Archive for 10月, 2013

しっかりしろ、裁判官、日本人だろ。



司法が日本を滅ぼす、すなわち数々の裁判判決が日本を滅ぼすと言われ続けてもう数十年たっています。先月9月4日、最高裁大法廷で裁判官14人全員が、結婚していない男女の間に生まれた非嫡出子(マスコミでは婚外子と呼び、私と同年齢以上の人間は私生児と呼んでいた)の遺産相続分を嫡出子の半分と定めた民法の規定は、憲法違反であるという判決をくだした。結婚していない男女の間に生まれた非嫡出子(婚外子、あるいは私生児)の遺産相続分は嫡出子の半分と定めた民法の規定は、110年以上にわたって維持されてきた。この「嫡出子の半分」という憲法の規定は、長い間賛成、反対の意見があっても有効であったことも事実です。平成7年にもこの問題がもちあがり、最高裁大法廷では「この規定は、法律婚の尊重と婚外子の保護の調整を図ったもの」と評価し合憲の判決をくだしたのです。
平成7年の時、「合憲」だったものが18年後の平成25年では「違憲」だというのです。それではなぜ違憲にしたか、すなわち違憲判断の決め手は何だったのか。我々は、裁判官の提出した「法廷意見要旨」を読まなければなりません。

先月9月12日づけの産経新聞「正論」で埼玉大学名誉教授、長谷川三千子氏が「法廷意見要旨」を読み、次のように報告しています。冒頭にはこう書かれているそうです。
「相続制度を定めるにあたっては、それぞれの国民の伝統、社会事情、国民感情なども考慮されなければならず、その国における婚姻ないし親子関係にたいする規律、国民の意識などを離れてこれをさだめることはできない。」このような熟慮しているなら平成7年と同じ「合憲」という判断がでたでしょう。しかしこの最後の文、「その国における婚姻ないし親子関係にたいする規律、国民の意識などを離れてこれをきめることはできない」と書いていますから裁判官たちは意識の変化を感じたのでしょう。結婚観の変化もあれば、いわゆる事実婚による非嫡出子が1.2%から2.2パーセントに増えているという事実はある。しかしそれはこの問題に直接かかわることではないと意見書もはっきりと述べています。
ところが長谷川三千子氏が、「法廷意見要旨」の中で注目している記述は、現在欧米諸国でこのような規定を持つ国がないという記述と「国際連合の関連する委員会」が我が国のこうした規定に「懸念の表明、法改正の勧告などをくりかえしてきたという記述でした。これ以外に、これといって違憲判断の決め手になるような話はみあたりませんと書いているのです。

私は最高裁大法廷裁判官、14人の裁判官全員が違憲と判定としたニュースを耳にした時、瞬間的に外部からの影響あるいは圧力を受けての判定ではないかと疑ったがやはりそうだったのです。常識的に考えれば平成7年の時には、最高裁の裁判官の見解が分かれて10対5で合憲になっているのですから、当然今回も表が割れて当然なのです。それだけ複雑でデリケートな問題なのです。にもかかわらず今度は14対ゼロという一方的な採決です。なんのための裁判官なのかと言いたい。それでは世間に発表されている数字などを使って私の反対意見を披露しましょう。

1.内閣府はこれまでに婚外子をめぐる世論調査を平成8年、18年、24年と三度行ってきています。相続格差について「現在の制度を変えない方が良い」と「相続できる金額を同じにすべきだ」の回答を比較すると「現在の制度を変えない方が良い」の回答度が高いのです。時代的変化はあまり変わらないのです。

2.現在、欧米では嫡出子と婚外子の間で相続分に差を設けている国はありません。そのため長谷川三千子氏が主張するように「国際連合の関連する委員会」が我が国の相続規定に懸念の表明、法改正の勧告などをくりかえしてきたのです。それでは欧米諸国の婚外子存在の割合を見てみましょう。2011年の出生数における婚外子の割合は以下の通りです。
フランス 約56%、ノルウェー 約55%、英国 約47%、米国 約41%、ドイツ 約34%、イタリア 約23%、日本 約2.2%。
日本の婚外子の極端な少なさが強調したい。私は若い日本女性に言いたい。日本の男性は、家の中で家事をする時間が欧米に比べて少なすぎるという不平があります。欧米人の男性は、家事で多くの時間を割くが、婚外子つくりにもはげんでいるのです。
欧米諸国も最初から婚外子の相続に制限がなかったのではありません。相続の制限をはずしたら急激に婚外子が増えた一因でしょう。日本は法律婚を大事にし、婚外子をふやしたくないのだとなぜ国連など国際社会に向かって言えないのかというのです。

3.婚外子の相続権を全面的に認めることによって法律婚による嫡出子や母親にかかる迷惑にはしらんふりです。こんな不公平なことありますか。人間は誰でもうまれた時完全に不平等に生まれるのです。私は婚外子に生まれた人には、気の毒だけどこの不平等の中の一つとして解釈してゆかねばならないと思っています。それでも一人の人間として父親が死んだ時には、半分を相続できるのが妥当ではないかと思っています。平成7年に最高裁が合憲と判断したのは、「法律婚の尊重と婚外子の保護の調整を図ったものとして評価したからです。なぜ現在最高裁の裁判官たちは、そろいもそろって違憲にしたのか、私には全く理解できません。
長谷川三千子氏は、名文句を書いています。「ここには、国連の振り回す平等原理主義、『個人』至上主義の前に思考停止に陥った日本の司法の姿をみる思いがします。」
要するに日本の裁判官として非常に不甲斐ないのです。

