保守の皆さん、憲法改正はいけません。(1)



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大東亜戦争敗戦後、1947年(昭和20)9月からアメリカ占領軍(GHQ)が日本統治を始めた。現行憲法は昭和22年5月3日に施行された。GHQの日本占領機関は約7年あまり、その間は日本人の生殺与奪の件はGHQに握られた。日本人がGHQのまな板のこいになってしまったのだ。日本の長い歴史の中で日本人が外国人のまな板のこいになった大きな三つの事件がある。ソ連抑留所の日本人捕虜、アメリカの日系人強制収容所、GHQの日本統治。憲法改正の話の前に、これらの三つのケースがどんな状況であったか、お知らせしましょう。
一。スターリンへの感謝状
終戦の翌日、昭和20年8月16日に大本営は、関東軍に武器を置く命令を出した。一方ソ連軍は、日本降伏を知りながらも15日以降も攻撃を続け、8月末頃には満州全土、北朝鮮、樺太及び千島列島を占領してしまった。対日参戦二週間後の8月23日、スターリンは、極東ソ連軍司令官ワシレフスキー元帥に日本軍捕虜のシベリア移送を命じる極秘指令を発した。
(1)極東シベリアでの労働に肉体的に耐えられる日本軍捕虜を約50万人選別すること。
(2)捕虜をソ連邦に移送する前に千人ずつの建設大隊を組織すること。大隊と中隊の長として、特に日本軍工兵部隊の若い将校、下士官の軍人捕虜を指揮官に命ずること。
この指令の下に、ソ連軍は、ソ連占領地域(満州、北朝鮮、樺太、千島など)の日本軍人、一部の民間人合わせて約60万人(厚生省発表によれば57万4千530人、ソ連側発表によれば60万9千176人)を強制連行し、シベリア(47万2千)を初めとして、外蒙古(1万3千)、中央アジア(6万5千)、ヨーロッパ・ロシア(2万6千)などを捕虜強制労働収容所(ラーゲリ)約1200ヵ所、監獄その他特殊収容所約百カ所に分散収容した。
収容された日本人捕虜は、粗食と厳寒の下に重労働を課せられ、それによって命を落とした者、推定で6万人から7万人と言われています。これは明らかにソ連の国際法違反です。

昭和24年の春に「スターリンに対する感謝状署名運動」を起きた。「シベリア捕虜収容所」上下巻の著者、若槻泰雄氏によると、感謝状署名運動は、ソ連側の意向であると主張しています。その理由は、
(1)ナホトカ港乗船の際、署名に拒否した一部の捕虜に対し、ソ連官憲が「サインをしなければ帰さぬ」と言明している。
(2)従来も色々大会や会議あるいは政治学校の卒業式に際しては、ソ指示によって感謝文が決議されている。
その結果、感謝文を提出することになったが、次のような大げさな感謝状になった。
この感謝状は1万6千語にのぼる長文のもので、数十メートルに達する奉書紙に達筆の者が筆をふるい、それをきれいに表装し、刺繍を施し、20メートル以上の美しい巻物として桐の箱におさめられた。この感謝状の他に、「感謝アルバム」と題した61枚からなる画集があります。一枚一枚は収容所の生活を巧みな筆で描いたものに細かな説明文が書き込まれています。収容所生活がすばらしかったことを絵で説明し、スターリン大元帥への感謝状、6万3千人以上の人からの署名アルバム、そして61枚の絵からなる感謝アルバムをおさめる奉納庫はすばらしく精巧に作られています。これだけでも、彼らを奴隷のように扱った総責任者のスターリンに対して過剰なまでの媚びです。それでは感謝状の内容はどんな文章だったのでしょうか。
昭和63年6月に全国抑留者協議会の斎藤六郎氏が、スターリン感謝状の現物をロシアから借り受け東京で展示したが、展示後その感謝状はソ連に返されてしまった。そのため感謝状にどんな文章が書かれていたのか全然わからなかった。自民党群馬県議会議員、中村紀雄 氏は、かねてからシベリア抑留問題に興味を示していました。平成16年を7月19日、中村氏は二人の抑留体験者と一緒に新潟空港からハバロスクに向かい、ハバロスクの国立古文書館に訪れ、女性館長から幸運にも全文34頁からなる「スターリン大元帥への感謝状」のコピーを手にいれることができた。中村氏は、自分のホームページで、感謝状の一部を原文のまま、残りはその概要を公表していますが、ここに中村氏のコメント付きの公開文章を発表します。
引用開始、
「この感謝状は、昭和24年5月から8月にわたりハバロスク、沿岸両地方の日本人捕虜大集会で審議採択されたもので6万4千434名が署名したと添え書きされている。以下はこの文の主要部を紹介する。
文の表題は、「ソヴィエト諸民族の偉大なる指導者・全世界勤労者の師父にして日本人民の最良の友、スターリン大元帥へ」となっており、書き出しは、「敬愛するイシオフ・ヴィサリオーノヴィッチ」で始まる。スターリンというのは、通称であり、鉄の男を意味する。イシオフ(又はヨシフ)・ヴィッサリオーノヴィッチ・ジュガシヴィリが「大元帥」の正式な名前である。次は冒頭の全文である。
『旧日本軍捕虜である私たちは、人類最大の天才、全世界勤労者の導きの星であるあなたに、そしてあなたと通じソヴィエト政府ならびにソヴィエト人民に、偉大なるソヴィエトの国が私たちに与えられた光と歓びに対し私たちの心からの感謝とあつき感激をこめてこの手紙を送ります。あなたの配慮のもとに、そしてあなたの教え子、あなたの愛児であるソヴィエト市民、ソヴィエト軍将兵のもとに、ソヴィエトの地におくった4か年の生活こそ、私たちにとって偉大なる民主主義の学校となったのでありました。それは私たちにとって終生忘れ得ぬ感銘として残るでありましょう』

以下は引用すると長くなりますので中村氏のコメントは除いて彼が公開してくれた手紙の全文だけを引用します。
引用開始
「私たちのいくシベリアは、荒涼たる氷雪以外何ものもなくおそるべき「酷使」と「死」が待つと言われたが、実際は並々ならぬ寛大さと人道主義によって迎えられ、あらゆるサービスが完備し夢のようだった。厳正な8時間労働、十分なカロリー計算のもと一点の汚れもない調理場で日本料理風の料理がつくられ食前をにぎわす。温かい寝具と被服、立派な宿舎が保証されたあらゆる日用品と嗜好品が販売され、食事、菓子、飲料をもそなえたレストランも開設され、下着もまた毎週、清潔なものと交換され、立派な施設をもった入浴場、洗濯場が設けられている。医療に至っては日本では夢にも見られないもので、幾多の高価な薬品や医療機械が備えられ完治するまでよく見てもらえる。その他文化教養を高めるための施設や配慮が行き届き毎週ソヴィエト映画を楽しむことができる等々」
引用終了

引用開始
「私たち四年前の自分たちを振り返るとき、自らの巨大な変化に打たれる。私たちは、日本では到底学び得なかった巨大なものを学びとり身につけた。だから、社会主義の国で過ごした四か年は幸福であり、誇りである。日本軍兵士の時は奴隷であったが、ソヴィエトで解放され、初めて自由を得た。以下略」
引用終了

引用開始  
「私たち日本人捕虜の帰国も最終段階に入ったが、私たちは断じて祖国なつかしとのみ帰国するのではない。私たちの人生における最大の感銘に満ちた四年間を、我が再生の宝とし、その懐かしい想い出を変えることもなく抱き続け、私たちの聖なる誓いを固く守り、わが人民解放の闘いに必要とあらば、わが生命を掲げようとする確固たる決意に燃えて進撃するために帰国するのだ。私たちは戦争の間に諮りしえない罪悪をソヴィエト市民にかけた。このことについては限りない自己嫌悪の念に耐えない。
私たちは、今こそわが日本に帰国したその時は、日本海の波濤遠く、レーニン、スターリンの国を仰ぎ見つつ、ソヴィエトの国の偉大な模範に無限の勇気をくみ取りつつ日本人民の利益のために、全世界勤労者の自由と幸福のために、果敢に、献身的に闘うでありましょう。社会主義ソヴィエトの国に過ごした4か年の思い出は、終生私たちの心を、大なる喜びと感激をもって充たすでありましょう。そして偉大なる人民、建設者となる人民、真のヒューマニストたる人民についての思い出は、永久に日本勤労者の心のうちに生きるでありましょう。この感謝状は、最後に改めて、大元帥に対して宣誓する。
『敬愛するイシオフ・ヴィッサリオーノヴィッチ
私たちは、全世界勤労者の愛する天才的教師たるあなたの前に、そして偉大なる社会主義者ソヴィエト同盟の人民の前に、いまここに厳粛なる決意にもえて宣誓せんとするものであります。
(1)ソヴィエト人民と日本人民とのゆるぎなき友誼のために献身的に闘う。そして、私たちがこの目で見、かつ学んだソヴィエトの国の真実を日本のすみずみまで、全日本にひびきわたらせる。
(2)アメリカ帝国主義、日本帝国主義のやからどもが、私たちを再び犯罪的奴隷兵士と化することを断じて許さない。そして、解放軍たるソヴィエト軍に対し、たとえ大地がはりさけるとも二度と武器をとらない。もし再び帝国主義どもが、日本を、ソヴィエトに対する
戦争の舞台にしようとするなら、私たちは死をも恐れず決起し帝国主義者と戦う。
(3)私たちは、社会主義の事業と平和の事業に、あくまでも忠誠を守り抜く。
(4)私たちは、この聖なる誓いを、わが瞳のごとく、わが魂のごとく守り抜き断固としてそれを果たし抜く。
全世界勤労者の命であるあなたがますます健康に、限りなき長寿を保たれんことを、
日本共産党万歳!
ソヴィエト同盟に栄光あれ!
ソヴィエト軍に栄光あれ!
万国勤労者の師父、敬愛するイシオフ・ヴィッサリオーノヴィッチ万歳』

ついでにこの感謝状に署名した人たちの感激のことばを当時の現地の捕虜収容所の新聞、「日本新聞」に載せていますのでいくつかを紹介します。
「我々の小さな名を記す瞬間、なぜか手が震え五体がしびれ胸が高鳴り涙が耀き」
「輝く眼、美しい顔、清々した姿、湧き上がる決意、それが署名の瞬間だった。」
「手をきよめ、心しずめて握る筆、署名こそ我らの雄々しい姿」
「やむにやまれぬ謝恩の発露、われらのスターリン大元帥万歳を心の中で叫びました」

読者の皆さん、この感謝状の内容といい、署名者の興奮した言葉といい、どう思いますか。どんなに感情を表さない読者でも、少なくとも驚くことは間違いないでしょう。感謝状の内容を紹介してくれた中村紀雄氏は、非常に冷静に淡々と筆を進めていますが、読んでいる私は、これが日本人なのかという落胆と同時にどうしようもない怒りを感じてきます。その理由を箇条書きにします。
(1)シベリア抑留による死者の数は、合計で5万から7万です。この感謝状が書かれたときは、抑留4年後です。その時すでに万を超す何万人もの日本兵捕虜が死んでいるのです。それはすべて日本兵を抑留せよという指令を発したスターリンの責任なのです。そんなことは日本人捕虜は充分に知っていて、これほど徹底して媚びた感謝状を書いているのです。この感謝状は、収容所で死んでいった同胞への裏切りであり、祖国日本への裏切りです。祖国を裏切っておいて、彼らは心底帰国したがっていたのです。
(2)生存しておられる抑留体験者の中には、また読者の中にも、感謝状の内容は、うそも方便の一つに過ぎないと軽く考える人がいるかもしれませんが、それはあまりにも甘い考えです。6万人以上が署名した感謝状は、重要な証拠として扱われます。ソ連政府には、日本政府への反撃材料として使える貴重な史料になるのです。
(3)日本人捕虜のほとんどが軍人です、当時の日本軍人にとって「天皇陛下」は絶対的な存在であったはずです。それがどうですか。地獄のような厳しい捕虜生活を強いられ、同僚の多くが死んでゆき、自分も死ぬか生きるかの分かれ道にさしかかったとき、彼らにとって絶対的存在だった「天皇陛下」からあっさり「スターリン陛下」変わってしまったのです。
そしていままで同じ境遇で生活し、そして共産主義に転向しない同僚の捕虜を反動扱いしにしていじめぬいたのです。これが日本軍人の姿なのです。「民主運動」の狂態、感謝状の内容、どれも軍人精神を問われるだけでなく、個人としての誇りや尊厳も問われています。
さらに驚くことは、帰国したいためのみせかけの共産主義者だけでなく、多くの軍人が本当の共産主義者になってしまい、彼らの帰国時、祖国に上陸するのに、「天皇島に適前上陸」と叫んで迎えきている家族との面会もそこそこに、故郷に帰るよりもまず第一に実行したのが、東京の日本共産党本部への直行し、日本共産党員になることだった。そして帰国後半年もたって少し身が落ち着くと、日本共産党を脱党したり、熱心な活動的な共産党員でなくなってしまったのです。

