Archive for 6月, 2016

北条政子(1)



        このブログの転載、拡散をよろしくお願いします。
1980年代のイギリス人女性首相、マーガレット・サッチャーは、鉄の女(Iron Lady)と呼ばれて有名です。私に言わせれば日本には、サッチャーに勝るとも劣らない女性が今から800年ほど前にいたのです。北条政子です。私は北条政子の存在を伝えたいために、題して「鉄の女」北条政子として私のブログ、「えんだんじのブログ」に今から7年前の2009年1月25日と2月1日に書きました。2009年とは私の「えんだんじのブログ」を始めた翌年です。従って 私のブログの読者が少ない時です。この作品なかなかできがよいので、最近の私のブログの読者にも読ませたいと思い再公開してみました。
[引用開始] 「源頼朝の名前は、日本人なら誰もが知っているでしょう、北条政子はその頼朝の妻です。源頼朝の生き様はよく知られていますが、そのわりには妻、政子の生き様はあまり知られていません。そこで政子の生き様に光を当ててみました。
彼女は一言でいうと、非常に気の強い、気丈な女性です。昭和55年(1980)年代のイギリスの首相、マーガレット・サッチャーは「鉄の女」と称されましたが、北条正子もまさしく「鉄の女」で、現在は、男女平等、男女同権、男女機会均等の考えが浸透していて沢山の女性が社会で活躍していますが、まだ北条正子ほどの「鉄の女」は、出現していません。
1160年、頼朝は平清盛によって伊豆の蛭が島に流された。頼朝14歳の時です。それ以来20年間この地で流人生活をおくっています。北条正子は、頼朝の監視人の一人である北条時政の三女です。1177年その政子に頼朝から恋文がもたらされたのです。政子21歳、頼朝31歳の時です。
こうして二人の恋が始まった。ちょうどそのころ政子の父親、時政が京都に行って留守でした。頼朝はその時期をねらっていたのでしょう。政子には父親が決めた、いいなづけがいた。相手は北条家の近隣に所在する平氏一門の山木兼隆でした。
政子の父、時政は京都から帰り三島で二人の仲を知らされた。時政は家に帰るなり政子を頼朝から引き離していいなづけの山木兼隆のもとえ送りとどけた。普通の娘ならこれであきらめたはずです。
しかし政子はあきらめなかった。兼隆のすきをうかがって、激しい雨の降る夜政子は、山木の屋敷を抜け出し、頼朝のいる熱海の伊豆権現に向かって一人で逃げ出したのです。
追手を気にしながら激しい雨の降る夜の山道、自分の手元の明かり以外一切闇の中、体力もいるが胆力も必要です。当然政子は、死を覚悟しての脱走です。京都あたりの公家の女性では、とてもまねできない事であったでしょう。
やっとの思いで伊豆権現に到着し、頼朝の胸に飛び込んだ時は、政子には一生忘れることのできない感慨深いものがあったと思います。この彼女の行動が頼朝と北条家を深く結びつける結果になったのである。
頼朝の平家への戦いが始まりました。1185年に鎌倉幕府創立、1192年に頼朝は征夷大将軍になった。この時頼朝46歳、政子36歳でした。政子幸せの絶頂期だったでしょう。その間の政子に関するエピソードを二つ。
1.当時の武士の長ともなると妻の他に愛人(側室)がいるのは当然のことと認められていました。妻は妻でしかたがないこととあきらめていた。しかし気の強い政子は、頼朝に愛人を持つことをあきらめさせることはできなかったけれど、かなりあらっぽい抵抗をしています。
頼朝には伊豆にいた時から妻、政子の他に、名前を亀の前といった愛人がいた。鎌倉に移り住んでからも亀の前を鎌倉によびよせていた。怒った政子は、家来に亀の前の家に火をつけて燃やしてしまった。それでも頼朝は亀の前を放さなかったそうです。
2.頼朝の家臣たちは、頼朝の異母弟、義経(よしつね)の行方を捜査中、義経の有名な愛人、静御前(しずかごぜん)の居所がつきとめた。京都での取調べではらちがあかず、彼女を鎌倉につれて来させた。彼女はすでに義経の子を身ごもっていました。取調べの結果、静御前が義経の居所を本当に知らないのか、うそをついているのかはっきりしません。