ここまでは、読者の皆さんもどこかの新聞や雑誌で同じような主張を読んでいることでしょう。ここからは、私独自の意見を追加させてもらいます。裁判官、特に最高裁の裁判官は、エリート中のエリートでしょう。我々一般庶民、特に下層階級からの這い上がり者、成り上がり者とエリートとの違いは皆さん何だと思いますか。這い上がり者とは私のような人間で定年になっても働かなくてもなんとか人並みに食っていける人間、成り上がり者は、金持ちの人間で定年になっても贅沢して暮らせる人間です。この這い上がり者と成り上がり者とエリートには決定的な大きな違いがあります。何だと思いますか。信念、信念の強さです。エリートには信念の強さなどありません。あるのは迎合力です。力や権力に迎合するだけではありません。思想にも迎合していくのです。絶対的な傾向と断言できませんが、この傾向が強いのです。
これに日本人としての特徴が加わっているのではないかということです。外国人と比較して日本人の特徴は、日本人の同調姿勢です。この同調姿勢が和の文化につながるのですが、あまりにも多くの賛成者がいると、反対者は自分の意見を主張するのに躊躇してしまい、自分もおもわず賛成者になってしまうことです。そのため主催者は、責任逃れの一つとして絶対多数の賛成、反対者ゼロを作り出すことさえするのです。婚外子の相続問題は、賛成、反対いずれも多いので非常にデリケートです。それだけに全員賛成にして責任逃れをしようとしているのではないかとも考えられます。いずれにしても、不甲斐ない裁判官のため、今後は日本でも婚外子や事実婚が増え、いずれは同性婚も法的に認められるのも時間の問題になってきているのではないか。しっかりしろ、裁判官、君たちは日本人だろ。日本の伝統、文化を守れというのだ。


本日のブログ記事をもって、「えんだんじのブログ」は、満5年を終了しました。来月から「えんだんじのブログ」は、6年目に入ります。ここまで書き続けてこられたのも皆様のお蔭です。ありがとうございました。これからもご贔屓のほどよろしくお願いいたします。

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あるホステスの生きざま



私は、自分のブグに時々短編小説を書いています。皆さんが、今ご覧になっている私のブログの左側のコラムをご覧ください。一番上が「ページ」になっています。その下が「カテゴリー」になっています。そのカテゴリーの詳細を見ますと、下から二番目に「短編小説」があります。その短編小説をクリックしていただくと、これまでの短編小説、三編が出てきます。第一話「女のため息」(2010年6月)、若い女性営業マンの話、第二話「二人の芸者」(2010年9月)、若い芸者と老芸者の話、第三話「ある踊り子の思い出」(2011年2月、日劇ミュージックホールの著名なトップダンサーの話、計三話を読むことができます。今回の第四話「あるホステスの生きざま」は、第三話の「ある踊り子の思い出」以来二年半ぶりの作品です。なぜこんなに時間がかかったかというと、私の大作、「大東亜戦争は。アメリカが悪い」の英文版出版が近づいたこと、新作「保守知識人を断罪す」を執筆したこと、この二つのために短編小説どころではなくなったことです。今回この両作品の執筆が完全になくなり、前からあった構想を短編小説化してみました。私が何故短編小説を書くか、それは初回の短編小説の時にも書きましたが、私は、いずれ長編小説を書くつもりなのです。そのため長編小説書くための訓練と言っていいかもしれません。これまでは、なんとなく長編小説を書くためというあいまいな目的でしたが、今度は長編小説を書く確固とした目的ができました。この度、英文版、(The USA is responsible for The Pacific War)を300部出版した。これでは、海外の図書館にばらまくには、極端に少なすぎる。しかし資金的にやむを得なかった。そこで小説を書き、当てるつもりのです。テレビドラマ化、映画化されたりして稼いだお金で世界中の図書館に英文版をばら撒くのです。これが男、えんだんじの今後の夢なのです。それでは、えんだんじの短編小説、第四話、「あるホステスの生きざま」をお読みください。

JR新橋駅から土橋に向かって歩き、土橋の左わきの道に入ると銀座コリドー街という商店街がある。帝国ホテルに直結する道路になっているのでこぎれいな、洒落たお店が多かった。その商店街の地下に「まゆ」というクラブがあった。そのクラブでホステスとして働いていた綾子(あやこ)、通称綾(あや)ちゃんと知りあった。知り合ったと言っても彼女に会うのはいつも彼女のお店の中だけだった。綾ちゃんは、ホステスと言ってもヘルプ専門のホステスだった。あの頃ホステスとは、今でもそうだと思いますが、自分をひいきにしてくれるお客を何人も持っているのが本物のホステスで、自分をひいきにしてくれるお客などは誰もいず、その本物のホステスの手伝い専門のホステスをヘルプと呼んでいた。例えば、Aホステスをひいきにするお客に連れがいたり、そのつれが三、四人もいるとAホステスだけがお相手するのは失礼だし、そこへ綾ちゃんなどのヘルプがAホステスと一緒になってお客のお相手をするわけだ。クラブによっては、ヘルプ専門に女子大生のアルバイトを当てる場合もけっこうあった。

綾ちゃんはホステスと言っても、誰もホステスを職業にしている女性とは思わないでしょう。あかぬけないし、はっきり言って彼女の容姿は、いわゆるブスだ。どの程度のブスかというと、まぁ、男に口説かれる心配があまりない女性と言ってよいでしょう。ところがその綾ちゃんはお客からも同じ店で働くホステスからも人気があったのだ。お客に人気があるのは、彼女の座持ちの良さなのだ。彼女の座持ちの良さは天性のものでしょう。とにかく話術がたくみでおもしろおかしく客を楽しませてくれるのだ。もちろんエッチな事も平然という。しかしそれが下品にならず上品さを保っているのだ。ホステスに人気がある事情はこうなのだ。Aホステスを贔屓にするお客二人がほとんど同じ時間にお店に現れた場合など、Aホステスが二人を同じ席にすわらせてお相手するわけにはいきません。どうしても一人ずつ少し時間をずらしてお相手しなければなりません。そんな時、ホステスはヘルプに綾ちゃんを頼むのが最適なのだ。なにしろ綾ちゃんは座持ちがうまい、お客を喜ばしてくれる、その上綾ちゃんはぶすだからお客が自分より綾ちゃんを気に入ってしまうことがないから安心しまかせられるからだ。そんな綾ちゃんを俺は意識してひいきにした。なぜか?綾ちゃんの勉強ぶりを知ったからだ。

