Archive for 7月, 2016

自らの努力で美人に仕立てた女性(73歳)



私と同年代の男性でブログのタイトルに出ている73歳の女性の名前を知っているでしょうか?多分知らないのではないでしょうか。私もつい二、三カ月前までBSテレビで彼女へのインタビュー番組を見るまで全然知らなかった。女性、特に30代以降の女性は、彼女の名前を殆ど知っているでしょう。名前は佐伯チズ、日本のスキンケア界の代表的な美容アドバイザーです。彼女は、まだ大東亜戦争中の昭和18年に満州に生まれ現在73歳、私より5歳若い私と同年代です。無事満州から引き揚げ、15歳の時に見た映画で女優、オードリー・ヘップバーンを見て、「世の中にこんなに美しい女性がいるのか?」と美意識に目覚めたと言うのだ。何とか二重まぶたになりたく両手の指でまぶたを撫で続け、二重まぶたになることができた。ついでだが、戦後私の叔母は、年は20代前半だったが、やはり二重まぶたになりたくて、ひまさえあれば鏡の前でまぶたにヘアピンで線を描いていた。何年も一心不乱にやりつづけて見事な二重まぶたにしあげた。
女性というものは、生まれつきの容姿で美人、不美人は決まるが、しかし例え十人並でも本人の美意識に対する執念が美しくなるための行動を長続きさせることができ、美人に育てあげることができるのだ。私の叔母も佐伯チズもそうです。73歳の佐伯チズをテレビで見た時、私は彼女の顔、首まわり、手首など肌が直によく見える所をよく注意して見たが、実に若い、また容姿全体も眺めたが、背中がまっすぐ実に若々しいオーラをかもしだしているすばらしい女性、おばあさんという感じがまったくありません。

彼女の半生を追ってみると、24歳の時にプラネタリウム製造技術者と結婚。結婚後すぐにフランスの化粧品会社、ゲランに入社。昭和57年にクリスチャン・ディオールのインターナショナル トレーニング マネージャーに就任。昭和59年、彼女が41歳の時、夫が病死、子供はいず、以後独身を通す。彼女の化粧品業界の功績の一つは、ローションパックの先駆者でそのローションパックを広めたことでしょう。彼女の美容関係の著作もすごい。講談社15冊、大和書房13冊、計28冊。ほとんど美肌ケア、美肌ダイエット、美肌カウンセリング関係です。定年退職後の彼女の活躍もすばらしい。平成15年定年退職後、「アトリエ サエキ144」を主宰、エステティックサロン「サロン・ドール・マ・ポーテ」を開業、平成20年 佐伯式美肌塾「チャモロジースクール」を銀座にオープン。沢山のテレビ番組、CMに出演。
これだけの著作を出し、テレビに出れば、なにが何でも美しく、若々しくなければ宣伝にもなりません。自分自身を美しく見せる彼女の努力は大変なものだったでしょう。私の見たテレビインタビューの終わり頃、彼女が出かけるとき、いつも持ってゆくきれいな袋を見せ、その中から取り出したきれいな小箱を見せた。夫の死後の遺骨のいくつかが入っているのだ。その遺骨は取り出さなかったが、「これが夫の喉ちんこ、これが夫の体のどこの部分」とか説明していた。自宅の仏壇に全遺骨が置いてあり、私が死んだら私の遺骨と一緒に泥団子のようなものでいいから固めてどこかに埋めてほしい、絶対に別々にして埋めないでと親戚の者に言ってあるそうだ。本人が出かけて帰宅すると、その日何をしてきたのか、仏壇に向かって話しかけてあげるのだそうだ。できることなら、死んだ夫ともう一度結婚したいのよと語っていた。41歳で夫の死後、新しい伴侶に恵まれ再婚するのも素敵な話です。しかし佐伯チズのように夫の死後も再婚することなくたった一人の男を死ぬまで思い続けるというのは、まさに昭和生まれ、昭和育ちの女性には、日本の古き女性が持っていた美点のようなものを持っているのだと思っています。

