Archive for 7月, 2015

「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出(4)



上記の本の三刷り目(三千部)が平成17年7月に出版された。それからおよそ半年後に出版社、碧天舎が倒産した。この突然の倒産ニュースには、私は完全に打ちのめされた。私はそれまでの本の売り上げのスピードや反響からいって、この本はベストセラーにならなくても、多少とも世間で評判を呼ぶ本になることは間違いないと思っていたからだ。倒産はその夢と希望を完全に打ち砕いた。それだけではない自費出版完結なのに、私にも負債があることがわかった。調べた結果碧天舎が使用していたある倉庫会社が上記の本の売れ残り430冊を抱えこみ、私に一冊400円で売りにだした。買わなければ焼却するほかないというのだ。「焼却」という言葉に憤怒したが、仕方がない交渉の結果私は一冊300円で買い取り、自宅に置いた。私は有隣堂の伊勢佐木町本店と八重洲ブックセンターの本社、この二社と個人契約を結びことに成功した。神奈川県下で私の本に実績があるのは、有隣堂の各支店だった。伊勢佐木町本店に行って神奈川県下の将来性ある作家の卵を支援してやる気持ちぐらい起こしてくれとくいさがった。八重洲ブックセンターは、当時毎年夏ごろになると「大東亜戦争史展」というようなタイトルで特別展を開いていた。あらゆる大東亜戦争関係の本が売られていた。私の本が売られる最適の場所だった。この両社で全部売りさばくのに一年ぐらいかかったと思う。

三刷り目を出版した平成17年に私は、「新しい歴史教科書をつくる会」に入会した。会長が八木秀次氏の時だった。執筆活動が主だったので、もっぱら会費だけを払う神奈川支部の会員で支部の会合には参加しなかった。それから2,3年後ぐらいに「つくる会」本部の総会は、どんなことするのか興味があったので総会に参加した。総会後の懇親会に「つくる会」の最初の会長であった西尾幹二先生が出席していた。私は西尾先生本人の姿を見たのはその時初めてであった。西尾先生が参加するのを知っていたら、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の本を持参してきたのにと思った。私は宣伝のために数人の著名人にこの本を送っていたが、西尾先生の住所を知らなかったので送っていなかったのだ。
西尾先生は著名人なので取り巻き連も多く、私と二人きりで話しする機会はないかもしれないと思っていた。宴たけなわの頃、ふと料理が並んでいるテーブルを見ると西尾先生が一人で料理をつまんでいるではないか、この機会を逃さじと私は急いで西尾先生のそばにかけこむようにして話かけた。
『私は30代後半ぐらいから先生の本を読み、以後先生の出版物は毎回読んでいます。私は高卒なので師という人がいません。そのため西尾先生をわが師と呼んでいます。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を書いたが、西尾先生の住所を知らなかったので送ることができなかった。』等と言ったら「それでは私の所を送ってください」」と言ってくれたのです。本を送って数か月後、西尾先生から私に電話があった。それには私は本当にびっくりした。先生は電話口で、「鈴木さん、あなたはすばらしい本を書きましたね。あなたの参考文献の中には、私がまだ読んでいない本もありましたよ。」
私はこれまで一般読者の賛辞の投稿や言葉を聞きましたが、保守知識人からお褒めの言葉など聞いたことがなかった。それが保守知識人論壇の重鎮である西尾先生からお褒めの言葉を直に私の耳で聞いたのです。私はうれしくてまいあがってしまった。
さらに先生は、「私は坦々塾を主宰しています、二、三カ月に一度くらい坦々塾を開いて私が講演するか、他の先生に講演してもらい、講演後は懇親会を開いているが、良かったら鈴木さんも会員になりませんか。」と言うではないか。
私は喜んで坦々塾の会員になった。初めて坦々塾に参加した時、現役の評論家や大学教授はいるし、その他多士済々ぶりには驚いた。ひょっとして高卒など私一人ではないのかと心配した。西尾先生が、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を紹介してくれたので坦々塾ではかなり売れた。ちょうどその頃私は、展転社から「逆境に生きた日本人」を出版しようとしていた。欲張りな私はこの本の帯にまく宣伝文句を先生から貰えないかと考えたのです。先生からせっかく知遇を得たのにあまりにも早い、ぶしつけな要求ではないか考え込んでしまった。
しかし、本の出版を考えると先生にお願いするにはその時しかなかった。
私は怖々と本の原稿を送り、本に巻く帯の宣伝文句を依頼した。忙しくて時間がないと断られれば、それで仕方がないと諦めるつもりでした。ところが西尾先生は、執筆活動など忙しいにもかかわらず、引き受けてくれたのだ。帯の宣伝文句は、こうだった。
「私は著者の名前を評判をよんだ労作
『大東亜戦争は、アメリカが悪い』で知った。
今度の作品もすばらしい。
戦中戦後、強圧権力の下で示した
日本民族の行動をするどく分析、
我々の猛省をせまる」西尾幹二

