Archive for 3月, 2013

なぜ日本は科学技術で遅れをとったのか(2)



前回遅れをとった理由の一番目に「250年の平和」をあげました。今回はそのほかに考えられる理由をあげてみました。
(1)250年の平和
(2)鎖国政策
武器取締り強化が国内を平和に保つための国内政策なら、鎖国は宣教師の密入国を防ぐことや、外国とのもめごとに関わるのを阻止するための外交政策といえます。 キリシタン弾圧は16世紀からありましたが、島原の乱にこりた江戸幕府は、乱後は徹底したキリシタン弾圧をとりました。 貿易と布教を同時に行うポルトガル人やスペイン人を追放してしまいました。イギリス人も貿易の利があがらず日本を撤退しています。残ったのはオランダだけになったのです。オランダは貿易するだけで布教活動をしないという条件で日本との貿易を独占することになったのです。貿易する場所は、長崎だけ、またオランダ人が住める場所は長崎の出島だけ、毎年一回オランダ商館長は江戸に上って、将軍に拝謁し、日本との貿易を許されているお礼のため献上物をさしあげることなどオランダは同意したのです。

その他に貿易を許されたのは、中国、朝鮮、琉球です。オランダをいれたこの四カ国だけが日本との貿易取引が長崎港だけで行われた。そして幕府は、日本人の外国行きも禁止、外国から帰国したものは死罪にしてしまいました。 鎖国といっても完全に閉ざしたわけではありませんが、外国船が入港できるのは長崎だけですし、海外情報が入ってきても伝わるのは一部の特権階級だけですから、どうしても海外情報不足なるし、海外からの刺激を受ける機会が少なくなってしまうことは否定できません。この鎖国政策が、日本国内の技術発展の妨げなった一因であることはまちがいありません。
そのせいか鎖国政策を非難する歴史家もおりますが、その点では私も同意します。しかし政府の重要な仕事の一つは、国民に平和な安定した生活を与え続けることですから、その点で言えば鎖国政策は正しい政策だったと言えるのではないでしょうか。 鎖国政策というと、なんとなく後ろ向きな、消極的なイメイジを与えてしまいますが、決してそうではありません。江戸幕府は、日本国内に平和が続く事を目的にしていたのです。なぜならそれが徳川家の安泰につながるからです。その目的達成のために鎖国政策といわれる日本独自の外交を世界に示したのです。

だから鎖国政策は、日本の積極外交の表れなのです。そしてヨーロッパ諸国は不承不承ながらもその鎖国政策に従ったのです。なぜ従ったのか。鎖国政策が次々とうちだされたのは、1630年代です。その頃の日本の軍事力は、ほぼ対等だったからです。 また例え日本の軍事力が多少劣っていても、ヨーロッパ諸国は、その頃戦争ばかりしていたし、日本の外交政策が気に食わないと言って日本に攻め入るような力はなかったのです。その国の外交政策を外国に認めてもらうには、それなりの軍事力がないとできません。
鎖国政策からおよそ200年後、鎖国政策は欧米諸国に認めてもらえなかったのです。認めさすには軍事力に差があり過ぎたからです。ここで鎖国政策にたいする当時の外国人のコメントを紹介しましょう。
オランダ東インド会社の医師として1690年に来日し、出島の商館に二年間在勤したドイツ生まれのエンゲルベルト・ケンペルは、帰国後 700頁にわたる大著「日本誌」を著しましたが、その中で鎖国を次のような理由で是認しています。
「日本は他の大陸より隔絶している島国で、自然の恩恵は豊かである。人口は稠密で、しかも国民は勤勉であり、優秀な工芸品を作っているから自給自足が可能である。 法律が厳しく、国内の統治はうまくいっている。不平や内乱をおこしやすいのは諸国民(欧州)の傾向であるが、日本の現在の事態はきわめて落ち着いており、国内にそのような企てのおこる懸念はない。だから国内に動乱や面倒を引き起こすおそれのある外部からの原因を断ち切ることは、極めて当を得たことと考える」