綾ちゃんは、確かに座持ちがうまい。しかし彼女は、お客との会話がはずむように色々な事を勉強しているのだ。例えば、政治、経済、スポーツなど、お客(男)のどんな会話にもついていけるように広く浅く勉強していることがわかるのだ。或る時綾ちゃんにその勉強振りを誉めてあげた時、彼女はこう言ったのだ。
「あたしはね、才能はないし、手に職もない、そのうえこの容姿でしょう、このお店で貰えるような高給をどこも払ってくれないしね。だからあたしいつも必死なのよ」。俺はこのセリフが気に入った。俺は貧乏生まれではないが、戦後直後の7歳の時から極貧に陥った。それ以来人知れず苦労した。それが染み付いているから不利な環境ながら必死をに努力する人間にはなんとなくひいきにしてあげたいという気持ちにかられるのだ。お店では、俺は綾ちゃんご指名のお客として通るようになり、俺がお店に入るとすぐ綾ちゃんが呼ばれて俺の席にくるようになったし、たまたまヘルプで他の客を相手にしていてもおりをみて俺の席に必ずくるようになり綾ちゃんとは店の中だけど懇意になっていった。そんなある日、二人だけの会話で話がはずんでいた時、綾ちゃんが、「健さん、あたし、健さんの手相見てあげる」、
「綾ちゃんは、手相の勉強もしているのか?」、「お客さんとの会話に役立つと思って前から勉強中なのよ」、「それじゃ見てもらおうか、しかし見る前の誘導尋問のようなものはやめてくれ、手相をいきなり見てズバッと言ってくれよな」、「いいわよ、ズバッと言ってやるわよ、手相見せて」。

綾ちゃんは、俺の手相をしげしげと見ながら言った。「健さんは、人の好き嫌いがはげしいわねぇ」。まさに、ズバリ、その通りだった。俺はあまり社交好きではない。人の好き嫌いがはげしいから社交好きでないのか、社交好きでないから人の好き嫌いがはげしいのかわからない。しかし7歳の時から極貧状態になったということが、社交性が育たなかったと俺は思っている。中卒まで横須賀の街に住んでいたが、貧乏人ばかりだった。高校は鎌倉にある県立高校に入学したが、生徒は鎌倉や藤沢の住民ばかり、いわゆる湘南地域の住民ばかり、俺は場違いの高校にはいったのだ。ほとんど誰とも親しくつきあったことがなかった。県立高校受験失敗したら就職するつもりでいたが、幸い合格した。県立高校に入学したものの、家計は苦しかった。母の苦労ぶりを知っている俺は、お金がかかる授業以外の科目、例えば、修学旅行、クラブ活動、キャンプ、その他全部欠席した。友達とつきあえば、なにかとお金はかかるからつきあわない。高校三年間、俺はまったく陰の薄い高校生だった。高校三年の時の修学旅行は一週間の北海道旅行だった。無論俺は不参加。学校に行かずにすむかと思ったら、修学旅行は勉強だ、だから一週間学校に行き、教室で一人で自習だ。もっと屈辱なことがあった。修学旅行に参加した同級生が、参加できない俺のためにお土産を買ってきて教室で先生に手渡され、皆にお礼の一言を言えと言われたことだった。俺はお礼を言ったがあんな屈辱的なことはなかった。受験校だったため、たった俺一人の就職先など先生の眼中になかった。こんな話を綾ちゃんに語り、「俺の人の好き嫌いのはげしさは、その通りで見事に当たっている。俺が特に吐き気が出るほど嫌う人間は、ゴマすり人間だ」、すると綾ちゃんは、あっさりと「ゴマすりは才能よ、健さんにはゴマすりの才能がないのよ」と言ったではないか。この綾ちゃんの言葉は、俺の頭に一生のこった。一本気な俺は、ゴマすりする奴は、いやな性格の人間ときめつけていた。だから俺はきらったのだ。それが綾ちゃんによるとそれは才能だと言うのだ。そして俺にはその才能がないのだと言うのだ。そうかゴマすりは、才能かもしれないと俺は考え出したのだ。秀吉は信長に徹底して媚びたと言われている。俺にはゴマすりの才能がないと考えた方がいいかもしれない。事実ゴマすろうと決心してもできそうもない。この綾ちゃんの「ゴマすりは才能だ」という言葉、その後のおれの人生に良い影響を与えたことは間違いない。俺はゴマすり上手ともなんの偏見もなく自然とつきあえるようになり、人とのつきあえる幅が大幅にひろがったのだ。

その時、あやちゃんは、こんなことも言ったのだ。「健さんはおしゃれね。私と違って容姿もいい。あまり人の選り好みをせず、人の集まるところ、人の集まるところへ顔を出した方がいいみたい」、どうしてだと俺が聞くと、「その方が健さんの今後の人生にとっていいみたいな気がするの。私の感ね。女の感よ」、「そうか、それじゃ、その綾ちゃんの言葉、よく覚えておくよ」。俺はこの時、初めて綾ちゃんは、一体いくつなのだろうかと、綾ちゃんの年齢に考えがおよんだ。おれはこの時35,6歳だった。「ゴマすりは才能よ。健さんにその才能がないのよ」などそう簡単に言える言葉ではない。どうみても俺と同じか、ひょっとして俺より少し、若いかもしれない。綾ちゃんには悪いが、ブスだけどその分頭がいいのかもしれないと思ったりした。

