高倉健のなぞ(2)



前にもこのブログで伝えていますが、このえんだんじのブログは、昨年10月には10年目を迎え、今年の10月には10年目の終りを迎えます。えんだんじのブログを開始した最初の一年間は毎週土曜日に書いていたが、翌年から現在まで二週間おきの土曜日、即ち一月に2回書いてきています。今現在全部で292通のブログ記事が公開されています。来年には10年間のブログを厳選して本を書く計画でいます。そこで10年間の全ブログを見てみようと現在時間を見ては古いブログをもう一度読み直しています。ブログ書き始めた時、自分の読者を増やそうと思い、当時日本で最大のSNSミクシー(Mixi)入会した。当時ミクシーの全盛期でその会員数は、10代後半から20代の若者、30代、40代の若者が非常に多かった。いつも書くものが時事評論や歴史ものではつまらないし、また読者も増えないと思い、女性もの、映画評論、人生相談的な物等が結構色々な題材を書いていたことを再読しながら改めて思いだしています。そんなブログ記事の中に2014年(平成26)12月6日に「高倉健のなぞ」という記事を書いています。まず読者にはこの4年前の2014年(平成26)12月6日づけの「高倉健のなぞ」を読んで見てください。

このブログでは江利チエミと高倉健の結婚生活は12年間続いたこと。チエミは妊娠したが流産した。二人の離婚の理由は、チエミの異父姉の虚言と横領でチエミが億という借金を抱え、高倉に迷惑をかけたからです。チエミからの離婚要求であった。離婚した高倉は、その時40歳。彼が死んだ時は83歳。俺はその時、女房に「高倉健のような男が40歳で離婚して女性との浮名も流さずに83歳で死ぬなんてとても理解できない」というと、女房は、「それだけ健さんは、江利チエミに惚れこんでいたのよ」といった。
一方俺のブログに最近まで毎回のようにコメントをくれていた私より三歳先輩の男性は、「彼は本当に純情一途だったと思います」。またこうも書いていた。「彼の女性遍歴は業界内では、自然にタブーなるほどの位置づけが出来上がっていたのでしょう。」
俺はこのブログの最後の文章を以下のように終わらせています。
「定年後の男性の皆さん、彼が40歳から40年間再婚しなかった理由づけ、なにか推測できますか?あったら教えてください。」

去年、平成29年11月5日づけの産経新聞の書評の見出しで、(隠された私生活浮き彫りに)の下に森功著、「高倉健(七つの顔を隠し続けた男)」講談社、についての書評記事が書かれていた。やっぱり俺が想像したとおり、高倉健には、何も特筆すべきものがなにもなかったわけではなかったのだとすぐにその本を買った。その本の出版日を見ると、平成29年8月29日、俺の二冊目の小説、「戦後昭和の女性たち」の出版日が平成29年9月15日。なんとほぼ同時期に出版されたのです。それだけに親近感が湧いた。以下の文章は、「高倉健(七つの顔を隠し続けた男)」の高倉死後の話の要約です。

平成25年10月26日、高倉健への文化勲章授与が決定した。文化の日の11月3日、皇居で親授式が執り行われた。これまで授与された俳優は3人いたが、現役の映画俳優としては、初めての快挙であった。それから一年後の平成26年11月10日、何の前触れもなく、映画界の誰にも知られずに高倉健は悪性リンパ種で亡くなった(83歳)。生きた伝説と呼ばれた映画スターの死を看取った近親者は一人しかいない。養女の小田貴(オダタカ)である。死後、突然あらわれた「最後の女性」だ。彼女は、高倉がその死から一年半ほど前、一人娘として養子縁組をしたとされる。以来、高倉の戸籍上の姓である小田を名乗るようになる。
おかげで小田貴は莫大な遺産を相続した。生涯収入が100億円と伝えられる高倉健の遺産は、江利チエミとの結婚時に購入した土地を含め8億円相当の不動産をはじめ、30億円の金融資産などと合わせると、しめて40億円を超えるとも言われる。それをすべて相続したのが彼女である。高倉の死の二日後、平成26年11月12日に渋谷区の代々幡斎場で密葬が行われた。招待したのはたった五人。東宝社長の島谷能成、東映会長の岡田祐介、元警察庁長官の田中節夫、読売新聞最高顧問の老川祥一、映画監督の降籏康夫、それ以外だれも呼ぼうともしなかった。この五人を小田貴、高倉の秘書、高倉プロモーションの日高康専務の三人が迎えた。高倉健は福岡県中間市の出身で両親兄弟の肉親と一族の親戚とは日頃密接に連絡しあう懇意な間柄でもあったのに誰一人として高倉の死を連絡しなかった。ところが日頃高倉からの近況報告のない高倉の親戚が心配して高倉の秘書に電話してきた。そこで初めて高倉健が二日前に死んだと知らされ、あわてて九州の本家に伝えられた。密葬に参加しようにも時間的余裕がなかった。最初から小田貴は、実家に連絡する予定がなかったのだ。無事密葬は、かれらだけで執り行われた。高倉の死が実家にばれたのは、高倉プロの日高専務のせいと、小田貴は、日高専務との縁を切ってしまった。一体、この小田貴という女性はどういう女性なのか、高倉健はもう亡くなっていて、生前公に彼女を語ったことを聞いたものはいません。あくまでも高倉の死の直前あるいは死後、彼女から公に知らされた情報に限られています。それでもそのいくつかを箇条書きにしてみましょう。

1.彼女はサラリーマンだった父親と美容師の母との間に生まれた。両親は離婚し、彼女は母親についていっしょに暮して来た。本人も一度日仏ハーフの男性と結婚した経験がある。高倉と知り合ったのが1990年代の後半だった。
2.彼女は旧姓を河野といったが貴倉(タカクラ)良子という芸名で、女優やテレビ・レポーターとして活躍していた時期もある、いわゆる大部屋女優だった。
3.高倉サイドの関係者で、唯一古くから彼女の存在を知っていたのが、高倉プロの日高専務だ。平成25年5月、日高と小田貴の実母が保証人となり、小田貴は養女として正式に小田家(高倉健)に入籍した。そこから高倉が亡くなる平成26年11月までわずか一年半しかない。高倉健の養女としての入籍は、高倉家の実家や親族には一切知らされてはいない。
4.小田貴の話によれば、高倉と共に暮らしたのは18年ということだ。二人の年の差は
30歳。

高倉の死後、彼女は東京の瀬田にある高倉の豪邸を完全に解体し、自分自身用の豪邸、美術館を思わせるようなドーム型の瀟洒な屋根が印象的な豪邸を建築した。彼女はすぐに高倉プロの代表取締役に就任し、赤坂の事務所を閉鎖し、古参の日高専務や事務員をクビ、オフイスを顧問弁護士事務所に移した。高倉健が生前購入していた鎌倉霊園の墓、そばにあった江利チエミとの水子の眠る墓まで、ことごとく解体してしまった。高倉は車好きで、特に外車の高級車好きでポルシェやベンツなど多いい時は10台以上所有していた。彼女はその車を全部売ってしまった。高倉自慢のクルーザーも転売するどころか完全に解体してしまった。まるで国民的スター高倉の名前をすべて消し去ろうとするかのような行為であった。名声と富を極めた高倉健は、その骨すら家族の手元に残らなかった。
ウイキペディアを見てみると、私が読んだ参考文献には書かれていない文章があった。
「平成29年3月18日鎌倉光明寺の境内に墓碑が県立された。その墓碑の高さ180cmと高倉の身長と同じで、墓碑にある段状の意匠には高倉の映画人生の節目となる年、映画作品数などを表している。」
私の参考文献の著者の出版日は、平成29年8月29日、高倉健の新しい墓の件は知らなかったのでしょう。私はこれまで書いてきたことは高倉の死後の話です。高倉自身何も知らないのです。私の想像では、遺産相続した小田貴は、高倉の豪邸やお墓などを解体してしまったことに多少でも後悔の念が残っていたのでしょう。そこで同じ鎌倉市にあるお寺の墓に大金をかけて新しい高倉健のお墓を建てたのでしょう。この事は九州の高倉家の実家や一族に知らされていないと私は判断しています。知らされていれば、必ず高倉健の妹や一族から著者の森功氏に連絡がいくと思うからです。彼らは森功氏が本を書くためのインタビューを受けていたからです。

生前の高倉健は、国民的な人気だけでなく、業界全体の誰からも好かれ、また彼は自分が気に入った人間には誰彼かまわずと言っていいくらい高価なプレゼントをしているのだ。大物女優たちにもよくもてていた。死んだ大原麗子も高倉にメロメロだった。「緋牡丹博徒」シリーズなどで何作も共演した藤純子(現在、富司純子)は、彼への思い入れがあったのでしょう。彼の死後一周忌にあたる平成27年 11月に唐突に高倉の実家、九州の中間市の実家の菩提寺に供養に訪れ、住職や近所の住人が大騒ぎになっているくらいだ。彼が生きていたら、彼の死後の養女、小田貴の行為は、全く考えられない行為だった。資産家で男やもめの暮らしているご老人よ、「後妻業の女」には注意しましょう。

参考文献:森功著「高倉健(七つの顔を隠し続けた男)」 講談社

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今朝のブログの訂正

今朝、「育鵬社の歴史教科書盗作事件」のブログをながしました。後半部に「ところが最近、
またぞろ古い歴史教科書が復活した。平成28年度から使用されている窓社の歴史教科書だ。」

この「窓社」は間違いで「学び舎」が正しい呼び方で、訂正のほどお願いします。

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育鵬社の歴史教科書盗作事件



今回のブログのタイトルは、タイトルそのものは、前々回のブログのタイトル『「南京大虐殺」ユネスコ記憶遺産登録は、日本政府の失態』とは違いますが、両方とも関連がありますのでその点を留意してお読みださい。
「つくる会」に続いて日本で二社目になる保守系の歴史教科書と公民教科書を公立中学校向けに販売する育鵬社が設立されたのは平成19年8月です。その育鵬社が最初に検定合格した歴史教科書は『新しい日本の歴史』と呼ばれ平成24年度から平成27年度まで使用された。その育鵬社が最初に検定合格した『新しい日本の歴史』は、「つくる会」が作り上げた『新しい歴史教科書』(扶桑社、平成18年度から22年度使用)と多くの部分で酷似した内容と酷似した文章からなるものであった。その一例を見てみましょう。
●『新しい歴史教科書』(平成17年版、「つくる会」)
すでに日本列島には、縄文時代に大陸からイネがもたらされ、畑や自然のみずたまりを用いて小規模な栽培が行われていたが、紀元前4世紀ごろまでには、灌漑用の水路をともなう水田を用いた稲作の技術が九州北部に伝わった。稲作は西日本一帯にもゆっくりと広がり、海づたいに東北地方にまで達した。(24頁)

●『新しい日本の歴史』(平成23年版、育鵬社)
わが国には、すでに縄文時代末期に大陸からイネがもたらされ、畑や自然の湿地で栽培がおこなわれていました。その後、紀元前4世紀ごろまでに、灌漑用の水路をともなう水田での稲作が、大陸や朝鮮半島から九州北部にもたらされると、稲作はしだいに広がり、東北地方にまで達しました。(24頁)