本が出版され、この文章が書かれた帯を見た時は、感無量、ただ、ただうれしいの一言だった。私の本に箔がついたのだ。さらに嬉しいことがあった。西尾先生は、この「逆境に生きた日本人」について私に坦々塾で講演させてくれたのです。私が、知的水準が高い人々の前で講演するなんて、私みたいに何も誇る経歴もない、一しがない定年サラリーマンにとってこれほど名誉なことはなかった。私は深く感謝して先生の講演依頼を受け入れた。

坦々塾では懇親会の後、二次会にカラオケに行くことが多いい。先生も参加するので私も参加する。自然と先生と会話することが多くなります。或時先生は、私の文章力をほめたのです。私はびっくりしてしまった。私は先生に正直に話しをした。私は小学校に入学以来定年になるまで文章は苦手と思い、作文で褒められたこともなければどこかに投稿したこともないのです。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を書いたのは、私の本心の怒りから書きあげたものです。
西尾先生の説によると、文章というものは、沢山本を読んで上手な文章を書ける人もいれば書けない人もいる、本など読まなくても文章の上手な人もいる。文章はそういうものなのだというのです。あげくに私の文章には、パワーがある、説得力がある、これからももっと書いたらどうかと言うのです。実にうれしい言葉でした。しかし私は多少おせいじもあるのではないかとも考えていた。そのため私は、その時には、そんなものなのかなと思っていただけでした。しかし今では西尾先生の言葉を信じ、自分にも文章力が多少でもあるかなと思っています。その理由は、私のブログです。このブログは、月に二週間おきに二回書いて、それが今年の10月には満七年を迎えるからです。7年間も二週間おきに書けるということは多少とも文章力があるからでしょう。小学校入学から半世紀、年賀状以外日本文の文章を書いたことのない私が定年後は毎日執筆活動を続けているとは、人生とはわからないものです。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」は、出版社が倒産した時は、最大ショックだったが、西尾先生と知り合いになれたことは最大の喜びであった。
なお、「逆境に生きた日本人」の在庫がまだあります。読んで見たいと思う人は、私のブログにある、お問い合わせコーナーを利用して注文してください。一冊2、000円です。消費税と郵送代はいりません。『「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出』のシリーズは、この回で終わりとさせていただきます。

Comments (4)

「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出(3)



前回のブログでの9通の投書は、2004年7月の本出版後5か月以内に届いたものでしたが、本出版後3カ月以内には電話による講演依頼もあった。その講演依頼は、千葉県のある読者(S)さんだった。彼は元空軍のパイロットの卵だった。終戦直前は、毎日満州で飛行機乗りの訓練に明け暮れていたそうです。このSさんは、私の「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を東京で買い求め、感激した人です。彼は個人で保守の団体を作り(4,50人位の会員数)、そのリーダーになっている人でした。講演依頼は、一時間半、質問30分の合計2時間の講演でした。それを聞いて私はびっくりしてしまった。私はサラリーマン時代、長時間の講演などしたこともない。定年後は執筆活動に追われ、保守陣営の講演なども聞いたこともなかった。講演引き受けるかどうかビビッてしまった。しかしこの講演を引き受けないとこの本の売り込みにも影響がある。女房は私の初めての講演を聞きたいというし引き受けることにした。11月末私は女房を連れJRの千葉駅に着いた。Sさんが迎に来ていた。会場は千葉駅近くの郵便局のあるビルだったと思う。参加者は4、50人ぐらいだった。私には生まれて初めての大講演だった。緊張していたが、無事乗り切った。Sさんは、その後パーキンソン病になり、私との交際は短い期間になってしまった。

懇親会の時、その日たまたま参加していた人が、習志野の空挺部隊の元隊員であった。その彼が私に向かって、「今日の講演内容と全く同じ内容でいいから来年の1月か2月に靖国会館で講演してもらいませんか」と言うではないか。渡りに船と同意し、来年に2月に講演をした。講演の主催者は、ある右翼の団体だった。私にしてみれば、私の講演を聞いてもらい、本が売れるのであれば、共産党でも右翼でもどこでもよかった。遊就館に本屋があること知っていましたから、講演を利用して本屋への売り込みに成功した。講演後の懇親会では、以後長くつきあうことになるノモンハン事変の生存兵の一人、Aさんと出合った。Aさんは、自衛隊には色々な団体があるが、戦前、戦中からあった在郷軍人会の流れを含む、全国組織の神奈川県支部の副会長だった。それから3,4か月後、Aさんから電話があった。A さんの神奈川支部会長のKさんが私の本を読んで大変感激し、ぜひ私に会いたいし、また頼みたいこともあるので、ぜひ、ぜひお会いたい、私の都合の良い日にあわせるから、ぜひ会う約束をしてくれないかという丁重な電話をいただき、横浜駅付近で会うことを決めた。

