Archive for 11月, 2018

「渡韓紀行」(前編)、明治40年作

「渡韓紀行」の千葉氏の解読文は、前編、後編に分けて全文を公開します。
前編引用開始
「平沼停車場を離れたのが明治38年12月10日午後8時12分、途中国府津停車場で先に約束した小田原警察の石井利之助氏と会う。その夜激しいと思っていた寒気が予想に反して暖かった。二人して平沼停車場から同乗し、横浜満代町の果物商田代某や外国帰りの労働者5名と一緒に雑談して一夜を明かした。
翌11日午前11時20分に神戸についた。停車場前の旅館八国屋に投宿して、夜来の労を慰めようと一献を傾ける。午後三時に後藤氏が来たのでお互いに喜びあう。午後5時夕食を終えてから市内観光しようと外出。数年前にペストが発生して猛烈にはびこった栄町の後を思い出し、その状況を視察しようと後藤、石井氏を連れ、栄町に行き精密検査をして見ると、この町は海岸通りの裏町で横浜市の南仲通りよりも道路がせまく混雑している。左右大小の回漕店が軒を並べ土塀貸庫店多数ある。その間に介在する貨物の出入り船、仲仕人、大勢の来訪者で混雑している。これに隣は有名な不潔部落の支那街や労働者の家屋がある。これらは横浜市内に類似している。中央倉庫前三吉町の全部、南東町あたりは不潔汚臭が甚だしい。
よって倉庫なるものは中央倉庫のように完全で、概して壁に亀裂あるいは欠陥がでないよう、そうでなければネズミの出入り自由になる。中にはごみを介して異臭を放ったりも多い。その他水が不完全で街路清浄が行き届いていない。これには驚いている。ネズミの買い取りは聞くところによれば、所、課は形式に流れてこれの励行が欠けていて未だ実現しないことは如何に病気が発生しなくなるのか、またこれを予防しなくてはならないのか、実情を見て考えさせられた。嗚呼、その責任を誰がとればいいのか各位の判断に任す。ここに視察終わる。これより市屈指の繁華街を極める元町通りに行き、野菜や魚の売り出しのために各戸提灯を吊るしている。景品を進呈する女性売り子たちの景気のいいイラッシャイの声はいさましい。これより真行停車場前鉄橋を渡り多門通りを行き湊川神社にお参りして私たち一同の前途の幸福を祈る。帰路に就いた時途中分かれた後藤、石井氏の」両氏に会い、これからどんな旅情の道のりになるか私が書きましょうの提案に後藤氏も石井氏も大賛成してくれた。後藤氏の勧めで寄席に入り旅情を慰め午後11時帰還就寝する。
夜間深々、周囲さびしく、四面声はなし。夜半寂しく胸にせまってくる。本市の警察は保安警察として威厳を感じた。一、二の例をあげると雑踏取り締まりのような酩酊者保護について実に親切丁寧にして言葉をかけている。その職務の執行を見ると真に立憲治安警察官と思った。某県警察官のごときは概して粗暴豪放で本市に遠く及ばない。神奈川県警察界はウブの声をあげたのだからともに成長したのか、こんなこと書きたくないが、人としてふるさとを思うと気が気でない。故国の制度等を思うと依然見過ごすことはできない。嗚呼、いつの日か私のふるさとである神奈川県警察官吏の前途を祈り、深く手を合わせ今夜寝る。
東天紅に及ばず寝てしまい後藤氏の鈴木君起きろ、起きろの声で起きると8時を過ぎている。商船会社に行き出向時間を確かめてみんなを呼び起こす。嗚呼、もし忘れたら怒っただろう。急いで船会社へ行き支局の橋詰氏と会い、一緒に便船の出帆を聞くと、本日午後3時であるとの話なので帰館する。諸々の品物を揃えて正午商船会社に行き待っていたが5時になっても出帆しない。どうしたのかと聞いても,船客係員は「本日は出航しないで明日午後1時に延期する」と言うのでそのままここに滞在する。

