私の小説の構想

昨年11月2日の私のブログ記事、「The USA is responsible for the Pacific War」では、この英文版は資金の関係上300部しか印刷できませんでしたと書きました。この300部のうち私の協力者、渡辺氏と私で50部を二人の私用に使い、日本にある在外大使館、領事館用に郵送するのに185部を使用しました。残り65部を外国の図書館に送るつもりでいます。しかし外国に65部では私の歴史観を外国に伝えるにはあまりにも少なく、焼石に水同然です。そこで私は小説を書いて、それをヒットさせ印税を稼いで海外にばら撒くと、そのブログに書きました。本日のブログでその小説の構想を書かせてもらいます。

私は、平成11年8月31日(61歳)で定年退職した。実は私は定年前から「ある凡人の自叙伝」という本を書いていました。いわゆる自分史を書いていたのだ。そして定年と同時にその年の12月に出版していました。なぜ自分史を書いたか。サラリーマンの父親は、自分の生きざまをあまり子供に知られることはありません。特に私の年代の人間なら、エリートは一流大学を出ると一流企業あるいは官庁に入社しておよそ40年間勤め上げるのが当たり前のような感じです。しかし私は、サラリーマンとしては波乱万丈です。社会の底辺の仕事しながら外資系会社に潜り込み、外資系五社を渡り歩いて定年。私生活も波瀾万丈です。本に書く価値ありと私は判断し、「ある凡人の自叙伝」を100部出版した。

この本には苦い思い出がある。私が66歳の時、昭和32年高卒の高校の同窓会があった。それまで32年高卒の同窓会や組の同窓会は、何度もあったが、私は一回も出席したことがなかった。今回は定年になっていたこともあったし、またたった一人の高校時代に友人からの熱心な誘いもあったので私は初めて出席した。高卒後48年ぶりの同級生との再会であった。私が三年の時の先生も参加していた。そこで私は、先生に、「自分の自叙伝を書いたので、先生にさしあげますから読んでいただけませんか」と言ったら、先生はなんと答えたと思いますか?先生は、「手荷物なるからいらないよ」と言ったのです。先生という職業を何十年もやっていたら、自分の記憶に残らない生徒もいるでしょう、卒業後半世紀ばかり会わない私みたいな生徒は、記憶に残らないでしょう。しかしその日の同窓会で先生は、私が教え子であることを知ったのです。高2の時、私は家庭の事情で大学受験をあきらめた。卒業近くなったとき、先生は私に、「鈴木、就職はどうする?」と聞くから、私は、「卒業したら職安で職をさがすからいいですよ」と答えたのを覚えているのです。その先生が「手荷物なるからいらないよ」と言う返答なのです。もっと他の断り方もあるだろうと文句をいいたいのをこらえたのも、先生が80半ばを越した完全な老人になっていたからです。

またその反面良い思い出もあるのです。「ある凡人の自叙伝」出版後8年目、平成19年に出版社、飛鳥新社から私に電話がかかってきた。飛鳥新社は、平成18年から平成21年までのまる三年間ぐらい団塊世代の男性用月刊誌として週刊誌より大きい高級感あふれる月刊誌「dankai パンチ」を出版していた。私は知りませんでしたが、こんな月刊誌があったこと、団塊世代の男性は、ご存知でしたか。その月刊誌の平成19年の12月号に特集記事として「自分史の書き方」を載せる。その特集記事にすでに定年になっている三人の方の自分史の概略と、本人のインタビューと本を手にした写真を載せると言うのです。同意でしたら自分史の本をもって会社まできてくれとのことでした。私は早速飛鳥新社の事務所を訪問した。私の予想どおり、私の「ある凡人の自叙伝」を飛鳥新社の二人の営業マンに紹介したのは自費出版図書館のI館長でした。I館長は、以前「学研」勤めていた人で、脱サラ後、全国で自費出版された本を集め自費出版図書館を設立、今や全部で29,000冊。そのうち2600冊が自分史関係です。その2600冊の自分史のうち最近出版した非常に面白い自分史として私の自叙伝を飛鳥新社の二人の営業マンに推薦し、その二人が読み、これは面白いとして月刊誌、「Dankai パンチ」に載せたのです。

私がなぜI館長が主催する自費出版図書館編集室を製作者として利用したかと言うと、私は自分史を出版する前に本など書いたこともないし、投稿すら書いたこともありません。文章を書くのは苦手だと思っていたのだ。本が書けなくても、自分の思い出を書くのだから書けるだろうとの思いで書いてみた。I館長がもし変な文章があれば訂正し、書き直してくれるとうので出版を依頼したのです。しかし実際は、私の文章は「てにおは」以外手直しするとことがなく出版できたのです。自分史の紹介は、私の「ある凡人の自叙伝」だけではなく、他の二人の自分史も紹介されていました。一人は自分の人生と数多くの映画との関係を写真つきでケース入りの分厚い本で、もう一人の作品は女性の作品で、自分のルーツを調べその膨大な写真を載せています。完全に文章だけなのは私の自叙伝だけでした。私は、この「ある凡人の自叙伝」を軸にして多くのフイクションを織り交ぜて小説を書くつもりなのです。芥川賞や直木賞をとれるような小説を書けるとは、思いませんが、テレビドラマにできるような面白い小説になるのではと思い、ぜひベストセラーにして、印税を稼ぎ、その稼ぎで「The USA is responsible for the Pacific War.」を世界中にばら撒きたいというのが私の本心なのです。

大東亜戦争は、日本の孤独な戦いでした。敗戦後も戦争史観で日本は、孤独な戦いを強いられた。勝利国であるアメリカ、ソ連(ロシア)、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、スペインなど、あるいはカナダ、オーストラリア、あるいは南米諸国など、日本敗戦後の世界の主要国が殆ど勝利国なのです。彼らはドイツの起こした戦争と日本が起こした大東亜戦争とは、全く質が違う戦争なのに「第二次世界大戦」などと呼び、それまで侵略の限りをつくしてきたことなどおくびにもださず、日本を侵略国と非難した。かれら白人国家に加えてシナや韓国まで日本を侵略国家と呼んでさえいます。これでは、戦後、日本が大東亜戦争史観で反論するのが難しいことは、わかります。しかし戦後から現代まで太平洋戦争史観に何一つ反論してこなかったばかりでなく、日本政府や外務官僚は、太平洋戦争史観に迎合さえしているのです。保守知識人も大東亜戦争史観を主張するのは国内向けであって、外国に向かって主張するなどほとんどしたことがないのだ。英語の苦手な保守知識人など、自分の主張を英文翻訳させて海外に訴えるなど、ごくわずかの例外を除いてしたことがないのです。白人伝統の人種差別が頓挫し、人種差別しないことが、なぜ世界の常識になったのか。日本敗戦後なぜ独立国が雨後の筍のように誕生したのか。アメリカ政府は、ドイツとの戦争の資料は、すべて公開しているのに、なぜ日本との戦争の資料はいまだに公開しようとしないのか、日本政府はこのようなことさえも外国に向かって発言したことはありません。日本政府は、太平洋戦争史観に戦後70年間ひれ伏してきたのだ。私は世界中の人々に大東亜戦争史観を知ってもらいたいのです。だから私の書く小説をベストセラーにして「The USA is responsible for the Pacific War」を世界中にばら撒きたいのです。小説のタイトルは、いまのところ「昭和の一匹狼」、出版されるまでには、三、四年かかると思います。その時にはブログでお知らせしますので、ぜひ皆さんにお買い上げいただきたいと思っております。

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