Archive for 8月, 2017

「戦後昭和の女性たち」、9月1日発売開始



「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版「The USA is responsible for The Pacific War」
を世界中に、いや少なくともアメリカ中に売り込みたい。そのために英文版を大量発注する資金を稼ぐためのベストセラー作品を作り出そうと売りだしたのがちょうど2年前、2015年の9月に文芸社から出版したのが「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」。
この本は私の波乱万丈の一生を描いた自伝的小説だが、私によれば本が立派過ぎたのだ。B6版のハードカバー、ページ数363頁、値段1,600円+税。私あてに個人的に書評を書いてくれた人たちは皆絶賛してくれたが、やはり何といっても私は無名人。もっと簡単に手に入りやすい本にしなければ思い、新しい本を文芸社から文庫本を出すことにしました。本の題材ももっと受け入れやすい物にしなければと思い書いた本のタイトルは、「戦後昭和の女性たち」、八つの女性短編小説をまとめたもので、ページ数243頁、値段700円+税。これなら持ち運びに便利で、しかも本の内容が思想信条に関係ないから読みやすいのが特徴です。

これまで私の著作は、男性読者中心だった。ぜひ今度は女性読者層を引き込みたい。それによって売り上げ部数を伸ばしたい意向もあった。ある時ある人から言われました。「戦後昭和の女性たち」ではまるで論文のタイトルみたいで、女性短編小説集ならもっとセンスの良いタイトルがあるのではないかと忠告された。「戦後昭和の女性たち」以外のタイトルを考え出せなかった理由を示すには、この本の目次を見てもらわなければなりません。目次は、
一。綾子の無念さ
二。幸子の試練
三。つばめとお松
四。愛人関係契約書
五。春江とさやかの生き様
六。栄子の帰郷
七。佳代子の心変わり
八。天国での女性体験
この本はこの八つの短編小説で10人の女性の生き様を描いております。一人か二人の女性の生き様を描いた小説なら、一人か二人に凝縮した素敵なタイトルが浮かぶかもしれませんが、10人の女性を平等に扱わねばなりません。その10人を凝縮した素敵なタイトルを決めるのはむずかしかったので「戦後昭和の女性たち」に決めました。10人の女性たちと同時に10人の男性たちも登場します。この10人たちの男性のなかに私も登場しますが、私が他の男性を描く場合、どうしても自分に似てくるのです。私の筆力不足もあるのでしょう。それでも一つ、一つの短編小説が生き生きと描かれていれば問題ないのですが、皆さんが読んでいてどう思うかどうか不安なところもあります。

私は「つくる会」初めいくつかの保守の会に所属していますが、皆さん、非常にまじめな方が多い。政治、歴史、経済、教科書問題等々、難しい話を一年365日話続けてもあきることがないようです。私はその奥様方に同情いたします。「戦後昭和の女性たち」を読んで、たまには若いころ、二人でデイトしたころを思い出して話合うのもいいのではないでしょうか。
本の内容もさることながら、私にはもう一つ心配な点があった。本のカバーデザインをどう思ってもらえるかです。私は文芸社に昭和の娯楽の殿堂と言えば日劇だから、夜の日劇を明るく照らし、その前を二、三人ぐらいの若い女性たちが歩いているような写真風景を求めた。文芸社は早速探したが、見つからず、夜の日劇から銀座方面を映した写真、とそのほかの写真を見せてくれた。その中から私が選んだカバーデザインが現在使用しているものです。私はこのカバーデザインをすごく気に入っています。しかし老人の少女趣味だと言う人もいれば、私の精神的若々しさ出ていていいという人もいれば、私の女房みたいにこれだと女性読者層だけしか読まないのではと心配という人もいます。皆さんはこの本のカバーデザインどう思われますか。

