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短編小説(3) 「ある踊り子の思い出」



俺が42,3歳の頃だったと思う。取引先のAさんが、ある日、赤坂ではトップクラスのクラブ、「ナイト&デイ」に接待してくれた。当時接待なれしていた俺でも初めてゆくクラブだった。クラブと言ってもナイトクラブではないのでしょっちゅうショーをやっているわけではないが、接待されたその日にはショーがあった。Aさんが「今日のショーは誰?」と聞くとママが「島さおりよ」と言ったので、俺はびっくりして素っ頓狂な声をだした、「あの日劇ミュージックホールの島さおりかよ?」、「そうよ」という返事なのでまたびっくりした。俺が若い頃、現在の有楽町マリオンの場所に「日劇」があった。1980年代以前の芸人は、一度でいいから「日劇」の舞台に立ちたいという芸能人あこがれの殿堂でもあった。そこの5階に日劇ミュージックホールがあった。日本にもフランス、パリなみの女性も楽しむことができる上品なエロティズムなショウを見せようという計画で1952年にオープンした。単なるストリップショウとは一線を画していた。現在では、トップレスダンサーのショウなど当たり前だが、当時としては画期的であった。

俺が初めて日劇ミュージックホールのショウを見たのは20代後半だったと思う。客席数は、200程度ぐらいあるいはもっとだったかもしれない。フロアーは分厚い真紅のじゅうたん、すばらしい照明設備、気品とムードあふれる劇場で客層も上品だった。よく白人がカップルで見学に来ていた。ダンサーたちも映画女優並に皆魅力的でダンスは超一流。現在の宝塚のスターが全員トップレスで踊るショーを想像すればよい。各ダンサーたちのブロマイドも会場で売っていた。その時に俺が見たのが、当時人気トップスターの一人だった島さおりだ。俺は彼女の舞台を見て圧倒された。完全に魅せられてしまったのだ。彼女のすばらしい肢体。気品のある顔。彼女のバストはたいしたことはない。普通の女性よりはいいのでしょうけど、バストが自慢の他のダンサーに比べればちょっと見劣りする。彼女のすばらしさは、細いウエストに大きなすばらしい形をしたヒップそれを支える二本の足がまたすごい脚線美だ。この日本人離れした体形でラテンリズムに合わせて踊るダイナミックなダンスのすばらしさに俺は圧倒された。俺はこういうショウが大好きな男なのだとわかったのもこの時期だ。後年ちょくちょく海外主張するようになると、とくにヨーロッパなどいくと必ずナイトクラブでショーを見る予定を作ったものだ。定年前には女房と二人でラスベガスに6泊し、毎夜各ホテルのショーを見て回った。今ではなつかしい思い出になっている。

俺はAさんに、若い頃島さおりの大ファンだったからよく知っているよと言うと、Aさんは、「ママ、健さんは若い頃、島さおりのファンなんだよ、だからショーが終わったら島さおりをこのテーブルに誘ってよ」と言ってくれるではないか。ママもこころよく応じてくれて、さおりのショウを見ることになった。俺はさおりに対して昔のままのさおりなのかどうか一抹の不安があった。俺は彼女のショーを見なくなって10年ぐらい経っていたし、その間に現在有楽町のマリオン建設のため日劇は閉鎖され、それとともに日劇ミュージックホールも閉鎖され、踊り子たちは大きな職場を失っていたし、また時代的にもトップレスがめずらしくなり、誰もがトップレスになる時代であった。踊り子たちはこの先明るい見通しのない落ち目の職業になってしまっていた。それでも島さおりなどは恵まれていた。彼女は、全盛期と名声を舞台で獲得できたからだ。そのお陰で現在でもトップクラスのクラブに出演できるのだ。不運なのはさおりの次の世代の踊り子たちだ。浜夕子は、さおりの雪のような白い肌とちがって褐色の肌、大きなぐりぐりした黒い目、ダンス中に流し目で見られると自分だけが特に見られていると錯覚するほどの目力、しなやかな柔らかい体、すばらしい形をしたバスと、あのまま日劇ミュージックホールが続いていたら浜夕子は、舞台で全盛期を向かえ、名声を得ていただろう。人に運不運があるように、芸人にも運不運があり、その落差は、大きい。

さおりが舞台で踊りだした。クラブは、ナイトクラブと違って本格的なショーの舞台などほとんどない、客が座っている同じ位置にちょっとしたダンスフロアがあるだけです。お客はダンサーをまじかに見ることができ、それだけに肉眼で肌のきめ細やかさも見ることができる。俺は一見してさおりは、二の腕に多少たるみがあるが肌も体形も昔のままだとわかった。またそうでなければ、一流どころクラブでのショーに出られるわけないのだ。ダンスも相変わらずさおりならではのラテンリズムに合わせたダイナミックな踊りを見せてくれた。ショーが終わるとママがさおりを俺の席に連れてきた。
「さおりさん、こちらのお客さん、健さんと言ってね、若い頃からさおりさんの大ファンで、今夜ここでさおりさんのショーが見られるというので大はしゃぎだったのよ」
「まぁ!そうですか。私、島さおりと申します。はじめまして、私の若い頃のファンに出会えて光栄ですわ、ありがとうございます」
俺は若い頃、舞台の上の彼女を見るだけで、後年こうして直にしゃべれるなどと想像すらしなかったので、こうして彼女が自分の目の前にいて、じかに話ができるとは、すっかりうれしくなり、もう完全に有頂天になってしまった。
「日劇ミュージックホールが閉鎖したりして、俺がさおりさんの踊りを見なくなってもう10年は経つと思うよ。今日10年ぶりぐらいに拝見したけど、肌のつや、体形すべて変わってないね。すばらしいですよ」するとママが、「なにか特別なケアしているの?」
「勿論していますよ、しなかったらこの年でしょう、とても踊れませんよ」この時、俺は、さおりはもう40歳になっているはずだと思った。あとでさおりの年を知ることになるのだが、彼女は昭和15年生まれ、俺より二つ若いだけ、俺はこの頃42,3歳、さおりは40歳か,41歳だ。彼女の話によると、肌のケアは、亀の子たわし。亀の子たわしで全身をこするのだ。最初は痛いから、おしりをこする。こする時なれないうちは下から上にこすりあげない。充分に慣れるまで上から下にむけてゆっくりこする。慣れしたしむと亀の子たわしを自由自在に上下にこすりあげることができる。但し顔は亀の子たわしでは痛くて使えません。顔は、お風呂に入った時、両手の手の平で100回ほど叩くのだ。体形の維持は、道具を使った自己流の体操、たばことお酒は全然やらない。いつまでも一流のダンサーでいようと必死なのだ。このクラブでの出会いが縁で俺とさおりのつきあいが始まった。

