Archive for 6月, 2017

保守の皆さん、憲法改正はいけません。(2)



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三。アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治
昭和20年(1945)8月15日、日本は降伏した。8月28日アメリカ占領軍の先遣隊が厚木飛行場に到着、8月30日アメリカ占領軍最高司令官、マッカーサー元帥が厚木に到着した。ところがなんと驚いたことに、日本敗戦から1か月後、マッカーサーが到着してから二週間後の9月15日に小川菊松という出版人が「日米会話手帳」、サブタイトルに英語で「Anglo・・Japanese Conversation Manual」と書かれた本を出版した。この本は32頁の小冊子で、日常の挨拶から始まって、道を聞かれた際の教え方、数の数え方など極めて簡単な会話79例を載せていた。敗戦後わずか1か月でこういう本が売り出されたこと自体が驚きなのに、なんとその年の年末までの3カ月半の間に360万部も売れるという大ベストセラーになったのです。終戦時(昭和20)日本の人口は約7千2百万、まだ海外派遣されていた兵士や民間人全員日本本土に戻っていません。実際の人口は7千万ぐらいでしょう。それに子供、老人は読みませんから、まさに空前のベストセラーでしょう。短期間にこれだけの部数が売れた本が、その後出版されたのでしょうか。終戦直前までは、アメリカ軍の本土上陸に備えて竹やりの訓練さえしていたのです。それが竹槍を投げ捨て本屋さんに殺到したのだ。
この本が売り出される前のわずか半年間の間に三月の東京大空襲、前後して大都市空襲、4月からおよそ一か月にわたる沖縄戦の熾烈な戦い、8月に広島、9月長崎の原爆で、犠牲者を合計すれば少なくとも死者50万人以上を出しているのです。それにもかかわらずこういう本が空前のベストセラーになったということは、マッカーサーの日本到着時点で、すでに日本人のほとんどが今後の生活の心配が先立ちアメリカ軍に対する敵意や憎悪をなくしてしまっている証拠です。
マッカーサーは日本到着後すぐに日本統治を始めますが、最初の五年間にどのくらいの手紙がマッカーサーに寄せられたか記録があります。昭和21年9月から昭和26年5月まで約5年間にアメリカ占領軍(GHQ)翻訳通訳班が44万1千161通の手紙と葉書を読み、処理した公式に記録されています。アメリカのマサチューセッツ工科大学教授、ジョン・ダワーは1999年に「敗北を抱きしめて」(原題、Embracing Defeat, Japan in the wake of World WarⅡ)を著し、ピューリッツアー賞を受賞した。その本の中でマッカーサーに送られた手紙や贈り物の内容について書いています。しばらくその文章を引用します。
引用開始
「これらの手紙は最高司令官に向けられ検閲されていたこともあって、マッカーサーの虚栄心を満たしたことは間違いない。そこには、マッカーサーに対する尊敬の念や、彼の限りない寛大さにたいする惜しみない感謝の言葉が述べられていたからである。手紙を書いた人々は、マッカーサーの「神の如き尊き御慈悲」を讃え、彼を「生きたる救い主の神」と呼んだ。ある青森県の老人は「昔は朝な夕なに天皇陛下の御真影を神様のようにあがめ奉ったものですが、いまはマッカーサー元帥のお姿に向かってそういたしております」と書いている。神戸のある団体は、基督山上垂訓図を日本画風に描かせ、マッカーサーに贈呈し、元帥のご指導は、まさにこの絵に描かれ崇に高さを思わしめるものがありますと賛美の手紙を添えている。マッカーサーは釈迦のような慈悲の持ち主と讃えられ、孔子の「論語」に登場する「遠来の友」にも例えられた。また、日本の悪夢の如き戦争から救ったとして崇められ、外国人による占領という未知の状態におびえていた日本人に、希望と幸福をあたえたと感謝された。市井の男女が、自分たちがかって軍国主義者であったと言う罪をまるで聖職者にたいするようにマッカーサーに告白し、精神科医に対するかのように心の奥底の恐怖や希望を打ち明けたのである。こうした人々にとってマッカーサーは、この時代の偉大な愛の化身であった。彼らは手紙のなかで、まるでお守りのように平和と民主主義という言葉を繰り返し語っていた。マッカーサー最高司令官は、その犯しがたい権力のゆえ天皇のような存在であったが、彼の方が天皇より近づきやすく、より直接的に関係を持つことが出来る存在と思われていたことも明らかであった。民主主義を約束する権威主義な支配という逆説に満ちた試みが、ここに始ったのである。
マッカーサーには沢山の贈り物が届いたが、ほとんどの場合、彼はそれを受け取った。日本では自分より上位の者や恩人に贈り物をすることは伝統的習慣であったが、この外国の大君主への貢ぎ物の数は、過去の日本の軍高官に対する贈り物をはるかに超えていた。(中略)
このうえないほど格式が高く、手のこんだ贈り物は手織りの着物と帯であった。これを織り上げた人物は、1946年11月から京都の下賀茂神社にこもり、丸3年かけて作り上げたのである。彼は毎日お祈りをし、ついには7千万刺しを持って自らの最高傑作を織り上げ、神道の祈祷文とともに「わが国民7千万人の清き心のしるしとして」マッカーサー元帥に献上した。明らかにこの織物の一刺し一刺しが日本人一人一人を意味していたのである。
つつましやかな躍る鮎と豪奢な錦織の間を驚くべき数の贈り物や招待状が最高司令官に向けて滝のように降り注いできた。人形、ランプ、陶器、漆器、竹細工、封建時代の書、書籍、盆栽、盆景、動物の毛皮、鎧、刀、絵画、彫刻にいたるまで、さまざまな物をマッカーサーは受け取った。それらの中にはマッカーサー自身が描いたものもあった。(中略)
引用終了
贈り物に関するページはまだ続きますが、この辺で終わりにして、一般市民からの手紙に関して、さらにこう書いています。

引用開始
「GHQの直接送られた手紙のなかでそれほど多くは占めてはいなかったものの、注目すべきものとしては、特定の個人を戦争犯罪人として逮捕・追放し、裁判にかけるべきだとして、名指しで告発するものもあった。また戦争中に権力を笠にきて威圧的な言動をしていた役人を、地域の住人が告発する手紙もあった。高校生や大学生たちは、軍国主義に加担した教員を指摘した。旧帝国軍人のなかには、戦争中に連合軍の捕虜に虐待をおこなった日本人兵士の名前を告発する者もいた。(中略)
又「反アメリカ的」の感情をもったり、「反民主主義的」な考えをいだいていた人々も告発された。このような情け容赦ない告発文書がマッカーサーやGHQのもとに送られてきたのである。こうした事実だけを見るかぎり、きのうまで愛国主義者だった日本人は、一夜にして占領軍への密告者、或は情報提供者に変貌してしまったようにみえる。その他にも、日本はアメリカの属国になるか、あるいは永久にアメリカの植民地になるべきだと主張するような、驚くべき手紙も存在した。その一方で男女を問わず、占領政策への批判やアドバイスをすることもためらわなかった。」
引用終了