シベリア抑留を体験した人は、私の批判にたいして、「実際に地獄を体験したことない人間が偉そうなこと言うな」と私を非難するでしょう。スターリンの感謝状に署名せず、自分の息子が帰国できず死ぬことになったらどうするのだ、留守家族にとってどんなことをしてもいいから帰国してほしいのだと私を批判するでしょう。しかし私が日本人捕虜を批判するのは、同じような環境の下で暮らした外国人捕虜と比べると、日本人捕虜(主にほとんど元日本軍人)があまりにも無様な姿を見せつけるからです。「日本新聞」の編集長、イワン・コワレンコ中佐は、「ドイツ人捕虜は日本人よりもっと厳しい条件で労働させられた」と語っていますが、当然だと思います。ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連領に侵入したからです。ソ連領土内では、沢山のソ連軍人や民間人の死傷者を出しているからです。独ソ戦のスターリングラードの攻防戦はあまりにも有名です。ソ連によるドイツ兵捕虜315万5千人、死亡者は109万4千250人で全捕虜の3分の1が死んでいます。日本の死者10パーセントに対しドイツはその3倍です。ドイツ兵捕虜の悲惨さは、日本兵捕虜以上だったことがわかります。それでもドイツ兵捕虜の間では、「民主運動」のような狂態を演じてドイツ兵捕虜が同胞であるドイツ兵捕虜をいためつけることもなく、ましてはスターリン感謝状など提出していません。彼らにとって、全く想像を絶するような行為でしょう。
「シベリア捕虜収容所」を書いた若槻泰雄氏によれば、その収容所の場所によっては日本兵捕虜とドイツ兵捕虜と一緒になる。日本兵捕虜は、一致してドイツ兵の堂々たる捕虜ぶりを称賛しています。全員ドイツ兵捕虜は卑屈になるどころかソ連兵を徹底して軽蔑していた。

ソ連によって抑留された軍人は、日本軍とドイツ軍だけではありません。ヨーロッパ諸国の軍人が多数抑留されています。イタリアは、ソ連遠征軍総数22万のうち約4万6千名がソ連によって抑留され、3万5千名が死亡、残り1万名のうちソ連側によって死亡が確認されているのが472名です。その他フランス、オーストリア、ルクセンブルグ等、特にハンガリーでは、同国の捕虜35万人が消息を絶っていると言われています。その他の東欧諸国、ブルガリア、チェコ、ポーランドなど多数の捕虜がソ連で抑留されたのです。それでも日本以外、どこの国も「民主運動」という狂態を演じたり、「スターリンへの感謝状」を書いたりしていません。

信念を貫いた人たち
ソ連は日本兵捕虜を粗食の下に厳寒の中、重労働を課すばかりでなく、日本兵を共産党員にするべく勉強させ、あるいはソ連のスパイにすべく教育をした。その中で共産党員にもならず、スパイにもならず最後まで信念を貫いた人たちが何人かいた。史料不足のため、私の独断と偏見で三人を選びました。草地禎吾大佐、近衛文隆、赤羽文子。草地大佐は、軍人間では有名です。ソ連当局の拷問にも耐え、民主運動の嵐にも耐え、信念を貫いた将校は草地以下十数名いたと言われています。近衛文隆は文麿の長男、甥が細川護熙元首相です。文隆が共産党員なれ、スパイになれと要求に断固と拒否続けることができたのは、細川家は天皇家に次ぐ古さの家系の重みからです。帰国できず、ついにモスクワで死去。赤羽文子は最高にすばらしい日本女性だ。彼女は軍隊教育を一切受けていない。ソ連軍に捕まった時、大連市の市長の秘書をしていて彼女が36歳の時だった。ソ連当局は、彼女が市長の秘書の前にソ連領事館でソ連人スタッフに日本語を教えていたのを知っていた。奉天から列車で17日間もかかるシベリアのチタの女囚監獄に入れられた。日本人女性は彼女一人。以来ソ連のスパイになれと説得されたが拒否し続け、シベリア滞在10年、その間故国への通信は一切拒絶された。そのうえリューマチを患い、病院での治療と早い帰国をえさにスパイ勧誘は続いたが、彼女は極北地での死を覚悟をした。そしてついに帰国の機会が訪れたのだ。

二。日系アメリカ人強制収容
昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発した。その日の夕刻、アメリカ国内における日系二世団体「日系市民協会」の指導者たちは会議を開いた。城戸三郎会長は、「我々はアメリカ市民として義務を果たすものである。米日開戦は最も不幸な出来事であるが、いまこそ我々の忠誠心を示すときである。戦場に送られるといえども、我々忠誠心は不変である。我々の父母は、法律の下ではアメリカ市民になることは許されていない。しかし、アメリカ市民である我々の父母として、善良なる住民として、どこまでも我々とともに進むことを信じて疑わないものである」という趣旨の電報をルーズベルト大統領に送った。
戦争開始後二か月後の昭和17年2月19日、ルーズベルト大統領は、大統領行政令9066号に署名、軍が国防上必要である場合に強制的に外国人を隔離することを承認した。大統領行政令はすべての「敵性外国人」に向けたものでしたが、実際に適用されたのは日系人だけでした。日本だけでなくドイツもイタリアもアメリカと戦争状態になっていたが、ドイツ系、イタリア系は適正外国人にはならなかった。こうして、アメリカ国内において日本人の血が16分の1以上混じっている日系アメリカ人は、制限期日の4月2日までに逮捕、拘束され収容所に送られることとなったのである。アメリカ国内に10ヵ所の強制収容所がつくられ合計12万人が強制収容された。その他に中南米13ヶ国の日系人、2264名をアメリカを脅かす「敵性外国人」としてアメリカ国内の抑留所に強制連行した。

ここで一つ読者に注意していただきたいのは、ハワイ在住の日系人は、一部の日系人指導者を除いて殆どの日系人が強制収容されなかったことです。理由は開戦当時のハワイ日系人の人口が15万8千人で、ハワイ全人口の35パーセントを占め現地の経済的影響力が大きかったため、ハワイ州当局が強制収容を拒否した結果です。このためハワイの日系人のほとんどが例外的に財産を失わず済んだ。
日露戦争以来、日系人は法的にも社会的にも徹底して差別され、大変な苦労を味わってきた。
日米開戦とほとんど同時に強制的に財産をほとんど失わされ、強制的に収容所にぶちこまれた。それにもかかわらず、私が驚くのは、日系市民協会の指導者たちは、おとなしく強制収容に応じ、アメリカ政府に対して抗議声明一つださず、それどころか軍隊に志願させるように要求していることです。アメリカ政府は、日米開戦以来、日系二世の徴兵、志願を凍結していたが、日系市民協会の軍隊志願の要求に応じるかたちで、昭和18年1月のその政策を変更し、「アメリカに忠誠を尽くす」と意思表示した日系二世の兵役を認めることにした。
ここで私は読者の皆さんに質問があります。
あなたが「忠誠登録」にイエスと答えたところで、あなたの両親、兄弟姉妹が強制収容所から釈放されるとか、両親が失った財産のほとんど戻ってくるとか、両親に市民権が与えられるとか、あるいはあなたが戦死したらアメリカ政府は、金銭的にあなたの両親の面倒をみてくれるとか、一切の好条件は示されませんでした。それでもあなたは、「忠誠登録」にイエスと答えてアメリカ軍に入隊しますか。
カリフォルニア州北部のツールレイク収容所では忠誠登録を強制されたことに反感をもった二世35人はデモ行進し「徴兵局に登録する意思はまったくない、しかし、日本への送還にはいつでも署名する」という抗議文を手渡した。この35人は、全員銃を突き付けられ他州の抑留所にほうりこまれてしまった。この忠誠登録によって収容所の日本人間に亀裂が深まり対立になって殺人事件にまで発展していった例も出たのも当然でしょう。
「忠誠登録」にイエスと答えて全米10カ所の収容所から志願した日系二世は、全部で1181人(その後数はずっと増えます)です。この数を多いと見るか少ないと見るかは見解の相違になるでしょう。私はとてつもない多い数字だと解釈しています。なぜなら志願者日系二世は、ほとんど全員が両親健在の年代です。私の考えでは、人生で一番見るに忍びない事とは何かと問われれば、血のにじむような努力を何十年と続けながら、その努力がなにも報われることなく一生を終わることではないでしょうか。もし自分が戦死でもすれば、両親の悲劇はますます深まるのだ。
それでも志願者数、1181人という数字は、権力に弱い、権力にすり寄って生きる日本人資質のあらわれのような気がしてなりません。ここでまた読者に問いたいのです。
人間は死を覚悟すれば、なんでもできると言われています。事実その通りでしょう。忠誠登録に「イエス」と答えて入隊した日系二世は、戦場での死を覚悟したに違いありません。死を覚悟したなら、自分たちを不当に扱ったアメリカ政府への抗議の態度ぐらいとれるはずです。それにもかかわらず多くの日系二世が入隊していったのはなぜでしょう。その理由は二つ考えられます。
(1)日本人は、権力に非常に弱い。権力者にすりよっては生きるのが得意なのだ。日系二世の入隊組は、徹底してアメリがカ政府に媚びて言ったとして言い過ぎではないでしょう。
(2)人の好い日本人が陥りやすい最大の欠陥、すなわち自分勝手な善意の思い込みです。この自分勝手な善意の思い込みが、日本の外交がどれほど損なわれているか計り知れません。韓国やシナに謝罪し、多額の経済援助をすれば、両国と友好関係が築けるだろうという善意の思い込み、ロシアに経済援助や技術援助したのも、そうすれば北方四島返還交渉に有利に作用するだろうという善意の思い込みがあったのでしょう。入隊組の日系二世は、アメリカのために入隊して戦場で死んだら、いくらなんでもアメリカ政府は、自分の家族は冷遇しないだろうという自分勝手な善意の思い込みあったのではないでしょうか。
こうしてアメリカ本土の日系二世は、入隊組と入隊拒否組との間に亀裂が入り対立関係になってしまった。
アメリカ本土と事情が違うハワイでは、忠誠登録は行われていません。アメリカ政府は、日系二世だけの部隊編成を考え、ハワイの徴兵目標を1500人としたところ、全部で1万人近く日系人が応募しています。

「称賛すべきは入隊拒否した日系人」
戦後、日系二世部隊のヨーロッパ戦線での大活躍はマスコミなどで知られています。私が一番気になったのは「忠誠登録」に「ノー」と答えて兵役拒否をした日系二世は、そのごどうしているのかでした。かれらの戦後の様子など知らされることがなかったのではないでしょうか。
平成14年5月14日、読売新聞の国際ニュース面で、「日系徴兵拒否者に謝罪」、「日系人団体 大戦後、長年『仲間外れ』」と言う見出しが出ていましたのでその記事の全文を引用します。
引用開始
「第二次大戦中、米国で強制収容に抗議して徴兵拒否した約三百人の日系人に対し、日系人団体が長年にわたる「仲間はずれ」を初めて公式に謝罪する式典が11日、サンフランシスコで開かれた。大戦で従軍して米国への忠誠心をしめした日系二世は賞賛の対象となったが、兵役拒否者は、日本人社会から長年卑怯者呼ばわりされてきた。謝罪までに要した約60年もの歳月からは、戦争によって引き裂かれた日本人社会の悲劇が浮かび上がってくる。真珠湾攻撃後、米政府は約十二万人の日本人を強制収容所の送りこみ、軍隊からも排除した。
だが、一九四三年に日系人の従軍が認められるようになると、約三万三千人の日系二世が従軍し、多数の死傷者を出しながらも勇敢な戦いぶりを見せ、日系人の名誉回復に大きく貢献した。これに対し三百二十五人の日系人が徴兵を頑として拒んだ。
『自分や両親が強制収容され権利を奪われているというのに、どうして民主主義のために戦えると言うのか』こう語るのは徴兵拒否者の一人、ミツ・コシヤマさん(77)だ。「選抜徴兵法」違反で懲役三年の判決を受けたコシヤマさんはじめ、二百五十六人が投獄された。だがもっともつらかったのは、日系人社会で受けた公然の非難だった。
全米最大の日系人団体『日系市民協会』は四十四年三月『徴兵拒否者は煽動罪に問われるべきだ』と声明。徴兵拒否者は『反逆者』『卑怯者』とののしられた。戦後の四十七年、トルーマン大統領はいち早く徴兵拒否者に謝罪し、特赦を与えたが、日系社会のわだかまり消えず、『いまでも新聞などに徴兵拒否者を批判する投書がよせられる』(コシヤマさん)
しかし日系人が二世から三世、四世へと世代交代し、徴兵拒否は正当な憲法上の権利の行使だったという理解が徐々に広がった。「日系市民協会は2000年、ようやく徴兵拒否を『理解する』という決議を採択。日系退役軍人らを説得し、11日、コシヤマなどの懲兵拒否者や家族22人を招く式典の開催にこぎつけた。
式典ではフロイド・モリ(日系市民協会会長)が『苦痛をぬぐいさることはできない』と謝罪した上で、『過去に起こった過ちを水に流そう』と呼びかけた。他にも徴兵拒否の道を選んだ人々の勇気をたたえる発言が相次いだ。式典に参加した徴兵拒否者のケン・ヨシダさん(78)は『本当は謝罪はいらない。ただ私たちは徴兵から逃げたのではなく、政府に抗議したのだということは、これからの世代に知ってほしい』と語った。(森田清司)」

