Archive for 8月, 2012

男の涙の落ちぶれぶり



オリンピックが終わった。色々な涙をテレビ画面で見させてもらいました。その涙場面の中で敗退した日本柔道選手(男)が人目もはばからずボロボロ涙を流す姿、私には見ていて腹がたってきた。「なんだ、このざまは」。私は昨年の7月に「男の涙の落ちぶれぶり」というタイトルのブログ記事を書いた。今回もう一度再登場させました。
引用開始
「最近の若い男性を見ていて気づくのは、おそらく最低でも何百年と続いてきた我々日本男子の習性とは、あきらかに違うものがあるということです。それは何かと言えば今の若い男は、テレビなどを見ていると人前で平気で涙を流すことです。悲しいと言っては涙を流し、うれしいと言っては涙を流す、その涙も涙ぐむなどは、通り越してボロボロ涙をながすのさえ全く希ではなくなってきています。
5,6年前私は、自費出版で2冊目の本を出版しようとした時、出版直前でその出版社が倒産した。そのニュースを聞いた私は、翌日出版社の事務所が開く前に会社に押しかけた。その時すでに6,7人の人が会社に押しかけていた。その一人に20代の男性がいた。出版社が倒産して本が出版されないどころか、彼の支払った70万円がもどってこないと知った彼は、「俺、どうしよう」、「俺、どうしよう」と言いながら、ビルの廊下にへたり込んで恥も外聞もなくおいおい泣き出したのです。私はびっくりしてしまった。詳しく話しを聞けば、その70万円は借金ではない、自分がバイトで貯めたお金です。それでもおいおい、人目もはばからず堂々と泣く、私など見ていて、同情するどころか、その女々しさに腹が立って、「男のくせになんだ、そのざまは」と怒鳴りつけたいくらいだった。

我が女房は、NHK大河ドラマのファンでよく見ています。私もいっしょにつられて見ますが、今年のドラマはつまらなくて見ていません。二、三年前、直江兼続を主人公にする大河ドラマを見ていた我が女房が少し怒り気味に「あの当時の武士が、あんなに涙もろいはずがない」とけなしていたのを覚えています。私も同じように感じていました。なにしろ直江兼続演じる妻夫気聡がやたらと涙を流すのだ。恐らく脚本家が多分まだ若い女性なのかもしれません、年寄りの男性脚本家だったら、武士にめったのことで涙なんか流させるはずがありません。

私は現在の若い男性に言いたい、日本男子たるもの人前で涙など流さないものなのだ。その根底には、男たるものどんな時でも人前にうろたえた姿をさらしてはならないという掟みたいなものがあるのからです。私の年代とそれ以上の人たちの父親は、ほとんど全員明治生まれです。従って私たち男の子は、いつまでもめそめそ泣いていると、父親から「男のくせにいつまでもめそめそ泣くな」と一喝されるが当たり前でした。母親でさえそういうことを言っていた時代です。それでもくやしくて泣きたい場合は、トイレに入って声をたてずに悔し涙を流し、落ち着いてから涙をふき取りなんでもないような顔をしてトイレから出るのです。夜だったら布団の中で悔し涙を流し枕を濡らすのだ。私は小学校時代にいじめにあい、多勢に無勢でこてんぱんにやられ逃げるようにして家に帰り、母にさとられないように、すぐにトイレに駆け込み悔し涙をどっと流した思い出がある。このように私の年代以上の男は、小学生の頃から涙など人前で流さないのが男の強さの象徴みたいだったのだ。

それでは大人の男が泣くときはどうするのか、小説の表現を借りて説明しましょう。明治時代の作家、伊藤左千夫の有名な短編小説「野菊の墓」、何回か映画化されたといいます。その「野菊の墓」から例をとりました。主人公は故郷を離れ、上京し大学に通う大学生です。突然、故郷の母から「すぐ帰れ」の電報を受け取り、故郷に帰った。母から彼の幼友達でもあり恋人でもあった彼女の死を知らされた。彼女がいかに彼のことを愛していたか、彼女が病に臥しても彼に知らせなかったのも、もし知らせたら彼は、彼女を見舞いにくるだろう、それでは彼の勉強のじゃまになるという彼女の必死の願いで彼に知らせなかったこと、またその死に方があまりにも不憫で涙をさそうものであった。彼女に何もしてあげられなかった彼の悔恨等々で、彼は泣き崩れます。その描写を伊藤左千夫は、このように書いています。