私は今小説を書いています。数人の女性の生き様を書いた短編小説です。佐伯チズという女性を知って、その小説のタイトルを決めました。「戦後昭和の女性たち」です。全員昭和生まれ、昭和育ちの女性たちです。この女性たちの中には人生の土壇場で、日本の古き、良き女性の生き方を選ぶ女性がいるのです。ぜひ小説の完成を期待していてください。
私が何故小説を書いているか、気になるかたは、私のブログ「ベストセラー誕生作戦」4月16日をお読みください。






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「えんだんじのブログ」の緊急情報

    「つくる会」情報
シンポジウム「通州事件とは何か?」
通州事件アーカイブズ設立基金が開催

本年5月、日本・チベットの有志により「20世紀中国大陸における政治暴力の記録:チベット、日本」というタイトルで、1937年7月29日に起こった通州事件と、戦後の中国によるチベット民族消滅化政策をユネスコの世界記憶遺産に申請しました。
この度、記憶遺産申請の際の通州事件の調査チームが核となり、通州事件についての発掘、調査、保存、普及のためのNGOとして「通州事件アーカイブズ設立基金」(代表=藤岡信勝)が発足されました。
通州事件からちょうど79年となる本年7月29日、基金の発足を記念し、下記のとおりシンポジウムが開催されます。当会会員・支援者の皆さまも、是非1人でも多くご参加いただきますよう、お願い申し上げます。

 
シンポジウム「通州事件とは何か?」
‐通州事件アーカイブズ設立基金発足記念シンポジウム‐

日 時 平成28 年7 月29 日(金)18:30 開会(20:30 終了予定)

■場 所 東京・角筈(つのはず)区民ホール
     〒160-0023 新宿区西新宿4-33-7(電話)03-3377-1372
      (京王線「初台駅」、大江戸線「都庁前駅」A5出口より徒歩10分)

■参加費 1000 円(申し込みTel03-6912-0047 Fax03-6912-0048)

<証言> 通州事件の犠牲者と遺族のその後
 石井 葉子(遺族・世田谷在住)
  聞き手 皿木 喜久(元産経新聞論説委員長)
<講演>ユネスコ記憶遺産「通州・チベット」共同申請の歴史的意義
 ペマ・ギャルポ(国際政治学者)

<鼎談> 日本近代史の中の通州事件 
 北村 稔(立命館大学名誉教授) 加藤 康男(ノンフィクション作家)
 藤岡 信勝(拓殖大学客員教授)

<アピール> 通州事件アーカイブズ設立基金へのお誘い
 石原 隆夫(基金事務局長)

■主催 通州事件アーカイブズ設立基金


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北条政子は、何故国民の間であまり知られていないのか?



        このブログの転載、拡散をよろしくお願いいたします。
「自虐史観」とは戦後から現在にまで続いている歴史観であり、特に今から30年ぐらい前までは「自虐史観」一辺倒でした。「皇国史観」とは明治から終戦までの歴史観のことです。ここで皆さんに承知していただきたいのは、「皇国史観」と言う言葉は、戦前からあった言葉でなく、戦後の歴史家や知識人が戦前の歴史観を批判するために作った言葉だということです。疑問に思う方は、戦前に出版された国語辞書を見てください。「皇国」という言葉は辞書に載っていますが、「皇国史観」という言葉は載っていません。私の持っている平成7年年出版の「大辞林」には戦後版ですから「皇国史観」は載っています。
明治政府は、天皇を頭にいだいて江戸幕府を倒してできた政府です。そのため明治から敗戦の昭和20年まで、天皇家の権力や権威は、非常に大きなものでした。明治初めから敗戦までの日本史教育が、天皇家を中心に語られ、教えこまれてきました。
これが皇国史観と戦後呼ばれています。日本の歴史がかなりの程度天皇家を中心に語られるのわやむを得ないと思います。皇室の歴史は、日本の歴史でもあるからです。まして明治以降は、天皇家そのものが権力者だったから、余計に天皇家中心に語られるのはやむを得なかったと思います。

