Archive for 5月, 2015

今年の中学校歴史教科書の最大の焦点



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公立中学校の教科書にどの出版社の教科書が使われるのか、四年ごとにその教科書の採択戦が行われます。今年はその教科書の採択戦が行われる年です。すでに文科省の検定作業が行われ、どの出版社の歴史教科書が検定に合格したのかわかっております。これから今年の8月ぐらいまでにどの中学校がどの歴史教科書を採用するかが決定していきます。歴史教科書には、出版社によって色々問題点がありますが、今年の最大の焦点になっている歴史教科書は、私が所属する「新しい歴史教科書をつくる会」、通称「つくる会」が自由社から出版した歴史教科書です。「つくる会」の何が焦点になっているのかと言えば、通称南京大虐殺事件、「南京事件」を一切記載せずの歴史教科書が文科省の検定合格を取得したことです。
文科省によれば、平成以降、「南京事件」を取り上げなかった歴史教科書は一点もないと主張していますが。その通りです。「つくる会」も「南京事件」を取り上げていた。しかし教科書検定時期には、「つくる会」はいつも文科省と衝突していたのです。なぜか「つくる会」が教科書で「南京事件」を否定するからです。文科省は南京事件を受け入れる教科書を出さないと検定に合格させないからです。この文科省の決断の原因は、平成元年に規定された「近隣諸国条項」だと思っています。その証拠に「近隣諸国条項」が噂に上がる昭和時代末までどこの歴史教科書も南京事件を記載していなかったのです。国民に嘘を教えないと歴史教科書が検定合格しない、「つくる会」はいつも苦渋の決断をせまられた。ついに4年前の採択時、また南京事件を肯定しなければ検定合格しないのならとシナ人の日本人残虐事件を教科書に載せたのです。「通州事件」です。
現地の日本人385名のうち、幼児12名を含む223名が虐殺された。多数の女性は強姦されたあと陰部を銃剣でつかれ、えぐりとられた。首に縄をかけられ、引きまわしにされたうえ、目玉をえぐられた者もいた。牛のように鼻に針金を通されたまま殺された子供や、生きたまま片腕を切断された老婆もいた。これらはすべて中国伝統の虐殺の作法であると黄文雄氏は書いている(「日中戦争しられざる真実」光文社)。当時の歴史を知らない人たちは、日本軍人が勝手にシナ本土に駐留しているからだと主張するでしょう。当時は日本軍人だけでなく欧米諸国の軍人もそれぞれの国々がシナ政府と条約を結びシナに駐留していたのです。日米安保条約で日本に駐留しているアメリカ兵家族を日本人が虐殺したらどういうことになるか想像できますか。
四年前の検定時、「つくる会」は、「南京事件」を他社の教科書同様に肯定した、しかし「通州事件」も載せた教科書を検定合格させたのだ。日本の歴史教科書史上、「通州事件」を載せた初めての教科書でした。
ありもしない「南京事件」を歴史教科書に載せ、「通州事件」は載せないのだ。「つくる会」以外の今年の歴史教科書は全部これで統一されています。
こんな事が平然と行われているのだ。読者の皆さん、私の憤怒は行き過ぎですか。日本人が日本人であることを忘れてどうするのですか。

今年の歴史教科書の文科省の検定を迎えて、「つくる会」執行部は悩んだと思います。私は一会員ですから、彼らの悩みを想像してみます。また今年も検定時に文科省と「南京事件」で衝突する、国民にまた嘘を教えて検定合格させるには忍びない。窮余の一策として「南京事件」には一切触れず、しかし「通州事件」は一度検定合格しているので、今年も載せる。祈る思いでこの一策を提案したのではないか想像しています。しかしこの一策が成功し、検定に合格したのだ。4月7日の産経新聞では、今回、検定を受けた8社の歴史教科書のうち、自由社(つくる会)だけが「南京事件」を記述しなかったことを報道した。記事のなかで、南京事件を書かなかった理由について、「南京事件は中国共産党によるプロパガンダで、事件自体が存在しないため」という自由社編集担当者の発言を伝えています。それでは自由社(つくる会)以外の7社は、「南京事件」を今年度どのように記載しているのか見てみましょう。