翌13日午後商船会社に来て3時に乗ろうとすると、例のごとく案内人がいない。今日出帆しないと予定の16日中に釜山に到着できない。どうしようかと相談し、何はともあれ船客係に相談しようと事務室に押し掛ける。本日の出航については勘弁するけど、どうして説明がないのか、我々一同は、官の命令を受けて期間を定めて渡韓するものである。本社は何のため定期の出帆を延期してまた延期するのか、聞くところによると、本社は旅客の定期出航についての掲示やあるいは新聞紙上に出しておきながら、いろいろ理由をつけて延期している。私たちは大変迷惑している。公衆のために厳重に訴えた。私の厳重な抗議に恐れたのか支配人がやってきて、穏やかに、「本日出航のはずでしたが、出航間際に汽缶が破損したので延期することにしました」と。どうしてそう言わないのか、弁解もない。一夜の宿料と
汽車賃は本社で支払うと頭を低くして言うので受け取る。しかし、我々は宿泊料や汽車賃が欲しいために言っているのではなく、今日出航しないと予定の期日に到着しなければならないのだと言っても一向に埒があかない。どうしようかと熟慮していると、一人の客引きと思われる男が駆け寄り、「只今釜山直行の船があります、乗客はおりませんか」と呼びかける。これを聞いた我々は釜山直行の船があるとこれは夢でないのかと喜ぶ。早々と談判してお国の一大事と急ぎ駆けつけ、乗船の約束事を決めて切符を買う。先に商船会社より一泊の料金を受け取っているので用意を調え午後5時に乗船する。船名は幸光丸。われわれ一行前途を祝す。まさかこんな事になろうと考えていなかったので上喜する。