それから一ヶ月か二ヶ月後、三ヶ月はたっていなかったと思う。俺が綾ちゃんの店に顔を出したとき、綾ちゃんは、すでにお店を辞めていた。驚いた俺は、彼女と親しくしていたホステスに聞いた。
「あたしも詳しく知らないのよ。ある日突然綾ちゃんは、店にこなくなったのよ。知っていたのはママだけ、ママによるとこのお店にくるお客さんに見込まれて結婚するんだって。そのお客さん、奥さんとすでに離婚していて綾ちゃんを見込んだらしいの。このお店のお客さんと結婚するので辞めるというと、誰、誰、と詮索されたりしてうるさいでしょう。だからママだけに辞める理由を言って同僚には内緒にしていたんだって。だけどね、私、ママの言葉素直にうけと受け取れないのよ。だってお客さんで綾ちゃんに会うために繁々とこのお店に通ってくる人いた?たまに来る人は、いたわよ。それは健さんでしょ。その他にいないのよ。私は、確かに同僚たちの中では綾ちゃんとは親しく接していたわ、それも店の中だけなの。私は綾ちゃんに何度も私の家に遊びにくるよう誘ったのよ、だけど一度もこなかったわ。それだけじゃないの。綾ちゃんは、自分の家族のことや自分のプライベートのことなど絶対にしゃべらないのよ。ママには自分の弟が医学部の学生で学費を払ってあげていると話したそうよ。ママが綾ちゃんのプライベートのこと知っているのは、これだけ。彼女、健さんに自分のプライベートのこと何かしゃべった?」
「俺にもなにもしゃべらないね。俺は自分のプライベートことは綾ちゃんにしゃべったけど、そういえば綾ちゃんは、何もしゃべらなかったな」、「そうでしょ。悪く言えばね、綾ちゃんは、どこか得体の知れない子なのよ、良く言えば神秘的な子なのよ」
この夜を最後にして俺は綾ちゃんの勤めていたお店には完全に行かなくなってしまった。

後年綾ちゃんが、俺を仰天させるほど驚かすことになるとは夢想さえしなかった。俺は50歳代に入っていた。綾ちゃんと会わなくなってもう20年近くたって、綾ちゃんのことなどすっかり忘れていた。その頃俺は奇病に取りつかれていた。夜間頻尿だ。回数多いので尿量が少ないのでは思うかもしれないが、それなり尿量があるのだ。ひどい時には、夜間に10回近く尿意を感じて起きる時があった。その分夜間の睡眠時間少ないから昼間は眠たくてぼーっとしているのではと思うかもしれないが、全くそんなことはなく、いたって健康なのだ。何回もトイレに行くだけ。水分が出るから喉がかわくかと思えば渇くこともない。とにかく昼間は、健康そのものなのだ。自分ではストレスが原因かもしれないとも考えていた。私は一匹オオカミ的な生き方をしていた。こういう生き方は結構ストレスがかかるものなのだ。ストレスで夜間頻尿になるのかどうかわからないし、いずれにしてもどこかで精密検査をしてもらわなければと思っていた。

そんな頃、取引先のHさんから誘いがかかり赤坂のナイトクラブ、「レインボー」に行った。初めて行く店だった。すぐにママに紹介されたがものすごい別嬪、日本人的美人ではなくて西洋的な美人で話も上手、座持ちも上手、まさにもてるママとは彼女のことだろう。
その夜は,取引先のHさん、ママと他のホステスなどと話しこんでいる最中、私は夜中の蒲団に入っているわけでもないのに、やたら小便がしたくて座をはずした。私の排尿障害を知っているHさんは、「健さん、大丈夫かよ?」と声をかけてくれたが、私は「大丈夫だよ、ただトイレにゆきたいだけ」、事実トイレに行きたくなるだけで後は、なんでもなかったのだった。確かに回数は、異常だった。

その夜から一、二週間ぐらいたってから、東大病院の泌尿器科助教授の田中先生から電話があった。クラブ「レインボー」のママからの紹介と言っていた。さらにこのことは、先日いっしょに「レインボー」にいったHさんには内緒にしてくれとのことだった。「田中先生とレイボーのママとの関係は」と聞くとここでは話せないのでお会いした時でもといい、「私でよければ、泌尿器の方、診てあげますが」と言うので、どこかの病院で診てもらわなければと思っていたので「それではお願いします」と頼み込んだ。平日の最後の患者になるように11時ごろ受け付けてくれと言われ、日取りを決めて田中先生に診てもらうことになった。田中先生は、私の話しをよく聞いてくれ、懇切丁寧に診てくれた。いくつかの検査もした。一番いやな検査は、ペニスの先端から極細いプラスティックのチューブを差込み、両手の拳を強く握らせると同時にイーチと声を出させる、それと同時にチューブを奥にさしこみ、また両手を握らせると同時にイーチと声をださせその瞬間にチューブをペニスに奥に進ませ、それが済むとそのチューブの中に胃のレントゲンの時と同じバリュームを少しずつ流しこみ尿道のレントゲンを取る時が一番疲れて大変だったことです。その後は、バリュームは小便とともに流れますが、どうしても尿道の中に流れ込んだ空気がのこります。その空気がちょうどお尻でおならをするように流出するのです。それがお尻でなくペニスの先端からおならするように空気が出るのです。いたくもかゆくもありませんが、おならするというように意識できるのです。或時、ペニスからおならが出ると感じた時、急いでトイレに入り、体をできるだけ曲げ、指でペニスを持ち上げ、耳に近づけて、音を聞こうとしたが、自分の体が硬すぎるのか、ペニスが短すぎるのか、あるいはその両方のせいか、ペニスを耳元に近づけることができず、実際に音がでるのかどうかチェックすることができませんでした。こうしてすべての検査を終えて異常なしとわかるまでに二、三ヶ月かかったと思います。

結局、先生の診断は、「泌尿器としての病は、何もありません。なぜ激しい夜間頻尿がでるのか、正直なところ私にも、おうわかりません。排尿というのは、多分に神経的に作用されますから、あなたは、多分なにかストレス、あるいはストレスみたいなものを感じとっているのかもしれません。先生は、デパスという飲み薬を処方してくれた。これは精神安定剤でも、非常に軽いもので飲みすぎる心配がないから、頻尿の時、寝る前に一錠飲んで見てくださいと言われ飲んでみた、これが非常に良く効いた。現在でもたまに使っています。

