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昔の外資系、現在の外資系



今年の9月に新潮新書として出版された「外資系の流儀」という本があります。著者の佐藤知恵氏は、1970年生まれ、東大の教養学部を卒業、NHK入社、多種多様な報道番組制作に参加、その間NHKに海外留学希望を提出、局内選考で何度も落ちた。そこで彼女は、自分で留学先を決めて交渉して見ようとアメリカの経営大学院を受験、合格通知を手に、「NHKを休職して留学させてください」と一年以上交渉したが認められず、退社してアメリカのコロンビア大学経営大学院(コロンビアビジネス スクール)に留学。この時学費ローンが一千万円以上あった。MBA(経営学修士)を取得して卒業。

欧米では経営コンサルタントという職業が尊敬されていて、欧米のエリートが憧れている世界的なコンサルティング会社、BCG(ボストン コンサルティング グループ)に入社。二年後に世界的なメディア・エンターテイメント企業の日本支社に転職。8年後の2010年に退社し独立。現在、企業経営者。私の貧弱な経歴と比べると彼女の経歴は華麗です。エリート中のエリートビジネス・ウーマンの経歴を持つ経営者です。

私がなぜ彼女の本を買ったかというと、私は22歳の時に外資系に入社。以来40年間に外資系五社を渡り歩いて定年になっています。彼女は外資系で働いて10年間、その10年間がちょうど私が定年になって今年で13年目、ほぼ同じ時期なのです。そこで彼女の本を読めば、最近10年間の外資系の事情が理解できるし、私の過去の40年間の外資系との比較もできるからです。そのまえに、いまから50年前、正確にいえば52年前、22歳の時、どういうきっかけで外資系に入り、最初はどういう仕事をしていたかをお話しましょう。

私の年代の中学生時代は、毎年卒業シーズンになると沢山の中卒生が地方から就職列車にのって大都会に働きにやってくるのが年中行事でした。私が横須賀市立中学校卒業の時、私の組(50名)のうち半分は就職組み、半分が高校進学組み。高校進学組みには、私みたいに県立高校入学試験で落ちた場合には、就職するつもりの人がいましたから、実質的には組の半分以上は就職組といえます。それだけ国が貧しかったということです。私は幸い県立高校に入学ができた。しかし我が家の家計は苦しく、中学時代我が家の家計もすこしは上向きになっていったが、高校入学する頃には、家計が前に逆戻りして苦しくなった。私は子供の頃から母の苦労を知っていますし、私の下に妹が二人います。これ以上母の苦労を見るに忍び難く、高二の時大学受験をあきらめ、学校に隠れてバイトをした。高卒後、私は横浜の職業安定所で自分の仕事を決めた。横浜の二流ホテル、バンドホテルのボーイだった。職安(ハローワーク)で気付いたことは、横浜という場所がらのせいか、英語が話せると就職先はいろいろあるし、給与も高い。英語はもともと自分の得意科目だったから、すぐにラジオ英会話を学びはじめた。また英文解釈も英作文も大学受験勉強並みに始めていた。

高卒から22歳で外資系で働くまでの四年あまりの間に三回就職先を変えています。その間ラジオ英会話はずっと聞き続けていたし、英語の勉強も続けていた。或る時ラジオ英会話でジャパンタイムズという英字新聞の求職広告を見て、英文履歴書を作り、それに面接を受けたいという趣旨の英文手紙を添えて郵送、企業から面接の返事、そして面接会場で企業の面接を受ける一連の寸劇があった。私はこの時初めてジャパンタイムズに求人欄があることを知った。以来求人欄を見るようになったのだが、私にあてはまる求人欄がない。何も仕事の経験もないし、あるのは年齢が若いというだけ。それでも丹念に英字新聞の求人欄を見続けて数ヶ月間かあるいは一年間ぐらいになっていたかもしれません。これなら若ければ誰にでもできる職種の求人広告がアメリカの船会社から出ていた。当時英語では、メイルボーイとかデリヴァリーボーイとか呼ばれていた職種です。日本語で言えば、「走りづかい」です。当時ファックスというものがなかった。急ぎの書類を渡さねばならない時、あるいは急ぎの書類をもらわねばならない時に必要になる人間。要するに雑用係です。私は英文の履歴書を書き、英文の手紙をつけて郵送した。英文の面接通知の手紙がた。

この仕事には技術も経験も要りません。だから面接は簡単なはずだと思い自分で面接の想定問答を英文で書いて、それを頭の中に入れておくことにした。それでも満足に英語で答えられなかったら自分の英語の実力が低すぎるからだとあきらめることにした。面接は簡単だった。面接後に合格通知を言い渡された。私の仕事は簡単です。朝9時から仕事が始まるが、その30分前に会社に入り、事務所内の簡単な掃除。主に床と机の上。灰皿のかたづけなど。9時になると郵便局が開くので、私書箱内に入っている郵便物を取り出し、会社内で受領のスタンプを押し、各部署に配る。10時頃になると一回目の急ぎの書類配りや書類もらいです。都電を利用して配達するのです。午後2時頃になると二回目の書類配りや書類もらいです。4時ぐらいになると会社から出る全メイルの重量計りと切手はりです。5時までに郵便局に持っていくこと。その他の仕事と言えばコピー取りです。よく暗室の中でコピーを取らされたのを思いだす。こんな仕事を私と同年輩の男と二人でしていたのです。

