Archive for 7月, 2017

ガキ大統領トランプ(その2)



トランプ大統領は、またガキ大統領と呼ばれるにふさわしい事をやった。平成29年7月4日付けの産経新聞にこう書いてある。
引用開始
「トランプ大統領は2日、過去にプロレス大会に出場した際の映像を編集し、自身が殴りつけている敵役の頭部に米CNNテレビのロゴを重ねる加工を施した上でツイッターに投稿した。映像はトランプ氏が暴力による言論弾圧を奨励しているようにも受け取れるため、米メディアや野党から『とても大統領のやることとは思えない』と批判の声が噴出している。
28秒間にわたる問題の動画は、世界最大のレスリング団体WWEによる2007年の興行『レッスルマニア23』の映像を使用、リングサイドにトランプ氏が、CNNのロゴで顔が見えないスーツ姿の男性を押し倒して何度も拳で殴り、立ち去る様子が数回にわたり繰り返される。
映像の最後にはCNNならぬ(FNN(詐欺ニュース・ネットワーク)の文字が映し出され、日頃トランプ氏に批判的な報道を展開しているCNNへの意趣返しなのは明らかだ。
CNNは同日、声明を発表し、『本日は、合衆国大統領が記者に対する暴力をけしかけるという悲しむべき日となった』と述べた上で、ロシアのプーチン大統領との初会談や北朝鮮情勢などの懸案をよそに、トランプ氏は『極めて低次元で幼稚な行為に没頭している』と非難した。トランプ氏は6月29日のツイッターでも、MSNBCテレビの朝の報道番組「モーニングーショー」の女性記者(ミカ・ブレジンスキー、筆者挿入)について『知能指数が低く頭がおかしい』『(前に会ったときに)顔のしわ取りの整形手術でひどくて出血していた』。などと罵倒する発言を書きこみ、波紋を広げていた。
トランプ氏は一日に何時間もテレビの視聴に費やし、自身に関する報道を詳しくチェックしているとされ、一連のツイッターでの発言は、メディアの政権批判に対する同氏の苛立ちが異様な形で暴発した結果と言えそうだ。」
引用終了。

私はトランプ大統領がプロレス姿でCNNをこてんぱんに殴りつけるテレビ映像を夕方7時のNHKテレビニュースを見た。翌日この産経新聞を読んだ。このときふと思った、今時アメリカの子供たちにとって、アメリカ大統領は、将来なってみたい人気職業なのだろうか?実は私は外資系5社渡り歩いて40年。そのうちアメリカ系外資で働いたのが28年。だから米国本土からやってくるアメリカ人社員と雑談する機会は非常に多い。その中で今でも記憶に残るのは、あるアメリカ人が「私は、子供のときアメリカの大統領になりたいと思った」と言ったことだ。以来その事が気になって何人かのアメリカ人に雑談の機会にアメリカの子供たちにとってアメリカ大統領は将来なってみたい職業なのか聞いてみた。なにしろ私の世代の子供時代は、日本の総理になるとか、なってみたいと思うのはほとんど皆無だからです。私が驚いたのはアメリカでは、子供たちが大きくなったら大統領なるとか、大統領になりたいと思うひとが多いのだなと言うことでした。それだけ当時はアメリカの子供たちは大統領に対する尊敬の念が強かったのだなとの思いです。これは私が4,50代の頃の話です。
現在のアメリカでは、子供達は、アメリカの大統領になるとか、なりたいと思う子は多いのだろうかとふと疑問に思ったのです。少なくともトランプ大統領では、大統領としてアメリカの子供たちに尊敬の念をアピールさせるものは何もないということ、それどころか子供心にも幻滅を感じさせる点が多いと思います。