横浜駅近くのレストランで二人の接待を受けた。紹介された神奈川支部会長のKさんは、終戦時陸軍中尉、終戦時フイリッピン米軍の捕虜収容所にいた。Kさんによると、敗戦時の捕虜収容所の問題は、捕虜間で日本兵の階級意識が保てるかどうかだ。敗戦になったら上官の命令など聞くのがバカらしくなる、部下から侮り受ける、彼の部下も反抗的になり暴力で立ち向かってきた。幸い彼は空手を習っていたので、抑えることができたが、もし自分が負けていたらどうなっていたか皆目わからないと言っていたことを思い出す。
Kさんは、「私がお願いしたいのは、ぜひ私が会長をしている神奈川支部に入会してもらいたい」と言った。理由は、当時では現役の自衛官や元自衛官すら自虐史観の人が沢山いるのが現状。会長は少しでも自衛官を自虐史観から解放したいと思っているのです。それには私の本を読ませるのが最適です、本を読むことがきらいな人もいるでしょう。それには私の講演を聞かせるのです。会長の団体は、戦前の在郷軍人会の流れから組織は全国的につながっています。ぜひ私にも入会して自虐史観からの解放に手を貸してくれませんか。
会長は私の手を借りて、神奈川支部会員全部に大東亜線史観を教え、その後関東地方の各県支部を訪問してこの本の販売と私の講演の支援をしたいと言うのです。ぜひ入会してくれと三顧の礼をもって迎えられたような感じで入会した。

入会してみたが、私は期待外れだと思ったし、K会長、A副会長二人とも期待外れの感を抱いたと思う。神奈川支部の会員たちは、表向きは会長の意見に従っているが実際には、二人の考え(私の本、講演を通じて全国の支部に大東亜戦争史観を広める)に積極的に参加しようとしなかった。私はK会長にお願いして、神奈川支部で講演した。私は神奈川支部の会員たちに私の講演の実力をみせたかったのだ。初めて私の講演を聞いたK会長は、すばらしかった、どこで講演しても恥ずかしくないと言ってくれたが、会員たちにはアピールしなかった。その理由は四つ考えられます。
1.本が分厚すぎて、本好きでないと積極的に読む気にならない。会員たちのほとんどが私の本を読んでいなかった。
2.私が有名な学者や知識人であれば、K会長の言うことを積極的に取り上げようとしたでしょう。しかし、私は無学無名、これといった誇りにできるような経歴なし、一しがない定年サラリーマンに過ぎなかった。
3.K会長とA副会長だけが元軍人であったが、他の会員たちも老人が多かった。老人特有のパソコンを触れない人がほとんどだった。そのため会長、副会長だけでなくほとんど全員、私のブログなど読む人がいなかった。
4.碧天舎が出版一年半後に倒産。本が話題になる機会が完全に失われたこと。

これらの事情のため会長、副会長の計画が空回りしてしまった。それでもK会長は、東京本部の会長から次のような表彰状を書かせ私にくれた。
表彰状: 鈴木敏明殿
「あなたは永年にわたり日本○○○○の使命の重要性を認識されよく連盟の理念を体し防衛思想の普及英霊顕彰並びに歴史伝統の継承助長等日常活動を強化推進し基盤の充実強化に著しい成果をおさめ連盟の発展に多大の寄与をされました。よってここにその功績を称え表彰します。」 平成23年5月18日    社団法人日本○○○○ 会長 T.S.

