「南京虐殺事件」報道の後始末

最近、保守言論界の二人の巨匠の対談を興味深く読ませていただきました。本のタイトルは、『渡部昇一「対話」西尾幹二 日本及び日本人の課題』。二人の八つ章の対談はよく理解できました。私がこのブログで述べたいのは、渡部昇一氏が、この本の帯にも書いてあるように、言論界の巨匠と呼べるかどうかです。私の主張は、渡部氏は言論界の巨匠とは呼べないと思っています。何故か。彼は権力者に往々にして媚びるからです。このえんだんじのブログでも何回か渡部氏を書いて批判しています。初めて彼を取り上げて書いたのが平成23年(2011)11月19日、「渡部昇一先生への苦言」です。その全文を引用させてもらいます。
引用開始
「私は渡部先生の本、特に日本の近現代史関係の本では随分勉強させてもらいました。定年後私が、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」という大作を出版できたのも先生を初め多くの方々の本のお陰でもあります。これまで私とは縁もゆかりもない鎌倉在住の読者で一高東大出の定年サラリーマンの方が、この本は絶対に英文化しなければいけないと言って、本人のライフワークのように英文翻訳に励んでくれました。彼のお陰で来年中には間違いなく英文出版ができるようになりました。しかし時間もかかりましたが、お金がかかりましたし、出版するにはまたお金がかかります。現在日本に194カ国が大使館、公使館を置いています。英文出版できたら、アメリカのルース駐日大使を筆頭に全大使、公使に郵送するつもりです。読んでもらえず、ゴミ箱行き覚悟で送りつけるつもりです。資金的余裕があれば先進国の有名図書館にも送りつけるつもりでいます。このようなことを計画している私には、渡部先生の行動に理解できない点があるのです。先生は、イギリスのオックスフォード大学に留学した英語学者、上智大学名誉教授、またドイツのミュンスター大学にも留学して1958年には同大学哲学博士、1994年には同大学名誉哲学博士になっています。要するに英語だけでなくドイツ語も強いのです。先生には日本近現代史ばかりでなく歴史その他の著書も非常に沢山出版していますし、また翻訳本の数も多い。その中には「英語論文の書き方ハンドブック」などというタイトルの翻訳本もあります。ところが私の知る限りでは先生には、日本の主張を得意の英語やあるいはドイツ語を駆使して海外向け文筆活動など一切ないのです。

松原久子氏(1935年生)は、ドイツのゲッティゲン大卒、評論家、15冊のドイツ語の本を書いています。ドイツペンクラブの会員。1989年にドイツ語の原題を日本語に訳すと「宇宙船日本」というタイトルの本をドイツ語で書き、ドイツのミュンヘンで出版した。大航海時代の到来以後、全世界を発見、征服した「偉業」に対する欧米人の誇りを根底から覆す本でした。この本が日本語に翻訳され「驕れる白人と闘うための日本近代史」というタイトルで2005年に文芸春秋社より出版された。私はその日本語訳を読んだのですが、実に小気味良い本だ。わずか230数頁の本だが、松永久子氏という日本女性の心意気がすごいではないですか。渡部先生、先生も日本の主張を沢山本に書いているではないですか。一冊ぐらい英語の本を書いてくださいよ。松原久子氏には、一つの逸話がある。彼女がドイツの全国テレビで毎週五カ国の代表が出演して行われる討論番組にレギュラーとして出演していた時です。その時のテーマは、「過去の克服―日本とドイツ」で相変わらずドイツ代表は、日本軍がアジア諸国で犯した蛮行をホロコーストと同一視し、英国代表は、捕虜虐待を、米国代表は、生体実験や南京事件を持ち出すなどして日本を攻撃非難した。彼女は応戦し、ドイツ代表には、ホロコーストは民族絶滅を目的としたドイツの政策であって、戦争とは全く無関係の殺戮であること、そういう発想そのものが日本人の思惟方法の中に存在しないと反論し、英国代表には、彼らによる日本人捕虜虐待、米国代表には百以上の日本の都市無差別爆撃を指摘した。番組終了後彼女がテレビ局からケルン駅に出てハンブルグ行きの電車を待っていると人ごみの中から中年の女性が近づいてその女性は彼女の前に立ち「我々のテレビで我々の悪口言う者はこれだ。日本へ帰れ」というなり彼女の顔にぴしゃりと平手打ちをくらわし、さっさと消えていった」と言う。彼女は現在アメリカに住んでいます。日本ではあまり有名ではないが、実に頼もしい女性ではないですか。
ドイツ文学者の西尾幹二氏は、1982年外務省主催で西ドイツの8都市をドイツ語で講演活動をしたことがあります。講演では、ドイツ人やヨーロッパ人を批判し、講演内容は西尾幹二氏特有の歯に衣を着せず挑発的ですらあった。外務省の役人はびっくりしたのではないだろうか。「西尾幹二の思想と行動(2)日本人の自画像」(扶桑社)。渡部先生には松原氏は西尾氏のような気概はない。第一ドイツ人を批判していたら、すなわち長くドイツに滞在しても松原氏のように日本の主張のためにドイツを激しく批判していたら、先生は、はたしてミュンスター大学で名誉哲学博士の称号などさずけられたであろうか。

2007年6月14日、日本の政治家や有識者数十人が「慰安婦強制連行の証拠がない」という長文の意見広告をワシントンポストに掲載した。有識者の中には、西尾幹二氏、櫻井よしこ氏、屋山太郎氏の名前が載っているが、渡部先生の名前はどういうわけか掲載されていません。私には、先生は一銭も得にならないことは絶対にしないという処世術をもちあわせているような気がしてなりません。
私たち一般庶民は、語学に達者な人は、日本のために役立ってくれるのではないかとつい考えがちなりますが、私の経験から言ってもそんな単純なものではありません。語学に達者な人は往々にして外国人、特に白人に媚びるのです。白人の何に媚びるかというと彼らの戦争史観(太平洋戦争史観)に媚びていわゆる自虐史観を主張するのです。この地球上に欧米人や日本人が存在しているかぎり戦争史観の争いは永遠に続きます。日本人が忘れても彼らは太平洋戦争史観を続けてくるのです。現在青森県の六ヶ所村では、日本がこっそり核兵器を開発するのではないかと欧米人が見張りをしているのです。太平洋戦争史観が続いている証拠の一つです。だから私たちは、絶対に大東亜戦争史観を主張し続けなければなりません。ところが外国語に達者な日本人は、往々にして欧米人に媚びるのだ。その方が海外では評判いいからです。それで大成功した代表的人物が、雅子妃殿下の父親、元外務官僚の小和田恒氏です。彼の自虐史観、「日本ハンディキャップ論」は有名です。皇太子妃殿下の父親の自虐史観論は、欧米人にとって非常に利用価値があります。そのお陰で現在彼は、国際司法裁判所所長です。

一方渡部先生は、日本の保守言論界の重鎮の一人としての名声を博していますから、海外で自虐史観を主張するなど絶対にないが、だからといって自分の大東亜戦争史観を海外に披露することも絶対にしない。私の知っているかぎり先生はそんなことはしない。その点に非常に物足りなさを感じるのは私だけではないでしょう。そんなことをしても先生の一銭の得にもならないと考えているのかもしれません。「従軍慰安婦」の意見広告にも参加しなかったのもそのためでしょう。
その渡部先生が、育鵬社の歴史教科書の監修者の一人になっています。一般庶民がバックの「つくる会」よりフジ産経グループがバックの育鵬社についた方が得するからです。私は渡部先生が育鵬社の歴史教科書の監修者の一人になったからといって人それぞれの選択だから非難するつもりは毛頭ありませでした。しかし教科書採択戦が終わってみれば、育鵬社の歴史教科書の内容が、「つくる会」が2005年に扶桑社を使って中学生用の歴史教科書を作成し、文科省の検定に合格した「新しい歴史教科書」と酷似しているところが沢山あることがわかった。酷似とは、国語辞書を引けば「区別がつかないくらいよく似ていること」とあります。学校で使われる歴史教科書が、他の会社の教科書と酷似しているなんていうことがあっていいのでしょうか。そのことを最初に気付いたのは、「つくる会」で公民教科書作成に参加した小山常美先生です。ぜひ小山先生おブログを参照してみてください。
小山先生のブログ: 「日本国憲法」、公民教科書、歴史教科書。
その他に、「つくる会」広島県の会員である主婦の方が、扶桑社と育鵬社の両教科書の比較だけでなく他の教科書を交えての比較をすると扶桑社と育鵬社の酷似性がさらに目立つと、暇を見つけてはその比較を行っています。ここではその二つの例をあげておきます。
A 聖武天皇について
1.扶桑社(つくる会)
奈良時代の律令国家の聖武天皇と大仏建立
聖武天皇は、国ごとに国分寺と尼寺を置き、日本のすみずみに仏教の心を行き渡らせることによって、国家の平安をもたらそうとした。都には全国の国分寺の中心として東大寺を建て、大仏の建立を命じた。(45頁)
2.育鵬社(教育再生機構)
天平文化の、奈良の都に咲く仏教文化
聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、日本のすみずみに仏教を行きわたらせることで、政治や社会の不安をしずめ、国家に平安をもたらそうとしました。また都には全国の国分寺の中心として東大寺を建立し、金銅の巨大な仏像(大仏)をつくりました。(45頁)
3.帝国書院(17年検定)
中国にならった国づくりの、大仏造営
聖武天皇の時代、全国で伝染病が流行し、飢饉が起こりました。世の中の不安が増すと、古くからの神にかわって、仏教を信仰する人々が増えました。聖武天皇とその后は、仏教の力で国を守り、不安を取り除こうと考え、行基らの協力で都に大仏を本尊とする東大寺をたて、地方は国ごとに国分寺と国分尼寺を建てさせました。(37頁)
4.清水書院(23年検定)
平城京の建設と仏教、仏教の役割
奈良時代のなかごろ、仏教を深く信仰していた聖武天皇と光明皇后は、仏の力で国家を守ろうとして、国ごとに国分寺・国分尼寺を建てさせ、都には総国分寺として東大寺を建てた。(37頁)

B 尊皇攘夷運動について
1.扶桑社(つくる会)
単元「46尊王攘夷運動の展開」の、尊王攘夷運動
幕府が通商条約に調印したことに対し、朝廷の意向を無視し外国に屈服したものであるとの批判がわき上がった。それは、朝廷を盛り立てる尊王と、外国を打ち払うべしとする攘夷の要求が結びついた、尊皇攘夷運動に発展していった。(138頁)
2.育鵬社(教育再生機構)
幕府が外国との条約を結んだことに対し、朝廷の意向に逆らって外国に屈服したものであるとの批判がわきおこりました。やがてこうした批判は、天皇を敬い朝廷をもり立てようとする尊王思想と、外国を打ち払おうとする攘夷論が結びついた尊王攘夷運動へと発展していきました。(146頁)
3.帝国書院(平成17年検定)
ペリー来航から開国への、尊皇攘夷の考え
開国と前後して、幕府の弱い外交姿勢に反対する大名や武士、公家の間には、天皇を尊ぶ尊王論と、外国人を追い払うという攘夷論が出てきました。本来別々の考え方が結びついて、尊王攘夷の運動となり、下級武士や有力な農民にも支持された。(143頁)
さらに酷似例を知りたい方は、彼女のブログを参照してください。
ブログ名: 
セレブな奥様は今日もつらつら考える。

渡部先生は、育鵬社が出版した歴史教科書が、「つくる会」が2005年に扶桑社から出版した「新しい歴史教科書」と酷似しているところがたくさんあることを知っているのでしょうか。かりに知らなかったとしても、「知らなかった」ですまされる問題ではありませんよ。育鵬社が出版した歴史教科書には、監修者は、渡部先生の他に5人おります。伊藤隆(東大名誉教授)、渡辺利夫(拓殖大学学長)、田中英道(東北大名誉教授)、岡崎久彦(元駐在タイ大使)、八木秀次(高崎経済大教授)の諸氏です。保守言論界でも著名な方々ばかりです。その中でもネイムバリュウーといい存在感は、渡部先生が抜群です。「つくる会」が扶桑社から出版した「新しい歴史教科書」の内容の80パーセント以上は、「つくる会」の著作権だと言われているのです。いいですか、渡部先生、「つくる会」から出版される教科書は、日本全国に散らばる愛国心に燃え、憂国心をいだく一般庶民の浄財で出版されているのです。教科書を執筆する先生たちは無給です。そこには私利私欲名誉欲が入り込む隙間すらないのです。本来なら保守論壇全体が一つになって「つくる会」を支援してあたりまえなのです。それがなぜできないか。渡部先生みたいにいい年をしてすでに功成り名遂げた人、あるいは少しばかり著名になった知識人が私利私欲に走るからです。私利私欲に走っても自分達の力で立派な歴史教科書を作成してくれれば話はべつです。ところがどうですか、育鵬社、歴史教科書の監修者6人(渡部、伊藤、渡辺、岡崎、田中、八木の諸氏)は自分たち自らの手で歴史教科書を作らず、「つくる会」が扶桑社で出版した「新しい歴史教科書」を真似て作成したのだ。渡部先生他5人は、例え著作権侵害にあたらないと法的に判断されたとしても、「つくる会」が作った教科書をまねて作成した教科書というレッテル終始はりつくことになるでしょう。要するにたとえ法的に許されても道徳的に許されないことをしているのです。彼ら6人は、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」を白昼堂々とやっているのだ。著名人だから許されるのでしょうか?バックにフジ産経グループがついているから許されるのでしょうか。「恥を知れ!」と言いたい。私の彼らに対する怒りは尋常ではありません。彼らは、自分たちが作った教科書が「つくる会」の「新しい歴史教科書」にあまりにも似ているので、うしろめたさも多少あったのでしょう。そこで「つくる会」との違いを鮮明にさせようとして漢字にルビをつけることをしたのだ。すなわち韓国の歴史上人物や地名、支那の歴史上人物や地名などに朝鮮語、あるいは支那語のルビをつけたことです。例えば、「蒋介石」という人物がいます。「蒋介石」という漢字の上に「しょうかいせき」というルビをふり、漢字の下に「チャンチェシー」とルビをつけたことです。

最近まで私は、育鵬社から中学生用の歴史教科書が出版されることを歓迎していました。保守系の歴史教科書がもう一つの選択肢として登場することは良いことだと考えたからです。ところがどうですか、その教科書の実態は?渡部先生、あなたがたは自分の手で作った教科書と主張できるのですか。扶桑社の歴史教科書との多くの酷似性は、単なる偶然ですか。私は、今度の教科書採択戦でつくづく分かったことがあります。それは日本全国に散らばる「つくる会」の会員たちは、心から日本の教育の実情を憂い、少しでも日本を良くしたいと思い、自らお金を出し、行動する。そこには私利私欲名誉欲とは完全に無縁です。ところ多くの著名な知識人の行動はどうですか。フジ産経グループという資本力をバックにした会社が、歴史教科書を出版すると言ったら、彼らは私利私欲名誉欲をむき出しにして育鵬社詣でをしているようなものだ。教科書製作に直接関わらない著名知識人でさえ、教科書も読みもしないうちから育鵬社支持者も出る始末です。「つくる会」の自由社より「育鵬社」支持した方が自分自身の得になると考えるからです。私は読者に言いたい。育鵬社の教科書問題では、著名保守知識人の人間性を見極める最良の機会であるということです。