日系人強制収容についてインターネットで色々調べていたところ2006年2月6日のインターネット上で2005年4月1日付けのニューヨークIPS(Inter Press Service)のニュースが、IPSジャパンの浅霧勝浩氏に翻訳されていた。
「日系人強制収容所の不当性を訴えた闘士86歳で逝去」の見出しのもとに、次のような記事が載せられていました。
「フレッド・コレマツは、第二次大戦期のローザ・パークス(米国公民権運動の母)と称される人物だが、40年間正義を待ち続けたこの日系アメリカ人は、水曜日(3月30日)北カリフォルニアのカークスブルで86年の生涯を閉じた。コレマツの40年に及ぶ(第二次大戦中の日系人強制収容所の不当性を訴えた)闘争は、カリフォルニア州オークランド刑務所の檻の中から始まった。彼の訴えは敗訴を重ねた末に米最高裁で否決され有罪が確定した(1944年)。ところが一転して犯罪歴は抹消され、しかも米国民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」が授与された」

コレマツがたどった軌跡は、米国公民権史に名を残す言語道断な事件の中でも最も醜いもの一つである。真珠湾攻撃から間もなくルーズベルト大統領はアメリカ国内に住む日系人、12万人を市民権の有無にかかわらず各地の強制収容所に送り込んだ。フレッド・コレマツの両親も収容所にぶちこまれたが、フレッド・コレマツ自身は収容所入りを拒否したため、逮捕、起訴され、刑務所に収監された。以来コレマツ氏の法廷闘争がつづいた。1944年、日系人収容処置は解除され、コレマツ氏はサンフランシスコに戻ってきた。彼は製図工として働き家族を養ったが、「前科者」が災いして大企業や公的な職につけなかった。それから約40年後1981年彼の有罪判決が偽証のせいと判明。其の後裁判所が特赦を申し出たが、コレマツ氏はこれを拒否、再審を要求した。まもなく連邦裁判所は、コレマツ氏は不確かな証拠に基づいて裁かれたとして彼の当時の有罪判決を無効とし、コレマツ氏の犯罪歴は抹消された。こうしてコレマツ氏は(40年の闘争の末)米国法史の暗黒部分に終止符をうった。
五年後、ジェラルド・フォード元大統領は、日系人強制収容処置を「国家的な過ち」と非難した。五年後、当時のドナルド・レーガン大統領は、日系人強制収容処置「深刻な不法行為」であるとし、コレマツ氏を含む数千人の生存中の元収容者に対し、一人当たり二万ドルの賠償金を支払うことを決定した、そして1999年、当時にビル・クリントン大統領は、コレマツ氏に対して、米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」を授与した。
「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています。・・・・プレッシー、ブラウン、パークス・・・・」。クリントン大統領は有名な公民権関連の事例を挙げながら続けた。『その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです。』(以下略)

このブログを書くために拙著「逆境に生きた日本人」(展転社、平成20年2月出版)を抜粋して書いています。この本の原稿を書いていたのが平成19年ごろです。ここに書いたコレマツの記事は、その当時コレマツ氏についてインターネットで調べられるすべてでした。コレマツ氏の名前の漢字を調べましたが、見つけることができませんでした。ところがこのブログを書くに当たってつい最近ネットで調べたらコレマツ氏についてのウイキペディアでは、詳しい経歴やその他いろいろな情報が手に入りびっくりしました。以下のコレマツ氏の情報は、つい最近のインターネット調べによるものです。
フレッド・コレマツの正式の名前は、フレッド・トヨサブロウ・コレマツ、漢字では是松豊三郎。2005年5年3月30日、86歳で死亡。2010年9月30日カリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定、州法に守られた市民の自由の重要性を再認識する日にした。2017年4月25日、NHKテレビで番組「NHK先人たちの低力」でフレッド・コレマツの人生の特集を放映した。私はあのNHKがコレマツ氏について放映をしたことについて非常に驚きました。私がNHKの支払い拒否を続けて13年目です。私はNHKの歴史検証番組など絶対に見ません。偏っているからです。あのNHKがコレマツ氏を取り上げたのには何か理由があるのだろうと想像をした。私の想像は、このことだろうと思う事件があった。2017年1月30日、すなわちカリフォルニア州の「フレッド・コレマツの日」にあわせてGoogleのアメリカ合衆国版のフロント画面にコレマツのイラストを掲載、併せて「間違いだと思うなら、声を上げることを恐れてはならない」(If you have the feeling that something is wrong,don’t be afraid to speak up.)とこうコレマツ氏の言葉を紹介しています。グーグル社は、大統領選ではトランプ氏に大口献金をしています、いわゆるトランプ大統領の人種差別といわれる大統領令には、反対なのでしょう。そのためカリフォルニア州のフレッド・コレマツの日、1月30日 に合わせてコレマツの記事をのせたのではないかといわれています。グーグルがこれだけ派手にコレマツ氏を載せると、NHKは黙視するにはいかなかったのでしょう。クリントン大統領の時、コレマツ氏に大統領自由賞が授けられた。その時日本国内で反響を呼んだのでしょうか。記憶している人おられますか。多くの日本人が偉大なコレマツ氏の存在を知ったのはつい最近ではないでしょうか?

日系人強制収容の時、12万人強制収容されました。日系人はアメリカ政府に抗議デモもするでもなく、講義の手紙を出すでもなく、従順に黙々と強制収容所に入った。入所したら、
アメリカ軍に入隊させてくれと自ら頼み込んでいるのだ。いざ入隊許可になれば、入隊拒否者が500人ばかりしでた。日系人全体で入隊拒否者を村八分にしてしまった。強制収容所そのものに入所することを拒んだたった一人の日系人がコレマツ氏だけだったのだ。日本人は、信念と突き通す人には冷淡なのだ。このブログは長くなりましたのでこの辺で辞めておきます。次回は終戦後の占領軍の統治と最重要問題の憲法改正について書きます。



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日米の歴史と文化を語る(6)

チェロキー族の「涙の道」(The Trail of Tears)
欧米白人がアメリカ大陸に進出以来、数多くのアメリカインディアン部族が武力抵抗を試みてきた。1890年(明治23年)12月29日サウス・ダコダ州のインディアン居留地、ウーンディッド・ニーで武装したスー族の一部が、アメリカ第七騎兵隊に包囲され、武装解除して降伏した。ところが、どこからともなく出た一発の銃声をきっかけに虐殺が始まったのだ。犠牲者約300人、そのうち女、子供は約200人。これが最後のアメリカとアメリカインディアンの武力衝突になった。これ以後アメリカインディアンの武力抵抗はなくなってしまった。アメリカ軍によって完全に武力制圧されたのです。アメリカという独立国ができてから115年後のことであった。アメリカインディアン各部族の悲劇の物語は色々な本に色々書かれていますが、私が一番胸を打たれるのはチェロキー族の悲劇です。
チェロキー族は、現在のジョージア州とアラバマ州を根城にする部族でした。チェロキー族も最初のうちはアメリカ人に武力抵抗をした。しかし決して勝つことのない戦いで広大な土地を失っていった。そこでチェロキー族は武力抵抗をやめ、アメリカ文明を学び、実践していったのです。
まず1820年前後にチェロキー国家、即ち独自の政府を設立したのだ。1820年代のチェロキー国の発展にすさまじいものがあります。セコイアという一人のチェロキー人がアルファベッドに似たチェロキー文字を作り出したのです。1825年新約聖書のチェロキー語訳完成。さらに1827年英語、チェロキー語を使用して成文化された憲法を制定、1828年には英語とチェロキー語を併載する週刊新聞「チェロキー・フェニックス」を発刊したのだ。その社説には次のような事が誇らかに述べられていた。
「わが国の法律、公文書及びチェロキー人民の福祉状況に関係ある事柄は、忠実に英語とチェロキー語両語で出版されるだろう。」
このチェロキー国の発展の影にモラビア教団の宣教師たちの活躍があったのです。しかしジョージア州当局はチェロキー国の発展を望まず、政府に働きかけてチェロキー族を一掃しようとします。また州当局はチェロキー族の土地の買収を企てます。チェロキー国は、個人の土地売買を禁止し、もし違反の場合死刑という法律を作って抵抗します。チェロキー一族の団結は固いとみた州当局は、いくつかの嫌がらせをするのですが、そのうちの一つが「チェロキーランド宝くじ」です。この宝くじの内容を簡単に言えば、私の住所が、かりに1-2-3としますと、この番号をひいた白人は私の住んでいる土地と家がその白人のものになるというのです。実にたちの悪いいやがらせです。
1892年ジャクソン大統領は、国会施政演説でジョージア、アラバマ州内のチェロキー族の独立国家を認めず、彼ら全部をミシシッピー川以西の地に移す法案を提出することを発表した。1830年にはジャクソン大統領提案の「インディアン強制移住法」が可決成立してしまった。そして運悪く1830年代にチェロキー国内で有望な金山が発見された。
そしてとうとう1838年5月23日が、チェロキー国、全国民のオクラホマ居留地移住の日と決められ、ジャクソン大統領の署名がなされた。その移住日にまにあわせるために合衆国政府は、急造の強制収容所を作りチェロキー族を押し込めた。ところが実際の本格的移住はその年の秋ごろになってしまった。すなわちおよそ半年間強制収容所に押し込まれた生活をよぎなくされた。合計およそ16、000人のチェロキー族をオクラホマ州に設置された居留地に強制移住させるには、膨大な費用がかかりますが、その費用はすべて政府が持ち、実際の運送は入札に参加した業者にやらせたのです。業者は政府からおりるお金をすこしでもピンハネするために毛布の枚数、食料の量、幌馬車の数など減らすことのできるものはあらゆるものが減らされた。オクラホマの居留地およそ1300キロ、道中は難渋をきわめた。食料不足による栄養失調、冬の寒さ、コレラや天然痘など伝染病などで次々病人や死者が出た。死者が出たところで埋葬のために行進は止まることはなかったのです。死者はその場で捨てられました。運送業者は、チェロキー族の死を歓迎した。一人でも死ねば、その分費用がうくからです。目的地に到着した時、正確な死者の数はわかりませんが4,000人と言われています。4人に一人が死んだのだ。このチェロキー族の強制移住を「涙の道」(The Trail of Tears)と呼ばれています。

1838年12月、まだチェロキー族の飢えと寒さと疲労の長い嗚咽の列がオクラホマに向かっている時、ワシントンの国会では大統領、ヴァン・ビューレンが白々しい報告を行っていた。
「私はここに国会に対し、チェロキー・ネイションの、ミシシッピーの西の彼らの新しい土地への移住の完了を報告することに、心から喜びを感ずるものであります。さきに国会において承認決定されました諸方策は、もっともな幸福な結果をもたらしました。現地の米軍司令官とチェロキーとの間の了解に基づいて、移住はもっぱら彼ら自身の指導のもとに行われ、チェロキー達はいささかのためらいを示すこともなく移住をいたしました。」
これはアメリカの大統領は、議会でもうそ、でたらめを平気で語ることの証明です。
アメリカ政府は、およそ20,000人にも満たない小国すら認めようとしなかったのです。チョロキー族は、自分たちの文字を作り、英語を学び、アメリカ政府と協調するためにあらゆる努力をしたがむくわれることはなかったのです。なぜか?それはインディアンが有色人種であり異教徒だからです。アメリカ政府が有色人種であり異教徒である人たちを対等に扱いはじめたのは1960年代に入ってからです。
このチェロキー族の悲劇「涙の道」(The Trail of Tears)の物語は、一般のアメリカ人の間では常識にはなっていません、しかし大東亜戦争時の「バターン死の行進」は、日本軍の残虐行為としてアメリカ人の常識のように知られています。「バターン死の行進」とは、フイリピンのバターン半島の戦場でアメリカ兵とフイリピン兵、合計7万6千人が捕虜となり、鉄道のあるサンフェルナンドまで90キロを夏の炎天下に歩かされたので多数の死者が出た事件のことです。1970年制作のアメリカ映画に「フラップ」という作品があります。この映画は1971年に日本で「最後のインディアン」で上映されています。私の年代ならおそらく誰もが知っているメキシコ系アメリカ人俳優、アンソニー・クィンがアメリカ兵として第二次大戦従軍の経験があるアメリカインディアン役を演じています。その映画のセリフのなかで彼がこう語っている場面がある。
「(チェロキー族の)「涙の道」に比べりゃ、バターン死の行進なんざぁ、そんじょそこらのピクニックみてぇなもんだ。」
それそうでしょう。夏の炎天下に歩かされた距離がおよそ90キロ、捕虜の米比兵は
手ぶらで歩き、護衛する日本兵は、20キロの完全装備で歩くのだから日本兵は苦しい行軍をしいられ、日本兵にも犠牲者も出たほどだ。当時日本軍にとってトラックは貴重品で捕虜何万人も載せるトラックなどなかったのだ。それがチェロキー族にいたってはオクラホマ州居留地まで健常者は1300キロも歩かされているのだ。まさしく90キロの「バターン死の行進」がピクニックに見えるわけです。