これは酷似のレベルが、デッドコピーと言えるほど酷似しています。この「つくる会」の歴史教科書『新しい歴史教科書』の著作権を有する代表執筆者藤岡信勝氏らが調べてみると上記を含む47ヵ所で氏の著作権を侵害しているのだ。育鵬社は、教科書の中心部分について47ヵ所にもわたって、藤岡氏や西尾氏などの原稿から盗作し、藤岡氏らの著作権を故意に侵害した。この著作権侵害は、10年以下の懲役もしくは千万円以下の罰金かそれらの併科の罪に相当する犯罪行為である(著作権法第119条)。
このような犯罪行為により作成された育鵬社の教科書は平成23年度の採択戦において採択を伸ばし、不当な利益を得ることになった。その結果、「つくる会」の『新しい歴史教科書』は採択を激減させ、自由社の教科書事業は大幅な赤字を計上することになった。しかし、「つくる会」が訴えたいのはこのような経理上の損害だけではありません。次の五つの大きな問題が生じたのです。
一。歴史的な大規模盗作事件
この盗作に関与している人間の数は、少なく見積もっても十人は優に超える。これほど大規模かつ大がかりな盗作は歴史上あまり例がないのではないか。こんなことが許されるならば、どんな盗作もほとんど許されることになろう。
二。国民の教科書への信頼感を破壊した。
日本の教科書に対する歴史的に培われた国民の信頼を傷付け、さらに教科書制度全体を破壊する、重大な犯罪行為であるといっても過言ではない。
三。日本の文化の発展を阻害し法秩序とモラルを破壊する。
他人が真面目につくった教科書から中心部分を丸ごと盗んだ人たちが、何の社会的制裁も受けないならば、今後はどんな盗作行為も許されることになるだろう。それは日本の文化の発展を阻害することにつながる。
四。中韓による知的財産権の侵害を批判できなくなる。
今日、知的財産権をめぐるルールをシナや韓国に守らせるように持って行くことは、日本国にとって死活問題である。
五。保守言論界に泥を塗った。
「日本教育再生機構」に集まり「教科書改善の会」に協力している保守系の知識人は、事情を知らないまま善意で協力したに過ぎないだろう。こんな大規模な盗作事件が、代表的な保守知識人を糾合したと自称する団体によってなされたことの深刻さは、計り知れない。
フジサンケイグループという保守言論界出版物の雄と言うべき企業が発行する教科書というだけで盲目的に支持しているだけなのだ。それによって責任の所在と責任の取り方をあいまいにしているのだ。

これらの大事な事情にもかかわらず、「つくる会」はすぐに裁判に訴えることもなく育鵬社や八木氏らの言論人に対して、一年余りも粘り強く盗作に関する謝罪を求め続けてきた。裁判による解決ではなく、育鵬社らによる自発的な謝罪によって問題を解決したかったからです。謝罪要求は無視され続け、ようやく平成25年になって、「つくる会」側と育鵬社との間で話し合いがもたれたが、交渉は不調に終わった。同年4月、裁判の場に問題の解決が移された。
ここまで書いて来たのは、「つくる会」の理事で公民教科書執筆者、小山常実著、「歴史教科書と著作権(育鵬社歴史教科書事件判決を批判する)三恵社、3,400円+税、平成28」のごく前半の部分を要約したものです。この本では裁判の様子が詳細に書かれています。いずれにしても裁判の結果は、「つくる会」側が負けたのです。判決の理由は、簡単に分かり易く説明すれば歴史教科書などは、著作権は必要ないというのだ。こんな馬鹿げた判決理由がどこにあるかというのです。私は著者の小山常実氏は、この判決に怒りを感じているのだと思います。だから裁判の様子を非常に詳細に書いています。本の頁数も340頁、値段も3,400円+税です。読むのも買うのもなかなか大変です。ですから皆さん、自分の住所付近の公立図書館にこの本を常備させていただけませんでしょうか。
著者の小山常実氏は、この本のあとがきの最後にこう結んでいます。引用開始
「特に二審判決が歴史教科書の著作権を原理的に否定したことである。今後は、少なくとも単元本文については、他社教科書をコピー&ペーストして作った教科書も完全に合法となる。歴史教科書の世界は盗作教科書で溢れかえることになるかもしれない。生徒に模範を示すべき教科書が盗作で溢れるようになるかもしれないということは、何ともブラックな状態であり、見たくない事態である。そんな状態にしないためにも、育鵬社歴史教科書事件判決に対する批判を社会に広める必要があると考えるものである。」引用終了

実は私も、歴史教科書には著作権などないという判決には怒りを感じた。いずれは自分のブログにも書かなければと思っていた。しかし私は、毎月二回ブログを書いたり、本を書いたり、読書などで結構忙しい。たまたま小説書きに夢中になっていて、この著作権の問題を忘れてしまっていた。しかし今回、ピョンチャンオリンピックのことでこの著作権の問題を思い出したのだ。北海道北見市の女子カーリングチームが試合の休憩中(もぐもぐタイム)に韓国製のイチゴを食べていた。このイチゴは、もともと日本製なのだ。いつのまにか韓国が製作方法を盗み出し勝手に作っていたのだ。マスカットという果物もがありますが、これもシナのある地方で日本メーカーからの制作許可をとらずに自分たちで勝手に作り出していてシナ人自慢の作品にしているのだ。農協とかJTなどが農家に著作権を取るよう指導するのが仕事でしょう。歴史教科書の著作権と農産物の著作権とは質が違いますが著作権の意図は同じです。歴史教科書など著作権などないという判決自体がおかしいのだ。こういう判決は、法律論より時流時勢に左右されやすいのだ。思えば20年前「つくる会」が設立されたとき、朝日新聞を筆頭とするマスコミ関係、日教組を主体とする教育界、野党連合ばかりでなく自民党政府の一部、極左翼団体、韓国、シナまでが「つくる会」に猛反発した。その頃は外国人たちが大東亜戦争関係で日本政府や日本企業を訴えれば裁判に勝って金になる、すなわち「司法が日本を亡ぼす」とまで言われていた。
そこえ「つくる会」が誕生した。誕生以来20年間、「つくる会」の教科書は全国の公立中学校で採用される率は極端に少ない。しかし「つくる会」効果はあがった。それが証拠に歴史上の嘘をついて日本を貶める教科書はなくなってきた。ところが最近、またぞろ古い歴史教科書が復活した。平成28年度から使用されている窓社の歴史教科書だ。日本共産党系の歴史教育者協議会のメンバーである元教員や現職者の教師が作った歴史教科書。この教科書が有名国立中学校5校、有名私立中学校30校以上が採用しているのだ。「つくる会」の誕生以来無くなった「従軍慰安婦事件」を復活させ、「南京虐殺事件」を詳細に語り、旧日本軍の蛮行行為を強調しているのだ。その上裁判では相変わらず、「歴史教科書の著作権は、必要ない」などの「司法が日本を亡ぼす」のような判決が出ているのだ。

私は「つくる会」の会員です。「つくる会」は、日本の大会社からの献金は一銭もありません。全部国民から自発的献金だけに支えられているのです。日本企業が「つくる会」に献金すると、韓国やシナに輸出できなくなると言われているのだ。このままだと「つくる会」の先行きも心配です。トランプはアメリカファーストです。ヨーロッパも各国独自のファーストです。ロシアもシナも自国ファーストです。どうして日本政府も「日本ファースト」と主張して軍事力強化、現憲法破棄、新憲法成立を叫ばないのであろうか。安倍総理は議員時代には「つくる会」を大っぴらに支援してくれたが総理になったらこわくなったのでしょう。結局は育鵬社支持にまわった。二世議員のなれのはてだ。日本ファーストと叫ぶ政治家が誕生しないのだ。現在の日本民族は、ここまで劣化してしまったのだ。もう二と度日本は立ち上がれない国になったのかもしれない。一度経済発展したら、「お花畑」の様な事を言って世界の現実、日本の現実を見ようともしないのだ。どうしても日米同盟を堅持し、「日本フアースト」と力強く主張する政治家を誕生させよう。さもないと「つくる会」のジリ貧が続くだけです。
参考文献:小山常実著「歴史教科書と著作権」(育鵬社歴史教科書事件判決を批判する)
     三恵社 3,400円+税 平成28年

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両手両足を失った中村久子



ピョンチャンのパラリンピックも終わりました。日本代表選手の皆さんご苦労様でした。このブログは身体障碍者の話ですが再度紹介します。以前「えんだんじのブログ」で紹介した日は、三年前の平成27(2015)年5月9日です。読んで思い出す人もいるかもしれませんが非常に胸うつ話で、創作ではなく真実の話です。
三歳で突発性脱疽(だっそ)
明治30年、中村久子は岐阜県高山市の貧しい畳屋の第一子として誕生した。結婚して11年目にしてようやく恵まれた娘は、両親にとって目に入れても痛くないかわいい子。ところが、もうじき三歳になる年の秋、足の痛みを訴えて泣く久子を背負って病院に駆けつけた両親は、医師から衝撃的な病名を告げられた。体の一部が壊死(えし)して脱落するという突発性脱疽(だっそ)。「両足とも切断しなければならず、命の保証は出来ない。」
突然襲い掛かった災難に両親はうろたえた。そうこうしているうちに病状は悪化し、きらずに治せないかとう両親に哀願もむなしく、病は手にまで感染した。父栄太郎は看病のため仕事もできず、わずかな貯えは医者代に消え、一家は借金を抱え込んだ。
父の切実な願いが天に通じることなく、ある日、久子の激しい泣き声に台所から駆け付けた母親のあやは、そばに転がる白い物をみつけた。それは包帯に覆われたままもげ落ちた、わが子の左手だった。結局同じ月のうちに右手と両足を切断、久子は三歳にして両腕のひじから先と、両足の膝から下を失ったのだ。

父が亡くなり一家の運命は暗転する
昼夜かまわず泣く子をおぶり、雨の日も雪の日も街中を歩いてあやす両親と祖母。特に栄太郎は不幸な娘を不憫(ふびん)がり、弟の栄三が誕生してからも、久子を側においてかわいがった。久子の噂を聞きつけた見世物小屋の興行師が「その子を売ってくれないか」と話を持ち込むと、父は怒り、たとえ乞食になっても娘を守り抜くと誓うのだった。
こうして家族の愛情に包まれて、短いと思われた久子の命は奇跡的にとりとめられた。ところが、一家の大黒柱であり久子の守り神でもあった栄太郎の突然死が、家族の運命を大きく変えることになった。
手足のない七歳の娘と、二歳になったばかりの幼児、そして山のような借金を残された母。栄三は伯父の家に引き取られ、久子の面倒を伯母に託し、あやは働きにでるようになった。
久子は祖母から百人一首の歌や片仮名をならい、大好きな人形の着物をぬってもらった。戸外で遊べない彼女にとって唯一の友達は人形。頬(ほほ)よせて「あんたはお手てもあんよもあっていいのね。そのお手て、あたしに貸してちょうだい」と語りかける切ない日々。それでも春が来れば学校に行けるという希望が少女の胸を躍らせた。しかし、障害者への差別が強い時代のこと、それははかない夢にすぎなかった。