面接の時、会社は現在発展しているから新入社員がどんどん必要になる、こんな仕事でも真面目にやっていれば他の部にまわされるからと言っていた。ところが一年たっても仕事が変わらないのだ。確かに新入社員がどんどん入ってくるが、仕事の経験を持った人たちばかり、私たち二人のように若くて経験のない人を育てようなどという気が会社には全くないのだ。私と一緒にやっていた相棒は、いつまでもこんな仕事やっていられないとさっさと辞めていった。その代わりの新人が入ってきた。私も辞めたくてうずうずしていた。しかし私には技術などなにもない、なにか仕事に役立つ経験もないのだ。辞めていっても同じことの繰り返しだと思った。私がいやなのは、人より30分早くきての部屋の掃除です。会社には若いタイピストが沢山いた。年齢も私とほとんど同年輩です。「なぜ。この俺が若い女が座っているおしりの下の廊下にモップをかけて掃除をしなければならないのか」、最初はなんとも感じなかったのが、いつまでやらされるのかと思うと男のプライドとしてやっていられない気分になった。辞めたくて、辞めたくてしょうがなかった。そんな時、私には一生忘れることができない屈辱的な経験をした。

ある日午後2時頃、二回目の書類配りと書類もらいに出かけようとしたとき、若いタイピストが、「鈴木さん、これ岩井産業の誰々さんに渡してください。部長の了解を得ていますから」というので書類の封筒を受け取った。外回りしている間に彼女に渡された封筒の肌触りがほかの書類の封筒の肌触りとちょっと違うのに気付いた。中身が書類ではないような気がした。封筒をあけて中をのぞいたら、なんと男物の海水パンツだ。彼女は自分のボーイフレンドの海水パンツを私に持たせて彼氏に渡そうとしたのだ。瞬間、私は逆上した。「あのやろう、俺をなめやがって!」彼女に怒りをぶつけるより、彼氏の方に敵意をもやした。どうせこの仕事やめたくてしょうがなかったのだ。海水パンツ、彼氏の顔にたたきつけてやる。それで騒動になるのならやってやる」。私は海水パンツの封筒を配達先の最後にまわした。一騒動起こして、他の書類配達に遅れがでて配達先に迷惑をかけると思ったからです。

この配達先を最後にまわしたことが結果的に良かった。私の興奮が少しずつおさまってきたからです。その間に私の心に別の声がしてくるのだ。「お前に力がないから、こういう目にあうのだ。くやしかったら実力をつけたらどうだ」、「実力をつけないとまたこういう目に会うんだぞ」、「若いサラリーマンに怒りをぶつけてどうするのだ、どうせけんかするなら大統領とか首相にしたらどうなんだ」などとこんな声を聞きだしてから、興奮した自分の気分がすっかり萎えてしまって、彼氏には黙って海水パンツを渡し、事務所にもどってもタイピストには何も言わず、彼女の上司にも海水パンツだったこともいわず、全部自分の腹の中にしまいこんでしまった。こんな事でメイルボーイの仕事がますますいやになって、もう辞めようとした寸前に私は拾われた。不定期船部の日本人部長(彼は現在86歳で健在です)が私の働きぶりを観察していて「俺の部所で働かないか」と誘ってくれた。私はうれしかった。これで私はサラリーマンになれると思った。以来外資系五社を渡りあるいて40年のサラリーマン人生を送った。

ここからが著者、佐藤知恵氏が書いた本、「外資系の流儀」の私の感想です。昔の外資系も今の外資系も本質的にはほとんど同じような気がします。特に以下の点については私自身が体験しているので全く同感です。著者の文章を借りて説明しましょう。

1.「外資系企業の多くは中途採用で社員を採用する。欲しいのは『即戦力』。外資系は人を育てる場所ではなく、ある程度育った人が「経験という貯金」を持って働く場所、長期の人材育成システムはないし、そんなコストも余裕もない」

私がメイルボーイの仕事をしていた時、確かに会社が発展していて数多くの新人社員が入ってきた。皆、経験を持った人で即戦力になる人だった。私のように走り使いをしている若い人を自分の部に入れてくれた日本人部長には非常に感謝しています。後年私のようなケースは非常にまれなケースで幸運だったことを強く感じているからです。無経験の私を彼の部に入れたからと言って、丁寧に仕事を教えてくれるわけではありません。いきなり実戦部隊に入れられたも同然。多少は教えてもらいますが、あとは私の持ち前の図太さと臨機応変さで乗り切ったと言っていい。また私も「この俺が二度と臨時工などにもどってたまるか」と必死な気持ちで働いていたのも確かです。私はこの船会社に入る前は、松下電器産業のバッテリー工場で臨時工、現在でいえば契約工員として働いていた。その理由は自宅から歩いて通える工場。工場勤務は、8時から4時まで。したがって英語の勉強できる時間が長くとれるからです。