俺が若い時、舞台の彼女に夢中になった。あこがれの存在だった。その女性とつきあっているという現実が俺には夢のようで楽しくてしょうがなかった。彼女と気があったことも楽しさが増す原因でもあった。よく食事をいっしょにした。彼女がクラブ、「ナイト&デイ」で出演する時には、俺も必ずそのクラブに行った。それでクラブのママとも親しくなっていった。映画も一度いっしょに見に行ったことがあった。「ラストエンペラー」という映画だ。偶然にもラストエンペラーの側室になる支那人女優がさおりそっくりなのだ。あれには驚いた。彼女の先輩がスナックを開くというので開店日に自分の踊りを見せるというので一緒に行ったこともあった。二人には期せずして意見が一致したことがあった。それは、二人が若い頃知り合っていたら間違いなく恋人どうしになっていただろうということであった。あの頃は俺だけでなく彼女も楽しかったのではないかと思う。さおりとつきあうようになったら困ったことが起きた。一つは、結婚して以来俺は、女房意外の女性とつきあうために、女房に内緒で初めて貯金を下ろしていた。極貧育ちの俺にとってはあってはならないことだった。もう一つはどうしても俺の帰宅が連日遅くなってしまうのだ。そこで俺は、貯金下ろしは秘密にして、女房にさおりのことについてざっくばらんに話をした。すると女房は、さおりに会って見たいというのだ。そこでさおりに提案してみた。

「さおりさん、こんどいつか俺の女房と会ってくれないかなぁ、どこかのレストランで三人で食事してくれない?女房がさおりさんに会って見たいって言うんだよ」
「あらぁ、そうなの、健さん、あたしね、こういう仕事しているから多くの男の人から食事を誘われたし、食事もしたわ。しかし健さんみたいに、自分の奥さんを紹介したいから一緒に食事してくれと頼まれたのは初めてよ。あたし、うれしいわ。男の人って紳士ぶっているけど、結構私のような仕事している女性を見下している人が多いのよ。そんな人は、私を奥さんに絶対に紹介しないわ。私に会いたいなんて、健さん、奥さんに私のことべたほめしたんじゃないの?」
「別にべた褒めしたわけじゃないが、若い時さおりさんに夢中になったことを言ったのは初めてだ。女房は、俺がマリリン・モンローに夢中になっていることは知っている。しかし一緒に映画を見ているからモンローがどんな女優だか知っている。しかしさおりさんのことは知らない。だから自分の亭主が若い時に夢中になった人がどんな女性だか知りたいんだと思う」
「女性心理としてはあり得るわね。それではお会いしましょうか。私も健さんの奥さんってどんな女性だか会ってみたいわ」、「俺と一緒に映画を見たことなど内緒だぞ」
「もちろんよ」
そこで俺は、どこのレストランに連れていこうか考えたが、考えているうちにいやな予感がしてきた。女房はもともとそれほど社交性のある女性ではないのだ。もし女房が嫉妬心を起こしてあまり会話がはずまなかったらどうしようと悩み始めたのだ。それこそ俺が二人の間にはさまって苦労しなければならない。そこで少々お金がかかるが、レストランを止めてナイトクラブにした。ナイトクラブならフルコースの食事もとれるし、食事の後にはショーが見れる。ショーを見ている間は、会話をしなくてすむ。そこで俺は、二人を赤坂のナイトクラブ「ゴルドン・ブルー」に連れていくことにした。勿論さおりは、このクラブに出演したことがある。ステージが狭いのが残念だが、衣装の種類の多さは、パリの一流のナイトクラブと比べても遜色がない。現在、漫才界にベテランのおぼん・こぼんという漫才コンビがいるが、当時二人はこのナイトクラブの前座で漫才をやったり、ショーの時には男性ダンサーの踊りに混じってタップを踏んだり、ダンスを踊ったりしていたのだ。ちょうど浜夕子、さおりの後輩がゴルドン・ブルーで主演のショーがあった。それに合わせてさおりと女房を会わせれば、さおりも後輩の出演の時に、どこかの中年夫妻と一緒に見にきていることになって彼女の顔もたつのではないかと思い誘ってみた。案の定彼女は乗り気になった。

ゴルドン・ブルーで三人が会ったのは夏の日であった。俺は、上下真っ白のスーツ、真っ白の靴下に真っ白の靴の白ずくめ、それにサングラスをしていた。三人そろっての挨拶が終わると、さおりが「あら、健さん、すてきね、まさか今日のショーに出るんじゃないでしょうね」、すかさず女房は、「この人、今日はね、私たちの用心棒役なのよ。この格好で平気で通勤するでしょう、私、ヤクザの女房と間違えられるのよ、いつか私の用心棒にしてやろうと手ぐすねひいていたの。今日はその絶好の機会だわ」
「健さんが用心棒なら、私たち二人は安心して食事がいただけるわね」
「そうなのよ。それでは、あなた、用心棒役御願いします」、二人は笑った。俺は黙ってその笑い声を聴きつつ、これなら今日の出会いはうまくいきそうだと一安心していた。

「ご主人がおしゃれだから、奥さん、ご主人の洋服などの見立てで、大変でしょう」
「それが全然大変じゃないのよ。主人は自分の着る物、身に着ける物全部自分で決めるの。下着まで自分で決めるのよ。私はね、おしゃれな男の人って、あまり頭が良くないんじゃないかと思うのね」
「どうして?」
「昔、長女がそういう風に言ったのよ」、「娘さん、おいくつなんですか」
「実わねぇ」と俺が説明に入った。
「あれは、長女が小学校2,3年の頃だったと思う。朝、俺は出勤前、ワイシャツを着たり、ネクタイをしめたり、洋服着たりして出勤準備をしていた。それを見ていた長女がいきなり言い出したのだ。「パパは格好100点、中身零点ね」。さおりは笑いだしていた。
「女の子って、ませてるよね。小学2,3年の男の子だったらあぁいうせりふは絶対に言えないよ」
「その時主人はね、お前、中身零点とは、パパの頭のことか、それともパパの財布の中身のことかと聴こうとしたのだけどやめたんですって」
「どうして?」
「もちろん両方よ、と言われるとショックを受けるからだって」二人は笑い出していた。こうしてうちとけた会話になり、そのうちのさおりは昭和15年生まれであることを知った。女房は昭和16年生まれ、しかも早生まれなのでさおりと学年は同じなのだ。その上さおりは江戸っ子、女房は浜っ子で、お互い近くで育ったのだ。空襲の時どうしていたとか二人の話しは弾んだ。女房は「さぎりさん、若いわねぇ、すばらしいスタイルしているしうらやましいわ」、「とんでもない奥さんこそ若々しいじゃないですか、妻として母としての熟女の魅力がいっぱい、私にはうらやましいかぎりよ」とお互いの誉めあいが始まった。
さおりは「熟女」などとうまい言葉を使ったものだ。確かにあの頃の女房はまだ若く魅力的だった。おめかししてナイトクラブに連れてきてさおりと比べてもそれほど見劣りする女ではなかった。若さだけが魅力の女性にはない、女としての落ち着いた魅力というか若い女性にはない年輪の美というような物を感じさせた。それより俺をびっくりさせたのは、女房の変身だ。結婚前の彼女は、かなり控えめな女性で、それほど社交性に富んだ女ではなかった。それがどうだ、その日の彼女の変身ぶり、堂々とさおりと渡り合い、若い時のちょっともじもじした控えめさがなくなっていた。子供三人生んで育て上げた自信が堂々たる中年女性にさせたのかもしれない。さおりは、さおりですばらしく魅力的な女性だ。しかしその魅力も一瞬、一瞬、瞬間的に放つ強烈な魅力だ。しかし男はこの瞬間的に放つ強烈な魅力に弱いことも確かなようだ。