かくして神戸からの同船者は、統監府巡査、徳島県一行4名、大阪府1名、神奈川県大川村の農家1名、東京市の者2名、北海道の農家5名、大阪の淫売婦3名、京都府の淫売婦2名に我ら4名を加えて計23名で仮の家庭を作る。そしてお互いに胸襟を開いて語り合い、各自それぞれ好きな食事をしながら酒を飲む。且つ歌や剣を使った踊りもあり、義太夫、長唄を謡う者もいる。皆が船中に居ることも忘れ、大いにもりあがり陽気になった。一同は夜の更けるのも知らず眠りについたのは午後2時ごろになる。
明けて14日未明、甲板に出てみると空には一点の雲もなく海面も穏やかで、西方をみると漁船の帆もみえる。今は名高い明石沖を航行中で遠く仰ぎ見おれば諸々の峰が霞に反射して美しい。近くを見れば魚の鱗がきらきら反射して岸を洗っている。鳥は波間に眠っている。天然の美しい絵画を見ながら甲板の離れ船室に帰り朝食をとり終わった時、突然船が止まり、水夫たちが碇を用意する。船員の言う門司入港は検疫を終了しなければ入港できない、さらに夜中になった時は検疫を行わない。そのため入港時間を調整するため当地に停泊する。よって翌15日未明、検疫するための何らかの方法を執るのかと待っていると午前8時にボーイが駆け込んできて「只今検疫するので皆さん甲板に上がってください」というのを聞いて、他人を省みず先立ちて甲板に上がると、検疫船が来ている。検疫船が来ないので今までに到着を待っていた本船の船長が出向かい検疫船の船長に対し「乗客は何人か」と問われた船長が「全部で22名です」と答える。検疫官は「よろしい」と言って本船を離れていく。その簡単な非常識な態度には私は驚き呆れ無責任な対応に呆れた。嗚呼、門司検疫官は只船客の人数を聞いたのみであった。無用の検疫所を設けるとは国家のために大いに研究すべき問題と考える。
まさに形式的な検査を終えて船は直ぐに進行を始める午前10時に門司に入港する。出航が午後8時であったので橋詰さんを誘い一緒に船を雇い上陸し彼と共に市内の観光をした。本市の面積が広く、市中及び港の内の繁盛さに実に驚いた。加えて天然の風景は横浜港に遠く及ばない。午後3時に小舟の帰船のあと出航を待ち予定通り午後8時に出航する。乗客達の中から今夜10時頃玄界灘に近づくので波が高く厳しくなると言う人居て乗客は皆それぞれ覚悟してお互いに励まし合う。そして一同、一人も声を出さずに就寝する。通常玄界灘は時化で苦労すると聞いたところだったので、それなりに経験からその用意はしていた。
しかるに、天幸なるかな、風もなく波も穏やかで、船に乗ったのは横須賀で乗っただけで経験が無く怖いと思っていたので、玄界灘が穏やかに無事に過ぎたことは有難かった。翌16日午前8時24分釜山に入港する。しかし検疫終了後でなければ上陸できないので一時間余り待ち、健康診断を終了して上陸する。上陸する前に同署税関で貨物の検査がしてあり、指定の宿所である市第一の釜山ホテルに入る。我々一行の居室に当てられている階は50畳敷きの広間だった。我々より先着の諸氏70余名は任所への出発の準備をしている。傍らの別属は酒を飲みすでに酔って歌を歌っている。上の階も同じように酔っていて騒々しい。妻子連れが18、9名がいる。諸氏は皆勇気爽快で殆どの者は韓国を飲み込んだ意気で、態度が大きい。韓国警察の啓発は我々の手にありと豪語している。
一行は昼食を済ませ午後一時本部員の出張所がる釜山理事長警察署に行き着任届を渡し、任所に辞令並びに旅費を受け取り被服その他の点検があり、永内警視の訓示を聞き午後3時に帰館する。ここに辞令収受を受けたとき、目に印象に残ったこと言うと我々と同じ日に辞令を貰った70余名のひとたちは部屋の中央に掲示されている朝鮮全図の明細を見て辞令とその場所を確認して、自分の任地がどこなのか見て喧しくなった。
(70余名は場の中央に掛った朝鮮明細地図に対し、辞令と照らし我が住所は何道なるやと喧しや)しかし南鮮行きの辞令を貰った者は大変得意顔になり、北鮮行きの辞令を受けた者は、意気消沈してあちこちから嘆声が漏れてきた。嗚呼、我らの希望は京城か、もしくは釜山の南鮮かと以外であった。独り言を言う者もあり、また辞令を受けたくないため嘆息している者もあり、お互いに話あったりしている。笑う者、泣く者、共にいる。
某県の人は北韓の咸鏡北道:咸興支部の辞令を受け、その辞令を見た瞬間、大声を出して「咸鏡北道に行かされたら死んでしまいますので、他の方面に勤務を変更してください、お願いします。」と泣き出す。他にも住所を変更してくれるよう申し出るものがいた。しかし本部員との話し合いで渋々任地に向かった。その人を推薦した人は恥をかいたことになり、同情せざるをえない。その故、なんとなれば、南韓地方は気候温暖で交通機関は発達して、僻地と言っても日用品の不便は感じないし、物価も安い。これに反し北韓は寒気酷烈にして交通不便でありこれに加えて物価も高い、その上僻地に行けば、米、麦を得ようとしても不便である。私は到着も遅れていたので最後に辞令を貰うことにして咸鏡北道鏡城支部の辞令を受けたところ橋詰氏と同じになる。また後藤氏は咸興支部の辞令を受けることになりお互いに北韓の任地になり、そこは北韓の端として露国浦塩(ロシア領ウラジヲストックーえんだんじ記入)に近いので驚いてしまった。私だけでなく後藤氏も橋詰氏も共に驚く。しかし如何に落ち窪んでも救いようがない。お互い文句もいわないでホテルに帰る。帰ると南韓にいく諸氏達は皆「お気の毒ですネ」と挨拶して私たちを迎えた。今にして思えば後藤氏より私のほうが恵まれている。尚今回は韓人の諸氏は皆京城付近かまた釜山付近に勤務するのが多いように私は思った。しかるに之に反して概して日本人は、日本人が足跡を付けた僻地に配置したようだ。これは思うに今後の応募者は一層僻地に配属されるのではないだろうかと思えた。どうしてかというと駐屯地を多く配置するためだろう。
我々は帰館後便船について聞いてみると明後日18日であるので明日17日ここに滞在することになる。石井氏は海州支部仁川付近のため出発の命令を受けているので健康を祝しあう。三名で市内を観光する。実に当市は内地で想像するよりもはるかに繁栄している。日本家屋だけで3000軒、人口三万、劇場もあれば寄席もあり見世物小屋もあり料理屋もある。これらは皆内地人(日本人)が経営している。弁天通りに立つ家屋の構造も冴えていて賑やかである。雑踏も極め、ここはちょうど伊勢佐木町に似ている。海岸通りには白衣がたむろしている(内地では人夫と言うがこちらはチゲと言う)チゲは波止場に集まって貨物の運搬をする。また中にはタバコを口に銜えながら道ばたで食べながら巻きタバコ売っているものもいる。これにより同市の北端の韓人町に行くと数件の商売屋があるが日本人に売る店屋で品物が少なく活気がない。そのほかの韓国労働者は商業で内地人と競争してはならないことになっている。したがって富を得るのは日本人ばかりで韓人は貧乏人になっている。いかに被亡国の民と言ってもその状況を目撃するとその気概を喪失させていると思わざるを得ない。ここの視察を終えて帰館すると丁度夕飯の時間で女中が膳を進めてくれたので見ると内地では容易に食べられない贅沢な膳なのに驚く。私の友人の野村氏が京城で一泊してその時の宿泊料を思いだして、コッソリ宿泊料を聞くと当ホテルの宿料は普通弐円50銭以上になるが理事長の交渉で特別に昼付きで弐円と聞いて、急に食堂に飛んで行き一椀一椀お代わりをする。弥次喜多の旅を思い出し面白かった。ここではどんな料理が出たかといいますと、鯛の刺身とぶりのテリ焼き、それ添えられた筍とサヤエンドウ豆、酢の物は内地ではやたらに食べられない大きな蛤にウド、またスイモノはボラの切り身にモヤシ、酒の肴には申し分ない。内地でも2円以上の宿料を奮発すれば可能かもしれない。
いわんや生活が苦しい当地では理屈に合わない、
釜山は魚類の安いところで内地に比べ2円内外の鯛でも20銭出せば容易に買うことが出来ると聞いて、ここで初めて宿料が安いのがわかった。その他の物価は内地より高いものも安いものもあって平均すれば特別高くもない。気温は横浜市より釜山の方が暖かく感じられる。今や同市は各種の事業大いに振興し日に月に発展しつつあり、将来横浜を追い抜く勢いである。」
前編引用終わり(後編に続く)、後編は来週11月24日(土)に公開します。