2.「外資系企業と日本企業の採用で最も違うのが、誰が採用する権限を持っているのかという点だ。日本企業は人事部が一括して採用するのが一般的だが外資系企業では『上司になる人』が採用する。」

私がメイルボーイをしていた間に入社した新入社員は、全員各部の部長に採用されていました。私が採用したのは総務部の部長です。後年、私が40代後半になった頃、初めて自分の秘書を含む部下を持つようになったが、自分で面接して決めています。英語ができるよりも、白人と堂々と渡り合える性格かどうかをみきわめて採用していました。

3.「内部昇進制を設けているP&Gジャパンや日本IBMなどは別にして、外資系企業の日本法人は、基本、特定のポジション採用。幹部候補でない限り、同じ会社で昇進するのはきわめて難しく、転職して職位をあげていくしかない」

私が外資系五社渡りあるいて40年というのは、このことが一番大きな原因です。最初船会社に入ったが、次に変えたのが貿易会社です。船会社は、仕事に柔軟性がなく、貿易の方がはるかに小回りがきいて転職しやすい。そのことを知ったのは貿易会社に転職してからです。著者は、「この『会社にしがみつかない』感覚は外資系出身者特有なものだ」と書いているが全く同感です。

4.「成功のカギは『心技体』」
「『心』は、アグレシブ(攻撃的)であることは許されるが、受動的であることは許されない。こころが繊細な人には厳しい。金儲け軍の兵士になるのに、デリケートな心は必要ない。羞恥心などかなぐり捨てて自己アピールして、任務を全うするのみだ。何が起こっても受け流す図太さが必要になるが、これを大人になってから訓練で身につけるのは相当難しい」

私は戦後、極貧状態におちいり、ハングリーで鍛え上げられて自然に図太い人間になった。著者は女性です。彼女はハングリーには育ってないはずです。持ってうまれた図太い性格なのでしょう。ちょっと恐い気がします。

「『技』については、マーケティングや営業といった仕事の専門スキルはあって当たり前。英語もできて当たり前。これに加えて、社内政治を泳いでいく「コミニュケイション力」や「プレンゼンテイション能力」が問われる。「技」は意外と努力で何とかなるものだ。努力でなんとかならないのが、生まれもった心と体だ」
「体の弱い人は、残念ながら外資系に向かない。「弱肉強食」の外資系企業に、弱者を思いやる余裕はない。外資系企業の日本法人は、一応、労務管理というものをやっているが、それは日本法人としてやっていくための「社外的リスクヘッジ」をしているだけ。体を壊したら、降格か自主退職に追い込まれるケースが多い」

私が30代後半の頃だったと思う、外資系に勤めていた私の知人が、肺結核にかかり短期間入院するはめになった。当時は法律で結核の場合、休職しても給料の6割はもらえることになっていた。しかし知人の外資系会社は、払おうとしない。そこで支払い催促に会社に行く。会社に来た直後は送金があるが、しばらくすると送金が途絶える。また来社すると、また送金してくれるが、またすぐ払わなくなり結局自主退職に追い込まれた。

5.「外資系で働いている人というのは、自分自身も含め、圧倒的に個性的な人が多い」

私にいわせれば、外国人の方が圧倒的に個性的な人間が多い。私は外資系五社働いたが、国別ではアメリカ系三社にオーストラリアとドイツです。すなわち全部白人です。白人は、皆個性が強い。そこえいくと日本人は本当におとなしい。まるで羊の群れのような気がします。このおとなしさが、日本人の迎合性が生むのだ。武士道をなくした戦後の日本人には、このおとなしさだけが浮き彫りになり、真の独立国とは言えない状態でも平然としていられるのです。武士道は日本民族の生活必需品でなければいけないのだ。

次に著者が書かなかったことを挙げてみます。そのほとんどが時代の違いによる違いです。
1.私が外資系に入社した頃など、日本の一流大学卒業生が、卒業後最初の勤務先に外資系を選ぶなど、全く考えられなかった。当時は、一流大学出た人は、皆日本の一流の企業に就職、30年、40年働いて定年退職。私の年代のエリートサラリーマンは、ほとんど同じ過程を踏む。なぜ当時の大学新卒者は、外資系に就職しなかったのか、その理由をいくつか挙げてみました。
(1)外資系に信用がなかった。
日本の一流企業は、年功序列制であったことに信用があったのではないのか。
(2)一ドル360円という固定為替レート。
白人と日本人との間にどうしようもない賃金格差。白人が日本に来たら大金持ちの          ような生活ができた。私が走り使いをしていたころ、帝国ホテルに泊まっている取引先に書類を持っていったことがあった。その帝国ホテルのロビーは、白人ばかりで日本人がまばらに見えるだけ。まるで外国のようであった。あの時の印象が非常に強かったと見えて今でも鮮明に覚えています。その日は雨が降っていたので長靴をはいていた。私はホテルの人に言われて長靴を脱ぎ、スリッパに履き替えさせられた。要するにあまりにも所得格差が激しいので、外資系に入社したところ公平に扱ってくれないのではとの考えが強かったのではないか。