「母の手前兄夫婦の手前、泣くまいとこらえて漸くこらえていた僕は、じぶんの蚊帳(かや)へ入り蒲団に倒れると、もうたまらなくて一度にこみあげてくる。口への手拭を噛(か)んで、涙を絞った」
この短い文章が、男の泣き方を端的に表しています。「母の手前兄夫婦の手前」で他人のいる前では男は泣かないもの、涙を流さないものだということ。「口へは手拭を噛んで」とは号泣するとどうしても嗚咽がもれる。明治時代の田舎の夜は、静寂そのものだったでしょう。その嗚咽のもれを誰かに聞き取られると自分が泣いているのがわかってしまう。そのために口の中で手拭を噛んで嗚咽をこらえるのです。そして涙だけはとめどもなく流すのだ。それが「涙を絞った」という表現になった。これによって男という者は、どんなに悲しくても人しれずこっそり泣くものだということがわかります。この文章のあとに続いて伊藤左千夫は、こう書いています。
「どれだけ涙が出たか、隣室から母から夜があけた様だよと声をかけられるまで、少しも止まず涙が出た」
この短い文章で隣室の母親は息子が泣き崩れていたのを知って心配していたこと、声をかけても悪いし、母も寝られなかったのだ。夜が明けてきたので「夜があけたようだよ」と声をかけ、息子は息子でその声で落ち着きをとりもどすきっかけなったことを連想させる名文ですね。

男が人前で涙を流すということは、女々しいと思われたのは、人前で涙を流すということは男のうろたえた姿を表すことなのだ。男たる者、どんない悲しい目に会おうが、辛い目に会おうが、うろたえてはならないのだ。この武士道にも似た精神が当時の男にどれほどしみついていたかを端的に表す例を示しましょう。
日清戦争終了から5年後の明治33年(1900)、清国で義和団事件が起きた。この義和団の騒乱にかこつけて清国政府は、支那に公使館を持つ国々に宣戦布告してきた。この時、清国に公使館を持っていたのが日本を含む欧米諸国11カ国、そのうちオランダ、ベルギー、スペインの三カ国は守備兵力を持たず、合計八カ国の守備兵力は、公使館員、学生、民間人いれて5百余名。イギリス公使館が一番広いのでここに各国の老人、子女、病人を集め、各国自国の公使館に籠城し、各国連携しながら戦うことになった。籠城戦は援軍が到着するまで約二ヶ月半続いた。この時大活躍して欧米軍の間で大評判をかち取ったのが会津藩出身の柴五郎中佐率いる日本軍の守備隊です。柴五郎中佐は、この時の大活躍で当時のローマ法王から指輪を貰っています。

籠城戦は結局成功に終わるのですが、日本軍の名声を高めたことが二つあります。戦後各国はそれぞれの支配地域で軍政を敷くのですが、外国軍は略奪をほしいままにするのですが、柴中佐率いる日本守備隊には一切の略奪がなかったこと。二つ目は日本兵の我慢強さです。戦場では負傷兵が出ます。当時は麻酔などありませんから外科手術など荒っぽいし激痛が伴います。片脚切断、片腕切断など麻酔なしでやります。この時欧米兵はでかい図体で大きな声をあげて泣き叫びます。しかし日本兵は違った。男たる者人前で涙を流してうろたえる姿をさらすなというのがしみついているし、その上日本軍人としての誇りがある。どんな大手術でも日本兵は、軍帽を口の中に入れそれを噛み締めて、低い声で「うーうー」といううめき声をだすことすら恥とばかりに懸命になって平静さを装うとするのだ。これを見たが外国人兵や看護婦役をしていた外人女性がびっくり仰天し、「日本兵はすごい」と評判なったというのだ。これが当時の日本兵の強さの要因の一つでもあったのだと思う。