最後に渡部先生にお願いがあります。渡部先生、「つくる会」の教科書の真似事をするよう国内向けの仕事は、ほどほどにして、先生は英語学者なのだから、得意の英語を駆使して、先生の大東亜戦争史観を英語の論文、あるいは英語での投稿、あるいは講演、あるいは英文の本でも出版して世界に向けて日本の主張していただけませんか。私には、先生で思いだすことがあります。まだチャンネル桜が有料放送であった時代、先生はテレビ上で現在の日本人で今一番欠けているのは、「日本人としての気概だ」と言っていました。先生、先生こそ「日本人の気概」を示してください。死ぬ前に一度でいいから先生の大東亜戦争史観を英語で世界に向けて吠えていただけませんでしょうか。」
引用終了

このブログの5年後の平成28年(2016)1月16日「保守知識人は、大バカ者の集まりか?(1)」、同じ年の1月30日には「保守知識人は、大バカ者の集まりか?(2)」、翌月2月21日には「保守知識人は、大バカ者の集まりか?(3)」と三回書いています。三回分を全文引用すると長くなりますので要点を列挙します。
1. ここで言う保守知識人とは、育鵬社、日本教育再生機構、日本会議などに群がる知識人。日本教育再生機構のメンバーを見ますと、石井浩一郎、小田村四郎、伊藤哲夫、田中英道、中西輝政、屋山太郎、渡部昇一、三浦朱門。石井昌浩、新田均、渡辺利夫、高橋史郎,等々、大物メンバーばかりです。
2. 平成23年7月2日、名古屋で行われた歴史、公民教科書討論会で、育鵬社の歴史教科書監修者の一人である石井昌浩氏は、今回育鵬社から初めて出版する歴史教科書には、「南京事件は、確かにありました。日本軍によって中国軍人、民間人に多数の死傷者が出ました。これは事実です。ただ犠牲者の数などの実態については様々な見解があり。今でも論争が続いている。これが育鵬社の南京事件についての記述です。」と公言した。この石井氏の同じ発言は東京でも公開されたが、これに反する反発は、私の記憶では保守言論界からは何もなかった。但し、育鵬社の歴史教科書を支持し、その市販本に自分の写真を載せている櫻井よしこ氏は、平成19年に文芸春秋社から『日本よ、「歴史力」を磨け』を出版し、その二章「南京大虐殺」の嘘、で南京大虐殺の研究者、北村稔氏と「南京大虐殺」は嘘と対談しています。
3. 平成17年、八木秀次氏が「つくる会」会長のとき、「つくる会」の執行部には極秘で中国を訪れ、「中国社会科学院日本研究所」を訪問し歴史問題を話し合っている。八木氏の帰国後、彼らは日本にやってきてまた話し合っている。この時、私の憶測では「南京虐殺」問題を話し合ったのではないかと考えています。
4. 平成27年、中国が「南京虐殺事件」をユネスコに登録、同じ年の11月28日、東京で「南京虐殺の歴史捏造を正す国民会議」を開いた。あの「南京虐殺事件」は、「あった」と書いている育鵬社の歴史教科書の監修者、渡部昇一氏が議長に選ばれ挨拶しているのだ。彼はまさに偽善者と呼んでよいのではないか?
5. 日本会議常任理事、伊藤哲夫氏は、保守系月刊誌「明日への選択」を出版している。私はその購読者の一人です。育鵬社が歴史教科書、公民教科書出版ビジネスに参入発表したとたん、育鵬社支持者になり、その宣伝記事がよく出るようになった。これに反し「つくる会」の記事が一切でなかった。私は頭にきて購読者をやめた。
6. この伊藤哲夫氏、中西輝政氏、西岡力氏、島田洋一氏、八木秀次氏の五人は、安倍氏のフアイブ ブレーンと呼ばれていた。現在でも呼ばれているのかどうかわかりません。

平成28年(2016)の1月に「保守知識人は、大バカ者の集まりか。」(1)、(2)、(3)を公開後の8カ月後の9月24日に、私はブログで「戦争を知らない国民のため日中歴史認識」を公開しています。安倍政権下、平成22年(2010)1月に「日中歴史共同研究」第一期報告書」が発表された。この報告書に基づいて日本の左翼学者、都留文科大学教授、1999年より南京大学虐殺研究センター客員教授、笠原十九司が書いた本です。本のタイトルは長たらしく、正式には「戦争を知らない国民のための日中歴史認識」(日中歴史共同研究<近現代史>を読む)。勉誠出版が、平成22年(2010)12月31日に出版。
何故私がこの本を読んだのかと言えば、大作だから「南京大虐殺」事件を否定する日本側研究者の論文に対する反論が書かれていると思ったからです。ところが実際何も書かれていなかった。
いいですか、読者の皆さん、日本国内には亜細亜大学教授の東中野修道氏を初め、田中正明、鈴木明、冨沢繁信、阿羅健一、北村稔諸氏など南京事件研究者として有名です。ところが、文科省が日中歴史共同研究のために選んだ代表者、北岡伸一氏およびその他の8学者、日本歴史学会、日教組等など、その他私が主張する大バカ者の集まりである保守知識人の団体、すなわち育鵬社、日本教育再生機構、日本会議などは、上記の南京事件学者の論文など歯牙にもかけず、一切無視なのだ。このため日本政府、日本歴史学会、朝日新聞含む多くの左翼メディア、左翼学者、また育鵬社、日本教育再生機構、日本会議等の保守陣営などが認めた「日中共同研究」を日本保守言論界一致して反論もできなかった。

ところが、平成27年(2012)月刊誌「WiLL」5月では、以下の四氏、西尾幹二(つくる会、初代会長)、福地惇(つくる会、副会長)、福井雄三(東京国際大学教授)、柏原竜一(情報史研究家)が『虐殺を認めた「日中共同研究」徹底批判』のタイトルのもとに17頁にわたって徹底的な対談批判を行っています。育鵬社、日本教育再生機構、日本会議などはこんな記事はかけません。「つくる会」がいかに正常な歴史教科書を出版しているかの証明です。「つくる会」が分裂して育鵬社が誕生した時、育鵬社側が歴史教科書出版前の段階で「南京虐殺事件はあった」と公言したにもかかわらず、「つくる会」の会員でないが、多くの支援者達が育鵬社側に参加していきました。なぜだと思いますか。現在保守活動を続けている人たちの多くは定年退職者です。一般的に言って日本の定年退職者は個性がない。すなわち自分自身はどう考えているのかという、すなわち自分自身の確たる考えがない。ところが育鵬社が誕生すると、日本教育再生機構、日本会議、教科書改善の会には有名知識人がぞろぞろいる。そのため多くの保守の人たちが育鵬社支持者になったのだ。その結果日中両国で始めていた日中歴史共同研究では、「日本側は虐殺死の被害者数はわからないが、南京虐殺事件はあった」と無意識のうちに認めたのだ。これはあくまでも日本政府最大の失敗作、でも日本の全保守勢力が一体となって、「南京虐殺事件はなかった」、「数々の南京虐殺否定者の論文の学術的価値を多数決をもとに一切無視してもよいのか」と声をあげれば、多少とも風向きが変わったかもしれないのだ。私は何を言いたいのかといえば、現在60歳以上の定年退職者の数は非常に多いい。人生百年を迎え、これから定年退職者数は益々増える。それだけ選挙投票数が多くなる。定年退職者が知識人の意見に左右されず、日本国家のために何が良いのかを自分自身で判断するようになれば、昔のように民度の高い日本民族にもどれるのだ。そうすれば「南京虐殺事件は、中国人の犠牲者数は、わからないが虐殺事件は日本が起こした」などとは絶対に言いません。我々定年退職者は、現在の若者と違って民度の高い民族なのだ。昔貧乏でも、食料不足でも児童虐待や虐待死はなかったし、子供の自殺者などが出なかった、また「ずる休み」はあったけど、「不登校」などと言う言葉もなかった昔の健全な社会を日本に引き戻しましょう。定年退職者よ、これからももっと頑張りましょう。






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なぜ「現行憲法」は今だに存在しているのか?

なぜ「現行憲法」は未だに存在しているのか?
現在の憲法は昭和21年(1946年)11月3日に交付され、昭和22年(1947)5月3日に施行されて以来現在、平成31年(2019)にいたっている。この憲法は、GHQのマッカーサー元帥の命令によって僅か一週間で作成された英文の民政局草案を骨子としたものです。要するにこの憲法は、差別憲法で非合法に非民主的に制定されたのだ。憲法も変われば民法も変わる。民法というのは、一民族の何百年間の伝統ですから、そんなものを外国の軍人が変えてはいけない。それを平気でやるのは、マッカーサーは有色人種はそうしてもいいと思っていたからだ。ところがこの憲法を無効にし、日本独自の真に独立した国家の日本新憲法を制定しようとする動きが国会で論議されたことはありません。それどころか昨年は安倍内閣の小手先の憲法改正の動きが保守陣営の中で大きな喜びの話題になった。 
ところでこの現行憲法についてあまり良くわからない読者には、次の三冊を読むことをお勧めします。「日本国憲法」・「新皇室典範」無効論」(106頁)、小山常実、自由社、もう二冊は「日本人を狂わせた洗脳工作」(82頁)、「いまなお蔓延(はびこ)るWGIPの嘘」(112頁)、関野通夫、自由社。
三冊とも頁数を見れば少ない、それだけに余計なことは書かずに、分かりやすく書かれています。昨年から安倍内閣の憲法改正問題が話題になりましたが、その話題は今後もつづきますのでぜひこの参冊をお読みください。安倍内閣の改正の何が問題なのかすぐに分かるでしょう。ちなみに著者の小山氏は「つくる会」の理事であり、関野氏は「つくる会」の会員です。
昨年は安倍総理の憲法改正の動きには保守陣営諸手をあげて賛成のような勢いでした。この憲法を改正したら、この屈辱的な憲法を改めて再認識して認めたことになる。とんでもない話になるので私は、大反対でした。その大反対の理由をいくつかあげましょう。その前に私の経歴から話させてください。経歴で培われた私の信念が安倍内閣の小手先憲法改正に大反対だからです。昭和29年春、この年から日本全国、地方の中学卒業生を大都市の企業に就職させようとしていわゆる「就職列車」を運行した。以来20年間毎年春にはこの就職列車で全国の地方の中卒生が就職目的のため大都会に呼び寄せられた。このため現在80歳から60歳までの人には圧倒的に最終学歴中卒の人が多いい。私はこの昭和29年に公立高校を受験し、不合格なら就職と決めていた。ところが高校に合格し入学した。
極貧なためアルバイト等で大学に進めず、私が23、4歳のころアメリカの船会社に入社、以来61歳で定年になるまで、日本に所在する外資系会社5社(アメリカ系3社、オーストラリア系とドイツ系)を渡りあるいて定年です。61歳で定年後一切仕事せず、執筆生活です。自書を10冊出版しています。贅沢はできないが、普通に自活しています。まあ、まあ、めぐまれた定年生活です。サラリーマン生活、誰にも運、不運がいりまじります。それでも外資系5社渡り歩いてきた私にも40年間に私には一貫した考えがありそれを実行してきたからだと自負がある。皆さん、なんだと思いますか。
それは、「何事も論理的の考え、論理的に行動すること。」
またこのことは、実は一番外国人に通用することなのです。かって私と衝突したことがある外人ボスがいた。彼は言った。「鈴木、俺は鈴木をいつでも好きな時に首にできる権限を持っているのだ。」と平然と私に向かって言った。
私は平然と答えた。「首にするなら首にしてくれ。しかし私はすぐに反論を書いて、私の同調者の数名のサインを取り付けてあなたの上司に送りつけます。」その夜は家に帰ったら、すぐに反論の手紙の原稿を書いていた。勿論論理的反論と論理的主張一点張りの原稿です。手紙も書くのに時間かかって数日遅れるとタイミングを逸するからです。首を宣告されたら即郵送するつもりでいた。英会話で仕事していても、いざすぐに英語で何と言っていいか分からない時には、ブロークンな英語が通じる時がある。しかし英文の手紙を書く時ブロ-クンの英語は使えません。高卒英語しか勉強していない私は、独学で特に書く英語を勉強した。こうして在職中私は論理的に考え、論理的に行動することに専念した。
そのうちに日本国民の最大の欠陥は、法的マインドが乏しいこと、すなわち論理的に判断し、論理的な行動をとることを苦手としていることが分かってきた。日本国民の法的マインドのなさを表す典型的な例を二つ紹介しましょう。
一. 振り込め詐欺
皆さんは、オレオレ詐欺と言う言葉を知っているでしょう。ちょっと前流行っていた言葉だからです。しかしオレオレ詐欺も複雑化して、いまでは「なりすまし詐欺」、「架空請求詐欺」、「融資保証詐欺」、「還付金詐欺」、この四つ詐欺を総称して2004年12月9日、警察庁は「振り込め詐欺」と総称した。以後オレオレ詐欺とはいわなくなり、「振り込め詐欺」と一般化した。私は毎日午後7時頃夕飯をとる。そのためテレビを夕方6時ごろつける。NHKテレビの夕方6時半頃、テレビ画面には、「ストップ詐欺被害、私はだまされない」のタイトルが現れ、「だまされない劇場」が始まる。「だまされない劇場」と言っても一人の女性アナウアンサーが最近あった詐欺被害の実態を詳しく話をし、最後に一言警告を発するのだ、例えば、「警察官を名乗る人物が訪ねてきてもだまされない」とか言って番組は終わるのだ。毎日違う詐欺被害を月曜から金曜日まで、時には各地で行われる振り込め詐欺防止教育の実態の模様など、去年は丸一年間放送続けていました。今年も1月7日から同じ番組を始めています。詐欺の被害にあった人たちには同じ特徴がある。孫のふりをした、あるいは知人の振りをした偽者たちが指定したお金を取りにくると、だまされた人たちは完全に信じて、何百万、何千万の現金、あるいはキャッシュカードなどを与えてしまうのだ。人生何十年と過ごした人が、人生でまだ一度も会ったこともない人間に何百万、何千万も与えてしまうのだ。私に言わせれば大バカ者です。数年前ミステリー作家、石井龍雄氏の紹介で語り合ったある弁護士がいる。彼はあるテレビ局の番組、確か「法律相談」で有名になったが彼が言うには、日本人は皆契約書のサインなど後でどうにでもなると思って皆サインしますよと言っていました。一般の日本人はいつも法的に無防備なのではないでしょうか。ちなみに平成30年の振り込み詐欺の総額は、1月から10月までの総被害額の暫定値、合計286.2億円です。