占領軍で手紙の翻訳にかかわった沖縄出身の日系アメリカ人は、このような告発の手紙を読んでいるうちに、自分は日本人を軽蔑するようになってしまったと言っていますが当然でしょう。占領軍や占領軍司令官にたいするまさに度を越した媚態です。長崎では、原爆による放射能の影響調査にやってきたアメリカの科学者チームの責任者に、ガラスケース入りの人形が贈呈されているのです。またその後すぐに住民たちは、駐留する占領軍軍人とともに「ミス原爆美人コンテスト」開催したというのです。敗戦寸前まで激しくたたかった国民が、敗戦直後に見せた豹変ぶりがまったく信じられないくらいで、この豹変ぶりはある種の脅威とか異常とか呼べるような気がします。まさに私が主張する異常なまでの変わり身の早さではありませんか。決してほめられる民族の態度ではないことは確かです。それではマスコミは、マッカーサーに対してどういう態度をとったか見てみましょう。敗戦一年後の昭和21年(1946)8月15日の朝日新聞の社説は、
引用開始
「この一年間にしめされた連合軍最高司令官マッカーサー元帥の偉大な業績については、内外等しく賛嘆をおしまないところである。われわれは心から元帥に対して深厚なる感謝の意を表明するものである。元帥には、日本ならびに日本人を深くいたわる気持ちがある。この気持ちが、日本の人民を信服せしめた。この気持ちがなかったならば、天皇と日本の政治機構をいかに有効に占領目的を達成するために使用したとしても、そのことだけで、今日までの偉大な業績は示し得なかったであろう。」
引用終了

これまでスターリンへの感謝状、日系アメリカ人の強制収容、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治に対する日本人の態度を書いてきましたが、読者の皆さんは、どのような感想をお持ちでしょうか?私の感想は、日本人は外国人に生殺与奪の権を握られると、徹底した「迎合と妥協」に走り、それが行き過ぎて卑屈になるのです。日本人の誇りを見せつけたものはなにもなかった。わずかに指で数えられるほどの日本人だけが己の信念を貫いただけだと思っています。次にGHQはどのような意志と目的をもって日本を統治したのか探っていきます。
1.WGIP
皆さん、この頭文字(ダブリュ・ジー・アイ・ピー)は絶対覚えておいてください。この頭文字の正式な名前は、War Guilt Information Program(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の頭文字をとったものです。日本語の意味は、(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)。このWGIPという言葉は、古くから使われていますが、一番古いのは故江藤淳氏が1989年文芸春秋社から出版した「閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本」です。歴史に興味のある人は、この本を大抵読んでいるのでこの言葉は知っていますが、WGIPは、一般的に使われた言葉でなかった。この本には欠点があったからです。著者が実際にWGIPの書類のコピーを提出していなかった。このためでしょう、現在の百科事典とも言うべきウィキペディアでは、以前は江藤の主張は載せていたが、疑われていた。ところがつい最近のウイキペディアの内容は一変しました。私と同年代の関野通夫氏がGHQの2万5千点の文書から、幻だったWGIPの証拠文書を発掘し、即その本を平成15年3月に出版したからです。出版社は、自由社の「自由社ブックレット1」として出版した。本のタイトルは「日本人を狂わせた洗脳工作(今なお続く占領軍の心理作戦)」、本のページはわずか82頁、値段はわずか500円プラス税です。この本が如何に重要だったかすぐわかるのは、今ではウィキペディアで関野通夫氏の名前もこの本の名前も記載されているからです。この本に続けて関野氏は、平成16年9月に自由社から「続・日本人を狂わせた洗脳工作」(いまなおはびこるWGIPの嘘)を出版、112頁、値段同じく500円+税です。GHQの占領政策は、WGIPの計画を基にして実行されていったのです。憲法改正を主張する人は、まず関野氏のこの本を絶対読んだうえで主張してもらいたい。
「つくる会」の広島県支部長、長谷川真美氏の寄付によって200部を衆議院議員に贈呈しました。その他「つくる会」の会員が地元の県会議員、市会議員などに贈呈しています。
憲法改正の話が話題になっている現在では、関野氏のこの本は、日本国民必読の本です。皆さんに知ってもらいたいのは、この本は憲法改正反対などにひとことも触れていません。この本に書いてあることは、
「GHQは日本を軍事的に征服したうえで、日本民族から記憶を奪い、精神を破壊して、占領を終了した後も、未来永劫にわたってアメリカの属国としてつくりかえるために、日本に対して全面的に歴史戦を開始した」。これらの史実が少ない頁数で適格に書かれているのです。本来ならこの本に書かれていることは日本史の先生方が書いて当然なのです。関野氏は日本史の先生ではありません。長い海外ビジネスの経験を持っている元ビジネスマンです。それだけ日本の歴史教育が歪んでいたわけです。あくまでも憲法改正を主張する人は、絶対にこの本を読んでもらいたい。お願いいたします。

2.GHQの占領政策にたった一人抵抗した男
GHQの占領政策のほとんどが、日本政府の強い抵抗もなく、また反対のための暴動らしい暴動もほとんどなく、日本国民に受け入られました。しかしここにたった一人、占領政策に公然と抵抗した人物がいました。終戦直後の幣原内閣に次いでできた第一次吉田内閣の大蔵大臣、石橋湛山です。次の二つの問題で石橋とGHQとの対決の場になった。
(1)戦時補償打ち切り問題
戦時補償とは、戦時中日本政府が軍需生産の増強を図るため、国家総動員法、軍需会社法などの法令に基づき、多数の軍需企業や民間企業に対して生産設備の建設あるいは軍需品の生産のための全力を注ぎ、政府の補償をあてにして巨額の借入金を背負い、設備を拡張したり、工場の疎開を行ったりしたが、敗戦の結果、これらの企業ばかりでなく、企業に融資していた銀行も多大な損失を被った。ここで戦時補償を打ち切ったら、日本経済はどうなるか?石橋湛山は必死にGHQに抵抗したし、抵抗しきれないと判断したら、吉田首相に辞意を表明した。吉田は「長い物には巻かれろというから」と言って湛山を説得したという。GHQ当局は、日本の軍需産業などつぶしたくてしょうがないのだ。湛山の必死な抵抗が続いたため、当時の日本の王様、マッカーサーの裁断に仰ぐ結果となり、戦時補償は打ち切られた。湛山の執拗な抵抗がGHQ司令部に「生意気な奴」という印象が残り、公職追放の計画が練られていった。

(2)終戦処理費問題。
終戦処理費とは昭和21年GHQが報道各社にどうしても占領軍維持費に言及しなければならない場合は、「占領軍維持費」を「終戦処理費」と呼ぶよう通達した。占領軍維持費の膨大さを隠そうとしたのだ。占領軍維持費は、毎年度政府予算における歳出総額のほぼ三分の一を占める膨大なものだった。日本の保守の読者層なら誰も知っているヘレン・ミアーズ女子(「アメリカの鏡・日本」の著者)は、終戦時GHQのスタッフと働いていた。彼女はこう書いています。
「アメリカ人は、贅沢なことを考えるから、占領経費を節約しようとしない。将校宿舎や官舎の生け花代、本国への電報電話代、キャンプに維持費、文民専門と秘書の給料、その他生活のお楽しみ代は日本人が負担した。」
しかし最も驚くべき支出項目があった。占領軍関係者が起こした交通事故で被害を受けた日本人に支払われた保証金総額6億2千万である。ゴルフ場の建設、シャンデリア、ジュウタン、装飾用の生け花などもすべて終戦処理費で賄われた。さらに問題になったのは、清浄野菜農場の新設だ。人肥を使用した日本の野菜は不潔で口にできないというのでプールのようなコンクリート槽の中に砂地を作り、水を張って、化学肥料を加える方法の野菜畑を作ったのも終戦処理費です。
さらに東京裁判の費用、即ち法廷建設費や、裁判官や検事の滞在費、人件費、その他で合計72億円も日本政府は払わされているのだ。占領軍は、占領軍維持費を終戦処理費と呼ばせておいて、日本人の税金を湯水のように使っていたわけだ。
終戦直後の日本は、軍需産業の倒産、財閥解体などで失業者があふれ、そのうえ海外からの一般人や軍人のひきあげなどでさらに失業者があふれかえり、国民は食うや食わずの極貧生活を強いられていたのです。そんな時に東京裁判が開かれ、現行憲法の施行を強要されたのです。だから大蔵大臣である石橋湛山が、GHQに占領軍維持費(終戦処理費)を削減してくれと要求するのは当然すぎるほど当然だったのだ。しかし湛山の要求は、特にGHQの地方に駐屯する軍人の不評をかった。占領軍維持費は勝者の特権であり敗者が口をはさむ問題ではないという意識だった。このため湛山の公職追放計画が早められ、公職追放の口実探しが加速された。公職追放通知で湛山は、自分がGHQによって追放されると知った時、吉田首相に追放拒否を主張した。この時の吉田首相の言葉が有名です。「しかし君、狂犬に噛まれたと思ってくれ」
公職追放後の湛山の態度も私は偉いと思います。公職追放された人たちの殆どが、自分の公職追放は納得いかないものであっても、泣き寝入りしていた。ところが湛山は、自分の公職追放は納得いかないと追放の不当性を訴え、GHQに徹底した戦いを挑んだのです。湛山が自分の公職追放策に挑んだ抵抗策は。
(1)片山新内閣に追放取消策を要求。
(2)湛山の友人たちの署名の陳情書をマッカーサーに提出。
(3)中央公職適否審査祈願委員会に英文80頁におよぶ反論書提出。
(4)公職追放になった10月27日午後2時に日本主要新聞の政治部長を、午後4時から外国紙の特派員を招いて反論書を渡し、記者会見をひらいた。

