なぜ科学技術で日本は遅れをとったのか(1)



日本に最初の宣教師がやってきた16世紀、そして家康によって江戸幕府が開かれた17世紀始ごろまでは、日本の軍事技術はヨーロッパ諸国とほとんど同じ程度でした。特筆すべきは日本の鉄砲の大量生産です。16世紀後半に日本人が合戦に用いた鉄砲の数は、当時ヨーロッパのどの国がもっていた鉄砲の数より多かったのです。 従って当然、日本製の鉄砲は海外に輸出されています。切れ味するどい日本刀も輸出されていました。1483年の記録によると、この年は例外であったかもしれませんが、中国向けだけで6万7千にもおよぶ日本刀が輸出されています。 1597年に来日したイタリア商人フランセスコ・カルレッチは、日本の盛んな武器輸出に言及し、「攻撃用、防御用を問わず、ありとあらゆる武器があり、この国は世界で最大の武器供給国だと思う」と記しているのです。

東北地方の大名、伊達政宗の家臣支倉常長(はせくらつねなが)は、遣欧使節として1613年にメキシコ、スペイン、ローマにむけて出帆しました。その時使われた船がサン・ファン・バウティスタ号ですが、実は、この船は、スペイン人の指導のもとに、日本の材料で日本人の船大工によってわずか6ヶ月間で建造されたものです。 船のトン数は500トン、当時の日本人が作った最大の帆船です。当時の西洋の最高技術を用いた船を、日本の材料を使用して短期間に造る技術を日本はすでに持ち合わせていたということです。航海が終わると、フィリピン政庁の強い要請によって譲り渡し、この船はスペイン艦隊に編入されました。 この実績がものをいったのかもしれませんが、その頃フィリピン政庁は、太平洋航路用の一船の造船発注を日本にしています。その船は1623年に引き渡されています。

しかし船上で使用する武器、すなわち大砲などは日本よりヨーロッパ製の方がはるかに上でした。キリシタンや宣教師をいかに厳重に処罰し、または処刑に処してもマニラから日本に密航してくるか宣教師が後を絶ちません。 そこで三代将軍家光の時、江戸幕府はフィリピン遠征計画を立てました。1637年12月ジャカルタから総督アントニオ・ファン・ディーメンがオランダ東インド会社重役に送った報告の中に、 「われらに大なる困難がふりかかってきたようである。すなわち皇帝(家光)は、マニラから琉球をへて日本に宣教師を派遣した口実に、マニラ占領を計画し、その軍隊を輸送するために、われらの援助と船舶を望んでいる(略) われらの船をかならずしもことごとく借用するのではなく、われらの援助提供の申し出により皇帝は二、三艘だけその用にあて(略) これに対して、いささかの不平も抗議も徒労である。皇帝がこの計画に固執するかぎり、これに服従するか、さもなくば日本より撤退せねばならぬ」と記しているのです。

このことは日本にはない砲艦が必要だったのではないでしょうか。このマニラ遠征は、島原の乱で中止されてしまいました。島原の乱発生時には、オランダ商館長は幕府の命令によりライプ号に砲十門をのせて、海上より一揆軍のたてこもる城に砲撃を加えて幕府軍を援助しています。 当時の軍事技術の総合力を判断すれば、ヨーロッパ諸国と日本はほぼ同程度ではなかったかと推測できます。

ところがおよそ200年後の1853年に日本に開港をせまるアメリカのぺりー艦隊が江戸湾入り口に姿を現した時、幕府の役人は、
「アメリカ軍艦二艘は鉄張りの蒸気船で、大砲は三、四十と十二門、二艘は大砲二十門あまりで、進退は自由自在、櫓(ろ)や櫂(かい)用いず、迅速出没する、まったく水上を自由に動く城である(略)」と記していて動転しているのです。
その7年後の1860年には日米修好通商条約書批准交換のため合計77名の武士が、アメリカ軍艦に乗って史上初めてアメリカを訪問しました。翌年の1861年には、武士36名が遣欧使節としてヨーロッパに派遣されました。欧米諸国で彼ら見たものは、軍事技術ばかりでなく、あらゆる分野での科学技術の圧倒的な大差でした。

それでは何故日本は、科学技術で遅れをとってしまったのか。その理由はいくつか考えられますが、大きく分けると二つではないでしょうか。 一つは江戸時代の特徴、二つ目は江戸時代までの日本人の特性です。この二つがからみあって科学技術に遅れをとってしまったと思うのです。
それでは江戸時代のどんな特徴が科学技術の遅れを招いたのでしょうか。
(1)250年の平和
日本の歴史で平和な時代は、江戸時代の250年と平安時代の350年の二つの時代があります。日本のように歴史の古い国でこれほど長い平和な時代があったということは特筆すべきことだと思います。戦国時代といわれる期間がおよそ100年間、長くみる人でも130年ぐらいです。