「東京書籍」
本文「日本軍は、1937年末に首都の南京を占領し、その過程で、女性や子供など一般の人々や捕虜を含む多数の中国人を殺害しました(南京事件)。」さらに側注「この事件は、「南京大虐殺」とも呼ばれます。被害者の数については、さまざまな調査や研究が行われていますが、いまだに確定していません。」(p220)
「育鵬社」
本文「日本軍は12月に首都南京を占領しましたが」、さらに側注「このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。この事件の犠牲者数などの実態については、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。」(p229)
「日本文教出版」
本文「12月に占領した首都南京では、捕虜のほか、女性や子供を含む多数の住民を殺害しました(南京事件)。」、さらに側注「当時、この事件は日本国民には知らされませんでした。戦後、極東国際軍事裁判に当時の調査資料が提出され、その後の研究で、部隊や将兵に日記にもさまざまな殺害の事例が記されていることがわかりました。ただし、全体像をどうとらえればよいかなど、さらに研究が必要な部分もあります。(p228)
「帝国書院」
本文「日本軍は中国南部からも侵攻し、上海や当時首都であった南京を占領しました。南京では、兵士だけでなく多くの民間人が虐殺されました。(南京事件)」、さらに側注「この事件は、諸外国から非難されましたが、戦争は終わるまで、日本国民に知らされませんでした。死者数を含めた全体像については、調査や研究が続いています。」(p220)
「教育出版」
本文「12月に占領した首都の南京では、捕虜や住民を巻き込んで多くの死傷者を出しました。」、さらに側注「このときのできごと(南京事件)は、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で明らかにされました。犠牲者の数などについてはさまざまな説があります。」(p219)
「清水書院」
本文「南京占領の際には、兵士のほか、捕虜は武器を捨てた兵士、老人・女性・子供を含む非戦闘員も無差別に虐殺され」、さらに側注「南京大虐殺と呼ばれる事件。諸外国はこの南京大虐殺を強く非難したが、軍の統制を受けた報道によって当時の日本人はこの事実を知らなかった。」(p232~233)
「学び舎」
本文「日本軍は12月、南京を占領しました。このとき、国際法に反して大量の捕虜を殺害し、老人・女性・子供を含む多数の市民を暴行・殺害しました(南京事件)。日本では、南京占領を祝う行事が盛大に行われました。」、ほか補足資料として、「南京市に住んでいた夏淑琴(当時8歳の話)を紹介。(p235)
「自由社」
(南京事件)記載一切なし。逆に日本人が虐殺された通州事件が記術されています。

今年初めて自由社が南京事件を一切記載せずして検定合格したので、いずれ他の教科書もそれに倣っていくでしょう。9年前全歴史教科書が従軍慰安婦を記載し、検定合格をした。こんな酷い自虐史観教科書はないということで「新しい歴史教科書をつくる会」が設立された。そのお蔭で歴史教科書から従軍慰安婦が年数をかけて教科書から消えていったのです。今年新参入の「学び舎」から従軍慰安婦が復活したが、しかしいままで同じような文章では記載できなかったのです。いずれ他の教科書も自由社にならって南京事件を記載しなくなっていくでしょう。もう一つ強力な理由もあります。平成20年、胡錦濤国家主席が来日した時、「南京の真実を検証する会」(加瀬英明会長、藤岡信勝事務局長、冨澤繁信・茂木弘道監事)は南京事件についての公開質問状を提出しているのです。この質問状は日・中・英三ヶ国語で記者発表され、「史実を世界に発信する会」の英文サイトに掲載されて世界に発信されている。http://www.sdh-factcom/CL0-3/17.S1.pdf 内容は以下の通りです。

「このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の友好を願う者として心より歓迎申し上げます。
さて、われわれは1937年12月に行われた日中南京戦に伴って起こったとされる所謂南京事件を検証すべく、研究して参りましたものです。貴国のこの事件に対する見解とその取扱いにつき、深刻な憂慮を感じております。昨年南京虐殺記念館が大規模に拡張改装されましたが、一方で友好を唱えながらこのような非友好的なことを平然と行う貴国に対して強い不信の念を感じざるを得ません。そもそも南京で大虐殺があったという論拠は最近の研究によって根本的に否定されつつあります。以下の重要な五つのポイントについて閣下のご見解を伺いたく、謹んでご質問申し上げます。
1.故毛沢東党主席は生涯ただの一度も「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義され、そして『持久戦論』としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」と言う批判のみです。30万市民虐殺などと言ういわば.世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?