湛山のこれらの努力は何一つ報われることがなかった。追放はまる4年間続きそれまで政界に復帰することができなかった。私が腹が立つのは、当時の政治家、マスコミの人たちは、湛山追放の理由がでたらめであったことを知っていたにも関わらず誰一人として湛山を援護しなかったことです。

ここからは現在非常に話題になっている憲法改正問題について語ります。真っ先に最重要な事を先に書きます。いいですか、皆さんぜひ注目してください。現行憲法は、「日本国憲法」ではなく占領軍が作ったままの憲法、すなわち「占領軍憲法」である。その理由、
1.アメリカ占領軍は、絶対王政の王様の権限を持っていた。昭和天皇の生殺与奪の権をにぎっていた。占領軍が「昭和天皇の地位をどうの、こうのするつもり」という発言で日本政府を震え上がらせることができた。
2.マッカーサーは部下に命じて。わずか四日余りで英文で作成させたものを単純和訳させて、「日本国憲法草案」なるものが作成され、昭和21年2月13日に、当時の日本政府に対して手交された。
3.戦時国際法、ハーグ陸戦法規(第43条)」明治40年(1907年)10月18日ハーグにおいて調印、日本は、明治44年(1911)11月6日批准)には、「戦勝国が敗戦国を統治する場合は、その国の法律にしたがわなければならない」(「国の権力が事実上、占領者の手に移ったときは、占領者は絶対的支障がない限り、『占領地の現法律を尊重して』、なるべく公共の秩序、および生活を回復確保するために施しうる一切の手順を講じなければならない。」ことが決められていた。すなわち「占領軍憲法」は国際法違反のもとでつくられ、「日本国憲法」としたのです。
4.30項目の報道規制(プレスコード)
敗戦から一か月とたたない昭和20年9月10日、「新聞報道取り締まり方針」」と「言論及び新聞の自由に関する覚書」がGHQより発せられ、「削除及び発行禁止対象のカテゴリー」(30項目)が定められた。その30項目の3番目にはこう記載してあります。
「3.GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」
すなわちGHQは、国際法違反で平気で日本国憲法を作っておきながら、その憲法を批判する態度を厳禁にしているのだ。そうなると憲法について書く学校の教科書はどうなったのでしょうか。昭和22年8月2日文部省発行の中学校教科書にはこう書いてあります。

「今度の新しい憲法は、日本国民が自分でつくったもので、日本国民全体の意思で自由に作られたものであります。この国民全体の意思を知るために、昭和21年4月10日に総選挙が行われ、新しい国民の代表が選ばれて、その人々がこの憲法を作ったのです。それで新しい憲法を作ったのです。それで新しい憲法は国民全体で作ったということになるのです」

どうですか、国は平然と国民に大嘘をついて教えていたのです。これがのち、のちまで日本の学校の歴史教科書に嘘が書かれ、嘘が嘘を呼ぶのが現実となってしまった。どうしても戦前戦中の日本を徹底して悪に貶める教科書が誕生しつづけ、一例は全歴史教科書が「従軍慰安婦事件」を掲載。これではなんとかしなければいけないと国民の支持で20年前に立ち上がったのが「新しい歴史教科書をつくる会」なのです。安倍総理も議員時代は、「つくる会」の積極的な支持者で、「つくる会」の季刊誌にも投稿してくれ、激励してくれたこともあった。私も安陪議員に面会しお礼を言ったこともあるのだ。しかし総理になるとアメリカ政府の太平洋戦争史観に従っているだけなのだ。それが安陪総理の「村山談話」と「河野発言」の容認、首相自身の「70年談話」でもわかるし、今度の憲法改正提案でもわかります。

5.私は憲法学者ではないので「占領軍憲法」の弱点を一々取り上げて論評することはできません。しかし一読してどうもこれは、占領国が敗戦国の日本を差別して作った憲法、どうしても日本国が自分で作った憲法でないと察することができる条文があります。憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書いてあります。
いいですか、普通、ある国家が諸国民と言ったら近隣諸国のことです、日本はシナ、朝鮮、ロシアなどと何世紀と付き合いがあるのです。その近隣諸国の公正と信義を信頼して、日本の安全ばかりでなく生存まで彼らに委ねているのです。こんなバカな条文を日本自身で作ると思いますか。結局、アメリカは、戦勝国になったばかりだし日本を舐めきっているから書ける条文です。

ところで、皆さん、私が憲法改正反対のためになぜ、三つの話題、一、スターリンへの感謝状、二、日系アメリカ人の強制収容、三、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治、の話を持ち出したか、わかりますか。日本人は戦場で敵を驚かすほどの強さを持っていた、しかし、一旦負けて捕虜になったり、本土が敵の占領地になったりすると、からっきし弱くなってしまいます。私はこれらの日本人を「世界一変わり身の早さで権力者に迎合、妥協し、時には卑屈さを通り越し卑屈さを前面に押し出す」と酷評しました。読者の方で、これに変わる良い意味での表現があれば教えてください。私はこの弱さの原因は、日本は古来から無慈悲な独裁者から徹底的に搾取され続けた経験がないからだと思っています。
キリスト教の宣教師たちが、日本にやってきたとき、「彼らは皆一様に貧乏だ、だが民度は高く、誇り高い民族だ」と日本人のすばらしさを本国に知らせています、明治時代にやってきた外国人が日本民族を褒めあげるのも何度も本で読んでいます。もともと日本民族は誇り高い民族であったのだ。その誇り高い民族が、大東亜戦争の敗戦ですっかり落ち込んでしまった。戦後70年もたった今は経済が戦後直後より大発展し、国民は食うに困るわけでもない、何でもできるし、なんでも発言できる、そのため日本民族の誇りはもどりましたか?冗談じゃない、誇りがもどるどこらか、さらに悪くなり、日本への誇りなどなくなってしまったのだ。
いいですか、戦前、戦中の日本をどうしようもない悪い国にするために、海外で「起こらなかった事件」を「起こった事件」にして日本政府を批判したり、日本政府にお金を支払わせたり、あるいわ謝罪させることが度々起こし、それを歴史教科書に堂々と載せるのだ。それが度をこして現在では、占領軍が作った「日本憲法」にノーベル平和賞まで与えてくれと叫ぶ日本人グループが存在しているのだ。