読者には祖父は咸鏡北道鏡城支部の辞令を受けたことを覚えておいてください。これがあとで説明する祖父と妻子(2人の幼児)がソ連領ウラジオストック滞在の海外旅券、大正5年(1916年)につながる話です。咸鏡北道とは日本統治時代の朝鮮の行政区画の一つ。現在の北朝鮮の咸鏡北道。

コメント

「渡韓紀行」、明治40年作

私の祖父、鈴木正忠は私が生まれる3年前の昭和10年に68歳で死んだ。そのため私は祖父に会ったことも話したこともありません。祖父は越後の国、村上藩(新潟県、村上市)の下級武士の一族であった。豊臣政権下1958年に村上氏が当地に入った。1618年に改易になり、譜代、親藩の大名が次々と変わった。江戸時代に内藤家が5万石大名として入り以後9代の内藤家が継ぎ、戊辰戦争で村上藩は悲劇的結末をむかえた。家老の跡継ぎである鳥居三十郎は19歳で家老事務見習いとして江戸の村上藩邸に入っていた。戊辰戦争が始まると村上藩は幕府を助けるべき奧羽越列藩同盟に参加した。しかし新政府軍が接近してくると藩論は、抗戦か帰順かで統一できなかった。帰順派の藩主、内藤信民はこれを苦にして自害。村上藩は大混乱に陥る。この時鳥居三十郎は抗戦派藩士約200名を引き連れ村上を脱出、北の庄内藩に合流した。羽越の国境、鼠ケ関で政府軍との交戦中村上藩の両陣営が相戦う場面が発生している。
戊辰戦争終了後、三十郎は戦犯として東京に送られ、取り調べ後に死罪が言い渡された。やがて処刑のために身柄は村上に送られ、安泰寺に幽閉された。藩内では三十郎の処刑に同情が集まり、村上藩は斬首という政府の命令を無視して安泰寺に切腹の場をもうけ、抗戦派藩士として三十郎とともに戦った山口生四郎が介錯をつとめた。享年29歳。

私が参考文献で「中島欣也、武士道残照(鳥居三十郎と伴百悦の死)恒文社」を読んでいるとき、万が一にも私の曽祖父、鈴木越太郎、そして村上藩の名前を全国的にしてくれた皇太子殿下、雅子妃殿下の小和田家の名前が出てくれるのでないかと期待したが、ダメであった。定年後(平成14年)私は家内を連れて我が先祖の出身地、村上市を訪れた。市役所を訪れたとき、小和田家は剣道指南役の下級武士と書いてあった。
鳥居三十郎の辞世の和歌:
「淡雪と ともに我が身は、消ゆるとも、千代万代に 名をぞ残さ武」
述懐の歌:「去年の秋 去りにし君の あと追うて なかく彼の世に 事うまつらむ」
     「五月雨 濡れる我が身は 惜しからず 御恩の深き 君を思えば」