ショーが始まると、初めてみる女房は、夢中になって見ているのがよく分かった。さおりが説明役をしてくれたこともよかった。例えば、いまのふりつけなどいとも簡単に踊っているけど、あれでなかなか大変で、よく鍛えていないとあんな簡単には踊れませんよなどと説明していた。さおりとつきあってみて一番感心したのは、いつでも背筋がまっすぐしていることだった。歩く時はいつも背筋がピンとしていたのは当然だが、俺が感心したのは、椅子に座っている時も、話している時も食事している時も背筋がまっすぐなのだ。背筋が曲がっているのを見たことはなかった。そこにダンサーとして真剣に取り組んできた痕跡があった。

ショーが終わって席を立とうとすると、さおりは健さん、「もうちょっと待って、もう少しお客さんが帰って静かになると、浜夕子が挨拶にくるから」、さおりの特別の取り計らいだ
ろう。しばらくすると夕子がやってきた。
「夕子ちゃん、こちら私がお世話になっている健さんご夫妻」、「初めまして、浜夕子と申します」、「奥さんはねぇ、こういうショーを見るのが初めてなの」。
「あら、そうですか。どうですか、印象は」、「いやぁ、もう素的、素的、私感激しちゃったわ、浜夕子さん、本当にすてきだったわよ」、「ありがとうございます。これからもぜひいらして下さい」
記念に我々夫婦を真ん中にして写真をとった。女房は、主演を演じた浜夕子に直接会えて話ができたのでご機嫌だった。「舞台でも素的だったけど、直接会っても素的だわねぇ」
女房がご機嫌でやれやれ良かったと肩をなでおろしていたが、帰りの電車の中でくるりとご機嫌が変わり不機嫌になった。電車の中ではあまり会話ができないのでそのまま黙って家路についた。
「お前、電車の中でどうしたんだ?急に不機嫌になったりして」、「あなた、私たち独身の時、あなた、私になんて言ったか、覚えているの?私に一生忘れないことを言ったのよ」。
「俺がどんなこと言ったんだ?」
「或る時、私がね、私の足がもう少し長ければ、もっと洋服姿が似合うんだけどなぁと言ったのよ、その時あなたが言った言葉忘れやしないわぁ」。
あなたは、「俺は足の長い女性より、足の短い女性の方が好きなんだ。足が短ければ短いほど俺は好きなんだ。極端に言ったら上半身が素的なら、足なんかなくてもいい。足がないダルマさんでもいいんだ」と言ったのよ。
「それがさ、あなたが若い時夢中になってファンになったダンサー、さおりさん、彼女、足が長くてスタイルいいし、浜夕子さんもスタイルいいし、今夜は私の短足が目立つ日だったわ。あなたは、本当は足の長いスタイルのいい人が好みじゃないのかとそう思ったら自分がせつなくなっちゃったのよ」。
「あなたどうして私のような短足の女と結婚したの?」
「おい、おい、結婚相手を決めるのに、足の長さだけで決めるほど俺は単純な男ではないぜ、俺はあれこれいろいろと総合判断してお前と結婚することに決めたんだ。結婚の前提として相手を愛しているかどうかだ。俺はお前を心底愛しているんだ。今でもお前が俺に「私のために死んで」と言われれば、俺は、自分の命を捨てますよ。総合的に判断してお前ほど魅力的な女はいません。ミスユニバースというコンテストがあるが、もしミセスユニバースというコンテストあればお前は、絶対にミセスユニバースに間違いなくなれるね」

口の悪い友達は、「おまえほど、女の前できざなこと平気で言える男はいないね」というが、俺に言わせれば、きざな言葉でも真心をこめて言えと言うのだ。真心を込めればきざな言葉もきざでなくなるのだ。女房は、「また調子のいいことを言って」というから、俺は「俺の言葉はいつも本心から出る。足が短ければ短いほどいいと言ったのも本心だし、いまちょっと前に言った絶対にお前はミセスユニバースになれると言ったのも本心だし、お前のために命を捨てるといったのも本心だ」
翌朝の我が女房、ご機嫌は元に戻っていた。

三人で一緒に食事にしたのを境に俺とさおりの間の親密度が増した。そこで俺は、考えた。俺はさおりを自分専用の彼女にすることはできない。一介のサラリーマンでは、女房以外に彼女を作る経済的余裕はない。しかしアメリカ映画の題名じゃなないが「ある夜の出来事」のようにふとしたきっかけで一夜だけベッドを共にする機会があるのではないか、またそういう機会を作るようにしなければとも考えた。そしてとうとうその機会がやってきたのだ。その日、俺とさおりは六本木のクラブにいた。さおりの二人の後輩がショーに出演するからだ。六本木のクラブに行くということはチャンスかもしれないと思ったのだ。銀座の夜は、その頃11時半でほんど一斉に閉店だ。ところが六本木は、11時半に閉店する店などほとんどない1時や2時まで営業している店はざらだ。それだけ口説くチャンスもあるってわけだ。最終のショーも終わって俺とさおりは、クラブの隅の方で飲んでいた。「飲んでいた」と言っても二人ともお酒はダメな口だ。おれは、アルコールはほとんど受け付けない。飲めるのはビールだけ、それも350ミリ缶ビール1本、せいぜい飲んで500ミリ缶一本だ。その後は、ビールはいくら飲んでもまずくて飲めたものではない。さおりはさおりでビールをちょっとなめる程度。