二、三ヶ月間田中先生に診察してもらっている時に、先生と私との二人だけの会話で、先生と「レインボー」のママとの関係を聞くと、「自分の姉です」という言葉には、びっくりした。先生は先生で、「僕が大学のインターン時代から現在の助教授まで、ママから直接に診てあげてくれと頼まれたのは健さんが初めてなので、姉の彼氏か姉のそれこそ大事なお客さんだと思っていた」というのです。恐らくHさんが、ママに俺が夜間頻尿で悩んでいるから誰か医者を知らないかとか、聞いたのだろう。それにしてもママが弟の医者を俺に紹介したことをHさんに言わないでくれとは、どういうことなのだろうか、それに「レインボー」の常連客が俺を招待して初めて「レインボー」に連れてきたのに、そこのママが自分の弟の医者を初めてのお客を紹介するだろうか、などなど田中先生に思わず聞いてしまったけど、田中先生は、「僕にもわかりません、ママに直接聞いてください」などと、当然の答えが返ってきた。

しばらくぶりにHさんと一緒に「レインボー」に行った。Hさんに「レインボー」のママとは付き合いが長いの?」と聞くと、「二年ちょっとぐらい。僕はお客さんの紹介でここに来て、ママが気にいり、以来「レインボー」一筋ですという話しであった。ママは二人の顔を見ると、「あらぁ!健さん、お久しぶり、お元気そう」と顔面から笑みがこぼれそうな顔をして二人を迎えいれた。客席でしばらくおしゃべりした後、俺はママをダンスフロアにさそって二人きりになった。「ママ、検査の結果、おかげさまでなんでもなかったよ。ありがとう。」「私も弟からなんでもなかったと聞いてうれしかったわ。なんでもなくて本当によったわ。」
「それにしても、ママにあんなすばらしいお医者さんの弟がいるなんて、うらやましいかぎりだ、それにしてもちょっと聞きたいのだけど、どうして初めて接した俺のようなお客を弟さんに紹介したの。田中先生は、自分はママから紹介された初めてのお客だと言っていたよ。 
「健さん、驚いちゃダメヨ、大声出さないで、とにかく驚かないでね。昔、あたし、健さんに弟が大学の医学部にいると言ったでしょ。忘れちゃったの。」俺はぎょっとしてママの顔をまじまじと見つめた。「銀座コリドー街のクラブよ」とママは言った。「それじゃクラブ「マユ」のホステスだったの?」「そうよ」。俺は大声をあげそうになったし、ママは自分の指で私の唇を押さえてシーと言った。俺はさらにまじまじとママの顔を見、首から下に目をやった。俺は、瞬間に悟ったのだ。綾ちゃんは、整形手術し、豊胸手術を受けてママになったのだ。「私は、いつか、どこかで必ず健さんと出会えると確信していたわ」とママは言っていた。その夜は、レインボーの帰りから自分の家にたどりつくまでママのことばかり考えていた。俺は想像した。綾ちゃんは、計画どおりに、突然夜の世界から姿を消し、整形手術と豊胸手術を受け、夜の世界に復帰したのだ。ホステスどうしの付き合いがなかったのもその手術のためなのだ。もともと器量よしでなくても、座持ちのうまさは先天的、それに男客の話しあいができるように政治、経済、スポーツなどを勉強、手相まで勉強していたのだ。その彼女が突如として美人なれば、夜の町の経営者にとって最高級の人材だ。現に彼女は、赤坂の高級ナイトクラブのママになっているのだ。雇われママではなく、ひょっとしてオーナーママかもしれないのだ。それに金持ちの男の誘いもあるだろう。それを適当に利用しているのも確かだろう。銀座コリドー街のクラブのホステスの綾ちゃんは、親近感だけだったが、いまでは成功して高級ナイトクラブのママ、それに弟は東大医学部の医者、俺には遠いい存在だ。しかしもともと好き嫌いで綾ちゃんに近づいたわけではないので心理的に影響はなかった。しかしママは、俺ともっと親しく交際したい意向だったのだ。

その後もHさんに連れられて何回かレインボーに行った。Hさんが言うには、ママは、健さんに絶対気があるねと言うのだ。私は、健さんとばかりレインボーにくるわけではない。他のお客さんともくる。しかし健さんと一緒に来ると、ママは私たち二人の席を離れて、他のお客さんの席に移ったことがない。ママは普通こんなことはしない。各客席の顔見知りの客のところに挨拶にいって、しばらくその客とおしゃべりをし、各テーブルをまわるのだ。しかし俺と一緒の時は、ずっと二人の傍を離れないというのだ。俺もそれは意識した。Hさんに内緒にしていたけど、ママは私に向かってこうも言ったのだ。
「健さん、今度は一人で来てみない。」「俺は、Hさんのようなスポンサーがいないと独りでこういう高級なナイトクラブにわ来れないよ。」するとママは、小声で「私はオーナーママだから、一人ぐらいの勘定ならどうにでもなるのよ、そんなこと気になさらず、来てくださいな」だからと言って俺は、ママと私的に親しい仲になろうとは考えもしなかった。

それから一、二年たっていたかどうか、ある日、長い海外出張から帰って、緊急伝言ノートを見ると、帰国したらすぐに東大医学部、田中和男先生に至急電話するようにとの伝言
が書いてあった。早速田中先生に電話すると、「健さんの海外からの帰国、一日千秋の思いで待っていました。申し訳ありませんが、明日でも夕食一緒にしていただけませんか。至急相談したいことがあるのです。僕からのさそいなので時間と場所を決めていただけませんか。どこでも伺います。お金はぜんぶ僕持ちでお願いします。急ぎの話ってなんですかと聞くと、会ったうえで詳細に話しますということだった。それでは明日夕方6時、地下鉄赤坂見附のベルビーの6階の鉄板屋の個室で会うことにした。多分「レインボー」のママのことだろうと思い、「レインボー」の常連Hさんに電話した。「いつ帰国したの?」、「昨日帰ったばかりだ」、「レインボー」のママが代わったの知っている?」と聞くから知らないと言うと「なにか病気をしているみたいだ」とそれ以上のことは、Hさんも知らないらしいことがわかった。

