Archive for 3月, 2018

両手両足を失った中村久子



ピョンチャンのパラリンピックも終わりました。日本代表選手の皆さんご苦労様でした。このブログは身体障碍者の話ですが再度紹介します。以前「えんだんじのブログ」で紹介した日は、三年前の平成27(2015)年5月9日です。読んで思い出す人もいるかもしれませんが非常に胸うつ話で、創作ではなく真実の話です。
三歳で突発性脱疽(だっそ)
明治30年、中村久子は岐阜県高山市の貧しい畳屋の第一子として誕生した。結婚して11年目にしてようやく恵まれた娘は、両親にとって目に入れても痛くないかわいい子。ところが、もうじき三歳になる年の秋、足の痛みを訴えて泣く久子を背負って病院に駆けつけた両親は、医師から衝撃的な病名を告げられた。体の一部が壊死(えし)して脱落するという突発性脱疽(だっそ)。「両足とも切断しなければならず、命の保証は出来ない。」
突然襲い掛かった災難に両親はうろたえた。そうこうしているうちに病状は悪化し、きらずに治せないかとう両親に哀願もむなしく、病は手にまで感染した。父栄太郎は看病のため仕事もできず、わずかな貯えは医者代に消え、一家は借金を抱え込んだ。
父の切実な願いが天に通じることなく、ある日、久子の激しい泣き声に台所から駆け付けた母親のあやは、そばに転がる白い物をみつけた。それは包帯に覆われたままもげ落ちた、わが子の左手だった。結局同じ月のうちに右手と両足を切断、久子は三歳にして両腕のひじから先と、両足の膝から下を失ったのだ。

父が亡くなり一家の運命は暗転する
昼夜かまわず泣く子をおぶり、雨の日も雪の日も街中を歩いてあやす両親と祖母。特に栄太郎は不幸な娘を不憫(ふびん)がり、弟の栄三が誕生してからも、久子を側においてかわいがった。久子の噂を聞きつけた見世物小屋の興行師が「その子を売ってくれないか」と話を持ち込むと、父は怒り、たとえ乞食になっても娘を守り抜くと誓うのだった。
こうして家族の愛情に包まれて、短いと思われた久子の命は奇跡的にとりとめられた。ところが、一家の大黒柱であり久子の守り神でもあった栄太郎の突然死が、家族の運命を大きく変えることになった。
手足のない七歳の娘と、二歳になったばかりの幼児、そして山のような借金を残された母。栄三は伯父の家に引き取られ、久子の面倒を伯母に託し、あやは働きにでるようになった。
久子は祖母から百人一首の歌や片仮名をならい、大好きな人形の着物をぬってもらった。戸外で遊べない彼女にとって唯一の友達は人形。頬(ほほ)よせて「あんたはお手てもあんよもあっていいのね。そのお手て、あたしに貸してちょうだい」と語りかける切ない日々。それでも春が来れば学校に行けるという希望が少女の胸を躍らせた。しかし、障害者への差別が強い時代のこと、それははかない夢にすぎなかった。

母の再婚とつらい日々
あやが子連れの男と再婚したのは久子が八つの時、義父との生活は、生きるために仕方ないとはいえ、母娘(おやこ)にとってつらいものとなった。それまで娘に甘かったあやは、夫への気兼ねから厳しくなり、不具な子を恥じる義父は久子を二階の部屋に隠すように置いた。来客で忙しい日など、丸一日忘れ去られることもあり、空腹や便を我慢して待たなければならなかった。