その日下心のあった俺は、二人でモスコミュールを飲んだ。モスコミュールは、ご存知の方も多いと思うが、ウォッカを主体にジンジャーエルやその他を加えてできた古くからあるカクテルだ。アルコールっけを全く感じさせない実に口あたりのよいさわやかな飲み物だ。ビール以外のアルコールを受け付けない俺でも実においしく飲めるカクテルなのだ。だからといって調子にのって飲んでいるとこのカクテルの主役がウォッカだから大変だ。このモスコミュールを飲みながらさおりと楽しいおしゃべりに浸り、俺は彼女をダンスフロアに誘った。俺は彼女を意識的に強く抱きしめいきなりチークダンスを始めた。彼女は逆らわなかった。俺は彼女のすばらしいヒップに手を当てた。彼女は逆らわなかった。しばらく音楽にあわせて体を密着した姿勢のまま動かしながら、俺はさおりの耳元でささやいていた。「俺は昔、舞台でさおりさんを見て夢中になった。こんなに魅せられた女性は他にいない。その女性を現在俺は、自分の腕に抱きしめて踊っているのだ。喜びのあまり思わず強く抱きしめてキスをしたいくらいだ」その時彼女は、顔を上げて俺の顔をまじまじと見た、その瞬間彼女は俺の唇にすばやい口づけをし、にこっと微笑み元の姿勢に戻った。その瞬間、俺は、今夜は、「ある夜の出来事」になると確信した。彼女を抱きながら、この辺にラブホテルはあるのか、それともさおりは自分のマンションに俺を招き入れてくれるだろうか、いずれにしてもどんなに遅くなってもさおりと一緒に夜をあかしてはいけない、例え明け方近くになっても我が家に帰るのだ、女房が寝ていてくれるとありがたいのだが、などと考えをいろいろめぐらしている最中に、さおりの膝がくりとくずれ、俺は慌ててさおりを抱きかかえるようになった。
「さおりさん、どうした?」
「腰がぬけちゃったみたい」とかぼそい声をだした。クラブのスタッフと二人でかかえるようにして近くの椅子に座らせた。椅子に座り込んだ彼女は、両手の手のひらで顔を覆い下をむいたまま何も言わずじっとしていた。モスコミュールを飲ませるんじゃなかったと後悔した。お客と飲んでいたさおりの二人の後輩もやってきて、口々に「さおりお姉さん、大丈夫」と声をかけていた。「さおりさん、調子悪かったら救急車呼ぶから、俺一緒に行ってやるから」と声かけたら、「大丈夫、もう少しこうしてじっとしていれば動けると思う、ちょっとお水が飲みたいんだけど」。さおりは水をがぶ飲みした。時間を見るととっくに12時過ぎていた。そこで後輩の二人にさおりさんの家、知っているかと聞くと、知っている、恵比寿のマンションだと言う。そこで「さおりさん、彼女たち二人とさおりさんを連れて車で恵比寿のマンションまで送るから、彼女たちに部屋まで連れて行ってもらうというのはどうかね」。そうするというので、クラブの支配人が車を出して運転してくれた。車中さおりは、一言もしゃべらず、目をつぶったまま俺の傍にぴったりくっついて両手で俺の手をしっかり握っていた。彼女のマンション前で降りると、俺の住んでいるマンションよりずっとすばらしい門構えをしたマンションであることがわかった。別れ際、さおりはかぼそい声で「健さん、ごめんなさいね」と言った。

翌日、俺はさおりのことが心配で会社の昼休みに電話した。元気なさおりの声が返ってきた。「あらぁ!健さん、私も健さんとこへ電話しようかと思ったの。だけど仕事中でしょう、悪いと思ってしなかったのよ。健さん、今、電話で話せるの?」
「ああ、話せるよ。昼休みだし、それに俺の仕事部屋は個室だからね」
「健さん、昨夜はごめんなさいね」、「いゃー、俺の方が謝らなくちゃ、モスコミュールなんか飲ませたからな」、「それにしてもあのモスコミュールとかいうカクテルすごいわね。アルコールをほとんど受け付けない私みたいなものでも、ジュース感覚で飲めるし、それにおいしいのね、びっくりしちゃった。あれで主体がウォッカだなんて信じられない」、
「アルコールはビールしか受け付けない俺でも二杯ぐらいは飲めるから、さおりさんなら一杯は大丈夫と思ったんだけど、やっぱりダメだったな」
「健さんは、あのカクテルを私に飲ませて口説こうとしたんでしょう?」
「はっきりいってそうだね。俺はな、若い時から夢中で憧れていた島さおりという素的な女性とたった一度でいいからベッドを共にしたいという願望があるのだ。昨夜は絶好の機会と判断したんだよ」
「まぁ はっきり言うわね、もっとも健さんのその正直さが魅力なんだけど。それでは私もはっきり言わせてもらいますよ、いいですか」
「あぁ、かまわないよ、どんどんはっきり言ってくれた方がいい」
「それでは言いますが、昨夜の私の失態、あれは半分本当で、半分演技なの」
「ええぇ、半分本当で半分演技とは、一体どういうこと?」
「あのねぇ、あのカクテル飲んで少しも気持ち悪くならなかったの。それどころか、お腹の中が少し熱くなって、酔ったような気分になった時、健さんは私をダンスフロアに誘いだし、いきなり私をきつく抱きしめチークダンスを始めたでしょう、あの時私の体に電気が走ったみたいになったの、健さんは私の耳もとでなんだか甘い言葉をささやきかけるし、私はもうダメだ、これで健さんに口説かれたら、もう抵抗できない、どうしよう、どうしようとの思いだったのよ」
「頭がぼうっとしているせいか、健さんの奥さんの顔が浮かんできたり、色々なことがごっちゃになって頭に浮かんできてどうしよう、どうしようの思いでとっさに浮かんだのが酔ったふりして膝からくずれ落ちることだったの。あの時少しも気分が悪くはなかったの、だから顔の表情を隠すために両手で顔を覆い下向いていたの。健さん、ごめんなさいね、あれしか方法なかったのよ」
「なんだよ、あれ演技かよ、演技にしては名演技だね。びっくりしたよ。要するに俺にベッドで抱かれるのはまっぴらごめんというわけか」
「そうじゃないのよ、安っぽい女に思われたくないのよ。健さんは、たった一回でいいからベッドを共にしたいというけど、あたし、健さんが好きなのよ、健さんも私が好きでしょ、好きあった同士、一回ベッドを共にして、あとは、ハイ、さよならというわけ。そんなことできるわけがないじゃない。あたしがせがんだら、健さんは、もう一回すでにしたからもうお別れだと言うの。健さんは、そんなことできる男じゃないわよ。わたし、わかるのよ。健さんには、あんなすばらしい奥さんがいるじゃない。あたしにはあたしなりの私生活があるのよ。だから健さんとは、そんな世俗的な関係でなく、ずっと清い関係でいたいのよ。そりゃーベッドを共にすれば、親密度はぐっと増して楽しいけど長く続かないのよ、あたし経験してきたから分かるのよ。健さん、すばらしい男性だもん、失いたくないのよ。ね、健さん、そうして、御願い」
「ようし、わかった。約束はできないけど、考えておくよ」と言って俺は電話を切った。