江戸時代の250年間は、まるっきり戦争というものがなくなってしまったのです。確かに江戸時代初期に、豊臣秀吉の息子、秀頼と家康との戦いはありました。しかしこの戦いは、決して戦争と呼べるようなものではありません。最初から家康が勝つのがわかっているからです。 秀吉一族を根絶したくてしょうがない家康は、秀頼方に難癖をつけて立ち上がるのを待っていたのです。大東亜戦争と同じようなものです。戦争すれば勝てるとわかっているアメリカが、難癖をつけて日本が立ち上がるのを待っていたのです。
剣豪で有名な宮本武蔵は、若い時いずれは一国一城の主を夢みて1600年の関が原の戦いに足軽として参加しています。しかしその後戦争というものが全くなくなってしまったので、仕える大名を持たない武蔵は、出世の道を閉ざされてしまいました。それで武蔵はしかたなく剣術使いで身を立てるほかなくなってしまったのです。

家康に一生は、戦いの連続でした。従って家康が平和を望んだことは確かです。また平和であることが徳川家の安泰につながるわけですから、江戸に幕府を開いて以来、江戸幕府は、平和になるための政策ならなんでも実行しようとしたのです。その平和政策のいくつかが、科学技術の発達を妨げたのです。 それは武器の取り締まり強化です。まず鉄砲です。16世紀日本は、鉄砲の大量生産国でした。それが1607年に幕府は鉄砲鍛冶の統制を開始した。家康の時代、日本の鉄砲鍛冶の二大中心地は堺地方の鉄砲鍛冶と国友の鉄砲鍛冶でした。国友は幕府の御用商人みたいなものでしたから、統制しやすかったのでしょう。
その統制の中には、諸国の大名がたくさんの鉄砲を発注した時は、幕府に知らせること。鉄砲職人をむやみに他国に出してはならぬ。鉄砲の作り方など他人に教えてならぬなどの規則をもうけ、これらの規則が守られているかどうか調べる鉄砲代官が任命されました。結局1607年からは幕府の許可がないと鉄砲が作れなくなってしまったのです。

ところが堺の鉄砲鍛冶を統制するのは当初は難しい面もありました。なぜか、分かり易く現代用語を使えば、堺の鉄砲鍛冶は、民間業者だったからです。17世紀初期には堺は、少数だが鉄砲の輸出さえしていたのです。しかし1696年以後は、幕府からも民間からも鉄砲の注文が来なくなってしまいました。
江戸時代の初期には主に西国地方の大名は、朱印船と称する貿易船を使用して積極的に海外との貿易をしていましたが、幕府は、大名の貿易取引を禁止し、貿易取引を独占しました。
そのため各大名は、大きな貿易船は必要なくなってしまったのです。そして幕府も、大船の建造を禁止しました。

このように17世紀の初頭の段階で、鉄砲や造船の製造技術の発展が止まってしまったのです。全国の大名も、彼らを監督する江戸幕府も、現代用語を使えば軍縮にはしったのです。 一方この時期ヨーロッパ諸国は戦争ばかり、当然軍縮どころか軍拡に走ります。そのおかげで軍事技術は向上、外交交渉術も長けてきます。 あまりにもヨーロッパ人は、戦争ばかりするものだからヨーロッパ全土を巻き込んだ30年戦争(1618年ー1648年)の最中にオランダ人グロチウスは、「戦争と平和の法」を著しました。
これによってグロチウスは「国際法」の父と呼ばれるようになった。戦争に関する法律といっても、戦争をなくすための法律ではありません。 戦争は必要かくべからざるものと戦争を前提にした法律なのです。
戦争することは悪と規定していなかったためもあるのでしょうか、ヨーロッパで行われた戦争の回数は、1480年から1940年までに278回もあったのです。
自ら軍縮することによって平和に暮らした日本、戦争ばかりやってきたヨーロッパでは、科学技術に大きな差をつけられるのは当然でしょう。(続く)

1 Comment »

  1. terag3 より:

    えんだんじさん

    このたびのお話で何故かという疑問が解けました。

    実は、日心会メルマガに「日本が戦った意味」と言う話を読んだのですがその中に
    支那事変の話が有り、当時の支那国民党軍の兵器や装備はドイツからの最新の
    もので、しかもドイツ軍の将校から軍事指導も受けていた210万の最強の軍隊で
    あり、一方の日本陸軍は25万人で、しかも三八歩兵銃も3人に一丁しか無かった
    という訳で、支那国民党軍から仕掛けてくる、たび重なる挑発にも隠忍自重して
    戦端を中々開けなかったという話に、何で日本軍の装備が、そのようなことに
    なっていたのかと大いなる疑問を持ったのです。

    しかしその原因は、17世紀の初頭に軍縮の意識が強くなり鉄砲、その他兵器の
    発展が止まってしまったという事だったのですね。


    しかし支那事変は結局、圧倒的な軍事力を持っていた支那国民党軍より十分の一
    の兵力と3人に一丁という、貧弱な装備であった日本軍が勝利したから良かったの
    ですが我々父祖たちの労苦と健闘に心から敬意を表したいです。

    続編を期待して、お待ちします。

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