二. 談合
現在、日本では独占禁止法で禁止されている談合が今でも平然と行われているのには驚きのいたりである。今から4、50年前、私が30、40代の時、私はアメリカの一流会社でニューヨークの株式市場に上場しているFlour Engineering & Constructing (フルーア建設会社)の東京支店で働いていた。当時1ドル360円の固定相場制で日本の産業機械設備は大変な輸出力があった。フルーアはアメリカ国内のプラント建設を手掛けていたが同時にアメリカ国内ばかりでなく国外のプラント建設も手掛けていた。このためフルーア東京事務所は、本社の海外プラント建設に必要な資材、機械、設備をプラント建設地に送る調達事務所であった。フルーア東京事務所の調達額は、毎年何百億円に達していた。そのため山九のような輸送会社や日本検査のような検査会社などが出向社員をフルーア東京事務所に常駐させていた。私はこのフルーアに18年間務めたがその間フルーアが本場のアメリカで、またフルーア東京事務所が日本国内で談合などしたことはありません。例えば、サウディアラビアのアラムコがサウデイアラビアの砂漠に年産50万トンの石油精錬プラントを建設する場合、アラムコは世界中のプラント建設会社に国際入札をかけます。そこえフルーアが入札参加する場合、フルーアの建値は、いつもCost plus Fee (コストプラスフィー)方式の建値です。
この意味は、プラント建設に掛った費用は全部請求します、その他の費用としてわが社の手数料を請求します。
一方当時の日本の建設会社の建値は、Cost Plus Fee 方式の方がいいのだが、談合方式にし
かなれていないからコストプラスフィー方式が出せない。そして出すのは毎回、プラント建
設にかかる費用一括して、例えば500万ドル(手数料込みの建設費)の値段を出すのだ。
これを称して一括払い、すなわちランプサム ペイメント(Lump―Sum Payment)。
何故日本の建設会社がCost Plus Fee方式の値段が出せないかというと、そのためには大変な経験がいるのです。サウディアラビアのアラムの石油精錬プラント建設のプロジェクトをフルーアの本社が受注したとすると、即にプロジェクトNo.例えば5551などの4桁の数字が決められ、フルーアの世界中のオフイスで使用されます。すぐにフルーア本社では、プラント建設に必要な機材の引き合いを作る。個々に独立した沢山の引き合いを作る、例えばプラント建設に必要なボルト&ナットまで、それぞれサイズと量を明記した引き合い、あるいは熱交換器(heat exchanger)の能力、サイズごとの引き合い、あるいは電線のサイズと長さごとの引き合い、ありとあらゆる必要な、建設資材、機器の引き合い書が作られ、ヨーロッパ、アメリカ、日本に送られる。欧米、日本から見積もりに参加する業者は、一つの見積もり依頼に対して平均10社ぐらいが応札し、見積金額が高い引き合いに対して15、6社ぐらいが参加します。日本に送られる引き合い書類は、全部東京オフィスに送られる。東京オフィスでは、絶対に渡してはならない会社がある。それは日本の商社です。商社を通しても通さなくても値段が変わらないと言っても引き合いが商社にわたることはない。すべての引き合いには、それぞれアメリカ本国での入札締め切り日が書いてある。締め切りの翌日なると一斉にアメリカで見積書を開封し、見積もり評価が始まります。見積もり評価が日本製のものが安いとなれば我々東京事務所の購買の人間がその製品を注文し、品質検査後船積みまで面倒をみることになる。
建設に掛った費用は全部顧客に請求するので見積もり評価の結果は、全部顧客に送られます。購入必要な機材の見積もり依頼の引き合いと見積書を取り、注文先を決め、船済み前に検査し、船積みをするのが調達の仕事だけではなかった。調達で働く社員は、アメリカ人スタッフも日本人スタッフも全員に毎週「ワークシート」というカードが渡されている。それには月曜から金曜日まで日付が横に順番に印刷され、縦にはプロジェクトナンバーが印刷される。例えばアラムコの精錬プラント、すなわち5551が印刷されている。そのほか現在ワーク中のプロジェクトナンバー縦にずらっと並べてある。私のワークシートのケースを並べれば月曜日アラムコの精錬プラント5551の仕事を月曜日3時間仕事したとすると5551の欄に3と記入し、他のプロジェクトNo.2321を2時間。他のプロジェクトNo.1222を3時間記入すると一日の労働時間8時間働いたことになる。月曜日から金曜日まで合計時間40時間になる。合計時間が44時間になると何曜日に何時間の残業をしたかそのプロジェクトNo.がわかります。一週間ごとに各自サインして会社に提出する。会社は日本人の一時間あたりの平均コストを知っているから、プラント建設にかかった費用いくらと計算されて顧客に請求する。建設に掛った費用は人件費だけでない。オフィスワークとして調達スタッフは、書類のコピーをとります。コピー室にはボード板がありそのボード版に日付とプロジェクトNo.を書き込み、コピーの枚数を書き込むことになっています。テレックスオペレイターは、原稿にはすべてプロジェクトNo.書き込まれるからテレックス費用がすべてわかります。郵便費用は、郵便ごとにプロジェクトNo.がわかりますから、まとめられます。取引先の業者が、我が事務所にやってきます。タイピストはコーヒーやお茶をだします。プロジェクトNo.と日付とコーヒーやお茶の杯数が書き込まれます。こういう費用までプラント建設にかかった費用として顧客に請求するのです。だから日本の建設会社は、国際入札のプロジェクトにはこのコストプラスフィー方式の値段を出したくてしょうがなかった。一括していくら のLumpsum Priceでは不安でしょうがなかった。プラント建設完了までには年数がかかる。ひょっとするとプラント建設完了まで世界の経済状態が激変したり、労賃の賃上げあったりすると、一括払い方式(lump-sum payment)では不安なのだ。やがて日本の建設会社も国際入札ではcost plus fee方式の値段が出せるようになった。国内ビジネスでもcost plus fee方式の値段が出るようになればいわゆる「談合」はなくなるはずだ。しかし談合はなくならない。私は今80歳だが、私がフルーアを止めて32年になるいまだ談合が続いているのだ。最近では「リニア談合」は有名だ。

最初にのべた「振り込め詐欺」は、詐欺師はいかに詐欺でないかとばれれないうように注意をする。しかし談合は建設業に勤める者ならば、会社は談合をやっていると担当者は誰もが知っているのだ。知っていて平然と談合に参加するのだ。私はアメリカの建設会社に18年間務めたから、定年後無意識のうちに、定年社員に談合について話会うが、誰も談合を非難した人はいません、皆礼賛さえしてします。いや社員や経営者だけを責めてはだめです。労働組合幹部の責任を問うべきだとも思います。日本国民も談合と聞けば、またかと言って腐れ縁のように感じて、談合業者を責めようとしないなのだ。
このように国民には法意識が薄いから日本憲法に無関心、また学者や左翼知識人は、戦後、戦前の日本は何が何でも悪い国にしておきたい人がまだまだまだ沢山生きているのだ。戦後のある憲法学者は、現在の憲法は、日本の革命でできたものとさえ公言した学者さえいるのだ。

三. 戦後日本には強力な政治家が現れなかった。
日本のビジネス界では、世界的な人物、松下、井深、本田、など沢山いるのだが、しかし政治の世界では誰も世界的な人物は現れなかった。GHQに占領されていたせいもあるのでしょう。田中角栄がもっと生きて活躍していたら、ひょっとして新憲法制定にとりくんでくれたかもしれないと思っています。角栄はアメリカの検察と日本の検察との共謀で殺されたようなもの。金権政治家と非難する人もいたが、どん底から這い上がって政治家になれば、金がなければどうしようもない。いかに金をうまく使うかが重要なのだ。
ところが石原慎太郎氏、私より6歳上だが、彼の国会議員時代、金権政治、角栄に猛烈に反発した。一方私は育ちが彼と似てどん底育ちだから角栄支持派だった。石原は一ツ橋大学時代に「太陽の季節」を書き芥川賞をとった。即ち若い時優雅に温室育ちだったから、角栄の人間性を見ることができなかったのだ。それで反角栄になったのだ。それがなんと石原84歳の2016年になったとき、角栄を超礼賛する「天才」という角栄の伝記小説を書きベストセラーになっている。
昨年は安倍総理は、小手先の憲法改正を唱え、圧倒的に非常に多くの保守人が安倍改憲論の支持者になった。安倍氏は岸元首相の孫です。現在では元政治家の家系育ちの議員が150人もいると言われている。私にはもう一つ言いたいことがある。私の世代では中卒で就職列車に乗って都会に働き出てきたサラリーマン、あるいは私みたいに高卒でサラリーマンになった人、この人たちはいわゆる下層階級の人たちです。上流階級の人たちは一流大学出て一流会社に就職した人たちです。この人たちは、大学生の時、共産主義に肩入れし、反米闘争を起こし、いわゆる有名でありと同時に悪名高い「大学紛争」を起こした。温室に育ったお坊ちゃま、お嬢さま大学生がインテリぶって大学騒動を起こし、国会周辺に大騒動を起こし、脱個性集団のかたまりみたいだった。
彼らが大学卒業ごろ、私も同じ年代で外資系で働いていた。そのころ一流大学出の人たちは、新卒では外資系で働こうとも思わなかった。外資系が不安だったのでしょう。一流大学出、一流会社勤続の名誉が欲しかったのだ。私より4,5歳若い小椋佳氏は、東大卒、日本勧業銀行のサラリーマをンです。銀行勤続中に演歌の作曲が趣味の段階を超え、ヒット曲を沢山だした。最近テレビ局で、「私の時代はまるで政府が、脱個性の性格をもったサラリーマンを非常にたくさん作っているみたいだった。」と言って当時のサラリーマンの脱個性ぶりを嘆いていた。彼とすれば、自分は銀行の仕事をさぼることなく、演歌の作曲をしていたのだから、副業を大っぴらに許してもらってもいいと考えていたのでしょう。安倍氏の憲法小手先改革にあれほどの保守層の支持を集めたとき、その支持者のあまりの脱個性ぶりにびっくりしたものです。
私が安倍氏支持一本で固まっていた時は、彼が一介の議員で積極的に公に「つくる会」を支持してくれていた時代です。「つくる会」が「つくる会」と「育鵬社」と分裂したとき、安倍氏は育鵬社の八木秀次氏を支持したのだ。安倍氏も若い時温室育ちだから、八木氏の人間性を見ることができなかったのだ。八木氏は八木氏で、自分が安倍氏と懇親の間柄だと大っぴらに吹聴していたのだ。八木氏が「つくる会」の会長の時、何をしたのか、私の拙著、「保守知識人を断罪す」(「つくる会」苦闘の歴史)、総和社、1500円+税」をぜひ読んで見てください。八木氏は、実にえげつない事をしていたのだ。安倍氏は、この八木氏を「つくる会」より信用したのです。
いずれにしても、安倍総理の小手先憲法ではダメ。公明党も参加しません。自民党は公明党が捨て去ることをしなければだめです。いずれにしても現在の政治家には、日本の新憲法制定は無理。半面新憲法制定時期は、意外に早くやってくるかもしれない。皆さん、平成30年12月13日の産経新聞の論文、西尾幹二氏の『「移民国家宣言」に唖然とする』をよく読んで下さい。
まだ読んでない人は、西尾幹二インターネット日録(https://ssl.nishiokanji.jp/blog平成30年12月16日)を読んでください。安倍内閣は、移民受け入れの詳細な条件を決めずに移民受け入れ態勢だけを決めてしまったのだ。いずれ違う国家の移民同士の争い、日本人と移民の争いなど国内治安維持の問題などが起きます。戦前戦後になかった問題です、これでは新憲法作成しなきゃだめだと日本政治家が立ち上がるのではないかと私は考えていますが、皆さんはどう思いますか。









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保守知識人の三くず

保守知識人の三人のくずとは、三島由紀夫氏、江藤淳氏、西部邁氏の三人の事である。三人の共通点は、三人とも生存中は偉そうなことを言ったり、書いたりしていたが、自殺しているのである。三島由紀夫は昭和45年(1970)11月25日、自衛隊のバルコニーから自衛隊員に憲法改正のための決起(クーデター)を呼びかけたが、誰一人応じようとせず、そのため三島は自ら割腹自殺をした。享年45歳。男の人生の花盛りのとき、自殺しているのだ。後年老年になったら自ら自殺をするとは思わなかった江藤淳は、「自衛隊ごっこ」の遊びと三島を批判していた。
江藤淳は、平成11年(1999)7月21日、手首自傷、享年66歳。妻を病気で失い(平成10年12月)、彼自身も軽い脳梗塞を起こしている。遺言に「心身の不自由に進み、病苦に耐えがたし。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭い以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処刑して形骸を断ずる所似なり、乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」妻の病死のおよそ半年後の自殺です。江藤には子供はいなかった。
西部邁は、平成30年(2018)1月20日、玉川入水自殺。享年78歳。妻は平成26年(2014)に病死。上記二人との自殺の違いは、西部の二人の信奉者、現役のサラリーマンが自殺幇助罪で警察に捕まり、二人とも懲役2年、執行猶予3年の有罪になったことです。普段自殺するなどと偉そうなことを言いながら、また偉そうなこと書きながら、結局は彼の信奉者に自殺の手伝いをさせていることだ。世間ではこの三人の自殺者に非難の目が向けられないが、もっと非難の目を向けるべきではないのか。現在世間では子供がいじめにあって自殺すると、親はそのいじめを批判し、いじめ生む社会を批判するが、親がもっと強い子に育てるべきだったと自省する親はほとんどいない。現在は子供が少ないから不埒な子供でも勘当すらできない。私は三人の子供がいて、三人とも女房に預けて離婚したが、離婚したあとも子供たちには、「人生は戦いだ」を小学生の時から言い続けてきた。離婚後子供たちと顔を合わせることができないが、その代わり息子と姉妹に毎月一回2通の手紙を20歳になるまで書き続けた。そのせいか、今では三人とも堂々たる社会人です。
左翼の知識人には、自殺などする人は少ない。自分が苦労すると、資本主義が悪いとか社会が悪いとかなどと全部他人のせいにするから自殺などしない。三島由紀夫の自殺などは、根が有名な小説家で脚本家だけに、自分の自殺を自作自演の脚本通りに演じてみせたものだ。
人間社会の中で何が一番不幸でつらい事ですかと問えば、皆さん何と答えますか?一番不幸でつらいことは、長年の貧乏を続け、長年の大病を患うことです。私の両親は長年の貧乏と長年の大病のうちに死んでいった。しかしその間早く死にたいとは一言も言わなかった。
私の両親の生き抜こうとする生命力と上記三人の保守知識人の生命力とは段違いの差があるのだ。まず父親の話から始めよう。