さおりは電話で「あたしには、あたしなりの私生活があるのよ」と言っていたが、確かにその通りだ。俺はさおりと付き合い始めた時から、一切彼女の私生活を尋ねなかった。彼女がいやがると思ったからだし、俺は俺であんないい女に彼氏がいないというのもおかしな話だし、彼氏がいたってかまわないという気分でつき合っていたのだ。しかしもう俺は彼女を口説くつもりはなかった。彼女のボーイフレンドになるには、役不足ではないが経済力不足を実感していたからだ。間もなくして俺は、さおりの私生活を知ることになった。

しばらくするとさおりから会社へ手紙が来た。手紙の中にスナック開店の招待状が入っていた。彼女がスナックを開店したのだ。場所は渋谷でスナックの名前は、国道246号線が近いので「スナック246」というのだ。俺がさおりとつきあっていてこれまでに彼女はスナックを開く、あるいは開くつもりだなどと一言も聞いたことはなかった。いくら一世を風靡しダンサーとは言え、立派なマンションに住み、渋谷のど真ん中にスナックなど単独で開けるほどかせげるわけがなかった。開店日の当日俺は店に行った。俺は小さなスナックを想像していたが、以外に広いスナックだった。ホステスを二、三人使えばクラブとしても使えそうなくらい広かった。後でわかったのだが12月などのイベントのシーズンには後輩の踊り子たちを呼んでお店で踊らすために広くしていたのだ。店は招待客でいっぱいだった。見知らぬ人ばかりだったが、さおりは一人の男を俺に紹介した。Bさんと言って千葉県で産婦人科医院を経営している産婦人科医だった。「Bさんは、私の応援団長なの」とさおりは言った。即座に俺は事情を察した。彼を交えてまわりの人たちと話をしたが、皆「さおりさん」とか「ママ」とか呼ぶのに彼は、さおりは俺の女だと言わんばかりに「さおり」、「さおり」と呼び捨てにしていた。俺は、経済力格差を痛切に感じた。一つ気に食わないことがあった。それは産婦人科医のBさんは、外見が俺と似たタイプの男だったことだ。なにも俺と似ていなくてもいいだろうとさおりに言いたかった。

このスナック開店を機会に俺とさおりのデイトのつきあいは終わった。なにしろさおりは、毎日店のきりもりで忙しく俺とデイトどころではなかったし、俺は俺でさおりとのデイトのきりあげ時とふんぎりをつけた。以後さおりとのつきあいは、ママと客との関係になった。開店してから一年間ぐらいは、よくさおりの店に通った。スナッグだから安くつくし、そのうえ会社の接待にも使えたからだ。俺の年代の男は、日劇ミュージックホールに行ったことがなくても日劇ミュージックホールの名前は知っているし、トップスターだった島さおりがやっているお店と言えば、ほとんど興味を示した。だからよくお客も連れていった。お互いデートはしなくなったとは言え、二人の仲は良かった。かえってさらに親密度が増したような気さえした。店がオープンしてからしばらくの間、俺はさおりの彼氏のように思われていた。俺の知っているかぎり産婦人科医のBさんは、店に現れたことはなかった。その後二人の関係がどうなったのか知らないし、聞くつもりも毛頭なかった。

日劇ミュージックホールの全盛期、最後の時代に花を咲かせたトップスター、島さおりだけに、お店には俺が知らない顔の芸人がよく来ていたらしい。俺が知っている顔の芸人の代表格は、ビート・タケシだ。さおりが全盛時代のタケシは、まだ売れていない芸人で日劇ミュージックホールの司会をやったりしていたのだ。タケシはさおりのことを、「お姉さん、お姉さん」と呼んでいた。タケシの話によると、さおりは姉御肌で、後輩の面倒見がよく、舞台裏で働く人たちに人気があったという。さおりの店がオープンして2、3年ぐらい経った頃だと思う。俺は、転職して会社を変えた。そんなこともあってさおりの店とはご無沙汰することが多くなった。そんなある日、翌日から海外出張という日、なにげなくさおりの店に寄った。確か3,4ヶ月ぶりの来店だったと思う。時間がまだ早く、店にはお客が誰もいなかった。
「あらー、健さん、お久しぶりじゃないの。元気?」、「人に元気?などと聞くより、ママ一体どうしたんだ。随分痩せたじゃないか」。
体は痩せていないのだが、さおりの顔がいやに痩せているのが気になった。
「そうなのよ。痩せちゃったのよ。風邪をひいてね、せきわでるしさ、お店休めないから、無理したでしょう。治りが遅くてやっと少し調子がよくなったとこなのよ。でもまだせきが出るのね」
「一度精密検査してもらったら」、「そうしようと思っているの」
「健さんとこに三度ばかり電話したのよ。外出中だの電話中だのでつながらないし、迷惑だと思ってそれっきり電話しなかったんだけどね、健さんに知らせたいことがあるのよ」
「知らせたいことって何」、「あたし結婚することにしたの」、「ええ、結婚、誰と?」
「青木さんよ、健さん知っているでしょ」、「知ってるよ」、青木という男は、店がオープンして2,3ヶ月経った頃から来るようになった客でそれ以来毎日やってくる客になったのだ。確か不動産屋をやっているとか言っていた人だった。
「青木さんはね、健さんが私の彼氏だとばっかり思いこんでいたんだって、もっとも青木さんだけじゃなく他のお客さんからも健さんが彼氏だろうと言われたわ」
「二人とも正直だから親密度を完全に隠すことできないのと違う?」
「きっとそうかもね、あたしねぇ、最近、健さんとのデイトを思いだすのよ。あの頃楽しかったわ。健さんと映画みに行った時、私そっくりの中国人女優が出てきたでしょう。あの時あたしちょっとわくわくしちゃったわ」
「確かに、あの時ママがそんなことを言っていたのを覚えているよ」
「健さん、あたしね、後悔してんの」、「何を」
「健さんの口説きを受ければよかったと、健さんの言うように一度だけベッドを共にすればよかったわね」、さおりは笑いだしていた。「おい、おい、今さらよく言うね、しかし今度は俺の方が断るね」、「あら、どうしてなの?」、「ベッドの後で、あれ、演技だったのよと言われちゃたまったもんじゃないからね」。
「まぁ!健さんも良く言うわねぇ」とさおりと俺は一緒に笑い出していた。