ニューズウイーク誌(2017/07/11)では女性報道記者ミカ・ブレジンスキーへの批判は、あまりにもひどい女性差別的発言だとメディアがこの話題で一色になり、その結果トランプにとって不利なほかのニュースがかき消された。その例;
1.オバマケア(オバマ前大統領の医療保険制度改革)代替法案の下院採決が先送りになったと言うニュース。
2.トランプがロシアのプーチン大統領と初会談するニュース。
3.ロシア疑惑関連で辞任したフリン前大統領補佐官(国家安全保障担当)めぐる疑惑。
ニューズウイーク誌は、トランプは、過去の自分の暴言ニュースが自分にとって不都合な報道を書き消しに成功したことを知っている。彼のこれからも暴言戦略が続くだろうとみています。
上記の産経新聞の10日後の7月14日、同じ産経新聞ではトランプ大統領の長男、ドナルド・トランプ・ジュニアがアメリカ映画「トップガン」の一場面を基にしてトランプ大統領が操縦する戦闘機から発射されたミサイルがCNNのロゴが付いた戦闘機に命中し爆発するよう加工された動画を共有アプリの「インスタグラム」に投稿したと報じています。
「この親にしてこの子あり」とはよくいったものだ。これでは、大統領就任6カ月の支持率が36パーセントと戦後70年間の歴代大統領の中で最低なのも当然でしょう。
今後の世界のためにも、日本のためにも、私のブログ「ガキ大統領トランプ」が長いシリーズにならないことを願うばかりです。

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日米の歴史と文化を語る(7)