ソ連の日本人捕虜収容所で6万人以上の日本人が「スターリンへの感謝状」を書いた。そこにはそこまで書くかというくらい、うそも方便の卑屈なまでのおべんちゃらを書いているのだ。もし彼らが現在まだ生きて、現在の日本の姿を見たら、間違いなくこう言うでしょう。
「私たちはいつ死んでしまうかわからない地獄の極限状態で暮らしていたのだ。だからはからずも、極度に卑屈な言葉を書いてしまった、今となっては申し訳なかったと思っています。ところ現在の日本は、私たちの地獄状態の生活と違って極楽状態の生活をしているようなものです。それなのに何故史実として存在しなかったものを(あったことにして)謝罪したり、お金を払ったり、歴史教科書に書いたりするのですか、占領軍の作った日本憲法にノーベル賞を上げてくれだと、あなたがた日本人は気が狂ったのですか。」と必ず言われるでしょう。

現在の日本人は、国際スポーツの試合で日本を応援すれば、それが愛国心だと思っているのだ。愛国心もなければ、日本人としての誇りもありません。ただやたらと日本をけなし、日本を卑下する人が多すぎます。私たちはこの健全な愛国心や誇りを取り戻さねばなりません。それには、憲法改定とか言って、占領軍の作った「日本国憲法」をいくら継ぎ接ぎして改正しても洗脳された者、あるいわ洗脳されたふりをしている者を正気に戻すことはできません。現憲法が生きている限り、自虐史観は絶対になくなりません。やはり現憲法を無効にし、明治憲法の改正か、あるいは新憲法を制定するしか道はありません。保守の皆さん、最初からその目的ではなかったのではありませんか?しかし70年近くも現憲法を使ってきて、いきなり無効ではと心配するむきもありますが、要は国民と国会が一致すれば問題ありません。憲法違反の自衛隊を半世紀も使ってきたではありませんか。私は強く主張します。占領軍が作った 日本国憲法を無効にして、新憲法制定か、明治憲法の改定です。そして「太平洋戦争」という日本国家のくびきから解放して「大東亜戦争」という自らの生き方を選ぶ新しい日本を作りましょう。私はアメリカとの同盟はとても大事で重要だと思っています。しかし現在の日本は、あまりにも、あまりにもアメリカのポチ的存在が強すぎます。今のままでは日本人は、二流のアメリカ人に成り下がるだけです。現憲法を無効にして真に独立した真正日本を作りましょう。

安倍総理の改正条件が全面的改正ではなく、憲法9条の1項、2項はそのまま残し、3項を新設という案です(5月3日の総理発言)。追加3項の内容は、自衛隊の根拠規定を追加して、自衛隊が憲法違反と言われないようにするためです。非常に簡単な改正条件だから、それだけに現実的でいいという声が聞こえてきます。私が冒頭に書いた終戦直前直後の三つの事件のケースは、それこそ現実的でいいから、徹底した迎合、妥協の結果、卑屈なまでに陥ったのではないですか。今回改正条件が簡単、明解なだけに現実的に良いからと言って、国際法違反の憲法、占領軍の作った憲法にケチをつけるなという検閲された憲法を改正したら現憲法は、正真正銘の日本製憲法になってしまいますよ。私たちは、一度憲法問題で大失敗しているのです。日本が独立を回復した時(昭和27年)、現憲法を廃棄し、新憲法を作るべきだったのです。できなかった理由は、日本人は、原理原則や法律に固執するより、妥協、迎合しがちで現実的に対処してごまかしたがるからです。だから今回はそれでは、ダメですよと国民をいさめるのが知識人の役目でしょう。それができなくて何が知識人だというのですか。知識人自らが安倍総理にこびているのだ。私はいずれ自分のブログでふらちな保守知識人の名前をあげて罵倒するつもりです。その時には知識人とは、どういう人間を言うのか書くつもりでいます。

最後にひと言。上記のスターリンへの感謝状、日系アメリカ人の強制収容、アメリカ占領軍(GHQ)の日本統治は、拙著「逆境に生きた日本人」(展転社、平成20年、2000円)を参考文献に使いました。この本は、上記の三つ以外に他の件も扱っていますので目次を紹介します。第一章 戊辰戦争とアメリカ南北戦争、第二章 アメリカ軍による日本占領時代、第三章 日系アメリカ人強制収容、第四章 シベリア捕虜強制労働収容所、第五章 日本民族の資質、第6章 日本民族の資質が生んだ「自虐史観」。
この本の原稿を書いていたのが平成19年ごろ、ちょうどその頃に西尾幹二先生に「私が主催している坦々塾に入会しませんか?」と声かけられ喜び勇んで入会いたしました。せっかく西尾先生の面識を得たばかりなのに厚かましくも、この本の出版の時、西尾先生の宣伝の言葉を入れたいと思い全原稿を見せました。西尾先生は、「わかった、自分で宣伝したい文章を書いて見せてくれ」と言われて書いた宣伝文章が本の帯に書かれています。次の様な文章です。
「私は著者の名前を評判をよんだ労作『大東亜戦争は、アメリカが悪い』で知った。今度の作品もすばらしい。戦中戦後、強圧権力の下で示した日本民族の行動をするどく分析、我々に猛省をせまる」西尾幹二

この本は348頁、ハハードカバー、価格2000円+税ですが私にはまだ在庫がありますので価格1500円(印税も郵送代もいりません)でお売りいたします。希望者は私あてのメール、あるいはこのブログあてにお申込みください。

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保守の皆さん、憲法改正はいけません。(1)



       このブログの転載、拡散をよろしくお願いいたします。
大東亜戦争敗戦後、1947年(昭和20)9月からアメリカ占領軍(GHQ)が日本統治を始めた。現行憲法は昭和22年5月3日に施行された。GHQの日本占領機関は約7年あまり、その間は日本人の生殺与奪の件はGHQに握られた。日本人がGHQのまな板のこいになってしまったのだ。日本の長い歴史の中で日本人が外国人のまな板のこいになった大きな三つの事件がある。ソ連抑留所の日本人捕虜、アメリカの日系人強制収容所、GHQの日本統治。憲法改正の話の前に、これらの三つのケースがどんな状況であったか、お知らせしましょう。
一。スターリンへの感謝状
終戦の翌日、昭和20年8月16日に大本営は、関東軍に武器を置く命令を出した。一方ソ連軍は、日本降伏を知りながらも15日以降も攻撃を続け、8月末頃には満州全土、北朝鮮、樺太及び千島列島を占領してしまった。対日参戦二週間後の8月23日、スターリンは、極東ソ連軍司令官ワシレフスキー元帥に日本軍捕虜のシベリア移送を命じる極秘指令を発した。
(1)極東シベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本軍捕虜を約50万人選別すること。
(2)捕虜をソ連邦に移送する前に千人ずつの建設大隊を組織すること。大隊と中隊の長として、特に日本軍工兵部隊の若い将校、下士官の軍人捕虜を指揮官に命ずること。
この指令の下に、ソ連軍は、ソ連占領地域(満州、北朝鮮、樺太、千島など)の日本軍人、一部の民間人合わせて約60万人(厚生省発表によれば57万4千530人、ソ連側発表によれば60万9千176人)を強制連行し、シベリア(47万2千)を初めとして、外蒙古(1万3千)、中央アジア(6万5千)、ヨーロッパ・ロシア(2万6千)などを捕虜強制労働収容所(ラーゲリ)約1200ヵ所、監獄その他特殊収容所約百カ所に分散収容した。
収容された日本人捕虜は、粗食と厳寒の下に重労働を課せられ、それによって命を落とした者、推定で6万人から7万人と言われています。これは明らかにソ連の国際法違反です。