その時政子は、夫、頼朝に頼んで静御前に踊りを見せることを所望しています。政子の好奇心からでしょう。なぜなら静御前は、京都の白拍子だったからです。白拍子は、いまでいうなら芸者のようなものでしょう。田舎娘の政子にとって、京都白拍子の踊がどのようなものか見てみたかったのだと思います。
静御前の度重なる辞退もききとどけられず、踊ることになった。1186年4月8日、静御前は鶴岡八幡宮の回廊に立った。正面に中央に頼朝、政子、そしてずらりと並ぶ御家人たち、静御前は、丸くなったお腹で舞ながら沈痛な声で歌った。
吉野山みねの白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこいしき
しずやしず、しずのおだまきくりかえし昔をいまになすよしもがな
この時静御前は、目にいっぱい涙を流しながら凛としてよく聞こえる声でよみあげていた。満場息を呑む雰囲気だったでしょう。その時、頼朝の怒声がひびいた。
「やめい」
「八幡宮はわれらがみおやの宮。その御前で舞を舞うには、関東の万歳こそ祝うべきであろう。それをなんたること、わが前をはばからず、逆賊義経を慕い、別離の歌を歌うとは」
刀に手をかけた頼朝の手がぶるぶるふるえ、今にも刀を抜くかと思われた瞬間、政子がさとすように頼朝に語りかけた言葉が有名です。
「あなたが流人として伊豆蛭が島にいた時、私たちは結ばれました。されど父は、平家の思惑を恐れて、私を山木兼隆にあずけてしまいました。でも私は、あなたとの恋一筋に生きようと、激しい雨の夜、山木の館を逃げ出しあなたのふところにとびこんだのです。
石橋山の戦いでは、あなたの消息がわからず、一人伊豆山でおびえていた日夜を思いだすと、いまの静どのの心は、まさしくあの時の私の心でしょう。義経殿の長年の愛を忘れ、恋したわないようでは貞女とは言えません」
ほれた女性の心は、私も同じ経験を持つ故、女性である私は一番知っているといいたかったのでしょう。この政子の率直な発言で、頼朝の心が静まり、静御前の舞に対しほうびまで出したのです。
それから3ヵ月後静御前は、鎌倉で出産し男の子を生んだ。男の子なら殺すという約束どおり、政子の必死のとりなしにもかかわらず、静御前の嘆き悲しむ彼女の手から男の子はとりあげられ、由比ガ浜海岸近くに捨てられました。政子の心からのいたわりと数々の餞別を受けましたが、傷心の静御前は、京都に帰ってから仏門に入り、やがて死んだという。
政子は、静御前には深い同情をそそぎましたが、自分の夫の愛人になると、そうはいきません。静御前騒ぎのころ、頼朝は、新しい愛人、大進(だいじん)の局(つぼね)に男の子を生ませています。その子が生まれた時から、政子は、頼朝にその子の処分をしつようにせまります。政子に約束はしているものの、頼朝は大進の局の必死の願いの板ばさみなり、とうとうその子は七歳になってしまいました。
決心した頼朝は、その子を京都の仁和寺に送って僧とさせ、後に貞尭(じょうぎょう)と名乗ることになります。その子が京都へたつ前夜、頼朝はこっそりその子の母のもとえ出かけ、餞別に剣をあたえています。当時の武士の指導者階級に生まれた男女、またその男に見込まれた女性にとっては、厳しい人生を当たり前のごとく受け入れないととても暮らしていけないような時代であったことは確かでしょう。
1199年1月頼朝は、落馬して急死。死因は色々ととりざたされていますが、落馬による脳出血が死の直接的原因というのが説得力あります。武家政権創立者の予期せぬ突然の死は、全国的に衝撃だったでしょう、しかし残された政子にとってそれ以上の大ショックだったと思います。この時頼朝は53歳、政子43歳、長男、頼家18歳、次男、実朝8歳、次女三幡(さんまん)15歳でした。
