Archive for 6月, 2013

『保守知識人を断罪すー「つくる会」苦闘の歴史』



         このブログ転載、拡散を歓迎いたします。
今週の木曜日、6月13日から発売になっています。アマゾンでもすでに発売しています。 
本の価格は、税込み1,575円。この本を書く直接の原因になったのは育鵬社が「つくる会」の歴史教科書を47ヵ所盗作し、他の教科書からの盗作を含めると50ヶ所以上盗作しているからです。「つくる会」は、育鵬社を非難し、交渉を重ねてきましたが、はかばかしい結果を生まず、仕方が無いから盗作箇所を詳細に暴露する「歴史教科書盗作事件の真実」(自由社)という本を去年10月に出版した。これに対して育鵬社の教科書を支持する一般の方々の中には、盗作教科書がどうだと言うのだ、保守同士喧嘩している場合ではない、保守どうし喧嘩して喜ぶのは左翼だけ、育鵬社に対して何もするな、しない方がいいという人が結構多いいのです。

それでは、私の上記の本の目次の一部を紹介しましょう。
第一部 「つくる会」16年の軌跡
第一章 狙われた「つくる会」
  一。首脳陣の離合集散
  二。初の文科省検定教科書作成
  三。乗っ取り騒動
   1.乗っ取り騒動の発端
   2.日本会議の知られざる内輪
   3.八木秀次氏とシナの関係
   4.産経新聞の捏造、歪曲記事
   5.公安警察を語っての怪メール
  四。乗っ取り騒動の収拾
   1.あまりにも日本的な収め方
   2.「つくる会」会員が危機を救った
   3.「つくる会」の独自性堅持

育鵬社を支持する一般の方々は、この目次に書かれていることをどの程度まで知っているのでしょうか。ほとんど知らないのではないでしょうか。育鵬社側について自分の私利私欲を全うしようとした八木秀次氏、小林正氏らの主張を鵜呑みにして行動を共にしょうとしただけではないでしょうか。八木秀次氏は、産経新聞の支持を得ながら、なぜ「つくる会」にいたためれず出ていったのか、小林正会長は、なぜ「つくる会」会員たちの解任要求を突きつけられ、解任されたのか。日本会議の幹部、宮崎正治氏は「つくる会」の事務局長であった。その事務局長時代に「つくる会」でなにをしたのか。その時日本会議の大幹部、椛島有三氏や小田村四郎氏は、宮崎氏をどう処置したのか。フジテレビの日枝久会長は、なぜ「つくる会」と関係の深かった扶桑社を教科書ビジネスから撤退させ、教科書ビジネスだけをする特別の新会社、育鵬社を設立したのでしょうか。育鵬社の一般支持者は、このようなことは何も知らず育鵬社を支持しているだけなのではないでしょうか。育鵬社は、保守と思い込んでいるのです。育鵬社は保守ではありません。この本を読んでいただければわかります。
「つくる会」を乗っ取ろうとしたり、あるいは潰そうとしたりしてうまくいかず、結局「つくる会」を出てゆき今度は自分たちで教科書を作りました。それが「つくる会」の歴史教科書の盗作のオンパレード。ところが育鵬社は、保守言論界の雄、フジサンケイグループ、保守知識人全員と言っていいくらい、育鵬社に対する批判は一切ありません。日本の保守知識人には正義感もなければ、常識さえも働かないのです。全員馬鹿の集まりかと聞きたいくらいです。とにかくこの本をよく読んでもらいたいと思います。よく読んでもらえれば、私の怒りというものを理解してくれる人も多いいと思っています。

最後に「つくる会」の会員の方々にお願いします。今月30日に「つくる会」の総会があります。その総会出席者には、それまでにこの本をぜひ読み終えてもらいたいのです。本の中で私が一つの提案をしていますので、それが総会で討論されればと思っているからです。よろしくお願いいたします。