昭和24年の春に「スターリンに対する感謝状署名運動」を起きた。「シベリア捕虜収容所」上下巻の著者、若槻泰雄氏によると、感謝状署名運動は、ソ連側の意向であると主張しています。その理由は、
(1)ナホトカ港乗船の際、署名に拒否した一部の捕虜に対し、ソ連官憲が「サインをしなければ帰さぬ」と言明している。
(2)従来も色々大会や会議あるいは政治学校の卒業式に際しては、ソ指示によって感謝文が決議されている。
その結果、感謝文を提出することになったが、次のような大げさな感謝状になった。
この感謝状は1万6千語にのぼる長文のもので、数十メートルに達する奉書紙に達筆の者が筆をふるい、それをきれいに表装し、刺繍を施し、20メートル以上の美しい巻物として桐の箱におさめられた。この感謝状の他に、「感謝アルバム」と題した61枚からなる画集があります。一枚一枚は収容所の生活を巧みな筆で描いたものに細かな説明文が書き込まれています。収容所生活がすばらしかったことを絵で説明し、スターリン大元帥への感謝状、6万3千人以上の人からの署名アルバム、そして61枚の絵からなる感謝アルバムをおさめる奉納庫はすばらしく精巧に作られています。これだけでも、彼らを奴隷のように扱った総責任者のスターリンに対して過剰なまでの媚びです。それでは感謝状の内容はどんな文章だったのでしょうか。
昭和63年6月に全国抑留者協議会の斎藤六郎氏が、スターリン感謝状の現物をロシアから借り受け東京で展示したが、展示後その感謝状はソ連に返されてしまった。そのため感謝状にどんな文章が書かれていたのか全然わからなかった。自民党群馬県議会議員、中村紀雄 氏は、かねてからシベリア抑留問題に興味を示していました。平成16年を7月19日、中村氏は二人の抑留体験者と一緒に新潟空港からハバロスクに向かい、ハバロスクの国立古文書館に訪れ、女性館長から幸運にも全文34頁からなる「スターリン大元帥への感謝状」のコピーを手にいれることができた。中村氏は、自分のホームページで、感謝状の一部を原文のまま、残りはその概要を公表していますが、ここに中村氏のコメント付きの公開文章を発表します。
引用開始、
「この感謝状は、昭和24年5月から8月にわたりハバロスク、沿岸両地方の日本人捕虜大集会で審議採択されたもので6万4千434名が署名したと添え書きされている。以下はこの文の主要部を紹介する。
文の表題は、「ソヴィエト諸民族の偉大なる指導者・全世界勤労者の師父にして日本人民の最良の友、スターリン大元帥へ」となっており、書き出しは、「敬愛するイシオフ・ヴィサリオーノヴィッチ」で始まる。スターリンというのは、通称であり、鉄の男を意味する。イシオフ(又はヨシフ)・ヴィッサリオーノヴィッチ・ジュガシヴィリが「大元帥」の正式な名前である。次は冒頭の全文である。
『旧日本軍捕虜である私たちは、人類最大の天才、全世界勤労者の導きの星であるあなたに、そしてあなたと通じソヴィエト政府ならびにソヴィエト人民に、偉大なるソヴィエトの国が私たちに与えられた光と歓びに対し私たちの心からの感謝とあつき感激をこめてこの手紙を送ります。あなたの配慮のもとに、そしてあなたの教え子、あなたの愛児であるソヴィエト市民、ソヴィエト軍将兵のもとに、ソヴィエトの地におくった4か年の生活こそ、私たちにとって偉大なる民主主義の学校となったのでありました。それは私たちにとって終生忘れ得ぬ感銘として残るでありましょう』

以下は引用すると長くなりますので中村氏のコメントは除いて彼が公開してくれた手紙の全文だけを引用します。
引用開始
「私たちのいくシベリアは、荒涼たる氷雪以外何ものもなくおそるべき「酷使」と「死」が待つと言われたが、実際は並々ならぬ寛大さと人道主義によって迎えられ、あらゆるサービスが完備し夢のようだった。厳正な8時間労働、十分なカロリー計算のもと一点の汚れもない調理場で日本料理風の料理がつくられ食前をにぎわす。温かい寝具と被服、立派な宿舎が保証されたあらゆる日用品と嗜好品が販売され、食事、菓子、飲料をもそなえたレストランも開設され、下着もまた毎週、清潔なものと交換され、立派な施設をもった入浴場、洗濯場が設けられている。医療に至っては日本では夢にも見られないもので、幾多の高価な薬品や医療機械が備えられ完治するまでよく見てもらえる。その他文化教養を高めるための施設や配慮が行き届き毎週ソヴィエト映画を楽しむことができる等々」
引用終了

引用開始
「私たち四年前の自分たちを振り返るとき、自らの巨大な変化に打たれる。私たちは、日本では到底学び得なかった巨大なものを学びとり身につけた。だから、社会主義の国で過ごした四か年は幸福であり、誇りである。日本軍兵士の時は奴隷であったが、ソヴィエトで解放され、初めて自由を得た。以下略」
引用終了

引用開始  
「私たち日本人捕虜の帰国も最終段階に入ったが、私たちは断じて祖国なつかしとのみ帰国するのではない。私たちの人生における最大の感銘に満ちた四年間を、我が再生の宝とし、その懐かしい想い出を変えることもなく抱き続け、私たちの聖なる誓いを固く守り、わが人民解放の闘いに必要とあらば、わが生命を掲げようとする確固たる決意に燃えて進撃するために帰国するのだ。私たちは戦争の間に諮りしえない罪悪をソヴィエト市民にかけた。このことについては限りない自己嫌悪の念に耐えない。
私たちは、今こそわが日本に帰国したその時は、日本海の波濤遠く、レーニン、スターリンの国を仰ぎ見つつ、ソヴィエトの国の偉大な模範に無限の勇気をくみ取りつつ日本人民の利益のために、全世界勤労者の自由と幸福のために、果敢に、献身的に闘うでありましょう。社会主義ソヴィエトの国に過ごした4か年の思い出は、終生私たちの心を、大なる喜びと感激をもって充たすでありましょう。そして偉大なる人民、建設者となる人民、真のヒューマニストたる人民についての思い出は、永久に日本勤労者の心のうちに生きるでありましょう。この感謝状は、最後に改めて、大元帥に対して宣誓する。
『敬愛するイシオフ・ヴィッサリオーノヴィッチ
私たちは、全世界勤労者の愛する天才的教師たるあなたの前に、そして偉大なる社会主義者ソヴィエト同盟の人民の前に、いまここに厳粛なる決意にもえて宣誓せんとするものであります。
(1)ソヴィエト人民と日本人民とのゆるぎなき友誼のために献身的に闘う。そして、私たちがこの目で見、かつ学んだソヴィエトの国の真実を日本のすみずみまで、全日本にひびきわたらせる。
(2)アメリカ帝国主義、日本帝国主義のやからどもが、私たちを再び犯罪的奴隷兵士と化することを断じて許さない。そして、解放軍たるソヴィエト軍に対し、たとえ大地がはりさけるとも二度と武器をとらない。もし再び帝国主義どもが、日本を、ソヴィエトに対する
戦争の舞台にしようとするなら、私たちは死をも恐れず決起し帝国主義者と戦う。
(3)私たちは、社会主義の事業と平和の事業に、あくまでも忠誠を守り抜く。
(4)私たちは、この聖なる誓いを、わが瞳のごとく、わが魂のごとく守り抜き断固としてそれを果たし抜く。
全世界勤労者の命であるあなたがますます健康に、限りなき長寿を保たれんことを、
日本共産党万歳!
ソヴィエト同盟に栄光あれ!
ソヴィエト軍に栄光あれ!
万国勤労者の師父、敬愛するイシオフ・ヴィッサリオーノヴィッチ万歳』