政子が本領を発揮するのは、頼朝の急死後です。頼朝の死後鎌倉幕府が、およそ130年も続いた功績の第一人者が北条正子です。頼朝、政子夫妻には4人の子供がいましたが、4人全員政子の在世中に死んでいます。このため4人の子の生き様が政子の人生に深く関わっています。そこで4人の子の生き様を追ってみましょう。
1.長女、大姫(おおひめ)
政子の最初の子です。源義仲(よしなか)が自分の長男、義高(当時11歳)を人質として頼朝に差し出した。頼朝は快く受け入れ、義高を当時5、6歳だった長女大姫のいいなずけと決めた。この二人は、はためにもはっきりわかるように親しい間柄になっていた。夫妻もそれを喜んでいた。ところがおよそ一年後木曽義仲は、逆賊になってしまった。頼朝は、家臣に人質の義高を殺させた。このことは大姫は無論、政子も知らなかった。
政子は激怒した。「なぜ内々に知らせてくれなかったのか、なんとか助ける手立てはあったはずです」
義高の死を知った大姫の嘆き悲しみぶりがひどく、食事さえとれなくなってしまったのです。12歳と6,7歳では恋と呼べるものではなかったかもしれない。しかしこれが大姫の心の病になってしまった。
大姫の深い悲しみは、母親、政子にとっても実につらい。政子の怒りがあまりにも激しいので、頼朝は、大姫を殺した下手人を斬った。しかし残虐を重ねただけでなんの解決、きやすめにもならなかった。大姫はこの悲しみから立ち直れず、精神病のような状態になり、20歳で短い生涯を終えた。政子にとって大姫の死の悲しみは、少なくとも頼朝が生きていたから彼と悲しみを分かちあうことができた。
2.次女、三幡(さんまん)
頼朝急死が1月。その頃病にかかっていた三幡は6月に父のあとを追った。夫の死後、その年のうちに次女、しかもたった一人残った女の子を失った政子には、じつに厳しい試練でした。嘆き悲しむ姿が想像できるではありませんか。
3.長男、頼家
頼朝が死んだ時、頼家は18歳。当然のごとく将軍職を継いだ。しかし頼家はいかにも若い、苦労知らずの経験不足。頼朝の重臣たちは、命をかけて戦ってきた人たちばかり。彼らにとって頼家は頼りない存在。政子は母親であるだけに、頼家と重臣たちとの微妙なムードを見抜いていた。政子には頼家が危なっかしくて黙って見ていられないのです。この彼女の気持ちは理解できます。政子は頼家に訴訟事件の裁決には、独断によらず北条時政、義時、大江広元、梶原景時等の13人の親戚、元老たちと合議の上で裁決するように指示を出した。頼家はこういう母の指図をお節介と受け付け従おうとはしなかった。
頼家は母の実家の北条家より妻の実家の比企能員(ひきよしかず)を頼りにし、母の指名した13人を無視し、お気に入りの小笠原、比企、細野、和田、中野の5人を側近にし、この5人以外には直接自由に会おうとはしなかった。頼家はさらに暴君のきざしさえ見せた。
御家人、安達景盛(あんだちかげもり)が京都からよびよせた美人の愛人に目をつけた。何度も恋文をおくったが、なびかない。強引な手をつかった。景盛に格別に用もないのに三河の国(愛知県)に出張させ、そのすきに彼女を盗み出し、自分の屋敷に住まわせ、彼女のいる部屋には、上記の5人以外近づけさせなかった。
1ヶ月後、景盛が帰国した。景盛は怒りをストレートに表すことができません。しかし誰かが景盛は大変うらんでいるらしいと頼家に告げ口をした。頼家は、「おのれ、生意気なやつ」と腹心の者を集めて景盛を討とうとした。ここまでくるとさすがに政子は傍観していられず、頼家をいさめた。頼家はしぶしぶ母、政子の忠告を聞き入れた。政子は、景盛を慰撫することも忘れなかった。
当時京都の公家の間で蹴鞠(けまり)大流行でした。頼家は、この蹴鞠が大好きだった。わざわざ京都から蹴鞠(けまり)の名人を鎌倉に呼び寄せているくらいですから、彼の熱の入れ方がわかるというものです。要するに頼家は、跡継ぎとしては無能なのです。主君の跡継ぎが無能だと、その無能を利用して己の出世を計ろうとする人たちが必ず出て来るものです。