このチェロキーの「涙の道」(The Trail of Tears)は、拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の第六章アメリカの侵略主義、第一節インディアンとの戦争(136頁)からの抜粋です。この本が出版されたのが2004年ですが、当時「フラップ」というアメリカ映画で、アメリカインディアン役のアンソニー・クィンの台詞は承知していたのですが、日本でどういう題名で上映されたのか、全くわからなかった。現在では「最後のインディアン」という題名で上映されたのもわかるし、映画の内容も知ることもできます。10年以上前とはネットのウイキペディアもずっと進歩しているのですね。

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マフィアとヤクザの違い



えんだんじのブログは、今年の10月で10年目を迎えます。今から5年前の2012年1月11日に「マフィアの話」としてブログを書いています。A4の紙、13枚で書き上げていますが、自分で言うのもなんだが、これがなかなかの上出来で、どこかの映画雑誌で載せたいくらいです。「マフィアの話」は、以下の四項目から書かれています。
一。ゴッドファーザー
二。マフィアの歴史
三。マフィア映画に登場する人物像
(1)アルフォンソ・カポネ
(2)ラッキー・ルチアーノ
(3)ベンジャミン・バグジー・シーゲル
(4)ジョセフ・バラキ
(5)サム・ジアンカーナ
(6)トウキョウ・ジョー
四。マフィアとヤクザの違い

三。マフィア映画に登場する人物の6番目に登場するトウキョウ・ジョーを知っている人は、まさにマフィア映画ファンと言えるでしょう。トウキョウ・ジョーとは日本人でマフィアになった男、ケン・エトウの愛称です。父親は日露戦争時に小倉第十二師団の兵士として出征。帰国後キリスト教の牧師になり、アメリカに渡る。ケンはアメリカで生まれ、14歳の時父とけんか、家を飛び出した。大東亜戦争中は、日本人強制収容所で軍人にならず、博打稼業に精を出す。其の後マフィアに入るが、イタリア系でないので幹部になれるどころか裏切りの疑いをかけられた。二人の殺し屋からケンの後頭部に三発の銃弾を受けた。この時ケン64歳。ところが奇跡が起きた。彼は生還した、しかも健康体で。彼は銃を使わない復讐作戦にでて成功した。彼は病院でベトナム人女性の介護を受けながら84歳で死んだ。死後彼の人生は、日本人映画監督、小栗健一氏によってドキュメンタリー映画が製作された。詳細に興味あるかたは、ぜひえんだんじのブログ、「マフィアの話」、2012年1月11日を参照ください。
四。マフィアとヤクザの違い
ここでは、トウキョウ・ジョーの話とは違い、この文章の全文を引用します。
引用開始
「ここで言う違いとはヤクザがヤクザと呼ばれていた時代のヤクザとの違いで、決して現在の言う暴力団との違いではありません。「侠客」と言っても最近の若者はあんまりぴんとこないでしょうから、辞書を引いておきました。侠客とは、「任侠を旨として渡世する人々」、任侠とは、「弱い者を助け、強い者をくじき、義のために命を惜しまないという気風」。これで侠客の意味がなんとなく掴めたと思います。日本最後の侠客と言われる山口組三代目、田岡一雄夫妻には一男一女がいる。一人娘の由岐さんは、音楽家の喜太郎氏と結婚し現在離婚。その彼女が「お父さんの石鹸箱」と「さようならお父さんの石鹸箱」という二冊のエッセイを書いています。両親への深い愛情を示し且つ彼女の人柄の良さを示す好感の持てる本です。その中である時彼女は両親と父のボディーガードと四人で映画「ゴッドファーザー」を見に行った。映画の印象を父はこのように話をしてくれたと書いています。
「向こうのヤクザは、カネもうけのためになんでもする。日本のヤクザは、カネに触るといやらしいというのがほんまなんや。一番違うとこは、そこや。だから組織の目的がちがう。」
確かに田岡が「組織の目的が違う」ともいえたのも事実だと思う。田岡が山口組三代目を継いだのは昭和21年、終戦の翌年、田岡34歳の時。この時田岡は、三つの誓いを立てた。
(1)各自に職業をもたせること。
(2)体制の確立。
(3)己を厳しく律すること。
そして「土建屋山口組」という筆太な文字で書かれた分厚い看板を事務所の入り口に掲げた。ヤクザとマフィアの大きな違いはここですよ。公然性(公開)と非公然性(秘密)です。日本のヤクザは、その存在については、事務所を市街地に開設し看板を掲げるなどして、一般市民の充分知るところであり、また警察もそのヤクザの組織の機構や序列、活動についても相当部分把握している。一方アメリカのマフィアは、徹底した秘密組織であり、組織の全容は秘密の組織のベールに包まれています。私はこの公然性が侠客の生む素因にもなり、マフィアに比べて殺人が少ない原因にもなっているのではないかと思っています。看板をかかげて親分になる以上、これまでのようにバカなまねはできない、それでは組員がついてこない、近所の堅気から嫌われたり、馬鹿にされたりして組員の士気にかかわるし、発展はない。そんなことから堅気には手をださないということにもなるし、要するに親分自身が自分を律する面が強くなる。これがマフィアのように徹底した秘密主義では、侠客など生まれるのはまれになってしまう。殺人が多くなるのも当然でしょう。
山口組が発展してくると、田岡の目が行き届かなくなる。山口組系を名乗る末端組織の中には麻薬に手を出したり、堅気の衆に迷惑を及ぼす者も出てきた。そこで田岡は、滋賀県永平寺の老師に相談して山口組の綱領をつくった。
綱領
山口組は侠客精神に則り、国家社会の興隆に貢献せんことを期す。依って組員は左の各号を体現することを要す。
一。内を固むるに和親合一を最も尊ぶ。
一。外に接するに愛念を持し信義を重んず。
一。長幼の序を弁え、礼によって終始す。
一。世に処するに己の節を守りそしりを招かず。
一。先人の経験を聞き、人格の向上をはかる。
昭和38年の仕事始めの時、この綱領は神戸観光ホテルに百人近い組員を集めて発表された。昭和46年6月には田岡は、組員の広報誌、「山口組時報」を創刊している。その創刊号で田岡はこう書いています。
「家庭にあってはよき父、よき夫であってほしい。日頃家庭をうとんじている者ほど、なにかことあるときには、その嘆きに拍車をかけている。内を固めてから外に当たるように」と組員をさとしている。同紙には「法律教室」や「告知板」と称する放免祝い、葬儀、服役者消息欄など話題が豊富であったと言う。私はマフィアの人たちに言いたい。日本にはこういうヤクザがいたのだ。田岡自身は売られたけんかで人を殺し8年の刑を受けた者です。金がすべてではないことが彼の行動でわかるはずです。田岡は自伝を書いているが、最後の10頁あまり妻、文子自身に書かせている。彼女は最後にこう書いています。
「まだ一つ大きな問題が残っております。それは侠客道を歩む者も、無頼の徒も同一視され、暴力団というありがたくない汚名をきせられていることです」
私は彼女の気持ちが理解できます。
そして現在、ヤクザという言葉は完全に使われなくなりすべて暴力団呼ばわりされ、徹底して嫌われ、「何々組」という看板も掲げられなくなってしまった。これでは暴力団は地下にもぐり、徹底して秘密主義が貫かれる。すなわち暴力団のマフィア化につながる。危険な不気味な存在になってしまう。それでもいいのですか。前科者でもなく、警察に追われているわけでもない暴力団員と付き合って何故いけないのですか。
鈴木宗男前議員は、刑務所暮らしから現在出所しています。いずれにしても前科者です。その前科者が今度の総選挙で立候補します。前科者の議員とはつきあってもいいが、暴力団員であったら前科経歴がなくてもつきあってはいけないのですか。もしそうなら人権侵害ではないですか。私は読者に訴えたい。私たち庶民は、前科者の庶民には非常に冷たくあしらうが、金持ちや、政治家、あるいは有力者の前科者には甘いのだ。現在のマスコミは、民主党政府には怒れない、反日日本人組織にも怒れない、隣国にも怒れない、怒れる先は暴力団だけ、それだけに暴力団が目の敵にされるのだ。暴力団員と芸人が付き合って何が悪いのだ。
テレビで大討論しなければならない大問題か。現在の暴力団組織など少しも怖くない。暴力団で国がつぶれることは絶対にない。現在最も恐いのは反日日本人組織です。日教組など暴力団よりはるかに怖い存在です。私は暴力団をえこひいきするつもりはないが、日教組、自治労、反日市民団体などの不法行為には暴力団と同じように厳しい捜査をしてもらいたと思う。政府は、最近「環境影響評価書」を沖縄県庁に宅急便で送った。その配送を阻止した反日市民団体の行為は違法行為ではないのか。同じことを暴力団がやったらどうなるのだ。法律は平等に施行されなければならないはずです。」
引用終了

現状の山口組の状態を知ったら墓場にいる田岡親分は激怒するでしょう。私がなぜ「四。マフィアとヤクザの違い」の全文を引用したかと言うと、次の二つのことに留意したいからです。
1.終戦直後、日本の警察は、拳銃の使用を禁止されていた。そういう時にのさばったのが勝利国国民づらした第三国人(当時日本国民は、そう呼うでいた)すなわち、在日朝鮮人、シナ人、台湾人、その他アジア人だ。どういう場所でのさばったかというと、特に生きていくために日本人庶民が利用する、闇市、露天商街だ。拳銃を持たない警察が役立たないのはどの国でも同じだ。のさばる第三国人を相手に全国の日本人ヤクザが熾烈な戦いをいどんだのだ。だから市民からヤクザが歓迎されたのだ。その一つの証拠が昭和34年山口組の田岡組長が神戸水上署の一日署長を務めた。終戦直後、警察に変わって日本人のために戦ったのは、神戸の山口組だけではない、横浜の藤木組、横須賀の小泉組など全国にわたる大都市ヤクザだ。現在、戦後70数年、今やヤクザはなくなり、暴力団になってしまった。人気映画「男はつらいよ」の寅さんこと、車寅次郎(くるまとらじろう)の生業はテキ屋。映画では「俺がヤクザ稼業なため、いつも妹に迷惑かけている」なんて言うセリフをはいているが、今じゃテキ屋も法律では暴力団です。寅さんは、侠客気分満々だが、いずれヤクザや侠客という言葉なくなり、死語になってしまうのではないでしょうか。

2.「私は読者に訴えたい。私たち庶民は、前科者の庶民には非常に冷たくあしらうが、金持ちや、政治家、あるいは有力者の前科者には甘いのだ。」と私は主張していますが、皆さん。本当にそうだと思いませんか。私が例としてあげているのが、鈴木宗男元議員だ。私のブログ、「鈴木宗男よ、前科者のくせに偉そうな口きくな」(2016年12月3日)を参照してください。以前の北方領土交渉を利用して私服を肥し有罪判決を受け刑務所暮らしをした鈴木宗男は、最近の安倍首相の北方領土交渉問題で、マスコミ、すなわち新聞、テレビ、週刊誌、月刊誌などから注目を浴びているのだ。マスコミは、宗男の有罪、実刑、刑務所暮らしなど眼中にないのだ。2017年4月30日の産経新聞の朝刊で次の記事がある。
引用開始
「鈴木氏が公民権回復、国政への復帰に意欲、北方領土解決訴え
汚職事件で実刑判決を受けた政治団体「新党大地」の鈴木宗男代表の公民権が29日、回復された。鈴木氏は同日、札幌市で開いたパーティーで「選挙がいつあるか分からないが、その時期が来たら最善の判断をしたい」と次期衆議院選での国政復帰に意欲を示した。
鈴木氏は「私にやり残したことがある。北方領土問題の解決だ」と訴えた。安倍晋三首相と定期的に会談し、対露外交で助言を行っている鈴木氏は「首相から北海道は自民党にとって厳しい。鈴木先生にかかっている。よろしくお願いします」と言われていると記者団に明らかにし、首相との連携を強調した。鈴木氏は衆院議員だった平成22年に受託収賄罪などで懲役2年の実刑判決が確定。失職、収監され、23年12月に仮釈放された。刑期満了から5年間は選挙に立候補できなかったが、29日公民権を回復した。」
引用終了

産経新聞は、安倍首相をひいきにさえすれば、宗男のように紙屑みたい、くずな元議員でも公民権回復を喜ぶような記事を書いてくれるのだ。まるで出所祝いだ。これでは日本の国会議員の質がいつまでたっても上がらないのもむりはない。
もう一度書きます。興味と時間があれば、私の5年前のブログ、「マフィアの話」(2012年1月11日)を読んでみてください。

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えんだんじのベストセラー作戦(1)