ところが現在では、東大の新卒さえ外資系に入社していくのです。それだけではなく著者に言わせると、「『外資系』」というのが、ブランドになっているのです」と言うのです。著者がテレビドラマの女性プロデューザーKさんに「外資系企業に勤めている人という役があったら、どういう役作りをしますか」と聞いてみると「なぜか、男女とも冬はカシミヤのロング丈のコートを着せますね。ドラマでは、高学歴のエリートっていうのが基本設定です」と書いているのです。さらにKさんが描写してくれた設定をまとめると、次のようになる。
トータルな見た目のイメージ
・物腰が柔らかく、いつも微苦笑。言葉は丁寧。
・足元から髪型までトータルにこだわっていて、整然としている。
・男性は目が細く、黒縁のメガネをかけている。
・女性はスレンダーで、靴ピンヒール。ネイルは必須。
・男女ともに、なぜかコートはカシミヤのロング丈。

仕事・家庭環境
・オフィスは高層ビル。
・育ちがいいので、記念日や子どもの誕生日のイベントにはしっかり参加する。
・飲んでもスマートに帰宅し、二次会、三次会には行かない。
・大学時代の同級生と結婚し、家でも敬語で話す。
・家族全員、最低二カ国語は話せる。
・子供は私立のエスカレーター校。
・部屋の中はよけいなものが置かれていない。

これがテレビドラマの女性プロデューサーが描く外資系で働く人たちのイメージです。私の若い頃は、外資系で働く人間は、どこか半端者とかはみ出し者みたいで自慢にもならず、また大卒の新卒者も入社してみようとも思わなかったのが、どうしてこのようにイメージが変わったのか興味があるとこです。このイメージ変化は、私にとってはありがたいことです。昔の外資系など全く知らない若者に、「私は外資系五社渡り歩いて定年」は、ものすごくかっこ良く聞こえるでしょう。

2、輸出用の女性
先に触れたように1ドル360円という換算レートが白人が日本にいるとものすごい大金持ちにさせた。そのためでしょう外資系で働く若い女性の中には、日本人男性とのデイトより白人男性のデイトに熱をあげる人が結構いた。相手にするのは白人ばかりという女性もいたのです。私は彼女らと同年輩だけに、こういう女性をきらった。終戦時私は小学校一年生から中卒まで9年間横須賀で暮らした。当時横須賀は、パンパンとか、パンスケと呼ばれたアメリカ軍人用の「従軍慰安婦」であふれかえっていた。教育環境が最悪。小学校でさえ、ある日突然、全校一斉にタバコ所持検査をするのだ。子供心にも大きくなれば、パンスケは、生活のためと知るようになる。外資系事務所に勤める若い女性が、白人男を追い掛け回すのは、パンスケ以上に情けない存在。当時の社会は外貨稼ぎのために輸出、輸出です。私たちは、若い白人ばかり追い掛け回す女性を輸出用の女性と呼んで軽蔑していた。

3.労働者代表
私が定年になるまで、外資系には労働組合がなくても「労働者代表」が誰かを決めておかなければいけなかった。だいたいその組織の最高年齢者(日本人)が代表として選ばれるのですが、この労働者代表に誰がなっているかで、その会社の事務所の雰囲気が変わってきます。白人と日本人では給料格差がはげしいから、どうしても自然と白人は、日本人スタッフを見下げるようになる。人種偏見の名残もある。当時は私たち日本人社員の会話にも、今では絶対に使わない「毛唐」という言葉も時々使っていたし、白人どうしも「ジャップ」という言葉を使っていた時代です。
そこえ労働者代表がイエスマンでおとなしい性質だと白人がえばりくさることになる。私がアメリカの会社で働いている時、労働者代表が定年になった。その後釜に会社が最年長者のMを労働者代表に選んだ。その時私と同じ時期に入ったFが、労働者代表を使用者側が選ぶべきものではなく、労働者が選ぶべきものだと大反対した。Fが推薦したのは私だった。私なら日本人従業員の言いたいことを代表として言ってくれるからだといいうのです。選挙結果私が選ばれた。労働者代表なったからと言って給料が上がるわけではない。しかし会社になにかあった時に日本人従業員を代表して会社に意見が言えると思って引き受けた。

数年後日本経済が好調になり、日本の会社で前年より給与水準が大幅に上昇し、前年より20%、30%増えるような景気が続いた。それまで私たちの給料は、日本企業より大幅に高かったのが、あまり高くなくなり、賃金水準に魅力がなくなってきた。そこで私は労働者代表として会社側と賃上げ交渉で対決し、労働者代表としての面目を保ったけれど、後がいけなかった。
数年後会社の経営不振により、希望退職を要求され退職した。48才の時だった。さすがにこの年齢になると転職機会は少ない。ジャパンタイムズに求職広告を載せた時、面接したいと手紙がきたのは二社だけだった。