この鎖国政策には、功罪があります。罪の方は、なんといっても科学技術の遅れの一因になったことではないでしょうか。
(3)身分制度の固定
応仁の乱(1467年)から秀吉の全国平定(1590年)までのおよそ120年間を戦国時代と呼んでいますが、まさに激動の時代ですから身分の低い者にとって出世するには最高の機会でした。反面公家や僧侶などは大変苦しい生活を強いられました。 天皇家でさえ一時は大変な生活苦を陥っています。
この激動の時代を味方につけてのしあがってきたのが豊臣秀吉です。信長、家康にも困難な時代はありましたが、二人には忠節を尽す家臣団がいました。しかし秀吉にはそんな人物は誰もいません。
百姓の子ですから武芸すら教わったことさえないのです。その秀吉が天下を取ったのですから、その凄さがわかろうというものです。 秀吉の才能もさることながら、時代が徹底して彼に味方したことも確かです。秀吉ほどの出世でなくとも、素性のわからない男が一国一城の主になった大名もいます。こういう時代から江戸時代には一転して身分制度が固定してしまったのです。

俗に士農工商といって、武士、農民、職人、商人の四身分制度です。農民は百姓と言われ、漁民もきこりも猟師もみな百姓という身分に統一され、職人や商人は町人と呼ばれていました。 武士の身分は、役職によって細かく分かれ階層秩序は非常に厳密でした。役職は世襲制で、長男が継ぐことになっていました。 秀吉のように農民の子が武士になるようなことは、なくなってしまったのです。それどころか例え武士でも、例外はありますが、他人を大きく乗り越えて出世するようなこともまれになってしまったのですその結果身分相応な生活をすることに慣れてしまいました。 江戸幕府が長く政権を維持できたのもこの身分制度の固定が大きな理由の一つなっていたと思います。
がんじがらめに固定された身分制度では、どうしても人々の自由が制限されてしまいます。その結果人々にチャレンジ精神を発揮する機会を奪ってしまったと言えます。この固定された身分制度も科学技術の発展を遅らせた一つの要因です。

1790年から1860年にかけてと言えば、江戸時代中期から後期にかけてです。この70年間にアメリカの特許局は、総計3万6千件の特許を承認しているのです。1860年以降の70年間では、150万件の特許を認可しています。 もしかりにアメリカ人が、発明の才能が豊かであったとしても、同じ時期江戸時代のような身分制度の固定した社会に住んでいたら、発明の才能を発揮できたでしょうか。

(4)富に対する執着心が薄い
いままであげた三つの原因は江戸時代の特性です。四つ目の原因は、江戸時代までの日本人の特性です。江戸時代以前から大東亜戦争までは、日本特有の文化であった「恥」の文化がありました。
16世紀、キリスト教布教のために日本に最初にやってきた宣教師、フランシスコ・ザヴィエルの日本報報告書の中でこう書いています。
「日本人は大概貧乏である。だが武士たると平民とを問わず貧乏を恥と思っている者は一人もいない。 江戸時代の武士も、将軍のような特権階級をのぞいてほとんど貧乏でした。ちょっとした町人の方が暮らし向きがよかったのです。それでも武士であり続けたのは、武士としての誇りでした。
「武士は食わねど高楊枝」、「武士に二言なし」という言葉があるくらいです。 貧乏なくせに武士には、あまり賄賂が通用しなかったのです。それでいて自分の主君のためには、命を投げ出す覚悟でいるし、自分の名誉のために切腹もします。このため武士は一般庶民からある種の尊敬をえていたと思います。一般庶民は「お武家様はえらいなあ」ぐらいの感情も得ていたとも思います。

それが証拠に明治時代になって武士の身分が廃止され、皆平民になりました。誰とでも結婚できるようになったのです。前町人だった商人たちは、こぞって自分の娘を今は平民だけど前は貧乏武士のところへ嫁がせることに夢中になったのです。 前貧乏武士だったところへ嫁にやったところで、自分の地位があがるわけではないのです。武士ならば信頼がおけるとか信用ができると言った評価があったからです。支配階級である武士が、一般庶民からは、少なくとも嫌われてはいなかったという証明です。