ところが戦後、日本批判がゆきすぎて「自虐史観」と呼ばれるように、戦前の歴史も「皇国史観」と呼ばれるようにあまりにも天皇家中心になりすぎてしまったのです。その弊害の一つは日本史上において天皇家と直接権力争いをした人物は、悪人とかたづけられ、人物像が正当に評価されないことです。北条政子はその典型的な例でしょう。
天皇家の鎌倉幕府に対する武力挑戦が承久の乱です。その乱に勝利した鎌倉幕府は、上皇二人を島流しにしています。上皇とは元天皇の地位にいた人のことです。その上皇二人を島流しにするとは不届きな奴ということで、北条政子は悪女扱い、陰謀家などと言われるのはそのせいなのです。このように皇国史観では、北条政子はけなされることはあっても、評価されることのない女性でした。
しかし北条政子すなわち鎌倉幕府は、政治権力を握っていたが、天皇家の権威をずっと立てていました。その一番大きな証拠は、政子の実子が死に絶えたとき、政子は京都の天皇家に頼み込み天皇家ゆかりの摂関家の幼児を京都から迎いれて将軍職につけたことです。ところが後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の後継者の種がつきると、鎌倉幕府を倒幕しようと「院宣」を各地にばらまきました。幕府への謀反を命じたのです。これが後に呼ばれた「承久の乱」です。承久の乱を起こしたのは、政子側でなく上皇側です。「承久の乱」の失敗後は、政子は上皇を殺さず島流しにしているだけです。この「承久の乱」がいつ起こったのかというと1209年です。いまから800年前です。800年前の日本の歴史なら、歴史家ばかりでなく私たちも公平に歴史をながめることはできるはずです。北条政子が、二人の上皇を島流しにしたのがイメージ的に悪いと非難する人がいますが、現在の日本人に政子を批判できる資格のある人はいるのでしょうか。

なぜならば終戦後の日本人を見てください。昭和天皇の権力は喪失し、廃位させられたも同然。宮様家は、廃止させられ、その後復活する兆しも全然なし。いずれ皇太子になられる殿下は嫁選びに苦労することでしょう。勝利国の太平洋戦争史観を植え付けるために大東亜戦争と呼ぶなと言われれば嬉々として従い、さらに国際条約違反の憲法まで押し付けられ、独立を回復しても廃棄も、改正もせず、一切変えこともなく、そのまま使っているのだ。要するにGHQの反皇室命令などに従順に従い続けている我々に政子を批判できる資格はありません。ここらで北条政子の名誉をもう回復すべき時なのです。皆さん、政子が権力を握っていた時代の世界を見て下さい。
アメリカ、カナダ、ニュージ-ランド、オーストラリアなどの国など影も形もないどころか現在の英国(グレイト・ブリテイン)もまだ存在していません。当時となりのシナは、蒙古人のフビライハーンに支配され、彼は日本を滅ぼそうと二度も大軍を派遣(蒙古襲来、文永の役と弘安の役)してきて鎌倉幕府の必死の抵抗に会うなどして失敗しています。ヨーロッパや地中海は、キリスト教の十字軍がイスラム教の国々と戦争を繰り返していたのだ。一体当時のどこの文明国に北条政子のように女性権力者がいたというのだ。当時の世界では、北条政子という女性は、世界史を代表する女性ではないですか。当時は男女同権、平等の思想など全くない時代、武将ともなれば側室を自由自在に持てる時代です。そのため政子は嫉妬に狂い側室宅を燃やしてしまう行為にも出た。しかし政治的行為には嫉妬の影響はみられません。政治的行為と私的行為を区別できる女性だったと思います。