翌日の夕方、先生に会うと先生は、やせたのがはっきりわかった。「先生、お久しぶりです。今日はなんの話しでしょうか。」先生は、「姉が病気になった。もうそんなに長くはないでしょう。」「病気はなんですか」、「エイズです」。エイズと言ってから、二人は瞬間的にだまりこんでしまった。エイズは、現在では新薬も開発され、即死の病ではなくなった。しかし当時は死の病だったのだ。俺は、顔の整形手術をし、豊胸手術もしてあれば、数人の彼氏がついて当然だと思った。そこではっきり「誰が感染者だかわからないのでは?」と聞いた。「その通りです。手術してからの姉は、ある面、男を軽蔑していましたからね。手術していない時には、全く相手にされなかったものが、急になにやかやと近づいてきましたからね。男は皆色きちがいかとバカにしていました。沢山のお金をかせごうと、無理してこうなった姉が可哀そうで、可哀そうでならないのです。このまま死んだら、何ひとつよい思い出もなく死んでいくのです。ぜひ健さんに姉あてに手紙を書いてもらいたいのです。そのお礼は十分いたしますのでぜひ書いてもらいたいのです。どんな手紙を書いてもらいたいか説明するのに、参考になると思うので姉と僕の半生をかいつまんでお話ししましょうと言って、二人の半生を語りだした。

和男(田中先生の名前)が物心ついた時、すでに北海道は釧路市の福祉施設、まりも学園で暮らしていた。姉の話しだと彼女が四歳で和男が一歳の時母親と一緒にこの施設に来た。その時母親は、お父さんが大阪にいるから迎えに大阪に行き、お父さんを連れてここにくくるからそれまで数日待っていてと言って二人をここに置いていった。何日、何ヶ月、何年も姉は待った。が母親は迎かえにこなかった。姉はなまじ母親の顔をうろ覚えで覚えているし、なにをしにこの施設にきたかを知っているため母親を恨んだ。弟は小さすぎて母親の顔さえおぼえていないし、全くなにも知らずにこの施設で自分の庇護者の姉といっしょに暮らしていたので、姉には思いつめているところがあったのに対し、和男は、多少のんびりしたところがあった。姉弟にとって幸いだったことは、里親が見つかったことです。二人は小杉の両親と呼んでいた。小杉夫妻は、釧路市にあるスーパーの一か所を借りて魚屋さんを営んでいた。小杉夫妻は生活があまり裕福ではなかったので、すぐに二人を自宅にひきとらなかった。施設に預けられている園児は、高卒後18歳になると施設を出て自活しなければならなくなります。その時に姉弟をあずかり自宅に住ませて姉を自宅の店を手伝わせ、弟は高校に行かせ、卒後は一流大学に行かせるつもりだった。二人を引き取ったのも二人への愛情だけではなかったと思う。姉は客商売向きだから自分の店を手伝わせる、弟は先天的に勉強好きで非常に優秀で天才などとよばれていた。中学、高校でも一番だった。超一流大学に行かせて将来をたくすことも可能だった。

計画どおり姉弟は、姉が高校を卒業すると二人は、小杉家にやってきて一緒に暮らした。姉は魚屋というお店の手伝いには最高だった。両親が喜んだ。弟の学業成績もずばぬけていた。姉は内緒で弟にこう言った。「和男は、東大の医学部に入って医者になりなさい。医者になれば金持ちんなれるわ。お前が東京に行く時は、私も東京へ出る。私は私で絶対に金持ちになるから。いいね、二人は金持ちの田中家をつくるのよ。」二人には小杉家の魚屋など継ぐつもりなど毛頭なかった。和男が東大医学部に合格し、姉も弟と一緒に東京に行くと言いだしたことで、小杉家の両親と姉との間でけんかになった。両親は東京での姉の分の生活費などだせないというし、姉はもともと自分の費用など両親にお願いするつもりなどなかった。姉は和男が三年間勉強している間魚屋の仕事を一生懸命仕事し、魚屋が休みの日には、パートなどでどこかの仕事していた。要するに姉は三年間、仕事を休んだことがない。きれいな洋服もかったことがない。遊んだことなど一日もないのだ。すべて貯金していたのだ。この働きぶりを知っている両親は、姉を説得してもダメだと思い。好きなようにしろ。しかしお金は姉のために一銭も払わなかった。こうして姉弟はそろって和男の入学時に東京へやってきたのだった。

東京にきた頃、和男は姉の言葉を今でも覚えている。「お父さんからもらうお金では不自由でアルバイトをしなければならないでしょう。しかしアルバイトする時には、私に言いなさい。アルバイトのため勉強ができないのは困る。私がお金の工面をします。いくら東大医学部を出たって成績がよくないのはダメです。私たち二人には、頼れる大きな存在はないのよ。全て自分の力だけなの。和男は成績だけは優秀にしておかなければいけないの。アルバイトする時間があったら勉強しなさい。お金は私がかせぐから。こうして田中先生は、お金の面では父と姉にまかせきりにして勉強にはげみにはげんだ。

仲のよい姉弟も、ある事件をきっかけとして別々に住むようになった。またその頃、二人、特に和男のほうに経済的に余裕ができたせいもあった。和男はインターンをしていた。いくらインターンが安いと言っても、自分が働いてお金を得ているのです。そのインターンもそろそろ終りになって一人前の医者になるころだった。そのとき和男は、婚約をした。東京都の医師会の会長の娘だった。この婚約は、釧路の両親を喜ばせたし、姉も非常に喜んだ。姉は、「いよいよ、子供も生まれて、田中家の再興ね」、「いゃ、姉さんだって子供を生めば、再興でしょう」、「お金持ちの男には、私を口説く人なんていないわよ、貧乏人の男に抱かれて子供を生むのは絶対いやだわ。私は、絶対お金持ちになるの、私みたいに捨てられた可哀そうな女の子の里親になるのよ。親子二代、別々に暮らしても同じような環境で育ったから一緒に暮らしたら、まさに実の親子関係以上になるわよ。」