このように私の若い頃までは、大人の男は、めったなことでは人前で涙を流さないもの、だから男の流す涙にはそれなりの価値があったのだ。どういうふうに価値があったのか具体的に説明するのがむずかしいので例をあげましょう。私の20代の頃の話です。もう50年も前の話です。私の知人が私を含む数人の前で自慢げに話しをしてくれました。彼には愛を誓った恋人がいた。結婚するつもりだったらしい。ところが新しい恋人ができてしまったのだ。彼はどう別れ話をきりだすか悩んだ。前の恋人は特に気が強いし、別れ話でひと悶着はさけられそうもなかった。そこで彼が考えついたのが、別れ話のとき彼はわざと泣いて涙を流すことだった。彼は、私たちの前でその成功話をしたのだ。
どうやってわざと涙を流すことができたのだと聞くと、彼は、いかにも涙をこらえているように両手で顔を覆い、相手に気付かれないように人差し指と親指で目頭をできるだけ強く押すと涙が出たというのだ。私と同年代の女性は、現在と違って大人の男が、人前で涙を流すなどほとんど見たことないのだ。彼女は彼の涙を見て感激したというのだ。どういうふうに別れ話を切り出したのか知らないが、彼女は、彼の涙を見て、自分も涙をながしながら「あなたもつらいのね」と言ってくれたそうだ。「うそをつけ!」と言いたい。おおげさな自慢話だろう、しかし別れ話は成功したと言うのだ。

そのあと私は、自分で人差し指と親指で自分の目頭を押さえてみた。涙は出ませんでした。しかし強く押せば、押すほど、指を離した瞬間目元がさだまらず目をパチパチするような感じになるので、必死になって名演技をすれば涙をこらえているように見せるかもしれません。いずれ私も必要ならこの手を使おうと思っていたが使う機会がなかった。
女の涙は武器だと言われますが、我々の年代までの男の涙は、めったのことでは見られないだけに武器にもなり、価値もあった。それがどうですか現在の若者は、うれし涙も悲しい涙も悔し涙もすぐに出す。野球の甲子園では、予選で負けても泣きじゃくるのだ。日本男子が数世紀かけて築いてきた男の涙の文化を完全にぶちこわしてしまったのだ。一体この責任をどうしてくれるというのだ。ある台湾人の男性が、日本にきて日本人男性が平気でテレビの前で涙を流すのを見てびっくりしたと言っています。台湾人の男性も私の世代と同じよう人前ではめったに涙をながさないのだ。私には、現在の日本男子の若者のひ弱さは、すぐに人前で涙を流すことと非常に関係があるのではと思っています。若者の中にも日本人であることに誇りに思っている人もいるでしょう。その若者たちには、あなたがたの祖父や曽祖父のように、人前で涙など流してうろたえるような素振りを見せるなと言いたい。
若い女性に聞きたい、どんなにつらい事や悲しい事も、人前でうろたえた姿を見せまいとぐっと堪えて涙を流さず、隠れるようにして涙を流す男と、人前はばからず堂々と涙を流し泣きじゃくる男、どちらに魅力を感じるのでしょうか。」
引用終了

どうですか、この文章を読んで若い男性はどう感じるのでしょうか。このブログに書いてあるように私は小学校の低学年の頃から、母親には涙をみせず、トイレで泣いて、後はけろっとしてなにもなかったような振りをする、まさに子供ながらも日本男子の一人の男としての振る舞いができていたのです。ところが現在の若い男は、もう精神的に幼稚で弱すぎるのだ。なぜこんな日本人男子が沢山うまれたか。日教組のせいでしょう。日教組は伝統破壊者だからです。日本の男の涙の文化が、日本男子を強くしていた一つの柱だったのではないでしょうか。男の涙の文化の復活は、もうないのだろうか?