ついでにこの感謝状に署名した人たちの感激のことばを当時の現地の捕虜収容所の新聞、「日本新聞」に載せていますのでいくつかを紹介します。
「我々の小さな名を記す瞬間、なぜか手が震え五体がしびれ胸が高鳴り涙が耀き」
「輝く眼、美しい顔、清々した姿、湧き上がる決意、それが署名の瞬間だった。」
「手をきよめ、心しずめて握る筆、署名こそ我らの雄々しい姿」
「やむにやまれぬ謝恩の発露、われらのスターリン大元帥万歳を心の中で叫びました」

読者の皆さん、この感謝状の内容といい、署名者の興奮した言葉といい、どう思いますか。どんなに感情を表さない読者でも、少なくとも驚くことは間違いないでしょう。感謝状の内容を紹介してくれた中村紀雄氏は、非常に冷静に淡々と筆を進めていますが、読んでいる私は、これが日本人なのかという落胆と同時にどうしようもない怒りを感じてきます。その理由を箇条書きにします。
(1)シベリア抑留による死者の数は、合計で5万から7万です。この感謝状が書かれたときは、抑留4年後です。その時すでに万を超す何万人もの日本兵捕虜が死んでいるのです。それはすべて日本兵を抑留せよという指令を発したスターリンの責任なのです。そんなことは日本人捕虜は充分に知っていて、これほど徹底して媚びた感謝状を書いているのです。この感謝状は、収容所で死んでいった同胞への裏切りであり、祖国日本への裏切りです。祖国を裏切っておいて、彼らは心底帰国したがっていたのです。
(2)生存しておられる抑留体験者の中には、また読者の中にも、感謝状の内容は、うそも方便の一つに過ぎないと軽く考える人がいるかもしれませんが、それはあまりにも甘い考えです。6万人以上が署名した感謝状は、重要な証拠として扱われます。ソ連政府には、日本政府への反撃材料として使える貴重な史料になるのです。
(3)日本人捕虜のほとんどが軍人です、当時の日本軍人にとって「天皇陛下」は絶対的な存在であったはずです。それがどうですか。地獄のような厳しい捕虜生活を強いられ、同僚の多くが死んでゆき、自分も死ぬか生きるかの分かれ道にさしかかったとき、彼らにとって絶対的存在だった「天皇陛下」からあっさり「スターリン陛下」変わってしまったのです。
そしていままで同じ境遇で生活し、そして共産主義に転向しない同僚の捕虜を反動扱いしにしていじめぬいたのです。これが日本軍人の姿なのです。「民主運動」の狂態、感謝状の内容、どれも軍人精神を問われるだけでなく、個人としての誇りや尊厳も問われています。
さらに驚くことは、帰国したいためのみせかけの共産主義者だけでなく、多くの軍人が本当の共産主義者になってしまい、彼らの帰国時、祖国に上陸するのに、「天皇島に適前上陸」と叫んで迎えきている家族との面会もそこそこに、故郷に帰るよりもまず第一に実行したのが、東京の日本共産党本部への直行し、日本共産党員になることだった。そして帰国後半年もたって少し身が落ち着くと、日本共産党を脱党したり、熱心な活動的な共産党員でなくなってしまったのです。

シベリア抑留を体験した人は、私の批判にたいして、「実際に地獄を体験したことない人間が偉そうなこと言うな」と私を非難するでしょう。スターリンの感謝状に署名せず、自分の息子が帰国できず死ぬことになったらどうするのだ、留守家族にとってどんなことをしてもいいから帰国してほしいのだと私を批判するでしょう。しかし私が日本人捕虜を批判するのは、同じような環境の下で暮らした外国人捕虜と比べると、日本人捕虜(主にほとんど元日本軍人)があまりにも無様な姿を見せつけるからです。「日本新聞」の編集長、イワン・コワレンコ中佐は、「ドイツ人捕虜は日本人よりもっと厳しい条件で労働させられた」と語っていますが、当然だと思います。ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連領に侵入したからです。ソ連領土内では、沢山のソ連軍人や民間人の死傷者を出しているからです。独ソ戦のスターリングラードの攻防戦はあまりにも有名です。ソ連によるドイツ兵捕虜315万5千人、死亡者は109万4千250人で全捕虜の3分の1が死んでいます。日本の死者10パーセントに対しドイツはその3倍です。ドイツ兵捕虜の悲惨さは、日本兵捕虜以上だったことがわかります。それでもドイツ兵捕虜の間では、「民主運動」のような狂態を演じてドイツ兵捕虜が同胞であるドイツ兵捕虜をいためつけることもなく、ましてはスターリン感謝状など提出していません。彼らにとって、全く想像を絶するような行為でしょう。
「シベリア捕虜収容所」を書いた若槻泰雄氏によれば、その収容所の場所によっては日本兵捕虜とドイツ兵捕虜と一緒になる。日本兵捕虜は、一致してドイツ兵の堂々たる捕虜ぶりを称賛しています。全員ドイツ兵捕虜は卑屈になるどころかソ連兵を徹底して軽蔑していた。

ソ連によって抑留された軍人は、日本軍とドイツ軍だけではありません。ヨーロッパ諸国の軍人が多数抑留されています。イタリアは、ソ連遠征軍総数22万のうち約4万6千名がソ連によって抑留され、3万5千名が死亡、残り1万名のうちソ連側によって死亡が確認されているのが472名です。その他フランス、オーストリア、ルクセンブルグ等、特にハンガリーでは、同国の捕虜35万人が消息を絶っていると言われています。その他の東欧諸国、ブルガリア、チェコ、ポーランドなど多数の捕虜がソ連で抑留されたのです。それでも日本以外、どこの国も「民主運動」という狂態を演じたり、「スターリンへの感謝状」を書いたりしていません。

信念を貫いた人たち
ソ連は日本兵捕虜を粗食の下に厳寒の中、重労働を課すばかりでなく、日本兵を共産党員にするべく勉強させ、あるいはソ連のスパイにすべく教育をした。その中で共産党員にもならず、スパイにもならず最後まで信念を貫いた人たちが何人かいた。史料不足のため、私の独断と偏見で三人を選びました。草地禎吾大佐、近衛文隆、赤羽文子。草地大佐は、軍人間では有名です。ソ連当局の拷問にも耐え、民主運動の嵐にも耐え、信念を貫いた将校は草地以下十数名いたと言われています。近衛文隆は文麿の長男、甥が細川護熙元首相です。文隆が共産党員なれ、スパイになれと要求に断固と拒否続けることができたのは、細川家は天皇家に次ぐ古さの家系の重みからです。帰国できず、ついにモスクワで死去。赤羽文子は最高にすばらしい日本女性だ。彼女は軍隊教育を一切受けていない。ソ連軍に捕まった時、大連市の市長の秘書をしていて彼女が36歳の時だった。ソ連当局は、彼女が市長の秘書の前にソ連領事館でソ連人スタッフに日本語を教えていたのを知っていた。奉天から列車で17日間もかかるシベリアのチタの女囚監獄に入れられた。日本人女性は彼女一人。以来ソ連のスパイになれと説得されたが拒否し続け、シベリア滞在10年、その間故国への通信は一切拒絶された。そのうえリューマチを患い、病院での治療と早い帰国をえさにスパイ勧誘は続いたが、彼女は極北地での死を覚悟をした。そしてついに帰国の機会が訪れたのだ。