「日本人とヨーロッパ人の最初の出会い」
鹿児島県の大隅半島の南に種子島があります。現在、種子島と言えば、種子島宇宙センターと言って日本の人工衛星打ち上げの基地と現在の日本人なら誰でも知っています。その種子島に1543年、一艘のポルトガル船が漂着した。その時種子島領主、種子島時尭(ときたか)の配下の武士がポルトガル船員と出会った。出会ったのはいいのですが、双方全く言葉が通じません。ところが幸いにもポルトガル船にシナ人が乗っていた。二人は砂浜に漢字を書いて筆談をはじめた。それで彼らがポルトガル人であることがわかりました。ポルトガル人を観察してびっくりしているものの一つに、彼らが箸を使わずに手で食事をしていることでした。ということはその頃日本の一般家庭では箸を使って食べていたのです。ポルトガルの船員が手で食べていたというのは、船が島に漂着したせいではないかと思ったのですが、なんとヨーロッパの一般庶民は、19世紀に入っても、ほとんどの地域の民衆は日常、手づかみで食べていたのです。木製のスプーンはありましたが、だいたいパンですくって食べ、骨や皮や食べかすは、どんどん床に投げ、そこに犬猫が待ち受けて平らげていたのだ。
ただ各地の王族や貴族の食卓では18世紀中ごろからナイフとフォークを使うテーブルマナーを発達させていった。
ポルトガルの船員が手づかみで食べていたのは、特別の事情ではなくあたりまえのことだったのです。ポルトガル船の種子島漂着6年後の1549年に、最初のキリスト教宣教師が布教のため日本にやってきました。この16世紀後半から17世紀にはヨーロッパ諸国の宣教師たち、貿易商、船員たちが日本にやってくるようになりました。その頃の日本文化について、アメリカ人作家(現在は日本に帰化)で日本文化に造詣の深いドナルド・キーン氏はこう語っています。
「ヨーロッパの人達は、日本を見て、日本の文化はだいたいヨーロッパの文化と同じ水準に達していると言っていました。もっと客観的に考えますと、当時の日本の文化の水準は、あらゆる点でヨーロッパよりはるかに上だったと私は思っています。日本人の生活が、まず清潔であることに、ヨーロッパ人は驚きました。ある宣教師が手紙の中で、日本の家の中が清潔でありすぎるから、どこでつばを吐いたらいいかわからないと書いてあります。ヨーロッパでは、きっと家の中で平気でつばを吐いていたにちがいないと思います。また当時のヨーロッパの食堂では、床の上に葦などが敷いてありました。食べながら残り物を捨てるのですが、葦があるとみえなくなるのです。あるいは、犬を呼んでたべさせました。当時のヨーロッパ人は日本の家のなかを見てどんなに驚いたでしょう。どんなに文明的だと思ったでしょう。」
私が力説したいのは、このドナルド・キーン氏のように日本の歴史や文化を熟知している欧米人がいることはいるのです。ところが一般の欧米人は日本の歴史にはほとんど無知と言っても言い過ぎではありません。このため日本は、欧米人に接するまでは、文化的にも文明
的にも、また科学技術の面でも何一つみるべきものがなく、未開の国同然であった。
現在の日本の発展のもとはといえばすべて欧米人の指導によるものと考えている人が多いのです。これは歴史の無知による傲慢さです。ドナルド・キーン氏が日本の文化水準はあらゆる点でヨーロッパよりはるか上といったこの時期、日本は、当時なかった言葉で、現在使われている言葉でいえば、強力な軍事大国でもあったのです。軍事大国になるきっかけは、ポルトガル船の種子島漂着です。この時ポルトガル人は、種子島領主に鉄砲の使い方を教え、島を離れる時二挺の鉄砲を置き土産として領主に献上した。鉄砲という名前の武器は1510年にシナから堺に渡来したと言われています。その時は銅銃でした。その後銅銃は堺で作られたと言われています。
堺といえばポルトガル宣教師、ガシパール・ビレラが「堺はベニスのように執政官によって治められている」といった自治都市のことです。銅銃よりポルトガル人がもたらした鉄砲の方が性能が圧倒的に良かったのでしょう、たちまちのうちに鉄砲は全国にひろまったのです。このため鉄砲の伝来と言えば、ポルトガル人が置き土産に残していった鉄砲をさすようになった。この鉄砲が種子島に伝えられた頃の日本は、戦国時代といって全国の大名が日本 全国の統一をめざして戦いにあけくれていた時代でした。そのため鉄砲がまたたくまに全国に使われるようになった主な原因になった。日本全国統一を目指す大名の中でもナンバーワン候補になったのが織田信長でした。この織田信長が戦場で鉄砲を使用する全く新しい戦法をあみだし、そして大成功したのが1575年の長篠の戦いでした。彼の戦法は三千丁の鉄砲隊を参列に並べたのです。当時の鉄砲は、先込め銃といって、一発撃つたびに銃口に火薬や弾を込めなおさなければならないから連続使用は不可能だった。そこで千丁の鉄砲隊を参列に並べ、最初の一列が撃つとすぐひきさがって二列目が撃つ、二列目が引き下がると三列目が撃つ、三列目が撃つと最初の一列目が撃つといった具合に連続して鉄砲が使えるようにしたのです。長篠の戦いの時の敵は、当時日本最強を誇ると言われた武田の騎馬隊です。そこで信長は木で作った柵をもうけたのだ。武田の騎馬隊が柵を乗り越えようと、もたもたしている時に、一千丁の銃がいっせいに火を吹き、それが連続して行われたと言われています。これにより武田の騎馬隊は壊滅した。黒沢明監督の映画「影武者」を見た人は戦闘場面を思いだしてください。あの戦闘場面が長篠の戦いなのです。信長が採用したこの戦法で戦闘形態が変わったのです。鎧(よろい)と兜(かぶと)をつけ、長やりを持つ重装備の騎馬隊の戦いから身軽に動ける歩兵隊の戦いに変わったのだ。この意味では、長篠の戦いは世界の戦史に残る戦いではないでしょうか。信長のこの戦法について、最近亡くなられた上智大学教授、渡部昇一氏はこう語っています。