貧乏武士の話になってしまいましたが、江戸時代は、支配階級の武士ですら貧乏が多く、それが恥でもなんでもないわけですから、庶民が貧乏だろうとどうということはなかったのです。 これが貧乏であれば、社会的差別を受け、大変みじめな生活を強いられるようでしたら、富に対する執着心がもっと強くなっていたと思います。幸い日本の社会ではそうではなかったのです。 私たちは、観光であるいはテレビで、ヨーロッパ諸国の王朝の宮殿を目にしますが、その豪華絢爛さ、まさに富にたいする執着心のなせるわざです。 科学技術の発達は、富の追及と表裏一体の面があります。特許制度ができたのはヨーロッパでは、早くも13世紀にできたといわれていますし、アメリカでは独立後まもなくしてできています。この制度は富の追求から必然的に生まれてくるものです。
1881年(明治14)の4月9日付けのイギリスの新聞(ジャパン・ヘラルド)が、日本の将来のことをこう予告しています。
「日本が富を手にするとはとても思えない。自然に恵まれ、怠け好き、自己満足している日本人には、無理な話である。日本人は多くを求めない幸せな人種であり、あまり発展することはないだろう」
私はイギリスの新聞が、日本の将来をこのように予測したのは、当然のような気がします。国民が非常に貧乏なのに平和に暮らしているのを見れば、誰だってその国民は怠け好きで自己満足していて、富への執着心がうすいのではないかと思うでしょう。その結果日本は発展しないだろうと予測したのです。

同時にこの新聞記事は、言外に富の追求が国を発展させるのであるという意味のことを語っています。そのとおりで欧米諸国の発展の原因は、飽くなき富への追求の結果であると言えるでしょう。そして現在では、世界中が飽くことなき富への追求に夢中なのです。 江戸時代に何故日本は、科学技術で遅れをとったのか、主な理由を四つあげましたが、それでは当時の日本の技術レベルはどの程度だったのでしょうか。 1859年(江戸後期)に来日したイギリスの初代駐日公私オールコックは、「日本の文明は、高度の物質文明であり、すべての産業技術は、 蒸気の力や機会の助けによらずに到達することができる完成度をみせている。ほとんど無限に得られる安価な労働力と原料が、蒸気の力や機械を補う多くの利点を与えているように思われる」

このように日本の産業レベルが高かったからこそ、明治に入って短期間に追いつくことができたのです。これを欧米は日本の奇跡と呼んでいますが、奇跡でもなんでもないのです。欧米の技術レベルがまだ日本にとって追いつけるレベルの範囲以内だったのです。 アフリカの未開の大地にコンピューターを持ってきたところで、奇跡どころかなにも起こりません。
このイギリスの初代公私が日本にやってくる5年前にペリーが浦賀にやってきます。帰国後彼は「遠征記」を著します。その中でペリーは、日本についてものすごい予言をしています。
「実用的ならびに機械的分野の諸技術において、日本人は素晴らしい手先の器用さを備えている。彼らの使う道具の粗末さや、機械に関する不十分な知識を考慮に入れるならば、日本人の持つ手作業の完全さは驚異的なものと思われる。
日本の職人は、世界のどの国にも引けをとらない腕前を持っており、彼らの発明的能力がもっと自由に発揮させるならば、世界の最も進んだ製造業国と肩を並べる日も遠くない事であろう。 他国民の物質的進歩の成果を学びとろうとする旺盛な好奇心と、それらをすぐに自分たちの用途に同化させようとする進取性からしても、彼らを他国との交流から隔離している政府の方針が緩められるならば、日本人の技術はすぐに世界の最も恵まれた国々と並ぶレベルに到達すれであろう。
そして、ひとたび文明世界の過去から現在に至る技術を吸収した暁には、将来の技術進歩の競争をめぐり、日本は強力な競争相手として出現することになるであろう」

このペリーの予言どおり日本は、欧米諸国の競争相手なっていったとき、その時世界は、白人にほとんど支配されていた。そしてその時代は、激しい人種差別の時代で、日本は徹底して嫌われていたのです。そのため欧米諸国は、日本を潰しにかかったのです。 これが大東亜戦争の遠因になっていたのです。 大東亜戦争日本悪玉論で片付けられ戦争ではありません。 大東亜戦争日本悪玉論を主張する日本人歴史家や日本人知識人よ、私にとってあなたがたは、軽蔑の対象以外のなにものでもありません。

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なぜ科学技術で日本は遅れをとったのか(1)



