どなたか作曲していただけませんか。

私のブログも先月から5年目に入っております。私も他人のブログも時々読みますが、だいたい、政治、経済、歴史など堅いものが多い。しかしそういう物を書くブロガーは、一年365日堅いものばかり書いているような気がします。そこで私は自分のブログに特徴をもたせようと堅いものばかりでなく時にはやわらかいものを書くようにしています。はっきり言わせてもらえば、私は堅いものばかりでなく、やわらかいものも書けるんだぞというところ見せたいと思っているのです。一番多く書いてきたのは映画評論関係です。またこの四年間に短編小説を三つ書きました。短編小説は私自身初めての挑戦です。一回目が「女のため息」、二回目が「二人の芸者」、三回目が「ある踊り子の想い出」。三篇とも男女の色恋がからむ話です。素人作品ですが、興味があればぜひ読んでみてください。私のブログに私の顔写真があります。その左側に「カテゴリー」があります。その下から二番目に「短編小説」があります。そこをクッリクすると三篇の短編小説全部が出てきますのでぜひ読んでみてください。

今回は全く新しい試みをしたので、皆さんに紹介します。演歌の作詞を書いてみたのです。演歌の作詞と言えば、当然カラオケの話が出てきます。そこで私の作詞の内容を紹介するまえにカラオケについてちょっと書いてみました。カラオケは現在では国民的娯楽として定着しました。カラオケファンの数もものすごいでしょう。カラオケファンと言えば、私なぞ、カラオケファンの元祖のようなものでしょう。今から40年前とはいかないが、40年近く前、私が30代後半のころです。東京にたった一軒のカラオケ店があった。場所は六本木です。六本木の交差点にアマンドのケーキ店があります。あのアマンドの店は古い。あそこで何十年やっているのでしょうか?そのアマンドのケーキ店のすぐ隣に、いも洗い坂という坂道があります。たいして長い坂道ではありませんが坂道をくだり終わったあたりに「後藤花屋」という花屋があった。

六本木の交差点は、時々通りがかりで通ることありますが、いも洗い坂をくだることは何十年となかった。自分のブログにカラオケの話を書くので、最近いも洗い坂を歩いてみた。なんとその「後藤花屋」が健在なのだ。以前より立派になってすばらしいビルのオーナーになっているみたいです。その「後藤花屋」の近辺に「スタジオ101」というカラオケ店があった。ある夜、友達が面白い店があると案内してくれた。年寄りの人だと思いだすかもしれませんが、3,40年まえNHKテレビ番組に「スタジオ101」という歌番組があった。それにちなんでつけた店の名前だった。店内の奥にカセットテープがずらりと並んでいた。各テーブルには曲のリクエスト用紙が置いてあった。あの当時現在のような分厚い歌の本などなかった。お客は自分の歌いたい歌の曲名を覚えていなければならなかった。曲名をリクエスト用紙に書いて提出。店の女の子がそのリクエスト用紙を見てカセットテープを取り出す。同時にマイクのそばの楽譜台に歌の本があるから、リクエスト曲のページ数ひろげておくのです。お客はたちあがってマイクのある場所にゆき、楽譜台の歌の本をみながら、カセットテープのリズムに合わせて歌うのです。

現在はカラオケ機器の発達のお陰で、国民一人、一人の歌唱力があがっているから、カラオケ店にきて一曲も歌えない人はほとんどいない。しかし当時は、自分で歌えると思った歌をリクエストしても、いざカセットテープから曲が流れると合わせて歌えない人がけっこういたものです。その時には、若い女の子がお客さんの背中や肩をリズムをとりながら叩いて一緒に歌ってあげるケースも非常に多かった。またお客さんの方で、自分ひとりで歌えないから一緒に歌ってくれとの要求も多かった。そのためでしょう。この店にはホステスは必要なかった。必要なのは歌好きの若い女の子だった。歌が好きであれば、いろいろな歌を知っているし、お客にも歌を教えてあげられるし、お客と一緒に歌も歌ってあげられるからです。