母の再婚とつらい日々
あやが子連れの男と再婚したのは久子が八つの時、義父との生活は、生きるために仕方ないとはいえ、母娘(おやこ)にとってつらいものとなった。それまで娘に甘かったあやは、夫への気兼ねから厳しくなり、不具な子を恥じる義父は久子を二階の部屋に隠すように置いた。来客で忙しい日など、丸一日忘れ去られることもあり、空腹や便を我慢して待たなければならなかった。

口を使って縫い物をする
あやは、娘の将来を思って何でも自分でやるようにさせた。癇癪を起こし泣きわめいても手を貸さない。酷とも言える母の厳しさを恨むこともあった。しかし、繰り返し、繰り返し練習するうちに、口でハサミを使い、マッチを擦ることを覚えました。大好きな人形の着物作りにも挑み、「手無し、足なしに何ができるもんか」と罵(ののし)られても、最後まであきらめなかった。「きっと作ってあげるで、待っておいでよ」人形にやさしく語り掛け、幾日もかけて一枚の着物を縫い上げた。それは口で縫ったためつばでベトベトにぬれていたが、久子は至福の一時を味わった。自分の力で物を作れるのだ!
ところが、そんな浮き立つ思いはすぐに打ち消されました。友達に人形の着物を贈ったところ、その母親が「こんな汚いもの」と言って小川に捨ててしまったことを知るのだ。
この時、久子は初めて自分は普通の子と違う、手足のない子であることをはっきり自覚した。「ぬれない着物を縫う」悔しさ、悲しさをばねに悲壮なまでの努力を重ねたのだ。それが実現したのが十三年後のこと。後年、久子はこの時のことを振り返り、「この侮辱こそが宝だった」と感謝さえするのです。
また食事も自分で取る決意をした。箸(はし)を持つ指がないので器に口を直接つけて食べていると、「犬だ、猫だ」と店の小僧たちに笑われた。「自分は犬や猫ではない、人間だ。きっと箸(はし)を持ってご飯を食べて見せる。」久子の反抗心に火がついて、あれこれ工夫を凝らすうちに、包帯に箸を挟むことを思いつき、一人で食事ができるようになった。自分の力で食べるご飯のおいしさ・・・それは久子にとって大きな発見であった。

誇りを捨て興行の道へ
近所の男の子たち「手なしぃ、足なしぃ」と馬鹿にされて泣いていると、祖母は孫に諭(さと)した。「仏様がご覧になっているから、いじめられても他人様を口汚くののしってはいけませんよ」と。
久子はこの祖母から読書や習字の手ほどきを受け、学校に行かないながら知識を身に着けたのだ。また、祖母は来客への礼儀から日常生活のこまごまとした振舞いまで厳しく教えたのだ。一方義父は久子を「穀(ごく)つぶし」と呼び、彼女を巡る夫婦間の言い争いはたえなかった。間もなく久子は麻糸つなぎの内職を始めた。
固い麻糸が口でむすべるようになるまでには並々ならぬ苦労があり、初めて成功した時は畳にひれ伏して泣いた。人生で初めて稼いだ十六銭。働く喜びが手足のない久子の体を駆け抜けた。
そんな久子も十八歳になり、自活の道を選ぶ時が来た。国が身体障碍者に下付する扶助料をもらう道もあったが、役に立っていない自分がお国のお金をもらう資格などない。国に甘えて生きれば自分の力で立てなくなると、これを拒否した。
迷い苦しんだ挙句、やるまいと誓っていた興行の道を選んだのは、それから一年後のこと。大正五年、久子は見知らぬ土地へと旅立った。家族と別れ、誇りを捨て、ただ生き抜くために・・・。

泥中の蓮になろう
『だるま娘』― これが見世物小屋の芸人となった久子につけられた名前でした。芸は裁縫、揮毫(きごう、文字や書画を書く事)、切り紙など、生活の中で覚えたこと、派手な衣装や卑しい曲芸を売りにしない、品性と教養がにじむ芸が好評を博し一躍人気者になりました。一座を率いる伊勢兼(いせかねる)は亡き父を知る人で、久子を実の娘のように労り、「暇さえあれば、一字でも多く学べ」と励ました。
しかし、順風満帆な日々は長く続きません。興行師として素人の伊勢兼(いせかねる)は興行に失敗、小屋が人手に渡ってしまったのだ。後を継いだ主人は腹黒い男で、久子に過酷な労働を強いた。しかし、どんな惨めな環境にあっても、彼女の向上心がくじかれることはなかった。「泥中の蓮になれ」という書道の師匠、沖六鵬(おきろくほう)の言葉の力を得て、短歌に親しみ、本を読んで精神を高めたのだ。その結果、彼女の芸は次第に高尚さを増していくのだった。

半生記が懸賞の一等になり、義足で歩ける
久子の運命は大きく転換します。自分の半生を綴った手記が婦人雑誌『婦女界』の懸賞で一等当選。賞金を手にしただけでなく、社の援助で義足が贈られたのだ。久子は真っ先に義足をつけるために入院した。立って歩く訓練はまずもって恐怖を克服する戦い。しかし四歳で脚を失って以来、自分の力であるくことをどれほど切望してきたことか!久子は嬉々として練習に励み、四か月後には颯爽と歩いて病院を後にしたのだった。

結婚、そして未亡人
また、絶対に無理であろうと諦めていた結婚の夢も叶ったのだ。二十四歳になった久子は同僚の女性たちが羨む中、同じ小屋で働く中谷雄三と結婚したのだった。結婚二年目にして妊娠。障害を持って生まれてくるのではないかという心配をよそに四千グラムの健康な女の子を出産し、厳しい生活を送る夫婦に希望を与えたのだ。
しかし、暗雲は情け容赦なくせまります。体調を崩した夫は死を宣告されたと同じような結核の末期状態だった。絶望と悔しさを抱え、久子は医者代と生活費のために毎晩遅くまで働いた。ところが大正十二年九月一日に突如襲った関東大震災が、命以外のあらゆるものを奪っていった。
栄養失調と心労で乳は出なくなり、わずかな配給と残されたものを利用して病人と幼子を懸命に世話しました。しかし、その甲斐なく、震災から三週間後に夫は逝き、二十七歳で久子は未亡人となってしまったのだった。

障害を持つ女性に会い、恨みを感謝に転換する。
夫の百か日が済まないうちに、久子は再婚した。女一人の興行は不可能で、生きていくために仕方のない選択。幸い再婚相手の進士由太(しんしゆうた)はよき夫であり、頼れる太夫元(たゆうもと)でした。次女も誕生、生活苦からようやく脱し、訪れたささやかな幸せに喜びを感じていた。ところが寄り添って二年に満たない大正十四年の秋、床についた進士(しんし)は急な発作であっけなく世をさり、久子は二番目の夫をも失ったのでした。
それでも彼女はくじけず、三度目の結婚に踏み切った。この結婚は久子に幸福をもたらさなかった。夫の定兼(さだかね)は浪費癖があり身持ちも悪く、久子の連れ子に対して無責任な態度を取るばかり。やがて二人の間に生まれた三女が病で死ぬと、彼女の夫への愛情は急激に冷えていった。
心労を抱える中、久子の人生観を変える座古愛子(ざこあいこ)と出会った。首から下が付随の女性が女学校の購買部を受け持っている、という記事を偶然目にした久子は、直接彼女を訪ねたのだ。
結婚もせず、肉親もすべて失い、たった一人で寝たきりの生活を送る座古愛子の明るい顔に衝撃を受け、久子は一つのことを悟るのだった。苦難のあまり運命を呪い世を恨んできた不幸な者は山ほどいる。考え方を改めて、恨みを感謝に転換しなければならないと。

芸に磨きをかけながら、子供を学校に通わせる
芸人のほとんどが子どもを小学校に行かせない中、久子は教育が必要だと確信し、信頼のおける家庭に二人の娘を預けて学校に通わせた。久子は子供たちに送金するため必死に働き、芸に磨きをかけた。久子の色紙(しきし)や短冊は人気が高く、よく売れた。投げ銭をとらないのも彼女の信条であった。芸人は乞食ではない、人々に驚嘆と感動を与えるのが真の芸人と考え、ただ縫ったり編んだりするのではなく、より完成度の高い作品を舞台で披露するようになった。そうして七年間の忍耐の末、久子は昭和八年に定兼と別れ、知人の勧めで九歳年下の中村敏雄と四度目の結婚をした彼女は、ほどなく興行界をさった。

ヘレン・ケラーと対面、一躍全国的な有名人に
昭和十二年久子にとって忘れがたい年となった。周囲の計らいで、来日したヘレン・ケラーと直接対面したのだ。その日のために彼女は生活費を切り詰めて布を買い、口で縫い上げた日本人形を贈り物として用意していた。
政界の要人も参会する歓迎会の席で、その人形を受け取ったヘレン・ケラーは、手探りで久子の短い腕と義足を確認すると、突然その体を抱き寄せました。そして見えない瞳から熱い涙を流しながら、「私より不幸な人、そして私より偉大な人」と彼女を称賛した。
三重苦のヘレン・ケラーと無手無足の久子。二人を見る聴衆は深い感動に包まれ、各紙は「和製ケラーと相抱く」と大きく報道。これより中村久子の名は全国的しられた。
晩年の久子は各地で講演し、執筆活動に力を注いだ。昭和40年、六十九歳の彼女は自分を支えてくれた亡き母を顕彰し、国分寺境内に悲母観音像を建立(こんりゅう)した。一時は厳しさゆえに恨んだ母。しかし自らも母となることで、すべての愛情の裏返しであることを知ったのだ。
久子は言いました。「確かなことは自分で生きているのではない、生かされているのだということです。いかなる人生にも決して絶望はない」。七十二歳で波乱の人生を閉じると、遺言通り久子の体は解剖された。持っているすべてをささげつくした最期であった。