父親は大学卒業後日本鋼管に入社した。入社後数年で肺結核になった。そのため軍隊にとられずにすんだ。戦争中は満足な治療は受けられず、病状は悪化するばかりだった。敗戦後に強制的に入院させられ、片肺を切除され、およそ5年かかって、本社に社会復帰した。それから5年ほどして今度は腎臓結核にかかり、一つの腎臓の手術削除を進められた。父親のショックは大きかった。現代医学を一切拒否するメシヤ教に入信して、飲み薬から一切の医学的治療を拒否。病状は悪化するが、悪化は快方の一歩手前と解釈されていた。母は父を騙して病院に連れてゆき、腐った一つの腎臓を削除した。残り一つ腎臓は、腎臓機能100%完全でなく、その7割から8割の機能を薬を飲み続けて長生きさせる方法をとった。これで会社に復帰するのにこれも5年ほどかかった。入院中に日本鋼管から下請けの会社に転勤させられていた。出張には出張カバンに尿瓶を入れていた。55歳で定年の時、役付きなしの平サラリーマンだった。定年後父は、コネも仕事の紹介もなく東京海上の保険を売り始めていた。個人販売です。年寄の男で金のない男はつらい、さびしいものだ。ある正月の三日、父親がなかなか起きてこない、おかしいと思って私が起こしに行くと、「トイレに行きたい」というので抱きかかえてトイレに入ると、がっくりと父は首を前に落としていた。何度ゆさぶってもだめだった。脳梗塞で死んでいた。享年78歳だった。
葬儀の時、東京海上の人が、「お父さんは、新しいタイプの保険証券売り出しの時の勉強ぶりは大したものだった。」とほめた。父が死の直前までぼけなかったのはそのためもあったのでしょう。定年後歳をとり、稼ぎも雀の涙ほど、それでも音を挙げず最後まで頑張ろうとする父には頭の下がる思いです。
母は52,3歳まで元気で父の長年の病弱状態をカバーしてきたが、50代半ばに入って体にガタが来た。まず胃がんになり胃の三分の一を切除した。回復したが直ぐ咽頭がんになった。誰でも声帯が二つあるのだが、治療のため声帯を一つ取り除いた。そのため母の地声が半分になり小さな声になってしまった。咽頭がんが回復したら、今度は大腸がんになった。
手術で肛門を切除したので人口肛門を横腹の下に取り付けた。当時日本製の人工肛門が無く、値段が高かった。春になって外が暖かくなると、貧乏性の母は、外庭の水道水で人工肛門を洗い、乾かして使っていた。人工肛門をつけて一人で外出できるようになると、今度は小腸がんになった。当時一人で三つも四つも癌になるのを多重癌と呼んでいた。母は多重癌を患ったのだ。すでに三つの大手術を経験し、癌特有の痛みも加わり、小腸癌の時には体力を消耗してしまっていた。小腸癌の手術を受けずに死んでしまった。享年71歳の若さだった。

私の両親は、年をとっても最後の最後まで、早く死にたいとは子供の前では弱音をはかずに死んでいったのだ。だから老人でも自殺する人はきらいだ。まして有名知識人みたいに人にお説教したり、書いたりする人が自殺するのは、人の生き方としては最低の最低と私は決めつけています。日本では、自殺は公のためでしか許されません。公のためとは、例えば、「城を枕にして討ち死に」とか「特攻隊の死」とかそういった人たちたちの死です。

今年ものこり数日、えんだんじのブログのご愛読ありがとうございました。来年からひと月二回のブログを月一回にするつもりです。題材は日本国家についての焦点を絞ったブログにしようと思っています。そうすると年間12回のブログを書く事になります。翌年それをまとめて本にしようと思っています。それでは皆さま、良いお年をお迎えください。
 

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日本帝国海外旅券、大正5年4月22日

日本帝国海外旅券、大正5年4月22日      平成30年12月8日  
渡韓紀行を書いた明治40年3月以降から8年後の大正5年に私の祖父、鈴木正忠と妻子合わせて4人には、ソ連領の浦塩斯徳(ウラジオストク)への海外旅券が発行されています。「渡韓紀行」の前編に祖父は、ウラジオストクに近い咸鏡北道鏡城支部への辞令を受けたと書いていますので、すくなくともそこでの祖父の仕事ぶりは良かったのでしょう。大正5年4月22日にウラジオストク向けの海外旅券をもらっています。今時大正時代の海外旅券を見るのはめずらしいので、その詳細を書きます。現在のサイズでA4サイズより少し小さめの4頁からなる書類です。

海外旅券の一面:
券旅外海国帝本日   
旅券番号:第参壱〇七参弐號
新潟県岩舟郡村上本庁二十番地
〇〇 鈴木正忠 四十六年
 妻   テイ 三十三年
長男   正貞   四年
次男   忠貞   三年
右ハ師団〇〇〇〇為露領浦塩斯徳(ロシア領ウラジオストクーえんだんじ挿入)へ赴クニ付通路故障ナク旅行セシメ且必要の保護扶助ヲ與ヘラレン事ヲ其筋ノ諸官ニ希望ス
大正五年四月二十二日
日本帝国外務大臣 従三位勲一等男爵 石井菊次郎

えんだんじのコメント
1.明治時代の新聞は縦書きですがたまに広告などで、日本語横書きの場合、現在のように左書きで始まるのではなく、右書きになっています。左書きに統一されたのは戦後からのことでしょうか。どなたか教えてください。
2.〇一つは漢字一つがくずし字のため、あるいは薄すぎて、あるいは当用漢字でないため読むことができない漢字、一字に対して〇一つを与えました。皆さん、どんな字が当てはまるか推量してみてください。
3.住所は現在住んで居る所より本籍地が使われています。当時鈴木家の住所は神奈川県川崎市ですが、本籍地が使われています。私が20代までこの本籍地を使用していましたが、その後本籍地を藤沢市に変えました。

海外旅券の二面(一面の裏):
                證 明
本旅券携帯者ハ年齢、旅行の目的、行先地共ニ旅券面記載ノ通ナルヲ申立テ右事実ニ相違ナク又日本臣民ナルコトヲ證明ス。大正5年四月二十二日
咸鏡北道警務部長○○○○

海外旅券の三面:
三面上半分はロシア語が印刷されたロシア語のハンコが押され、ロシア人のサインもある。ロシア人が書いたロシア語の短い文章もあります。三面下半分は祖父母夫妻の写真がはってあります。祖父母の間にはテーブルルクロスのかかった細長いテイブルがあり、その上に小さな花かごがあり、その中に沢山の小さな花が植えられています。そのテーブルを挟んで左側に和服を着た祖母が椅子に座り、右側に和服を着て、ソフト帽を被った祖父が立っている全身写真が貼ってあります。

海外旅券の四面(三面の裏):
左端に(文譯)と書いて下記の漢字がひとつずつ縦に並んでいます。
任○旅行無阻如有緊要事即請沿途各官如意照料善為保佑○
四面の真ん中にはTRANSLATIONの下には、
IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT
PASSPORT NO.310732 Masatada Susuki 46 Years old
Tei   Susuki 33 “ ”
          Masasada Susuki 4 “ “
Tadasada Susuki 3 “ “
The competent Authorities and all whom it may concern are requested to allow the above
Named person proceeding to Vladivostok to pass keenly and without hindrance and to give said person such protection and assistance as may be required. The 22day of the 4month of the 5 year of Taisho(1916)
Baron K. Ishii
               The Imperial Japanese Majesty’s
Minister of State for Foreign Affairs

Signature of the Bearer_________________________________________

四面の下半分は、ロシア語でTRADUCTIONの下に
Le Gouvernement Imperial Du Japon Passeport NO.310732 その下にロシア語の短文が書かれ、その上にロシア語の印が押されています。
以上がパスポートの説明です。

えんだんじのコメント
私がパスポートの発行月日を見たとき、すなわち大正5年4月22日は私の母の誕生日が大正5年であったはずです。母の誕生日を確認するために、私は母の除籍証明書を藤沢市役所からとり寄せた。除籍証明書にはこう書いてあった。「大正5年9月10日横須賀市で出生同月13日父届け出入籍」。これでは祖父母はウラジオストクに2,3カ月しか滞在してないことになる。その後祖母は、次々と私の母の妹二人を生んでいるので、少なくとも妻子を連れてウラジオストクに滞在することは無理だと思います。それとも祖父は単身赴任したのかどうかはわかりません。いずれにしても海外旅券の発行日が大正5年4月22日であることは、私の祖父母がウラジオストクを訪問した時期がウラジオストクの日本人街が隆盛を極める寸前だったことです。二人が訪問した翌年の1907年には日本の領事館が開設され、翌々年の1909年にはウラジオストクは日本の総領事館に格上げされた。1917年には日本語による新聞、「浦潮新聞」が発行され、1918年には横浜正金銀行の浦塩支店が開設された。特に1918年4月には日英陸戦隊がウラジオストクに上陸、同年7月アメリカ、チェコ軍救援のためウラジオストクに日米共同出兵を提案、日本は同意した。そして同年8月2日ついに日本政府、日本軍のシベリア出兵を宣言。1920年頃(大正9-10年頃)日本の人口6000人ぐらいになった。それを境にしてウラジオストクの日本人街は少しずつ落ち目になっていた。
越後、村上藩の下級武士の一族だった、我が祖父、鈴木正忠は戊辰戦争終結時二歳の幼児だった。その後若い時東京に出て神奈川県警の警察官になり、それなりの活躍をして一生を終えたことを私は鈴木家の誇りとしています。
これで「渡韓紀行」関連のブログは終わりとします。








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「渡韓紀行」(後編)、明治40年作

後編引用開始
「翌18日午後出航につき旅館を出て波止場に行くと我々を迎える満乗丸に乗り本船に移る。この時の同船者は咸興支部勤務の15名、鏡城支部の14名と韓人9名、その他邦人夫婦の一行計45名である。乗客を乗せた船は満歳丸といいながら満歳ではない。トン数25トン足らず、速力8ノット出る程度の木造の老朽船で船室は猛烈に不潔である。船室は横になって天井を見ると蜘蛛の巣が幾重にも掛かっていて埃がたまっている。目をあけていられない。ねずみ属は悲鳴を挙げながら室内を駆けずり回りするので睡眠がとれず情けないばかりか猛烈な寒さで泣きたい。この夜安眠できたものはいない。翌午前1時船は進んでいるが一進一退進むごとに風は益々はげしくなり波もますます高くなり船体の動揺は甚だしい。船が蔚山(うるさん)沖を通過する頃船体の揺れは激しく左に傾き右に移り七転八倒しその上、天に飛ばされたような、さらには奈落の底に沈んだような勢いで、海水が甲板に流れる。海水は甲板から流れて室内に入り込んで凍る。一行の過半数の者が病気に罹ったようにうめき声を上げる。夜が明けて全員が茫然自失していたとき、女客が抱いていた幼児が悲鳴を上げてお乳を欲しがり泣き叫ぶ。船に砕ける波に乗じて遠く響き渡る様に聞いてすさまじい。まさに例えようもない。
ここについて思うと私の命はお終いと思うと共に自然の驚異には驚いた、加えてじっと深く考えると死ぬ事は簡単で生きることは難しい、人一度死んだら二度と生まれてこない、そうすると死を待つことは愚かな事だ。佳いことは自分から進んで事を行い、方法を尽くして結果を得る事だ。
この状況から皆と相談の上船長には諮り船の航行を止めることにして3名の委員を選び(私も委員の一人になる)船長室に行ってから甲板に上がる。甲板一面に張り付いた氷をとる。風は相変わらず激しい。しかし歩行が困難なので船室に戻り各委員に告げると、各委員万事休すと言う。各自が腹を決めなければならない、それ以外手段がないとわかり呆然として声を出す者もいない。その時今度は突然船が当たり響き渡る。これを聞いた一同は南無阿弥陀仏の声を出す。船は航行をやめる。しばらくしてボーイが来て言う。
「波も風も激しくて航行困難にして、避難のためここに仮泊します」と。船客は続きざまの船の響きに船が砕けるのではないかと脅える。苦心惨憺としているこの時間は午後10時を指している。翌午前5時風波やや穏やかになり船も航行を始める。進行に先立ち船長が言うには「これから元山港に向かいますが、途中には適当に避難する場所もないので、風や波があっても我慢してください」と言う。この言葉に何か死の宣告を受けたように思えた。しかしながら幸いに次第に風波もおさまり一同しばらく安心する。ところが午後1時頃風が吹き出し、刻一刻波が高くなる。前日と様子が違う状況に後藤氏は元山港に着く間、船に酔ってしまい船室にはいったまま弐昼夜食事をとらず、励まそうにも猛烈な寒さには手がつけられなかった。