日本に最初の宣教師がやってきた16世紀、そして家康によって江戸幕府が開かれた17世紀始ごろまでは、日本の軍事技術はヨーロッパ諸国とほとんど同じ程度でした。特筆すべきは日本の鉄砲の大量生産です。16世紀後半に日本人が合戦に用いた鉄砲の数は、当時ヨーロッパのどの国がもっていた鉄砲の数より多かったのです。 従って当然、日本製の鉄砲は海外に輸出されています。切れ味するどい日本刀も輸出されていました。1483年の記録によると、この年は例外であったかもしれませんが、中国向けだけで6万7千にもおよぶ日本刀が輸出されています。 1597年に来日したイタリア商人フランセスコ・カルレッチは、日本の盛んな武器輸出に言及し、「攻撃用、防御用を問わず、ありとあらゆる武器があり、この国は世界で最大の武器供給国だと思う」と記しているのです。

東北地方の大名、伊達政宗の家臣支倉常長(はせくらつねなが)は、遣欧使節として1613年にメキシコ、スペイン、ローマにむけて出帆しました。その時使われた船がサン・ファン・バウティスタ号ですが、実は、この船は、スペイン人の指導のもとに、日本の材料で日本人の船大工によってわずか6ヶ月間で建造されたものです。 船のトン数は500トン、当時の日本人が作った最大の帆船です。当時の西洋の最高技術を用いた船を、日本の材料を使用して短期間に造る技術を日本はすでに持ち合わせていたということです。航海が終わると、フィリピン政庁の強い要請によって譲り渡し、この船はスペイン艦隊に編入されました。 この実績がものをいったのかもしれませんが、その頃フィリピン政庁は、太平洋航路用の一船の造船発注を日本にしています。その船は1623年に引き渡されています。

しかし船上で使用する武器、すなわち大砲などは日本よりヨーロッパ製の方がはるかに上でした。キリシタンや宣教師をいかに厳重に処罰し、または処刑に処してもマニラから日本に密航してくるか宣教師が後を絶ちません。 そこで三代将軍家光の時、江戸幕府はフィリピン遠征計画を立てました。1637年12月ジャカルタから総督アントニオ・ファン・ディーメンがオランダ東インド会社重役に送った報告の中に、 「われらに大なる困難がふりかかってきたようである。すなわち皇帝(家光)は、マニラから琉球をへて日本に宣教師を派遣した口実に、マニラ占領を計画し、その軍隊を輸送するために、われらの援助と船舶を望んでいる(略) われらの船をかならずしもことごとく借用するのではなく、われらの援助提供の申し出により皇帝は二、三艘だけその用にあて(略) これに対して、いささかの不平も抗議も徒労である。皇帝がこの計画に固執するかぎり、これに服従するか、さもなくば日本より撤退せねばならぬ」と記しているのです。

このことは日本にはない砲艦が必要だったのではないでしょうか。このマニラ遠征は、島原の乱で中止されてしまいました。島原の乱発生時には、オランダ商館長は幕府の命令によりライプ号に砲十門をのせて、海上より一揆軍のたてこもる城に砲撃を加えて幕府軍を援助しています。 当時の軍事技術の総合力を判断すれば、ヨーロッパ諸国と日本はほぼ同程度ではなかったかと推測できます。

ところがおよそ200年後の1853年に日本に開港をせまるアメリカのぺりー艦隊が江戸湾入り口に姿を現した時、幕府の役人は、
「アメリカ軍艦二艘は鉄張りの蒸気船で、大砲は三、四十と十二門、二艘は大砲二十門あまりで、進退は自由自在、櫓(ろ)や櫂(かい)用いず、迅速出没する、まったく水上を自由に動く城である(略)」と記していて動転しているのです。
その7年後の1860年には日米修好通商条約書批准交換のため合計77名の武士が、アメリカ軍艦に乗って史上初めてアメリカを訪問しました。翌年の1861年には、武士36名が遣欧使節としてヨーロッパに派遣されました。欧米諸国で彼ら見たものは、軍事技術ばかりでなく、あらゆる分野での科学技術の圧倒的な大差でした。

それでは何故日本は、科学技術で遅れをとってしまったのか。その理由はいくつか考えられますが、大きく分けると二つではないでしょうか。 一つは江戸時代の特徴、二つ目は江戸時代までの日本人の特性です。この二つがからみあって科学技術に遅れをとってしまったと思うのです。
それでは江戸時代のどんな特徴が科学技術の遅れを招いたのでしょうか。
(1)250年の平和
日本の歴史で平和な時代は、江戸時代の250年と平安時代の350年の二つの時代があります。日本のように歴史の古い国でこれほど長い平和な時代があったということは特筆すべきことだと思います。戦国時代といわれる期間がおよそ100年間、長くみる人でも130年ぐらいです。