この物語の由来:
私のブログの愛読者に関西地方にある私立高等学校の校長先生がいる。彼がその高校の校長になった時、学校の経営者が我が校は、道徳教育に力を入れたいと強調した。彼は道徳教育の教科書を作るため、古今東西の心を打つ話や、インターネットや、日本の古典などから情報を仕入れ、日本の古典は自ら現代語訳に翻訳したりして、一年用、二年用、三年用の三冊の道徳教育の教科書を作成した。一冊平均5-60頁あった。
教科書名として「徳育科」と称した。その「徳育科」三冊を私に送ってくれた。私のブログに掲載しても良いとの了解を取りながら、私は自分の書棚のどこかにしまいこみ忘れてしまっていた。それからおよそ二年後の現在この道徳教科書「徳育科」をふとしたことで見つけだした。
あわてて彼に連絡して見ると、彼はすでに定年になっていた。学校の名前も変わり、経営者も変わっていた。しかし「徳育科」の授業は続いており彼が作成した教科書がまだ使用されているのがわかった。しかし中身が多少変わったかどうかわかりません。この「中村久子」の話は、一年用の教科書「徳育科」に載せられた十三話の一つです。前校長の了解を得てブログに載せました。全文ほとんど原文と同じですが、文章の終わり目は、「~です」、「~であります」というように教科書的だったものをもっと口語的なものに私の判断で変えさせていただきました。あとは全文、原文と全く同じです。
ここからは私が新たに追加した文章です。このブログ公開後、私はお年寄りに中村久子の話を知っているかを聴きまわりました。私はこの夏80歳を迎えますが、私はこれまで中村久子の話は知りませんでした。従って現在80歳以下では知っている人が極端に少ないでしょう。現在83歳の方がある程度知っておりました。すでに85歳以上の方がこの中村久子の話は、戦後封印されたのでしょうと語っておりました。これは私の推測ですが、日教組など共産主義に魅せられたり、親近感を持っていたから中村久子が、政府の身障者への扶助はっきりと断ったから、彼女の話を封印してしまったのかもしれません。皆さん、中村久子のウイキペディアを読んで見てください。ヘレン・ケラー女子と面会したとき自分の口で作った日本人形を差し上げていますが、その日本人形と一緒に取ったときの彼女の写真を見ることができます。DVD制作を中心業務とする映画監督、斎藤満雄氏が平成10(2008)年に「生きる!!中村久子物語」を公開しています。今では若い人たちにも中村久子の名前は良く知られています。



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「南京大虐殺」ユネスコ記憶遺産登録は、日本政府の失態



シナ政府は、「南京大虐殺」に関する文書をユネスコの記憶遺産に登録するよう申請していたが、平成27年10月10日にその登録が正式に認められた。これは安倍政権の外交的失態と同時に安倍政権支持派の保守知識人の失態でもあります。その失態の実状を説明しましょう。
一。文科省の検定
文科省は過去数十年間、公立の中学校で使う全教科書の内容を検定し、その検定合格をもって教科書の販売許可にしてきました。歴史教科書については、南京大虐殺を否定すると検定を合格させなかった。平成9年に「新しい歴史教科書をつくる会」が設立された。設立されたきっかけは、あの嘘八百の「従軍慰安婦」事件が当時販売されていた歴史教科書七社、その全社が「従軍慰安婦」事件を掲載したからです。公立中学校の全教科書は4年ごとに改定され、発売されますが「つくる会」は南京大虐殺を否定しています。歴史的理由は長くなるので省略。南京事件否定では文科省は検定の合格はくれません。結局「つくる会」は折れて南京事件を肯定して検定合格を取ってきました。四年ごとの改定の度に歴史上の嘘を書き続けるわけにいかないと前回の改定のときには「つくる会」は南京事件を否定もせず、肯定もせず、また全く何も書かずに、また歴史教科書では初めて「通州事件」を書いて検定合格を取っています。文科省が南京虐殺を否定すると絶対に検定合格を与えない最大の理由は、「日本歴史学会」と「歴史学研究会」が民間の南京事件研究で有名な東中野修道氏を初め、田中正明、鈴木明、冨澤繁信、阿羅健一、北村稔の諸氏の研究論文など歯牙にもかけず一切を無視しているからです。今でも自虐史観に固まっている「日本歴史学会」、「歴史学研究会」、憲法学者学の集まりの会などが大手を振っているのだ。それを許して眺めているのが文科省なのだ。

二。育鵬社の登場
フジサンケイグループのドン・日枝会長が三億円を支出し、「つくる会」系と同じ保守系歴史教科書を出版する育鵬社を設立(平成19年8月)。育鵬社登場については二つの注目点があります。
1.八木秀次氏は、育鵬社の歴史教科書の監修者の一人ですが、それ以前は「つくる会」の会長であった。八木氏は「つくる会」の会長在任中、「つくる会」執行部には極秘で、「つくる会」の事務局長でもあり日本会議の会員でもある宮崎事務局長をつれてシナの「中国社会科学院研究所」を訪問した。実状は、八木氏自らの訪問ではなくて「中国社会科学院研究所」からの招待であった。シナ極秘旅行がばれたせいもあって平成18年4月30日八木氏と八木派は「つくる会」を退任し、育鵬社に参加しますが、五月に八木氏に招待されて「中国社会科学院」の蒋立峰・日本研究所所長等研究者グループが来日、5月17日に日中討論会が扶桑社で行われた。同時に同じ平成18年7月3日の「AERA」では八木氏は「朝日新聞に批判されるようなものにならないはずですよ」と語っていた。上記の扶桑社の日中討論会で一説にはスパイの李春光が参加していたという。それを証明する写真もあるというのである(月刊「WILL」平成24年10月号)。何を語られたか詳細はわからない。

2.平成23年7月20日河村たかし名古屋市長の肝いりのもと名古屋で中学校歴史、公民教科書討論会が開催された。育鵬社と「つくる会」の自由社だけが出席し、ほかの教科書会社は出席しなかった。その席で育鵬社の歴史教科書監修者の一人である石井昌浩氏(元拓殖大学客員教授)は、「南京事件は確かにあった。これは事実です。犠牲者の数などの実態についてはまだ論争が続いている」と発言しているのです。要するに育鵬社は、否定しても検定がとれないから最初から文科省と議論せず南京事件を肯定しているのです。一方保守の間では、史実的に「南京事件はなかったことが常識になっています」だから「つくる会」は南京事件虐殺に抵抗しているのです。この当時は、私にははっきりわからなかったが、安倍総理が「つくる会」より育鵬社支持をはっきり示していたのでしょう。その証拠に石井昌浩氏の「南京事件」の肯定発言に反発した保守知識人はほとんどゼロでした。保守知識人の雄、また南京虐殺否定派の雄ともいうべき渡部昇一氏は、石井昌浩氏の肯定発言に反発するどころか育鵬社の歴史教科書の監修者の一人になっています。櫻井よし子氏は、自著『日本よ、「歴史力」を磨け』では「南京大虐殺の嘘」がありますが、石井発言に反発するどころか育鵬社の歴史教科書には支援者の写真の一人になっています。日本会議も育鵬社支援の記事を度々月刊誌「明日への選択」に載せています。八木秀次氏、日本会議の伊藤哲夫氏は安倍総理の太鼓持ちだ。八木氏は日本教育再生機構の理事長、その再生機構の複数の顧問が日本会議の幹部でもあり、組織面、運動面で関係が深い。教科書改善の会は、フジサンケイグループの教科書発行を支援グループ。代表世話人屋山太郎氏。ここには学者ばかりでなく多方面の保守知識人が多いい。育鵬社はフジサンケイグループ。フジサンケイは保守系出版グループの雄だ。保守知識人にとって利用価値がある。従って保守知識人は、「つくる会」の歴史教科書より育鵬社の歴史教科書利用の方に価値があった。そのためでしょう、保守知識人でありなが、無意識のうちに民間の南京事件研究者たちの論文を無視してしまったのです。南京虐殺事件に関する限り、日本会議の一般会員は、ただの馬鹿の集まり、自分で民間保守の南京虐殺研究者たちの論文を否定していることが判らないのだ。

三。日中歴史共同研究
一党独裁のシナ政府と民主政治の日本政府と日中の歴史問題を話しあったところで両政府が了解することは有り得ないはずです。日本側の座長を務めた北岡伸一氏はこう書いています。「日中間で歴史共同研究の開始が合意されたのには平成18年10月の安倍晋三首相と胡錦濤主席との首脳会談によってであった。」
安倍総理と胡錦濤の話し合いで「日中歴史共同研究」が始められ、最終的な結論の一つとして南京虐殺事件を日本政府が認めたのだから、「南京大逆説事件」のユネスコ登録は、安倍政権の失態ではないですか。シナ側の代表団、団長歩兵氏は、インタビューでこう語っています。
「中日双方の学者に等しく、自己の論文中に、南京大虐殺は大規模な集団虐殺行為であり、日本軍の南京占領期間に、中国人被害者に対しておこなった残虐な虐殺であったことを明確に認めて記述した。(略)双方の認識は、一致したところもあれば、異なった視点からの考察も存在した。しかし南京大虐殺の歴史事実を否定するものではなかった。」

それでは、日中両国代表団の団長ともいうべき、北岡伸一と歩兵、両氏に質問いたします。平成20年に胡錦濤氏が日本を訪れた時、「南京事件の真実を検証する委員会一同」が平成20年5月に公開質問状を胡錦濤氏に提出しています。全部で五つの質問状です。どれも胡錦濤氏から返事をもらっていません。全部紹介すると長くなりますのでここでは、質問の一だけを紹介します。
「一。故毛沢東主席は生涯にただの一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後の延安で講義され、そして『持久戦論』としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみです。30万市民虐殺などといういわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?」(参照:えんだんじのブログ「戦争を知らない国民のための日中歴史認識」(平成28年9月24日)
なぜ胡錦濤氏は、これらの質問に答えられないのか、教えてもらいませんか。

皆さんは上記三つの記事、一。文科省の検定 二。育鵬社の登場 三。日中歴史共同研究、を読めば、シナ側は、ひょっとして南京虐殺事件のユネスコ記憶遺産に登録してくるかもしれない等と予想できます。予想通りユネスコ記憶遺産に登録を申請し、平成27年10月10日にその登録の承認が発表された。早速日本では平成27年11月28日東京で「南京大虐殺の歴史捏造を正す国民会議」の集会が開かれ、議長に渡部昇一氏が選ばれています。
私がここで言いたいのは、なぜか渡部昇一氏が平然と議長に選ばれていることです。いいですか皆さん、渡部氏は、育鵬社の歴史教科書の監修者の一人です。その同じ育鵬社の歴史教科書監修者である石井昌浩氏は、すでに書きましたように平成23年7月23日に名古屋の歴史、公民教科書討論会で「南京虐殺事件は、あった」と公言しているのです。皆さん、平成23年7月23日以後、10日間ぐらいの間に、誰か有名な保守知識人で、石井発言に反発した人がいましたか。私の知る限り誰もいません。すでに書きましたように櫻井よし子氏も反対していません。日本会議の連中も反対していません。それにもかかわらず、日本会議の幹部は、「南京大虐殺の歴史捏造を正す国民会議」の参加者名簿には記入しています。東中野氏など民間の保守知識人の南京虐殺事件の研究論文など完全に無視しているくせに平気で加入しているのだ。
平成29年9月15日のえんだんじのブログ、「日本人の政治的幼稚さが国を亡ぼす。」で、私はこう書いています。
「戦前戦後を通じて、日本の保守知識人の特徴は権力から独立した知識人は、極端に少ないこと。むしろ権力によって認められてこそ知識人というか、そのことを望み喜ぶ知識人が昔からの主流なのです。これが日本の悲劇になっている。」
平成27年10月10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は正式に「南京大虐殺」関連文書を記憶遺産(重要歴史文書を保存)とした。なぜ日本にとってこのような悲劇的結末を迎えたかは、無論日本政府の責任だが同時に圧倒的多数の日本の保守知識人が日本政府に媚びて加担したからだ。すなわち文科省の南京事件を否定すると検定がもらえないことを支持したからです。渡部昇一氏、櫻井よしこ氏、日本会議、日本教育再生機構、教科書改善の会などそのことで文科省や安倍総理を批判したことありますか?

