Archive for 8月, 2013

ついに英文翻訳出版!



今年1月12日のえんだんじのブログで「ついに英文翻訳完成!」というタイトルで、私の著書「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文翻訳(The USA is responsible for the
Pacific War)が完成したことを知らせ、その原稿を出版社に渡し、出版は今年の6月ごろと伝えました。原稿が膨大なため校正に時間がかかり出版が8月になってしまいました。出版社、堀内印刷から完成本が我が家に送られ、私が直に完成本を手にしたのが、なんと8月15日という記念すべき日だったのです。和文「大東亜戦争は、アメリカが悪い」完成に6年、英文版完成には、それから9年、日英両文で合計15年をかけたわけです。英文完成の9年間の間に、私は、三冊の本、「原爆正当化のアメリカと従軍慰安婦謝罪の日本」、「逆境に生きた日本人」、「保守知識人を断罪すー『つくる会』苦闘の歴史」を出版することができました。これはまさに何度も書いてきましたが、英文版への鎌倉在住、渡辺氏の強力な支援がなければ、この三冊の本さえも世に出ることはなかったでしょう。私は、もう鎌倉方面に足を向けて寝られません。渡辺氏は、大変な読書家です。随分沢山の大東亜戦争関係の本を読んでいて、英文化しなければならない本は、この「大東亜戦争は、アメリカが悪い」だという信念のもとに押しすすめてくれた。すなわち、渡辺氏は、この本に惚れぬいたのです。

思い出せば随分沢山の読者がこの「大東亜戦争は、アメリカが悪い」に惚れ抜いてくれました。出版後半年から一年にかけて合計15通の手紙や葉書の投書が舞い込み私は仰天した。そのほとんどが元軍人だったのにはさらに驚きました。私の女房は、それをみて「あなたは、まるで老人のアイドルみたい」と言っていた。元軍人たちは、「これはすばらしい本だ。よくぞ書いてくれた」の誉め言葉の連続でした。手紙や葉書による軍人たちの投書ばかりでなく、電話による連絡で実際にあった元軍人たちも多かった。この本の出版は、9年前の7月だが、その3ヵ月後の10月には、千葉の中島さんから講演依頼がきた。一度お会いしましょうということで九段会館でお会いした。中島さんは、飛行気乗りで満州での飛行訓練を受けている最中に終戦になり日本に引き揚げた人だった。講演は一時間半、質問時間30分。合計2時間の講演だった。私は定年サラリーマンだから講演経験などありません。あるのは結婚式のスピーチぐらい。私が答えられない質問されたらどうしようなどと、当時二時間の講演と聞いただけでビビッタことは確かです。女房も私の講演を聞きたいと言いだし、度胸をきめて女房を連れて千葉へ乗り込んだ。

講演は、初めての講演とは思えないなどとおだてられ無事終った。主催者の中島さんは、その後パーキンソン病になり外出できなくなり、数年間年賀状で私を激励しつづけてくれた。講演後の懇親会の席上で、千葉県習志野の空挺部隊の元自衛隊員とであった。出会いがしら、「鈴木さん、今日の講演と同じでいいから、今度は靖国会館で講演してくれませんか」とたのまれた。この機会を通じて私の本が、遊就館の本屋の店頭に並び、壁天社(出版社)が倒産するまで店頭に置かれた。全国から多くの人たちがやってくるので絶好の宣伝場になった。
この靖国会館の講演会の懇親会で出合った人が横浜在住の小川さんだった。小川さんは、当時でもごく少なくなっているノモンハン事件の生き残りであった。小川さんは、私の本を買い、数ヵ月後に電話があった。「これは素晴らしい本だ。まさによく書いてくれた。今会長に渡してある。会長は大変な読書家だからすぐに感想が聞けると思う」とのことであった。会長とは、昔の在郷軍人会の流れを組む「日本郷友連盟」の神奈川支部会長の館(たち)さんのことであった。館(たち)さんと小川さんは、会長、副会長の間がらであった。
館(たち)さんは、陸士出で終戦時陸軍中尉、フイリピンで捕虜になっていた。結局、私と三人で横浜であった。館(たち)会長が言うには、今どきは現役の自衛隊員でも自虐戦争を主張するのだ。自衛隊元幹部や元軍人が自衛戦争を主張しても、彼らはあまりぴんとこない。しかしこの本はすばらしいし、なにしろ自衛隊とか軍人とか、歴史家とは関係ない、一般の定年サラリーマンの主張なのだ。本の内容も文句つけようがないくらいすばらしい。
とにかく神奈川支部に入って彼らを教えてくれなどと言われて入会、今でも会員です。小川副会長では、人づてにすばらしいことを聞いています。彼は自分の小型自動車にマイクをつけ、奥さんと一緒に乗り込み、祭日になると東京や神奈川を乗り回し、マイクで「祭日には日章旗をかかげましょう。祭日には日の丸をかかげましょう」と呼びかけるのだ。その運動を道路法の改正で禁止されるまで20年間続けたというのです。成果がいっさいあがらなかったと言っていますが、事実その通りでしょう。しかし禁止されるまで20年間も続けるとはたいしたものです。まさに真の愛国者とはこの人のことでしょう。小川さんの娘さんは、父の意思をついで保守活動を積極的に行っています。

