「渡韓紀行」(後編)、明治40年作

後編引用開始
「翌18日午後出航につき旅館を出て波止場に行くと我々を迎える満乗丸に乗り本船に移る。この時の同船者は咸興支部勤務の15名、鏡城支部の14名と韓人9名、その他邦人夫婦の一行計45名である。乗客を乗せた船は満歳丸といいながら満歳ではない。トン数25トン足らず、速力8ノット出る程度の木造の老朽船で船室は猛烈に不潔である。船室は横になって天井を見ると蜘蛛の巣が幾重にも掛かっていて埃がたまっている。目をあけていられない。ねずみ属は悲鳴を挙げながら室内を駆けずり回りするので睡眠がとれず情けないばかりか猛烈な寒さで泣きたい。この夜安眠できたものはいない。翌午前1時船は進んでいるが一進一退進むごとに風は益々はげしくなり波もますます高くなり船体の動揺は甚だしい。船が蔚山(うるさん)沖を通過する頃船体の揺れは激しく左に傾き右に移り七転八倒しその上、天に飛ばされたような、さらには奈落の底に沈んだような勢いで、海水が甲板に流れる。海水は甲板から流れて室内に入り込んで凍る。一行の過半数の者が病気に罹ったようにうめき声を上げる。夜が明けて全員が茫然自失していたとき、女客が抱いていた幼児が悲鳴を上げてお乳を欲しがり泣き叫ぶ。船に砕ける波に乗じて遠く響き渡る様に聞いてすさまじい。まさに例えようもない。
ここについて思うと私の命はお終いと思うと共に自然の驚異には驚いた、加えてじっと深く考えると死ぬ事は簡単で生きることは難しい、人一度死んだら二度と生まれてこない、そうすると死を待つことは愚かな事だ。佳いことは自分から進んで事を行い、方法を尽くして結果を得る事だ。
この状況から皆と相談の上船長には諮り船の航行を止めることにして3名の委員を選び(私も委員の一人になる)船長室に行ってから甲板に上がる。甲板一面に張り付いた氷をとる。風は相変わらず激しい。しかし歩行が困難なので船室に戻り各委員に告げると、各委員万事休すと言う。各自が腹を決めなければならない、それ以外手段がないとわかり呆然として声を出す者もいない。その時今度は突然船が当たり響き渡る。これを聞いた一同は南無阿弥陀仏の声を出す。船は航行をやめる。しばらくしてボーイが来て言う。
「波も風も激しくて航行困難にして、避難のためここに仮泊します」と。船客は続きざまの船の響きに船が砕けるのではないかと脅える。苦心惨憺としているこの時間は午後10時を指している。翌午前5時風波やや穏やかになり船も航行を始める。進行に先立ち船長が言うには「これから元山港に向かいますが、途中には適当に避難する場所もないので、風や波があっても我慢してください」と言う。この言葉に何か死の宣告を受けたように思えた。しかしながら幸いに次第に風波もおさまり一同しばらく安心する。ところが午後1時頃風が吹き出し、刻一刻波が高くなる。前日と様子が違う状況に後藤氏は元山港に着く間、船に酔ってしまい船室にはいったまま弐昼夜食事をとらず、励まそうにも猛烈な寒さには手がつけられなかった。

翌22日午前3時に目出度く元山港に入港したが誘導船がなかったので、夜が明けるのを待ち、その間上陸の用意を整え、迎えの船に便乗し波止場に着く。一同体力の消耗に加えて北韓の有名なアラシに遭遇し、5時間の自由を失って上陸したので足裏が痛く、メタルがついているような感じで「脚気患者」のように歩行する。なかには這いずって人に助けられている人もいる。やっと3、4丁先の大和旅館の休憩室に駆け込み暖をとる。直ちに女中に言いつけて酒の用意をさせ、元山名物の牛肉でお互い一献する。酔いが回ってこれまでの苦労が飛んでいったようで、万歳を唱える者もいる。笑っている者もいる。釜山、元山間は普通
は一昼夜の海路であるが、4昼夜も掛り困難であったので仕方ない。
翌23日故国に手紙を書き、途中いろいろな辛酸を舐め睡眠も食事も満足に取れない日々であったことを知らせる。しかし最も親愛している後藤氏とこれから別れなくてはならなくなる。そこで互いに盃を交わしてお互いの健康を祝し、励ましあった。離合は男子の常とは知りしも、決別は亦一倍の怒惨を極める。
同氏を見送ってから我々3名は市内を観光する。元山は釜山に及ばないが発展していて北韓第一の都会と言える。元山以北の物資は皆この市から行っているので商業の発展は驚くほど盛況がある。日本人の商家も多い。郵便局、新聞社、回漕店、高級旅館、日本人や韓国人向けの家屋賃貸屋、それに理容店もある。日本人家屋約千余戸、労働者は約一千人、韓人家屋は約三千人、支那商家は10余戸、市の中央には元山公園もある。そしてその中央には大神宮社があり、傍には我が皇太子殿下のご結婚を奉祝した碑がある。その市の西を見ると