「これを別の言葉で言えば、一定の戦場に一定の時間、一定の量の弾を流し続けるという発想である。そしてこれは鉄砲の使い方としては、まさに最先端の使い方であった。西洋でこの戦法が意識的に採用されるには、実に第一次大戦の末期に、実質上のドイツ参謀総長であったルーデンドルフが西部戦線で実行するまで約350年待たなければならなかった。もちろん、第一次大戦のドイツ軍の鉄砲・機関銃の数と長篠の戦における鉄砲の数は比べくもない。だが意識的に一定戦場に一定の時間一定の量の弾を流し続けるという発想法は世界史的にみても信長によって始められたと言ってよい」。
さらに軍事史研究の世界的権威でイエール大学教授、J・パーカーは、彼の著書「長篠合戦の世界史」の中でヨーロッパ人が銃の装填のし直し時間を短縮するのに努力を重ねたのに対し、日本人は命中度を上げることに専心したと述べています。信長のこの戦法も三千丁の鉄砲が自分の手に入っていたからこそ可能になった戦法です。当時ヨーロッパでも、一つの戦場で三千丁も鉄砲がつかわれた例はないと思います。信長方だけで三千丁で、敵の武田方でも当然鉄砲を使っていました。しかし武田方は自慢の騎馬隊を頼りにしすぎたため、使用した鉄砲の数は少なかったと言われています。それでも両軍あわせて三千丁以上の鉄砲が一つの戦場で使用されたのです。鉄砲といえば当時は世界の最新兵器です。鉄砲が種子島に
伝わってからわずか30年後には、日本はその最新兵器の大変な量産国になっていたのです。鉄砲を使用するには、弾がなければなりません。弾の原材料は鉛です。ところが鉛は日本では産出しません。そのため各大名は、鉛の購入に必死でした。その鉄砲の弾が、1619年オランダ人の日本からの買い付け品目の報告書には、鉄砲の弾、11,696発の記載されているのです。早くも鉛の原料輸入から製品として輸出にむけられているのです。
長篠の戦いに勝った信長は、1578年には、自分が作らせた七艘の鉄船を使用して、瀬戸内海の制海権を握る敵を海戦で勝ちをおさめているのです。
戦いが終わって堺港に入港すると、鉄船の噂を聞いて見物人がわんさとおしかけて、皆びっくりしたと言われています。その見物人の一人の日記には、
「堺の浦へ近日伊勢から大船が調達されてきた。人数総勢三千人ほど乗船していた。船は横7間(一間は約1.8メートル)、縦は十二、三間もあって。鉄の船である。これは鉄砲が貫通せぬ用意である。まことに仰々しいことであった。大阪へ廻航して敵の通路を妨害するためのことである」と書かれている。
鉄戦がヨーロッパで採用されていたのは18世紀にはいってからです。ポルトガル人でカトリック・イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスは、織田信長に会い、1569年6月1日付けで信長の印象をローマに報告しています。
「この尾張の王は、年齢は37歳なるべく、長身痩躯、髯(ひげ)すくなし、声ははなはだしく高く、非常に武技を好み、粗野なり。正義および慈悲の業をたのしみ、傲慢にして名誉を重んず。決断を秘し、戦術に巧にしてほとんど規律に服せず、部下の進言に従う事稀なり。彼は諸人より異常なる畏敬を受け、酒は飲まず、みずから奉ずること極めて薄く、日本の王侯をことごとく軽蔑し、異教いっさいの占いを信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後なにごとも存せざることを明らかに説けり。その事業は完全にして巧妙をきわめ、人と語るにあたり、紆余曲折をにくめり。」
なかなか的をいた人物評です。神仏その他の偶像を軽視し、占いも信用せず、魂や霊もなく死んだらそれで終わりという考え方は、当時として全く常識では考えられなかったのではないでしょうか。信長のこの考え方にうそ、いつわりがない証拠を見せたのが、フロイスのこの報告書の二年後、1571年に敵対する比叡山の延暦寺を焼き討ちにしたことです。僧侶、信徒など多数殺し、800年の伝統を持つお寺をことごとく焼き尽くし、お寺のひとかけらも残さないほど徹底したものでした。これを知った当時の人たちが仰天したのも当然です。しかし考えてみれば第二次大戦の時は、お寺も教会も聖域ではありませんでした。信長が生きていた時代の彼の無神論と比叡山焼き討ちの行為は、原題でも通用しますが、当時の常識を超越したものであったことは間違いないでしょう。この天才肌の信長は、自分の腹心の武将の裏切りにあい、満48歳で死んでしまいます。その後の日本の歴史にとっては全く惜しまれる早死にでした。