このブログの転載、拡散をよろしくお願いいたします。
(AA)  私の大作「大東亜戦争は、アメリカが悪い」の英文版「The USA is responsible for the Pacific War」を出版したのが2013年。出版部数は資金不足のため300部。これを私の協力者であり共著者の渡辺氏と私で50部ずつ個人用として使い、残り200部を日本在住の外国の大使館、領事館の無償提供するつもりでいた。しかし例えば南アフリカの小さな独立国にさしあげたところで国際的に影響力がない。そこでさしあげた外国の大使館、領事館は、合計185ヶ国。
私としては、この英文版を大量に印刷し、世界中にばら撒きたい、できればアメリカ中だけでもばら撒きたい思いがあります。そこで考えたのは、私がベストセラー本を書き、その印税で英文版を大増発することだった。その一番手として書き上げたのが、私の自伝的小説、「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」(文芸社)です。私自身の波乱万丈な生活を描いて出版が2015年9月。しかし売り上げ増加の兆しは一切なし。ベストセラーになりそうになるどころではない。しかし文芸社は、自社の優秀作品(「えんだんじ・戦後昭和に一匹」などを含む)の「特別長期販売企画」を立てた。
文芸社から『「特別長期販売企画」配本リストのご送付ならびにご案内』が送られてきました。要点は、
〇別紙「常備配本リスト」記載の書店にて、2017年3月より1年間の常備配本を実施いたします。(3年間の長期販売企画ですが、配本先は、1年毎に変わりますので、新たな配本リストは来年ご報告をさせていただきます。

〇流通事情は各店舗の作業スケジュール都合等により、店頭陳列の開始日は一律ではございません。予めご了承ください。(遅くとも3月10日頃までには陳列が開始される見込みです。)

〇当配本期間中に書籍が売れた場合には必ず補充されます。ただし、流通事情等により再度店頭へ陳列されるまでに2週間ほどのお時間を要する場合もございますので、あわせてご了承くださいませ。

〇陳列場所につきましては、各書店の裁量となっておりますが、概ね各店舗に陳列された文芸社の棚の周辺に陳列されると存じます。(各ジャンル棚に陳列される等、例外もございます。

〇もし、ご友人等へご案内いただく際には、書名・著者名・出版社名等を具体的にご紹介のうえ、見つからない場合は、検索機のご利用や書店員へお問い合わせいただくようお伝えいただければ幸いです。
            常備配本される書店名リスト
(1年目:2017年3月1日~2018年2月28日)
県名   地域    書店名
青 森  弘前市   紀伊国屋書店 弘前店
群 馬  前橋市   紀伊国屋書店 前橋店
東 京  江東区   紀伊国屋書店 ららぽーと豊洲店
東 京  新宿区   紀伊国屋書店 新宿本店
東 京  千代田区  紀伊国屋書店 大手町ビル店
神奈川  横浜市   紀伊国屋書店 横浜店
神奈川  横浜市   紀伊国屋書店 ららぽーと横浜店
神奈川  横浜市   紀伊国屋書店 横浜みなとみらい店
福 井  福井市   紀伊国屋書店 福井店
大 阪  大阪市   紀伊国屋書店 本町店
兵 庫  加古川市  紀伊国屋書店 加古川店
広 島  広島市   紀伊国屋書店 広島店
香 川  高松市   紀伊国屋書店 高松店
福 岡  福岡市   紀伊国屋書店 福岡本店
大 分  大分市   紀伊国屋書店 大分店
上記以外の本屋でも注文できますが、上記の書店ではいつでも陳列されていてすぐに買えます。それだけが通常の本屋さんとの違いです。

(BB) 「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」は本の寿命として今後三年間保証されましたが、今後も売れそうにもありません。勿論私の最近出版する本がベストセラーになれば、その相乗効果で「えんだんじ・戦後昭和に一匹狼」が売れ出すことは間違いないでしょう。私は、そこでもう一度ベストセラーを狙って小説を書いてやれと思って、どんな題材を主題にすれば面白い小説が書けるか悩みましたが、結局女性を描ければ良いのだと思い構想を練った。最終的な構想は、10人の女性を登場させ一人一人に彼氏をつけ、一人一人の女性の生き様を短編小説に描き、それを一冊の本にすることだった。私は今までに書いた本は主に評論だった。評論は史実や事実を知れば、自分の意見が出てくるから、それを書けばすむが、小説を書くには、無かる有を産まなければならない、それだけに難しい。大よその原稿できるまでに自分が予想していた以上に時間がかかってしまった。それでもなんとか原稿の概要はできた。本のタイトルは、「戦後昭和の女性たち」にした。女性が出てくるので、何とか色気のある、あるいはムードある題にしたいのだが10人もの女性を書いているので、全員の女性を表す「戦後昭和の女性たち」にするつもりです。幸い文芸社が今年の9月に文庫本で出版することになった。前の作品、「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」は本の体裁が立派すぎた。素晴らしいハードカバーで363頁、値段は(1600円+税)です。気軽に買って気軽に読める本ではなかった。今度は文庫本、10人の女性が主人公、思想信条関係なし。これだけでもベストセラーに近づくような気がします。次のブログ「えんだんじのベストセラー作戦(2)」では「戦後昭和の女性たち」の宣伝用ブログとして出版間際に書くつもりです。

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パナマ文書(2)、プーチン大統領について



翻訳本「パナマ文書」でプーチンについて書かれている全文を読んで要約したものをお知らせしようと思いましたが、それをすると大変なので、プーチンについて書かれているページ数を書いて、その頁の全文を転載、あるいは適度に要約する等して、お知らせする方式をとりました。
1.12頁
文書の多くは契約書で扱われている金額がとても大きい。ある時は800万ドル、ある時は3000万ドル、2億ドルとか8億5000万ドルというものもある。それらは株取引によるものか貸付だろう。だが、ロルドゥギンという名にこころあたりはない。調べてみる。そして少しビクリとする。
セルゲイ・ロルドゥギンは、「ウラジミール・プーチンの親友だった。ロルドゥギンはロシア大統領の長女であるがマリアの洗礼時の代父なのだ。これだけでも十分に興味深い。代父によるオフショア・ビジネス。だが読み進めるうちに私はすっかり困惑してしまう。セルゲイ・ロルドゥギンは、投資家でもなければオリガルヒ(ロシアの新興財閥)でもない。芸術家なのだ。音楽界では名のしれたチェロ奏者で、サンクトペテルブルグ音楽院の元院長。」
私は、2014年9月のニューヨーク・タイムズ紙に掲載された、彼のインタビュー記事を見つけた。その中でロルドゥギンは、自分はビジネスマンではないし、「何百万ドルも所有してはいない」とはっきり語っている。(略)
2.30頁
想像を絶する大金だ。(略)株ビジネスの関する契約を読むと、これらが特にロシアの重要な大企業の株に関わるものだということがわかる。プーチンに批判的なロシア専門家は殆ど皆、プーチンが大統領を辞める時には億万長者になっているだろうと考えている。だがしかし、ならば彼の財産はどこにあるのだ?専門家の中には、プーチンが株式の配当を受けていると主張するものもいる。だが、プーチンが本当にロシアの大企業の株を保有しているのなら、そのことを知られるのを良しとするだろうか?そんなことは絶対にあり得ない。信頼のおける人物を利用するだろう。セルゲイ・ロルドゥギンのような人物を?
ロルドゥギンとプーチンが知り合ったのは1970年代だ。ロルドゥギンはサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)時代のプーチンが肩入れしていた友人のひとりであ、後年、プーチンが大金持ちにしてやった友人の一人でもある。だからもたらされた文書中の中に登場するロルドゥギンが、このロルドゥギンであること想像に難くない。プーチンの友人は、ロルドゥギンだけでない。プーチンが主導で国内有数の大手主要銀行になったその大株主もロルドゥギンだけでなくプーチンの友人たちだ。これらプーチンが信頼する友人のほとんどは、プーチンによるクリミア併合後はアメリアカが発動した制裁、その制裁対象者リストに載っている。(略)

3.167頁
セルゲイ・ロルドゥギン、ウラジミール・プーチンのお友達の、あのチェリストだが、彼の名が載っているカンパニーが三つになった。調査の最初で行き当たったインターナショナル・メディア・オーバーシーズに、ソネッテ・オーバーシーズとイター・リミテッドというカンパニーが加わる。この三社とも、2014年のインタビューで、自分はビジネスマンでないし、何百万ドルなんか持っていないと語った男の名義になっているのだ。では本当の持ち主は誰だと言うのだろう。我々の好奇心がかき立てられる。この三社の株主のほとんどの出身地はサントペテルブルクだ。プーチンが権力への足掛かりをつかんだ、あの町だ。(略)

4.168頁
専門家の多く、特に西側の専門家は、ロシア国家元首――2014年の収入が765万ルーブル(1万9000ドル)とされている—―はダミー社長を操り、いくつもの大企業の株式を保有していると考えている。ロシア人アナリスト、スタニスラフ・ベルコフスキーはプーチンの資産を2007年時点で400億以上と推測している。だが確証はとれていない。プーチンの資産について同様の推測がいろいろなされている。違っているのは、結局プーチンの資産が100億か、400億か、あるいは2000億かという点だけだ。USドルでだ。
(略)

5.211頁
まず何といってもセルゲイ・ロルドゥギンだ。チェリストでプーチンの娘の代父。この男の金融ネットワークには5億ドルが隠れていることが分かっている。それからプーチンの柔道仲間で(今は制裁リストに載っている)ポリス・ローテンベルクとアルカディ・ローテンベルク、プーチンの従兄弟イゴール、そしてロシア有数の大富豪アリシェル・ウスマノフ。リストはまだまだ続く。ここに登場する名前が興味深い理由がもうひとつある。彼らは皆、プーチンに近い人物なのだ。そしてそのプーチンはといえば、オフショア・ビジネスを非愛国的だと非難している。だとすると、プーチン勢力下の人間がこんなにも大勢、よりにもよってその非愛国的オフショア・ワールドにお出かけ中というのは、あまり聞こえの良いものでない。(略)

6.353頁
プーチンが家族と写っている写真は多くない。大統領の私生活はロシアではタブーなのだ。プーチンは二人の娘を世間の目から厳重に遠ざけている。それだけに、調査の途中にネット上にいくらか解像度の低い一枚の白黒画像を見つけたときは、びっくりした。そこには鋭い目つきをした若き日のプーチンが写っている。この写真が撮られたのは1985年のレニングラード、現在のサンクトペテルベルク。1985年といえば、ミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任したばかりで、プーチンは小柄な一介のKGB士官に過ぎなかった。写真のプーチンは娘のマリアを腕に抱き、彼の横には当時の妻リュドミラが立っている。
リュドミラの隣でふさふさの髪をした若い男がこちらを見据えている。セルゲイ・ロルドゥギンだ。プーチンの娘マリアが洗礼を受けた時、代父を務めた、謎に包まれたチェリストだ。
調査を通じて我々は、彼をオフショア・カンパニーからなる一つのネットワークの中心人物として捉えた。(略)
7.358頁
2009年から2011年までの間だけでも総額10億ドルがロルドゥギン・ネットワークに流れ込んでいることが我々のデーターから読み取れる。この資金の大半がキプロスの商業銀行から出ている。(略)

8.361頁
ロシア国家から金を巻き上げるというのは、基本的にいい考えではない。いい後ろ盾があって、それが許されている立場にある場合を除いて――。
プーチンに支配されるロシアのことを話しする時、泥棒政治を話題にするのはもはや西側の専門家だけでない。実際、プーチンが政治家としてのキャリアの段階を登り始めた当初から、政界内部では汚職の噂が囁かれていた。だがそのほとんどは忘れ去られている。
しかし、我々は、オフショアの置かれた金の壺が、さまざまに交錯した道を経てやってくる何億もの金で満たされる様子を見ている。しかも、それに大きく関わっているのがプーチンの古くからの友人なのだ。(略)

9.366頁
つい最近ロイター通信が、プーチンの下の娘カテリーナが2013年二月にキリル・シャマロフという30代半ばの男と密かに結婚していたことを暴露したのだ。キリル・シャマロフは伝説に包まれたオゼロ・コオペラティブのメンバー、ニコライ・シャマロフの息子だ。このオゼロ・コオペラティブというのは、プーチンが友人たち共に設立した共同組合のようなもので、設立場所となったのは、その友人たちがサンクトペテルブルクからほど近いコムソモルスコイ湖畔に買っておいた、ダーチャ(別荘)付き土地だった。もとは単なるダーチャ所有者たちの集まりとして出発したオゼロ・コオペラティブだが、ほどなくして経済における排他的ネットワークを意味するようになった。例えば、オゼロのメンバー、ユーリー・コ
ヴァルチュクは現在、ロシア銀行の頭取兼最大株主だ。息子をプーチンの娘と結婚させたニコライ・シャマロフもこの銀行の株主の一人だ。
プーチンの義理の息子は結婚後数か月もしないうちにさらに裕福な男になった。保有するロシアの石油化学最大手シプールの株が数%から21%に増えているのだ。我々にとって
さらに興味深いのは、プーチンの娘とシャマロフの息子の結婚式が行われた場所だ。スキーリゾート、イゴーラなのだ。(ロマノフ王朝の結婚式と呼ばれてもいい超豪華結婚式、中略)。
ここでパナマに始りイゴーラリゾートに終わる、何カ月にもわたる我々の調査の旅が終了した。行き着いた先はプーチンの家族だった。あまりにも、恐ろしい。

パナマの法律事務所、モサック・フォンセカから故意にか、あるいはある目的をもってかは、いまだに不明だが、この「パナマ文書」を公表したことで、多くの国々で何百人もが捜査対象となった。同時に苦境に立たされた現職の政府首脳も多い。アイスランド、イギリス、アルゼンチン、マルタ、パキスタンです。「パナマ文書」は世界中の人々について書いているが、個人の中でウラジミール・プーチンほど詳しく書かれている人物はいません。シナについては、本文293頁から第二十一章 「赤い貴族」として習近平を含む数人のシナ人が本文304頁まで書かれています。