私は横浜在住なので、鎌倉にたまに出かけますが、政子の地味なお墓はありますが、その他に政子の存在感を示す特別なものが何もない。頼朝死後政子のがんばりで現在の鎌倉は古都としての面目を保って観光地になっているのではないでしょうか。ところが鎌倉にやってくる観光客の多くが政子の名前を知らずに来て、政子の名前を知ることもなく帰ってしまうのだ。これは鎌倉市政の落ち度ではないでしょうか。800年も前に世界史的女性として北条政子が存在したことをもっと日本国民に知らしめる必要があるのではないでしょうか。それによって若い日本女性に刺激を与えることもできると思っています。
私が北条政子の物語を書くにあたって参考文献にしたのは、「日本の女性史 2巻 (乱世に生きる)」和歌森太郎、山本藤枝、集英社(昭和40年)。





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「鉄の女」北条政子(2)



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1.尼将軍
暗殺される前、生存中の次男、実朝は体が弱く、結婚後十年以上たっても子供ができなかった。昔のことですから体力のなさが原因と考えたことでしょう。そのため実朝の跡継ぎが問題になってきました。そこで政子や幕府首脳陣が話し合った結果、誰の発案かわかりませんが京都から皇族の将軍を迎えようということに決まった。その交渉のため政子が京都にのぼった。交渉の結果、後鳥羽上皇の息子の六条宮か、冷泉(れいぜい)宮かのどちらかを将軍として鎌倉へ使わすという約束をとりつけて鎌倉に帰郷した。ところが実朝が暗殺されてしまったので、早速幕府側は、約束の履行を要求した。
ところが後鳥羽上皇は、源氏将軍家の断絶は、鎌倉幕府打倒の絶好の機会ととらえ政子との約束を反故にしようとした。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の荘園支配に不満を持っていた。上皇の収入に直結するからです。
それでも再交渉の結果、左大臣九条道家の子で、西園寺公経(きんつね)の孫、頼朝からいえば、妹の曾孫にあたる二歳の幼児、藤原頼経(よりつね)を将軍として鎌倉に向かえることで話が落ち着いた。二歳の幼児将軍頼経(よりつね)は、1219年7月19日鎌倉に到着した。
後見人は政子がなった。これによって政子は尼将軍と呼ばれるにようになった。夫、頼朝の死後、政子はすぐ出家して尼になっていましたが、今まではどちらかと言えば影の実力者のような存在でした。
ここで尼将軍と呼ばれ幼児将軍の後見人になり、政治面で弟の執権義時と同じように肩を並べたようになったのです。実朝が殺されたのが同じ年の1月12日ですから、悲しみに浸っているどころか、わずか半年で政治の矢面にたったというのは政子の並々ならぬ精神力がうかがえます。
2.承久(じょうきゅう)の乱
鎌倉幕府と後鳥羽上皇との関係は、幼児将軍、藤原頼経を鎌倉へくだすことで決着がついたわけではなかった。後鳥羽上皇は、実朝が死に源氏の跡継ぎが絶えたこの時期が鎌倉幕府を倒す好機と、北条氏に不満を持つ武士たち、京都の御家人たちを集めたりして倒幕の準備をしていた。
1221年5月19日京都から鎌倉まで4日で到達できるという超特急の飛脚が鎌倉に着いた。鎌倉から京都守護職に出向いている伊賀光季(みつすえ)からの飛脚でした。
「院ではしきりに兵を集めています。私の身辺もあぶないようです」
この時伊賀光季はすでに殺されていた。5月14日に後鳥羽上皇が召集をかけたのに京都にいた鎌倉の御家人たちで、光季ただ一人応じなかったからです。