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知識人・リテラシー(メディア・リテラシー)



皆さんは、とっくの間にメディア・リテラシー(literacy)という言葉をご存知でしょう。メディア・リテラシーとは、情報を評価・識別する能力とか情報をクリティカルに読みとれる能力の意味です。現在では嘘の情報(フェイクニュース)が溢れています。それだけにメディア・リテラシーが必要です。ニューズウイーク日本版では、日本人のマスコミ信頼度が欧米に比べて著しく高く、世論誘導されやすいと書いています。この言葉を利用して、私は、「知識人・リテラシー」という言葉、今回私が初めて使ったと自分で思っています。誰か私以外にこの言葉を使った人を知っていたら、一体、誰がどんな時に使ったが教えていただければありがたい。私が使う「知識人・リテラシー」とは、私たちは、その知識人がどの程度の人物なのか見極めているかを知るべきだと言う意味です。私は若い40代のころから日本の保守系知識人は、どうも権力者好みが多いと思っていた。そこで私のような無学で知名度が低い者が、日本の知識人は権力者好みと言うより、他の有名人、例えば外国人が私と同じことを主張している方を紹介した方がその影響力が大きいと思い紹介します。
その名は、オランダ人ジャーナリスト、作家のカレル・ヴァン・ウォルフレン。彼は1941年生まれだから、私より3歳若い。若い人は彼の名前を知らない人が多いかもしれません。彼が1989年に出版した「日本/権力構造の謎」(早川書房)は、英米で発売と同時に大きな話題を呼び、世界10か国に翻訳され、世界的ベストセラーになっています。
私は彼が大嫌いです。大東亜戦争日本悪者論に便乗し、オランダのインドネシア支配を肯定化し、丸山真男、小沢一郎、菅直人らを称賛しているのだ。私と彼と、その見解が一致するのは日本人知識人に対する見解だけです。ウォルフレン氏は、1995年窓社から「日本の知識人へ」という本を出版しています。まず一頁目から日本の知識人に対する見解が表明され、彼の見解と私とは全く同じなので思わず本屋で買ってみた。
彼の論文の一頁目のタイトルが、「なぜ日本の知識人はひたすら権力に追随するのか」
このタイトルは私の見解と同じです。私は40代ごろからこのような感覚を持っていました。このタイトルの後に、彼の次の文章が続きます。
引用開始
「日本では、知識人が一番必要とされるときに、知識人らしく振る舞う知識人が誠にすくないようである。これは痛ましいし、危険な事である。さらに、日本の国民一般にとって悲しむべき事柄である。なぜなら、知識人の機能の一つは、彼ら庶民の権益を守ることにあるからだ。」
引用終了
この文章の数行あとには、次のような文章が書かれています。
引用開始
「知識人として当然果たすべき役割を果たす知識人がいないかわりに、日本には沢山の学者、ジャーナリスト、ブンカジン(文化人)がいて――それと知ってしらずか――意図的な情報(プロパガンダ)をまき散らしている。この情報が日本人と外国人を共にまどわせ、世界における日本の立場と日本が直面する問題全般について、冷静にして客観的な見方が形成されるのを、ますます困難にしている。」
引用終了
これは彼の名言だと思っています。日本では最近あまり使われない言葉だが「御用学者」という言葉があります。辞書では時の政府や権力者に迎合して、その利益となる説を述べる学者と書いてあります。いくら有名な保守系学者だからといって「御用学者」ではないかどうか認識できるほどの知識人リテラシーを持たなければいけないと言うのが私の主張です。
知識人とは、我が身にどんな結果が振りかかろうとも、あくまでも“筋を通して”考えること自らの責務とする人たちのことです。