翌22日午前3時に目出度く元山港に入港したが誘導船がなかったので、夜が明けるのを待ち、その間上陸の用意を整え、迎えの船に便乗し波止場に着く。一同体力の消耗に加えて北韓の有名なアラシに遭遇し、5時間の自由を失って上陸したので足裏が痛く、メタルがついているような感じで「脚気患者」のように歩行する。なかには這いずって人に助けられている人もいる。やっと3、4丁先の大和旅館の休憩室に駆け込み暖をとる。直ちに女中に言いつけて酒の用意をさせ、元山名物の牛肉でお互い一献する。酔いが回ってこれまでの苦労が飛んでいったようで、万歳を唱える者もいる。笑っている者もいる。釜山、元山間は普通
は一昼夜の海路であるが、4昼夜も掛り困難であったので仕方ない。
翌23日故国に手紙を書き、途中いろいろな辛酸を舐め睡眠も食事も満足に取れない日々であったことを知らせる。しかし最も親愛している後藤氏とこれから別れなくてはならなくなる。そこで互いに盃を交わしてお互いの健康を祝し、励ましあった。離合は男子の常とは知りしも、決別は亦一倍の怒惨を極める。
同氏を見送ってから我々3名は市内を観光する。元山は釜山に及ばないが発展していて北韓第一の都会と言える。元山以北の物資は皆この市から行っているので商業の発展は驚くほど盛況がある。日本人の商家も多い。郵便局、新聞社、回漕店、高級旅館、日本人や韓国人向けの家屋賃貸屋、それに理容店もある。日本人家屋約千余戸、労働者は約一千人、韓人家屋は約三千人、支那商家は10余戸、市の中央には元山公園もある。そしてその中央には大神宮社があり、傍には我が皇太子殿下のご結婚を奉祝した碑がある。その市の西を見ると
眺望もよく、高い方には日本人の別荘がある。更に建設中の家屋も多く、その他種々の事業も振興している。港湾には大小の島々が点在し、波穏やかな中に見える帆は恰も神奈川県のの名勝たる逗子海岸を彷彿させる。
元山市の交通の便は、今は劣っていて発展の度合いは釜山に追いついていないが、今は東元鉄道施設の企画中ときいて、竣工の暁には、急速に進歩して釜山を凌ぐ都会になると思う。
一行は数日の静養をとって気持ちも新たに、健康も回復したので26日出航の小汽船慶宝丸で出発する。この日は風も波も穏やかでその上、当地の回漕店の特別の好意で乗船できたので不便もなく最も平穏に30日午前6時に鏡城を出てから半里の小港の清津に着く。その間の海路は直行すれば一昼夜で到着するが、貨物が多かったので日数を超えてしまった。それから韓人の船に乗り上陸したが船賃の支払いや、荷物の運搬のため牛車を雇い入れるのに言葉が通じない。手振りで説明しても話が通じない。筆談をしても韓人は無学なので更に理解できない。進退窮まってただ突っ立って左右をキョロキョロするばかり。何とかして日本人を探し求めて海浜で待つこと一時間あまりにして鏡城守備隊の巡視2名がきたので、これ幸いと兵士に事情を話し通訳を頼むと一人の兵士が何とかやっと通訳が出来たので、船賃を払い牛車を雇って午前10時に鏡城支部に行き、着任届を出して任所の辞令を受け出発の命令を待つ。
午前10時に召集を受け元警視庁の警視の訓辞を受けさらに旅費の概算払いを受ける。明日元旦で拝賀式を挙げるため、一同の休暇は許され翌2日に出発することになる。予定がわかったので急いで宿舎に帰り静養しようと我々一行に割り当てられている宿舎に行くと、空き室があるというだけで何も整っていない。隣の部屋に先着している者に聞くと「我々も到着前は鏡城に行って先ず一ヶ月間位は下宿して、その間に自炊の器具を買い求め、それから自炊生活を始めようと考えたところ、予想に反し当市は旅館や下宿屋はないとのことなので日常は困難します」とのこと。暫くしてからコンロ、鍋や釜を買い求め、ただ命だけ助かればいいと考える。我々も自炊することに決めて、橋詰氏はコンロ、小生は炭と米、野田は副食物の購買に各方面に行く。なんとか副食物と米は確保できたが、コンロは品切れとの報告で、それ一大事と全力で市中を必死に探しても、遂に探し出すことができず、相談の結果飲食店を探すことにする。当鏡城は守備隊司令部の所在地で韓人の店は7軒、日本人の店約10軒で北韓中では繁盛している場所といわれているが、日本人の飲食店はしるこ屋とウドン屋の外はない。しるこ屋に入って一時の空腹を満たす。
明けた元旦はこのしるこ屋に入り、新年の祝いを挙げようと3名は早朝寒気を衝いて急いでしるこ屋に行くと、門が閉まっていて本日休業の張り紙がしてある。これを見た我々はがっかりしてしまった。嗚呼、目出度い元旦は我らにとって最も悲しむべき元旦なるか、今日は断食になるのは仕方ないと悄然として宿舎に帰り、このことを隣の部屋にいる大阪府の内原部長に話すと同氏は私たちに同情して餅を焼いてくれて、そして牛の缶詰を開けて、その汁で雑煮を作り、味醂酒を2,3杯私たちに馳走してくれた。私は内原部長の好意に感謝してこの饗応を受け私の40年の元旦を祝した。これは終生忘れることができない記念の元旦である。
翌2日午前8時に橋詰氏と残念な別れの挨拶を交わし積雪を踏んで出発する。昨日の未明より降雪は厳しくて、一歩一歩あるくけれど雪は深くなり風亦強くなり鼻毛も凍り襟巻についた雪が凍る。手の指も足の指も自由を失い困難をした。このような空気は到底予想できない。従って半里か一理程度で民家に駆け込み暖をとりつつ鏡城を出て5里先の輪城に到着する。この地は守備隊兵員の外一人も内地人は居なく小村のため韓人経営の旅館にはいる。私は韓人の家屋に泊まり韓人の賄いをするのは、初めての事である。家屋の構造は内地の家と同様で、壁は牛糞で作られている。一方空気の出入りが悪い、そして部屋は狭いため不潔汚辱で話にならない。従ってゴミ捨て場を見てしまうと飲食物が一種異様な臭気を出して味噌汁のような糞の臭いがする。食器はだいたい銅器のものを使っている。洗浄は不十分で酸化している。そのため一面に青色が付いていて見ると嘔吐を催してしまう。到底これを口にするには勇気が必要だ。遂に私は途中買って持っていた朝鮮飴をミルクに溶いて呑んだ。私が感心したのは家屋の床にあるランドルで、窯に火をたき蒸気が床全体に通じて、恰もムロにはいったようで、毛布一枚もあれば充分安眠が摂れる装置で、この部屋も格別暖かい。
翌3日輪城を出て7里、富寧村に泊まる。当地は輪城村に同じに守備隊兵員の外内地人3名で韓家屋式180人あまりの小村である。当地は日露戦の際、北韓軍の激戦地で付近には “我忠勇将士を葬れる墳墓あり”との碑があり、さらに新たに英名でもはっきりと記されている。互いに戦場で散った両方の兵隊の碑である。
嗚呼、何時もめったに会えないので参ることが出来ない。そればかりか戦死した当時の事を思い出すと残念でならない。英霊に対し記帳して去った。
翌4日守備隊の軽便鉄道(トロッコ)を借りて6里20丁奥に入った宝山村に行き泊まる。この土地は山間の僻地で守備隊兵士のほか、内地人はいない。また韓人経営の宿もないので守備隊の兵舎に泊まる。
翌5日午前9時に軽便鉄道(トロッコ)で宝山村を去って次に会寧に午後2時に着く。富寧から会寧までの道程は12里、山また山で徒歩だと4日かかる。もしトロッコを使用すれば2日でこれる。幸いに会寧は韓国の中では鏡城と大体同じくらいの都会地なので日用品もおおむね揃っているので商業は盛んである。韓人人口は4200余人、日本人の商家は10数戸、西洋料理店もある。今後内地人は増える見込みがある。役所、郵便局、電信局、憲兵隊分駐所、第13防空司令部、工作大隊、その他に小料理屋もあり芸妓5,6名、売春婦30余名もいて市内は大いに繁盛している。又当地は軍備上では韓国の枢要の場所なので東西南北の各門には速射砲5門を備えていて警備は厳しく、戦時中のように思える。
去る明治37,8年の日露戦争の際、露兵が富寧の戦いで敗れ、予定通り退却して豆満江を渡って陣地を築いて後方の兵士を集めて、我国の韓軍を撃退しようとした時、我が韓軍は大軍で一挙に露兵を撃滅せんものと豆満江超えて互いに戦闘を開こうとしたとき、休戦の命令が下りここで戦いが出来なかった場所であり、最も記念すべき土地である。
この地において、我々一行は久しぶりに日本食を味わい、酒を交わした。翌6日徒歩で〇寧(5里)に泊まりその翌日7日午後6時に鍾城に到着する(8里)。当鍾城は西豆満江を隔てて支那吉林省にたいし北は8里余りで露境に接し、東方は18里にして日本海の達する。
(鍾城群豊海という処この海岸からは露国の港も見える)そのような土地で全市は土の城壁に囲まれ東西南北に4門の速射砲が備えられている。中央には三層の楼閣があり、その傍らに武器庫があって数百年前の兵器を数百種類も保存してあり、聞くところによると当地に昔鎮守隊の所在地で隆盛を極めていた処であった。本市の総戸数は450で、人口4900で皆農業に従事している。商店二十戸、(韓人は日用品のみ販売)で会寧以北の都と言われているが、日本人は守備隊兵員25名、それに郵便局員守備隊3名それに我々と同じ警察員5名だけで寂しい。これを耐えるにも日用品不足では大変困難である。守備隊酒保には、酒、茶、巻煙草、砂糖、ビスケット、菓子の外は何も無い。品切れなにれば2週間はかかる。
当郡内はほどほど日本人も入っているが、土地の人は身体は強いが頭は悪い。しかし土地の人は日本人の警察官は尊敬している。それは日本警察官が公明正大であることを知っているからである。一例を挙げればまさに当地方の郡内の守りで品格があり、外敵にたいして昔の御大名のように威張らないからである。
今や内地は梅花が散り、桜が咲き出した好季節になったと思うが、当地は禿峰の山々で目を慰めてくれるものは未だにない。只豆満江の岸辺にある数十株の揚柳があるのみで色はなく香りもない。気温は今頃の時期で平均零下5度、1月で最も酷烈で零下30度になる。降雪は割合少ないが寒風は強烈に強い。飛ばされてきた物(流動物)は凍ってしまう。
しかし韓国には寒さを凌ぐ装置が整えられているので、室内に居るときは毛布一枚で安眠できる。物価は著しく高く、米は一升30銭内外を上がったり下がったりしている。石油一合5銭、マッチ一箱1銭、醤油一合5銭、炭一貫15銭、大根一本(日本のかぶと同じ)5,6銭、朱墨、菓子、(煙草は安い)、巻煙アサヒは4銭、砂糖は守備隊より払いを受けるので、内地と大差なし。また安い物は鶏一羽(内地にて5,60銭のもの20銭)。総べてが高い物価であっても、午前10時に出勤、午後4時退庁であれば、毎日2食で充分である。韓国式では、宿舎には給食もあり、沐浴は守備隊にて〇で、散髪は同所でやるから、内地でやるより静養がとれるから、一ヵ月8円アレバ充分なり。こんな経験も毎月出張で旅費が7、8円入れば物価が高くても、冬寒くても困難でない。
只慰であればよいが韓国の家庭に生まれたらそれこそたまらない。
明治40年3月吉日  記入  鈴木正忠(えんだんじの祖父)
「千葉氏の解読文、後編引用終わり」

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「渡韓紀行」(前編)、明治40年作

「渡韓紀行」の千葉氏の解読文は、前編、後編に分けて全文を公開します。
前編引用開始
「平沼停車場を離れたのが明治38年12月10日午後8時12分、途中国府津停車場で先に約束した小田原警察の石井利之助氏と会う。その夜激しいと思っていた寒気が予想に反して暖かった。二人して平沼停車場から同乗し、横浜満代町の果物商田代某や外国帰りの労働者5名と一緒に雑談して一夜を明かした。
翌11日午前11時20分に神戸についた。停車場前の旅館八国屋に投宿して、夜来の労を慰めようと一献を傾ける。午後三時に後藤氏が来たのでお互いに喜びあう。午後5時夕食を終えてから市内観光しようと外出。数年前にペストが発生して猛烈にはびこった栄町の後を思い出し、その状況を視察しようと後藤、石井氏を連れ、栄町に行き精密検査をして見ると、この町は海岸通りの裏町で横浜市の南仲通りよりも道路がせまく混雑している。左右大小の回漕店が軒を並べ土塀貸庫店多数ある。その間に介在する貨物の出入り船、仲仕人、大勢の来訪者で混雑している。これに隣は有名な不潔部落の支那街や労働者の家屋がある。これらは横浜市内に類似している。中央倉庫前三吉町の全部、南東町あたりは不潔汚臭が甚だしい。
よって倉庫なるものは中央倉庫のように完全で、概して壁に亀裂あるいは欠陥がでないよう、そうでなければネズミの出入り自由になる。中にはごみを介して異臭を放ったりも多い。その他水が不完全で街路清浄が行き届いていない。これには驚いている。ネズミの買い取りは聞くところによれば、所、課は形式に流れてこれの励行が欠けていて未だ実現しないことは如何に病気が発生しなくなるのか、またこれを予防しなくてはならないのか、実情を見て考えさせられた。嗚呼、その責任を誰がとればいいのか各位の判断に任す。ここに視察終わる。これより市屈指の繁華街を極める元町通りに行き、野菜や魚の売り出しのために各戸提灯を吊るしている。景品を進呈する女性売り子たちの景気のいいイラッシャイの声はいさましい。これより真行停車場前鉄橋を渡り多門通りを行き湊川神社にお参りして私たち一同の前途の幸福を祈る。帰路に就いた時途中分かれた後藤、石井氏の」両氏に会い、これからどんな旅情の道のりになるか私が書きましょうの提案に後藤氏も石井氏も大賛成してくれた。後藤氏の勧めで寄席に入り旅情を慰め午後11時帰還就寝する。
夜間深々、周囲さびしく、四面声はなし。夜半寂しく胸にせまってくる。本市の警察は保安警察として威厳を感じた。一、二の例をあげると雑踏取り締まりのような酩酊者保護について実に親切丁寧にして言葉をかけている。その職務の執行を見ると真に立憲治安警察官と思った。某県警察官のごときは概して粗暴豪放で本市に遠く及ばない。神奈川県警察界はウブの声をあげたのだからともに成長したのか、こんなこと書きたくないが、人としてふるさとを思うと気が気でない。故国の制度等を思うと依然見過ごすことはできない。嗚呼、いつの日か私のふるさとである神奈川県警察官吏の前途を祈り、深く手を合わせ今夜寝る。
東天紅に及ばず寝てしまい後藤氏の鈴木君起きろ、起きろの声で起きると8時を過ぎている。商船会社に行き出向時間を確かめてみんなを呼び起こす。嗚呼、もし忘れたら怒っただろう。急いで船会社へ行き支局の橋詰氏と会い、一緒に便船の出帆を聞くと、本日午後3時であるとの話なので帰館する。諸々の品物を揃えて正午商船会社に行き待っていたが5時になっても出帆しない。どうしたのかと聞いても,船客係員は「本日は出航しないで明日午後1時に延期する」と言うのでそのままここに滞在する。

翌13日午後商船会社に来て3時に乗ろうとすると、例のごとく案内人がいない。今日出帆しないと予定の16日中に釜山に到着できない。どうしようかと相談し、何はともあれ船客係に相談しようと事務室に押し掛ける。本日の出航については勘弁するけど、どうして説明がないのか、我々一同は、官の命令を受けて期間を定めて渡韓するものである。本社は何のため定期の出帆を延期してまた延期するのか、聞くところによると、本社は旅客の定期出航についての掲示やあるいは新聞紙上に出しておきながら、いろいろ理由をつけて延期している。私たちは大変迷惑している。公衆のために厳重に訴えた。私の厳重な抗議に恐れたのか支配人がやってきて、穏やかに、「本日出航のはずでしたが、出航間際に汽缶が破損したので延期することにしました」と。どうしてそう言わないのか、弁解もない。一夜の宿料と
汽車賃は本社で支払うと頭を低くして言うので受け取る。しかし、我々は宿泊料や汽車賃が欲しいために言っているのではなく、今日出航しないと予定の期日に到着しなければならないのだと言っても一向に埒があかない。どうしようかと熟慮していると、一人の客引きと思われる男が駆け寄り、「只今釜山直行の船があります、乗客はおりませんか」と呼びかける。これを聞いた我々は釜山直行の船があるとこれは夢でないのかと喜ぶ。早々と談判してお国の一大事と急ぎ駆けつけ、乗船の約束事を決めて切符を買う。先に商船会社より一泊の料金を受け取っているので用意を調え午後5時に乗船する。船名は幸光丸。われわれ一行前途を祝す。まさかこんな事になろうと考えていなかったので上喜する。