ところで安倍総理は、自民党議員時代は「つくる会」をえこひいきするように支援してくれましたが総理になると育鵬社支持にまわった、何故か。簡単な例を出して説明しましょう。「つくる会」は、どうしても南京事件を認めないと検定がとれない。そこで対策を変えて、南京事件については一切述べない、その代り「通州事件」を記載して検定をとった。これはまさにトランプ大統領ばりの「日本ファースト」なのだ。
安倍総理は、「日本ファースト」で日米関係を対等な同盟関係にしようなどとは考えてはいません、あくまでも日本はアメリカの忠実なポチとして行動したいのです。安倍総理の「70年談話」はその証明の一つです。こういう首相に憲法改正をまかせるわけにはいきません。「日本ファースト」を堂々と主張してくれるような総裁や総裁候補の出現まで待とうではありませんか。そんな首相が出現するはずがないと言う保守の人たちが多いからこそ現れないのです。
参考文献:
1.拙著「保守知識人を断罪す」(「つくる会」苦闘の歴史)平成25年 総和社
2.「戦争を知らない国民のための日中歴史認識」笠原十九司 平成22年 勉誠出版


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『尋ね人』、時田早苗(ときたさなえ)さん



ピョンチャンオリンピックでは、随分テレビ番組を見た。冬のスポーツでも色々なスポーツがあるものだと感心してしまいます。現在の10代、20代の人たちは冬のスポーツだけでなく、色々種々雑多なスポーツを楽しむことが出来て実に幸せだ。健康体の人たちだけでなく、何十年と患う人たちから車イスの人まで楽しむことができるのだ。今年の夏、80歳を迎える年代の俺たちにくらべると、同じ10代、20代でも天国と地獄の差がる。特に俺など極貧育ちだから、現代の子供たちと俺の子供時代との差は、天国と地獄の差以上、めちゃくちゃな開きじゃないかなと思う。
俺など両親と一緒にどこかに食べに行ったことは一回もありません、どこかに一緒に遊びに行ったこともありません。お正月にお年玉をもらったことなど一回もないままにおとなになってしまった。俺は長男で妹二人、男ひとりだからいつもお袋の手伝い。親父は重病の結核で入院、俺が手伝わなければ一家全滅というのを子供心に無意識に持っていた。自宅から7,80メーター先に井戸があり、井戸からつるべ落としで水をくみ上げ、二つのバケツに水を入れる、いわゆる水汲み仕事、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、ガスなし、自宅のトイレの汲み取り、自宅の小さな庭に穴を掘り便を埋める。親父は少しでも生活の足しにモルモットを育て、ジュウシマツを飼っていた。面倒なのはモルモットが大きいのでえさを食べる。その餌をかまでとるために山へ入るのだ。その山のごく近くにわざわざ住んでいたのは敗戦(大東亜戦争)のためであった。

俺は神奈川県の川崎市に昭和13年の時に生まれ、昭和16年の時大東亜戦争が起こった。俺が5,6歳のころ日本本土への空爆が度々あった。川崎は重工業地帯でいずれ大空爆にあうのは時間の問題と考え、俺一人を親父の実家、富山に疎開させ、両親と妹の3人は親父の勤務する日本鋼管系列の会社が草津にあったので、そこえ疎開した。予想どおり川崎は大変な空爆を受け、我が家は焼き尽くされてしまった。戦後親父の勤め先は川崎の日本鋼管だったので通勤範囲内の横須賀市の追浜の山の上に引っ越した。横須賀は山の多いい町だ。山の上、またその山の上にいけば家賃が安い、親父は肺結核にかかっていて入院しそうだったから、家賃の安い山の上、我が家を含めて5.6件でその上はまわりがすべて山だった。モルモット用の餌の野草なら山ほどある山上だった。俺は追浜の浦郷小学校に小学一年の三学期に転向した。浦郷小学校は古い学校で明治16年に創立され今年で創立135年という古さです。引っ越して、親父は重病の肺結核ですぐに入院、当時どこでも貧乏だったが俺の家の家族は、大貧乏所帯だった。日曜日は、朝遅く起きねばならなかった。朝食を抜いて一日二食の時もあったからだ。俺が小学校3年か4年の時だった、担任の先生が飯田先生といって女性の先生の時だった。その頃学校では秋になると学芸会があった。各組が演芸をやったり、歌を歌ったりなどして芸を競い合う学芸会があった。その時飯田先生は、俺の組で「白雪姫」を演じることを決めたのだ。その時飯田先生は、俺を白雪姫の王子役をやらせたのだ。どうして王子役に選ばれたのかさっぱりわからなかった。何しろ勉強はできない方だったからだ。俺の女房は、「あなたは子供のころからイケメンだったのよ」と言ってくれるが、俺には子供のころの写真など空爆で焼失一枚もないのだ。
いずれにしても俺は「白雪姫」の王子様役をやった。王子様の被る帽子は、硬いボール紙を緑色に塗り、着るマントは大きい風呂敷を着たことだけは覚えています。他のことは全然覚えていません。主役やる白雪姫は、時田早苗(ときたさなえ)と言った女の子で、お転婆な女の子だったということは覚えています。これ以外何も思い出さないのです。俺はその後浦郷小学校で彼女に会ったこともないし、俺は中卒後間際に藤沢に引っ越すのですがそれまでに一度も会った覚えはありません。
学芸会出演の時には、俺の両親は着ていません。父は結核の重症患者で入院中、母は病院に看護に行っていたからです。時田早苗さんの両親が見にきていたかどうかわかりあません。
俺が今もって不思議に思うのはたったこれだけの思い出だけでよく時田早苗さんというフ
ルネイムを70年間も忘れる事もなく覚えていたものだと感心しています。

ピョンチャンオリンピックのテレビ番組を見ていたとき、俺には若い時夢中になってしたことは何もなかったことを改めて思いだし、思い出に残ることはなんだったかと考えたとき、学芸会で白雪姫の王子役をやったのを思いだし、白雪姫役の時田早苗さんの名前がすぐ出たのだ。これには自分でビックリした。飯田先生という女性と時田早苗さんしか思いだせなかったのだ。飯田先生はともかく、時田早苗さんというフルネームがなぜか覚えていてすぐに口に出たのだろうか。他の学友たちの名前は一切出てこなかったのだ。なぜか彼女の容姿や顔つきを全く思い出せないのに、なぜフルネームだけ覚えていたんだろう、こうして「訪ね人」を利用して探してみようと思ったのだ。

『尋ね人』
「時田早苗さん、あなたは、横須賀市追浜の浦郷小学校3,4年の時、女性の担任の飯田先生のもとで学芸会の時、「白雪姫」の主人公白雪姫を演じませんでしたか?私は白雪姫の王子役を演じた鈴木敏明と申します。私は飯田先生以外の生徒の名前は誰一人思いだせないのですが、時田早苗さんの名前は何故かほぼ70年間覚えていたのです。時田さんが健康であったら、ぜひ私と会ってもらいませんか。白雪姫と王子が70年ぶりに再会というニュースが盛り上がるかもしれませんよ。お互い70年間の人生の営みを話し合いませんか?
もし興味がありましたら、ぜひこの「えんだんじのブログ」に応答してください。あるいは、メイルで私あてに返事をお送りください。私のメイルアドレスは、tosi-suzuki@d03.itscom.net, あるいは私は横浜に住んでいますので自宅の電話番号は、045-903-6348にご連絡ください。もし読者で時田早苗さんの居所をご承知の方がおりましたら、私あてに連絡してください。よろしくお願いします。」

テレビでオリンピックを見ている最中に、ふと思い出したので、このようなブログを公表してみました。もしこれで時田早苗さんと会えるようでしたら、俺はオリンピックで金メダルを取ったのと同じようなことですね。


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日本民族の二大欠陥



一。日本人は、日本語が大嫌い
私のような年寄に言わせると、現在はカタカナ語の大氾濫の時代です。一時総理大臣を経験した小泉純一郎氏が厚生大臣の時、福祉や介護関係の役所用語が訳の分からないカタカナ外来語ばかりに驚き、これでは現場の職員もサービスを受ける側も充分理解できないではないかといって、省内に用語適正化委員会を発足させ、なるべく分かり易い日本語に改めるよう指示したことを覚えている人がいるでしょうか。その時やり玉に上がったのがノーマライゼイション、ターミナル・ケア、ウエル・エイジング・ソサイアティーなどです。
これらの言葉が今現在どのような日本語が使われているのか、あるいはそのまま外来語が使われているのか私は知りません。いまから50年前、私が20代の頃よく利用した職安(職業安定所)が10年前あるいはもっとまえ15年前ぐらいからハローワークと言う言葉が使われた。職安、あるいは職業安定所という立派な、落ち度などなにもない立派な日本語が、なぜ「ハローワーク」などというふざけた言葉になったのかいまだに説明もありません。それどころかこのハローワークなる言葉が完全に日常語化され、職安、職業安定所などもうほとんど死語化したも同然になってしまった。ほとんど死語化した日本語がいくらでもある。最近私は幼児の子育てをしている女性に、「あせ知らずを使ったら」と言ったら、「あせ知らずって何?」と聞くではないか。ベビーパウダーなら知っていたのだ。メーカーも英語読みにした方がかっこいいと考えているのだ。カタカナ用語は大氾濫しつづけ、コンシェルジェ、トレイン・アテンダント、サービスプロバイダー、コンプライアンス、等等。なぜここまでカタカナ語が氾濫するのか。それはもう日本国民が完全に「日本語はダサい」、「垢抜けしない」、「野暮ったい感じがする」、「夢がない」ないなど、最近の会社名などカタカナ一本やり、作っている製品もカタカナ名ばやり、日本語では人は集まらない、品物が売れないときているのだ。とにかく日本人のように自国語を嫌う民族は世界中どこにも存在しません。その原因はなにか。西洋の“物まね”がいまだに時流中の時流だからなのだ。
バレンタインデイーのチョコレートの売り上げは、今では完全に全国的に毎シーズン売り上げに貢献し、今ではハローインパーティの仮装行列が全国化しつつある。さらにびっくりするのはLGTBという言葉です。