口を使って縫い物をする
あやは、娘の将来を思って何でも自分でやるようにさせた。癇癪を起こし泣きわめいても手を貸さない。酷とも言える母の厳しさを恨むこともあった。しかし、繰り返し、繰り返し練習するうちに、口でハサミを使い、マッチを擦ることを覚えました。大好きな人形の着物作りにも挑み、「手無し、足なしに何ができるもんか」と罵(ののし)られても、最後まであきらめなかった。「きっと作ってあげるで、待っておいでよ」人形にやさしく語り掛け、幾日もかけて一枚の着物を縫い上げた。それは口で縫ったためつばでベトベトにぬれていたが、久子は至福の一時を味わった。自分の力で物を作れるのだ!
ところが、そんな浮き立つ思いはすぐに打ち消されました。友達に人形の着物を贈ったところ、その母親が「こんな汚いもの」と言って小川に捨ててしまったことを知るのだ。
この時、久子は初めて自分は普通の子と違う、手足のない子であることをはっきり自覚した。「ぬれない着物を縫う」悔しさ、悲しさをばねに悲壮なまでの努力を重ねたのだ。それが実現したのが十三年後のこと。後年、久子はこの時のことを振り返り、「この侮辱こそが宝だった」と感謝さえするのです。
また食事も自分で取る決意をした。箸(はし)を持つ指がないので器に口を直接つけて食べていると、「犬だ、猫だ」と店の小僧たちに笑われた。「自分は犬や猫ではない、人間だ。きっと箸(はし)を持ってご飯を食べて見せる。」久子の反抗心に火がついて、あれこれ工夫を凝らすうちに、包帯に箸を挟むことを思いつき、一人で食事ができるようになった。自分の力で食べるご飯のおいしさ・・・それは久子にとって大きな発見であった。

誇りを捨て興行の道へ
近所の男の子たち「手なしぃ、足なしぃ」と馬鹿にされて泣いていると、祖母は孫に諭(さと)した。「仏様がご覧になっているから、いじめられても他人様を口汚くののしってはいけませんよ」と。
久子はこの祖母から読書や習字の手ほどきを受け、学校に行かないながら知識を身に着けたのだ。また、祖母は来客への礼儀から日常生活のこまごまとした振舞いまで厳しく教えたのだ。一方義父は久子を「穀(ごく)つぶし」と呼び、彼女を巡る夫婦間の言い争いはたえなかった。間もなく久子は麻糸つなぎの内職を始めた。
固い麻糸が口でむすべるようになるまでには並々ならぬ苦労があり、初めて成功した時は畳にひれ伏して泣いた。人生で初めて稼いだ十六銭。働く喜びが手足のない久子の体を駆け抜けた。
そんな久子も十八歳になり、自活の道を選ぶ時が来た。国が身体障碍者に下付する扶助料をもらう道もあったが、役に立っていない自分がお国のお金をもらう資格などない。国に甘えて生きれば自分の力で立てなくなると、これを拒否した。
迷い苦しんだ挙句、やるまいと誓っていた興行の道を選んだのは、それから一年後のこと。大正五年、久子は見知らぬ土地へと旅立った。家族と別れ、誇りを捨て、ただ生き抜くために・・・。

泥中の蓮になろう
『だるま娘』― これが見世物小屋の芸人となった久子につけられた名前でした。芸は裁縫、揮毫(きごう、文字や書画を書く事)、切り紙など、生活の中で覚えたこと、派手な衣装や卑しい曲芸を売りにしない、品性と教養がにじむ芸が好評を博し一躍人気者になりました。一座を率いる伊勢兼(いせかねる)は亡き父を知る人で、久子を実の娘のように労り、「暇さえあれば、一字でも多く学べ」と励ました。
しかし、順風満帆な日々は長く続きません。興行師として素人の伊勢兼(いせかねる)は興行に失敗、小屋が人手に渡ってしまったのだ。後を継いだ主人は腹黒い男で、久子に過酷な労働を強いた。しかし、どんな惨めな環境にあっても、彼女の向上心がくじかれることはなかった。「泥中の蓮になれ」という書道の師匠、沖六鵬(おきろくほう)の言葉の力を得て、短歌に親しみ、本を読んで精神を高めたのだ。その結果、彼女の芸は次第に高尚さを増していくのだった。

半生記が懸賞の一等になり、義足で歩ける
久子の運命は大きく転換します。自分の半生を綴った手記が婦人雑誌『婦女界』の懸賞で一等当選。賞金を手にしただけでなく、社の援助で義足が贈られたのだ。久子は真っ先に義足をつけるために入院した。立って歩く訓練はまずもって恐怖を克服する戦い。しかし四歳で脚を失って以来、自分の力であるくことをどれほど切望してきたことか!久子は嬉々として練習に励み、四か月後には颯爽と歩いて病院を後にしたのだった。