眺望もよく、高い方には日本人の別荘がある。更に建設中の家屋も多く、その他種々の事業も振興している。港湾には大小の島々が点在し、波穏やかな中に見える帆は恰も神奈川県のの名勝たる逗子海岸を彷彿させる。
元山市の交通の便は、今は劣っていて発展の度合いは釜山に追いついていないが、今は東元鉄道施設の企画中ときいて、竣工の暁には、急速に進歩して釜山を凌ぐ都会になると思う。
一行は数日の静養をとって気持ちも新たに、健康も回復したので26日出航の小汽船慶宝丸で出発する。この日は風も波も穏やかでその上、当地の回漕店の特別の好意で乗船できたので不便もなく最も平穏に30日午前6時に鏡城を出てから半里の小港の清津に着く。その間の海路は直行すれば一昼夜で到着するが、貨物が多かったので日数を超えてしまった。それから韓人の船に乗り上陸したが船賃の支払いや、荷物の運搬のため牛車を雇い入れるのに言葉が通じない。手振りで説明しても話が通じない。筆談をしても韓人は無学なので更に理解できない。進退窮まってただ突っ立って左右をキョロキョロするばかり。何とかして日本人を探し求めて海浜で待つこと一時間あまりにして鏡城守備隊の巡視2名がきたので、これ幸いと兵士に事情を話し通訳を頼むと一人の兵士が何とかやっと通訳が出来たので、船賃を払い牛車を雇って午前10時に鏡城支部に行き、着任届を出して任所の辞令を受け出発の命令を待つ。
午前10時に召集を受け元警視庁の警視の訓辞を受けさらに旅費の概算払いを受ける。明日元旦で拝賀式を挙げるため、一同の休暇は許され翌2日に出発することになる。予定がわかったので急いで宿舎に帰り静養しようと我々一行に割り当てられている宿舎に行くと、空き室があるというだけで何も整っていない。隣の部屋に先着している者に聞くと「我々も到着前は鏡城に行って先ず一ヶ月間位は下宿して、その間に自炊の器具を買い求め、それから自炊生活を始めようと考えたところ、予想に反し当市は旅館や下宿屋はないとのことなので日常は困難します」とのこと。暫くしてからコンロ、鍋や釜を買い求め、ただ命だけ助かればいいと考える。我々も自炊することに決めて、橋詰氏はコンロ、小生は炭と米、野田は副食物の購買に各方面に行く。なんとか副食物と米は確保できたが、コンロは品切れとの報告で、それ一大事と全力で市中を必死に探しても、遂に探し出すことができず、相談の結果飲食店を探すことにする。当鏡城は守備隊司令部の所在地で韓人の店は7軒、日本人の店約10軒で北韓中では繁盛している場所といわれているが、日本人の飲食店はしるこ屋とウドン屋の外はない。しるこ屋に入って一時の空腹を満たす。
明けた元旦はこのしるこ屋に入り、新年の祝いを挙げようと3名は早朝寒気を衝いて急いでしるこ屋に行くと、門が閉まっていて本日休業の張り紙がしてある。これを見た我々はがっかりしてしまった。嗚呼、目出度い元旦は我らにとって最も悲しむべき元旦なるか、今日は断食になるのは仕方ないと悄然として宿舎に帰り、このことを隣の部屋にいる大阪府の内原部長に話すと同氏は私たちに同情して餅を焼いてくれて、そして牛の缶詰を開けて、その汁で雑煮を作り、味醂酒を2,3杯私たちに馳走してくれた。私は内原部長の好意に感謝してこの饗応を受け私の40年の元旦を祝した。これは終生忘れることができない記念の元旦である。
翌2日午前8時に橋詰氏と残念な別れの挨拶を交わし積雪を踏んで出発する。昨日の未明より降雪は厳しくて、一歩一歩あるくけれど雪は深くなり風亦強くなり鼻毛も凍り襟巻についた雪が凍る。手の指も足の指も自由を失い困難をした。このような空気は到底予想できない。従って半里か一理程度で民家に駆け込み暖をとりつつ鏡城を出て5里先の輪城に到着する。この地は守備隊兵員の外一人も内地人は居なく小村のため韓人経営の旅館にはいる。私は韓人の家屋に泊まり韓人の賄いをするのは、初めての事である。家屋の構造は内地の家と同様で、壁は牛糞で作られている。一方空気の出入りが悪い、そして部屋は狭いため不潔汚辱で話にならない。従ってゴミ捨て場を見てしまうと飲食物が一種異様な臭気を出して味噌汁のような糞の臭いがする。食器はだいたい銅器のものを使っている。洗浄は不十分で酸化している。そのため一面に青色が付いていて見ると嘔吐を催してしまう。到底これを口にするには勇気が必要だ。遂に私は途中買って持っていた朝鮮飴をミルクに溶いて呑んだ。私が感心したのは家屋の床にあるランドルで、窯に火をたき蒸気が床全体に通じて、恰もムロにはいったようで、毛布一枚もあれば充分安眠が摂れる装置で、この部屋も格別暖かい。