今ではまだLGTBの言葉の詳細を知らない人がいますので説明します。女性同性愛(Lesbian)、男性同性愛(Gay)、同性愛(Bisexual)、性同一性障害を含む肉体と精神の性別が一致しない(トランスジェンダー)の頭文字の組み合わせをそのまま、エルジーティービーと読んでいます。日本人得意の英語の日本語化を使わずに今では即座に理解するようになってそのままLGTBと使っているのだ。日本人の英語力の進歩の一端でしょうか?日本人には昔から、自国の日本語を自慢するより嫌ってきた伝統があります。皆さんご存知のように明治の初代文部大臣、森有礼は、日本語を廃止して英語を国語に採用しようと提案しています。大東亜戦争で大敗北し、敗戦後の混乱期に文学者志賀直哉は、日本語の非能率のせいで、日本は愚かな戦争をした挙句惨めな状態に陥ったのだから、この際思い切って色々と問題の多い日本語を捨てて、世界一美しいと言われるフランス語を国語にしなければ日本に未来はないと、まじめに提案していたのだ。これなど「たかが小説家が偉そうなことぬかすな」の一言ですますこともできるが、戦前戦後を通して長く衆議院議員を務め、「憲政の神様」とまで言われた尾崎行雄(咢堂)は、戦後文部大臣を務めていながら、
「日本を真の民主主義国家にするためには漢字を廃止するだけではなく、『日本語と言う幽霊』を退治しなければだめだ」と主張続けたことで有名だと言うのです。私は今回初めてそのことを知ったが、何が憲政の神様だと言うのだ。憲政の神様に値する男ではありません。
明治時代に入ってどっと西洋文明が日本に流れ込んできた。漢字にはない沢山の欧米の語彙を明治の先人たちが一生懸命日本の漢字を当てはめて作った新漢字がおよそ300語、清国からの留学生がこれらの新漢字を逆輸入して清国で使われるようになったのです。こうした明治の先人たちの努力のお蔭で日本は、欧米文明、文化を学び、吸収することができた。今では言葉のハンディで日本が欧米の文明文化の吸収に遅れをとっていないことは、日本国民にとって明白な事実です。それにもかかわらず、小淵恵三内閣の時、彼の私的懇談会が「英語第二公用語」論を発表したのだ。そしてとうとう現在では英語が小学生から強制的に学ばそうとし、そのために巨額の税金が投じられることになった。
カタカナ語の大氾濫、日本在住の外国人の大増加などで英語が第二公用語になるのは時間の問題になってきた。日本語嫌いの日本人には大喜びの事でしょう。

最後に、現行日本憲法の原文は英語ですよ。終戦直後GHQ(アメリカ占領軍)が自分たちの作った憲法を日本人に強制的に押し付けたからです。日本独立後70年以上も過ぎた今でもそのまま使い続けているのだ。現代日本人には、もう日本人意識が何もないのだ。愛国心のない日本人に、日本人意識があるはずがない。

二。日本人は、自分の出世のために祖国をこき下ろす
日本人の最初の日本人毛嫌いは、日本人の容姿からでした。幕末明治になって沢山の欧米人が日本国内で見られるようになった。日本人が驚いたのは彼らの体躯容姿が立派であることだった。日本人の中には、自分たちの「醜く貧弱で見劣りする体」を、西洋人のように立派にしなければだめだ、西洋に負けてしまうと真剣に考え人種改良論を主張する人達もうまれた。その一人が明治初期の大物政治家で北海道開発長官、黒田清隆です。彼は何かにつけて日本人の体格が西洋人と比べて見劣りすることを嘆き、これからの若い者は出来るだけ西洋人と結婚して混血を増やし、日本人の体格を西洋人なみに近づけねばと主張していた。
大正元年、パリ留学から帰国した詩人、高村光太郎は「根つけの国」というタイトルでこういう詩を書いているのだ。
「頬骨が出て、唇が厚くて、目が三角で、各人三五郎の彫った根つけの様な顔をして、魂を抜かれたようにぽかんとして、自分を知らない、こせこせした、命のやすい。見栄坊な、小さく固まって、納まり返った、猿の様な、狐のような、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、めだかの様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人」
この詩の正確な意味は、私には分かりませんが、日本人の容姿をけなしていることは確かです。高村光太郎といえば、有名な詩人だ、よくもこんな詩が書けたものだ。
昭和44年、東京オリンピックの5年後、当時アルゼンチン大使の河崎一郎氏が、英語で「Japan Unmasked」という本を出版した。これは直ぐ「素顔の日本」(二見書房)として日本語訳が出た、日本の読者アッと言わせた酷い本だった。河崎大使は、その本に
「世界の人種の中で日本人は、おそらくホッテントットとピグミーを除けば、身体的魅力の点で、もっとも劣っていると思われる人種だ」と書いているのだ。これ以外でも日本人をけなす文章を書いたのが、国会でも問題になり、彼は大使を首になったのだ。
これはまだ日本人が日本人の容姿の醜さを嘆いているのだからまだかわいいほうです。こが日本人がやってもしない大残虐行為をやったという噓を書いた本が続発した。それで有名になったのがいわゆる「従軍慰安婦」事件(吉田清治/朝日新聞)と「南京大虐殺事件」(本多勝一/朝日新聞)です。この二つの事件はあまりにも有名で保守陣営の人たち誰も知っていますので詳細は、省きます。うそを書いて日本及び日本人をこき下ろす本は戦後直後からかなり書かれています。私の調べを列挙して要約します。
(1)吉田満著「戦艦大和ノ最期」創元社、昭和27年。
吉田満は、戦艦「大和」に乗り組み、九死に一生を得た人。吉田は「大和」乗組員の残虐行為を本に書いたが、生き残りの乗組員に否定され、訂正されずに吉田は死んでしまった。

(2)沖縄タイムス記者、太田良博と牧港篤三「沖縄戦記―鉄の暴風」沖縄タイムス、昭和25年。この本で沖縄の集団自決が日本軍の命令であったと記したことが大問題になった。曽野綾子氏は、「それは、軍命令であったことにしておかないと、島民で死んだ人達の遺族に年金がおりなかったのだ。」と主張しています。渡嘉敷島で集団自殺して命を落とされた人々の遺族にとって、赤松元隊長は、命の恩人にも匹敵する人であったが、それが渡嘉敷島島民ばかりでなく、全沖縄島民から極悪人よばわりされるようなった原因は、この「鉄の暴風」の二人の記者が、伝聞で書いたか、或は勝手に嘘を書いて創作してしまったからです。
「米軍上陸前日、軍は忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた」、「村長初め役場職員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した」とそのまま記載されています。この本の初版は昭和25年です。この時期米占領軍による検閲制度があった時代。著者は米政府や米軍を表立って批判、非難できないのはわかる。だからといって噓までかいて日本を貶めるとは何事かというのだ。

(3)東史郎「わが南京プラトーン」青木書店、昭和62年。
プラトーンというタイトルは、当時ヴェトナム戦争を描いたアメリカの戦争映画「プラトーン」が上映され、その映画のタイトルを借用したもの。東の所属する部隊が南京場内の警備を命じられ移動中に、一人のシナ人が捕まえられ、筆紙に書くにはあまりにも酷い残虐行為を与えた。その命令をだしたのがH伍長と実名をだした。著者の東は、H伍長は死んだと思っていたのでしょう。H氏は、平成5年、東や出版社等を名誉棄損で東京地裁に提訴した。提訴された東は裁判に負け、東は新たに弁護団を結成し、東京高裁に控訴。
平成8年9月から公判が開始された。著者の東は証拠集めと称して南京を訪れ、南京虐殺館が彼に協力、この頃には東の名前はシナ全土に知れ渡り、シナ人の間で一番有名な日本人になっていた。平成11年3月、「わが南京プラトーン」は豪華な装丁でシナ語版出版され、4月には東とその弁護団は訪中し、北京や南京のテレビに出演、日本政府と裁判所批判をくりかえしていた。最高裁の判決は、東と青木書店の敗訴と決定。この裁判で勝訴した高池勝彦弁護士は、シナから「歴史を歪曲する右翼」と名指しされ、批判されたあげく、顔写真は瀋陽の抗日記念館に展示された。高池弁護士は、現在では「新しい歴史教科書をつくる会」の会長でもあります。平成18年1月東は大腸がんのため死去、93歳。この時シナ政府から哀悼の意が示された。

4.丸木位里、俊夫夫妻「南京大虐殺の図」
丸木夫妻は、反戦画家として知られています。夫妻共同で描いた代表作、「原爆の図」は有名で、埼玉県、東松山市の丸木美術館で「原爆の図」は、常時展示されています。常時展示されている夫妻の絵の中に「南京大虐殺の図」があります。」この絵の完成は、昭和50年です。それから22年後の平成6年8月17日の日本経済新聞に小さな見出しつきで次のような記事が載っていた。まず見出しは、
『「南京大虐殺の図」巡り論争、写真では中国兵が処刑(徳島の研究家)、蛮行を訴えるのが目的(反戦画家の丸木さん)』。その記事は次の通りです。
「反戦画家として知られる丸木位里、俊夫夫妻の作品『南京大虐殺の図』をめぐり、徳島県小松市の戦時教育研究家茶園義男さん(70)が自分の持っている絵の構図と良くにた写真では中国軍保安隊員が中国人を処刑しているのに、丸木作品では日本兵が処刑となっている。」と指摘している。
丸木俊さんはこの写真をモチーフにしたことは認めたが「作品の意図は旧日本軍の蛮行を訴えることで戦争を否定することにあり指摘は検討違い」と反論している。
「南京大虐殺事件」は日本、シナ間で論争の的になっています。日本政府は、南京大虐殺はあったが被害者数は、まったく不明の立場です。一方日本の保守陣営は、南京第虐殺は全くなく、単なる捏造に過ぎないとの立場です。それを丸木夫妻は、シナ政府の主張を自ら証明することもなく勝手に彼らの主張を認め、しかもその証明のために中国軍保安隊員が中国人を処刑している写真を日本軍が中国人を処刑している絵に変えているのだ。絵画では少しでも他人の筆がはいると贋作といわれ、相手にされないが、写真はその構図をかってに絵にかえても贋作にならないのだろうか。いずれにしても丸木夫妻は卑怯な手を使っているのだ。しかも驚くなかれ丸木夫妻は、ノーベル平和賞候補にも選ばれているのだ。丸木美術館のある東松山市の市当局に丸木夫妻の「南京大虐殺の図」を美術館から撤去するよう要求します。
このブログの作成にあたって二冊の参考文献を使用しています。一。「日本人は、なぜ日本を愛せないのか」(鈴木孝夫、新潮選書)。二。拙著「逆境に生きた日本人」(展転社)。





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「談合」という日本の文化



今年の1月12日、成田空港の滑走路や東京のコンテナふ頭などの舗装工事の入札をめぐって大手道路舗装会社が談合を繰り返していたとして、公正取引委員会は独占禁止法にもとづいて合わせて8億円の課徴金を命じる方針をかためたと報じていた。産経新聞の1月16日の一面記事にリニア中央新幹線建設工事(総工費9兆円の巨大プロジェクト)をめぐってゼネコン大手4社(大林組、鹿島、大成建設、清水建設)による談合事件で、鹿島建設が社内調査の結果、不正な受注調整に関与していなかったと結論付け、独占禁止法の課徴金減免制度(リーニエンシー)に基づく違反の自主申告を行わない方針を固めたことが15日にわかった。課徴金減免制度(リーニエンシー)についての説明記事は以下のとおりです。
「企業が自ら関与した談合やカルテルについて、違反内容を公正取引委員会に自主的に報告した場合に課徴金が減免される制度。(寛大さ)を表する語源の英語から(リーニエンシー)と呼ばれる。公取委の調査開始前に最初に申告した会社は課徴金の全額免除だけでなく、刑事告発も免れる。先着順で5社までで、一番目は全額、2番目は50%、三番目以降は30%が減額される。」
これはアメとムチが明確で事実上の司法取引ともいわれるゆえんだ。