結婚、そして未亡人
また、絶対に無理であろうと諦めていた結婚の夢も叶ったのだ。二十四歳になった久子は同僚の女性たちが羨む中、同じ小屋で働く中谷雄三と結婚したのだった。結婚二年目にして妊娠。障害を持って生まれてくるのではないかという心配をよそに四千グラムの健康な女の子を出産し、厳しい生活を送る夫婦に希望を与えたのだ。
しかし、暗雲は情け容赦なくせまります。体調を崩した夫は死を宣告されたと同じような結核の末期状態だった。絶望と悔しさを抱え、久子は医者代と生活費のために毎晩遅くまで働いた。ところが大正十二年九月一日に突如襲った関東大震災が、命以外のあらゆるものを奪っていった。
栄養失調と心労で乳は出なくなり、わずかな配給と残されたものを利用して病人と幼子を懸命に世話しました。しかし、その甲斐なく、震災から三週間後に夫は逝き、二十七歳で久子は未亡人となってしまったのだった。

障害を持つ女性に会い、恨みを感謝に転換する。
夫の百か日が済まないうちに、久子は再婚した。女一人の興行は不可能で、生きていくために仕方のない選択。幸い再婚相手の進士由太(しんしゆうた)はよき夫であり、頼れる太夫元(たゆうもと)でした。次女も誕生、生活苦からようやく脱し、訪れたささやかな幸せに喜びを感じていた。ところが寄り添って二年に満たない大正十四年の秋、床についた進士(しんし)は急な発作であっけなく世をさり、久子は二番目の夫をも失ったのでした。
それでも彼女はくじけず、三度目の結婚に踏み切った。この結婚は久子に幸福をもたらさなかった。夫の定兼(さだかね)は浪費癖があり身持ちも悪く、久子の連れ子に対して無責任な態度を取るばかり。やがて二人の間に生まれた三女が病で死ぬと、彼女の夫への愛情は急激に冷えていった。
心労を抱える中、久子の人生観を変える座古愛子(ざこあいこ)と出会った。首から下が付随の女性が女学校の購買部を受け持っている、という記事を偶然目にした久子は、直接彼女を訪ねたのだ。
結婚もせず、肉親もすべて失い、たった一人で寝たきりの生活を送る座古愛子の明るい顔に衝撃を受け、久子は一つのことを悟るのだった。苦難のあまり運命を呪い世を恨んできた不幸な者は山ほどいる。考え方を改めて、恨みを感謝に転換しなければならないと。

芸に磨きをかけながら、子供を学校に通わせる
芸人のほとんどが子どもを小学校に行かせない中、久子は教育が必要だと確信し、信頼のおける家庭に二人の娘を預けて学校に通わせた。久子は子供たちに送金するため必死に働き、芸に磨きをかけた。久子の色紙(しきし)や短冊は人気が高く、よく売れた。投げ銭をとらないのも彼女の信条であった。芸人は乞食ではない、人々に驚嘆と感動を与えるのが真の芸人と考え、ただ縫ったり編んだりするのではなく、より完成度の高い作品を舞台で披露するようになった。そうして七年間の忍耐の末、久子は昭和八年に定兼と別れ、知人の勧めで九歳年下の中村敏雄と四度目の結婚をした彼女は、ほどなく興行界をさった。

ヘレン・ケラーと対面、一躍全国的な有名人に
昭和十二年久子にとって忘れがたい年となった。周囲の計らいで、来日したヘレン・ケラーと直接対面したのだ。その日のために彼女は生活費を切り詰めて布を買い、口で縫い上げた日本人形を贈り物として用意していた。
政界の要人も参会する歓迎会の席で、その人形を受け取ったヘレン・ケラーは、手探りで久子の短い腕と義足を確認すると、突然その体を抱き寄せました。そして見えない瞳から熱い涙を流しながら、「私より不幸な人、そして私より偉大な人」と彼女を称賛した。
三重苦のヘレン・ケラーと無手無足の久子。二人を見る聴衆は深い感動に包まれ、各紙は「和製ケラーと相抱く」と大きく報道。これより中村久子の名は全国的しられた。
晩年の久子は各地で講演し、執筆活動に力を注いだ。昭和40年、六十九歳の彼女は自分を支えてくれた亡き母を顕彰し、国分寺境内に悲母観音像を建立(こんりゅう)した。一時は厳しさゆえに恨んだ母。しかし自らも母となることで、すべての愛情の裏返しであることを知ったのだ。
久子は言いました。「確かなことは自分で生きているのではない、生かされているのだということです。いかなる人生にも決して絶望はない」。七十二歳で波乱の人生を閉じると、遺言通り久子の体は解剖された。持っているすべてをささげつくした最期であった。