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育鵬社歴史教科書支持派の皆様方へ(3)



今年の5月29日の読売新聞朝刊で大スクープニュースが報じられていた。在日支那大使館の一等書記官、李春光(45)が外国人登録証明書を不正に使って銀行口座を開設し、ウイーン条約で禁じられた商業活動をしていた疑いが強まり、警視庁公安部が外務省を通じて支那大使館に書記官の出頭を要請していたことがわかった。李春光一等書記官はすでに帰国していた。こういう記事の書き出しの下に李春光のスパイ行為が大々的に報じられ、一面だけでなく34、35面にまで彼の動向が深く報じられていました。その後の報道で彼のスパイ活動が、主に農水省関係にしぼられて書かれていたので、「新しい歴史教科書をつくる会」とも関係があると誰も思わなかったでしょう。しかし、「つくる会」の古い会員や役員の人たちには、なにやら不愉快な昔のことを思いだす人もいたのです。それは新聞記事に表れた二文字、すなわち「松下政経塾」と「中国社会科学院」の二文字であす。李春光が「松下政経塾」海外インターンの塾生であったこと、支那総参謀部と関係が深いとされる支那の調査研究機関「中国社会科学院」で日本研究所副主任を務めていたことです。話は私が「つくる会」に入会した7年前の話から初めます。

私は7年前の平成17年の8月3日に「つくる会」に入会しました。入会金の領収書がその日付になっています。領収書には、会長名が八木秀次氏になっていました。私はこの時初めて八木秀次氏という男の人の名前を知ったのです。そして現在ではすでに帰国してしまっているスパイ、李春光と八木秀次氏とは非常に深い関係にあったことがわかってきたのです。私が入会した平成17年の年の12月になんと八木会長は、「つくる会」の執行部の了解もとらずい極秘のうちに支那を旅行したのです。私には不満だった。いいですか、「つくる会」が目指す教科書改善・正常化運動の妨害者は、日本の左翼陣営ばかりでなく支那、韓国、北朝鮮であることは誰もが認める事実です。特に支那は、自国の領土で日本軍と戦った歴史があるから、対日外交の大きな柱の一つが自分たちの歴史観、歴史認識を日本に押し付けることなのです。このくらいのことは保守の知識人なら誰でもわかるはずです。さらにちょっと頭をめぐらせば、「つくる会」の歴史観は、彼らの歴史観、すなわち共産党一党独裁政権が支那国民を信じ込ませた歴史観と真っ向から対立しますから、「つくる会」の存在は、彼らにとって癪に障る存在、ましてや「つくる会」の教科書が日本国内でどんどん使われるようになったら彼らの脅威になるのです。従って支那にとっては、「つくる会」を潰すか篭絡しなければならない存在であることが想像できるのです。従ってなぜ「つくる会」の会長がのこのこと支那を訪問しなければならないのかという疑問が八木氏の頭には浮かんで当然なのです。それにもかかわらず、極秘に自ら出かけて行ったということは、なにか公言できない理由があったに違いないと考える他ありません。八木氏への不審の原点は、この支那極秘訪問にあります。支那訪問も盧溝橋にある「中国人民抗日記念館」や南京にある「南京大虐殺記念館」等のいわゆる反日施設の見学旅行で終わるなら、まだ救いようがあったのですが、なんと「中国社会科学院日本研究所」を訪れ、蒋立峰所長等と「新しい歴史教科書」をめぐって意見交換したというのだ。「つくる会」の会長がなぜ「新しい歴史教科書」をめぐって支那の歴史専門家と話会いをしなければならなかったのかと問いたい。