二。日系アメリカ人強制収容
昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発した。その日の夕刻、アメリカ国内における日系二世団体「日系市民協会」の指導者たちは会議を開いた。城戸三郎会長は、「我々はアメリカ市民として義務を果たすものである。米日開戦は最も不幸な出来事であるが、いまこそ我々の忠誠心を示すときである。戦場に送られるといえども、我々忠誠心は不変である。我々の父母は、法律の下ではアメリカ市民になることは許されていない。しかし、アメリカ市民である我々の父母として、善良なる住民として、どこまでも我々とともに進むことを信じて疑わないものである」という趣旨の電報をルーズベルト大統領に送った。
戦争開始後二か月後の昭和17年2月19日、ルーズベルト大統領は、大統領行政令9066号に署名、軍が国防上必要である場合に強制的に外国人を隔離することを承認した。大統領行政令はすべての「敵性外国人」に向けたものでしたが、実際に適用されたのは日系人だけでした。日本だけでなくドイツもイタリアもアメリカと戦争状態になっていたが、ドイツ系、イタリア系は適正外国人にはならなかった。こうして、アメリカ国内において日本人の血が16分の1以上混じっている日系アメリカ人は、制限期日の4月2日までに逮捕、拘束され収容所に送られることとなったのである。アメリカ国内に10ヵ所の強制収容所がつくられ合計12万人が強制収容された。その他に中南米13ヶ国の日系人、2264名をアメリカを脅かす「敵性外国人」としてアメリカ国内の抑留所に強制連行した。

ここで一つ読者に注意していただきたいのは、ハワイ在住の日系人は、一部の日系人指導者を除いて殆どの日系人が強制収容されなかったことです。理由は開戦当時のハワイ日系人の人口が15万8千人で、ハワイ全人口の35パーセントを占め現地の経済的影響力が大きかったため、ハワイ州当局が強制収容を拒否した結果です。このためハワイの日系人のほとんどが例外的に財産を失わず済んだ。
日露戦争以来、日系人は法的にも社会的にも徹底して差別され、大変な苦労を味わってきた。
日米開戦とほとんど同時に強制的に財産をほとんど失わされ、強制的に収容所にぶちこまれた。それにもかかわらず、私が驚くのは、日系市民協会の指導者たちは、おとなしく強制収容に応じ、アメリカ政府に対して抗議声明一つださず、それどころか軍隊に志願させるように要求していることです。アメリカ政府は、日米開戦以来、日系二世の徴兵、志願を凍結していたが、日系市民協会の軍隊志願の要求に応じるかたちで、昭和18年1月のその政策を変更し、「アメリカに忠誠を尽くす」と意思表示した日系二世の兵役を認めることにした。
ここで私は読者の皆さんに質問があります。
あなたが「忠誠登録」にイエスと答えたところで、あなたの両親、兄弟姉妹が強制収容所から釈放されるとか、両親が失った財産のほとんど戻ってくるとか、両親に市民権が与えられるとか、あるいはあなたが戦死したらアメリカ政府は、金銭的にあなたの両親の面倒をみてくれるとか、一切の好条件は示されませんでした。それでもあなたは、「忠誠登録」にイエスと答えてアメリカ軍に入隊しますか。
カリフォルニア州北部のツールレイク収容所では忠誠登録を強制されたことに反感をもった二世35人はデモ行進し「徴兵局に登録する意思はまったくない、しかし、日本への送還にはいつでも署名する」という抗議文を手渡した。この35人は、全員銃を突き付けられ他州の抑留所にほうりこまれてしまった。この忠誠登録によって収容所の日本人間に亀裂が深まり対立になって殺人事件にまで発展していった例も出たのも当然でしょう。
「忠誠登録」にイエスと答えて全米10カ所の収容所から志願した日系二世は、全部で1181人(その後数はずっと増えます)です。この数を多いと見るか少ないと見るかは見解の相違になるでしょう。私はとてつもない多い数字だと解釈しています。なぜなら志願者日系二世は、ほとんど全員が両親健在の年代です。私の考えでは、人生で一番見るに忍びない事とは何かと問われれば、血のにじむような努力を何十年と続けながら、その努力がなにも報われることなく一生を終わることではないでしょうか。もし自分が戦死でもすれば、両親の悲劇はますます深まるのだ。
それでも志願者数、1181人という数字は、権力に弱い、権力にすり寄って生きる日本人資質のあらわれのような気がしてなりません。ここでまた読者に問いたいのです。
人間は死を覚悟すれば、なんでもできると言われています。事実その通りでしょう。忠誠登録に「イエス」と答えて入隊した日系二世は、戦場での死を覚悟したに違いありません。死を覚悟したなら、自分たちを不当に扱ったアメリカ政府への抗議の態度ぐらいとれるはずです。それにもかかわらず多くの日系二世が入隊していったのはなぜでしょう。その理由は二つ考えられます。
(1)日本人は、権力に非常に弱い。権力者にすりよっては生きるのが得意なのだ。日系二世の入隊組は、徹底してアメリがカ政府に媚びて言ったとして言い過ぎではないでしょう。
(2)人の好い日本人が陥りやすい最大の欠陥、すなわち自分勝手な善意の思い込みです。この自分勝手な善意の思い込みが、日本の外交がどれほど損なわれているか計り知れません。韓国やシナに謝罪し、多額の経済援助をすれば、両国と友好関係が築けるだろうという善意の思い込み、ロシアに経済援助や技術援助したのも、そうすれば北方四島返還交渉に有利に作用するだろうという善意の思い込みがあったのでしょう。入隊組の日系二世は、アメリカのために入隊して戦場で死んだら、いくらなんでもアメリカ政府は、自分の家族は冷遇しないだろうという自分勝手な善意の思い込みあったのではないでしょうか。
こうしてアメリカ本土の日系二世は、入隊組と入隊拒否組との間に亀裂が入り対立関係になってしまった。
アメリカ本土と事情が違うハワイでは、忠誠登録は行われていません。アメリカ政府は、日系二世だけの部隊編成を考え、ハワイの徴兵目標を1500人としたところ、全部で1万人近く日系人が応募しています。