この物語の由来:
私のブログの愛読者に関西地方にある私立高等学校の校長先生がいる。彼がその高校の校長になった時、学校の経営者が我が校は、道徳教育に力を入れたいと強調した。彼は道徳教育の教科書を作るため、古今東西の心を打つ話や、インターネットや、日本の古典などから情報を仕入れ、日本の古典は自ら現代語訳に翻訳したりして、一年用、二年用、三年用の三冊の道徳教育の教科書を作成した。一冊平均5-60頁あった。
教科書名として「徳育科」と称した。その「徳育科」三冊を私に送ってくれた。私のブログに掲載しても良いとの了解を取りながら、私は自分の書棚のどこかにしまいこみ忘れてしまっていた。それからおよそ二年後の現在この道徳教科書「徳育科」をふとしたことで見つけだした。
あわてて彼に連絡して見ると、彼はすでに定年になっていた。学校の名前も変わり、経営者も変わっていた。しかし「徳育科」の授業は続いており彼が作成した教科書がまだ使用されているのがわかった。しかし中身が多少変わったかどうかわかりません。この「中村久子」の話は、一年用の教科書「徳育科」に載せられた十三話の一つです。前校長の了解を得てブログに載せました。全文ほとんど原文と同じですが、文章の終わり目は、「~です」、「~であります」というように教科書的だったものをもっと口語的なものに私の判断で変えさせていただきました。あとは全文、原文と全く同じです。
ここからは私が新たに追加した文章です。このブログ公開後、私はお年寄りに中村久子の話を知っているかを聴きまわりました。私はこの夏80歳を迎えますが、私はこれまで中村久子の話は知りませんでした。従って現在80歳以下では知っている人が極端に少ないでしょう。現在83歳の方がある程度知っておりました。すでに85歳以上の方がこの中村久子の話は、戦後封印されたのでしょうと語っておりました。これは私の推測ですが、日教組など共産主義に魅せられたり、親近感を持っていたから中村久子が、政府の身障者への扶助はっきりと断ったから、彼女の話を封印してしまったのかもしれません。皆さん、中村久子のウイキペディアを読んで見てください。ヘレン・ケラー女子と面会したとき自分の口で作った日本人形を差し上げていますが、その日本人形と一緒に取ったときの彼女の写真を見ることができます。DVD制作を中心業務とする映画監督、斎藤満雄氏が平成10(2008)年に「生きる!!中村久子物語」を公開しています。今では若い人たちにも中村久子の名前は良く知られています。



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「南京大虐殺」ユネスコ記憶遺産登録は、日本政府の失態



シナ政府は、「南京大虐殺」に関する文書をユネスコの記憶遺産に登録するよう申請していたが、平成27年10月10日にその登録が正式に認められた。これは安倍政権の外交的失態と同時に安倍政権支持派の保守知識人の失態でもあります。その失態の実状を説明しましょう。
一。文科省の検定
文科省は過去数十年間、公立の中学校で使う全教科書の内容を検定し、その検定合格をもって教科書の販売許可にしてきました。歴史教科書については、南京大虐殺を否定すると検定を合格させなかった。平成9年に「新しい歴史教科書をつくる会」が設立された。設立されたきっかけは、あの嘘八百の「従軍慰安婦」事件が当時販売されていた歴史教科書七社、その全社が「従軍慰安婦」事件を掲載したからです。公立中学校の全教科書は4年ごとに改定され、発売されますが「つくる会」は南京大虐殺を否定しています。歴史的理由は長くなるので省略。南京事件否定では文科省は検定の合格はくれません。結局「つくる会」は折れて南京事件を肯定して検定合格を取ってきました。四年ごとの改定の度に歴史上の嘘を書き続けるわけにいかないと前回の改定のときには「つくる会」は南京事件を否定もせず、肯定もせず、また全く何も書かずに、また歴史教科書では初めて「通州事件」を書いて検定合格を取っています。文科省が南京虐殺を否定すると絶対に検定合格を与えない最大の理由は、「日本歴史学会」と「歴史学研究会」が民間の南京事件研究で有名な東中野修道氏を初め、田中正明、鈴木明、冨澤繁信、阿羅健一、北村稔の諸氏の研究論文など歯牙にもかけず一切を無視しているからです。今でも自虐史観に固まっている「日本歴史学会」、「歴史学研究会」、憲法学者学の集まりの会などが大手を振っているのだ。それを許して眺めているのが文科省なのだ。