ここで八木氏が訪れた「中国社会科学院」について説明しましょう。すでに触れましたように五月二十九日の読売新聞朝刊一面に在日中国大使館の一等書記官、李春光によるスパイ事件を報じていました。六月一日付けの朝日新聞には、「中国社会科学院」は人民解放軍と関係が深い機関と説明しています。要するに現在の支那の体制下では政府公認のシンクタンクであれば、政府、支那共産党は勿論、軍、公安、対日工作機関がバックについていると考えるのが当たり前の状態なのです。李春光は、松下政経塾に在籍していた。松下政経塾は、海外からのインターン生は支那人が圧倒的に多いのです。この李春光と松下政経塾で面識を持ったのが、元「つくる会」会員で現在、島根県益田市の元政経塾塾生福原慎太郎市長です。彼は記者会見でそのことを発表しています。福原氏は、平成17年の春から一年間「つくる会」の事務局員として働いていたのです。彼は「つくる会」の在籍を隠しているのかウイキペディアにはその在籍は記載されていません。その福原氏が八木氏らの支那旅行の提案者であり、「つくる会」の理事会に隠れて中国社会科学院日本研究所に引き合わせた仲介者だったのです。「参考:月刊誌「WiLL」今年8月号、(つくる会を分裂させた中国人スパイ)藤岡信勝」
ここで特筆したいのは、この八木氏らの支那旅行に雑誌「正論」の編集部、小島氏が参加していることです。小島氏の動向は、八木氏が「正論」の企画として持ちかけたということです。この時八木氏と産経新聞はすでに親密な関係ができていたのでしょうか。

平静十八年、「正論」三月号、四月号で八木氏は、彼と中国社会科学院との会談模様を説明しているのですが、まず三月号「正論」の見出しは:
つくる会会長、中国「反日の本丸」に乗り込む
読者はこの見出しから判断すれば八木会長が、支那に乗り込んで日本主張を思う存分主張してきた印象を受けるでしょう。しかし読めばわかりますが、実態は八木一行を迎える支那側は、歴史の専門家が原稿を作成し用意万端ととのえていたのです。二時間あまりの討論ですが、結果は支那側の学者の言い分を聞くだけ、そして八木が取った態度は支那側の言い分は理解した、だから私の言い分も理解をしてくれというだけ。支那側は専門家をそろえ、八木側は八木一人であとは八木が連れてきた事務局員(五名)だけ。その事務局員すら討論に参加させていたのです。討論する前から勝負あったも同然。支那側専門家の主張の中には南京虐殺事件の肯定や、戦争名は太平洋戦争であって大東亜戦争ではないが入っています。育鵬社の歴史教科書と全く同じです。支那側は専門家をそろえてと言うが、専門家にしては実に馬鹿げた質問するものだ。例えば、中国社会科学院近代史研究所所長という肩書きを持つ歩平氏は、こう語っている。
「日本が戦争に突入したのは朝鮮の民族独立運動と中国の反日が最大の要因であり」
バカを言うなと言いたい。そんなことが大戦争の要因なら日本が戦争で負けるはずがありません。もっと近現代史を勉強してください、と主張すべきなのです。その発言で会談が流れるならそれでよし。こういう考えの下に会談しなければだめなのです。外国人との歴史論争などで会談の決裂など絶対に恐れてはいけません。あなたがたの主張は理解するから、こちらの主張も理解してくださいなどという論法は最低です。私はこの「正論」の論文の中で歴史観よりももっと読者に注目してもらいたい事を書きます。それは八木氏が論文の中で書いている挨拶の言葉です。
「本日は中国社会科学院日本研究所にお招きいただき、また皆様に懇談できることを誠に光栄に思い、厚く感謝するところであります。」
いいですか、八木氏は観光旅行目的で支那へ出かけたのです。中国社会科学院に訪れることが目的でなかったかのように「正論」では書かれています。それにしては言葉がバカ丁寧すぎると感じませんか。「お招きいただき」とか「誠に光栄に思い、厚く感謝する」など私には丁寧すぎると感じるのです。もし北京郊外の盧溝橋にある「中国人民抗日記念館」や南京の「南京大屠殺記念館」などの一連の反日施設見学中に中国社会科学院研究所に立ち寄ってくださいという招待でもあれば、こういう挨拶の言葉が出ても不思議でもありません。しかし八木氏一行は支那訪問最初の日に研究所に訪れているのです。この「正論」の論文が発表されたのは平成18年3月号ですから、この挨拶に疑問を感じた人もいるでしょうが、深く追求しようにも、できなかったのではないでしょう。しかし今年の五月、先に触れましたように李春光のスパイ事件がありました。福原慎太郎/李春光を通じて八木氏は中国社会科学院研究所に招待されていたと解釈できます。