このようにカセットテープに歌のメロディーだけを吹き込み、それをお客に歌わせて楽しむ店は、店主によると当時東京には、六本木のこの店以外にはありませんという話だった。東京では一軒だけというと日本中どこにもなく、まさに六本木の「スタジオ101」が日本のカラオケ店第一号ということでしょう。この「スタジオ101」店が繁盛してそのご新宿や渋谷などに進出。「スタジオ101」新宿店というような形で広がっていった。歌好きの私は、このカラオケにはまった。すっかり常連のお客になってしまった。また店主と馬があったのも原因だと思います。あの頃を思いだすと、四つばかり思い出せることがあります。

思い出一:
ある夜、常連ではないがたまにやってくる顔覚えのある一人の客が「昭和かれすすき」をリクエストした。女の子が、「昭和かれすすき」をリクエストの誰々さんと呼ばれ、彼は立ち上がるとマイクのある場所に行き、こう挨拶したのだ。「私は『昭和かれススキ』をリクエストしましたが、『昭和かれススキ』を歌うのではなく、『昭和かれススキ』のメロディーを流しながら、今は亡き私の妹のことを書いた文章を読みあげますので、皆さん、ちょっと聞いてみてください」と。あの哀調を帯びた「昭和かれススキ」のメロディーが流れ出すと、彼はふところから紙をとりだし、文章を読み始めた。文章もなかなかよくできている。若くして亡くなった妹を思う文章、それを切々と読みあげる声、バックに聞こえる「昭和かれススキ」のメロディーと実にマッチしていてすばらしいのだ。彼は自宅で練習してきたにちがいない。すぐに来ているお客の私語がなくなり、全員の目が文章を読み上げる彼に集中した。メロディーが終わる頃、彼の朗読は終わった。とたんお客さんからいっせいの大喝采と大拍手、アンコールの声ずいぶんもかかった、彼は、はずかしがってアンコールには応えなかった。

現在のカラオケではあのような光景の再現は難しいと思います。現在のカラオケ店にはどこにでもテレビがある。それにマイクはお客の間を自由自在に動きまわる感じ、ほとんどが座ったまま歌う。しかし当時マイクは固定。テレビもない。お客が歌う時には、皆立ち上がってマイクのところまで歩き、楽譜台においてある歌の本を見てうたう。そのために時と場合によっては、マイクで歌う人とお客さんが完全な一体感になりえるときがあるからです。

思い出二:
この店の閉店は、明け方の4時。当時の私の歌の特徴は、18番にしている歌がなく、主にナツメロですが、レパートリーがやたらと多いい。次から次へと歌を「食い散らす」感じで歌っていた。無論、この店にきてから歌えるようになった新曲もあった。それで私は明け方の4時まで店にいたら、同じ歌を歌わずに、何曲ぐらい歌えるのだろうかとよく考えていました。そこで或る時計画を立て明け方4時までには何曲歌えるかやってみようと決心した。もちろんお客さんが立て込む時間帯は、歌える数は少なくなります。だからと言って遅くなった時間帯にできるだけ多く歌うというのでは、声ががらがらになるのはいやだ。のどの極端な疲労もなく歌える数は何曲ぐらいになるかやってみました。合計17曲でした。むりすればもう少し歌えたかもしれないというのが感想でした。