著者の佐藤知恵氏は、この本を書くにあって外資系で働いた、あるいは働いている多くの人たちをインタビュウーしています。インタビューする度に最後の質問として全員に同じ質問、「外資系企業で働いてみて、よかったですか?」と聞いています。外資系で成功した人も、苦労した人も、ほとんど全員が「外資系で働いてみてよかった」と答えているのに著者はびっくりしています。最後に著者は、こう結んでいます。
「外資系企業を経験した人たちが『外資系企業で働いてみてよかった』というのは、ある意味『外資系を経験した者だけが持つ矜持』ではないかと思う。どんなにつらい目にあっても、世界に挑戦し、普通の日本人とは違う経験をし、学び成長したという矜持だ。念を押しておくが、私は誰も彼もに外資系で働くべきだともお勧めするつもりは全くない。日本人の国民性を考えれば、むしろ外資系の水が合うのは、日本人の中でも少数派だろうと思っている。
だから外資系を目指している方々には、『外資系で働くことが自分の幸せに繋がるか』さらに『自分は外資系にあっている人間か』、本書をきっかけに、今一度、問い直していただきたいと思います。」

私の場合、外資系で決して成功したとはいえない。しかしこれだけは言える。私の時代、普通高校卒業だけの学歴で、日本の企業五社渡りあるいたら、定年になった時、まだ働き続けるため職探しをし、本を書くこともなかったのではないかと思っています。


このブログは、今年最後のブログです。読者の皆様、今年も一年間ありがとうございました。皆様、来年も良いお年をお迎えください。








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どなたか作曲していただけませんか。



私のブログも先月から5年目に入っております。私も他人のブログも時々読みますが、だいたい、政治、経済、歴史など堅いものが多い。しかしそういう物を書くブロガーは、一年365日堅いものばかり書いているような気がします。そこで私は自分のブログに特徴をもたせようと堅いものばかりでなく時にはやわらかいものを書くようにしています。はっきり言わせてもらえば、私は堅いものばかりでなく、やわらかいものも書けるんだぞというところ見せたいと思っているのです。一番多く書いてきたのは映画評論関係です。またこの四年間に短編小説を三つ書きました。短編小説は私自身初めての挑戦です。一回目が「女のため息」、二回目が「二人の芸者」、三回目が「ある踊り子の想い出」。三篇とも男女の色恋がからむ話です。素人作品ですが、興味があればぜひ読んでみてください。私のブログに私の顔写真があります。その左側に「カテゴリー」があります。その下から二番目に「短編小説」があります。そこをクッリクすると三篇の短編小説全部が出てきますのでぜひ読んでみてください。

今回は全く新しい試みをしたので、皆さんに紹介します。演歌の作詞を書いてみたのです。演歌の作詞と言えば、当然カラオケの話が出てきます。そこで私の作詞の内容を紹介するまえにカラオケについてちょっと書いてみました。カラオケは現在では国民的娯楽として定着しました。カラオケファンの数もものすごいでしょう。カラオケファンと言えば、私なぞ、カラオケファンの元祖のようなものでしょう。今から40年前とはいかないが、40年近く前、私が30代後半のころです。東京にたった一軒のカラオケ店があった。場所は六本木です。六本木の交差点にアマンドのケーキ店があります。あのアマンドの店は古い。あそこで何十年やっているのでしょうか?そのアマンドのケーキ店のすぐ隣に、いも洗い坂という坂道があります。たいして長い坂道ではありませんが坂道をくだり終わったあたりに「後藤花屋」という花屋があった。

六本木の交差点は、時々通りがかりで通ることありますが、いも洗い坂をくだることは何十年となかった。自分のブログにカラオケの話を書くので、最近いも洗い坂を歩いてみた。なんとその「後藤花屋」が健在なのだ。以前より立派になってすばらしいビルのオーナーになっているみたいです。その「後藤花屋」の近辺に「スタジオ101」というカラオケ店があった。ある夜、友達が面白い店があると案内してくれた。年寄りの人だと思いだすかもしれませんが、3,40年まえNHKテレビ番組に「スタジオ101」という歌番組があった。それにちなんでつけた店の名前だった。店内の奥にカセットテープがずらりと並んでいた。各テーブルには曲のリクエスト用紙が置いてあった。あの当時現在のような分厚い歌の本などなかった。お客は自分の歌いたい歌の曲名を覚えていなければならなかった。曲名をリクエスト用紙に書いて提出。店の女の子がそのリクエスト用紙を見てカセットテープを取り出す。同時にマイクのそばの楽譜台に歌の本があるから、リクエスト曲のページ数ひろげておくのです。お客はたちあがってマイクのある場所にゆき、楽譜台の歌の本をみながら、カセットテープのリズムに合わせて歌うのです。

現在はカラオケ機器の発達のお陰で、国民一人、一人の歌唱力があがっているから、カラオケ店にきて一曲も歌えない人はほとんどいない。しかし当時は、自分で歌えると思った歌をリクエストしても、いざカセットテープから曲が流れると合わせて歌えない人がけっこういたものです。その時には、若い女の子がお客さんの背中や肩をリズムをとりながら叩いて一緒に歌ってあげるケースも非常に多かった。またお客さんの方で、自分ひとりで歌えないから一緒に歌ってくれとの要求も多かった。そのためでしょう。この店にはホステスは必要なかった。必要なのは歌好きの若い女の子だった。歌が好きであれば、いろいろな歌を知っているし、お客にも歌を教えてあげられるし、お客と一緒に歌も歌ってあげられるからです。