その招待を公言すると「つくる会」首脳部の反対にあうから、公言せず、事務局員をつれて観光旅行を装い彼らの招待を受けたと判断しています。だからこそああいう丁寧な言葉使いになったのだと思います。八木氏はこの時点ですでに支那に篭絡されていたのかもしれません。当時の八木氏の支那訪問には隠されていたことが三つあった。
(1)シナ旅行を理事会に諮らず完全な隠密行動。
(2)「つくる会」執行部で退任処分された宮崎事務局長をこっそり支那旅行に同行させた  こと。
(3)中国社会科学院と歴史認識をめぐって会談したことなどしばらくの間明らかにしな  かったこと。
現在ではその理由がはっきりとわかったのです。八木氏は、李春光などの仲介によって支那から招待されていたのです。ついでに書いておきますが、八木会長は、極秘支那旅行などの理由で、会長を解任され、理事になっていますがすぐ副会長に戻っています。
平成十八年四月三十日に八木副会長とその一派は退任しますが、五月十日付の産経新聞によると、今度は「中国社会科学院の蒋立峰・日本研究所長等研究者グループが来日し、新田均氏(つくる会前理事)ら日本側研究者と激論を交わした」「両者は今後も互いの主張を戦わせる機会を設ける」と報じています。八木は帰国後、蒋立峰所長宛に正式に「合同研究シンポジウム公開討論会」を提案していて、それに答えてに支那側の訪問だった。 日本側対談者には、八木の名前は出ていませんが当然参加しているでしょう。ここで読者の方や「つくる会」の会員の方に再度強調したいのは、「つくる会」の歴史観は、支那側にとって絶対に潰すか、篭絡しなければならない組織なのです。八木氏は、自分自身で意識していたかどうかわかりませんが、完全に支那に篭絡されてしまったと私は想像しています。

八木一派は、平成十八年四月三十日に「「つくる会」を退会し、すぐに日本教育再生機構を設立します。その年の六月四日付けの週刊誌「AERA」で教科書づくりの構想を語った八木氏は、「南京事件や慰安婦などの論争的な問題」にはこだわらないと言い、「朝日新聞に批判されるようなものにはならないはずですよ」と述べているのです。この発言の二ヶ月ほど前は、当時「つくる会」の副会長だった人の発言です。「つくる会」入会時に八木氏は、朝日新聞に批判されるような教科書を作らない気でいたのでしょうか。もしそうだとしたら八木氏は仮面をかぶって入会したことになります。それともつくる会を退会する時には、彼の考えがかわったのかどちらかでしょう。私は八木氏が支那訪問前後に支那に篭絡されていたと想像しています。支那人スパイ、李春光や中国社会科学院の人たちと会っていた人は、八木氏一人ではありません。他にもいます。例えば岡崎久彦氏も彼らと会っています。勿論スパイ関係者とあったら誰もがスパイだとは言えないことは確かです。しかしスパイの疑いをかけられやすいのも事実です。いずれにしても予定どおりに八木氏が「つくる会」の副会長から会長に復帰し、「つくる会」にそのまま残っていたら「つくる会」と「中国社会科学院」との協調路線が強調され、「つくる会」からいまの育鵬社のような歴史教科書が生まれていた可能性が高かったとも言えます。それを考えるとぞっとします。いずれにしてもこの事は、私の書く本の中で詳細に語られています。