私は、通称「つくる会」神奈川支部の会員です。教科書行界だけでも「御用学者」と思われる学者、ジャーナリスト、文化人らによる一致した権力者志向によって、「つくる会」が長年試練を強いられてきた実情を書きます。
平成19年、「つくる会」の競争会社、保守系の歴史、公民教科書を出版する育鵬社が設立された。育鵬社を設立したのは、フジ・サンケイグループのフジテレビです。フジテレビの日枝社長は、育鵬社の歴史教科書の顧問に八木秀次氏を指名した。八木秀次氏は、前「つくる会」の会長です。八木氏は、「つくる会」の会長の時、「つくる会」事務局長宮崎正治氏(日本会議)と一緒に「つくる会」幹部に極秘でシナを訪問、なんと「中国社会科学院日本研究所」を訪れ、また彼らを日本に招き新しい歴史教科書をめぐって意見交換したというのだ。その後フジ・サンケイグループの「つくる会」乗っ取り、「つくる会」つぶしがあった。その時の「つくる会」とフジ・サンケイの確執は、拙著「保守知識人を断罪す」(つくる会)苦闘の歴史)平成25年、1500円、総和社)を参照ください。私が赤裸々に書いています。この時の産経新聞の報道は実に見苦しかった。

育鵬社が設立されて間もない平成23年7月20日、河村たかし名古屋市長の肝いりで名古屋で中学校歴史、公民教科書討論会が開催された。育鵬社と「つくる会、」の自由社だけが出席し、ほかの教科書会社は出席しなかった。その席で育鵬社の歴史教科書監修者の一人である石井昌浩氏(元拓殖大学客員教授)は、「南京事件は確かにあった。これは事実です。犠牲者の数などの実態についてはまだ論争が続いてる」と発言しているのです。私は驚きました。育鵬社は保守系の歴史教科書だから「南京虐殺事件は否定する」と思っていたからです。渡部昇一氏は、長年南京事件否定論者で有名ですが、彼も育鵬社の歴史教科書の監修者ですが、石井氏の発言に肯定もしなければ、否定もせず、無言を押し通した。
文科省は、南京事件「あった派」で犠牲者の数は未定と主張しています。南京事件を否定すると歴史教科書としての検定を与えません。何故か?文科省は、民間の南京事件研究者、例えば東中野修道の命を懸けた研究成果や南京事件に疑問符を投げかけた田中正明、鈴木明、冨澤繫信、阿羅健一、北村稔等の諸氏らの論文に一切目もくれず、「日中歴史共同研究」の日本側出席者の北岡伸一、笠原十九司、斎藤一晴、庄司潤一郎らの主張をそのまま受け継いでいるからです。それでも「つくる会」は、四年毎の検定の年には、毎回文科省と論戦を繰り返してきました。育鵬社は日本の権力に簡単に追従したのだ。追随したのは日本の権力ばかりでなく、シナ、韓国の権力に追随したのだ。なぜなら歴史教科書にシナ語や韓国語の名前や地名などがあるとわざわざシナ語や韓国語のルビをふっているのです。こういう情勢にもかかわらず、日本会議を初め、非常に多くの無数の知識人が圧倒的に育鵬社を支持した。どうしてこんな現象が起きたか。日本の知識人の多くが権力者に追随することが好きな「御用学者」だからです。権力者とは安倍政権とフジテレビです。フジ・サンケイグループは、保守言論出版機関に大きな影響力を持っているからです。

