出来事は取り上げています。日本が若い世代に対し、過去を隠そうとしているというのは、これもまた全く誤った認識なんです。実際はむしろその逆で戦争に何が起きたか積極的に若い世代に教えているんです」

バカ、バカ、バカ、斉藤大使は、バカか。もしこの時私が対談現場に居合わせたら、私は彼を殴りつけたい衝動を抑えるのに大変だっただろう。反論何一つせず、こんな応答したということは、1900万人から3500万人の中国人が抹殺されたという彼女の主張を認めたことにもなるし、彼女の本の内容まで認めたことになってしまうのだということがわからないのか。対談そのもの彼女のペースになってしまっていることすらも斉藤にはわからないのだろう。外務官僚の人たちに聞きたい。駐米大使になるということは外交官としては最高の出世でしょう。その駐米大使にこんな不甲斐ないバカでもなれるのですか。
斉藤大使の歴史的無知と徹底して反論する気概のなさがめだちます。外交官の歴史的無知と徹底して反論する気概のなさは、他にもいくつもの例がある。例えば、平成17(2005)年10月31日、国連で拉致事件に関して日本と北朝鮮との間で応酬があった。北朝鮮のキム・チャング国連次席大使は、「イギリスのように植民地支配など多くの市民を殺した国がわれわれを非難するのはばかげている。EUは日本人の拉致問題を解決せよと言うが、日本は朝鮮人840万人を拉致、連行した事実に触れようともしない」と発言した。皆さん、この時日本の大島国連大使は何と言ったと思いますか。彼が言ったのは、「日本は朝鮮半島での過去の過ちを謝罪しているし、北朝鮮の発言する数字は誇張されている」。冗談じゃないですよ、この時こそ大島は、国連の前で歴史的事実と全く反するでたらめさを具体的に説明、反論すべきだったと思いませんか。歴史的無知なのだ。もし大島国連大使に、北朝鮮の主張に徹底して反論してやるという気概があれば、会議始まる前に歴史の勉強していたはずです。要するに歴史的無知と気概のなさ、斉藤駐米大使と同類なのだ。

栗山尚一元駐米大使の発言にもひどいものがある。外務省の事実上の広報誌ともいうべき「外交フォーラム」という月刊誌がある。2006年(1,2月)で「日本は永遠に謝罪し続けなければならない」と言う趣旨の大論文を発表。また彼は「和解―日本外交の課題」と題する論文の中で「首相ら政府の責任ある立場にある者が靖国神社に参拝するのは、『大東亜戦争』肯定の歴史観を共有しているとの印象を与えかねないので、参拝を控えるべきだ」と主張しているのだ。その栗山氏が現在、宮内庁参与、すなわち天皇陛下の相談役を勤めているのだ。ぞっとする人事です。私は現在72歳です。なぜ私の年を言うかというと、小和田氏にしても栗山氏にしても斉藤氏にしても三人とも私より先輩です。ということは戦後の自虐史観教育に完全に染まって育ってはいないことです。それがどうして自虐史観に陥るのか、それは日本の文化で外交をしようとする面もあるからだとも思っています。このことについてはあとで「外国人との喧嘩の仕方」のところで述べます。

私がテレビニュースを見ていて愕然としたことがあります。それは平成12(2002)年5月8日の日本の瀋陽領事館駆け込み事件です。北朝鮮の亡命希望者5人が日本の瀋陽領事館に亡命のため駆け込んだ。その時門前で警戒していた支那の警官数名によって敷地内で3人が拘束連行された。残りの男性2人は領事館の建物内に入っていたのも関わらず連れ戻された。騒ぎを聞いて3人の日本領事館員が出てきたが、門の所で取り押さえられて泣き叫ぶ亡命者たちを助けるでもなく支那側に抗議するでもなくただ傍観しているだけで結局5人が支那警察に連行された。大使館や領事館の建物やその敷地は、国際的に治外法権が認められています。従って瀋陽の日本領事館の敷地は、日本領土で支那の警察権が及びません。亡命者5人は、亡命に成功しているにも関わらず3人の日本領事館員は、ボケーットして何もせずただ騒ぎを眺めていただけ、そのため5人の亡命者は、支那警官に連行されたしまった。3人の日本領事館員は、亡命者は我々の敷地内に入っているから、私たちが対処するからと言って警官を領事館内の外へ出そうとさえしなかったのだ。ふがいない日本領事館員。これが上からの命令で亡命者が大使館、領事館内に侵入しても支那警察官にまかせて何もするなという通達が出ていたとしたら何をかいわん、日本の威信を自らどぶに捨てるようなものだ。