思い出三:
ある民放のラジオ局が「東京の夜の盛り場訪問」というような番組を毎週日曜日の夜遅く放送していた。東京の盛り場をあちこち訪れて録音し、それを放送していた。そのラジオ局が、六本木の「スタジオ101」が店の形式としては非常に面白いというので録音の申し出があった。無論店主は、宣伝のため大歓迎。店主から私に話しがあった。録音当日私に歌ってくれというのだ。私は、「おれより歌のうまいお客さん結構いるではないか」と言った。店主によると歌のうまい人じゃ困るというのだ。ラジオを聴いている人は、うますぎる人の歌を聞いては、あんなに上手く歌えないとこの店にくる気はなくなるし、あまり下手な歌を歌って、女の子に手伝ってもらって歌ったりしていると、品のない酒場みたいになってしまい、聞いている人は、この店に来てみようと思わなくなる。そこえいくと、スーさん(私は当時その店ではスーさんと呼ばれていた)が最適、歌が上手くもなければ下手でもない、そこそこにいける。店としてもどうせ歌ってもらうなら常連さんに歌わせたい。ラジオ放送ではスーさんの歌が流れるようにするから歌ってくれと言うのだ。

私は、「おれの歌がラジオから流れる」というのが気にいった。「それでは、歌いましょう。
ところで何を歌いましょうか?」と聞くと、「選曲は、スーさんにまかせる」と言う。当時私は、この曲を自分のものにしたいと思っていてしきりに歌っていた曲があった。越路吹雪が歌っていた「ラストダンスを私に」を歌うことに決めた。本番のために練習をしておかなければ、ということで店の開店早々に足をはこんだ。開店早々だとほとんどお客がいず、マイクが独占できて練習できるからです。ラジオの録音当日がやってきた。店主もラジオ録音日をあまり宣伝すると、店にお客が来過ぎてもこまるし、あまり来なくてもこまります。常連の人にそれとなく伝えていたのでしょう。当日はほとんど常連ばかりであった。当時この店で雇っていた若い女の子で、アナウンサーになる勉強をしていた子がいた。彼女はイントロが上手だ。当日は彼女をフルに使っていた。私も彼女のイントロの後、「ラストダンスを私に」を歌った。べつに上がりもしなかった。

それから二週間後ぐらいの日曜日。子供たちを寝かせつけ、夜遅く私は女房といっしょにそのラジオ番組をきいた。女房には、一度六本木の店につれていっているので、店の説明をする必要はなかった。最初は店長にインタビュウーや、客にインタビューなど聞こえていた、やがて「ラストダンスを私に」のイントロが始まり、私の歌声がラジオからはっきりと聞こえてきました。その後すぐに私の顔は、不機嫌な顔つきになったにちがいない。こんな言葉が私の口から飛び出していたと思う。「なんだよ、これ!」、「これが俺の歌かよ!」、「おれの歌、こんなにへたのか?」
女房は笑い出していた。「選曲が悪いのよ」とか、「なぜ越路吹雪のような難しい曲を選んだのか」とか色々言うのだ。「なにもおれの歌を聞いてすぐに笑い出すことはないだろう」、
「笑ってはいないわよ」、あなたが、「之が、俺の歌かよと、きげんの悪い顔するからよ」、などと夫婦喧嘩のような雰囲気になったことを思いだす。選曲が悪かったのも事実だが、自分では上がっていないと思っていたが、多少あがっていたのかもしれない。それにしても、私にはショックだった。いままでカラオケにはまっていたのが、急にさめかかったようになってしまった。

思い出四:
私の取引先の人で、どうしても「スタジオ101」につれてきてあげたい人がいた。山口県で中小企業といっても中くらいの企業を経営しているY社長です。Yさんは会社を経営しながら演歌の作詞を書くのが趣味で、それまでに何曲か作詞し、作曲家に頼んで曲を作ってもらうのだが、新人歌手に歌われたこともない。だが作詞を書くのが人一倍好きで趣味なのだ。彼は大変な情熱家で、山口県で会社設立するとすぐ、人を採用する時は、必ず野球経験者を採用するのだ。理由を聞くといずれ都市対抗野球大会に山口県代表で出場するということが目的だった。あの頃都市対抗野球大会は人気が高かった。社長には一つの大きな願望があった。自分の初恋の人に「俺は、元気でがんばっているぞ」というのをぜひ伝えたい。それには都市対抗野球大会の人気が高いから、自分のYという姓名をつけた会社が山口県代表になれば、彼女の目にとまり、自分を思いだしてくれるはずだ、あるいは連絡してくれるかもしれない。若い男性社員のほとんどが野球部出身。念願かなってついに初出場、しかし初恋の彼女から連絡なし、社長に言わせると、一回戦で敗退したからだ、もう少し勝ちすすんでいれば、連絡あったかもしれないと言っていた。