ここからは私の体験談を書きましょう。今から50年まえ、私が29歳の時、ニューヨークの株式市場に上場しているアメリカの一流建設会社F社の東京の調達事務所に入社した。当時世界中で石油化学プラントの建設需要で沸いていた。石油化学プラントだけでなく大規模プラントを建設しようとする顧客は、国際入札にかけてどこの建設会社に建設させるかを決めてゆきます。この時期日本の建設会社とアメリカの建設会社の応札方式が完全に違っていた。日本の建設会社は、このプラント建設に一括して5億ドル掛かると見積もればば、5億ドルと応札していた。この一括応札方式をランプサム(Lumpsum Price)と呼んだ。一方アメリカの建設会社は、実際の建設にかかった費用は全部請求しますが、その他に建設手数料を請求していた。要するに建設費用プラス手数料の二本だて見積書をだしていた。これをコストプラスフィー(Cost Plus Fee)と呼んでいた。
日本の会社の一括払い方式(ランプサム)では、欠点があった。建設期間が長いから当時5年から長くて10年。段々工場規模が大型化して建設が終わるまで期間が長くなっていた。そのため、世界的な原料、資材の値上がり、労賃の値上がりなどで一括方式(ランプサム)で契約すると赤字になる恐れがあった。アメリカの会社のように建設にかかった費用は全部請求し、その他に建設手数料を請求するほうが、損する機会が全然ないからです。プラント建設に必要な資材、機材、機器の買い付けに膨大な費用がかかります、アメリカの建設会社は、一番安い値段で買っていることを証明しなければなりません。それでは私が勤めていたアメリカのF社は、一大プラント建設請負の仕事を契約した時に行う東京調達事務所での大がかりな仕事をできるだけ簡潔に書いてみます。
F社がサウディアラビア向け(顧客アラムコ)の月産30万との石油精錬プラントを受注。すぐにContract No.(契約No.)1212などの必ず4桁の番号が割り当てられます。F社は世界中でプラント建設を行っているから、このいろいろの4桁の番号が必ずあたえられる。このContract No.をみればどのプロジェクトのことがすぐ分かる。本社から日本メーカーに出すべ無数の引合い書が送られてきます。ここで驚くべきことは、その引き合いの種類の多さです。皆さんビックリするかもしれません、石油精錬プラントに使う、ボルト、ナットの単独の引合書までが作られるのです。まるで精錬プラントをまるでノックダウンするように分割されて引き合い書が作られるのです。電線、変圧器、溶接した鉄骨、工作機械等々、こういう種々雑多な引合が来る。私はたまたまこういう雑多の製品の購買担当だったのだ。私が技術的なことには全く素人だったからです。その代わりやることは全く商社マンだった。メーカーの英文見積もり、英文書類の作成を手伝うことも多かった。アメリカ本社は、重要な機器からこういった部品感覚のような雑多の製品まで無数の引合をつくり、それを欧米、日本その他に送って国際入札し、そこから品質的に最高であり、価格的に最低の値段で買い付けていますよということを顧客に証明できます。そのため私の実体験でもF社は理由もないのに値引きなど絶対要求せず、どんな値段でも船済み後30日,全額現金払いです。
入札応募者は、入札書類の基づいて見積作成しますが、その見積りはすべてsealed bid(封印した見積書)で全部アメリカ本社に送られ、見積り提出の締め切りの翌日、一斉に公開されて見積書の評価が始まります。またその日までに日本メーカの見積書のコピーが私あてに送られてきます。見積書についての質問があれば東京事務所にテレックスで送られてきます。これによってF社が如何に公正に安く買っているかを顧客に示すことができた。F社が顧客に請求する費用の公正さは、購買金額だけではなかった。

私たち日本人スタッフもアメリカ人スタッフも全社員、毎週月曜日に先週のワークシート(work sheet)の提出を義務づけられた。月から金曜日まで毎日自分が働いた各プロジェクトの労働時間を書き込むことになっていた。例えば先にあげたアラムコのプロジェクトNo.1212は月曜日4時間、他のプロジェクト NO.では2時間、また他のプロジェクトNo.では2時間、計8時間、最終の金曜日までつけて5日間で40時間。残業があれば、プロジェクトNo.ごとに計5時間。合計45時間に自筆のサインを書いて提出です。各プロジェクトごとに建設が終わるまでの各事務所の労働時間数がわかります。
まだ他にもあります。コピー機が置いてあるコピー室には、現在作業中のプロジェクトNo.
が書いてあるシートがあります。アラムコのプロジェクトNo.1212用のコピー5枚とればコピーをとる日付けと枚数を書きこみます。その他にこういうこともします。お客さん(業者)二人が私に会いに東京事務所にやってきます。会社ではお茶、コーヒー、あるいはコーラを差し上げることになっています。サービスする女性は、プロジェクトNo。と日付けとコーヒー1、お茶1、コーラ1とかのように書き込みます。最終的のこのコストはF社の顧客に請求されます。要するに建設に関わるものはすべて請求し、その他に建設手数料を請求する場合、こういう購買方法をとるのが一番良いという見本のようなものでした。私が入社した当時、日本の建設会社もランプサム プライスでなくコストプラスフィー方式の値段を提出したくてしょうがなかった。それが出来なかったのは、国際入札経験の差と談合方式慣れた企業の差だったのでしょう。
あまり海外取引の経験のない中小メーカーは、このやりかたに全然なれておらず、最初のうちは半信半疑であったが、実際に値引きなしで注文が決まり、船済みされ、支払いが船済み後30日で全額現金で払われると、彼らの目の色が変わった。国際入札でも日本勢のなかで一番札をとれば、日本に発注されるのを実感したからだ。それでさえ中小メーカーの中には、日本の大手の建設会社から直接引合をもらうことがむずかしかったのだ。
こうしてF社の東京調達事務所は、私が入社して以来12,3年間は全盛期であった。検査、運送などの取引先は、出向社員をF社の東京事務所に常勤させるようになった。その時にはわからなかったが、今にして思えば、1㌦360円という固定相場がいくら先進国ならどこでも作っている製品でも日本製品なら中近東のプラント建設現場に運んでも安かったのだ。全盛期、東京事務所だけで毎年調達金額100億円をゆうに超えていた。

しかし東京事務所の繁栄期は終わった。1㌦360円の固定相場制が終わり円高になり変動相場制になったからだ。F社は東京事務所にレイオフを求めた。二度目のレイオフの時、私は退社した、48歳の時であった。私は18年間購買スタッフとして働いたが、F社の買い付けの公正さには驚くばかりであった。私には確信はないが、この時までに日本の建設会社は、国際入札では,建設に関わる費用はすべて請求し、建設手数料はいくらですといわゆるCost Plus Fee 方式の値段が出せるようになっていたはずです。何故なら国際入札で「談合」方式などできないからです。
しかし現在でも国内の大プロジェクトでは、相変わらず「談合」取引きが健在です。私がこのブログ記事で最初に取り上げた課徴金減免制度(リーニエンシー)が施行されたのが平成18年1月からです。談合ビジネスがこの50年間繰り返し行われていたのでしょう。談合は違法行為です。皆さんそのことは十分かっています。しかし建設会社の上層部が「談合」と決めたら、皆しぶしぶながらでも当然のごとく従うのです。定年退職した役人や元建設会社社員は、談合は必要悪と肯定し、徹底して嫌った人に会ったことはありません。なぜ「談合」を受け入れようとするのか。私は日本国民というのは徹底的に論理的に考え、論理的に行動することを嫌う民族ではないかと考えています。

話題からはずれますが、大東亜戦争でも日本は徹底的且つ論理的に考え、論理的な見事な作戦をたてながら実行できず、山本五十六の真珠湾攻撃という愚策を生み、彼は偉人にまでになった。敗戦後GHQの作った憲法を強制的に施行され、独立回復後もそのまま現在まで使い続けるという馬鹿丸出しの行為です。そして現在の憲法改正問題でも非常に多くの日本人が徹底的に論理的に考え、論理的な憲法が作れないのだ。無意識のうちに見たくないこと、意識したくないことを避けようとしているのです。
ところで「談合」と言う言葉は英語で何と言うのでしょうか。これこそ「談合」という意味の英語だという単独の英語の言葉はありません。私の和英辞典では、「談合」とは、conspire(conclude) to fix prices before tendering. と表現しています。
「談合」とは日本文化の一つの弱点ではないでしょうか。必要悪どころか違法行為の罪なのです。日本の大組織がぐるになって堂々と悪事行為を繰りしている犯罪なのです。経営陣も労働組合もなぜやめようと声を出さないのでしょうか。談合事件があれば、国民もまた談合事件があったのだと、平気のつらだ。談合事件に麻痺して論理的に判断した行動ができないのだ。すでに書いてきましたが、現行憲法でも同じようなことが言えます。

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現在の日本国民が絶対必読すべき本



その本のタイトルは、「自衛戦力と交戦権を肯定せよ」、小山常美著、自由社。小山常美氏は「つくる会」理事であり公民教科書の執筆者の一人。自由社は「つくる会」の発行する教科書の出版社。今年は現行日本憲法の改正について本格的に論議されるでしょう。私が国民の皆さんに、なぜこの本を必読の本と薦めるのか、その理由は以下の通りです。
1.本の頁数は104頁、本の値段700円+税。内容充実、値段が安い。国民必読の書にはもってこいの本です。憲法改正の最大の注目は、軍事関係です。この本は現行憲法の軍事上の法的欠陥を示し、どう法的に対処すべきか詳細に書かれています。

2.憲法改正問題で一番重要なのは、軍事条項です。すなわち外国に関わる問題です。憲法改正問題が純然たる国内問題だけであるなら、いつでも簡単に修正、改正できます。しかし軍事条項は外国との関係、外交関係です。それだけに軍事条項の法律は、徹底して法的に、論理的に討論し、外国に曲解、歪曲されない条文を規定しなければいけません。私の推薦するこの本は、すべて軍事条項に関することだけを徹底して詳述しています。

3.憲法問題は堅苦しい問題になりがちです。そのため日本国民の多くの方々は、知識人はどのような考えを持っているのかに敏感になっていて、知識人たちの考え方を参考にしようとます。しかし私は、皆さんに自分たちで考えて、自分たちで結論を出して決めてくださいとお願いしています。私と同年代のオランダ人ジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレンという人がいます。彼の書いた「日本・権力構造の謎」は世界的なベストセラーになった。その後彼が書いた本、「日本の知識人へ」の一頁目の論文のタイトルは「なぜ日本の知識人はひたすら権力に追随するのか」。その論文の書き出しの文章には、こう書いてあります。
「日本では知識人が一番必要とされるときに、知識人らしく振る舞う知識人がまことに少ないようである。これはいたましいし、危険なことである。さらに、日本の国民一般にとって悲しむべき事柄である。なぜなら、知識人の機能の一つは、彼ら庶民の利益を守ることにあるからだ。」
私はこのウォルフレンの言葉に全く賛成です。日本の知識人は「ひたすら権力に追随するのです。」時流や権力に媚びることなく独立した冷静な話をしてくれる知識人が極端に少ないのだ。憲法学者、歴史学者、政治家たちは、終戦後当時の権力者、GHQに競うように追随したのだ。現在の憲法改正では安倍総理への保守知識人の追随者であふれるばかりです。