二。育鵬社の登場
フジサンケイグループのドン・日枝会長が三億円を支出し、「つくる会」系と同じ保守系歴史教科書を出版する育鵬社を設立(平成19年8月)。育鵬社登場については二つの注目点があります。
1.八木秀次氏は、育鵬社の歴史教科書の監修者の一人ですが、それ以前は「つくる会」の会長であった。八木氏は「つくる会」の会長在任中、「つくる会」執行部には極秘で、「つくる会」の事務局長でもあり日本会議の会員でもある宮崎事務局長をつれてシナの「中国社会科学院研究所」を訪問した。実状は、八木氏自らの訪問ではなくて「中国社会科学院研究所」からの招待であった。シナ極秘旅行がばれたせいもあって平成18年4月30日八木氏と八木派は「つくる会」を退任し、育鵬社に参加しますが、五月に八木氏に招待されて「中国社会科学院」の蒋立峰・日本研究所所長等研究者グループが来日、5月17日に日中討論会が扶桑社で行われた。同時に同じ平成18年7月3日の「AERA」では八木氏は「朝日新聞に批判されるようなものにならないはずですよ」と語っていた。上記の扶桑社の日中討論会で一説にはスパイの李春光が参加していたという。それを証明する写真もあるというのである(月刊「WILL」平成24年10月号)。何を語られたか詳細はわからない。

2.平成23年7月20日河村たかし名古屋市長の肝いりのもと名古屋で中学校歴史、公民教科書討論会が開催された。育鵬社と「つくる会」の自由社だけが出席し、ほかの教科書会社は出席しなかった。その席で育鵬社の歴史教科書監修者の一人である石井昌浩氏(元拓殖大学客員教授)は、「南京事件は確かにあった。これは事実です。犠牲者の数などの実態についてはまだ論争が続いている」と発言しているのです。要するに育鵬社は、否定しても検定がとれないから最初から文科省と議論せず南京事件を肯定しているのです。一方保守の間では、史実的に「南京事件はなかったことが常識になっています」だから「つくる会」は南京事件虐殺に抵抗しているのです。この当時は、私にははっきりわからなかったが、安倍総理が「つくる会」より育鵬社支持をはっきり示していたのでしょう。その証拠に石井昌浩氏の「南京事件」の肯定発言に反発した保守知識人はほとんどゼロでした。保守知識人の雄、また南京虐殺否定派の雄ともいうべき渡部昇一氏は、石井昌浩氏の肯定発言に反発するどころか育鵬社の歴史教科書の監修者の一人になっています。櫻井よし子氏は、自著『日本よ、「歴史力」を磨け』では「南京大虐殺の嘘」がありますが、石井発言に反発するどころか育鵬社の歴史教科書には支援者の写真の一人になっています。日本会議も育鵬社支援の記事を度々月刊誌「明日への選択」に載せています。八木秀次氏、日本会議の伊藤哲夫氏は安倍総理の太鼓持ちだ。八木氏は日本教育再生機構の理事長、その再生機構の複数の顧問が日本会議の幹部でもあり、組織面、運動面で関係が深い。教科書改善の会は、フジサンケイグループの教科書発行を支援グループ。代表世話人屋山太郎氏。ここには学者ばかりでなく多方面の保守知識人が多いい。育鵬社はフジサンケイグループ。フジサンケイは保守系出版グループの雄だ。保守知識人にとって利用価値がある。従って保守知識人は、「つくる会」の歴史教科書より育鵬社の歴史教科書利用の方に価値があった。そのためでしょう、保守知識人でありなが、無意識のうちに民間の南京事件研究者たちの論文を無視してしまったのです。南京虐殺事件に関する限り、日本会議の一般会員は、ただの馬鹿の集まり、自分で民間保守の南京虐殺研究者たちの論文を否定していることが判らないのだ。