2.南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によりますと、南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公使館職員は平均35名と記録されています。しかしこの300回の記者会見において、ただの一度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていないという事実について閣下はどのようにお考えになられますか。もし本当に大虐殺が行われたとしたら、極めて不自然で不可解なことではないでしょうか。
3.南京安全区に集中した南京市民の面倒をみた国際委員会の活動記録が『Documents of
the Nanking Safety Zone』として、国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の英国系出版社から刊行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前20万人、占領1か月後の1月には25万人と記録されています。この記録からすると30万虐殺など到底あり得ないとしか考えられませんか、閣下はいかがお考えでしょうか?
4.さらに『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人は合わせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害と注記されています。この記録と30万虐殺という貴国の主張とは、到底両立し得ないと考えますが、閣下はいかが思われますか?
5.南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の虐殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。しかし、その後の科学的な研究(『南京事件の「証拠写真」を検証する』(東中野他・草思社)など)によって、ただの1点も南京大虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかとなっております。もし、虐殺を証明する写真が存在しているのでしたら、是非ご提示いただきたいと思います。
以上述べました五つの点は南京で大虐殺があったなどということを根本的に否定しているものとわれわれは考えざるを得ません。上記五つの点につきまして閣下のご見解を承ることができれば幸いです。この問題は多くの日中国民の関心事と考えますので、公開質問状として提出させていただきます。子々孫々まで日中友好を願うものとして、閣下のご高配を、衷心から期待しております。」          平成20年5月20日

未だにシナ政府からの回答はありません。この民間の質問状にシナ政府が答える義務はありませんが、もしシナ政府が解答できるなら、彼らの主張の正さを強調するために解答してくるでしょう。ところが未だに解答なしということは、南京事件はシナのでっち上げなのだ。
シナ人は平気で歴史を捏造するからこういうボロが出てくるのです。尖閣諸島も同じです日本の南京事件肯定派も歴史教科書製作者もこの五つの質問には答えられないのです。
平成時代の歴史教科書に登場することになった「従軍慰安婦事件」と「南京事件」は、「なかった事」を「あった事」にして嘘を書いた自虐史観であり、昭和時代から続く自虐史観は、歴史史実を曲解、歪曲、誤解、に基づくものです。後者の記事は、なかなか消えたり、変わることはないが、前者の「なかった事」を「あった事」にした「うそ」の記事は、遅かれ、早かれいずれ消えることになる。その意味で今年、「つくる会」が先陣を切って「南京事件」を一切書かずに検定合格したことは賞賛に値すると思っています。

市販本『新しい歴史教科書』、5月中旬発行予定!
ご注文・お問い合わせは「自由社」03-5981-9170まで。

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両手両足を失った中村久子



三歳で突発性脱疽(だっそ)
明治30年、中村久子は岐阜県高山市の貧しい畳屋の第一子として誕生した。結婚して11年目にしてようやく恵まれた娘は、両親にとって目に入れても痛くないかわいい子。ところが、もうじき三歳になる年の秋、足の痛みを訴えて泣く久子を背負って病院に駆けつけた両親は、医師から衝撃的な病名を告げられた。体の一部が壊死(えし)して脱落するという突発性脱疽(だっそ)。「両足とも切断しなければならず、命の保証は出来ない。」
突然襲い掛かった災難に両親はうろたえた。そうこうしているうちに病状は悪化し、きらずに治せないかとう両親に哀願もむなしく、病は手にまで感染した。父栄太郎は看病のため仕事もできず、わずかな貯えは医者代に消え、一家は借金を抱え込んだ。
父の切実な願いが天に通じることなく、ある日、久子の激しい泣き声に台所から駆け付けた母親のあやは、そばに転がる白い物をみつけた。それは包帯に覆われたままもげ落ちた、わが子の左手だった。結局同じ月のうちに右手と両足を切断、久子は三歳にして両腕のひじから先と、両足の膝から下を失ったのだ。