平成27年ユネスコ遺産にシナが申請した「南京大虐殺文書」が登録されたことを受けて、有識者によって結成された団体が平成27年11月28日に都内で「南京大虐殺」の歴史捏造を正す国民会議」の集会を開き南京大虐殺の証拠が存在しないことを政府が対外発信するよう求めた。この会議の参加者920名、左翼の発表なら参加者二千名ぐらいになったでしょう。私はこのような集会は当然だが、私が驚いたのかこの国民会議の議長に渡部昇一氏がなっていることです。渡部昇一氏は、確かに超有名な保守知識人の重鎮と言われているくらいですが、しかし彼は南京事件否定派だが、実際には南京否定のため行動をしているどころか、育鵬社の歴史教科書の監修者です。同じ監修者の石井昌弘氏は。「南京事件はあった」と公言した通り歴史教科書を作ってきた。その教科書に渡部氏は同調したということです。そのような教科書にそれこそ数えきれない沢山の知識人が支持したのです。
「南京大虐殺」の歴史捏造を正す国民会議」への「呼びかけ人」のリストに大勢の知識人の名前が記載されています。その中に伊藤哲夫、小田村四郎、田久保忠衛、松浦光修、椛島有三などの諸氏がいます。彼らはみな日本会議の幹部です。彼らは南京大虐殺を公認する育鵬社の歴史教科書を支持するだけで、南京大虐殺事件否定に何ら役立っていません。特に伊藤哲夫氏は、日本政策センターで月刊誌、「明日への選択」を発行し、育鵬社の教科書宣伝記事を書きまくり、「つくる会」の記事など一切書きません。私は数年間「明日への選択」の購読者だったから知っているのだ。購読を辞退した理由は、彼は一度も「つくる会」の記事を載せなかったからです。その彼が安倍総理のブレーンの一人で、安倍氏の憲法改正論の提案者と言われています。昔から日本には、こういう典型的な御用学者が多いのだ。一方「呼びかけ人」リストには杉原誠四郎、西尾幹二、藤岡信勝、諸氏の名前も記載されています。この三人は、「つくる会」の会長、副会長経験者です。彼らは南京事件否定しても文科省の検定を取ろうと一生懸命努力した。しかし平成27年の検定のときは、検定をとるために南京事件を肯定までして生徒にうそを教えるより、南京事件を一切触れず、かわりに昭和12年7月にシナ通州で起きた日本人虐殺事件である「通州事件」に触れて検定を取ることができた。特に通州事件は、これまでどの教科書も全く触れず、今回「つくる会」が戦後初めて歴史教科書で触れたのです。若い人たちはほとんどこの事件を知りません。ぜひ「つくる会」の副会長、藤岡信勝氏が著した自由社ブックレット5「通州事件、目撃者の証言」(頁数111、500円)をお読みください。平成28年1月ユネスコが「南京大虐殺」を記憶遺産に登録すると「つくる会」はそれに対抗する意味で設立した「通州事件アーカイブズ設立基金」は、平成28年5月「南京大虐殺」のユネスコ記憶遺産登録に対抗して「通州事件」をユネスコ記憶遺産に登録申請した。「歴史戦」はいまはやりの戦争です。育鵬社の代表格、八木秀次氏は、「つくる会」の会長時代、極秘にシナ訪問し「中国社会科学院日本研究所」の学者たちと会談しているのだ。育鵬社が歴史戦で戦えるわけがない。このことだけでも育鵬社支持の多くの無数の知識人は無視しているのです。

平成29年2月14日に文科省が発表した小中学校の学習指導要領改訂案の中に、聖徳太子の呼称を否定し、「うまやどのおう」《漢字変換できず》と呼ばせるという歴史教育の新方針が打ち出された。これに対し「つくる会」は「聖徳太子を守れ」と立ち上がり、国民からも多くの反対声が寄せられ、文科省は方針を転換し、3月31日に告示された最終確定版では、「聖徳太子」は小中とも復活。その他「歴史用語革命」とでも言うべき言葉狩りでギロチンにかけられそうになった「大和朝廷」、「元寇」、「鎖国」の用語も生き返ったのだ。つい最近の6月27日の朝日新聞29面では、「聖徳太子が復活したのは、『つくる会』がホームペーなどを利用してコメントを送るよう指示したため」と書いています。読者の皆さん、教科書改善に全力を尽くして、日本の為に「歴史戦」を戦っているのは「つくる会」だけなのです。育鵬社は教科書ビジネスを展開するだけで、「歴史戦」どころか教科書改善運動など何も役立っていません。
読者の皆さん、メディア・リテラシーならぬ知識人・リテラシーの力を発揮して、育鵬社、日本会議を支持する無数の知識人たちの発言、行動を無視してください。

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