三。日中歴史共同研究
一党独裁のシナ政府と民主政治の日本政府と日中の歴史問題を話しあったところで両政府が了解することは有り得ないはずです。日本側の座長を務めた北岡伸一氏はこう書いています。「日中間で歴史共同研究の開始が合意されたのには平成18年10月の安倍晋三首相と胡錦濤主席との首脳会談によってであった。」
安倍総理と胡錦濤の話し合いで「日中歴史共同研究」が始められ、最終的な結論の一つとして南京虐殺事件を日本政府が認めたのだから、「南京大逆説事件」のユネスコ登録は、安倍政権の失態ではないですか。シナ側の代表団、団長歩兵氏は、インタビューでこう語っています。
「中日双方の学者に等しく、自己の論文中に、南京大虐殺は大規模な集団虐殺行為であり、日本軍の南京占領期間に、中国人被害者に対しておこなった残虐な虐殺であったことを明確に認めて記述した。(略)双方の認識は、一致したところもあれば、異なった視点からの考察も存在した。しかし南京大虐殺の歴史事実を否定するものではなかった。」

それでは、日中両国代表団の団長ともいうべき、北岡伸一と歩兵、両氏に質問いたします。平成20年に胡錦濤氏が日本を訪れた時、「南京事件の真実を検証する委員会一同」が平成20年5月に公開質問状を胡錦濤氏に提出しています。全部で五つの質問状です。どれも胡錦濤氏から返事をもらっていません。全部紹介すると長くなりますのでここでは、質問の一だけを紹介します。
「一。故毛沢東主席は生涯にただの一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後の延安で講義され、そして『持久戦論』としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみです。30万市民虐殺などといういわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?」(参照:えんだんじのブログ「戦争を知らない国民のための日中歴史認識」(平成28年9月24日)
なぜ胡錦濤氏は、これらの質問に答えられないのか、教えてもらいませんか。

皆さんは上記三つの記事、一。文科省の検定 二。育鵬社の登場 三。日中歴史共同研究、を読めば、シナ側は、ひょっとして南京虐殺事件のユネスコ記憶遺産に登録してくるかもしれない等と予想できます。予想通りユネスコ記憶遺産に登録を申請し、平成27年10月10日にその登録の承認が発表された。早速日本では平成27年11月28日東京で「南京大虐殺の歴史捏造を正す国民会議」の集会が開かれ、議長に渡部昇一氏が選ばれています。
私がここで言いたいのは、なぜか渡部昇一氏が平然と議長に選ばれていることです。いいですか皆さん、渡部氏は、育鵬社の歴史教科書の監修者の一人です。その同じ育鵬社の歴史教科書監修者である石井昌浩氏は、すでに書きましたように平成23年7月23日に名古屋の歴史、公民教科書討論会で「南京虐殺事件は、あった」と公言しているのです。皆さん、平成23年7月23日以後、10日間ぐらいの間に、誰か有名な保守知識人で、石井発言に反発した人がいましたか。私の知る限り誰もいません。すでに書きましたように櫻井よし子氏も反対していません。日本会議の連中も反対していません。それにもかかわらず、日本会議の幹部は、「南京大虐殺の歴史捏造を正す国民会議」の参加者名簿には記入しています。東中野氏など民間の保守知識人の南京虐殺事件の研究論文など完全に無視しているくせに平気で加入しているのだ。
平成29年9月15日のえんだんじのブログ、「日本人の政治的幼稚さが国を亡ぼす。」で、私はこう書いています。
「戦前戦後を通じて、日本の保守知識人の特徴は権力から独立した知識人は、極端に少ないこと。むしろ権力によって認められてこそ知識人というか、そのことを望み喜ぶ知識人が昔からの主流なのです。これが日本の悲劇になっている。」
平成27年10月10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は正式に「南京大虐殺」関連文書を記憶遺産(重要歴史文書を保存)とした。なぜ日本にとってこのような悲劇的結末を迎えたかは、無論日本政府の責任だが同時に圧倒的多数の日本の保守知識人が日本政府に媚びて加担したからだ。すなわち文科省の南京事件を否定すると検定がもらえないことを支持したからです。渡部昇一氏、櫻井よしこ氏、日本会議、日本教育再生機構、教科書改善の会などそのことで文科省や安倍総理を批判したことありますか?