私は以前読者に育鵬社の盗作を本にする(育鵬社教科書盗作事件)とブログに書き、目次だけを紹介いたしました。一度原稿ができあがって出版社に提出しました。ところが出版社からその原稿があまりにも党派色が強すぎると返されてきたのです。今考えると、つき返されるのも無理はないと思います。党派色があまりにも強すぎるのは、私の生い立ちというか私の経歴の反映なのです。私は一匹狼で外資系会社五社を渡り歩いて40年過ごしてきました。その間私は、自分の信念をむきだしにした生き方をしてきました。こんな生き方をしていると貧乏のままで終わるかもしれないと思ったこともあります。裕福になるか、貧乏のままか、その結果は自分の責任だという覚悟を決めて生きてきた。こういう生き方は、文章を書く上において非常な影響力を持ちます。私には文章を書くうえにおいて気を使わなければいけない人脈もなければ組織もありません。不埒な人間であれば、例え超有名人でも私は、自分の持っている名刀「正義感」で一刀両断のごとく斬り捨てることをします。「つくる会」15年の歴史を振り返れば、不埒な会長たち、理事たちが傍若無人な振る舞をしていたと言える。私を初め一般会員は、学校の歴史教育改善に少しでも役立ちたいという真摯な気持ちで参加し行動しているのに対し彼らは完全に私利私欲で行動しているのだ。世間ではよく「内紛」、「内紛」と呼ばれていたが、決して内紛ではありません。

私利私欲にかられた会長や理事が外部の力を利用して主導権を握ろうとしたり、潰そうとしたり、乗っ取ろうとしたりしたのです。外部の力とは誰か?外国であったり、新聞社であったり、出版社であったり、テレビ会社であったり、色々です。私利私欲にかられた人たちが、著名人であるだけに、まして彼らのお陰で「つくる会」の会員数が減っていったと思うと、私の怒りが燃え上がった。実名をあげ、名前を呼び捨てにしてバッタ、バッタと切りまくったと言っていい。さすがにこれでは、党派色が強すぎると言われてもしかたがない。「つくる会」の会員の人が読めば、多少溜飲の下がる人もいるでしょうが、このままでは一般向きとは言えない。書き直しが入るのは当然でしょう。こうして私は書き直しに入りました。書き直してよかったことがあります。さらに詳しい情報が入ったことです。スパイ事件もそうです。またつくる会東京支部が、東京支部研修会で「(つくる会)乗っ取りの真相を語る」を開いてくれたことです。古い会員たちから貴重な話しも聞きましたし、また東京支部の書類管理がしっかりしていて貴重な資料が残っていました。大助かりでした。
結局は、会員の力が「つくる会」の危機を救ったことがわかった時は、私は非常にうれしかった。古い会員たちの真摯に思う国への行動力が危機を救ったのだ。私は感謝の気持ちでいっぱいになった。私もこれからはこれらの先輩達と一緒になって「つくる会」をもりあげるよう努力していくつもりです。

最後に育鵬社問題をどうするか。私は本の原稿を書くまでは、盗作事件が片付けば、「つくる会」と育鵬社とは共存共栄は可能だと思っていました。しかし現在、本を書いている段階で私の考えが変わりました。育鵬社は、左翼を名乗っていれば別に心配することないが、保守を名乗っているだけに日本にとって非常に危険な教科書です。育鵬社は、絶対に潰さなければいけません。主な理由は、極言すれば以下の二つです。
1.南京虐殺事件を容認していること。
2.育鵬社歴史教科書監修者たちが、中国社会科学院本日本研究所の所員と交流を続けていること。

育鵬社の中身と「つくる会」の中身を知らない保守の人たちは、どうして保守同士仲良くできないのかといぶかるのは当然です。この人たちにどのようにして理解してもらうかが非常に重要な問題になるでしょう。彼らに一番よくわからせるキャッチフレーズは、育鵬社は支那のスパイがからんだ教科書として広めていくことではないでしょうか。いずれにしても育鵬社は、日本のために、なにがなんでも潰さなければなりません。
この記事の拡散、転載よろしくお願いいたします。






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