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79歳の誕生日を迎えて



この8月1日で私は満79歳の誕生日を迎えた。私の波乱万丈な人生を振り返ると三つの特徴がある。両親の病気、外資系、一匹狼。この三つのうち今回は、両親の病気について語ります。敗戦になって多くの軍人たちが自宅に帰ってきてからが本格的な生活苦が始まった。我が家はもっとひどく最悪な生活だった。父は戦争直前に結核になった。結核が初期だったため満足な治療もせず病状悪化、お蔭で軍人に取られることはなかったが戦後即入院だった。私が小学2年のころです。他の家庭では戦地から帰国した父親は、働きにでるが、いくら賃金がやすくてもお金は入る。ところが我が家は、父親は働けないからお金が全くはいらない、その上病気の治療費を払わなければならない。お金の工面はどうしたか。父親の実家です。実家は富山県の地主だった。しかし戦後すぐ農地改革があって、大地主は小作農より多少裕福だったが、以前より金銭的余裕がなくなっていた。そこえ父が頼み込んでなんとか助けてもらった。父の実家の援助がなかったら母は三人の子供を育てるためにパンスケになっていただろう。その頃住んでいた横須賀は、パンスケの街だった。
父は右肺だか左肺を切除して治癒。日本鋼管に復帰した。首にならなかったのは、日本鋼管が大会社だったからだろう。
父が仕事に復帰して10年ぐらいたっただろうか、私が高校に入学するころ、父は、今度は腎臓結核を患ってしまった。この時きちんとした治療しておけば完治していたでしょう。しかし治療にはお金がかかる、それではいつまでも生活が向上しない。父は現代医学を拒否する新興信仰、メシア教に走った。一旦決めたら梃子でも動かぬ信念を持つ父親は、母の忠告も全く聞かずメシア教を祈りつづけた。結局二つ腎臓のうち、片方は腐ってしまい、残り腎臓の三分の一全く機能せず、このままでは父は死んでしまうと思い、母は父を騙すようにして病院に担ぎこんだ。5年間ぐらい入院しただろうか。結局三分の一が完全に機能しなくなった腎臓をだまし、だまし使い続けて、出張の時には鞄のなかに尿瓶をいれていた。そんな状態のまま定年まで働き78歳で死んだ。
父親がこんな状態だから我が家は、いつも貧乏で私は大学にも行けず、頭は優秀でなく普通のでき、体は頑丈でなく、普通の体。しかししぶとく努力することは得意であったから、自分の人生は長期で勝負、人が5年かかってできることは、俺は10年かけてでもやる。そのためには元気で長生きしてやるしかないと心に決めていた。
ところが私が30代にはいったころ、母親が五十代半ばで胃癌になり、胃の三分の一を切除して退院した。手術後5年間は元気いっぱいで完全治癒したと誰もが思った。だが6,7年後に咽頭癌になった。医者は胃癌の転移でなく新しい癌だと言った。人間は二つ声帯をもっているが、母は癌の為一つの声帯が麻痺してしまい、声量が半減してしまった。治癒しても声帯は元に戻らなかった。その後すぐに今度は大腸癌になった。手術後人口肛門をつけるようになった。その後すぐ小腸癌になった。通常一人の患者が一人で二つも三つもがんを患うのを多重癌と呼んでいた。母は結局四つの癌をわずらい多重癌で、それぞれ大手術をし、71歳の若さで死んだ。これまで私は、人生を長期戦で戦おうときめて実行していた。人が五年かかるところ10年かけてやる。そのための努力は、大いにやってやる気でいた。しかし私も私の二人の妹も父も、また医者も我が家は癌家系と思った。私は常日頃神や仏、いわゆる宗教に関心がない、それどころか時には、神や仏に怒りさえ感じる時がある。それはある特定の人物にこれでもか、これでもかというように苦労を与えるからです。私の母親は戦後三人の子供を育て上げるのにどれだけ苦労したか、長男である私は、その苦労を一番知っている。私は子供の時お正月にお年玉をもらわずに、大人になってしまった。家族でどこかに遊びに行くどころか、どこかに家族で一緒に食べに行くこともなかった。あの苦労に苦労を重ねた母親が中年なったら、次から次への癌に犯された。胃癌治癒後60歳から死ぬ71歳の11年間に三つの癌におかされたのだ。しかも当時は末期癌でも副作用が大きいからと言っていまほどモルヒネを多用に使用しなかったのだ。母がベッドの中で痛い、痛いと嘆くのだ。病院見舞いの帰り、私は悔し涙が出てどうしようもなかた。お袋は何も悪いことはしていない、何故癌に襲われ続けねばならないのか。神や仏を恨んだ。37,8歳のとき、私は自分がいずれ癌に襲われるかもしれないと思い癌と戦うことを決心した。癌の早期発見でやっつける対策だ。生命保険にも入らない私が癌保険に入った。毎年人間ドックに入ることを決め、以来40年間毎年人間ドックに必ず入った。母の病歴を知った医者は、私のドッグ結果を詳細にチェックするせいか、これまでに何度も胃癌、大腸癌、肺癌など再検査をさせられた。
またできるだけ健康な体で癌を早期発見して治そうと考えていたから日頃運動不足にならないよう気をつけてきた。ところが三年半まえ軽い脳梗塞を患い、幸い一週間の入院ですんだ。毎年人間ドックに入っているから脳梗塞の注意など受けたことなかった。私が大病するとしたら胃癌か大腸癌、いわゆる内臓の癌だろうと自分で決めていた。脳梗塞になる注意など受けていなかったせいか脳梗塞は実に軽症だった。わずかに右足をひきずる程度ですんでいる。そして現在79歳の誕生日がきた。
ここで私は初めて癌家系からの解放を宣言した。母には二人に妹がいた。すでに死んでいるが癌では死んではいない。私には二人の妹がいる、二人とも現在70歳以上だ。しかし癌を患ったこともない。私は79歳、癌にわずらったことがない。母親の四つの癌は彼女独自のもので、家系によるものではない。私や妹がいずれ癌になったとしても、それは家系によるものでなく加齢による癌と結論づけたのです。これによって私の終末期の人生が洋々と広がる明るい人生になったのだ。日頃の運動不足を注意していたから私には体力に自信があるのだ。懇親会というパーティーでは最初から終わりまで立ち続けでいられるのだ。自分で講演した時も立ち続けできる。今年と昨年の人間ドックの結果は再検査の必要なしだった。私の癌保険の満期は82歳です。もうこれ以上癌保険かける必要なしと決めた

これからの私の人生の終末期に何をするか。人は大体一つの人生で終わりです。私は欲を出して二つの人生を送ろうと思っています。サラリーマン人生実働40年、61歳で定年退職。以後執筆活動。これまでの18年間の執筆実績は、来月に女性短編小説集を出版します。それを入れて9冊目の出版です。2年ごとに1冊出版したことになります。それに「えんだんじのブログ」が今年11月で10年目を迎えます。この執筆実績は、ちょっとした人気作家なみです。こうなると自慢したくなって、「俺は若い頃から執筆活動していたら、今頃偉大な作家なっていたのではないか?」という気分です。あと20年執筆活動すると99歳になる。100歳まで書き続ければ、サラリーマン人生40年、執筆活動40年の二つの人生をおくったことになる。現在は人生100歳の時代です。途方もない夢ではない。どん底から這い上がってきた男のすごさを見せつけてやると闘志満々の日々を過ごしております。

「おふくろよ、俺が執筆活動をしているとは、全く予想外のことでしょう。俺の人生このままでは終わらないぜ、いずれお袋を主人公にした小説を書きたいと思っている。俺はお袋の分も長生きするからな。よく見ていてくれよ!」



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