頼家の場合も頼家をとりまく一派と反対派の対立が激しくなっていったのです。そんな情勢の時、幸か不幸か頼家が、原因不明の奇病にとりつかれた1202年7月病に伏した。早くも翌月、8月の末に危篤状態になってしまったのです。政子は、父時政と相談して、頼家の持分のうち、関西38ヶ所の地頭職は弟の実朝(さねとも)に、関東28カ国の地頭職と全国総守護職は頼家の長男で6歳の一幡(いちまん)に与えると決めた。
病床でそのことを聞いた頼家は、大変憤慨し、妻の実家の比企能員(ひきよしかず)と相談し北条氏を討つことにした。ところがこの二人の話し合いを障子をへだてた次の間で政子は聞いてしまった。政子はすぐに父、時政に告げた。時政は腹心たちと協議をし、比企能員一人を自宅に招いた殺し、中野、小笠原、細野ら頼家の重臣たちを逮捕し、後に流罪にした。
重態から立ち直った頼家は、和田義盛と新田忠常を味方に引き入れ時政を討とうとしたが、義盛は寝返り、新田忠常は殺され万事休した。病後の頼家は、結局母、政子に頼らねばならなかった。政子は結局、長男、頼家は跡継ぎするだけの才能がないことを認めざるをえず、涙をのんで頼家を修善寺に幽閉し出家させた。
幽閉後一月ぐらいたってから頼家から政子に手紙が届けられました。
「ここは深い山の中で、退屈でたまりません。もと召し使っていた者どもをよこしてください。それから、安達景盛を成敗したいから、これもよこしてください」
元の召使をよこしてくれという要求は理解できても、自分が安達景盛の愛人を盗み取って大騒動を起こしておいて、景盛を寄こせ、殺したいというのだから、頼家は絶望感でやけくそになっていることがわかります。
政子は使いの者を修善寺に行かせ「のぞみは、二つともかなえるわけにはいきません。これからは二度とお手紙を書かないように」と伝えた。1204年、頼家は修善寺で死んだ。若干23歳、政子は48歳でした。政子の父、時政が暗殺させたとも言われています。夫、頼朝の死後、わずか数ヶ月で次女を失い、五年後には長男失脚の形で自分が死なせてしまったという思いが政子に一生つきまとったのではないでしょうか。
4.次男、実朝(さねとも)
頼家が修善寺に幽閉され出家し、頼家一派は壊滅状態になってしましました。後継者は当然次男、実朝です。実朝はまだ幼かった。政子の父、時政のはからいで京都の朝廷から征夷大将軍に任命された時、まだ12歳でした。事実上、時政が実朝の後見人になった。そのため幕府内での時政の勢力が増したことになります。
政子の父、時政は自分ひとりの名で下知状という文書を発行して、将軍の命令を下々に伝えた。幼い実朝将軍は、完全な時政のロボットに、またロボットにならざるを得なかった。政子は、実朝が父の偉業をつぐたくましい将軍の育ってくれるだろうか、また政子が信頼している父、時政や政子の弟、義時と関係が順調にゆくのだろうか、心配が絶えなかったでしょう。政子の心配が現実になってきたのです。実朝の嫁選びでした。征夷大将軍に12歳で任命された実朝には、早くも翌年、13歳の時、嫁をもらうべきであるというのが鎌倉幕府首脳陣の一致した考えになっていた。
そこで政子は、自分の妹のとついでいる足利義兼(あしかがよしかね)の娘を推薦しました。ところが政子の父、時政の年のはなれた若い後妻、牧(まき)の方(かた)は、自分が京都の公家の娘であることから、京都の親戚筋の娘を推薦した。政子は、公家の娘を嫁にすることに反対だったが、実朝が京都の娘の方を選んだのでしかたなく実朝にしたがった。
ところが時政の若い後妻、牧の方はとんでもない陰謀を抱いていたのです。彼女は、京都守護としてはぶりきかせている娘むこの平賀朝雅(ともまさ)がとても気にいっていた。その朝雅を将軍にしようという、とんでもない計画を企んでいた。彼女は、政子や幕府首脳陣に疑われる行動を起こした。それが畠山騒動です。