5月19日の光季の最初の飛脚後、その日のうちに次々と飛脚が着いた。飛脚たちの報告で政子を初め幕府首脳陣は愕然とした。上皇の呼びかけに応じて北条氏に滅ぼされた比企氏や和田氏の一族の裏切りはしかたがないとしても、鎌倉御家人の有力者に裏切りが出ていること。上皇が義時追討の院宣を全国に配布したこと。
院宣とは上皇が出す公文書のことです。院宣の影響力は大きく枯れ木に花が咲くとまで言われてきました。すなわち鎌倉幕府が「朝敵」になってしまったのです。その日のうちに上皇の院宣を持った使者が鎌倉に到着しました。
幕府は滅びるかもしれない。鎌倉武士に動揺が広がりました。ぐずぐずしていると上皇軍の数がふくれあがるかもしれないとその日のうちに義時、時房の兄弟、義時の長男泰時、大江広元らがあわただしく政子の邸宅に集まった。同時に鎌倉中の御家人たちも招集された。
政子の邸宅、また庭のすみずみまでぎっしり集まった御家人たちを前に尼将軍政子は、一世一代の名演説をぶちあげた。
「みなさん、心を一つにして聞いてください。これは私の最後の言葉です。あなたたちには、昔は三年の大番(おおばん)(京都大番役のこと)というものがあった。大切な勤めゆえ、みなはりきって出かけていった。しかし三年ののちには力つきて、みすぼらしいみのかさ姿、足にははくものがないありさまで帰って来た。故殿(頼朝のこと)はそれをあわれんで、三年の勤めを六ヶ月にちぢめ、分に応じたわりあてをして、みなが助かるようにはかられたではないですか。
これほどの深いおなさけを忘れて、京がたへつこうとする者は、・・・いいえ、とどまって鎌倉がたへ奉公しようとする者も、さあ、ここで、はっきり、所存を申し述べて下さい」
政子は上皇の院宣の不当さをなじり、鎌倉には将軍四代の今までに、朝敵の汚名をきせられるようなあやまちは、露ちりほどもなかったと主張、さらに「わたしはなまじこの年まで生き延びて、三代将軍の墓所を、西国のやからの馬のひづめにかけられるのかと思うとくやしくてならない。これ以上生きて何になろう。京都がたにつきたいのなら、この尼を殺してからいくがいい」
切々と訴える政子の目には涙があふれ、聞いている御家人たちの目にも涙、政子の説得は功を奏し、御家人たちは一致団結した。防御に専心すりより一刻も早い攻撃と決定。
5月21日の夜、総指揮官、北条泰時は、主従わずか18騎で鎌倉をたった。時房と朝時(泰時の弟)がこれに続き、東国の武士たちが続々とあつまり、京都を攻め入る時は19万の大軍になり朝廷側に圧勝した。これを承久の年に起こったので承久の乱と言う。乱後の処分に政子も立ち会っています。
事件の張本人、後鳥羽上皇は出家の上、隠岐の島(島根県)へ、後鳥羽上皇の皇子の順徳上皇は佐渡島(新潟県)へ配流ときまった。同じく後鳥羽上皇の皇子、土御門(つちみかど)上皇は、事件に関係がなかったけれど、自ら進んで土佐(高知県)にひっこんでしまった。
3.政子の弟、義時の急死
承久の乱からまる3年後の1224年、執権北条義時が急死した。義時は持病の脚気を病んでいたところへ発作をおこし、いまでいう脚気衝心で死んだというのが公式発表でした。ところが義時は毒殺されたというのです。首謀者は義時の後妻伊賀の方(かた)とその兄伊賀光宗。伊賀の方には義時との間に一男一女がいた。
娘の方が、参議右中将一条実雅(さねまさ)に嫁いでいて、当時20歳の政村(まさむら)という息子がいた。伊賀の方と、兄光宗は、この一条実雅を将軍に、政村(まさむら)を執権にし、幕府の権力を伊賀氏の手中におさめようという野望を抱いていた。
これはまさにかっての政子の父、時政の後妻牧氏の陰謀の再生版です。伊賀の方と兄光宗は、幕府の最有力者、三浦義村(よしむら)を抱き込みにかかった。それを察知した政子は、一人で三浦邸に乗り込み義村を談判、説得し陰謀を未然に防いだ。そして首謀者、伊賀の方と兄光宗を流罪に処した。