ところで安倍総理は、自民党議員時代は「つくる会」をえこひいきするように支援してくれましたが総理になると育鵬社支持にまわった、何故か。簡単な例を出して説明しましょう。「つくる会」は、どうしても南京事件を認めないと検定がとれない。そこで対策を変えて、南京事件については一切述べない、その代り「通州事件」を記載して検定をとった。これはまさにトランプ大統領ばりの「日本ファースト」なのだ。
安倍総理は、「日本ファースト」で日米関係を対等な同盟関係にしようなどとは考えてはいません、あくまでも日本はアメリカの忠実なポチとして行動したいのです。安倍総理の「70年談話」はその証明の一つです。こういう首相に憲法改正をまかせるわけにはいきません。「日本ファースト」を堂々と主張してくれるような総裁や総裁候補の出現まで待とうではありませんか。そんな首相が出現するはずがないと言う保守の人たちが多いからこそ現れないのです。
参考文献:
1.拙著「保守知識人を断罪す」(「つくる会」苦闘の歴史)平成25年 総和社
2.「戦争を知らない国民のための日中歴史認識」笠原十九司 平成22年 勉誠出版


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『尋ね人』、時田早苗(ときたさなえ)さん



ピョンチャンオリンピックでは、随分テレビ番組を見た。冬のスポーツでも色々なスポーツがあるものだと感心してしまいます。現在の10代、20代の人たちは冬のスポーツだけでなく、色々種々雑多なスポーツを楽しむことが出来て実に幸せだ。健康体の人たちだけでなく、何十年と患う人たちから車イスの人まで楽しむことができるのだ。今年の夏、80歳を迎える年代の俺たちにくらべると、同じ10代、20代でも天国と地獄の差がる。特に俺など極貧育ちだから、現代の子供たちと俺の子供時代との差は、天国と地獄の差以上、めちゃくちゃな開きじゃないかなと思う。
俺など両親と一緒にどこかに食べに行ったことは一回もありません、どこかに一緒に遊びに行ったこともありません。お正月にお年玉をもらったことなど一回もないままにおとなになってしまった。俺は長男で妹二人、男ひとりだからいつもお袋の手伝い。親父は重病の結核で入院、俺が手伝わなければ一家全滅というのを子供心に無意識に持っていた。自宅から7,80メーター先に井戸があり、井戸からつるべ落としで水をくみ上げ、二つのバケツに水を入れる、いわゆる水汲み仕事、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、ガスなし、自宅のトイレの汲み取り、自宅の小さな庭に穴を掘り便を埋める。親父は少しでも生活の足しにモルモットを育て、ジュウシマツを飼っていた。面倒なのはモルモットが大きいのでえさを食べる。その餌をかまでとるために山へ入るのだ。その山のごく近くにわざわざ住んでいたのは敗戦(大東亜戦争)のためであった。