このようにカセットテープに歌のメロディーだけを吹き込み、それをお客に歌わせて楽しむ店は、店主によると当時東京には、六本木のこの店以外にはありませんという話だった。東京では一軒だけというと日本中どこにもなく、まさに六本木の「スタジオ101」が日本のカラオケ店第一号ということでしょう。この「スタジオ101」店が繁盛してそのご新宿や渋谷などに進出。「スタジオ101」新宿店というような形で広がっていった。歌好きの私は、このカラオケにはまった。すっかり常連のお客になってしまった。また店主と馬があったのも原因だと思います。あの頃を思いだすと、四つばかり思い出せることがあります。

思い出一:
ある夜、常連ではないがたまにやってくる顔覚えのある一人の客が「昭和かれすすき」をリクエストした。女の子が、「昭和かれすすき」をリクエストの誰々さんと呼ばれ、彼は立ち上がるとマイクのある場所に行き、こう挨拶したのだ。「私は『昭和かれススキ』をリクエストしましたが、『昭和かれススキ』を歌うのではなく、『昭和かれススキ』のメロディーを流しながら、今は亡き私の妹のことを書いた文章を読みあげますので、皆さん、ちょっと聞いてみてください」と。あの哀調を帯びた「昭和かれススキ」のメロディーが流れ出すと、彼はふところから紙をとりだし、文章を読み始めた。文章もなかなかよくできている。若くして亡くなった妹を思う文章、それを切々と読みあげる声、バックに聞こえる「昭和かれススキ」のメロディーと実にマッチしていてすばらしいのだ。彼は自宅で練習してきたにちがいない。すぐに来ているお客の私語がなくなり、全員の目が文章を読み上げる彼に集中した。メロディーが終わる頃、彼の朗読は終わった。とたんお客さんからいっせいの大喝采と大拍手、アンコールの声ずいぶんもかかった、彼は、はずかしがってアンコールには応えなかった。

現在のカラオケではあのような光景の再現は難しいと思います。現在のカラオケ店にはどこにでもテレビがある。それにマイクはお客の間を自由自在に動きまわる感じ、ほとんどが座ったまま歌う。しかし当時マイクは固定。テレビもない。お客が歌う時には、皆立ち上がってマイクのところまで歩き、楽譜台においてある歌の本を見てうたう。そのために時と場合によっては、マイクで歌う人とお客さんが完全な一体感になりえるときがあるからです。

思い出二:
この店の閉店は、明け方の4時。当時の私の歌の特徴は、18番にしている歌がなく、主にナツメロですが、レパートリーがやたらと多いい。次から次へと歌を「食い散らす」感じで歌っていた。無論、この店にきてから歌えるようになった新曲もあった。それで私は明け方の4時まで店にいたら、同じ歌を歌わずに、何曲ぐらい歌えるのだろうかとよく考えていました。そこで或る時計画を立て明け方4時までには何曲歌えるかやってみようと決心した。もちろんお客さんが立て込む時間帯は、歌える数は少なくなります。だからと言って遅くなった時間帯にできるだけ多く歌うというのでは、声ががらがらになるのはいやだ。のどの極端な疲労もなく歌える数は何曲ぐらいになるかやってみました。合計17曲でした。むりすればもう少し歌えたかもしれないというのが感想でした。

思い出三:
ある民放のラジオ局が「東京の夜の盛り場訪問」というような番組を毎週日曜日の夜遅く放送していた。東京の盛り場をあちこち訪れて録音し、それを放送していた。そのラジオ局が、六本木の「スタジオ101」が店の形式としては非常に面白いというので録音の申し出があった。無論店主は、宣伝のため大歓迎。店主から私に話しがあった。録音当日私に歌ってくれというのだ。私は、「おれより歌のうまいお客さん結構いるではないか」と言った。店主によると歌のうまい人じゃ困るというのだ。ラジオを聴いている人は、うますぎる人の歌を聞いては、あんなに上手く歌えないとこの店にくる気はなくなるし、あまり下手な歌を歌って、女の子に手伝ってもらって歌ったりしていると、品のない酒場みたいになってしまい、聞いている人は、この店に来てみようと思わなくなる。そこえいくと、スーさん(私は当時その店ではスーさんと呼ばれていた)が最適、歌が上手くもなければ下手でもない、そこそこにいける。店としてもどうせ歌ってもらうなら常連さんに歌わせたい。ラジオ放送ではスーさんの歌が流れるようにするから歌ってくれと言うのだ。

私は、「おれの歌がラジオから流れる」というのが気にいった。「それでは、歌いましょう。
ところで何を歌いましょうか?」と聞くと、「選曲は、スーさんにまかせる」と言う。当時私は、この曲を自分のものにしたいと思っていてしきりに歌っていた曲があった。越路吹雪が歌っていた「ラストダンスを私に」を歌うことに決めた。本番のために練習をしておかなければ、ということで店の開店早々に足をはこんだ。開店早々だとほとんどお客がいず、マイクが独占できて練習できるからです。ラジオの録音当日がやってきた。店主もラジオ録音日をあまり宣伝すると、店にお客が来過ぎてもこまるし、あまり来なくてもこまります。常連の人にそれとなく伝えていたのでしょう。当日はほとんど常連ばかりであった。当時この店で雇っていた若い女の子で、アナウンサーになる勉強をしていた子がいた。彼女はイントロが上手だ。当日は彼女をフルに使っていた。私も彼女のイントロの後、「ラストダンスを私に」を歌った。べつに上がりもしなかった。

