集団就職列車の皆様方へ。

このブログの拡散、転載をよろしくお願いします。
私が横須賀市立中学校を卒用した年が昭和29(1954)年です。皆さんはこの年はどんな年だかご存知だと思いますが、この年の4月5日から青森から集団就職列車の夜行が開始された年です。これが全国的に広がり集団就職列車と呼ばれ有名になったのです。それではこの集団就職列車はいつまで運行されたのでしょうか。昭和50(1975)年が集団就職列車の最終号でした。集団就職列車は、21年間運行され沢山の15、6歳の若者が日本の三大都市圏を中心に移り住んでいったのです。私の中卒時の志望は、県立高校合格、失敗すれば就職でした。この時の私のクラスの半分が高校進学組、半分が就職組でした。幸い私は、県立高校に入学しましたが、やはり我が家の貧乏は変わらず、また私が学費の安い国立大学に入る頭もなしと言うことで高校在学中に大学受験をあきらめました。高卒後自分で横浜の職安に行き、二流ホテルのボーイとして働きだしました。以来転々と職を変えるのですが、それでもまだ自分はラッキーだと思っていました。私の住所は、東京や横浜の大都会に通える通勤範囲だったから転々と職を変えられたのだ。しかし地方からやってくる皆さんは違います。職を変えるのも大変だったでしょう。だから私は、自分よりも苦労している人が沢山いると、自らを叱咤激励し、皆さんをはげみの対象にしていたのです。

なぜ私がこのブログに集団就職列車の話を載せたかというと、実は今年の前半、私が少しだけ知っている私と同じ年の男性が死んだのです。死の直前まで個人タクシーの運転手をしていました。亡くなってから二、三か月後ぐらいなのですが、彼は長野県から集団就職列車に乗り込んで東京へやってきたことがわかったのです。以来筆紙に尽くしがたい苦労をしたそうです。彼はその苦労を一切二人の娘さんには話さなかったそうです。奥さんは自分の知っている夫の苦労は話しているらしいのです。皆さんは、彼の生き方をどう思いますか。辛いことは、じっと死ぬまで耐えて忍ぶ姿もいいかもしれませんが、晩年になったら堂々と公表した方がいいのではないでしょう。何も語らなかったら、自分で自分の人生を否定しているような気がしてなりません。現在は、ブログ、ツイッタ-などでどん、どん自分の意見を発表できます。皆さんは、特に現在の世相について何か不満はありませんか。きっとあると思います。私は、現在の親に対する不満です。なぜ現在の親は、自分の子供にわざと食べさせないで餓死させたり、あるいは暴力をふるって殺してしまうのでしょうか。私や皆さんの世代の親では、絶対考えられないことです。なぜでしょうか?その理由はこれだという絶対的理由があるからです。私や皆さんの年代の親は、修身や教育勅語で育った年齢なのに対して現在の親は、修身や教育勅語の教育どころかその教育を受けた人たちからも遠くの存在になってしまったからです。

修身や教育勅語で育った人間は、社会生活が円満に回転していくためには、法律だけではなく、道徳観、倫理観、正義感、隣人愛などが必要なのだと強く意識しているからです。これに反し現在の得に若い親は、そういう道徳観、倫理観、正義感、隣人愛などを無視し、言論の自由、表現の自由、行動の自由など、自由というものを強調しすぎるからではないでしょうか。

例を挙げましょう。有名歌手の尾崎豊、彼は平成4(1992)年、26歳で事故死とも自殺ともとれる死に方をし、葬儀には4万人もかけつけた人気歌手でした。その彼が15歳の時に「15の夜」という詩を書いて歌っています。自作自演です。15歳といえば、集団就職列車の皆さんが列車の乗り込んだのが15、6歳です。全く同じ年です。彼の詩の全文を披露します。

「15の夜」
落書きの教科書と外ばかり見る俺
超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる
やり場のない気持ちの扉を破りたい
校舎の裏煙草をふかし見つかれば逃げ場もない
しゃがんでかたまり背を向けながら
心の一つも解りあえない 大人たちをにらむ
そして仲間たちは今夜家出の計画をたてる
とにかくもう学校や家に帰りたくない
自分の存在が何なのかさえ解らずふるえている
15の夜

盗んだバイクを走り出す行き先もわからぬまま
暗い夜の帳の中え
誰にも縛られたくないと逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした
15の夜

冷たい風冷えた体人恋しくて
夢見てるあの娘の家の横をサヨナラ
つぶやき走り抜ける
闇の中にぽつんと光る自動販売機
100円玉で買えるぬくもり暑いコーヒー
握りしめ恋の結末も解らないけど
あの娘と俺は将来さえずっと夢に見てる
大人たちは心を捨てろ捨てろと言うが俺はいやなのさ
退屈な授業が俺たちの全てだと言うなら
なんてちっぽけでなんの意味のない
何て無力な15の夜

盗んだバイクで走り出す行き先もわからぬまま
暗い夜の帳りの中え
覚えたてのタバコをふかし星空を見つめながら
自由を求め続けた15の夜

盗んだバイクで走り出す行き先もわからぬまま
暗い夜の帳りの中え
誰にもしばられたくないと逃げ込んだ
この夜に自由になれた気がした15の夜

現在、インターネットで「15の夜」を検索すると尾崎豊の「15の夜」のyou tubeが目白押しにでてきます。当時人気歌手だったことがよくわかります。尾崎豊のレコード「15の夜」が発売されたのは、昭和58(1983)年です。集団就職列車の運行が止まったのは昭和50年です。すなわち集団就職列車が廃止になってからもう30年、50年経っているならまだしも、まだ10年もたっていないし、また現実に中卒で働いている人は全国に沢山おり、おそらく500万人ぐらいいるはずです。尾崎豊の15歳は、ただ親に反抗し、世間に反抗しているだけだが、集団就職列車に乗っていく同じ15歳は、自分の将来を真面目に見据えて働こうとしているのだ。この両者の精神面の成長の度合いはかることができないほどです。ましてやその当時(「15の夜」が流行っている頃)でさえ数えきれないほどの人が中卒で働いているのだ。この歌はその人たちを侮辱しているようなものです。私たちの両親が健在だったら、この歌は間違いなく教育上このましくない歌としてレッテルはったでしょう。

この歌を歌った年齢の人は、いまや40代の親になっているのだ。この若い世代の人間は、「15の夜」は、言論の自由、表現の自由、思想信条の自由によって生まれた曲だ、そうしてできた曲を教育上好ましくないとレッテルをはるのはとんでもないことと反対するでしょう。要するに社会全体のことを少しでも考えようとするよりも個人の好みの方を優先するのです。だから現在の親には、自分の子であるにもかかわらず、食事を与えず餓死させ、あるいは暴力で殺してしまうのではないでしょうか。皆さんはどう思われますか。集団主食列車よりも早く中卒で働いている人は、年は私より上ですが集団就職列車で働きだした年齢は、最高齢が私と同じ75,6歳、一番若い年齢が54,5歳です。人生90年時代と言われる今日、まだくたばるには早すぎます。私が皆様にお願いしたいのは、さしでがましいお願いですが、最後まで国家への関心を忘れず、少しでも日本のために何かをしていただきたいということです。そして最後には誇りある日本人として私は死んでいきたいと思っております。皆様、自分たちの苦労は、自分の子供、お孫さんには必ずお伝えてください。戦後の日本が立ち直れたのは、あなたがたのような健全な日本人が沢山おられたからなのです。皆様がたには、自分の苦労を誇りにしていただきたいと思います。これからもお体に気を付けてのご活躍を期待しております。
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