かくして神戸からの同船者は、統監府巡査、徳島県一行4名、大阪府1名、神奈川県大川村の農家1名、東京市の者2名、北海道の農家5名、大阪の淫売婦3名、京都府の淫売婦2名に我ら4名を加えて計23名で仮の家庭を作る。そしてお互いに胸襟を開いて語り合い、各自それぞれ好きな食事をしながら酒を飲む。且つ歌や剣を使った踊りもあり、義太夫、長唄を謡う者もいる。皆が船中に居ることも忘れ、大いにもりあがり陽気になった。一同は夜の更けるのも知らず眠りについたのは午後2時ごろになる。
明けて14日未明、甲板に出てみると空には一点の雲もなく海面も穏やかで、西方をみると漁船の帆もみえる。今は名高い明石沖を航行中で遠く仰ぎ見おれば諸々の峰が霞に反射して美しい。近くを見れば魚の鱗がきらきら反射して岸を洗っている。鳥は波間に眠っている。天然の美しい絵画を見ながら甲板の離れ船室に帰り朝食をとり終わった時、突然船が止まり、水夫たちが碇を用意する。船員の言う門司入港は検疫を終了しなければ入港できない、さらに夜中になった時は検疫を行わない。そのため入港時間を調整するため当地に停泊する。よって翌15日未明、検疫するための何らかの方法を執るのかと待っていると午前8時にボーイが駆け込んできて「只今検疫するので皆さん甲板に上がってください」というのを聞いて、他人を省みず先立ちて甲板に上がると、検疫船が来ている。検疫船が来ないので今までに到着を待っていた本船の船長が出向かい検疫船の船長に対し「乗客は何人か」と問われた船長が「全部で22名です」と答える。検疫官は「よろしい」と言って本船を離れていく。その簡単な非常識な態度には私は驚き呆れ無責任な対応に呆れた。嗚呼、門司検疫官は只船客の人数を聞いたのみであった。無用の検疫所を設けるとは国家のために大いに研究すべき問題と考える。
まさに形式的な検査を終えて船は直ぐに進行を始める午前10時に門司に入港する。出航が午後8時であったので橋詰さんを誘い一緒に船を雇い上陸し彼と共に市内の観光をした。本市の面積が広く、市中及び港の内の繁盛さに実に驚いた。加えて天然の風景は横浜港に遠く及ばない。午後3時に小舟の帰船のあと出航を待ち予定通り午後8時に出航する。乗客達の中から今夜10時頃玄界灘に近づくので波が高く厳しくなると言う人居て乗客は皆それぞれ覚悟してお互いに励まし合う。そして一同、一人も声を出さずに就寝する。通常玄界灘は時化で苦労すると聞いたところだったので、それなりに経験からその用意はしていた。
しかるに、天幸なるかな、風もなく波も穏やかで、船に乗ったのは横須賀で乗っただけで経験が無く怖いと思っていたので、玄界灘が穏やかに無事に過ぎたことは有難かった。翌16日午前8時24分釜山に入港する。しかし検疫終了後でなければ上陸できないので一時間余り待ち、健康診断を終了して上陸する。上陸する前に同署税関で貨物の検査がしてあり、指定の宿所である市第一の釜山ホテルに入る。我々一行の居室に当てられている階は50畳敷きの広間だった。我々より先着の諸氏70余名は任所への出発の準備をしている。傍らの別属は酒を飲みすでに酔って歌を歌っている。上の階も同じように酔っていて騒々しい。妻子連れが18、9名がいる。諸氏は皆勇気爽快で殆どの者は韓国を飲み込んだ意気で、態度が大きい。韓国警察の啓発は我々の手にありと豪語している。
一行は昼食を済ませ午後一時本部員の出張所がる釜山理事長警察署に行き着任届を渡し、任所に辞令並びに旅費を受け取り被服その他の点検があり、永内警視の訓示を聞き午後3時に帰館する。ここに辞令収受を受けたとき、目に印象に残ったこと言うと我々と同じ日に辞令を貰った70余名のひとたちは部屋の中央に掲示されている朝鮮全図の明細を見て辞令とその場所を確認して、自分の任地がどこなのか見て喧しくなった。
(70余名は場の中央に掛った朝鮮明細地図に対し、辞令と照らし我が住所は何道なるやと喧しや)しかし南鮮行きの辞令を貰った者は大変得意顔になり、北鮮行きの辞令を受けた者は、意気消沈してあちこちから嘆声が漏れてきた。嗚呼、我らの希望は京城か、もしくは釜山の南鮮かと以外であった。独り言を言う者もあり、また辞令を受けたくないため嘆息している者もあり、お互いに話あったりしている。笑う者、泣く者、共にいる。
某県の人は北韓の咸鏡北道:咸興支部の辞令を受け、その辞令を見た瞬間、大声を出して「咸鏡北道に行かされたら死んでしまいますので、他の方面に勤務を変更してください、お願いします。」と泣き出す。他にも住所を変更してくれるよう申し出るものがいた。しかし本部員との話し合いで渋々任地に向かった。その人を推薦した人は恥をかいたことになり、同情せざるをえない。その故、なんとなれば、南韓地方は気候温暖で交通機関は発達して、僻地と言っても日用品の不便は感じないし、物価も安い。これに反し北韓は寒気酷烈にして交通不便でありこれに加えて物価も高い、その上僻地に行けば、米、麦を得ようとしても不便である。私は到着も遅れていたので最後に辞令を貰うことにして咸鏡北道鏡城支部の辞令を受けたところ橋詰氏と同じになる。また後藤氏は咸興支部の辞令を受けることになりお互いに北韓の任地になり、そこは北韓の端として露国浦塩(ロシア領ウラジヲストックーえんだんじ記入)に近いので驚いてしまった。私だけでなく後藤氏も橋詰氏も共に驚く。しかし如何に落ち窪んでも救いようがない。お互い文句もいわないでホテルに帰る。帰ると南韓にいく諸氏達は皆「お気の毒ですネ」と挨拶して私たちを迎えた。今にして思えば後藤氏より私のほうが恵まれている。尚今回は韓人の諸氏は皆京城付近かまた釜山付近に勤務するのが多いように私は思った。しかるに之に反して概して日本人は、日本人が足跡を付けた僻地に配置したようだ。これは思うに今後の応募者は一層僻地に配属されるのではないだろうかと思えた。どうしてかというと駐屯地を多く配置するためだろう。
我々は帰館後便船について聞いてみると明後日18日であるので明日17日ここに滞在することになる。石井氏は海州支部仁川付近のため出発の命令を受けているので健康を祝しあう。三名で市内を観光する。実に当市は内地で想像するよりもはるかに繁栄している。日本家屋だけで3000軒、人口三万、劇場もあれば寄席もあり見世物小屋もあり料理屋もある。これらは皆内地人(日本人)が経営している。弁天通りに立つ家屋の構造も冴えていて賑やかである。雑踏も極め、ここはちょうど伊勢佐木町に似ている。海岸通りには白衣がたむろしている(内地では人夫と言うがこちらはチゲと言う)チゲは波止場に集まって貨物の運搬をする。また中にはタバコを口に銜えながら道ばたで食べながら巻きタバコ売っているものもいる。これにより同市の北端の韓人町に行くと数件の商売屋があるが日本人に売る店屋で品物が少なく活気がない。そのほかの韓国労働者は商業で内地人と競争してはならないことになっている。したがって富を得るのは日本人ばかりで韓人は貧乏人になっている。いかに被亡国の民と言ってもその状況を目撃するとその気概を喪失させていると思わざるを得ない。ここの視察を終えて帰館すると丁度夕飯の時間で女中が膳を進めてくれたので見ると内地では容易に食べられない贅沢な膳なのに驚く。私の友人の野村氏が京城で一泊してその時の宿泊料を思いだして、コッソリ宿泊料を聞くと当ホテルの宿料は普通弐円50銭以上になるが理事長の交渉で特別に昼付きで弐円と聞いて、急に食堂に飛んで行き一椀一椀お代わりをする。弥次喜多の旅を思い出し面白かった。ここではどんな料理が出たかといいますと、鯛の刺身とぶりのテリ焼き、それ添えられた筍とサヤエンドウ豆、酢の物は内地ではやたらに食べられない大きな蛤にウド、またスイモノはボラの切り身にモヤシ、酒の肴には申し分ない。内地でも2円以上の宿料を奮発すれば可能かもしれない。
いわんや生活が苦しい当地では理屈に合わない、
釜山は魚類の安いところで内地に比べ2円内外の鯛でも20銭出せば容易に買うことが出来ると聞いて、ここで初めて宿料が安いのがわかった。その他の物価は内地より高いものも安いものもあって平均すれば特別高くもない。気温は横浜市より釜山の方が暖かく感じられる。今や同市は各種の事業大いに振興し日に月に発展しつつあり、将来横浜を追い抜く勢いである。」
前編引用終わり(後編に続く)、後編は来週11月24日(土)に公開します。

読者には祖父は咸鏡北道鏡城支部の辞令を受けたことを覚えておいてください。これがあとで説明する祖父と妻子(2人の幼児)がソ連領ウラジオストック滞在の海外旅券、大正5年(1916年)につながる話です。咸鏡北道とは日本統治時代の朝鮮の行政区画の一つ。現在の北朝鮮の咸鏡北道。

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「渡韓紀行」、明治40年作

私の祖父、鈴木正忠は私が生まれる3年前の昭和10年に68歳で死んだ。そのため私は祖父に会ったことも話したこともありません。祖父は越後の国、村上藩(新潟県、村上市)の下級武士の一族であった。豊臣政権下1958年に村上氏が当地に入った。1618年に改易になり、譜代、親藩の大名が次々と変わった。江戸時代に内藤家が5万石大名として入り以後9代の内藤家が継ぎ、戊辰戦争で村上藩は悲劇的結末をむかえた。家老の跡継ぎである鳥居三十郎は19歳で家老事務見習いとして江戸の村上藩邸に入っていた。戊辰戦争が始まると村上藩は幕府を助けるべき奧羽越列藩同盟に参加した。しかし新政府軍が接近してくると藩論は、抗戦か帰順かで統一できなかった。帰順派の藩主、内藤信民はこれを苦にして自害。村上藩は大混乱に陥る。この時鳥居三十郎は抗戦派藩士約200名を引き連れ村上を脱出、北の庄内藩に合流した。羽越の国境、鼠ケ関で政府軍との交戦中村上藩の両陣営が相戦う場面が発生している。
戊辰戦争終了後、三十郎は戦犯として東京に送られ、取り調べ後に死罪が言い渡された。やがて処刑のために身柄は村上に送られ、安泰寺に幽閉された。藩内では三十郎の処刑に同情が集まり、村上藩は斬首という政府の命令を無視して安泰寺に切腹の場をもうけ、抗戦派藩士として三十郎とともに戦った山口生四郎が介錯をつとめた。享年29歳。

私が参考文献で「中島欣也、武士道残照(鳥居三十郎と伴百悦の死)恒文社」を読んでいるとき、万が一にも私の曽祖父、鈴木越太郎、そして村上藩の名前を全国的にしてくれた皇太子殿下、雅子妃殿下の小和田家の名前が出てくれるのでないかと期待したが、ダメであった。定年後(平成14年)私は家内を連れて我が先祖の出身地、村上市を訪れた。市役所を訪れたとき、小和田家は剣道指南役の下級武士と書いてあった。
鳥居三十郎の辞世の和歌:
「淡雪と ともに我が身は、消ゆるとも、千代万代に 名をぞ残さ武」
述懐の歌:「去年の秋 去りにし君の あと追うて なかく彼の世に 事うまつらむ」
     「五月雨 濡れる我が身は 惜しからず 御恩の深き 君を思えば」

三十郎が切腹したとき若干29歳。妻子、奥方(じゅん)と一人娘光(てる)5歳が残された。二人とも長生きして、母(じゅん)は昭和七年、86歳で、一人娘(てる)は84歳で昭和24年に没した。我が祖父、鈴木正忠は、昭和10年に68歳で死んでいるので、逆算すると三十郎が切腹した時が2歳。私の想像では明治時代以前なら身分制度が厳しくて一介の下級武士が家老の奥方やお嬢様には会うこと難しかったかもしれないが、明治に入って四民平等ということで昭和の時代には、祖父は娘のてるには会えたのではないかと私は想像しています。
鳥居家は家名断絶となったが、明治16年(1883)に家名は再興された。抗戦派の武士、鳥居三十郎だけが切腹し、全責任取ったので生存した抗戦派武士は全員助けられたから、鳥居家の再興は、大いに歓迎された。昭和43年(1963)7月20日には新潟県村上市安泰寺において鳥居三十郎先生100年忌法要が行われています。
ところで戊辰戦争中、政府軍と戦った多くの東北、北陸の武士たちやその子孫たちの多くが日本軍に入隊あるいは警察に入った。我が祖父、正忠は、若い時東京に行って警察官になった。そこで我が祖母、テイは神奈川県秦野市の歯医者の娘、日本赤十字社の看護婦になっていた。当時、東京の日本赤十字社の看護学校出身の看護婦は、看護婦のエリートと言われていた。二人は結婚し、長男、次男、三姉妹を設けた。その長女が私の母です。私が高校生の時、母から我が家は新潟県の村上藩の下級武士の出と初めて聞かされた。その時祖父の遺品、三つの書類が私に渡された。私たちは神奈川県の川崎市に住んでいた。私は4,5歳のころ父の実家の富山県に疎開していた。川崎では両親と私の妹と祖母の四人暮らしだった。祖母は昭和19年4月に59歳で死んだ。これが鈴木家にとって幸いだった。翌年の20年4月4日のB29による最初の空爆、4月15日には最大規模の大空爆を受け、実家と鈴木家の持つ数件の借家は完全に消失した。昭和19年祖母の死、昭和20年の川崎大空襲までおよそ一年間が川崎脱出期間をあたえたのだ。脱出先(群馬県草津市、父親の勤務先、日本鋼管の下請け工場寮)に両親は私の幼児妹一人を連れて逃げ出していた。その時祖父の遺品、書類三つを持ち出すことができたのだ。さもなければ大空襲で消失しまっていたのだ。その意味でこの書類は重要だったのだ。その三つの書類とは、
1.昭和天皇と香淳皇后との若夫婦の家族団らんの集まりの写真です。今上天皇が小学生で写っています。私より年配のかたは、集まった皇族家族全員の名前が言えるでしょう。

2. 大正5年4月22日発行の日本帝国海外旅券
祖父、正忠は46歳の時妻、テイ33歳、長男4歳、次男3歳を引き連れてソ連領、ウラジオストックに出張滞在しているのだ。このパスポートについては「渡韓紀行」の説明が終わった時点で詳細に説明します。

3.「渡韓紀行」
この書類は和紙でできた便箋で一行の間に細い毛筆の崩し字で二行が書かれて非常に読みにくく、母に渡された時は、高校生だったので全然読めませんでした。成人してからたまに取り出してよんでも、全然読めず、タイトルの「渡韓紀行」という字すら読むことができなかった。誰か専門家に解読してもらわなければだめと机の奥深くにしまいこんでいた。ただこの書類の最後の文章は40年3月吉日とかいてあるのは読めた。明治40年3月のことでしょう。この書類のタイトルが「渡韓紀行」と解読してもらったのが、私の定年後です。神奈川県庁を定年退職した人が古文を読む勉強していたので解読してもらったのです。解読分全部もらっていますが、同時に解読者が書いてくれた「解読を終わって」のコメントをくれましたので、その全文を先に紹介します。