父が亡くなり一家の運命は暗転する
昼夜かまわず泣く子をおぶり、雨の日も雪の日も街中を歩いてあやす両親と祖母。特に栄太郎は不幸な娘を不憫(ふびん)がり、弟の栄三が誕生してからも、久子を側においてかわいがった。久子の噂を聞きつけた見世物小屋の興行師が「その子を売ってくれないか」と話を持ち込むと、父は怒り、たとえ乞食になっても娘を守り抜くと誓うのだった。
こうして家族の愛情に包まれて、短いと思われた久子の命は奇跡的にとりとめられた。ところが、一家の大黒柱であり久子の守り神でもあった栄太郎の突然死が、家族の運命を大きく変えることになった。
手足のない七歳の娘と、二歳になったばかりの幼児、そして山のような借金を残された母。栄三は伯父の家に引き取られ、久子の面倒を伯母に託し、あやは働きにでるようになった。
久子は祖母から百人一首の歌や片仮名をならい、大好きな人形の着物をぬってもらった。戸外で遊べない彼女にとって唯一の友達は人形。頬(ほほ)よせて「あんたはお手てもあんよもあっていいのね。そのお手て、あたしに貸してちょうだい」と語りかける切ない日々。それでも春が来れば学校に行けるという希望が少女の胸を躍らせた。しかし、障害者への差別が強い時代のこと、それははかない夢にすぎなかった。

母の再婚とつらい日々
あやが子連れの男と再婚したのは久子が八つの時、義父との生活は、生きるために仕方ないとはいえ、母娘(おやこ)にとってつらいものとなった。それまで娘に甘かったあやは、夫への気兼ねから厳しくなり、不具な子を恥じる義父は久子を二階の部屋に隠すように置いた。来客で忙しい日など、丸一日忘れ去られることもあり、空腹や便を我慢して待たなければならなかった。

口を使って縫い物をする
あやは、娘の将来を思って何でも自分でやるようにさせた。癇癪を起こし泣きわめいても手を貸さない。酷とも言える母の厳しさを恨むこともあった。しかし、繰り返し、繰り返し練習するうちに、口でハサミを使い、マッチを擦ることを覚えました。大好きな人形の着物作りにも挑み、「手無し、足なしに何ができるもんか」と罵(ののし)られても、最後まであきらめなかった。「きっと作ってあげるで、待っておいでよ」人形にやさしく語り掛け、幾日もかけて一枚の着物を縫い上げた。それは口で縫ったためつばでベトベトにぬれていたが、久子は至福の一時を味わった。自分の力で物を作れるのだ!
ところが、そんな浮き立つ思いはすぐに打ち消されました。友達に人形の着物を贈ったところ、その母親が「こんな汚いもの」と言って小川に捨ててしまったことを知るのだ。
この時、久子は初めて自分は普通の子と違う、手足のない子であることをはっきり自覚した。「ぬれない着物を縫おう」悔しさ、悲しさをばねに悲壮なまでの努力を重ねたのだ。それが実現したのが十三年後のこと。後年、久子はこの時のことを振り返り、「この侮辱こそが宝だった」と感謝さえするのです。
また食事も自分で取る決意をした。箸(はし)を持つ指がないので器に口を直接つけて食べていると、「犬だ、猫だ」と店の小僧たちに笑われた。「自分は犬や猫ではない、人間だ。きっと箸(はし)を持ってご飯を食べて見せる。」久子の反抗心に火がついて、あれこれ工夫を凝らすうちに、包帯の箸を挟むことを思いつき、一人で食事ができるようになった。自分の力で食べるご飯のおいしさ・・・それは久子にとって大きな発見であった。

誇りを捨て興行の道へ
近所の男の子たち「手なしぃ、足なしぃ」と馬鹿にされて泣いていると、祖母は孫に諭(さと)した。「仏様がご覧になっているから、いじめられても他人様を口汚くののしってはいけませんよ」と。
久子はこの祖母から読書や習字の手ほどきを受け、学校に行かないながら知識を身に着けたのだ。また、祖母は来客への礼儀から日常生活のこまごまとした振舞いまで厳しく教えたのだ。一方義父は久子を「穀(ごく)つぶし」と呼び、彼女を巡る夫婦間の言い争いはたえなかった。間もなく久子は麻糸つなぎの内職を始めた。
固い麻糸が口でむすべるようになるまでには並々ならぬ苦労があり、初めて成功した時は畳にひれ伏して泣いた。人生で初めて稼いだ十六銭。働く喜びが手足のない久子の体を駆け抜けた。
そんな久子も十八歳になり、自活の道を選ぶ時が来た。国が身体障碍者に下付する扶助料をもらう道もあったが、役に立っていない自分がお国のお金をもらう資格などない。国に甘えて生きれば自分の力で立てなくなると、これを拒否した。
迷い苦しんだ挙句、やるまいと誓っていた興行の道を選んだのは、それから一年後のこと。大正五年、久子は見知らぬ土地へと旅立った。家族と別れ、誇りを捨て、ただ生き抜くために・・・。