幕府の元老、畠山重忠(しげただ)の子、重保と牧の方のお気に入り平賀朝雅とささいな争いがあった。牧の方はそれを根にもって夫、義時に畠山父子の謀反のたくらみありと報告した。時政はよく調べもせず、息子義時に畠山父子を討つ命令をくだした。義時は、父時政をいさめたが、年老いた時政は、若い後妻にまるこまれていてあくまでも追討を命じた。
畠山父子は、結局命令どおり討たれ命を失くしたが、その後無実であったことが証明された。若い後妻の浅知恵にだまされた時政の評判ががたおちになってしまった。それでも時政は目が覚めず、平賀朝雅を将軍にするために実朝を暗殺しようという牧の方のささやきに同意してしまったのです。
この陰謀を知った政子は、御家人を集め、時政の屋敷から実朝を救いだし、弟の義時の屋敷に移した。時政の屋敷に集まっていた武士たちも実朝を守るためといって皆義時の家に移ってしまったのです。父、時政はもう年ですこしぼけかかっていたのでしょう、鎌倉中から拒否され出家せざるを得なくなり鎌倉から姿を消した。
この時14歳になっていたい実朝には、父、時政の代わって政子の弟、義時が後見人になっていた。この役の名を執権と呼ぶようになった。
死んだ兄頼家は、蹴鞠(けまり)に夢中になっていたが、弟の実朝は、和歌に夢中になっていました。その腕前も玄人はだしだったと言われています。実朝は体も弱く、政子がはるばる紀伊の熊野神社参詣にでかけたのも実朝の健康祈願のためとも言われています。実朝は、和歌にのめりこみ、ともすれば政治の仕事から逃げてばかりいるようで、北条義時の力が増すばかりでした。自分が嫁いだ源氏の力が弱まり、実家、北条家の力が益々強くなるのを見て、政子はどんな気持ちだったでしょうか。
その実朝が1219年1月17日、鶴岡八幡宮の社前で突然切り殺されたのである。この時実朝は28歳。取り押さえられた犯人は、長男、頼家のわすれがたみ、公暁(くぎょう)、19歳でした。政子は幼くして父を失ったこの公暁(くぎょう)をあわれがり、一時は、実朝の養子ぶんにして世話したが、四、五年して出家させ、円城寺へ修業に出した。1217年鎌倉の呼び寄せ、鶴岡八幡宮の別当にしてやったのも政子です。
政子が目をかけてやった者が、次男を殺すという事態になったのです。
亡き夫、頼朝との間にできた四人の子供、全員不遇の死、しかも皆十代、ないしは20代の死です。最後の子供である次男の実朝は、長男、頼家の子、すなわち政子が目をかけてやった孫に切り殺されるという肉親による暗殺、すなわち尊属殺人です。政子にとっていたたまれず、とても耐えられそうもない事件です。
この時政子は、63歳。現在の63歳とは違います。体力的には現在より衰えているはずです。病気で寝込んでしまったり、あるいは認知症のようになったとしてもおかしくありません。それでも政子はこの試練を乗り越え立ち直るのです。その立ち直った政子にさらなる大試練が待ち構えていました。(次回に続く)
[引用終了]
次回は「鉄の女」北条政子(2)として2009年2月1日に公開されていますので、全文を引用し次の土曜日、2016年7月2日に再公開します。



コメント

日米の歴史と文化を語る(一)



一。アメリカの建国神話
私の年代で特にアメリカ史を学んでいない人たちのアメリカ建国の常識というものは、イギリスで迫害を受けた清教徒(ピューリタン)が信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に上陸した。恐らくこの程度ではないかと思います。私も最初はこの程度でした。それでは義務教育を通して得られる一般アメリカ人の常識ではどうでしょうか。恐らく次の様になるのではないでしょうか。