この事件解決後、政子は病に倒れた。執権北条泰時を初め鎌倉じゅう大変熱のこもった治癒祈願がおこなわれたという。ついに69歳の生涯をとじた。政子にとってやっと得た安息の日は、死だったのではないでしょうか。
しかもあの世では、夫頼朝に「政子、お前は本当によくがんばってくれた」と涙を流して喜び、しっかりと政子を抱きしめたことでしょう。政子のお墓は、現在鎌倉の源氏山のふもと、寿福寺の岩窟に実朝のお墓と並んでいる。
4.政子陰謀家への反論
政子は鎌倉幕府の実権を政子の実家、北条家ににぎらせるために数々の陰謀を行ったという陰謀家説があります。小説家が、政子を陰謀家と描くのは勝手ですが、歴史家や知識人が政子を陰謀家のように扱うのはいただけないと思います。
史実的には、政子が陰謀家だったということを肯定する史料もなければ否定する史料もないからです。(もっとも私の知る限りではという条件はつきますが)
私は政子を非常に好意的にとらえるのは、承久の乱の時の政子の存在感の大きさです。承久の乱の時、鎌倉幕府の最高責任者は、政子の弟、執権北条義時です。頼朝生存中は、父時政とともに戦場を駆け巡っていますから経歴も文句なし。そして将軍はまだ4歳になったばかりです。
そのことを考えると執権義時が、自邸に首脳陣や御家人たちを集め、義時が皆の前で演説して当然だと思うのです。それが義時自ら首脳陣を引き連れて政子の邸宅に行き、そこで鎌倉中の御家人たちを呼び集め、政子に演説させているのです。いかに政子の鎌倉幕府での存在感が大きかったかの証拠でしょう。政子はそれだけのカリスマ性を備えていたのです。ここでカリスマ性を分かり易く説明するために全く関係のない人物をとりあげてみます。
「経営の神様」と言われた松下幸之助です。ご存知のように幸之助は、戦後直後に一町工場としてスタートしてから一代で世界的なメーカー育てあげた経営者です。幸之助は、ちょっとやそっとでつぶれそうもない大きさの会社にするまでに、恐らく数えきれないほどの艱難辛苦を乗り越えてきたことでしょう。
幸之助と一緒に働く従業員は、苦悩し奮闘する幸之助を実際に見聞きし、幸之助への絶大の信頼を寄せるようになったと思います。そのようにして幸之助はカリスマ性を備えていったと私は解釈しています。
要するにその人のカリスマ性というものは、数多くの試練を乗り越えることによって自然と身につくものだと考えています。
話を元に戻して、政子のことですが、政子も前に振れたように数多くの試練を乗り越えてきました。それもこれも夫頼朝の残した鎌倉幕府安泰のため乗り越えてきたということ、そこには政子の私利私欲なかったことを鎌倉御家人たちが実際に見聞きして知っていたからこそ、政子はカリスマ性を身につけることができたのではないでしょうか。
もし政子が陰謀家だったら、陰謀事件にはかならずうわさがつきまといます。「人の口には戸はたてられない」という言葉があります。御家人たちの政子に対する信頼性が必ず薄らぎます。承久の乱、すなわち朝敵と名指しされ鎌倉幕府存亡の危機に直面したとき、鎌倉中の御家人たちは、政子の演説のもとに一致団結した行動がとれたでしょうか。
このように私は、北条政子という女性を非常に高く評価しているのですが、世間ではあまり知られていません。政子は、男女同権だとか男女平等の考えがなかった800年も前にこれだけの活躍をしているにもかかわらず、現在の女性にも全く感心を持たれていません。なぜか、歴史観が影響しているからです。そのことについては次回のブログに書くことにします。読者の皆さん、北条政子の生き様どう思われますか、私が映画監督なら、北条政子を主演にした映画を絶対に作ります。




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