翌3日輪城を出て7里、富寧村に泊まる。当地は輪城村に同じに守備隊兵員の外内地人3名で韓家屋式180人あまりの小村である。当地は日露戦の際、北韓軍の激戦地で付近には “我忠勇将士を葬れる墳墓あり”との碑があり、さらに新たに英名でもはっきりと記されている。互いに戦場で散った両方の兵隊の碑である。
嗚呼、何時もめったに会えないので参ることが出来ない。そればかりか戦死した当時の事を思い出すと残念でならない。英霊に対し記帳して去った。
翌4日守備隊の軽便鉄道(トロッコ)を借りて6里20丁奥に入った宝山村に行き泊まる。この土地は山間の僻地で守備隊兵士のほか、内地人はいない。また韓人経営の宿もないので守備隊の兵舎に泊まる。
翌5日午前9時に軽便鉄道(トロッコ)で宝山村を去って次に会寧に午後2時に着く。富寧から会寧までの道程は12里、山また山で徒歩だと4日かかる。もしトロッコを使用すれば2日でこれる。幸いに会寧は韓国の中では鏡城と大体同じくらいの都会地なので日用品もおおむね揃っているので商業は盛んである。韓人人口は4200余人、日本人の商家は10数戸、西洋料理店もある。今後内地人は増える見込みがある。役所、郵便局、電信局、憲兵隊分駐所、第13防空司令部、工作大隊、その他に小料理屋もあり芸妓5,6名、売春婦30余名もいて市内は大いに繁盛している。又当地は軍備上では韓国の枢要の場所なので東西南北の各門には速射砲5門を備えていて警備は厳しく、戦時中のように思える。
去る明治37,8年の日露戦争の際、露兵が富寧の戦いで敗れ、予定通り退却して豆満江を渡って陣地を築いて後方の兵士を集めて、我国の韓軍を撃退しようとした時、我が韓軍は大軍で一挙に露兵を撃滅せんものと豆満江超えて互いに戦闘を開こうとしたとき、休戦の命令が下りここで戦いが出来なかった場所であり、最も記念すべき土地である。
この地において、我々一行は久しぶりに日本食を味わい、酒を交わした。翌6日徒歩で〇寧(5里)に泊まりその翌日7日午後6時に鍾城に到着する(8里)。当鍾城は西豆満江を隔てて支那吉林省にたいし北は8里余りで露境に接し、東方は18里にして日本海の達する。
(鍾城群豊海という処この海岸からは露国の港も見える)そのような土地で全市は土の城壁に囲まれ東西南北に4門の速射砲が備えられている。中央には三層の楼閣があり、その傍らに武器庫があって数百年前の兵器を数百種類も保存してあり、聞くところによると当地に昔鎮守隊の所在地で隆盛を極めていた処であった。本市の総戸数は450で、人口4900で皆農業に従事している。商店二十戸、(韓人は日用品のみ販売)で会寧以北の都と言われているが、日本人は守備隊兵員25名、それに郵便局員守備隊3名それに我々と同じ警察員5名だけで寂しい。これを耐えるにも日用品不足では大変困難である。守備隊酒保には、酒、茶、巻煙草、砂糖、ビスケット、菓子の外は何も無い。品切れなにれば2週間はかかる。
当郡内はほどほど日本人も入っているが、土地の人は身体は強いが頭は悪い。しかし土地の人は日本人の警察官は尊敬している。それは日本警察官が公明正大であることを知っているからである。一例を挙げればまさに当地方の郡内の守りで品格があり、外敵にたいして昔の御大名のように威張らないからである。
今や内地は梅花が散り、桜が咲き出した好季節になったと思うが、当地は禿峰の山々で目を慰めてくれるものは未だにない。只豆満江の岸辺にある数十株の揚柳があるのみで色はなく香りもない。気温は今頃の時期で平均零下5度、1月で最も酷烈で零下30度になる。降雪は割合少ないが寒風は強烈に強い。飛ばされてきた物(流動物)は凍ってしまう。
しかし韓国には寒さを凌ぐ装置が整えられているので、室内に居るときは毛布一枚で安眠できる。物価は著しく高く、米は一升30銭内外を上がったり下がったりしている。石油一合5銭、マッチ一箱1銭、醤油一合5銭、炭一貫15銭、大根一本(日本のかぶと同じ)5,6銭、朱墨、菓子、(煙草は安い)、巻煙アサヒは4銭、砂糖は守備隊より払いを受けるので、内地と大差なし。また安い物は鶏一羽(内地にて5,60銭のもの20銭)。総べてが高い物価であっても、午前10時に出勤、午後4時退庁であれば、毎日2食で充分である。韓国式では、宿舎には給食もあり、沐浴は守備隊にて〇で、散髪は同所でやるから、内地でやるより静養がとれるから、一ヵ月8円アレバ充分なり。こんな経験も毎月出張で旅費が7、8円入れば物価が高くても、冬寒くても困難でない。
只慰であればよいが韓国の家庭に生まれたらそれこそたまらない。
明治40年3月吉日  記入  鈴木正忠(えんだんじの祖父)
「千葉氏の解読文、後編引用終わり」

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