泥中の蓮になろう
『だるま娘』― これが見世物小屋の芸人となった久子につけられた名前でした。芸は裁縫、
揮毫(きごう、文字や書画を書く事)、切り紙など、生活の中で覚えたこと、派手な衣装や卑しい曲芸を売りにしない、品性と教養がにじむ芸が好評を博し一躍人気者になりました。一座を率いる伊勢兼(いせかねる)は亡き父を知る人で、久子を実の娘のように労り、「暇さえあれば、一字でも多く学べ」と励ました。
しかし、順風満帆な日々は長く続きません。興行師として素人の伊勢兼(いせかねる)は興行に失敗、小屋が人手に渡ってしまったのだ。後を継いだ主人は腹黒い男で、久子に過酷な労働を強いた。しかし、どんな惨めな環境にあっても、彼女の向上心がくじかれることはなかった。「泥中の蓮になれ」という書道の師匠、沖六鵬(おきろくほう)の言葉の力を得て、短歌に親しみ、本を読んで精神を高めたのだ。その結果、彼女の芸は次第に高尚さを増していくのだった。

半生記が懸賞の一等になり、義足で歩ける
久子の運命は大きく転換します。自分の半生を綴った手記が婦人雑誌『婦女界』の懸賞で一等当選。賞金を手にしただけでなく、社の援助で義足が贈られたのだ。久子は真っ先に義足をつけるために入院した。立って歩く訓練はまずもって恐怖を克服する戦い。しかし四歳で脚を失って以来、自分の力であるくことをどれほど切望してきたことか!久子は嬉々として練習に励み、四か月後には颯爽と歩いて病院を後にしたのだった。

結婚、そして未亡人
また、絶対に無理であろうと諦めていた結婚の夢も叶ったのだ。二十四歳になった久子は同僚の女性たちが羨む中、同じ小屋で働く中谷雄三と結婚したのだった。結婚二年目にして妊娠。障害を持って生まれてくるのではないかという心配をよそに四千グラムの健康な女の子を出産し、厳しい生活を送る夫婦に希望を与えたのだ。
しかし、暗雲は情け容赦なくせまります。体調を崩した夫は死を宣告されたと同じような結核の末期状態だった。絶望と悔しさを抱え、久子は医者代と生活費のために毎晩遅くまで働いた。ところが大正十二年九月一日に突如襲った関東大震災が、命以外のあらゆるものを奪っていった。
栄養失調と心労で乳は出なくなり、わずかな配給と残されたものを利用して病人と幼子を懸命に世話しました。しかし、その甲斐なく、震災から三週間後に夫は逝き、二十七歳で久子は未亡人となってしまったのだった。

障害を持つ女性に会い、恨みを感謝に転換する。
夫の百か日が済まないうちに、久子は再婚した。女一人の興行は不可能で、生きていくために仕方のない選択。幸い再婚相手の進士由太(しんしゆうた)はよき夫であり、頼れる太夫元(たゆうもと)でした。次女も誕生、生活苦からようやく脱し、訪れたささやかな幸せに喜びを感じていた。ところが寄り添って二年に満たない大正十四年の秋、床についた進士(しんし)は急な発作であっけなく世をさり、久子は二番目の夫をも失ったのでした。
それでも彼女はくじけず、三度目の結婚に踏み切った。この結婚は久子に幸福をもたらさなかった。夫の定兼(さだかね)は浪費癖があり身持ちも悪く、久子の連れ子に対して無責任な態度を取るばかり。やがて二人の間に生まれた三女が病で死ぬと、彼女の夫への愛情は急激に冷えていった。
心労を抱える中、久子の人生観を変える座古愛子(ざこあいこ)と出会った。首から下が付随の女性が女学校の購買部を受け持っている、という記事を偶然目にした久子は、直接彼女を訪ねたのだ。
結婚もせず、肉親もすべた失い、たった一人で寝たきりの生活を送る座古愛子の明るい顔に衝撃を受け、久子は一つのことを悟るのだった。苦難のあまり運命を呪い世を恨んできた不幸な者は山ほどいる。考え方を改めて、恨みを感謝に転換しなければならないと。