ところがこの婚約が破棄されてしまった。婚約者の父親、東京医師会の会長が、姉弟の身元を調べさせたのだ。最初のうち許嫁は、和男と結婚すると頑張ったが結局両親にさんざん説得されたゆえ、許嫁はあきらめた。その辺の事情については、和男の彼女は和夫に手紙にも書いたし、涙をぼろぼろ出しながら口頭でもはっきり断った。和男さんを受け入れることができない自分の心のせまさを恥じていた。和男はしょうがないと思った。ところが姉はこの結婚破棄に激怒した。それも異常な激怒だった。姉は、許嫁の説明を聞いておとなしく結婚中止を受け入れる和男の気持ちが理解できなかった。結婚破棄の原因を作りだしたのは、お父さんなのだから、お父さんをしぼりあげて、ごっそり慰謝料をまきあげなきゃと言うのだ。和男ができなければやくざを頼んであげるとまでいうのだ。「姉さん、俺は医者としてこれからやっていくには、彼女のお父さんは私の先輩だし、東京医師会の会長だ。今後面倒みてもらうこともある」とここまで言うと、「あなたは、苦労してないからわからないのよ。自分の娘の夫になりそこなった医者など、どうして面倒みるというの、ばかなこと言わないでよ。」和男は、「あなたは、苦労してないからわからないのよ」という言葉に非常にむかついた。俺だって苦労してきたのだ。姉と同じだ。ただ姉弟の指揮をとっていたのは、姉だ。俺はいつも姉のいうことに従ってきた。もういい。今度は俺一人で生きるのだなど考え、姉と大きく喧嘩した。こんな大ゲンカは初めてであった。こうして二人は、別のアパートを借り別々にすむようになった。勿論姉弟だから仲直りし、互いの部屋に行き来することはあったが、二度といっしょには住むことはなかった。俺が銀座コリドー街のクラブで綾ちゃんに会っていたのは、ちょうどその頃だった。ここまで田中先生は話終えると、俺が彼女に手紙を書く件に触れた。

姉の死はもうまじかだと思うが、姉を見ていると可哀想で、可哀想で、もう見ていられません。私が医者になれたのも姉のおかげ、それに対して私は姉に対して何もしてやれなかった。この間など姉は、私の首に抱き付き、「和男、私このまま死ぬのいや、本当に死ぬのいやなの、和男は医者でしょう。私の体を治してよ、おねがいだから治してよ」と言って私にむしゃぶりついて泣くのです。もうたまらないです。なぜ姉を不幸のどん底におとしいれなければいけないのか。本当に腹がたってきます。小杉の母は、もう歳で東京にくることはできません。姉は私だけに看取られ、誰からも見舞いもこず、手紙一通くることもなく死んでいくのです。これじゃあまりにも可哀想。貧乏人がお金を作るには、孤独な生活に耐えなければだめなのはよくわかっています。ましてや姉は顔の整形、豊胸手術を受けた。付き合いはごく限られ、死の病になっても誰も見舞いにこない。無理もないことは十分わかっている。それでも可哀想で、可哀想でみていられない。何でもいい、なにかいい思いを、なにかほのぼのとしたものを感じさせて死なせたい。そこで思いついたのが健さんに手紙を書いてもらって姉に見せようと思っているのです。

入院したころは。姉とは、またずいぶん話すことができました。別々に住んでいた頃は、姉弟の会話も限られていたが、姉が不治の病に倒れてから病室での姉弟の会話が弾んだのです。その頃、この間泌尿器の診察を診てあげた健さん、あに人は誰かと聞いたのです。コリドー街のクラブで知り合った人で私の好きな人と言うではないですか。好きな人だけじゃいろいろな意味があるからわからないと言ったのです。彼女の説明は、こうだった。
「私はブスだから、私をひいきにしてくれるお客は、いません。ましてや夕食にさそって、そのかえり一緒に店に入ってくれる、同伴出勤もない。ところが健さんは、同伴出勤はしてくれないが、店にくると、『綾チャンを呼んで』と私を必ず指名してくれるのよ、私はヘルプ専門よ、それが健さんみたいな男が指名してくれるのよ。彼は背が高いし、ハンサムだし、ものすごくおしゃれでしょう。誰が見ても女性のもてるとわかるタイプの男でしょう。それにね、健さんは、クラブ「まゆ」の(招き猫)と呼ばれていたのよ。健さんがお店にくる時間けっこう早いのね、だからお客が少なくてすいているのよ、しかし健さんが来ていると必ず忙しくなるのよ。不思議ねぇ。その健さん、私と同伴出勤してくれたことないけど、来店すれば、私を指名してくれるのよ。私の指名理由が、「綾チャンは、ホステスの見本、芸者にも芸者はこうあるべきだという見本があるように、ホステスにもこうあるべきだという見本がある。それが綾ちゃんだというのよ。その点については、ママもそう言ってくれたわ。その時私は、指名されることはないけど、このお店で役立っているなと誇りをもてたっけ、健さんに言われた時も、うれしかったわ。」

ここまで話すと田中先生は、健さんを診察してくれと私に初めて紹介してくれたのが姉です。健さんに手紙を書いてもらうほかないと私は考えたのです。健さん、お願いだから手紙をかいてください。姉の気休めになればいいのです。極端に言えば、嘘を書いてもらってもいいのです。姉は、死の床に伏しているのです。長い手紙はよめません。短い、短文の手紙でいいのです。なんとかお願いします。田中先生は、涙を流しながら頼み込むではないですか。綾ちゃんの死を直前にして無下にことわることもできず。それでは書いてみましょう。その前に電話で私の文章をよみあげます。それでよければすぐに書いて書留速達でおくります。一瞬綾ちゃんを愛していたなどと書こうかと思ったが、死ぬ間際の人に嘘を書くのも気が引ける、それより友情の手紙の方が良いのではと思い、本当の事を書こうと、急いで書いた手紙は、次のようなものだった。