「17世紀初頭のイギリスでの宗教弾圧をのがれ、信仰の自由を求めた清教徒(ピュウリタン)の一団がメイフラワー号に乗ってイギリスのプリマスを出発し、アメリカ大陸をめざした。1620年の冬ニューイングランドに到着した彼らは、プリマス・ロックに初めての第一歩を踏みおろし、その地をプリマスと名付け、プリマス植民地を設立。上陸前に入植民の間で取り交わされたメイフラワー・コンパクト(盟約)は後のアメリカ合衆国憲法の基礎となった。その冬の厳しい気候に耐えられずメンバーの半数は餓死したが、二年目の秋には豊かな収穫に恵まれ、その間援助を受けたインディアンを招いて感謝の機会を持ち、それが今日の感謝祭に直接つながる起源となっている。」

これを読むとイギリス人が1620年に初めてアメリカに植民地を建設したかのように感じてしまいますが、実はそれよりも早く1607年に男ばかりのイギリス人がバージニアにジェームスタウンという植民地を建設しているのです。1619年には最初の黒人奴隷がジェームスタウンに輸入されています。それなのに、あとから建設されたプリマス植民地はなぜ有名なのでしょうか。それはやはり信仰の自由を求めてやってきた清教徒(ピューリタン)がいたからでしょう。信仰の自由を求めてアメリカにやってきたとなれば、アメリカ建国の物語には実にふさわしい背景です。ところでメイフラワー号の乗組員全員が清教徒だったのでしょうか。乗組員全員で102名。そのうち清教徒はわずか41人だったのです。
残りはイギリス本国では、うだつが上がらないのでアメリカで一旗という連中でした。しかもそのほとんどが清教徒と敵対関係にあるイギリス国教会のメンバーだったから、およそ二か月間の航海期間中、平穏無事ではなかった。清教徒と他の人たちの対立関係が極度に悪化したのです。そこで上陸する前に、秩序を維持し、分裂をさける目的もあったのでしょう、植民地建設の意図と目的を明らかにした契約書に署名したのです。それを後世の歴史家が「メイフラワー。コンパクト」、メイフラワー誓約と呼び始めたのです。当時はそんな呼び名などつけていなかったのです。その内容もアメリカ憲法の基礎になったとか、民主主義の起源とか言われていますが、それも後世の歴史家のこじつけと言っていいでしょう。もっとも行動を起こす前に契約書を作って合意をとりつけておくということは、契約社会のアメリカらしいという気がしないでもありません、さて上陸した一行は、その冬の厳しい寒さと食料不足で翌年の春を迎えずに半数が餓死してしまった。一行の大半が農耕生活の経験のない都市生活者だったのが致命傷だったらしいのです。残された半数もインディアンの援助がなかったら生き延びられなかったのです。彼らの運命はインディアンの手に握られていたのです。インディアンが彼らにとうもろこしや、じゃがいもや、かぼちゃなどの栽培方法を教えたのです。秋の収穫期を迎えた時、彼らは感無量だったでしょう。
彼らはインディアンを招いて祝宴を張りました。インディアンの酋長マサイトは、部下90名を率いて祝宴に加わりました。その時彼らは、秋の収穫を神に感謝したのです。
これが感謝祭の起源になった。アメリカの子供たちは、酋長マサイトの名前は知っています。現在彼の銅像が立っているからです。しかし彼の死後、後を継いだ息子のキング・フィリップは、どういう運命をたどったかはほとんど知らないのだ。入植者の白人たちは、マサイトの後継者の息子の名づけ親になり、キング・フィリップと命名した。キング・フィリップが子供の時は、白人入植者と仲良かったが、大人になると白人入植者たちと戦争になり敗れた。
プリマス植民地の人たちは、彼の死体を分断し、その首をプリマスの街頭に25年間もさらし続け、腕はラム酒づけにされ金銭をとって見世物にした。妻と子供たちは奴隷として西インド諸島に売られてしまった。

プリマス植民地は、信仰の自由を求めて建設されたとよく言われますが、クエイカー教徒がイギリスの迫害から逃れてやってくると、きびしい迫害を加えて追い出してしまうのです。