「今回の結婚話で私を決心に導いたのは、健さんの奥さんよ」、「なんで俺の女房なんだ?」「健さんの奥さんとあたしとは、ほとんど同じ年よ、それなのに奥さんは、健さんというすばらしい夫を手に入れ、三人の子供さんがいて、それでいてとても素的で魅力的でしょ。あたし、これまでサラリーマンの奥さんとほとんど会ったことないのよ」、「ほんとかよ?」
「ほんとよ、だってあたし青森の高校の同窓会に一度も出たことないのよ。みんな子持ちのおばさんになっていると思うけど。私が同窓会に出たら場違いのような気がして落ち着かないと思ったの。だからずっと出席していないわ。別に変な仕事しているわけではないのに、なにかコンプレックスみたいなものを感じているのかしら?だからその裏返しみたいに、サラリーマンの奥さんなどなんとなく軽蔑していたのよ。ところが健さんの奥さんと会って、同じ年のあたしには、夫もいない、子供もいない、従って家庭がないのよ。この年になってあたしには何もないということを改めて悟らされたのよ」
「『人気絶頂』、『一世を風靡』などとおだてられてダンサーの仕事続けてきたけど、日劇ミュージックホールは閉鎖され、ダンサーたちは定職を失い、アルバイトで食べている感じでしょう、若い子たちは可哀そう。私など全盛期を味わったから幸せだと言われるけど、ダンサーの寿命は短いわ。歌手も役者も年とってもやれるけど、ダンサーは肉体労働のわりには、実に割に合わない仕事ね」
「でもママはね、幸せだよ、ダンサーとして全盛期を体験し、引退後は即結婚じゃないか。これから家庭を築けるじゃないか、幸せを感謝しなきゃ」
「そうね、本当にそうだわ。私にプロポーズしてくれた青木さには、感謝しなくちゃね。あたしね、どうしても子供が欲しいのよ。だからプロポーズされた時、結婚して落ち着いたら、施設にあずけられている不幸な子供をぜひ養子にしてくれと頼んだら、彼気持ちよくオーケーしてくれたわ。彼、前の奥さんとの間に子供がいないのよ。50歳から私の第二の全く新しい人生のスタートなの。健さん、乾杯してくれる」
「そうだな、それでは大いに乾杯しよう」と俺は、ビールの入ったコップを手にすると、アルコールの飲めないさおりが、なにやら入ったグラスを上げるから、「その飲み物何」と聞くと、「モスコミュールよ、健さんと因縁の飲み物よ。今じゃ私の大好物の飲み物、但し一杯だけだけどね。これを飲む度に健さんを思い出すというわけよ」
「そう。いいこと言ってくれるね、それでは島さおりの第二の人生を祝して、乾杯!」。
二人は大きな声をあげて「乾杯」の合唱をした。
「ああ、今日は最高。あたし結婚を決意したら、いの一番に健さんに報告したくてしょうがなかったの。それで会社に三度も電話しちゃったのよ、ごめんなさい」
「ところで式はいつ挙げるの」、「そうね、式はそんなにこだわっていないの、二人はもう年だしね、それに青木さんは、二度目だしね。私は、籍をいれるだけでもかまわないと思っているの。そのかわり披露宴のパーティーは、沢山招いて華やかにしようと思っているの。その時は、奥さんも招待するから健さん来てくれる?」
「もちろんだ、喜んで女房をつれて参加するよ、パーティーはいつ頃」
「多分、3月か4月頃」、「決まったら早く教えろよ、その日は出張のないように空けておくからよ」、「勿論よ、すぐに連絡します」
「ところで健さん、あたしの話ばかり夢中になって話してしまったが、健さん、会社変わったんでしょ。仕事順調なの?」、「まぁ、まぁ、と言ったところだね。ただちょっと海外出張が多くてね。体がきついよ。明日も海外主張なんだ」、「今度はどこ?」、「またヨーロッパよ」
「遠いから大変ね、体には気をつけてよ、これだけは御願い。健さん、わざわざ海外出張の前日ここへ来てくれたの」、「そうよ、しばらくご無沙汰していたからね。ママが元気かどうかちょっと来てみたのよ。そしたら結婚だなんてすばらしい話を聞かされて、来たかいがあったというもんだ」
「あらぁ、うれしいこと言ってくれるわねぇ、健さんありがとう」、「というわけで明日出張だから、俺これで失礼するわ」
「そうね、早く帰った方がいいかもね、それではあたしちょっと送っていくわ」

二人は店を出て渋谷駅の方向にむかって歩きだした。歩きながら俺は、さおりの耳元で「幸せになれよ」と囁いてから、彼女の頬に軽い口づけをした。彼女は俺の顔を見ながらにっこり笑って「ありがとう」と実に心のこもった優しさいっぱいの一言が返ってきた。そこで別れて俺は渋谷駅に向かって歩きだした。しばらく歩いてふと後ろを振り返るとさおりがまだこっちを見ていたので大きく手を振ると、さおりも手を振りかえした。これが俺とさおりの最後の別れになっていたのだ。

それから3、4ヶ月ぐらい経っていたろうか、俺はさおりの店に行った。ドアは鍵が閉まっていて、「スナック 246」の看板ははずされていた。常連の客に電話で問い合わせると、さおりが精密検査を受けた時、すでに末期の肺がんでどうにもできなかったという。婚約者の青木さんは、さおりには病状を話さず、抱きかかえるようにして12月にオーストラリアへ連れて行った。帰国して数週間たつがもう臨終の頃ではないかと思うという話だった。俺とさおりとの最後の別れになった日、俺が店を出る時、さおりは「送っていく」と言って俺と一緒に店を出て渋谷駅の方向に歩き出した。俺は、さおりの店に何十回と行ったが、俺が帰る時店の外まで送りに出たことなど一度もなかったのだ。俺だけでなくどの客も店のドアの外まで送りにでたことを俺は見たことはなかった。だがあの日だけは、俺を店の外まで送りに出て一緒に渋谷駅の方向へ歩きだしていたのだ。虫の知らせというものかどうかわからない。さおりが俺に向かって大きく手を振っている姿がいまだに俺の脳裏に焼き付いている。さおりが死んだ時、俺は知らなかったが、スポーツ新聞の記事に載ったという。新聞によると結婚式2ヶ月前の死だったという。享年51歳だった。