もう一人実際に会った元軍人を紹介します。千葉市に住む井上さんです。井上さんも陸士出身。終戦時の階級は、私が聞かなかったのか、私が忘れたのか覚えていません。井上さんの特徴は、私への電話攻勢だった。本の絶賛も電話だったし、それに「我が家に遊びにきてくれ、我が家に遊びに着てくれ」の連続の電話です。根負けした私は、ついに井上さんの家に伺うことになった。井上さんは、脳溢血で右手が完全に不自由で、右足は、杖をもって歩くとどうにか一人で歩けるが、それも家の中だけで外出は、奥さんといっしょじゃないと無理のようだった。サングラスをしていて、めがねをはずして見せてくれたが、右目が完全にへこみ、すごみのある恐い顔つきに変わっていた。ビルマのジャングル戦で、狙撃兵に狙われあやうく命を失うとこだったのだ。井上さんは、終戦時ビルマでアメリカ軍の捕虜だった。しかし彼は英語ができるので米軍と日本軍捕虜との間の通訳をしていた。その日の主な会話は、アウンサン・スーチー女史の父親の話しばかりだった。よっぽど懇意にしていたのだろう。それから彼は、書庫案内してくれた。電話で彼は自慢していたのだ。私は読書家だ。だから自宅に本が三万冊あるというのだ。物書きでもなければ研究者でもない人が自宅に三万冊もの本をもっているのだろうか、一万冊ぐらいを三万冊と読んでいるのではと私は思っていた。しかし書庫ビルを見て驚きました。4階建てか5階建てだったか忘れましたが、本がびっしり、おおざっぱに数えても三万冊を超えています。最上階は、彼が元気なころ書斎として使っていたのでしょう。最上階の机がほこりだらけになっていた。あの時、書庫を見て瞬間に感じたことは、「『千夜一夜物語』というのは、こんなに沢山の全集からなっているのか」ということだった。それから数日後、井上さんから沢山の本が送られてきた。中身は、幸田露伴全集、全44巻だった。私は、無論、幸田露伴の名前を知ってたが、まさかこんなに沢山の全集をだしているとは、知らなかった。井上さんの電話によると、これは私の大作に対する私へプレゼントだという。「君も大変苦労したようだが、露伴全集の第十何巻に苦労について含蓄のある文章があるから、そこだけでもじっくり読んだ方がいいと言っていた。」さすが、読書家だ。露伴全集を読み込んでいるのでしょう。さっそく十何巻を取り出して読んでみたが、文体が古いので読みづらく時間がかかりそうなので、いずれ時間ができた時にとわきにおいてそのままになってしまった。

その後、井上さんから転居の知らせがきた。東京三田のマンションに移ったのだ。当然だと思った。千葉の敷地は、200坪。その中に古い西洋館と書庫ビル。井上さんの体では、もう住むには無理なのだ。井上さんに電話すると、書物はすべて市に寄贈、土地も売ったそうだ。今度は東京三田だから、ずっと近くなったからぜひ遊びにきてくれというので、訪問日を決めた。訪問日直前に井上さんの奥様から電話があった。主人は入院しました。末期ガンですということだった。数日後に奥様から手紙がきた。主人が末期ガンで入院し、もう退院することはないだろうということ。鈴木さんとは短いつきあいでしたが、主人は鈴木さんとの会話や私からの手紙を読むのを楽しみのしている様子がよくわかったこと。自分がもっと元気なころだったら、私の大作をベストセラーとまでいかなくとも、かなり売ることができるのにと歯軋りしていました。今後の活躍を期待しております。とのことでした。それ以後井上家から音信が途絶えた。

以上4人の方は、私が実際に関わりを持った軍人たちですが、手紙でも随分沢山の軍人の方々とかかわりをもちました。なかでも印象深いのは、何度も手紙を交換したせいでしょう、神戸在住の円城寺さんの想い出です。円城寺さんは、17、8歳のころ郵便局の郵便配達夫として働いていましたが、海軍に志願、海軍の主計兵として戦艦に乗り込み、幾つかの海上戦を経験した。ところが病気になり南方から日本の病院船に乗って横須賀に上陸した。彼の乗った病院船が、最後の病院船、途中沈没されずに日本にたどりついた最後の病院船だった。そして横須賀に上陸した翌日、彼の乗り組んでいた戦艦が撃沈され、乗組員全員海底の藻屑と消えてしまったのを知ったのだ。その数日だか数週間、彼はなにかにつけて、涙がでて、涙がでてしょうがなかったという経歴の持ち主です。彼と文通を開始したころは、手紙から察するところ一人ぐらしで決して生活は豊ではなかったように想像できます。なにかと精神的悩みを訴えてくるような時もあったし、そうでない時もあったし、ひょっとしてぼけかかっているのかなとも思われもした。しかし最後には自分の救いを新興宗教に託したのでしょう。入会していきました。