三十郎が切腹したとき若干29歳。妻子、奥方(じゅん)と一人娘光(てる)5歳が残された。二人とも長生きして、母(じゅん)は昭和七年、86歳で、一人娘(てる)は84歳で昭和24年に没した。我が祖父、鈴木正忠は、昭和10年に68歳で死んでいるので、逆算すると三十郎が切腹した時が2歳。私の想像では明治時代以前なら身分制度が厳しくて一介の下級武士が家老の奥方やお嬢様には会うこと難しかったかもしれないが、明治に入って四民平等ということで昭和の時代には、祖父は娘のてるには会えたのではないかと私は想像しています。
鳥居家は家名断絶となったが、明治16年(1883)に家名は再興された。抗戦派の武士、鳥居三十郎だけが切腹し、全責任取ったので生存した抗戦派武士は全員助けられたから、鳥居家の再興は、大いに歓迎された。昭和43年(1963)7月20日には新潟県村上市安泰寺において鳥居三十郎先生100年忌法要が行われています。
ところで戊辰戦争中、政府軍と戦った多くの東北、北陸の武士たちやその子孫たちの多くが日本軍に入隊あるいは警察に入った。我が祖父、正忠は、若い時東京に行って警察官になった。そこで我が祖母、テイは神奈川県秦野市の歯医者の娘、日本赤十字社の看護婦になっていた。当時、東京の日本赤十字社の看護学校出身の看護婦は、看護婦のエリートと言われていた。二人は結婚し、長男、次男、三姉妹を設けた。その長女が私の母です。私が高校生の時、母から我が家は新潟県の村上藩の下級武士の出と初めて聞かされた。その時祖父の遺品、三つの書類が私に渡された。私たちは神奈川県の川崎市に住んでいた。私は4,5歳のころ父の実家の富山県に疎開していた。川崎では両親と私の妹と祖母の四人暮らしだった。祖母は昭和19年4月に59歳で死んだ。これが鈴木家にとって幸いだった。翌年の20年4月4日のB29による最初の空爆、4月15日には最大規模の大空爆を受け、実家と鈴木家の持つ数件の借家は完全に消失した。昭和19年祖母の死、昭和20年の川崎大空襲までおよそ一年間が川崎脱出期間をあたえたのだ。脱出先(群馬県草津市、父親の勤務先、日本鋼管の下請け工場寮)に両親は私の幼児妹一人を連れて逃げ出していた。その時祖父の遺品、書類三つを持ち出すことができたのだ。さもなければ大空襲で消失しまっていたのだ。その意味でこの書類は重要だったのだ。その三つの書類とは、
1.昭和天皇と香淳皇后との若夫婦の家族団らんの集まりの写真です。今上天皇が小学生で写っています。私より年配のかたは、集まった皇族家族全員の名前が言えるでしょう。

2. 大正5年4月22日発行の日本帝国海外旅券
祖父、正忠は46歳の時妻、テイ33歳、長男4歳、次男3歳を引き連れてソ連領、ウラジオストックに出張滞在しているのだ。このパスポートについては「渡韓紀行」の説明が終わった時点で詳細に説明します。

3.「渡韓紀行」
この書類は和紙でできた便箋で一行の間に細い毛筆の崩し字で二行が書かれて非常に読みにくく、母に渡された時は、高校生だったので全然読めませんでした。成人してからたまに取り出してよんでも、全然読めず、タイトルの「渡韓紀行」という字すら読むことができなかった。誰か専門家に解読してもらわなければだめと机の奥深くにしまいこんでいた。ただこの書類の最後の文章は40年3月吉日とかいてあるのは読めた。明治40年3月のことでしょう。この書類のタイトルが「渡韓紀行」と解読してもらったのが、私の定年後です。神奈川県庁を定年退職した人が古文を読む勉強していたので解読してもらったのです。解読分全部もらっていますが、同時に解読者が書いてくれた「解読を終わって」のコメントをくれましたので、その全文を先に紹介します。

