日本帝国海外旅券、大正5年4月22日

日本帝国海外旅券、大正5年4月22日      平成30年12月8日  
渡韓紀行を書いた明治40年3月以降から8年後の大正5年に私の祖父、鈴木正忠と妻子合わせて4人には、ソ連領の浦塩斯徳(ウラジオストク)への海外旅券が発行されています。「渡韓紀行」の前編に祖父は、ウラジオストクに近い咸鏡北道鏡城支部への辞令を受けたと書いていますので、すくなくともそこでの祖父の仕事ぶりは良かったのでしょう。大正5年4月22日にウラジオストク向けの海外旅券をもらっています。今時大正時代の海外旅券を見るのはめずらしいので、その詳細を書きます。現在のサイズでA4サイズより少し小さめの4頁からなる書類です。

海外旅券の一面:
券旅外海国帝本日   
旅券番号:第参壱〇七参弐號
新潟県岩舟郡村上本庁二十番地
〇〇 鈴木正忠 四十六年
 妻   テイ 三十三年
長男   正貞   四年
次男   忠貞   三年
右ハ師団〇〇〇〇為露領浦塩斯徳(ロシア領ウラジオストクーえんだんじ挿入)へ赴クニ付通路故障ナク旅行セシメ且必要の保護扶助ヲ與ヘラレン事ヲ其筋ノ諸官ニ希望ス
大正五年四月二十二日
日本帝国外務大臣 従三位勲一等男爵 石井菊次郎

えんだんじのコメント
1.明治時代の新聞は縦書きですがたまに広告などで、日本語横書きの場合、現在のように左書きで始まるのではなく、右書きになっています。左書きに統一されたのは戦後からのことでしょうか。どなたか教えてください。
2.〇一つは漢字一つがくずし字のため、あるいは薄すぎて、あるいは当用漢字でないため読むことができない漢字、一字に対して〇一つを与えました。皆さん、どんな字が当てはまるか推量してみてください。
3.住所は現在住んで居る所より本籍地が使われています。当時鈴木家の住所は神奈川県川崎市ですが、本籍地が使われています。私が20代までこの本籍地を使用していましたが、その後本籍地を藤沢市に変えました。

海外旅券の二面(一面の裏):
                證 明
本旅券携帯者ハ年齢、旅行の目的、行先地共ニ旅券面記載ノ通ナルヲ申立テ右事実ニ相違ナク又日本臣民ナルコトヲ證明ス。大正5年四月二十二日
咸鏡北道警務部長○○○○

海外旅券の三面:
三面上半分はロシア語が印刷されたロシア語のハンコが押され、ロシア人のサインもある。ロシア人が書いたロシア語の短い文章もあります。三面下半分は祖父母夫妻の写真がはってあります。祖父母の間にはテーブルルクロスのかかった細長いテイブルがあり、その上に小さな花かごがあり、その中に沢山の小さな花が植えられています。そのテーブルを挟んで左側に和服を着た祖母が椅子に座り、右側に和服を着て、ソフト帽を被った祖父が立っている全身写真が貼ってあります。

海外旅券の四面(三面の裏):
左端に(文譯)と書いて下記の漢字がひとつずつ縦に並んでいます。
任○旅行無阻如有緊要事即請沿途各官如意照料善為保佑○
四面の真ん中にはTRANSLATIONの下には、
IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT
PASSPORT NO.310732 Masatada Susuki 46 Years old
Tei   Susuki 33 “ ”
          Masasada Susuki 4 “ “
Tadasada Susuki 3 “ “
The competent Authorities and all whom it may concern are requested to allow the above
Named person proceeding to Vladivostok to pass keenly and without hindrance and to give said person such protection and assistance as may be required. The 22day of the 4month of the 5 year of Taisho(1916)
Baron K. Ishii
               The Imperial Japanese Majesty’s
Minister of State for Foreign Affairs

Signature of the Bearer_________________________________________

四面の下半分は、ロシア語でTRADUCTIONの下に
Le Gouvernement Imperial Du Japon Passeport NO.310732 その下にロシア語の短文が書かれ、その上にロシア語の印が押されています。
以上がパスポートの説明です。

えんだんじのコメント
私がパスポートの発行月日を見たとき、すなわち大正5年4月22日は私の母の誕生日が大正5年であったはずです。母の誕生日を確認するために、私は母の除籍証明書を藤沢市役所からとり寄せた。除籍証明書にはこう書いてあった。「大正5年9月10日横須賀市で出生同月13日父届け出入籍」。これでは祖父母はウラジオストクに2,3カ月しか滞在してないことになる。その後祖母は、次々と私の母の妹二人を生んでいるので、少なくとも妻子を連れてウラジオストクに滞在することは無理だと思います。それとも祖父は単身赴任したのかどうかはわかりません。いずれにしても海外旅券の発行日が大正5年4月22日であることは、私の祖父母がウラジオストクを訪問した時期がウラジオストクの日本人街が隆盛を極める寸前だったことです。二人が訪問した翌年の1907年には日本の領事館が開設され、翌々年の1909年にはウラジオストクは日本の総領事館に格上げされた。1917年には日本語による新聞、「浦潮新聞」が発行され、1918年には横浜正金銀行の浦塩支店が開設された。特に1918年4月には日英陸戦隊がウラジオストクに上陸、同年7月アメリカ、チェコ軍救援のためウラジオストクに日米共同出兵を提案、日本は同意した。そして同年8月2日ついに日本政府、日本軍のシベリア出兵を宣言。1920年頃(大正9-10年頃)日本の人口6000人ぐらいになった。それを境にしてウラジオストクの日本人街は少しずつ落ち目になっていた。
越後、村上藩の下級武士の一族だった、我が祖父、鈴木正忠は戊辰戦争終結時二歳の幼児だった。その後若い時東京に出て神奈川県警の警察官になり、それなりの活躍をして一生を終えたことを私は鈴木家の誇りとしています。
これで「渡韓紀行」関連のブログは終わりとします。








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