それから二週間後ぐらいの日曜日。子供たちを寝かせつけ、夜遅く私は女房といっしょにそのラジオ番組をきいた。女房には、一度六本木の店につれていっているので、店の説明をする必要はなかった。最初は店長にインタビュウーや、客にインタビューなど聞こえていた、やがて「ラストダンスを私に」のイントロが始まり、私の歌声がラジオからはっきりと聞こえてきました。その後すぐに私の顔は、不機嫌な顔つきになったにちがいない。こんな言葉が私の口から飛び出していたと思う。「なんだよ、これ!」、「これが俺の歌かよ!」、「おれの歌、こんなにへたのか?」
女房は笑い出していた。「選曲が悪いのよ」とか、「なぜ越路吹雪のような難しい曲を選んだのか」とか色々言うのだ。「なにもおれの歌を聞いてすぐに笑い出すことはないだろう」、
「笑ってはいないわよ」、あなたが、「之が、俺の歌かよと、きげんの悪い顔するからよ」、などと夫婦喧嘩のような雰囲気になったことを思いだす。選曲が悪かったのも事実だが、自分では上がっていないと思っていたが、多少あがっていたのかもしれない。それにしても、私にはショックだった。いままでカラオケにはまっていたのが、急にさめかかったようになってしまった。

思い出四:
私の取引先の人で、どうしても「スタジオ101」につれてきてあげたい人がいた。山口県で中小企業といっても中くらいの企業を経営しているY社長です。Yさんは会社を経営しながら演歌の作詞を書くのが趣味で、それまでに何曲か作詞し、作曲家に頼んで曲を作ってもらうのだが、新人歌手に歌われたこともない。だが作詞を書くのが人一倍好きで趣味なのだ。彼は大変な情熱家で、山口県で会社設立するとすぐ、人を採用する時は、必ず野球経験者を採用するのだ。理由を聞くといずれ都市対抗野球大会に山口県代表で出場するということが目的だった。あの頃都市対抗野球大会は人気が高かった。社長には一つの大きな願望があった。自分の初恋の人に「俺は、元気でがんばっているぞ」というのをぜひ伝えたい。それには都市対抗野球大会の人気が高いから、自分のYという姓名をつけた会社が山口県代表になれば、彼女の目にとまり、自分を思いだしてくれるはずだ、あるいは連絡してくれるかもしれない。若い男性社員のほとんどが野球部出身。念願かなってついに初出場、しかし初恋の彼女から連絡なし、社長に言わせると、一回戦で敗退したからだ、もう少し勝ちすすんでいれば、連絡あったかもしれないと言っていた。

そのY社長を「スタジオ101」に案内した。予想どおり彼は喜んだ。彼は友人だという当時コロンビアのディレクターまで連れてきた。その人は、当時の島倉千代子や村田英雄らの担当ディレクターだった。Y社長やその部下が東京にくる度に「スタジオ101」の足を運んだ。そしてとうとうY社長は、自分で店を持つことを決心し「スタジオ101」山口店を開店するとまで言い出したのだ。この話には紆余曲折があったのだが、結局山口に店を持つことはあきらめて、広島市一の繁華街に持つことにしたのです。広島店開店数日前にY社長から連絡が入り、「私が広島店を持つきっかけをつくったのは、鈴木さんです。開店日にその鈴木さんはいなくては困る。開店日にはゲストとして東京から一人新人女性歌手を呼ぶから、その彼女と一緒に広島にきてくれ、新幹線の切符二枚手配するからという招待を受けたのだ。私は喜んでその招待を受けた。

当日新幹線の車内でその新人女性歌手と会った。彼女はすばらしいプロポーション、出るところ出ているし、へこむところはへこんでいる。顔もなかなかいける。要するに彼女は美人歌手なのだ。私はこんな美人歌手が、新人歌手の下積み生活を長く保てるのかな、すぐに男の手がつくのではないかと心配した。いずれにしてもこんな素的な彼女と隣同士に座って広島までいっしょということで有頂天になっていて、それを悟られないよう平然とするのもちょっと大変という気がしたが、話しあっているうちに、彼女と私とは相性があう感じがして、私が独身だったら彼女と良い仲になっていたことは間違いないと感じ、その後は私の心をストレートにあらわし、お互い話がはずんだ。

広島駅に到着すると、Y社長の部下が迎えにきていて、すぐ「スタジオ101」広島店に直行。お店はお客でいっぱいだった。彼女と私が紹介され、彼女はすぐに歌い始めた。演歌ばかり何曲か歌ったが、私は彼女のプロポーションは抜群だし、顔もバターくさい洋風美人だから、演歌よりバラード風の大人のムードを漂わせる歌の方があっているような気がした。その点を言ってあげたら、彼女は仕事で歌うのはその晩で三回目だというのだ。沢山のお客さんが鈴木さんのように言うなら考えなきゃと言っていた。