これら5人の元軍人たちは、もう鬼籍に入られてしまった。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版の本を我が手にとると、この5人の人たちが生きていて、この英文版を贈呈できたら、彼らはどんなに喜ぶだろうかと思うと実に感慨深いものがあります。英文版の出版数は、全部で300冊。私と協力者の渡辺氏の個人使用に25冊ずつで計50冊。在日外国大使館、公使館用に200冊。外国図書館用に50冊です。海外用50冊では焼け石に水です。これをもっと増やさなければいけません。そのため私には二つ計画があります。
一つは、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の再出版です。2年後は、終戦70周年の節目の年です。大東亜戦争終結70周年では。出版社で何か計画があってもいいのではないかと、現在すでにあたっている出版社があります。もう一つの計画は、私の長編小説の出版です。「事実は小説よりも奇なり」と言いますが、ある女性の波乱万丈の一生を描いた、えんだんじ版「女の一生」と言った感じの小説です。テレビドラマ化されたり、映画化されたりするかもしれません 読者の中には、そんなのは夢にすぎませんよと言うかもしれません。しかし夢を描かない生活より、夢をかけてそれに邁進する方に賭けたいと思っております。これでもうけて英文版を世界中の図書館にばら撒いてやろうという意気込みです。
最後にこの英文版の値段は、一冊4,000円。郵送費340円。合計4、340円です。私の個人使用分、25冊は売ることができます。興味のある方は、ぜひご連絡ください。

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私の死生観



今月の8月1日で私は満75歳になり、後期高齢者の仲間入りをした。死期が近づいたのだ。私と同年代の人たちに問いたい、死後、人間の体どうなるのでしょうか。2、30年ぐらい前だったと思う、名前は忘れたが、ある有名人が、人間は死んだら、ただゴミになるだけ、生きている間、人間は計りきれないゴミを出し、死ぬと自分がゴミになって片付けられるだけと言って死んだ。この時以来、私は、人間は死んだらゴミになるだけ、だからゴミとしてかたづけられるだけという考えが頭の中から離れません。しかし残された家族には、想い出として残るでしょう。然し想い出として残るのは、孫或いはひ孫ぐらいだけでしょう。その後の人たちには、先祖の一人としてかぞえられるだけ。それを考えると人間というのは、死に対して大騒ぎし過ぎではないだろうか。現在、夏のセミが一生懸命鳴ています。セミの寿命は1,2週間と言われています。しかし木の下にはセミの遺骸が集団になって残っていません。セミは、ほんの短い1,2週間の寿命でも前もって自分たちの寿命を知ると、どこかに消えて亡くなるのです。空を飛んでいる鳥は、元気な鳥ばかりです。病になって必死に飛んでいる鳥はおりません。鳥も自分の寿命を知ると、人知れずどこかに消えてなくなるのです。

人間も原始に帰れば帰るほど、例えば人間が二本足で歩き始めた頃は、人間も動物と同じように死期を悟った人間は、自然と人間社会から離れ、あるいは離されていったに違いない。昔、エスキモーは、必ず白内障になって目が見えなくなります、そうなったら老人は、家族一緒に行動できなくなり、数日分の食料を与えられて置き去りにされていった。日本には姥捨て山があった。ところ現在では、寝たきりになってしまった老人は、いつまででも生かされるのです。現在、自分のように70代の元気な老人でいる時は、自分はあんな姿にはなりたくないと誰もが思ったことでしょう。しかし現実には、寝たきりになった老人はたくさんいます。自分はもうこれ以上生きていると、自分で物をたべ、自分で排便し、自分でお風呂にはいれなくなると考えた時、自ら死を選んでいくことができなくなってくるのでしょうか。自分でこれ以上生きていたら、他人に迷惑をかけるだけと知った時点で、私は、自ら食を絶ち、自分で死ぬつもりでいるが、その時には自分で自分の死を行う気力がなくなり、或いは自分の脳の力、脳力が衰えてしまうのかもしれません。そんなことは絶対に避けなければならないと強く自分に言い聞かせています。