なぜ私は「パナマ文書」に書かれているプーチンを詳細にとりあげたか。私は安倍首相対プーチンの領土交渉に反対だからです。私の反対主張は、まず私のブログ、「安倍総理、プーチンにのめりこまないでください。」(2016・11・5)と「鈴木宗男よ、前科者のくせに偉そうな口をきくな。」(2016・12・3)を再度お読みください。「パナマ文書」で記されているのはプーチンに関するお金の動きだけです、プーチンの暗殺指令などほとんど書かれていません。結論づければプーチンはロシア国内の政敵を暗殺指令などで間接的か直接的かで殺しているのです。私のブログ、「安倍総理、プーチンにのめりこまないでください。」のitem2「プーチン政権時の国内政敵落としのいくつかを紹介」を参照ください。また最近のニューズウイーク誌(2017・3・7)には「止まらないプーチンの暗殺令」という記事が二頁わたって書かれています。38頁にはこう書いてある。
「つい最近、元情報機関職員協会(AFIO)の季刊誌インテリジェンサーで、まさにそれが発表された。AFIOはCIA,FBI,軍の諜報関係機関に在籍した4500人の会員を擁する協会。リストには、ロシア政府の命令で殺害されたに違いない30人以上の犠牲者の名が並ぶ。作成者は米国国防省情報局(DIA)の元補佐官ピーター・オールソンだ。リストの完成後も、不審な死は続いている。」

プーチンは少年の頃からKGBの秘密警察の権力に取りつかれ、希望どおりにKGBに入り、いまやロシアの最高の権力者になった。彼は我が世の春を謳歌しているに違いない。プーチンには二人の娘がいます。姉か妹かどちらだか知らぬが、彼女は完全の別の女性になりすまし、時々日本に旅行しています。NHKのロシア駐在に記者、確か石川さんと言う人が、全く他人になりすましているプーチンの娘に日本で会っていると語っていました。プーチンの娘と知られると、殺される危険があるからです。私はロシア史の歴史的観点から、またプーチンの人間的観点からもプーチンとの領土交渉には絶対反対です。プーチンは安倍総理ともうそろそろ20回近く会談していますが、まだ一度でも北方領土を返すとは公言していません、それどころか北方領土の軍事要塞化を進めているのだ。どんなに交渉を進めても北方領土は帰ってきません。ただ何回もプーチンに会うということは、シナへの牽制になることは確かだ。日ソ交渉は長く時間をかけ結果としてなにも生まれない方がよいのだ。奪われた領土は、例え千年かかっても奪い返す。そのためには軍事力の強化は緊急に必要。核兵器が絶対に必要なのです。もう何回も私は、同じことを主張しています。核所有国に対して核攻撃力を持たない外交交渉は無に等しい。いつまでも奴隷的に従属した日米同盟関係とは、おさらばして、早く核兵器を持ち、自主憲法を持ち、正真正銘の独立国日本と対等の日米同盟関係を結んでもらいたい。

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パナマ文書(1)



タックス・ヘイヴン(tax haven)すなわち租税回避地のことです。租税回避地としては中南米の島々、諸国はあまりにも有名ですが、アメリカにもあります。ワイオミング、ネバダ、デラウェアの三州です。特にデラウェア州は、2016年の4月の集計では人口89万7934人に対し企業数94万5326社も存在し、「世界最悪のタックス・ヘイヴン」と言われています。デラウェア州ウイルミントン市北オレンジ通り1209番地にある2階立てのビルに31万社が存在し、ペーパーカンパニーの代表者には弁護士が多く、設立の実質所有者の情報は不要で州も把握できず、非常に秘匿性が高い。2007年、当時上院議員であったバラク・オバマが提出したオフショアの悪用を規制する法案は、今日にいたるまで採択されていない。「アメリカ経済の支配層では、自己の富の多くをオフショアに隠すことは、もはや例外ではなく恒常化した」とニューヨーク・タイムズ紙のコラムニストで、ノーベル賞を受賞したポール・クルーグマンは書いている。

アメリカ以外のタックス・ヘイヴンの代表的な場所は、ご存知のイギリス領ケイマン諸島、バージン諸島といったカリブ海の島国があげられる。パナマ文書とは、パナマ共和国の首都パナマにある法律事務所「モサック・フォンセカ」から流出した計約1150万件に及ぶ膨大な内部文書のことです。このパナマ文書にはオフショア金融センターを利用する21万4000社の企業とその内容が匿名で2015年にドイツの新聞社「南ドイツ新聞」にもたらされ、その後南ドイツ新聞は、その情報をワシントンDCにある国際調査報道ジャーナリスト連合(International Consortium of Investigative Journalists: ICIJ)に送った。世界80ヶ国・107社の報道機関に所属する約400名のジャーナリストがこの文書の分析に加わった。私が調べたところでは、日本の新聞社がこの国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)に加盟しているのは朝日新聞社の一社だけ。戦前、戦中、戦後の日本を貶めることが目的の朝日新聞が何故選ばれたのか理由はわかりません。日本の新聞記者は、英文で作成された書類を読み、書き、話すのがいくら一流大学出ても苦手なのでしょう。
この国際調査報道ジャーナリスト連語(ICIJ)は、営利団体ではなく寄付金で運営されています。大口の寄付金を寄せているのが億万長者のジョージ・ソロス氏です。ソロス氏には二つの顔があります。国境を越えて資金を動かし、外国為替レートの歪みに目をつけて多額の資金を注ぎ込み、莫大な利益を上げる抜け目ない投資家。もう一つの顔は、こうして稼いだ資金を投じ、独裁国家の民主化に協力する活動家です。旧ソ連のウクライナの民主化運動に資金を投じていたとされています。

パナマの法律事務所「モサック・フォンセカ」の膨大な機密文書を誰が、なんのために南ドイツ新聞にもたらされたか、現在でもまったく不明です。モサック・フォンセカという法律事務所を設立したユルゲン・モサックがドイツ生まれであることが分かっているだけ。膨大な機密文書が南ドイツ新聞社に送られたが、南ドイツ新聞社はこれらの書類を(ICIJ)に送り、世界中のジャーナリストの目にふれさせた。同時に南ドイツ新聞の二人の記者、バスティアン・オーバーマイヤー、フレデリック・オーバーマイヤーは、この機密書類を「PANAMA PAPERS」日本名「パナマ文書」として本を出版した。日本文翻訳者:姫田多佳子訳、(株)KADOKAWAが2016年8月27日に出版した。

この本の出版で世界中の政治、経済、スポーツ界などに如何に影響を及ぼしたかを詳細に語っている。それらの情報については多くの読者が知っているでしょう。例えば、アイスランドの現職の首相が退陣に追い込まれたこと、イギリスのブレア首相は自分の父親のオフショア・ファンドから利益を得ていたことを認めた。以来、ロンドンでは首相の退陣を要求するデモがいくつも起きたこと等、皆さんよくご存知でしょう。私が、「すでに多くの人が知っている」というのは多くの国々は民主主義が機能している、すなわち出版、報道の自由が機能しているということです。だから国民は、「パナマ文書」報道に苛立ち大騒ぎになるのです。ところが世界の二大独裁国家、ロシアとシナは、出版、報道の自由がないから、国民は全く知らず、国内ではパナマ文書騒ぎは起こらず、平然としたものです。そこで次回のパナマ文書(2)ではプーチンがロシア国民に隠れて何をしてきたかを書いてみるつもりです。

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鳩山のバカ、アホ、ノータリン(7)



鳩山由紀夫が手を貸した「重慶爆撃」が南京大虐殺の二の舞。
有史以来、これほど売国発言をくりかえした政治家がいただろうか。尖閣諸島の魚釣島を中国領土と言い放ち、南京大虐殺を日本兵の犯罪行為だったと謝罪した鳩山由紀夫元総理(69)。凝りもせず、中国へ“土下座“を繰り返している。
鳩山元総理は2016年11月10日、中国重慶市で開かれた「中国国際友好都市大会」の開幕式に出席してこう挨拶した。
「日本が中国を侵略した際に行った“重慶爆撃”で、重慶市の繁華街の大部分が破壊され、多くの罪のない一般人の命を奪った。ここに深くお詫び申し上げる」
重慶爆撃とは、旧日本軍が1938年2月から44年12月までの6年10カ月で200回以上行ったといわれる空爆を指す。“鳩山発言”を聞いた外務省関係者が説明する。
「実は、爆撃で亡くなった中国人の遺族ら188人が2006年3月、日本政府に対し、謝罪と総額18億8000万円の賠償を求めて東京地裁で訴訟を起こしたのです。鳩山さんは元総理としての発言が、いかに国益を損なうかを理解していないのでしょう。」

東京地裁は15年2月25日、空爆による被害をみとめたものの、”当時も、個人の国家への賠償請求権を認めていない“として原告の主張を退けた。敗訴した中国人訴訟団は、判決を不服として控訴している。全国紙の中国特派員によれば、
「“南京大虐殺の記録”がユネスコの世界記憶遺産に登録されましたが、習近平政権は”重慶爆撃“の登録も目論んでいます。15年に開かれた抗日、反ファシズム勝利70周年記念式典では、重慶爆撃を取り上げた公開前の”反日映画“への特別賞を授与したほどの力の入れようです」

不完全な統計
重慶爆撃では何人が死亡したというのか。中国人訴訟団は、裁判で”全期間を通じた中国側の死者1万1000人“と主張。一方、中国の公的機関が85年に編纂した『重慶抗戦記事』では1万1889人と数に開きがある。
「中国人訴訟団は日本政府を訴える一方、“空爆加担企業”として三菱重工に謝罪と賠償を求める『要請書』を突きつけました。そこでは不完全な統計としつつも、“10万人以上”と記している。実に、裁判で主張した数の約10倍に膨れ上がっているのです」(先の外務省関係者)
南京大虐殺の死傷者は、東京裁判の判決文でも10万、20万以上に分かれて客観性を欠いていた。日本政府は一貫して”人数の特定は困難“としているが、中国は「南京大虐殺記念館」に”犠牲者数30万人“の看板を堂々と掲げ続けているのはご存知の通りだ。中国事情に詳しい、ルポライターの麻生晴一郎氏は、
中国人訴訟団が要請書に記した“10万人以上”は根拠もなく、信憑性に欠ける。当時の重慶市が、空爆で亡くなった人たちの遺体を数えたわけでもないし、戸籍制度も充分とは言えなかったはずです。今後、中国は南京大虐殺と同じように死者の数を増加させて発表するかもしれません」
つまり、重慶爆撃は、“南京大虐殺”の二の舞になる恐れあり。それに手を貸した鳩山元総理に求めると、
「国益を損なうどころか、日本のためになると考えています。過ちを犯したら、事実を受け止めて謝るのが人間として当然です」
この調子では、死ぬまで中国への”土下座”をやめそうにもない。

この全文章は、2016年12月29日発行の週刊新潮、47頁、48頁の全文を転載したものです。

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ガキ大統領トランプ(その1)



       このブログの転載、拡散よろしくおねがいします。
平成29年1月28日、「ガキ大統領トランプを徹底利用せよ。」というブログを書きました。これから時々トランプ大統領についてシリーズでブログを書いてみようと思っています。そこで、今回は「ガキ大統領トランプ(その1)」として書きました。私のブログでシリーズものを書いたのが一つあります。「鳩山のバカ、アホ、ノータリン」シリーズで(その6)まで書きました。ちかじか(その7)を書きます。ガキ大統領トランプのシリーズが何回まで続くかわかりませんが、数が多くなるほど世界が騒がしくなるのは明白なような気がします。
私は個人的にはトランプ大統領は大嫌いです。彼ほど傲慢で生意気な男はいない。傲慢、生意気だけでトランプに反発する人はいくらでもいる。彼が公約で掲げた失敗作を列挙してみると、
1.人種差別の公言
アメリカは今でも白人国家です。国民の50パーセント以上が白人です。しかし10数年後には、白人は50パーセント以下になり異民族大国家になるのです。そのため最近のアメリカ大統領になる人は、人種差別主義者でもかまいませんが(大概の人が人種差別主義を持っていますから)、その人種差別主義を公言しては絶対にいけません。公言すればアメリカ国内が騒然とし、分裂主義が生じるからです。皆さん、そう思いませんか。それにもかかわらず、人種差別主義を公言し、その上女性蔑視発言です。これが娘のイバンカのファッションビジネスに影響し、高級デパートのノードストロームがイバンカのファッションブランドの店内販売を中止した。ノードストローム社は、トランプの人気選挙地には支店がない。トランプの脅しにはびくともしない。人種差別主義の公言と女性蔑視発言は、アメリカ国内にはトランプ政権へ非常に強く反発する人々がこれからも沢山存在することになる。それが証拠に政権誕生一か月すぎてもアメリカ各地の反トランプデモは後を絶ちません。