私が結婚する前、女房とデートを繰り返していたころ、カラオケはなかった。もしあったら恋人どうしでデュエットできて、歌好きの私は楽しかっただろうと思う。あの夜の彼女とのデュエットは楽しかった。いい思い出だ。なにしろ美人歌手だし、彼女とは東京広島間の新幹線で6時間の会話を楽しんできているし、彼女は私に好感をもっていることもわかっていた。二人ともムードを出してデュエットを楽しんでいたと思う。二人で顔を見つめあって歌う場面では、ウィンクしてあげたら、はにかみながらウィンクが返ってきたっけ。当時はカラオケ店にテレビがなかったから、そういうムードは見ているお客さんに雰囲気が伝わるものだ。「ムードがいいぞ」、「二人はもうできてんのか」などやじが飛んできたが、それはそれで二人は笑顔でテレながら歌った。歌に酔いしれるというのはこのことだろうかと思う。

彼女は開店三日間がゲスト歌手ということで広島に残り、私は翌朝、朝早く東京に戻った。あれ以来私は、彼女とは会ったことがないし、消息もわからない。今では芸名もすっかり忘れ、なんとか「ひとみ」と言って名前しか覚えていません。あのころが私のサラリーマン人生の一番楽しい時代だったような気がします。

あれから時代が経って数十年、私が70歳の頃だったと思います。ある会合が終わって数人で横浜駅西口のカラオケ店に入った。それまで全く気付かなかったことが、その時初めて気がついたことがあった。歌には、男女の恋を歌った曲が圧倒的に多いい。しかもその男女は、みな男盛りや女盛りを対象にした恋の歌ばかり、老人の恋の歌など一つもない。老夫婦を唄うような夫婦演歌があるだけです。現在は熟年離婚が流行り、皆長生きで、連れ合いを早く亡くす人もいるでしょう、そのため第二の伴侶を得る人も沢山いるはずです。老人の恋を歌った曲が一つや二つあってもおかしくない。私と同年輩のみなさん、そう思いませんか?私の知っている限り、老人の恋を歌った曲は一曲もありません。それともあるのだけれど、ヒットしていないだけなのか。そこで私は、「よーし、俺が老人の恋の作詞を作ってみよう」と決心したのです。

決心したのはいいのですが、いざ書いてみるとこれが実に大変か、よくわかりました。私は作詞なんか、短い言葉を沢山作って一つにまとめれば、いいのだろうと思っていましたが、逆にそれが大変なのだ。短編小説を書くより難しい。いままでテレビで歌番組をみてきたが、あまり作詞の部分に気を使わなかったが、作詞を書いてみようと思った瞬間から、歌手の歌う詩がどんなものか気になり始め、注意して画面に出る詩を読むようになりました。ヒット曲を無数につくり出してすでに亡くなった阿久悠(あくゆう)氏など、もう天才と言っていい。演歌からアニメ、コマーシャル等など、合計5000曲以上だと言うのだから凄い。恐らく彼の頭には速射砲のように無数の短い言葉飛び出してくるのではないか。

初めて作詞に挑戦した私には、その短い言葉選びというか、短い文章選びというか大変な作業で時間のかかるものだった。一番を作詞したが二番の言葉が出てこない。主に電車の中で考えるのですが、目的駅を乗り越してしまう。それでもなんとか老人の恋を歌った作詞らしいものができたので、ちょっとはずかしいのですが披露してみます。まず歌詞の曲名が「老いの恋」。私はこの「老いの恋」というタイトルがあまり好きでない。あまりにも直接的だからです。もっとムードあるタイトルしたいと「晩秋の恋」にしてみた。晩秋の季節に生まれた恋になってしまうのではと考えてしまうのです。冗談半分、真面目半分で考えたタイトルは、「ろうそくの恋」。蝋燭が消えかかる時、消える寸前に勢いよく燃え上がるからです。しかしこれでは恋の結末が悪い。詩の内容は、恋の余韻を感じさせるものでなければなければと考えたからです。とにかく曲名を色々考えましたが、「老いの恋」がベストだろうと判断しました。読者の方ですばらしい曲名の名案がありましたら教えてください。

さて肝心の詩の内容は、このようにしてみました。

「老いの恋」
一。いずれ出会うさだめなのに
  何故にこんなに遅いのか
  二人はとうの昔の花盛り
  つらい想い出すなおに語り
  ひかれあう二人
二。不思議なえにしの導きか
  老いにも初恋のはじらい
  老いた体に青春の心
  残り少ない時間(とき)を忘れ
  恋に酔う二人
三。夫婦(めおと)にならずこのまま
  二人の遅い恋は永遠(とわ)に
  時にさみしさ、せつなさ乗り越え
  いつまでも燃やしつづけよう
  これからの命

この作詞は素人の作品、いろいろ欠点もあるでしょう。人間は年をとったから老人になるのではない、肉体が衰えたから老人になるのではありません。チャレンジ精神や好奇心を失うから老人になるのです。それでチャレンジして作詞したのですが、「老いの恋」は願望になってしまった。さびしいものです。どなたか作曲していただける人がいたらこのうえもない幸せです。





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