「解読を終わって」
引用開始
「明治時代に権力と公安情報を司る地位にいた人の書いた「紀行」であることに、非常な興味と期待をもって解読した。一通り通読をすまして概要を知った私はノメリ込んでしまって、正月の楽しみよりこの解読に熱中して、暮れから朝から夜まで取り掛かり、明けて平静16年1月3日に解読出来た。専門家でないので、完全な解読は不可能でしたが、楷書でなく昔の書体(この人は右肩上がりで丸字)と漢字が不鮮明で崩し字の字画が何画か不明で、辞書で検索出来ないものがありその部分は削除した。100年前の筆記で字が薄くなっているので拡大鏡を使って解決したところもある。相当に学識の高い人の文で、語彙が豊富で、センテンスは文学的で高度な表現力があり驚いた。一般の警察官だったらこのような記録は残すことが出来なかったと思った。旧漢字、旧かな使い、そして官命であったため役人的な高圧な意見も時に表現されているので、そのような部分は安易に解読して読みやすくした。
明治時代公安情報の収集に従事していた国家機関では、最も著名なものは内務省保局で、結社、集会、言論の統制が主であったが、これらの業務は保安課が担当するようになる。明治26年以降新聞、雑誌等の検閲は新設の図書課に移されている。この警察権力のことについて、紀行にも書かれているが神戸市の警察は親切丁寧と言っていて保安警察になっていると復命し、上司から欄外に赤字で「関西と東方とは違う」と書かれている。警官の態度についても「他山の一石」と欄外に書かれている。
原文にそって補足する。
明治39年12月10日から明治40年3月までの約4カ月間の紀行で、出発する12月は寒い季節なので、着る物も合わせ着で身体を保温して出かけたようだ。神戸に着いてから本番の具体的に復命が始まっている。
漢文調と旧漢字と自作の漢字
(例)音に名高い → 昔から有名な 
   観覧 → 観光  状境 → 状況  陰混 → 混雑  周壁 → 壁
   欠喚 → 欠陥  紀裂 → 亀裂  軒打堤 → 提灯  保度 → 保護
   意気傷沈 → 意気消沈  懇談 → 相談または話し合い
   醜業婦 → 淫売婦 寒国 → 韓国 須丁明石 → 周防明石 
   翠巒 → 青青とした山の峰 熨(のし)のような → 布をのばしたような
等、明治調の語句が多くみられた。
嗚呼という語の後は、必ず本人自身の率直な意見として、苦言、苦情、悔しさ、または褒め言葉が一節に纏めている。石井氏、後藤氏、橋詰氏と本人の4人が親友で共に苦楽を経験して、忘れることの出来ない旅行をした (荒れ狂うアラシの中で、一時は生死の世界をさまよった)ことを、後の子供に語り伝えるための「貴重な思い出の記」であったと思う。
平静16年1月4日 千葉昭」引用終了

私が高校生の時母から渡された祖父の原稿のタイトルが、平静16年にして「渡韓紀行」であることが初めてわかったのです。千葉氏が解読分を提出してくれた時、私は「えんだんじのブログ」を作成していませんでした。3,4年前に千葉氏が癌で亡くなられました。この時千葉氏の解読分を思い出し、私のブログに書こうとしましたが、大事な書類で机の奥にしまったまま忘れてしまいました。今年の夏、私は80歳になり、大事な忘れ物をしていないか机の奥を調べたらこの書類が出てきました。すっかり公開するのが遅れてしまいましたが、そのぶん新潟県村上市のことをよく知ることができました、定年後私は家内を連れて我が先祖の墓参りをしました。万福寺です。母も叔母(妹ふたり)実に立派なお寺だと言っていましたが。文字どおり素晴らしいお寺で特に庭が大変立派でした。下級武士の先祖のお墓として立派すぎるのではと言うのが私の見解です。祖父はこのお墓を小田原市に移したのですが、新幹線や飛行機のない時代、村上市で仏の供養するのが大変だったからと思います。
「武士道残照」という小説も私が元々知っていた本ではなく偶然ネットで知ったのです。出版は1990年8月で私のために出版してくれたような本で、このブログのために利用させてもらいました。
この文章のタイトル、最初から「渡韓紀行」と書いてあるのですが、細筆のくずし字で書いてあるので、誰も読めなかったのです。文章も崩し字で内容が何を書いてあるのか推測もつ
きませんでした。ただ最後のページでこの文章を書いた日付が「40年3月」と最初から読めましたので「渡韓紀行」の背景が浮かび上がってきたのです。日本政府は明治43年に韓国を併合、韓国の国号を朝鮮にあらためました。韓国併合といえば、朝鮮半島全体に日本人警察官を配置しなければなりません。文章ではそのことにも当然触れています。「渡韓紀行」は、明治40年当時の神奈川県県警の一警察官、鈴木正忠(私の祖父)が実際韓国に渡って書いた紀行文です。原稿は、冒頭右はしの上に大きな赤っぽい、橙色字で大きく「知事」と書かれており、右側左下には「石田」、「細川」ら数人の同僚の三文判が押されています。次回のえんだんじのブログでは、解読文全文を公開しますのでぜひ読んで見てください。











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