2.メキシコとの国境に壁を建設する、それもメキシコ側の費用で。
私は前にテキサスやカリフォルニアはメキシコの領土だったと書きました。戦争で負けたためにアメリカ領になっただけ。メキシコが自分の費用で壁など築くわけがない。お金の問題より心意気の問題です。トランプはそれでは、NAFTAの再交渉だと言えば、イルデフォンソ・グアハルド経済相は、NAFTAの見直し交渉がゆき詰まれば脱退も検討すると警告し、ペニャ・ニエト大統領は「壁の建設費用は負担しない」と断言しています。メキシコの通商と安全保障と移民問題は長く両国の問題になるでしょう。

3.アメリカのTPP離脱
戦後一貫して押し通されてきたのができるだけ多国間で自由貿易することです。その枠組を作る為に国際間の貿易交渉が行われ、国際協定が結ばれてきました。GAT、WTO,等です。そして今度はTPPです。どれもこれも加盟国には、長所も短所もありました。総じて多国間自由貿易が成功したと認める長所があったのです。いまだに世界中には経済的に悲惨な国々がありますが、総じてみれば世界的に経済水準があがっているのです。その証明の一例はアジアの低開発国の観光客が日本にやってくる数が増えたことです。アメリカは国際貿易のため自国製の製品が割高になり、それを海外で作らせ、自分たちは金融工学とか言って金融産業で儲けようとし、アメリカ国内の物作りを放棄しようとしたことです。いまさら今度はアメリカファーストと言って二国間協議しようと言うのだ。自分勝手も甚だしい。

日本の保守の人たちは、TPP加盟賛成、反対にわかれます。TPPの中身はいろいろありますからどの点を取り上げるかで賛成、反対に別れるのではないでしょうか。私は日本の農業産業を見て,例え他の産業にTPPはダメでも、日本農業はTPPに入れるべしと、私はTPPに賛成なのです。日本は物づくりの国です。日本農業はその物づくりの原点なのです。いいですか、皆さん、日本にはなくて世界で作られているものがあります。その今まで日本で作られていないものを日本が作り出すと、日本製が世界一になってしまうのです。その原点は日本農業なのです。ビール、ウイスキー、ワインなど、これらの製品は、我々の祖先は口にしたことはありません。ところ作り出すと日本製品は世界での高級品になってしまうのです。14,5年前アメリカ製の安いリンゴが日本に入ってくるといってリンゴの産地は戦々恐々となった。スーパーで確か一個50円ぐらいで売りだされていた。赤いりんごで見てくれも、味もたいしたことがなく、結局売れなくて、アメリカ製りんごを見なくなってしまった。

私が40代後半、いまから34、5年前、三重県の鈴鹿サーキットの近くに松坂牛の牧場を持つ有名な牛肉レストラン、「和田金」に私は白人外人3人と一緒に入った。一緒に食したのが、松坂牛の牛サシ、(牛肉の刺身)です。その味の美味しかったこと、未だに忘れられません。三人の外国人も味にも驚いたが、その柔らかさにも驚いていた。まるでマグロの刺身を食べるような感覚だった。牛は我々日本人の先祖の食べ物ではなかった。食肉と作りだすと刺身まで作ってしまうのだ。当時、刺身は世界的な料理じゃなかった、しかし今は違う世界中で食べられています。いまオーストラリアの牧場で「和牛」ブランドの牛が飼われています。牛サシを作るブランドの牛が海外で飼育される可能性はあるかもしれません。このように私言わせれば、日本農業は世界の一大産業の発展性を持っていると思っています。その邪魔な存在が農協の親分のような存在、JTです。彼らは日本農業を守ることしか眼中にない。攻撃は最大の防御という言葉さえ知らないようだ。JTを潰さなければだめです。

つい最近安倍、トランプ会談で安倍総理はトランプにTPPに良く説明し、その要点は理解してくれていると国会で答弁していたが、すかさず「日本維新の会」は、安倍氏に向かってTPP交渉時の加盟国は12ヶ国だったがアメリカが抜けて11ヶ国になった、だから先にアメリカ抜きで11ヶ国のTPPをまとめあげましょうと提案していた。私も、最初はアメリカ抜きでTPPをまとめあげるのは大賛成です。しかし安倍総理は、そんなことは絶対できないでしょう。せっかく日米会談がうまくいってトランプと仲良くできたのに、トランプの機嫌を損ねることができないからです。日本のアメリカへの奴隷根性で日米同盟が成り立っているのは、日本の防衛をアメリカの軍事力に頼りすぎているからです。日本は核装備兵器を備え、自分で自分の国は守れる能力を備えれば、対等の日米同盟関係が成立するのです。

4.オバマケア(医療保険制度改革)撤廃
私はオバマ政権のただ一つの善政は、医療保険制度を確定したことだと思っています。ヘルスケア関連の支出は家計の非常に大きな部分を占める。健康保険を失えば、他の商品やサービスへの出費に重要な影響をあたえます。オバマケア撤廃でいっきに無保険者が2000万人増えると言われています。だからイエレンFRB議長は、オバマケア廃止は、アメリカ経済に悪影響を及ぼすと主張しています。オバマケア撤廃後、どんな保険制度なるかも決定していません。トランプ大統領は、人種差別主義者だから黒人のオバマ政権のしたことなど徹底して破壊したいくらいなのだ。医療保険制度改革など、改革前のオバマケアの方がマシなどと言われるのではないかと私は想像しています。オバマの方がマシということになりトランプの顔が潰れるのでないかと心配しています。

5。環境問題
この問題についてトランプ政権の結論は出ていませんが、選挙戦では物騒な事を言っています。国際的な温暖化対策であるパリ協定から離脱すると言っているのだ。トランプ主張しているのは、気候変動は作り話だというのだ。これは、私がトランプを強引で生意気なやつだとののしる原因の一つなのだ。これまでの気候変動が作り話というなら、それにそうとうする科学的根拠を提出するのが常識です。そんなこともせず、気候変動に懐疑的な人物、スコット・ブルイット氏を米環境保護局(EPA)長官に指名しているのだ。彼はいままでに(EPA)を10回以上提訴している。同時に彼はエネルギー業界からの献金も多い。そのうえトランプは、EPAの廃止、ないしは職員大幅削減を選挙戦で主張。気象変動の研究者の間では。「トランプ大統領が既存の気象観測データーを破壊するのでは」という見方さえ出ているのだ。現在アメリカでは代替エネルギーは過去の話になり、石炭と石油の話でもちきりだ。トランプ政権では、オバマ政権が凍結した国有地における石炭の新規採掘も許可される見通しです。炭鉱地域での選挙戦は、トランプは圧倒的に強かった。これでもしアメリカが国際的な温暖化対策のパリ協定の離脱を発表するなら、アメリカは国際的な地球安全対策の破壊者といわざるを得ません。

6.中東和平問題の複雑化
2002年ブッシュ大統領がパレスチナとイスラエルの二つの国家として平和的に共存する道を目指すと演説。それ以来米政権は二国家共存案を政策としてきた。また米政権はその実現の努力してきたのだ。ところが最近のトランプとイスラエルのネタニヤフ首相との会談でで、トランプはイスラエルとパレスチナとの二国家共存案にこだわらないとの考えを表明した。また大統領選挙中、トランプ氏が繰り返し主張したイスラエル米大使館のエルサレム移転方針に関して急がない姿勢を見せています。この二人の会談に娘のイバンカの夫、ジャレド・クシュナー氏が同席しています。義理の息子はユダヤ教、イバンカはユダヤ教に改宗なのです。普通、大統領は家族のことより国家優先、ところがトランプは家族のことを国家より優先するみたいです。だから私はガキ大統領と呼ぶ原因の一つです。中近東諸国は、トランプ、ネタニヤフ両名だけの見解に同意するはずがないでしょう。中東問題は今まで以上に紛糾しそうで心配しています。

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日米の歴史と文化を語る。(5)



武士の登場
日本の歴史において武士の登場と聞けば、世の中の争乱が武士を登場させるきっかけになったのではないかと誰もが想像するのではないでしょうか。ところが全くの正反対で、その武士の登場のきっかけを作った人が桓武天皇です。桓武天皇は西暦781年に即位しました。即位後の794年に都を京都に移したのです。その794年から1868年に東京に移るまで、その間半年ぐらい今の神戸市近くに移りすんだことがありましたが、およそ一千年間京都は天皇家の住む都でした。そしてその794年から武士に天皇家の政治権力を奪われ、政治の中心が京都から鎌倉に移るまでのおよそ400年間を平安時代と呼んでいます。この平安時代の末期に女性作家、紫式部が現代では世界的に有名な長編小説「源氏物語」を発表したのです。当時の宮廷生活をあますところなく伝え、登場人物数百人、全54巻の世界最古の最長編小説です。おもしろいことに、当時この「源氏物語」を読んだ女性が大変おもしろいと感想を述べている史料はあるのですが、男性が面白いと述べている史料は全然ないのです。
当時男性が使う文字は漢文、女性が使う文字はひらがなと使い分けされていたから、男性が詠むのに苦痛を感じたり、あるいは読めなかったかもしれないというのが理由だと言われています。
その平安時代の最初の天皇、桓武天皇は、都を京都にうつす二年前の792年に東北とか九州といった辺境地に駐在する軍隊を除いて事実上日本の軍隊を廃止してしまったのです。東北地方に駐在する日本軍の最高司令官が有名な征夷大将軍、坂上田村麻呂でした。征夷とは蝦夷(えぞ)、即ちアイヌ民族を征伐することです。アイヌ民族を征伐する軍隊は残しておいたのです。実際のところアイヌ民族が住む東北地方を除いて軍隊を動員するような騒乱がなかったのです。そこで東北とか九州といった辺境地には軍隊を存続させそれ以外の兵士をそれぞれの出身地に帰してしまったのです。
そのかわりに国の大小に応じて人数を決め、裕福な地主には武芸の才能のあるものを徴発させ兵士として武芸の練習をさせ、地方の警備にあたらせたのです。これを「健児(こんでい)」と呼んでいます。極端な言い方ですが、アメリカの開拓時代の保安官のようなものです。この「健児(こんでい)」の制度が武芸を専業とする者を歴史に登場させ、これが後に武士に発展していったのです。その結果地方に武士が割拠するようになり、もめごと、特に土地争いなどが武力で解決する時勢になり、そして武士のボスは武士を集めてその勢力範囲を広げていったのです。その結果桓武天皇が792年に事実上日本の軍隊を廃止してしまってからちょうど400年後の1192年に源頼朝によって日本最初の武家政治が。現在の鎌倉市に成立したのです。これを鎌倉幕府と呼び、1333年に鎌倉幕府が滅びるまでのおよそ150年間を鎌倉時代と呼んでいます。天皇家を中心とする貴族政治から武士のボスを中心とする武家政治に変わったのですが、そこには日本の歴史の大きな特徴があります。外国の歴史では、ある政治体制か他の政治体制に移る場合、守ろうとする側と奪おうする側とで一大決戦が行われるのが普通です。
ところが日本では、最初の武家政治が誕生した時、小競り合い程度はありましたが戦争は起こらなかったのです。なぜかと言えば先に述べましたように平安時代の桓武天皇の時に軍隊を廃止してしまったからです。アイヌ民族を征伐する軍隊も最盛時には10万人にものぼる兵士の数を誇りましたが、アイヌ平定が終わるとその軍隊もなくしてしまっていたのです。時の政府が自前の軍隊を持っていないがために、戦もできずに政治権力をあっさり奪われるような歴史を持つ国が他にあるのでしょうか。さらにこの平安時代には、世界史的にも貴重な事例が起こっているのです。
石井良助著「日本法制史概説」(創文社、1960年)によると嵯峨天皇即位後の810年から後白河天皇の時代の1156年の保元の乱による源為義(みなもとのためよし)などに対する処刑が行われるまでの26代の天皇、346年間実際上死刑が執行されることはなかったと言うのです。当時の世界では予想もつかない全くめずらしい出来事と言っていいのではないでしょうか。平安時代400年間は、文字通り平和の時代であったことはこれだけでも推測できます。さらに紫式部のような女性が54巻にも上る長編小説が書けたのも平和な世の中ではなければ絶対に書けないことです。世界の主要国の中で日本は、その中でも一番古くてしかもとにかく平和の時代が長かったのは、何が原因だと思いますか。それは日本が昔から現在にいたるまで多神教だからです。大東亜戦争後になって初めて世界の情勢は、一神教だけではダメで他の宗教の存在を絶対に許さなければいけない傾向に完全になりました。その傾向に胸を張ってえばれる日本だけです。反日日本人よ、これに対して文句が言えるなら、言ってみろと言うのです。話がちょっと脱線しましたので、戻します。

政治権力が武家政治の鎌倉幕府に移ってから29年後の1221年、朝廷は後鳥羽上皇が中心となって鎌倉幕府打倒の反旗を翻すのです。上皇とは天皇が譲位後につけられる名前です。この時後鳥羽上皇は天皇の権力を握っていました。この後鳥羽上皇の反旗を「承久の乱」と言いますが、その時大活躍したのが鎌倉幕府創立者の源頼朝の妻、北条政子です。
日本の歴史を知らないアメリアカ人などは、大昔の日本女性などは、ほとんど男の奴隷みたいに思っているでしょうが、とんでもない間違いです。1980年代、イギリスの女性首相、サッチャーは「鉄の女」と呼ばれましたが、今からおよそ800年前の日本には、「鉄の女」と呼ばれても、もっともだと言われるべき女性がいたのです。それが北条政子です。政子の活躍がすばらしいのは夫の死後です。彼女の活躍の詳細については私のえんだんじのブログ、「鉄の女」北条政子、2016年6月11日と「鉄の女」北条政子(2)2016年7月1日を参照してください。