4.平成29年5月3日、安倍総理は憲法改正への新提案を提出した。その提案は憲法九条一項と二項を温存したまま三項を追加し、自衛隊が憲法違反だと言われない根拠規定とするという案でした。これに対して驚くなかれ、多くの保守知識人はこぞって賛成した。安倍総理の太鼓持ち知識人や太鼓持ち知識人になりたがる保守知識人がごまんといるのだ。
彼らは安倍総理の改正提案に全く賛成でもないのだが、安倍総理が改正しようと言うのならこの際憲法改正しよう。改正できるのは安倍総理しかいない、他に安倍総理の代わりに任せられる政治家はいないのだの一点ばりです。

5.この安倍総理の改正に反対なのがこの本の特徴なのです。現行憲法は、終戦直後アメリカ占領軍によって強制的に作成、施行されたのです。現行憲法を改正してしまったらアメリカ占領軍が作った憲法を現在の日本国民が認めたことになります。其の点を全く考慮しようともしないのです。また自虐史観をそのまま認めたことにもなります。帝国憲法が悪い憲法だったと日本国民は教えられてきた。それが不自然に容認されてきたのです。日本の憲法学者や歴史学者は、国民に嘘を教え込んできたのだ。この現行憲法を改正せず破棄し帝国憲法を復活させ、その帝国憲法を即改正すればいいのです。これこそが私が必読と勧めるこの本の主張です。私は現在の日本の保守知識人の主張など、「はい、そうですか。」と簡単に認めるわけにはいきません。皆さん、ぜひ小山常美著、「自衛戦力と交戦権を肯定せよ」をお読みください。

若い選挙権のある皆様へ。
皆さん、私が先ほど申し上げたように、この現行憲法は、日本敗戦後すぐにアメリカ占領軍(GHQ)によって強制的に施行されたものです。政治家、憲法学者、歴史学者などその強制施行という印象を極度に薄めようと細心の努力をはらってきた。国民にうそもついてきたのです。その結果日本独立回復後70年以上も何一つ変えることもなく保ってきたのです。現行憲法を改正すると、GHQが作った憲法は、日本憲法、すなわち日本人が作った憲法になってしまいます。そこで私の勧めるこの本は、現行憲法を法的に、論理的にどのように改正し、改正後の憲法をどのように処するかが書かれています。104頁という薄さだからぜひ熟読をお願いします。現在の日本人は現行憲法や大東亜戦争など自分自身で学ばないと本当のことを理解できないのです。私自身このことを知ったのは、40代に入ってからです。皆さんの努力を期待しております。

定年生活をしている皆様へ。
日本人の人口構成で私たち定年生活者の層が一番多いのです。すなわち私たちの動きで日本を動かすことができるのです。私たちが一致して安倍氏の改革に反対すれば、私たちの考え方を採用しようとする政治家も現れます。しかし残念ながらサラリーマン生活、40年もやっていると、いつも上からの命令で動くことに慣れているから、自分で決断して行動することに慣れていない。しかしこの憲法改正問題は、日本の明日を決める最重要問題です。どうか自分自身で勉強し、自分の判断で決めてください。その判断材料の一つとしてこの「自衛戦力と交戦権を肯定せよ」を読んで参考にしてください。

安倍総理への私の見解。
保守陣営の多くの方々は、安倍総理だけが頼りだ、安倍総理の代わりになる方がいないから、しかたがないのだの一点ばりです。私も最初は強力な安倍支持者であった。しかし彼には完全に失望した。一国会議員の時代から安倍氏は「つくる会」運動を積極的に支持してくれた。しかし総理になり育鵬社が設立されると反「つくる会」の伊藤哲夫氏、八木秀次氏などの支持に変節した。今ではこの二人は、安倍氏の太鼓持ちであることがわかった。この変節に加えて平成27年の安倍談話。平成29年の安倍氏の憲法改正内容等で完全に失望、絶望した。安倍氏にはアメリカの属国から完全に日本独立国家にし、対等の日米同盟を築こうとする勇気も根性もないのだ。所詮二世議員の一人、いざとなると度胸、根性もないのだ。保守支持者の連中は、安倍さんの代わりがいないと主張します。日本民族の資質が劣化してしまったと考える支持者が極端に少なっているのだ。これも日本民族資質の劣化の証明でしょう。
昔流の差別用語を使えば、戦争に負けた日本は毛唐が作った憲法を、日本国憲法にしろと言ったらその憲法も何一つ帰ることもなく日本独立後70年以上使い続けているのだ。私たちのすぐ上の先輩たちは、大東亜戦争で勇戦奮闘し、祖国日本の為に若い命を投げだしてくれたのだ。例え敗戦でも毛唐が作った憲法を独立後70年以上も無効にすることさえもできないのだ。私たちは、日本人の魂、「大和魂」を完全に失い、死語にしてしまったのだ。

私事を書きましょう。私は平成21年に自民党党員になった。党員番号0914-00996-8。その年は鳩山由紀夫内閣が誕生した年です。当時自民党員の登録数が激減したころです。自民党を潰してはいけないと入党したのです。以来今日まで自民党員を続けています。もし安倍総理が主張した通りに憲法改正が国民投票で支持されたら、私は自民党員をやめます。祖国日本の復活の夢が絶えたからです。こんな私を時代遅れの男と笑わば、笑え。俺は死ぬまで戦い続けるぞ。アメリカが作った憲法を日本製の憲法と認めるなら、その後の日本は、どうなるかはこの本に書いてあります。私の意見に賛成、反対にかかわらず、この本「自衛戦力と交戦権を肯定せよ」を読んでください。こういう考えもあることを知っていただきたい。お願いいたします。
最後にこの本の著者、小山氏の考え方は、「つくる会」の統一した考え方ではありません。「つくる会」にも色々な考え方がいます。それだけに皆さんも、自分自身で勉強し、自分自身で考えてください。その参考用としてこの本をぜひ読んでみてください。


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80歳を迎える年の大気炎年始



皆様、おめでとう御座います。今年もよろしくお願い致します。
私は今年の8月1日で満80歳を迎えます。年寄の言葉に「80-20」という言葉があります。80歳になったらせめて自分の歯は、20本ぐらい持っていたいと言う意味です。ところが私は80歳になっても20本どころか全部健康な自分の歯を持つことはまちがいない。昨年12月には町田で講演をしましたが、一時間半の講演時間、椅子を使わず立ち続けで講演をしました。これなら90歳までは生きられる、それどころか現在は、人生100年時代。場合によっては100歳までもが決して夢でない。私の人生は不運な時代と幸運な時代とに極端に別れます。

一。不運な時代
私は極貧育ち、頭は並よりほんの少し良いくらい、特別な才能は全く何も無し、体力は並の体力、普通高校卒だけで社会に放り出された。結婚し子供三人育てている最中に離婚。家庭では両親が二人とも重病、病弱で老後の母の面倒みてもらうため叔母が同居。母死後、叔母も即入院。私が50代半ばまで家族の誰かがいつも病気だった。自分の健康の大切さを意識させられ、仕事でも遊びでも三日続けて12時過ぎの帰宅はないようにした。こうした私の人生は、絶えず戦うことを強いられた。人が5年かけてできるものは、俺は10年、あるいは15年かけてでもやってやる、そのためには健康で長生きしてやると心に誓っていたのだ。外資系五社を渡り歩き、愛社精神などひとかけらも無し、仕事への愛情も一切なし、ただあるのは強い金銭欲だった。夢もなかった。いや、夢はあった。株価高騰時代だった頃の夢だ。私が55歳頃には、三人の子供は完全に一人前だ。そこで自分で定年を55歳と決め、私費でアメリアカへ一、二年の語学留学し、そこで白人女性の恋人を持とうと決めた。一転株は暴落し、損はしなかったが大儲けしそこなった。消えた夢のかわりに再婚した。そして今年の夏とうとう元気で80歳を迎えることができるのだ。若いころ「長生きしてやる」が現実的なものになってきたのだ。ついに自分の出番がやっていきたのだ。
二。幸運な時代
サラリーマン生活、実働40年。長い、長い戦いであった。定年後一転して幸せな生活になった。再婚していたが、我が家から初めて病人がいなくなった。しかし定年後一、二年の間は時々悪夢にうなされた。辛い仕事の場面が夢の中にあらわれ、どうしたものかと自分自身がうなされ、ハット目がさめ、「夢だったのか、もう定年なので良かった」と安堵することが幾たびかあった。
自分の正義感で書いた長編歴史評論「大東亜戦争は、アメリカが悪い」が評判を呼び、縁もゆかりもない鎌倉在住の読者、渡辺昌明氏の資金と翻訳援助により英文化し、英文化出版に手を差し出してくれた茂木弘道氏により勉誠出版が紹介され、出版社倒産で市販されていなかった「大東亜戦争は、アメリカが悪い」が2015年に再出版されたことです。
読者から私の文章力をほめていただいたことはうれしいのですが、何といっても西尾幹二先生に直接褒められたことが天にも昇るような気持ちでうれしかった。私は子供の頃から学生時代も文章など書いたことは一度もないし、投稿したこともない、自分で文章を書くのは苦手と思っていた。それを西尾先生に言うと、先生は「文章というものはそういうものだ。文章を沢山書いてきたからといって、文章が上手になるとはいえない。いくら書いてもへたなものはたくさんいる。いきなり長文を書いても上手な人はいる」と言うのです。
人生とは不思議なものだ。定年なるまで自分には才能など何もなく、ただがむしゃらに努力を続けてできるのが才能みたいなものだった。私はこれまでに本を八冊出版しています。そのうち最近の二冊は小説です。小説を書いた実感は、他人の書いた本を沢山読んで書く歴史評論よりも小説書くほうが楽しい実感だった。自分にも書く才能があると実感できたのだ。人生とはわからないものだ。私に文才があることがわかって本当にうれしかった。
それでは100歳まで20年間になにをやるか。私が「えんだんじのブログ」を書き出して10年目に入っています。今年の10月で10年目が終わります。最初の一年間は毎週書いていて、その後は2週間おきに書き続け、現在投稿数286件。これを一冊の本にまとめて書きたい。そのあと次はやはり小説を書きたい。女性の一生を小説に書きたいと思っています。人生100年の時代。主人公の女性には老いらくの恋をさせるつもりです。執筆活動を100歳までつづければ、サラリーマン生活実働40年が最近書きあげた「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」だし、100歳でまた新しい自伝的小説を書き上げれば、執筆生活40年間の自伝的小説になり、私はサラリーマン生活40年、執筆生活40年、もじどおり私は二つの人生を歩んだことになる。これを目指して100歳まで邁進あるのみ。
三度目のベストセラーを狙う小説が、二度出版した小説のよう「二度あることは三度ある」と同じように失敗作になるか、「三度目の正直」のように三作目の小説がベストセラーになるか、私の人生最後の賭けになるのだ。幸運にめぐまれた定年後の生活、最後はハッピーエンドで終わらせるつもりです。

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