「田中先生から綾ちゃんが重病に伏しているからと聞いて残念でたまりません。どうしても綾ちゃんにお礼がいいたくてこの手紙を書きました。クラブ「まゆ」の時代、綾ちゃんは、俺の手相を見てくれた。綾ちゃんは、「健さんは人の好き嫌いがはげしいわね。」と言った。まさにそうなのだ。俺は、人の好き嫌いがはげしい。俺のきらいな人間は、媚びる人間だ。その時綾ちゃんは、「媚びる」のは才能です。健さんには、その才能がないのよと言った。その言葉ずっと印象にのこってずっと忘れないできているのです。もう一つ忘れない綾ちゃんの言葉があります。手相を見ての言葉ではありません。私の人間性を見てのことでしょう。綾ちゃんは、「女の感」ですと言った。「人のえり好みをせず健さんは、人が集まるところ、人が集まるところに顔を出した方がいい。」と言ったのです。
綾ちゃんは、この二つのことを俺に教えてくれたこと覚えていないでしょう。しかし俺はずっと覚えていてできるだけ実行してきたのです。そのためにずいぶん多くの人とつきあえるようになって、自分の宝になっています。綾ちゃん、ありがとう、本当にありがとう。
綾ちゃんは、もうすぐ天国にゆかれるでしょう。俺も時がくればそうなります。もし二人が地上で出会うようなことがあったら、今度は二人でデイトしよう。いまから約束しておきます。綾ちゃん、さようなら。また会う日まで。」

田中先生に電話してこの手紙をよみあげた。これでいいと言って手紙をとりに私の会社の近くまでやってきた。二、三日後、先生から電話があった時、明るい声で「健さん、手紙大成功だったよ。姉の意識がもうろうとして手紙など読めなくなるのではとそればかり心配していたけど、姉は手紙読んでそれを理解していた。本当によかった。返事を書こうとして筆さえ手ににぎったのだ。満足に字はかけなかったけど。実際にその手紙をみてもらうのが一番だけど、届にゆく時間がないので申し訳ないので速達で送るということだった。

送られた手紙を見ると、確かに「けんさん ありがとう ありがとう あたし デ」と読める字が書かれている。確かに俺の手紙を読んだことは間違いない。しかし、もう握力がなくなっているから字が踊っているのだ。しかし最後のカタカナの「デ」は、簡単なので「デ」のように読めるぐらいです。私が「デイトしよう」と書いたので、それに応えようとしたのでしょう。しかし力つきて何もかけなかったのだと思うと、俺も悲しかった。それに涙を流しながら書いたのでしょう。水分で濡れた紙がかわいたような状態の部分が多かった。それから数日後だったかに彼女の死の連絡があり、葬式は東京ではしないということだった。それから三か月ぐらい経ったころ、私は赤坂ベルビーの鉄板焼きで田中先生と再会した。先生は痩せてしまい、ほほがこけていた。たった一人の肉親を失ったのだから無理もない。再会するなり先生は、「姉は夕方亡くなったのだが午前中姉は一時的に錯乱状態になったらしい」と言うのだ。死を待つばかりになっている綾ちゃんが口をもぐもぐ動かし、自分で起き上がろうとするのだ。あわてた先生がそばによって、綾ちゃんのくちびるのそばに耳をおくと、「健さんとこに行くの」、「健さんとこに行くの」と言って起き上がろうとするのだ。先生は、「健さんもうじきここにくるよ」と言ったとたん、理解したのか、理解していなかったのかわからないが、綾ちゃんの口もとはぴたっと止まり、体もピクとも動かず、夕方に死んでいったそうだ。姉の死に顔がすばらしかった。姉が生前こんな穏やかな顔を見せたことがない。整形手術した顔でもその穏やかさがわかるのだ。いつもがんばらなくちゃ、がんばらなくちゃ、と気負った顔をしていたのだろう。こんなにも穏やかな死に顔を見せたのも、健さんが書いてくれた手紙のお蔭ですと先生は涙でぐちゃぐちゃになった顔で私の手をにぎりしめるのだ。俺ももらい泣きのように涙をながし、「いえ、いえ、そんなことはありません」と言うのがせいいっぱいだった。綾ちゃんの死後、彼女の私的なこと、利殖や彼氏の関係などでまだ整理に時間がかかるらしい。それを整理したら、先生は東大病院を辞めて釧路の病院で仕事をするつもりらしい。道東では、釧路が医療センターで病院が多いのだそうだ。そしていずれは過疎地で小さな病院を経営したいとも言っていた。現在母が釧路の老人ホームに入居しているので、これからはできるだけ顔をみせたいと言うのだ。俺が先生に忠告したことは、女に興味がなく、きらいでもなかったら必ず結婚するよううながした。彼には結婚が最大の妙薬だからだ。
最後に、私に手紙を書かせるなどいろいろお世話になったと言って、丁寧に包装した小さな箱を差し出した。開けてみてくれというから開けたら、エメラルドがついた高価そうなネクタイピンだった。これは姉がくれたものだと思ってくれというのだ。姉だったらなにを選ぶか、デパートの店員たちとも相談して決めたそうだ。俺はありがたくいただいた。この日以来、先生とは年賀状だけの付き合いになった。だいぶ前、年賀状で離婚歴のある女性と結婚したと夫婦と娘の三人姿が映っていた。弟の和男は、幸せに暮らしているので綾ちゃんも安心していることだろう。エメラルドのついた洒落たネクタイピン、おしゃれな俺は、つけたいのだが、そのネクタイピンを見るとどうも悲しくなるのだ。そのせいでしょう、まだ一度も身につけたことがないままになっている。


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