仏教では、体と心が一つとなり私たちは生きているが、死んでしばらくすると遺体と心は分離すると言われ、お葬式の後、体は火葬して骨になり、49日の法事の後、遺骨はお墓に埋葬されますが、心は来世に行くのです。だからより良いところへ逝ってくださいと功徳を手向けるために盛大に四十九日の法要をするわけです。
そうして、みんな来世で新たに自分に相応しい転生をすべく、人間に生まれ変れるなら、身ごもったお母さんのお腹の胎児に入って輪廻するのです。だから皆さんご存知のことと思いますが、当たり前のようになされる四十九日の法事は輪廻ということを前提に特別に大事にされていることなのです。
ネットで偶然知り合ったお坊さん、横山全雄氏が書いた「ブッディストという生き方」(大法輪閣)にこのように書いてあります。私はそんなことはないと思います。横山さんは、何十年にもわたって仏教を研究されてきた方の発言に対して、仏教など特定の宗教に帰依したことがない私が、そんなことはありませんなどというのは、大変失礼で乱暴な言葉で非常にもうしわけないが、私はそんなことはないと思っているのです。人間は死ねば、ただのゴミです。だからかたずけられるのです。なぜ死後の考え方に相違がでるのか、それは私は、人間も動物だから、すなわち人間も動物も同じだからという考えかたから生まれていると考えています。原始社会になればなるほど人間は、動物と同じで死期を悟った人間は、人知れず人間社会から去っていったか、去らされたに違いないと考えているからです。そして文化文明が発達することによって、人間が動物より優れているという考えが広まり、人間の死と動物の死とは違うとまで考えるようになったのではないでしょうか。

「人間が死ねばただゴミになるだけ」という考え方は、本人に大変な功徳を呼ぶものです。それこそ生きているうちが花という考え方になりますから、生への執着心が非常に強い。自殺など最低の最低になりますから、自殺などはあり得ません。雑草のように生き延びるのです。元気で長生きしたいという気持ちが、私は定年後非常に強くなったと思う。体の衰えを防ぐために、運動して体を動かし、脳機能の衰えを防ぐため、読書や文章書きをし、食事に気をつけ、年に一回人間ドックに入り検査する。私には持病が一つある。前立腺肥大症です。これは男の老人病です。しかし前立腺肥大症で死んだなどとうことは絶対にない。ひどくなれば手術すればすむこと。私は、それ以外体には要注意点はないのです。体ばかりでなく、心のケアも必要です。年をとると感動することが少なくなります。私は、その感動する力を衰えないようにするのだ。それに一番良い方法は、美人を見たら感動することです。私は道で美人に出くわすと努めて感動してながめまわすことにしています。相手に気付かれて変な人と思われるから、その点を気づかいながら、なんと素晴らしい女性だろう。そんな女性に相応しい洋服を着ているだろうか、もし着てると美しさが倍加するから見てて気持ちがよくなります。私は75歳のいまでもおしゃれに気を使うから、気分的に若々しさを保つのに友好なのです。この年でもテレビでファッションショーをよく見ますし、昔はファッションショーを見ながらお食事を何回かしたことがあります。あれも楽しい食事だった。この年齢で最大の弱点は、若い女性との会話が全然なくなってしまうことです。気分的に年寄り臭くなく、できるだけ若い気で過ごすというのが一番むずかしいのではと思っています。

こうして心身共に若さを保ちながら長生きし、100歳まで元気で長生きし、100歳になったら自分の死の準備、すなわちゴミになる心がまえをし、自分でゴミなる決断をつけ、自分の遺骨は、湘南の海に撒いてもらうのです。だがここで問題が一つ出てきます。私の先祖のお墓は、小田原にあります。お墓は昔から長男が引き継ぐことになっています。私の兄弟は、三人で私の下に二人妹だけ。妹は他家の嫁に行っています。私が先祖の墓を継いでいます。先祖のお墓の継承者が自然死を選んだからといって、先祖のお墓にはいらず、遺骨を海にばらまいていいのかどうかが問題になってきます。しかたないから分骨案も考えています。遺骨の半分は、先祖のお墓に入れ、残骨は海にばらまくことです。あるいは自分の息子に私の死生観を話し、自分の遺骨全部を海にばらまくかです。どちらにするかは、私はまだ決めていないのです。

ここで読者の皆さんに注意していただきたいのは、私は、人間が死ねばただゴミになるだけとう考え方を皆さんに勧めているのではなく、私の死生観を語っただけですとうことです。何年かまえこんな話しを書いたら読者の方から、なぜそんな考えをもつのかと怒られたことがあるからです。また世の中には、色々な宗教に加入し何十年と宗教に奉げた人たちもいます。私はそういう人たちをさげすむ気持ちももうとうありません。ただ私は、残された人生は、こんなふうに生きていこうとしているだけです。同年代の人たちはどういう死生観をお持ちなのでしょうか。

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