江戸時代の250年間は、まるっきり戦争というものがなくなってしまったのです。確かに江戸時代初期に、豊臣秀吉の息子、秀頼と家康との戦いはありました。しかしこの戦いは、決して戦争と呼べるようなものではありません。最初から家康が勝つのがわかっているからです。 秀吉一族を根絶したくてしょうがない家康は、秀頼方に難癖をつけて立ち上がるのを待っていたのです。大東亜戦争と同じようなものです。戦争すれば勝てるとわかっているアメリカが、難癖をつけて日本が立ち上がるのを待っていたのです。
剣豪で有名な宮本武蔵は、若い時いずれは一国一城の主を夢みて1600年の関が原の戦いに足軽として参加しています。しかしその後戦争というものが全くなくなってしまったので、仕える大名を持たない武蔵は、出世の道を閉ざされてしまいました。それで武蔵はしかたなく剣術使いで身を立てるほかなくなってしまったのです。

家康に一生は、戦いの連続でした。従って家康が平和を望んだことは確かです。また平和であることが徳川家の安泰につながるわけですから、江戸に幕府を開いて以来、江戸幕府は、平和になるための政策ならなんでも実行しようとしたのです。その平和政策のいくつかが、科学技術の発達を妨げたのです。 それは武器の取り締まり強化です。まず鉄砲です。16世紀日本は、鉄砲の大量生産国でした。それが1607年に幕府は鉄砲鍛冶の統制を開始した。家康の時代、日本の鉄砲鍛冶の二大中心地は堺地方の鉄砲鍛冶と国友の鉄砲鍛冶でした。国友は幕府の御用商人みたいなものでしたから、統制しやすかったのでしょう。
その統制の中には、諸国の大名がたくさんの鉄砲を発注した時は、幕府に知らせること。鉄砲職人をむやみに他国に出してはならぬ。鉄砲の作り方など他人に教えてならぬなどの規則をもうけ、これらの規則が守られているかどうか調べる鉄砲代官が任命されました。結局1607年からは幕府の許可がないと鉄砲が作れなくなってしまったのです。

ところが堺の鉄砲鍛冶を統制するのは当初は難しい面もありました。なぜか、分かり易く現代用語を使えば、堺の鉄砲鍛冶は、民間業者だったからです。17世紀初期には堺は、少数だが鉄砲の輸出さえしていたのです。しかし1696年以後は、幕府からも民間からも鉄砲の注文が来なくなってしまいました。
江戸時代の初期には主に西国地方の大名は、朱印船と称する貿易船を使用して積極的に海外との貿易をしていましたが、幕府は、大名の貿易取引を禁止し、貿易取引を独占しました。
そのため各大名は、大きな貿易船は必要なくなってしまったのです。そして幕府も、大船の建造を禁止しました。

このように17世紀の初頭の段階で、鉄砲や造船の製造技術の発展が止まってしまったのです。全国の大名も、彼らを監督する江戸幕府も、現代用語を使えば軍縮にはしったのです。 一方この時期ヨーロッパ諸国は戦争ばかり、当然軍縮どころか軍拡に走ります。そのおかげで軍事技術は向上、外交交渉術も長けてきます。 あまりにもヨーロッパ人は、戦争ばかりするものだからヨーロッパ全土を巻き込んだ30年戦争(1618年ー1648年)の最中にオランダ人グロチウスは、「戦争と平和の法」を著しました。
これによってグロチウスは「国際法」の父と呼ばれるようになった。戦争に関する法律といっても、戦争をなくすための法律ではありません。 戦争は必要かくべからざるものと戦争を前提にした法律なのです。
戦争することは悪と規定していなかったためもあるのでしょうか、ヨーロッパで行われた戦争の回数は、1480年から1940年までに278回もあったのです。
自ら軍縮することによって平和に暮らした日本、戦争ばかりやってきたヨーロッパでは、科学技術に大きな差をつけられるのは当然でしょう。(続く)

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