拉致問題に対する外務官僚の非常識な言動も頭にきます。拉致問題の究明に反対した現シンガポール大使の槙田邦彦氏は、「(拉致された)たった10人のことで日朝国交正常化が止まっていいのか」、高島外務報道官は外務省の広報誌「外交フォーラム」で拉致のみに偏重する日本メディアの北朝鮮報道を批判する論文を掲載。外務省アジア太平洋州局長だった田中均は、拉致問題が未解決のまま日朝国交正常化交渉に突き進もうとした。この田中は帰国した拉致家族5人を北朝鮮に送り返そうとさえ主張したのだ。日本が北朝鮮と国交回復したところで一体日本に何の意義があるのかと問いたい。いままで簡単にこれまでの外務官僚の情けなさを書いてきましたが、要するに簡単に言えば、彼ら外務官僚は、日本の国家のなんら役にたっていないということです。ここで外務省すなわち外務官僚の質の向上を図らなければどうしようもありません。そこでどう質の向上をはかるかが問題なのですが、ここに一人の人物を紹介しましょう。ジャーナリストの落合信彦氏です。落合氏は、1942年生まれというから私より4歳下だが、ほぼ私と同時代の人間です。彼は石油ビジネスの最前線で働き、後ジャーナリストに転向いろいろ本を書いています。私が何故彼を登場させたかというと、彼は典型的な自虐史観の持ち主、大東亜戦争に関する歴史知識がほとんどない、それでも外務省や外務官僚に対する考え方は、私と全く同じだからです。彼の著書「日本の常識を捨てろ」でこう書いています。

「外務省も大改革が必要な時にきている。まずできることから始めることだ。例えば外交官の採用方法。外交官試験を受かった人だけというのはやめて、商社マンとか外国をよく知っている民間人をどんどん登用すべきである。大学を出て、外交官試験に受かって外務省に入った者に本当の外国はわからない。修羅場をくぐり抜けていないから、喧嘩もできない。外交とは一種の喧嘩なのだ」

現在、外交官になるには外交官試験に合格するか、或いは公務員試験に合格する方法もあります。要するに国家試験に合格すればよいのだ。一流大学を出て、国家試験を受けて外交官になった人たちは、エリート意識が強いからえらそうな事は言えるが、社会的修羅場を経験していないから外国人とまともに喧嘩などできないのだ。現在の外務官僚は、国家試験を合格しているのでバカの集まりとは言えないが、不甲斐ない日本人のくずのたまり場になっている。この現状を打破するには、国家試験合格者などという基準を設けず、外国のことをよく知っていて修羅場を経験した商社マンなどを中途採用することです。その意味で中国大使に元商社マンを起用したことは、現在の中国大使が適任者であるかどうかは別として商社マンを選んだ事自体画期的で良いことだと思っています。大使だけでなく一般外務官僚にもどんどん中途採用を増やすべきです。

二。外国人との喧嘩の仕方
落合氏は、「外交とは一種の喧嘩なのだ」と主張していますが、私も全く同感です。私は白人経営の外資系五社を渡りあるいて40年、その間一匹狼的サラリーマンを貫いて定年を迎えた者です。その体験から外国人との喧嘩の仕方を伝授しましょう。その方法は一言で言えば、「文化の使い分けをしろ」ということにつきます。以下詳しく説明していきます。