「解読を終わって」
引用開始
「明治時代に権力と公安情報を司る地位にいた人の書いた「紀行」であることに、非常な興味と期待をもって解読した。一通り通読をすまして概要を知った私はノメリ込んでしまって、正月の楽しみよりこの解読に熱中して、暮れから朝から夜まで取り掛かり、明けて平静16年1月3日に解読出来た。専門家でないので、完全な解読は不可能でしたが、楷書でなく昔の書体(この人は右肩上がりで丸字)と漢字が不鮮明で崩し字の字画が何画か不明で、辞書で検索出来ないものがありその部分は削除した。100年前の筆記で字が薄くなっているので拡大鏡を使って解決したところもある。相当に学識の高い人の文で、語彙が豊富で、センテンスは文学的で高度な表現力があり驚いた。一般の警察官だったらこのような記録は残すことが出来なかったと思った。旧漢字、旧かな使い、そして官命であったため役人的な高圧な意見も時に表現されているので、そのような部分は安易に解読して読みやすくした。
明治時代公安情報の収集に従事していた国家機関では、最も著名なものは内務省保局で、結社、集会、言論の統制が主であったが、これらの業務は保安課が担当するようになる。明治26年以降新聞、雑誌等の検閲は新設の図書課に移されている。この警察権力のことについて、紀行にも書かれているが神戸市の警察は親切丁寧と言っていて保安警察になっていると復命し、上司から欄外に赤字で「関西と東方とは違う」と書かれている。警官の態度についても「他山の一石」と欄外に書かれている。
原文にそって補足する。
明治39年12月10日から明治40年3月までの約4カ月間の紀行で、出発する12月は寒い季節なので、着る物も合わせ着で身体を保温して出かけたようだ。神戸に着いてから本番の具体的に復命が始まっている。
漢文調と旧漢字と自作の漢字
(例)音に名高い → 昔から有名な 
   観覧 → 観光  状境 → 状況  陰混 → 混雑  周壁 → 壁
   欠喚 → 欠陥  紀裂 → 亀裂  軒打堤 → 提灯  保度 → 保護
   意気傷沈 → 意気消沈  懇談 → 相談または話し合い
   醜業婦 → 淫売婦 寒国 → 韓国 須丁明石 → 周防明石 
   翠巒 → 青青とした山の峰 熨(のし)のような → 布をのばしたような
等、明治調の語句が多くみられた。
嗚呼という語の後は、必ず本人自身の率直な意見として、苦言、苦情、悔しさ、または褒め言葉が一節に纏めている。石井氏、後藤氏、橋詰氏と本人の4人が親友で共に苦楽を経験して、忘れることの出来ない旅行をした (荒れ狂うアラシの中で、一時は生死の世界をさまよった)ことを、後の子供に語り伝えるための「貴重な思い出の記」であったと思う。
平静16年1月4日 千葉昭」引用終了

私が高校生の時母から渡された祖父の原稿のタイトルが、平静16年にして「渡韓紀行」であることが初めてわかったのです。千葉氏が解読分を提出してくれた時、私は「えんだんじのブログ」を作成していませんでした。3,4年前に千葉氏が癌で亡くなられました。この時千葉氏の解読分を思い出し、私のブログに書こうとしましたが、大事な書類で机の奥にしまったまま忘れてしまいました。今年の夏、私は80歳になり、大事な忘れ物をしていないか机の奥を調べたらこの書類が出てきました。すっかり公開するのが遅れてしまいましたが、そのぶん新潟県村上市のことをよく知ることができました、定年後私は家内を連れて我が先祖の墓参りをしました。万福寺です。母も叔母(妹ふたり)実に立派なお寺だと言っていましたが。文字どおり素晴らしいお寺で特に庭が大変立派でした。下級武士の先祖のお墓として立派すぎるのではと言うのが私の見解です。祖父はこのお墓を小田原市に移したのですが、新幹線や飛行機のない時代、村上市で仏の供養するのが大変だったからと思います。
「武士道残照」という小説も私が元々知っていた本ではなく偶然ネットで知ったのです。出版は1990年8月で私のために出版してくれたような本で、このブログのために利用させてもらいました。
この文章のタイトル、最初から「渡韓紀行」と書いてあるのですが、細筆のくずし字で書いてあるので、誰も読めなかったのです。文章も崩し字で内容が何を書いてあるのか推測もつ
きませんでした。ただ最後のページでこの文章を書いた日付が「40年3月」と最初から読めましたので「渡韓紀行」の背景が浮かび上がってきたのです。日本政府は明治43年に韓国を併合、韓国の国号を朝鮮にあらためました。韓国併合といえば、朝鮮半島全体に日本人警察官を配置しなければなりません。文章ではそのことにも当然触れています。「渡韓紀行」は、明治40年当時の神奈川県県警の一警察官、鈴木正忠(私の祖父)が実際韓国に渡って書いた紀行文です。原稿は、冒頭右はしの上に大きな赤っぽい、橙色字で大きく「知事」と書かれており、右側左下には「石田」、「細川」ら数人の同僚の三文判が押されています。次回のえんだんじのブログでは、解読文全文を公開しますのでぜひ読んで見てください。











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えんだんじのブログ、10年目が終わります。

10年ひと昔といいますが、最近は時代の流れが速いので、10年と言ってもアット言う間の感じですが、それでもこの10年間のブログをじっくり思いだすと、10年と言う年限はそれなりに重みがあるものだと思います。私がブログを書き出すきっかけになったのは、私の著書「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の出版社、碧天舎の倒産です。本の売り出しは予想に反して好調で2004年7月に売り出してから11月には、私に生まれて初めての講演依頼(90分の講演と30分の質疑)があり翌年に1月には靖国神社で講演し、その縁で靖国神社の本屋さんでも販売してくれました。販売開始一年後、2005年7月には二刷り目の1000部が販売されました。ひょっとするとベストセラーになるかもの夢を抱きました。しかし2刷り目発売後半年ぐらいで碧天舎が倒産してしまいました。ちょうどそのころ私の二冊目の著書「原爆正当化のアメリカと従軍慰安婦謝罪の日本」がもうすぐ碧天舎から出版の予定でした。私は碧天舎の債権者の一人になってしまった。私も債権者の集会にも参加しました。ある時相模原市在住の女性から手紙が来て、当時日本では最大SNS、ミクシー(mixi)に「碧天舎の会」を立ち上げたので参加してくれとの依頼があった。私はミクシーという名前は知っているが何をどうすればよいのかさっぱりわかりませんと答えた。当時ミクシーに入会するには、ミクシーの会員の紹介が必要なのでその相模原の女性が紹介してくれ、彼女が日記の書き方、返答に仕方などをメイルのやりとりで教えてくれました。それ以来私は、ミクシーに色々なことを書き始めました。半年か一年ぐらい書き続けると、それを読んでくれていた仙台のGさんが「鈴木さんの日記は、内容が良いからミクシーの日記ぐらいではもったいない、自分でブログを書いたらどうですかとの提案があった。私は自分のブログの書き方など何も知りませんと伝えたところ、仙台のGさんがそれでは「私が作ってあげましょう」といって無料でブログが書けるFC2のブログの書き方を教えてくれました。以来二、三か月、或は半年ぐらいFC2のブログを書き続けていましたが、西尾先生のブログを見た時、自分でも私自身のブログを持ちたいと思い、仙台のGさんにお金を払うから自分自身のブログを持ちたいと言ったところ「私が作ってあげましょう」と言って、最初に書いた、えんだんじのブログのタイトルが「カントリーファースト」2008年10月13日です。以来Gさんは、私のブログ管理人になってくれ今でも私のブログの管理人になってくれています。ブログを書き始めた一年間は毎週の土曜日にブログを書き、次の年からは毎月二週間おきの土曜日、すなわち月二回のペースでブログを書き続け今回で毎週土曜書き続けた1年間と合わせて合計10年間書き続けました。書いたブログの記事数は、アーカイブとしてブログ上に残っております。書いた全記事数は306通です。この中から良い記事だと思うものは取り上げて一冊の本にしようと思っています。

えんだんじのブログは、私がミクシーの会員になり、ミクシー上に書く日記として登場したものですから、えんだんじのブログとして独立して公開されてもミクシーにも公開していましたからミクシーの会員から数多く読者が読んでくれました。またその頃ミクシーの全盛期で、20歳前後から30代、40代、或は50代前後若い会員が圧倒的に多かった。また私の毒舌的な文章も反感を買ったり、また逆に受けが良かったり、色々なコメントが来るのでその反応を読むのが楽しかった。その傾向が一転したのがアメリカのフェイスブックの登場です。猫も杓子もフェイスブックの会員が増えました。ミクシーの会員たち軒並みフエイスブックの会員になっていきました。ミクシーの会員たちは正式にミクシーを退会しなくてもフエイスブックの会員になれますので、私の知っている古い会員たちは、えんだんじのブログを公開する度に読んではくれませんが、思い出したように私のブログは読んでくれていることはミクシー上で知ることが出来ますので、私の慰めの一つになっています。あれほど日本の若者の人気絶頂にあったミクシーがフエイスブックの人気に圧倒されるとはあまり気持ちのいいものではありません。また私はこの夏80歳になりますので、高齢者の私のブログファンが更に年を取り、あるいは亡くなられたりして、私のブログへのコメントが突然途絶えたりすると、病気の重症化、あるいは死を予想したりして気持ちのいいものではありません。全体としてえんだんじのブログの読者数は少なくなって当然なのですが、私のブログの管理者によると、私のブログ読者数は、減ってはいず、この二、三年ほぼ変わらないそうです。
来月11月からは、えんだんじのブログは11年目に入りますが、11年目から毎月、月一回のペースにするつもりです。ブログを月二回にすると読書数が極端に少なくなるのです。また年のせいか本を読むと眠くなる時も結構あるのです。読書不足解消のため、ブログを書く回数も最低でも月に一回にするつもりです。
読者の皆様10年間の長い間読んでいただきましてありがとうございました。また来月から11年目のブログを書き続けていきますのでご愛読のほどよろしくお願いいたします。

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私のライバル、ヒュー・ヘフナー

このブログは、昨年11月4日に出した小説「戦後昭和の女性たち(3)」の全部同一のコピー作品です。何故再提出したか、皆さんに私の小説「戦後昭和の女性たち」を思い出させたいからです。
引用開始
(一)ライバル
皆さん、ヒュー・ヘフナーと言えばどんな人だか知っていますか。最近ヘフナー氏は91歳で死んだが、彼はあの超有名なアメリカの週刊誌「プレイボーイ」誌の創刊者です。ヒュー・ヘフナーは、1953年(彼が27歳の時)「プレイボーイ」を創刊した。その創刊号にあのマリリリン・モンローのヌード写真(本人の承諾なしに)掲載し世間をアット言わせたのだ。以後数十年にわたり豊満な女性のヌードグラビアと読み応えのある記事が世界的に高い評価を受け、世界各地に現地版の「プレイボーイ」を発刊させた。ヘフナーとモンローは奇しくも同じ年で、私より12歳年上です。「プレイ^ボーイ」に載せられたヌード写真は、モンローが同じ27歳の時ですから、ヌード写真の年齢は少なくとも同じ27歳か、それとも27歳以下の年齢です。すなわち彼女の全盛期のヌードだから世界中の男性ファンをアット言わせたことは間違いない。ヘフナーは女性の裸の写真で大金持ちになったのだ。老後はプレイボーイ社の経営を娘のクリスティーに任せ、彼自身はプレイボーイ・マンションに住んでいた。そこは男たちの究極の隠れ家、そこでは全てがセックスのためにあり、全ての女性たちはやるためにいると男たちは勝手に空想した。ヒュー・ヘフナー氏はその館で死んだ。ヘフナーは生前に購入していた場所に埋葬された。マリリン・モンローの墓の隣だった。ヘフナーもマリリンも同じ年だからお互いの顔を知っていたでしょう。しかしモンローの男性遍歴にはヘフナーはいないし、ヘフナーの女性遍歴にはモンローの名前はない。モンローは彼女の承諾なしに「プレイボーイ」の創刊号に載せたことが許せなかったのだろう。ヘフナーはモンローファンの一人だったのだろう。だから生前、彼はモンローの墓の隣の地所を大金で買ったのでしょう。このヘフナーの記事は、今年に11月19日のニューズウイーク誌に出ていた。早速私が自分の「えんだんじのブログ」に取り上げたのには理由があった。

今年の9月1日私は、文芸社から文庫本で「戦後昭和の女性たち」(700円)を出版した。全部で八編からなる短編小説、全部で10人の女性を登場させた女性短編小説集です。一から七までは現実の女性を扱って書いていますが、八はタイトルが「天国での女性体験」で、天国での空想体験の話で、想像上の話が主体です。通常人間は死ぬ直前には死後天国に行ったら、あれこれしようとか、地獄に行ったらあれこれしようなど考えずに黙って死んでゆきます。しかし私は違う、「俺は間違いなく天国に行く、天国に行ったらマリリン・モンローを口説いて、ベッドを共にしよう。生前彼女が欲しがっていた子供を絶対に作ってやって、幸せにしてやると考えていたのだ。予想通りに天国に行けたので、計画通りモンローを口説き始め、成功し、ベッドを共にし、赤ちゃんも作ることが出来た。モンローに子供が出来て記者会見の時に、どこかの国のボーイフレンドと恋仲になって子供ができたと公表すればよかったのに、ところが日本人の定年サラリーマンのミスター鈴木と恋仲になってなどと本当のことをしゃべってしまい、そのため鈴木は日本のマスコミの寵児になってしまい、鈴木の物静かな定年人生がてんやわんやになり大騒動を巻き起こす物語なってしまったのだ。
ヘフナー氏と私はモンローファン、お互いライバルです。世界中にモンローファンのライバルが沢山いるでしょう。しかし私みたいに天国にいるモンローを口説いてベッドを共にし、子供を産ませて彼女を幸せにしてやった小説を書いたのは世界広しといえども恐らく私一人でしょう。それだけに小説「戦後昭和の女性たち」を一読する価値があると思っています。