あとがき:
「日劇ミュージックホール」を知らない世代の人は、ぜひ検索してみてください。


      この短編小説の転載、転送は、堅くお断り申し上げます。




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正義感と「和」の文化



アメリカ人というのは、どうも正義感の強い民族ではないかというのが私の考えです。この私の考えに反対する人もいるでしょうが、その方は最後までこの文章を読んでみてください。1960年代のアメリカは黒人の公民権運動が盛り上がった時代です。公民権運動とは黒人差別撤廃運動です。黒人が白人と同じ学校で学び、同じレストランで食事をし、同じホテルに泊まれる。あるいはバスや映画館では黒人は、どこの席にも自由に座れるというような公民権を黒人は大規模に主張したのです。この黒人の公民権運動は白人の猛烈な反発を呼びました。ケネディー大統領の公共施設における差別撤廃法案が上院で議事妨害にあって棚上げになったり、各地で流血の惨事が繰り返されました。その時多くの白人はただ傍観しておれば身に危険が及ばないものを、正義感に燃え自ら黒人差別撤廃運動に参加して、多くの白人が黒人差別主義者の白人に殺されたり、負傷させられたりしたことも事実なのです。

白人の郵便配達人ウイリアム・ムーアは、大きなゼッケンに「黒人も白人も一緒に食事しよう。すべての人に平等の権利を」と書いて、ボルチモアからミシシッピーに向けての行進に参加したが、彼はアラバマ州に入るやいなや射殺されてしまった。黒人差別を徹底して貫こうとする狂気に近い執念もすごいが、それにも負けない正義感もすばらしいではありませんか。アメリカ南部でも黒人差別の激しいアトランタ州の新聞、「アトランタ・コンスティテューション」の白人記者、ラルフ・マッギルは黒人差別反対の記事をたびたび書くのですが、そのために猛烈なイヤガラセにあっています。その一つが、外から車で通りがかり自宅に何発もの実弾を浴びているのです。反面、彼の勇気ある記事には白人、黒人問わず沢山の人たちから支持や激励の手紙が舞い込むのです。正義感あふれる行為に対して人々が積極的に支持していく。ここらあたりはアメリカ人の長所の一つではないでしょうか。

ご存知アメリカは犯罪王国です。凶悪犯罪、凶悪犯人目白押しです。警察内部の腐敗もあります。そして犯罪件数も多いからたまったものではありません。そういう犯罪多発国にもかかわらず、国家として成り立っているのは、凶悪犯罪や警察内部の腐敗にも負けない人一倍正義感の強い人たちが多いからなのではないでしょうか。その代表的選手をあげれば、昔の人になりますがエリオット・ネスです。エリオット・ネスと聞けば、私の年代であれば思い出すのが、昔のテレビの人気番組「アンタッチャブル」のFBI捜査官です。十年以上前だと思いますが、ケビン・コスナー主演の「アンタッチャブル」という映画にもなりました。禁酒法時代のギャングの大物、アルカポネのギャング一味をやっつけるのですが、エリオット・ネスは実在の人物です。テレビではエリット・ネスは中年の人でしたし、映画では乳飲み子を持つ若い父親でしたが、実際は彼が弱冠26歳の独身の時にカポネ一味撲滅の全権を与えられているのです。若いだけに正義感を発揮しやすいとも言えますが、自分が一緒に住んでいる両親の家と彼の恋人の家を24時間体制で警官に守らせての捜査活動だから、生半可な正義感で勤まる仕事ではありません。恋人とのデートでもボディーガードを見張りにつけているのですが、それでも危うく難をのがれる経験もしています。指揮官のネスを初め彼の部下にもギャングから度々賄賂が届けられますが、すべて送りかえしている。そのためネス一家は、アンタッチャブル(untouchable)と呼ばれたのだ。アンタッチャブル(untouchable)とは米英語で「買収がきかない」の意味です。ネスの伝記を読むと彼は自分の体が神に守られているなどとは一言も言ってはいません。また自分の正義感が許さないなどとも一言も言っていません。ただ淡々と捜査活動を語っているだけに、彼の沈着冷静ぶりと内に秘めた強い正義感がうかがえるのです。一つ一つの密造酒工場をつぶし、カポネの資金源を絶っていくのだ。カポネ逮捕後も数々の功績をあげてそれなりに出世をしたのだが、命を張った危険な仕事のわりには報われ方が少なかった。ネスはそれが不満だったのでしょう、途中退官して自分で仕事を始めたのだ。一説によると警察内部の腐敗を極端に嫌ったネスは、多くの同僚を刑務所に放り込んだため、功績が大であるにもかかわらず、警察内部に嫌われてしまったというのだ。いずれにしても退官後のネスは、数年後に心臓発作で死んでしまった。一方刑務所入りしたカポネは、二度としゃばに出られず、刑務所入り前に患っていた梅毒が悪化、梅毒菌が脳に回って廃人同様になって死んだ。

エリオット・ネスの例までだしましたが、とにかくアメリカ人は正義感が強いことは確かなようです。前回のブログ記事に登場させた国立航空宇宙博物館長のマーティン・ハーウィットも正義感強い男だ。史実に基づかない「原爆展」など開けるものかと議会、上院の満場一致の決議に辞職覚悟で堂々と挑戦しているのだ。聞くところによると彼は新任まもない館長だったといいます。同じ国家公務員でも日本の公務員では、とてもこんなことはできないでしょう。ところがアメリカ人の正義感は独りよがりのところがあって、アメリカ人はいつも自分が正義だと思っているのだ。簡単に言えば正義感過剰なのです。戦争についてもそれが言えます。「アラモを忘れるな」、「メイン号を忘れるな」、「真珠湾を忘れるな」などは敵国であったメキシコ、スペイン、日本などにアメリカが正義だと思わせるための策略なのだ。バターン死の行進や原爆投下正当化論などもアメリカが正義と思わせるための宣伝です。東京裁判は茶番劇だと言われたりしますが、まさにアメリカが正義だと思わせるための大仕掛けな舞台装置を用意した茶番劇です。1980年代は、日米貿易戦争だとか日米貿易摩擦だとか言われましたが、あの時代のアメリカの貿易交渉態度は、アメリカが正義、日本が悪の態度でした。アメリカ側の主張が通らなければ制裁(sanctions)を課すというのだ。まさにアメリカが正義面して日本に罰をあたえる感じで日本政府はそれにおののいて譲歩するというのが大体の筋書きだった。このようにアメリカ人は、正義感過剰で、なにをするにも、いつも自分が正義だという意識が心の中にあるみたいです。