芸に磨きをかけながら、子供を学校に通わせる
芸人のほとんどが子どもを小学校に行かせない中、久子は教育が必要だと確信し、信頼のおける家庭に二人の娘を預けて学校に通わせた。久子は子供たちに送金するため必死に働き、芸に磨きをかけた。久子の色紙(しきし)や短冊は人気が高く、よく売れた。投げ銭をとらないのも彼女の信条であった。芸人は乞食ではない、人々に驚嘆と感動を与えるのが真の芸人と考え、ただ縫ったり編んだりするのではなく、より完成度の高い作品を舞台で披露するようになった。そうして七年間の忍耐の末、久子は昭和八年に定兼と別れ、知人の勧めで九歳年下の中村敏雄と四度目の結婚をした彼女は、ほどなく興行界をさった。

ヘレン・ケラーと対面、一躍全国的な有名人に
昭和十二年久子にとって忘れがたい年となった。周囲の計らいで、来日したヘレン・ケラーと直接対面したのだ。その日のために彼女は生活費を切り詰めて布を買い、口で縫い上げた日本人形を贈り物として用意していた。
政界の要人も参会する歓迎会の席で、その人形を受け取ったヘレン・ケラーは、手探りで久子の短い腕と義足を確認すると、突然その体を抱き寄せました。そして見えない瞳から熱い涙を流しながら、「私より不幸な人、そして私より偉大な人」と彼女を称賛した。
三重苦のヘレン・ケラーと無手無足の久子。二人を見る聴衆は深い感動に包まれ、各紙は「和製ケラーと相抱く」と大きく報道。これより中村久子の名は全国的しられた。
晩年の久子は各地で講演し、執筆活動に力を注いだ。昭和40年、六十九歳の彼女は自分を支えてくれた亡き母を顕彰し、国分寺境内に悲母観音像を建立(こんりゅう)した。一時は厳しさゆえに恨んだ母。しかし自らも母となることで、すべての愛情の裏返しであることを知ったのだ。
久子は言いました。「確かなことは自分で生きているのではない、生かされているのだということです。いかなる人生にも決して絶望はない」。七十二歳で波乱の人生を閉じると、遺言通り久子の体は解剖された。持っているすべてをささげつくした最期であった。

この物語の由来:
私のブログの愛読者に関西地方にある私立高等学校の校長先生がいる。彼がその高校の校長になった時、学校の経営者が我が校は、道徳教育に力を入れたいと強調した。彼は道徳教育の教科書を作るため、古今東西の心を打つ話や、インターネットや、日本の古典などから情報を仕入れ、日本の古典は自ら現代語訳に翻訳したりして、一年用、二年用、三年用の三冊の道徳教育の教科書を作成した。一冊平均5-60頁あった。
教科書名として「徳育科」と称した。その「徳育科」三冊を私に送ってくれた。私のブログに掲載しても良いとの了解を取りながら、私は自分の書棚のどこかにしまいこみ忘れてしまっていた。それからおよそ二年後の現在この道徳教科書「徳育科」をふとしたことで見つけだした。
あわてて彼に連絡して見ると、彼はすでに定年になっていた。学校の名前も変わり、経営者も変わっていた。しかし「徳育科」の授業は続いており彼が作成した教科書がまだ使用されているのがわかった。しかし中身が多少変わったかどうかわかりません。この「中村久子」の話は、一年用の教科書「徳育科」に載せられた十三話の一つです。前校長の了解を得てブログに載せました。全文ほとんど原文と同じですが、文章の終わり目は、「~です」、「~であります」というように教科書的だったものをもっと口語的なものに私の判断で変えさせていただきました。あとは全文、原文と全く同じです。

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