二。男性読者からのコメント
さきほど一気に読み終えました。のちほどあらためて感想を・・・。
登場人物の生きた世界は私のそれとは全く違いますが、小説としても正直、面白いな~と思いました。なんでそう感じるのかな?と思ったのですが、
私の視点は、この時代が、ヒロインの両親はみな戦前の歴史を引きづって
いること。結果、いわく言い難い、両親もしくは片親との悲しい別れ、あるいは知恵遅れの兄弟を面倒みていたこと・・・など。
悲しいまた貧乏生活のなかで優秀な弟(のち東大医学部へ)の学費を送金・・姉はクラブで労働・・。姉の死を前に弟が著者に託した姉への恋文作成の依頼、それを読んで安堵した姉の、さわやかな死に顔・・・・。さわやかに天国へ逝くというのはこういうことだろう。
さらにいえば、登場する昭和の女たちは、みな現代とは違った経済生活の「苦労」と「緊張」を抱えており、それしか生きる道がなかった・・という宿命の
なかで実にいじましく人生を送っていたのである。
現代の、その気になればいくらでも仕事がある・・という経済安全圏とはまるで環境が違っていた。
そういう時代環境のなかで花咲いた、悲しくもそれなりに男との出会いによって一抹の幸せも得た・・という物語である。
考えさせられたことは、昭和という時代は、戦前と戦後が深く交錯する時代であったこと。
平成の弛緩した時代環境とは大きな差がある。その意味で、昭和という時代は、「文学」が成立し得る基本条件を備えていたこと。これが解る年代はたぶん団塊の世代以上ではないか。
・対して、平成の時代はなかなか「文学」が成立し難い、いや成立するとしてもQualityがまるで異なる。
いま政官財界、その他で活躍する人たちは、段階の世代
以前の人たちが多い。鈴木さんの時代感覚とは違った世代の人たちである。良くも悪くも時代の変遷とはそういうものだ。
以上即席感想でした。しかし文章の実に巧みなこと・・・
それ以上に、鈴木さんの真剣な生き様と鼓動が伝わってきました。
もっともどこまで実話で実話でないのか、知りかねますが・・。まずは御礼まで*フェイスブックでもご紹介します。
三。女性読者からのコメント
こんばんは。感想遅くなりまして、申し訳ありません。
大分前に読み終わってはいたのですが、なかなかえんだんじさんのように上手に文章に出来なくてすみません。一番印象的なのは、えんだんじさんは、本当に素敵でモテモテでいらしたんだなぁということです。それと、この頃の女性は、可愛くて女らしくて素敵ですね。
男性と女性が、その役割をきちんと果たしていたように感じます。私はそんな感じの方が好きですよ。どうして男女というものがあるのか、ちゃんと訳があってのことでしょうに、何でもかんでも平等にしたいというのは、何かの策略に翻弄されているような気がしてしかたありません。ただ、昭和初期の女性は、ずいぶんご苦労なことも多かったのではないでしょうか?だから、男性に頼らなくてはならない世の中だったという気もします。
えんだんじさんが日頃日本の名誉のために頑張っていらっしゃるのは本当に素晴らしいことだと思っています。一方、こうした小説もとても面白いですね。面白いというのは、失礼ですね、だってこれはほとんど実話なんですよね?
でもこんなに沢山の想い出をお持ちというのは、お幸せだと思います。
読ませて頂いて、私もその当時にタイムスリップ出来たような気がします。
ここに登場された女の方たちは、辛いことも沢山あっけれど、皆さん前向きで人生を一生懸命生きていらっしゃいますよね、私も少し見習いたいなぁと思いました。そして、今の20代、30代、40代の人が読むと、やる気が増すのではないですか?
私もあっという間に読んでしまいました。えんだんじさんが、これからも益々お元気でご活躍されますよう、お祈りしています。また色々なことを教えて下さいね。
四。読者の皆様へのお願い。
この小説は、私の前作『えんだんじ・戦後昭和の一匹狼』に次いで二作目です。何故私が小説を書いたか?ベストセラーにして印税をかせぎ、私の人生の最終目的、私の大作「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版「The USA is responsible for the Pacific War」 を世界中、いや少なくともアメリカ中にばらまきたいからです。アマゾンでお買い上げの方がおられましたら、率直なコメントを書いてくださいませんか。「大東亜戦争は、アメリカが悪い」のように沢山のコメントを書いてくれるとありがたいのです。よろしくお願いいたします。
引用終了

 

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戦後の貧困、現在の貧困

大東亜戦争終結時、私は小学校一年。私の世代の人たちは、大東亜戦争敗戦後の社会で育った。だから同じ貧乏でも共通点が非常に多かった。戦場で父を亡くし、空襲などで母を亡くし、戦後孤児になって浮浪児と呼ばれ、国支援の民間の施設、あるいは国の施設で育てられた。厚生省昭和23年2月の発表によると、親戚の人にも引き取られずに施設に預けられた浮浪児たちは、1歳から18歳まで全国で123,511人です。この人達の中で現在80歳以上になり元気で会話をかわせる人がおれば、筆者に連絡して頂けませんか。私は自費でその人の所へ伺い、その人の伝記を無料で書きたいと思っています。興味があれば「えんだんじのブログ」にご連絡ください。

浮浪児に次いで苦労していると思われる人達は、私の中学卒業時、即ち昭和29年4月青森発上野行き夜行列車、これが最初の就職列車で大都会に働きに出る地方の中卒の方々です。この大都会向け就職列車は昭和50年の4月まで21年間続いたのです。私が中卒の時から21年間就職列車が続いたということは、現在60歳以上から80歳までの多くの男女の最終学歴が中卒のままでいることを意味しています。すなわちこの年代が最終学歴中卒の人たちが多いいのです。私はその方々より少し条件が良かった。私はもし公立高校に入学できれば、その高校に入学し、入学できなければ就職と決めて受験したら合格したからです。合格しても、学費以外は全部払うつもりがない。修学旅行はどこにも参加せず、運動部などクラブ活動はどこへも入らず、アルバイトで資金かせぎ。以来定年まで孤独な生活が続いた。私の自伝的小説「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」(文芸社、1600円)を読んでいただければ、私の孤軍奮闘ぶりを読むことができます。私は自分の貧乏ぶりを歎いていたが、日本社会への不満は少しも感じなかった。多くの人達が自分以上の貧乏人も多かったからだ。私が鎌倉市の県立高校を卒業した時、鎌倉市は当時から裕福な家庭が多かったから、県立高校卒業時、男はほとんど全員大学進学です。卒業時学校の先生から、「鈴木、就職どうする?」と聞かれたから、「職安(職業安定所)で見つけますよ。」と少し反抗的に答えていた。男子生徒たった一人のための就職の世話など面倒だったのでしょう。工業高校卒とか商業高校卒なら、大体働き先が決められるが普通高校卒では働き先は自分できめるほかはない。私が高校卒業後、高校の同窓会に参加したのが、高卒46年後の64歳の時です。元気で快調に過ごしているところ見せてやれと思ったからです。高卒後5,6年ぐらいのうちに長く勤められる勤め先を決めた。外資系5社渡り歩いた貿易関係の仕事です。貿易関係の仕事が好きだったわけではありません。長く勤めていられそうだと思ったからです。私には自分の仕事にたいする誇り、愛着、愛社精神など何もありません。一番気になったのが給料の高さだけです。自分の仕事に対する、役付き、名誉、体裁など一切関係なし。関係あるのは給料の高さだけ。こうして外資系5社渡りあるいて定年。今になって考えれば、こうした徹底した考え方が良かったのでしょう。また私は自分の主義、主張をはっきり、堂々と主張してきた。どういうわけか日本人は自分の主張をはっきりさせず、ぼかし気に主張するのが多い。そのお蔭かどうか知らぬが定年後働くことなしに、どういう私の人生の風の吹き回しか、執筆活動に専念することができたのだ。贅沢はできないが、働くこともなく執筆活動ができるなんてうれしくてしょうがなかった。そのためこの20年間は幸せだった。私が中学卒業時、地方の片田舎から就職列車で大都会に働きに出ていたら、定年後働くこともなく執筆活動に専念できなかったでしょう。自宅から東京、横浜の大都会に通勤で通えることがどんなに有利だったのかを身を以て体験したのだ。

現在の貧困原因は何か。主に家庭崩壊でしょう。最初から結婚もせずに子供を産む人、結婚して子供二、三人持って離婚した母子家庭、あるいは父子家庭、これで収入不足で貧困に陥る。さらに親が病気になると片親だけに悲惨な家庭状況におちいる。一例をあげると、離婚した父が二人の子供(小学生)を引き取ったのはいいが病気になり、6畳一間に住み、食卓に使う御膳がそのまま勉強机になり、子供が栄養失調になりそうだ。こういう貧乏所帯でも、私の子供時代と比べて決定的に違う点が四つあります。
1.政府から生活保護費が出る。この生活保護費は、全国一律同じでなく、地方自治体によって多少違う、また同じ地方自治体でも住む場所によっても違うところもあるが、生活保護費は必ず出る。
2.最近、主に貧困者の子供たちに食事を提供する「子供食堂」がある。2016年で少なくとも全国で139ヵ所、およそ2年後には全国で2286ヵ所、利用者がのべ100万人を超えた。
3.学童保育
昼間保護者が家庭にいない小学児童。学童保育所の統一的な名前はない。全国各地で適当に呼ばれています。2013年5月1日現在、全国の設置施設数21、482ヵ所、登録児童数889,205名(全国の小学生総数6、676,920名)。
4.冷蔵庫、洗濯機等いわゆる家庭電化製品の大発展で私の子供の時の家事手伝いとは天国と地獄の差。
私は小学校1年から中学校卒業するまで9年間横須賀の山奥に住んでいた。飲み水は水道でなく、井戸水。6,70メートルぐらい歩いて、つるべ落としで飲み水をくみ、運ぶのが私の仕事だった。電気製品はラジオだけ、アイロンは、アイロンの中に火鉢の中の炭(スミ)を入れていた。自宅のトイレの汲み取りも私の仕事だった。要するに家事の仕事が極端に楽になったのだ。

極端な言い方をすれば、上記(1)から(4)のおかげで戦後の貧困より現在の貧困のほうが、はるかに楽で暮らしやすくなったのだ。この事実を誰も否定することはできません。ところが私の子供時代にも、現役で働いている時でも、全然なかった驚くべき不思議な現象が起こり出したのだ。過労死です。労働者に長時間労働を休みなしの勤務をさせ、病気になったり、或は自殺に追い込まれて死んでしまうことです。この過労死は先進国の中では日本だけが特出して多く、日本社会の特異な現象になっています。2017年だけで労災が過労死(自殺を含む)と認定した死者190人です。やっと横ばいになったと言われているくらいです。産経新聞(平成30・9・6)「平成30年史」、過労死の年代順を拾ってみると、
1.昭和63年4月
全国で大阪府に初めて「過労死110番」という名称で電話相談の受付を始めた。
2.平成3年11月―「全国過労死を考える家族の会」が結成。
3.平成14年―「過労死(karoshi)」が英語の辞書に記載。
4.平成25年5月―国連が過労死・過労自殺の防止を日本政府に勧告。
5.平成26年6月―「過労死防止対策推進法」が成立。
6.平成28円10月―初の「過労死白書」を公表。
これによると、全国の過労死は、全体で年間200人前後で極端な上がり下がりはないが、過労死が出始めのころは、過労死は病気による死が上回っていたが、平成26年頃から過労死は病気で死ぬより過労自殺で死ぬ方が多くなった。

私は過労死に怯える労働者の気持ちが全く理解できません。労働者は仕事がきつ過ぎて、病気になったり、自殺するくらいなら、その仕事を辞めればいいではないですか。就職難どころか今は人手不足の時代でしょ。昔に比べて生活水準があがったくらいで、こうも人間の闘争心が衰えるものなのでしょうか。自己主張能力が下がるものなのでしょうか。現在日本民族の民度の劣化がよくいわれますが、この過労死の続出、相変わらず続く幼児の虐待、子供の自殺の多さ、平気で日本を貶める日本人の多さなどとは、全く同じで民度の劣化の典型的な例と私はみなしています。こういう情けない日本人が何故多く出てくるのでしょうか?その原因は日本の教育制度の欠陥です。戦後、GHQは戦前の日本の教育制度をほとんどすべて悪とし、下記の四つの項目に関する指令を日本政府に提出。
1.日本教育制度に対する管理政策に関する指令。
2.教育及び教育関係者の調査、除外、認可に関する指令
3.国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに広布の廃止。
4.修身、日本歴史及び地理の停止。
さらにGHQは本国アメリカから教育使節団を日本に派遣、報告書を作成。
日本政府は上記四つの指令書とアメリカ教育使節団の報告書に基づいて日本の戦後の教育方針をきめた。すなわちGHQは、日本の教育方針を決めたのです。日本は歴史の古い国だ。教育方針にも古い歴史がある。なにも独立して間もない歴史が極端に浅いアメリカに学ぶ必要ないと突っ張れば良いものを、敗戦のためGHQに積極的に迎合していったのだ。

日本が独立を回復した時、日本の教育界では、日本の戦前の教育の長所、短所、戦後アメリカ教育の長所、短所などが話あわれたことなど何もありません。日本が独立を回復したとき、現行憲法を無効にして新憲法を作るべきだったし、同時に日本の教育制度を徹底的に改めるべきところ、ほとんど何もしなかったのだ。「新しい歴史教科書をつくる会」を設立したが、日本の教育制度を改める、例えば日教組を潰さない限り、「つくる会」の教科書が全国的に採用されることもなく、日本の復活もあり得ません。新憲法作成、日本の教育制度の大改革、どれも強力な政治力が必要です。現在の日本の政治家は戦後七十年以上経つが政治家はファミリービジネス、家系政治産業界出身者ばかりが多くなってしまった。一人一人数えたわけではないが、いつの間に150人ぐらいになっているらしい。現在の政治家には、魅力的な政治家はほとんど皆無になってしまった。保守層の間では安倍総理は人気だが、私も安陪さんを強力な支持者だった。安倍氏が無冠の帝王のような状態のとき、彼は公言するほど「つくる会」の強力な支持者だったからだ。その頃私はミクシーの友達と一緒に安倍氏と面会し、私は安倍氏と「つくる会」の話もした。一緒にいた親友の元プロカメラマンが私と安倍氏の二人だけの写真をA4の大きさで撮ってくれた。私は今でも記念に持っています。ところが安倍氏は首相になると「つくる会」を平然と裏切り八木秀次(育鵬社)を支持した。今では安倍氏に対して「自分が惚れた女性に裏切られた感情」と同じような感情を持っています。安倍総理は、やはり二世議員、「機を見る敏はある」が「信念に欠ける」のだ。日本には現在、有望な政治家はいません。自民党総裁候補も安倍氏と石破氏です。石破と言えば私には思い出すことがあります。私は平成18に「原爆正当化のアメリアカと従軍慰安婦謝罪の日本」(展転社)を出版した。日本テレビのあるディレクターがこの本に注目しテレビ出演の依頼を受けた。テレビ番組のタイトルは確か「太田総理に秘書田中」だったと思います。本の宣伝になると思って出演することにした。その出演者のなかに石破がいた。石破は元防衛庁長官で出演していた。テレビ番組の収録のとき、私は初めて石破の歴史観を聴いた。これが元防衛長官の歴史観かと唖然とし怒りがわいた。私は石破を罵倒した。テレビ番組の収録だから皆言いたい意見を言う。翌日私はミクシーの日記にこの番組のケチと石破のケチを書いた。早速日本テレビのディレクターから、「鈴木さん、この番組の公開後の意見だったら、何を書いてもかまわないが、公開前だから鈴木さん日記を削除してくれとの依頼を受けそれに従いました。その石破が安倍氏の競争相手というのだから、日本にはもう政治的活力は生まれてこないのでしょう。私はもう日本の行く末には希望は持っていません。安倍氏に関しては、皆さんには、もう一度拙著「保守知識人を断罪す。(つくる会)苦闘の歴史」総和社、1500円)を読んで見てほしいです。


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