北条政子は、何故国民の間であまり知られていないのか?



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「自虐史観」とは戦後から現在にまで続いている歴史観であり、特に今から30年ぐらい前までは「自虐史観」一辺倒でした。「皇国史観」とは明治から終戦までの歴史観のことです。ここで皆さんに承知していただきたいのは、「皇国史観」と言う言葉は、戦前からあった言葉でなく、戦後の歴史家や知識人が戦前の歴史観を批判するために作った言葉だということです。疑問に思う方は、戦前に出版された国語辞書を見てください。「皇国」という言葉は辞書に載っていますが、「皇国史観」という言葉は載っていません。私の持っている平成7年年出版の「大辞林」には戦後版ですから「皇国史観」は載っています。
明治政府は、天皇を頭にいだいて江戸幕府を倒してできた政府です。そのため明治から敗戦の昭和20年まで、天皇家の権力や権威は、非常に大きなものでした。明治初めから敗戦までの日本史教育が、天皇家を中心に語られ、教えこまれてきました。
これが皇国史観と戦後呼ばれています。日本の歴史がかなりの程度天皇家を中心に語られるのわやむを得ないと思います。皇室の歴史は、日本の歴史でもあるからです。まして明治以降は、天皇家そのものが権力者だったから、余計に天皇家中心に語られるのはやむを得なかったと思います。

ところが戦後、日本批判がゆきすぎて「自虐史観」と呼ばれるように、戦前の歴史も「皇国史観」と呼ばれるようにあまりにも天皇家中心になりすぎてしまったのです。その弊害の一つは日本史上において天皇家と直接権力争いをした人物は、悪人とかたづけられ、人物像が正当に評価されないことです。北条政子はその典型的な例でしょう。
天皇家の鎌倉幕府に対する武力挑戦が承久の乱です。その乱に勝利した鎌倉幕府は、上皇二人を島流しにしています。上皇とは元天皇の地位にいた人のことです。その上皇二人を島流しにするとは不届きな奴ということで、北条政子は悪女扱い、陰謀家などと言われるのはそのせいなのです。このように皇国史観では、北条政子はけなされることはあっても、評価されることのない女性でした。
しかし北条政子すなわち鎌倉幕府は、政治権力を握っていたが、天皇家の権威をずっと立てていました。その一番大きな証拠は、政子の実子が死に絶えたとき、政子は京都の天皇家に頼み込み天皇家ゆかりの摂関家の幼児を京都から迎いれて将軍職につけたことです。ところが後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の後継者の種がつきると、鎌倉幕府を倒幕しようと「院宣」を各地にばらまきました。幕府への謀反を命じたのです。これが後に呼ばれた「承久の乱」です。承久の乱を起こしたのは、政子側でなく上皇側です。「承久の乱」の失敗後は、政子は上皇を殺さず島流しにしているだけです。この「承久の乱」がいつ起こったのかというと1209年です。いまから800年前です。800年前の日本の歴史なら、歴史家ばかりでなく私たちも公平に歴史をながめることはできるはずです。北条政子が、二人の上皇を島流しにしたのがイメージ的に悪いと非難する人がいますが、現在の日本人に政子を批判できる資格のある人はいるのでしょうか。

なぜならば終戦後の日本人を見てください。昭和天皇の権力は喪失し、廃位させられたも同然。宮様家は、廃止させられ、その後復活する兆しも全然なし。いずれ皇太子になられる殿下は嫁選びに苦労することでしょう。勝利国の太平洋戦争史観を植え付けるために大東亜戦争と呼ぶなと言われれば嬉々として従い、さらに国際条約違反の憲法まで押し付けられ、独立を回復しても廃棄も、改正もせず、一切変えこともなく、そのまま使っているのだ。要するにGHQの反皇室命令などに従順に従い続けている我々に政子を批判できる資格はありません。ここらで北条政子の名誉をもう回復すべき時なのです。皆さん、政子が権力を握っていた時代の世界を見て下さい。
アメリカ、カナダ、ニュージ-ランド、オーストラリアなどの国など影も形もないどころか現在の英国(グレイト・ブリテイン)もまだ存在していません。当時となりのシナは、蒙古人のフビライハーンに支配され、彼は日本を滅ぼそうと二度も大軍を派遣(蒙古襲来、文永の役と弘安の役)してきて鎌倉幕府の必死の抵抗に会うなどして失敗しています。ヨーロッパや地中海は、キリスト教の十字軍がイスラム教の国々と戦争を繰り返していたのだ。一体当時のどこの文明国に北条政子のように女性権力者がいたというのだ。当時の世界では、北条政子という女性は、世界史を代表する女性ではないですか。当時は男女同権、平等の思想など全くない時代、武将ともなれば側室を自由自在に持てる時代です。そのため政子は嫉妬に狂い側室宅を燃やしてしまう行為にも出た。しかし政治的行為には嫉妬の影響はみられません。政治的行為と私的行為を区別できる女性だったと思います。

私は横浜在住なので、鎌倉にたまに出かけますが、政子の地味なお墓はありますが、その他に政子の存在感を示す特別なものが何もない。頼朝死後政子のがんばりで現在の鎌倉は古都としての面目を保って観光地になっているのではないでしょうか。ところが鎌倉にやってくる観光客の多くが政子の名前を知らずに来て、政子の名前を知ることもなく帰ってしまうのだ。これは鎌倉市政の落ち度ではないでしょうか。800年も前に世界史的女性として北条政子が存在したことをもっと日本国民に知らしめる必要があるのではないでしょうか。それによって若い日本女性に刺激を与えることもできると思っています。
私が北条政子の物語を書くにあたって参考文献にしたのは、「日本の女性史 2巻 (乱世に生きる)」和歌森太郎、山本藤枝、集英社(昭和40年)。





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