そのY社長を「スタジオ101」に案内した。予想どおり彼は喜んだ。彼は友人だという当時コロンビアのディレクターまで連れてきた。その人は、当時の島倉千代子や村田英雄らの担当ディレクターだった。Y社長やその部下が東京にくる度に「スタジオ101」の足を運んだ。そしてとうとうY社長は、自分で店を持つことを決心し「スタジオ101」山口店を開店するとまで言い出したのだ。この話には紆余曲折があったのだが、結局山口に店を持つことはあきらめて、広島市一の繁華街に持つことにしたのです。広島店開店数日前にY社長から連絡が入り、「私が広島店を持つきっかけをつくったのは、鈴木さんです。開店日にその鈴木さんはいなくては困る。開店日にはゲストとして東京から一人新人女性歌手を呼ぶから、その彼女と一緒に広島にきてくれ、新幹線の切符二枚手配するからという招待を受けたのだ。私は喜んでその招待を受けた。

当日新幹線の車内でその新人女性歌手と会った。彼女はすばらしいプロポーション、出るところ出ているし、へこむところはへこんでいる。顔もなかなかいける。要するに彼女は美人歌手なのだ。私はこんな美人歌手が、新人歌手の下積み生活を長く保てるのかな、すぐに男の手がつくのではないかと心配した。いずれにしてもこんな素的な彼女と隣同士に座って広島までいっしょということで有頂天になっていて、それを悟られないよう平然とするのもちょっと大変という気がしたが、話しあっているうちに、彼女と私とは相性があう感じがして、私が独身だったら彼女と良い仲になっていたことは間違いないと感じ、その後は私の心をストレートにあらわし、お互い話がはずんだ。

広島駅に到着すると、Y社長の部下が迎えにきていて、すぐ「スタジオ101」広島店に直行。お店はお客でいっぱいだった。彼女と私が紹介され、彼女はすぐに歌い始めた。演歌ばかり何曲か歌ったが、私は彼女のプロポーションは抜群だし、顔もバターくさい洋風美人だから、演歌よりバラード風の大人のムードを漂わせる歌の方があっているような気がした。その点を言ってあげたら、彼女は仕事で歌うのはその晩で三回目だというのだ。沢山のお客さんが鈴木さんのように言うなら考えなきゃと言っていた。

私が結婚する前、女房とデートを繰り返していたころ、カラオケはなかった。もしあったら恋人どうしでデュエットできて、歌好きの私は楽しかっただろうと思う。あの夜の彼女とのデュエットは楽しかった。いい思い出だ。なにしろ美人歌手だし、彼女とは東京広島間の新幹線で6時間の会話を楽しんできているし、彼女は私に好感をもっていることもわかっていた。二人ともムードを出してデュエットを楽しんでいたと思う。二人で顔を見つめあって歌う場面では、ウィンクしてあげたら、はにかみながらウィンクが返ってきたっけ。当時はカラオケ店にテレビがなかったから、そういうムードは見ているお客さんに雰囲気が伝わるものだ。「ムードがいいぞ」、「二人はもうできてんのか」などやじが飛んできたが、それはそれで二人は笑顔でテレながら歌った。歌に酔いしれるというのはこのことだろうかと思う。

彼女は開店三日間がゲスト歌手ということで広島に残り、私は翌朝、朝早く東京に戻った。あれ以来私は、彼女とは会ったことがないし、消息もわからない。今では芸名もすっかり忘れ、なんとか「ひとみ」と言って名前しか覚えていません。あのころが私のサラリーマン人生の一番楽しい時代だったような気がします。