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翻訳余話(3)チェロキー族



英文翻訳本の出版が6月には大丈夫だろうと思っていたのが延びてしまった。今のところ8月なら大丈夫かなという感じです。遅れた理由は二つあります。一つは、まさか「つくる会」本、『保守知識人を断罪す。-「つくる会」苦闘の歴史』との校正が重なり出版が重なるとは夢にも思っていなかったこと。英文版の印刷屋さんが、英語の出版が初めてなので、校正が大変で私に負担がかかることは、予想していたが、予想以上であったことです。ところで題名の「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文タイトルが決まりました。「The USA is responsible for the Pacific War」です。Pacific Warは、本のタイトルに使うだけで本文は、すべて「大東亜戦争」の英文名、the Greater East Asia War です。

今回は翻訳余話(3)として印刷屋さんが印象的だと話していたチェロキー族をとりあげてみました。
1890年(明治23)サウス・ダコダ州のインディアン居留地、ウーンデッド・ニーで武装したスー族の一部がアメリカ軍に包囲され、スー族は武装解除し降服した。ところがどこからともなく出た一発の銃声をきっかけに虐殺が始まった。犠牲者約300人、そのうち女、子供は二百人と言われています。これが史上最後のアメリカ白人とインディアンの武力衝突になった。インディアンは完全にアメリカ人によって武力制圧されたのです。インディアンの中でもジョージア州とアラバマ州を根城にしていたチェロキー族は、異色でした。何が異色かと言えば、ほとんどのインディアンは、アメリカ人と武力衝突を続けていたが、チェロキー族は、武力闘争を続けてもアメリカ人には勝てないと判断し、武力衝突を止め、アメリカ白人との共存共栄をはかろうとしたのです。アメリカ白人文明を学び実践していったのです。
1820年前後に、チェロキー国家(チェロキーネイション)という独自の政府を設立したのです。人口2万人あまりの小国家です。チョロキー文字を作りだし、1820年代は、チェロキー国家の発展の時代であった。1825年には新約聖書のチェロキー語訳完成、1827年には、英語とチェロキー語を使用して成文化された憲法を制定、1828年には英語とチェロキー語を併載する週間新聞「チェロキー・フェニックス」を発刊し、その同じ年にチェロキー国初代の大統領が選ばれたのです。このチェロキー国大発展の影には白人宣教師たちの貢献をみのがすわけにはいきません。

ところがジョージア、アラバマ両州当局は、チェロキー族の独立国家を認めないどころかチェロキー族の存在さえ認めようとはしないのです。アメリカ政府に働きかけチェロキー族を一掃しようとした。当時アメリカのジャクソン大統領は、国会施政演説でジョージア州、アラバマ州内のチェロキー族の独立国家を認めず、彼らを全部ミシシッピー川以西の地に移す法案を提出すると発表し、1830年にはジャクソン大統領提案の「インディアン強制移住法」が可決成立してしまった。ちょうどその頃運悪く、チェロキー国内で有望な金鉱が発見された。チェロキー政府は、最高裁判所に訴えた。最高裁長官は、インディアンを先祖伝来の土地から追い出すことは憲法違反であると彼らの主張を支持しました。しかしジャクソン大統領は、この判決はあまりにも非常識だと最高裁の決定を無視して、結局1838年5月23日がチェロキー国国民のオクラホマ居留地移住の日と決められてしまったのです。その移住の日に当時派遣されていきたアメリカ軍兵士の独りが、後になって次のように書いています。
「私は、すっかり希望を失ったチェロキーたちが逮捕されて家のなかから引き出され、銃剣で柵の中に追い立てられるのを見た。ある冷たい雨の降る十月の朝、牛や羊のように馬車に積みこまれて、彼らは西へ旅だった」(「アメリカ歴史の旅」猿谷要 朝日新聞)