「称賛すべきは入隊拒否した日系人」
戦後、日系二世部隊のヨーロッパ戦線での大活躍はマスコミなどで知られています。私が一番気になったのは「忠誠登録」に「ノー」と答えて兵役拒否をした日系二世は、そのごどうしているのかでした。かれらの戦後の様子など知らされることがなかったのではないでしょうか。
平成14年5月14日、読売新聞の国際ニュース面で、「日系徴兵拒否者に謝罪」、「日系人団体 大戦後、長年『仲間外れ』」と言う見出しが出ていましたのでその記事の全文を引用します。
引用開始
「第二次大戦中、米国で強制収容に抗議して徴兵拒否した約三百人の日系人に対し、日系人団体が長年にわたる「仲間はずれ」を初めて公式に謝罪する式典が11日、サンフランシスコで開かれた。大戦で従軍して米国への忠誠心をしめした日系二世は賞賛の対象となったが、兵役拒否者は、日本人社会から長年卑怯者呼ばわりされてきた。謝罪までに要した約60年もの歳月からは、戦争によって引き裂かれた日本人社会の悲劇が浮かび上がってくる。真珠湾攻撃後、米政府は約十二万人の日本人を強制収容所の送りこみ、軍隊からも排除した。
だが、一九四三年に日系人の従軍が認められるようになると、約三万三千人の日系二世が従軍し、多数の死傷者を出しながらも勇敢な戦いぶりを見せ、日系人の名誉回復に大きく貢献した。これに対し三百二十五人の日系人が徴兵を頑として拒んだ。
『自分や両親が強制収容され権利を奪われているというのに、どうして民主主義のために戦えると言うのか』こう語るのは徴兵拒否者の一人、ミツ・コシヤマさん(77)だ。「選抜徴兵法」違反で懲役三年の判決を受けたコシヤマさんはじめ、二百五十六人が投獄された。だがもっともつらかったのは、日系人社会で受けた公然の非難だった。
全米最大の日系人団体『日系市民協会』は四十四年三月『徴兵拒否者は煽動罪に問われるべきだ』と声明。徴兵拒否者は『反逆者』『卑怯者』とののしられた。戦後の四十七年、トルーマン大統領はいち早く徴兵拒否者に謝罪し、特赦を与えたが、日系社会のわだかまり消えず、『いまでも新聞などに徴兵拒否者を批判する投書がよせられる』(コシヤマさん)
しかし日系人が二世から三世、四世へと世代交代し、徴兵拒否は正当な憲法上の権利の行使だったという理解が徐々に広がった。「日系市民協会は2000年、ようやく徴兵拒否を『理解する』という決議を採択。日系退役軍人らを説得し、11日、コシヤマなどの懲兵拒否者や家族22人を招く式典の開催にこぎつけた。
式典ではフロイド・モリ(日系市民協会会長)が『苦痛をぬぐいさることはできない』と謝罪した上で、『過去に起こった過ちを水に流そう』と呼びかけた。他にも徴兵拒否の道を選んだ人々の勇気をたたえる発言が相次いだ。式典に参加した徴兵拒否者のケン・ヨシダさん(78)は『本当は謝罪はいらない。ただ私たちは徴兵から逃げたのではなく、政府に抗議したのだということは、これからの世代に知ってほしい』と語った。(森田清司)」

日系人強制収容についてインターネットで色々調べていたところ2006年2月6日のインターネット上で2005年4月1日付けのニューヨークIPS(Inter Press Service)のニュースが、IPSジャパンの浅霧勝浩氏に翻訳されていた。
「日系人強制収容所の不当性を訴えた闘士86歳で逝去」の見出しのもとに、次のような記事が載せられていました。
「フレッド・コレマツは、第二次大戦期のローザ・パークス(米国公民権運動の母)と称される人物だが、40年間正義を待ち続けたこの日系アメリカ人は、水曜日(3月30日)北カリフォルニアのカークスブルで86年の生涯を閉じた。コレマツの40年に及ぶ(第二次大戦中の日系人強制収容所の不当性を訴えた)闘争は、カリフォルニア州オークランド刑務所の檻の中から始まった。彼の訴えは敗訴を重ねた末に米最高裁で否決され有罪が確定した(1944年)。ところが一転して犯罪歴は抹消され、しかも米国民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」が授与された」

コレマツがたどった軌跡は、米国公民権史に名を残す言語道断な事件の中でも最も醜いもの一つである。真珠湾攻撃から間もなくルーズベルト大統領はアメリカ国内に住む日系人、12万人を市民権の有無にかかわらず各地の強制収容所に送り込んだ。フレッド・コレマツの両親も収容所にぶちこまれたが、フレッド・コレマツ自身は収容所入りを拒否したため、逮捕、起訴され、刑務所に収監された。以来コレマツ氏の法廷闘争がつづいた。1944年、日系人収容処置は解除され、コレマツ氏はサンフランシスコに戻ってきた。彼は製図工として働き家族を養ったが、「前科者」が災いして大企業や公的な職につけなかった。それから約40年後1981年彼の有罪判決が偽証のせいと判明。其の後裁判所が特赦を申し出たが、コレマツ氏はこれを拒否、再審を要求した。まもなく連邦裁判所は、コレマツ氏は不確かな証拠に基づいて裁かれたとして彼の当時の有罪判決を無効とし、コレマツ氏の犯罪歴は抹消された。こうしてコレマツ氏は(40年の闘争の末)米国法史の暗黒部分に終止符をうった。
五年後、ジェラルド・フォード元大統領は、日系人強制収容処置を「国家的な過ち」と非難した。五年後、当時のドナルド・レーガン大統領は、日系人強制収容処置「深刻な不法行為」であるとし、コレマツ氏を含む数千人の生存中の元収容者に対し、一人当たり二万ドルの賠償金を支払うことを決定した、そして1999年、当時にビル・クリントン大統領は、コレマツ氏に対して、米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」を授与した。
「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています。・・・・プレッシー、ブラウン、パークス・・・・」。クリントン大統領は有名な公民権関連の事例を挙げながら続けた。『その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです。』(以下略)

このブログを書くために拙著「逆境に生きた日本人」(展転社、平成20年2月出版)を抜粋して書いています。この本の原稿を書いていたのが平成19年ごろです。ここに書いたコレマツの記事は、その当時コレマツ氏についてインターネットで調べられるすべてでした。コレマツ氏の名前の漢字を調べましたが、見つけることができませんでした。ところがこのブログを書くに当たってつい最近ネットで調べたらコレマツ氏についてのウイキペディアでは、詳しい経歴やその他いろいろな情報が手に入りびっくりしました。以下のコレマツ氏の情報は、つい最近のインターネット調べによるものです。
フレッド・コレマツの正式の名前は、フレッド・トヨサブロウ・コレマツ、漢字では是松豊三郎。2005年5年3月30日、86歳で死亡。2010年9月30日カリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定、州法に守られた市民の自由の重要性を再認識する日にした。2017年4月25日、NHKテレビで番組「NHK先人たちの低力」でフレッド・コレマツの人生の特集を放映した。私はあのNHKがコレマツ氏について放映をしたことについて非常に驚きました。私がNHKの支払い拒否を続けて13年目です。私はNHKの歴史検証番組など絶対に見ません。偏っているからです。あのNHKがコレマツ氏を取り上げたのには何か理由があるのだろうと想像をした。私の想像は、このことだろうと思う事件があった。2017年1月30日、すなわちカリフォルニア州の「フレッド・コレマツの日」にあわせてGoogleのアメリカ合衆国版のフロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うなら、声を上げることを恐れてはならない」(If you have the feeling that something is wrong,don’t be afraid to speak up.)とこうコレマツ氏の言葉を紹介しています。グーグル社は、大統領選ではトランプ氏に大口献金をしています、いわゆるトランプ大統領の人種差別といわれる大統領令には、反対なのでしょう。そのためカリフォルニア州のフレッド・コレマツの日、1月30日 に合わせてコレマツの記事をのせたのではないかといわれています。グーグルがこれだけ派手にコレマツ氏を載せると、NHKは黙視するにはいかなかったのでしょう。クリントン大統領の時、コレマツ氏に大統領自由賞が授けられた。その時日本国内で反響を呼んだのでしょうか。記憶している人おられますか。多くの日本人が偉大なコレマツ氏の存在を知ったのはつい最近ではないでしょうか?

日系人強制収容の時、12万人強制収容されました。日系人はアメリカ政府に抗議デモもするでもなく、講義の手紙を出すでもなく、従順に黙々と強制収容所に入った。入所したら、
アメリカ軍に入隊させてくれと自ら頼み込んでいるのだ。いざ入隊許可になれば、入隊拒否者が500人ばかりしでた。日系人全体で入隊拒否者を村八分にしてしまった。強制収容所そのものに入所することを拒んだたった一人の日系人がコレマツ氏だけだったのだ。日本人は、信念と突き通す人には冷淡なのだ。このブログは長くなりましたのでこの辺で辞めておきます。次回は終戦後の占領軍の統治と最重要問題の憲法改正について書きます。



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