プリマスの近くにやはり清教徒が建設したマサチュウセッツ湾植民地があるのですが、そこでは追い出しの警告を無視するクエイカー教徒四人を絞首刑にしてしまった。自分の信仰の自由は守るが、他の宗派の人たちの信仰の自由は認めないのです。同じキリストでも宗派が違えば憎しみあうのですから宗教戦争も起こるはずです。プリマス植民地で興味を引くのはその克明な裁判記録です。殺人事件もありますが、かなりの数の性犯罪が記録されています。例えば1639年9月インディアンの男性テインシンと関係を持ったロバート・メンドラブの妻メアリーは、町の通りを荷馬車の上で鞭打たれながら引き回された。
牧師のジョン・コトン・ジュニアは、複数の女性信徒との密接な関係がばれてプリマスから追放された。最もショッキングな事件は獣姦です。1642年、ラブ・ブルスターに仕えるトーマス・グレンジャーという下男が、動物と性交をしていたところみつかってしまったのです。彼の告白のよるとそれまでに彼が相手にしたのが、馬一頭、牛一頭、山羊二頭、羊五頭、小牛二頭、七面鳥一羽だと言うのです。結局裁判では、旧約聖書のレビ記二十章十五節に「男がもし、獣と寝るならば彼は必ず殺されねばならない。あなたがたはまた、その獣を殺さなければならない」とあるので、これに従うことになった。最初に彼と関係をもった動物たちと七面鳥が殺され、その後本人が絞首刑になっているのです。ただでさえ女性が少ないので、下男では多分交際相手もいなかったのでしょう。清教徒が信仰の自由を求めてアメリカに植民地建設なんて聞くと、道徳的になにも問題が起きそうにもないと思いがちですが、そこは人間生活、どの世界でもかわりないという気がします。それにしてもこの克明に記録されている裁判記録というものは、さすが法律に重きを置くアメリカ人の祖先ということを如実に示しているのではないでしょうか。

このプリマス植民地は、大きく発展することもなく1691年にマサチューセッツ植民地に合併されてしまった。プリマスの地は耕地に乏しく、漁業にも適さなかったため経済活動が低調だったからです。プリマス植民地は、イギリス人が建設した植民地の中でも小さく、またニューイングランド地方の中でも一番小さくてさして重要な植民地ではなかったのです。ところが現在のプリマスは毎年大勢の観光客が押し寄せるアメリカ最大の国民的史跡
になっています。復元されたメイフラワー号が係留されていて当時の服装をした人たちが観光客の質問に答えてくれるのです。植民地時代の清教徒の生活を再現したプリマス・プランテイションもあります。親切にしてくれたインディアンの酋長マサイトの銅像もあります。清教徒たちが上陸第一歩を踏みしめたと言われるプリマス・ロック(岩)がまるでギリシャのパルテノン神殿そっくりの巨大な円柱でかこまれていて手すりの外からその岩を拝顔するようになっています。その岩には彼等が上陸した年の1620という数字が刻まれています。ところがその岩は、メイフラワー号に乗っていた人たちが、自分たちが最初に踏んだ岩だといって記念に残しておいたものではないのです。実は上陸した年からなんと121年後の1741年に当時94歳の老人、エルダー・トーマス・フォーンスと言う人が、「この岩が、彼らが最初に踏んだ岩だ」と宣言した岩なのです。プリマス植民地を建設した清教徒たちは、ピルグリム・ファーザーズ(巡礼者)とも呼んでいますが、これも建設当初から呼ばれた名前でなく、後世の人たちが上陸からおよそ170年後の1794年に、ある歌の歌詞のなかで、彼らをピルグリム・ファーザーズと呼んだのです。それ以来ピルグリム・ファーザーズと呼ばれるようになったのです。

白人が武力でアメリカインディアンを殺しまくり、彼等の土地を奪い、生き残ったインディアンは僻地に閉じ込め、黒人奴隷を沢山輸入し、こき使って民主主義国家を建設してきたのだ。そのためアメリカの建国物語は、史実の都合の良い部分に創作を加えて美化しなければならない宿命にあるのだ。ニューヨークタイムス誌は、こんなことを書く私を、歴史修正主義者と呼ぶのだろうか。




Comments (4)