ここで書かれている柵というのは、その強制移住にまにあわせるためにアメリカ政府は、急造の強制収容所をつくりチェロキー族を押し込めた柵のことです。合計およそ二万人のチェロキー族を竜巻で有名なオクラホマの居留地に強制移住させるには、莫大な費用がかかります。その費用はすべて政府がもち、実際の運送は、民間業者にやらせたのです。業者は少しでも利益のうわずみをねらって、毛布の枚数、食料の量、幌馬車の数など減らせるものは徹底して減らした。
ミシシッピー川を越えてオクラホマまでおよそ1300キロの行程を冬迎える季節に出発した。道中は難渋をきわめた。食料不足による飢えと栄養失調、冬の寒さと疲労、その結果としてコレラや天然痘などの伝染病で次々と死者や脱落者が出た。死者や脱落者はその場にすてられていきました。運送者は、チェロキー族の死者を歓迎しました。一人でも死ねばその分費用が浮くからです。目的地に到着した時、正確な死者の数はわかりませんが、およそ四千人と言われています。四人に一人が死んでいったと言われています。このチェロキー族の強制移住を「涙の道」(The Trail of Tears)と呼ばれています。

1838年12月、飢えと寒さと疲労の極に達した長いチェロキー族の列がオクラホマに向かっている時、ワシントンの国会ではヴァン・ビューレン大統領は白々しい報告をしていました。
「私はここに国会に対し、チェロキー・ネイションのミシシシッピーの西の彼らの新しい土地への移住の完了を報告することに、心から喜びを感ずるものであります。さきの国会において承認決定された諸方策は、もっとも幸福な結果をもたらしました。現地の米軍司令官とチェロキー族との間の了解にもとづいて、移住はもっぱら彼ら自身の指導の下に行われ、チェロキーたちはいささかのためらいを示すことなく移住いたしました。(「アメリカ・インディアン悲史」藤永茂 朝日新聞社)
アメリカ政府は、たった二万人たらずの独立したチェロキー小国すら認めようとしなかったのです。チェロキー族が生死をかけて到着した約束の土地、オクラホマは1861年に始まった南北戦争にまきこまれ、一度は南軍に、ついには北軍に蹂躙されてしまいました。

私がチェロキー族の「涙の道」を知った時、頭に浮かんだのが「バターン死の行進」です。「バターン死の行進」とは、大東亜戦争の時、フィリピンのバターン半島の要塞に立てこもっていたアメリカ兵、オーストラリア兵、フィリピン兵等、合計七万六千名が日本軍の捕虜になり鉄道のあるサンフェルナンドまでおよそ90キロを夏の炎天下に歩かされたので多数の死者が出、また捕虜移送中に残虐行為があったという事件です。この事件は発生の約二年後の1944年2月に日本政府は抗議を受けた。その時「バターン死の行進」とは呼ばれていなかったのです。この事件を日本軍の残虐行為として有名にしたのは、マッカーサーです。彼はフィリッピン方面の日本軍最高司令官、本間雅晴中将に、この責任を負わせ、軍事裁判で死刑にしてしまった。そのため「バターン死の行進」は、アメリカ人の常識みたいに知れわたりました。アメリカ人が「バターン死の行進」を常識にしているなら、チェロキー族の「涙の道」も常識にしてもらいたい。1970年(昭和45年)に公開されたアメリカ映画に「フラップ」という作品があった。私は見ていませんのでどんな内容の映画か知りません。私の年代ならもう亡くなっているが誰もが知っているアンソニー・クィーンという俳優が、アメリカ・インディアン出身のアマリカ兵を演じていました。彼はその映画のなかで痛烈な皮肉を吐いているのです。
「(チェロキー族の)「涙の道」にくらべりゃ、バターン死の行進なんざ、そんじょそこらのピクニックみてぇなもんだ」
それは、そうでしょう。炎天下の道歩かされたといっても、重装備の日本兵も一緒に歩いての90キロ。かたや、チェロキー族は、1300キロ。バターン死の行進が遠足気分に見えてくるのは当然でしょう。

ところで最近アメリカ政府は、日本政府にアメリカ政府の歴史観を日本政府に押し付けようとしています。「従軍慰安婦」事件などその典型的な例です。私にいわせればアメリカが行ってきたすべての戦争について、アメリカ人が正義づらできる戦争など一つもありません。それを現在でも正義づらして日本政府に自国の歴史観を無理強いするとはなにごとかと言うのです。我々日本人は、一般的にアメリカ人の方がシナ人や朝鮮人よりまだずっとましだと思っているのです。シナ人や朝鮮人まねしてどうするのですか。そんなことしているとアメリカ人は日本人に完全にきらわれていきますよ。

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