私は他県の支部での講演を一回もしたことがなく、講演したのは地元神奈川支部の一回だけ、その他この表彰状に書かれているようなこと一度も行ったことありません。それでもK会長もA副会長も、私を表彰状に書かれているように活躍させるつもりができなかったし、私も期待に応えることができなかった。それでも二人は、せめて本部会長から表彰状だけでも渡そうとしたのではないかと憶測しています。現在はもう高齢のため二人とも亡くなっていますが、生前二人が個人の力だけでも私の本が売れるよう最大の努力をはらってくれたことに対しても私は、心からの御礼を申し上げる次第です。

K会長は、元陸軍中尉であったが、私の本に関してもう一人忘れることができない元陸軍中尉がいます。千葉市本八幡に住むIさんだった。Iさんは、本来なら私に投稿したかったのだが、脳梗塞を患い右手と右足が不自由で手紙が書けない、そこで出版社を頼って電話してきたのです。彼は電話口で私の本を絶賛した。彼も大東亜戦争関係の本を数えきれないほど沢山読んでいるけど、私の本の出来が最良だと言うのです。彼は非常な読書家で今でも自宅に三万冊の本があるというのだ。自分はもう年で残り時間が少ないから、私さえ良かったら、この三万冊の本をあげるから受け取ってくれないか、私のこれからの執筆活動に使える本もあると思う。だからぜひ私の家に来て蔵書を見てくれというのだ。我が家には、そんな三万冊の蔵書を置くような場所もないということで丁重にお断りをした。しかし、その後何度も電話してくるようになったのだ。本を譲ることはあきらめたけど、ぜひ私と話をしたいと言うのだ。電話による会話でわかったことは、Iさんはビルマ戦線中に米軍の捕虜になった。彼は戦前アメリカ留学の経験があるので、通訳として働いていたのだ。彼はビルマでは有名な南機関の一員としてビルマ独立義勇軍の編成にも当たったようなことを言っていた。彼の家の訪れることにした。彼は熱心に誘うし、私も面白い話が聞けるかもしれないと考えたからだ。

彼は老夫婦二人だけの生活、彼は脳梗塞で右手、右足が不自由と聞いていたので、私は手土産にお酒より、甘いものがいいのではと思い、虎屋の羊羹を持ってでかけた。本八幡は、秋葉原から総武線で30分ぐらいの所だった。彼の家についてびっくりした。建物は非常に古くなっていたが立派な西洋館で敷地は300坪ぐらいあったのではないか。彼は色の濃いサングラスをかけていた。ジャングル戦で敵の狙撃兵に狙われ、頭部の後ろを撃たれ、その弾が右目から眼球と一緒に飛び出していったというので命が助かったらしい。サングラスをはずしてくれて見せてくれたが、どす黒く非常に怖い顔つきになっていた。挨拶をかわし話し込んだが、まず初めに彼が言ったことは、私の本を読んだとき、もっと早く自分が元気だったときこの本に出合っていたら、この本の売り込みに役立ったのに非常に残念だと言った。それから後は、アウンサン・スーチーの父親、アウンサンの話ばかりだったような気がした。話が一段落して、それでは書庫を案内しようと言って案内されたのが四階だての書庫ビルだった。一階から三階まで三万冊の本がびっしり、四階は彼の書斎になっていたが、脳梗塞後四階にあがったことがないのでしょう、机の上がほこりだらけだった。どれでも好きな本があったらさしあげるからと言うのでハーマン・カーンの本など二、三冊もらった。本棚の中に「千夜一夜物語」があった。アラビアンナイトでしょう。その全集を見て、あんなに連続した説話集だったのかとびっくりしたのを覚えています。彼自身本も書くこともなく、何か研究しているわけでもないのに、ただ読書の趣味だけで三万冊を自宅の書庫を建てて持っているのは全国的にもめずらしいのではないか。息子さん一人いるが全く本に興味しめさないそうだ。彼の家を退去して数日後、幸田露伴全集全44巻が送られてきたのにはびっくりした。幸田露伴の名前は知っていたが、まさか44巻も出版しているのは知らなかった。彼が言うには、私が手土産まで持って訪ねて来てくれた御礼だというのだ。君は苦労しているかもしれないが、幸田露伴も苦労している、九巻を読んで見なさい。幸田露伴の苦労ぶりが書いてあるからと言うではないか。さっそく私は九巻をとりあげて読みだした。残念ながら私には、明治時代の小説家の文体などまったく読み慣れていず、時間がかかるばかりだった。結局九巻を私の書斎に置き、残り43巻全部物置にしまいこんだ。

その後Iさんは、癌になり三万冊の本は千葉の地元の図書館に寄贈、敷地は売って、東京三田のマンションに移り住んだ。私は新しい本を出版する度に、三田に送ってやった。必ず三田からお礼の電話があり、その度に彼は私の文章力を褒め、これからもどんどん書き続けるようすすめるのであった。K元陸軍中尉もI元陸軍中尉も、そしてノモンハン事変の生存兵Aさんも、もう年でこの世にはいないが、三人に「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版の完成を見せることも知らせることもできなかったことが残念でたまらない。彼らには生存中本当にお世話になりました。ただただ感謝のみでご冥福を祈るばかりです。
「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の思い出は次回のブログに続きます。












Comments (1)