「承久の乱」において鎌倉幕府があっさり勝ってしまいましたが、朝廷側にも勝つチャンスはあったのです。朝廷に弓を引くことになると言って動揺した鎌倉武士は。政子の名演説で一致団結して京都に向けて進軍したのですが、翌日東海道に出陣した、泰時は鎌倉に戻ってきて父、義時に「もしも上皇自身が陣頭指揮をとったらどうしよう」と聞いているのですその義時は「上皇自身出陣されたらしかたがない、武器を捨てて。降伏するのだ、それ以外の時は、千人が一人になっても戦え」と答えているのです。このエピソードは、公家側の書いた史料にあるので、こうであってほしいという公家側の願望を示すもので事実ではあるまいと判断する歴史家は多いのです。しかしこう書けるほど朝廷の権威が高かったことは事実だと思います。ただ事実として言えることは、実在した歴代の天皇の中で誰一人として戦場で武士たちの陣頭指揮を執って戦った天皇はいないのです。また天皇家には、自前の軍隊、すなわち天皇家直属の武士をもったこともないのも事実です。天皇家は権威だけで現在まで生き延びてきたのです。この歴史的事実と日本国民が極端に権威というものに弱い事とは無関係ではないと思うのです。

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ガキ大統領トランプを徹底利用せよ。



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私は外資系会社五社働いて実働40年。振り出しは、メイルボーイと言われて、「この書類はA社へ持っていけ、この書類はB社へ、C社から書類を貰ってこいなどと命令を受けて使い走りの下っ端の仕事をしなから這い上がってきた実働40年です。年齢は今年79歳になります。従って私はこれまでに随分沢山のアメリカ大統領を見てきた。私の経験から言って今度のトランプ大統領ほど生意気で傲慢な人間は、初めて経験です。ニクソン元大統領の時、ウォーターゲイト事件で弾劾され、その時ニクソンは現職大統領の地位を失った。これを見た私は、さすがにアメリカは民主主義先進国だと感銘を受け礼賛した。ところがクリントン元大統領の時何が起きたか。現職大統領のクリントンは、ホワイトハウスの室内で懇ろになった若い女性(ホワイトハウス研修生)に自分のペニスをなめさせ歓喜の声を上げていたことがあったのだ。クリントン弾劾の声があがったが弾劾にはならなかった。一番大きな原因は、その時アメリカ経済が好調だったからだ。彼は日本を経済的にいじめ、シナにすりよったのだ。クリントンは大統領を辞職もせず、妻のヒラリー・クリントンは離婚しようともしなかった。この時私は、ブログを書いていれば、ヒラリーの離婚しない理由は、自分はいずれ女性大統領として出馬するつもりなのだと書いていたでしょう。事実その通りになってしまった。クリントン夫妻は、お金に関しては疑惑の多い夫妻だった。
そしてオバマ大統領という無能な大統領だ。アメリカの力を世界的に弱めるのが目的みたいだった。そのオバマへの反感などがトランプ大統領の誕生を呼んだ一因でしょう。
そしてトランプ大統領誕生です。彼は人間性が良くない、生意気で傲慢だ。彼はいまだに納税証明書を提出ていません。納税証明書を提出せず大統領になったのはトランプだけです。彼に対する非難が色々あり、皆さんもわめいていますが、私が特に非難したい点は、人種差別宣言です。私にも人種差別された苦い経験があるからです。

今から50年前、私が28,9歳のころです。私は人種差別された。そのころの白人は、人種差別しない人も沢山いたけれどもする人もいた。私が人種差別するというのは、徹底していじめにあうような感じをいいます。それが毎日のように続くのをいいます。
私が入社したオーストラリアの会社で人種差別を受けながら、何故5年間も勤め上げることができたかと言えば、特に人種差別の激しいルースという男が私の直属の上司でなかったこと。二つ目は、私は大学出ておらず、手に職がない。仕事を学んだ経験を得なければ、いまのままではどこでも使い物にならない。もう二度と臨時工の仕事などやりたくなかったからです。このルースという男は体がでかくて、しゃべり方がトランプに似ていたのだ。私がオフィスの中で大ゲンカする相手として選んだのは、私と同じ部で一緒に机を並べて働いている社長の息子、レスリーだ。彼は本国のオーストラリアで高卒後銀行に努め、二、三年後貿易の仕事を学ぶために東京事務所に派遣された。彼はこの時21,2歳、私は、28,9歳。彼は日本語など全然話せない。担当者に電話するのに、交換台の女性とも電話できない。それを私が電話して、担当者に私が彼を紹介するのだ。私に言わせれば、私は彼の小遣いでない、彼は最初のうち私の言うことをきいていたが、そのうち私に命令するようになった。ガキの彼なんかに命令されてたまるかと私のプライドにがまんできなかった。作戦を立てた。できるだけ大勢のスタッフが事務所にいるとき大声を上げて喧嘩する。当時私は英語で喧嘩できるほどの力がなかった。そこで私の言い分を英作文にして、口からすらすら出るように暗記した。彼の発する英語はけっして聞き取ろうとしないこと、彼の怒りの英語をいちいち聞き取ろうとしたら、変に静かな間ができることを心配して、私は一切の彼の発言を聞こうとせず、怒りの大声の英語をどなり続けた。またその文章を一生懸命暗記した。その間にだれかが説得に入らず、私の英作文を発言してしまったら、「なんだと、この野郎!」日本語でどなりつけてやろうと決心していた。
予想通り彼は怒って英語で反撃してきた。そして予想通り二、三人の白人が仲裁に入ってきた。私は東京支社長室に通された。支社長は、ユダヤ人のアラムだった。アラムが何故けんかしたと聞くから、「彼が貿易の仕事などまだ何も知らない。それがどうして彼は、私にこうしろ、ああしろと命令が出すことできるのだ。支社長はずっと私より年上でビジネス経験も豊富だ。そこえまだ年若い私が社長のせがれだと派遣されてきて、私が「ああだ」、「こうだ」と命令しはじめたら、素直に支社長は私の命令きけますか?支社長は私の問に答えられず、答えられなくて当然だ。「自分の席に戻れ」と言われたので戻った。
この時私は首になると決めていたし、新しい就職口を探していた。

翌日、朝会社に着いた時、私は直ぐ支社長室に呼ばれた。「お前は今日で首だ。何故首になったかわかるだろう。」というから。「わかります」といったら「机のなかの自分のもの整理してもう帰れ。」といった。
私は首になることは覚悟していたが、少なくとも一か月間くらいは首にならに猶予期間があると思っていた。突然けんかして翌日首とは予想していなかった。帰りの電車の中で私は激しい後悔の念に襲われた。社長室で「今日でお前は首だ。なぜ首か分かるだろう。」と言われた時、「私は分かります。」と答えただけだった。なぜあの時「私はこれで今日から幸せになりますね。」と皮肉の一つもいえなかったのかしきりに歯ぎしりした。「今日から幸せになれる」ぐらいの英語なら自分でも簡単にいえるものをと思って地団太を踏んだ。
新就職口探しが始まった。これまで私が勤めた外資系会社は二つであった。最初はアメリカ人が日本で起こした会社。二つ目がオーストラリアに本社を持つ東京支社だった。二つとも外資系としては小さな会社だった。しかし今度の三つ目の外資系は、アメリカの会社でニューヨーク株式市場に上場している一流の会社だった。面接のため東京支店のオフィスに入った時には、びっくりしてしまった。広い、しかも綺麗な事務所、受付の床はジュウタンが敷き積まれていた。一般社員の机も全部スティール性で両側に引き出しがある大きな机、その机と隣の人の机の間は、二人並んで歩けるほどのスペース、先ず私はオフィスの余裕のあるスペースにビックリ仰天した。給料もよかった、一ドル360円の固定相場。全盛期のアメリカは、さすがに経済力が違った。給料が良い上に、当時の日本企業は土曜日ほとんど働いていたのにこの会社は、完全な週五日制。必ず取らなければならない年間休暇もある。その頃私は、面接試験を英語で受ける程度の英語を話せていた。面接が終わった時点で、それでは最後に、前の会社でのあなたの働き具合いの評判を聞いてから面接結果を連絡します。その瞬間私は頭の中で「しまったぁ!喧嘩なんかするんじゃなかった。せっかくのすばらしい就職口を逃ししてしまったと。」悔いてもくやみきれなかった。なにもプライドに燃えて喧嘩せず、だまって退職すればよかったのだ。数日後、面接通知の結果を知らせてきた。こわごわ開けて見ると「合格」と出ているではないか。感激に震えた。翌日会社へ行って面接者に面会したら、「前の会社に、君の仕事ぶりを聞いてみたら大変褒めていたよ。」とっさに「佐藤さんですか」と私の日本人上司の名前を上げた、佐藤氏なら私のことを間違いなく褒めてくれてくれるだろうと自信があったのだ。
「違うよ、外人のボームと言う人だよ。」というので私はびっくりした。ボームは経理や人事の責任者だった。私は別にボームと特に親しくしてたわけでない。自分の仕事とは直接関係ないから社内で会えば挨拶ぐらいだけだった。そのボームが私のことを褒めてくれたと言うことは、社内の人種差別の雰囲気に義憤を感じていたのでしょう。私は外人社長に首を切られ、同じ社の外人スタッフに救われたのです。
これ以後も私と白人との戦いは続くのですが、興味があれば私の自伝的小説、「えんだんじ・戦後昭和の一匹狼」(文芸社)を読んで見てください。

上記でも話したが、トランプ大統領の失態は、彼の人種差別政策です。それにプラス女性蔑視発言です。アメリカの歴史上、人種差別政策が国是であったことは確かです。大東亜戦争後にアメリカは民主主義国家を完全に成立させ白人以外の異民族も平等に権利を与えられ人種差別国家ではなくなった事情があります。アメリカは現在、人口の三分の一は、異民族です。これほど多くの異民族を抱えているのだからアメリカの国家元首は、人種差別的発言は慎むべきだったのです。人種差別的発言は異民族の強烈な反発心や敵愾心を生むのだ。トランプ大統領の就任式後に続くデモは。すべて異民族の敵愾心と女性蔑視発言による女性たちからの敵意です。私がメキシコへの同情心を引き起こすのは、アメリカとメキシコの国境に壁を立て、その費用はメキシコが負担しろというトランプ大統領の政策です。米国・メキシコ戦争は、1848年二月グアダルベ・イルダゴ条約が成立した。これによってアメリカは、カリフォルニアとニューメキシコ(現在のネバダ州、ユタ州、アリゾナ州を含む)を獲得し、リオグランデ川をテキサスの南境界線とすることを承認させた。それが今度は違法メキシコ人がアメリカに押し寄せるから自分の費用で国境に壁を建設しろとは、メキシコ人が内心怒り狂っている姿を想像できるでしょう。

それに比べると日本の総理も天皇陛下も韓国、シナに遠慮して靖国神社に参拝しないのだ。一体何に遠慮しているのでしょうか?まったく理解できまあせん。日本は国家的決断をつきつけようとはしません。トランプ大統領は安保条約にケチをつけている。ケチをつけられないように自国で核兵器を持ち、シナに対してシナからの攻撃を受けて充分対処できるほどの軍事力を持つことです。そうしないと日米同盟は真に対等の同盟関係になりません。最近になってトランプ大統領を日本の自動車メーカーを非難した。1980年代の復活を狙っているのか。当時アメリカのビッグスリーと言われたクライスら―のリー・アイアコッカは、日本の自動車メーカーをバカにしていた。アイアコッカの狙った車が次々とうれ、クライスラーは超繁忙になった。アイアコッカは「アメリカ産業界の英雄」とされレーガン大統領から大統領候補になってくれと言われほどだ。そのアイアコッカは、1992年社員や株主から反発をくいクラスラ―社を退社。今では其のクライスラー、イギリスの自動車メーカーFCA USLLIの子会社です。
昨年12月日本フォード車は、日本での車の生産を中止した。日本フォードが戦前の1925年に日本に進出していた古いアメリカの自動車メーカーだ。それがもう日本では車を作らないというのだ。その理由は、外車でもドイツ系は売れるがフォードではからきし日本国内では売れないのだ。こういうとトランプ大統領は、日本の不公平さを主張するでしょう。ひょっとするとフォ-ドもクライスラーの二の舞を踏むのではないか。

トランプ大統領よ、私たち日本人は、貿易で食べていくために、中学生から全員英語を学ばされてされているのだ。あなたは今70歳だ。現在70歳以上のアメリカ人白人は、戦前からの影響で人種差別をしがちだ。あなたは「しがち」どころではない。堂々人種差別しているのだ。また70歳以上のアメリカ白人は、日本のことについてほとんど何も知らない。日本の江戸時代だけでアメリカの建国の歴史より古いのを知らないのだ。トランプ大統領よ、日本語を勉強してください。もっとインタナショナルになってください。

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