あれから時代が経って数十年、私が70歳の頃だったと思います。ある会合が終わって数人で横浜駅西口のカラオケ店に入った。それまで全く気付かなかったことが、その時初めて気がついたことがあった。歌には、男女の恋を歌った曲が圧倒的に多いい。しかもその男女は、みな男盛りや女盛りを対象にした恋の歌ばかり、老人の恋の歌など一つもない。老夫婦を唄うような夫婦演歌があるだけです。現在は熟年離婚が流行り、皆長生きで、連れ合いを早く亡くす人もいるでしょう、そのため第二の伴侶を得る人も沢山いるはずです。老人の恋を歌った曲が一つや二つあってもおかしくない。私と同年輩のみなさん、そう思いませんか?私の知っている限り、老人の恋を歌った曲は一曲もありません。それともあるのだけれど、ヒットしていないだけなのか。そこで私は、「よーし、俺が老人の恋の作詞を作ってみよう」と決心したのです。

決心したのはいいのですが、いざ書いてみるとこれが実に大変か、よくわかりました。私は作詞なんか、短い言葉を沢山作って一つにまとめれば、いいのだろうと思っていましたが、逆にそれが大変なのだ。短編小説を書くより難しい。いままでテレビで歌番組をみてきたが、あまり作詞の部分に気を使わなかったが、作詞を書いてみようと思った瞬間から、歌手の歌う詩がどんなものか気になり始め、注意して画面に出る詩を読むようになりました。ヒット曲を無数につくり出してすでに亡くなった阿久悠(あくゆう)氏など、もう天才と言っていい。演歌からアニメ、コマーシャル等など、合計5000曲以上だと言うのだから凄い。恐らく彼の頭には速射砲のように無数の短い言葉飛び出してくるのではないか。

初めて作詞に挑戦した私には、その短い言葉選びというか、短い文章選びというか大変な作業で時間のかかるものだった。一番を作詞したが二番の言葉が出てこない。主に電車の中で考えるのですが、目的駅を乗り越してしまう。それでもなんとか老人の恋を歌った作詞らしいものができたので、ちょっとはずかしいのですが披露してみます。まず歌詞の曲名が「老いの恋」。私はこの「老いの恋」というタイトルがあまり好きでない。あまりにも直接的だからです。もっとムードあるタイトルしたいと「晩秋の恋」にしてみた。晩秋の季節に生まれた恋になってしまうのではと考えてしまうのです。冗談半分、真面目半分で考えたタイトルは、「ろうそくの恋」。蝋燭が消えかかる時、消える寸前に勢いよく燃え上がるからです。しかしこれでは恋の結末が悪い。詩の内容は、恋の余韻を感じさせるものでなければなければと考えたからです。とにかく曲名を色々考えましたが、「老いの恋」がベストだろうと判断しました。読者の方ですばらしい曲名の名案がありましたら教えてください。

さて肝心の詩の内容は、このようにしてみました。

「老いの恋」
一。いずれ出会うさだめなのに
  何故にこんなに遅いのか
  二人はとうの昔の花盛り
  つらい想い出すなおに語り
  ひかれあう二人
二。不思議なえにしの導きか
  老いにも初恋のはじらい
  老いた体に青春の心
  残り少ない時間(とき)を忘れ
  恋に酔う二人
三。夫婦(めおと)にならずこのまま
  二人の遅い恋は永遠(とわ)に
  時にさみしさ、せつなさ乗り越え
  いつまでも燃やしつづけよう
  これからの命

この作詞は素人の作品、いろいろ欠点もあるでしょう。人間は年をとったから老人になるのではない、肉体が衰えたから老人になるのではありません。チャレンジ精神や好奇心を失うから老人になるのです。それでチャレンジして作詞したのですが、「老いの恋」は願望になってしまった。さびしいものです。どなたか作曲していただける人がいたらこのうえもない幸せです。

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