私たち日本人は外国人と喧嘩する場合、当然無意識のうちに日本の文化で喧嘩しているのですが、日本の文化は、外国人との喧嘩には全く役立たない、害があるくらいです。外国人と喧嘩して全く役立たない日本の文化を列挙します。
(1)すぐ謝る。
(2)自分のミスや過ちは言い訳せずすぐに認める。
(3)自己主張を強くしない。
(4)すぐに反省する。特に相手の立場にたって反省する。
(5)気配りをする。
(6)過去のことは水に流す。
皆さん、外務省の自虐史観外交は、日本の文化に基づいていると思いませんか。こういう日本の文化をかなぐり捨てて、いま上げた六項目のすべての逆、すなわち外国の文化で喧嘩するのです。
(1)めったなことでは謝らない。とにかく国家とは、謝らないものなのだ。どうしても謝りたい時は、「遺憾に思う」程度にしておく。
(2)自分のミスや過ちはすぐに認めず、言い訳したり、他人や他のせいにする。相手にそのことが詭弁と思われても押し通す。
(3)自己主張を強くする。
 相手が辟易するくらい自己主張をする。
(4)反省など絶対にしない。
支那人や韓国人を見てください。彼らは反省などしたことありますか。日本人は反省好きだ。なにか行事が終わると、すぐ反省会をしましょうと言って酒を飲む。
(5)気配りをしない。
気配りという文化がないから、気配りなど理解できない。気配りは往々にして卑屈になり相手になめられるもとになる。上海万博の時、日本館には日本の国旗を建てなかった。国内の批判で途中から建てた。支那でのアジア大会の時、入場行進で各国代表団は、手に自国の国旗を持って登場、日本選手団は「日の丸」を持たずに行進。これも気配りだろうが卑屈以外のなにものでもない。効果など全くないのだ。
(6)過去の事は水に流さず、徹底して過去にこだわる。
大東亜戦争対する日本の歴史観を、日本民族が存在するかぎり徹底して主張し続ける。

日本人どうしが喧嘩する場合、必然的に日本の文化で喧嘩するが、外国人と喧嘩する場合には、日本の文化をかなぐり捨てて外国の文化で喧嘩する。これが私の主張するところの「文化の使い分けをしろ」の説明です。そして喧嘩する時には、徹底して論理的に行え、主張が例え詭弁であっても論理的な面を遺脱してはいけません。「苦しい私の立場を察してくれ」とか「苦しい私の胸の内をさっしてくれ」などという曖昧さを絶対してはいけません。「文化の使い分け」をして外国人と喧嘩する場合、体験から言って絶対必要なものがあります。なんだと思いますか。現在の外務官僚など真剣に外国人などと喧嘩したことなどないからわからないでしょう。絶対に必要なものは、「気概」ですよ、一にも二にも「気概」です。外国の文化で喧嘩するのです、すなわち相手の土俵で喧嘩するのです。「気概」が絶対に必要になってくるのは当然なのです。私の場合、外人との論戦予想される場合、あるいは予期せぬ時に論戦になった場合、絶対に口に出して公言はしませんが、内心は「なんだと、この野郎、俺は日本人だ、文句があるのか」の思いを胸の中にたぎらし、全身全霊に攻撃心をいだかせるのだ。私の場合、英語力が弱い。私の英語は高卒の英語にほとんど独学で力をつけたもの。従ってヒヤリングが弱い。論戦になると相手も興奮して話し言葉も早くなるので余計に聞き取りにくくなる。私は相手が早口で怒鳴り上げてきた時には、その主張には、あまり耳を傾けず、先手、先手と自分の方から意見を先にだすようにした。けんかの時に先に手をだすようなものです。はげしい論戦になった場合、英語力よりも、「気概」、「気迫」を前面に押し出し、日本人意識丸出しにして戦えるかどうかが問題なのだ。侮辱までされて、怒って当然の時、日本人は往々にして顔に笑みを浮かべ笑ってごまかそうとする。怒って当然の時は、猛烈に怒りかえせ。さもないと相手になめられるだけです。外国の文化で喧嘩するのは、慣れてないから骨の折れるものです。だから外務官僚は、普段から外国の文化で喧嘩するディベートの時間を沢山設けて練習しておくべきなのです。


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