俺は神奈川県の川崎市に昭和13年の時に生まれ、昭和16年の時大東亜戦争が起こった。俺が5,6歳のころ日本本土への空爆が度々あった。川崎は重工業地帯でいずれ大空爆にあうのは時間の問題と考え、俺一人を親父の実家、富山に疎開させ、両親と妹の3人は親父の勤務する日本鋼管系列の会社が草津にあったので、そこえ疎開した。予想どおり川崎は大変な空爆を受け、我が家は焼き尽くされてしまった。戦後親父の勤め先は川崎の日本鋼管だったので通勤範囲内の横須賀市の追浜の山の上に引っ越した。横須賀は山の多いい町だ。山の上、またその山の上にいけば家賃が安い、親父は肺結核にかかっていて入院しそうだったから、家賃の安い山の上、我が家を含めて5.6件でその上はまわりがすべて山だった。モルモット用の餌の野草なら山ほどある山上だった。俺は追浜の浦郷小学校に小学一年の三学期に転向した。浦郷小学校は古い学校で明治16年に創立され今年で創立135年という古さです。引っ越して、親父は重病の肺結核ですぐに入院、当時どこでも貧乏だったが俺の家の家族は、大貧乏所帯だった。日曜日は、朝遅く起きねばならなかった。朝食を抜いて一日二食の時もあったからだ。俺が小学校3年か4年の時だった、担任の先生が飯田先生といって女性の先生の時だった。その頃学校では秋になると学芸会があった。各組が演芸をやったり、歌を歌ったりなどして芸を競い合う学芸会があった。その時飯田先生は、俺の組で「白雪姫」を演じることを決めたのだ。その時飯田先生は、俺を白雪姫の王子役をやらせたのだ。どうして王子役に選ばれたのかさっぱりわからなかった。何しろ勉強はできない方だったからだ。俺の女房は、「あなたは子供のころからイケメンだったのよ」と言ってくれるが、俺には子供のころの写真など空爆で焼失一枚もないのだ。
いずれにしても俺は「白雪姫」の王子様役をやった。王子様の被る帽子は、硬いボール紙を緑色に塗り、着るマントは大きい風呂敷を着たことだけは覚えています。他のことは全然覚えていません。主役やる白雪姫は、時田早苗(ときたさなえ)と言った女の子で、お転婆な女の子だったということは覚えています。これ以外何も思い出さないのです。俺はその後浦郷小学校で彼女に会ったこともないし、俺は中卒後間際に藤沢に引っ越すのですがそれまでに一度も会った覚えはありません。
学芸会出演の時には、俺の両親は着ていません。父は結核の重症患者で入院中、母は病院に看護に行っていたからです。時田早苗さんの両親が見にきていたかどうかわかりあません。
俺が今もって不思議に思うのはたったこれだけの思い出だけでよく時田早苗さんというフ
ルネイムを70年間も忘れる事もなく覚えていたものだと感心しています。

ピョンチャンオリンピックのテレビ番組を見ていたとき、俺には若い時夢中になってしたことは何もなかったことを改めて思いだし、思い出に残ることはなんだったかと考えたとき、学芸会で白雪姫の王子役をやったのを思いだし、白雪姫役の時田早苗さんの名前がすぐ出たのだ。これには自分でビックリした。飯田先生という女性と時田早苗さんしか思いだせなかったのだ。飯田先生はともかく、時田早苗さんというフルネームがなぜか覚えていてすぐに口に出たのだろうか。他の学友たちの名前は一切出てこなかったのだ。なぜか彼女の容姿や顔つきを全く思い出せないのに、なぜフルネームだけ覚えていたんだろう、こうして「訪ね人」を利用して探してみようと思ったのだ。

『尋ね人』
「時田早苗さん、あなたは、横須賀市追浜の浦郷小学校3,4年の時、女性の担任の飯田先生のもとで学芸会の時、「白雪姫」の主人公白雪姫を演じませんでしたか?私は白雪姫の王子役を演じた鈴木敏明と申します。私は飯田先生以外の生徒の名前は誰一人思いだせないのですが、時田早苗さんの名前は何故かほぼ70年間覚えていたのです。時田さんが健康であったら、ぜひ私と会ってもらいませんか。白雪姫と王子が70年ぶりに再会というニュースが盛り上がるかもしれませんよ。お互い70年間の人生の営みを話し合いませんか?
もし興味がありましたら、ぜひこの「えんだんじのブログ」に応答してください。あるいは、メイルで私あてに返事をお送りください。私のメイルアドレスは、tosi-suzuki@d03.itscom.net, あるいは私は横浜に住んでいますので自宅の電話番号は、045-903-6348にご連絡ください。もし読者で時田早苗さんの居所をご承知の方がおりましたら、私あてに連絡してください。よろしくお願いします。」

テレビでオリンピックを見ている最中に、ふと思い出したので、このようなブログを公表してみました。もしこれで時田早苗さんと会えるようでしたら、俺はオリンピックで金メダルを取ったのと同じようなことですね。


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