これに反して日本人はどうかというと、正義感が非常に乏しい。その原因は何かというと、正義感を燃やすためには己の信念の強さが必要になってくるのですが、その個人の持つ信念の強さが「和をもって貴しとなす」という和の文化や空気の読みすぎなどによって信念の強さがそがれてしまうのだ。日本の社会があまりにも「和」というものを大事にしてきたため、正義感があまり育たなかったと言っていいのではないでしょうか。「和」を大事にするあまり正義感を燃やしても無視されたり、村八分にあったりする例が多いのです。例をあげましょう。お役所で、ある部の全員が不正使い込みしようと決めたとしましょう。その時一人の部員が、それは悪いことなので私は参加しませんなどというと、その主張に他の社員が同調するより、せっかく皆で決めたものを一人いい子になってとか思われて無視されたり、場合によっては村八分扱いを受けるのではないでしょうか。

大企業の粉飾決算の場合、社長一人で誰にもわからないように粉飾決算などできるはずがないのです。必ず社長を含む重役連中が知っていることなのです。それでも粉飾決算が出るということは、粉飾決算は犯罪行為だと反対する人がいなかったのか、あるいは反対者がいても同調する人が少なかったのかどちらかなのです。一人でも正義感を貫いて、粉飾決算は犯罪行為だから絶対反対、もし強硬すれば、自分の目の前で犯罪行為をみのがすわけにはいきません。警察に訴えても暴露しますと強行に主張する人が現れれば、事態は少しは変わってくるとは思うのですが、そんなことはほとんどないのでしょう。談合事件をみてもわかります。談合は違法だとわかっていながら、常識も良識もあるサラリーマンが平然と行い、いっこうに談合はなくなりません。日本の社会は正義感貫くよりも、グループの和がどうしても優先してしまい、その結果、日本人得意の「見て見ぬふり」をしてしまうのです。

「和」の文化というのは、日本のような島国で単一民族の国の中でお互い平和に仲良くやっていきましょうという場合には、実にすばらしい文化です。しかしこの文化は、何十億という異民族、異教徒が入り乱れる世界では、役に立たず決して世界の主流になれる文化ではありません。しかし日本人は、この和の文化のため地球が滅亡する最後まで生き残れる人種のような気がしてなりません。なぜか?皆さんは、「和」の文化の最大の特徴は、何だと思いますか。私は、「妥協」と「迎合」だと思います。これが大勢順応主義を生むのです。日本人は、世界がアメリカに支配されようと、中国に支配されようと、あるいはロシアに支配されようとこの「妥協」と「迎合」で共存できるのです。例を示しましょう。大東亜戦争大敗直後、日本はアメリカ占領軍の支配を受けた。それ以来日本は、アメリカ占領軍の占領政策を徹底した「妥協」と「迎合」で受け入れたのは有名だ。例はいくらでも挙げられます。日本列島の歴史は、平和の時代の方がはるかに長い、それは同時に妥協と迎合の産物なのだ。だから日本人にとって妥協と迎合が一番受け入れやすく、信念をもって正義感を貫くのは、ものすごく大変であまり得意ではないのだ。

一方アメリカ人が正義感過剰になるのもアメリカ国家の歴史のせいでしょう。白人が他の大陸や島からやってきてインディアンの土地を奪って発展してきました。インディアンとの争いもアメリカ人にとって正義なのだ。メキシコの領土半分近く略奪した戦争もアメリカの正義、アメリカ人は自分かってな正義を振りかざして世界の超大国になったのだ。アメリカ人が正義感過剰になるのは無理ない。正義感過剰とは、あまりにも自己中心的な正義感である。アメリカ人が傲慢だといわれるのはそのせいです。正義感過剰が傲慢を生むのだ。

ところで日本人得意の妥協と迎合が過剰になるとどういう弊害を生むと思いますか。それは卑屈です。現在の日本民族は卑屈そのもので実にいやらしい。大東亜戦争敗戦直後、「ローマ字採用論が大々的に主張され、敗戦わずか3ヵ月後の11月12の読売新聞では馬鹿馬鹿しくもこう書いてさえいるのだ。
「漢字を廃止するとき、われわれの脳中に存在する封建意識の掃蕩(そうとう)が促進され、あのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追随しうるのである。文化国家の建設も民主政治の確立も漢字の廃止と簡単な音標文字(ローマ字)の採用に基づく国民知的水準の昂揚によって促進されねばならない」。
日自衛戦争を主張して負け、勝利国や外国からお前がしでかした戦争は、侵略戦争だと言われれば、自虐史観が横行し、祖国のために戦ってくれた兵士を足げにし、戦前戦中の日本政府や軍人は不名誉なことしていないのにも関わらず「なかったこと」を「あったこと」にして祖国日本を徹底して貶める。まさに妥協と迎合の過剰が生む卑屈さだ。幕末明治の日本人も現代日本人も「和」の文化に育った人間です。幕末明治の日本人には、白人との間に科学技術と軍事力ではとてつもない圧倒的な差を感じていたはずだ。しかし彼らには現在日本人のような卑屈さは微塵もない。何故か。幕末明治時代に日本人にあって現在日本人にないものが同じ日本人との間に大差をつけているのです。

それは何か。誇り、プライドです。圧倒的な「日本人としての誇り」の強さが幕末明治の人たちにはあったのだ。「武士は、食わねど高ようじ」という言葉は、武士の「誇り高さ」を称賛する言葉だし、又たとえ極貧でも誇りを失うなといういましめの言葉でもあった。しかし現在では「誇り」などという言葉は一切無視されてしまっている状態です。だから現在の日本人には「誇り」などほとんどない、反日日本人にいたってはつめの垢ほどもない。「日本人としての誇り」があるから強い愛国心が伴うのだ。よく日本民族が劣化したと言われますが、私は劣化したとは思っていません。幕末明治の日本人も現在の日本人も同じです。ただ「日本人としての誇り」があるかないかの差だけなのです。「和」の文化の基調ともいうべき妥協と迎合は、えてして卑屈になりがちです。その卑屈さを防ぐのが「誇り高さ」なのです。「誇り」を失くしてしまった現在日本人が卑屈になるのは頷ける話です。「日本人としての誇り」を取り戻せば、日本は復活します。しかし一度失った「日本人としての誇り」を取り戻すのは至難の業です。結局。教育でしか日本人の誇りを取り戻せないでしょう。そうすると日教組がどうしても邪魔になってくる。前々回のブログ記事で紹介した84歳の伊藤玲子先生は、「日教組つぶさないかぎり私は死にません」と公言したが、私も全く同じ、「日教組をつぶさないかぎり、私も絶対に死にません。」しかし日教組が潰れないうちに日本が独立国でなくなる可能性も高いのだ。

私は、特に若い人たちに強調したい。人は誇りをなくすと堕落するといいます。自分自身に誇りを持つこと、日本人としての誇りを持つことがどんなに大事なことか強調しすぎることはありません。





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